長崎ロシア遊女館 :渡辺淳一

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この作品はいまから43年前の1979年に出版されたものだ。作者が札幌医科大学を退
職してからちょうど10年目の作品ということになるようだ。そして作者の作品としては
めずらしく時代小説である。
内容は、鎖国政策をとっていた江戸幕府の末期に、黒船の外圧により開港した長崎に出入
りし始めたロシア艦隊から、艦隊の水夫らが長崎の花街に遊びに出かけたいが、その前に
相手となる遊女たちに対して梅毒検査を行いたいとの申入れがあったことから始まる。
もともと日本には梅毒は存在しなかったようだが、外国人によって日本にももたらされ、
「南蛮かさ」と言われて、当時すでにかなり国内にも蔓延していたようだ。
しかし、当時の日本の医学レベルは低く、この梅毒に関する知識や治療法はほとんどなく、
ましてや梅毒検査などというものは考えも及ばぬことだったらしい。
それがロシア艦隊の軍医から「女の秘所を検査する」と言われたものだから、さぁたへん。
対応に当たった長崎奉行所をはじめ、日本側は上を下への大騒ぎとなった。
日本とロシアとの関わりは、船の難破などにより日本人がロシア領へ漂流したことから始
まったようである。記録に残っているロシア領に漂流した光太夫が帰国したのが1792
年だったようだが、この作品はそれから68年後の出来事のようだ。当時のロシアは、当
時の日本とは比較にならないほどの西欧化された文明国だったようだ。この出来事がきっ
かけとなり、日本にも梅毒検査がもたらされることになったようだ。
この出来事以降、現代においても、日本にとってロシアは悩みの種であったわけだが、こ
のことを考えると悪いことばかりではなかったようだ。
さて、梅毒という感染症だが、有効な薬などが開発されて下火になっていたものの、どう
いうわけか2016年あたりからまた急増しているという。自由恋愛を謳歌する老若男女
は気をつける必要がありそうだ。
ところで、この作品の出てくる遊廓というと、吉原遊廓が有名だが、江戸や長崎のほかに
も日本各地に存在したようだ。
この仙台にも、明治中期から昭和中期にかけて、東北随一とうたわれた「小田原遊郭」が
あったという。小田原遊郭があった場所は、現在の仙台市青葉区小田原6丁目付近、宮町
通から一筋東に入った一帯で、当時は「小田原八重垣町」と呼ばれていたようだ。大正時
代はここの妓楼33軒が316人の娼妓を抱えていたらしい。

過去の読んだ関連本:
日本人漂流物語
覚悟の人 小栗上野介忠順伝
からゆきさん 異国に売られた少女たち
花埋み


・長崎港に碇泊中のロシア艦隊から、水夫ら約百名が長崎の遊里、丸山花街へ出かけたい
 旨、長崎奉行所へ連絡があったのは、万延元年(1860年)六月の二日であった。
・この連絡を受けた長崎奉行所は直ちに、盗賊方中村吉兵衛を遊女屋達との折衝役として
 指名した。 
・奉行所が、こんな異国人の花街登楼にまで、仲介役をかってでるようになったのには、
 それなりのわけがある。
・この以前、安政の開港以来、長崎には急に多くの外国船が出入りするようになり、その
 度に上陸した船員が、丸山町、寄合町などの花街へ遊びに出る機会が多くなっていた。
・だが新しくきた異国人たちは、日本の廓の習慣に馴染めず、靴をはいたまま登楼したり、
 毛深くて女達から恐れられたりしたうえ、酔って狼藉を働くものも多く、いさかいが絶
 えなかった。 
・こんなことから遊女屋は次第に異国人を嫌うようになり、一般の人達も、異国人の横暴
 に憤慨して刃傷沙汰まで持ち上がり、花街一帯は、異国人締め出しの気配が濃くなって
 きた。
・これを放置しておいては異国人達の不満もつのり、さらに殺伐な事件も起こりかねない。
