王道楽土の戦争(戦後60年篇) :吉田司

この本は、いまから20年前の2005年に刊行されたもので(戦前・戦中篇)と(戦後
60年篇)の二部構成になっており(戦前・戦中篇)に引き続き読んでみた。
しかしながら、やはり(戦前・戦中篇)同様この(戦後60年篇)においても、この著者
の思考パターンと私の思考パターンとは、まったくかみ合わない。この本で何を主張した
いのか。私にはさっぱり理解できないのだ。
ただひとつわかったのは、石破茂首相の父親(石破二朗)があの田中角栄と盟友関係にあ
ったということだ。石破茂首相が政界に足を踏み入れたきっかけは田中角栄に尻を叩かれ
てのことだったようだ。田中角栄なくして現在の石破茂首相はなかったといえる。
もうひとつ、湾岸戦争で日本は130億ドルもの巨額の負担をしたのだが、「金だけ出し
て汗(血)は流さない卑怯な国」と世界中から批判された。そのため、イラク戦争のとき
には強引に臨時立法まで成立させて自衛隊をイラクに派遣したが、アメリカの評価は湾岸
戦争での130億ドル支援のほうがずっと高ったという。
当時の「金だけ出して汗(血)は流さない卑怯な国」という評価は、いったいどこから出
た評価だったのか。当時の国際評価について、再度確認する必要があるのではないのか。

いずれにしても、これほど読みにくい本は、久しぶりだ。参りました。降参です。

過去に読んだ関連する本:
一九九一年日本の敗北
オウム真理教事件とは何だったのか?
60年安保闘争の真実 あの闘争は何だったのか


ピカドン・プレゼント
・「ジョン・ダワー」はその著書「敗北を抱きしめて」のなかで、無条件降伏後の日本人
 の精神について、次のように書いている。
 マッカーサーは日本が「四等国」になりさがったと述べた。
 現実を露骨に述べたこの言葉は、天皇以下の日本の指導者たちの内臓を、まちがいなく
 ずたずたに切り裂いた。
 同時に、完全な敗北という認識があったから、目前で古い世界が破壊され、新しい世界
 を想像するほかなくなった人間にたけありうるような、すばらしい回復力と創造性と理
 想主義が発揮されることにもなかった。
 こうした状況では、天皇の聖戦を遂行する過程で自分たちはいったいどれくらい他人の
 人生を破壊したのかをじっくり考えてみようという気力や想像力や意欲をもてた日本人
 がほとんどいなかったのも、まずは驚くにあたらなかった。
・ピカドン原爆は、日米の戦死者のこれ以上の増大を防いだ「善」であり「悪」ではない
 というのが、あの国の常識である。
 「ヴァニーヴァー・ブッシュ」は「原爆は、人類への災禍ではなく恵みである」という
 言葉を残したくらいだ。
・原爆ドームは、日本軍国主義とともに中国大陸に進出した軍国産業であり、藩平和のシ
 ンボルである前に、侵略戦争のシンボルなのだ。
 もっと端的に言えば、戦中の広島は、第二総軍司令部や暮れの軍港、江田島を擁する西
 日本最大の「軍都」であり、アジアへの出撃拠点だった。
 決して手放しで祈られるべき「平和の聖地」ではない。
・原爆投下から約20年、文学者「大江健三郎」の「ヒロシマ・ノート」で、次のような
 感動的な「新しきヒューマニズムの誕生」や「被曝大変の聖化」=ヒロシマ・ナショナ
 リズム宣言を育てあるのである。
 老婦人の娘の友人である若い母親が、奇形児を産み落とした。
 母親は被爆者でありケロイドもあり、そこで(決心したから)自分の生んだ奇形の赤ん
 坊をひと目なりと見たいとねがった。
 医者がそれを拒んだので、彼女は夫にそれを見てきてきれといった。
 夫はでかけていったが、赤ん坊はすでに処理されたあとだった。
 若い母親は、赤ん坊を見れば、勇気が湧いたのに!と嘆いたという。
 僕はこの不幸な若い母親の、無力感に満ちた悲嘆の言葉のうちの、幽鬼という単語に打
 ちのめされる思いだった。
 死産した奇形児を母親に見せまいとした病院の処置は、たしかにヒューマ二ティックで
 あろう。
 しかし人間が人間でありうる極限状況を生き抜こうとしている若い母親が、独自の勇気
 をかちとるために、死んだ奇形の子供を見たいと希望するとしたら、それは通俗ヒュー
 マニズムを超えた、新しいヒューマニズム、いわば広島の悲惨のうちに芽生えた、強靭
 なヒューマニズムの言葉としてとらえられねばならない。
・われわれは何を失ったか?
