日本人漂流物語 :室賀信夫

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この本は、本棚の片隅にほこりまみれとなっていたものだが、本のタイトルに興味を持ち
読んでみた。
この本は最初、「日本人漂流ものがたり」というタイトルで1954年(昭和29年)に
出版されたようだが、その後、「日本人漂流物語」(昭和44年出版)に変更された再出
版されたようである。この本には三つの漂流物語が収録されている。

孫太郎ボルネオ物語」は、江戸時代後期の1764年から1771年にかけて実際にあ
った出来事のようで、宮城県の牡鹿半島の内側にある箒浦(現在の宮城県石巻市福貴浦
から福岡県に向っていた船が、茨城県の塩屋岬沖あたりで嵐にあい、漂流して、フィリピ
ンのミンダナオ島に流れついたというものである。それから原住民の奴隷となり、売られ
てボルネオに渡り、インドネシアのバンジェルマシンで奴隷として過ごし、運よくやさし
い中国人の主人に日本へ帰してもらうことになり、オランダ船で帰国をはたしたというも
のである。
私がこの物語を読んで、認識を新たにしたには、鎖国時代とはいえ、当時すでに青森から
九州までほぼ日本全国と言っていいほどの海運業が発達していたということである。ただ、
その当時は既に東南アジアまで進出してきていた西洋列強諸国に比べると、比較にならな
いほど日本は遅れてしまっていたんだなと、改めて感じた。

光太夫ロシア物語」も、江戸時代に実際にあった出来事で、1783年に現在の鈴鹿市
白子港
を出帆した船が、静岡県の沖合で激しい嵐にあって船が大破し、漂流してアリュー
シャン列島の小島
に漂着した。そこで、原住民から毛皮を買い集めに来ていたロシア人と
出合い、ロシア人たちと協力し合って破船の部材を使って新たに船をつくり、その船でカ
ムチャツカ半島東岸までたどり着いた。そして、ロシア帝国から日本への帰国の許可を得
るために、当時のロシア帝国の帝都であった現代のサンクトペテルブルクまでシベリアの
陸路を旅して当時の女帝エカチェリナ二世に面会した。そして、帰国を許され、ロシア船
で北海道の根室に到着して帰国を果たしたという物語である。
この物語を読んでも、鎖国政策をとっていた江戸時代の日本は、当時のロシア帝国と比べ
ても、完全に世界の潮流から取り残されていたのだなということを感じる。
ところで、この物語のなかで、仙台に関係する林子平の名が出てきたのには、ちょっと驚
いた。

「韃靼漂流物語」も、江戸時代に実際にあった話で、1644年に現在の福井県の港を出
て、日本海を北上して北海道の松前に向った船が、佐渡を出た先で嵐にあい、今のソ連領
の沿海州のポシェット湾付近に漂着した。そこで出会った土人たちに騙されて四十三人の
日本人が命を失い、残りは十五人となってしまった。一時は原住民たちの奴隷にされたが、
そこ地域を支配していた韃靼国の役人に保護されて、日本への帰国の許可を得るために、
現在の北京まで長い旅をする。そして、帰国の許可が出て、北京から朝鮮に渡り、釜山か
ら日本に帰国するという物語である。この時代の中国は、ちょうどからへ変わる歴史
的転換期でときであったようだ。このとき日本の江戸幕府では、明からの派兵の要請を受
けて、中国への出兵という無謀な計画が持ち上がっていたという話には、ちょっと驚いた。
鎖国の中の日本の国際情勢に関する無知ぶりを、改めて認識させられた。

どの漂流物語も、とても興味深くおもしろい内容なのだが、私はこれを読んだ当初は、こ
れはおもしろく書かれた架空の昔話だろうと思ってしまっていた。だが、ネットで検索し
てみると、この漂流記に関する情報が、詳しくネットに載っているではないか。まさかネ
ットには載っていないだろうと思っていた私は、逆に、そのことに感心してしまった。ネ
ットの情報も、ほんとうに充実しきたものだと改めて感心させられた。


漂流記のこと
・日本の漂流記の大半は、アメリカの捕鯨船が東半球の海洋で活躍を始めて以来、日本の
 鎖国令が解かれるまでのわずかな期間に書かれている。つまり、日本の漂流民のうちで
 故国に帰って来たものは、アメリカの捕鯨船で送り還されたものが多いわけである。
・今日残存する日本の漂流記は千二百種以上に及ぶという。いかに多くの日本の船が海に
 呑まれてきたが察しがつく。 
・この漂流記三篇は、いずれもアメリカの捕鯨船を介在していない。その意味では実に珍
 しく、紆余曲折があって物語として重厚である。
 

<孫太郎ボルネオ物語>

あらしの夜
・陸前(宮城県)牡鹿半島の内側にある箒浦というちいさな入江に風待ちしていた四十そ
 うばかりの船が、ゆうべから吹き出した東寄りの順風に帆をはらませて、思い思いに沖
 へ走り出したのは、明和元年(1764年)十月の明け方のことであった。
・伊勢丸は、筑前(福岡県)唐泊村の文七という者の持ち船で、去年建造されたばかりの、
 千六百石積みという大きな船だった。船頭は文七のむすこの重右衛門だが、まだ数え年
 十八歳の少年なので、年長の仁兵衛が、実際上の船長の役をして、水夫たち一同の指揮
 をしている。乗り組みは、全部で二十人。ちょうど一年前の去年の十月、筑前の港を出
 てから、米や荷物の運送を引き受けて、長井航海を続け、今も、本州の北のはての津軽
 から、材木を積んで江戸へ向かう途中なのである。
・船脚はこころよくのびて、もうそろそろ、常陸(茨城県)の境の「塩屋岬」が見えはじ
 めるあたりまで来たとき、風は急に西に変わって、勢いを加え、雲の動きもただならぬ
 空模様となってきた。今まで、あとになりさきになりして、一緒に走ってきた船の群れ
 は、追手の風を失って、前に進むこともできず、不安げに、ひとかたまりになって、あ
 やしい雲行きを見守るばかりである。
・塩屋の岬をまわれば、名高い「鹿島灘」であるが、この海には、伊勢丸の水夫たちにと
 って、不吉な思い出が残っていた。今年の六月、江戸から奥州へ行く途中、この鹿島灘
 を通ったとき、水夫の源蔵という者が誤って海に落ち、そのまま、行方不明になったか
 らである。
・そのうちにも、まわりにいた船の群れは、あらかた陸地の方へ引き返していって、今は、
 この海上にとどまっているのは、伊勢丸と、それに同じ筑前の船だという島村丸との、
 たった二そうだけになってしまった。短い秋の日はいつしかとっぷりと暮れて、あらし
 をはらむすさまじい夜が、ひろびろとした海一面に、てれこめようとしている。西風は
 あい変わらず吹きつのって、止むけ気配もない。
・「親方、早く船をもどしておくんなさい」と、新七が、かみつくような声で叫んだ。見
 ると、陸地の方にあたって、小さい三つの火が、大波のあいだに見え隠れしている。さ
 きに引き返した船が、港へ帰れと告げる、かねての約束の合図なのである。
・「しかたがねえ。船をもどせえっ」とうとう、頑固者の仁兵衛も、あきらめて、そう、
 どなった。待ちかまえていた新七が、にぎりしめていた舵を、ぐっと、いっぱいに引く。
 だが、もうおそかった。
 船がぐうっと向きを変えようとしたとき、突然、ぱっと暗やみを照らして、いなずまが
 走り、続いて、海も空もゆるがすばかりに、ときならぬ雷鳴がとどろきわたると、いき
 なり、まっ黒な空から、篠つくような雨が、はげしい勢いでたたきつけてきたのである。
 その雷雨にさそわれたように、風は急に勢いを増し、海全体は、まるで巨大な魔物のよ
 うに、たけりくるいはじめた。
・二十九反の大きな帆は、吹きちぎれんばかりに強い風を受け、太い帆柱も弓のように吹
 きたわみ、それにつれて、船は今にもくつがえるかと思うばかりにかたむく。水夫たち
 は、全身ぬれねずみになり、よろめく足をふみしめながら、帆をおろそうとひしめくが、
 風の力に引っ張られた帆綱は、まるで鉄の棒にでもなったようで、どうにも自由になら
 ない。
・「帆がおろせなけりゃ、破るんだ。破れ」だれかが、とっさの転機で、ありあう木ぎれ
 を帆に投げつけると、帆布は、べりべりっと、桁まで吹きさけて、のぼりのように空ま
 でまくれあがった。
・これで、風が吹きぬけたので、船のくつがえるのは助かったけれども、ほっとするまも
 なく、今度は、どどうんと、ふなばたにあたった強い波に、波よけのわき板が、めりめ
 りっと音をたててくだけ、海水が、ざあっと滝のように、船の中に流れ込んできた。
・「積荷をはねろ。積んである木材を海にほうりこめ」阿修羅のようになって叫ぶ仁兵衛
 の声も、波のひびきと、風のうなりと、はためきわたる雷鳴とに、ともすれば吹き消さ
 れそうになる。水夫たちは、鳶口をふるって木材を海にはねすて、船にたまった水を、
 おけで、せっせと、かい出したが、長い時間、冷たい水にひたっての働きに、手足は凍
 りつくほど冷たく、からだは綿のように疲れて、もう精も根もつきはてたかと思われた。
・「もう、このうえは、神や仏の力にすがるほかはない」「みなで、髪を切って、龍神さ
 まに、お願いしよう」だれ言うともなく、そう言い出すと、みなは、われもわれもと頭
 のまげを切り、船頭の重右衛門の脇差にそえて、荒れ狂う海の中に投げ込んだ。これが
 海の神への、ささげものなのである。
・その祈りが通じたのか、さすがに明け方近くになると、雷雨はようやくおさまったが、
 風の勢いは少しもおとろえず、船はすさまじい横波をくって、ついには、たのみの舵ま
 で、うちくだかれてしまった。今はただ、風にまかせ、潮にまかせて、あてどもなく漂
 うばかりとなった。
・その日以来、伊勢丸は、ふたたび日本へ帰ってこなかった。そして乗組員の二十人のう
 ち、このとき、数え年十九の少年だった孫太郎という水夫が、足かけ八年ののち、たっ
 たひとり帰国して、運命的な漂流の物語を伝えたのである。
 
漂流
・嵐の夜に、陸地を見失ってからは、来る日も来る日も、船から見えるものは、ただひろ
 びろとした大海原ばかりであった。太陽の出入りする方角を見たり、一日に三度ずつ磁
 石を調べたりして、自分たちが、どうやら東の方へ流されているらしいと思うだけなの
 である。
・漂流しはじめてから、もう二十五日めである。考えてみると、このあいだに、船は、お
 そらく、八千キロ以上も流されているにちがいない。それなのに、今まで島影一つ見ず、
 船一そうも出合わなかったのは、いったい、どこの世界をただよっているのだろうか。
 心細さは、ことなにも言えぬほどである。
・さしずめ心配なのは、食料のことである。これからさき、いつ陸地へ着けるか、あても
 ないことだから、かぎりのある船の食料は、できるだけ節約しなければならない。水も
 もちろん不自由なので、雨が降るたびに、あるだけのいれものをならべて、大切にため
 ておき、わずかな飲料以外は、いっさい使わないことに申し合わせた。
・それから、また半月もたったろうか。またも吹きはじめた強い西風にもまれながら、伊
 勢丸は、あい変わらずはてもない海上を漂い続けていると、ある日、南の方の水平線
 上に、何かぼんやりと浮かんでいるものの影があるのに気がついた。はじめは雲かと疑
 ったが、どうやら島らしいのである。
・あの恐ろしい嵐の夜以来、四十日あまりのあいだ、毎日、海ばかりながめ暮らした水夫
 たちは、それが島だとわかると、もう、手足のおきどころもないくらいの喜びようであ
 る。
・だが、しかし、どうして船を着けたらよいだろう。その島まで四十キロぐらいもあろう
 と思われるのに、この船には、帆もなければ舵もない。ただ、なんとかして、その方へ
 流れつくようにと、神にいのるほか、すべもないのである。
・それでも、船がどうにか島の方へ近づいてゆき、もうあと八、九キロというところまで
 たどりついたとき、なんという無情なことだろう、またも突然風が南に変わったので、
 船はたちまち沖へ押し戻され、島はみるみるうちに遠ざかって、ついには、その姿も見
 えなくなってしまった。
・二度目に陸地を発見したのは、それからさらに五十日あまりもたった、その年の大みそ
 かの日であった。そのころは、もう船中の食料も残り少なくなり、乗り組みの者も、飢
 えのために体力も気力も衰え果てていたから、この島にたどりつけるかどうかは、伊勢
 丸の漂流者にとって、生死の分かれ目だったわけである。
・船は、みなのこの最後の希望を乗せて、ゆっくりと島の方へ近づいてゆく。風も波もお
 だやかなのが、何よりのしあわせであった。
・その日も暮れ、明ければ明和二年(1765年)の正月元日である。思えば、塩屋岬か
 ら吹き流されて以来、もう百日以上の日数がたっていた。陸地は、夜のうちに、もう目
 のまえまで近づいてきていた。南から北へ数十キロにもわたる大きな島らしく、海岸に
 は、くろぐろと茂った大木の林が連なっている。いったい何という島なのだろう。まさ
 か鬼のすみかでもあるまいと、伊勢丸の二十人は、いよいよこの島へ上陸の用意をはじ
 めたのである。

見知らぬ国
・伊勢丸には、ちょうど今の汽船がボートを乗せているように、いいさい伝馬船が積んで
 ある。みなは、この伝馬船に、わずかに残った食料と、いろいろの道具類、衣服などま
 で積み込んで、陸地へこぎ向った。
・島に近づいてみると、遠くからは、岸の上にあるように見えた林は、じつは海のなかか
 らはえているのだということがわかった。枝からは、不気味な気根が、水中に垂れさが
 り、とうてい木々のあいだに船をこぎいれるすきもない。それが、幾万株とも知れぬほ
 ど、海岸に沿って、どこまでも、生い茂っているのである。これは、南洋によく見られ
 る万グローヴの林であるが、漂流者たちは、生まれて初めて見る壮大な景観に、驚きあ
 きれるばかりであった。
・この思わぬ邪魔物にはばまれて、せっかく島にたどりついきながら、上陸することもで
 きず、四日ばかりのあいだ、むなしく林に沿ってこぎまわっているうちに、ふと、この
 島の東にあって、十数キロ離れたところに、もう一つ大きな島があるのに気がついた。
 みなは、もうすっかり、からだが疲れきってはいたが、この新しい発見に気をとりなお
 して、舟をその島へこぎよせてみると、いいぐあいに、ここには恐ろしい林はなく、ひ
 ろびろとした砂浜が開けている。
・砂地のところどころには、桑の木によく似た木が、ひとかたまりになってはえていて、
 堅い小さい実がなっている。口に入れてみると、甘酸っぱくて、ちょっとおいしい。み
 なは、これ幸いと、われがちにとって食べたが、しばらくすると、腹が張って、胸ぐる
 しくなり、なかには、めまいを起こして倒れる者さえあった。毒にあたったのである。
 ただ、命が助かったが、しあわせというものであった。
・それから数日にうちに、やっと、とある海岸に人家らしいものがあるのを見つけ出すこ
 とができた。みなは、元気を出して、船をその方へごきよせてゆくと、浜には、人の影
 さえも見える。見苦しい身なりで、ばかにされてはならないと、一同は舟のなかで衣服
 をあらため、姿だけはりっぱになって、陸へあがった。しかし幾日ものあいだ、ろくに
 何も食べていないので、からだはすっかり飢え疲れていたうえに、やっと人間のいると
 ころへ来たという安心から、上陸はしたものの、みな砂浜の上へ、べったりとすわりこ
 んでしまって、しばらく動くこともできないありさまである。
・そのうちに、髪をぼうぼうとのばし、顔もからだもまっ黒な男たちが、百人ばかりも、
 こちらに近づいてきた。短い胴着のようなものを着ているのも、腰に布をまとっただけ
 のはだかの者もいるが、みな一様にはだしで、見ると、手に手に、やり、たて、鉄砲な
 どを持っている。
・その土人のうちから、十四、五人ばかりが進み出て、口々に何か話かけてきた。しかし、
 何を言うのか、さっぱりわからないし、こちらの話すことも、もちろん少しも通じてな
 い。仁兵衛が砂に指で「日本」と書いてみせたが、不思議そうな顔をして、見ているだ
 けである。
・そこで、みなはいろいろ手まねをして、何か食べるものがほしいと言ってみると、やっ
 とその意味がわかったのか、土人たちは、薩摩芋の煮たのを、十キログラムほども、か
 ごに入れて持ってきてくれた。
・さっそく、ごちそうになっていると、土人たちは、そのあいだに、何か大声で叫びなが
 ら、伝馬船の方へ走りより、積んであった荷物をひとつ残らず奪いとって、大喜びの様
 子で帰っていった。
・しかたなく、その夜は、そのまま砂浜の上で心細い夜を明かすことにした。日本ならば、
 寒い一月だというのに、この島は、まるで夏のような気候なので、こんなときは、せめ
 てものしあわせというものである。
・ところが、その夜ふけ、漂流者たちが連日の疲れで、ぐっすり寝込んでいると、またも
 昼間の土人たちがおおぜいやってきて、こんどは一同を裸にして、着ているものから、
 鼻紙、守り札のたぐいまで、身につけているものはひとつ残らず奪いとってしまった。
・そのうち夜が明けたが、着の身着のままになってしまった漂流者たちは、もう、どうす
 ることもできない。どんなに乱暴な野蛮人にせよ、今は土人を頼るほかないのである。
・一同は土人のいる家の方へ、こわごわ出かけていった。土人の家というのは、草ぶきの
 掘っ立て小屋で、四方に壁もなく、中では、おおきなかまどに土鍋をすえ、たくさんの
 海鼠を煮て海参をつくっている。あとからわかったことだが、これは土人たちが漁をす
 るために、一時的にこの島へ出稼ぎにきているあいだの、仮住まいだったのである。
・ここで、また食べ物をくれとたのむと、土人たちはいやな顔もせず、昨日と同じ芋を出
 してくれた。しかし、こうして、いつまでも、この土人たちを頼りにしているわけには
 ゆかない。こんな国でも、酋長なり役人なりがいるのだろう。そういう人と会えば、ま
 た話もわかるかもしれない。そう思って仁兵衛は、いろいろ手まねで、おまえたちの親
 方がいるか、とたずねてみると、土人もその意味がどうやらわかったらしく、海の方を
 指さし、「あちらの島にいる」という返事である。そこへ舟で連れてゆけと言うと、土
 人もうなずいて、承知の様子を見せた。
・あとで聞けば、この島は、マギンタロオということだった。これは今のフィリピンのミ
 ンダナオ島のことで、この土人たちはモロ族という種族ではないか、という学者もある
 が、はっきりしたことはわからない。
 
