一九九一年日本の敗北  :手嶋龍一

この本は、いまから31年前の1993年に刊行されたものだ。
後に「外交敗戦:130億ドルは砂に消えた」と改題されて文庫本になっている。
この本の題名にある1991年は、「湾岸戦争」が起こった年である。
1990年8月、サダム・フセインのイラク軍が、突如、隣国クウェートに侵攻した。
理由はイラクが経済苦境にあったからとされているが、引き金になったのは、イラク駐在
のアメリカ大使の失態にあったようだ。
「アメリカは、イラク・クウェート間の国境問題など、アラブ同士の係争に口を出すつも
りはありません」
と言い切ってしまったのだ。
これを聞いてサダム・フセインは、安心してクウェート侵攻を決断したようだ。
なお、同じようなことはウクライナ戦争の時にも起きている。
バイデン大統領が「(ロシアがウクライナに侵攻した場合)ウクライナへの派兵を考えて
いるか」という記者の質問に対して「考えていない」と言い切ってしまったからだ。
これを聞いてプーチンはウクライナへの侵攻を決断したと言われている。

この湾岸戦争に際して、日本の外務省は数々の失態を演じた。
そのひとつは、クウェート大使館が大使館内に避難していた在留邦人をイラクに緊急移送
した際のイラク駐日大使館の失態であった。
イラク駐日大使館側が事態の状況を甘く見ていて、クウエートからイラクに移送されてき
た邦人261人を、まんまとイラクの人質にされてしまったことである。
そしてこれらの人質たちは、イラクの戦略拠点に分散配置されて、戦略拠点が攻撃されな
いよう「人間の盾」に使われてしまったのだった。

二つ目は、アメリカのブッシュ大統領からから多国籍軍のための軍事物資輸送する後方支
援の依頼を受けたのだが、これにどう対応するか、外務省は延々と会議をつづけるばかり
一向に何も決めることができない「小田原評定」を続けた。
そしてある日突然、「国連平和協力法案」づくりが始まったのだが、野党はおろか政府与
党や内閣の権力の所在をも正確につかめず、根回しが後手に回ったため国会を通すことが
できず廃案になってしまった。

極めつけは、大蔵省と外務省の偏狭なセクショナリズムによる二元外交の結果としての大
失態である。
日本は、増税してまで多国籍軍のために総額130億ドルもの巨額の戦費負担をしたにも
かかわらず、国際社会からまったく評価されなかった。
アメリカ議会からは、あらん限りの罵詈雑言を浴びせられ、また、クウエート政府がアメ
リカの有力紙に掲載した感謝リストのなかに日本は含まれていなかった。
これによる日本国民が受けた衝撃は計り知れなかった。
これがトラウマとなって、9.11同時多発テロ事件の際には、アメリカの「テロとの戦
」を、小泉政権は真っ先に支持表明し、イラク戦争の際には、日本は戦後はじめて自衛
隊派遣を行なった。
湾岸戦争のときは国連安保理の圧倒的多数決議による武力行使であった。
だが、イラク戦争のときは、フランス、ドイツ、ロシア、中国などが慎重論を唱え武力行
使には強硬に反対を表明した。
それにもかかわらず、アメリカはそれをおしきった形で有志連合による武力行使となった。
そんな有志連合に日本も加わってイラクに自衛隊を派遣したのだった。
しかし、武力行使の名目だったイラクの多量破壊兵器保有というのは結果的に誤りであった。
ところが、アメリカもそして日本も、その責任はうやむやのままである。

この本のなかに、イラクの人質になり、「人間の盾」として肥料工場に収容された東京海
上火災のクウェート事務所長・長尾氏が、イラク大使に宛てた手紙の内容が載っている。
「日本は幸いにして軍隊を持たない唯一無二の平和憲法国家であり、かつその世界に対す
 る経済の影響力は絶大なものがあるのですから、独自の立場でこの紛争の平和的解決の
 ために貢献すべきであり、ひたすらアメリカの覇権維持のための世界戦略に盲従するの
 体は、日本をアメリカの属国として錯覚しているのではないかとの懸念を持たざるを得
 ません」
 まさに、日本という国のあり様の核心をついた批判だと思えた。
  
この本を読んで、興味深かったのは、「瀬島龍三」と「小野寺信」の息子・小野寺龍二が
登場していることである。この二人は運命のめぐり合わせと言っていい。
この本のなかでも外務省の幹部は次のように推測していた。
「本当に度肝を抜かれるような公電に接したことのある者なら、思わず傍のゴミ箱に電報
 を放り込みたくなる気持ちがわかるはずです。特に、わが国にとって、極めて不利益な
 情報、自分たちの予測に真っ向から反するようなインテリジェンスの場合はなおさらで
 しょう。証拠があるわけではありませんが、当時、小野寺電を受け取った陸軍の担当官
 は直属の上司くらいには相談したかもしれませんが、結局、握りつぶしたのだと思いま
 す」
ここに出てくる度肝をぬかれるような公電を送ったが小野寺信であり、それを受け取った
のが瀬島隆三だった。
これが国の運命をあずかる外交の実態なのだと思うと、なんだかゾッとした。 

過去に読んだ関連する本:
瀬島龍三
消えたヤルタ密約緊急電
イラク戦争

プロローグ(「極東のクウェート」と呼ばれた日本)
・多国籍軍、まもなく地上戦へ突入。
 22日午前、ブッシュ大統領はホワイトハウスで記者会見し、次のような声明を自ら読
 みあげた。
 「多国籍軍参加の各国ともよく話し合った末、われわれは、フセインがクウェートから
 の即時撤退を開始する期限として23日正午を設定する。フセインがこの条件を呑まな
 ければ、彼はイラク国民に塗炭の苦しみを味わせる結果を招こう」
・ブッシュ大統領は、イラクに対して地上戦突入への最後通牒を突きつけたのだった。
 当時、クウェート領内には50万人にも及ぶイラク軍が侵攻しており、24時間余りの
 間に撤退を開始するのは、事実上不可能であった。
・ブッシュ大統領は記者会見で「多国籍軍参加の各国ともよく話し合って」と述べている。
 軍事作戦の主要部分は多国籍軍に参加している国々と緊密に連携して進められていた。
 だが日本は、終始、蚊帳の外だった。
・その一方で、多国籍軍に兵を送っているヨーロッパの特派員たちは、それぞれがおどろ
 くほど精緻な湾岸情報を持っていた。 
 本国政府が、湾岸の部隊やアメリカ国務省、ペンタゴンを介して正確なXデーを把握し
 ていたからだ。なかでも抜群の情報を持っていたのは、BBC英国放送協会)の特派員
 であった。
・世界の動きからポツンとひとり取り残されたような環境は、決して住心地のよいもので
 はない。 
 だが、それ以上に骨身にこたえたのは、わが日本に向けられた各国の冷ややかな視線だ
 った。
・他国の主権を武力で踏みにじり併呑するサダム・フセインの暴挙。
 この圧倒的な不正義を前に、国際社会は多国籍軍を編成して、イラク軍のクウェートか
 ら排除に立ち上がった。
・だが日本は、憲法今日の制約もあって、多国籍軍の部隊を派遣しなかった。
 そのこと自体は少しも恥ずべきことではない。
 兵力の派遣にかえて、日本は、多国籍軍の膨大な費用を後方でまかなった。
 そのために、日本国民は緊急増税をも受け入れたのだった。
 日本からの資金協力なくして、多国籍軍の盟主アメリカといえども、戦争の円滑な遂行
 は困難だったことが後の調査報告で明らかとなっている。
 ポスト冷戦の唯一の超大国アメリカは、独力で湾岸戦争を勝ち抜くだけの財政力をすで
 に失いつつあったのである。
 にもかかわらず、湾岸危機の発生以来、ワシントンにおける同盟国日本のプレゼンスは
 なきに等しかったと言っていい。
 懸命に財政上の協力を続ける日本の役割を認める声はどこからも聞こえてこなかった。
・国土の底から噴き出す原油によって、クウェートは、80年代半ばには、国民一人当た
 りの所得がついに世界一となった。 
 クウェート国民であれば納税の義務を免除され、子どもたちは公費で外国に留学が許さ
 れる。
 夜も煌々と灯りをともすデパート「サルタン」には、ヨーロッパの高級ブランド品を求
 める客が絶えることがなかった。
・だがその一方で、クウェートは、中東の軍事大国に囲まれながら満足な自衛手段すら持
 たない虚栄の都市国家でもあった。
 原油による利益で悦楽を貪りながら、国民の安全保障にいささかの関心も払わない金満
 国家は、周辺のアラブ諸国から蔑みすら投げかけられていた。
・湾岸の豊かな産油国よりはるかに重い税負担にあえぎながら軍備を保有し、彼の地の主
 権が侵されれば、すぐにも銃を取って駆けつけなければならないアメリカ国民。
 彼らはやり場のない怒りをホワイトハウスに突き付けた。
 「クウェートの王族のために、なぜ我々の息子が砂漠で戦い、血を流さなければならな
 いのか」 
・アメリカが湾外に大量の兵を投入したのは、その地に眠る膨大な原油の存在が自らの国
 益に密接に絡んでいるからでもある。
 だが大統領は「石油のために戦うのだ」とは説明せず、沈黙せざるを得なかった。
・そして、アメリカの政府と議会は、中東の石油に最も依存する日本に同じ念懣を投げか
 けた。
 「日本は、原油輸入の実に7割を中東に頼っており、そのうち12%はクウェート、イ
 ラク産だ。われわれは、なぜ、他の経済大国のために血を流さなければならないのか。
 自分の経済的利害を専らにし、世界秩序の維持には何ら責任を果たそうとしない。わが
 同盟国日本は『極東のクウェート』ではないのか」
 