 なのせ相手は気の荒い船員や、軍艦の水夫だから、暴れ出したら、なにを仕出かすかわ
 からない。
・そこで長崎奉行所は、異国人が十人以上一団となって花街へ遊びに行く時は、あらかじ
 め通詞を介して、盗賊方へ連絡するよう外国側の各船へ通告したのである。今度、ロシ
 ア軍艦から百名の水夫登楼の連絡があったのも、この取決めに従ってなされたものであ
 った。
・だがそれにしても、百名のロシア人水夫が一挙に登楼するというのは容易なことではな
 い。 
・二カ月前にポルトガル船員五十名が登楼して、遊女屋はてんてこまいしたことがあるが、
 今回はその倍である。しかもロシア人はあまり花街に遊びに来たことがなく、ロシア語
 の通詞も少なく、かなりの混乱が予想された。
・このとき、吉兵衛の地位は長崎奉行盗賊方改め、いまでいう泥棒風紀取締り課長にあた
 り四十五歳、頭は薄く、小柄で貧相ではあったが、酸いも甘いもかみわけた通人という
 評判であった。 


・六月十二日にロシア人水夫四十人ほどが丸山にでかける、との申入れがあった。吉兵衛
 はただちにこの旨、遊女屋へ連絡し、遊女たちは午後から寄合町に集まって、ロシア人
 水夫の現われるのを待った。
・ところが、この日は午後から大雨になり、夕方になってもロシア人は現われない。遊女
 達がいらだち、文句をいいはじめたころ、ロシア側から「遊歩中止」の連絡があった。
・半日、お茶をひかされた遊女達と抱え主達は、来るといって来ないロシア側のやり方に
 憤慨した。 
・ロシア側からは謝罪どころかなんの音沙汰もない。穏健な吉兵衛もさすがに腹を立てて
 いると、六月十九日に、突然丸山町の揚屋から走りの使いが「いまロシア軍艦から三名
 のロシア人がきて、遊女をみな集めろ、といっています。すぐにきて下さい」と伝えに
 きた。
・吉兵衛が揚屋へ着いてみると、急報どおり、三名のロシア人が手それぞれ黒い鞄を持っ
 てつっ立っている。通詞を介して吉兵衛が問いただすと、三名は、「われわれは軍医で
 ある」と、それぞれ名前を名乗った。
・「近く、ロシア人水夫を大量にこちらに遊びに来させるつもりだが、その前に、あらか
 じめ、ここにいる女性全員の秘所を検べさせてもらいたい」(ロシア軍医)
・吉兵衛は呆気にとられて男を見上げた。いかに粋な侍だとはいえ、そんなことを遊女達
 に要求できるわけではない。人を愚弄するのもはなはだしい。
・「貴下達はなにゆえ女性の秘所を検べねばならぬのか」(吉兵衛)
・「女性達のなかには病気をもっているものがいるかもしれぬ。われわれはあらかじめ女
 性を検べたうえ、健康な者とだけ交渉を持ちたいのだ」(ロシア軍医)
・「遊女の病気というのはなんだ」(吉兵衛)
・「南蛮かさである」(ロシア軍医)
・南蛮かさ(瘡)というのは、当時梅毒に対する長崎地方での呼び名である。
・梅毒は、日本では古くから、トウモ、リュウキュウモ、唐瘡、広東瘡、琉球瘡などと呼
 ばれ、琉球では、ナバンカサ、ナバルなどともいわれ、種子島ではナンバンといわれて
 いた。
・当時、梅毒はコロンブス探検隊が西インド諸島から持ち帰ってから十数年の間に、全世
 界に広がったのだから、交通の不便だった事情を考えると、すさまじい伝播力といわざ
 るをえない。
・この時、吉兵衛も南蛮かさが、男女のまじわりからうつるらしいことは知っていた。
 江戸末期には、日本人の実に三十パーセントが梅毒だったというのだから、梅毒患者は
 珍しくはなかった。だが南蛮かさは、名前のとおり、ポルトガル人や中国人からもたら
 されたもので、日本に昔からあったものではない。こと、この病気に関しては、日本人
 は被害者であっても加害者ではない。しかも男女の交わりでうつるらしいとはいっても、
 遊女の秘所を見て、それがわかるとは思えない。
・とにかく南蛮かさを感染するのが怖くて、あらかじめそれの有無を調べるのなら、毛唐