カラカンの土人たち
・土人は、漂流者たちを、原始的な舟に乗せ、島を出帆した。初めは、疲れ切っている漂
 流者たちに舟をこがせようとして、なぐったり、けったりの乱暴をしたが、手を合わせ
 てあやまったら、あきらめたか、おしまいには、ゆるしてくれた。そして、まる五昼夜
 も海上を走り続けたのち、この土人たちの酋長の住むカラカンというところへ着いたの
 である。
・ここは、とある大きな川口から二十キロばかりもさかのぼったところにあった。家数は、
 川に沿って三、四百戸もあろうか。漂流者たちが連れてゆかれた酋長の家は、まわりに
 厚い板の塀を立て連ね、門の左右には、ところどころに窓をあけ、大砲さえ備えてある。
 いかめしいかまえだが、建物は、やはり、どれも同じような草ぶきの屋根である。
・高いはしごをのぼって、家の中に入ると、更紗の布をからだにまとい、頭も更紗の布で
 つつみ、腰には刀をさげた男が三人、椅子に腰かけて、どっしりかまえていた。これが
 酋長なのであろう。何かこちらに話しかけてくるのだが、あい変わらず、さっぱり言葉
 がわからない。そのうち左側の椅子に腰かけていた年寄りの土人が、漂流者のなかで金
 兵衛という者の髪に、食事用の箸がさしてあったのに目をとめ、「ひほん、ひっほん」
 と言った。どうやら、日本人ということがわかったらしくもある。
・翌日は朝早くから、おおぜいの土人が、てんでに材木を運んできて、一日のうちに横五
 メートル建て十三メートルほどの大きさの小屋を一軒、てぎわよく建ててしまった。見
 ていると、建築には、まるで、くぎというものを使わず、みな籐のつるで、木材をくく
 りあわせるのである。床は湿気をさけるためか、たいへん高くしてあるので、家への出
 入りのために、三メートルばかりの、はしごがかけられた。このあたりの家は、どれも、
 このようなつくりなのである。この新築の家ができあがると、土人たちは漂流者をそこ
 へ移し、これからは、ここに住むのだと、手まねで教えた。
・「だんだん話がわかれば、また日本へ帰れるようにたのむこともできるだろう」一同は、
 ただそれだけを希望にして、このわびしい新居の生活を始めたのである。 
・食べものは、土鍋をひとつあてがわれ、毎日、バナナ、芋類、蕨粉のようなもの、野菜、
 塩魚などを土人からもらて食べた。この蕨粉のようなものというのは、土人が常食にす
 るサゴ椰子という木の幹からとった、澱粉であろう。米はまるでなかった。
・こうして、何をするでもなく、早くも三十日ばかりたったある日、酋長からの命令でも
 あったのか、漂流者たちは、この小屋から出され、今度はひとりずつ別々に土人たちの
 家に引取られた。そこで召使いとして働かされることになったのである。狭い土地なの
 で、そうなっても、毎日顔を合わせることはできたけれども、それでも、今までのよう
 に、みなが一緒に暮らせなくなったのは、なんとも心細いことであった。あとから思え
 ば、この日以来、それまで生死を共にしてきた二十人の漂流者たちは、いつか別々の運
 命をたどることになったのであった。
・のちにたったひとり、日本へ帰ることのできた孫太郎が、このとき、ロロウという土人
 の家に引取られたのも、そのような偶然の運命の始まりであったのかもしれない。
・ロロウは、決して親切な主人ではなかった。ことに、初めのうちは、孫太郎をまるで牛
 か馬のように、むちでなぐって追い使った。おもな仕事は、毎日かごを背負って山に行
 き、自然にはえている芋をとるのである。また大きな木をくりぬいてつくった丸木舟に
 乗り、三味線のばちのような形の櫂で、それをこいで、魚をとりにゆくこともあった。
・このように、土人の生活は、すべてが原始的である。ロロウの家も、漂流者たちが、そ
 れまで住んでいた小屋とたいして変わりはない。家のなかはひと部屋しかなく、床には
 籐を編んだむしろが敷いてあるだけで、わずかな家財道具がおいてあるが、鉄の鍋かま
 はなく、みな粗末な素焼きの陶器である。茶碗や箸もなく、食事のときは、大きな鉢を
 数人でかこみ、手づかみでとって食べる。便所は川の上にかけられていて、用をすます
 と、その川のなかに入って、尻を洗う習慣だが、そのときは必ず左の手で洗わなければ
 ならない。土人たちは、右は大切な手で、きたないことに使ってはならぬと思っている
 からである。こういう未開の生活に慣れ、珍しい風習をのみこむまでには、ことばのわ
 からない孫太郎は、人知れず苦労をしなければならなかった。
 
生別死別
・漂流者たちは、こうして、みな土人の奴隷となり、孫太郎と同じような仕事に追い使わ
 れていたが、そのうち、風土の違いや、はげしい労働のため、病気になる者も出てきた。
 そして、とうとう八次郎という若者が、故郷のことを言い続けながら、息を引取ってし
 まった。二十人のうちの最初の犠牲者である。ところが土人たちは、その亡骸に石をく
 くりつけ、まるできたないものでも捨てるように、海のなかに放り込んでしまった。み
 なは怒ったり、悔しがったりしたが、どうすることもできないのである。
・それからまもなく、またも舵とりの新七と水夫の伊三郎のふたりが、続いて病死した。
 また海へ投げ込んで魚のえさにするのは、あまりにかわいそうだから、どうか土の中に
 葬ってくれと、みなで土人にたのんでみたが、土がけがれるといって、なかなか聞き入
 れてくれない。仁兵衛が先に立って、ふたりの死体を人家から遠く離れたところまで担
 いでいって、そこに葬ったが、さすがに土人たちも、それまで、とがめだてはしなかっ
 た。
・ある日、土人たちは漂流者を呼び集め、そのなかから仁兵衛、勘次郎、彦五郎の三人を
 選び出し、日本へ帰してやるといって、どこかへ連れてゆこうとした。どうかみな一緒
 に連れていってくれと、繰り返したのんだけれど、耳を貸そうともせず、とうとう、
 いやがる三人を無理やり引っ張っていってしまった。
・そのうち、船頭の重右衛門が十九歳の若さで死に、やがて藤蔵が、またどこかへ連れ去
 られた。続いて、才蔵、久次郎、松蔵、貞五郎の五人も、次々と病気になって死んでい
 った。 
・このようにして、カラカンに来てから、わずか半年ほどのうちに、九人に死に別れ、四
 人に生き別れて、はじめ、二十人だった漂流者も、今では孫太郎はじめ、たった七人だ
 けとなってしまった。だが、その七人も、さらに見知らぬ土地へ奴隷に売られてゆく日
 がきた。
・その年の七月ごろ、このカラカンへ、ソウロクというところの船が、バナナや陶器を積
 んで商売にやってきた。孫太郎たち七人は、この船の船長のコロウという者に買い取ら
 れて、まだ見ぬソウロクへ連れてゆかれることになったのであった。
・船は、大きな島国についた。ソウロクは、この島のとある川口から十二キロばかりさか
 のぼったところにある。川に沿って家数が四、五百戸もあり、家々の様子も土地の風俗
 も、ほとんどカラカンと変わりがない。このソウロクが、今のどこにあたるか、よくわ
 からないが、おそらく、フィリピンのスールー諸島か、北ボルネオのあたりであろう。
・ここで七人の日本人は、またもそれぞれ土人の家に引取られ、そこで働かされることに
 なった。孫太郎の住み込んだのは、船長のコロウの家で、幸五郎という若者も一緒であ
 る。

バンジェルマシンへ売られて
・その年の暮れ、日本の年号でいえば明和三年(1766年)正月の末のこと、孫太郎の
 主人のコロウは、砂糖黍やバナナなど、たくさんの荷を船に積み込み、そのうえ、二十
 人の水夫のほかに、孫太郎、幸五郎をはじめ男二十二人、女八人の奴隷を乗り組ませ、
 ボルネオの南海岸にあるバンジェルマシンという町へ商売に出かけた。奴隷たちは、も
 ちろん、その町で新しい買主に売り渡すつもりなのである。
・このとき、カラカンから一緒に連れられてきた日本人のうち、金兵衛、市三郎、貞次郎、
 長太郎、弥吉の五人は、そのままソウロクに残されたので、孫太郎は、とうとう、この
 五人の仲間とも、ここで永久に別れ別れになったのである。
・ソウロクの港を出た船は、赤道直下の熱帯の海上を、ジャングルにおおわれたボルネオ
 の海岸に沿って、静かな航海を続けたが、船の中の奴隷たちにとっては、それは希望の
 ない、暗い旅路であった。この三十人の男女の風俗が、みな、まちまちなのは、かれら
 がいろいろな地方から連れて来られたことを物語っている。
・こうして二十日ばかりも航海を続けるうち、前から気分のすぐれなかった幸太郎が、ふ
 と病みついて、孫太郎の必死の看病のかいもなく、日本へ帰りたいと言い続けながら、
 とうとう船中で息を引取ってしまった。
・孫太郎は、その亡骸にとりすがって男泣きに泣いた。孫太郎は、今はまったく、たった
 ひとりぼっちの日本人になったのだ。あしたから、もう、一緒に故郷のことを語り合い、
 なぐさめ合う者はいないのである。
・こうして、さびしい心の孫太郎を乗せた船は、ソウロクを出帆以来四十二日目に、バン
 ジェルマシンの港についた。船の中から見ただけでも、ここがカラカンやソウロクとは、
 とても比べものにならないほど、開けた都会だということがわかる。港のなかには、中
 国やオランダや、そのほかの国々の大きな船が、何そうも、錨をおろし、岸には、白壁
 のりっぱな家々が四、五百戸も軒を並べていた。これはみな、中国から来ている商人た
 ちの家だということであった。中国人は、昔から広く南洋各地に移住して、盛んに商売
 をやっていたのである。
・ところどころに銃眼をあけて、数十の大砲まで備えた、まるでお城のような建物があっ
 て、その上には、赤、白、青に染めわけた旗が、目にしみるようなあざやかさで、風に
 ふるがえっていた。そのころ東洋貿易にのりだしたオランダの商館が、これなのであっ
 た。
・コロウはやがて、ある大きな中国の商人の店に入り、そこの主人に、銀貨三十枚で孫太
 郎を売り渡した。その日から孫太郎は、この中国人の家で使われる身となったのである。
・この店の主人は、中国の福建省の生まれで、家ではタイコンカンと呼ばれていた。家族
 は主人夫婦と、主人の母と、それにカンベンカンという、まだ独身の弟との四人だが、
 ほかにふたりの中国人の番頭、男女七人の土人の召使いがいる。よほど手広い商売をし
 ているようで、両隣や向かいの数軒の店は、みんな、この家の分店だということであっ
 た。海外への渡航をかたく禁じられていた鎖国時代の日本人にとって、想像もできない
 ような大きな貿易商なのである。
・そんな冒険的な商人にも似ず、タイコンカンはたいそう思いやりのある人だったし、家
 族の人たちも、みな気立てがよく、親切であった。特に孫太郎が日本人で、中国人と同
 じような皮膚の色をしているのも、親しまれたのだろう。
・仕事はというと、ふだんは水をくんだり、まき割りをしたり、そのほか雑用を手伝うの
 が、主人や番頭が商売に出かけるときは、いつも、そのおともをして商品を持ち運ぶ役
 をしたし、船を出すときは、もちろん腕におぼえのある水夫のつとめもした。漂流以来、
 言い尽くせぬほどの苦労をなめた孫太郎も、このバンジェルマシンに来てからは、奴隷
 の身とはいいながら、はじめて、どうやら少しは落ち着いた生活ができるようになった
 のであった。
 
土王と海賊
・バンジェルマシンから、五、六十キロほど川をさかのぼると、カイタンというところが
 ある。土人の家数も一万戸はあろうか。広く開けた土地で、ここにラトー、つまり土人
 の王が住んでいた。バンジェルマシンも、この土王の支配する王国の一部なのである。
・このあたりの土人は、多くが畑をつくっている農民で、これは孫太郎が今まで見てきた
 カラカンやソウロクの土人たちに比べると、それだけ生活も進歩しているわけである。
 といっても、農業のやり方は、まだずいぶん原始的なもので、肥料はやらないし、取り
 入れも、みのった稲の穂を抜き取るだけで、わらはそのままで立ち枯れにさせる。熱帯
 なので、米は一年に二回以上もとれるが、一度つくるとその畑はすててしまって、また
 新しい荒地を開いてゆく。農具も木の棒やくわなどを使うだけで、鉄でつくったものは
 なかった。
・米のほかに、土人たちにとってたいせつな作物は丁子、胡椒などの香料植物である。オ
 ランダ人はそのころ、南洋地方の香料を買い集めヨーロッパで高く売り、大儲けしてい
 たので、土人の有力者たちは、この香料をオランダ人や中国人に売って利益を得ていた。
・カラカンの酋長の家などとちがい、ここの王宮は、さすがにりっぱなものである。まわ
 りには、堀をめぐらし、紫檀という木の板を立て並べた、いかめしい塀には、ところど
 ころ窓をあけ、大砲を備えてある。
・ラトーは、オランダや中国の船が入港したときには、りっぱな船に乗って、バンジェル
 マシンまででかけてきた。これは、見物というより、やはり貿易のためだったのだろう。
 また一般の土人たちも、盛んにバンジェルマシンにやってきて商売する。
・このあたりの土人のなかには、悪事をはたらく乱暴者も少なくない。バンジェルマシン
 の町では、追剥が多く、夜はあかりを持たずに歩く土人は殺してもよいと、ラトーから
 命令が出ているくらいであった。だから、だれでも行き先によっては、武装して出かけ
 るのが普通で、孫太郎もタイコンカンの家に住み込んだとき、すぐに刀、槍、鉄砲など
 を与えられて、びっくりしたほどである。
・ことに、この港には諸国の船が集まるので、これをねらう海賊もたびたびあらわれた。
 よそから攻めてくる海賊船には、ふだんから港口に厳重な番所がおかれ、いざというと
 きには、川に太い鉄のくさりを張りわたして、船の通行をとめる用意がされている。
 