 バブル崩壊後の「日本 第二の敗戦」論の中で、あの自決した保守論壇の重鎮「江藤淳」 
 が語った言葉を思い出そう。
 日本が経済国家として、ときにはトランジスター商人と呼ばれ、ときにはエコノミック
 ・アニマルと呼ばれたのも・・・そして会社人間と言われるまで経済活動に尽瘁したの
 は、それ以外に日本人が自己表現する道を奪われていたからにほかならない。
 日本が戦うことを許された唯一の戦場が経済という場であった。
・ノンフィクション作家「保阪正康」は著書「あの戦争は何だったのか」の中で、こう語
 っている。 
 敗戦後のどん底生活から、高度成長を成し遂げた。
 その”集中力”たるや、私には太平洋戦争に突入した時の勢いと似ているように思えてし
 まう。
 つまり逆に言うと、高度成長期までの日本にとって、”戦争”は続いていたのかもしれな
 い。
 ひとたび目標を決めると猪突猛進していくその姿こそ、私たち日本人の正直な姿なのだ。

鉄道立国(満州からのプレゼント)
・「なかにし礼」は、実は「満州引き揚げ者」なのである。
 なかしには1938年9月、ソ連国境に近い中国東北部の牡丹江で生まれた。
 家は裕福な造り酒屋である。当時よくあった「軍国景気」で財をなした家柄である。
 太平洋戦争が始まった頃に絶頂期を迎え、ガラス業、ホテルや料亭などを買収。
 使用人は2千人を超えた。
・なかにし家のルーツをさかのぼれば、父方も母方も石川県の貧しい農家である。
 それが大正期、大戦景気に沸く南部・小樽で一山宛てようと北海道に流れ寄り、さらに
 昭和初期のデグレ不況で「満州建国」ブームにあやかって一旗揚げようと「大陸雄飛」
 して大成功したわけだ。
 だから1945年8月のソ連参戦=関東軍逃亡がはじまるや、帝国主義の夢も民衆の夢
 も同時にあっという間に幻と砕け散った。
・「闇に紛れて軍用列車に乗ってゆくと、沿線に死骸がいっぱい腐乱していて、それが不
 気味にボーっと光るんです。機関銃を抱えたソ連兵がドカドカやって来て『女を出せ』
 『金を出せ』と迫るし。そしてピストルを放つんです。その弾が、僕とお袋の間を突き
 抜けて飛んだ・・・」
・「僕は満州に対してノスタルジックなものは持ってはいなかったけれど、八歳まで満州
 にいたという事実、これはぬぐいがたくて、僕は満州の風土的な影響はたっぷり受けて
 いるわけですよ。
 日本に帰って来て、日本の山、川の景色とか、日本人のチマチマしたものとか、湿気の
 多さ、人間心理を含めた湿潤性というものに対しては、もうほんとうになじめなかった
 ですね」
・「関東軍に見捨てられ、国家に見捨てられ、敗戦があって、やせ衰えて、日本に帰って
 来るわけじゃないですか。それが、暗い玄界灘で「リンゴの唄」を聴いたときには、
 まだ戦争は岩っていないじゃないか!と
 自分たちはおやじをなくした。みんな身内を失っていますよ、その葬式もろくにあげら
 れない。その辺に見捨ててきて、川の流れに消えていった人もいれば、自分の乳房で子
 どもを押し殺した人もいればというのに、まだ生々しい思い入れとして手元にある。
 それなのに、そういう歌を聴かされたのでみんな大変な衝撃を受けた。僕はいまだに
 「リンゴの唄を平常心では聴けない」
・「満鉄の人たちの中には左翼系が実に多いわけです。この左翼系の人たちというのは、
 時代でいうとソヴィエト革命のあとだから、世界のデモクラシーの流れなどにたいへん
 敏感で、そういうところで新しい理想の社会、理想の世界のようなものを夢見る若者た
 ちであったわけです。
 それがうまい具合に国家に吸い上げられて、それで満鉄というものが五族協和と王道楽
 土ということで、うまい具合に満州へ飛ばされたのか運ばれたのか。
 満鉄というのはそういう人たちでいっぱいなわけです。
 彼らは五族協和、王道楽土を理想社会として、世界市民というような感覚でやろうとし
 た」
・「満鉄」という鉄道による帝国主義的支配様式が昭和7(1932)年の「満州国建国」
 以前までは世界最先端ファッションとして十分通用する”資本主義的合理性”を有してい