手さぐりミッション
・「砂漠の盾」作戦の発動以来、ここワシントン・ダレス国際空港の貌は少しずつ剣を加
 えつつあった。
 警備総括責任者、ロバート・パーマーはすでに心を決めていた。
 湾岸で戦いが始まれば、FAA・連邦航空局の指令を待たずに、ダレルの警戒体制を直
 ちに最高レベルに切り替えよう。
・サダム・フセインが密かに放ったテロリストが世界各地の空港に出没しつつある。
 パーマーは、見えない敵との対決を通じて、もうひとつの湾岸危機を戦っていた。
・サウジアラビアの砂漠に展開するアメリカ軍にとって最大の脅威はサダム・フセインが
 持つ毒ガス兵器だが、パーマーにとっての悪夢は小型プラスチック爆弾だ。
 二年前、パン・アメリカン航空機103便をスコットランド上空で爆破し、207人も
 のアメリカ人乗客の命を瞬時に奪い去ったのも、プラスチック爆弾だった。
 若いアメリカ人女性がアラブ人のボーイフレンドから預かった小さな荷物の中に、恐怖
 のプレゼントが隠されていたのである。 
・東京からの全日空002便は、90年11月、ジュラルミンの機体を輝かせて静かに滑
 走路に滑り込んできた。
 東京から来た人物は、「日米エネルギー委員会」の会合に出席する日本側ミッションの
 団長、「瀬島龍三」78歳であった。
・イラク軍機甲部隊が国境を突破してクウェートに侵攻。
 サダム・フセインの偽装工作にアメリカはまんまと嵌められた。
 ブッシュ大統領に提出された「インテリジェンス報告」で、CIA・アメリカ中央情報
 局は、たしかに警告を発していた。
 イラクがクウェート国境に向けて軍隊を動かしている。
 その数は3万。だが、この段階では、CIAも単なる威嚇行為に過ぎないと判断してい
 た。 
 サダム・フセインは半年前から原油価格を引き上げようと、過剰生産を続けるクウェー
 トに中止の圧力をかけていたからだ。
・アラブ穏健派の友人たちはそろって、「イラクに侵攻意志なし。アメリカは余計な手出
 しをしないでほしい」と直接ブッシュ大統領に伝えてきていた。
 現に、紛争調停のためにバクダッドを訪れたエジプトのムバラク大統領は、サダム・フ
 セインから「クウェートには侵攻しない」という確約を取り付けている。
 サウジアラビアのファハド国王もサダム・フセインの軍事侵攻などあり得ないと見てい
 た。 
・アメリカ海軍は、7月24日、ペルシャ湾でアラブ首長国連邦と共同演習を行い、イラ
 クを一応牽制した。
 サダム・フセインは、その翌日、イラク駐在のアメリカ大使エプリル・グラスピーを通
 告後わずか1時間で呼び出し、初めての会談を行っている。
 国務省の訓令を受ける暇もなく会談に臨んだグラスピー大使は、
 「アメリカは、イラク・クウェート間の国境問題など、アラブ同士の係争に口を出すつ
 もりはありません」
 と表明し、翌日には休暇をとって国外に出かけてしまった。
 のちにアメリカ議会は、この宥和的な発言がサダム・フセインの侵略を誘発した、とグ
 ラスピー召喚している。
・こうした一方で事態は緊迫の度を高めていた。
 30日になると、クウェート国境に集結したイラク軍は10万に増えている、とCIA
 はホワイトハウスに報告。
 だがこの段階になってもなおブッシュ政権の首脳陣は「サダム・フセインはブラフ(ハ
 ッタリ)をかけているにすぎない」と事態を軽視していた。
 しかし、イラクの独裁者は精鋭部隊に国境を越えてクウェートを制圧するよう命令を下
 したのだった。
・国家安全保障担当大統領補佐官「ブレント・スコウクロフト」は、はたして瀬島との会
 談に時間を割くことができるだろうか。
 湾岸危機がより重大な局面を迎えれば、同盟国日本に更なる協力を求める時が必ず来る
 はずだ。
 そのとき、海部首相への瀬島の発言力は無視できないものとなろう。
 スコウクロフトは、少しの躊躇もなく、瀬島との会談を望んだのだった。
・ワシントンに到着した瀬島は、日本がなしうる湾岸貢献策について語った。
 「金を出す。汗を流す。血を流す。われわれには、この三つの選択肢がある」
 「第一は、多国籍軍に資金的な支援を行なうことです。第二は、湾岸に人を派遣して人
 的な貢献を実施すること。第三の道は、軍を送って多国籍軍とともに戦うことです」
・湾岸危機が深刻の度を増す中で、日本に残されている現実的な対応策は極めて限られて
 いる、というのが瀬島の現状認識であった。
・「第三の選択は、わが国の憲法上も法律上も、ただちにとりうる処ではない。
 第一の資金的貢献は無論これを行わなければならないが、ドイツを除く西側諸国がこぞ
 って軍事的貢献を行っている中で、日本だけが金ですべてを済ますわけにはいくまい。
 どうしても第二の道、すなわち人的貢献に進まざるを得ないのです。
 だが、明日にも戦争が始まろうという危険な地域にボランティアの民間人を送り出し、
 政府は関与しないというのは許されまい。
 今の法制度の中で目一杯どんな人的貢献が可能なのかを探り、出来るだけの努力を傾け
 ることでなければならない、と私は考えます」
・瀬島は、日本の人的貢献は難民の救援を柱に実施すべきだと考えていた。
 今度の訪米に備えて、彼は「竹下登」元首相や橋本龍太郎と会い、自らの意見を披露し
 て二人の反応を打診している。 
 戦乱となれば、イラクの隣国ヨルダンからは大量の難民が生じるだろう。
 家を失って路頭に迷うこれらの人びとを救うべく、日本は救援機や医療チームを迅速に
 送り込むべきだ。
 これなら野党の理解も得られるはずであり、アメリカにも日本が湾岸で汗を流している
 ことが伝わる、というのが瀬島の考えだった。
・当時、日本国内では、自衛隊の湾岸は権を巡って国論が沸騰していた。
 海部内閣は多国籍軍の後方支援を自衛隊によって行うため「国連平和協力法案」を国会
 に急遽提案した。
 だが、政府側は決定的な準備不足だった。
 その弱点を雇う側に衝かれ、答弁に立った政府委員はしばしば立ち往生せざるをえなか
 った。
 このままでは、法案は潰れるにちがいない。
 瀬島は竹下らとのやりとりを通じてこう確信し、ワシントンにやってきた。
・瀬島は、「松永信雄」前駐米大使や細見卓元大蔵省財務官とともに、海部首相の外交問
 題についてしばしば意見を求められ、三人そろって官邸や公邸に呼ばれることが多かっ
 た。この人選の背後には竹下がいた。
・「宇野内閣」があっという間に倒れた後、クリーンなイメージを買われて海部俊樹が後
 継首班となったのだが、主要閣僚や党三役を経験していない海部にとって、総理の座は
 かなり重荷だった。
 後見役の竹下は、海部の指南役として、外交、安全保障、財政・国際金融に通じた松永、
 瀬島、細見の三人を官邸に送り込んだのである。
・松永は、陸・海・空の三自衛隊に国際貢献という新たな任務を担わせることこそ、自衛
 隊を活かす道だ、と主張した。
 もしここで日本が手をこまねいて何もしなければ、国際的な対日批判が巻き起こるのは
 必至だ。
 日本人が世界からいわれなき蔑みを受けている、と感じたとき、国内の世論は危険な風
 を孕むことになる。
 日本社会の底に不健全なナショナリズムが澱のように溜まっていくことになろう。
 こうした事態だけは絶対に避けなければならない。
 自衛隊を主役のひとりに据えた平和維持活動への参加こそ、偏狭なナショナリズムの台
 頭を抑える道だ。松永はそう信じていた。
 だが、瀬島は松永より遥かに政治的リアリストだった。
 参議院で与野党が逆転している現在の国会情勢では、自衛隊の海外派遣に向けた新法の
 成立は到底望めない。
 いまは国会審議に無駄なエネルギーを使い果たすべき時ではない。
 当面は、非軍事分野での人的高原に的を絞って実現可能な具体策をまとめ上げるべきだ、
 というのが瀬島の主張だった。
・国家安全保障会議にあって、日本や中国を担当する特別補佐官のジャクソンは、ブッシ
 ュ大統領の特命を帯びて訪日するたびに、国会近くのキャピトル東急ホテル五階にある
 瀬島の事務所を訪れていた。 
・ジャクソンは、ブッシュ大統領やスコウクロフト補佐官のメッセージを日本側のキーパ
 ーソンに直接伝えたい場合は、瀬島を介して接触を図っていた。
 スコウクロフトも、瀬島がホワイトハウスと日本の中枢部を結ぶ線上に位置しているこ
 とを、ジャクソンからの報告で承知していた。
・ジャクソンがスコウクロフトの執務室のドアを開けると、将軍は直立して客人を待ち受
 けていた。
 湾岸危機に際して和戦の決断を担うブッシュ大統領。その右腕としてブッシュを補佐す
 るスコウクロフト将軍。
 今瀬島の眼前にいるのは、戦争か和平かを左右する立場にありながら、少しも気負った
 ところのない老紳士であった。
 瀬島は、スコウクロフトの目を見た瞬間、村夫子のようなこの空将に親近感を抱いた。
・穏やかな容貌と静かな語り口。だが、改憲から受ける印象とは違って、スコウクロフト
 は隠れた対ソ強硬派であった。 
 彼は「ゴルバチョフ」の「ベレストロイカ」路線を心から信ずるようなことは断じてな
 かった。
 「通常兵器を大幅に削減する」というクレムリンの甘言にのせられて、アメリカが一方
 的に弾道ミサイルを半減することはあってはならない、と主張した。
 そしてブッシュ大統領には戦略削減交渉をできるだけ先に伸ばし、ゴルバチョフの出方
 を見守るよう助言し続けた
・「冷戦はまだ終わったわけではない」
 彼は、国家安全奉唱会議の席上、幾度繰り返したことか。
 コミュニズムの最後の対決にあっても、力が大きな役割を果たすという彼の信念は揺る
 がなかった。
 そして、冷戦終結のとば口で起きたサダム・フセインのクウェート侵攻に際しても、力
 の行使を辞さないという毅然たる姿勢こそ、新たな侵略を抑止する唯一の道だと信じて
 いた。
・スコウクロフトは、西側和諸国の一部に窺えるイラクへの宥和的な態度をきっぱりと批
 判した。
 その頃、イギリスのヒース元首相や日本の中曽根元首相、ドイツのブラント元首相が相
 次いでバクダッドを訪問し、人質の解放を求める動きに出ていることに、アメリカは苛
 立っていた。
 ホワイトハウスはこれらの人質救出外交は「イラク側の術中にはまり恐れがある」と警
 告している。
 瀬島との会談でも、スコウクロフトは、驚くほどの率直さで中曽根のバグダッド詣でに
 不快感を示したのだった。
・ホワイトハウスの神経を逆撫でした中曽根とサダム・フセインとの会談は、イラク大統
 領府の執務室で行われた。
 この会談で中曽根は「戦争には勝者も敗者もない」と述べて、フセインの自制を求めた
 が、イラクの独裁者は「アメリカが一発でも先に銃声を放てば、われわれは必ず報復す
 る」と息巻いた。
 だがこの会談をきっかけに、中曽根はイラクで足止めを食っていた日本人の人質74人
 を連れて、自民党がチャーターした日航のジャンボ機で東京に帰り着いた。
 
・今を去る半世紀前、瀬島は大本営参謀として太平洋戦争の開戦の現場にいた。
 80年代を通じて、瀬島は、土光臨調の参謀として行政改革に打ち込んできた。
 国家の規制に大ナタをふるい、国鉄や電電公社など三公社の民営化を実現した。
 その点では、経済大国日本は次なる飛躍を目指してぜい肉を削ぎ落とすことができた。
・だが、その土光臨調もついに踏み込めなかった領域があった。
 大蔵省が戦後一貫して握り続けてきた予算編成権がそれだ。
 財政当局は予算の編成という究極の権力を通じて、財政・経済運営ばかりか、外交や安
 全保障にも絶大な影響力を行使してきた。
 常に大蔵省の風下に立つ外務省や防衛庁は、主計官の顔色を窺いながら、日本の外交・
 安全保障戦略を策定する弊風に甘んじなければならなかった。
・アメリカが世界秩序の維持に圧倒的な力を持ち、日本がその傘の下にあるうちはそれで
 済むかもしれない。
 だがやがて日本も大国の利害が錯綜する国際政治の舞台でみずからの責任で行動しなけ
 ればならない日が必ず訪れよう。
 その日に備えて「日本は耳の長いウサギたるべし」と瀬島は考えていた。
 軍備は最小限にして精強に。だが同時に、世界で起きつつある異変をどの国よりも迅速
 に捉え、賢明な国家戦略の策定を図る。
 専守防衛を国是とする国が冷厳な力の世界で生き残ろうと思えば「耳の長いウサギ」に
 なるより他に道はない、というのが瀬島の持論だった。
 そのためには、既存の官僚機構に大胆なメスを入れ、独自の外交・安全保障政策を確立
 しなければならない。
 瀬島は、日本という国が持つ外交・安全保障上の選択肢の余りに少ないことに思いをい
 たし、後悔の念を噛みしめていた。
 今少し早く、これらの命題に立ち向かっておくべきだった。
・ワシントンに旅立つ直前、瀬島は政府と党の要人たちと相次いで面談した。
 彼らの日本を取り巻く情報認識は驚くほど甘く、同盟国たるアメリカの胸のうちも正確
 に捉えていなかった。 
 こうしてホワイトハウスを訪ねてみると、一層その感が深い。
 本来、両者の間に立って意思の疎通を円滑にするべき外交当局も、その任を十分果たし
 ているとは言えない。
 そもそも自分のような民間人がこのような重責を担うべきだろうか。
 ややもすれば、二元外交に堕する危険を無しとしない。
 戦前、陸軍の介入による二元外交の弊害を目の当たりにしたし、戦後は臨調審議を通じ
 て国の行政組織を研究してきた者として、外交の二元化は断じて忌避しなければならぬ。
 