首狩りをする野蛮人
・ヒャアショというのは、バンジェルマシンから川をさかのぼって、十四、五日もかかる
 奥地にあり、カイタンのラトーの市は主およばない別天地であった。そこの住民は、カ
 イタンの土人とはまったく種族もちがい、もっぱら狩猟生活をしている未開民族である。
 おそらく、いまでいうダヤ族のことであろう。
・この土人たちは、狩猟が生業なのに、けっして鉄砲を使わないし、また鉄砲を持った者
 さえ絶対に村へ入れない。そのかわりに、吹き矢を使うのである。これは木でつくった、
 長さ二メートル近くの吹き筒に、二十センチぐらいの長さの矢を入れ、口で吹いて矢を
 飛ばすのだが、土人は、これの名人で、百発百中の腕前であった。矢じりには、毒のあ
 る魚の骨を使うのだと孫太郎は聞いたが、ほんとうは、植物からとって毒がぬってある
 のである。
・ここの住民の風俗は、孫太郎が今まで見てきた土人たちとは、まるで変わっていて、見
 るのも聞くもの、気味の悪いことばかりである。男たちは、ちぢれ髪の頭に白い布を巻
 き、腰にも白いふんどしをしめ、からだにはいちめんに蛇や怪獣の模様を、入れ墨して
 いる。また、腕や足に、真鍮の針金をぐるぐる巻きつけているものもある。耳たぶにも
 穴をあけ、男も女も、真鍮の輪が通してある。
・とある土人の家に立ち寄ったとき、孫太郎はふと見ると、その家のたなの上に、黒っぽ
 い丸いものが三つ並べて置いてある。なんだろうと、よく見ると、干しかたまってミイ
 ラになった人間の首なのである。
・このヒャアショの人は、死人を葬るとき、木で蛇をつくり、人間の首をそえて墓の上に
 供える風習があって、そうしないと死人がたたりをするという言い伝えている。
・しかし、だれの首でもとるというのではなく、たとえば、中国人の商人などは、けっし
 て殺したりすることはない。ただ、ここの土人は、川岸に台をつくり、他国の船が前を
 通りかかると、突然飛び出して、乗っている人の首をとるので、日暮れどきや夜などは、
 みさかいがつかぬだけに、中国人でもあぶないのだそうである。
 
バンジェルマシンの風習
・孫太郎は、タイコンカンの家の忠実な召使いとして働いているうちに、思わずも、満五
 年に近い月日が流れていった。
・タイコンカンの家では、そののち主人の弟のカンベンカンが、同じバンジェルマシンに
 住む中国人の娘を嫁に迎えたので、家族もふえて、にぎやかになった。
・土人の女は、結婚するとき、歯を黒く染める風習があった。まず、砥石で歯をけずるの
 だが、これは、ずいぶん痛いらしい。そのあと、椰子の実のからを火であぶってとった
 黒い汁を、歯に塗りつけるのである。日本でも、そのころ、結婚した女は、おはぐろと
 いって、歯を黒く染めるならわしがあったので、孫太郎は、この風習の一致が、珍しく
 もあり、なつかしいものに思われた。
・土人はアラビアから伝わった回教という宗教を信じていて、朝夕、西の方に向ってアラ
 ーの神をおがんでいるが、中国人は、日本と同じ仏教徒なので、家に大きな仏壇を設け、
 祖先を祭っている。

別離
・毎日の暮らしということから言えば、バンジェルマシンでの孫太郎の生活は、それほど
 つらい悲しいものではなかった。奴隷の身分とは言いながら、主人も家の者も、みな思
 いやりのある人たちだったし、はじめのうちこそ、ことばが通じないのでこまったが、
 今では、普段に不自由な思いをすることもない。だから、貧しい水夫だった孫太郎にし
 てみれば、故郷の日本に帰るよりも、このバンジェルマシンで一生をすごした方が、か
 えって、生活の苦労は少なかったであろう。そのうえ、孫太郎は、父にも母にも早く死
 に別れて、日本へ帰っても、迎えてくれる両親はいなかったのである。
・だが、孫太郎は、この年月を故郷に帰りたいと願わぬ日は一日もなかった。故郷へ帰っ
 て、どうしようというのではない。遠い土地で放された鳩が、ただひとすじに、その古
 巣へ帰ってゆくように、孫太郎も、損得や理屈をこえて、故郷の日本が、矢も楯もなく
 恋しかったのである。
・ある日のこと、孫太郎は、主人のタイコンカンに帰国の願いを打明けた。すると、日ご
 ろ孫太郎の身の上に同情していたタイコンカンは、ゆるしてくれた。
・ちょうど、この港に入っていたオランダ船が、まもなく出帆するという話を聞き込んだ。
 実は、ずっとまえに、オランダの商館長が、タイコンカンに、銀百枚で孫太郎を売り渡
 してくれたら、本人を日本へ送りかえすと申し込んで、断られたという話を聞いたこと
 がある。日本と通商していたオランダとしては、漂流者を送りとどければ、幕府から感
 謝され、商売上の信用も増すと思ったのであろう。だが、孫太郎は、自分をかわいがっ
 てくれる主人を裏切るのがいやだったので、そのまま聞き流してきたのである。
・そこで孫太郎は、このことを主人に相談してみた。するとタイコンカンは、まゆをひそ
 めて、「オランダ人は、人情の薄い残酷な人間だから、油断はできないぞ」と、はじめ
 は、なかなか、受けつけてくれなかったが、孫太郎がぜひにとたのむので、とうとう、
 それほど言うならと、わざわざ孫太郎を連れ、オランダの商館まで出かけ、帰国のこと
 をくれぐれもたのんでくれた。オランダ人の方は、もとより望むところだから、いやと
 言うはずもない。こうして、孫太郎の、長いあいだの夢のような希望は、急にほんとう
 の話となってきたのである。
・餞別には、主人から銀貨一包みに、べっ甲一枚をそえて、孫太郎におくられた。そのほ
 か、孫太郎が普段からあずかっていた刀だの、あれもこれもと、なかなか、たいへんな、
 おみやげである。そのなかでも、下女のウキンという土人の女が、何もあげるものもな
 いからと言って、自分のはだにつけている胸おおいの、更紗の布を解いて、別れのしる
 しにくれたのは、ことに心にしみる贈り物であった。故国へ帰る喜びの日とは言いなが
 ら、長い年月を慣れ親しんだこの土地、このやさしい人たちと別れる悲しさに、孫太郎
 の心も、さすがに引きちぎられるような思いであった。
 
バタヴィアのオランダ人
・孫太郎の乗せてバンジェルマシンを出帆したオランダの船が、めざすジャワのバタヴィ
 ア港についたのは、それからおよそ十九日目の五月二日の夕方のことであった。
・バタヴィア(今のジャカルタ)は、オランダが十七世紀のはじめに有名な東インド会社
 をつくってアジアに進出して以来の根拠地となっているところで、本国から任命された
 東インド総督が、ここに駐在している。そのころの日本では、ジャガタラという名で、
 よく知られていた。
・その市街は、港から川を四キロばかりもさかのぼったところにあるので、海からは見え
 なかったけれど、孫太郎は、この港の中に集まっている諸国の船が、大小数えきれない
 ほどのおびただしさに、まず目をみはらされた。今まで、にぎやかな港だと思っていた
 バンジェルマシンなどとは、格段のちがいなのである。
・その夜を、船長の家ですごした孫太郎は、翌日、二頭立の馬車に乗せられて、にぎやか
 な市街を通り抜け、オランダ政庁に連れてゆかれた。これは総督のいる役所で、まわり
 に、ほりをめぐらし、三重の門を設けた城郭のような厳重な構えの建物である。
・広い、りっぱな一室に、オランダ総督は、左右に六人の下役を従えて、どっしりといす
 に腰かけていた。総督は、思いもかけぬ日本語で話かけてきた。「ワタシ、長崎ニイタ
 コト、アリマス」発音こそおかしいが、じょうずな日本語で、
・その老人が話してくれたところによると、日本へ行くオランダ船は、昨日出帆するはず
 だったが、新しく長崎のオランダ商館長になる人が病気のため、五日まで出帆がのびた
 ので、孫太郎は、あやうく、この船便にまにあうことができたのだということであった。
・そのころの船は、みな帆船で、バタヴィアから日本へ行くのも、夏の季節風を利用しな
 ければならなかったから、もし、この船便をはずせば、孫太郎は、また一年も、ここで
 待たされるところだったのである。
・そのあと、孫太郎は、食堂に案内されて、いろいろごちそうになった。食堂には、美し
 い身なりのオランダの婦人が、腰元らしい女を数人従えて出てきたが、これは、珍しい
 日本人を見物するつもりだったらしい。しかし、出された食事には、ナイフやフォーク
 のかわりに、わざわざ日本の箸がつけてあり、ガラスの瓶に入っている酒は、飲んでみ
 ると、まがうかたない日本酒である、長崎から持ってきてあったものだろうが、こんな
 ところにも、漂流の日本人をいたわる、オランダ人の好意がいかがえるようであった。
・孫太郎を日本へ送りとどける役をするのは、こんど新しく長崎のオランダ商館長に任命
 された、アーレント・ウィルレム・フェイトという人であった。日本の記録では、カピ
 タン・ヘイトとして知られている。カピタンというのは、もともとは船長という意味だ
 が、そのころの日本人は、オランダ商館長を、そう呼んでいたのである。
 
日本への船路
・日本に向かう二そうのオランダ船は、いかりを巻き、帆をあげて、静かに動きはじめた。
 船はいよいよ、なつかしいい本への旅路についたのである。それから三日ののち、スマ
 トラのパレンバンにいったん寄港したが、あとは、ただ一路、日本へ向って、昼夜をわ
 かたず走ってゆく。
・一緒に走っていた仲間の船が、遅れて見えなくなったので、船は帆をおろして、しばら
 く、その付近の海上で待ち合わせていた。すると後ろの方から、一そうの大きな船が、
 へさきに白波をおどらせながら近づいてくる。はじめは仲間の船だとばかり思っていた
 が、見ると、マストの上高くひるがえっているのは、赤字に白く十字を染め抜いた旗で
 あった。オランダの船ではないのである。それを見ると、船の中は急に大騒ぎになった。
 はげしい声で何か命令がくだされ、武装した船員たちが、慌しく持ち場につく、大砲に
 も弾丸がこめられ、砲口は近づく大船に向けられた。気がつくと、こちらの船のマスト
 にも、同じような十字のしるしのついた旗がかかげられてあった。
・そのうち、相手の船は、どんどん近づいてきて、甲板の上にいる船員の姿まで、はっき
 り見えるようになった。ふなばたに、大砲を三段に備えた、いかめしい大船である。
 今にも火をふきだしそうな緊張が、二つの船のあいだに流れる。だが、百メートルばか
 り近くまで来た、この船は、そのまま何事もなかったように、まばゆい夏の日に白帆を
 輝かせながら、東に向って、遠ざかっていってしまった。
・あとから、孫太郎が、水夫のひとりに聞いたところによると、その船は、普段からオラ
 ンダと仲の悪いフランスの船だったが、こちらの備えを見て、敵もわざと戦いを避けた
 か、または、ことらでも相手と同じ旗を立てたんで、自分の味方の船だと思い違いした
 か、ともかく、海戦にもならないですんだのだということであった。しかし、この水夫
 の話は、事実とは違っているようである。赤地に白い十字の旗は、フランスではなくて
 デンマークの旗である。
・おそらく、はじめオランダ人は、この船をフランスの船だと見誤ったのかもしれない。
 そのころのフランス、イギリス、オランダなどの国々は、おたがいに植民地の奪い合い
 をしたり、相手の貿易の邪魔をしたりして、争っていたのである。だから、いつ、どこ
 で攻撃されるかわからないので、そのころの商船は、みな軍艦のように、たくさんの大
 砲を備え、武装していたのであった。
・孫太郎にしてみれば、こんな大きな船で、自由に大海を乗り回すほどの進んだ文明をも
 った人々が、どうして、おたがいに、憎み合ったり、戦争したりしなければならないの
 か、そのわけが飲み込めない。それに、オランダ人は、孫太郎を日本へ送りかえしてく
 れる恩人だけれど、どうも、少しなじみにくいところもあるのである。
・船の中での孫太郎の扱いは、カピタンなども、いろいろ親切にしてくれ、けっして、ひ
 どいものではなかった。居室も上官の近くに与えられ、食事もとくに気をつけてくれる
 など、特別のもてなしである。しかし、おおぜいのなかには、不親切な船員もないわけ
 ではない。それに、ある水夫が高いマストの上から落ちて死んだときや、船員が三人、
 船中で病死したときなど、その死体を海のなかに投げ込むのは、水葬というしきたりを
 知らぬ孫太郎には、カラカンやソウロクの野蛮な土人のやり方が思い出され、人情のな
 いしぐさのように感じられるのであった。

帰国
・広東も沖縄も過ぎたある日、「日本、日本」という叫び声が、船員たちのあいだからわ
 き起こった。どうやら、日本の島が見えてきたらしい。
・船は、いよいよ長崎湾の入口にある高鉾島のあたりまで来ると、続けざまに、大砲を撃
 ちはなった。殷々とひびきわたる砲声は、ふた月あまりの長い航海を終えた二そうの船
 が、無事に目的地へたどりついた喜びを、力いっぱい歌いあげているかのようであった。
 そして、あざやかな夏の光を浴びて、山々の緑の色も美しい長崎の港に、静かにすべり
 こんでいったとき、はじめて孫太郎は、「日本だ。日本へ帰って来たんだ」と、今やっ
 と、それがわかったように、何度もつぶやきかえすのであった。
・明和八年(1771年)6月、漂流以来、ほとんど七年の、労苦に満ちた年月が流れて
 いたのである。ふなばたに立って、長崎の町の家並みを見つける孫太郎のほおには、い
 つか、いくすじもの涙が、とめどもなく流れて落ちていた。
・日本へ帰りついた孫太郎は、長崎で、幕府の役人の取り調べを受け、八月になって筑前
 藩の手に渡され、無事、故郷の唐泊村に帰ることができた。孫太郎を送りかえすのに功
 労のあったバタヴィアの東インド総督には、米五十俵、カピタンのフェイトには三十俵、
 船長には二十俵が幕府からお礼として、あとでおくられたという。
・孫太郎の、この珍しい物語は、そのころの人々に、たいへん興味をもたれ、それを書き
 記した本も、いろいろ伝えられている。ことに、筑前藩に仕えていた青木興勝という学
 者は、孫太郎から直接詳しくその話を聞き取って、オランダや中国の書物とも考えあわ
 せ、「南海紀聞」という本を著わした。
・だいたい、孫太郎は、もともと学問のない水夫だったから、自分の行った地方が、地球
 の上で、どの辺にあたるかもはっきり知らなかった。その漂流した土地も、実際は日本
 の西南にあたるのに、孫太郎は、帰国してからも、それが日本の東だとばかり思い込ん
 でいたくらいである。だから、青木興勝のような学者が、いろいろ苦心して、孫太郎の
 話をよく研究し、これを、系統だった正確な記録として残してくれたことは、たいへん
 幸いなことだったのである。
・そのころの日本は鎖国時代で、日本人は外国へ行くことを絶対に許されず、が以外の様
 子は、長崎にくるオランダ人や中国人などから伝え聞く以外、ほとんど何も知ることが
 できなかった。だから、孫太郎のように、直接に見知らぬ国の土地を踏み、その様子を
 見てきた者の話は、たいへん貴重なものだったのである。この話によって、南洋には、
 どんな人たちが住み、どんな生活をしているか、というようなことがわかっただけでな
 く、また、そこに、中国の商人がたいへん発展していること、オランダ人が大きな勢力
 をもっていること、などの点まで詳しく知ることができ、それによって、世界がどんな
 ふうに動いているのか、ということまで、感じとることができたのであった。
・そのころの心ある人たちが、このように、きびしい鎖国政策のもとにありながら、学問
 のない水夫のとりとめない経験談さえ大切な資料として研究し、海外の事情をよく理解
 しようと努めていたからこそ、のちに日本がアメリカやロシアなどの西洋諸国から開国
 を迫られたとき、いろいろの摩擦があったとはいえ、結局大きな間違いもなく、新しい
 世界の動きに応じてゆくことができたのである。
・孫太郎自身は、しかし、晩年は故郷で貧しい生活を過ごし、文化五年(1808年)に
 六十三才で世を去ったという。