 たことも確かな事実である。
 もし南満州鉄道が日米共同経営の道を選択していたなら、満州国の運命もまだもっと長
 く続いたかもしれない。
・大東亜共栄圏ではなく「満州一国主義」の立場に立てば、満鉄「付属地」というレール
 沿線「都市開発」方式による植民地主義的あるいは帝国主義的支配はかなり成功したの
 である。
 わずか二十年ほどで、中国東北部の無住の寒冷地や貧困農村地帯を一大重工業地帯に変
 貌させてしまったのだから、そのムチャクチャでもなんでも、すさまじき暴力的・圧倒
 的「国家改造能力」たるや恐るべし!と言わねばなるまい。
・そして実はこの満州的改造能力が、戦後日本に移植され高度成長の原動力となってゆく
 のだ。 
 たとえば、戦後のいく度もの国土総合開発や1970年代列島改造によって戦後日本の
 緑なす山川、海岸線はダイナマイトでどかんどかん爆破され、青い空は煤煙でけむり、
 清い水は工業排水で汚された。
 あの70年代港外ニッポンの暴力的・破壊的な姿は、古来、海山川には神や精霊が宿る
 と考えてきた農耕民族(アマテラス系)思考のよくなし得ない行為である。
・しかし、アマテラスの農民兵士の軍隊は、他国の中国・朝鮮の神々宿る海山川ならどか
 んどかんダイナマイトや爆弾で破壊し住民を追い出し重工業地帯を作ることになんの痛
 痒も覚えないですんだ。 
 中国大陸のハチャメチャな自然破壊!そう、高度成長期の日本経済のあの暴力的な「ス
 クラップア・アンド・ビルド」精神は、そういう「満州から送られてきたプレゼント」
 だったのである。
・プレゼントの送り主は誰かって?決まっている、満鉄初代総裁の「後藤新平」である。
 彼は「無人の大地に大連、奉天(瀋陽)、撫順、長春などの年を先行的に(インフラ)
 整備することによって、鉄道、港湾、単光、工業など他部門からなる満鉄の一大コンツ
 ェルンの活動を可能にした人物。つまり日本を島国から大陸国家に飛躍させた男だ。
・後藤の「大陸国家」(鉄道国家)が、戦後の国土開発→列島改造の原形質となっていっ
 た。 
・後藤の有名な満鉄スローガン「文装敵武備」についても、引用しておこう。
 満州を守るためには、強力な軍隊を配備することより、鉄道や港湾をはじめとすると都
 市的施設を整備して産業経済、そして教育・衛生・学術すなわち広い意味の文化を発展
 させることのほうがずっと大切で役に立つというのである。
 後藤はこの「文装敵武備」論を、
 「王道すなわち文明の利器によって支配するべきである。覇道すなわち軍事力によって
 支配しようとしても失敗する」と説明している。
 この王道・覇道論は、後藤の岳父であり恩人でもある「安場保和」が師と仰いだ幕末の
 思想家「横井小楠」の教えの応用だ。
・また軍隊を文明文化の裏に隠す「文装的武備」は、戦後日本の「一国平和主義」の潮流
 =「吉田茂」や「池田勇人」、「宮澤喜一」らニューライトの軽武装(自衛隊保持)・
 重商主義路線のやり方にピタリとはまったのである。
 満州からのプレゼントは決して時代錯誤な贈物ではなかった。
 それは、戦後平和ニッポンの未来を十分包合できる、再起動可能な国家経営システムだ
 ったのである。
後藤新平の鉄道ネットワーク「大陸国家」構想=「文装武備」(国土計画による工業化
 ・都市化)が、大正12(1923)年の関東大震災→「帝都復興計画」の中に持ち込
 まれた。 
 この後藤の帝都復興案は、実際的には復興費は30億円から10億円に削られ、計画は
 大幅に縮小され実行に移されたが、その先頭に立って活躍したのが、後藤新平の信の厚
 いブレーンとなる「佐野利器」「であり、次には「折下吉延」だった。
 二人は、歴とした後藤人脈で、帝都復興のみならず満州の新京建設にも深くかかわった。
・最初満州で構想され実行された植民地的施策が、次には日本国内に持ち込まれ欲角的な
 国土開発事業として実施され、その成果がまたふたたび満州改造計画となって打ち返さ
 れてゆくという「波及効果」に沸いた時代が到来したのでる。
