花埋み  :渡辺淳一

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この作品は、今から51年前の1970年に発表されたもので、この作者の作品の中では
比較的初期の作品である。内容は、日本最初の女医と言われる「荻野吟子」の波瀾に満ち
た生涯を描いたものである。
荻野吟子は今から170年前に1851年に現在の埼玉県熊谷市俵瀬の農家に生まれた。
17才で嫁いだが、夫から淋病をうつされ離婚した。治療のため上京して順天堂病院に入
院するが、そこで担当した男性の医者はもちろん、十人もの若い男性の医学研修生の前で
脚を開かされ恥部を覗き見られるという人生最大の屈辱を体験した。
そのことがきっかけで、同じ屈辱に苦しむ女性たちを救いたいと、女医になることを決意
した。しかし、当時の制度では、女性が医者になることは、まず不可能だった。
それでも吟子の女医になるという信念は堅くゆるぎなかった。次々と厚い壁を突破してい
き、そしてついにそれまでは女性は受験することすらできなかった医術開業試験に合格し、
女医第一号となったのである。
こうして吟子は産婦人科荻野医院を開業した。まさに吟子前半生の頂点であった。吟子は
まもなく、医者という職業に限界を感じはじめた。貧困とか社会制度とか習慣といったも
のを改めない限り、医者がいくら頑張ってもどうにもならないと感じたのである。そして
キリスト教に関心を持ち始めたのである。キリス教に入信するとともに、教会を通じて社
会運動に参加するようになっていった。やがて吟子は、女権そのものの獲得運動を指導す
る立場になっていった。このまま進めば、吟子は明治の女性史のみならず、明治史そのも
のにも偉大な先達者として名を残したに違いない。
ここまではよかった。しかし、そのあとがいけなかった。
それまで「男は横暴で身勝手で獣のようなもの」と頑なに男に対して拒絶心を持ち続けて
きた吟子だったが、突然心変わりして十三歳年下の若い男に恋心を抱き、ついには周囲の
人々の反対を押し切って結婚までしてしまったのである。他の追従を許さないほどの猛勉
強を続けて女医になった吟子であったが、男との恋に関してはまったく幼すぎたようだ。
あれほど男に対して強い敵対心を持ち、男に依存しない自立した女性を目ざしてきた吟子
が、それが果たせた途端、どうしたことか、すっかり男に自分の人生を委ねる古い妻の立
場に依存する女に戻ってしまった。
ここから吟子の転落人生が始まった。再婚した男は、理想は高く情熱家であったが、世間
知らずで思慮も浅く、人生を切り拓いていく力はまったくなかった。理想郷を造ると夢見
る男であったが、理想郷どころか地獄へと吟子を引きずり込んでいったのだ。
吟子ほどの知性に長けた人物が、どうしてもっと合理的な判断ができなかったのか。恋は
盲目と言うが、それだけでは済まされないような、決定的な判断ミスを吟子はどうしてし
てしまったのか。ほんとうに残念でならない気持ちにさせられた。
この本を読んで感じたのは、宗教ってなんだろうと、つくづく考えさせられたことだった。
宗教のために人生を台無しにさせられたり、宗教のために戦争をし合ったりもする。宗教
って、ほんとうに人間を幸福にするものなのだろうか。私にとって宗教は、やはり決して
近づきたくない代物である。
この作品は、2019年に「一粒の麦 荻野吟子の生涯」として映画化されているようだ。
機会があったらぜひ観てみたいものだ。また、熊谷市には「荻野吟子記念館」もあるよう
だ。機会があったら訪ねてみたい。
なお、この作品のなかに「森有礼」に捨てられたという「静子」という女性の話が出てく
る。この話は、以前読んだ「鹿鳴館貴婦人考」(近藤富枝著)という本にもこの話が出て
いた。実は、私がこの荻野吟子という人物を知ったのは、この「鹿鳴館貴婦人考」がきっ
かけだった。



・俵瀬村の名主、荻野綾三郎の家は麦畑のほぼ中程にあった。この一帯は荻野姓が多い。
 いずれも総本家は足利家氏の流れをくむくるま家で。家紋も足利家と同じ丸に二つ引き
 である。その中でも綾三郎の家は上の荻野と呼ばれ、下の荻野と並んで最も由緒正しく、
  農家であるのに服から苗字帯刀を許されていた。
・当主の綾三郎は今年五十三歳だが、三年前から頑固な関節痛に悩まされ、奥の部屋でほ
 とんど寝たきりの生活を送っていた。長男の保坪は二十四歳で独り身な上に農業はあま
 り関心がなかったので、実際に家を取りしきっているのは四十五歳になる老妻のかよで
 あった。
・かよは小柄で眼元の涼しい賢妻であった。俵瀬一番屋敷という名に漏れず、堅実に家を
 とり仕切り、危なげなく荻野の家を守っていた。
・子供は男の子は保坪と増平の二人だけで、あとの五人は女ばかりだった。五人ともすで
 に嫁いでいたが、かよの聡明さを受けてか、女の子はいずれも読み書きに優れ賢く美し
 かった。
・だが、荻野家に、近頃奇妙な噂が流れていた。三年前、この八里先の川上村の豪農、稲
 村家の長子、貫一郎へ嫁いだばかりの五女のぎんが嫁ぎ先から戻ってきているという。
 それも軽い里帰りとか、お産のため、というのでもない。ただ一人風呂敷包み一つ持っ
 て帰ってきたというのである。しかもそのまま居続けてすでに半月近くになるという。
・何の変りようもない田舎である。東京こそ、御一新になり明治政府ができ、天皇さまが
 京都から東京へ移られた、と目まぐるしく動いていたが、その余波はこの北埼玉までは
 まだ及んでいなかった。
・明治初年の保守的な農村で、嫁が実家に逃げ帰るなどということは考えられない。人々
 はあちこちで荻野の家のことを話し始めた。今まで輝くばかりに一点の曇りもなかった
 名家だけに、この噂はたちまちみなの興味を煽った。
・閉ざされた農村だけあって人々の目は鋭い。かよがどう振舞おうと、噂は一向に治まる
 気配はなかった。もちろんその噂をかよは知らぬけではなかった。好奇心と同情の入り
 交じった村人の眼をかよは感じていた。 


・「それで、ぎんは今どこにいるのです?」友子は久しぶりに訪ねた挨拶もそこそこにか
 よに尋ねた。友子はぎんのすぐ上の姉で年齢は四つ違いだった。五年前に熊谷の神官の
 家に後妻として嫁いでいたが、二日前、折り入って相談したいというかよからの便りを
 受けて今朝早く熊谷を発って俵瀬に来たのだった。相談というのはもちろんぎんのこと
 であった。
・万年翁は友子が嫁ぐ前から俵瀬の実家に出入りしていた漢学者で、友子も兄の保坪に交
 じって読み書きを教わったことがある。江戸の「寺門静軒」の門下で十年前から俵瀬へ
 来て娘の荻江とともに村塾を開いていた。
・当時の漢学者の多くがそうであったように万年翁も漢方医の心得があって、この辺り一
 帯の医師も兼ねていた。 
・茶の間にはかよと友子の他は誰もいない。それを見定めてからかよが少し顔を近づけて
 言った。「膿淋だとおっしゃるのです」
・膿淋とは漢方での言葉で、現在でいう淋疾をさす。高熱とともに激しい局所の痛みと、
 排尿通がある。梅毒と並び称される性病であることは言うまでもない。今でこそ淋疾は
 ペニシリン、クロマイといった抗生物質が出来てさして怖い病気ではなくなったが、サ
 ルファ剤さえなかった当時としては一生治りきれない業病であった。
・淋疾にかかった婦人の大半は不妊症になったが、それは今もあまり変らない。
・嫁の方から婚家をとび出してくるなどということは友子にはとうてい考えられない。し
 かも食うに困る水呑百姓ならいざ知らず、相手は北埼玉でも指折りの大家である。妹の
 不行跡はすぐ親戚縁者としての自分にも及んでくる。友子は他人事ではなかった。
・話があった時、かよはいい縁談だと飛びついた。決定にぎんの気持ちはかけらほども入
 っていない。言われたとおり、つくられたとおりの結婚であったが、それでも世間は通
 っていた。
・「私が迂闊でした」かよは軽く目をおさえた。ぎんだけを責めるわけにはいかない。縁
 を結んだということから言えばぎんより、かよや仲人の方にはるかに責任がある。しか
 し、だからと言って、今の不幸を防ぐことができたかというと自身がない。
・「お父さんは何とおっしゃっているのですか」「すぐ帰せと・・・」一人で戻ってきた
 まま動こうとしないぎんもぎんだが、性病をうつした夫の許へすぐ帰れという父も父だ
 と友子は思った。
・ぎんは友子の四つ下の妹である。ぎんは末っ子であっただけに、姉妹の中では最も年齢
 の近い友子と一番親しかった。ぎんが嫁に行く時も友子は前の日から来て一夜語り明か
 した。そんな時、ぎんは嫁に行くことに何の疑いも抱いてきなかった。新しく開ける生
 活へ十六歳の娘は娘なりの期待をもっていた。その明るい聡明な妹が三年後にこんな姿
 で戻ってくるとは、友子自身思ってもいなかった。
・友子は嫁入りの時に垣間見たぎんの夫となった人の顔を思い浮かべた。男には惜しいほ
 どの白く優しい顔であった。それはぎんの小麦色に締まった顔とは好対照であった。
・「私はもう川上へは戻りません。そのつもりで出てきたのです」とぎんは言った。友子
 は呆気にとられてぎんを見ていた。ぎんの顔には少しの翳りもなかった。むしろ重荷を
 降りしたような安堵が浮んでいた。妹である筈のぎんが急に大人びた女にみえた。
・離縁という大きな転機を目前にしている女の顔とも思えない。その落ちつきぶりに友子
 は驚きと焦立たしさを覚えた。
・「男性はもうこりごりです。お嫁なぞ一生いけなくてもかまいません。その方がどれだ
 けせいせいするか分かりません」「ぎん、あなたは女ですよ」「女だから病気をうつさ
 れても、子供を産めない体にされても我慢せよというのですか。熱があっても起きてお
 姑さんに仕え、夫の機嫌をとれというのですか」
・友子はつまった。そう言われては答えるすべはない。母より理解がある筈だったが、い
 つのまにかぎんを古い女の道に閉じ込めようとしている。そんなつもりで来たのではな
 かった。
・友子の言うことはつい愚痴になる。五人の姉妹の中でぎんが一番裕福なところへ嫁いだ。
 嫁ぐと決まった時は誰もが羨んだ。それをたとえ淋疾をうつされたからといって出てく
 る手はない。しかも女から勝手に。こんなことは前代未聞である。このことを村人達が
 知ったら何と言うか。考えただけで友子は身が竦んだ。
・「もういやです。もう何処にもいきたくはありません・・・」揺れ続ける妹の背に、友
 子は厳しい姑のいる大家の長男に嫁ぎ、裏切られた三年の苦労がのしかかっているのを
 見た。肩をさすりながら友子は、ぎんの悲しみが、次第に女としての自分の悲しみにま
 で拡がってくるのを感じていた。
 

・床に起き上がった時、ぎんはたいてい本を読んだ。本は書斎に行けばいくらでもあった。
 父が元気な頃はよくここへ出入りしていたが、今は出入りする者はほとんどいない。誰
 に気兼ねすることもなく本は自由に読めた。
・松本万年は月のうち、五のつく日に、半里ほど離れた堀先から馬に乗ってやってきた。
 保坪と気の合った近所の二、三人が教わっている。今は何を学んでいるのか。ぎんの知
 らぬ本のようであった。娘の頃は兄達の後ろに坐って聴いた。
・講義が終わると、今度は万年は医者としてぎんの部屋を訪れる。ぎんは会わなかった十
 日間の病状を言葉短かに答えた。
・「退屈であろう。でも世間の眼はうるさいものだ。当分出ない方がよいかも知れん」
 「そなたのような秀れた女子を私も離しとうない」「今度、萩江をここへ寄こそう」
・万年の娘、萩江に、ぎんは万年の塾で何度か会っていた。ぎんの八つ上だが万年が所用
 で不在の時は父に代って幡羅学舎の講義をしていた。父の手ほどきもあろうが、十五歳
 ですでに「論語」を読みつくしたという才女であった。
・「あれも一人で、田舎では話し相手もなく退屈しておる」たしかにそのように学のある
 才女は、畏敬されこそすれ、裏では女だてらに変り者よと指指されるのが落ちだった。
 まして二十五歳を過ぎて嫁いでいないのだから当時としては尋常ではなかった。
・「お父さんや家のことは気にかけなくていいのです。あなたの本当に望むところでいい
 のです」それはかよの偽らぬ気持ちであった。娘をこんなことにしてしまったことにか
 よは済まなさを感じている。もちろんかよだけの責任ではなかった。責任は父の綾三郎
 にも仲人にもある。病んでいるから甘やかしている、というのではなかった。一度傷つ
 いたものなら、この先もうこの娘の自由にさせてやりたい。この娘の思う通りにことを
 させてやる。それしか今のかよに償う方法はなかった。
・それから十日後、乾ききった夏の日の午後にぎんの荷物が戻されてきた。かよの指図で
 二人の下男が荷物を運び込んだ。二人とも荻野の家の者だった。ぎんの身の廻りのもの
 はすべて部屋へ持ち込まれた。
・「表向きには体が弱くて子供が生まれない、ということを離婚の理由にしたいと言って
 いたから、それはこちらでも納得しましたよ。一応そういうことでいいだろう」良いも
 悪いもなかった。すでにそうしてしまったのでは、どう仕様もないことだった。
・病気というのはたしかに当たっていた。病気ばかりで満足に嫁の勤めらしいことも出来
 なかった。だがそれはぎんのもっていた病気ではない。向こうから一方的にうつされた
 病気である。その限りでぎんは被害者である。病弱というだけではそのあたりのことは
 うやむやである。だが世間の人はぎんの痩せ衰えた小柄な体を見ればそれで納得するか
 もしれなかった。うまい理由であった。
・それにしても子供が生まれない、という烙印はぎんには淋しかった。当時では石女は立
 派な離縁の理由になりえた。だがそれは女の生理まで否定した屈辱的な理由でもある。
 あの女は不具だから、と言うのと変らない。
・十六歳の娘は娘なりに男への夢を抱いていた。三年前、利根を上った時はそれは確かな
 具体性をもって拡がっていた。今考えるとその時の自分が可笑しい。馬鹿げてさえみえ
 る。お人好しであった。なんと無知であったのか。考えるだけでぎんは腹立たしく、自
 分が情なかった。
 

