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この本は、今から45年前の1976年に出版されたノンフィクションである。
からゆきさん」とは、もともとは江戸時代の末期から、明治、大正、昭和のはじめぐら
いまでの、海を渡って外国に働きにいく人を刺す九州西部・北部の言葉だったようだ。
しかし、やがてそれは、海外に売られた日本女性の総称になっていったという。
「海外に売られた」といっても、そこには複雑な状況があったようだ。根底には貧しさか
らの「口べらし」のためにという事情があるのだが、その貧しさにつけ込まれ、だまされ
てということがある一方、自分の親兄弟のためにだまされていると知りながら自らの意志
で売られた女性もいたようだ。
しかも、売られた女性は、女性といっても大人の女性ではなく、まだ十三歳から十五歳ぐ
らいの少女たちだったようだ。中には数は少ないが十一歳とか十二歳とかの少女もいたよ
うだ。
そういう少女たちが多額の借金を背負わされて、まるで家畜のように外国行きの船底に押
し込められて、見知らぬ国である中国をはじめ朝鮮、シベリア、東南アジアなどへと売ら
れて行ったという。そして、やらされたのが男相手の性労働であったという。これは、ま
さに「「人身売買」であり「性奴隷」であると言っていいだろう。
日本において、こういうことが明治末期から明治、大正、そして昭和の初期まで行われて
きたという。そして、そのような少女らに対して、日本という国は、国家として、なんら
救いの手を差し伸べることをしなかったようだ。救いの手を差し伸べるどころか公娼制と
いう国の制度に組み込み、植民地政策と結びつけて、少女たちを利用した。働けなくなっ
た少女は、自己責任だとして邪魔者扱いにし、見捨てた。これは、国家による「棄民」と
いえるだろう。この当時の日本という国家は、国民のために存在するものではなかったよ
うだ。
今の社会常識からすれば、考えられないようなことであるが、しかし、これは歴史上の事
実のようだ。まさに震撼させられる内容だ。あまりに衝撃邸な内容で、息ができないほど
心が苦しくなった。
しかし、おそらく「格差社会」である現代の日本においても、裏社会においてはこれと似
たようなことが行われているのだろうというのも想像に難くない。決して過去の話ではな
いのだ。
そしてまた、いまの新型コロナ禍における東京五輪開催などの政府の対応を見ても、日本
という国家は、われわれ一般の国民のために存在するものではない。国家とは権力者たち
のためにあるのだということを改めて再認識させられている。


ふるさとを出る娘たち
・綾さんはわたしの友人、おキミさんはその母親だった。たがいに結婚しても折々会って
 いた。その家を訪れると、奥のへやに品のいい初老のおキミさんが、しずかに坐ってい
 た。
・二十代のわたしは、かの女の目には、無知に近かったにちがいない。わたしはといえば、
 かの女のことを、やけにべたべたとからだをすり寄せてくる人だなと、それが後味わる
 く、その媚態、どうにかならないものか、と思うばかりであった。
・あるほのあたたかな日だった。綾さんに呼び出されて、いっしょに、とある産婦人科の
 扉をおした。かの女は中絶するのだ、という。わたしはそのことを頭のなかでしか知ら
 なかったので、しりごみが、それでもその表情に押しまくられて、つきそっていった。
・かの女は、夢うつつで泣いていた。わたしは、しらじらとしてきて、かえりたくなった
 が、それでも覚めないかの女の枕もとに腰かけて待った。鉄のベッド。窓。それしか記
 憶にない。わたしはこの人もまた女なのだと、自分に感じとれるかぎりの、想像が及ぶ
 かぎりの、女というものを、女の生というものを心に浮かべながら、かの女をみていた。
 ・わたしが幼いころから反発したり抵抗したりしてきた、女に対するたくさんの圧迫が、
 みんな綾さんとその母おキミさんのところに吹き寄せられているように感じられた。
・「あたしが狂ったとでも思ったのでしょう。でも母はね、あたしと二人になると、もっ
 ともっと狂うのよ。母は、からゆきだったのよ。売られた女よ。あなた、売られるとい
 うこと、少しはわかった?一代ですまないことなのよ。売られた女に溜まったものは、
 その子の代では払いのけられそうもないわよ、どこまでいっても。あたし、わからない
 の。売られなかった女というものが少しもわからないの」
・綾さんの母親、実は養母であるおキミさんについて聞かせられたのは、それからしばら
 くのちのことであった。わたしは、からゆきとは、売られた女の娼楼での呼び名だと思
 ったまま、久しく思い出しもしなかった。
・おキミは天草の牛深に生まれて、幼いころ養女に出された。五つか六つのころであった
 という。養父は浅草で居合抜きをして投銭を得ていた人であった。おキミが養女になっ
 たころは「因業小屋」という呼び名の小さな興行をしていた。心中とか辻切りとか、蛇
 娘などを見世物とするのである。おキミは明治二十九年の生まれなので、この見世物は
 三十年代のことになる。 
・心に残っているのは、小屋に売られてくる病人の姿であった。病んでいるので動きのあ
 る見世物はできない。死人の見世物は小屋の呼びものでもあった。売られてきた病人た
 ちは、一日中死体になって身動きしないまま人目にさらされた。
・それは明治になるまえからの風習であった。売られる、ということばは、日々人の口に
 のぼっていたが、それは口べらしされるというほどの意味あいであった。売られた者も
 またそのおかげで、どこかで食べてゆけた。養子や養女を幾人もかかえて、「因業小屋」
 は成り立っていた。
・おキミはこの小屋から、また養女に出された。明治末年、十六歳のときである。おキミ
 を養女にした人は李慶春といった。因業小屋にいた少女とふたり、おキミは李慶春につ
 れられて小屋を出た。ゆく先は朝鮮ということであった。おキミは「からゆき」になっ
 たのである。
・唐天竺へ働きにゆくことを、おキミの郷里では、からゆきといった。ふるさとのある日
 本から海をわたってよその国へ働きにゆくのである。綾さんの実の母親の里でもそうい
 った。どちらも天草であった。
・おキミたちは神戸まで陸路を通った。ここで少女がふえて八人となり貨物船に乗った。
 船員をおとうさんは連れて来て、おショウバイするようにといった。おショウバイした。
 おキミも。
・門司に泊っていたとき、さらに六人の少女が乗り込んできた。六人とも、びっくりする
 ほどやつれていた。おキミは自分よりも、ひもじく生きてきた人たちだ、と直感した。
 田舎くささが少女たちから匂った。やつれ果てて、だれも、ものもいわない。
・船員を相手に仕事をして、食べるものを食べて、すこし元気になった少女たちが、たが
 いに名のった。みんな百姓だといった。六人は十五歳までで、いちばん幼い子は十二だ
 った。
・おとうさんの李慶春は十四人の娘をつれて朝鮮にむかうらしく、あとはだれも乗り込む
 ことなく、船が出た。おショウバイは昼も夜もあって、少女たちはよく泣いた。
・航行中に少女のひとりが危篤におちた。十二歳の子であった。船に来たときから元気が
 なかった。咳をし、その咳とともに血が飛んだ。山口県のどこか、海から遠くないとこ
 ろで、せりおとされた来た、といった。
・十二歳の子は息絶えた。残された十三人はその子にとりすがって泣いた。船員がくれた
 古い毛布になきがらをくるんだ。おキミら数人が抱いて、そして甲板の上から海へ放し
 てやった。うらやましくて涙がとまらなかった。おショウバイをしなくてもよくなった
 あの子は、いま親元へ帰っているだろう。
・「あの子の家と親の名を教えてください」と訊いたおキミの泣 きはらした目へむけて、 
 李慶春が答えた。「親はわしだよ。おまえら、みな、わしの娘になったんだ。親はほか
 には、おらん。知らせることはいらん。戸籍でもわしの娘になっとる。おまえら、みな、
 戸籍抜いて、わしの戸籍にはいっとるからね、わしのほかに親はおらん」おキミは血が
 ひくのをおぼえた。
・おキミの心はあの天草の海の、青いおだやかな光のなかへ、いつも帰っていた。それだ
 けで十分だった。幼いころの遊び相手の多くは、おキミのように五つ六つになれば養女
 に出ていた。八代の湯屋湯とか、熊本の遊廓とか、長崎のすきやき屋とか。それは働き
 にゆくというよりも、養い親を持つことだから、使われもしたが、また生涯にわたって
 たよりにもし、無心もした。
・幼くて養女にいったおキミたちとちがって、十二、三歳までは生みの親たちが食べさせ
 てくれた子らもいた。が、その子らも十三歳にもなれば、自分の口は自分でまかなう、
 というのが常識だった。十三歳とは、立派な一人前の労働力を意味していたから。
・おキミは因業小屋から売られたけれども、それは養父が倒れたせいだと、信じていた。
 戸籍のことなど、まるで念頭になかった。もともと戸籍などが役に立ったことはない。
 おキミは熊本県天草郡深村久玉の父の長女という自分の書付が、その上に線を引かれて、
 朝鮮の、むずかしい地名の李慶春の養女になっているのを、みせられた。ほかの女たち
 も、 みな、証文というのをみせられて、声をあげて泣いた。わけがわからない。死ん
 でもゆくところがない・・・・。これは売られたのではなくて、棄てられたのだ。あの
 おっかさんが、わたしを棄てた・・・・。少女たちはおキミにとりすがって泣いた。
・綾さんはわたしにいったことがある。日本人が女を売るとか買うとかいうときの観念と、
 朝鮮人のそれと違うのよ、と。朝鮮人の観念は清国人の観念にちかいのよ、あの人たち
 は、金を出して女を買って養女にしたり嫁にしたりしていたけれど、いったん買ったら、
 女のそれまでの生活はなくなったものと考えるのね。気持ちのうえのつながりも買いと
 るのよ。
・おキミを売った養父は、維新前は武士であった。かれはそのころの常識を疑うことなく、
 病を養うために娘らを手ばなしたのだ。
・そのころ、日本では娼妓は年期奉公であった。年限を決めて前借金をもらって、そして
 娼楼へゆく。そのたてまえが常にくずれて、年期がきても借金が返せずに、ずるずると
 深みにはまっていくのだが、それでも、たてまえはたてまえとして生きていた。娘たち
 はそのたてまえに必死の思いですがりついて、親をおもい、家をおもって娼楼へいった
 のであった。
・江戸時代の文書には、はじめからそのたてまえぬきの、つまり年期奉公ではなくて、親