 満州が「実験国家」と言われたゆえんであるが、その二国間を往来し波及の実をあげた
 時代のシンボル的存在が、佐野と折下の後藤人脈だった。
・後藤新平の生まれは岩手県水沢である。佐野・折下は山形生まれ。
 後藤の血脈史をたどると、後藤の本家から母方高野家の養子となった「高野長英」は 
 旧幕時代「蛮社の獄」による投獄と逃亡の果て謀反人とされ悲運の死を遂げている。
・しかし、後藤新平は、同じ岩手県の「反藩閥の平民宰相」「原敬」と鉄道国家(大陸国
 家)構想をめぐって激しく対立するのだから、現実は「奇なり」である。
 というのも当時日本が満州あるいは遠くユーラシア大陸のソ連→パリ・ヨーロッパへと
 どく本格的な鉄道国家に成長するためには、狭い国内鉄道のレール幅「狭軌」を国際標
 準の「広軌」に改編する必要がどうしてもあったからである。
 そして、後藤はその「広軌改築派」のリーダーであり、原敬は「狭軌派」のトップだっ
 た。 
・昭和14(1939)年、「ノモンハン事変」(日ソ両軍衝突)が起きた年、鉄道省直
 轄の「幹線調査会」が設置され、弾丸列車「あじあ号」を開発した”伝説のスーパー・
 エンジニア”「島安次郎」が委員長に選任された。
 この島安次郎委員長の下で策定された「東京ー大阪四時間半の超高速鉄道」=「最高時
 速200キロ、平均120〜130キロ」の鉄道システムこそが、まさに現在の「新幹
 線」の原型なのである。
・もっとも、その戦前の新幹線計画は、昭和16年、大東亜聖戦への突入の中で挫折する。
 そして戦後に入り、東京ー大阪間を3時間半で結ぶ東海道新幹線が、「広軌派」後藤新
 平の後継者とも言うべき「十河信二」国鉄総裁と島安次郎の息子・「島秀雄」によって
 高度成長期のとば口である19555(昭和30)年に着手され1964年(昭和39)
 に開通するのである。 

王様の家来たちの物語
・2005年の春、世の中を大いに騒がせたのは、IT企業ライブドア・「堀江貴文」社
 長が、村上ファンドやリーマン・ブラザーズ証券グループらと組んで仕掛けた、「ニッ
 ポン放送への滝田夷狄買収劇」だった。
・しかし、この「敵対的買収」で最大の論争となったのは、そうしたホリエモンの”マネー
 ゲーム”ということより、「会社は誰のものか?」=「株主のものか・従業員のものか」
 という問題だった。メディアも知識層の見方も二分された。
・「寺嶋実郎」・日本総理事長の視点が面白い。
 再考すれば、資本主義も多様である。
 米国流の資本主義派株主資本主義ともいえ、株主にとって好ましい経営、つまり株価を
 高く、配当が多く、株主への説明責任を果たしている経営が評価される。
 経営の目的は、「株主価値の最大化」に集約される。
 しかし、欧州流の資本主義は違う。
 企業に関わる利害関係者の中で、株主、経営者、従業員を中核とし、取引先、地域社会、
 国家、地球環境など多様な関係者にバランスよく付加価値を配分する経営が「よい経営」
 とされる。
 日本はどうか。
 この十数年の日本は、それかでの日本型資本主義とか日本的経営といわれたものを、
 「右肩上がり時代の残骸」として排除し、競争主義・市場主義の点綴と米国流の株主資
 本主義への傾斜を強めた。
 しかし、中間層を厚く持ち、勤労を尊ぶ健全な産業観を醸成したことが日本社会の安定
 をもたらしてきたことを再考すべきではないのか。
・われらの生きてきた「戦後60年」とは、上半身(上部構造)は平和的人間、下半身
 (下部構造)は戦争的経済という、まるでギリシャ神話に出てくる半人半馬の怪物・ケ
 ンタウロスのような姿をしていたのではないか。
 
列島改造(八百万の神々「征伐」戦争)
・「満州」→「岸信介」→「戦時統制経済」という直線的ルートとはもう一味つがうポス
 ト日本軍国主義の世界があったというわけで、こちらの迂回ルートから登場してきて、
 戦後日本の繁栄を創り出した男が二人いる。
 それが「田中角栄」、そしてもう一人が「石破二朗」だ。
 石破二朗って誰だ?と知らない人が多かろう。