<光太夫ロシア物語>

北の海
・天明三年(1783年)、伊勢国白子(今の三重県鈴鹿市白子町)の神昌丸という千石
 積みの大船で、船頭の大黒屋光太夫をはじめ十七人の船員が乗り込み、紀州藩の米を積
 んで、白子の浜を出帆したのだが、その夜、駿河(今の静岡県)の沖合あたりで、突然、
 激しい嵐におそわれ、海上遠く吹き流されてしまった。それ以来、ほとんど七か月あま
 り、島影ひとつ見えない大海原の上を、むなしく漂っていたのである。
・嵐の夜、帆柱は折られ、舵もこわされた船は、それからのちの長い漂流に、ますます、
 いたみ損じてゆくばかりだった。いかりを二つも波にさらわれ、そのうえ、どこからと
 もなく水がもりはじめ、船底が五、六十センチも水づかりになったときは、もう、いよ
 いよだめだと、乗組員一同、沈没するのを覚悟したほどだった。
・しかし、船おやじ(船頭代理)の三五郎が、伊勢神宮のおはらいをとりだし、うらない
 をしてみると「面舵の一の間」というおつげがでた。すぐ、そのあたりを調べてみると、
 偶然にも、そのとおり水の漏れる小さい穴があいている。布切れをあてて穴をふさぎ、
 船底の水をくみだして、ようやく浸水を防ぐことができた。
・だが、いつまでたっても陸地は見えず、明けても暮れても、船は大海のなかなのである。
 自分たちが、どのへんをどう流れているのか、さっぱりわからない。ただ、どうやら、
 よほど北の方へ流されているらしいことは、春になってもいっこう暖かくならず、五月
 というのに雪の降る日があることでもわかっていた。
・食べものは、米がたくさん積んであったから、心配はなかったが、蓄えてあった飲み水
 は、三か月ばかりのうちに飲みつくしてしまったので、雨が降ると、桶や樽はもちろん、
 伝馬船まで出して水をうけて雨水を集めた。また、のちには、いろいろ工夫したあげく、
 船のやぐらのまん中に穴をあけ、その穴の下にいれものを置いて、雨水を集めるしくみ
 を考え出したりした。
・まえから下痢で苦しんでいた水夫の幾八が、息を引取ったのは、この漂流の最初の犠牲
 者であった。
・はじめのあいだこそ、みなは気をそろえて助け合っていたが、そのうち、だんだん仲間
 同士で言い争いをするものもでき、おしまいには、つかみあいの喧嘩まで始まる始末で
 ある。
・ちょうどこんなとき、はじめて島が見つかったのだから、光太夫をはじめ乗組の者が、
 まるで生き返ったような思いをしたのも無理ではない。
 
赤衣の巨人
・早く船を島へ、と思うのだが、帆も舵もないので、潮の流れにまかせておくほかはない。
 「ありあわせのもので、帆をつくれ」と言う光太夫のさしずに、水夫たちは、何枚もの
 俵をほぐして帆をつくり、舵のかわりに、太い縄を二すじ海の中へ投げ込んだ。
・親船には、いかりをおろしておき、食料の米二俵と、身のまわりの荷物を持って、伝馬
 船に乗りうつった。こうして、病人の三五郎、次郎兵衛のふたりをいたわりあんがら、
 名も知れぬ北海の小島に上陸したのであった。
・磯吉が、めざとく人影を見つけた。十人ばかりの男が、山すそをつたって、こちらの方
 へやってくる。 
・その男たちは、おそれる様子もなく、光太夫たちの方に近づいて話しかけてきたが、何
 を言うのか、さっぱりわからない。ためしに、四、五枚の銭や木綿の布などをやると、
 うれしそうに受け取って、いれずみをした手で、しきりに光太夫の着物を引っぱる。こ
 ちらへ来いという様子なのである。
・相談のうえ、やっと、小市、磯吉、庄藏、新蔵、清七の五人が行ってみることになった。
 土人のあとについて、五人の者が、こわごわ二キロばかり行くと、山の方から目のさめ
 るような赤いラシャ服を着た大男が、ふたり現われ、持っていた鉄砲をいきなり空に向
 けて撃ちはなした。突然のことで、びっくりしたが、そばに行ってみると、これはまた、
 青い目に金髪の、長崎にくるオランダ人のような顔つきの男である。
・そこから五人の者は、この赤い服の大男に導かれて、山の向こう側の、同じような男た
 ちのいる、小さな小屋に連れてゆかれた。その小屋は、三メートル近くも土地を堀りく
 ぼめた上に、草でふいた屋根をかけ、さらに、その上を土でおおってつくった穴室であ
 る。まんなかを土間にして、両側には板張りの床になっていた。これが、この人たちの
 住いなのである。
・あとからわかったことだが、この島はアリューシャン列島のなかのアムチトカという小
 島で、はじめに会ったアレウト土人、あとの赤い服の大男は、そのころこの島に来て毛
 皮を土人から買い集めているロシア人なのであった。
・小市たち五人は、ここまで来ると、急に腹がへってきた。そこで、手まねで何か食べる
 ものがほしいとたのんでみると、ロシア人は、心得顔で、草でつつんで塩むしにした魚
 と、木の鉢に入れた白いどろふぉろした汁を出してくれた。あとできけば、これは黒百
 合の根を煮てつくったもので、この島では、ふだん食べないごちそうだということであ
 った。
・食事がすむと、数人のロシア人が、庄藏、小市、清七の三人を小屋から連れだして、ど
 こかに引っぱってゆこうとする。この連中を怒らせては、かえってまずい。そこで、せ
 めて一番年上の小市と一番下の磯吉が、小屋に残ることにして、小市のかわりには、新
 蔵に行ってもらうことにした。

破船
・その日の暮れ方、小屋の残った小市と磯吉が、年よりの土人にもらったたばこを吸って
 いると、外の方でおおぜいの足音がする。なんだろうと、なにげなく入口の方を見返っ
 たふたりは、思わず「あっ」と叫び声をあげた。鼻の下と下くちびるに角をはやし、顔
 に青いまどりのある、恐ろしい姿の者が、二、三十人も、小屋の中に入ってきたのであ
 る。
・だが、このあやしい者どもは、べつにふたりにおそいかかる様子もなく、ただ、こちら
 を見て、 がやがやさわいでいたが、しばらくすると、ひとり去り、ふたり帰って、み
 んな何ごともなく、どこかへ行ってしまった。
・これは、別に鬼でも魔物でもなかった。この島の女は、顔や手足にいれずみをするほか、
 鼻の穴のへだてのところと、下くちびるの両側に、小刀で穴をあけ、長さ七、八センチ
 ぐらいの、魚の骨などをその穴に通して、飾りにする風習があったのである。いつもは
 取り外してあるのだが、今日は珍しい人間が流れついたと聞いて、特別におしゃれをし
 て、小市たちを見物にきたわけなのである。
・靄の深い朝だった。ゆくてにおおぜいの足音や話し声が聞こえてくる。近づいてみると、
 光太夫をはじめ、仲間の一同が、ロシア人の案内でここかで来たところだった。小屋で
 別れた新蔵たちもいたし、病人は、土人の背に負われていた。
・光太夫たちの話しによると、その土人のひとりに、夕食のとき、にぎりめしをひとつあ
 たえてみたら、受け取ってひと口食べたが、へんな顔をして、残りをすててしまった。
 米など食べたことがないらしい。ロシア人は、とても喜んで、おいしそうに食べた。
・翌朝、ものさわがしい人声に目をさまされた一同が、磯に出たとたん思わず「あっ、船
 が」と驚きの叫びをあげた。岸から少し離れたところに、いかりをおろしておいた神昌
 丸が、磯に打ち寄せられて、無残にこわれかかっているのである。ロシア人や土人たち
 が、おおぜい、そのまわりに集まって、何かわいわいと言いののしっていた。
・船はゆうべのうちに、いかりの綱がすり切れ、暗礁に船底を破られたらしく、まだ残し
 てあった荷物も、たいていは流れ失せてしまっている。もう手のくだしようもないし、
 長いあいだ慣れ親しんだ船の最後の姿を見るにたえない気もしたので、光太夫たちは、
 がっかりして、またも岩穴のなかに寝ころんでしまった。
・だが、その晩、またしてもこんどは磯につないであった伝馬船までが、波で岩に打ちつ
 けられて、こなごなにくだけてしまった。このあたりの波風のぐあいや、磯の様子など
 を知らなかった漂流者たちは、こうして、とうとう、親船も伝馬も失ってしまったので
 ある。
・ロシア人のかしらは、ニビジモフという男で、大きな毛皮商人の番頭だということであ
 った。

島の生活
・八月九日の朝、それまで、寝たきりだった三五郎が、とうとう、さびしく息を引きとっ
 た。この経験の深い「船おやじ」を失った一同のなげきは、言うまでもないが、わけて
 も、この離れ島で、父に死に別れた若い磯吉の悲しみは、どれほどだったことであろう
 か。
・それから続いて、その月の二十日に次郎兵衛が死に、そののちも、風土や食べもののせ
 いか、その年のうちに三人、翌年またひとりの病死者が出て、残ったのは、光太夫以下
 たった九人になってしまった。その残った者も、いつ国へ帰れるというあてもなく、か
 えって死んだ者をしあわせだとさえ、思うほどなのである。
・何をするでもなく、ロシア人の世話になっているのも気づまりなので、島の土人といっ
 しょに、近くの島々にでかけ、ラッコなどの海獣をとる手伝いをすることになった。
・この島の土人たちの生活は、ずいぶん原始的なものである。布類がないので、夏も冬も、
 鳥や獣の皮でつくった着物を着て、穴の家に住んでいる。島には、木は一本もはえない
 が、幸い海岸には、流れ木がたくさんうちよせられるので、それをひろえば、用材や、
 薪には不自由しないほどであった。
・食べものは、鱈、アイナメなどの魚や、雁、鴨などの鳥がおもなものだった。鍋がない
 ので、薄い板のようになった青い石をかまどの上におき、草でつつんだ魚を海の水にひ
 たして、その上に乗せ、焼けるにつれて上からいくども海の水をそそぎかけると、魚の
 蒸し焼きができあがる。
・寒い土地なので、十月ごろには、もう海も凍ってしまい、魚はとれないし、そのころは、
 雁や鴨も暖かい地方へ渡ってしまって、一羽もいなくなる。だから短い夏のあいだに、
 せいぜい冬の食料をとって、たくわえておかなければならない。釣り針、魚の骨でつく
 ったものだが、これに魚の皮をえさにつけて海になげると、少しのあいだに、ずいぶん
 たくさんの魚がとれる。雁や鴨は、羽がえをして、あまりよく飛べぬときをねらって、
 石の槍で突いたり、棒でうち落としたりしてとるのである。また、山の岩のあいだに、
 卵を産んでいるので、ひろいにゆく。これは女の役で、たいてい一日に百個以上も集め
 てきた。そのほか黒百合などの草の根を、汁にして食べ、海岸にはえる雪割草のような
 草を煮だして、お茶がわりに飲むが、こういう草を集めるのも、やはり夏のあいだの女
 の仕事であった。
・土人たちは、大人も子供も、腰に小刀をさげていたが、これはロシア人に毛皮と交換し
 てもらったもので、それ以外の道具には、何一つ鉄でつくったものはなく、包丁や、槍、
 海獣をとるときの銛まで、みな、石でできていた。つまり、石器時代そのままなのであ
 る。
失望と希望
・この大昔そのままの平和な生活をしている土人たちのところへ、突然新しい支配者とし
 て乗り込んできたのが、ロシア人であった。ロシア人たちは、土人のとってくる海獣
 の毛皮と、たばこ、木綿、牛や馬の皮などと交換して、本国に持ち帰り、それを高い値
 段で売って、大儲けしていたのである。
・ロシア人のかしらのニビジモフは、前から酋長の娘のオニイシンという者を、自分の小
 屋に引きとって養っていた。そのころ、光太夫も、ニビジモフの家で寝起きしていたが、
 狭い穴室のことなので、光太夫が寝るところは、オニイシンとしきり一つへだてている
 だけであった。
・ある夜、光太夫が、あやしい物音にふと目を覚ますと、黒い男の影が二つ、隣のオニイ
 シンの寝ているところへせまってゆくふたりのくせ者は、眠りこけている娘の上にのし
 かかり、ひとりが腹のあたりを押さえつけ、ひとりが首をしめたらしい。オニイシンは、
 たったひと声「ううん」とうめいただけで、あとは身動きする様子もない。殺されたの
 である。
・夜明け近くになって、またひとりの男が忍び込んできて、オニイシンの死体をかつぐと、
 そっと外へ出ていった。それが、驚いたことには、たしかに小市なのである。
・光太夫は、翌朝そっと小市に聞いてみた。小市が、顔をこわばらせて話すには、ニビジ
 モフは、前から自分を恨んでいる土人を殺す計画をしていたが、オニイシンが、そのこ
 とを土人に密告しそうになったので、手下のロシア人に、まず娘を殺させ、小市に、そ
 の死体の片づけを、無理に手伝わせたのだそうである。
・ニビジモフは、そののち、計画どおり、四人の土人をだましうちにしたが、土人たちは、
 それに関係したロシアの少年を、ラッコ猟で海に出たとき、寄ってたかって石のやりで
 なぶり殺しにし、かたきうちをした。
・あいにくと、その日は北風が強く、海は遠い沖合まで、白い波がしらおどろらせてた。
 そのなかを、風にさからって二本マストの帆船が、へさきに、はげしく波をかぶりなが
 ら、もがくように島へ近づこうと、あえいでいるように見える。だが、風はますます吹
 きつのり、船はともすれば沖へ吹きもどされようとする。
・「しめた、もう一息だぞ」と喜んだのもつかのま、またも勢いをもりかえした風に、船
 はみるみる四キロばかりも離れた海岸へ吹きつけられ、あれくるう波に、船体を岩にう
 ちあてられて、めりめりっと、無残にも、うちくだかれてしまった。
・ロシア人たちは、すっかり失望しながらも、ボートで岸へたどりついた乗組員を助けた
 り、難破船の荷物や船具をひろいあげたりするのに、一生懸命の様子だったが、この船
 ひとつに、すべての希望をかけて、三年のあいだ、苦しい生活をしてきた光太夫たちは、
 まるで、腑抜けになったようにがっかりしてしまって、何をする勇気も出ない。
・しかし、ニビジモフは、決して望みを失った色をみせなかった。「こうなったら、みな
 が力を合わせて、新しく船をつくって、この島を引き上げることにしませんか」と言う。
 光太夫も喜んで、この申出に賛成した。
・しかし、船をつくるといっても、もちろん十分な材料があるわけではない。そこでロシ
 アの難破船の船具や、神昌丸の船板の古くぎ、それに、この島の海岸にうちあげられる
 流れ木などを集め、一年ばかりかかって、やっとのことで、かなり大きな船をつくりあ
 げることができた。・新造船は、さっそく海獣の毛皮や食料が積み込まれ、ニビジモフ
 以下のロシア人二十五人、光太夫はじめ日本人九人が乗り組んで、アムチトカ島を出帆
 した。ロシア歴で、1787年7月十八日のことである。思えば光太夫たちは、このさ
 びしい北の島で、満四年の月日を送ったわけである。
 