 権をゆずりわたして生殺すら問わぬことを書いて、売られてゆくこの幼い爪印をしるし
 た身売り証文もある。娼楼の主やその関係者や、また幼女の親をはじめ縁者や名主まで
 名をつらねて、このちいさなちいさな爪印を、とりかこんでいる。公許された人身売買
 である。
・おキミにとりすがって、だれもが、絶望の淵に沈んでいた。口べらしは親孝行だという
 世間的な倫理が、言わず語らず少女たちの心を支えていて、そのうえでふるさとの親と
 出郷する娘とは、しっかりつながっていた。ゆく末はわからなくとも、そのきずなの上
 に熱い涙も流せたし、気弱な笑いをうかべることもできた。そのきずなを親が売りわた
 したのか。あの証文とはそのことを書きしるしたものなのか・・・。
・「もう、生きても死んでもいい・・・」だれかがそうつぶやき、それから低いうめきの
 ような泣き声が、おショウバイの間も流れた。
・おキミたちが陸にあげられた。そこは朝鮮半島の南端にある漁港「木浦」だと、あとで
 知った。
・「からゆき」ということばは、いまはもうその内容を正確に伝えない。それは明治、大
 正、昭和の初めごろまで、九州の西部・北部で使われていたことばである。それは「か
 ら」に出稼ぎにゆくことであった。「から」とは唐天竺の唐から転じて、海のむこうの
 国々を指していた。明治維新ののち、貧しい男女が海外に働きに出た。そのように海を
 越えて働きにゆくことや、またその人びとを、「からゆき」とか「からんくにゆき」と
 か、また「からゆきどん」と呼んだのである。
・海外への出稼ぎといっても、明治のころは海の外も賃労働はすくなく、行商をするか、
 雑用に使われるか、土工や石工などになって親方にしたがうかであって、ひとり娼楼ば
 かりがさかえた。そのため海をわたる女が後をたたず、やがて「からゆき」とはこれら
 海外の娼楼に奉公に出る女たちを意味するようになった。
・けれどもからゆきを多く出した天草や島原あたりでは、移民業者が募集してシベリア鉄
 道の工夫になったり、ハワイやアメリカの農業労働者になったりして人も、からゆきと
 呼んでいたのである。
・そして大正にはいるころから、からゆきは、朝鮮ゆき、シナゆき、シベリアゆき、アメ
 リカゆきなどの表現にわかれた。そしてからゆきは南洋ゆきと同じ意味合いのものとし
 て使われることが多くなった。南
・洋とは東南アジアのことである。この海外の広い地域へ働きにでた人びとのなかには、
 あざむかれて連れ出され、売られた人びともいた。多くは娘たちだった。
・第二次大戦のあと、「からゆきさん」ということばは、「からんくにゆき」とか「から
 ゆきどん」とか、村びとが呼んでいた出稼ぎの意味合いからはずれて、海のむこうへ売
 られた女たちを呼ぶようになってきた。また売られた女たちはほとんど娼楼ぐらしであ
 ったので、同じように性をひさいだ戦地の慰安婦も、この名で呼ばれたりもしている。
・「からゆき」「からんくにゆき」は、このような村で使われていたことばである。そし
 て世上では、海外への出稼ぎは「移民」といわれ、女たちは醜業婦と呼ばれていた。
・明治のころの福岡の新聞に、「密航婦」ということばがたびたび出ていた。はじめてこ
 のことばゆきあたったとき、わたしは衝撃をうけた。それはからゆきさんのことであっ
 たからである。
・新聞は繰っても繰っても「密航婦」であった。手続きをととのえてからゆきとなった人
 びとは、ニュースになることもないのだが、いったい明治年間に渡航手続きを自分でで
 きる村の娘がどれほどいたろうか。一団となって村を出た男たちでさえ、移民業者にだ
 まされて、知らぬ他国に連れ出されて、帰るに帰れないものも少なくなかったというの
 に。
・娘たちのほとんどは、口入屋にたのんで、あるいは悪質な口入屋にあざむかれて、その
 言うがままにすれば海のむこうで働けるものと思い込んで、船にむかったのである。そ
 して乗り込むとき、はじめて密航らしいと気づく。これは被害ではないのか。
・海外の娼妓の大半は被害者だという自分の思い込みが、「密航婦」ということばで肩す
 かしにあった。なんだか腑に落ちなかった。またその記事には、はっきり誘拐者は何村
 の何某と記してあるのに、誘拐罪に問われることもなく、ましてや婦女売買罪などとい
 うものなど、どこにも見あたらぬのが、なんとも合点がゆかぬ思いだった。そしてまた、
 なんと「密航婦」の記事の多いこと。 
・海外へ送りだされる少女たちは、国内で売買される女たちの一部にすぎない、と考えさ
 せられる記事に満ちていた。
・女たちのたどってきた歴史は知らぬわけではなかったし、差別や圧迫を感じないですむ
 ことも少なくない日常だが、それでも今日と明治とでは世間の目がひときわ違う。
・娼妓たちは善人から金をしぼりとる因業なやつと、書かれている。たとえば脳梅毒で死
 んだ妓の解剖についての記事などは、「生きて身を売り死してなお身を売る淫売の業」
 というぐあいである。孕まされたすえにやむなく子をおろした少女は、売女と非難され
 る。淫売のなれの果て、などという扱いは常のことであった。そしてこのような女性観
 がそのまま「密航婦」というとらえ方に通じているのだった。
・なにしろ女たちを、その意志を無視して売ったり買ったりして金を儲けることが、おお
 やけに許されているのだ。売春宿から売春宿へと転売され、そのたびに売春業者のふと
 ころをあたためさせ、借金にうもれて死ぬ女たちが満ちみちていた。そしてそれは売り
 買いする者の罪ではなく、女があさましく金を得ようとしたための自業自得なのであっ
 た。だから海のむこうにゆけばいい金儲けがあるとさそわれ、欲にくらんで船の中にひ
 そんだ女を、「密航婦」と呼ぶのにふしぎはないのだった。なにしろ渡航手続きをして
 いないのだから。
・密航婦として保護された娘たちは、いつもほぼ口入屋に奉公先を世話させるという処置
 がとられている。が、奉公先を周旋する口入屋が、実はあてにならないのだった。口入
 屋は、東京では桂庵といった。芸妓、酌婦、中居、宿屋女、下男、下女などと呼ばれる
 職種への人びとを世話して、その手数料で生活する者たちであった。ひろく世間を知っ
 ている渡世人たちと通じ、同業者と連絡をとりあって、求職者と雇主とをともにあざむ
 いて法外な利を得たり、人身売買同様の手段を弄したりした。
・それでも出稼ぎ先をもとめる村びとたちは、口入屋にたのんだ。手づるもすくないので
 やむをえないのである。口入屋は、またその下請けをする遊び人や酌婦あがりの女など
 をあるかせて、子守りや女中や女工などを往来でつかまえては、もっとうまい仕事口が
 ある、と、ささやかせた。
・口入屋は、今日の情報屋と職業安定所とをかねそなえて、求職者と雇用者とへ情報を流
 し、かつ両者の世話をする、公けに許された仕事であったが、悪質なものが多かった。
・からゆきさんはこれら口入屋の手をへて、海外へ娼妓を送り出すことを専業とするもの
 たちへ渡された。あるいはその専業者に直接さそわれた。
・明治維新のあと、海外航路も船舶もととのっていなかった日本から、多くのからゆきさ
 んが出ているのである。そのほとんどは出航手続きをせず、船賃を払わず、船底にひそ
 ませられての渡航であった。それも外国船にである。こうしたことは日本国内での口入
 業のほかに、諸外国の婦女売買専業者と通じた密航誘拐業者が活躍してはじめてできる
 ことだった。
・村の娘がからゆきをするには、これらいく人もの人手をへたのである。からゆきさんは
 国内の娼妓たちが身に負った借金の、なん倍もの借金を負わされていた。それはこのい
 く人もの人手が得ていた手数料と、関係者の宿料や食費などの雑費によるのである。
・門司の口入屋で密航周旋を専業にしているものには、女も少なくない。女周旋業者はな
 にげない姿で巷に散在している。まことにしたたかで、女も歳食えば内面夜叉である。
 産婆が密航誘拐を専門にしていたり、下宿屋のおかみ、髪結い、お針の師匠、看護婦、
 酒屋、女工等々が、からゆきさんの手引きをしている。
・そして海のむこうの港には、さまざまな顔役がいて、そのボスの許可なしに娘たちをひ
 そかに上陸させることはできなかった。密告されてしまうからである。海外の娼楼にい
 るからゆきさんがもっとも多かった時期は、日露戦争後から大正のはじめまでの十年間
 だが、そのころは香港やシンガポールなどの密航業者の顔役に、日本人もおさまってい
 た。かれらは港での顔役であり、海外娼街での親玉であり、また海外日本人会での重鎮、
 かつ日本国内の婦女誘拐密航者たちのボスであった。
・おキミさんの渡海をきいてから二十年にもなる。綾さんはわたしに言ったことがある。
 「北朝鮮にゆけるようになったら、おキミが売られていった跡を一緒に行ってね」「北
 朝鮮だったの?」 
・綾さんの話がときによって、かすかにちがっているのを、わたしは長い付き合いでよく
 知っている。かの女はからゆきとして海のむこうで死んだ実母のことは語らない。その
 悲痛な短い歴史を語るにはまだまだ時間がたりないのである。
・多田亀はおキミが門司港をでた数年前の明治三十七、八年ごろ、門司港や長崎港、そし
 て香港やシンガポールを根城にして勢力を張っていた、密航専業のボスであった。
・当時からゆきさんを、知識層の多くは「娘子軍」とよんでいた。からゆきさんばかりで
 はなく、他の民族の娼妓たちをもそう呼んでいた。たとえば支那娘子軍などと。
・そのころの長崎の出雲町は遊廓地であった。かつて浪ノ平にあった遊廓がここに移って
 いたのだった。漁師町に接した、遊廓としては、まあ二流の安あがりのものだったので
 はあるまいか。もっとも繁昌したのは明治三十四年ごろで、そのとき娼楼が十六軒、娼
 妓が三百四十余人。
・誘拐密航業者というと、かれらは不服かもしれない。きっと貧乏人にたのまれて人助け
 をしていた、というのだろう。そしてまた日本の法律も、かれらの行為をそのように解
 しているのか、 と、勘ぐりたくなる処置を、この人びとにとっていた。
・多田亀が誘拐密航をして、被害者の少女たちから告訴されたことがあった。多田亀は本
 名は多田亀吉といい、神戸あるいは下関生まれで、明治四十年当時三十八歳。その年、
 長崎稲佐のミセ、キミなど八人の少女たちによって告訴された。亀吉は少女たちをマニ
 ラに密航させる途上、その言にしたがわなかったフデを強姦し、見せしめとして絞殺、