 2004年、あの小泉首相が「(イラク)自衛隊がいるところが非戦闘地域」と迷答弁
 した頃、防衛庁長官でへんなマスコミ人気があった「軍事オタク」の「石破茂」の父親
 なのだ。
・石破二朗が「迂回ルート」から登場して、田中角栄と二人で、「道路公団」を作り、
 今日の日本の自動車産業の良くも悪くも確固たる礎を築いた話は、あまり誰も知らない
 だろう。
 息子の石破茂の本を読むと、石破二朗と田中角栄がどのくらの程度の盟友だったかがわ
 かる。
 父の入院する鳥取県中央病院を訪ねて来てくださったのだ。
 当時、ロッキード事件で政界の表舞台から身を引かれていた田中先生が、新潟以外に遠
 出されるのはこれが初めてだった。
 私たち家族はすっかり感動してしまった。
 このとき父は病室で田中先生と二人きりでしばし歓談をした後、最後の頼み事をした。
 「ただ一つだけ頼みがある。オレはもうすぐ死ぬんだ。そのときは、あんたが葬儀委員
 長をやってくれないか」
 父が死んだのは、それから二週間後のことだった。
 葬儀は、県民葬として執り行われた。
 田中先生に友人代表として弔辞を読んでいただいた。
 その葬儀のお礼に、後日、私と母が目白に挨拶に行くと、田中先生は開口一番、県民葬
 の参加人数を問いただし、私が3500人と答えると、すぐ秘書の早坂さんに指示した。
 「オイ早坂、石破の葬式をもう一度東京でやるぞ、オレは約束したんだ。
 鳥取は3500人だった。あれより多くの人数を集めろ」
 として、現実に東京の青山斎場で鳥取より大規模な友人葬が執り行われることになった。
 いくら時の権力者とはいえ、これは並の人のできることではない。
 当日、葬儀委員長として挨拶に立った田中先生が、父の遺影に向かって、
 「石破君、君との約束は、今日、こうして果たしたことを知ってほしい」
 と、涙を流しながら挨拶されたことを私は一生忘れることができないだろう。
 友人葬のお礼に目白に参上したときのことである。
 かしこまる私を前に田中先生はいきなりこう切り出してきた。
 「キミねぇ、鳥取の葬式にきてくれた3500人、そこを全部お礼参りをしろ」
 一瞬、私は何のことを話されているのが理解できず、
 「銀行はそんなに休めません。3500人を全部回ったらクブになってしまいます」
 と答えるのが精一杯だった。
 「きみねぇ、選挙の第一歩はお礼参りだよ」
 「キミが衆議院に出るんだ、衆議院に」
 こうして「ふつうのサラリーマン」(三井銀行勤務)生活をしていた石橋茂は、田中派
 の事務局「木曜クラブ」に通うことになる。
 
・80年代は『軽薄短小』といわれた消費時代だったが、その中ではすべて人間の価値は
 等価で、自分が自分であることがわかりにくい。アイデンティティのもてない社会だっ
 た。
 その意味で、その人が何を着ているか、どんな店にいたのか、どんな友人がいるのか、
 そういう外の浮遊しているモノによってしか『生身の人間』が規定しえない時代だった。
 
バブルの中の「三つの王国」
・バブル時代って何だったのかと聞かれて、想い出すエピソードが二つある。
 土地転がしで巨万の富を築いて錬金術師と言われたイ・アイ・イグループの「高橋治則
 っていただろ。この人の話を思い出す。
 軍港から膨大な資金を引っ張り出して海外リゾート施設を買いあさって、瞬く間に資産
 1兆円以上の帝国を築きあげた。
 その不良債権の山のおかげで、長銀が破綻する引き金引いたのも高橋だ。
・高橋がメインバンクの日本長期信用銀行から借り出した5000億円で、サイパンや香
 港、オーストラリア、フィジー、タイ、タヒチ、ハワイ、ニューカレドニアとリゾート
 施設を買いまくって、アジア「環太平洋のリゾート王」と呼ばれた。
・もうひとつは、これも奇妙な話なんだけど、バブルは東京一極集中に拍車をかけた。
 「24時間戦えますか!」の産業兵士・モーレツ社員の群れを作り出し、次官の概念を
 も変えた。世界の中心でもあった。
・当時、日本は科学地術大国を自認していた。
