眠れる美女 :川端康成

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この作品は、1960年1月から1961年11月にかけて、当時の雑誌「新潮」に連載
された作品だったようで、作者が61歳の頃のものである。
すでに老いにより男でなくなることを自覚した老人が、有閑老人限定の「秘密倶楽部」の
会員になり、海辺の宿の一室で、薬で意識なく眠らされた全裸の若い娘の傍らで一夜を過
ごす、という異常ともいえる偏執的な内容となっている。
そこには、老いること、男でなくなることへの寂寥、そして哀れさが、切々とつづられて
いる。この、「男でなくなる」ことへの寂しさは、同じ男であっても、実際にそういう年
代になった者でないと、なかなか実感がわかないであろう。ましてや、女性に至っては、
まったく理解できないことなのではないかと思う。とくに、若い世代の人たちには、この
作品に対して「変態老人」として拒否反応を示す人も多いのではないかと思われる。
しかし、あの三島由紀夫などは、「文句なしの傑作」と高く評価している。こういう文壇
の人たちの評価というものは、どこまで本心なのか、われわれ素人にはまったくわからな
い。
ところで、女性においても、老いにより女性でなくなること、つまり子供を産める体では
なくなるということはあるだろう。しかし、そうなったからと言って、女性の場合、性交
がまったく不可能になったというわけではない。その点、男の場合とは、ちょっと違うよ
うに思う。
男の場合、男でなくなるということは、もうどんなことをしても、いままでのような性交
が物理的にできなくなるということだ。こうなった時の男の精神的ショックについては、
渡辺淳一氏の作品「愛ふたたび」においても描かれている。とにかく、それは男にとって
は、人生においての一大事なのだ。
私が興味を覚えたのは、作者は、どのようにしてこのような「秘密倶楽部」のヒントを得
たのだろうか、ということだ。当時、実際にこのようなサービスをする秘密クラブがあっ
たのだろうか。なんのヒントもなく作者自身が考え出したものであったなら、当時の風俗
の最先端をいく、すごい発想力だと思う。現代においては、「JKビジネス」としてこれ
に似たような「若い女性が添い寝してくれる」という風俗サービスはあるようだが、この
ようなサービスは、この「眠れる美女」をヒントに考え出されたものかもしれない。
なお、この作品は、1968年に映画化されている。2007年にはドイツでも映画化さ
れているようだ。

その一
・たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れよ
 うとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。
・女は四十半ばぐらいの小柄で、声が若く、わざとのようにゆるやかなものいいだった。
 相手の顔をあまり見ない、黒い濃いひとみに相手の警戒心をゆるめる色があるばかりで
 なく、女の方にも警戒心のなさそうな、ものなれた落ち着きがあった。
・「女の子を起こそうとなさらないで下さいませよ。どんなに起こそうとなさっても、決
 して目をさましませんから・・・。女の子は深く眠っていて、なんにも知らないんです
 わ。」と女はくりかえした。「眠り通しで、始めから終わりまでわからないんでござい
 ますからね。どなたとおやすみいたしましたかも・・・。それは気がねがありません。」
 「きれいな娘でございますよ。こちらも安心の出来るお客さまばかりにいらしていただ
 いていますし・・・。」
・「これが鍵でございますから、ごゆっくりおやすみ下さいませ。もし寝つきがお悪いよ
 うでしたら、枕もとに眠り薬がおいてございます。」「なにか洋酒はないの?」「はい、
 お酒はお出しいたしません。」「娘さんは隣りの部屋にいるの?」「もうよく眠って、
 お待ちしております。」江口は少しおどろいた。
・その娘はいつ隣室へはいって来たのだろうか。しかし娘が寝入りこんで待って、そして
 目覚めないなどということは、この家を知る老人仲間から聞いてはいたものの、江口は
 ここに来てみて、かえって信じられぬようだった。
・ひとり残されると、江口老人は種もしかけもない八畳間を見まわしてから、隣室へ行く
 戸に目をとどめた。この家を建てた時からのものではなく、後でつけたらしい。そう気
 がついて見ると、隔ての壁ももとは襖だったのを、「眠れる美女」の密室とするために、
 後で壁に変えたのかと思われる。
・軽い胸騒ぎの自分をあざけるよりも、いやなむなしさが強まった。ふだん江口は洋酒を
 少し使って寝つくのだが、眠りは浅く、悪い夢を見がちだった。
・隣の部屋に眠っている、いや、眠らされているのは、「水死人のたぐい」のような娘で
 はないかと思うと、立って行くのにためらいもあるのだった。娘がなにで眠らされてい
 るのか聞いてはいないが、とにかく不自然な前後不覚の昏睡におちいっているらしいか
 ら、たとえば麻薬におかされたような鉛色に濁った肌で、目のふちはくろずみ、あばら
 骨が出てかさかさに痩せ枯れているかもしれない。ぶよぶよ冷たくむくんだ娘かもしれ