 死体を海に投げ入れたのである。そしてさらにほかの少女たちを犯してしたがわせ、上
 陸後売ったのである。
・ミセ、キミたちはこのことをしたため、血判をおして告訴した。手配された亀吉は当時
 長崎にいたが、神戸、大阪と逃げて、門司から密航寸前のところを捕らえられた。
・女ひとり売れば五百円というのが、明治三、四十年ごろの相場で、香港からシンガポー
 ルなどの南方へも、また上海やウラジオ方面へも五百円内外で売った。 
・ところが、この亀吉は明治四十年六月、長崎地方裁判所で証拠不十分として予審免訴と
 なったのである。わたしにはがてんがゆかない。「密航婦」という世間の目も腑に落ち
 ない。が、殺して意味にほうり棄てて、八人もの証言があって、それでも免訴とは了解
 できない。
・多田亀はその後、シベリアで非業の死を遂げた、という。どのような死を死ぬことがで
 きたのだろう。
・シベリアでもシンガポールでも、女郎屋をひらく男たちは国内の娼街を再現させようと
 したという。
・女郎屋では客のための火鉢の炭も娼妓に買わせた。炭や水を取りに階下におりていけば、
 一回いくらの金を娼妓の稼ぎから差し引いた。その時間だけ客へのサービスに欠けた、
 とみるのである。客がつかんと食事ぬきになる。
・「客をとるのがはじめての子どもは、たいてい泣きますばって、これがまた、たまらん
 ちゅうて、水揚げを何回かします。水揚げ中は傷つけられると困りますけん、若いもん
 はやめて、中年の男をあげます。たいてい女郎屋のおやじたちです。男ちゅうのは妙な
 もんで、泣かれるとたまらんじゃなかですか。子どもはすぐなれて稼ぎますばい」
・からゆきさんは長崎や口之津、神戸、横浜、そしておそらく日本海側の港からもはこば
 れているのだ。 
・少女たちはその郷里で周旋屋の手におちた例よりも、他郷へ女中や女工その他の職で出
 稼ぎにいっていて、その稼ぎ先で甘言にのせられるケースが多い。
・明治三十五年以降の十年間の、いたいけな娘たちの心のふるさとは、いま見るこの風土
 とはどこかがちがっていたにちがいないのである。からゆきはその当時のふるさとから
 生まれたものであった。いや、からゆきさんはその当時のふるさとに抱きとめられてい
 たからこそ、からゆきどんと呼ばれた。
・からゆきどんという呼び名は、ふるさとがそれへこめてきた熱い流れがあるのだった。
 今日の価値基準だけで、ただその一本の柱だけで、からゆきさんをみるとするなら、わ
 たしたちは「密航婦」と名づけた新聞記者のあやまちをくりかえすことになるかもしれ
 ない。
・わたしは明治や大正のころの村の若者たちの性意識を知りたいと思った。農家をたずね
 て古老から、つとめてその若いころの話をきいている。こうしたとき花が咲くのは、や
 はり夜這いの話である。それは戦後にも残っていて、わたしを驚かした。もとよりもう
 村びと公認の風習というわけではなくなっていた。また、かの女らは若者宿を知ってい
 た。たとえば村の後家さんの家のひとへやを借用するというようなものであった。
・これは明治三十七年、福岡県筑紫郡岩戸村恵子でのことである。村の娘が数えの十三歳
 になると親から村の若者組に酒肴が贈られ、水揚げと称して性の自由がみとめられてい
 たが、それが新聞紙上でとりざたされたのである。もともとこのような成人後のしきた
 りは各地にあった。村によって差はあったが、一定の年齢に達した男女がそれぞれ若者
 組や娘組に入って夜のひとときをたのしみあうのである。
・村戸村でのこの若者たちの風習が新聞記事となったのは、ひとりの幼すぎる少女の死に
 よってであった。おツキという十二歳の少女であった。おツキは他村の娘であったが、
 岩戸村恵子の伯母の家にきていて、さそわれるまま近所の三、四人の少女とつれだって、
 その部落の青年男女の愛しあう那珂川のつつみにいった。初めての夜はひとりの若者と
 すごし、とぎの夜はふたりの若者と愛しあった。三日目にもやはり小娘たち打ちつれて
 遊びに出かけて、三人の青年とむつみあった。
・こうしてゆるやかに他の娘たちとおなじように開花するはずであったおツキは、最後に
 十二歳になる喜助との情交の折りに、出血をみたのである。なきじゃくって帰宅したが
 大人たちは身に覚えのあることゆえ、微笑して慰めたのであろう、別段気にかけること
 もなく、治療を受けさせることなく過ごさせた。ところが出血はやまず、二日後に息絶
 えてしまった。関係者はたがいにその不運をあわれんだ。だれも相手をせめる者などい
 なかったのである。
・若者の性について大人たちはさしでがましいことは言わなかった。なぜなら不文律があ
 って、男女間のことは同じ村のなかにかぎられていたし、また若者組の生業についても
 強い発言権を持っていたからである。結婚すれば若者組を出るのがふつうであったが、
 村によっては宿兄弟は終生つづいたり、また独身のものは年齢にかかわらず若者組に参
 加していたりしたのである。この事件をとがめる立場を村びとはもたなかった。
・時代がくだるとともに若者組の風習がくずれるところも出ていた。性の選択性が求めら
 れ、若者組は青年団へ、娘組は処女会へと町近くの村は変わりつつあった。また、明治
 維新後の法律のうえからも、若者宿の不文律そのものがゆるしがたい悪習慣ということ
 になった。村びとのかなしみのこもったおツキの死は、福岡署より急行して刑事事件と
 なったのである。
・が、このような不運のないかぎり、幾代もかけて育ててきた村びとの性意識は、村のく
 らしに深く根ざしていたので、外部から蛮行といわれようともたやすく変化すべくもな
 かった。
・昭和初期までこうした風習が残ったのは、離島や僻村などだが、からゆきさんが多かっ
 た明治年間は都市は別として、どこの村でも若者宿は若者たちの生活の一部だったので
 ある。いや、村の資産家の子をのぞいた若者たちの、というべきで、かれらは加わって
 いない。
・からゆきさんが続出するようになった村で、村びとがその奉公先を知りつつ少女らを送
 りだしたり、また、おなごのしごとを切りあげて帰った人びとを嫁に迎えたりしていた。
・娘宿の風習も根づよいところがあって、昭和になっても小学校長などがその弊を説いて
 も容易にくずせなかった。 
・このように働きつつ配偶者えれびをしていた風習は、若者宿の呼び名が青年団とかわり、
 娘宿の名が処女会と改められてからも、村公認のしきたちとしてつづいていた。
・娘たちは、他村の男と通ずることを村の男たちに対する不貞と感じていたが、数人との
 性愛を不倫視するようなものはなかったのである。
・天草の富岡では以前から、おかつぎはすれど夜這いはやらぬといった。使い帰りの下女
 とか風呂帰りの娘をひっ捕え、すたこら浜辺へかつぎこんで戯れるといったいみのかつ
 ぎである。
・天草伊津村では、夜這いは日露戦争のころまでは一般的であったが、電灯が灯るように
 なってからは減っていった。ここには女宿も青年宿もあったことが戦後の村の古老の記
 憶に残っていて、当時は妊娠してからの結婚が多かったこと、青年宿には一升酒と豆腐
 一丁をさげて入会したことなどが記されている。
・わたしはからゆきさんがこのような風土のなかで育ったことを心にとめておきたいので
 ある。ここには理屈抜きの、幅ひろい性愛がある。それは数人の異性との性愛を不純と
 みることのない、むしろ、性が人間としてのやさしさやあたたかさの源であることを、
 確認しあうような素朴なすがたがある。
・村の少女たちはこのなかで育まれた感情以外には、性についての感じ方、考え方を知ら
 なかったろう。たとえば武士階層がつたえて、やがて中産階級が生活規範とした家父長
 的な性道徳や貞操観念は、かれらには無縁のものであったろう。
・村から外へ出るときも、娘たちは娘宿で育まれた感情を心にたたえた娘のままであった
 にちがいない。人間をやさしく抱擁するという感じかたを持つ子らは、人を疑う力にと
 ぼしく、たのまれればふところへ抱き込むことを、起きることだと考えたことだろう。
・シベリアで日本の少女は子守りとしてたいそうよろこばれた。ロシアの幼児らがしたっ
 てはなれなかった。 
・子守りも女中も娼妓もひとしく奉公といい、それらの間にことさら差別をしなかったふ
 るさとを思った。これらの生活感情にさわっていないと、たとえば姉妹だけで娼楼を営
 んでいたり、ふるさとから娼楼へ妹たちを呼び寄せたりする娘たちの、その血汐は感じ
 とれない。
・わたしはこの村びとの伝統を悪用したものにいきどおりを感じている。村むらは貧しか
 ったのだ。が、そのひもじく、寒いくらしの底にこの血汐は流れつづけた。おおらかで、
 そしてふてぶてしいエネルギーを脈々と流してきた。この気脈なしに娘たちも村びとも
 「からゆき」を生き抜くことはできなかった。新しい国家としての明治日本は、出稼ぎ
 するほかにはひもじさを癒せない人びとに対して、全くなんの力にもならなかった。

国の夜あけと村びと
・娼妓は人を愛することも、子を産むこともゆるされないで男に接してきた。産めないま
 ま終わるかなしさを、ある人は生きているうちに自分の墓をこしらえて慰めていた。
・おりしや女郎衆とはロシア人に性をひさいだ女たちのことである。幕末の長崎ではロシ
 アをおろしやといった。
・万延元年(一八六〇年)六月、ロシアの軍艦ポスサヂニク(ポサドニック)が長崎港に
 はいってきた。それはヨーロッパの北海からはるばるウラジオストックへむかう途中の
 船だった。北海の沖で英仏の艦隊とたたかって敗れ、ヨーロッパ=ロシアの港へはいる
 航路をふさがれて、やむなく長い航海をしていたのである。
・船はたいそう傷んでいた。乗組員もつかれていた。長崎で修理をし、石炭と水とを補給
 してから、また航海することになり、水兵たちは長崎で休養にはいった。そのロシア海
 軍から丸山遊廓へ連絡が来たのである。四十人あまりの乗組員が登楼すると。
・ところが当日になってロシア艦から来たのは三人の軍医だった。三人は遊女の陰門を改
 めたいといい、その道具を持って来ていた。遊女屋ではおどろいて、それをことわり、
 登楼もごめんこうむった。陰門改めとは梅毒検査をして、無病のものを選ぶことであっ
 たが、だれにもそんなことは通じなかった。そのような考え方がなかったのである。
・検梅を知らなかった日本だが、梅毒は唐瘡といってよく知られていた。琉球瘡とか広東
 瘡、またはただ瘡といい、ひろく蔓延していたので、それが伝染性のものであることも
