実感女性論 :小島信夫

別れる理由(1) (P+D BOOKS) [ 小島 信夫 ]
価格:715円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

別れる理由(2) (P+D BOOKS) [ 小島 信夫 ]
価格:715円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

別れる理由(3) (P+D BOOKS) [ 小島 信夫 ]
価格:715円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

別れる理由(4) (P+D BOOKS) [ 小島 信夫 ]
価格:715円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

別れる理由(5) (P+D BOOKS) [ 小島 信夫 ]
価格:715円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

別れる理由(6) (P+D BOOKS) [ 小島 信夫 ]
価格:715円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

美濃 (講談社文芸文庫) [ 小島 信夫 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

アメリカン・スクール改版 (新潮文庫) [ 小島信夫 ]
価格:693円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

月光・暮坂 (講談社文芸文庫) [ 小島 信夫 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

演劇の一場面 私の想像遍歴 (水声文庫) [ 小島信夫 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

小説の楽しみ (水声文庫) [ 小島信夫 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

不倫のリーガル・レッスン (新潮新書) [ 日野いつみ ]
価格:748円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫) [ フローベール ]
価格:979円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

やまとなでしこの性愛史 古代から近代へ [ 和田好子 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

文豪の女遍歴 (幻冬舎新書) [ 小谷野敦 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

ここ過ぎて 白秋と三人の妻 (小学館文庫) [ 瀬戸内 寂聴 ]
価格:1078円(税込、送料無料) (2020/6/9時点)

炎凍る 樋口一葉の恋 (岩波現代文庫) [ 瀬戸内寂聴 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

密会 (新潮文庫) [ 安部公房 ]
価格:572円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

イマドキの不倫事情と離婚 (祥伝社黄金文庫) [ 露木幸彦 ]
価格:638円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

告白の余白 (幻冬舎文庫) [ 下村敦史 ]
価格:759円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

文春にバレない密会の方法 [ キン マサタカ ]
価格:1222円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

人とつき合う法 (新潮文庫) [ 河盛 好蔵 ]
価格:605円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

遊女の文化史 ハレの女たち (中公新書) [ 佐伯順子 ]
価格:836円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

福澤諭吉と女性 [ 西沢直子 ]
価格:2750円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

男と女は打算が9割 [ 里中李生 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

思春期の性 いま、何を、どう伝えるか [ 岩室紳也 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

後妻白書 幸せをさがす女たち [ 工藤 美代子 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

すごすぎる!女が悦ぶセックス (文庫ぎんが堂) [ 田辺まりこ ]
価格:754円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

吉原と日本人のセックス四〇〇年史 [ 下川 耿史 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち (光文社新書) [ 岡田尊司 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

男性機能の「真実」 [ 永井 敦 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

正直な肉体 (幻冬舎文庫) [ 生方澪 ]
価格:638円(税込、送料無料) (2020/6/10時点)

この著者は、1955年に「アメリカン・スクール」という作品で芥川賞を受賞している。
この「実感女性論」という作品は、今から60年以上前の1959年頃に出版されたもの
らしい。当時の男性における女性論とはどんなものだったのか興味をおぼえ読んでみた。
しかし、女性論とは言うものの、その大部分は女性の姦通、現代で言うならば不倫につい
ての著者の持論が語られている内容となっている。この作品を書いた頃の著者の年齢は、
44歳頃と推測するが、著者の周囲には、不倫をしている人妻が多かったのであろうか。
この作品の中で著者は、性の知識について、男は物心ついた頃から、いろいろな書物など
で知識を増やしていくが、それに比べ女性は、婦人雑誌で性生活について繰り返し説いて
いるにもかかわらず、性の知識が貧弱であると主張している。これには少し意外な気がし
た。というのも、現代においては、男よりも女性のほうが性の知識は豊富だというのが一
般的な認識となっているからである。もっとも、当然ではあるが、当の女性は、男性の前
では自分が性の知識が豊富だということを敢えて表に出すことはしない。このことを考え
ると、当時においても、現代と同じようなことが言えるのではないかと思える。男は、自
分は性の知識は豊富に持っていると思っているが、実は女性の実態を知らないだけだった
のではないかという気がした。
さらにこの作品の中で、男の性器が加齢によって、ある時期になると、「不能」になると
いうことについて取り上げられている。この男の「不能」については、前に読んだ川端康
成の作品「眠れる美女」や渡辺淳一の作品「愛ふたたび」などでも取り上げられている題
材である。このことからわかるように、男の性を語る場合、この「不能」というテーマは、
男にとって、絶対に外せない重要なテーマのようである。
私がこの作品の中で注目したのは、「不倫」という言葉である。「不倫」という言葉が、
今日のように一般的に広まったのは1980年代のテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」が
きっかけだとする説があるが、この本が出された1959年には既に使われていたという
ことだ。さらに調べて見ると、この「不倫」という言葉は、明治時代から使われていたよ
うであるが、その後は一時、死語になっていたようだ。それが1980年代に再び使われ
るようになり、現在に至っているということらしい。
この作品の中で著者は、姦通の件数は、ガンの件数と同じ程度の数があるとの持論を展開
している。現代においても、不倫の話題は絶えることがないが、この作品が出た1959
年頃においても、すでに不倫は盛んだったことをうかがい知ることができ、興味深い。こ
れはやはり、時代は変わっても、人間の本性は変わらないという証拠なのであろう。