 ない。いやな紫色によごれた歯ぐきを出して、軽いいびきをかいているかもしれない。
 江口老人も六十七年の生涯のうちには、女とのみくい夜はもちろんあった。しかもそう
 いうみにくいことの方がかえって忘れられないものなのである。それはみめかたちの醜
 さというのではなく、女の生の不幸せなゆがみから来たものであった。江口はこの年に
 なって、女との醜い出合いをまた一つ加えたくない。この家に来ていざとなって、そう
 思うのだった。    
・しかし眠らされ通しで目覚めない娘のそばに一夜横たわろうとする老人ほど醜いものが
 あろうか。江口はその老いの醜さの極みをもとめて、この家に来たのではなかったか。
・女は「安心出来るお客さま」と言ったが、この家に来るのはみな「安心出来るお客さま」
 のようだった。江口にこの家を教えたのもそういう老人だった。もう男でなくなってし
 まった老人だった。その老人も江口もすでにおなじ衰えに入っていると思い込んだらし
 い。  
・しかし江口老人は道楽を続けているおかげで、女の言う「安心出来るお客さま」ではま
 だないが、そうであることは自分で出来た。その時の自分の気持ちしだい、場所しだい、
 また相手によった。これにはもはや老いの醜さが迫り、この家の老人の客たちのような
 みじめさも遠くないと思っている。ここへ来てみたのもそのしるしにほかならない。そ
 れだから江口はここでの老人たちの醜い、あるいはあわれな禁制を破ろうとはゆめゆめ
 考えてはいなかった。  
・秘密の倶楽部とでもいうのだろうが、会員の老人は少ないらしく、江口は倶楽部の罪を
 あばきにも、倶楽部のしきたりを乱しにも来たのではなかった。
・江口老人は、隣室へ通じる杉戸をあけた。「ああ。」江口の声が出たのは、深紅のびろ
 うどのかあてんだった。かあてんは部屋の四方に垂れめぐらせてあった。江口は戸に鍵
 をかけると、そのかあてんを引きながら、眠っている娘を見おろした、眠ったふりでは
 なくて、たしかに深い寝息にちがいないと聞こえた。思いがけなかった娘の美しさに、
 老人は息をつめた。思いがけないのは娘の美しさばかりではない。娘の若さもあった。
 こちら向きに左を下に横寝している顔しか出ていなくて、からだは見えないのだが、
 二十前ではないだろうか。江口老人の胸のなかは別の心臓が羽ばたくようだった。
・なめらかそうな白い手だった。「眠ってるの?起きないの?」江口老人はその手にさわ
 るためかのように言ったが、掌のなかに握ってしまって、軽く振ってみたりした。娘が
 目をさまさないのはわかっている。手を握ったまま、いったいこれはどういう娘なんだ
 ろうと、江口はその顔を見た。眉も化粧荒れはしていないし、閉じ合わせたまつげもそ
 ろっていた。娘の髪の匂いがした。 
・江口は目をさますはずのない娘の目をさますのをおそれて、静かにはいった。娘はなに
 ひとつ身につけていないようだった。しかも娘は老人の入ってきたけはいに胸をすくめ
 るとか、腰をちぢめるとかのけぶりもなかった。よく眠っているにしても、若い女には
 さとい反射が起きそうなものだが、世の常の眠りではないのだろうと、江口はかえって
 娘の肌に触れることを避けるように身をのばした。娘は膝がしらを少し前へ折り出して
 いるので、江口の足は窮屈だった。娘の身の丈はそう長くないらしかった。
・江口は枕に片肘突いてながめながら、「まるで生きているようだ。」とつぶやいた。生
 きた人形などというものはないから、生きた人形になっているのではないが、もう男で
 なくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。
 いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、命そのものなのかもしれない。
 こんなのが安心して触れられる命なのかもしれない。江口の老眼には間近の娘の手がな
 おやわらいで美しかった。 
・耳たぶの赤みを娘のみずみずしさを老人の胸に刺すほど訴えた。江口はものずきにそそ
 られて、この秘密の家にはじめて迷い着いたのだけれども、もっと老い衰えた年寄りど
 もは、もっと強いよろこびとかなしみとでこの家に通うのだろうかと思われた。娘の髪
 は自然のまま長かった。老人たちがまさぐるためにのばしてあるかもしれない。
・江口は枕に首をつけながら、娘の髪をかきあげて耳を出した。耳のうしろの髪の陰が白
 かった。首も肩もういういしい。女の円いふくらみがついていない。
・江口は娘のあらわな肩をふとんにおおいかくして、目をつぶった。娘の匂いがただよう
 うちに、ふっと赤んぼの匂いが鼻に来た。乳呑呉児のあの乳くさい匂いである。娘の匂
 いよりもあまく濃い。
・これくらいのゆり起こし方で娘が目をさましては、江口老人にここを紹介した木賀老人
 が、「秘仏と寝るようだ。」などという、この家の秘密はなくなってしまうわけだ。決
 して目覚めぬ女こそが、「安心出来るお客さま」の老人どもにとって、安心出来る誘惑
 で、逸楽なのにちがいない。木賀老人などは、眠らせられた女のそばにいる時だけが、