・萩江はひっつめ髪に紺絣、そして袴という当時の農村では破格のモダーンなスタイルで
 ぎんの許に現われた。
・萩江を知っている人々は萩江を無愛想な男勝りな女だと言っていたが、実際に会って話
 してみると、外から見る印象とは随分違っていた。萩江は漢文は勿論だが、茶も華道も
 さらに和裁までできた。しかもそれらはただの嫁入り前のたしなみといった程度を越え、
 おのおのに免許を持ち、師として資格さえ持っていた。愛想のない女に見られたのは、
 あまりにも出来過ぎた女の一面だけを見た結果かもしれなかった。
・「嫁に行き、子を産むことだけが女子の勤めではありません。女子でも学問をし、それ
 で身を立てて悪いわけはありません」初めて会った時から荻江はそんなことを堂々と言
 ってのけた。ぎんは半ば呆れ、半ば畏敬の眼差しで荻江を見詰めた。
・「私は、もう二度とお嫁に行く気などありません」とぎんが言うと、「私は初めからそ
 う考えていました」と荻江ははっきり言いきった。ぎんの八つ上の二十七歳で、当時と
 してはすでに婚期を逸していた。男衆より学問が好きで、そちらに気をとられているう
 ちに婚期を逸したと万年は言った。だがそれだけとも言えない。田舎の家と嫁のあり方
 を見るうちに荻江には嫁ぐことの意味が分からなくなっていた。家に従い、周囲の風習
 に従うだけが価値があるとは思えなかった。嫁ぐことを忘れたというより嫁ぐことに疑
 問を抱いていた。
・万年はすでに五十歳を越え、五年前に母を失っていたので長女の荻江は家事から万年の
 身の廻りまで、母の替わりをつとめなければならなかった。さらに万年が往診や、個人
 教授に外出する時は、集まってくる子弟を相手に代講する。万年にとって荻江はなくて
 はならない存在であった。
・こんな忙しさをぬって荻江は月に二、三度はぎんの許を訪れた。相変わらず大島紬い袴
 という男勝りな服装で、脇にはきまってぎんに見せる新しい本を抱えている。
・荻江が来ると、庭が一度に開花したように明るくなる。打ち萎れていた花が水を得て一
 斉に生気を取り戻したように部屋が息づく。ぎんは荻江を待ち焦がれていた。
・荻江はいる時は忍術にかかったように生き生きとするぎんが、荻江がいなくなると再び
 生気を失った。「業病持ち」「石女」「出戻り女」「居候」さまざまな自虐の言葉が頭
 に浮んでくる。再び荻江を訪れる十日間くらいを、ぎんは暗い陰鬱な気持ちで過ごす。
・父母にも兄にも使用人にも誰にも気兼ねはいらない。好きな時に起き、好きな時に寝れ
 ばよい。黙っていても食事は与えられる。何不自由なく傍から見ると結構な身分だと思
 われる生活だが、ぎんは楽しめなかった。
・夏が過ぎ、秋も終わりに近づいていた。ぎんは相変わらず月に二、三度は熱を出し、出
 すと四、五日は寝たままに過ごした。痛みと下の汚れも執拗にやってきた。
・「東京へでも行って誰方か、よいお医者さまにでもつけば、あるいは治るのではないで
 しょうか」ぎんは自分の気持ちを母へ告げた。いま以上にうまい手段があるとは思えな
 かったが、かよは二日後に万年の許を訪れた。
・「前から考えておったのだが、一度順天堂の佐藤尚中先生に診ていただいたらよいと思
 がのう」「大典医大博士で現在の日本では、並ぶ者なき名医でな」「そんなお偉いお方
 に」貴家さその気であれば、私が仲介の労をとって差し上げてもよい。私が江戸で寺門
 静軒先生の門にいた時、一度お会いして何かと顔見知り願っている」
  
 
・ぎんがかよに付き添われ東京下谷の「順天堂医院」へ入院したのはその年、明治三年の
 暮れもおし迫った十二月半ばであった。
・病院長、佐藤尚中は当時関東一円に名のひびいた外科医であった。この人は本姓を山口
 氏と言い、千葉小見川藩の侍医甫僊の子であった。文政十年生まれであるから、ぎんが
 診察を受けた頃は四十三歳ということになる。
・佐藤尚中は文久四年に藩命を受け、長崎に行き「ポンペ」の弟子となり寝食を忘れて勉
 学に励んだ。尚中は、ポンペにその才を高く評価され、佐倉へ戻る時、ポンペは特に彼
 だけ、ストロマイエルの医書をはなむけとして贈ったと言われている。
・帰国すると彼は藩の医政を改革し、病院を建て、衛生館を設け、漢方を全国的に廃止し
 て洋方を採用するという当時としては画期的な政策を断行した。幕府は尚中の名声を聞
 き知り、出仕を命じたが佐倉藩では惜しんで手離さなかったと言われている。
・明治となってからは新政府は彼を大博士とし、翌年三月には正六位、十月には大典医に
 任じた。だが翌年、政府高官と意見の衝突を起し潔く野に下り、私力で下谷練塀町に順
 天堂医院を建てた。その後、この病院は手狭になり湯島に移ったが、ぎんが訪れたのは
 この先の下谷にあった本郷順天堂病院であった。
・外科と産婦人科は今でこそ独立しているが、元来、同じ腹腔内の臓器を扱う関連性の近
 い科である。今ほど分科していなかった当時、外科医である尚中が婦人科を診るのはご
 く当たり前のことであった。
・入院して二日目にぎんは初めてこの佐藤尚中の診察を受けた。尚中は小柄だがひきしま
 った顔に眼光鋭く、髪のほとんどはすでに白髪になっていた。尚中の後ろには十人近く
 の若い塾生達が並び、尚中の診察を見学していた。
・「では診せていただこうか」と言った。どうしたものかと、ぎんが眼を上げた時、襷が
 けの男が近づいて来て「こちらへ」と目で合図した。ぎんは立ちあがり男に命じられる
 ままに白い布で囲まれた部屋の片隅へ入った。
・「この台の上にあがってください」瞬間、ぎんは息を呑んだ。眼の前に木製の台があり、
 その上に黒い革が敷かれている。「さあ」と二度言われてぎんはのろのろと台の上へあ
 がった。そのままぎんは小さくうずくまっていた。尚中の足音が近づいて止まった。
・「局所を診察させていただく」「・・・」ぎんは眼を閉じ、血がでるほど唇を堅くかん
 でいた。こんなところで秘所を見られるくらいなら死んだ方がよかった。たとえ医師と
 は言え、恥ずかしいところを覗くなどということが許されるのであろうか。しかも相手
 は女ならまだしも男である。
・「診せていただくだけでよい」尚中は腕を組んで待った。あくまでぎんが自分の意志で
 秘所を開くことを待っていた。ぎんは救いを求めるように襷がけの男に眼を向けた。
・「診てきただきなされ。そなた、病を治しに見えたのであろう」ぎんの全身から急に力
 が抜けた。四肢が呪術にでもかかったように静かに拡かれた。膝が割れ、襦袢の下から
 白い腿が現われた。 
・「もう少し」だがぎんの肢はそこで痺れたように止まっていた。「ご免」声とともに、
 ぎんの両の膝を冷たい男に掌が触れた。思わずぎんは脚を閉じて上体を起そうとしたが、
 ぎんの四肢はすでに数人の屈強な男におさえられているらしく微動だもしない。
・それからの数分のことをぎんは覚えていない。いやたしかにその時間があったことは覚
 えているが、羞恥と驚きのあまり、何も考えない空白の時間があった。
・「よろしい」初めの男に足元を軽く叩かれてぎんはようやく正気づいた。だがしばらく
 ぎんは眼を開けることさえできなかった。台から降り立った時、ぎんはふらついた。羞
 恥のあまり立っている気力もなかった。
・「いままで、よく我慢してこられた」ついさっき、残酷な肢位を命じたとも思えない優
 しい声であった。 
・尚中はともかく、自分と年齢のあまり違わない若い男性にまで、先程の姿態を覗き見ら
 れたかと思うと、ぎんはその場に坐っていられなかった。診療も治療ももうどうでもよ
 かった。一刻も早く診察室を出て、部屋に戻りたかった。
・部屋へ戻り、かよの顔を見た途端、ぎんはその場で泣き伏した。「どうしたのです。先
 生は何とおっしゃったのです」かよは泣き続けるぎんに尋ねるが、ぎんは答えるどころ
 か布団を掻き抱き一層激しく泣いた。
・隣には日本橋長谷川町の呉服商の内儀だという三十半ばの婦人が入院していた。「初め
 て大きな病院へいらして、きっと驚かれたのですよ」
・大きいと言っても当時の下谷順天堂病院は木造の平屋で入院患者が三十名というのだか
 ら今の規模で言えば開業医のややおおきめのものでしかなかった。それにしても当時と
 しては、私立では東京一の病院であった。
・「これは想像ですが、娘さんはきっと今ほどの診察をお受けになって辛くて泣き出し
 たのかもしれませんよ。たとえ病気を治すためとは言っても、女の身であんな形に押え
 つけられて診察を受けるのは、そりゃ恥ずかしいことです。私でさえここへ来た初めの
 二日間は食事も喉に通らなかったほどですからね」産後の肥立ちが悪く、それ以来熱が
 切れずに入院したという内儀はさすがに同じ病人だけに察しがよかった。
・この娘がお医者の前で恥ずかしい目にあったのかと、かよはぎんが一層不憫であった。
・東京の商人らしく内儀はなかなかの進歩派であった。「それにしても、いくら診察とは
 いえ、若いお医者様に膝頭など押えこまれて開かされたんじゃかないませんよね」「そ
 んなことをされるのですか」「だってそうしなければ診られないじゃありませんか」
・泣き続ける娘を見るうちに、かよはその西洋医学というものが、なにやら怪しげな魔術
 のように思えてきた。二人の会話も聞こえぬげにぎんは泣き続けた。
 

・ぎんが病院に落ち着くのを見届けた上で、かよは替わりに雇人請宿から少女を頼んで十
 日目に俵瀬へ戻った。
・尚中は午前中は外来患者を診るので、入院患者の診察は午後であった。彼は一日に一度
 病室回診をしたが、ぎんだけは病気が病気なので三日に一度くらいの割合で別に診察室
 の木のベッドで診察を受けた。三日に一度のその診察日が近づくにつれぎんは口数が少
 なくなり食欲を失った。何を話し何を考えたところで男性の前であんな姿態をとるので
 は人間でないとぎんは思った。
・「あまり真剣に考えないことです」「でも私はいやです。あんなことは絶対に許せませ
 ん」「本当にさ・・・」「せめて女のお医者様ならねえ」「女の・・・」ぎんは顔をあ
 げた。「女のお医者さん・・・」ぎんはぼんやりと呟いた。男でなく女のお医者がいれ
 ば・・・
・そうだ、とぎんは思った。男ではなく女のお医者に診られるのならこんなに苦しまなく
 て済むし、喜んで治すことができる。
・ぎんは宙の一点を見詰めていた。女医者がいれば私と同じように羞恥で苦しんでいる多
 くの女性が救われるのではないか。考えながらぎんに一つの思いが浮んだ。私が女医に
 なって、その人達を救ってやることはできないものか・・・。
・女医者になりたい、という思いが、なるのだに変わり、きっとなるという確かな覚悟に
 まで成長していく。このところ、一日中、ぎんは医者になることを考えていた。 
・「肢を開いて」冷えた医師の声がぎんの全身を貫く。男の手がぎんの肢に触れる。機械
 のようにぎんの肢は開かれていく。「母さま、母さま、早く終わりますように、早く終
 わりますように」これを二十回から三十回くり返すうちに診察は終わる。痛みもないの
 に眼は涙で濡れた。
・だが今のぎんは違う。その時、医師の声は同じだが、ぎんはもう母の名を呼ばない。男
 の手が触れた瞬間からぎんは叫ぶ。「女医になる。きっと女医者になってやる」
・一月の半ば、新しい年の縁起をかつぐように長男の保坪が結婚した。相手はかねて話の
 あった丹生在の豪農、高森家の次女、やいである。やいはぎんと同じ年の二十歳であっ
 た。結婚式にはもちろんぎんは出席できなかった。俵瀬まで駕籠にしても行く自信はな
 かった。たとえ体が治っていてもぎんは行かなかったかもしれない。
・家を離れていたのがかえって良かったのだとぎんは自分に言いきかせた。だがぎんにと
 ってそのことが悔やまれる事件がすぐそのあとに起こった。結婚のお祝い気分も抜けぬ
 一月の末に、父の綾三郎が急死した。
・順天堂に入院して一年後の二月、ぎんは退院して俵瀬へ戻った。この間、ぎんは特別、
 外科的治療を受けたわけではなかった。尿道から膀胱、卵管といったところまで炎症が
 拡がっていたとはいえ、外科的にそれらを手術で治すという方法は現在でもほとんど行
 われていない。
・尚中は今まで漢方医は触れなかった局所を積極的に洗浄するとともに在来の漢方処方よ
 り新しい調合をつくり、それを服むことで炎症をおさめようとしたのである。今から考
 えるといかにも長い入院だが、抗生物質はもちろん、サルファ剤もなかった時代である
 から、重症の淋疾が治るまでにこれくらいの期間を要したのは当然であった。もっとも、
 治まったとは言え、その実態は病気が本格的に慢性化したというだけにすぎない。
・「身籠ることはできないでしょうか」それだけをぎんはもう一度確かめておきたかった。
 「残念ながら無理じゃ」予測したとおりであった。だがぎんはもう狼狽えなかった。
  