策士たちの秋(バイダルとベーカー)
・「プリンス・バンダル・ビン・スルタン」。中東の政治にかかわるものなら誰でも、
 その名が砂漠の地中深く眠る黄金の油脈であることを知っている。
 サウジアラビアとアラブ穏健派産油国の安全が脅かされる時には、必ずといってよいほ
 ど、バンダル王子が姿を見せる。
・バンダルはサウジアラビア王国の創設者「イブン・サウド」の孫にしてファハド現国王
 の甥にあたる。
 16歳までサウジアラビアで王族としての古典的教育を授けられた後、英国空軍士官学
 校に留学。次いでアメリカ南部アラバマ州の空軍大学で戦闘機パイロットとしての訓練
 に励む。
 バンダルは、サウジアラビア空軍に戻ると、新鋭ジェット戦闘機のパイロットとして空
 の守りの一線に立った。
 その一方で、78年には、F15戦闘機60機の購入をアメリカ議会に認めさせるため、
 ワシントンに乗り込んで先進的なロビー活動を繰り広げた。
・バンダルは34歳の若さで中米サウジアラビア大使に就任する。
 それまでサウジアラビア大使には職業外交官が起用され、ほかの国々と同様、国務省を
 介してホワイトハウスと接触していたにすぎない。 
 だが、バンダルは直接レーガン大統領やロバート・マクファーレン国家安全保障担当大
 統領補佐官にアクセスできた。
 彼は魅力的な人柄と資金力を武器に、アメリカ政府上層部に揺るぎない人脈を築いてい
 た。
  
・その日、ブッシュは、あらかじめたててあった日程を変えようとしなかった。
 彼は、変貌する東西関係とアメリカの国防戦略をテーマ撝演説することとになっていた。
 ブッシュはシンポジウムに集った聴衆に呼びかけた。
 「昨夜突如として起きた野蛮な侵略は、今日、私が言わんとしていることを実によく物
 語っています。ソビエトの脅威が激減したにもかかわらず、われわれの世界はいまなお
 深刻な脅威が存在する危険な場所なのです。
 かつての米ソ対立とは全く関係ないところで、アメリカの重要な国益が侵されようとし
 ています。
 私がこの二十四時間に目の当たりにしたように、脅威は、誰もが予期せぬうち突如とし
 て予想もしない場所で起こりうるのです。
 アメリカの国益は、危機にいささかも遅滞もなく対応できる軍事的能力を持ってのみ守
 ることができるのです。
 昨夜の出来事は、われわれがアメリカの安全保障を全うするだけでなく、正当な理由で
 自衛権を発動する同盟国を支援するためにも、必要な軍事力を護持しておくことがいか
 に重要かを物語るものです」
・ブッシュは同盟国の安全保障をアメリカが担うことに決然たる意志を示した。
 だが、砂漠の友人たちからの反応はいまひとつ冷ややかだった。
 ワシントンカラコロラドに飛ぶ大統領専用機「エアフォース・ワン」から、ブッシュは、
 サウジアラビアのファハド国王とエジプトのムバラク大統領の二人に電話をかけている。
 確かに彼らは、サダム・フセインに騙されたことを認めたが、アラブ世界で惹起した出
 来事は我われアラブ人の手で解決する、と自信を覗かせ、アメリカに助けを求めるそぶ
 りを見せなかったのである。
・演説後、ブッシュは、アスペンにあるイギリス大使の山荘で、サッシャ―首相と二時間
 にわたって会談した。 
 鉄の女のひと言は、ブッシュに決起を促した。
 「サダム・フセインをクウェートから叩き出すには、軍隊を即座に湾岸に派遣する以外
 に方法はありません」
 サッチャーはこうブッシュに迫り、国際的な反イラク軍事網を一日も早く築き上げるべ
 きだと説いた。
 「だが、フランスはどう出るだろう」
 「いいえ、心配に及びません。彼らは決定的な場面では、必ず、あなたの側につくはず
 ですサッチャーの説得は、その後の湾岸情勢の展開を左右することとなった。
 
・バンダルは、一度は罠に足を取られた手負いの狼だった。
 彼はホワイトハウスに対して「フセインにクウェート閉合の意図なし」と通報し見事に
 裏切られてしまったからだ。 
 むろん、このバンダル情報にはもっともな裏付けがあった。
 当のフセインがエジプトのムバラク大統領、サウジアラビアのファハド国王、このアラ
 ブ穏健派の二代巨頭に「侵攻せず」という言質を再三にわたって与えていたのである。
 アラブ世界の内側を少し知る者なら「元首クラブでついた嘘」がいかなる意味を持つの
 か、容易にわかるはずだ。
 外の世界に対してならいざ知らず、アラブの指導者たちの間で食言することは、政治的
 な死を意味する。
 それだけに、バンダルには、巧妙な偽装工作を施してまで
 「一度目は騙すほうが悪い。が、二度騙されるのは騙される奴が悪い」
 バンダルはこう呟いた。
 フセインの次なる獲物はわがサウジアラビアではないのか。
 王子はバクダッドの独裁者の策略に思いをいたすと、身震いするような戦慄を覚えた。
・「大統領はいまのところ湾岸への波形を最終的に決めたわけではない。だが、軍事オプ
 ションに傾きつつあることは間違いない」 
 「チェイニー国防長官」が公バンダルに告げた。
・「もしアメリカが本気で行動を起こそうとしているのなら、われわれの王族も喜んでお
 迎えすると思います」
 この時、バンダルは、アメリカの介入に関してファハド国王をはじめとするサウジ王家
 の了解をとりつけていたわけではなかった。
 だが彼は、アメリカによる軍事力の投入なしには、サウジアラビアはこの危うい局面を
 到底乗り切れまい、と確信していたのである。
・サウジアラビアに飛んだバンダル王子は、アメリカからの派兵を受け入れるよう、持て
 る材料のすべてを尽くしてファハド国王を説得していた。 
 「サダム・フセインが我が国の国土を狙っていることは間違いありません。国王、もし
 お疑いなら、ワシントンカラチャイに―国防長官が詳しく報告に参ります。ぜひとも彼
 らの説明を直接お聞きいただきたい」
・だが、ファハド国王は躊躇していた。
 国王はブッシュから幾度もチェイニーの派遣の話を電話で打診されていたのだが、
 「国防長官に来てもらえって、派遣をお断りするようなことになるとまずい。もう少し、
 ランクの低いミッションではどうでしょうか」
 と煮え切らない態度を示し続けてきた。
 バンダル王子による説得はブッシュの切り札だったのだ。
 ワシントンから飛んできた老いの執拗な進言に、ファハドはしぶしぶチェイニー一行の
 招聘に応じることにした。
・8月6日、チェイニー国防長官とシュワルツコフ司令官らを乗せた軍用機がサウジアラ
 ビアのジェッダに到着した。 
 その夜、一行は「夏の宮殿」にファハド国王を訪ねて会談した。
 サウジ側には国王のほか、アブドラ―皇太子をはじめ王族や閣僚らが陪席している。
 通訳はバンダル王子が務めた。
 階段には、サウジ駐在のアメリカ大使でアラビストのチャールズ・フリーマンも加わっ
 ていた。
 この時何が話し合われたかは、しばらくの間、軍事・外交戦略上の最高度の機密とされ
 た。

・サウジアラビアは、砂漠の勇将「イブン・サウド王」の手で建国されて以来60年間、
 その息子たちが順に支配者の座についてきた。
 1964年に第三代国王となったファイサルはこの国を近代化に導いた逸材として知ら
 れる。
・だが彼は75年、甥の手で暗殺されてしまった。
 政治よりも鷹狩に心を奪われていた第四代「ハリド王」は、在位わずか7年で病死。
 その後を襲ったのが、「ファハド」である。
 彼はヨーロッパの超高級リゾート地に専用のジェットで遊びまわり、カジノで勇名を轟
 かせた蕩児だ。
 生来、嫉妬深く、人を容易に信じず、決断力に乏しい、というのが中東専門家たちの一
 致した評価だ。
 それゆえに、ファハド国王が果たしてアメリカからの派兵を受け入れるかどうか、ホワ
 イトハウスでも見方がふたつに分かれていた。
・シュワルツコフは、イラク軍が48時間以内に国境を越えてサウジアラビアになだれ込
 んでこない保証はどこにもない、危機が間近に迫っていることを国王に告げた。
 飢えた野良犬の群れが家の周りを幾重にも取り囲んで牙をむいていいたにもかかわらず、
 クウェートのジャビル首長はついにアメリカに助けを求めようとしなかった。
 サダム・フセインが小国クウェートを手中にしただけで満足する、と国王はお考えでし
 ょうか。将軍はそうたたみかけた。
・「われわれは、アメリカの提案に承認を与えよう。この地にアラブの同胞を呼び集め、
 聖なる値をサダム・フセインの手から守るため、ともに立ち上がろうではないか」
 国王の答えは、事前の予想に反して、毅然としたものだった。
・ファアドは陪席している皇太子や外務大臣ひとりひとりに意見を求めていく。
 会談前、アメリカ側は、サウジ国内の保守派の動向が気がかりだった。
 とりわけ、論客のアブドラ―皇太子がどんな反応を見せるのか。
 アブドラ―はイブン・サウドの第十三子で、63年以来ずっと国家警備隊司令官の要職
 についている。  
・はたして、アブドラ―はファハドに強い口調のアラビア語で話しかけた。
 「わが国の軍隊でもイラクを相手に戦うことはできます。それにクウェートが国家とし
 て存在している限り、アラブ同胞の間で解決は可能です」
・「いや、今やクウェート国家の領土はわが国のホテルの一室だけになってしまった」
 ファハドは、クウェートのジャビル首長が滞在しているサウジアラビアのホテルの部屋
 だけがクウェート国家だ、と蔑むように言って、アブドラ―の情勢判断をきっぱりと退
 けた。
 
・安保理決議の採択には、常任理事国が一国でも拒否権を発動出ず、九理事国が賛成する
 ことが必要だ。 
 ベーカー国務長官はすでに九票は手中にしていたが、問題は常任理事国のソ連と中国は
 の動向だった。
 ベーカーはカイロで、中国の外相と会談し「拒否権を行使つもりはない」という言質を
 引き出すことができた。
 賛成票は要らない。棄権してくれればそれでいい。
 だが、難物はソ連だった。
 ソ連にはなんとしても賛成票を投じさせなければならない。
・ソ連の「ジェワルナゼ外相」は、武力行使 のアメリカ案に難色を示し続けた。
 「武力行使と明記すれば、国内を説得できない。もう少し婉曲的な表現にすべきだ」
・ソ連を抱き込むには、いつ、どんなカードを切ればいいのか。
 ベーカーはその機をじっと窺っていた。
 三日間に及んだ交渉が頂を極めたその瞬間、ベーカーは静かに妥協案をグルジアの仕事
 師に示して見せた。
 「婉曲的な表現」を五つほど紙に書き、それらの文言に修正を加えながら、シェワルナ
 ゼに「回答」を引き当てさせたのである。
 「あらゆる必要な手段」
・決議案には、武力行使を明示的に示す文言を盛り込まず、「あらゆる必要な手段」とい
 う表現のなかに武力行使を容認する意図を籠めることで、米ソ両超大国はついに手を握
 った。
 かくして、イラク軍がクウェートから撤退しない場合は、多国籍軍がサダム・フセイン
 軍を実力で排除する決議を、国連安保理が圧倒的多数で可決することが事実上確定した。
・だがベーカーは手綱を緩めなかった。
 国際世論が一致してイラクへの武力制裁を認めることを内外に示すには、賛成は一票で
 も多いほうがいい。少なくとも12票は欲しい。 
・ベーカーは、その名を聞いただけでも身震いがするほど嫌な国、マレーシアの外相とも
 にこやかな笑みをたたえて会談した。
 マレーシアの「マハティール」首相は、アメリカを排除した「EAEC・東アジア経済
 会議」構想を打ち上げて、ベーカーの逆鱗に触れた。
 だが、マハティールもそれしきのことに怯むような指導者ではない。 
 アメリカがアジアで覇を唱えることを批判し、折に触れて、ワシントンに抗う姿勢を示
 していた。
 アジアでもっとも扱いにくい国、それがマレーシアだった。
 ベーカーはこれまでの感情を見事なまでに押し殺し、マレーシアが欲しがっていたチッ
 プを気前よく投げ与えた。
・11月29日、国連安保理は、多国籍軍によるイラクへの武力行使を事実上認めた決議
 を圧倒的多数で可決した。
 15カ国中、賛成12カ国、反対はキューバとイエメンの2カ国。中国は棄権した。
・イエメンはなぜ反対票を投じたか。
 ベーカーはその真相を知っていた。
 サダム・フセインがサウジアラビアや湾岸の小産油国を手中に収めた暁には、その分け
 前をイエメンに割譲することを極秘裡に約束していたのである。
 この二日後、ブッシュ政権は、イエメン政府に対して7千万ドルの経済援助の中止を通
 告した。 