 自分で生き生きしていられると、江口に言っていた。
・老いの絶望にたえられなくなると木賀はその家へ行くのだと言っていた。眠りこんでい
 て、なんにも話さぬし、なんにも聞こえぬ女は、もう男として女の相手になれぬ老人に、
 なんでも話しかけてくれ、なんでも聞き入れてくれるようなのだろうか。しかし江口老
 人はこんな女がはじめての経験である。娘はこんな老人をいくたびか経験しているのに
 ちがいなかった。いっさいをまかせて、いっさいを知らぬ。仮死のような昏睡に、あど
 けない顔で横たわり、安らかな寝息である。ある老人は娘をくまなく愛撫したかもしれ
 ないし、ある老人は自分をよよと号泣したかもしれない。どちらにしろ娘に知られはし
 ない。そう思ってみても、江口はまだなにも出来なかった。 
・江口老人には、今も乳呑児の匂いのする孫がある。その孫の姿が浮かんで来た。三人の
 娘たちはそれぞれかたづいて、それぞれ孫を産んでいるが、孫たちの乳臭かった時ばか
 りではなく、乳呑児だった娘たちを抱いたことも忘れてはいない。それらの肉親の赤ん
 ぼの乳臭い匂いが、江口自身を責めるように、ふっとよみがえって来たのだろうか。
・乳についての嫌な思い出と狂わしい思い出とが浮かんで来た。「乳臭いわ。お乳の匂い
 がするわ。赤ちゃんの匂いだわ。」江口の脱いだ上着をたたみかけていた女は、血相変
 えて江口をにらみつけたものだった。「お宅の赤ちゃんでしょう。あなた、うちを出が
 けに、赤ちゃんを抱いてらしたでしょう。そうでしょう。」女は手をぶるぶるふるわせ
 ると、「ああ、いやだ、いやだ。」と立ちあがって、江口の洋服を投げつけた。「いや
 だわよ。出しなに赤ちゃんを抱いて来たりして。」その声もすさまじかったが、目顔は
 さらに恐ろしかった。女はなじみの芸者である。江口に妻のあることも子のあることも、
 万々招致していながら、乳呑児の移り香が女のはげしい嫌悪となり、嫉妬を燃やしたの
 だ。  
・江口は結婚の前にも愛人があった。娘の親の目がきびしくなって、たまの忍びあいはは
 げしかった。ある時、江口が顔をはなすと、乳首のまわりが薄い血にぬれていた。江口
 はおどろいて、しかしなにげなく、こんどはやわらかに顔を寄せると、それを飲み込ん
 でしまった。うつつない娘は、そんなことをまったく知らないでいた。もの狂わしさを
 通り過ごして後でのことで、江口が話しても、娘は痛くなかったようである。
・もっとつまらないことかもしれないが、江口は若い時に、ある大きな会社の重役の夫人、
 中年の夫人、賢夫人といううわさの夫人、そして社交の広い夫人から、「私は夜眠る前
 に目をつぶって、接吻してもいやでないと思える男の人を数えてみるのよ。指を折って
 数えてみるのよ。楽しいわ。十人より少ないと、さびしいわ。」と言われたことがあっ
 た。
・夫人はただ「数えてみる」と言っただけだけれども、数えるなら、男の顔やからだを思
 い描くのだろうと疑われ、十人を数えるのにかなり時間をかけ、妄想も働くのだろうと、
 江口は女盛りをやや過ぎた夫人の媚薬じみた香水の匂いがにわかに強く鼻に来たものだ
 った。
・江口も老いの近づくにつれて、寝つきの悪い夜には、たまに夫人の言葉を思い出して、
 女の数を指折りかぞえることもあったが、接吻してもいやでないなどというなまやさし
 さにはとどまらないで、まじわりのあった女たちの思い出をたどることになりがちだっ
 た。今夜も眠った娘から誘われた幻覚の乳の匂いで、むかしの愛人が浮かんで来た。
・深い眠りからさめない美女をまさぐりながら、返らぬ昔の女たちの思い出にふけるのは
 老人のあわれななぐさめかもしれないのだが、江口はむしろさびしいようにあたたかい
 心静かさだった。 
・娘の乳房の形は美しいようである。しかし老人は人間の女の乳房の形だけがあらゆる動
 物のうちで、長い歴史を経るうちに、なぜ美しい形になって来たのだろうかと、あらぬ
 ことを考えたりした。
・色の濃くて広く盛んな乳かさを江口は好まないが、肩をかくしたものをそっと持ち上げ
 てみたところでは、まだ小さい桃色であるらしかった。娘は上向きになっているので、
 それに胸をあてて接吻することもできる。接吻してもいやでない女どころではない。江
 口ほどの老年がこのように若い娘にそうできるなら、いかなるつぐないを払ってもよい
 し、いっさいを賭けてもよいと。この家に来る老人たちが歓喜におぼれただおるとも江
 口には思われた。老人のなかにはむさぼった者もありそうで、そのさまが江口の頭に浮
 かんで来ないでもない。しかし娘は眠っていてなにごとも知らないので、娘の顔かたち
 はここに見る通り、よごれもくずれもしないのだろうか。この悪魔じみた醜い遊びに江
 口が落ち込まないのは、娘が美しく眠りきっているからであった。
・江口老人は乳首のまわりが血にぬれたことのあった愛人と、北陸路をまわって京都へ駆
 け落ちした幾日かが思い出されて来た。今ごろこんなにありありと思い出せるのは、う
 いういしい娘のからだのあたたかみがほのかに伝わっているからかもしれなかった。 
・大学を出て職についたばかりの江口は京都で暮らしてゆけそうにないので、心中でもし