・わずか一年家を離れていただけであったが、実家の様子はすっかり変わっていた。 
・「お兄さまに御挨拶なさい、奥の間にいます」お参りを終わった時、かよが仏間に来て
 言った。「保坪兄さんに?」
・今までは家へ戻ってくると父に真っ先に挨拶をした。それがしきたりになっていた。だ
 が兄には改まって挨拶した記憶はない。ぎんは初めて家長が父から保坪に移ったことに
 気付いた。考えてみると当たり前のことが今の銀には不思議だった。
・「妹のぎんです。よろしゅう願います」保坪への挨拶を終えたあと、ぎんはその横に並
 んでいるやいへ頭を垂れた。瞬間、二人の間で火花が散ったのをぎんは感じていた。こ
 の女性がやがて荻野の嫁として母に替わってこの家を取り仕切るのだ。それは確かな未
 来であったが、その情景を信じることはもちろん、想像する気さえ、ぎんには起きなか
 った。
・東京へ行く前ぎんの病室に当てられていた奥の八畳間は保坪夫婦の居室になり、ぎんの
 病室は書斎の横の六畳に変えられていた。そこは以前は小納戸で夏の間、座布団や箱火
 鉢、櫓炬燵などが置かれていて物置替わりになっていたものだが、家具を整えると結構
 小奇麗な部屋になった。
・新しい長兄夫婦ができた以上、出戻りの娘が大きな部屋を明け渡し、小部屋に移るのは
 当然と言えば当然である。それを納得した上で、少しずつ実家を変えていくやいの出現
 にぎんはかすかな憎しみを覚えた。
・東京から戻ってからも、ぎんはこの奥の六畳間からほとんど出なかった。自分の部屋を
 掃除をし、洗濯をするだけであとは部屋に籠もって本を読み耽っていた。また気鬱が昂
 じたかとかよは案じたが、かよにぎんの決心が分かるわけもなかった。
・ぎんが帰ってきた一カ月後に荻江が訪ねてきた。「東京で一つ決心したことがあるので
 す」ぎんは荻江にだけは告げてみたかった。「お医者になろうと思うのです」「お医者
 って・・・誰が?」「私がです」「病院でいろいろ考えたのです。考えた末に私のよう
 な女性を救ってやろうと決心したのです」
・「世の中には、私のような婦人病で悩んでいる女性がたくさんいます。しかしその女性
 達のすべてが医師の診察を受けているとは限りません。受けたくてもその病気を羞じ、
 隠して診察を受けない人が無数にいるのです。この人達を救ってあげないのです」
 荻江はこんなに輝いているぎんの眼を見たのは初めてであった。
・改めでぎんの言ったことを考えてみると容易なことではなかった。果たして堅い意志と
 努力だけで女性が医者にまでなることができるのか、荻江はたちまち不安に襲われた。
・「お母さんが許しますか」かよは賢婦ではあるが、古い女である。ぎんが学問好きなの
 をさえ恥じているのに、このうえ上京して、女にもあるまじき医者などになるといった
 ら許すわけはない。女は学問はおろか、職業など持つべきでないと思われていた時代で
 ある。その時に男でさえ容易になれぬ医者になろうというのである。
・当時、医師になるにはきわけて限られた道しかなかった。とくに西洋医学の習得という
 ことになるとその道は一層狭く、医学所が東京、長崎、千葉に一つずつあったにすぎな
 い。
・このうち長崎のは「精得館」と言い、官立の医学伝習所、兼病院であった。ここは和蘭
 教師がじきじきに教え、診療の他に研究と実習も行われていた。
・これに対し東京にあった大学東校は現在の東京大学医学部の前身で、当時は下谷和泉橋
 通りにあった。
・これらの二つの官立とは別に、下総佐倉に「佐藤泰然」が開いた佐倉順天堂という私塾
 があった。ここは純粋の医学塾でことに外科においては日本一と言われ、規則正しい医
 学教育と並んで、実験材料が多く、西の精得館と並んで医学研究の双璧であった。
・他に大阪に「緒方洪庵」の開いた塾があったが、ここは西洋医学というより蘭書を読む
 ことが専らであったので、医学者ではい「福沢諭吉」とか「寺島宗則」といった人々を
 生んだ。こうした塾は江戸にも「川本幸民」、「坪井信道」等の開いたものがいくつか
 あったが、これらの私塾が本格的に医学を教えるようになるのは、この数年あとからの
 ことである。
・問題はそれだけではない。そおどれよりも大きい障碍は、官立の学校はもとより、私塾
 といえども 女性の入学を許さなかったことである。学校が駄目な以上、医師試験はも
 ちろん、許されるはずもない。女性が医者になる道は十重二十重に閉ざされていた。そ
 んな状態で女医になりたい、などと言い出すのは、まさに狂気の沙汰であった。
・かよはぎんの言うことは狐にでもとりつかれた一時の世迷いごとだと思っていた。時間
 さえかければおさまるものとたかをくくっていた。だがぎんは一向に怯む様子がない。
・本心を打明けてから、かよはぎんを監視し始めた。表面上は素知らぬふりをしているが、
 ぎんの様子を探っていることがわかった。時には女中のかねにも様子を窺わせているら
 しい。監視されていると知りながらぎんは気付かぬふちを装った。二人の間は急に白け
 た関係になった。
・母と私とではまるで違う。今までと同じと思ってきただけにこの発見はぎんにとって淋
 しいものだった。 
・母と二人で話しただけでは埒があかないと知ったぎんは秋の初めに万年の許を直接訪れ
 た。万年は呻いた。何と答えたらいいものか。できるならぎんの望みをかなえてやりた
 い。これまでいろいろの人を教えてきたが、これほどの才気を備えた女性はいなかった。
 顔も凛々しく締まって美しい。病も癒えて二十歳を過ぎたばかりの若さが全身に溢れて
 いた。
・「女が医者になることはこれまでに例がない。例がないというより許されておらぬのだ。
 そこで相談だが、今すぐ女医になると言っても、どの道、しかとした方途はない」「そ
 こでじゃどのみち医者になるのであれば学問が大切じゃ、学問はいくらしてもしすぎた
 ということはない。だから女医者になるなどとは言わずしばらく東京で学問をさせてく
 れと願い出ては如何かな。それなら許してくれるかも知れぬ」さすがに万年の考えは老
 獪であった。
・やや冷静さを取り戻すと、気がかりになっていたことがつい口から出た。「一朝一夕に
 なるとは私にも思えない。だがならぬともいえぬ。三百年続いた徳川様さえ崩れた世の
 中だ」


・明治六年四月、ぎんはようやく母の許可を得て上京した。ぎん二十二歳の春である。
・母のかよは、ぎんと万年の説得に押し切られた。だがぎんが強く押し切っただけで、行
 く前日になっても納得したわけではなかった。泣いてまでも頼んだ母の意見を振り切っ
 ていく娘に、かよは怒りと驚きを感じていた。かよはぎんが自分の娘であって娘でなく
 なっているのを知った。
・最後に声を出して手を振ったのは友子と女中のかねであった。母の姿は人々の右端にあ
 ったが長屋門を出て右に曲がるとすぐ松の陰になって消えた。街道に出てからぎんは懐
 を探った。当座の生活費として三十円、保坪から渡された。荻野の家からぎんが正式に
 受け取ったものである。東京でも贅沢をしなければ一年は暮らしていける金であった。  
・本郷金沢町に部屋を借りると、ぎんはただちにそこから麹町の国学者、「井上頼圀」の
 私塾に通った。当時、頼圀はまだ三十五歳の若さであったが、すでに東京で五指に入る
 国学者として盛名をはせていた。
・「とにもかくにも読むことだ。本はいろいろなことを教えてくれる。古人にも解らなか
 ったことがたくさん書いてある。それを生きているうちに一つでも解くのが我々のつと
 めだ。学問というのはそういうものだ」腕組みをして頼圀は大声で言う。
・初めのうち女塾生として、興味半分に見ていた仲間の者達も、机を並べるに従い、ぎん
 の学才に驚く三カ月もするとみな一目おくようになった。
・半年でぎんの学識はすべての儕輩を抜き、井上塾でも有数の弟子となった。しかも小麦
 色の肌に知的で端麗な容貌が何とも美しい。円く大きな眼がよく動き、まるで小さな妖
 精のようだ。この愛らしい娘が井上塾第一の学才とは一緒に学んだことのある者以外に
 はとても思えない。半年も経ずして井上塾に荻野ぎんという才色兼備の女性がいること
 は、東京の国学者の間でも評判になり始まっていた。
・明治七年の初め、ぎんは自宅に一人の女性の来訪を受けた。甲府在の内藤塾の内藤満寿
 子である。「私の塾で最近助教をしていた人が家庭の事情で東京へ出ることになり後任
 探しに困っていたのです」「私は女性の地位を高めたいとその一念で今日までやってき
 ました。その捨石となれば満足なのです。どうでしょうか。手助けしていただけません
 か」
・女医になるためには東京にいて学問をしながら時機を待つのが最良である。これまでの
 苦心はすべて女医になるためではなかったか。
・「残念ながら、私はまだ若輩でとてもその任には耐えられませぬ」いまさら本当の理由
 を言い出すわけにもいかない。ぎんはひたすら頭だけ下げていた。
・「久しぶりに雁鍋でも食いに行こう」と頼圀はぎんの声を掛けてきた。「実はちょっと
 相談があるのだが」「真面目な話だが・・・」「他でもない。儂の後添えのことだが」
 「そなたがよければ来て貰いたいのじゃ」「どうかな。考えてみてくれるかな」
・頼圀を愛の対象として考えたことなどなかった。それは頼圀だけでなく、どの男性に対
 しても同じであった。ただ師としてしか見たことがない。今更、男の世話をやき、子供
 を育て、世間体をつくろう、そんな煩わしいことにかかずり合う気持ちにはとてもなれ
 ない。男などはみな我儘で横暴な者だ。そんな男の犠牲になるのはもうご免だ。私は女
 医者になるのだ。ぎんの気持ちは決まっていた。
・雁鍋屋での一件から二カ月後の七月の末、ぎんは甲府の内藤満寿子の塾へ移った。 
・私が去るというのに師は少しも揺らいでいない。揺らがないのが師だというのか。ぎん
 はどっしりした頼圀の横顔を見ながら、そこに男の強さと傲慢さを見た気持ちだった。
・内藤塾は今でいう私立の女学校を小さくしたようなもので塾生は通いもいれると百人近
 くになる。和裁、活花、お茶、琴といった女性の一般教養も教えていた。生徒は嫁入り
 前の十六、七歳までの者が多く、一部の主婦達を除いては、ほとんどが全寮制であった。
 ぎんは漢文と歴史を教えながら、その寮の舎監を兼ねた。
・ぎんの清楚な美貌と博識はたちまち生徒達の人気の的となり、一カ月もしないうちに
 「姫君」と綽名がつけられた。
・また新しい年が明けた。明治八年になった。ぎんは二十四歳になっていた。 
・姉の友子から便りがあった。ぎんは姉妹の中で、友子だけには一目置いていた。もしあ
 のまま勉学を続けていたら、友子の方が自分よりも優れた学才を身につけたのではない
 かと思えた。  
・友子の手紙の途中には「貫一郎さんは、まだ一人です」と書かれていた。友子の家は神
 官であるところから地方の有力者との交際が広いが、そんなことからも稲村の家とは、
 いまでも行き来しているようだった。友子の筆の中で「貫一郎」という字面だけ黒く浮
 き上がって見える。だが、それがかつての夫であり、自分の処女を捧げた男の名とは思
 えなかった。
・「先生、東京から御面会の方です」甲府に来て東京からの来客は珍しい。ぎんは表門に
 廻った。「荻江さん・・・」門に立っているのはまさしく松本荻江であった。
・「今、私は東京に住んでいるのです。父も一緒です。今度、東京に女子師範ができるの
 をご存じですか。私はそこの教師になるのです」荻江は照れたように笑った。
・「開校はこの秋からです。もう本郷で公舎の建築にかかっています。ようやく女性にも
 教師になる道が開けるのですよ。女性も学校を卒えて仕事をもてるので。それであなた
 に話しに来たのです。女子師範にお入りなさい。九月に第一期の生徒募集をします。こ
 れからで間に会います」
・ぎんは目を輝かせた。荻江はわざわざそのことを言いに来てくれたのである。荻江の好
 意が身にしみた。 
・「あなたの最後の目的は分かっています。医学校も今にきっと女性に門戸を開いてくる
 に違いありません。でも当分は無理です。将来、入れるようになった時、官立の女子師
 範を出ていたら学問はもちろん学歴の面でもきっと有利なはずです。こんな田舎で埋も
 れているのは惜しい。人を教える前にまず自分が伸びることです」
 