 の男子こそ検べるべきではないか。
・「丸山の遊女には南蛮かさの女はいない。もしいても、そのような女は、ただちに店を
 休ませ、休息させておる」吉兵衛は反駁した。
・実際、丸山にも南蛮かさになった女は、これまでも何人かいたが、発病したらただちに
 隔離して養生所におし込めてしまう。
・だが軍医達も、「われわれにポッケンはおらぬ、したがってうつるとしたら、ここの女
 からだ」といってゆずらない。
・吉兵衛には、医学的な知識はなかった。吉兵衛にかぎらず、遊女を抱えていた楼主達も
 当時はまだ知らなかった。それどころか医師でさえ、南蛮かさの初期に、女の秘所がど
 のような変化をするか知っているものはいない。女性が秘所を見せることを極端に羞じ
 た日本では、医師さえそこを見る機会はほとんどなかった。
・「もし、検べるとなると女達をどうするのだ」(吉兵衛)
・「あのベッドの上に女性を仰向けに寝かせ、両肢を曲げ、左右へ大きく開かせるのだ」
 (ロシア軍医)
・「それでは女の秘所はまる見えではないか」(吉兵衛)
・「当り前だ。見えなければ診察できないだろう」(ロシア軍医)
・男女二人だけの時ならともかく、男が軍服を着たまま相手の女を全裸にして秘所を露出
 させるなどということは尋常ではない。これはまさしく変態としかいいようがない。
・「で、奥のほうまでどうして検べるのだ」(吉兵衛)
・「これで開く」軍医はにやりと笑って、鞄のなかから一対の金属の器機をとりだした。
・「これで開き、明るい光の下で見れば、秘所の襞の奥から小袋(子宮)の先まで、すべ
 て見とおせる」(ロシア軍医)
・吉兵衛達はぽかんと口をあけたまま、軍医の持っている器機に見とれていた。
・なんともすさまじいことをするものである。毛唐は女性に親切だというが、やっぱり嘘
 らしい。いかに医者といえども、女をそんな目にあわすとは犬畜生にも劣る。話をきく
 だけで吉兵衛は肌寒くなった。


・吉兵衛はひとまず軍医達を別室に待たせ、遊女屋の楼主たちを大黒屋の一室に集めて相
 談することにした。
・「陰門改めを受けなければ、女を買わぬといっている」(吉兵衛)
・改めて吉兵衛から話を聞くと、楼主達はみな反対であった。
・「南蛮かさを発見するなどといって、実は日本の女の秘所を拡げて、あぶな絵でも描く
 つもりではないのか」と、軍医という身分を怪しむ者さえいた。
・だが、といって断れば、大量の客を失うことになる。ロシア人は習慣の違いからいろい
 ろことを起こして面倒だが、今度のように団体で正式に付添人もついてくる場合には、
 さほど問題ではない。それに花代も時間で一分銀一個、泊りで二個と、普通の日本人客
 より倍以上の値段だから悪い取引ではない。
・「肝腎なのは陰門改めを受ける遊女達がなんというかだ。各々、一旦家へ戻り、女達に、
 この検べを受けるか否かきいてみてはいかがかな」(吉兵衛)
・吉兵衛ももちろん、陰門改めなどという破廉恥な要求には反対だが、相手はなにせ北方
 から無気味に日本をうかがう大ロシア国の軍人である。ここで下手にいさかいがおきる
 と、吉兵衛の首がとぶどころか、日本とロシアとの争いにもなりかねない。
・女が欲しくて満たされない時の男達は、一旦暴れだすと、なにをしでかすか、しれたも
 のではない。癪は癪だが、ここはなんとか円満におさめたい。
・家へ帰った楼主達は、一刻もせずに戻ってきて、一様に「いけません」と頭を左右に振
 る。 
・妓達は全員反対したのはもちろん、なかには、「そんなことをされるくらいなら、舌噛
 切って死にまする」という女までいるというのである。
・毎日、何人もの男に体を与えているのに、陰門改めくいどうということもないだろう、
 というのは現代的な考え方かもしれない。
・体を売るのは商売だから仕方がないが、秘所を見られるだけというのは人として扱われ