 ないかぎり、いずれは東京に帰らねばならないとわかっていたが、小さい虹を見ること
 から、娘のきれいなひそかなところが目に浮かんで来て追い払えなかった。それを江口
 は金沢の川沿いの宿で見た。若い江口はきれいさに息をのみ涙が出るほど打たれたもの
 だった。その後の幾十年の女たちにそのようなきれいさを見たことはなくて、いっそう
 きれいさがわかり、ひそかなところのきれいさがその娘の心のきれいさと思われるよう
 て、「そんなばかなことが。」と笑おうとしても、あこがれの流れる真実となって、老
 年の今なお動かせない強い思い出だ。京都で娘の家からよこした者につれもどされると、
 娘はまもなく嫁にやられてしまった。
・ゆくりなく上野の不忍の池の岸で出合った時、娘は赤ん坊を負ぶって歩いていた。赤ん
 坊は白い毛糸の帽子をかぶっていた。不忍池の蓮が枯れていた季節だった。不忍の池の
 岸で会った時、「しあわせかい。」というような言葉しか江口は出なかった。「ええ、
 しあわせですわ。」と娘はとっさに答えた。そうとより答えようもあるまい。「なぜこ
 んなところをひとりで、赤ん坊を負ぶって歩いているの?」おかしな問いに、娘はだま
 って江口の顔を見た。  
・「その赤ちゃん、僕の子じゃないか。」「まあ、ちがいますわ。」娘は目の色の怒らせ
 て首を振った。「もし僕の子だったら、今でなくてもいい、何十年先でもいい、あんた
 が言いたいと思った時に、僕にそう言ってくれよな。」「ちがいますよ。ほんとうにち
 がいますよ。あなたを愛していたことは忘れないけれど、この子にまでそんな疑いをか
 けないでちょうだい。この子が迷惑するわ。」
・長く女の後ろ姿を見送った。女はしばらく行ってから一度振り返った。江口が見送って
 いるのを知ると、にわかに足をいそがせて行った。それきり会わない。その女は今から
 十年あまりも前に死んだと江口は聞いた。
・その娘の思い出は若々しい。赤ん坊の白い帽子とひそかなところのきれいさと乳首の血
 とにしぼられて、今もあざやかである。そのきれいさがたぐいなかったのは、おそらく
 江口のほかに知る者はこの世になく、江口老人の遠くはない死によって、この世からま
 ったく消え去ってしまうのを思ってみる。娘ははにかんだけれど素直に江口の目をゆる
 したのは、その娘のさがであったかもしれないが、娘はそのきれいさを自分では知らな
 かったにちがいないだろう。娘には見えないのだ。  

その二
・江口老人は二度とふたたび「眠れる美女」の家へ来ることがあろうとは思わなかった。
 少なくとも、前にはじめて来て泊まった時には、また来てみようとは考えていなかった。
 その家へ今夜行ってもいいかと、江口が電話をかけたのは、あれから半月ほど後だった。
・二度とは来ないだろうと思った家へ半月ほど後に行くことになったのは、江口老人にと
 って早過ぎるのか、おそ過ぎるのか、とにかく強いて誘惑を抑え続けたのではなかった。
 むしろ老いの醜いたわむれを繰り返す気はなかったし、このような家をもとめる老人た
 ちほど江口は老い衰えてはいないのだった。
・しかしこの家で初めてあの夜が醜い思いを残したのではなかった。罪ではあったのは明
 らかにしても、江口の六十七年の過去で、女とあのように清らかな夜を過ごしたことは
 ないと感じたほどだった。  
・老人のからだは娘のどこにもふれていなかった。娘の若いあたたかみとやさしい匂いの
 なかに、幼いようにあまい目ざめであった。
・娘はこちらを向いてくれて寝ていた。きれいに合わせた娘の唇から江口老人は目をそら
 せて、娘のままつ毛と眉を眺めながら、きむすめであろうと信じると疑わなかった。 
・老人は、娘が可愛くてしかたがないようになると、自分がこの娘から可愛がられている
 ような幼ささえ心に流れた。娘の胸をさぐって、そっと掌のなかにいれた。
 それは江口をみごもる前の江口の母の乳房であるかのような、ふしぎな感触がひらめい
 た。老人は手をひっこめたが、その感触は腕から肩までつらぬいた。
・そして半月ほど後にふたたびこの家へ来る江口老人は、はじめて来た時の好奇心よりは、
 うしろめたいもの、恥ずかしいもの、しかし心をそそられるものが強まっている。
・ひとり残された江口は鉄瓶の湯を急須にそそいで、ゆっくり煎茶を飲んだ。ゆっくりの
 つもりなのだが、その茶碗はふるえた。年のせいじゃない、ふん、これはまだ必ずしも
 安心できるお客さまじゃないぞと、自分につぶやいた。この家に来て侮蔑され屈辱を受
 けている老人どもに代わって復讐してやるために、この家の禁制をやぶってやったらど
 うだろう。その方が娘にとってもよほど人間らしいつきあいではないだろうか。娘がど
 れほど強い眠り薬をのまされているのかわからぬが、それを目ざめさせる男のあれくれ
 はまだ自分にはあるだろう。などと思ってみてもしかし江口老人の心はそうきおい立た
 なかった。 
・この家をもとめて来るあわれな老人どもの醜い衰えが、やがて江口にも幾年先かに迫
 っている。計り知れぬ性の広さ、底知れぬ性の深み、江口は六十七年の過去にはたして
 どれほど触れたというのだろう。しかも老人どものまわりには女の新しいはだ、若いは