・明治八年十一月、東京女子師範は東京本郷お茶の水に開校した。この学校はのち東京女
 子高等師範と改められ、現在のお茶の水女子大に至っている。第一期生はぎんを含めて
 七十四名であった。
・この年、入校を機にぎんは自分の名を「吟子」と書くようにした。すなわち「荻野吟子」
 である。「ぎん」では新しい時代の切り拓く女の名としてはいかにも迫力がない。 
・当時の教育は暗記することが多かった。おまけに教師達はどれも勉強家で、教え込もう
 というファイトに燃えている。これでは教師はまだしも、教えを受ける生徒の負担は並
 大抵ではなかった。誰もが一生懸命やってもやっても、まだ時間が足りなかった。吟子
 も例外ではない。
・同期生のトップにいた吟子は常に追われる立場であった。トップは誰にも譲りたくない。
 自分が何気なくやり出した勉強法が、たちまち全生徒に拡がる。そのすさまじいまでの
 女達の競争心を思うと無気味さをとおりこして怖かった。
・吟子の同室に「古市静子」という小柄で色白の学生がいた。負けん気の多い学生の中で、
 静子だけは控え目で口数も少なかった。吟子は二十五歳で同期生の中では年長の方だっ
 たが、静子も二十三歳とかなり年齢をとっていることから、吟子は親しみを覚えていた。
・日曜日の午後、同室の者は皆出払い、静子一人が机に向っていた。日曜日も勉強かと近
 づくと、静子は慌てたように顔をあげた。眼の縁に薄いくまがあり泣いた跡がある。
・吟子の熱意にほだされて静子は話しはじめた。
・つい最近、アメリカ公使を辞めて帰朝したばかりの「森有礼」は、長年外国にいただけ
 に進歩的な人物で、つい最近、日本の旧習をみずから打破すると称し、広瀬つね子とい
 う婦人と夫婦契約書という変わったものを交わして結婚して、人々を驚かせた人物であ
 る。後に文部大臣となり、新しい教育改革を行ったが、当時は新進の政治家であった。
・日本の大方の破婚の例が男性側の不貞、横暴、我儘から起きるものであり、それで現実
 の青春を奪われた形の吟子にとって、その契約書には大いに同感するところがあった。
  それと同時に森有礼の勇気と清廉な態度には大いに感心させられた。だがその話は実
  際とは随分違うらしい。
・「あの方とは婚約をし、お羞ずかしい話ですが体の関係まであったのです」と静子が話
 した。即座には信じられなかったが、静子がそんな大それたことを軽はずみに言うわけ
 もなかった。世間の華やかな話題の陰で苦しみ悩み、捨てられたあと、一人で生きてい
 くために女教師の道を選んだ女性がいるなどとは誰も知るわけもなかった。新しい時代
 の為政者として森有礼を尊敬していただけに吟子の受けたショックは大きかった。
・「いかに政府の高官といっても、そんな勝手なことが許されるわけはありません。阿常
 という新夫人はあなたという人がいたことを知っているのですか」「多分、御存知だと
 思うのですが・・・」「その阿常という人も呆れた人です」
・「行きましょう。私が一緒に行ってあげます」「直接会って談判をするのです」「駄目
 ならお金ででも解決して貰うのです。欧米諸国ではそれが当り前なのです」「あなたが
 行けないのなら私に任せてください。決して悪いようにはしません」妥協を許さぬ潔癖
 感が吟子を興奮させていた。 
・二度も官邸にむだ足を運んで、三度目に吟子はようやく森有礼に会えた。有礼はこの火
 の塊のような熱弁をふるう女に呆然としていた。怒鳴る余裕もなかった。「あなたは恥
 ずべき偽善者です。女の敵です」
・有礼は興奮で一人頬を赤らめている娘をむしろ惚れ惚れと見ていた。きっぷのいい女で
 ある。顔だけ見ているとひき締まった有礼好みの女である。裸になればさぞや、と妙な
 ことまで考えさせられる。あれほど罵倒を浴びせられたのに有礼は憎み気になれなかっ
 た。むしろその勇気と熱意に感心していた。
・「せめてあの方が女子師範を卒業するまでの金銭の面倒は見てあげてください」言うこ
 とは激しいが、いざとなると女だけあって求めることが小さい。「わかった、承知しよ
 う」
・この事件以来静子は吟子の妹分のような存在になった。友達の学費の工面はなんとかつ
 いたが、当の吟子自身も経済的には逼迫していた。向こう三年間の学費という要求が咄
 嗟に出て来たのも実は吟子自身がそんな金が欲しいと思っていた矢先であったからであ
 る。
・吟子は甲府の内藤塾に勤めてからはすべて自力で生活していた。だが女子師範に入って
 からは再び収入はなくなった。甲府で貯えた小金は入学して銘仙の着物と海老茶の袴を
 買い、本を買っただけで半ば消えた。吟子は何か内職を考えたが、勉強に追われてする
 暇もなかった。そうするうち甲府での貯えは半年も経つとほとんどなくなった。
・考えあぐねた末、吟子は熊谷の姉、友子に毎月三円ずつ向こう三年間の無心の便りを出
 した。月三円という金は熊谷の神官に嫁いだ友子にとってさしてつらい金ではない。折
 り返し友子からすぐ承知した旨の手紙があった。最後に「初心忘れぬよう努力してくだ
 さい」という文字を見て吟子は胸がつまった。友子だけはいまなお見捨てずに見守って
 くれているのだった。
・女子師範の厳しい教育は毎年、十名前後の落伍者を出していた。これらの中には初めか
 ら女教員になる気はなく、他に女が学問をする場所がないので入学したという者がかな
 りいた。こうした者達は家庭も裕福で、それだけ卒業して教師の免許をとるということ
 にさほどの切実感がなかった。
・吟子は女教員になるのが目的ではない。目的はあくまで女医である。それへの基礎教養
 をつけるというだけのことで、一部のいい加減な女性達とは違っていた。吟子には彼女
 等のように最後には嫁に行くという逃げ道はなかった。もはや戻ることは出来ない。前
 へ進むだけである。
・明治十二年の二月、吟子は第一期生の首席を守り通して東京女子師範を卒業した。入学
 した時、七十四名いた生徒は、この時わずか十五名になっていた。女子師範の教育がい
 かに厳しかったかということが、このことからも想像できる。
・吟子にとっては師範の卒業が学業の終わりではない。これからが本番である。 
・「君ほどの頭であればきっと医者になれるのに。女であるばかりに惜しいことだ」永井
 教授は吟子の聡明そうな顔を見ながら溜息をついた。
・永井久一郎が紹介した人物は、当時の医界の有力者、陸軍軍医監、「石黒忠悳」であっ
 た。彼はのちに軍医総監となり子爵を授けられたが、吟子が会いに行った時はまだ三十
 歳半ばの働きざかりで軍医監として兵部省にいたが、同時に大学医学部綜理心得として
 週に二日ほど文部省に出向していたのである。
・吟子が石黒忠悳から連絡を受けたのは三月の初めである。「ただ一つ、下谷の好寿院だ
 けが、引き受けようと言うて呉れた」「院長の高階経徳君は私もよく知っているなかな
 か優秀な男だ」
・「諸君、我々は遂に今日ここに女学生を迎えるに至った。我々は婦女とともに医学を学
 ばねばならない。婦女と並んで講義を聞き、実験をするのである。すなわち、我々は婦
 女と同等に成り下がった。この責を何とするか」吟子は膝に両手を重ね目を閉じて時の
 過ぎるのを待った。
・吟子が現われると知るや学生達はすぐに机を叩き、床を鳴らして嫌がらせをする。遂に
 は再び、「女、帰れ」の罵声をまき散らす。
・教師は塾生達のようにあからさまに非難こそしなかったが、女が医者になることに必ず
 しも好感を抱いているわけではなかった。当時にあっては彼等はかなりの進歩的な意見
 の持主ではあったが、それでも医学は男だけがやるべきものという考えが大勢を占めて
 いた。
・教場の端で吟子は孤独に耐えていた。孤独の因は吟子が女であるという一点につきる。
 吟子は今ほど自分が女であることを口惜しく感じたことはなかった。
・明治二十年頃からは吟子のような手数を踏まなくても、各私立医学校では女子の聴講を
 許し始めたが、その頃でさえ入学者はせいぜい一、二名に過ぎなかった。医学校とはい
 っても殺伐な維新の名残りが尾を引き、明治版暴力教室といった雰囲気があった。大方
 の女子は怖れ慄き、神経衰弱になったりして中途退学し、相当意志の強い者か、図太い
 神経の持主でないかぎり、女性で長続きすることは出来なかった。
・こうして女子医学生の苦しみは明治三十三年に「吉岡弥生」が女性専門の東京女医学校
 を創設するまで続いたわけだが、その二十年前に、ただ一人で荒くれ男の中にとび込ん
 だ吟子の苦しみが並大抵のものではなかったことがわかる。 
・苦しみながら、ともかく一年が経った。二年目からは好寿院では内科、外科学といった
 臨床医学とともに人体解剖学が講ぜられた。だが解剖学といってもその大半は絵図によ
 る講義で、実際に人体そのものを解剖するということはなかった。しかもこの解剖絵図
 も、ウェーベルやキュンストレーキといった名の通った絵図は、江戸医学所と長崎精得
 館に一冊ずつあるだけで、好寿院には青木俊郎という模写の天才が巧みに写したのが一
 冊、あるきりだった。
・明治十五年、好寿院に入学して三年目に吟子はようやく卒業した。ようやくというのは
 もちろん、成績のことではない。ここでも吟子の成績は群を抜いていた。吟子が苦しん
 だのは学業ではなく経済問題と女人禁制の学校に入ったことによる困難であった。
・よくもまあ通いおおせたものだ。三年間頑張り続けた自分が自分で愛おしく、思いきり
 賞めてやりたかった。だが吟子の戦いはこれで終わったのではなかった。戦いはいよい
 よこれからが本番であった。 


・好寿院を卒えた吟子は相変わらず家庭教師を続けながら、医術開業試験を受ける機会を
 虎視眈々と窺っていた。
・当時の医制について簡単にふれると明治十七年施行の「医師免許規則」によれば、要す
 るに今後新規の医師にとなるには政府の医術開業試験を受け、通った者に限るというわ
 けである。但しここに例外として、官立及び府県立の医学校を卒業した者で正式に開業
 免状を出願した者とか、外国の医学校を卒業して同様に免状を願い出た者は、卒業証書
 の審査という書類審査だけで許可するというわけである。
・吟子の卒えた好寿院は私立学校であるので、もちろん、開業試験を受けねばならない。
 だがこの試験を女子が受けることはまだ許されていない。許されていないし、女子でこ
 れを受けようとした者もなかった。まったく吟子が初めてであった。
・医術開業試験は年に春、夏の二回行われる。とにかく吟子は願書を出してみた。思った
 とおり、一回目は素気なく断られた。「婦女子に医師免許を与えた例はない」というの
 がその理由であった。
・翌年、吟子は再び出願した。だがこれも却下された。東京府では駄目と知った吟子は、
 今度は出身地の埼玉県に提出した。だがこの結果も同じく却下された。
・試験の実施機関である府や県に働きかけるだけでは所詮は埒があかない。考えあぐねた
 末、吟子はその上級機関である内務省へ直接、請願書を出した。だがこの結果も同じだ
 った。
・こうなったら直接内務省に出向いて担当のお役人に聞いてみるよりない。だがいざ行く
 となると容易なことではなかった。役人と言っても今でいう公務員とか公僕と言った感
 じとはまるで違う。江戸時代の武士が役人という呼び名に変わった、という程度のこと
 で、その権威と横柄さは一向に改められていなかった。それは幕府を倒した雄藩の士族
 が政界の中心を占めていたことからも当然のことで、”肩で風切る官員さん”という言葉
 にもよく表されている。
・おまけに内務省というところは、数ある官庁の中でも特別、羽振りのいい権威主義のと
 ころだから、 やたらにいかめしいだけで一般の市民などが気楽に出入りする雰囲気と
 はほど遠かった。
・当時の内務省の内務卿は「山県有朋」であったが、医師の直接担当者である衛生局長は
 「長与専斎」であった。
・「荻野さん、今、早便が届いたのですよ。俵瀬からですよ」と大家の女房の声がした。
 「ハハキトク トモコ」電文には帰れとは記していない。帰るか帰れぬかは吟子の意志
 に任せるという友子の気持ちに違いなかった。
・一刻後、吟子は車に乗った。これからでは人力車ではどう急いでも熊谷に着くのは朝に
 なる。
・車が熊谷を経て俵瀬に着いたのは午前八時を少し廻ったところだった。人力車を降り立
 った途端、吟子は眼を疑った。広い玄関口は開かれその右端の戸板に、「忌中」の黄の
 簾が掛かっている。
・保坪が低く沈んだ声で言った。「ぎんは今が一番大事な時だから心配かけるなと言われ
 たからだ」一瞬吟子は保坪の顔を見返したが、すぐに耐えきれるように眼をそらした。
 「死ぬ間際に譫言の中でお前の名前を呼んでいた」唇を?みながら、吟子は眼の前がか
 すんだ。慌てて両手で顔を覆うともはやこらえようはなかった。
・「お前の顔は二度と見たくない」と言いながら、吟子が東京へ出立する朝、母は自分で
 貯えた小金とお守りを渡してくれた。もしかするとあの時から母は言葉とはうらはらに
 吟子を許していたかもしれなかった。
 
十一
・好寿院を一緒に卒えた者の何人かは、すでに東京で前期、後期二つの試験を終え開業の
 準備をしていた。正直なところ、彼等の学才が吟子より優れていたとは思えない。成績
 だけならむしろ吟子の方が上であった。それが男というだけで堂々と開業を許されてい
 る。
・好寿院を卒えて一年半近い年月が経っていた。うかうかしていると折角好寿院で習った
 ものまで忘れてしまう。それに、(三十二歳になった)と気付いて吟子は思わず顔をあ
 げた。 
・考えあぐねた末、結局最後に浮んだ策は石黒忠悳の助力を乞うことであった。
・石黒忠悳は長与専斎の許に三度にわたって足を運んだ。長与は初めは冗談かと思ったら
 井上頼圀の添書を持ち、女が医者になって悪い理由はないと、長々と論じるのを聞いて
 ようやく本気だと思い始めた。
・女性の開業医受験を許す旨の布達が正式になされたのはこの長与と石黒の会談があって
 から半年経った明治十七年の秋であった。それはまさに日本の女医史にとって特筆すべ
 き事件であった。
・そのことを吟子は新聞で知った。活字を見ながら吟子はしばらく声も出なかった。これ
 で勉強だけすれば医者になれる。
・明治十七年九月、吟子は医術開業試験前期試験を受けた。この時、吟子の他に木村秀子、
 松浦さと子、岡田すみ子の三人の女性が同時に受けた。このうち初めの二人は海軍軍医
 学校の前身である成医会を卒えた者であった。 
・吟子は見事合格した。しかも女性合格者は吟子一人であった。
・もう一つ最大の難関である後期試験が六カ月後に控えていた。前期に合格して後期に落
 ちてはなんにもならない。吟子はまだ本気で喜べなかった。
・年が明けた。松の内にも吟子は勉学を続けた。暮も正月も吟子にはなかった。肉体的疲
 労と精神的な緊張が徐々に吟子の体を虐んできていた。一月の半ばに軽い発熱をみた吟
 子は二月に入ってまた二日ほど寝込んだ。後期試験を目前にして吟子は焦った。
・三月五日の夜、吟子は再び寒気を覚えた。試験は二日後であった。吟子は階下の少女に
 頼み 八丁堀仁成堂から解熱剤を買ってきて貰い、服むとすぐに布団にくるまって寝た。
・翌日になっても状態は同じだった。治ろうと治るまいと明日は朝九時から試験であった。
 吟子は床の中にもぐり込んだまま本を読み続けた。
・夕方、荻江が現われた。昼になっても熱が下がらないので少女を呼びにやったのである。
 「玉子酒でも作ってあげましょう。あれで温まって休めば治りますよ」「明日の試験を
 受けられないことにでもなったら、私口惜しくて死んでも死にきれないわ」「母さんに
 貰ったお札を握って眠るわ」
・玉子酒が効いたのは、十分もせずに吟子は疲れ果てたように寝入った。「母さま・・・」
 吟子の小さな口から声が洩れた。
・翌朝は、ぐっすり眠ったせいか熱はいくぶん下がったようである。体の節々はまだ気怠
 かったが、顔を洗い髪を整えた。七時に生玉子を二個と解熱剤をのむと、人力車を呼ん
 で試験場へ向かった。
・午前九時、試験は外科学から始まった。昼休みをはさみ午後二時で筆記試験は終わった。
 午後三時から臨床実験が行われた。十分間、患者を診たあと、診察結果について試問を
 受ける。
・試験が終わると、吟子は逃げるように部屋を出た。外に出て人力車を拾うと真っ直ぐに
 下宿へ戻った。布団に入ると体に悪寒が走った。避退に手を当ててみる。大変な熱であ
 る。とにかく終わった。結果への不安と、終わったという安心感で吟子は床につくとす
 ぐに見境いのない眠りに落ちた。
・三月二十日、後期試験の結果が発表になった。「一三五番 荻野吟子」吟子はその名を
 たしかに見た。「母さま」人混みのなかで吟子は呟いた。この時、明治十八年三月、吟
 子三十四歳の春であった。
 