 知っていた。そして治療に漢方薬などを使っていたが、予防ということをまるで知らな
 かったのである。ただ交接をつつしむことしかないと思われていた。
・日本が鎖国政策をとりつづけているあいだに、アジアに植民地をひろげていたヨーロッ
 パの国には、日本の梅毒の様子は知れわたっていたのでる。ロシア艦の申しでも、日本
 のこうした状況を怖れてのことであったろう。が、丸山は外国人をあいてにするわが国
 ただひとつの遊廓であったから、それなりの権威を与えられていた。
・けれども対外交渉の微妙なこの時期に、幕府としてはそうはいかず、苦慮した長崎奉行
 は長崎養生所の医師「松本良順」に丸山の説得をたのんだ。松本良順は、この遊廓の権
 威をそこなうことなく、ロシアの要求も受け入れることを考えた。それは丸山とは別の
 ところに女を集めて、丸山の各遊女屋に名義だけいれさせて遊女とし、手数料を納めさ
 せて、ロシア人の相手をさせるというものであった。こうして長崎市街の対岸稲佐郷に
 その遊女屋がつくられることになった。これがのちに稲佐遊廓となるのだが、そのとき
 は露西亜マタロス休息所といった。マタロスとは水夫のことである。
・集められたのは、長崎やその近くの村の貧しい娘であった、十四歳のかね、十五歳のる
 せ、などを含めた二十七人で、十七、八、九歳が多かった。そしてロシア軍医の要求ど
 おりに検梅をして水兵たちにむかった。おろしや女郎衆のはじめである。
・そのときはもとより、その後も長い間梅毒検査ということばはなかった。その知識が育
 たなかったからである。もともと長崎やそのあたりでは外国人への反感はほとんどなか
 ったが、それでもふるさとの習慣にないこのようなことに、当人も親たちも、そして検
 査する医師も屈辱を感じた。
・長崎養生所の医師の松本良順でさえ、「私は、まだこんなことを、やったことがないの
 で、ポンペに教えられて、やって見たが、イヤもう一二度で、嫌でたまらなくなった」
 と言っていたという。のちに将軍家茂の侍医となったり、明治維新後は初代軍医総監と
 なった松本良順ですら、こと検梅に関してはこんな考えしかもっていなかった。
・さて、露西亜マタロス休息所は酒なども置いてぎにわう場所となった。ロシア人を揚げ
 ることをことわっていた丸山遊廓では、「ビリレフ」提督などの将校が、稲佐に家を借
 りて遊女を高級で引きとめはじめると、現金なもので、高級軍人だけを相手に遊女を送
 りはじめた。ロシア軍医の検梅を受けさせてうえで。
・このように、検梅はおろしや女郎衆とともに始まり、さらにおろしや女郎衆はからゆき
 さん発生へと結びついた。また検梅はやがてロシア人相手の娼妓だけではなく、外人を
 客にする女たちすべてが受けねばならなくなった。
・明治元(一八六八)年に、イギリスの医師「ニュウトン」のすすめによって、横浜に外
 人相手の娼妓たちの梅毒病院が建てられた。続いて小菅県(東京)の千住に旅籠屋の飯
 盛女のための梅毒院がつくられた。これは日本の男を客とする娼妓の検梅をするためで
 あった。国内向けのはじめての検梅であったが数カ月で中止となった。というのはこの
 病院の費用や雑用を旅籠屋が負担したり、また検梅を受ける娼妓たちへの思いやりに欠
 けたりしたためであった。その検査はほとんど公開にちかくて、だれでも見ることがで
 きたし、検査医もなれていないので、けがをする女たちがでたりしたのだった。
・同じ年の十二月には大阪でもはじめられた。それがどのような意識のもとでなされたの
 か、若い娼妓が検査を苦に自殺したりした。
・いっぽう政府は、「検梅をしないと娼妓渡世はさせない、そうなるとおまえたちは飢え
 て困るだろう」とおどした。おどしおしつけられて、娼妓たちは検梅を受けさせられた。
・十代になるやならずで貧しい家から送り出され娼妓になった娘たちは、なぜそのような
 ことが必要なのか納得できなかった。伝染予防のためという。が、その予防のためには
 客の検梅こそ必要だと感じたにちがいない。
・政府は検梅の先進国の様子を調べに行ったが、スウェーデンやロシアの規則には、娼妓
 の客の疾患の有無を下着その他によってあらためてのち、接することができる、という
 一条が入っていた。けれども日本は娼妓に客の品定めをさせるなど、とてもゆるせる国
 柄ではなかった。それに発病しているからといって男たるもの娼妓が買えぬなど、思い
 もよらぬことであった。
・娼妓のあいだにはなにかと噂が流れた。かの女らを不安にさせた噂は、外国人が日本の
 女に陰門開観をもとめるのは、からだのなかの真珠をぬきとるためだそうな、というも
 のであった。これをぬきとられた女は、命の精がぬけて長生きできないともいわれた。
・ロシア軍艦の乗組員のなかには農家や猟師の家のひとへやを借りて、おろしや女郎衆と
 日を送る者もいた。ひと月に五両もだして貧しい村びとをおどろかしたりした。村娘た
 ちはおろしや兵の世話をして稼ぎとした。
・ロシアはヨーロッパに良い軍港が持てず、やむなく日本海に面したウラジオストック
 使っていた。が、冬は氷ってしまうので、明治になってからも長く長崎港を利用した。
 そして明治三十一年に旅順を租借地としてから、ロシア艦は稲佐と縁どおくなった。
・稲佐郷からは、ごく早い時期にウラジオストックへ渡った人がいた。ロシアの軍艦はウ
 ラジオを母港としていたので、あるいは同行したものかもしれない。
・明治八年に外務省出仕の初の貿易事務官「瀬脇寿人」がウラジオに渡ったときには、も
 う日本人の女郎屋があった。その世話人に稲佐のものがいて、のちのちまで勢力をふる
 った。十四歳や十五歳でおりしや女郎衆となった村娘たちが、ロシア語をおぼえロシア
 人のなじみをもったとしたら、ウラジオはしたしいものに思えたろう。
・おろしや人の里シベリアは村の貧しいものにとって、からだひとつで荒稼ぎできるとこ
 ろとなっていった。稲佐遊廓にはシベリアがえりの人が貸座敷や料亭をひらいた。
・明治も二十年になるとウラジオの在留日本人は四千人から五千人へと増えていった。娼
 妓らは二百余人。そのころの女郎屋のボスは島原生まれの吉田万吉だった。 
・どの国の新開地も、独り身で働く男たちと娼婦によって開かれる。ウラジオはにぎやか
 なのは港近くばかり。あとは草原であった。ましてシベリアを奥に入るとからゆきさん
 は草原に吸われる虫たちのようにいくらいても足りなかった。
・ロシアはシベリアの広大な原野をひらいてヨーロッパ=ロシアとウラジオとをつなぐ鉄
 道を敷こうとしていた。たいへんな工事だった。世界の各地から貧しい男たちが工夫に
 雇われた。イタリア人、ドイツ人、清国人、朝鮮人、日本人などがロシア人とともに働
 いた。女は日本人と朝鮮人が多かった。ロシア女がいちばん価が高かった。
・工事の拠点地に女郎屋ができた。はるか奥地のストレチェンスクにも明治三十年ごろ二
 軒の女郎屋があって、からゆきさんがきもの姿で暮らしていた。
・ウラジオには朝鮮人が住むところがあり、そこにも娼街があった。朝鮮の国境の人びと
 も日本のからゆきのように、ロシアや清国の領土へと流れでていたのである。
・日清戦争のあとは日本も京城に兵を残した。そしていよいよ日露開戦まちがいなしとの
 噂が立ちだすと、シベリアにいる日本人は浮足だった。いっぽうヨーロッパ=ロシアが
 から派遣されたロシア兵は、除隊してもくにへ帰れずシベリアに足留めされた。からゆ
 きさんは戦争の噂におびえながら、これらの兵士をも相手に稼がせられた。そしていよ
 いよ日本人の総引き揚げの折りに、無惨な姿で敵地に取り残されたのだった。
・鉄道沿線は義和団やその名を借りた暴徒によって混乱した。清国人の排露感情によって
 ロシア守備隊や鉄道院は襲われた。ある村ではロシアの女は少女にいたるまで赤裸の死
 体となってころがった。まさに無政府状態となったのである。こんな状態のなかでも日
 本人女郎屋の主は商売をしようとした。また日本の国は清国領土をめぐってこのロシア
 と争うとしていた。
・日本人がシベリアを引上げるとき、ウラジオ本願寺別院に開教師として赴任していた
 「太田覚眠」という僧侶は、帰るにかえれぬからゆきさんたちを見捨てて引揚げるにし
 のびず、再三の説得をことわって残った。ウラジオにはすでに戒厳令がしかれ日本人の
 居住は許されなくなっていた。
・太田覚眠は朝鮮人に姿をかえて、ひそかにババロフスクにむかった。しかし、ブラゴエ
 シチェンに着いたとたんにロシア警官に捕らえられた。のこっていた三百人ほどの人び
 とも捕らえられ、はるばるとウラル山脈の北方に送られ、そこで監禁の日々をすごした。
 この日本人たちはおよそ十カ月ののち送還されたのだが、その数八百余人にもなってい
 た。
・シベリアへ渡ったからゆきさんには、娼妓のほかにロシア人の家庭の子守りとなった少
 女も少なくない。素朴な村娘のまま引きとられて、そのすなおなあたたかさが愛されて
 いた。この少女たちも日本人の総引揚げのときにかえされた。ロシアの子どもたちが別
 れを惜しんで少女にとりすがった。親たちがなだめすかしてもきこうとしない。
・村の女の子たちは、十歳をすぎるころから富農の家などに、子守りにでたりした。背に
 子をくくりつけられた姉妹が、それぞれの奉公先から木の下でおちあって、日がな一日
 遊ぶ話を、私も近くの老女から聞いたことがある。そのようなくらしぶりを、はるか北
 のシベリアでしていたのであろう。
・こうした娘っこも帰国した。帰ってゆく人びとに追いすがるようにして船に乗ったから
 ゆきさんは、くにをでたときのまま無一文だった。
・長崎は藩制時代のただひとつの貿易港だった。海のむこうのようすはみなここから国内
 にはいっていた。異人の居留地があるのもここだけだった。いきおい市井の人のくらし
 にも外国の影響が及ぶ。そのもっとも卑近な姿が混血児であった。
・あいのこ、異人の子、と呼ばれる混血児はおおむね遊女が産んだ子どもたちだった。そ
 の父は子を残して本国へ帰ってしまい、紅毛人をみなれた長崎でも、肌の白い目の青い
 子は、やはり肩身せまく生きた。
・もともと日本の村では母親だけの子は何かにつけて人なみに扱われぬきらいがあった。
 異人の子を産めば産んだものも生まれた子もつらい。ひそかに国の外に売られた。
・遊女の子は水子として流されることが多かったから、国の外へ売られるほどに育った異
 人の子は、枕宿といわれた街娼の子であったろう。
・周知のように長崎には唐人屋敷やオランダ屋敷があって、ここへ通うのは丸山遊女に限