 世界最高のロボット技術工学を持つ「鉄腕アトム」の国だと。
 端的に言えば、半導体産業と自動車産業と家電がその代表だ。
 半導体のほうは世界のメモリー部門を独占し、自動車はアメリカに攻め込み、小型車が
 世界を席巻した。
・バブルに入ってみんなが海外旅行をするようになり、すればするほど日本人は世界から
 評価されて帰って来るから、日本人自身、日本は金も技術もあるすごい国なんだと。
 これは商品ナショナリズムの世界だったと思う。
 アメリカが世界を支配するとき、軍隊を使っていたが、日本は価格差だとか品質、メン
 テナンスのしやすさなど、「商品」で世界に進出していった。  
・ナショナリズムというと、日本の場合はすぐに島国ナショナリズムに陥るって話はさん
 ざんしてきた。
 ただこの時代は国境を越えることで日本はすばらしいということに気づく。
 海を越えることによって愛国心に目覚める。
 しかしそのアイ・ラブ・ジャパンはことさら強調するまでもなかった時代なのではない
 だろうか。
 日本の指導者も靖国だの神の国だの愛国心を持ち出すとかえって反発される、そういう
 時代だったと思う。
・この時代、企業では社員ひとりひとりにパソコンをもたせるというコンピュータ社会へ
 の大幅な転換点にもあたっていた。
 団塊世代は出世した管理職になり、コンピュータは若い者に操作させておけばいいなん
 てことが通用した時代なんだよね。
 その前のワープロの普及を経て、手書き原稿の時代が終わった。
 ”文は人なり”の崩壊だ。
 その人間が持っている固有の苦みだとか臭み、甘さ、面白さ、笑いみたいな個性が消さ
 れた合理化されていく時代。
 そういうものはコンピュータにはのらないもの。
 そういうものがのっかると、リアルタイムで情報が伝わりにくいから、記号的情報が瞬
 時に伝わり始める時代なわけだ。
 こうしたコンピュータ転換期の荷重を最も背負わされるのが若い人たちだったわけだ。
・それから老人の社会が崩壊する。極端な効率性を追求する社会だから。
 こういう中では老人労働力は必要ないから、排除されてしまう。
 老人の姿が街から消えていき、若者中心の街になる。
 消費構造もそうだし、老人は排除、若者は過荷重・
 こうした精神的矛盾、ストレス、これが全部宗教に走っていく。
 だから教祖はおばちゃんですよ。母性愛ですよ。圧倒的に女性教祖が多かった。
 おばちゃんが突然神に目覚めて、高校生や大学生、会社でうまくいかない若いサラリー
 マンそして老人が、おばちゃん教祖に抱かれて2,30人でサークル宗教をやるという
 のが流行った。 
・その頃は癒しという言葉が成立していなくて、安らぎを与える宗教なんて言われていた。
 もうひとつ家族崩壊ってのもあったから、疑似家族集団と言われた。
 こういう80年代新・新宗教ブームの中から生まれてきたのが「オウム真理教」なわけ
 だ。
 ここでサリンもって暴れまくったオウム幹部は大学出が多かったなんてよく言われる。
 なんで大学出が多かったかというと、彼らには先が見えにいたからだ。
・経済軍隊的な秩序がびしっと決まっていて、一番上には昭和ヒトケタ世代がいて、その
 下に団塊が中間管理職でいて、この世代は人数が多いから、そのなかからさらに出世し
 ていくというのが、ほとんど成立しなくなった。
 昭和ヒトケタが出世することで達成したようなジャパニーズドリームは崩壊していた。
・サラリーマン個人の努力でどこまで行けるのかというのが、子供たち、つまりオウム真
 理教に入信した若者たちの目にもよく見える時代になっていた。  
 国としては、東京を中心に世界一の大金持ちなんていっていたが、それは企業中心の話
 で、家臣団のほうは頭打ち。そう思い定めればそれなりに面白おかしい世界でもあった
 んだけど。
・ところが、対抗的に、オウムは疑似軍事国家的な組織形態だった。
 大学出で、麻原に認められると、ある省のリーダーに取り立てられる。
 大学出て間もない”ヤング”でも部下20〜30人をあごで動かせる地位につける。