十二
・かくして政府公許の女医第一号が生まれた。
・女医第一号として楠本いね子をあげる人がいるが、これは間違いである。いね子は吟子
 より二十四歳の年上であるが、西洋医術試験を受けて官で正式に許した医者ではなかっ
 た。いね子は蘭医シーボルトの娘で、蘭学の素養があるところから父の門下生であった
 「石井宗謙」と結婚し、さらに産科、外科学を学んだが、いね子の頃はまだ医術開業試
 験のなかった時代である。したがって医術の心得のある者なら誰でも医療にたずさわり、
 医師を名乗ることができたのである。
・いね子のように医術の心得があるところから医者であったと言うだけならば、彼女以前
 に京都の疋田千益、播州の松岡小けん、福岡の高場乱子などをあげねばならない。
・いね子が女医一号として誤り伝えられるのは、文明開化の東京で女性の身で初めて開業
 し、しかもそれが混血女であったということから喧伝されたためと思われる。
・合格と同時に吟子は当時の淑女の礼装と羽根のついた広い庇の帽子を買って、浅草田原
 町の写真店で写真を撮った。丸椅子に坐り帽子を手にもち、軽く右半身に胸をそった姿
 は、今も現存するが、いかにも吟子の誇りと気概を表してあまりある。
・医師免許を得た吟子は「本邦最初の女医」として新聞、雑誌に大きく報道されたが、そ
 れらはどれも吟子の学才を称え、これまでの努力を賞賛するものばかりであった。
・早速、見ず知らずの人から「家を貸そう」とか「土地を提供する」という話が持ち込ま
 れたが、吟子はそれらを丁重に断わり以前から世話になっていた高島嘉右衛門に二十円
 を借りると、湯島三組町に空いていた平家を借り受けた。こうして待望の産婦人科荻野
 医院が開業した。明治十八年の五月である。
・今の吟子には、母に見て貰えないことだけがただ一つの悲しみであった。 
・開院翌日から早くも十二、三人の患者が現われた。開業一カ月もすると荻野医院の待合
 室はたちまち患者で溢れた。
・開業してみて吟子は今更のように婦人に花柳病が多いのに驚いた。相手が女性だという
 ことで、今まで耐えていた女達が一斉に押し寄せたせいでもある。それにしてもこうま
 で多いとは思わなかった。
・苦しさを知っているだけに吟子の診察は懇切丁寧であった。お医者様といえば現在とは
 比較にならぬほど権威と社会的地位があった時代である。「いつから悪いのですか」と
 やさしく尋ねる。しかも尋ねる先生が小柄な細身の女性である。これが男さえ容易にと
 れぬ医術開業試験という難関を突破した女とはとても思えない。近所の娘といった感じ
 である。吟子の姿は医者という偉く近寄りがたい先生という印象からはほど遠かった。
・荻野医院に通ってくる患者の中に井村すえという患者がいた。初めの日、すえは病院に
 七、八歳になる男の子を連れてきた。女と子供の身なりの様子ではのんびり休養する余
 裕はないのかもしれなかった。
・「いくらですか・・・」吟子は女の表情を見て普通の半値の値段を言った。女は少し考
 えるように小首を傾けていたが、やがて決心したように、「三日分だけ・・・」と言っ
 た。「お金ならいつでもいいです。ひとまず五日分持ってらっしゃい」吟子はカルテの
 右上に「治療費免除」と書き足した。
・吟子にとって病院経営は決して楽なわけではなかった。高島嘉右衛門に借りた金の返済
 は勿論だが、長年苦労をかけた姉の友子にも一刻も早く恩返しをしたい。誰もが、何一
 つ催促がましいことは言わず、一種の「ある時払いの催促なし」みたいなものだから日
 々苦しくというようなことはないが、相手の好意が分かるだけに、一層その厚意に報い
 たいと思う。
・だが訪れてくる患者は必ずしも裕福な者ばかりとは限らない。湯島界隈はちょうど下町
 と山の手の中間といったところで、両方の階級の人達が混じり合って棲んでいる。商家
 の内儀や大店のお妾さんといった比較的裕福な階層に交じって、下谷の一角には労働や
 行商から辻芸人、者貰いといった細民の端くれまでが棲んでいた。
・「医は仁術」とはまさにこの頃の吟子のことであった。もっともこんな考えは今はすで
 に通用しない。この点に関し、今の医者は儲け主義一筋で昔の医者のような人情味がな
 い、という人もいるが、これは必ずしも当たっていない。たしかに義侠心といったもの
 は薄れてしまったが、それは世間一般の風潮であって、あながち医者だけ責めるわけに
 はいかない。事実、現在のもっとも儲け主義な開業医でさえ、明治時代の医師の経済状
 態からみるとはるかに低い。まさに雲泥の差がある。当時は診察料がいくら、何の薬が
 いくら、などと細かい取りきめなどは何ひとつなかった。
・「払いは盆暮れまで待つ」とか「水薬代はいらぬ」といったところで、医師にとっては
 まことに微々たるものである。それも限られた医師がごく稀に行ったに過ぎない。稀だ
 からこそ大層評判になるのである。それでも時たまこういうことをしておけば「あの先
 生は仁術だ」ということでぱっと人気がでる。
・もう一つ、医師として自負心というか、自尊心も昔からみると随分と低下してしまった。
 現在では医者は医術提供者として、単なる技術者になり下がってしまった、という批判
 もある。だが、こうした傾向もあながち悪いとはいいきれない。このおかげで医者は随
 分と庶民的になった。とくに明治時代の医者は今では想像もつかない尊大さであった。
・町を歩いていても、患者に会うと吟子は自分から声をかけた。医者といえば往来は駕籠
 で歩くか、明治の半ばからは人力車というのが通り相場であった。従って道では滅多に
 医者の顔など見ることさえ出来ない。それが自分から買物にも出るし、向うから話しか
 けてもくれる。こんな医者は初めてだった。
・吟子の評判はみるみる上がった。外来から往診と朝の九時から夜の八時すぎまでほとん
 ど休む暇もなかった。 
・江戸時代以来、医者にだけは不義理はしない、というのが人々の考えであった。医者に
 不義理をしてはその地に居辛くなるからである。もしかの時の備えのため、借金がなく
 ても盆暮にはかかりつけの医者にだけは届け物をするのが当時の風習であった。それが
 「まさか」の時の心頼みでもあった。
・開業して三カ月近い月日が経ってようやく心のゆとりができてきた。だがそれは開業に
 慣れたというだけで気持ちのうえで安定しているということではなかった。それより気
 持ちだけのことから言えば、開業してからの方が、かえって何かと波立つことの方が多
 かった。
・頼圀の家を訪れる気になったのも、開業して感じたことを頼圀に訴えてみたい気持ちが
 あったからでもある。
・「この頃、医者であることが何か急につまらなく思えてきました。医者が患者にしてや
 れることは本当に微々たるものだと思うのです「医者が足りないとか、体が続かないと
 いうことを言っているのではありません。まず私がいくらやりたくても患者が来てくれ
 なければどうにもなりません。たとえ来たとしても、こちらの言うことを守ってくれる
 のでなければなりません。また患者が守ろうとしても周りの人が協力してくれるのでな
 ければどうにもなりません」
・「いいえ、現実には医療を与えるより、その人の周りの環境を改めた方がはるかにいい
 といった場合がたくさんあります。その方がずっと手っ取り早いのです。要するに医療
 以上のもっと大きな問題、貧困とか社会制度とか、慣習とか、そういったことを取り除
 き改めることが先決ではないか、それらを改めないで医術だけ先走りしたところでどう
 になるわけでもない、そんな風に思えるのです」
・「あれ、臭いかな。臭いぞ、やったらしい」頼圀は抱いていた膝元の子供を妻に渡した。
 途端に子供は泣き出した。「子供って奴は場所も相手もお構いなしですからなあ」 
・吟子は思いかげぬ絵巻でもみるように頼圀の仕種を見ていた。「で、なんでしたかな」
 中断されたことで吟子は話す気力を失った。
・「あなたはお医者様なのだから、そこまで考える必要はないように思うがいかがかな」
 それを聞いて、吟子は頼圀がすでに自分が師として仰ぐだけの気概も見識もないのでは
 ないかと思った。  

十三
・吟子がキリスト教に関心をもち本郷教会に通い出したのは、こうした医者という職業の
 限界を感じたのが直接の動機であった。
・明治十年代の日本のプロテスタントグループは、人物系譜的にみて三つの流れがみられ
 る。
 ・その一:横浜宣教師塾の出身者によるもの横浜バンド(正統的神学に立つ)
      植村正久、本多庸一、押川方義らに代表される
 ・その二:熊本洋学校から同志社の系統連なる熊本バンド(国学主義的傾向をもつ)
      「新島襄」、小崎弘道、宮川経輝ら
 ・その三:札幌農学校出身者により形成された札幌バンド(個人主義的傾向が強い)
      佐藤昌介、「新渡戸稲造」、宮部金吾ら
・海老名弾正はこの第二の熊本バンドが生んだ第一級の人物である。だが本郷講義所に来
 たとき、海老名はまだ三十歳の若さであった。海老名は信仰一筋の実直な牧師というよ
 りは、娑婆っ気ももった行動派で、基督教を単なる教えというより、実学的な面からと
 らえていた。地の利とは言え吟子がキリスト教に興味を持ち始めた時、近くに海老名が
 いたということは彼女の後半生に決定的な影響を与えることとなった。一カ月もすると
 吟子はもう信者と同じような熱っぽさで講義所に通い、そのために日曜は休診とするこ
 とにした。
・「今まで、私は私自身のことしか眼中にありませんでした。一日も早く一刻も早く、女
 医者になる。そして女なるが故に受けた屈辱を見返してやる。表では女の患者の屈辱を
 救ってやろうと願いながら、心の底では見返してやろうという復讐心でした。辱めを与
 えた男へは勿論、私を除け者にした家族や親戚、郷里、友達、そして自分自身に対して
 もです。復讐するまでは頑張ろうと思いました。でも誰にも負まいというのは裏を返せ
 は自分だけ抜きん出ようという功名心でした。自分だけ磨き、自分だけ秀れた知識を得
 たいと思いました。女医者になり社会的地位さえ得られればすべては解決するものだと
 思っていました。自分一人の実に小さなものに私はかかずり合っていたのです」と吟子
 は海老名牧師に打明けた。海老名の後ろにはキリストの像が見下ろしている。海老名に
 見詰められることはキリストに見詰められていることだと吟子は思った。
・海老名の思想はすべて体験に裏付けられていた。このような彼の見解は紛れもなく自由
 主義的キリスト教そのものであった。結局、海老名は福音による人間の根本的な改革を
 求めたのではなく現実における忠君愛国の思想や、親子の関係といったものを認めた上
 で、それらがすべてキリスト教のより深い境地に繋がり融合していけると考えたのであ
 る。この考えには、対決とか転換といった大袈裟な倫理はなに一つなく、ただ摂取包括
 の考えだけが働いている。彼が時代の潮流や他人の論理をたくみに処理した「調子のよ
 さ」はそこから生まれてきたのである。
・ともかく頑固者の多かった初期のプロテスタント・キリスト教信者の中で、海老名の評
 価はどうであれ、吟子が海老名の口説によって、入信の決意を固めたのは間違いない事
 実であった。明治十八年十一月、吟子は海老名弾正により洗礼を受けた。
・荻野医院は待合室が手狭になり、明治十九年お秋に湯島三組町から上野西黒門町にひと
 まわり大きい家を借りて移ることになった。それとともに関口とみ子という看護婦と専
 門の車夫を新たに採用した。これで荻野病院は医者一人に看護婦二名、下働きの男一人
 に女中一人、そして車夫と、医院として見劣りしない態勢になった。
・医院は相変わらず混んでいた。外来は勿論だが朝早くや、夜遅く往診の依頼があっても
 吟子は嫌な顔を一つせず気軽に出かけていったので患者は増える一方であった。だがこ
 の頃から吟子の興味は医者としての仕事よりも、キリスト教信者としての社会運動に向
 けられていった。
・往診のあと夕食を終え風呂に入ると九時になる。それから吟子は自室に閉じこもって本
 を読む。もう灯油代や本代に頭を悩ます必要もなかった。試験への焦りも、明日の生活
 への不安もなかった。すべて吟子の一存でやりたいだけ自由に勉強することができる。
 読むほど面白いことが知られる。それと合わせるように医者という立場の利点で、さま
 ざまな世間から人の表裏まで見られる。吟子の生活は徐々に豊かさを加えそれにつれて
 キリスト教への心酔は一層強まった。入信して半年もするとすでに吟子は本郷教会の有
 力な信者の一人になった。
・一方、医者としての吟子の評判が高まるにつれ、女医志願者は日を追って増えていた。
 中には吟子の名声をきいて地方から上京し、何の紹介もなしに直接吟子の家へとび込み、
 書生よろしく寄食するという勇ましい女医学生まで現われた。来るものは拒まず、吟子
 は彼女等を自由に二回の空部屋住まわせた。
・こうして吟子のあと、明治十九年には「生沢クノ」が開業試験に及第して女医第二号と
 なり次いで明治二十年には高橋瑞子が、さらに明治二十一年には本多銓子が開業試験に
 合格した。 