・バンダルがイスラエルの動向に突然触れたのは、食後のデザートが運ばれてきた時だっ
 た。
 「村田良平」大使はつとめて平静を装い、身を乗り出すような素振りは見せなかった。
 「サダム・フセインは必ずイスラエルに攻撃を仕掛ける。それもイラク国内に配備され
 たソ連製のスカッド・ミサイルを使って。問題は、フセインがどのタイミングを選んで
 イスラエルを攻撃してくるかだ。それが多国籍軍とイラク軍との戦端が開かれた後なら、
 われわれにも打つ手はある。たとえイスラエルがミサイル攻撃を受けても、われわれは
 ユダヤ人たちを説得する自信はある」
 「だが、サダム・フセインが真っ先にスカッド・ミサイルをイスラエルに打ち込んでし
 まえば万事休すだ。イスラエルは国家の生存を賭けて、イラクと全面戦争に突入するだ
 ろう。ひとたびイスラエルとイラクとの戦いが始まってしまえば、フセインは『アラブ
 の大義』を掲げて、アラブ急進派を糾合することができる。フセインの侵略はたちまち
 正義の戦いとなり、湾岸危機の性格を根底から変えてしまう。われわれは、断じてフセ
 インを英雄にしてはならない」
・村田のほうからは、湾岸危機に対処する日本国内の動きを説明した。
 国会で審議されていた国連平和協力法案は残念ながら廃案となり、日本が湾岸で人的貢
 献を行う道は大きく制限されることとなった。
 だがその一方で、日本政府は、多国籍軍に向けて第一次分として10億ドル、さらに第
 二次分として10億ドルの追加拠出を決めた。
 
日本への遺言
・内藤浩二は、枕の下から後頭部を突き上げられるような鈍い衝撃で目を覚ました。
 窓辺に駆け寄ってカーテンの隙間から外の様子を窺うと、街のあちらこちらから黒い煙
 が上がっていた。
 低空に爆撃機が3機見える。情装備の戦車が車道を占拠し、官庁街では市街戦が始まっ
 ていた。
・対クウェート国境に展開する総勢12万のイラク軍部隊は、90年8月2日未明、夜を
 こめて秘かに発進し、時を移さず、クウェート領内に雪崩をうって侵攻した。
・「中央銀行の金塊を奪え」
 イラク進攻軍のさきがけをつとめた式・当世部隊は、クウェート、シティ攻略を担当す
 る機甲師団ハムラビ」に標的を細かく指示している。
 情報省に向かった部隊は、クウェート国営テレビとラジオの放送施設を真っ先に破壊し、
 クウェート政府と市民のコミュニケーションを断ち切った。
・アメリカ大使館の南側に小さな通りをはさんで建つインターナショナル・ホテル。
 その四階に滞在していたのが、日本の外交官、内藤浩二だった。
・二、三日前からイラクの新鋭部隊がクウェート国境に集結し、両国の緊張が高まってい
 るという情報は耳にしていた。  
 だが自分の目の前に展開しているのが、本当に国境を突破してきたイラク軍だとは。
 内藤は、わずか二週間前にナイル河上流の国スーダンから赴任して来たばかりだった。
 アラビストの外交官として「アラブ的なるもの」と日々向きあってきた内藤にとっても、
 今の窓の外で起きている現実を受け入れるにはしばしの時間が必要だった。
・クウェートの日本大使館に連絡を入れると、「ここからでは十分に市街地の様子がわか
 らない。ホテル周辺の政府機関や王宮の様子を把握して報告してくれ」という指示を受
 けた。 
 内藤はさっそく通りに出ようとしたのだが、ホテルはすでにライフルを持ったイラク兵
 に包囲されていて、身動きが取れない。
 その後、彼はまる二日の間ホテルの一室にこもって、カーテンの隙間からイラク軍の動
 向を探り、大使館に刻々情勢を報告したのだった。
・アメリカ大使館は黄濁した水に浮かぶ孤島だった。
 イラクの戦車群に遠巻きに包囲され、星条旗の館は完全に孤立していた。
 電話回線だけが、大使館と外部の世界をかろうじてつないでいた。
・「エミール、いま大使館に近づくのは危険だ」
 大使館に電話をかけてきたエミール・スコードン参事官に、館員の一人が叫んだ。
 「近くで銃声が聞こえる。そこかしこで戦闘が続いている。エミール、君の家から日本
 大使館までは車ですぐのはずだ。とりあえず家族を連れて日本大使館に避難するのがい
 い。日本側にはこちらからも電話で連絡を取っておく。向こうに無事着いたら、必ず様
 子を知らせてくれ」  
・エミール・スコードンは、妻と娘ふたりを車の乗せ、ガレージの扉を開けるボタンを押
 した。住宅の周辺にはまだイラク兵の姿は見えない。スコードンはできるだけ目立たぬ
 よう日本大使館に向かおうと努めた。
・思わずアクセルを目いっぱい踏みそうになる。
 戦車が行く手を遮り、停止を命じられるのではないか。
 イラク兵に見つかって、背後から狙撃されるのではないか。
 実際にはわずか数分の距離だったのだが、スコードンにとっては、日本大使館は行けど
 も行けども遠ざかる魔の城のように思われた。
 日本大使館のゲートに車を入れてブレーキを踏んだ時には、彼の背中を冷たい汗がした
 たり落ちていた。
 彼は妻と娘の手を引いて大使館の建物に飛び込んだ。
 そこには、口髭のアラビスト、アキオ・シロタがいつもの温和な表情で立っていた。
 この日から、「城田安紀夫」はスコードン一家にとって生涯忘れ得ぬ恩人となった。
・床に大理石が敷きつめられ、鏡張りの柱が立つ大使館の広い地下室。
 天皇誕生日のナショナル・デーには、ここにクウェートの王族や各国の大使たちを招い
 て、華やいだ雰囲気のなかでレセプションがおこなわれる。
 だが、いまはこの場所は、スコードン一家をはじめ、イギリス人やカナダ人などの外国
 人19人と邦人261人を収容するシェルターとなっていた。
 外国人たちはこの後、12日間にわたって、地下室で日本人とともに籠城生活を続ける
 ことになる。
・イラク軍は外国人狩りを始めたらしい。
 クウエートの街から幾人もの欧米人がイラク側に捕らわれて連行されていく現場を目撃
 した、という情報が流れ、日本人にも累が及ぶかわからないという恐れが在留邦人の間
 に広がっていった。 
 大使館なら治外法権で、イラク軍も大使の許可なく立ち入ることはできないはずだ。
 日本人家族は当座をしのぐ物だけを抱え、必死の形相で大使館に身を寄せてきた。
・新しく避難家族がやって来ると、城田は彼らを地下室にではなく、まず執務室に招き入
 れてこう告げた。 
 「実は、お話ししておかなければならないことがあります。地下室には日本人以外の方
 も生活しています。その事実がイラク側に万一漏れるようなことがあれば、彼らが危な
 いだけではなく、皆さんの身にも危険が及びます。ここにいる外国人のことは、いかな
 る場合でも秘密にするよう約束してください」
・地下室の床を埋めつくす280人もの避難民。
 城田は、イラク軍にそれと気づかれぬよう、水や食糧を日々確保しなければならなかっ
 た。 
 そもそも大量の法人を収容する機能など大使館は想定していない。
 いったいいつまで籠城をつづけ、人々の安全を守り抜くことができるだろうか。
 折から夏期休暇で一時帰国中だった黒川大使に代わって、臨時代理大使としてすべての
 指揮を執ることになった参事官の城田には確信が持てなかった。
・クウェートからどのようにして法人を国外に脱出させるか。
 それには三つの道があった。
 第一は、クウェート空港の再開を待って、特別機を用意し、邦人を乗せて安全な国に向
 かう。これが最も望ましい脱出方法であった。
 しかし、クウェート空港はイラク軍の侵攻直後から閉鎖されたままだった。
 城田は、空港にひそかに館員を派遣して、滑走路の状態を探らせた。
 報告によると、二つの滑走路のうち、ひとつは砲弾で穴が開いており使用は不可能だっ
 たが、もうひとつの滑走路はいつでも使える状態にあった。
 だが、イラク側は飛行機による出国は認めようとはしなかった。 
・第二は、クウェートから車で陸路、サウジアラビアに抜ける。
 クウェート在住の日本人にとって、サウジアラビアへの道は休日のドライブでなじみが
 あった。
 だが、信仰の翌日には、イラク軍の戦車部隊がクウェート・サウジ国境に展開し、たち
 まち国境を封鎖してしまっている。
 現に、くる前で越境を試みたイギリス人がイラク兵に射殺されたらしい、という情報も
 伝えられていた。
・残された第三の手段は、車でいったんバグダッドに出て、ヨルダンに至る方法だった。
 これには非常な危険が予想された。
 だがイラク当局は、このルートなら認めてもいい、とのほめかした。
 このため大使館の地下室では、連日、バグダッドに向かうかどうかをめぐって話し合い
 が行われた。
・「イラクに向かうのは、悪魔の懐に自ら飛び込むようなものではないか。第一、イラクに
 住む日本人はすでにイラク当局の命令で出国さえできなくなっている。
 我われクウェート組だけがどうして第三国に出る保証が得られるのか。
 日本政府はイラクから明確な約束を取り付けているのか」
・城田も、そして本省も、こうした法人たちの問いかけに答えることができなかった。
 そうである以上、クウェートからの脱出は死への旅立ちとなる危険をはらんでいた。 
 結局、当分の間、全員で大使館の地下に立て籠もることになったのである。
・地下室では、食料の調達班、衛生管理班、通信班、情報収集班などが組織され、その整
 然とした運営は、避難してきたアメリカ人たちを驚かせた。
・だが、決断の時はやってきた。
 「8月24日正午をもって、クウェート・シティ各国大使館は一切の外交特権を失う」
 イラク政府がこう通告してきたのは20日のことだった。
・最後の決断を迫られたる城田と261人の邦人たち。
 バグダッドに行けば、サダム・フセインの人質になる恐れはあった。
 現に、彼の地の日本人は出国を禁止されていた。
 だがその反面、無秩序、無政府状態となったクウェートに留まるよりは、バグダッドに
 行くほうが死ぬ確率は小さいのではないか。
 バグダッドには大使館もあり、邦人を保護できる、というのが外務省の判断だった。
・だが、邦人たちは闇に引き込まれるような不安を拭い去ることができなかった。
 クウェート・シティで目撃したイラク軍の暴虐の数々。
 彼らは誰一人、サダム・フセインの善意など信じていなかった。
 邦人たちの一縷の望みは「バクダッドの日本大使館が、クウェートからの脱出者たちの
 ために宿舎を確保し、邦人保護に全力を尽くします」という外務省の説明だった。
 彼らは、明日への恐れを抱え込んだまま、イラク航空機に乗り込む覚悟を固めなければ
 ならなかった。 
 邦人たちのうち245人が外務省の言葉を信じてバグダッドへの道を選んだ。
・しかし外務省は、イラク政府から「日本人は人質にとらない」という言質ははっきりと
 取りつけていたわけではなかった。 
 この時、当局の捕捉の手がクウェートから逃れてきた欧米人たちに伸びていたのだが、
 外務省はその動きも正確につかんでいなかった。
 ただバグダッドで邦人たちのためにホテルを予約し、その旨をイラク当局に通告したに
 すぎなかったのである。
・この頃から、東京発のクウェート情報が途絶えがちとなった。
 とりわけ、邦人の動向に関するニュースは忽然と姿を消した。
 外務省が在京報道機関に対して「クウェートの在留邦人のバグダッドへの移送を完了す
 るまで、混乱を回避し、邦人の安全確保に万全を期するため」として、邦人移送の報道
 を控えるよう要請したためだった。日本人のメディアは、欧米人の移送は報じたが、邦
 人の動きについては一切口を閉ざしたまま沈黙を守った。
・厳しい報道管制が敷かれるなか、第一陣の79人がイラク航空の臨時便でバグダッド空
 港に到着した。 
 彼らは空港に待ち受けていたイラク当局からバス二台に分乗するよう命じられた。
 この時、79人は、バグダッドの日本人大使館があらかじめ予約してあったパレスチナ
 ・ホテルに投宿する手筈となっていた。
 しかし、35分後、バスが横づけされたのはまったく別のホテルだった。
 そこは、一足早くクウェートから移送されていた欧米人たちが「収容所」と呼ぶマンス
 ール・メリア・ホテルだった。
 この瞬間、一般旅券を持つ民間人65人は、イラク側の人質となったのである。
 第二陣としてバグダッド入りした13人の邦人も、同じようにマンスール・メリア・ホ
 テルに運ばれた後、自由を奪われた。
・クウェートでは、城田が、バグダッドに送り出した邦人たちの安否を気遣っていた。
 「邦人たちが無事、パレスチナ・ホテルに着いたのが確認され次第、ただちに知らせて
 ほしい」
 城田は、バグダッドの日本大使館を幾度も呼び出して念を押した。
・だが、クウェートとイラクの日本大使館の間には、明らかな落差があった。
 バグダッドにとっては、92人は単なる通過客に過ぎなかった。
 死力を尽くして彼らをイラク官憲からから守り抜く、という切迫感を欠いていた。
 だからこそ、クウェートからの一陣と二陣がパレスチナ・ホテルではなくマンスール・
 メリア・ホテルに連行された、という事実が明らかになった段階でもなお明確な対抗手
 段を取らず、クウェートへの速報も怠った。
・「イラク側の何かの手違いで、別のホテルに連れていかれたのでしょう。いや、すぐに
 解放されますよ」  
 バグダッドの日本大使館の対応はいたって楽観的だった。
 そうしている間にも、イラク当局は、マンスール・メリア・ホテルの邦人たちを国内の
 戦略拠点に移送する準備を進めていたのである。
 バグダッドの日本大使館は、邦人たちが予定外のホテルに収容された段階で事実上人質
 になった、という厳しい認識を持たなかった。
 それゆえ、彼らを救う手立ても遅れがちとなった。
・この段階で、第一陣と第二陣が別の場所に拉致された事実をバグダッドの日本大使館が
 正確に掴んでさえいれば、翌日にもクウェート出発を予定していた第三陣と第四陣の安
 全を確保する手段を講じることもできたかもしれない。 
・クウェートの日本大使館で第三陣以降の移送を検討していた城田のもとに、大使館員が
 駆け込んできた。
 「参事官、たった今、我々はイラク軍に包囲されました」
 城田は無念の余り、持っていたペンを握りしめた。
・イラク側の態度はますます慇勲となった。 
 「皆さんを大使館から出して無地に送り届けてあげますよ。どうぞ安心してバグダッド
 へ向かってください」
 イラク当局者は薄笑いを浮かべて宣告した。
 クウェートに留まるつもりならそれでもよい。
 俺たちは力ずくでお前たちをここから引きずり出していくまでだ。
 彼の目はこう語っていた。
・城田は、真っ先に鶴崎知弘電信官を呼んだ。
 「鶴崎君、いつイラク側が踏み込んでくるかもしれない。電信発信装置、暗号解読装置
 など公電発出二関わる一切のシステムを規定に従って壊してほしい」 
・城田と残された邦人たちには、もう選ぶべき道はなかった。
 翌23日の午後、第三人の86人と第四陣の67人はイラク航空機でクウェートを発ち、
 バグダッドへと飛び立っていった。
 人質になることはもはや避けられない。
 邦人たちが最後の拠り所とした日本政府は、なす術を知らず、手を拱いているより他な
 かったのである。
・この頃、東京では報道管制が解除され、邦人たちがほぼ全員マンスール・メリア・ホテ
 ルに軟禁された事実が一斉に伝えられた。
・この時、アメリカのメディアも、ペンタゴンによる凄まじいばかりの報道管制の渦に巻
 き込まれようとしていた。
・事実、今度の邦人移送にあたってしかれた報道管制は、外務省当局の判断の誤りを二日
 間にわたって隠蔽したにすぎなかった。
 そして、結果的にイラク側のトリック・プレイを完全なものにする手助けをしたのであ
 る。
・クウェートの日本大使館には、城田安紀夫と内藤浩二の二人が取り残された。
 彼らは自ら籠城を志願したのだった。
・城田は「日本という国のかたち」に思いをいたしていた。
 イラクという国が、その国家意志として日本領土たる大使館を侵し、自分を殺すような
 ことがあれば、わが政府はいったいいかなる対応をとるのだろうか。
 彼には、祖国日本の戦後の生きざますべてがいま問われているように思えてならなかっ
 た。 
・邦人たちの出発から一夜明けた24日の午後のことであった。
 城田と内藤がおそれていた事態がついに起きた。
 大使館を遠巻きに取り囲んでいたイラク軍が、館に通じる電線をすべて切断したのであ
 る。
 これでふたりも城を明け渡さざるを得まい、とイラク側は踏んだ。
 だが、この日に備えて、城田と内藤は、十分な水と食料を地下の倉庫に貯えていた。
 ろうそくもかなりの数を用意してあった。
・問題は通信手段だった。
 クウェート・シティとバグダッドの間には有事無線がある。
 だが、はたして無線装置を動作させる自家用発電機がうまく働いてくれるかどうか。
 内藤は、発電機を回して有事無線が作動するかどうか試してみた。
 発電機の出力は100ボルトから220ボルト。
 有事無線機が220ボルトで動く仕組みとなっているため、AC-ACコンバーターを
 利用して発電機につないでみるのだが、うまくいかない。
 事前に試験済みだったのだが、いくらやってみても、発電機がすぐに止まってしまう。
・内藤は電信室から離れなかった。
 スーダンのハルツームの日本大使館に在勤していた時も、館員が少数だったため、臨時
 の電信官としてしばしば電信機に向かったものだ。  
 彼は電子機器を扱うのが好きだった。
 少年時代から、トランジスタやICを使って小型ロボットや時計などをつくるのが趣味
 で、将来はコンピューター技師が天文学者になることを夢見ていた。
 だが残念なことに、彼は色弱だった。
 理系への進学を断念した内藤は、大阪外語大学のアラビア語学科に進んだのであった。
・電信室には、有事無線機のほかに、緊急時、邦人保護の連絡用に使う長距離無線機が備
 えてあった。 
 やや能力は劣るものの、有事無線が動かない場合のバックアップ・システムの役割を果
 たすはずだ。
 だが結局これも動かなかった。
 内藤は、発電機の出力を220ボルトまで上げることに無理があるかもしれないと考え、
 試しに有事無線の中を開いてみた。
 トランスに220ボルト、110ボルト、70ボルト、0ボルトの四つの入力が表示さ
 れている。
 思い切って、発電機から直接110ボルトにつなげてみよう・・・。
 懐中電灯片手に格闘すること3時間、奇跡は起こった。
 有事無線機が作動し始めた。
・夜になるのを待って、内藤はバグダッドとの交信を試みた。
 有事無線機には紙テープ、音声、キーの三つの通信方式がある。
 イラク側の盗聴を考えれば、紙テープかキーによる交信が望ましい。
 だが、彼は、あえて音声による通信でバグダッドの日本大使館を呼び出した。
・砂嵐の彼方から聞こえてくる人の声。
 不機嫌な有事無線機をなだめすかして、ついにバグダッドの声をとらえることができた。
 内容はこみあげてくる感激を抑えきれなかった。
 これで、バクダッド、そして外務省を経由し、神戸にいる母親にも自分の無事が伝えら
 れるはずだ。 
・咳き込むようにして近況を報告し、本省にもその旨、転電してくれるよう依頼した。
 さらに、イラク軍によって大使館の電気が切断されたこと、今後は自家用発電機を電源
 とした有事無線での交信だけがクウェート・バグダッドを結ぶ唯一の絆となることを伝
 えた。
 クウエートと連絡が取れたことを聞きつけたイラク駐在の「片倉邦雄」大使も電信室に
 駆け込んで、マイクを握った。
 