 たのではない。顔を見て唾をかけられたと同じで我慢がならぬというわけである。
・廓にいて、初めから人間らしい扱いを受けているとも思えないのだが、そこは遊女の意
 地というものであった。明るいところで、秘所を覗かれただけでは、女郎として最大の
 侮蔑を受けたことになる。
・「遊女屋は遊女あってのこと、その遊女が一致して反対するものを無理にとはいいかね
 まする」
・普段は客の要求するままに、かなりあこぎなことまで女達に命じる楼主達が、今度ばか
 りは理解ある態度を示す。
・「たとえ病気のためとかいっても、そんな無体なことを女達に強いるわけにはいきませ
 ん。身体は誰がなんといおうと女のもので、これだけはいかな権力を持出されても強い
 るわけには参りませぬ」
・因業といわれる商売をやっていても、楼主達にも遊女と同じ意地というものがある。自
 分達の持っている商品を、面白半分に見られたのではたまらない。
・それに、完全に信じているわけではないが、楼主達のなかには、もし彼等のいうように、
 陰門改めで遊女達の幾人かが南蛮かさだということになったら大変だ、という思惑もあ
 った。
・正直なところ中村吉兵衛にしたところで、陰門改めには反対であった。彼には楼主達の
 ような打算はないが、それはロシア人の日本女性への侮蔑だと思う。できるならこれは
 断りたい。


・吉兵衛から拒否の返答を受けた軍医は、不快な表情を露わにして、「あなた達は無知で
 す」と一言投げ捨てて、長崎沖の軍艦へ帰っていった。退散していくロシア軍医を見て、
 楼主達は大いに意気があがった。
・もとから彼等は偉人達を好んではいない。丈高く、面貌異様なうえに、体といえば剛毛
 が密生している。その外形から馴染めないうえに、異国人であることをよいことに廓の
 掟を無視し、乱暴狼藉を働く。捕らえて痛い目にあわせようと思うが、奉行所などの保
 護もあって、みだりに制裁をくわえるわけにはいかない。
・いま当座、追い返したのはいいが、あとでロシア側からなんと難癖をつけてこられるか
 わからない。後日、ロシア側から奉行所へ憤懣がもとらされたら、さし当りすぐ詰問さ
 れるのは吉兵衛である。なんとも割の悪い役を引き受けたものである。
・吉兵衛は奉行所に戻り、ことの始終を上司をとおして、時の長崎奉行、岡部駿河守長常
 へ報告した。
・不穏な空気をはらんだまま、もの別れに終わったことに不満はあっても、奉行もロシア
 軍医のいい出したことは無体だと思う。日本女を軽く見ているから、そういうことをい
 い出すのである。
・こうした見方は、なにも長崎奉行にかぎったわけではなく、幕府自体も廃娼や検黴に対
 しては、きわめて消極的であった。
・この少し前、蘭医のドクトル・ポンペが、幕府に対して、病毒蔓延の巣として、遊廓制
 度の廃止を訴えたが、 幕府は一顧だにせず無視してしまった。
・ポンペはさらに、もし遊廓制度を維持するなら厳重な医術上の監督下におき、必ず検黴 
 するよう上申したが、幕府は実現不可能と考えて、それも却下してしまった。
・時たま現われていたロシア人遊客も、このもめごと以来、ぴたりと花街へは姿を現わさ
 なくなった。陰門改め拒否がきっかけで日露の争いが起きては一大事である。なにせロ
 シアはことあるごとに日本をうかがっている北方の大国である。奉行所も吉兵衛も、息
 を潜めるようにしてロシアの出方を窺っていた。
・ところが、軍医を追い返した五日後に、突然、旗艦ポスサジニカ号に搭乗していた提督
 ビリレフから、ロシア通詞をとおして一通の手紙が奉行所にもたらされた。
・「われわれは日本の既存の遊里は避け、ロシア人だけの遊興所をつくろうと考えている。
 場所はロシア人慰留者の多い稲佐に、遊女達はもちろん日本人婦女子だが、これらには、
 こちらで責任を持って検黴を実施することにする。なおロシア遊興所にくる遊女達には