またこの作品の中で、「温泉マーク」という言葉が出てきている。温泉マークは、一般的
には、地図上で温泉・鉱泉の位置、あるいは公衆浴場施設を示す地図記号なのだが、この
言葉が別の意味も持っていたことを、中高年者なら多くの人が知ってだろう。この「温泉
マーク」という言葉は、1950年頃から男女同伴の客を当て込んだ旅館、いわゆる「連
れ込み旅館」を指すようになったようである。その後、温泉旅館組合の間では、このイメ
ージの悪くなった温泉マークを広告から外す動きが出てきたようだ。そして、1970年
頃からは、連れ込み旅館から洋風の外観の「ラブホテル」と変わって行ったようである。
今では、この「温泉マーク」という言葉は、完全に死語になって、ほとんど使われないよ
うである。

ある晴れた朝の男の憂鬱
・私は、ある晴れた朝、食卓についていると、妻から、どうしてそんな顔をしているのよ、
 何が気に入らないの、といわれて、あっと思うことがある。そういうとき、私は自分が
 そういう顔を見せたことに腹が立ってならない。というのは、私としても、一日の麻は
 楽しく快活に出発しなければならない、と思っているからである。
・夫は、そのとき、やはり何か不服だったのである。女性が不服でないのが、つまり、幸
 福そうに、朝の食卓の準備をしているのが、面白くないのだ。たぶんそういうときには、
 昨夜、円満な夫婦生活があったと考えていい。そういうことのあった翌朝、晴れた朝、
 人生というものは、自分の思い通りだ、という錯覚を多少持つもののようだ。といって
 も、人生などというものは、女性にしてみれば、通常はそこに鼻を突き合わせている者、
 つまり主人と子供とによって描く空想であることは、当然である。
・女性はそこで、男は、こうして朝食をとれば、外へ出て懸命に働き、上の者から認めら
 れ、どこへ行っても受けがよく、同輩を追い越して出世し、子供は有名校に入り、これ
 また出世し・・・自分は・・・。そのような朝、女性がかいがいしく働く姿は、自分に
 かいがいしく時に図太く働くことを強要していると男は感じる。
・したがってこのような女性の楽しさは、男にとっては、必ずしも楽しさとはならないば
 かりか、いい加減にしてくれよ、といううた不埒な気分にさえなるのだ。このような気
 分を表現するとしたら、その男の言う言葉は、なんとケチな矛盾に満ちた、悲しげなも
 のとなるだろう。  
・私は国鉄電車に乗って、乗客といあわせ、そこにも、妻でない女性の姿を遠く近く見た
 り、あるいはほのかににおってくる香水の匂いをかぎながら、私は日本中の女性を幸福
 にしたい。そのためにはどんなことでもせねばならないと思うのである。私はそういう
 とき、女性の幸福とはそもそもなんであるか、ということも忘れてしまっていることは
 勿論だ。
・私の前を一人の女性が歩いて行く。私はその姿を美しいとさっきから思っており、暇さ
 えあれば、それを見るだけでも、どこまでもついて行きたいと思っている。私はこの人
 を幸福にしてあげたいと、(その人とは無関係に)思っているのだ。
・私はその女性が自分の妻でないことに、何かの拍子に気がつく。そうして妻がその女の
 ように、  赤の他人あってくれたら、やはり自分もこれに似た気持ちになっていたで
 あろうと思って、その不思議さに、思わず唖然としてしまうのである。
・女の無言戦術というものほどおそろしいものは、男にとって、ほかにないだろう。そう
 いうとき、私たちは、よく映画に出て来るように、女の肩をもって、こっちを向かせよ
 うとし、食うためばかりではなく、話す器官であるその口をきっと見つめ、そこから言
 葉が出て来ないか、と期待するものだ。しかし、もし、男の力をもってしても、肩をこ
 ちらに向かせることが出来ぬとなれば、こちらが向う側へ回らねばならない。そのとき
 また女は肩を一回転させる。男がこうして動物園の熊のようにぐるぐる動きまわるとき
 の、やるせない気持ちは、まさに狂憤といっていいだろう。
・女の有効な戦術は、家出である。男女の口論があるところまで行きつくと、男は、あい
 もかわらず、「出て行け!」とどなるようである。これは何も、追っ払っていい気持ち
 になるとか、かわりにほかの女性をつれてきて同棲する、といったような勝手気儘さか
 ら、そう口走るのではない。
・善良の男に、この取越苦労があるために、男はとつぜん道を歩いていて、昨日の事故死
 三名といった掲示を見たり、酔っていてフラフラ歩いている途中で車と車の間にはさま
 れて立ち往生した際に、ふいに生命保険に入ろうと思い立って、いたずれに保険会社を
 太らせる結果になっている。今や保険会社は太りに太って、高級大アパートを建設して、
 ますます太っているのは、この男の小心が原因である。
・保険会社の勧誘員が上がり込んで、奥さんさえ抱き込めば、しめたものだ、ということ
 を、保険外交員の口からきいたことがある。直接財布をあずかる妻をいいふくめた方が
 早道であるのはいうまでもない。だがその場合に、夫が自分の死後のことを考える善良
 さを持っているということが、どっちにせよ、大きな力となっている。男の感傷ヘキ、
 小心ヘキがなかったら、保険会社はあんなに太るわけがない。
・「出て行け!」という言葉ほど、女を傷つけ、また男をも傷つける言葉はないのに、そ
 うしてこのことを百も承知でありながら、谷底へとび込む思いで、男は言ってしまうの
 である。私はいま、「出て行け!」という男の怒声が、女を傷つけると言ったが、傷つ
 けられたと思う、といった方が正確なのかもしれない。女は鬼の首でもとったように思
 うからだ。 
・ここで言っておきたいのは、「出て行け!」と男が怒号するのは、離婚の際に、男にと
 って不利だ、ということである。追い出した以上、追い出した者が、別れたあと金を出
 さなければならないそうである。しかしこんなことまで考えて、怒号する男はめったに
 いるわけがない。気の毒に男は、これ以外のウマイ言葉がとっさに浮んでこないのは、
 長い男の特権的立場がしっぺ返しとなってあらわれてきているのである。
・良識ある男は、自分の言った取り返しのつかない言葉を悔やんでいるうちに、一人置き
 去りにされてしまう。男は、どうして自分の方が出て行かなかったか、とその時になっ
 て思うがもうおそい。考えてみれば、出て行け!と叫んだ以上、自分が進んで出て行け
 ばもう権威失墜であるばかりか、女性も続いて出て行き、そういうときには、錠をかっ
 たりする配慮を女性は決して見せないのだから、空巣の心配までしなければならない。
・このようにして、女は勝ち誇ったように飛び出して行くが、男はしょんぼりと後へ残さ
 れる。男はそもそも感傷的にできている。それにいくぶん女より、全体を考えることが
 できる。この二つの欠点のために、男は女が自殺しやしないか、と心配したり、別の男
 のところへ走ったのではないか、とありもしないことを想像する。
・男はどうするのだろう。はじめは残された身のワリの悪さに腹を立てたり、口惜しがっ
 たりするが、今や、熊のように部屋の中をいったりきたりする。そうしてシグナルをた
 よりに鉄道線路を見すかしたり、膝までしかない溝川にさえ気をくばったり、酔いつぶ
 れていやしないか、とおでん屋をのぞいたり、それから心当たりへ電話をかける。心当
 たりの家がないときの男の焦慮は、度はずれてくる。
・女は一、二日してたいていは戻ってくる。帰ってきた女に、出て行けともう一度どなる
 元気のある男は少ない。勝負は完全についている。男は「出て行け!」と言ったが、あ
 の時、出て行ってもらいたいと思ったのではない。男は自分一人になりたい、と思った
 にすぎないのだ。  
・しかしいつかこういう時がやってくる。「出て行けですって?これはあんたの家だと思
 ってるの」このような女の意見に対して、大ぴらに反対できる資格のある男はほとんど
 いないと私は信じて疑わない。家は今ではたいてい実質上女のものである。心ある女は、
 夫をトクソクして、家を建てさせ、公庫で金を借りさせ、尻を叩き、設計に嘴を入れ、
 自分の掌握下においている。夫は自分の家だと思っているかもしれないが、もし仮にそ
 う思っているとしても、それはきわめて抽象的なもので、もはやとっくに家は占領され
 てしまっているのだ。 
 