十四
・明治十九年の秋、基督教婦人矯風会が組織された。これは日本の婦人達による社会運動
 の最初の烽火であった。この会を率先主唱し統率したのが「矢島楫子」である。
・発会と同時に吟子は進んでこの会に参加し風俗部長の要職についた。 
・日清戦争はこの八年後に起きているが、当時は外国との戦争の危機感はまだなかった。
 社会が乱れ、女性が難儀する最大の原因は男性の酒であった。
・「私は現在の社会悪の根源は、廓と娼婦の存在にあると思います。女性が男性の性の慰
 みものとなり、自由を束縛されているということは同じ人間として許されるべきことで
 はありません。廓の存在で幾人の婦人が嘆き苦しんでいるか分かりません。これは廓に
 棲む女も、それに通う男の妻も同じです。文明国としてこれほど羞ずべきことはありま
 せん。しかも娼婦は怖るべき花柳病の源泉です。そこから病気は拡がり何も知らぬ婦女
 子まで侵すことになります。それで苦しんでいる婦女子は無数におります。悪病の巣と
 知りながらこれを放置しておく手はないと思います。廃娼運動こそ婦人矯風会として手
 がけるべき第一の問題だと思います」吟子は頬を軽く染め、胸を張って言い切った。居
 並ぶ会員達の間で吟子の若さは際だっていた。
・この運動方針は満場一致で採択された。かくして、「平和、禁酒、廃娼」の三つが矯風
 会の当初の運動方針となった。 
・会が発足して一年経った明治二十年十月、一人の女が本郷の教会に駆け込んできた。一
 見して素人女ではないと分かるが年齢はまだ十六、七歳と思われる。川越の産で、一年
 前に深川の廓に売られたが、勤めが辛くて逃げてきたのだという。吟子は早速、矢島会
 頭以下全会員に告げ善後策について相談した。
・廓を無断で逃げた以上、女も命がけであった。これが江戸時代なら見付けられ次第、廓
 に戻され、生かすも殺すも雇主の自由であった。文明開化の明治ともなればそれほどの
  こともなかったが、前以上の苦業が娘に課せられることは目に見えていた。
・「私が引受人になりましょう」吟子は平然と言った。だが危惧していたことはすぐに現
 実となった。五日後、吟子の病院に三人の遊び人風の男がやってきた。廓の用心棒であ
 ることは一目でわかった。
・女をかくまっておくのは危険だった。吟子は矢島らと相談した結果、女の身柄を警察に
 預け、そこから郷里へ送り返して貰うことにした。
・廃娼運動が全国的に注目を浴びたのは、この翌年、吉原が大火に見舞われて、その大半
 を消失した時からである。
・矯風会の活動が活発になるにつれ、吟子の日常は多忙をきわめた。診察、往診に追われ
 るなかで、吟子はこの会の集まりにだけはどんなに忙しくてもきっと出席した。
・この忙しさに輪をかけるように吟子は大日本婦人衛生会の幹事に推され引き受けた。
・この種の役職はまだあった。翌明治二十二年には開業の余暇に明治女学校の教師として、
 生理、衛生を教えるよう懇願され、同時にこの学校の校医になることを頼まれた。今度
 も吟子は忙しさが一層つのることを知りながら受けた。
・好むと好まざるとにかかわらず、すでに吟子は社会の第一線に立ち、脚光を浴びながら
 働かざるを得ない立場に追い込まれていた。
・日本の最初の女医として、また熱心なクリスチャンとして吟子の名は知識階級の間で次
 第に高まっていった。 
・しかしこの頃荻野医院は必ずしも繁昌を極めたわけではなかった。開業二年を経ず、西
 黒門町へ移った頃は、この先どうなるかと思われるほどの伸びようであったが、そのあ
 とは患者の数はほとんど頭打ちであった。
・西黒門町に移ってからは吟子の家には絶えず二、三人の女医学生が寄食して勉強のかた
 わら医院を手伝っていた。 
・下々の評判はともなく、明治になってうまれた新しい知識階級の間で、吟子の名は少し
 ずつ知られ、それとともに吟子は上流知識人との交際が拡がっていった。それは吟子が
 格別意識的に求めたわけでも、望んだわけでもなかったが、水が低きに流れるように自
 然になったことであった。
・女医になり、女性の患者の屈辱を救ってやる、という所期の目的そのものはすでに達成
 された。それだけではなく今や女権そのものの獲得運動を指導する立場にいた。吟子は
 華やかな光を浴び、輝かしい未来だけが約束されると思えた。事実、このまま進めば吟
 子は明治の女性史のみならず、明治史そのものにも偉大な先達者として名を残したに違
 いなかった。だが運命はどこでどう変わるとも限らない。
・明治二十年の春、吟子は大宮教会の牧師、大久保真次郎夫婦と知り合った。その夫人と
 は女権拡張へ同じ意志をもっていたところから吟子と夫人は急速に近づいた。その夫
 人の依頼で、同志社の男の学生を泊めることになった。「志方之善」という男であった。
・熊谷から姉の友子が上京して来たのは、六月の半ばであった。吟子より四つ上の友子は
 田舎に棲んでいるせいか年老いて、吟子より十近く上に見えた。友子の夫はすでに十年
 前に死んでいた。夫に死別してから友子は土蔵を利用して質屋を経営しながら遺児四人
 を立派に育てあげていた。三人の娘はそれぞれ嫁ぎ、ただ一人の男の子は嫁を貰い孫も
 生まれ、ようやく友子は家庭から解放されていた。
・「俵瀬はどうなんですか」「もう昔の面影はありません。裏の畑も桑の権利も人手に渡
 って、残っているのは邸と用水堀までの土地ぐらいのものですよ。本当にひどい変わり
 様です」「実家はやはり、やいさんが潰したのです。あの人の金遣いの荒さといったら
 あの辺りで有名ですからね。おまけに仕事嫌いときています。一家を守る妻があれでは
 家が傾くのは当り前ですよ」
・吟子も保坪には初めから多くは期待していなかった。親から譲りうけた土地屋敷を守っ
 てくれさえしたらいいと思った。利根の土手まで見渡すかぎり、荻野の家の土地だと言
 われたが、今は邸と掘割までの土地しか残っていないという。
・明治維新以来、没落した家を吟子は東京であきるほど見てきている。かつて高名な旗本
 の息子の内儀がどこそこの料亭に下働きで出ているとか、何家の土地が売りに出されて
 いるといった話は珍しくない。すべて変わっていく時に荻野の家が変わるのも、また止
 むを得ないことなのかもしれなかった。東京という現実の金と力だけによって人間関係
 が支配される都会に住んでいるせいか、吟子は実家の没落もある程度素直にうけつめる
 ことができた。だが田舎に、しかも実家に近く住んでいる友子には耐えられないことの
 ようであった。
・「この前、貫一郎さんが見えました。川上のお家は相変わらず繁昌のようで、今度貫一
 郎さんは銀行を創るそうです。あなたが開業したことも、いろいろと活躍していること
 もみなよく御存じで、我がことのように御喜びでしたよ」
・たしかに頭もよく学問もある人だった。あの頃貫一郎は誰かに誘われて何気なく色街に
 いったのかもしれなかった。病気になったことも、稲村という家の重さも、せいという
 姑の息苦しさも、必ずしも貫一郎一人の責任というわけでもなかった。貫一郎という男
 そのものは悪い人ではなかったかもしれない。
・しかし本当に私はあの人とは無関係なのだろうか。今の私は、貫一郎とのことがあった
 から存在しているのだ。それは疑いようもない事実であった。あの悲しみと屈辱がなか
 ったら女医にもならず、基督教徒にもならなかったかもしれない。少なくとも女医にな
 らなかったことだけははっきりしている。発端の原因がそこにある以上、どう考えても
 その影響を見捨てることはできない。しかもそれは決意だけではない。吟子の体の中に
 は貫一郎から受けた傷が今も確かに残っている。どうもがこうと捨てることはできない。
 頭では忘れたが、体では生きている。そのことが吟子には耐えられぬほど口惜しい。口
 惜しいが否定できない。吟子は自分が男から受ける側の女という性であることを今改め
 て知った。
  
十五
・「私の生まれは熊本県山鹿郡小鹿町というところで、父は熊本藩の士族でしたが、私が
 十三の時、亡くなりました。ちょうど西南戦争の最中です」と志方之善は言った。西南
 の役の時は吟子はすでに女子師範に入っていた。その頃、志方はまだ十三歳前後の悪童
 であったというのだ。吟子はそれほど年齢の差のあるものが、自分の話し相手になって
 いることが不思議であった。
・「入信されたのはいつですか?」「明治十九年の秋です。親友に誘われたのがきっかけ
 で、新島襄先生に洗礼を受けました」 
・「私は先生の勇気には真底、感心しております。誰もなりえなかった女医の道を切り拓
 かれた。更に、矯風会で立派な活動をなされている」志方の言うことは単なる世辞では
 なかった。見るからに一本気なこの男に、女への世辞など言えるとは思えない。
・吟子は自分を一方的に賞めたたえる青年の熱っぽい言い方が可笑しかった。歯のうくよ
 うな世辞でないだけに気持ちがいい。
・喋りながら青年の顔は紅潮し、額に薄く汗が滲んでいる。志方の言うことは吟子の考え
 とほとんど変わらない。意見が合うということもあるが、青年の熱心なものの言いよう
 が吟子には好ましい。
・学生の常として志方の言い方はいささか廻りくどいが、言おうとしていることはよくわ
 かる。志方の意見は外見に似ずスマートである。今でこそこんな理論は珍しくもないが、
 当時としては一般の人が聞いたら、本気かと疑うほどの画期的な意見であった。
・「僕は学校を出たら是非やりたいと思っていることが一つだけあるのです」「こんな狭
 苦しい土地を離れるのです。離れでどこか、うんとでっかい土地へ行ってそこに信者だ
 けの理想郷を作るのです。大自然の中に信者の楽園を造るのです。こせこせとした成上
 り者の官僚なぞとは無関係に、信者だけの自給自足の生活をするのです。清教徒がメイ
 フラワー号でアメリカに渡ったように」志方は腕を拡げ、夢見るように上体を軽く前後
 に揺らした。
・興奮で志方の眼は赤く潤んでみえた。黒く大きな瞳である。その眼の中に吟子の顔が映
 っている。見るうちに吟子は引き込まれるような気がした。
・吟子は上から志方に見詰められているのを知った。すると急に息苦しさに襲われ、逃れ
 ようと思うが、四肢が強張ったように動かない。体が自分のもので自分のようでない。
 身動き一つせず吟子は志方の胸を見ていた。
・「先生」低く志方が呟いた。眼の前に志方の顔があった。闇の中で青年の眼が燃えてい
 るのが分かった。窓際に置いた吟子の右手の端が志方の左手に触れていた。それはほん
 の一部だがそこから青年の血が流れてくるのが分かった。本当だろうか、と吟子は思っ
 た。だがすぎまさか、と打消す。体の中を渦が駆け巡っている。今が現実かどうか吟子
 には分からなくなった。廊下を小走りに座敷へ駆け込む。戸を閉めたところでひと息つ
 く。それとわかる大きな鼓動が胸の中で鳴り続けている。

十六
・志方は途中の高崎と長野の二カ所から手紙を寄越した。「伝道の合間にも先生のことを
 思い出し、自分の至らなさに呆れおり候」とある。
・「思い出す」とはどういうことであろうか。自分の一体何を思い出すというのであろう
 か。普通ではればこれは愛の告白である。だが吟子はそれを愛の言葉と素直に受け取る
 気にはなれない。十三歳も年下の青年が自分を愛するなどということは信じられない。
 そんなことはあり得べきことではない。あっていいはずはない。
・志方が何か悪いことをしたというわけではない。考えてみると、ただ一時、気持ちよい
 議論をし、熱い眼差しを注いだだけである。それを愛のごとく感じたのは吟子の勝手で
 ある。
・二十六歳の青年が四十のお婆さんを相手にするわけはない。
・九月の半ば、夕食を終え自室に戻って本を読んでいる時、もとが慌しく入ってきた。
 「あのう、志方さまが玄関にお見えです」
・「今晩、泊めていただけますか」「構いませんけど、大学の方は」「「やめました」
 志方は目を閉じ、唇を噛んだ。志方のこんな表情を見るのは初めてだった。
・突然、志方が両手をついた。「先生っ、僕と・・・結婚してください」「断られても戻
 るところはありません。学校も下宿も皆引き払って出てきたのです」
・何と無茶な男である。無謀というか勝手というか「押しかけ女房」というのがあるが、
 これでは「押しかけ亭主」である。
・「私は先生の高邁な知識と姿の上品さにひかれたのです。先生のように知的な女性と一
 緒になるのが私の長年の夢でした。私はいまようやく理想の人を見付けたのです」
・熊本時代から志方は知的な女性に弱かった。郷里の学塾にいた十二歳の時、そこの女教
 師に激しい恋心を抱いたことがある。この傾向は志方が知的というより情熱的な男であ
 ることに無関係ではない。
・吟子の脳裏にさまざまな親戚知己の顔が走り過ぎる。十三歳年下の学生と結婚すると言
 えば彼等は何と言うだろうか。それを思うと吟子が身が竦んだ。
・まったくこんな強引なプロポーズは迷惑であった。何の報せもなく裸同然でとび込んで
 きて 指揮下どうかと決断を迫られても、答えられる筈がなかった。女心を無視した身
 勝手なやり方である。いい気なもんである。
・その向うみずな一途なところが憎めない。自分をそれほどまでに思い詰めてくれたとい
 うことがたまらなく嬉しかった。それだけ正面からぶちつけてくる男が惜しい。愛おし
 くて離したくないのだ。
・あの大きな体が私に向ってつき進んでくる。あの巨体が私をとらえる。志方が手の届く
 ところにいるという怯えと喜びが渦になって、吟子の全身を錐のように貫いていた。
・結婚するとなると、志方は私を求めるのだろうか。瞬間、吟子は忘れていた不安にとら
 われた。今の今まで吟子はそれを考えていなかった。どうすればいいのか、何という迂
 闊なことか。それは結婚する男と女に求める当然のことであった。
・志方は私の体の秘密を知らない。膿淋持ちの女だとは夢想だにしていない。それも告げ
 るべきか。愛し合っていれば正直に告げるのが本当かもしれぬ。
・「やはり、あの人とは一緒になれないのだ」吟子は未練がましい自分を払い捨てるよう
 につぶやいた。 
・「貴方と一緒に神の道を進みます」吟子は受ける気持ちをそのような言葉で表した。
 そこには熟慮の果ての堅い決心と小さな羞じらいがあった。
・吸い込まれるように吟子は志方の腕の中に抱え込まれた。吟子の小さな体が志方の体の
 中に埋もれた。眼の前の広く大きな志方の胸がある。それは少し汗っぽく塩っ辛い。大
 きな手が後ろから髪と背を支えている。暗い輪の中で吟子はかぎりなく安らかで静かだ
 った。全身が和み柔かくなっていくのがわかった。それは二十数年間、吟子が置き忘れ
 てきた感触であった。この安らぎを私は求めていたのだ。吟子はいまは素直に思うこと
 ができた。
・結婚すると決まった以上、躊躇する理由はなかった。三日後、吟子は使用人と教会の人
 達へ告げた。だがきいた人はみな志方との結婚に反対した。使用人達まで信じられぬよ
 うに目を見張ったまま、うなずこうとはしない。
・姉の友子も反対だった。だが一度こうと決めたら揺るがない吟子の性格を人一倍知って
 いるだけに、友子の手紙は初めから諦めた文面であった。
・長兄の保坪も、嫁のやいも、長姉そのえも、羽生に嫁いだまさも親戚はもちろん、さま
 ざまな友人から松本萩江さえも口裏を合わせたように反対した。
・兄達の反対理由は「四十歳になって十三歳も年下の素姓も定かならぬ学生風情と」とい
 うことであったが、萩江達は「吟子と志方ではあまりに釣合いとれぬ、吟子が惜しい」
 という理由であった。
・志方にすでに両親はなかったが、姉や義兄が熊本や神戸にいた。これらの兄姉も吟子へ
 のちょうど逆の「年齢が上すぎて、女の地位が高すぎる」という理由で反対した。しか
 し燃えついた二人の恋情はそんなことで止むわけもない。むしろ周囲の反対で一層、二
 人の気持ちは強まっていく。
・「仲人は大久庭先生御夫婦にお願いしましょう」二人の馴れ初めの経過から見て、それ
 が一番適切だと思えた。吟子の言うことに志方は異存はない。すでに婦唱夫随である。
・だが意外にも大久保夫婦は仲人は引き受けかねる、という返事がきた。
 「志方はいまだ学生にして世間知らず、思慮も浅く、理想のみ高けれど人の一生、一時
 の情熱のみにて生きていけるとも思われず、志方には貴殿は過ぎたるもの、年の逆差も
 長き眼でみれば将来の幸せを過つものと愚考しおり候」
・志方は恋人であり、時には子供になる。志方の一途さが吟子にはたまらなく愛おしい。
 男性とは横暴で身勝手、獣のようなものと思ってきた吟子にとって、志方はまったく別
 の存在であった。大きくて優しくて従順である。長い間一人で生きてきた吟子の自尊心
 と淋しさを志方は満たしてくれる。
・明治二十三年十一月、吟子は之善と、熊本県小鹿町の志方の生家で、O/Hギューギ師
 司式のもとに結婚式をあげた。吟子三十九歳、之善二十六歳であった。
 