 だ、美しい娘たちが限りなく生まれて来る。あわれな老人どもの見はてぬ夢のあこがれ、
 つかめないで失った日々の悔いが、この秘密の家の罪にこもっているのではないか。
・江口は立って隣室の戸をあけると、そこでもうあたたかい匂いにあたった。ほほえんだ。
 なにをくよくよしていたのか。娘は両方の手先を出してふとんにのせていた。爪を桃色
 に染めていた。口紅が濃かった。娘はあおむいていた。
・頬紅だけではなく、毛布のぬくみで顔に血の色がのぼっていた。匂いが濃かった。上ま
 ぶたがふくらみ、頬もゆたかだった。びろうどのかあてんの紅の色がうつるほど首が白
 かった。目のつぶりようからして、若い妖婦が眠っていると見えた。江口が離れてうし
 ろ向きになって着がえるあいだも、娘のあたたかいにおいがつつんで来た。部屋にこも
 っていた。  
・江口老人は前の娘にしたようにひかえめにしていられそうにはなかった。起きていよう
 が眠っていようが、この娘はおのずから男を誘っていた。江口がこの家の禁制をやぶっ
 たところで、娘のせいだとしか思えないほどだ。
・この家に来て侮蔑や屈辱を受けた老人どもの復讐を、江口は今、この眠らされている女
 奴隷の上に行うのだ。この家の禁制をやぶるのだ。二度とこの家に来られないのはわか
 っている。むしろ娘の目をさまさせるために江口はあらくあつかった。ところがしかし、
 たちまち、江口は明らかなきむすめのしるしにさえぎられた。
・「あっ。」とさけんではなれた。息がみだれ動悸が高まった。とっさにやめたことによ
 りも、おどろきの方が大きいようだった。老人は目をつぶって自分をしずめた。若い男
 とちがってしずめるのはむずかしくなかった。江口は娘の髪をそっとなでてやりながら
 目をひらいた。娘はうつぶせのおなじ姿でいた。このいい年になって、娼婦のきむすめ
 であることがなんだ、これだって娼婦にはちがいないじゃないか、と思ってみても、嵐
 の過ぎたあと、老人の娘にたいする感情、自分にたいする感情は変わってしまっていて、
 前にもどらなかった。惜しくはない。眠っていてわからぬ女になにをしたところでつま
 らぬことに過ぎない。しかしあのとつぜんのおどろきはなんであったのだろうか。
・娘の妖婦じみた顔形にまどわされて、江口はあらぬふるまいにおよびかけたのだが、こ
 の家の客の老人どもは、江口の思っていたよりもはるかにあわれなよろこび、強い飢え、
 深いかなしみを持って来ているのではないかと、新たに考えられた。老後の気楽な遊び、
 手軽な若返りとしているにしても、その底にはもはや悔いてももどらぬもの、あがいて
 も癒されぬものがひそんでいるのであろう。「なれている」という今夜の妖婦がきむす
 めのまま残されているなども、老人どもの尊重や契約が守られたよりも、凄惨は衰亡の
 しるしにちがいなかった。娘の純潔がかえって老人どものみにくさのようでである。
・こちら真向きの娘の寝顔があまりに近くて、江口の老眼には白くぼやけたが、眉も多過
 ぎ黒過ぎるかげをつくるまつ毛、目ぶたと頬のふくらみ、長めの首は、やはりはじめの
 ひと目の印象の通りに妖婦であった。乳房はやや垂れているがじつに豊かで、日本の娘
 としては乳かさが大きくふくらんでいた。老人は娘の背骨にそって脚までさぐってみた。
 腰から張りつけて伸びていた。からだの上としたとの不調和なようなのはきむすめのせ
 いかもしれなかった。
・この家の女に「なれている」と言われるほど娘の身は老人どもにもてあそばれながらも、
 きむすめでいる。それは老人どもが衰えているからでもあるし、娘が深く眠らせられて
 いるからでもあるが、この妖婦じみた娘はこの後どのような一生の転変をたどってゆく
 のだろうかと、江口には親心に似た思いが湧いて来た。娘はただ金がほしさで眠ってい
 るだけにちがいない。しかし金を払う老人どもにとっては、このような娘のそばに横た
 わることは、この世ならぬよろこびなのにちがいない。娘が決して目をさまさないため
 に、年寄りの客は老衰の劣等感に恥じることなく、女についての妄想や追憶も限りなく
 自由にゆるされることなのだろう。
・末娘は陽気なたちに育っていた。男友たちの多いのは親の目に軽はずみとも思えたが、
 娘は男友だちにかこまれると生き生きと見えた。しかし、その男友だちのなかに娘の好
 きなのが二人いることは親、殊に家で男友だちをもてなす母親にはよくわかっていた。
 その一人に娘はきむすめをうばわれた。娘はしばらく家でも無口になって、たとえば着
 がえの手つきなどもいらいらしてするようになった。母親は娘になにかあったとすぐに
 気がついた。母親が軽く問いただすと、娘はそうためらわないで告白した。江口は手の
 なかの玉を傷つけられたようだったが、末娘がもう一人に別の若者といそいで婚約して
 しまったと聞いてさらにおどろいた。
・一人の若者におかされて、にわかに別の若者と婚約というのは、自然の落ちつきと、江
 口にはもちろん思えななった。娘の急な婚約は衝撃の反動ではないのか。一人に対する
 怒り、憎しみ、恨み、くやしさのよろめきから、ほかの一人に傾いたのか。あるいは一