眼をつぶるという油断ならぬ女の性格
・私はいまだに、女性のフクラミやくぼんだところがあるということには慣れていない。
 十七、八の頃ならともかく、四十すぎており、女性との交渉を重ねてきていながら、自
 分と変わった身体、つまり女性の身体に接すると、何かふきだしたくなり、あげくの果
 てに、一種の絶望を感じることがある。
・女性というものは、娼婦でなくとも男がどんなに自分の肉体を欲しがっているか、よく
 知っているものと見える。そんなにしてしまったのは、まったく男の責任であるので女
 性をとがめることは理に叶わぬことであるが、それにしても、男の方で、自分の肉体を
 女が珍しがってくれる、と思うのは、せいぜい結婚したときぐらいで、それからあとは、
 もっぱら男ばかりが、そう思わせられるので、女の方が、男というものは、こんなもの
 だ、とタカをくくって少しも珍しがってくれないように思える。
・女性の中には思春期の頃に、男を惨虐なものとして本能的におびえ、憎むような者がい
 るというふうに、ボーヴォワール女史なんかはいっている。そんなふうに思っているか
 ら、結婚してしまうと、おびえたり憎んだりするどころか、自分の肉体さえ与えれば喜
 ぶ、まことに単純な動物のように思いはじめるのであろうか。
・私たち男は「性の宝典」などのようなものは、物心ついたときに読みはじめ、長ずるに
 及んで、ますます、性のことを考え、ほかの知識はともかくとして、この方面の知識だ
 けはきわめるようになるものである。ところが女性は、婦人雑誌でくりかえしくりかえ
 し性生活について説いてくれるにもかかわらず、読んでいるのか読まないようにしてい
 るのか、その知識は貧弱きわまるもののようだ。
・この頃の若い女性の場合はそうではない、という人がいるかも知れぬが、たぶん、それ
 は男がいろいろなことを知っている、ということに気づくのが早いという程度のことだ。
 このことは早くから性の知識を注ぎこまれるアメリカの女でも同じだ、と思う。
・女性がようやくにして、男なみに興味を持ち、男が女を珍しがるように、男の神秘につ
 いても珍しく思いはじめるのは、中年になってからである。いったいこれはどうしたこ
 とだろう。   
・私は、女性が男性なみに性生活を理解するのは、中年になってからだ、といった。それ
 はこうだ。夫人が十分にパンを食べることが出来るとして、彼女たちは、性生活につい
 て互いに女性同士、かまびすしく堂々と、男をヒンシュクさせるように物語りをはじめ
 るのは、急に眼が開けてきた新鮮な驚きを、自分だけが知っているものと思って語る無
 遠慮と無邪気さのためで、何も文句をいう筋はない。そういうことはどうでもいい。
・ここに一つたいへん重要な変化が起こったのである。自分の性器に対する認識が深まっ
 たというありふれたことを、私はいうつもりはない。私が言いたいのははじめて男の肉
 体を知りはじめたということだ。   
・ある時期になると、男にも女にも予想も及ばなかったことが起こる。それは男の性器が
 女はもちろん本人の男さえも不思議に思うほど不能状態が起きてくるのだ。これは男に
 とっては、お手上げの、自尊心を傷つける事件であるが、女にとっては、まさに認識の
 問題である。 
・子を生み出す器官として、女の性器は大切にされてきたし、一方的に男がねらうものと
 して、時に飯の種にさえなってきたが、男の性器は、それにくらべ実に虐待され、バカ
 にされ、ないがしろにされてきた。それは外にはびこっているというためや、あまりに
 無造作に膨張するというコッケイさや、身だしなみのなさ、変化の極端のあらわれのた
 めに、単純なものと思われてきた。少なくとも女性は長い間問題にしなかったのだ。
・ところが、突如として、それは単純さの奥に複雑さを秘めていたこと、それはそのへん
 にころがっている棒のようなものではなくて、男自身もどうにもならないような不思議
 な生物であることに気がつく。おかしなことだが、女が男の肉体をまじまじと見はじめ
 るのは、この時からである。
・私たちが元気のいいときには相手かまわず、機能を果たすということのために、男とい
 うものは、不幸なダラシのない動物で、何とかきびしくいいきかせてやらなければなら
 ないと思う女性がいる。また一方で、男はだいたい神様は不倫のように作りそこねてし
 まったのだから、勝手にさせるがいい、とあきらめる女性もいる。