十七
・何よりも吟子が気になったのは、業病にも似た「下の病」のことであった。吟子が志方
 に体を初めて許したのは熊本での式を終えた翌日であった。開業以来吟子の病気はずっ
 と落ち着いていた。時には軽く下腹が疼くこともあったが、それも二、三日でおさまっ
 た。病気は完全に潜んでいたが、いつ動き出すとも限らないし、動き出した時に関係を
 持つことは志方へうつすことになる。
・子供を産んだことのない吟子の体は小さく引き締まっていた。志方の愛撫はぎこちない。
 ただ猛進するだけだったが、その点では一度結婚しているとはいえ吟子も同じだった。
 貫一郎とは姓の悦びを知らぬ前に別れていた。性に関してだけは二人はほぼ同じ地点か
 らスタートした。二十数年間、男の感触を忘れていた体は初めは苦しげに、しかしゆっ
 くりと目覚めていった。 
・だが行為の前に吟子はきまって病気の不安を感じた。自分が悪事を働く罪人のように思
 えた。志方に身をゆだね目を閉じてすべてを忘れようとする。志方が入ってきて吟子の
 不安はようやく薄れる。わずかに昇りつめていく感覚がある。だがそのあと吟子の酔い
 は急速に醒めていく。大丈夫だろうか・・・。瞬間の悦びから戻りながら吟子は罪を重
 ねた黒い思いに閉ざされる。 
・二カ月経ったが志方に異常が現われた兆しはなかった。志方の素振りを見、下の物を洗
 濯していればそのことはすぐ気付く。いまのところは大丈夫らしい。吟子は妻ではなく、
 医師の眼で夫を確かめたあとで自分に言いきかせるが、夫を欺いた気持ちは拭えなかっ
 た。
・二月の末、志方は教会から戻ってくるとすぐ吟子を二階の部屋に呼んだ。「実は、北海
 道へ行こうと思うのだが」「基督教徒の理想郷を作るのだ」
・当時の北海道は名前こそ北海道と改められたが、内地の人達はまだ「蝦夷」と呼んでい
 た。北海道について内地の者が知っていることと言えば、南の海岸で大量に鰊が獲れる、
 ということぐらいで、あとは雪と寒さに閉ざされた不毛の土地という印象しかなかった。
 出稼ぎの漁民以外は、維新で政府の追及を受けた幕軍方の武士や、罪人が細々と生きて
 いるだけで、あとは狼と熊とアイヌだけが棲む未開の土地と思われていた。
・「まず俺が行く。現地へ入り耕した上、棲めるようになったら呼ぶ。なに棲めるように
 なるまでなら一年とかからぬ」「このままここにいてもどうにもならない」「おもいき
 りやってみたいのです」「病院のことは後でゆっくり考えてくれていいのです。とにか
 く私一人だけでも行く」
・なんといっても、この人は行ってしまう。近いと思っていた夫が急に遠く離れてみえた。
 自分の掌中にあると思った男がするすると掌の中を抜けてゆく。自分の届かぬところへ
 行ってしまう。胸を張り見据えている夫に吟子は初めて自分とは違う男を見出していた。
 
十八
・明治二十四年五月、志方は同志社の同期生であった丸山伝太郎の弟要次郎とわずか二人
 で北海道へ渡った。志方等の乗った汽船は、瀬棚港に上陸した。当時の瀬棚は定住する
 者といえばアイヌだけであったが、江戸寛政の頃から鰊漁場として次第にさかえ、鰊漁
 期には松前、東北から出稼ぎ漁夫で賑わった。しかしこの地から一歩内陸に入った利別
 原野は人跡を見ない未開の土地で十里奥の東瀬棚でさえ、和人で定住したのは明治十七
 年に徳島県人太東伊太郎が入植したのが初めてであった。志方の入植した明治二十四年
 には、彼等を含めて八十二戸、百数十名の者が、広大な利別川流域の鬱蒼たる樹林の間
 にまばらに定住しているに過ぎなかった。
・十月の末、志方は要次郎を残し往路と同じ海路を経て横浜へ戻った。吟子は医院を休診
 にして横浜桟橋へ迎えに出た。
・吟子は夫の黒く陽灼けした顔を珍しいももののように見上げた。骨格は以前のままがっ
 しりしているが、肩から背の肉はそげたように落ちていた。一年前、理想ばかり追う一
 途な青年とみえた志方が、今は風雪に耐えた猛々しく鋭利な男の風貌に変わっていた。
・「私も一緒にいっても宜しいのですよ」「あなたはここにいて下さい」「私は東京を離
 れ医者をやめることに未練はないのです。貴方が来いとおっしゃればいつでもいくので
 す。私も信者なのですから」吟子は心とはまるで別のことを言っていた。言いながらそ
 んなことを平気で言える自分に呆れていた。「私も開墾に従っていいのです。鍬や鉈を
 ふるいます」「今のままではとても無理です。体を壊しに行くようなものです」「正直
 なところ行ってみて私自身驚いたのです。皆に言ってはいないが今でも前途に絶対的な
 自信はないのです。もしかするとかなりの人が脱落しるかもしれません。でもやりかけ
 た以上やめるわけにはいきません」
・明治二十五年四月、雪溶けを待って、志方は再び北海道へ向った。今度は志方の姉夫婦
 をはじめ新たに五人の同志が加わった。前年の秋、上野ー青森間の鉄道が開通したので、
 今度は汽車を利用した。
・志方の再入植とほとんど時を同じくして徳島県人七十戸が中焼野の中間にある長淵に入
 植し、続いて明治二十五年五月にはそのすぐ上流に福島県人「丹羽五郎」ほか十二戸が
 入植した。
・明けて明治二十六年、春には志方の同志、高林康吉、島津熊三郎、丸山伝次郎も到着し、
 三カ月後にそれぞれの家族を呼んだ。
・またこの年の夏、瀬棚ー国縫間の道路は荷車一台通れるだけの貧弱な道路ながら、とも
 かく開通し、函館からの内陸行路はようやく道に迷う危険がなくなった。
・明治二十六、二十七年と年を重ねるにつれ日本と清国との緊張は増し国内は騒然として
 きた。日本と清国間は戦争必至の雲行きであった。この国家お威信をかけた戦争を目前
 にしては基督教伝道もいささか色褪せてしまった。この点では志方の予感は当たってい
 た。
・明治二十六年の末に、俵瀬の実家の兄、保坪が四十七歳で死んだ。死因は脳出血であっ
 た。吟子は迷ったが友子のすすめもあって俵瀬へ行った。保坪の死もさることながら久
 しぶりに父母の墓参りもしたかった。その底にはもし北海道へ渡ったらほぼ永久に帰っ
 てこられないかもしれぬ、という気持ちもあった。
・十年前、人力車で走った道を今は汽車が走っていた。母が死んだ時の悲しみと、その時
 の人々の眼の冷たさが改めて重くなった。だが故郷の様子は汽車の中で想像していたの
 とは違っていた。人々の態度からは十年前吟子に対したような冷たさは消え、畏敬と好
 奇心の交じり合った眼差しに変わっていた。
・「北海道なぞに行くのは内地で食いつめたか、何かの事情で内地に居られなくなった人
 達ばかりよ。いくら信者といったってあなたが行かなければならない理由はないわ。あ
 なたは東京でお医者さまとして立派にやっていける人じゃないの。あなたが何も荒れく
 れた男達に交じって気を伐ったり倒したり、掘立小屋に住む必要はないでしょう。あん
 な寒い所に行って命を縮めるだけよ」と友子は吟子に言った。
・「でも、私は志方の・・・」「妻だというのでしょう。じゃ夫である志方さんはあなた
 に何をしてくれたというの。結婚費用から生活費まで出させて、居候して、挙句の果て
 に北海道へ行くなどと自分勝手なことを言い出して、ついにはあなたまで引っぱり出そ
 うというのでしょう」「彼の目的はただ基督教の理想郷を作りたいだけよ」「理想郷な
 どと言っても態のいい開拓じゃないの。馬鹿げた話よ」「ともかくもそれは私達夫婦の
 問題だわ」冷やかにつっぱねながら、友子が黙ったことで吟子は急に不安を覚えた。
 
十九
・北海道へ行くことは志方が二度目に渡道した時から覚悟はしていたし、いつか行くのだ
 と決めていた。だが志方は一向に言ってこない。二度目には姉のしめを連れていき、翌
 年には同士の高林、丸山らが妻を呼び寄せているのに、志方は吟子を呼ぼうとはしない。
・私は我儘すぎはしないか。志方が来いといってこないのをいいことに甘えていたのでは
 ないか。現に高林の妻も丸山の妻も行ったではないか。女が行って行けぬわけはない。
 自分は医師であり、名士で社会的に重要な立場にいる。他の女達と違うと思っていたの
 ではないか。
・「行こう」その朝、吟子ははっきりと心に決めた。夫なら夫らしく来いと命じればよい
 ではないか。心が決まってみれば志方の自分への気の使いようがむしろ腹立たしく口惜
 しかった。
・明治二十七年六月、吟子は単身夫の待つ北海道へ向った。医院は処分し、家財道具のす
 べてはもと、関口等使用人に分け与えた。
・「惜しいわ」見送りの人垣の中で大久保夫人は夫の真次郎に囁いた。このまま東京にい
 れば医師としてはもとより、社会運動家として名をはせ、大をなすことは眼に見えてい
 た。大久保夫人が惜しいと思うのはその未来を失うことであった。
・あの結婚は間違っていたのだ。この感情は大久保夫人だけでなく、ホームに集まった人、
 全員が口には出さぬが同様に感じていた気持ちだった。
  
二十
・覚悟はしていたが、開拓地での生活は吟子にとっても想像以上のものであった。志方と
 吟子、二人で住む小屋は土間に六畳ほどの板の間が二つあるだけで、井戸はもちろん、
 板囲いをしただけの共同便所もみな外にあった。
・東京でそれなりの生活をしてきた吟子にはここの生活は天と地ほどの違いがあった。志
 方が一年延ばしに吟子を呼ぶ時期を延ばしていたのも無理はなかった。板の間に藁を敷
 き、その上の布団で横になって吟子は二年ぶりに夫に抱かれた。床の感触も、寝て見る
 四周の情景もすべてが違っていた。技巧も何もない猛り狂ったような夫の愛撫だけが周
 囲への驚きを癒やしてくれるかと思ったが、それも一瞬のことで、行為が果てると再び
 言いようもない不安が押し寄せた。
・吟子は眼を閉じたまま、ただ夫と一緒にいる幸せにとけこもうと自分で自分を追いやっ
 た。 
・イムマヌエルでの吟子の生活は医者とはまったく無縁のものであった。朝七時に起き、
 衣食を整え、八時には志方等の作った計画に基づき開墾と耕作のグループに分れて仕事
 につく。女達は洗濯、炊事といった家事につく、十二時に昼食を終え、一時間の休みを
 とってから四時まで午後の作業を続ける。四時仕事の終了とともに全員が集まって感謝
 の祈りを捧げる。
・俵瀬の家を出てから二十数年間、苦しいながらも自分一人のペースでやり通してきた吟
 子にとって、この集団生活は必ずしも快適なものではなかった。
・吟子は医師を捨て志方の妻として開墾に従った。巨木を倒し、根を除くといった力仕事
 は無理だが、その後の地ならしなら鍬をもってやることができた。
・それでも時々、開墾中に指を切ったとか、足、腰を痛めたという怪我人があとを絶たず、
 医師としての仕事から完全に離れるわけにもいかなかった。吟子が簡単な外科の知識が
 あったことがこの場合好都合でもあった。
・こうして部落民の大半は何とか頑張っていたが、病人が出たり、気力を失った者達五戸
 十二人がイムマヌエルを去った。二年間増え続けてきた部落に初めて現われた脱落者で
 あった。
・雪虫が飛び交い冬の近づきを思わせる十月の末、新たに団員の半数、二十一戸、二十八
 名がイムマヌエルを去った。志方達はなお説得に努めたが、帰ると決めた団員達は笹小
 屋に集まり聖書を読み、神への許しを乞うべく最後に祈ると、無言のままイムマヌエル
 の丘を去って行った。それ以上志方達に止める方法はなかった。
・原野も川も白一色に塗り潰される冬が来た。この寒さの中で志方と一緒に来た姉のしめ
 が子供を産んだ。女の児であった。子供はなんとか元気であったが、しめは長い間の労
 働と粗食で体力を消耗した上の難産で、産後の肥立ちが悪かった。そこで急な寒波が襲
 い、肺炎を引き起こした。吟子と志方は一週間寝ずに看病したが、目ぼしい薬もないま
 ま二カ月後にしめは夫と子供を残したまま死亡した。これが開拓地での初めての死亡者
 であった。
・「あの子を我々が貰ってやってはどうだろう」志方が吟子の顔色を窺うように言い出し
 たのは、しめが死んで一カ月経ってからであった。突然のことに吟子は志方の真意をは
 かりかねた。
・吟子は元来あまり子供は好きな方とは言えなかった。子供は外見は可愛いがその実、大
 人に媚びてずるいところがある。吟子はそのことが鼻について耐えられないのだとかつ
 て萩江に言ったことがある。萩江は子供のそうした性格は意識的なものではなく本能的
 なものだから許してやるべきだと言った。吟子もそのことはよく分かっていた。
・「どうせ俺達は子供は生まれそうもないからね」「えっ・・・」瞬間吟子は声をあげる
 と眩暈を覚えた。鋭い針が光のように吟子の背を貫いていった。「そうだろう」吟子は
 うなずいた。志方の眼は哀願するように優しく弱々しげであったが、吟子にはもはや夫
 に抗らう気は失せていた。
・大量の脱落者を出したが、春とともに新しい移住者がやってきて、イムマヌエルは再び
 生気をとり戻した。
・団員の心の動揺を防ぐ意味からも教会堂建設が何よりも必要だと志方は考えた。
・瀬棚郡役所から「イムマヌエル」という仮名書き名は好ましからず、という申し出があ
 った。当時、北海道開拓使は、道内の地名のほとんどを占めていたアイヌ語の仮名呼び
 を、漢字に書きかえる方針に切りかえていたが、その波に「イムマヌエル」なる地名も
 ひっかかったのである。かくして「イムマヌエル」の語源、「神偕に在す」からこの地
 を「神ケ丘」と呼ぶことに同志の意見は一致した。
・開拓者の多くは明治維新により体制側から離れた不遇なグループか、農家の二、三男で
 生地にいては先の見通しがないところからの一旗組といった者が大半で、志方らのよう
 に純粋な宗教的動機から入植したのは稀であった。
・開道百年を経て、これらの人達は北海道開拓に情熱をもって挑んだ先人として、それぞ
 れの町村で崇め祀っているが、開拓の実態はすべて恰好のいいものばかりであったとは
 言えない。
・明治二十八年四月、日清講和条約が結ばれ、東京は戦勝気分に沸いた。しかし北海道の
 開拓地は相も変わらぬ自然との戦いであった。
・この頃、志方らの属する組合派と聖公会派との対立が次第に表面化してきていた。主導
 権は大体において組合教会派が握っていた。だが洪水のあとの大量脱落者をみたため、
 この関係は逆転し、団員の数では聖公会派が圧倒的に多くなってしまった。立場が逆転
 し、追い込まれては、猪突猛進型の志方が聖公会派と衝突するのは自然の成り行きであ
 った。
・負けると知りながら志方は争い、思ったとおり敗れた。多数決なら志方の意見はもはや
 通らない。聖公会派を受け入れたことが失敗であったが、今更そんなことを言ってもど
 うにもならない。熱し易いだけに志方は冷める方も早かった。 
・明治二十九年の夏、敗れた弾き出された志方はイムマヌエルを離れ十二里奥のクンヌイ
 (国縫)に行く決心をした。「あそこにはマンガン鉱がある」
・志方はクンヌイから来た山師にそそのかされていた。山にずぶの素人が簡単に成功する
 筈もなかったが、志方はすでに新しい事業に意欲を燃やしていた。
・北海道へ行く時は、基督教徒の理想郷を造るという大きな、人々を感動させるだけの理
 由があった。信者である吟子もその目標にはそれなりに納得できた。だが今度はさらに
 開け始めたばかりの鉱山に手を出そうというのである。
・吟子は六年前、志方が自分に求婚した時のことを思い出した。志方の姿はその時と寸分
 違わなかった。私に求婚したことも、と吟子は思った。すべて志方のその向うみずな性
 格から出てきている。 
・志方を知るすべての人が反対した理由が今になってはっきりと分かってきた。たしかに
 他人から見れば無理もない当然の忠告であった。しかし今、吟子は別に悔いはなかった。
 あの時はあの時で幸せであった。そして志方が必要であった。それに誤りはない。そし
 て今もやはり志方は必要である。志方も私を必要としている。知らぬ間に男と女が年輪
 を経て離れがたくなってきていることを、吟子は理屈でなく感覚で知っていた。
・志方はここに経験も知識もないまま、ただやれそうだという意気込みだけでとび込んで
 いった。ここで成功して大きな金を得たら自分の思う通りのキリスト教徒の理想郷を作
 ろうという気持ちであった。だが結果は吟子が予測したとおりの失敗に終わった。
 