カムチャッカの冬
・光太夫たちを乗せた船は、アリューシャン列島を飛び石づたいに、千五百キロばかりの
 海上を走って、八月二十三日、カムチャッカ半島東岸の港に着いた。
・さびしい海岸には、テントは張って、二十人ばかりのロシア人の女や子供が、何か草の
 実を集めている姿が見えるばかりだった。
・港から五、六キロばかり川をさかのぼったところに、ニジニ・カムチャックという町が
 あった。町とはいっても、丸木づくりのロシア人の家が、五、六十戸ほどしかない。小
 さなさびしい植民地部落である。ここにもカムチャダールと呼ばれる土人がいて、魚を
 とったり狩りをしたりして生活しているが、アムチトカ島の土人とちがい、身なりや住
 いはロシア風になっている者も多い。
・ここで光太夫は、この土地の長官オルリョンコフ少佐の家に引きとられ、あとの八人の
 日本人は、その下役のドブレニンという役人の家を宿とすることになった。 
・この土地での食べものは、パンや魚がおもだったが、そのほか、白い色の、おいしい飲
 み物がよく出された。これも、島で食べた百合の根の汁のようなものだろうと思ってい
 たが、そのうち磯吉は、この家の主婦が、朝夕きまって小さい桶をさげてどこかへ出か
 け、その白い飲み物を入れて帰ってくるのに気がついた。ある日そっとあとからついて
 ゆくと、主婦は、牛小屋に入って、牛の乳をしぼっているのである。磯吉は、びっくり
 して、仲間の者にその話をした。そのころの日本人は、獣の肉を食べない習慣だったし、
 ことに漂流者たちは、伊勢神宮のある土地の生まれだったから、四つ足の乳など飲んだ
 ら、からだが汚れるとかたく信じていたのである。
・ロシア人は、よく、ポケットに小さなレンズを持っていて、それを太陽にかざしてパイ
 プのたばこに火をつける。たばこ好きの光太夫にも、それを貸してくれるのだが、光太
 夫は、いつもことわって、わざわざ火打ち石で火をつけるのである。天照大神は日の神
 さまだから、その太陽の火でたばこをすったりすればばちがあたると、光太夫は思って
 いたのである。
・1788年2月、この町を訪れたフランスの探検家ジャン・バプティスト・レセップス
 は旅行記に書きしるしている。この人は、スエズ運河を開いた名高いフェルディナン・
 レセップス
のおじさんにあたる学者だが、彼によると、光太夫は、背があまり高くなく、
 愛嬌のある顔だちの男で、それまで髪をちょんまげにゆっていたのを、ロシア人のすす
 めで、西洋風に散髪したという。レセップスは、光太夫と話をし、日本の小判などを見
 せてもらったが、この日本人が、頭がよく、心やさしく、そのうえ、無作法なくらい快
 活、率直で、すこしも遠慮などせず、思ったままのことを言うのに感心している。
・冬も、もう終わろうとする四月に二人、さらに五月のはじめに、また一人と、ひき続き
 三人の仲間が死んでしまった。いまの言葉で言えば、壊血病にかかったのである。
 
極北の町
・カムチャッカから日本へは、千島列島をつたってゆけば近である。だが、この土地の役
 人だけの考えで、かってに日本人を帰国さすことは許されていない。そこで、きびしい
 冬が去ると、光太夫たちは、はるばる五千キロの道を、シベリア総督のいるイルクーツ
 クまで送られることになった。
・六月十五日、役人につきそわれて、ニジニ・カクチャックを出発した光太夫ら六人の日
 本人は、七月一日、半島の西岸チギリに着き、八月一日、チギリを出帆、オホーツク港
 に向った。
・この船には、日本人のほかに、ポルトガル人とインド人が乗り合わせていた。イギリス
 の商船に乗り組んでいたのだったが、やはりこの近くの海で難破し、このふたりだけが
 助けられ、一緒にイルクーツクまで送られてゆくのだろう。このふたりは、後に帰国
 をあきらめ、ロシアに住みついてしまったということであった。
・チギリからオホーツクまでは、海上八百六十キロあまり、その月の終わりに、ようやく
 めざす港へ着くことができた。 
・オホーツクは、人家二百戸ばかりの小さい船着場ではあるが、さすがおのあたりでの重
 要な港だけに、新しくつくられている船の姿なども見え、どこか活気の感じられる町で
 ある。
・光太夫たちは、毛皮の服、帽子、手袋、靴などを買い求め、都に毛皮を運ぶ役人につき
 そわれて、九月十二日、オホーツクを出発した。例のポルトガル人やインド人も加えて、
 一行十七人、めいめい役所から与えられた馬に乗り、ここから千百キロばかり西にある
 ヤクーツクの町を目指して進むのであった。
・ほとんど二か月近い苦しい旅路のうち、十一月九日、ようやくヤクーツクの町へ着くこ
 とができた。ヤクーツクは、レナ川に沿って、丸木づくりの家が、五、六百戸、広い平
 原の中にとり残されたようにかたまっているさびしい町なのに、人影もない荒野を旅し
 てきた者たちにとっては、砂漠のオアシスにも似て、このうえもなくにぎやかな都会の
 ようにも思われた。ここで次の旅の用意が整うまで、光太夫たちは、一か月あまり滞在
 した。
・このひどい寒さの土地に、昔から住んでいる土人が、ヤクート人だった。ロシア人とち
 がって、髪の毛も、目の玉の色も黒い。狩りをしたり魚をとったりするほか、牧畜もし
 て、なかには、牛、馬、羊などを、千頭ずつも飼っている者もあるという。みなりはき
 たなく、住む家も粗末だった。ことに、その家の壁は、牛の糞が塗ってあるのだと聞い
 て、光太夫たちは、びっくりしてしまった。寒さで、土地が深いところまで凍ってしま
 うので、壁土をとることができないのだという。それどころではない、桶の内側に、厚
 く牛の糞を塗ってそのうえから水をかけると、こちこちに凍って、石うすのかわりがで
 きあがる。ヤクートク人は、その牛の糞のうすで、自分たちの食べる麦粉や木の皮など
 を搗くのだということである。この牛の糞の石うすは、しかし、ヤクート人だけでなく、
 シベリアにひろく住んでいるツングース人も使うという話しだった。ツングース人は、
 ヤクートク人より文化が低く、獣の皮でつくったテントをもって、狩りの獲物を追いな
 がら、森林のなかをさまよい歩いているという。
 
イルクーツクにて
・十二月十二日、光太夫たちの一行十八人は、ヤクーツクの町をあとにして、ふたたび
 シベリアの冬の旅に出た。今度は、五、六ぴきの馬に引かせた箱ぞりを連ねて、石のよ
 うに凍りついた雪の道を、レナ川沿いにイルクーツクへ向かうのである。
・光太夫たちは、荒れ果てたさみしいシベリアの野を走るそりの中で、1789年の正月
 を迎え、その年の二月七日、ほとんど二か月の日数を費やして、ようやくめざすイルク
 ーツクに到着したのであった。
イルクーツクは、扇の形にひろがるシベリアのかなめにあたるところにあって、ロシア
 がシベリア総督府をおいている土地だけに、光太夫たちが、漂流してからのち、初めて
 見る賑やかな都会であった。ヤクーツクより、ずっと南に寄った土地だけに、寒さも少
 しはしのぎやすいように思われる。家の数は三千戸ぐらいもあろうか。例の丸木づくり
 の家が多いが、なかには石づくりで、しっくいの壁をぬった、りっぱなものもある。大
 きな役所のほか、学校や病院もあり、キリスト教の寺院もいくつかあった。大きな市場
 があって、毎日たくさんの人が集まってくる。そのなかには、この地方に多くいるブル
 ヤート人などにまじって、中国人や朝鮮人の姿も見られるのも、光太夫たちには珍しい
 気がした。
・ある日、思わぬ客の訪れがあった。カムチャッカで知り合いになったテモヘ・ホトケウ
 イチという役人で、今度この町へ出てきたのだという。テモヘは、町のたれからのとこ
 ろへ光太夫を連れてゆき、どうか世話をしてやってくれるようにとたのんでくれた。そ
 のおかげで、だんだん心やすくしてくれる人ができたのは心強いことだった。なかでも、
 このとき知り合ったキリル・ラックスマンという人は、光太夫たちの帰国の日まで、親
 身もおよばぬ世話をしてくれたのである。
キリル・ラックスマンは、ペテルブルグ大学の先生で、シベリアの生物を専門に研究し
 ている人だったが、日本のことについても、特別の興味をもっていたので、人一倍の熱
 心さで、光太夫から日本の事情を聞き取った。光太夫は、船頭にしては知識もあり、頭
 もよかったので、キリルも喜んだが、光太夫の方も、生まれ故郷の伊勢の小さな村の名
 まで、キリルが知っているのには、びっくりさせられたものである。
・このときキリルの頼みで書いた数枚の日本地図が、今でも残っている。そういう地図や、
 光太夫の話をもとにして、キリルはペテルブルグの学士院に、日本について詳しい報告
 書を書いたのである。
・こうして暮らしているうちに、庄藏の身に、思いがけないことがもちあがった。庄藏は、
 もともと足に小さな傷があったが、それがカムチャッカにいたころから少しずつ痛みだ
 し、そののちの長い旅のあいだに、だんだん悪くなって、イルクーツクについて間もな
 く、傷口がすっかり腐って、骨が出るほどのありさまとなった。そこで病院に入院して
 手術を受け、その足を、ひざの下から切りとってしまったのである。
・なぐさめる光太夫の言葉にも、庄藏は、ベッドの上に顔をふせて、答えようとはしなか
 った。仲間の親切な介抱はうれしかったが、この見知らぬ土地で、思いがけずもかたわ
 の身になってしまった悲しさは、どんな言葉にもなぐさめられようはなかったのである。
・庄藏がキリスト教の信者になったのは、それからまもなくのことであった。そのころ日
 本では、キリスト教は、かたく禁じられていて、信者は死刑にされたくらいだから、こ
 こでキリスト教徒になったら、もう絶対に日本へは帰れない。それを知りながらも、異
 国の神にすがらないではいられなかった庄藏の心のさびしさは、どんなだったであろう
 か。こうして、庄藏は、名もロシア風にフョードル・シトニコフとあらため、松葉杖を
 つきなら、とうとう、なつかしい故国に帰る日もなく、シベリアの土となったのである。
 
帰国の願い
・イルクーツクについて以来、光太夫たちは、役所から月々生活費を与えられたので、暮
 らしに困ることはなかったが、肝心の日本へ帰してもらう話は、いつまで経っても音沙
 汰がない。心配になってきた光太夫は、あるときキリルに相談すると、「それなら帰国
 の願書を書いて、総督のイワン・ピールさんから、都に送ってもらいなさい」と言って、
 さっそくテモヘとも相談して、願書を役所に出してくれた。
・すると、その年の八月になって、都のペテルブルグ(今のレニングラード)から返事が
 届いた。それによると、漂流者たちは、日本へ帰ることは思いとどまって、ロシアの
 役人になるように、とのさしずである。
・光太夫たちは、びっくりした。そこで、折り返してもう一度、ぜひとも帰国させていた
 だきたい、という願書を差し出した。その返事は、翌年の二月に届いた。今度も相変わ
 らず、帰国を許される様子はない。光太夫たちは、すぐ、その月に、かさねて三度目の
 願書を出した。ところが、こまったことに、三度目の願書を出してからというものは、
 それまで日本人に役所から月々与えられていた生活費が、差し止めになってしまった。
・光太夫たちは、歯を食いしばって、なんとか都から許しがでるまで、待つことにした。
 幸い知り合いになった町の人たちも、光太夫たちの身の上に同情して、苦しい生活を助
 けてくれる。とりわけキリルは親切で、朝夕の食べものも、毎日たいてい日本人の宿へ
 とどけてくれたほどであった。
・これほどまでにして、ロシアの政府が、光太夫たちをこの国に引き留めておこうとした
 のは、いったいどういうつもりだったのであろうか。ロシア人は、シベリアに植民地を
 つくると、さらに日本とも通商をしたいと考えるようになった。そのころ、東洋貿易は、
 たいへん利益があったのだし、それに、食料や日用の品々にとぼしいシベリアでは、手
 近な日本から、ゆたかな農産物や、そのほか必要品を買い入れることができたら、この
 うえもない都合のいいことだったのである。
・だからロシア政府は、早くから日本と国交を開く計画を立てていて、有名なピョートル
 大帝も、1705年、ペテルブルグの都に、日本語を教える学校を建てたくらいである。
 そのとき以来、この学校ではつぎつぎに漂流してくる日本の船乗りたちを連れてきて、
 先生にしていたのであった。
・そののち日本語学校は、イルクーツクに移されていたが、光太夫がここへ来たころには、
 日本人の先生は、もう、すっかり死にたえて、名ばかりの日本語の通訳が三人いるほか
 は、よい先生がなくて、こまっていたところであった。だからロシア政府としては、光
 太夫たちをぜひ引き留め、日本語を教えさせ、また、日本の様子を調べたいと考えたわ
 けなのである。
・光太夫たちが三度目の願書を出してからのちは、いつまでたっても、都から何のたより
 もなく、そのうちに月日ばかりがすぎて、またしても年があらたまり、1791年の正
 月になってしまった。イルクーツクへ来てから、早くも二年近い年月がたったのである。
・ある日キリルが、「皇帝陛下にじきじきにお願いしてみてはどうか」と光太夫に言った。
 「ロシアの皇帝は、いまは女王さまで、やさしいお方だから、きっと、万事うまくゆく
 だろう」
・あいにく、このとき、九右衛門と新蔵は、重い病気で寝ていたし、庄藏は足の手術のあ
 とずっと入院したままであった。そこで、小市と磯吉を病人の介抱のたけにイルクーツ
 クに残し、光太夫だけが都へ連れていってもらうことにした。ところが、九右衛門の病
 気が急に悪くなって、とうとう息を引きとってしまった。新蔵も高い熱があって、安心
 できない容態である。光太夫は、あとのことをくれぐれも小市と磯吉にたのんで、キリ
 ルと一緒に、あわただしくイルクーツクを出発しのであった。

ロシア帝国の首都
・光太夫が、ロシアの女王に帰国の許しを願おうと、ペテルブルグの都の旅だったのは、
 1791年1月のことであった。イルクーツクから都へは、六千二百キロあまりの道の
 りだという。キリル、光太夫ら一行五人を乗せた八頭だての馬ぞりは、果てしもなくひ
 ろがる西シベリアの野を、夜昼のけじめなく走り続けた。生まれて初めてこんな速い乗
 り物に乗った光太夫は、慣れるまで気持ちが悪くなってこまったほどであった
・めざすペテルブルグの都についたのは、イルクーツクを出てから三十六日の日数がたっ
 ていた。ペテルブルグ(今のレニングラード)は、フィンランド湾に臨んで、ピョート
 ル大帝が新しく建てたという、町なみも正しい大都会であった。ひときわ壮大な王宮が、
 その美しい姿をネヴァの川水に写していた。
・四、五階建てのれんがづくりの家々が建ち並んだ町の大通りには、道のまん中に、ネヴ
 ァ川の水を引いた きれいな川が流れ、そのふちに立てられた花模様の鉄柵も、ところ
 どころにかけられた美しい石の橋も、町のおもむきをそえている。光太夫には、何もか
 もみな珍しく、驚くことばかりである。
・キリルは、アレクサンドル・ベスボロトコという高官の家に光太夫を連れてゆき、すべ
 てのことをよくよくたのんでくれた。ところが、急にキリルが、どっと病の床について
 しまった。高い熱が出て、助かるかどうかわからないほどの容体である。光太夫は、も
 う自分の帰国のことも忘れ、病人につききりで、夜の目も寝ずに看病した。そのしるし
 があったのか、キリルの病気も、だんだん、よくなったが、全快までの三か月のあいだ
 を、むなしく過ごしてしまったのである。
・そのころ、イルクーツクにいたはずの新蔵が、ひょっこりと光太夫をたずねてきた。新
 蔵の話すところによると、イルクーツクで病気が重く、もう助からぬと自分でも思った
 ので、勧められるままにキリスト教に入り、名もニクライ・ペトロウィッチ・コロツィ
 ギン
とあらためたが、幸い病気が治ったので、都へ薬を送り届ける役人の手伝いとなっ
 て、ここまで来たのだという。新蔵は、これからはロシアの役人になって、一生を異国
 で過ごすつもりだというのである。
・毎年のしきたりで、ロシアの政府は、女王も役人も、ペテルブルグから二十四キロばか
 りのところにあるツァルスコエ・セロの離宮へ、避暑に移ってしまった。そこで、よう
 やく病気のよくなったキリルは光太夫を連れて、自分たちにツァルスコエ・セロに移り、
 さらに政府の主だった人々に、帰国の願いをしてくれることになったのである。
 