 相当の手当を支払い、遊興所建設の費用として、金百両を提供するゆえ、早急にこの儀
 を取り決めるよう協力されたい」
・これを見て、岡部駿河はひとまず安堵した。いろいろ問題はあったが、ともかく険悪な
 事態になることだけは避けられたようである。
・奉行からじきじき言葉を頂戴して、吉兵衛はうやうやしく頭を下げたが、ことはそれほ
 ど簡単ではなかった。 
・ロシア艦隊は七月初めに一旦、ウラジオストックに向けて移動するが、九月にはまた戻
 ってくる。それまで二カ月しかないが、そのうちに完成せよというのである。二カ月で
 廓をつくるのは至難のわざである。考えた末、吉兵衛はすでにある家を買収し、これを
 遊女屋ふうに手直しすることにきめた。
・稲佐といえば、いまでこそ長崎の中心地から車で十分とかからない長崎市内だが、当時
 は稲佐山の麓にはる半農半漁の寒村であった。ロシア人こそぼつぼつ住んで、土地の者
 とも多少の馴染みはあったが、それも安政の開港以来でさほど多くはない。そこにロシ
 ア人専用の遊興所ができるというのである。
・村を検分した結果、吉兵衛は浦上川の西岸にある民家を三軒借りて、これを遊興所とす
 ることに決めた。三軒のうち、一軒は遊女屋、一軒は揚屋、一軒は料理屋とする腹づも
 りである。
・だがまだ難問が控えていた。ここへ遊女をどうして連れてくるかということである。
 遊女を集めるだけなら簡単だが、陰門改めをさせる遊女を集めるのは至難の業である。
  

・暑い盛りだったが、吉兵衛は行水も使わず考えこんでいた。突然、障子をあけて若い女
 が燭台をかかげて持ってきた。半年前、出入りの大工の紹介で稲佐から奉公にきた、き
 ぬという十六歳の娘だった。眼は一重で、鼻が平たく、器量はあまりよくないが、全体
 としてほっそりして、素足の白さが妙に艶めかしい。吉兵衛はふと思いついてきいてみ
 た。
・「お前の村には、お前のような若い娘は沢山おるか」
・「はい」主人に声をかけられて、きぬは燭台を持ったまま、慌ててその場に坐りこんだ。
・なにもきいても「はい」だが、その小さく坐った姿は、いかにも従順そうである。
・吉兵衛はきぬを見ながらうなずいた。ここで吉兵衛が考えついたことは、丸山の遊女の
 替わりに、稲佐の素人女を集める、ということだった。
・稲佐郷は元来、浦上川の西岸に沿って開けたところだが、山が迫って平地は少なく、地
 味もあまりよくない。豪農もいるが、大半は貧農である。当然、口べらしや、女の身売
 りなどがおこなわれていた。
・どうせ売られていくなら、こちらで貧家の婦女を集めて稲佐の遊女にすればいい。素人
 女だから遊女の手練手管はないかもしれないが、それだけに素直で御しやすい。大体、
 手練手管といっても、習慣の違う異人にはあまり通じるわけもない。彼等はそんな技巧
 より、まず女の体を抱きたいのだ。
・それに素人女なら、陰門改めをしてもあまり反対しないだろう。はじめからそれをいい
 きかせておけば、あきらめて、案外、素直に従うかもしれない。
・集める女の目標は五十人だが、さし当り三十人でもよい。ロシア人相手であると教えな
 かったが、廓でむつかしい躾や訓練をうけなくてもすぐに金になる、と好条件をふれこ
 んだ。
・半月もしないうちに、たちまち四十人の女達が集まった。あまり年齢はうるさくいわな
 かったので、四十歳をこした後家や、男で身をもちくずしたあばずれ女もいたが、なか
 には、いきなり異人相手では可哀想だと思われる十四、五歳の少女もいた。しかしこの
 際、そんなことに同情している暇はない。
・ここでまた一つ問題が起きた。いかにお奉行所のお声がかりだとはいえ、丸山町、寄合
 町に挨拶しないで遊女屋を開くのは、なにかと摩擦が生じてまずい、といい出したので
 ある。
・吉兵衛は考えた末、次の妥協案をひねり出した。すなわち、稲佐郷で集めた女達は一旦、
