蒼茫の海 :豊田穣 (海軍提督/加藤友三郎の生涯) |
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この本は、いまから35年前の1989年に刊行されたもので、大正時代、ワシントン軍 縮会議で日本全権を務め、その後総理大臣にもなった「加藤友三郎」大将の生涯を描いた ものだ。 加藤友三郎大将(当時は海軍大臣)は、軍縮に対して強い抵抗を示す海軍の中において、 事前に海軍の長老に巧妙な根回しをしながらワシントン軍縮会議に臨み、対米六割で妥結 し軍縮会議を成功に導いた。また総理時代には、それまで大きな負担となっていたシベリ ア撤兵も敢行した人物である。 ところで、私はこの作品のなかで興味を持ったのは、加藤寛治中将という人物である。 加藤寛治中将(当時は海軍軍令部長)は、主席随員としてワシントン軍縮会議に参加する が、対米七割を強く主張して加藤友三郎大将と激しく対立した。 加藤寛治中将は、よく言えば愛国精神に徹した信念の人であったようだが、自分の考えを まげることなく、猪突猛進も辞さないという強烈な心情の持ち主だったようだ。 加藤寛治中将は、このワシントン軍縮会議で自分の主張が加藤友友三郎大将によって抑え られたことに強い遺恨を残し、後に「統帥権干犯」問題のきっかけを作った人物ようだ。 この「統帥権干犯」問題により、「統帥権」を盾に軍部が国政から独立し、日本は軍国主 義国家へと急激に変貌していくこととなったのだ。 そういう意味で言うと、この加藤寛治は、日本が軍国主義国家へ変貌するきっかけをつく った人物であるともいえるのではと私は思っている。 日本はこの後、亡国の道を歩んでいくことになった。 過去に読んだ関連する本: ・昭和の怪物 七つの謎 ・危機を活かす ・五・一五事件 |
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ワシントンへ(軍縮への船出) ・海軍大臣、大将「加藤友三郎」と貴族院議長、公爵「徳川家達」をのせた日本郵船の貨 客船鹿島丸が横浜を出港してアメリカに向かったのは、大正十年(1921)十月のこ とであった。 ・加藤と徳川の二人は、この年十一月からワシントンで開かれる予定の五カ国軍縮会議に 日本全権として出席することになっていた。 全権は三人で、あと一人はワシントンに赴任している駐米大使「幣原喜重郎」である。 ・海軍の主席随員は「加藤寛治」中将である。 加藤(寛)は海兵十八期を首席で卒業した気の強い鉄砲屋で、しかも軍令部系統の勤務 が長く、対米関係の戦術家として知られていた。 ・友三郎は横浜を発つとき例の通り寡黙で、これという発言もなく鹿島丸に乗船した。 しかし、彼の肚は九月「原敬」総理に会ったとき語った次のような談話で大体決まって いる。 「現在増強中の八・八艦隊の原則は破りたくないが、英米との釣り合い上いざという場 合の策は練ってある。海岸の防備もアメリカがグアムの防備を撤去するというなら、わ が方も小笠原その他の防備を撤去してもよろしい」 ・いずれにしても、ワシントンで軍縮の本会議に入った場合、面倒な敵はアメリカのヒュ ーズ(国務長官)やイギリスのバルフォア(枢密院議長)ではなく、味方の加藤(寛) や「末次信正」であろうことが想像された。 ・大正三年以来営々と推進してきた八・八艦隊をなげうって、軍縮に踏み切ることに、最 も強い抵抗を示すのは海軍に決まっている。 予算を扱う海軍省には、財政と軍備のバランスを考える者もいるが、実戦を指導する軍 令部としては、常に対米決戦を考えその必要量の確保を希望する。現に加藤寛治の如き はその典型である。 ・これを抑えるには同じ海軍の長老しかいない。 もちろん海軍には東郷、山本(権)伊集院五郎、島村速雄らの長老、実力者がいるが、 これらはすべて日露戦争を戦ってきた軍拡派である。 予算と財政のわかる人物には「斎藤実」がいるが「シーメンス事件」で謹慎中である。 結局、切札は加藤しかいなかった。 ・一般には知られていないが、この当時の海軍では、予算はもちろん、増艦計画等に関し ても、軍令部長よりは海軍大臣の方に強い決定権があった。 海軍大臣は戦略的に軍艦を動かす実権を握っていた。 無論、軍令部は実践の場合艦隊を指揮する権限を握っていたが、この件についても海軍 大臣が強い発言権をもっていた。 海軍大臣が予算を握っている以上は、軍令部が独断で造船計画を立て海軍省に押しつけ ることは不可能になっていた。 ・このために、軍令部は統帥権の独立を唱え、昭和五年のロンドン軍縮会議の後、政府の 統帥権干犯を叫び、昭和八年十月にはついに、軍令部総長の権限はずっと強化され、 兵力量(主として造鑑計画)は総長起案し、大臣に商議し、御裁定を仰ぐ、となってい る。 また軍機軍略に関する艦船部隊の派遣、任務及び行動についても、総長が起案し、大臣 に商議して裁可を仰ぎ、総長が部下にこれを伝達し、大臣には通知するのみで可、とな っている。 ・加藤(寛)は、よくいえば愛国の精神に徹した信念の人であり、その反面、自分の考え をまげることなく、国の為海軍の為という名目の為には猪突猛進も辞さないという強烈 な心情の持ち主であった。 ・それにしても、なぜ加藤寛治がかくも強気に軍拡を主張するのか。 そこには単に彼の性格のみが働いているわけではなかった。 ワシントン会議の時代には、ちょうど海軍の主流が薩摩から旧「佐幕派」諸藩に切り代 わるときに当たっていた。 ・海軍大臣は初代の「西郷従道」から十四代目の「片岡七郎」まで連綿として鹿児島出身 であるが、そのあと昭和二十年海軍が廃止になるまで鹿児島出身は四人しかいない。 片岡七郎の次は旧賊軍の会津から出た「出羽重遠」で、この人はなかなか人望があった。 ・このあと大正十三年発令の井出謙治までをみると、二十四人の大将のうち、いわゆる勲 皇派に属する鹿児島、佐賀,高知はわずか四人で、残りの二十人のうち東北が五人、残 りは広島、岡山、福井などの旧佐幕派の大藩出身である。 ・東北出身では「斎藤実」、「山下源太郎」、「山屋他人」、「栃内曾次郎」らが大臣、 連合艦隊長官経験者として有名である。 ・加藤らがワシントンに到着した日の二日後の十一月四日、政友会近畿大会に出席のため 東京駅に赴いた原敬は、大塚駅員「中岡艮一」によって短刀で刺殺された。 ・情報によると、アメリカの肚は、主力艦に関して英米中に対して日本は六に抑えようと いうものだという。 ・加藤はこの件に関して海軍の総帥である東郷平八郎にひそかに面会して、「英米との協 調を崩さず、いかようにしてもこの会議をまとめる」という内諾を得ていた。 しかし寛治や末次はそんなことは知らない。 寛治が最も崇拝しているのは、日本海海戦の名将東郷であった。 が、彼は対米不敗の海軍を維持するには、七割は絶対に必要と考えていた。 八・八艦隊(雄図成るか) ・東アジアの情勢は、日本のシベリア出兵を促す方向に進みつつあった。 日本の隣に社会主義国ができて、赤軍と白軍が内戦を続けているということは、寺内内 閣を二つの意味で衝き動かした。 一つは帝政ロシア以来の東アジアにおけるロシアの軍事力が衰えたので、この際に乗じ て火事場泥棒的にシベリアへ出兵し、あわよくば沿海州くらいは貰おうという大陸浪人 的な考えである。 いま一つは、ソビエト革命の余波で日本が赤化されるのを防ぐため、東シベリアに日本 の保護国的な緩衝国家をつくろうというので、これは陸軍や外務省などの考え方であっ た。 ・ヨーロッパでドイツとの苦戦を続けている英仏は、ウクライナの穀倉地帯やウラジオス トックに集積してある軍需物資がドイツの手に渡るのを恐れて、日米のシベリア出兵を 要請してきた。 しかし、中国に対して機会均等を主張しているアメリカは、日本の出兵を喜ばず、ブレ ーキをかけていた。 ・ところが五月に入ると、思いもかけずチェコスロバキア軍と「ボルシェビキ」の衝突事 件が発生した。 かなり以前からチェコ人はオーストリアから独立を考えていた。 大戦が起こると、ロシアと戦っているオーストラリア軍の中のチェコ兵は、ロシア軍に 投降して連合軍側に入り、チェコの独立を進めるようという考えの者が増えてきた。 ロシアについたこれらチェコ兵の一団は、チェコ軍団として東部戦線に参加していたが、 この年一月、ソビエト政府がドイツと講和したため、シベリアを通過し、海を回って連 合軍の西部戦線に移動することとなった。 ところがこの軍団が反革命的性格を帯びているというので、五月、ソビエト政府がチェ コ軍の武装解除を命じたが、チェコ軍はこれを拒否し、西武シベリアの一部を占領して、 反ボルシェビキ政権を作ってしまった。 ・英仏はチェコ軍援助の為として、再び日本にシベリア出兵を要請してきた。 七月、アメリカは、日米が各七千名ずつ出兵することに同意した。 ・全面干渉を企図する寺内内閣は、八月シベリア出兵を宣言した。 日本軍一万二千、アメリカ軍七千、英仏軍五千八百でにほんが指揮権を握る予定であっ た。 しかし、一旦出兵が始まると陸軍は第十二師団、第七師団、第三師団を次々にシベリア に送った。 これが五年間にわたって内外の不評を買うシベリア出兵のスタートである。 ・九月中旬までに日本軍はハバロフスクやチタを占領し、ニコライエフスクにも陸戦隊が 上陸した。 十月末までにシベリアの日本軍は六万にのぼり、シベリアの民衆の敵意の的となり、 アメリカの疑念も招いた。 ・寺内内閣がシベリア出兵を宣言した翌日、富山県で米騒動が起こり、これが全国に波及 し、寺内内閣の命取りとなった。 ・大戦勃発後まもなく日本はインフレに見舞われ、特に米価は大正六年以来高騰を続けて いた。 米騒動は全国に拡がった。名古屋、京都、大阪、神戸と関西に拡がり、たちまち東海、 中国、四国と波及して、寺内内閣を怨む声が高まっていった。 警察、軍隊も出動したが暴動は収まらなかった。 ・九月、寺内内閣はついに総辞職し、原敬が組閣した。 日本最初の政党内閣で、加藤はまた留任した。 ・原内閣は閣僚にいわゆる大物をそろえたが、内田外相と陸海軍大臣以外は、政友会一色 で固めた。 日本初の政党内閣であり、当然藩閥勢力に対する反発が激しかった。 しかし、肚が山県と巧妙な妥協政策を採ったので長州閥のお目付け役である「田中義一」 陸相も原にたてつくようなことは少なかった。 ・米騒動以降の社会不安を収拾し得る唯一の政治家として原を認めた山県であったが、 その後も原に対する敵意は消えたわけではない。 山県は腹の政党本位が気に入らず、また賊軍であった南部藩から出たという古めかしい 理由で、”勤皇勤の志士”であった山県は原に違和感を抱いていた。 ・原は原で山県が天皇の側近として権勢をほしいままにし、その閥族一派が位階勲等をむ さぼるのを憎み、自分は厳として叙爵を拒み、遺言状にもその旨を記し、一市民として 葬られることを望んだ。”平民宰相”と呼ばれる所以である。 ・が、では彼は山形のような私利私欲を貪らず、権力を得るために術策を弄しなかったと いうと決してそうではない。 政友会の実力者として党利党略を考えたのはもちろんであるが、立憲政党政治を表面に 押し立てていながら、必ずしも民衆の味方ではなく、官僚的な立場から民衆を見下ろし ていた態度が見受けられる。 彼は財閥と提携して革新思想を抑圧し、普選を時期尚早としてストライキを弾圧した。 ”平民宰相”と呼ばれ、終生爵位を受けなかったが、普選には反対で財閥と提携していた。 彼の内閣は”ブルジョワ内閣”とも呼ばれた。 ・盆地である山形の米沢から、海軍大将が三人、中将が十人出ていると聞くと不思議に思 う人もいるであろう。 これは上杉藩が藩祖謙信以来尚武の気風を尊んで来たこともあるが、上杉景勝時代の会 津百に十万石から米沢へ来て十五万石に減らされて極めて貧しかったうえに、明治維新 には東北六藩の一つとして賊軍の中に入れられたので、その後中央官界での出世はおぼ つかなかった。 そこで官費の軍の学校を志願する者が多かったのである。 ・中でもそのリーダーは「山下源太郎」大将である。 山下は教育者タイプの人格者で、米沢出身者のみならず、多くの海軍将校の人望を集め、 「山本五十六」も若いときはよく山下のところに出入りしている。 大加藤、小加藤を叱る(主力艦比率の攻防) ・十一月、世界史に一頁を画するワシントン軍縮会議は、コンチネンタル・メモリアル・ ホールで開会した。 ・「チャールズ・ヒューズ」国務長官が、議長に推薦せられ、就任のあいさつと会議の方 針を説明した。 列強代表は、本日はこれまで、本格的討議は明日からと考え、帰り支度をする者もいた。 ところがヒューズは突然、軍備制限の具体案を含む”爆弾演説”を行って各代表の度肝 を抜いたのである。 ・彼は、机上の紙片を取り上げ、きっとした表情で読み上げた。 各全権および聴衆は意外なことに驚きざわめいたが、ほどなくシーンとしてヒューズの 歯切れのよい発音に聞き入った。 ・彼は、今回の制限条項はとりあえず米英日を対象とすると前置きして、いきなり手の内 のカードを全部開いて見せるという爆弾動議を敢行した。 これはフランクなアメリカらしいやり方であった。 老獪な大英帝国であったなら、このようにいきなり胸を断ち割ってみせることはせずに、 原則の提案を行い、討議中に徐々に事故の術中に陥るように会議を運営したであろう。 ・各項の仔細を見ると、英米はそれぞれ都合のよいことを言っており、日本は明らかに不 利である。 ・加藤をはじめ日本の全権、随員は、ヒューズの爆弾宣言とその内容に驚いたが、いま一 つ、海軍国としては後進に属する米国がここまで列強の海軍の内情を調べ上げていたこ とにも一驚を喫していた。 ・また、日米親善経済使節団代表という名目で八十歳の老体をひっさげてワシントンへ先 行した「渋沢栄一」なども、加藤全権に対して、日本から先に海軍縮小案を出して機先 を制してはいかんとアドバイスしたくらいであった。 ・この会議を主唱したはずの英首相「ロイド・ジョージ」が参加しなくなったので、その 代理という形になった「バルフォア」は、当然列国の批判の的となる重荷を老躯に担な わざるを得なくなっていた。 ・老獪なロイド・ジョージは、軍縮という重大かつ複雑な問題が一介の会議で片づくもの とは到底考えてはいなかった。 まずロンドンで英米日が会し、予備会議を開いて原則を決め、これを基礎として五カ国 会議を開くべしというのが彼の方法論であった。 このためにはワシントン会議を延期してロンドン会議を先に開かねばならぬ。 しかし、アメリカはその案に不承知であった。 共和党政府としては民主党のウィルソンが国際連盟を提唱しながら議会の否認によって 参加できなかったデメリットを、ワシントン軍縮会議の成功によって一挙に挽回し点数 を稼ごうという肚があった。 もしロンドン会議で大綱が決まると、軍縮は英国の手柄で、ワシントンは付録になるお それがある。 ・そこでハーディングは、ロイド・ジョージの提案を蹴り、ワシントン一本に絞ることと し、肘鉄をくらったロイド・ジョージは首席全権として出発乗船の日取りまで決めてお きながら、ついに乗船せず、開会式にも姿を見せず、事情通の批判を買っていた。 従ってヒューズの弾宣言は、英側には何の相談もなく、この日バルフォアは、演説の 冒頭において、 「ヒューズ案の内容がこれほどまでに秘密に付され、英全権の私に何らのヒントも与え ず、時限爆弾のように突如発表されたことに本全権は大いに驚異を感じております」 と強調した。 ・この日のバルフォアの演説は極めて強い印象を聴衆に与えた。 抑揚たっぷりに演説し、かつて大英帝国の外相としてヨーロッパの国際場裡を馳駆した 老練な外交官らしい貫録を示した。 ・バルフォアの無条件受諾の明言に満場は総立ちとなって拍手を送った・ ここで筆者は考える。 バルフォアはヒューズ案の秘密保持に驚いているが、実際にはなんらかの形で意思の疎 通があったのではないか。 米より以下では困るが、米と同等ならば率先してこれに賛同し、六割の日本を協同して 説服しようと企みがなされていたのではなかろうか。 それでなければバルフォアの無条件受諾は、会議の順序にうるさい英としてはあまりに も安易尚早のように思えるのではないか。 ・果たしてバルフォアはこのあと美辞麗句を連ね、 「この提案は人類の理想を現実化しようとするものである」 とか、 「これは今まで多くの改革家や詩人、評論家、帝王までが、正に人類の担うべき的とし て幾度も人類の目前にほのめかした白昼夢を現実に眼前に提出したものである」 といって褒めたたえた。 ・英には米との平等案を呑まざるを得ない内部事情があった。 大英帝国はヨーロッパにおける五年の動乱で経済的に疲弊してしまった。 ・続いて日本全権加藤友三郎が壇上に立った。 加藤は、「私は弁舌が不得意でありますから、簡単に要点を述べます」 と前置きして、まず一言次のように述べた。 「日本は主義において喜んで米国の提案を賛成します」 ・続けて加藤は、 「日本は米国の軍備制限案に現われたる目的の誠実なることを深く諒とします。 日本はこの計画を企図するに至った米国の高遠なる目的に感動を禁じ得ないものであり ます。故に日本はこの提案を、主義において受諾し、自国の海軍に徹底的削減の大鉈を 振るう決心をもって、ちゅうちょなくきょうぎにおうずるものであります。 ただし、国家がその安全を保障するのに必要な軍備を維持することは、一般に容認され ているところである。この米の要求は提案の調査上、十分に考量せねばならぬ。この要 求に鑑みて日本は各種階級の艦艇の代艦トン数の基礎に関し、負って修正案を提出する とするものである」 ・しなわち、加藤は主義において米提案に賛成したが、十年後における代艦トン数の比率 五ー五ー三に対して、修正意見を保有していることを告げたのである。満場はざわめい た。 ・これ以降、専門委員会は毎日あるいは隔日に開かれる。 そして早くも翌日の同委員会で加藤(寛)が七割説を強硬に主張して米国の反対にあい、 脱退宣言問題を生ずるのであるが、日本の七割説は早くも外部に漏洩し、米紙にその旨 が報じられていた。 ・寛治が特に強調固執したのは対米七割説である。ルーズベルトと応酬があった後、彼は 第一日から脱退宣言を発してしまった。 ・もともと対米七割説は軍令部の希望であり、とくにもと海大校長たる戦術家寛治の強く 主張するところであった。 そして、七割主張に関する加藤友三郎の態度は初めはあいまいであって、自分は公式に は言わず寛治をして主張せしめた観があった。 ・望月はこれについて、加藤中将をして唱えせしめたのは日本側の駆け引きであって、後 には六割に屈したのは、日本の威信を失墜したものである、と野党代議士らしく全権団 を批判している。 ・しかし、その裏には加藤の難しい内部統制があった。友三郎の肚はヒューズ案が出た初 めから最終妥結は六割とほぼ決まっていた。 しかし、それではあまりにも米英の術中にはまるので軍令部側にも言うべきことを言わ せ、討議を尽くした後、米英の出方を見て、落ち着くところに落ち着かせようという政 治的なやり方を考えていた。 ・ところが専門委員会で、寛治が早々に爆弾を投じてしまったのである。 彼はこの日、 「戦艦陸奥はすでに竣工しているのであるから、絶対に廃棄することはできない。また、 対米七割は日本防衛の絶対に譲れぬ最低線である。これが獲得できぬ限り、日本は会議 を脱退して帰国する」 と強硬発言して、後の大統領「フランクリン・ルーズベルト」を驚かせた。 それは発言というよりは公式声明のように受け取られた。 ・俄然日本脱退説は記者連の問題となり、大使館にいた加藤友三郎の下に内外の記者が押 しかけて来たので、 「いや、それは加藤君の個人的見解と見てもらいたい。全権団としては、脱退帰国など は全然考えていない」 と加藤は相変わらずのポーカーフェースでその場を繕ったが、腹中では猛然と怒ってい た。 その夜ホテルの自室に寛治を呼んだ加藤は、日頃のポーカーフェースをかなぐり捨てて 蒼白い顔に朱を注いで怒鳴りつけた。 「君はこの全権団の任務をなんと心得ているのか。こんなことで日本が会議を脱退した ら日本は会議分裂の国際的責任を負わされることは必定である。平和を乱す軍国主義者 という汚名をこうむるかもしれないのだ。大体君は専門委員で、全権は私である。私を 差し置いて脱退帰国などという勝手な声明を発することなどということは絶対に許さん。 海軍中将にもなってそれくらいのことがわからんのか。今後こういうことがあったら、 君だけ帰国を命じる。船団の行為に対しては処罰の道を考えるからそう思え!」 ・剛腹な感じは黙って聞いていたが、すぐには謝らなかった。 後にロンドン軍縮会議のとき統帥権干犯を問耐えて浜口首相を非難し、五・一五事件か ら二・二六事件に至る軍部ファッショのきっかけを作ったと言われるようになるこの提 督は”軍人としての信念”に凝り固まっていた。 彼の意図は、もとより全権の権限を侵して専断行為をすることではない、 専門委員として全権の言えないことを代弁したのであって、このくらい強く言えば米英 も考えてくれるだろうというかれなりの”政治的”駆け引きがあった。 ところが、元々強気の性格ゆえ、口が滑ってしまったのである。 ・翌日のこと、寛治はやがて、 「申しわけありませんでした。今後は独断行為は慎みます」 と謝罪したが、加藤友三郎の怒りはなかなか収まらなかった。 しかし、寛治が悄然として退室する頃には余裕を取り戻して、腹の中で苦笑していた。 ・期せずして日本の七割説は寛治が強硬に主張し、全権がそれを和らげるという硬軟を使 い分ける戦法となったのである。 軍令部側も言いたいことを言ったので、少しは腹もおさまったということになろうか。 ・十一月、専門委員会の論議に打開策なしとみた加藤(寛)は、日本専門委員の最終意見 として、 「日本海軍は、わが国防安全上最小限度対米七割を絶対に必要とする」 という声明を新聞記者たちに発表した。 ・これが非常に強い口調であったので、例によって内外記者たちは全権の直接意見を聞こ うとして、まず徳川家達を捉えた。 いわゆるお飾りとして来ていた徳川は、 「いやあれは加藤中将の個人的な意見に過ぎない。全権団の意見はまだ結論が出ていな いんだ」 と言って逃げてしまった。 ・そのとき、幣原喜重郎は病床についていたので、記者たちは大使館にいた加藤友三郎の 下に押しかけた。 「あなたは加藤中将の要求は個人的なものと考えられるか」 という米人記者の質問に対して、加藤は、 「その答弁はしばらく待ってもらいたい。今私が何か言うと、今度はそれが私の決定的 な意見と見られる恐れがある。私はまだ自分の結論を発表する時機に至っていない」 といってかわした。 ・寛治は専門委員会が行き詰ったとみて、全権による本会議に付託したいという意見を唱 えた。 友三郎は、次の段階としてヒューズ及びバルフォアに、全全権による本会議によって七 割問題を討議したい旨を申し込み、米英全権はOKした。 ・十二月から本会議でいよいよ全権同士による七割説の検討が始まった。 例によってヒューズは頑として五・五・三の初説を変えず、バルフォアも無条件でこれ に追随し、加藤友三郎が漢字や末次の調査したデータをもって反駁しても、ヒューズは アメリカの立場を固執するのみで、会議はデッドロックに乗り上げ始めた。 ・日本では蔵相の「高橋是清」が総理に就任し、加藤を含めた各大臣は留任と決まってい たが、内田外相と高橋は会議の前途を憂えていた。 特に均衡財政を持論とする蔵相兼務高橋は六割で妥結もやむなしという意見に傾いてい た。 対米六割ついに呑む(評価すべきネイバル・ホリデイ誘致) ・ワシントンは北緯三十九度、日本の仙台と盛岡の中間位で、夏は暑いが、冬の訪れは東 京よりは早いようだ。 ・加藤は山梨、野村、堀のほか、寛治と末次、それにやはり随行員の上田大佐を自失に呼 んだ。 「今日の全権会議の結果、対米六割を呑む以外に会議を妥結せしむる方途はないという 結論に達した。よって明日、徳川公爵、幣原大使と相談の結果、本国に訓令を要請する つもりである」 加藤がこう決意を述べると、当然のように寛治が反撃してきた。 ・「大臣、それは早計です。私が専門委員会を打ち切って全権会議への意向を申し入れた のは、大臣にあくまでも七割で突っ張ってもらいたいからです。それを第一日であきら めるというのは、あまりにも早すぎるではありませんか」 ・寛治はこの夜も大いに頑張ったが、結局加藤の六割説をくつがえすには至らず、自室に ひきこもってしまった。 ・翌日、予定通り加藤はホテル内の徳川を訪問し、また大使公邸で病臥している幣原を訪 れて六割妥結で訓令を仰ぐことについて了解を求めた。 ・加藤の苦心を知る徳川は、 「了解しました。帰国後貴族院の方は私が何とか説得してみましょう」 と約束した。 また病床にあった幣原は衰えた体を起こして大使室に運び、加藤の掌をしっかりと握る と、 「加藤さん、まことにご苦労さんでした。これで当分は世界の平和も保たれましょう」 と、その労をねぎらい、 「私は駐米大使でありながら、肝心のときに病気であまりお手伝いできなかったことを 残念に思います。どうぞお許しください」 と詫びた。 ・後に外相のとき、”軟弱外交”として軍部から不評を買いながらも、国際協調を試みた ことで知られる幣原は外務省きっての知米派であり、この頃から平和共存の持論を抱い ていたので、加藤がやっと軍縮を妥結の線に持ち込んでくれたことに感謝と敬服を惜し まなかった。 ・この日、加藤は大使館から内田外相あてに長文の請訓電報を打った。 これを受けて取った内田方が高橋総理に計り、閣議で六割受諾が決定するのは十日のこ とであって、加藤はまだ一週間腹痛をこらえながらワシントンで回訓を待たねばならな かった。 ・加藤がいよいよ六割やむなしと見て本国政府に請訓発電したということを漏れ聞いた 「望月小太郎」は、三人の全権に宛ててあくまでも七割を強調すべきであるという旨の 意見書を送付した。 ・こまめに動き回る望月は、植原代議士と共にハーディングを訪問してその意見を聞いた。 ハーディングは、 「私は日本の全権が六割を呑んでくれることを期待している。なぜ日本があのように 強く七割を要求するのかわからない。またある人の説によると、日本の全権は、米国の 提案を承認するとハラキリをしなければならないので、あのように執拗に固執している というのが本当か」 と訊いた。望月がここぞとばかり、 「日本の軍人は、自分の信念を枉げて約束の裏切りを犯したときはハラキリをすること になっています」 というと、ハーディングは驚いて望月の顔をまじまじとみつけた。 ・高橋是清総理や「内田康哉」外相の肚は決まっていた。 閣議で加藤が提案してきた対米六割で妥結という案を太平洋防備の現状維持を条件とし て承認し、回電を送った。 ・陸相「山梨半造」は、陸軍の軍備制限にまでをおそれて抵抗の姿勢を示したが、 いずれは陸軍も縮小したいと考えていた高橋はこれを押し切った。 ・加藤は大使館の全権室に寛治ほか山梨、末次、上田、野村、堀らの随員を集めて、いよ いよ本国よりの返電により妥結する旨を告げた。 ・「いよいよ六割に減らすんですか。それで一朝事あるとき、わが祖国を守るという大任 が果たせると思うのですか」 案の定、寛治は鋭い視線を加藤に向けながらそう言った。 ・「加藤君、閣議の決定だよ。軍令部と言えども予算と外交に関しては政府の決定に従わ ねばならないのだ」 加藤は蒼白い顔をやや紅潮させながら、そう応じた。 寛治はぐっと友三郎の眼を睨み返した。 ・これというのも、兵力量の決定権が海軍大臣にあって、軍令部は用兵の権利しか持って いないからだ。 いつの日にか、兵力量決定権を海軍大臣から軍令部長の手に奪い取って、大艦隊を造っ てアメリカに一泡ふかせて見せなければなるまい…。 寛治は堅く心にそう誓った。 ・寛治が、統帥権干犯をたてにとって「財部彪」海相、「浜口雄幸」総理を非難し、浜口 の狙撃事件のもとを作るのは、昭和五年ロンドン会議の後であり、彼の悲願である軍令 部総長(名称変更)が兵力量決定権を握るのは、昭和八年九月のことである。 ・二人はこの時、互いに病気で苦しんでいたが、ついに和解することなく、加藤の統制力 により押し切り、寛治の位負けということになった。 ・これを当然のことと言うべきではなかろう。 昭和七年の五・一五事件は、これよりわずか十一年後のことである。 「三上卓」中尉ら海軍の右翼急進派将校は、昭和維新の名のもとに犬養総理を暗殺して いる。 彼らの愛国の熱情はともかく、国家革新の名目による滔々たる下剋上の思想は陸軍はも ちろん海軍の中にも流れ込んできていた。 加藤寛治が唱えた統帥権干犯をきっかけにして、国家思想のためには上官といえどもこ れを斬るのが愛国の至情であるというファシズムが逆に統帥権を下から犯し始めていた のである。 ・もし、ワシントン会議の終末において友三郎が強力な統制力を発揮し得ず、寛治、信正 や、その翼下の”青年将校”に押し切られていたらどうであったか。 このときすでに、軍令部の青年将校は、海軍大臣恐るるに足らずとして、兵力量決定権 を軍令部が奪取する運動を展開していたであろう。 また、ワシントン会議は決裂し、ネイバル・ホリデイはお流れとなり、列強は渋々では あったも、激しい建艦競争に乗り出していたであろう。 ・ワシントン会議では外野の動きも騒がしく、渋沢栄一の財界を代表する軍縮論にはすで にふれたが、女性もかしましく口を挟んだ。 全国に四万の会員を擁する矯風会会長「矢島揖子」は七十歳の老体をひっさげて渡米し た。その目的はワシントン会議を前にして平和保障の勧告状をハーディング大統領に呈 上するためであったが、ワシントンに着いた矢島女史は、 「日本が身勝手な欲張りで会議を不調に終わらせるようなことがあれば、日本は未来永 劫まで平和攪乱者の汚名を着なければなりますまい」 という声明を出して女の執念を示した。 ひいかちの友公(広島から築地兵学寮へ) ・加藤友三郎の生まれたのは、広島の太田川の支流元安川のほとりであった。 ・友三郎の父、加藤七郎兵衛は「安芸藩」主浅野家の家臣で、学問所の助教授として長く 子弟の教育に当たっていた。 ・友三郎は分球元年(1861)二月、加藤七郎兵衛の三男として生まれた。 ・母の竹は芸州藩士山田愛蔵の二女、夫の七郎兵衛より六歳年下で、三男三女を生んだ。 長女は静子といい、辻淳之丞に嫁したが二十九歳のとき夫に死別し、大正十二年三月、 友三郎の死の半年前八十四歳で没した。友三郎と最も縁の深い姉である。 二女清は幼くして死に、三番目が長男の種之助で、四番目が啓次郎、五番目のさほは、 岡島真作に嫁した。六番目が三男の友三郎である。 ・母の竹は女ながら武術の心得も相当で、胆力もあり、男まさりの女性であった。 ・広島にいた頃の友三郎については、多くの旧友から「持って生まれたきかん気で、近所 の悪童どもから”ひいかち(癇癪持ち)の友公”と恐れられた」という。 ・明治六年夏、友三郎は築地にあった海軍兵学寮の試験を受け入学した。 当時、旧士族として官費の軍人の学校に入るのは、進学の一つのパターンであった。 ・薩摩土肥は、いもづるやほかの縁故で出世の道があり、あるいは政府の要路に入り、実 業家、官員を志したが、旧幕軍には出世の門は堅く閉ざされていた。 従って、一時は賊軍とみなされた東北六県の旧士族は、軍人あるいは警官を志願する者 が多かったのである。 ・長州征伐のとき長州を攻めた芸州藩に対する薩長の扱いも決して甘いものではなかった。 従って士族で軍人を志した者は意外に多い。 巨星墜つ(軍縮から軍拡へ) ・ワシントン会議では、他にも二十年間続いた日英同盟の廃棄、四国条約の締結、山東問 題の解決など多くの重要案件が審議され、それが加藤の腹痛をされに悪化させた。 ・第三回本会議でヒューズ全権は、陸軍の軍備制限を提案したが、フランスのブリアンが 反対の大演説を行ったので、この案はお流れになり、ヒューズは苦杯をなめた。 ・アメリカはこの失敗を取り返すために、第四回の本会議を突如召集し、四国条約を提案 した。 まず、ヒューズは、米国が極東委員会に提案した太平洋平和保障の四原則を読み上げ、 参加九カ国の全権の賛成を得た。 続いて、この四原則に基づいて、日英米仏の四国が四国条約を締結する案が出された。 ・これを提案したアメリカの意図は第四項の日英同盟廃棄にあったことは言うまでもない。 加藤はこのような動きのあることをあらかじめ知っていた。 幣原大使も、太平洋協約という安全保障条約を提案すべく三ヵ月前から想いを練ってい た。 ・第一次大戦の結果、戦勝国の中で疲弊しきった英仏に較べて、日米はかえって地位を高 め、特に日本は漁夫の利で、東洋において重みを増してきた。 ・アメリカとしては、海軍の制限を行うとともに、日英の提携を裂いて、日本を孤立せし める必要があり、イギリスも、日米が事を構えたとき、巻き込まれることは避けたかっ た。 ・日本側は日英同盟の継続が不可能な場合には、日英米三国の平和保障条約を結んでこれ に代えようと考えていたが、結局仏印、ニューカレドニア島の領土を持つフランスも入 れて、四国同盟条約ということになった。 ・加藤、徳川らの全権も内田外相と相談の結果、日英同盟の廃棄やむなしという考えであ ったので、四国条約は早々に締結を見、わずか三日後、米国務省において調印の運びと なった。 ・日英同盟廃棄は、やむを得ぬ成り行きであったが、アメリカの一学者は、 「アメリカは、日英同盟をアジア大陸から引き出し、太平洋の珊瑚礁に捨て小舟として 陸あげした」 と評した。 ・こうして、日英同盟は大正十二年八月をもって廃棄されることになり、日本は国際舞台 を一人歩きしなければならなくなってゆくのである。 ・ワシントン会議では、中国の主権独立を尊重し、調度的、行政的保全を認める主旨の九 カ国条約も調印された。 参加国は、日、兵、米、仏、伊、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国である。 この条約には、かねてアメリカが唱えていた中国における門戸開放、機会均等の原則も 組み込まれている。 ・この条約における中国の領土的保全等の条項は、昭和六年九月の満州事変以降、常に日 本の中国侵略に対してブレーキをかける首かせとなり、国際連盟でも問題となり、日本 の孤立化を進めてゆく。 ・またこの会議では、シベリア出兵と山東問題についても討議された。 シベリア出兵については、加藤は、 1、日本は領土的野心は持っていない、 2、適当な協定ができ次第撤兵する、 ことを約束した。 ・加藤は約束通り、この年(大正十一年)六月総理になると、間もなくシベリアからの撤 兵を声明し実行に移している。 ・山東問題はかなり難航した。 山東問題は、ベルサイユ会議でも日中間で激論が戦わされ、決着がついていなかった。 山東問題の要点は、青島を含む膠州湾と、膠済鉄道及び周辺の鉱山の利権である。 ・もともと膠州湾は、大した都市も港もなかった湾であるが、明治三十年(1897) ドイツ人宣教師が中国人に殺害されたことを理由に、ドイツが中国政府から九十九年 間租借する契約を結んでから開発が進んだもので、鉄道や鉱山についても同様である。 ・第一次大戦初頭、日本はドイツに宣戦し、大正三年(1914)十一月に青島を占領し、 ドイツ軍を降伏せしめた。 ・この後、日本軍は旧独逸租借地であったこの一帯に軍政を布いて、その権益を主張して いた。 ・ベルサイユ会議で、日本は同じ要求を繰り返し、中国代表「顧維鈞」は、山東省にける 旧ドイツ権益は日本に譲渡されることなく、直接中国に返還されるべきだと強く主張し た。 ・これには「対華二十一カ条要求」との複雑なからみ合いがあった。 この要求は、欧米が対独戦に巻き込まれている間に、火事場泥棒的に日本人が中国に圧 力をかけたものとして評判が悪いが、日本は最後通牒をつきつけて中国の承諾を奪いと った。 ・この結果結ばれた日中条約では、 1、膠州湾及び青島は、居留地設定などの条件付で、適当な時期に中国に返還する。 2、山東省の利権は、ドイツから日本が継承する。 となっていた。 ・ワシントン会議で中国代表顧維鈞は、ここぞとばかり山東問題を持ち出して、日本に全 面的返還を要求した。 ・この問題に関しては加藤と共に幣原が当たった。 日本はベルサイユ会議における約束通り、膠州湾を返還することに同意したが、膠済鉄 道等の権益に関しては譲らなかった。 ・日本は対華二十一カ条要求に基づく日中条約で、山東省の利権は日本が継承する、とな っているので、この問題は解決済みである、と主張したが、顧維鈞は「あれは最後通牒 という非合法手段によって押しつけられたものだから無効である」と主張し、アメリカ が中国に味方したので、論議は紛糾した。 ・加藤はかねてこのことあると予測し、四国条約の骨子となった太平洋に関する四原則が 「ヘンリー・ロッジ」米全権から提案されたとき、「この四原則を承認するとき、中国 問題に関しては、過去にさかのぼって拘束されるか」と質問し、ロッジは「既往にさか のぼると際限がないので、規定の条約に修正を要求するものではない」と返答し、日本 側は一応安堵した。 ・ロッジはベルサイユ会議当時の米全権でもあり、山東問題では日本を”火事場泥棒”呼ば わりして中国の肩をもった。 そこで顧維鈞はロッジにたのむところが大きかった。 ・しかし、ロッジにも弱みがあった。 ベルサイユ会議のとき、アメリカ全権ウィルソンは国際連盟の成立をライフワークのよ うにして力を入れていたが、日本が山東問題において要求が通らぬときは、調印を見合 わせるという態度を示したので、「山東問題に関してアメリカは譲歩するから、国際連 盟に賛成してほしい」と申し入れ、日本の同意を得た。 ところがアメリカの議会はベルサイユ条約を否決し、国際連盟参加を批准に持ち込むこ とはできなかったのである。 ・この大きな理由は、アメリカ国内のアイソレーショニスト(孤立主義者)の動きがある といわれる。 アメリカにはモンロー主義というものがあり、特に共和党は、合衆国が南北アメリカ以 外に深い交渉を持つことを抑える主義をとっていた。 ・ロッジは、その共和党内におけるアイソレーショニストの代表であった。 彼がベルサイユ会議を否定したわけではないが、共和党の動きでこの条約が否決された ことは、ロッジにとって歯切れの悪いものと残した。 ・青島を含む膠州湾の返還に関しては、早々に合意に至った。 但し、日本の居留権を留保し、対独戦後日本が建設したものは日本人会に所属するとし た。 ・膠州湾返還は、日本が英仏の謀略に乗せられたという説がある。 ・ベルサイユ会議以来、英仏代表は、ひそかに自分たちの国も中国から租借地を返すから、 日本も膠州湾を返した方がよい、と説得して来ていたという。 ・馬鹿正直な日本は義侠的感情に駆られて真っ先に膠州湾を返還した。 しかし、イギリスの香港、ポルトガルのマカオはその後も租借が続き、フランスはワシ ントン会議で膠州湾の返還を声明したが、実際に返したのは第二次大戦後の1946年 である。 ・ワシントン会議の成功に全精力を賭けた加藤友三郎が横浜に帰ったのは大正十一年三月 のことであった。 (寛治は病気のため一足先に帰国して入院した。このため、一時は彼が自決したという 噂が日本では流れた) ・寛治は病床でワシントン条約の調印を聞き、 「この条約は遺憾ながら失敗である。それにつけても、国防に関して国民一般の十分な 理解が不足し、従って世論の盛り上がりが足りなかったことは残念である」 と洩らした。 ・東京駅では、歓迎の声を聞きながら加藤友三郎は誰かを探すように首をめぐらせた。 懐かしい原敬の白髪はそこにはなく、だるまのような高橋是清が近づいて、加藤の手を 握った。 ・忙しい合間を縫って、加藤は水交社で開かれた海軍首脳による歓迎慰労会に出席した。 東郷、山本、井上らのほか、島村、山下、財部らが加藤を迎えて乾盃した。 ・加藤は真っ先に東郷にあいさつした。 「閣下、ご心配をおかけしました。おかげで何とかやってまいりました」 周辺の提督、特に随員であった末次信正は、興味深くこの様子を眺めた。 軍備拡張のマスコットで、対米強硬論者といわれる東郷が、対米六割では不満らしい という噂が、流れていたからである。 ・案に相違して、東郷はにこやかに笑みを浮かべ、 「いや、加藤どん、ご苦労でごわした。おはん、ようやってくれよりもした」 と日本海海戦を共に戦った参謀長を厚くねぎらった。 末次たち増強派はがっかりした。 ・加藤は、軍縮制限案妥結に踏み切った直後に、随員の山梨大佐を帰国させて、東郷に詳 しい事情を報告させ、了解をとっておいたのである。 ・八年後のロンドン条約のとき、財部海相が加藤(寛)軍令部長らの艦隊派を抑えるため、 事前に東郷や伏見宮に手を打っておいたら、統帥権干犯問題で、浜口総理が狙撃される ような問題は起こらなったのではないか。 ・ワシントン会議において締結された諸条約は大正十一年五月から八月にかけて批准され、 加藤が生命を賭けた五カ国海軍軍縮条約及び四国条約はよく大正十二年八月に公布され た。 ・ワシントン軍縮条約の期限は、1936年(昭和十一年)末であった。 昭和十二年から無条約時代となり、無宣言建艦競争に入り、四年後に太平洋戦争に突入 したことは、歴史の証明するところである。 ・加藤友三郎が高橋是清の後を継いで組閣することになったのは、高橋内閣は原敬の急死 によって成立したもので、始めから内部が揺れていた。 高橋内閣は、閣内不一致を理由に総辞職した。 ・加藤は政友会の協力をとりつけたが、閣僚のほとんどは貴族院系であり、政友会が閣外 にあって、議会における協力をすることになっていた。 ・加藤内閣の残した大きな仕事は、シベリア撤兵と山梨陸相による陸軍の軍縮であった。 加藤はまずワシントン会議での約束に従ってシベリアから撤兵を実行することにした。 寺内内閣の失政である「シベリア出兵」は、負担ばかりが大きく、その目的もあいまい で、日本の領土的野心を疑われ、「尼港残虐事件」を誘発していた。 ・原内閣当時、日本は大正十年(1921)八月、ボルシェビキの意向で造られた極東共 和国との間に、大連で徹兵条件を協議する会議を開いた。 しかし、日本がシベリアの利権や沿海州の軍備制限を要求したため、会議は決裂した。 ・内閣首班となった加藤は、真っ先にシベリア撤兵を取り上げた。 出兵後すでに四年、七万の兵を動かし、七億円の軍事費を空費していた。 ・次に陸軍の軍縮である。と 陸軍の軍縮は、ワシントンではフランスの反対で協定成立には至らなかったが、世界の 情勢からみて、また日本経済の建直しのためにも、海軍と並行して必要である、と加藤 は考えていた。 ・これに対し、陸軍も軍縮やむなしと考え、加藤がワシントンに赴く頃、陸軍の平時兵力 五万減員案が成立していた。 ・この軍縮は陸相の名をとって”山梨軍縮”呼ばれるが、山梨は、部内の反対、停職軍人へ の手当てなどを顧慮して、内容のある軍縮には踏み切れなかったといわれる。 ・山梨は後に朝鮮総督(昭和二年)となるが、朝鮮総督府疑獄事件に連座し、無罪とはな ったが、その後公職にはつかなかった。 ・陸軍軍縮は大正十二年度から十四年度にわたって実施されたが、結局その実質は、人員 五万六千、経費三千万円の節約にとどまった。 ・このため、大正十四年には、「宇垣一成」陸相による第二次軍縮が行われ、宇垣は長く 陸軍部内の恨みをかうことになるのである。 ・加藤友三郎が十年長生きしたら、五・一五事件も起こらず、満州事変や二・二六事件も、 別のかたちになったであろうと指摘する人は、少なくない。 |