女王の招き
・ツァルスコエ・セロの離宮には、広大な庭園があって、大きな池には噴水がほとばしり、
 見事な花園には美しい花々が咲き乱れている。
・五月の朝のこと、省務大臣ウォロンツォフ伯爵からの使いが来て、陛下が、これから日
 本人にお会いになるから、キリルともども、すぐ宮中へ来るようにとのことであった。
・洒落たフランス風の洋服に着替え、帽子からステッキまで持って、別に女王に見せるた
 めに、日本の羽織と袴を用意し、キリルにともなわれて宮中にうかがった。
・女王がおられるところは、五階建ての宮殿の三階にあって、赤や緑の模様のある大理石
 でかざられた、まばゆいばかりの美しい大広間である。その中央のりっぱな椅子に腰か
 けているのが、ロシアの女王(正しくは女帝)エカチェリナ二世であった。品のある美
 しい顔だが、六十歳ぐらいであろう。
・その左右には、五、六十人の侍女が、思い思いの美しい身なりで、花のように立ち並び、
 さらに、その両側には、大臣をはじめ、身分の高い役人たちが、四百人あまりも、礼儀
 正しくひかえているのである。 
・このはれがましいありさまに、光太夫は、すっかり気おくれしてしまい、足がすくんだ
 ようで、前に進むことができない。帽子を左のわきに抱えたまま、思わずそこで、おじ
 ぎをしようとすると、案内役のウォロンツォフ伯が、「陛下の前においでなさい」と言
 う。
・そこで、帽子とステッキをおいて、おそるおそる女王の前へにじりでた。ここでしくじ
 ってはたいへんと、かねて教えられてあったとおり、左ひざをつき、右ひざを立てた形
 で、女王の前にかしこまり、ふるえる両手をかさねて前に差し出すと、女王は右の手を
 のばして、指先を光太夫のてのひらの上に、そっとおかれた。その手に、光太夫は、三
 度くちびるをつけるまねをした。これで女王へのあいさつは終わったのである。
・女王が「ベンヤシコ」と言われたのが、光太夫の耳にも入った。これは「あわれな者よ」
 という意味である。それか、ら女王にかわって、トルチェニノフという大臣の夫人で、
 ソフィア・イワノヴナという貴婦人が、漂流以来のことについて、詳しく問いただした。
 光太夫が、いちいちそれに答えると、聞いておられる女王は、たいへん感動された様子
 である。
・この日は、ちょうど女王のお孫さんの誕生日にあたっていたので、お昼には、祝いの食
 事があるはずになっていたが、女王は、午後二時ごろになっても、また席を立とうとし
 なかった。
・こうして、この日は、すべてがうまく運んで、光太夫は、無事宮中から宿に帰ったが、
 女王は、このさすらいの日本人に同情されたらしく、それから後も光太夫をたびたび宮
 中に招いて、皇太子と一緒に、いつもたいそう打ち解けてその話を聞かれたのだった。
・そんなとき、女王や皇太子は、日本のことを書いた本を光太夫に見せて、いろいろのこ
 とを質問された。そういう本の中には、ロシアで出版した日本地図もあって、その図の
 すみの方には、大名の紋や日本の貨幣の絵まで入っていた。もっとも、そこにしるされ
 ている漢字は、さすがにまちがいだらけである。
・光太夫が、懐かしくもあり、珍しくも思ったのは、そういう本の中に、日本でできた絵
 草子(挿絵入りの小説本)や、浄瑠璃本があったことである。いったい、どうして、こ
 んな日本の本が、この遠いロシアの都まで、持ってこられたのであろう。
・あるとき、女王は、光太夫から伊勢神宮のおはらいのおふだのことを聞いて、「一度見
 せてください」と言われた。光太夫は、いやとも言えないので、おふだを宮中へ持って
 いったが、箱の中を開けたりして、もったいないことをされてはこまると、内心ひやひ
 やしていた。女王は、「日本では、こういう形のないものを神さまだといって、信心す
 る風俗なのですね」と言い、そのままずっと、光太夫が帰国のときに返してもらうまで、
 居間にそれをかざっておかれた。光太夫は、また仏教も信心して、小さい袈裟を持って
 いたので、それを女王に見せた。このような思いがけないことで、光太夫はすっかり女
 王の気に入り、よいお話相手になってしまったのである。
 
ペテルブルグの人気者
・女王や皇太子が、このように光太夫をもてなされたくらいだから、この日本の漂流者の
 ことは、ペテルブルグの貴族たちのあいだでも、たいへんな評判になり、身分の高い人
 たちが、かわるがわる、光太夫を自分のやしきに招いて、ごちそうしたり、郊外の別荘
 や、芝居見物など、いろいろなところへ遊びに連れていってくれたりするようになった。
 ことに、光太夫を上にとりなしてくれた大臣のベスボロトコは、とりわけ親しくかわい
 がってくれたので、光太夫もいつもその家に出入りして、しまいには、案内もなしに家
 の中に入ったり、家族の人たちと一緒に食事をしたりするようになったくらいである。
・そういう人たちは、日本のものを、なんでも珍しがったが、ことに漆器をほめ、金まき
 絵のお椀やお盆などは、まるで宝物のように大切にして、中にはオランダ人などから、
 にせものを高い値段で買わされて、大事にしている人さえあった。
・しかし、日本人の風俗を聞いて、なかなかきびいし批評をする人もいる。あるとき、光
 太夫が、日本には馬車がなく、かごを人にかつがせて乗るのだと話すと、聞き手は不思
 議そうな顔をして、「馬という役に立つものがあるのに、人が乗るものを、わざわざ、
 人にかつがせるなんて、信じられないことですね」と言ったが、これには光太夫も、な
 るほどと感心して、返事のしようがなかった。
・そのころ、光太夫のことがどんなに評判になっていたかは、遠い海を越えたイギリスに
 まで、この日本の漂流者の話が聞こえていたことでもわかる。ちょうどこのとき、イギ
 リスでは、マカートニィという人が使となって、中国へ出かけるところだったが、光太
 夫のうわさを聞くと、すぐペテルブルグにいるイギリス大使に、できればその日本人を
 ロンドンに連れてくるようにという命令を出した。中国へ行くついでに、光太夫を日本
 に送りとどけ、それを機会に日本とも通商を開こうという考えだったのである。この計
 画は、実際には行われなかったけれど、このように、光太夫は、イギリスとロシアとの
 二つの大きな国のあいだで、引っぱりだこになっていたのであった。
・このころのヨーロッパの国々は、中国や日本と貿易することを強く希望していたし、こ
 とにロシアは、シベリアに近い日本とぜひ国交を開きたいと考えていたときだったから、
 そこへひょっこり現われた日本人光太夫が、大歓迎を受けたのも、無理な話ではなかっ
 た。そのうえ光太夫は、わりあい教養もあり、頭もよく、明るく率直で、人好きのする
 性質だったから、いっそうロシア人の人々から親しまれ、かわいがられたのであろう。
 
博物館と学校
・女王をはじめ、ロシア宮廷の人たちは、光太夫から日本の事情を聞きとったばかりでな
 く、また、西洋の進んだ文明を光太夫に見せて、ロシアがりっぱな国であることを、日
 本へのみやげ話にさせようと考えていたらしい。
・あるとき、女王は、光太夫たちを、王宮の中にある図書館や博物館に案内するよう、大
 臣のトルチェニノフに言いつけられた。図書館に集められている、おびただしい本、博
 物館の中に並べられている、たくさんの動物、植物、鉱物の標本など、みな、目を驚か
 すものばかりである。だが標本のうちでも、顔が二つ、手が四本の人間のアルコールづ
 けなどは、気味が悪くてよく見る気がしない。
・また、あるとき、ペテルブルグの国立学校から、光太夫に、キリルと一緒に来てほしい
 というたのみがあった。そこで光太夫は、日本の羽織袴をつけ、腰に刀をさし、キリル
 の通訳で、全校の生徒に、日本の風俗などの話をして聞かせた。
・このとき、校長先生のアンガリトさんは、世界中のことばが集めてあるという大きな辞
 引を見せてくれた。これはロシア政府が、ドイツからパルラスという学者をまねいて出
 版させた、自慢の辞引である。開いてみると、その中には、日本の部もあるが、そこに
 書いてある言葉を読んでいるうちに、光太夫は、つい、ふきだしてしまった。これは、
 この辞引をつくるとき、たずねられた日本の漂流者が、南部(岩手県)の者だというこ
 とで、東北弁のなまりのある言葉が多かったのである。
・このほか、光太夫は、ペテルブルグの病院、国立の薬局、貧しい人の子を育てる養育院、
 銀行、監獄、工場など、そのころの日本では見られないものを見物し、いろいろの新し
 い知識を得た。それが、後に日本に帰ったとき、心ある人たちに伝えられ、日本人が、
 ヨーロッパの文明を、正しく知るための下地となったのである。
 
都よ、さようなら
・九月に待ちに待った帰国のゆるしが、正式の出たのである。こうなったのも、まったく
 キリルの力である。キリルは、光太夫たちを日本に送りかえし、それを機会に日本へ使
 をやって、ロシアと日本の通商を開くように、交渉させるべきだと、熱心に言いはって
 いたのである。女王も、それに賛成して、そのときシベリアに勤務していたキリルの次
 男、「アダム・ラックスマン」中尉を日本へ使に任命し、一方、イルクーツクのシベリ
 ア総督ピールに勅書を送って、日本へ行く船を新しくオホーツクで建造するほか、キリ
 ル・ラックスマンと相談して、必要な準備を整えるようにと、命令を出したのである。
・十月、光太夫は宮中に呼び出され、女王にお別れのあいさつをした。女王は、ダイヤモ
 ンドのかざりのついた、見事なたばこ入れの小箱をくださった。だが女王の贈り物は、
 これだけでなかった。金メダル一つ、宝石入りの美しいくさりのついた金の懐中時計一
 つ、それに金貨百五十枚が渡された。
・またキリルの親しい友人に、プーシキンという物好きの人がいて、かねがね光太夫の持
 っている日本の貨幣をほしがっていたが、出発のとき、小判や穴あき銭などに銀の煙管
 をそえて贈ったら、大喜びで、砂糖、堂版画のほか、イギリス製の顕微鏡をお礼にくれ
 た。そのころ顕微鏡は、日本にもオランダから伝えられていたが、なんといっても珍し
 い器機で、日本人に科学への目を開かせる何よりのお土産だったわけである。
 
悲しい別れ
・光太夫がイルクーツクに帰ると、小市や磯吉をはじめ、足の不自由な庄藏も、病院から
 来て、なつかしそうに迎えた。
・しかし、新蔵と庄藏の顔には、どこかさびしい影があった。自分たちは、キリスト教徒
 になったばっかりに、この国にとどまらなければならないのである。ことに片足を失っ
 た庄藏の心は、このはなやかな一座のなかで、ひとしお暗く重いのであった。
 
オホーツク港へ
・小市と磯吉は、こんど一緒に日本へ行く通訳のトゴルコフや役人のトラペズニコフらに
 付き添われて、光太夫たちの一行とは別に、あとからオホーツクまで行くことになった。
 このトラペズニコフは、昔ロシアに来た久助という日本人漂流者の子だということであ
 った。
・船の準備は、思うようにはかどらなかった。日本へ行くために、わざわざ新しくつくっ
 た船は、この船の船長に任命されたグリゴリ・ロフツォフに気に入らない。そこで、や
 むなく、この港にあった船のうち、三年ばかりまえに建造された商船を、女王の名にち
 なんでエカチェリナ号と名づけ、これを使うことになって、その手入れにかかった。こ
 の船は長さ三十メートルあまり、二本マストのブリガンティンという型で、積荷からい
 えば神昌丸の半分ぐらいの大きさである。

なつかしき故国
・エカチェリナ号は、南へ南へと、毎日おだやかな航海を続け、やがて、エトロフ島の西
 の国後水道を通って、無事、北海道の根室湾に臨んだ西別の沖合に錨をおろすことがで
 きた。ロシア歴で1792年10月このことだったと光太夫は語っている。日本の幕府
 の記録には、寛政四年の旧暦九月三日と記されている。
・翌朝まず、光太夫たち十二人の船員が、ボートで海岸に上陸した。そこには、松前藩の
 建てた番所があって、数人の人影が、こちらを不安そうに見守っている。
・驚いた番人も、光太夫からあらましの様子を聞くと、やっと、納得して、この南の根室
 まで行けば、船がかりをするところもあるし、もっと大きな番所もあると教えてくれた。
 エカチェリナ号は、その言葉のままに、翌日の明けがた、根室に移り、そこにいた番人
 に、ロシアから使の船が来たわけを、詳しく話して聞かせたのである。
・この知らせを受けた松前藩では、すぐ、このことを江戸の幕府に急報して、指図を待つ
 一方、ロシア人の見張りかたがた、その世話をするために、藩の役人や医者を、さっそ
 く根室まで出張させてよこした。
・しかし、いつまでたっても幕府からの返事はない。そのうち、通訳のトゴルコフが、
 「どうも、日本の幕府は、ロシア人も漂流者たちも、みな殺しにするつもりで準備して
 いるらしい」などと言い出した。鎖国の取り締まりのきびしい幕府のことだから、万一
 そんなことがないともかぎらない。幸い、それが根も葉もない、でたらめだったことは、
 やがてわかったが、このような不安な思いで日を過ごすうち、とうとうラックスマン一
 行は、この根室の海岸で、長い冬を越すことになってしまったのである。
・その寒い仮小屋住いと、新鮮な食べものの不足のためだったのだろう。小市は、いつか
 病の床につき、越前あら来た医者の手当や、光太夫たちの必死の看病のかいもなく、翌
 寛政五年四月、ようやくめぐってきた春にそむいて、むなしく故郷のことを言い続けな
 がら、息を引きとってしまった。光太夫も磯吉も、死んだ小市の枕もとで、泣きくずれ
 た。あまりといえば、かわいそうな運命である。ロシア人も松前の役人たちも、この不
 幸な漂流者の死に同情しないものはなかった。はじめ十七人だった神昌丸の乗組員は、
 これでとうとう、光太夫と磯吉の、だったふたりきりになってしまったのである。
 
後日ものがたり
・それからのちも、ロシアの使と幕府とのあいだの交渉は、なかなかはかどらず、根室に
 着いてからほとんど十か月もたった六月に、ラックスマンは、ようやく松前にいって、
 幕府からの使、「石川将監」、村上大学らと会うことができた。その話し合いで、光太
 夫と磯吉は、ロシア人の手から、正式に幕府の役人へ引き渡されたのである。
・しかし、ラックスマンの本当の目的であった日本と国交を開く話は、幕府のはっきりし
 た答えが得られず、あらためて長崎に来ることを約束して、いったんロシアに帰ること
 になった。
・このとき、幕府は、日本人漂流者を送り返してくれたお礼として、白米百俵と日本刀三
 振をロシアの使に贈った。この刀は、のちにエカチェリナ女王に献上されたが、そのと
 き以来ラックスマン家では、女王のお許しを得て、家の紋章に右の方に、この日本刀の
 絵を書きそえることになったという。
・幕府の役人に引きとられた光太夫と磯吉は、その年の八月に江戸に着き、詳しい取り調
 べを受けたうえ、九月に江戸城のなかの吹上上覧所へ呼び出され、将軍「徳川家斉」の
 前で、いろいろとロシアの様子をたずねられることになった。
・だが、このときは、たずねる役人たちが、ろくにロシアのことを知らなかったので、ず
 いぶんつまらない質問が多かった。その中で、ある役人が、「ロシアでも、日本のこと
 をぞんじておるか」と聞いたので、光太夫が、「はい、よく知っております。日本人で
 は、「桂川甫周」様、「中川淳庵」様という学者の名を存じておりまして、本にも書い
 てるということでございます」と答えると、急にざわめきが起こって、なみいる人々の
 目は、いっせいに、光太夫のすぐ前にすわっている医者らしい姿の人にそそがれた。そ
 れこそ、いま光太夫の話しに出た桂川甫周その人だったのである。
・これが縁になって、のちに桂川甫周は、将軍の命令を受け、光太夫の話をまとめて、
 「北槎聞略」という本をあらわした。これが、光太夫の物語を書いた一番詳しい記録で
 ある。 
・しかし幕府は、ロシアの様子を直接見てきた光太夫の口から、外国の進んだ文明のあり
 さまが、世の人々に知られるのを恐れた。長いあいだ守ってきた幕府の鎖国政策が、そ
 のために、やりにくくなることを心配したからである。そこで幕府は、翌年の寛政六年
 六月、命令を出して、光太夫には毎月三両、磯吉には二両の生活費を与え、故郷から妻
 子を迎えさせて、江戸の番町にある政府の薬草園の中に一生住まわせることにした。そ
 して、外国の様子は、むやみに人にしゃべってはいけないと申しつけたのである。
・しかし、この命令も、実際には厳重に守られたわけではなく、光太夫も磯吉も、ときど
 きいろいろなとこに招かれて、その見聞を話していたらしい。ことに桂川甫周や「大槻
 玄沢
」など、そのころ西洋のことを研究していた名高い学者たちと知り合いになって、
 その研究の役にもたつことができた。
・光太夫たちが帰国して十二年経った文化元年(1804年)、またもロシアに漂流した
 日本人「津太夫」ら四人が送り返されたとき、その物語を書いた大槻玄沢は、光太夫の
 話をいろいろ参考にしたし、また、そのとき伝えられたロシアの地図を幕府が翻訳した
 ときも、光太夫はその手伝いをしている。そのほか、「馬場佐十郎」、「足立左内」な
 ど、光太夫からロシア語を習った学者も少なくなかった。
・光太夫は、日本へ帰ってからは安楽な暮らしを送り、文政十一年(1828年)七十八
 歳で死んだという。帰国してから生まれた子供は、後に「大黒梅陰」というりっぱな学
 者になった。
・磯吉も、その後しあわせに暮らしたと思われるが、詳しいことは何も伝えられていない。
・かわいそうだったのは、夫の漂流以来、百姓をしながら、この長い年月、ひとりで家を
 守ってきた小市の妻である。死んだものとあきらめていた夫の小市が帰って来たとのう
 わさに、夢かとばかりに喜んだのも束の間、その夫が、せっかく日本の土を踏みながら、
 故郷へ帰る日を待たずに病死したというのは、あまりにも残酷な知らせであった。幕府
 もこれをあわれんで、銀十枚と小市がロシアから持ち帰った品々をさげわたしたが、こ
 の不幸な妻の心は、そのようなことではなぐさめられるはずもなかったであろう。その
 ころ江戸では、小市の妻が悲しみのはて、気が狂ってしまったといううわさが流れたほ
 どである。
・イルクーツクに残った、新蔵と庄藏のふたりは、その後、どうなっただろうか。からだ
 の不自由な庄藏は、それからまもなく死んだらしいが、新蔵は日本語学校の先生になり、
 「日本および日本の商業について」という本を書いて出版したり、クラップロートとい
 う名高い学者に日本語を教え、林子平の「三国通覧図説」という本の翻訳を手伝ったり
 した。そしてロシアの婦人と結婚して、三人の子まででき、文化七年(1801)イル
 クーツクで死んだと伝えられている。