 られていた。けれども幕末になるとそれは表向きのことになってしまい、市中に散宿す
 る外国人も増えたし、またそれを待つ女たちも多くなっていた。
・そしてそのころは遊女たちが産んだ混血児の扱いも、長崎奉行の達しによって変わって
 きていた。たとえばそれまで国の外へ連れ出すことは禁じられていたが、母親である遊
 女が反対しなければ、父親はその混血児を自分の国へ伴うことができるようになった。
 あるいはそれまで遊女は産んだ子を育てることはゆるされなかったが、父親である外人
 に異論がなければもらい受けることがゆるされた。
・このように混血児に対する扱いが変わったのは鎖国が解かれたためだが、生まれる子ど
 もが増えていたためでもある。そして父親も引きとらず遊女も育てることができない場
 合は、その混血児を十歳までは日本人として取扱い、市街に居住せしめ、十歳以上に達
 する時には外国人として居留地に居住せしめることと定められた。国外に売られた混血
 児はこのような引きとりてのない子どもたちであろう。
・明治三(一八七〇)年に長崎や島原地方から三十四人もの混血児が清国人に売られ、そ
 れが政府で問題となった。幼い子を売る風習は日本のどこにもあって、天秤で担って
 「子どもはいらんか」とふれ歩く人売りがいたころである。
・明治四年に太政官達として外国への人身売買が禁じられた。それでも清国人への幼児の
 売り渡しはやまない。これは国民が売るから清国人も買うのである。外国人の人買い業
 者を処分することができないので、子を手放す母親が責められたのだった。
 このように混血児は清国の人買いによってその国へ連れ去られていた。清国も日本と同
 じように幼い子を育てて妾や娼妓や下男として売買する風習があった。もっともその当
 時は清国や日本ばかりでなく、他の国でも幼児の売り買いがあった。ジャバでは市場に
 ならべて売られていたし、バタビアの新聞には子どもの売買広告が一九二〇年代になっ
 ても出ていた。
・清国人は上海の港を出て長崎へやってくる。長崎と上海とは、たがいに対岸の町であっ
 た。二つの町は石炭を焚いて走る船によって、陸上の道よりもなめらかな通路で結ばれ
 ていた。長崎港に近い高島の石炭山ではシーボルトが新技術を持ち込んで採掘をいそい
 でいたし、島原の口之津港には外国船が石炭の補給にやってきていた。
・遊女が、自分の産んだ混血児を直接清国人に手渡したわけではない。人売り業といわれ
 る口入屋が日本にはあったし、清国でも同じだった。そしてこの業者は人の売り買いを
 混血児や幼児にかぎっていたわけではない。明治のはじめの日本政府が娼妓となるのを
 禁じたのは十五歳までであったが、その年齢にならない娘たちも、似たみちを通って清
 国人の手に渡されていたことだろう。
・明治維新後は士族出身者の大道での見世物が目についた。行商も多かった。無頼の者と
 組んで娘たちを食いものにする者も見うけられた。
・明治十五年の上海には、もうおよそ七、八百人にのぼる日本娘が「東洋喫茶」で客を引
 いていた。
・上海から和船が入ってにぎわうのは浪ノ平の遊廓だった。ここの遊女屋は枕宿ふうの安
 手のところである。明治三年からは検梅を受けて外国人に接したが、人買いの船員や博
 徒や外人ゆきの遊女たちの酔声が飛び交うところだった。渡海の機会はいきらでもあっ
 たのである。
・からゆきという海外出稼ぎは、いかにせっぱつまった嬌声によって開かれたことか。さ
 しあたって身近な窓から飛び出さねば、家庭もろとも奈落へしずむ、と、知り抜いてい
 るものたちが、人も我もすくう思いで幻の僥倖にすがるように開いた道だった。
・そのような娘たちをどこよりも早くからかかえたのは上海だったろうと、思う。ウラジ
 オよりもおそらく早い時期から、より多くの日本娘や混血娘を住まわせたのではありま
 いか。明治十五年にすでに八百人である。
・みるみるのうちに日本娘が増えた上海では、日本領事がこれを国辱としてかの女たちを
 とらえ、本国に送り返した。明治十七、八年にかけておよそ五、六百人が帰されている。
 が、なお二百人がひそんでいた。

鎖の海
・長崎のオランダ通詞の記録によると、一隻に船にはオランダ人数人と、数十人の黒人水
 夫とが乗り込んでいる。この黒人は日本でもオランダ人と同じ扱いではなく、不自由な
 身分だった。かれら黒人がどういうことでオランダ人に使われるようになったのか。
・その貿易船はオランダ領ジャバから来ていた。一八一九(文政二)年に蘭領東印度会社
 が設立され、本国政府になりかわってアジアでの貿易を一手に引き受けていたころのこ
 とである。 
・このジャバにはヨーロッパ各地から女がきていた。日本のからゆきさんのように娼妓と
 して連れてこられた女たちである。当時、ヨーロッパの女の国際的な売買はさかんなも
 のだった。ついて一八八〇年代にはそれを禁じようとする各国有志の活動が起こるほど
 になった。奴隷売買は禁じられても、なおそのなごりのように人身売買はつづいて、ひ
 ろくアジアへも及んでいたのである。
・ハワイやアメリカにも、ずいぶんたくさんの日本娘がいた。たとえば、ハワイでは、ウ
 ラジオが二百人、上海が八百人ほどのころ、すでに二万人になっている。オーストラリ
 アでも日本娘の排斥運動が起こっていた。
・アメリカやハワイやオーストラリアへ行ったからゆきさんの多くは、横浜や神戸から出
 ている。
・横浜や神戸で樽詰めや箱詰めにされた娘たちは、アメリカの港でアメリカの船員などの
 手をへてそれぞれの稼ぎに落ち着いたことが裁判の報道で知れる。ここでは日本の遊廓
 とはちがって、欧米式娼妓の姿である。日本ではそれを自由娼妓などといったりしてい
 る。ベッド一つきりの個室に住み、道具に三味線をそえたりしたわびしい姿である。入
 口に「日本人おことわり」と紙をはっている。その数が増えに増え、日本式娼楼もでき
 て社会問題となった。
・日本娘をアメリカに密航させ売春を強要したかどで裁判にまわされた男のなかに、フラ
 ンク・ネビルスという警官がいた。かれはアメリカのある州の領事裁判にまわされたが、
 けっきょく無罪となった。合衆国には日本人の女の密航媒介をさばく法律はない、とい
 うことであった。
・もっとも、国際的な人身売買はアジア人同士でも古くからみられる。日本がそれをほし
 いままにしたのはかつての和寇である。が、そんなに古いことでなくとも、アジアの諸
 民族のあいだでの人の売り買いはしばしばあった。安南、ラオス、カンボジア、シャム、
 ビルマ、ジャバ、インドなどの民族、部族のあいだで。このような人身売買はいわば封
 建的なもので、売られたものは身分あるいは個人の私物となった。
・東南アジア各地がつぎつぎに植民地となり、新しい支配者として西欧人が入ってくると、
 人身売買の内容もかわってきた。植民地の本国政府は人身売買を禁止するが、禁止され
 たのは現地人同士の人身売買であった。そして西欧人によるアジア人の労働力としての
 人身売買が始まり出したのである。そしてからゆきさんは、植民地開発の労働力として
 連れてこられたアジア人の、足止めの役として受け入れられた。
・マライ英領海峡植民地の成立。香港の英国割譲。英領インド帝国の成立。仏領インドシ
 ナ連邦の成立。イギリスのビルマ併合。ボルネオの一部のイギリス保護領化。このどの
 地方にも西欧人が入ってきて生産がはじめられた。アジアの貧しいものたちが、ぞくぞ
 くと流れ込んだ。また強制的に連れてこられた。アジア人は道路建設や建築や農業や鉱
 業に使われた。各国の女たちが連れ込まれたし、中国人の場合は女ばかりでなく、貧し
 い男たちが「クーリー」として運ばれてきた。これらの人びとの扱いはひどいものであ
 ったから、ついに清国政府はシンガポールにクーリーの保護を目的として、華民保護局
 を設けた。一八八八(明治二十一)年のことである。しかし西欧人による清国人の売買
 はそれからもやくことがなかた。
・清国はアジアではまだ朝鮮に対する宗主国的な立場を保っており、その朝鮮の領有を虎
 視眈々とねらう日本とあらそっていた。けれどもそのいっぽうでは西欧植民地主義の暴
 威にさらされて、租借地をゆるしたり人びとを連れ出されたりしていたのである。日本
 はかろうじて不平等条約を結んで開国したが、やはりからゆきさんをはじめ、労働力を
 運び出されていた。
・ひとりひとりの村の娘や若者は、自分の未来を賭ける思いでからゆきをする。そして貧
 しいふるさとが、そのおかげでやっと、少しなかりうるおう。清国の娘や若者も同じ思
 いでくにを出たことだろう。アジアの貧しい人びとはみな同じように国の外へ流れ出て
 いたのである。
・アジアのどの国もその国民を保護するだけの力を持っていなかった。日本もその点では
 まったく同様であった。国の外へ出た人びとは、ことばも通わず風習もちがうはじめて
 の他国で、苦しみながら生きた。
・慶応四(一八六八)年、ハワイへ当時三百人と伝えられた男女が渡った。関東の農民が
 多かった。女がいなかったという説もあり、三十歳代の男を中心にして九人の女と一人
 の子供がまじっていたとも伝えられた。この人びとは、自分がどこへ働きにゆくのかを
 知らなかった。唐天竺の農村へ三カ年の年期奉公に行く、といっていた。
・ところが渡ってみて驚いた。出国も無許可のままであったが、渡った先の唐天竺には住
 む家もなければ食べ物の用意もない。それらは自分でせよ、という。賃金は支払われず、
 病人や飢える者がでた。帰してくれといえば自分で帰れという。作業は甘蔗労役であっ
 た。いよいよゆきづまって、死を申し合わせたりしている。中外新聞がこれを知って報
 道し、やっと一部の人が帰国した。
・明治二十七年になって、ようやく移民保護規則ができた。海外出稼ぎを政府は「移民」
 あるいは「労働移民」といった。保護規則を修正して、明治二十九年に移民保護法とし
 て公布した。これによって、からゆきは保護されることになった。逆にいえばそれまで
 まったく放っておかれたことになる。
・この移民保護法でからゆきの職業の範囲がきめられた。すべて肉体労働で、女のしごと
 は炊事や看護などにかぎられ、娼妓として稼ぐことや、娼楼の海外営業はゆるされない
 ことが、はっきりした。きめられた職業以外には旅券はだされないこととなった。
・それでも海外の諸国がアジア人労働者を使うときの条件も、送り出す国の「保護」もず
 さんで、からゆきはしばしば非道な目にあった。