 こんなことは年功序列の護送船団方式の日本の企業社会ではありえない。
 しかも、マッドサイエンスの世界も解禁なわけだ。
 日本が絶対禁止している生物化学兵器の開発までやらせてくれる。
 こういうことを適材適所の配置でやらせてもらえて、大学でのインテリ幹部たちを元気
 づけたという奇妙なお話である。
 オウム真理教は狂った集団、理解できない集団と思われているが、そんなことはない。
 列島改造で、日本の神々が征伐されたときからずっと起こってきたひとつの結果なのだ。
・バブルを考えるときは戦前的なものと切れた団塊世代が実質的な中軸部隊になっていた
 世界として考えなければならない。
 では団塊とは何だったのかというと別名、「全中流」なのだ。
・”私的欲望と市民的自由”の中流部隊「団塊」が、日本経済成長の原動力として定着して
 ゆく。 
 団塊もまた、国家への反発という戦後市民的リベラルな価値を保持したまま、会社への
 忠誠を誓う限り、自動車・テレビはもちろん、「マイホーム建設」というおのれの夢の
 王国を手に入れることができたのである。
 エーレンライク的「中流」意識は、「会社」という成長母体を発見したと言ってよい。
 だから「会社」(企業共同体)こそ団塊がたどり着いた「居場所」なのである。
 彼らはバブル期に「24時間産業戦士」と呼ばれるほどの「会社人間」に成長してゆく
 のは、そのためである。
 しかしその団塊の居場所「会社」共同体は、80年代マイホームを占有した「母子家庭」
 (家族共同体)という新しいもうひとつ別の価値観と激しい利害対立を引き起こすこと
 になる。
・なぜなら、団塊の親子=父と母と子は、同じ屋根の下に住みながら、それぞれ別々の
 三つの、自分だけの居場所=三つの王国を持ったからだ。
・バブルとは日本人の金ピカ文化(お金持ち)という幻想の誇大化だったと言われるが、
 私はむしろ中流的価値が、「三つの居場所」(三つの王国)を得て安定・確立した時代
 だと考えたほうがより本質的だと思っている。
・「三つの居場所」とは次のようなものである。
 @男性・・・団塊サラリーマンが企業共同体の中に居場所を見つけ、24時間企業戦士
  の「会社人間」と化していった。
 A母親・・・男親不在で子育て・お受験の「母子家庭」化あるいは恐ろしい「ママゴン」
  化。 
  「三高」のエリート男性サラリーマンと結婚して西武や東急沿線のファッショナブル
  なマンションを「自分のお城」として手に入れる。
  大都市のアメニティの中に居場所を見つけた彼女らの精神は、「母性」と「女の姓」
  =sex快楽主義的なものに分裂してゆく。いわゆる「郊外化」の金妻「不倫ブーム」
  などである。
 B子供たち・・・自分の部屋を居場所にして、自室文化を作り上げ、「引き籠り」に移
  行してゆく。その過剰化が「登校拒否」、いくつもの「家庭内暴力」を生んだ。 
・つまり、バブル時代とは、中流的価値が三つの棲み分けによって、それぞれの幸福感を
 目いっぱい追求した文化だったと言ってよい。
 子供は子供、大人は大人の”私的な欲望”を追求する権利と自由が大手を振ったという
 わけで、あのバブルの大人は不倫、子供はおたくの文化構造の底にあったのは、そうい
 う過激化した「私という病」ではなかったろうか。
・バブル時代というのは三つの居場所が完成して、この三つの居場所が作り出すエネルギ
 ーで世界一の商品が作られ、世界に売り出され、東京の世界一の都市になっていくとい
 うのだが、それをやるために一種の国家総動員態勢がとられる。
 団塊の世代だけでの労働力=兵士の数は足りなくて、女性の参戦も求めていく。
 これが機会均等法なのだ。
 
万物は流転する
・90年代初頭から始まった「バブル崩壊」。
 それは単なる「世界一のお金持ちの国」が経済失政でガタガタ、日米経済戦争にも敗れ
 て世界二位の国になっちゃった。
 でも国民の貯金総額がまだ2000兆円もある・・・なんて当時メディアや経済アナリ
 ストたちが主張していたそんな生やさしい問題ではなかった。