 人に幻滅し、自分の惑乱から、もう一人にすがろうとしたのか。おかされたためにその
 若者からまったく心がそむき去り、もう一人の若者にかえって強くひかれてゆくことも、
 末っ子のような娘にはないともかぎらなかった。それはあながち意趣がえしや半ば自棄
 の、不純とばかりは言えないかもしれぬ。
・末娘は男友だちにとりかこまれて、陽気で自由でいた。勝気な娘だけに、江口は安心し
 ていたようだ。でもことが起こってみると、むしろなんの不思議もない。末娘だって、
 世の女たちとからだのつくりがちがっていはしない。男の無理に通されるのだ。そして
 そういう場合の娘の姿恰好のみにくさが、ふと江口の頭に浮かぶと、はげしい屈辱と羞
 恥におそわれた。  
・末娘のことがよしんば男の愛情の火事だったにしても、それをこばみきれいな娘のから
 だのつくりに、江口はいまさら思いあたった。父親としてはなみはずれた心理だろうか。
・娘の腕から江口の目ぶたの奥に伝わって来たのは、生の交流、生の旋律、生の誘惑、そ
 して老人委は生の回復である。
・老人は娘に胸を合わせ、腰を引き寄せて、あたたかく眠った。
   
その三
・江口老人が、「眠れる美女」の家へ三度目に行ったのは、二度目から八日後のことだっ
 た。眠らされた娘の魔力に、江口もしだいに魅入られて来たのか。
・「新しい、小さい子です。」「なれていない子ですから、お手やわらかに、どうぞ。」
・「小さい子」は顔の小さい子だった。あどけない少女が眠っていた。江口はそっと横に
 はいった。娘のどこもふれぬように気をつけた。娘は身じろぎもしなかった。しかし娘
 の温かさは、電気毛布の温かさとは別に、老人をつつんで来た。未熟の野生の温かさの
 ようだった。
・「十六ぐらいかな。」と江口はつぶやいた。この家には、もう女を女としてあつかえぬ
 老人どもが来るのだが、こんな娘と静かに眠るのも、過ぎ去った生のよろこびのあとを
 追う、はかないなぐさめであろうことは、この家に三晩目の江口にはわかっていた。眠
 らせられた娘のそばで自分も永久に眠ってしまうことを、ひそかにねがった老人もあっ
 ただろうか。娘の若いからだには老人の死の心を誘う、かなしいものがあるようだ。
・三年前の春、老人は神戸のホテルに女をつれて帰った。老人はホテルのゆかたの寝巻着
 に着がえたが、女の分はなくて、下着のまま抱き入れられた。女は意外におとなしかっ
 た。江口は女をはなすと言った。「まだね・・・?」「ずるい、江口さん、ずるい。」
 と女は二度くりかえしたが、やはりおとなしくしていた。
・老人は酒がまわっていて、すぐに寝ついた。あくる朝、江口は女が動く気配で目がさめ
 た。「えらく早いんだな。」「子供がいますから。」女はいそいで、老人の起き上がら
 ぬうちに出て行った。ひきしまった細見の女が子供を二人生んでいるというのは、江口
 老人には意外だった。そういうからではなかった。授乳したこともなさそうな乳房だっ
 た。   
・あくる日夕方、女は約束の日本料理屋にきもので来た。町を歩いて、江口老人は女のた
 めに着尺地と帯地とを買い、ホテルにもどった。江口は窓に女と立ってくちづけをしな
 がら、よろい戸とかあてんをしめた。女はとりみだすまいとこらえた。沈みこむように
 寝入った。  
・江口が今日東京に帰ることを、女は知っている。女の夫は外国商社から神戸に駐在中に
 結婚したが、ここ二年ほどシンガポオルに帰っている。そして来月はまた神戸の妻子の
 もとに来る。そんなことも女はゆうべ話した。
・江口は人妻と、しかも外国人の日本人妻と不倫をはたらいたことになってしまった。女
 は小さい子をうばか子守りにまかせて泊ってゆくようなたちだし、人妻らしいうしろめ
 たさは見せなかったので、江口にも不倫の実感は強く迫っては来なかったが、やはり呵
 責は内心に尾をひいた。
・その時、江口は六十四歳、女は二十四五から七八までのあいだだったろうか。老人はこ
 れがもう若い女とのまじわりの最後かと思ったほどだった。江口の忘れられぬ女となっ
 たのだった。   
・若い女の無心な寝顔ほど美しいものはないと、江口老人はこの家で思うのだった。それ
 はこの世のしあわせななぐさめであろうか。どんな美人でも寝顔の年はかくせない。美
 人でなくても若い寝顔はいい。あるいはこの家では、寝顔のきれいな娘をえらんでいる
 のかもしれなかった。江口は娘の小さい寝顔を間近にながめているだけで、自分の生涯
 も日ごろの塵労もやわらかく消えるようだった。
・老人は昔この娘より幼い娼婦に会ったのを思い出した。江口にそんな趣味はなかったが、
 客として人に招かれてあてがわれたのであった。その小娘は薄くて細長い舌をつかった
 りした。「君はいくつなの。」「十四です。」娘は男に対してなんの羞恥もなかった。
 自分に対して屈辱も自棄もなかった。あっけらかんとしたものだった。
・あの時、江口はいくつだったか、よくは思い出せないが、小娘にみれんもなく祭りに行
 かせる年にはなっていたにしても、今のような老人ではなかった。あの娘より今夜の娘
 は年も二つ三つ上だろうし、あの娘にくらべたら女らしく肉づいている。