 全員を丸山の遊女屋の籍に入れる。女達が稲佐の遊興所にくる時だけ、遊女達を借り入
 れたこととし、籍を入れてもらった遊女屋に一定の手数料を支払う。そのかわり遊女た
 ちの支度金、衣類は遊女屋が用意する。
 

・九月三日、ビリレフ提督以下のロシア艦隊は五島列島と平戸の間を抜けて、再び長崎に
 入港した。
・九月九日、いよいよ丸山遊女、四十人が稲佐遊興所に到着した。いずれも先に稲佐で集
 められたあと、一旦、丸山遊女屋に入籍された女達である。
・やがて昼すぎ、二名のロシア軍医が到着した。彼等は家の内部を点検したあと、診察室
・に当てられた部屋へ入った。十畳ほどの畳の部屋のまん中にベッドが二つ置かれ、その
 中央より、ややうしろのところに天井から紅白の幕が垂れ下がっている。
・二人の軍医は不思議そうにその幕を見上げたが、それが吉兵衛苦心の垂れ幕であった。
・呼ばれた遊女は一人ずつ待合所から診察室に入ると、ベッドの上に仰向けになる。横に
 遣りて婆がいて下半身をおし出させ、腹から下が垂れ幕のなかに入ったところで裾をま
 くりあげる。
・幕の向こうにも二人の遣り手婆がいて、つき出されてきた遊女の両肢を左右に開き各々
 膝頭をしっかりとおさえこむ。
・かねがね秘所を検べられるとはきいていたが、あまりの羞ずかしさに、慌ててずるずる
 と引き退いたり、股を閉じようとする妓もいたが、すぐ遣り手婆の細いが強い腕でおさ
 えこまれて、元の姿態に戻される。
・小ぜり合いのあと、四肢が落ちついたところで、軍医が膣開口器をとり出し、秘所へさ
 し込んでいく。瞬間、器具の冷たい感触で女達はもう一度腰を退くが、それもすぐ遣り
 手婆の出ておさえつけられる。
・軍医が秘所の奥を見ている間、あきらめ果てたように眼を閉じている者もあれば、肩を
 震わせて泣いている妓もいた。
・一刻かかって、全員を診察し終わった時には、遊女達はものいわぬ死人の群れのように
 黙りこんでしまった。それでも女達は、自分の秘所がロシア軍医に見られたとは思って
 いなかった。女達はみな、日本の偉い先生が出島から出向いて診察してくれたのだと思
 い込んでいた。これもベッドの途中に幕を垂らし、軍医にものをいわせないようにした、
 吉兵衛の策略であった。
・一時、羞恥のあまり沈み込んでいた女達も、夕暮とともに元気をとり戻し、思い思いに
 化粧をしはじめた。  
・やがて大きな落日が稲佐山の背後に沈むころ、晴れて上陸を許された水夫達が一斉に遊
 興所へ殺到してきた。 
・この日、万延元年九月九日、はじめて稲佐遊興所は開かれ、以後、ここは露西亜マタロ
 ス休息所と呼ばれ、多くのロシア人と日本遊女の思い出の場所となった。
・そしてここの遊女は、「マタロス女郎」と呼ばれた。
・だがそれ以上に忘れられないことは、ここが、日本における検黴、すなわち陰門改めの
 濫觴の地であるということである。これをきっかけに、検黴制度は徐々に核遊廓に拡が
 ってはいったが、これが全国に及ぶまでには、なお二十数年の年月がかったようである。
・中村吉兵衛は、マタロス休息所が出来た半年後の文久元年三月の夜、稲佐に通じる街道
 の中程で、何者とも知れぬ者にうしろから斬りつけられ、屍体は翌日、浦上川が長崎湾
 に注ぐ河口に浮び上がった。
・下手人は不明であったが、そのうちどこからともなく陰門改めを受けた遊女の馴染みの
 男に殺されたのだという風評が立った。
・だがそれもはっきりしないまま、事件は迷宮入りとなり、吉兵衛のことも、遊興所をつ
 くるまでの楼主達の戸惑いも次第に忘れられていった。
・そしてかわりに、口外を禁じられていた遣り手婆でも喋ったのか、吉兵衛が考案した垂
 れ幕の内側のトリックはすべて割れ、休息所ではロシア軍医がその大きな手を拳のまま、
 マタロス女郎の奥深くさしこむのだという噂がまことしやかに流されていた。