・まったくこの男の相手かまわず、という状態は、私たち男にとっても、わけのわからな
 いことで、女性の方が自分を幸福にしてくれる保証のある男でなければ、ほとんどその
 気にもならなかったり、性行為が完結もしないのに比べると、どうしてこんなやくざな
 ことになっているのかと思わぬではない。
・そもそもはじめは、前技というものは、男にとっても必然の手段であったものが、次第
 にちょっとした苦役になる。やがて疲れる一瞬のために男はこの苦役をはたさないとい
 けない。そうしてどんな女性も女王様になることができるということだ。
・手数のかかる女王様である女性は、こうして自分の性を感じることでいっぱいになり、
 女王様のように怠惰になり、そうしてまた怠惰していられることに慣れて、相手のこと
 を忘れてしまうのである。 
・男はさまざまの理由で浮気である、と女は思っているが、普通は、男はたった一人の女
 のことしか思えぬようになっているのを知らないのは、そもそも男性の肉体に対して無
 関心であるということとも関係のある、たいへん大きな誤解である。この便利で安直な
 道具を持たされたおかげで、男は奴隷になり冷静に女王様を見守り、目をつぶったりす
 ることは出来やしない。彼は冷静に事を運び、その結果を確かめ次の参考にする。
・女性は肉体の満足を得たときに、奴隷的男性の様子から、相手は自分一人を愛している
 と思い込んでしまう。そうして男が他所へ行ってほかの女と交渉を持つとき、愛情を持
 っているものと誤解する。こんな奴隷的態度をよその女にも与えることは信じられない
 のだ。しかし、男は、その女をきらっているときでも、同じことができるそのたやすさ
 のために時には絶望する。したがって男はかえって、女の間を遍歴する場合も一人の女
 のことしか心に秘めていないのだ。これに反して通常の女は、ある男に満足を得るとき
 は、それが何人目であっても、もはや当面その男一人のことしか考えないらしい。 
・世の中の多くの男たちは、誰でも知っている通り自分が妻以外の女性と交渉があるくせ
 に、妻がよその男と交渉をもったことを考えるだけで、卒倒しそうになる。そしてこう
 呟く、「男と女は違う。おれはたとえそうであっても、女がそんなことをするのは許す
 ことはできない」と。 
・こんなことをいうと、女性だっておんなじことだ。娼婦とならともかく、堅気の女と主
 人が交渉をもつなんてことがあったら、私は殺してしまう、とこういう女性がたくさん
 いることは私も分からぬではない。
・女性が接吻するとき、眼を閉じたり、閨房を暗くしたりするが、私はいまだに女性の口
 から、はっきりした理由を聞いたことがない。私はかねがね、この眼を閉じる、という
 ことに油断がならぬものが隠れていると思っている。
・眼を閉じるのは、その男がきらいでないからであるけれども、いったん眼を閉じたあと
 は、眼を閉じたことを利用した、はなやかな夢を展開する。男はせっせと仕事をして、
 手応えだけに集中し、男は絶頂に使づくにつれて、自分もかっと眼を開き、相手をしっ
 かり見きわめようとする。ところが女性は何と眼を開かせようとしてしても、一層、強
 固に眼を閉じ、自分の世界に埋没してしまうのである。
・男がおそれるのは、自分の妻にあるこの埋没の深さなのだ。状況の設定、それからこの
 埋没の深さ、この中に男は、自分の貞淑な妻に、姦通されたショックの手痛さを予感す
 るのである。
・女は男が、これは何かくさいぞ、と思うとき、眼を見開いて男の眼を見ることがある。
 いつも眼をつぶってきた女が、ある夜、じっと眼を開いているときは、男は何か、世の
 中全体に大異変が起こったような気持ちになる。しかし私は、このような女性の、男性
 的とも見える態度は、らくらくと眼をつぶることが出来る保証を得ようがための、ちょ
 っとした過程にすぎないように思われる。
・眼を開いている女には、男は眼をつぶってみせるだけのことだ。もともと道化で冷静な
 男は、そうしたとき、歓喜の表現もたやすく行ってみせることができる。それは一種の
 礼儀みたいなもので、春画に男女とも眼を開いたものがない、もしそんなものがあった
 ら、その自意識過剰さが嘔吐をもよおさせるだけだ、という意味で、男は芝居を行なう
 だけのことだ。男がおそれるのは、やはり眼を開いている女ではない。