・つい先日まで、クウェートの地下室で城田らと起居をともにしていた邦人たちは、いま、
 バグダッドのマンスール・メリア・ホテルで幽閉生活を余儀なくされていた。
 日本への帰国のめどが少しも立たないばかりではない。
 多国籍軍の攻撃を抑止する「人間の盾」として辺境の戦略拠点に拉致される恐怖に怯え
 る毎日だった。
・バグダッドの大使館四階の一室には、人質にとられた邦人たちをよく知るクウェートの
 大使館員が集まり、救援のチームを結成した。
 どこに何人が収容され、どのような待遇を受けているのか。
 ノートには、人質ひとりひとりの名前と収容所、健康状態などがびっしりと書き込まれ
 ていた。
・マンスール・メリア・ホテルに隔離された邦人たちの動静を探るため、大使館は、イラ
 ク当局を介して、乳児用の紙おむつと粉ミルクを差し入れた。
 実は、この紙おむつには細工が施されていた。
 横漏れを防ぐサイドギャザーの内側にメッセージが隠されていたのである。
 「短波受信機でラジオ日本の放送を聞いてください」
 「ホテルの外の動きに十分な注意を払ってください」
・その頃、NHKの国際放送「ラジオ日本」では人質が聞いていることを期待して、彼ら
 に向けた情報をアフリカのガボン共和国を中継基地に、イラクへ放送していた。
 また、大使館のスタッフはジープの屋根にペンキで日の丸を描き、マンスール・メリア
 ・ホテルの周辺をぐるぐると巡回した。
 日本人がベランダから日の丸を見つけて、自分たちの動静に注意が向けられていること
 を知れば、少しでも励みになると考えたのである。
 だが、しばらくするとイラク側が気づいて、人質はベランダに出ることを禁じられてし
 まった。 
・8月25日、人質になっていた日本航空のパーサーやスチュワーデスから、待望の返信
 が大使館に届けられた。
 「生理用品と男性用シャンプーが極度に不足していますのでお送りください。個数は、
 以下の通りです」
 女性と男性を示唆する品物に託して、ホテルに収容されている法人の数を符牒の形で知
 らせてきたのである。
 イラク側は日本語のわかる者に通信文を厳しく検閲させていた。
 このため、ホテルの邦人と大使館は検閲官にそれと気づかれぬよう様々な工夫を凝らし
 てメッセージのやりとりを続けねばならなかった。
・こうした通報をもとに大使館では、イラクの地図に人質が収容されている戦略拠点の印
 をつけ、人数分のピンを打った。
 そして毎日、人質の動きを細かく修正していった。
・日本政府にとっては、これらの人質情報は何としても必要だった。
 もし大規模な戦闘が始まれば、イラク軍の軍需工場や発電所などはたちまち攻撃目標に
 なってしまう。 
 こうした戦略拠点に何人の人質が収容されているかを正確に把握し、外務省を介して多
 国籍軍に知らせなければならない。
 人質が空爆の標的となるのを防ぐには、精緻な情報だけが力だった。
・当局側には果たして日本語を自由に読み書きする協力者がいるのだろうか。
 そうだとすれば、あの「消えた男」に違いない。
 こんな観測が邦人の間でしきりだった。
 男は日本人とイラク人の混血青年で、湾岸危機が起こる二ヵ月前にバグダッドから忽然
 と姿を消している。 
・大使館員たちは、知恵の限りを尽くして「消えた男」の裏をかき、各地の人質と交信を
 続けた。
・バグダッドの日本、アメリカ、イギリス、フランス、それにドイツの各大使館は、定期
 的に秘密の会合を行って人質情報を交換していた。
 日本大使館の代表は、日本人の人質との秘密交信で得られた最新情報を提供する。
 アメリカやイギリスの大使館員たちは懸命にメモととり、人質の人数と収容場所を日本
 側に確認した。
 中東にかけては自分たちが遥かに経験も豊かで先達だ、という潜在意識が王寧の外交官
 にはある。
 だが、この人質情報の交換ミーティングは、阿東的に日本の売手市場だったのである。
・人質たちは、三十ヵ所に及ぶ工場や発電所に分散して収容されていた。
 イラク側は、人質の所在を掴ませまいと、西側の目を欺いて移送を何度となく繰り返す。
 そのため、いったい、どこの国の人質が何人どこにいるのか、その詳細を把握するのは
 至難の技であった。 
・時折、アメリカ大使館の代表が「米企業筋から入手した」という情報を日本側にくれる
 こともあったが、抜群の精度を誇っていたのはやはり日本だった。
 「人質になった邦人たちのネットワークがよく、組織力も際立っていました。組織の日
 本、故人のフランス、忍耐のドイツ、知恵のイギリス、とよく話したものです。それに、
 情報と支援物資の両面で人質をバックアップする商社マンたちの能力も高く、おかげで
 われわれがもっともよく全体状況を把握できたのです」
 秘密会合に参加していた日本大使館員のひとりはこう述懐している。