二十一
・明治三十年、郡役所は廃止され、またイムマヌエルのあった利別村は瀬棚村から分村し
 た。この年、春になるとともに志方と吟子はクンヌイに見切りをつけ再び山越えで 利
 別を通り過ぎ瀬棚に戻った。
・当時の瀬棚は常住漁業戸数九〇五、出稼ぎの漁夫二九七五人と、西海岸では江差と並ぶ
 有数の漁場で町は活気にあふれていた。だがこの年を頂点として楢山中南部の鰊魚は漸
 次衰退に向っていく。
・吟子はこの市街地の中心地である会津町の一角に家を借り、婦人科、小児科医院を開業
 した。だが東京で開業した時のようなわけにはいかなかった。吟子が女医第一号という
 栄誉ある医師であることも、社会運動家として名高いことも、このさいはての地で知っ
 ている人はなかった。女医で社会運動家という、東京で人気の原因になったものが、こ
 の気の荒い新興町では、頼りなく小うるさい女医者ということにしかならなかった。
・明治三十年の年も暮れた。開業して半年経ち、吟子達はようやく瀬棚の町に馴染んでき
 た。少しずつだが患者も増え生活も安定した。町の有力者や知識人の中には吟子の博識
 に驚き、何かと相談に現われる人が増えてきた。この年の春、吟子は瀬棚に新しく淑徳
 婦人会という婦人団体を結成し、みずからその会長になった。ようやく安住の地を得て
 吟子の中に再び婦人啓蒙の意欲が湧いてきたのである。
・その会は矯風会から考えついたものだが、その目的は矯風会のように、女権拡張とか、
 社会悪の改善といった社会的な問題をとりあげるのではなく、会員の親睦と教養を高め
 るのが目的であった。  
・この会で吟子は、裁縫、お華といった習い物とともに、婦人の生理衛生の講義から、女
 性のあり方、果ては包帯の巻き方まで、現代の婦女子として必要な知識のすべてを教え
 た。なかでも力を入れたのが「淑女」の意義と「純潔」の尊さであった。
・明治の初期、内地を逃げるように出てきた男たちと同道した女性達が多いだけに、婦女
 達の中には随分と無知な者もいた。だがそれだけに彼女等の多くは知識欲にもえ、真剣
 に吟子について学ぼうとした。
・家の女房はこの頃、奇妙なことを覚え始めたと思いながら、夫達は吟子への畏敬の念を
 抱いていた。 
・この瀬棚に蒼い眼の外人が現われたのは明治二十七年、函館にいた聖公会の宣教師アン
 デレス神父が訪れたのが初めてであった。アンデレスはイムマヌエルを訪ね、布教をす
 るとともに教会堂建設を促した。
・一方、組合教会派側はこれに三年遅れたが、宣教師「ローランド」がこの地方を巡回し
 た。このあと三十一年には宇田川竹熊が宣教師としてイムマヌエルを訪れ、志方なきあ
 と残った組合教会員を励まして笹小屋の教会堂を建て、これをイムマヌエル教会と名づ
 けた。
・ローランドは三年後の明治三十三年にも再び瀬棚を訪ねて、この地で基督教演説会を開
 いた。この時、会場の準備から入場者の整理まで、すべては吟子と淑徳婦人会が中心に
 なって動いた。 
・演説会のあと、ローランドは吟子の家で休息しながら言った。「貴女は折角英語の読み
 書きができるのですから、本格的に英会話でも習ってはいかがです。英語さえ出来れば
 外国へも行けます。新しい知識もどんどん取り入れられます。この田舎で埋もれてしま
 うのには貴女は惜しい」ローランドは横に夫の志方がいるにもかかわらず、熱心にすす
 めた。「どうせ北海道で開業するなら札幌でしては如何です。あそこなら農学校もあり、
 話し相手になる人もいるでしょう」「時代はどんどん動いています。こんなところで眠
 っているのは無意味です」
・明治三十六年の初夏、瀬棚の医院は借りたまま「一時休業」として吟子はトミを連れて
 札幌に移った。同時に志方は京都の同志社へ移った。
・札幌にはかつて吟子が好寿院に学んだとき内科学の助教師をしていた撫養太郎が区立病
 院長として来ていた。札幌へ来て一週間経ってから吟子は撫養を区立病院に訪ねた。撫
 養はすでに吟子が瀬棚にいること、近々札幌へ出てくるらしいことまで人伝てに聞いて
 知っていた。
・吟子はかねて考えていた通り「札幌で開業したい」旨を撫養に告げた。もちろん賛成し
 てくれるものと思ったが、撫養は小首を傾げて考え込み、それから少し言いにくそうに
 言った。「なかなか札幌は大変だと思いますよ」「遠慮なく言わせて貰うが、正直言っ
 て貴女の学んだ医術は二十年前のものだと思います。この間医術は想像もできぬほど進
 んでしまいました。あの頃の医術はもはや通用しません。失礼だが貴女はこの十年間、
 開拓、転住と心労が多く大変だったろうが、いかんながら医術の新しい知識はほとんど
 得ていないと思います。田舎ならともかくそのような状態で札幌で開業してやっていく
 にはなかなか大変だと思うのです」吟子は答えるすべもなく下を向いていた。そんなこ
 とは今まで思ってもいなかった。だが撫養は見事に吟子の盲点を探り当てていた。
・迂闊であった。気をつけているつもりで、いつか一人よがりになっていたのだった。
 「私の考え方が安易でした」吟子はただ恐縮するばかりだった。吟子は逃げるように撫
 養の家を出た。外にでてもなお、自分の厚かましさに赤面した。知らぬ間に、私は井の
 中の蛙になっていたらしい。秋風の吹き始めた札幌の街を歩きながら吟子は自分が五十
 をこえた老境に達していることを改めて知った。
・九月の末、吟子は札幌の仮住いを払い、瀬棚へ戻った。在札、わずか三カ月であった。
・瀬棚に戻り、吟子は再び医院を始めた。医術がどうであろうと、時代がどう移り変わろ
 うと、現実には医師をするより生きていく方法ななかった。それは生きていくための避
 けようのない生活の手段であった。吟子はしばらく札幌のことも東京のことも忘れた。
・明治三十七年の春、志方は同志社を卒え、正式に牧師となり再び北海道へ戻ってきた。
 だが瀬棚には十日間いただけですぐ浦河教会へ牧師として単身赴任した。
・この年、明治三十七年二月には日露戦争が始まり国内は再び戦争一色に塗りつぶされた。  
 だが吟子の日常はほとんど変わらなかった。診療を続け、その余暇には聖書を読み、英
 語を学習する。淑徳婦人会の活動も以前と同じだった。
・明治三十八年七月、志方は浦河教会を辞め、瀬棚に戻ってきた。瀬棚を中心とした檜山 
 一帯へ自給伝道の道を開くのが目的であった。九月半ば、北檜山からの旅を終えて帰っ
 た志方は、家へ戻るとすぐ寒気がすると言って横になった。結婚して十数年になるが志
 方が床につくのを見たのはクンヌイで冬に一度、風邪をひいた時だけだった。吟子が聴
 診すると肺に水泡音がきこえる。肺炎のようだが吟子には自信がない。専門が産科のせ
 いもあるが、自信がないのは志方があまりに身内のせいでもあった。要次郎が小学校前
 の野村医師を招んできてくれた。野村の診断もやはり急性肺炎であった。
・肺炎と言っても抗生物質のある現在は老人の場合以外はほとんど生命の危険はない。だ
 が当時は一つ間違うと死に至る病であった。
・志方が意識を失ったのは四日目の夕方であった。「苦しい」と一言呟いたきり、志方は
 宙をさぐるように手をうかした。それから思い出したように闇の中で、「先生」と言っ
 た。志方が死んだのは、明治三十八年九月であった。巨像が倒れるようにゆっくりと、
 しかし静かに息を引き取った。志方、四十一歳であった。
  
二十二
・志方の死後、ただでさえ口数少ない吟子は一層寡黙となった。婦人会にもあまり顔を出
 さず診療が終わると、ほとんど家に籠もって聖書と祈りの生活を送った。
・吟子はもう瀬棚から動く気はなかった。志方が埋もれた地に自分も一緒に骨になるつも
 りだった。  
・姉の友子から東京へ戻って来い、という便りが来たのは志方の死後三カ月経ってからだ
 った。一年前から友子は熊谷の家を出て東京に小さな家を借り、一人で住んでいた。小
 金こそあったが、実子のでないことから長男夫婦と折り合いが悪く別れる破目になった
 のだった。老境に入ってからの孤独ということで二人の姉妹は似た環境に入っていた。
・しかし吟子はいまさら東京へ戻る気はなかった。他人がどう言おうと瀬棚は瀬棚なりに
 今は吟子にとって安住の地であった。
・志方が死んですぐ、吟子は軽い風邪に見舞われた。三十七度を少し越えた程度の微熱で
 あったが、熱とともに下腹に鈍い痛みを覚えた。尿をみると軽く濁っていた。診療を休
 み、吟子は一人で床をのべ横になった。風邪とともに下の病が出たのだった。四十年近
 い年月を経て、なおくすぶり続ける病気に吟子は改めてうすら寒い思いにとらわれた。
・床についている間、十一歳になったトミが炊事から掃除まですべての仕事を受け持った。
 患者が来た時には吟子の指示に従って薬まで調合した。今となってはトミが唯一の頼り
 でもあった。風邪は大したこともなく一週間で床を上げたが、それだけで吟子は急に衰
 えたようであった。 
・志方が死んで二度目の冬が近づいてきた。淋しさには慣れてきたが今でもまだ志方が汗
 と埃にまみれて伝道先から帰ってくるような錯覚に時たま吟子はとらわれた。それを
 感じたように「おじさんの夢を見た」とトミが告げることがあった。
・ただでさえ朝寝坊の吟子は寒い朝はなかなか起き出せない。トミが先に起きてストーブ
 に火をつけ御飯を炊いて学校へ行く。そのあとから吟子はのこのこ起き出してくる。
・その年の十二月の初め、吟子は診療を終えたあと午後から雪の中を本町の町役場に行っ
 た。若い女性に”結婚について”という題で講演するためであった。三十人ほど集まっ
 ていた。 
 「結婚はあくまで男女両性の合意の上で、心身ともに健康な男女が結ばれなければなり
  ません」
・講演の終わりに近く吟子は軽い眩暈を覚えた。頭が石で固められたように重かったが、
 予定の一時間を話し終えて壇を降りた。応接室での茶の接待も断って吟子はすぐ役場を
 出た。家までは歩いて十分かかる。半町いったところで吟子は立止まった。小さく息を
 吐き肩を休める。全身が鉛をのみ込んだように重く気怠かった。吟子は二度ほど息をつ
 き頭を上げた。傾いた軒端の先に利別の山並が獣の背のように黒く連なっていた。
・あの先に志方が眠っている。そう思った時、吟子は背中から旨へ鋭い鞭で打たれたよう
 な衝撃を受けた。次の瞬間、吟子の被布に包んだ小柄な体が、ゆっくりと白い雪の中に
 崩れ落ちた。立たねばならないと思うのは一瞬で、地につくとともに吟子の体は雪の上
 に長々と投げ出された。吟子の背の下には雪があり、顔の上にも雪があった。
・雪の上で昏倒していた吟子が通行人に見出され近くの病院に運び込まれたのは、この三
 十分後であった。原因は心臓発作であったが奇蹟的に命だけはとりとめた。だが恢復し
 たあとも往診はできぬ体になっていた。
・体力に自信を失った吟子は、この年の春、東京へ戻ったが、七年後の大正二年六月、本
 所小梅町の仮棲いでトミ一人に看取られて死んだ。享年六十三であった。