女の中にある、男を無作法にさせるもの
・私は教師として女生徒を教壇の上から眺めてきた。私が一番おそれたのは、早くも男を
 知っている高等学校の女性とである。しかもその相手が同じ学校にいたりしたら、その
 ときには、これくらい因果なことはない。このような生徒は新鮮な経験のために、まっ
 たく教室の中に腰掛けていながら、心は書物の上にはない。こんな子に文法のことなど
 質問したりしたら、鼻の先でセセラ笑いをされそうな気がする。女子大の学生が口紅を
 つけて教室にいると、彼女達が熱心であるかどうかは別として、小難しいことを教える
 のが、どうもムダな気がしてきて仕方がない。何か話そうとしても口紅が眼にちらつき、
 自分はアルバイト・サロンにきているのではないか、といった気分になる。そうなると、
 ヘドモドしてもういけない。
・男性のみなさんにはこんな経験がないだろうか。自分の妻が着かざり、念入りに化粧を
 ほどこし、何十分も待たされたあげく外へ出る。男は往来へ連れ立って出ると、何だか
 気恥ずかしくてたまらない。ふりかえってみると、彼女の方はたいへんに楽しげである。
 何が自分をこのような気分に陥れているのか、よくわからない。こうして男は多少不機
 嫌になる。彼女の言葉つきが化粧とともに浮き浮きし、一オクターブ高くなり、彼女の
 眼が一層敏感に、まわりの盛装した女に上にそそがれ、その女の眼も彼女の身体の上に
 そそがれるとなると、男はやれやれはじまった、と思うようである。女を幸福感にひた
 らせる秘訣はこうしたときの忍耐づよくなることだが、男はこんなとき、これは何かお
 ぼえのある気分ではないか、と思う。
・充実した性行為のあとで男は、女の声がこのように浮き浮きし、世の中が彼女をめぐっ
 て回転し、何もこわいものがない、といった安心や、華やいだ気分をみなぎらすのを知
 って、毎度ながら、その行為が無事に終わったことに安心するが、とんでもないオマケ
 がついてきたことにびっくりする。ビックリ箱から蛇が顔を出したようなものだ。男も
 おなじように幸福だ、と女は思うにきまっているが、豈はからんや、男はおどろくばか
 りだ。化粧の中にはこんなわけで、性行為を感じさせるものがある。