・イラクの侵略に対する最後の抵抗の証だった城がついに落ちた。
 城田と内藤は、在クウェート日本大使館を明け渡すことになった。
 ふたりは、最後まで手元に残していた機密書類を素早く焼却し、わずかばかりの主事品
 を携えて空港に向かった。
 侵略の日からほぼ一ヵ月。窓に広がる光景は、凄惨にして荒涼とした傷跡を随所に刻印
 し、戦争が分泌するどす黒い血痕を街角に塗り付けていた。
・城田がバグダッドの空港に降り立ち、ロビーに出ていくと、白髪の日本人男性がひとり
 立ちすくんでいた。 
 駐イラク大使の片倉邦雄であった。
 「城田君、苛酷ななかで長い間本当にご苦労をかけました・・・」
 片倉は言いあぐねて言葉をつまらせた。
 「クウェートの邦人がイラク側に人質に取られてしまったのは、われわれの判断の甘さ
 からだった。君には本当に申し訳ないことをしてしまった・・・」
 ここまで言うと、片倉は大粒の涙を流して、城田の手を握った。城田は無言のままであ
 った。
・片倉は驚くほどの率直さで城田に陳謝した。
 だが、真に責任を問われるべきは日本政府そのものであった。
 この時すでにイラク国内の戦略拠点に人質として移されていたクウェートの邦人たちに、
 政府はその情勢判断の誤りを告白して、心から詫びるべきであった。
・邦人移送の初動段階で自ら侵した過誤に苛まれていた片倉は、各地に散らばる人質たち
 を訪ねる機会を窺っていた。
 イラク当局との長いやり取りの末、片倉に許可が下りた。
 名目は、日本の経済協力で建設された工場の施設などを視察するというものだった。
・片倉には、通産省から出向いていた技官の山近英彦が同行することになった。
 ヨルダン国籍の運転手を加えた三人は、四輪駆動のジープに差し入れの物資を満載し、
 バスラに向けて出発した。
 ジープに急遽、国旗が取りつけられた。
 こうすれば、建物のなかに収容されている人質が大使の来訪に気づいてくれるかもしれ
 ない、という微かな期待もあった。 
 事前の調べでは、イラク南部の都市周辺の発電所、精油所、そして肥料工場に日本人の
 人質がいるはずだった。
・片倉と山近は、バスラ北部郊外のハリーサ発電所を訪ねて、対応に出た所長に探りを入
 れた。
 「ここに日本人が収容されていると聞きました。短時間でいいから会わせてもらえませ
 んか」
 「いや、日本人などここにはいない」
 片倉らは、にべもなく追い払われてしまった。
 だがこの姿を遠くの施設の窓からじっと見入っているふたりの日本人がいた。
 彼らは警備兵の目を気にして、ジープに翻る日の丸に向かって声をかけられなかったと
 いう。
・片倉らは、シュワイバ製油所でも人質への面会を求めたが、イラク人工場長に「取り次
 げない」と断られた。
 「あなたがたはいったいどこからやって来たのか」と尋ねる工場長に、片倉がアラビア
 語で「アッラーの声に導かれてやってきたんですよ」と応じ、差し入れの食料や衣服、
 雑誌などを渡している。
・この製油所は新潟鉄工によって建設されたものだった。
 そこで片倉は「日本の経済協力でできた製油所をぜひ視察したいので、車を貸してほし
 い」と頼み込み、敷地のなかを回ってみた。
 片倉は、山近とふたりで人質が収容されているとみられる社員住宅まで近づいてみた。
 すると鉄条網をはりめぐらしたグラウンドで日本人の一団がなんとソフトボールをやっ
 ているではないか。 
 外野を守っていた髭の男がフェンスまでボールを追いかけてきて、ふたりを見つけた。
 驚いて「日本人ですか」と呼びかけてくる。
 「バグダッドの日本大使館から来た大使の片倉です」
・偶然とはいえ、ようやく会うことができた日本人の人質たち。
 苛酷な日々がその表情や服装から痛いほど伝わってくる。 
 「身体の調子はいかがですか。いま少しのがんばりです。もう少しだけ辛抱してくださ
 い。若干ですが、差し入れを持ってきました」
 片倉は、ようやく、これだけを口にすることができた。
・片倉は、日本人の名簿を示して、ひとりひとりの動静を確認した。
 そして「日本人以外に誰がいるのですか」と尋ねた。
 「イギリス人がいます。クウェートのサフランからここに連れてこられたと言っていま
 す」 
 これらの情報はのちにイギリス側に伝えられ、その身元が判明している。
・しかし反面、片倉のバスラ訪問は、人質となっていた邦人の命を危うくするリスクをも
 伴っていた。 
 バスラの空港に抑留されていた人質のひとりは述懐する。
 「われわれはもはや日本という国に命を救ってもらおうなどという期待は抱いていませ
 んでした。官僚たちは自らは安全地帯にいて、デスクワークで人質救出をやっていたに
 すぎなかったのです。
 クウェートでもバグダッドでも、われわれ民間人の家族は、役人たちの家族に比べては
 るかに辛い環境に置かれていました。
 私が得た教訓は、たったひとつ。生き残りには自分自身を頼る以外にない、ということ
 でした。片倉大使の善意は理解できますが、大使がバスラ一帯に現れて以降、当局の監
 視が一段と厳しくなったことも事実なのです」
・日の丸を翻した大使車が次に訪ねたのは、コーラルズベール肥料工場だった。
 二十年前、JAICA・国際協力事業団の援助で建設された化学プラント工場で、アン
 モニアや窒素などの肥料が生産されている。
 ここでは、かつて日本を訪ねたことのある工場長が応対に出て、好意的に取り計らって
 くれた。だが面会は許されなかった。
 片倉が、日本からの食料品や雑誌を日本の人たちに渡してほしい、と工場側に託してい
 たところに、ジープの運転手が興奮して飛んできた。
 「日本人の人質が外を散歩している。彼らは日の丸を見つけて日本人に会いたいと口々
 に叫んでいる。だが警備兵が『あっちへ行け』と追い払ってしまった」
・日本人の一団は朝の散歩をしていたのではなく、別の棟で朝食をとった帰りだった。
 そのなかに、東京海上火災のクウェート事務所長、長尾健がいた。 
 彼は、工場が建設された当時、作業員が寝起きしていたバラックに収容されていた。
 肥料工場特有の強烈な臭い、ボイラーの唸る騒音。そして猛暑。
・人質のなかには、不眠から神経を病む者も出始めた。
 食事は工場で働くイラク人の工員と同じものがあてがわれた。
 日本でならとうてい口にすら運べぬ代物だったが、ここで生き抜くためには臭覚を殺し
 て喉の奥に放り込むしかない。 
・バスラの肥料工場に収容されていた長尾が、バグダッドの片倉大使に宛てて書簡を送っ
 たのは9月末だった。
 だが、この手紙が、イラク当局の検閲を経て、片倉のもとに届いたのは中東でも秋の気
 配が濃くなった11月半ばのことであった。
・片倉は、苛烈な状況下でしたためられたこの書簡を幾度も幾度も読み返してみた。
 行間には、片倉が生涯をささげて奉職した外務省と日本政府への手厳しい批判が滲んで
 いる。
 だが、彼は長尾の思いを素直に受け止めることができた。
 そこには、人質として命を危機にさらしている人間の身が語りうる言葉のずしりとした
 重みがあった。
 戦後の輪が日本の生きざまに対する烈しい問いかけが脈打っていた。
 「日本は幸いにして軍隊を持たない唯一無二の平和憲法国家であり、かつその世界に対
 する経済の影響力は絶大なものがあるのですから、独自の立場でこの紛争の平和的解決
 のために貢献すべきであり、ひたすらアメリカの覇権維持のための世界戦略に盲従する
 の体は、日本をアメリカの属国として錯覚しているのではないかとの懸念を持たざるを
 得ません。
 我々は決して希んで人質のみとなったわけではありませんが、フセインの言うようにピ
 ースメーカーとしての役割を担っていることも確かであり、平和解決のためにこの生命
 が役立つなら、嬉々として捧げる日本男子としての覚悟は既に出来ております。
 我々は、日本政府が確固たる独自の外交策を打ち出し、毅然としれを実行するなら、
 我々の解放が諸外国の人質に比し最後になろうと、何年になろうと、あるいは命さえ奪
 われても、義のために死すことを潔しとできると確信し、また我々の家族もそれに感得
 することも出来ましょう。
 しかしながら、現在のような日和見的なご都合主義外交はインディペンダントな国の外
 交とはいえず、このような外交策の犠牲に身を晒すのは最も忌み嫌わんとするところで
 あります。この紛争に際して、日本は当事者ではないが、対岸の家事を拱手して傍観す
 る者であっては男児でならないと思われます。この紛争は、今後の日本外交スタンスを
 決めていく上で重要な分岐点に来ているといえます。
 政治家、閣僚、専門家のあらゆる英知を集めて、日本の繁栄が継続し、世界の国民によ
 り畏敬されるような外交方策を練り、必ずや紛争が平和裡に解決されるよう切に切に希
 望する次第です」

中東貢献策漂流す
・サダム・フセイン軍のクウェート・シティ攻略からまる一日がたった日本時間の8月3
 日。東京市場で、ディーラーのひとりが、債権の売却伝票にふと目をとめた。
 それは今まで一度も目にしたことがない流れ星にも似ていた。
 伝票にはこれといって不備な点はないのだが、ディーラーはどこか腑に落ちないものを
 感じ取った。
 彼は伝票を手に上司のもとに駆け寄った。
 「ちょっと奇妙な売却伝票が回ってきたのですが、一応、お耳に入れたほうがいいと思
 いまして」
・この上司は、大蔵省係の同僚を電話で呼び出して、不審な売り注文の件を相談した。
 「どうも、イラクが背後にいるような気がするのだが」
 「やはり、怪しいと思う。大蔵省に通報しておくほうがいいんじゃないか」
・こうして「クウェート自民革命委員会」から指令された債権売却の事実は、すぐさま大
 蔵省の証券、国際金融の両極に報告された。
 そして、大臣官房秘書課を通じて、金融政策全般を預かる「橋本龍太郎」大蔵大臣のも
 とにも伝えらえた。 
 「クウェート関係の取引については最大限の注意を払え。本当の所有者からの注文かど
 うか確認できるまで売却に応じるな、マーケットに指示を出してくれ。責任は俺がとる」
・その朝、東京の証券金融市場には、クウェートの政府や民間が所有している資産を売り
 払ってほしい、という注文が様々なルートを通じて出されていたのだ。
 依頼主の大半が「クウェート人民革命委員会」と名乗る機関だった。
 橋本は、とっさの判断で、クウェートやイラクに関する不審な売買についてはすべてス
 トップしろと指示したのだった。
・法的な根拠や強制力は持たないが、関連の業界にとっては絶大な権威を持つ「大蔵の行
 政指導」の発動である。
 イラクによって主権を事実上奪われたクウェート政府の資産を緊急に保全する措置とし
 ては、イギリスと並んで西側主要国のなかでは最も素早い決定だった。
・日本政府が
 (1)イラク、クウェートからの石油輸入禁止 
 (2)イラク、クウェートへの輸出の禁止
 (3)イラク、クウェートに対する資本、融資、その他知権取引の停止のための適切な
    措置
 (4)イラクに対する経済協力の凍結
 の四項目からなる経済制裁措置を発表したのは、それから二日後の8月5日であった。
・官僚機構が戦後培ってきた手法でなんとか対応できる経済制裁などの分野では、日本政
 府は他の西側先進国に伍して、さほど見劣りがしない方策を打ち出すことができた。
 だが反イラク国際包囲網の先陣にとどまることができたのはそれまでだった。
 湾岸で危機が深まり、国内の法律や行政指導のガイド乱が想定すらしていない新たな事
 態が次々と起きてくると、極東の経済大国は、たちまち危機対応能力の欠如が露呈する
 ことになる。  