<韃靼漂流物語>

日本海にただよって
・福井県の九頭龍の川口に、三国という小さい港町がある。今でこそ昔の面影は見られな
 いが、江戸時代には、越前の三国湊といえば、諸国の船頭たちのあいだに、北国第一と
 までもてはやされた舟着場で、岸には廻船問屋が軒を並べ、出船入船のにぎわいに、町
 はいつもいきいきとさんざめいていたという。この港が、古くから開けていたことは、
 今から千二百年なかりも昔、光仁天皇の宝亀九年(778年)に、そのころ満州にあっ
 た渤海という国の使を乗せた船が、この三国湊に来着したという、言い伝えからも想像
 できる。
・寛永二十一年(1644年)旧暦四月、三国の港を出帆した三そうの船があった。この
 町の商人、竹内籐右衛門、その子の籐蔵、それに国田兵右衛門という者の持ち船で、水
 夫とともに総勢五十八人が乗り組み、遠い蝦夷(北海道)の松前まで商売に行こうとす
 る船出なのである。
・船は能登半島の沖合の舳倉島に立ち寄り、さらに佐渡が島で、ゆっくりふながかりをし
 たのち、五月、めざす松前へ向かって、佐渡の港を出帆した。
・その夜であった。激しい嵐が、思いがけず海上の三そうの船におそいかかったのである。
 船は怒りくるった大波にもまれながら、どんどん沖合遠く流されてゆく。明け方近く、
 ようやく波風がすこし静まったころには、三そうの船は、まったく方角を失ったまま、
 ただ広々とした海原のなかに、漂い出てしまっていたのであった。 
・いつも陸地をながめながら、順風だけをたよりに、船を走らせていた。そのころの航海
 のやり方では、こうして、何も見えない外海に押し出されてしまうと、もう、あとは運
 まかせ、風まかせで、ほどこすすべもない。ただ、この嵐のあいだにも、三そうの船が
 離ればなれにならずにすんだのは、せめてもの幸いというほかはなかったのである。こ
 うして、あてもない漂流が始まって、来る日も来る日も、海を見ながら、十五、六日も
 たった。
・ある日の朝、たしかに陸地らしいものの影が、朝もやのなかに、ぼんやりと浮かんで見
 える。船を近づけてみると、やがて、木々の茂らせた高い山々の姿が、くっきりと目の
 前に現われた。 
・どこの、何という土地かもわからなかったが、船のなかでは、飲み水にも不自由してい
 たので、物慣れた水夫たちが、さっそく小船をおろし、岸にこぎよせていった。
・「ここは、朝鮮か、ことによると、韃靼の地つづきかもしれんぞ」韃靼というのは、そ
 のころの人が、モンゴルや満州などを、ひとまとめにして呼んだ名前である。
・必要な木材は、手近の山にいくらでもあった。それを切り出してきて、十日ばかりたつ
 と、船の修理はすっかりできあがった。
・だが、三そうの船が、帆いっぱいに帰国の希望をはらませて、日本をさして航海したの
 も、ほんのわずかのあいだだった。またしても、急に東に変わった風が、激しい勢いで
 吹きつのりはじめ、船は西へ西へと、二百キロメートルばかりも押し流され、二、三日
 のうちに、ふたたび、見知らぬ土地へ吹き寄せられたのである。
・やがて陸地の方から、こちらに向って、たくさんの小船がこぎよせて来るのが見える。
 六十そうばかりもあろう。どれも同じような長さ八、九メートルばかりの船で、一そう
 にひとりずつ、見なれぬ男たちが乗っている。ぼうぼうと髪をのばし、そまつな皮の着
 物を着た、恐ろしげな姿である。
・いろいろどなってみたが、まるで先方には通じないらしい。いくらやってもむだだし、
 何しろ六十そうもの小船に取り囲まれては、きみも悪いので、おしまいには返事もしな
 いでいると、あきらめたのか、小船は、そろって、また陸の方へ引き返していってしま
 った。
・前後の事情から考えると、この漂流船がたどり着いたのは、朝鮮国境の豆満江の東側、
 今のソ連領の沿海州のポシェット湾付近だったらしい。そして、船をこぎよせてきたの
 は、その付近に住んで、狩りをしたり魚をとったりして生活している、ツングース系
 ワルカ人と呼ばれる、文化の低い野蛮な種族だったのである。
 
朝鮮人参の誘惑
・いったん引きあげた土人の船は、今度は、そのうちの三そうだけが、ふたたびこちらへ
 引き返してきた。近づいてきた小船に、手まねであがってこいと合図してみた。すると
 土人たちは、それがわかったらしく、べつに怖がるけしきを見せずに、こちらの船に乗
 り移ってきた。三人とも、日に焼けた、たくましいからだの男で、つりあがった細い目
 で、珍しそうに船の中を見まわしている。
・船の者は、ありあわせの酒や食べものなどを出してみたが、手をつけようとしない。こ
 ちらでさきに食べて見せたら、三人の土人も安心したように、酒を飲み、ものも食べは
 じめた。それで、うちとけたのか、何か手真似入りで話をするのだが、あい変わらず、
 さっぱりわからない。そのうち、この男たちは、なにやら植物の根のようなものを、三
 束取り出して、船にあった鉄の鍋を指しながら、しきりに何か言い始めた。どうやら、
 取りかえてくれというらしい。何を持ってきたのかと、受け取ってみた籐右衛門の顔色
 が、さっと変わった。「こりゃ、ほんものの朝鮮人参だぞ」
・朝鮮人参というのは、満州や朝鮮でとれる山草だが、その根は、どんな病気にも、この
 うえなくよくきく、重宝な薬だと信じられていたので、そのころ日本では、この人参一
 匁が金一匁にあたると言われたほど、値段の高いものだったのである。手真似で聞いて
 みると、あの山にいくらでもあると、これも手真似で答えてくれた。それを聞くと船頭
 たちは、急に欲が出てきた。
・船びとたちは、まるで宝の山でも探し当てたような気持ちで、だれひとり、いやだとい
 うものもない。そこで、土人の男たちに、船に積んである米を見せて、これをやるから、
 人参の生えているところへ案内してくれとたのむと、男たちは承知した様子で、いろい
 ろ身ぶりをしながら、鶏の鳴くまねをして見せた。あしたの朝、鶏のなく頃に迎えにく
 るということらしい。土人たちは万事のみこんだ様子で、にこにこしながら、鉄の鍋を
 持って岸へ帰っていった。
 
土人の襲撃
・一同は、陸にあがったが、あたりには別に人影もない。案内人の土人は、心得顔に、ず
 んずん山の方へ歩いて行く。一面に茅のおい茂った広い野原に出た。こんなところに、
 人参があるのだろうかと、ふしぎの思っていると、その草原のなかで、がさがさと音が
 して、あちこちに人の気配がする。様子がただことではない。ふと気がつくと、今まで
 いた案内の土人たちも、いつの間にか姿を消してしまっていた。
・どこからともなく、一本の矢が、ひゅうっと羽音をたてて飛んできた。すると、まるで
 それを合図にしたように、あちらからも、こちらからも、おおぜいの土人が手に弓を持
 って姿を現し、口々に何かを叫びながら、雨のように、激しく矢を射かけてくる。土人
 の数は、ほんとうは百人あまりだったらしいが、不意の恐ろしさに、目のくらんだ日本
 人には、それが、五百人も千人もいるかのように思われた。
・こちらは武器らしいものは、何一つ持っていないので、てむかいのしようがない。用心
 のために船に積んでおいた刀は、大風にあって船があやしくなったとき、海神へのささ
 げものとして、みな海に投げ込んでしまったので、今は、だれひとり、刀をさしている
 者はなかったのである。 
・まわりをすっかり取り囲まれているので、逃げるにも逃げられない。またたくあいだに、
 土人たちの矢さきにかかって、日本人たちは、ばたばたと倒れてゆく。それでも逃げよ
 うとする者は、ところどころに追いつけられ、否応なしに射殺されてしまった。
・勝ちほこった土人たちは、なおもあたりを探し、茅の根もとに、小さくなって隠れてい
 た十三人の日本人を見つけ出すと、これを縄で縛り上げ、意気揚々と山をおりていった。
 あとには、草原を赤く地にそめて、三十一人の日本人の死体が散らばり、そのうえに、
 夏の太陽が、無心にさんさんと光をふりそそいでいるばかりであった。船頭の竹内籐右
 衛門も、その子の藤蔵も、あえなく、ここで命を落としたのである。
・船に残った者たちも、この恐ろしい運命を免れることはできなかった。山をおりた土人
 たちは、今度は三そうの船に向って、襲いかかったのである。ここでも多勢に無勢で、
 日本人は、見ているあいだにうち殺され、船の中の荷物や道具は、一つ残らず奪いとら
 れてしまった。
・船には、たいまつを投げ込んで火をつけたので、兵右衛門がたまらず海に飛び込むと、
 土人たちは、口々に何かののしりながら、弓に矢をつがえて兵右衛門を射殺そうとした。
 そのとき、昨日から船に来て顔なじみになっていた男が飛び出してきて、土人たちをと
 めてくれたので、兵右衛門は、危うく命だけは助かることができた。そのほかに、船の
 中には、藤蔵の召使いをしていた十四歳の少年がいたが、さすがに子供はかわいそうだ
 と思ったのか、これも殺されずにすんだ。つまり、船にいた十四人のうち、この少年と
 兵右衛門とのふたりだけが、助かったのである。
・こうして思わぬ不意打ちのために、すべて四十三人の日本人が殺され、幸い生き残るこ
 とができたのは、山で捕らえられた十三人と、船のふたりと、合わせてわずか十五人だ
 けであった。

韃靼の都へ
・捕虜になった十五人の日本人は、やがて土人たちによって、ひとりずつ、あちこちの部
 落へ連れてゆかれ、そこで毎日毎日、いろいろのきびしい労働を言いつけられた。つま
 りは、奴隷にされたのである。
・そんなことをして半月ばかりを過ぎたころ、侍でもあろうか、この辺の土人とは比べも
 のにならぬりっぱな身なりの者が、十人ばかりやってきた。なんでも、このあたり一帯
 を支配している者で、ここから歩いて五日ばかりかかるところから来たのだという。
 これは、おそらく、今の満鮮国境の琿春の町のことであろう。
・馬をたくさんひいてきて、日本人たちにも乗れという。どこか遠くへ連れてゆくらしい
 様子である。漂流者たちは、もともと船乗りで、馬など乗ったことものないのだから、
 言われるままに、おそるおそる乗ってはみたものの、振り落とされはしないかと、こわ
 くてしかたがない。これからどこへ連れてゆかれるのかもわからず、ただ心細いかぎり
 である。あとで、だんだんわかってきたことだが、このとき、漂流者たちは、韃靼国の
 都へ連れてゆかれようとしていたのである。
・そのころ、満州では、今まで中国人から野蛮人扱いされていた満州人が、急に勢いを増
 して、ここを支配していた中国人を追い出し、さらにモンゴルや朝鮮までも攻め従えて、
 清という強大な帝国をつくり、都を今の瀋陽(もとの奉天)にさだめ、これを盛京とと
 なえていた。漂流者たちは、この清国のことを、そのころの日本の通称に従って、韃靼
 国とよび、満州人を韃靼人と呼んでいたわけなのである。
・その旅よそおいの物々しさから見ても、どうせ遠いところへ連れてゆかれることと、覚
 悟はしていたものの、それは、日本人たちが想像もできなかったほどの大旅行であった。
 来る日も来る日も、馬の背にゆられながら、行けども行けども、人里離れたさびしい山
 の中ばかりである。もとより、道すじに人家らしいものもないから、一行は、日が暮れ
 ると、山で野宿をしなければならなかった。
・このような苦しい山の旅を、およそ一月ばかりもつづけたのち、一行は、ようやく広い
 平野に出ることができた。それは、日本人たちがまだ見たこともないような、海のよう
 に広い野であった。  
・思えば、日本人たちの漂着した豆満江左岸の地方を出てから、一行は満鮮国境にまたが
 る 長白山脈を横切り、開原付近で遼河の大平原を出て、ようやく今、韃靼の都、盛京
 に着くことができたのである。それは、出発以来、実に三十五日めの長い旅路であった。
 
役人の取調べ
・盛京の都に着くと、さっそく漂流者たちは、そのころの日本で言えば、奉行所とでもい
 うような、りっぱな役所へ連れてゆかれた。
・あい変わらず言葉が通じないので、手真似で話をするほかはないが、日本人たちも、そ
 れにだいぶ慣れてきたし、役人の言うことも、だいたいはのみこめた。「おまえたちは、
 盗みを働こうとしたから、土人が、おまえたちの仲間を殺したのだ」と、言っている様
 子なのである。日本人たちはびっくりして、お互いに顔を見合わせた。この申し開きが
 立たなかったら、どんな罪に問われるかわからないのである。
・一同を代表して兵右衛門が、これも手真似で、一生懸命に説明した。いろいろの身ぶり
 をして見せながら、大汗をかいて必死に弁解につとめている様子は、はたから見るとず
 いぶんこっけいな姿であろうが、本人にしてみれば、首が飛ぶかどうかの命の瀬戸際だ
 から、こっけいどころの騒ぎではない。役人も、ようやく事情がわかったらしく、笑い
 ながら、何度もうなずいて、「よくわかった。お前たちに罪はない」と、言っている様
 子である。
・土人たちをきびしく罰した役人も、日本人には、たいへんやさしくしてくれた。見知ら
 ぬ土地に流れついて、思わぬ苦労をなめた漂流者たちの身の上に同情してくれたのであ
 ろう。
・だが、この盛京の役人には、自分の考えで、漂流者たちを日本へ送り返すように計らう
 ことはできなかった。というのは、漂流者たちがここに着いたのとほんのひと足違いで、
 清国の政府はこの都から中国の北京に移ってしまったからである。
・それまでの中国は、長らく明の王朝が支配していた。ところが、内乱などのために、そ
 の力が弱まったのにつけこんで、韃靼の清国の軍隊は、華北に侵入し、の都を陥れて
 しまった。そして、南の方に逃げた明の軍隊を追いかけて、ちょうど、このときは、中
 国では、大戦争の真っ最中だったわけである。