・からゆきどんと、ふるさとは呼んできたけれど、女のからゆきも男のからゆきも、外務
 省とか警察とか海のむこうの雇用者とかに見捨てられ、神も仏もないありさまで、頼る
 ものは心中に湧きあがる不屈さだけであった。
・明治五(一八七二)年、横浜にペルーの帆船が入った。マカオからペルーへ向かう途中
 に船が破損して、修理のために寄ったのである。「マリア・ルス号」といった。この船
 に清国のクーリーが二百三十人あまり乗せられ、奴隷とかわらぬ取り扱いを受けている
 ことが、ひとりの脱出者をきっかけとして表面化した。このことを英国代理公使から知
 らせられた日本政府は、日本水域におけるはじめての国際的な事件として、裁判にかけ
 た。
・クーリーの移民契約は文字の読めない人びとをあざむくものであった。この審問中にマ
 リア・ルス号船長の弁護人は、この契約を奴隷売買とする日本の審議は違法である、な
 ぜなら日本の法律も奴隷売買を禁じてはいない、といい、その証拠として、遊女奉公の
 契約書と英国医師ニュウトンがひらいた横浜梅毒病院の報告書をだしたのである。
・遊女の契約を人身売買とみるようなことは、それまでの日本の社会にはなかったので、
 この指摘に日本の政府は狼狽した。ヨーロッパの国々では、ほとんどが管理売春を禁じ
 て、娼妓たちの自由売春だけを許可していた。日本政府は、すぐに芸娼妓を解放し娼楼
 を廃止させるということで裁判をすすめた。それは体外的な体面を保つためであったの
 だが、マリア・ルス号事件はその結果、ともかくも清国人クーリーの契約解消、本国送
 還ということに落ちついた。
・このいわばゆきがかり上の娼妓解放によって、江戸時代を通して続いていた遊廓はすべ
 て閉ざされ、ここに遊女制の伝統は終わったわけである。
・法令が出されて、一時は娼妓たちはみな遊里をでた。たいへんな喜びようであったとい
 う。かの女らは村むらへ帰っていった。が、やがて食べていけなくなって、とどのつま
 りはひそかに売春する者が増えていった。
・このときの解放令を世間では「牛馬きりほどきの令」といった。娼妓の旧習は廃止した
 政府だが、遊廓をなくすつもりはもとよりなかった。ただちに西欧の公娼制を検討させ、
 娼妓解放令に触れない形での公娼制再開に踏み切ることになった。それは、女が、場所
 を貸座敷業者から借りて自由意志で売春するのを、地方長官が認可するというもので、
 国はあずかり知らぬ形である。
・法的には人身売買による娼妓も公娼制も日本にはないこととなった。が、これで明治五
 年の娼妓解放令はまったく生かされない解放令として、生きつづけることになったので
 ある。
・海外出稼ぎに関する「移民保護法」が定められていた。それには、売春業者ならびに娼
 妓の渡航は認められてなかった。にもかかわらず、その後も関係者はいくらも海の向こ
 うに渡っていたのである。この法律には、じつは抜け道があった。移民保護法は、朝鮮
 と清国の両国には適用しないと決められていたのだ。したがってこのふたつの国へは女
 郎屋のおやじが女を連れていくらでも渡っていってよかった。またここを通って他の地
 方へと娘たちを移した。これは公娼制の輸出ではないのか。時あたかも、日本は朝鮮清
 国に侵略を始めている。
・日清戦争によって日本は台湾を植民地とした。それまで上海や香港へ送られていた娘た
 ちはここへ上陸させられるようになった。 
・ここへ渡る娘たちは、周旋人から、総督府ではハンカチづくりや縫物のために募集中で
 ある、などときかされて渡るのだった。そして業者はここで娘に台湾人のような衣服を
 着せて、ひそかに売春をさせた。
・わたしは思う。内地人の足を止めるために、「海外醜業婦」を黙認しつづけ、朝鮮、清
 国に移民保護法を適用せず、新領土に公娼制を必要としたのだと。この意図のもとに、
 やがて台湾の女たちが日本の男によって、東南アジアへ連れ出されるようになる。
・江戸の昔から朝鮮釜山には、交易のためにやってくる日本人の居留地があり、それは
 「倭館」とよばれた。港にはいつも大小の和船が数十艘入っていた。
・倭館はまちはずれにあった。日本の明治維新後はこの日本人居留地に朝鮮人の女が近づ
 くことを、朝鮮の国法は禁じた。日本人とまじわりをもつ女は、死刑とされた。この国
 法は日本人居留民にきわめて評判が悪かった。
・朝鮮は明治九(一八七六)年に日本と「江華島条約」を結んで不平等な開国を強いられ
 たうえ、大飢饉にみまわれて、国は乱れていた。村には餓死者が出たが、政府はなすす
 べを知らなかった。飢えた人びとは日本人居留地に食を求めてきた。ここには日本人が
 朝鮮で買いつけた食料の倉庫が並んでいた。女たちはそれを求めて夜になると人目をし
 のんでやってくるのである。
・飢えに苦しみ、ひもじさにたえかねて一椀のめぐみにすがりたくて、あるいは子どもら
 へ持ち帰りたくてやってくる。倭館内での朝鮮の女に対する日本人のいたぶりが目に浮
 かぶ。そしてその結果女が捕らえられ、無残な処刑にあった。
・日本でもたとえば島原では飢饉が続くと、どっとばかりに娘が売られた。島原よりも新
 潟など北国の身売りが人びとに知られている。
・身売りというのは口べらしであり、借金であった。飢えて、食べるものを異邦人に求め
 ていたぶられ、刑場に消える朝鮮の女たち。飢えて、養女に出されて美服をまとい、苦
 界に死にゆく日本の娘たち。どちらもこのような現実のなかで、国は諸外国と交流しは
 じめたのである。
・朝鮮は儒教の国。男女とも、どの階層も人前で肌をあらわすことがなかった。反対に日
 本では裸体での外出や混浴の禁止が明治維新の後繰り返し出されたが、容易に改まらぬ
 ほど、肌ぬぎはごく普通のことであった。
・つつしみ深い朝鮮では、二夫にまみえずの倫理が徹底していた。一夫多妻は日本と同じ
 であったが、いやしくも女たるもの、飢えるとも操を売るべきではなかった。寡婦は嫁
 がれず、嫁は十代で十歳に満たぬ夫のもとに嫁して夫を育てることが多かった。夫を背
 に負うて育てた女たちもいくらもいた。夫が長じて貯えた妾は、同じ邸内に同居してい
 た。
・朝鮮の男性にとって、強いられた開国によって礼節ととのわぬ野蛮な和人が入り込み、
 越中ひとつでうろつくさまは、さぞ堪えきれぬものがあったろう。また、さような非文
 明なものたちに、みだりに女が近づくことはわが身がけがれる思いであったにちがいな
 い。汚れた女に矢を刺そうと切り刻もうとゆるせぬ思いをぶちまけているのである。
・この朝鮮半島に欧米諸国の侵入は年とともにひどくなった。そして日本も、おくればせ
 ながらその仲間入りをはじめた。日清戦争日露戦争を起こしたのである。
・明治三十七(一九〇四)年二月に日本は対ロシア宣戦布告をして、朝鮮半島に兵を上げ
 て北上していった。その開戦の二年前、三十五年の門司港あらの密航は、英国船で香港
 へ、というのが圧倒的に多かった。ほかにはシンガポール、ウラジオなどへ向けて連れ
 出された。そして三十七年。ぱったりと密航はとまった。港という港は軍事態勢にはい
 って、さすがの密航業者もうごきがとれないようだった。
・ところが翌三十八年となると、朝鮮半島から奉天付近へかけて占領地がひろがって、か
 らゆきさんの誘拐密航がどっとはじまった。だれもかれも占領地をめざして、ひそかに
 国を出たのである。営利にめざとい業者は占領地へなだれるように少女たちを送ったの
 である。
・そして日露戦争後、門司港で発見される少女たちの密航先は多様になっていった。少女
 たちをひそかに上陸させる港を、日本人が開拓した様子が、あざやかに感じられた。密
 航先は大連、旅順、芝罘などをはじめとして、清国領土がふえた。
・男のあそびのために買われる少女たちだが、それでもかの女らの媚態によってわが身を
 居直らせることもできる。その媚態すら、朝鮮人や清国人には増悪のまととなる侵略地、
 そこへむけて素肌の子らがいくらも送られるのである。
・わたしは、あるからゆきさんが「日本の男より西洋人の男のほうがよっぽどおなごにや
 さしかばい。わしらがすかんということは、むりにゃせんもん」といったことばにひそ
 んでいた、かの女のささやかな開眼を思い出す。 
・朝鮮は明治三十(一八九七)年に国号を韓国と改めていた。日本の侵略が深まるにつれ
 て排日意識が高まり、各地で農民の日本人排斥がつづいた。その韓国で、京城在留邦人
 の数人が資金を持ち寄り、遊廓の許可を受けた。かれらは釜山、仁川、京城に遊里を開
 いた。公娼制の開始であった。
・第二次日韓協約が締結されたのは日露戦争後の明治三十八年十一月である。日本の総督
・府が京城に設けられたのはその後である。とすればこの公娼制は総督府の設立前である。
・戦争終結後のあと日本軍隊が京城に集まり、仁川から船で帰国したこともあって両市に
 公娼私娼の家々が軒をならべてた。京城の遊廓は、戦後二年目には十一軒の娼楼に娼妓
 百五、六十人となった。清韓人相手の店と日本人を客とする店とにわかれていた。
・日露戦争前は三千人あまりであった京城の日本人は戦後二万人に達し、居留地はせなく
 なった。韓国政府は南大門からじりじりと居留地外へあふれだす日本人の始末に困り、
 思い切って城壁をとりはらった。日本側の要求に屈したのであろう。
・女たちの誘拐は、韓国まで漁船でも渡れる距離にある山口、福岡両県からがやはり多い。
・釜山の居留民は一万をこえた。戸数は二千あまり、日本人居留地倭館はまるで日本内地
 さながらとなった。ここは生活費が高かったので、渡韓者は釜山の北方にある都市大邱 
 に集まった。一年のあいだに日本人は千数百人も増えて、やがて二千人を超える日本人
・ がたむろした。鉄道工夫と娼婦が多かった。
・このころは日本内地は戦後の不況にみまわれていた。幾度か飢饉もあった。農村から都
 市へ流れ出る人も多く、仕事を求めて渡韓する者も後をたたないのだった。また貧農を
 数百人ずつ植民させる県もあった。
・これに対する韓国人の反日抗日の激しさは、日本の一揆の比ではない。それは農民軍と
 呼ぶのがふさわしい全村あげて組織されたものである。各地に蜂起し、武器のない農民
 は農具で打ちこわしをした。指導者は処刑され同調者は処罰されたが止むことがない。
 日本人があちこちで襲われた。
・農民の蜂起は息づまるばかりに続いた。この半島を遊廓は北上していった。明治四十三
 年八月、日韓併合成るその直後から関釜連絡船は、からゆきならぬ娼妓で満ちていた。

慟哭の土