・8月14日早朝、ブッシュ大統領から海部首相に電話が入った。
 この電話で、ブッシュは海部に掃海艇や給油艦の派遣を求めてきた。
 「日本も西側共通の利益を守るため行動しているというシグナルを世界に送ることが重
 要だと思う。日本が掃海艇や給油艦を中東の海域に出してくれれば、それを実証するこ
 とになる。ソ連でさえ海軍の派遣を検討してくれているのです」
・ブッシュの予想外の注文に驚いた海部は精一杯の抵抗を試みる。
 「わが国としても無論、できるかぎりの公権はするつもりです。しかし、軍事的な分野
 については憲法や国会での議論もあり、難しい点もあるのです」
・だがブッシュは納得しない。
 日本政府が憲法上の制約を抱えていることは承知しているが、後方支援の分野ならそれ
 に触れないのではないか、と指摘して多国籍軍への協力を強く求めたのだった。  
・この電話会談から四日後の8月18日、運輸相の林淳司事務次官は、首相官邸に官房副
 長官の「石原信雄」の執務室を訪ねた。
 石原の要請は、まず日章旗を翻した日本籍船をペルシャ湾に浮かべてほしい、という点
 であり、救援物資の輸送はそれに次ぐものだった。
 急ぎ検討してくれといわれても、いかなる船型のものを何隻用意し、どんな貨物を誰の
 責任で運ぶのか。まったく雲をつかむような話だな。
 林にとっては疑問だらけの要請だったが、その日はとりたてて何も言わないことにした。
・ブッシュから海部へ、海部から石原へ、石原から林へ、と「アメリカの意向」がリレー
 されるためにつれ、座標軸が徐々にずれていった。
 やがて霞が関では@終える車椀に浮かぶ真っ白な病院船の船腹に大きな日の丸を」とい
 うイメージが独り歩きを始めることとなる。
 これは単なるミスコミュニケーションではない。
 霞が関の官僚たちは、新たな政策決定を行う場合、マス・メディアの反応や国会論議を
 先取りして問題点を回避する傾向がある。
 湾岸への輸送協力にあたって、従来の国内世論を斟酌すれば「軍事協力より平和協力」
 を選択したい、と考えるのは当然だった。 
 その結果、イラク軍侵攻の危機に晒されて一刻も早く軍需物資を現地に送り込みたいア
 メリカとの間に、受けがたい乖離が生じていったのである。
・運輸省外航課には難問が次々とふりかかってきた。
 「うちの自動車運搬船がイラク向けの四輪駆動車やトランクを積んですでにペルシャ湾
 に向かっています。この船の処遇をどうすればいいでしょうか」
 日本郵船から村上伸夫外航課長に相談が持ち込まれた。
 船は制裁措置の決定以前に輸出許可を適法に受け、「アガバ港」(ヨルダン)に向かっ
 たものであり、寄港地もイラクやクウェートではない。  
 黙認してもいいのではないか、という見解が省内にもあった。
・だが、世界の眼はアガバの港に注がれ始めていた。
 シナイ半島を扼するアカバの港は湾岸の戦略上の要衝である。
 多国籍軍側は、この紅海の港こそイラクへの経済封鎖破りに使われている秘密ルートだ、
 と監視を強めていた。
 もしこの自動車運搬船が多国籍軍の臨検を受け、軍事輸送にも使用可能なジープやトラ
 ンクを積んでいることが明らかになれば、日本が封鎖破りに荷担しているかのような印
 象を与えてしまう。
 村上は結局そう判断し、翌日に迫っていたアカバへの入港を急遽中止するよう連絡した
 のだった。
・日本郵船はアカバを眼前にこの船に反転を命じた。 
 これに対して、イラク側の荷主は、船を今度はイラクに友好的なイエメンの港に寄港さ
 せ積荷をおろすよう求めてきた。
 村上にはイラク側の意図が読み切れなかったが、イエメンへの寄港も拒否するよう日本
 郵船に連絡した。
・8月21日、「寺島潔」国際運輸・観光局長は、日本を代表する三大船会社の社長を執
 務室に招き、湾岸への輸送協力を要請した。
 「多国籍軍への輸送協力は本来政府が担うべき役割のはずです。なぜ前線にわれわれ民
 間企業が出て行かなければならないのでしょうか」
 「われわれが最も心配しているのは、紛争の一方の当事者に加担することによって、
 将来のビジネスにマイナスとなることです。我々の大切な船の船歴に傷がつきます」
 「もし仮に船体が提供できたとしても、船員の手配は全日本海員組合の問題もあってお
 そらくメドが立たないでしょう」
 大手船会社側は、労働組合を口実に事実上、運輸省の要請をやんわりと断ったのだった。
・その日の夜、村上らは大手三社の部長クラスとの話し合いをもった。
 夜の席なら彼らの本音を聞き出せるはず、と思ったからだ。
 「なぜわれわれだけに声がかかったのでしょうか。こんな仕事を引き受けることは営業
 的には大きなマイナスとなります。政府のこのような活動にはできるだけ関わりたくな
 い。もし何らかの形で協力するとしても、会社や船の名前は絶対に表に出すわけにはい
 きません」 
 「だいたい、今回の協力は兵站輸送の性格を帯び、われわれの船を危険に晒すことにな
 る。いったい、政府は結果に対して責任を負ってくれるのですか」
 「危険を伴う任務である以上、われわれの船員に業務命令を出し、配乗するわけにはい
 きません。つまり、われわれは配乗に責任を持つつもりはなく、また持てもしないので
 す。もしどうしても、とおっしゃるなら、船体は何とか提供できるよう協力してみます
 が、できれば政府が裸用船するか、船体を買い上げてほしい。
・彼らは既に社会で周到な事前打ち合わせを終え、堅固な理論武装をして、この場に臨ん
 でいた。そして昼間の社長たちの意向をより明確に運輸省側に伝えてきたのだった。 
 「政府としては、船体だけの提供を受けてもどうしようもないじゃありませんか。これ
 では日本の船会社として何の協力もしないというのと同じですよ。我々はそう受け取ら
 ざるをえない」
 国際運輸・観光局の大金瑞穂次長はこれら三社の対応を強い語調で難詰した。
・だが彼らは、何と言われようと前面に出て協力することはできず、自社の社員を危険に
 さらすわけにはいかない、という立場を崩さなかった。 
・運輸省の大金と村上は、妥協案を船会社に提示した。
 「便宜上、新たな船舶運航会社を設立してもらえませんでしょうか。そこへ各社から自
 社船を裸用船として出し、新会社が乗組員を配乗する。そのうえで政府が新会社から船
 舶を用船することは可能じゃないですか」
・翌22日、大手三社から、全日本海員組合への十分な配慮を行うとの条件付きで「基本
 的に受け入れる」との回答が寄せられた。
 かくして、大手三社の名前を巧妙に消し去った「ダミー会社」構想が浮上した。
・だがその一方で、運輸省内には、民間企業が湾岸への輸送協力に手を染めることに依然
 根強い抵抗があった。 
 時間の林淳司は、輸送協力を実施するに当たっては前提条件をはっきりさせるべきだと
 主張して譲らなかった。
 「多国籍軍への軍事協力にならないようにすることが重要だ。我が国の船や航空機がア
 メリカ軍の指揮下に入ることは断じていけない。日本政府の管理下で輸送を実施しなけ
 ればならない」
・関係閣議会議を翌日に控えた8月25日、寺嶋は、運輸省の進めている輸送協力計画を
 有力者議員に説明する事前の根回しに奔走した。
 今度の輸送協力プロジェクトにも大きな発言力を持つ橋本大蔵大臣に報告に出向いたと
 きのことであった。
 橋本は、
 「平和物資の輸送という君たちの考え方はよく理解できるんだよ。しかし、アメリカが
 期待している輸送協力とはかなりズレがあるんじゃないかな。ブッシュ大統領から総理
 にかかってきた電話の内容を君たちは知らされていなかったのか。兵站輸送を言ってき
 たんだぞ」
・アメリカ政府から日本に要請してきているのは、周辺諸国への平和物資の輸送などでは
 ない。兵站輸送そのものである。その事実を、運輸省はこの時初めて知らされたのだっ
 た。
・だが翌日の会議では、運輸側は、あくまで周辺諸国への援助に限って輸送協力を実施す
 る、という従来の方針を主張した。 
 が、会議での賛成は得られなかった。
 やむなく運輸省は方針を変更し、直接的な軍事物資の輸送はしないが、中東に展開して
 いる多国籍軍への後方支援には協力することを渋々決断したのだった。
・後方支援への協力を運輸省が受諾したのを受けた、アメリカ大使館のウィンダー公使と
 サンバイエフ書記官が直接運輸省を訪ねてきた。
 「いまアメリカが最も必要なのはロール・オン・ロール・オフ船だ。ワシントンからは、
 いますぐに十隻、二週間後にもう二十隻欲しい、と矢の催促なのです」
 対応に出た寺嶋と村上は、アメリカ側の意外な要求に驚いた。
・一般には耳慣れないこの型の船は、荷物を積んだトラックなどの車両をそのまま船積み
 できるよう造られている。  
 アメリカにはこうしたロール船の数が極めて不足していた。
・外務省北米局の連中が「アメリカの意向だ」とわれわれに言ってきている話とまるで違
 いじゃないか。 
 最初は、軍への後方支援だと正直に言わず、今度は、船の種類もアメリカ側から直接聞
 くまで知らせもしなかった。
 外務省への不信の念が次第に膨らんでいった。
・この直後、運輸省が外務省に厳重な抗議を行った。
 アメリカ政府の要望を公電ではっきりと見せてほしい、と申し入れたのである。
 外務省も運輸省の剣幕に押されて、しぶしぶ公電を届けてきた。
 そこには、今まで官邸や外務省経由で帰化されていたこととは別の事実が記されていた。
  