・男が女に犯す極悪とは、いったいどういうものなのであろうか。たとえば神戸の人妻や
 十四の娼婦のことなどは、長い人生のつかのまのことで、つかのまに流れ去ってしまっ
 た。妻との結婚、娘たちの養育などは、表向き善とされているけれども、時の長さ、そ
 の長いあいだを江口がしばって、女たちの人生をつかさどり、あるいは性格までもゆが
 めてしまったというかどで、むしろ悪かもしれないのであった。世の習慣、秩序にまぎ
 れて、悪の思いが麻痺しているかもしれないのであった。
・娘があまりに若いので、かえって江口は悪などが胸にゆらめいたりしたのであろうが、
 この「眠る美女」の家へひそかにおとずれる老人どもには、ただ過ぎ去った若さをさび
 しく悔いるばかりではなく、生涯におかした悪を忘れるための者もあるのではないかと
 思われた。 
・おそらく会員客は多くはないのであろう。そしてその老人たちは、世俗的には、成功者
 であって落伍者でないことも察しがつく。しかし、その成功は悪をおかしてかち得、悪
 を重ねてまもりつづけられているものもあろう。それは心の安泰者ではなく、むしろ恐
 怖者、敗残者である。眠らされている若い女の素肌にふれて横たわる時、胸の底から突
 きあがって来るのは、近づく死の恐怖、失った青春の哀絶ばかりではないかもしれぬ。
 おのれがおかして来た背徳の悔恨、成功者にありがちな家庭の不幸もあるかもしれぬ。
 老人どもはひざまずいて拝む仏をおそらくは持っていない。はだかの美女にひしと抱き
 ついて、冷たい涙を流し、よよと泣きくずれ、わめいたところで、娘は知りもしないし、
 決して目ざめはしないのである。老人どもは羞恥を感じることもなく、自尊心を傷つけ
 られることもない。まったく自由に悔い、自由にかなしめる。してみれば「眠る美女」
 は仏のようなものではないのか。
・老人は娘を抱きすくめた。それまでは娘のどこにふれることも避けていたのであった。
 娘は老人のからだにつつみこまれてしまいそうであった。娘には力がうばわれていてさ
 からわなかった。 
・「この小さな娘は、どんな人生をたどってゆくだろうか。いわゆる成功や出世はないに
 しても、はたして平穏な一生にはいってゆくだろうか。」などと江口は思った。この家
 でこれから老人どもをなぐさめ救う功徳によって、のちのしあわせがのぞましいが、あ
 るいは昔の説話のように、この娘がなんとかの仏の化身ではないかとまで考えられたり
 した。遊女や妖婦が仏の化身だったという話もあるではないか。
・江口老人は娘の下げ髪をやわらかくつかみながら、自分の過去の罪業、背徳を自分にざ
 んげしようと気をしずめた。ところが心に浮んで来るのは過去の女たちだった。江口の
 愛撫にわれを忘れて敏感にこたえ、不覚の喜悦に狂った女たちであった。それは女の愛
 の深い浅いよりも、生まれつきのからだのせいなのであろうか。この小さな娘はやがて
 熟したらどうなのだろうかと、老人は娘の背を抱いている手のひらでさすりおろした。
 しかしそんなことでわかるはずはない。
・前にこの家で、妖婦じみて見える娘のそばで、江口は六十七年の過去に、人間の性の広
 さ、性の深さに、はたしてどれほど触れて来たのだろうと思ってみたりしたものだった
 が、そしてそんな思いを自分の老い衰えと感じたものだったが、今夜の小さい娘の方が
 かえって江口老人の性の過去を生き生きとよみがえらせてくれるのは不思議であった。
・老人は娘のつぼんだ脣にそっと脣をつけた。江口はこの娘と二度と会うことはないかも
 しれない。この小さい娘の脣が性の味わいにぬれて動くことには、江口はもう死んでし
 まっているかもしれない。

その四
・「今夜の子はあたたかい子ですわ。こんなお寒い晩ですし、ちょうどよかったですわ。」
 江口が密室の戸をあけると、いつもより女のあまい匂いが濃かった。
・江口老人はこの家にまだ四度目に過ぎないが、度重ねるにつれて、自分の内心のものも
 麻痺して来るのを今夜は特に感じるようであった。
・江口はまだ男でなくなってはいない。したがって、この家に来る老人たちのほんとうの
 かなしみもよろこびも、あるいは悔いもさびしさも、痛切にはわからないとも考えられ
 る。江口にとっては、娘がぜったいに目ざめぬように眠らされていることが必ずしも必
 要ではないのである。たとえば、この家をおとずれた第二夜の妖婦じみた娘に、江口は
 あやうく禁をやぶろうとして、きむすめであったことにおどろいて自分をおさえたもの
 であった。それからはこの家の禁制、あるいは「眠れる美女」たちの安心を守ろうと誓
 った。老人どもの秘密をこわすまいと誓った。
   
その五
・「こんな寒い夜に若い肌であたたまりながら頓死したら、老人の極楽じゃないか。」
 「いやなことをおしゃいますね。」「老人は死の隣人さ。」「なにかお聞きになったん
 ですか。」「どうせ、あんなことは起こるだろうね。冬は老人にあぶないんだから・。」
 「どんなお年寄りが来るのか知らんが、もし第二、第三の死がつづくと、君だってただ
 ではすまないよ。」「そんなことは主人に言ってやって下さい。私になんの罪がありま
 す?」「罪はあるよ。」老人の死骸を近くの温泉宿に運んだじゃないか。夜陰にまぎれ