・綾さんから電話があり、おキミが精神科の病院に入ったことを知らされた。
・おキミは李慶春の養女として咸鏡北道出身の李の戸籍に入っていたが、綾さんを養女に
 迎えたとき、日本内地の戸籍にかえった。かえったといっても、その生まれた里の親の
 もとに戻ったわけではない。八方奔走して某氏名義の戸籍に入籍したのである。
・綾さんはおキミが世話をしていた娼楼にいた娼妓の子である。おキミを見受けした男は、
 おキミの後つぎつぎに女たちを引き抜いて娼家をひらかせた。おキミを第二夫人とし、
 第七夫人までかかえた。綾さんの実の母はその男の第七夫人で、七人の女たちのなかで
 ただひとり子を産むことを許された人であった。
・綾さんの実母は綾さんが三つのとき、朝鮮と清国の国境の町で亡くなった。
・おキミは娼楼でつとめつつ自分が二十歳になる姿を想像することができなかったという。
 だれもかれも少女らは二十歳になる前に息を引きとっていたからである。娼楼とは、山
 を切りくずして鉄道を敷設する工事の先ざきに設けられた山小屋であった。
・おキミが到着したことは朝鮮を横断する京釜線、京義線は敷設されていた。おキミは国
 境近くへ連れていかれ、そこからさらに山の中へと運ばれた。
・おキミたちの大半が二十歳にならぬまま息を引きとったのは、その娼楼での買われ方に
 あった。
・朝鮮は独立を奪われ、他国によって勝手きままにそのすべてを踏みにじられつつあった。
 鉄道敷設は、いわば、その象徴だった。それは朝鮮人のために敷設されるのではない。
 直民たちが渡って来るためのものであった。他国の軍隊が入り込み、全面支配をするた
 めのものだった。
・朝鮮における鉄道敷設は、一九〇一(明治三十四)年、李氏朝鮮の政府によって始めら
 れた。やがて朝鮮鉄道の敷設権はじりじりと日本人の手に握られるようになっていった。
 そして日露戦争の直前からおおぜいの朝鮮人がその工事に使われだしたのである。日本
 人工夫もたくさんまじっていた。
・朝鮮人工夫は日本人の監督に指図されていた。日本人工夫は背中いちめんに刺青をして
 いる者が多く、粗暴であった。おキミは朝鮮人が性欲を満たすためにこの娼楼にあがり
 こむことには堪え得た。けれども朝鮮人にはそうでない者もいた。かれらは四、五人で
 おキミを朝まで買いきって、酒を飲ませた。取り囲んで座をたたせなかった。買った以
 上はその意のままにさせた。
・かれらは家や土地を売り、山を越えて日本人の女を買いに来るのである。性欲を満たす
 ためではない。もっと根深い渇きをもって、おキミたちを苦しめた。そこには日本人へ
 の増悪がむきだしだった。
・おキミは工夫相手の山の中の娼楼で、数人の朝鮮人に買われた夜は、性をひさくにとど
 まらず、胸の奥にしまっていた最後の誇りまでも買いとられていた。おキミは、二十歳
 がやってくる前に自分は死んでいるんだ、早く死にたい、と思った。
・少女たちが死ぬと李慶春はその補充に内地へ行った。二十九人の少女が一度に死んだこ
 とがあった。李慶春はあわてて内地へ行き、すぎに補充した。
・おキミは二年あまり経って少女たちの「ねえさん」にさせられた。新しく入って来た子
 の面倒をみさせられたのである。なによりも気を使ったのは、少女たちの妊娠であった。
 おキミは三十人をこえる少女たちの生理を毎朝たずねて、順調にあるかどうかを聞いた。
 避妊は洗浄によった。クレゾール易を大きな桶に入れておいて、ゴム管をさげて使った。
 新入りの子は、つききりで教えねばならなかった。生理が止まった子は、いちはつや、
 つわぶきの根をすりおろして、ガーゼを一寸角に切ったものに包み、子宮口にあててや
 った。一日中そのままにしておく。そして月経不純用の漢方薬も飲ませた。
・昔、中国の「宮刑」は死刑につぐ重刑だった。宮刑を受けた宦官がその断種によって、
 どのようにゆがんだ性情を史上に及ぼしたかをわたしたちは見てきている。おキミたち
 の子おろしは女のもっとも残酷な断種の刑だと、わたしはからゆきさんの心を握りしめ
 る。
・小屋についたばかりの子で、まだ十三歳十四歳という子は、洗浄ばかりでなく、酒の飲
 み方や寝床のことまで手をとって教えねばならなかった。まだ生理の始まらぬ少女もい
 た。おキミは泣きじゃくる子を自分の体の上に男のかわりにのせて、なだめすかしつつ
 夜ごと労働を教えた。ときに、ともに泣きだした。少女たちには限界を越える労働であ
 った。
・おキミは綾さんを養女にし、かの女が長じて愛を知り、結ばれてしあわせな家庭を持っ
 てからは、その家庭のやさしい母であり祖母であった。が家族たちが出はらって二人き
 りになると、形相をかえてしまう。
・咸鏡線建設工事はまことに難工事であったというロシア革命によってウラジオのほうか
 ら多くのロシアの女たちが流れてきて、国境の町々に日朝華露の娼家が並んだとおキミ
 は語った。当時の新聞にもアメリカ人がロシア女を売買したりしたことが出ていたりす
 る。
・日露戦争がたけなわの明治三十八(一九〇五)年二月、占領地の大連に民間人の渡航が
 ゆるされた。商工業者が七、八百人渡った。が、旅館の数がまだ少なくて、わずかに大
 連ホテルと遼東ホテルが開いているだけだった。人びとはやむをえず民家を借りて住ん
 だ。それが夏へ向かう頃には料理屋七十軒あまり、娼妓八百人と膨れあがった。これら
 の店には前線へ出る軍人やそこから帰って来た兵士たちが出入りし、豪遊した。
・大連はもとダルニーといっていたのだが、日本軍が占領したのち明治三十八年に遼東守
 備軍命によって大連とあらためられた。
・ロシアが租借地としていたころ、清国人クーリーの引き留め策として、劇場と遊廓がお
 かれていた。その当時もここに送られてくるからゆきさんがいた。開戦直前の娼妓は、
 日本人は四十人ほどで、清国人は二百人あまり、ロシア人が十余人、そして朝鮮人は七
 人くらのものだった。 
・大連に渡るには陸軍省の許可がいるためか、密航が多くなった。そのころ門司で見つけ
 られた少女たちは、数多い順から、愛媛、高知、広島、山口、福岡、佐賀、長崎、大分、
 熊本となっている。誘拐者は広島、愛媛、福岡、長崎の者であった。
・大連は遼東守備軍が治めていたが、その年の末になって、遊廓がたちはじめた。このこ
 ろともなれば大連を中心にして各地に連れてこられた女の数は三万にものぼった。
・私生児や死産が増え、私生児は清国人に売られた。手のほどこしようのない惨状が娘た
 ちの上にふりかかった。まちのごみ捨て場をあさりながら病娼が歩いた。まだ十四、五
 歳の少女もいた。講和条約が結ばれた後の大連は日本の租借地となったわけだが、それ
 はこうしたひどい姿で、それは旧満州の全域にひろがったのである。
・日露戦争や日韓併合の後フィリピンでは、日本はつぎにフィリピンを狙っていると噂す
 るものたちがいた。アジアの人びとは日本が国力をのばして、アジアから西欧人を追い
 払うものと考えていたがみごとに裏切られて、日本への警戒を強めた。南方の華僑たち
 による日本商品のボイコット運動が激しくなって、日本人の娼楼も影響を受けた。西欧
 の植民地を流亡するさまざまなアジア人のひとりとしてこの地域で苦しんでいたからゆ
 きさんが、いままでとちがった目で見られはじめた。女という生きものにすぎない、無
 国籍な状態のからゆきさんが、日本の女として見られだしたのだった。
・大連は植民地都市としての建設がすすんでいった。港には各地から運ばれてきた大豆の
 山ができた。満州鉄道は日本の管理のもとで人や物を運んだ。だれもこの新領土をさま
 よう芸妓をおもうひまなどなかった。ただわずかに大連青年会の人びとが、病娼を引き
 とり婦人ホームを設けて保護していた。
・その婦人ホームは青年会の主事「益富政助」が中心になって運営していたものだった。 
 かれらはまだ日露戦争のころ、十三、四歳の少女があまりに悲惨だと、娼楼から引きと
 ると東京の救世軍の婦人ホームへ送りとどけた。ほかには国内にもかの女たちを保護す
 る機関はなかった。青年会はその後も引き続いてかの女たちを保護していた。が、東京
 へ送る費用と手間にことかくのと、保護せねばならぬ少女が多いこともあった、この仕
 事は明治三十九年四月に救世軍の手にわたした。救世軍はこれを大連婦人救済所と改称
 した。その後一年半の間に収容された娘の数は二百三十六人になった。十二歳、十三歳
 の子らもまじっていた。この救済所のことは近郊のからゆきさんたちに知れ渡っていた
 ので、ここへ飛び込み救いを求めた娘がたくさんいた。
・前借にかかわらず娼妓をよしてしまうことを、自由廃業といった。それは救世軍や新聞
 のキャンペーンなどの危険をいとわぬ運動に助けられて、早くから国内で始まっていた。
 それがこうして国の外でもなされたのは、自由廃業が娼妓たちの夢であったことと、こ
 こまでその運動をすすめる人びとが出かけていたことによる。けれども娼妓をとりまく
 暮らしは貧しく、かた公娼制度を国が認めていたから、それは容易ではなかったのであ
 る。
・警察に逃げ込んだ娘たちもいた。旅順でのことである。少女たちは堪えかねて、こっそ
 りと楼をぬけて警察へ訴えたのである。ところが警察は馬耳東風とあしらうのみか、既
 に戸籍謄本さえ差し出しての上ならば、少女たちに一言の文句もあるべき筈なしと、少
 女たちを叱った。論理的には文句のいいようのない契約であったので、警察ではいつも
 こうして女たちを追い返したのである。もっとも楼主らも警官に揚げ代なしに女を与え
 ることを忘れなかった。
・日本の公娼制はわたしたちのはるか祖先から、代々伝わってきたものである。それは明
 治維新になっても、少しも変わらなかった。日露戦争の後は国の外へひろがり、第二次
 大戦で日本が敗れてもなお生き残り続けていたものである。
・大連にはサラリーマンが増えていった。「唐天竺」はいまや日本の政府が支配する植民
 地である。高級官民が遊ぶ華麗な遊里がととのった。しかし、その裏街には、公娼から
 はずされた女たちが私娼となってひそんでいた。病娼たちはふるさとへ帰され、時には
 内地の港や駅に捨てられた。大連の婦人救済所には娘たちが、払い下げの野戦毛布にく
 るまって横たわっていた。
・おキミは朝鮮の北の果て、国境近くの娼街に入っていた。日本海側を走る鉄道の工事に
 かかわることなり、日本娘を増やさねばならなかった。工夫に雇われるのは、朝鮮人の
 男が大半で、朝鮮や清国の女では商売にならなかった。かれらは、日本人の監督に酷使、