情事のうら悲しい報酬について
・恋愛は、世人のいうほどには、女の生活の中でそれほど重要な位置をしめてはいないの
 である。夫や子供や家庭の娯楽や社交や虚栄や性欲や出世の方がずっと重要である。男
 の場合でも、このことについて別段ちがったものがあるとは思えない。多くの男女は、
 経験上あるいは、もちあわせた知恵によってこういうことをよく心得ているはずである。
 幸せなことにいったん結婚しておいて、よその男女と深い仲になるということは誰にで
 も出来ることではないらしい。「大いなる恋愛」というものは、女性は一度は夢みるそ
 うだが、たいてい代用品を見つけてとびついて行くということである。(代用品とはつ
 まり私達のことだが)代用品でなくて、全生命をかけた恋愛を実行するのは、次のよう
 な女にかぎるということだ。
 彼女達は最初夫、家、子供という伝統的な女の宿命を受けいれたか、あるいは、きびし
 い孤独を経験したか、またはなにか仕事に手出しして失敗を甞めた経験をもっているか、
 そんな女だ。
・きびしい孤独を経験したか、またはなにか仕事に失敗した女性については、彼女達が今、
 この瞬間にあちらこちらで「大いなる恋愛」をしているだろうことは、想像される。そ
 れは私達男性も満足である。
・だから、要するに私達は、幸か不幸か、自分が所有していると思っている女性が姦通す
 る危険に見舞われていないらしいのである。これは、皮肉なことに男が夫のある女性と
 深い付き合いをしようとするときに、同じように不便なことになるわけである。
・さて、私達は誰でも知っているように、恋愛の中で、最もスリルに富むのは、姦通であ
 れけれども、そうして胸をときめかし、男や女に羨望の念をいだくけれども、それは小
 説の中での話であって、それが映画となると、話はちがう。私自身は、姦通が克明にえ
 がかれた場面は、目をつむることにしている。女をだらしない、と思い、それにもまし
 て男に対して腹が立ってならない。
・それが自分の知人に、自分が今、夫のある婦人と恋愛をしている、と聞くときなどには、
 その男が憎くてならない。それがどんなにもっともらしい理由があろうがなかろうが、
 同じことである。何が私にそう思わせるのであろうか。
・私はそのとき、自分の妻のことを何となく思い浮かべている。大した女であるわけはな
 いが、それでいて、私は当の女性が自分の妻であったら、どうしようと心配していると
 思える。姦通が罪悪だ、とか何とか考えているわけではない。自分のもてあますのだ。
 それから、私はどんな女にせよ、女はその関係では、受身の立場におけれているという
 ことを経験上知っているので、そのことに思い及んで、がまんがならない。抱いている
 のではなくて、抱かれているということが、いまいましくてならないのである。その意
 味でも、私の考えでは男が妻の姦通を知ったときには、その逆の場合より、がまんがな
 らないのではないか、と思う。
・こうして想像力の普通にある男は、もし自分がほかの夫のある女と通じたときの夫のこ
 とを考え、また自分の妻のことを考え、女はまたおなじように考えをめぐらして、思い
 とどまり、そうして直接恋を語るよりは、小説を読んだり、映画を見たり、突如として
 家庭の改善をはかったりして、自然に年齢を加えて、もうそういう心配のない老年にな
 って行くようである。   
・確かに、どこにもここにも姦通が行われているわけではない。しかし私の耳に伝わって
 くる件数だけでも、ガンの件数の程度にはあるのだから実際はどのくらいあるのかわか
 らない。私の家の五、六軒さきでは、今目下進行中であることは、知れわたっている。
 知らぬは亭主ばかりというが、事実、近所の人は、この諺をつかって話題にしている。
 この家には学生を下宿させている。夫人は良妻賢母型で、しとやかでしっかりした中年
 の女である。しかしその後、私の耳に入った噂では、この夫婦は別れたということであ
 る。性生活の不満があり、妻は隣家の奥さんに何度も打ち明けており、学生とのことも
 私達の想像通りであったのである。これはすべて後になって、隣家の人が話してくれた
 もので、うそではない。
・私の近所でここ数年間、ガンで死んだ人は一人しかいない。葬式は誰の目にもつくし、
 死因もすぐに伝わる。それでいてガンの人より多いとなると、やはり相当数姦通が行わ
 れているとする根拠がある。
・そして、こういう人達は多く別れはしない。いわんや自殺などしやしない。生きながら