・それは、「王道楽土」の戦争=大東亜戦後の平和憲法下における経済戦争の二つの国民
 総動員体制を通じて建設した「民道楽土」の崩壊を意味したから、実質的には日本近代
 100年の野望の崩壊だった。
 まあ100年の歴史がこわれたんだ、日本の指導者・宰相たちも面食らうよな。
 どうしたらいいか誰もわからない。
 宮澤内閣→細川→羽田→村山→橋本→小渕→森→小泉内閣と続いたが、ろくな「国家百
 年の計」がはかられた例がない。 
・上半身が平和憲法「経済主義」で下半身は「戦時統制経済→護送船団方式」のケンタウ
 ロス「密教」体制のマジックはこわれ、日本は湾岸戦争で国際貢献していない”卑怯な
 国”(一国平和主義)として世界中から非難された。
・海部内閣は戦費(協力費)130億ドルも負担させられた挙句、世界中から「汗(血)
 を流さない」、世界情勢に疎い、グズな国であるかのように思われ、日本人も自らそう
 であるかのように信じ込んでしまった。
 一種の平和主義「「自虐史観」である。
 ところがだ、2002年のアフガン空撃戦争の時、日本が反テロ特措法を成立させ自衛
 隊の海外派遣に踏み切った時、つまりインド洋への石油支援などの軍事貢献を現実にや
 り始めた時、ブレント・スコウクロフト元大統領後補佐官がこう発言したのをみて、
 オラ怒ったね。
 「11年前の湾岸戦争と比べると、今回の戦争は軍事的にはあまりにも規模が小さい。
 湾岸では軍隊50万人と資材を輸送した。日本は130億ドル支援という決定的に重要
 な財政的貢献をした。日本が支払った努力は当時のほうが大きい」
・なんだって。なら、湾岸戦争は「経済的貢献」でOKだったのか!
 あれほど世界中から「汗(血)を流さないニッポン」と非難された日本の「一国平和主
 義」。
 あれ、米国支配層はOKだったっていうのかよ。オイオイじょうたんじゃねえぞ。
 それなら今回の反テロ自衛隊の解禁は、湾岸トラウマの病理現象を通じてやすやすと国
 会成立しちゃったといわれるけど、それは”一国平和じゃ世界に通用しない”ってガセネ
 タに基づいていたってことになる。
 そのガセネタを流したのは誰だ!
 あの「Show the FLAG」の時みたいに、姑息な外務省のヤカラではないのか。
・この時の「一国平和主義」は時代遅れ、血を流す貢献こそが世界の常識とされた日本人
 の「湾岸戦争トラウマ」こそが、アフガンからイラクへの自衛隊の海外派兵や、財界の
 「武器輸出三原則」の解禁要求など、古イズム生還が軍事立国化への道を切り開くのに、
 大きな力を貸したと思うと、つくづくあのバブル崩壊から「失われた10年」の漂流ニ
 ッポン人の唖然呆然、ハチャメチャなまでの世界情報に対する自信喪失がうらまれるの
 である。 
・軍事的低迷だけではない。もうなにもかもが、破滅状態に見えた。
 金融大崩壊の危機。不良債権の山をかかえ、例えば巨大銀行「みずほ沈没」が本気で語
 られたりした。
 みずほは当時「世界最大の金融グループ」で、わが国の「上場企業の七割と取引をして
 いる」巨艦銀行だが、そのみずほ株がなんと100円前後の「倒産価格」で漂流してい
 た。みずほが沈めば、日本経済は恐慌状態に陥ったろう。
・また未曽有のデフレ時代の到来の中で、戦後日本の全中流が築きあげた「バブルの中の
 三つの王国」も崩れてゆく」 
 1995年には阪神大震災とオウム地下鉄サリン事件が起き、97年には酒鬼薔薇聖斗
 の「首斬り」事件。2000年には「われ革命を決行す」の福岡ハイジャックなどの少
 年殺人暴力が連発した。
 「コギャルの援助交際売春」(ポケベル売春)が流行り、その”青い性”を売りに出そ
 うとする少女たちの危うい心模様を歌いこんだと思われる安室奈美恵の歌が大流行した。
・ともあれ、このバブル崩壊からはじまり、デフレ・リストラで企業への家臣団サラリー
 マン(産業兵士)の忠誠心文化が崩れ、会社企業体という「居場所」(自分が所属する
 王国)を失った団塊・全中流の人々が一人一人バラバラな「小さな砂粒のようなもの」
 に解体されていった。