 というより虐待され、おまけに工事は難渋をきわめた。だれも気がたっており、朝鮮人
 工夫は、日本娘を買って恨みをはらした。
・からゆきさんは、その意志にかかわらぬ思わぬ境遇に入っていった。朝鮮人として売ら
 れたり、台湾娘に仕立てられたり、またはおキミたちのように国の政策のおもむくまま
 に、圧迫されるアジア人の人びとへの人身御供に使われたりした。あるいは、ふるさと
 の村しか知らぬまま海を渡り、スパイの疑いをかけられて投獄された。
・明治四十三(一九一〇)年、大連に近い港町、旅順では朝鮮の独立運動に尽くした「
 重根
」の裁判があった。かれの公判には、初代韓国統監、伊藤博文を狙撃した犯人をひ
 と目みようと、大連の日本人がおおぜいつめかけた。安重根はおキミが連れていかれた
 朝鮮北部の生まれであったが、土地を失い、故郷から流れ出ていた。かれは奪われた故
 国について、旅順の法廷で意見の述べた。統監政治の侵略性について論じた。
・からゆきさんは無数の安重根に接したはずである。安とともに独立運動をしていて、伊
 藤博文が撃たれた後、容疑者のひとりとして捕らえられた金某の妻は、長崎県島原生ま
 れのお米だった。おキミさんの養父となった李慶春や、かの女たちを買いにきた朝鮮人
 工夫たちもその感情は地下茎のように安重根へつながっていたことだろう。そしてかの
 女たちはたくさんの安重根や李慶春の、奪われた独立への慟哭によって圧しつぶされた。
・日露戦争のときに日本軍の電線を切って死刑になった七人の清国人のその頭領、陳宝昌 
 の妻ユキは、大分県北海郡佐志生村生まれだった。
・大連より早く植民地になった台湾では、日本人を襲って殺害した蔡清林という男がいた。
 その愛妾は佐賀県杵島郡六角村出身のおトシだった。
・ブラゴエシチェンスクには、満州お菊とよばれる馬賊の頭がいた。天草の出だった。京
 城の料理家に幼い頃売られ、あちこちを流れていた女で、いくつかの馬賊グループの頭
 目格だった。
・安重根も言った。日本が朝鮮の独立を約していたので自分ら同志は日露の役に全力を傾
 けたと。からゆきさんも海の外で、いまは孤独なからゆきだが、あのふるさとが、日本
 と名のってもうすぐこのあたりまで来ると感じた。日露戦争の時は、海外の娼妓たちは
 献金に応じ、せめてそれで日本と名のり出したふるさとと結びつこうとした。ロシア兵
 を客にして、それでも日本と結びつこうとした。国内でも芸娼妓はわれさきに献金した。
 それは自分が名のりをあげる思いに近かった。
・けれども戦争の後、からゆきさんも安重根もそれが幻想だったことを思い知らされる。
 からゆきさんのふるさとと、日本の国とは別ものだったのである。

おくにことば
・日露戦争のあとの炭坑の生活苦は天草ばかりではなかった。石炭は戦後の販路をひろげ
 て、上海やシンガポールへも輸出されるようになったが、戦時中に出炭を急いだ反動で、
 坑夫たちに仕事は少なかった。父も母も子どもも、家族ぜんぶが坑内で働いていたが、
 仕事が少なくなり、娘坑夫が炭坑の外に奉公にでた。
・炭坑の娘ばかりではない。日露戦争は世界中に、極東の小さな島国の日本が、思いがけ
 ぬ国力を持つことを知らせたが、戦後の暮らしはだれも楽ではなかった。
・炭坑の作業は熱帯にまさつともおとらぬ熱気の中でのものである。まっくらな、いつも
 死の恐怖におびやかされた孤独な現場でおこなわれる。その地面の下の、じめじめした
 暗闇を這いまわって、少女も石炭を掘った。背を引綱でくいやぶられ、膿をながしなが
 ら掘った石炭を地上まで出した。
・からゆきさんのなかには、炭坑から連れ出される娘もいたが、この背にできた傷跡や、
 百姓や漁師の娘よりもぶこつな手足のために、誘惑者が引きとらなかった例があるほど
 で、新聞では密航もできぬ炭坑婦とわらわれた。 
・大正のはじめごろ、英領北ボルネオに、行商にいく日本人がしばしば世話になる華僑の
 家があった。女房はおフネといった。エン・ワットとよぶ夫といっしょに食料品を商っ
 ていたが、この家には子どもがたいそういた。十歳にならぬ子らが五、六人走りまわっ
 ていた。混血の子らで、みな、だれかが産んだ子どもたちを引きとったのだった。おお
 ぜいの子どもにとりまかれて夫婦はにこにこしていた。ことさらわけあって子らをもら
 っているのではありません、と、おフネは言った。
・このおフネ夫婦の姿は、ある意味で、からゆきさんの理想像のようにも見えてくる。か
 らゆきをするのは、ふるさとへの送金が目的である。それでもふるさとの親たちがなん
 とか食べてゆけるようになると、だれもわが身の行く末を案じだす。一度は里がえりを
 するが。
・かの女らは永久に口べらしの道をあるかねばならない。出稼ぎから移住へと生きねばな
 らない。落ち着き先を心にさがす女たちに、ふるさとの水は合わなくなるのだろう。な
 がらく、国の外にいて、数カ国のことばを話すようになり、心に描くふるさとと現実の
 故郷とはどこかがくちちがってくるのだろう。そんな女にとって、おフネ夫婦の生き方
 には心ひかれるものがあったのではあるまいか。
・他郷へむかってためらわぬ気質は今となってはめずらしくない。けれどもかつての村々
 は、村の境に、さえの神を祀って異郷のわざわいが入ってくるのを防いだほど、村の外
 に対して心を閉ざしていた。
・貧しい村は日本にはいくらもある。が、からゆきをごく自然なこととして、プノンペン
 だとかカンボズだとか、聞きなれぬ地名が日常にとけこんでいる土地はそう多くはない。
 からゆきには経済的な理由がなによりも大きいけれど、それ以上に貧しさを海外出稼ぎ
 で乗り越えようとした村々の気質に、わたしは思いを馳せる。
・天草は近世のころも、そのあと明治に入っても、堕胎や殺児がなかったという。日本の
 村々はどこでもそのような間引きをして人工をととのえてきた。でもここはその風習が
 なかったという。殺児のならわしがなかったのは、この天草や島原がキリシタンの聖地
 だったからだと考えられる。
・天草は、明治までは天領だった。どの地方の天領もそれぞれ特色をもっていたが、天草
 では武士によって直接に支配されることがないかわり、村々の暮らしを左右したのは、
 銀主たちだった。かれらは長崎を取引きの場とする商業の独占階級だった。城のような
 大きな館に住んでいた。天草の土地は数人の銀主たちによって占有されていた。
・この銀主たちに天草はあやつられながら明治維新を迎えた。百姓一揆や打ちこわし、強
 訴などの多くは銀主の横暴に対するものであった。これらのことを考え合わせると、そ
 れがすべてではないにせよ、この天草から唐天竺をおそれず海をこえた人びとをたくさ
 ん出したのもうなずけるのである。
・からゆきさんが海をこえだしたころ、九州を中心にして、別の一群がやはり国を出はじ
 めていた。志士と自称する人びとである。かれらを大陸浪人とよんだ人もいた。臣とし
 てつかえたい天皇を新政権にひとりじめされて、志を得ぬところの、「西南の役」の敗
 者たちだった。かれらは浪々の身でアジアの現状を調べて、新君主につくそうとしてい
 た。その意図は純粋、一般に支配権力に対して野心をもっているわけではなかった。か
 れらは、政府の政策は、日本を取り巻く状況を正しくみていない、西欧に追従していて、
 国を危機に陥らせるおそれがある、と考えていた。
・かれらの活動が具体的になるのは、韓国の政客「金玉均」の亡命の援助からである。金
 玉均は日本公使らと密約したクーデターに失敗して日本に亡命したが、日本政府は清国
 やロシアの動向をうかがってかれを冷遇したので、福岡にあった玄洋社関係の人びとが
 支援したのだった。
・日清戦争から三国干渉にかけては、ことに多くの志士が大陸の奥地へ入り込んだ。ロシ
 アと清国と朝鮮の関係が、そのころの日本のもっとも切実な国際問題であったから、一
 命を捨てて君主にむくいる覚悟をしていたのである。
・鎖国の続いていた日本から、独力で海を越えて、だれも知らない他国へいく人びとは、
 国を憂うこれらの志士と、貧しい村の人びとだけだった。そして、それぞれなにがしか
 の幻想を抱いて、いずれはそれが現実となることを願っていた。
・思えば奇怪なことである。かつて特権階級であった士族の一部が、その特権階級を時流
 に生かせなくて海を渡り、いっぽう、かれらに無視された貧しい人びとが、いまこそ夢
 をみのせらせようと、海を越えていた。志士たちは天皇の国に幻想を持ち、からゆきは
 ふるさとのしあわせにまつわる幻想をいだいていた。
・次元のまるで異にするこれらふたつのからゆきが、それでも、ふと相まみえたときがあ
 った。海を越えた志士たちは、からゆきさんが働く娼楼を足がかりにしたのである。
・たくさんの志士たちのなかで、「宮崎滔天」と「内田良平」とは、どちらも九州の生ま
 れで同じころ相ついで運動に踏み込んでいる。内田良平の身近な人に、からゆきさんが
 いて、多くの志士が世話になった。
・明治三十(一八九七)年に内田良平が「中野二郎」とともに、シベリアを横断したとき
 には、黒竜江を舟でさかのぼれるかぎりの奥地にまで日本人の娼楼があり、はるばると
 やってきたかれらを世話した。
・北にも南にも、ひろいアジアのいたるところに日本娘がいて、かれらに不自由させなか
 った。からゆきさんはかれらにまめまめしくつかえている。けれども、結局それは、青
 楼にのぼる客たちへの心づかいにすぎない。
・ふたつのからゆきは、相まじわるかのように見えながら、ついにひとつになることはな
 かったのである。からゆきさんにとってクニは、ふるさとであった。志士たちは、ふる
 さとを棄てて、一身をかえりみることなく、天下国家を憂う特権にひたっていた。
・からゆきさんは誘拐者の口車にうかうかとのっているようだが、一般に国内の出稼ぎも
 口入屋を通すほかにすべのない時代である。まして海の外へのさそいは、だまされるか
 もしれなくとも、そこを踏み越えねば、道が開かれぬ。そののっぴきならぬ立場にたっ
 ても、なお心に夢をいだいていた娘たちのその幻想を思いやる。おなごのしごとをして
 もなお、その苦海を泳ぎわたって生活の場を築こうとした人びとの、切ないまなざしを
 感ずる。
・そのかたちなき心の気配。そのなかへ入ってからゆきを感じとらねば、売り飛ばされた
 からゆきさんは二度ころされてしまう。一度は管理売春のおやじや公娼制をしいた国に
 よって。二度目は、村むすめのおおらかな人間愛を失ってしまったわたしによって。