 えているばかりか、亭主は知っていて知らぬ顔をしている場合もあれば、ぜんぜん知ら
 ぬ場合もある。
・私の近所の例は、男は二人ともそろって学生である。学生は年上の女を求めることが多
 いのだし、その結びつきはどちらといえば、自然であるが、この夫人たちが、やはり恋
 をしていると思わないわけにはいかない。 
・私の友人のAは三十過ぎの世帯持ちの男だが、ある日、一軒の家を訪ねた。それはその
 家の奥さんからとつぜん電話がかかって、至急あいたいというのであった。その家を訪
 ねてみると、主人は留守で、妻の話はこうであった。
 「私は恥を忍んでいうのだが、性生活で極度に不満で気が狂いそうである。したがって
 自分を助けると思って夫に代わって満たしてくれないか」
・男というものは、こうしたことがそれほど嫌いではない、というその女の計算があった
 ことがすぐにわかった。Aはその日はことわって帰ったが、結局、彼女の言う通りにな
 った。彼は彼女に対して恋心というものは少しももっていなかった。
・彼女は相当に異常な体質の上に、主人は不能の状態にあった。が、教養もあり、きわめ
 て普通の女であり、夫の長い病気中は、普通以上には尽くしてきていた。彼女はAに恋
 をしはじめた。   
・私の友人Bは三十歳になり妻がある。彼は教師であるが、別の学校の夫のある女教師と
 交際するようになった。女教師のほうが年長である。この女教師は自分の家のこと子供
 のこと仕事のことを、一切Bに打ち明けるようになり、Bを誘い出し、やがて女は恋を
 語り、こうして半年の後には姦通の状態に入った。彼女が家庭の事情を打ち明けたとい
 うことからしてわかるように、彼女は夫が適当な伴侶ではないと長らく感じてきたので
 ある。そこへBが現れた。Bは若々しく才気に溢れ、積極的であった。こうした彼女は
 生涯の恋愛の段階に入ったわけである。
・これら二人の女性は、姦通行為に入ったあと、やがて、「肉体の方のことは、どうだっ
 ていいの。私の求めているのは、そういうことじゃないの」と言った。
・これらの女性は最初から主人と別れるつもりはない。だから姦通行為はやがて日常的な
 生活を営むようになる前ぶれであるわけではない。ところが男性自身にとっても、困り
 果てていることだが、肉体関係のあと、たちまち自分だけの世界へとしりぞいてしまう。
 そこで女は男を自分の方へつなぎとめておくためには、もともと関係に入るときには積
 極的だった女性が今度はどうしても、肉体から離れなければならない。
・しかしながら、ここで問題がおきる。これらの女たちや男たちが、それぞれ夫婦である
 のだから、彼等は自分の家へもどって行く。こうして自分の家はもどって行きネグラへ
 入る男や女を、自分の方へ引きつけようとし、その確証を得るためには、夫婦生活の最
 も象徴的な行為、つまり性行為を営むことによって相手を奪いたいと思う。
・だから、一旦姦通行為に入った女達が、いかに精神的になろうとしても、ハッキリと手
 を切らない以上は、ふたたび性行為に入らざるを得ないのである。
・これらA,Bの姦通者の場合には、そこに一つ欠けているものがある。それは生活とい
 うものだ。夫婦生活では、どんなに争いがあり、不満があり、ガタガタになっていよう
 と、そうして夫がそこへ戻りたがらないとしても、とにかく最小限度、家がある。とこ
 ろが、これらの姦通者は、先ず第一にそれがない。彼らはどこで密通するか知らない。
 ホテルの一室であろうか。「温泉マーク」であろうか。「温泉マーク」の廊下で出会う
 人は、同じ目的、ただ一つその目的でやってきている人ばかりだ。夫のいない留守に、
 夫や子供と食事をした部屋で、あるいは夫と寝たことがあるベッドで、あるいは布団で
 寝るとして、それはみな仮のものである。だから姦通者は、どこで寝ていようと裸で野
 天にさらされているとおなじで、それが彼らを淋しがらせ、呼びあわせ、そうして益々
 淋しがらせるようである。     
・姦通には、ありとあらゆる楽しむがある。姦通者は、その行為をしている最中に、何を
 考えているのだろうか。私が聞いたところでは、AもBも、相手の亭主が今ここに現れ
 たらそのときは、そのまま続行するか、ゆっくりと立ち上がるか、それとも女を逃がす
 か、といったことを念頭に浮かべていた。  
・しかし、おそらく最大の楽しみは心をきめて姦通にかけるべく、家の戸に、アパートの
 ドアに鍵をかける女の心の中にあるだろう。それに較べれば、その後のことは、物の数
 ではないかも知れない。なぜなら、彼女は、世の掟や、過去などに別れをつげようとし