北京に送られて
・盛京から北京まではおよそ千キロ、道のりからすれば漂着地から盛京まで来たときとあ
 まり変わりはないが、しかし、今度は、まえのときよりもずっと楽な旅だった。途中、
 山らしい山もなく、ずっと平野つづきだったうえに、ついひと月あまりまえ、皇帝が通
 ったばかりなので、幅十七、八メートルぐらいもある、りっぱな道路がつくられてあっ
 たからである。道に沿って、村々もあれば、城壁に囲まれた町もあり、もちろん宿舎も
 あるから、野宿などをする必要もない。こうして、にぎやかに泊りを重ねるうち、山海
 関というところへきた。ここは韃靼と中国との境だそうで、いかめしい城壁が築かれて
 いる。これが有名な万里の張譲6といって、野を越え山を越え、西の方へ一万里(四万
 キロ)もつづいているのだと教えられて、漂流者たちは、びっくりしてしまった。
北京の都は、さすがに中国の首府にふさわしい雄大さで、日本人たちの目を驚かした。
 町をとりまく城壁も、長さ二十キロ以上もあろう。韃靼の都の盛京よりは、三倍以上も
 大きいように思われる。
・漂流者たちは、すぎ、りっぱな役所に呼び集められて、韃靼の役人から、ひととおりの
 取調べを受けた。そのあと、さっそく十五人の者が落ち着く家を与えられた。ふだんの
 用事には、召使の男も三人与えられた。 

北京の見聞
・漂流者たちは、それから一年ばかりの月日を北京で過ごすことになった。そのあいだに
 は、異国の生活にもだんだん慣れてきたし、言葉も日用のことならどうやら通じるよう
 になっていた。ことに殺された藤蔵の召使だった十四歳の少年は、普段から口が重く話
 もへたな方だったのに、韃靼語や中国語となると、まるで人がちがったように上手で、
 ほかの十四人のおとなが皆かかっても、とてもこの少年にはかなわないくらいであった。
・そのとき、清の皇帝の世祖はまだ八歳の子供だったので、実際の政治を行っているのは、
 皇帝のおじさんにあたるキュウワンス(九王子)という人だった。これは九番目の王子
 ということで、ほんとうは「睿親王」というのである。三十四、五歳の、目つきの鋭い、
 やせたからだつきの人だったが、その勢力はたいへんなもので、この人が北京の町を通
 るときは、人々は地に頭をすりつけてお迎えするほどであった。しかし、漂流者の身の
 うえには、だいへん同情し、たびたび自分の屋敷にも招き、何かと親切にいたわってく
 れた。
・だが、親切に気だてのいいのは、このような身分の高い人たちばかりではなかった。韃
 靼人は、だれでも正直で、うそをついて人をだます者もいなかった。これにくらべると、
 北京にまえからいた中国人のなかには、うそつきも不人情な者もいたが、こういうこと
 は、韃靼人の力で、だんだん直してゆくつもりだと、役人たちは話していた。
・韃靼の弓は長さが一メートルあまりで、日本の弓より小さいが、韃靼人は、これを第一
 の武器としているようで、武士は毎日、馬に乗って弓の稽古をするということであった。
 刀は、日本のように腰にささず、五、六十センチぐらいのものを、帯から前にさげるな
 らいである。
・こんなふうだから、韃靼人は戦に強く、北京から南の方へ逃げて行った明の軍隊を追い
 かけて、その年の五月には、南京の城を攻め落としてしまった。
 
故郷への思い
・はじめ、漂流者たちが北京に着いたのは、寛永二十一年(1644年)十一月のことで、
 その年の十二月には、日本では年号が正保と改められた。
・一同は、よいおりがないかと待っていたが、ちょうど五月の五日は、中国でも、日本と
 同じように、祝祭日だと聞いたので、その日、漂流者たちは役所に出かけて、おそるお
 そる帰国のことを願い出てみた。日本人たちの、思い詰めた必死の表情に、韃靼の役人
 も心を動かされたのだろう。何度もうなずきながら「きっと、そのうち国へ帰れるよう、
 とりはからってあげよう」と、こころよく答えてくれた。
・そして、漂流者たちが北京に来てから、ちょうど一年たった十一月のこと、一同は、突
 然役所から呼び出しを受けた。「皇帝陛下は、おまえたちの身の上をかわいそうに思わ
 れ、このたび、日本へ送り帰してくださることになった」と、言い渡した。
・役人の話によると、そのころ、韃靼の属国となっていた朝鮮に、ちょうど使をつかわす
 ことになったので、そのついでに、漂流者たちを朝鮮まで送りとどけることにしたそう
 である。それからさきは、朝鮮の手で、日本へ送り帰すように、すでに、韃靼の皇帝か
 ら朝鮮の国王へ、命令の手紙を出してるということであった。
 
朝鮮の歓迎
・今度の旅は、一年前、北京に来たときの道を、そのまま逆に盛京までもどり、そこから、
 摩天嶺というところを山を越えて、朝鮮の新義州に向いのである。まえのときとちがい、
 重い役目をもった国の使の、りっぱな行列に加わっていることから、至るところで出迎
 えの人も多く、日本人たいしても、もの珍しそうに見物されるので、かえって何かにつけ、
 晴れがましいことだった。
・十二月、一行はようやく朝鮮の国境に近い鳳凰城というところに着いた。ここには、普
 段から朝鮮の役人がつめている朝鮮館という役所がある。日本人たちは、ここで韃靼人
 から朝鮮の役人の手に渡され、これからは、万事、朝鮮人の世話を受けることになった
 のである。
・ここで、さらに出迎えの朝鮮人二百人ばかりを加えた一行は、凍りの張りつめた鴨緑江 
 を渡り、やがて、泊りを重ねて、京城の都に着いたのは、もう、その年も押しつまった
 十二月二十八日のことであった。
・漂流者たちは、朝鮮の人たちの、あまり、丁寧な扱いぶりに、かえって、びっくりして
 しまった。もちろん、これは、朝鮮の政府が、あらかじめ、韃靼の皇帝からの命令を受
 けていたからでもあるが、決して、それだけのためではなかった。今までに、朝鮮の船
 びとたちが大風に会って日本の海岸に流れついたことも、何度もあったのだが、そのた
 びに、日本の方はでは、その人たちを手厚くもてなし、朝鮮まで送り帰していたのであ
 る。
・京城でひと休みすると、漂流者たちは、再び釜山へ向けて送られることになった。釜山
 は朝鮮から日本へ渡る港で、そこまで行けば、もう、なつかしい故国は目の前なのであ
 る。

日本へ帰る
・漂流者たちは、朝鮮の役人たちに守られながら、いよいよ釜山へ向って出発した。釜山
 への旅の途中でも、漂流者たちは、至るところで、朝鮮人から手厚い接待を受けた。そ
 して、京城出発以来二十二日目に、釜山から八キロばかり手前の東來という町へ着いた。
 ここで、漂流者たちは、土地の役人から、たくさんのおくりものをもらったうえ、いよ
 いよ釜山にある日本館へ送り届けられることになった。
・釜山の日本館というのは、今の領事館とでもいおうか、そのころ日本との外交上の交渉
 を任されていた対馬藩の宗氏が、ここに建てたもので、いつも藩の武士が駐在していた
 のである。ここに着いたとき、漂流者たちの目に、まず焼きつくように映ったのは、懐
 かしいちょんまげに、羽織、袴の日本人の姿であった。やがて、古川右衛門と名のるり
 っぱな武士が一同の前に現われたときは、もう十五人の者は、ただわけもなく涙があふ
 れてきて、何も言うことさえできなくなっていしまった。
・古川右衛門は、一同をやさしくいたわって、漂流以来の事情をあらかた聞き取ったうえ、
 「もう日本へ帰ったのも同然であるから、安心して帰国の日を待つがよいぞ」と言っ
 てくれた。 
・三月もなかばになると、ようやく波も静まったので、漂流者たちは、釜山を船出して対
 馬の府中(今の厳原)に着き、ここでも対馬藩のねんごろの世話を受けたのち、ふたた
 び船で送られて、六月に大坂に上陸した。そして、その月の終わりに、やっと懐かしい
 故郷の三国湊へ帰りつくことができたのであった。
・思えば、寛永二十一年四月の出帆からこの正保二年六月の帰郷まで、実に、満二年三
 か月の月日が流れていたのである。
・十五人の漂流者たちは、こうして、偶然のことといいながら、満州人が北京に都を移し
 清という大帝国をたてて中国を支配した歴史的な事件を、まのあたりに見ることができ
 たのであるが、この新しい知識は、日本のためにも、たいへん役に立つことになった。
・そのころ、韃靼人に滅ぼされた明の王室をもう一度興そうとする人々が、まだ中国の南
 の方で清の軍隊に手向かいを続けていたのだが、その人たちは、日本に何度も使をよこ
 し、幕府に、明を助けるための軍隊を送ってくれるようにとたのんできたのである。日
 本人としては、昔、モンゴル人が中国を支配して、元という国をたてたとき、勢いにの
 って、わが九州へも攻めてきた恐ろしい思い出がある。日本人の考えでは、モンゴル人
 も満州人も同じ韃靼人で、野蛮な恐ろしい人間だとばかり思い込んでいたから、それが
 昔のように中国を征服したら、また日本へも攻めて来るかもしれないという心配があっ
 た。それで、ときの将軍「徳川家光」はじめ、諸大名のあいだにも、向こうが攻めてこ
 ないうちに、明軍を助けて、こちらから中国へ先に攻め込もうという意見の人も少なく
 なかったのである。
・漂流者たちが帰って来たのは、ちょうど、そういう重大なときだったのである。だから
 幕府は、すぐ、その年の八月、帰国者の代表として、国田兵右衛門と、小野与三郎のふ
 たりを江戸まで呼び寄せ、韃靼の事情を詳しく聞き取ることにした。
・兵右衛門たちの答えは、意外にも、幕府の考えがまるで見当違いであることを教えるも
 のであった。鬼のように恐ろしい人間だとばかり思われていた韃靼人が、実は正直でな
 さけ深く、武勇にもすぐれ、国の政治も正しく行われているというのである。幕府の韃
 靼人に対するそれまでの考えは、この話しによって、根本的に改められたように思われ
 る。明を助けて中国に出兵しようという無謀な計画が、やめになったのは、ほかにもい
 ろいろ理由はあったであろうが、この兵右衛門たちの報告も、その有力な参考になった
 ことは、まちがいない。
・十五人の漂流者のうちで、韃靼語や中国語をよく覚え、少年通訳と呼ばれ人気者だった
 少年は、のちに、越前の福井藩の家老、本多重能に見いだされ、その家来になり、二百
 石の知行を受けるりっぱな武士に出世したということである。
 
 
<鎖国と漂流記>
・海にかこまれた日本では、突然の大風に船が見知らぬ土地へ吹き流されるというような
 ことが、遠い昔から数えきれないほどたびたび起こったと思われる。しかし、古い時代
 の漂流については、奈良朝時代前後の遣唐使船の漂流の記事がわずかに歴史に残って
 いるだけで、まとまったものはほとんどなく、あとは今昔物語のような説話集のなかに、
 いくらかそのおもかげをうかがうことができるだけである。
・ところが江戸時代になると、漂流に記録は急に豊富になる。おそらく、その数は千を越
 すであろう。これは世界にも類のないことだが、こんなにたくさんの海のかなたの物語
 が生まれたのは、皮肉なことに、幕府のとったきびしい鎖国政策のおかげなのである。
・十七世紀のはじめごろ、徳川幕府はオランダ以外の西洋諸国との交際をいっさい禁止し、
 日本人が海外に渡航することも厳重に差し止めてしまった。これが鎖国である。しかし
 それまでは、「朱印船」といわれる幕府光仁の貿易船が、東南アジアの国々まで出かけ
 て盛んに活動していた。そのとき使われていた船は、中国や西洋の技術を取り入れて造
 ったりっぱな帆船で、なかには太平洋を二度も往復した優秀な船さえあった。航海技術
 も進んでいて、太陽や星を観測する器機や羅針盤をそなえ、詳しい海図も用意して、大
 洋のなかを自由に航行することができたのである。しかし鎖国になると、こういうすぐ
 れた造船術も航海術も、幕府の禁止に会って、まるでぬぐい去ったように忘れされてし
 まう。
・ところが、そのころは幕府の基礎もかたまって国内は平和が続き、商業も盛んとなった
 ので、たくさんの運送船が国土の海岸づたいに、米や貨物を積んで港から港へ通うよう
 になった。これを「廻船」といい、大きさは今の五、六十トンから百トンくらい、容積
 からいえばコロンブスやマゼランの船にも負けないほどなのだが、昔のままの和船のつ
 くりで、帆柱は一本、帆も一枚ときまっていた。西洋の帆は、いくつもの帆を操って向
 かい風でも自由に航行することができるが、一枚帆の和船は順風がないと前に進めない。
 風向きの悪いときには、港に入っていつまでも風待ちをするほかなかった。航海術も、
 うらはり、という磁石ひとつをたよりに、陸地を見ながら走る原始的な方法である。
・船がこんなありさまなのに、日本付近は気象の変化の激しいところである。ことに冬は
 大陸から強い北西の季節風が吹くので、これにおそわれると、太平洋岸を航行している
 船は、陸地も見えない海上へ吹き流されてしまう。そうなると船乗りたちはもうめくら
 同然で、自分たちがどこにいるのか、まるで見当もつかない。あとはただ風と波に身を
 まかせ、あてもなく洋上を漂うほかないのである。
・もちろん漂流したまま行方不明になってしまうものが多いが、なかには、どこかの土地
 に流れ着いたり、洋上でめぐりあった外国船に救助されたりするようなことも、決して
 少なくなかった。
・その漂着した土地も、アリューシャン列島やカムチャッカなどの北洋から、南方の小笠
 原諸島・台湾フィリピン・南シナ・ベトナム、それにハワイやアメリカの西海岸など、
 太平洋をめぐる広い地域にわたっている。こうして見知らぬ異国にたどり着いて苦労を
 かさねた末、日本へ送り帰されてくる運のいい漂流者も、かなりの数にのぼったのであ
 る。
・帰って来た漂流者たちは、そのまま役所に留め置かれて、役人の取調べを受けることに
 なっていた。鎖国の建前からいえば、こういう漂流者は、法を犯して海外に出かけた疑
 いがあるわけだし、国禁のキリスト教に改宗している恐れもあるからである。
・もちろん幕府としては、漂流者が見てきた外国の様子が、ひろく国民の間に知られるこ
 とを好まなかった。だから取調べが終わって漂流者を帰郷させるときは、外国で見たり
 聞いたりしたことを、みだりに人に話してはいけないと、必ず言い渡したものである。
・しかし、珍しい話は誰しも聞きたいのが人情である。ことに漂流記は、そのころ人びと
 がまるで想像もできなかったようなことが、それも作り話ではなく、実際に経験した事
 実として述べられていて、なまなかな小説よりもずっとおもしろい。それで、学者たち
 の書き留めた記録はもちろん、公表されないはずの役所の口書まで、熱心な人びとの間
 で手から手へと密かに写し伝えられ、ずいぶん広く読まれたらしい。
・しかし、これらの漂流者たちは、実はそういう小説めいた奇談の主人公である以上に、
 もっと現実的で大切な役割をもっていた。海外への渡航がきびしく禁じられていた時代
 に、自分の足で外国の土を踏み、自分の目で異郷のすがたを見ることができたのは、こ
 れら漂流者の他にはなかったからである。そして、その語る海の彼方の物語は、長いあ
 いだ国のなかに閉じ込められていた人びとの目を、広い世界へと見開かせるのに役立っ
 たのであった。
・日本人が国を閉ざして太平の夢を見ているうちに、世界の情勢は大きく動いていた。十
 八世紀になると、日本の近海には外国の船が出没し、北方の乳色の霧のなかから赤いオ
 ーバーを着たロシア人が、かたく閉ざされた日本の扉を叩き始める。もう、鎖国をして
 いるのだから外国のことは何もわからないなどといってすませる時代ではなかった。幕
 府は急に海外の事情に目を向けるようになったが、長い鎖国の悲しさ、世界の国々につ
 いての新しい情報を知るすべもない。長崎のオランダ人から聞く話や、わずかなほんの
 うえの知識では、かゆいところへ手が届くようなわけにはいかないのである。
・光太夫の話を記した「北槎聞略」は、幕府に仕えた医師でオランダの学問に詳しかった
 桂川甫周があらわしたもので、数多い日本の漂流記のなかでも、もっともすぐれたもの
 のひとつと言っていいだろう。この本によって日本人が、ロシアの事情や西洋の文明に
 ついて、どれほど理解を深めたか、はかり知れないほどである。幕府の重臣たちも、も
 のような本を読んで外国の事情を研究した。はじめてロシアの使節をむかえて外交や国
 防のことに心をくだいた老中「松平定信」も、手もとにいろいろな漂流記を集めていた
 といわれる。