 てこっそり・・・。君も手伝ったにちがいない。」「そのお年寄りの名誉のためですわ。」
 「名誉か?死人にも名誉があるのかね。それはまあ世間体もあるんだろうな。死んだ老
 人よりも遺族のためかもしれないがね。」
・それにしても、この家で死んだ老人の葬式の新聞広告は、ただ「急死」と書いてあった。
 江口は葬儀場で木賀老人に会い、耳もとにささやかれて仔細を知った。狭心症で死んだ
 のだが、「その温泉宿がね、あの人の泊まるような宿じゃないんだよ。定宿は別にあっ
 た。」と木賀老人は江口老人に話した。  
・「そう、そう、言いおくれましたが、今夜は二人おりますから。」「二人?」江口老人
 はびっくりしたが、老人の頓死があるいは娘たちにも知れているせいかと思った。
・杉戸をあかる江口に、もう初回ほどの好奇も羞恥も鈍っているのだが、おやっと思った。
 「これも見習いか。」しかし前の見習いの「小さい子」とはちがって、これはまったく
 野蛮のようだった。電気毛布などという年寄りくさいものになれないのか、身うちに冬
 の寒夜をものともせぬ温気がこもるのか、娘はみずおちまでふとんをはねのけていた。
 大の字に寝ているというのだろう。あおむけて両の腕を存分にひろげていた。ちちかさ
 が大きく紫ずんで黒い。ちちかさの色は美しくなかったが、首から胸の色も美しいなど
 というものではなかった。しかし黒光りがしていた。江口はこの娘が日本人であるのか
 ちょっと疑った。まだ十代のしるしには、広い乳であるのに乳首がふくらみ出ていない。
・こういう娘に暴力をふるってこそ、若さをゆりさましてくれそうである。「眠る美女」
 の家にも江口はややあきている。あきていながら来るたびは逆に多くなる。この娘に暴
 力をふるい、この家の禁制をやぶり、老人どもの醜い秘薬をやぶり、それをここから訣
 別とした、血のゆらめきが江口をそそり立てた。しかし暴力や強制はいらないのだ。眠
 らされた娘のからだにおそらくさからいはないだろう。
・隣の娘のところへはいった。背を向けていた娘はこちらに身をよじった。眠りながらも
 迎えるやわらかさはやさしい色気の娘であった。「いい取りあわせだ。」と娘の指をも
 てあそびながら老人は目をつぶった。
・娘は長い首だった。これも細くきれいだった。細身といってもそう日本風に古い感じで
 はない。黒光りの娘の長身なのはわかっているが、この娘もそうちがわないだろう。
・老人は白い娘に密着した。娘のいきは早く短くなった。しかし目ざめる気づかいはない。
 「ゆるしてもらうかな。自分の一生の最後の女として・・・。」「しずまれ。冬の波を
 聞いてしずまれ。」と江口老人は心をおさえるのにつとめた。
・女はひとりひとりちがうのがわかってはいても、この娘の一生のいたましいかなしみ、
 いやされぬ傷となるのをあえておかずほどに、この娘はかわっているだろうか。六十七
 歳の江口にはもう女のからだはすべて似たものと思えば思える。しかもこの娘はうべな
 いもこばみもこたえもないのだ。     
・娘には愛も恥じらいもおののきもない。目ざめたあとに恨みと悔いが残るだけだ。純潔
 をうばった男がだれかもわからない。老人の一人とさっしがつくだろう。娘はおそらく
 この家の女にもそれを言うまい。この老人どもの家の禁制をやぶったところで、娘がか
 くしとおすにちがいないから、娘のほかにだれも知らずにすんでしまうだろう。
・母は江口が十七の冬の夜に死んだ。父と江口とは母の左右の手を握っていた。結核で長
 わずらいの母の腕は骨だけだったが、握る力は江口の指が痛いほど強かった。その指の
 冷たさが江口の肩までしみて来る。足をさすっていた看護婦がそっと立って行った。母
 は多量の血を吐いた。血は鼻からもぶくぶくあふれた。息が絶えた。血は枕もとのガア
 ゼや手拭いでふききれなかった。
・江口老人は目がさめた。首を振ったが、眠り薬でぼんやりしていた。黒い娘の方に寝返
 りをしていた。娘のからだは冷たかった。老人はぞっとした。娘は息をしていない。心
 臓に手をあてると、鼓動がとまっていた。江口は飛び起きた。足がよろめいて倒れた。
 がたがたとふるえながら隣室へ出た。見まわすと床の間の横に呼鈴があった。指に力を
 こめて長いこと押した。階段に足音が聞こえた。「どうかなさいましたか。」「この子
 が死んでいる。」女はさすがに顔色をかえて、黒い娘の枕元に膝を落とした。「お客さ
 ま、娘にどうかなさいましたか。」「なにもしない。」「死んでいません。お客さまは
 なにもご心配なさらなくて・・・。」女ははだかの黒い娘を抱きあげてよろめいた。
 女が階段の途中から黒い娘を引きずりおろすような音がした。
・女が白い錠剤を持ってあがって来た。「これで明日の朝は、どうぞごゆっくりおやすみ
 になっていて下さいませ。」老人が隣室への戸をあけると、さっきあわててかけもの
 をはねのけたままらしく、白い娘のはだかはかがやく美しさによこたわってた。
 「ああ。」と江口はながめた。
・黒い娘を運び出すらしい車の音が聞こえた遠ざかった。以前ここで死んだ老人の死体が
 つれ去られた、あやしげな温泉宿へ運ばれて行ったのだろうか。