 て、そのおそれに震えているからだ。もはや妻とは惰性にすぎない。この女のおそれが
 想像されるとすれば、男の場合だって、この行為に赴くときの興奮は、何かちょっと崇
 高なものさえないとは言えない。たぶん姦通のほんとの楽しみはここで始まりここでも
 う終わってしまう。だから、ずるずるべったりに、その場の成行きで行為に入ってしま
 う姦通は、まったく一番重要なものを落としていることになる。 
・家で男を迎える女は、窓から外を眺め、窓を閉め、カーテンをひく心の用意をととのえ
 る意味で、鍵をかけて家を出かける女の気持ちと似ているが、やはり、二人がそれぞれ
 の家を(もし、男に妻があるとすれば)、果し合いに出かけるようにして出て行くのが、
 まことの姦通の儀式というものであろう。これを男の方から考えて、もし私の妻が、か
 くのごとく、果し合いに出かけるようにして姦通で出かけたとしたら、私は残念ながら、
 何も言う気力はない。 
・私はさきに、姦通には生活がない、と言った。Aの場合にしろBの場合にしろ、女が夫
 と別れようとは思っていないのは、彼女らは生活というものがどんなものかを知ってい
 るからだ。彼女たちには子供がいる、ということや、相手の男には妻があるということ
 もある。それから自分の夫を憎み切れない、ということもあるが、彼女たちは、今まで
 の経験で、たとえ情熱を傾けている相手と一緒であっても生活というものが、結局、退
 屈なことを知っているからである。
・彼女たちは、いまやっている情熱的な交渉をそのままで完成させたいと思うらしく、そ
 の点では、若い未婚の男女の場合とは違う。彼女たちは、「夫とはこんなことはなかっ
 たわ」というようなことは口走るかもしれないが、「私たちで夫婦生活をしたいわ」と
 いうようなことは、一度もいっていない。 
・こういうわけで、女性は、夫との過去の生活に反抗して姦通行為に入るけれども、その
 場合、その生活から手を切るというよりも、生活の中で不足な部分だけを、組み立てよ
 うとするのである。AやBという男は、自分の妻との生活に満足しているわけではない
 し、相手の女をきらっているわけではないのに、彼らは、性行為が自分の家におけるも
 のと較べて、満足を与えないことを知っておどろく。生理的にいえば、Aの相手の女性
 は、特殊な快楽を男に与えることができる女である。にもかかわらず、まったく空虚な
 うらがなしい気分にひたってしまうのはどうしたことか。
・その理由は、簡単である。姦通の終点は性行為で、その次の逢引もまた性行為で終わり、
 いつまでたっても、その繰り返しにすぎないからだ。通常は情事が終わったあとの味気
 なさは、男にとって、一息ついて、明日また食事をし、勤めに出るということに結びつ
 いている。それから、どのような生活にしろまた開始するものがある。性行為はほんの
 一部分になり、忘れることができる。
・これに反して姦通では、唯一の終点である性行為は、そこで行止まりになる上に、一回
 一回が、そこにいない亡霊のような夫のことを想起させるので、いやでも性行為は鮮や
 かに、浮かびあがる。男はここで、娼婦との性行為の方が、はるかに健康的であること
 に気がついて、ふたたび愕然とするのだ。
・なぜなら、娼婦は(とくに私娼は)その性行為でもって生活をしているから、はたが何
 ていおうと、彼女が誇りさえすてなければ、りっぱに生きていると言えるからだ。
・しかし女が夫から純粋になろうとする努力をいくらしたとしても、実は、益々性行為を
 純粋に性行為にしようと努力しているだけなのであって、気の毒なことに、こうして女
 は娼婦よりももっと性行為だけの存在にならざるを得ない。男は世間の秩序に反し、夫
 に秘密にして交わっている女が、性行為だけのものであることに、裏切られたように感
 じ、それを気づかずにいる女を図々しいと思い、そこで女そのものがいやになり、とつ
 ぜん彼女の夫に、同性として同情し、男同士で、この女をやっつけてやりたくなるのは、
 奇妙なことだが本当のことだ。
・AもBも現在まだ進行中である。夫は知っているが口に出さない。彼らの関係者は一人
 も死にはしないようである。ガンの患者ほどの数の姦通者は、ガンの患者のように死に
 もしないで、また元の状態にズルズルと戻っていくらしい。こうして、姦通した女は、
 生活や仕事に戻っていくのであるけれども、もとの生活に戻るということはできない。
 二度と火は燃えることはない。その意味で彼女らは死んだも同然ということができよう。