・この頃、ペンタゴンでは、後方支援の担当者たちが大型コンピューターを前に徹夜でサ
 ウジ大輸送作戦の計画を練り上げていた。
 日露戦争中、シベリア鉄道を使ってヨーロッパから極東に兵員と物資を送り込んだロシ
 ア陸軍の後方支援担当参謀たちは、壁に巨大なダイヤグラムを貼り、輸送列車の運行計
 画をつくったに違いない。
 国防省では、手書きのダイヤグラムがすべてコンピューターにインプットされたデータ
 に変わっていた。
 何をいつ、どこからどこへ、どうやって運ぶのか。
 コンピューターが吐き出した書類の厚さは90センチ。
 湾岸の戦いは、彼らにとって、コンピューターとの格闘であった。
・ペンタゴンがいざ軍需物資の手配を始めてみると、モノは用意できでも、運ぶ手段が決
 定的に不足していることが明らかになった。 
 国防総省は、国務省に対して「日本に輸送船の協力を頼んでくれ。それも、重量のかさ
 ばる車両の輸送に耐えるロール船を至急手配して欲しい」と催促した。
・アメリカ軍が最初にサウジアラビアに送った輸送船は、それはひどい代物だった。
 港で第二次世界大戦当時の苔むす船を見た兵隊たちは「このオンボロ船で本当に大西洋
 を渡しきれるのか」とみな不安げだったという。
・こうしたなかで、8月27日、外務省北米局審議官の「丹波實」は、日本の第一次中東
 貢献策の概要をあらかじめアメリカ政府に説明するため、ワシントン入りした。 
 これまでも外交官として、本省の訓令によって木の進まない案を戦法に手交する辛い役
 回りを幾度も体験してきた丹波だったが、今度ばかりは「とてもいかんな」と同行の若
 手外交官「石井正文」に呟いている。
・会議の冒頭、丹波は、英国の外交官「ハロルド・ニコロソン」が著書「外交」のなかで
 紹介しているヘンリー・ウォットン卿のことばを引いた。
 「外交官とは、外国に使いして、御国の為に虚偽のことばを吐かなければならない、
 誠実な人間のことをいう」
 「私は、日本の外交官として、あなた方の側に座ってわが国を笑うことをしたくない。
 振り返ってみれば、敗戦で灰燼に帰した日本は、いまわれわれが持っている憲法でしか
 生きていくことができなかったのだ。そのレガシー、なんといえばいいか、その引きず
 っているものはずしりと重いのです。
 あなたがたから見ると、何をしているのか、と見えるかもしれない。だが、私はわが国
 が日米同盟を選ぶかどうかと問われれば、一切の躊躇なしにイエスと言いたい」
・この協議を終えて廊下に出た丹波をペンタゴンの担当官が呼び止めた。
 そして軍事衛星がとらえたペルシャ湾の写真をつきつけた。
 「丹波さん、これを見てほしい。ペルシャ湾内の浮かぶ二十隻のタンカーだ。このすべ
 てが日本籍か、日本がチャーターしたものだ。日本の船や飛行機を中東海域に派遣する
 には、どうやら労働組合の主任が必要らしいが、ここに浮かんでいるタンカーをどう説
 明するのか」 
 丹波はただ沈黙するしかなかった。
・丹波から報告を受けた外務省は、アメリカ側のクレームを運輸省に伝えている。
 これに対して、国際運輸・観光局は、ペルシャ湾内の日本のタンカーが数多く行ってい
 るのは事実だが、二十隻すべてが日本の船だとは、いかに軍事衛星でも運航計画と詳細
 に照らし合わせてみなければ確認する術がないはずだ、と強い反発を示した。
・運輸省の寺嶋は、局長室の執務机で船会社の名簿を操っていた。
 あの人なら、もしかすると自分の頼みを聞いてくれるかもしれない。
 「現在、新聞を騒がせている国際貢献に関する件で、佐藤さんに何としてもお力を貸し
 ていただかなければなりません」
 寺嶋は大手三社の間で内々にまとまったダミー会社構想を手短に説明して、船の手配を
 「佐藤國吉」の経営する「佐藤國汽船」に引き受けてほしい、と懇願した。
 「局長がそこまで言わはるんやったら、させてもらいます」
 佐藤國吉は、受話器の向こうで即座に答えてくれた。
 「あの時、アメリカさんが粉ミルクを送ってくれて助けてくれた恩義がありますわな。
 そのアメリカが戦をして困ってはるんだったら、加勢するのは日本国民として当たり前
 のことですわ」
・佐藤國汽船は、日本郵船の全面的な後押しを受けて、パナマ船籍だった輸送船を取得す
 る。インド人の船長とフィリピン人の船員たちを一時金をはずんで解雇し、日本人の乗
 組員を全国から集めて配乗した。船は「平戸丸」と命名された。
・船に日本名を冠するのは容易いが、日本人船員を乗り込ませるためには大きな難関を越
 えなければならなかった。組合問題である。
・船員の全国組織である全日本海員組合は、日本では珍しい産業別組合だ。
 日の丸輸送船を現地に送り込むには、全日海の了解をとりつけることが不可欠だった。
・寺嶋は、全日本海員組合の中西昭士郎組合長の説得に乗り出した。
 中西は寺島の要請にこう応じている。
 「輸送協力自体に頭から反対するともりはありません。しかし、われわれが相談も受け
 ていないうちに、輸送に非協力だ、とマスコミが決めつけるのが納得いかない。私がけ
 しからんと言っているその点なのです。協力するかどうかはまず内容を検討してからで
 す。私一人で決めるわけにはいきません」
・翌8月28日、全日海は、軍事力の行使に直接つながる輸送は拒否するものの、乗組員
 個々人の拒否権と危険海域に入らないことが保障されるなら、政府の要請に応じてもよ
 いという方針を運輸省に伝えてきた。   
・難産の末、ようやく世に出た日の丸輸送船だった。
 だがそれは、当初アメリカ側が望んでいたロール船とは別のごとく普通の貨物船であっ
 た。
・同盟国アメリカから輸送協力の要請を受けながら、日本政府は、法律の規定がないこと
 もあって、国としてこれに直接応じることができなかった。
 このため、官僚たちが個人のつてをたどって内航船主に頼み込み、かろうじて日の丸輸
 送船を仕立て上げている。
 海上自衛隊や海上保安庁の船こそ、こうした危機に国を背負って赴くべきではないのか、
 なぜわれわれ民間人だけが生命の危険を賭して湾岸に出かけていかなければならないの
 か。
 こうした批判に、政府の役人たちは頭をさげ続けるばかりだった。
 平戸丸の存在は、戦後の日本という国への痛烈な問いかけを内に孕んでいたのである。
・思わぬ事件が持ち上がった。
 発端は「ニューヨーク・タイムズ」紙が掲載した記事だった。
 「日本人高官が明かしたところによるよ、日本は中東の軍事的ビルドアップに貢献して
 いない、という批判に応えて、近くオフロード車や発電機、建設資材などをサウジアラ
 ビア駐留の軍隊に運搬する」
・記事には外務省北米局の「岡本行夫」・北米一課長のことばが繰り返し引用されていた。 
 「巨額の財政的損失を伴うにもかかわらず、自動車会社は大変積極的で好意的に協力し
 てくれた」
 「いまのアメリカが日本に抱いている不信感は日米関係を危地に追い込む恐れがある。
 いま起こっている事態に比べれば過去の通商摩擦など『疑似危機』にすぎない」
・この記事はただちに日本にも伝えられ、全日本海員組合の知るところとなった。
 彼らの怒りは爆発した。
 組合内部の慎重論を抑えて、中東貢献策に協力しようとしているさなかに政府は全日海
 に一言の相談もなく全く別の輸送プロジェクトを秘かに進めている、と受け取ったから
 だ。
・外務省の岡本が運輸省に飛び込んできた。
 「実はニューヨーク・タイムズの記者には、車輛輸送の剣を私がしゃべったのです」
・アメリカ議会は9月4日から審議を再開する。
 そこで十分な中東貢献策を実施しようとしない日本に批判が噴出することは必至だった。
 さらにアメリカの港湾労働者の間に、日本が中東に船を出そうとしないなら、アメリカ
 に入港する船舶の荷役作業を拒否する、という動きが出ていた。
 もし港湾労働者が立ち上げれば、日本船の入港は全面的にストップしてしまう。
 こうした動きを心配した北米局の岡本らは、自動車業界に影響力を持つ通産省の協力を
 得て、「日の丸輸送船」計画とは別に、民間ベースでオフロード車8百台を乗せた自動
 車運搬船を急ぎサウジアラビアに向けて送り出そうとしていた。
・だが岡本はディレンマに陥っていた。
 全日海への対策を優先すれば、通常の商業ベースを装って、黙って自動車運搬船を出港
 させてしまうのがいい。  
 しかし、それではアメリカへの宣伝効果はなくなってしまう。
 悩んだ末、岡本は、アメリカ議会の開会日を狙って、「ニューヨーク・タイムズ」に意
 図的なリークを行なったのだった。
・日本政府は海運各社と同様に、航空会社にも中東への輸送に協力してくれるよう要請し
 ていた。
 だが。日本航空は、クウェートからイラクに移送された社員23人が人質にとられてし
 まったこともあって、航空機を出すことに戸惑いがあった。
・8月29日になって、日本航空、全日空、日本貨物航空の三社はそろって「協力する」
 と回答してきたものの、アメリカには不都合な条件が付されていた。
 ①軍事物資は運ばない 
 ②出発地はアメリカ本土ではなく成田空港
 ③目的地はアメリカの望むサウジ東部ではなく西部のジッダに限る
 これがアメリカに伝えられると「日本は非協力的だ」という非難の声が一斉にあがった。
・名古屋港の埠頭に接岸する自動車運搬船「シー・ビーナス」号。
 パナマ船籍ではあるが川崎汽船が用船している。
 「ニューヨーク・タイムズ」が「中東貢献策の第一弾」として報じた船が、この「シー
 ・ビーナス」号だった。 
・船の目的地はサウジアラビアダンマンなのだが、車のフロント・ガラスにはなぜか行先
 が「アメリカ合衆国」と書かれた伝票が貼られている。
 この奇妙な出港風景に疑問を抱いたのは、6人の日本人船員だった。
 彼らは全日海の名古屋支部に連絡し、事情を至急調査するよう頼んだ。9月5日のこと
 である。
・東京六本木にある全日本海員組合の本部に外務省の岡本行夫が呼びつけられた。
 岡本は、今回の輸送がいわゆる政府主導のものではないと釈明につとめたのだが、組合
 側の理解は得られなかった。
・その日の午後、再び全日海の本部を訪ねた岡本は、今度は深々と頭をさげた。
 「私どもとしては、あなたがたに嘘をつく気は全くなかった。連絡の不行き届きについ
 てはお詫びしたい。いまの事態を救っていただけるのはあなたがたをおいて他にありま
 せん」
・収まらなかったのは運輸省当局だった。
 これでは運輸省が全日海に食言したことになってしまう。
 運輸省は、今回の「シー・ビーナス」号の件はあくまで商業ベースのものであり、組合
 側に協力を要請している輸送協力のプロジェクトとは無関係だ、と一貫して説明してき
 た。にもかかわらず、岡本は全日海に、事実上の国家プロジェクトだ、と告白し協力を
 求めたのである。

会議は踊る
・湾岸危機の起こった8月2日以来、外務省では、日曜日にもしばしば幹部職員に非常招
 集がかけられ、次官室の大テーブルを囲んで会議が催された。
 省員たちはこれを、栗山次官頂く「御前会議」と揶揄した。
 会合はいったん始まると午前中から深夜に及んでも終わらぬことが多かった。
 そして参加者たちには深い徒労感だけが残った。
・通常、ホワイトハウスで行なわれる戦略会議では、主宰者がポジション・ペーパーとよ
 ばれる簡潔な一枚紙を用意して出席者に配布する。 
 そこには、
 ①現況
 ②政府のとりうる選択肢
 ③それに伴う国益上のプラス面とマイナス面
 が要領よく記されている。
・これに基づいて、国家安全保障会議、国務省、ペンタゴンらの代表者がそれぞれ意見を
 述べる。 
 そして、これらの議論を踏まえて、大統領か国家安全保障担当大統領補佐官が結論を出
 し、会議は30分から40分程で終わる。
・だが、外務省の「御前会議」にはポジション・ペーパーもなく、誰が主宰者かも判然と
 しなかった。 
 会議でもしていなければ不安に耐えられない。
 だから、ともかく幹部が一同に集る、といった会議に過ぎなかった。
 「およそ、外交エスタブリッシュメントを国際危機にあって率いる外務次官とは思えぬ
 ような采配でした。それは主席事務官クラスのリーダーシップだったと言っていい。
 結局、何ひとつ決まらない」
・別の幹部はこうも語っている。
 「太平洋戦争にいたる国家の意志はこのようにして決められていったのか、と思うこと
 しきりでした。いくつかの重要な場面では私も意見を求められ、発言したことが三度ば
 かりありました。自衛隊の海外派遣をめぐる議論でした。私は、自衛隊の活用こそ不健
 全なナショナリズムを阻む道と信じていましたから、意を決して持論を申し述べました。
 ですが、誰からも身のある反論はきかれませんでした。だからといって、私の主張が採
 用されたわけではないのです。
 自分は重要な局面で確かに抗して戦争に終始反対した、ということになっています。
 だが、入省以来、私には、どこか違うのではないか、という違和感を拭い去れなかった。
 このときの会議に出て、はたと膝を打ちました。
 全体のムードが国策を決めてしまうこの国にあっては、流れを食い止められなかった者、
 ちょうどわたしのような者こそ結果責任を問われるべきなのです」
・木幡昭七経済協力局長も御前会議の常連だった。
 彼の顔色が日を追うにしたがって土気色になっていくのに誰もが気づいていた。
 その姿は傍目にも痛々しかった。
 木幡の身体はガンに蝕まれていたのである。
 だが彼は職場を離れようとしなかった。
 この不毛の会議と激務が木幡の死期を早めたことは想像に難くない。
・「東西冷戦の終結後、われわれは初めて国際的な危機に遭遇し、新たな秩序を創設する
 ことができるかを問われている。
 にもかかわらず、わが外務省は、これほど時間を浪費し、無為に過ごすことが許される
 ものだろうか」 
 外務省内の若手課長や首席事務官は、御前会議が終わるたびに念懣をぶつけあった。
 だが、翌日も同じことの繰り返しだった。会議は続き、方針は決まれない。
・栗山尚一次官は
 激動の90年代と日本外交の新展開」と題する巻頭論文を「外交フォーラム」誌上に発
 表した。 
 日本の外交エスタブリッシュメントのリーダーが何を考え、いかなる方向を模索してい
 るのかを内外に明らかにしたという意味で、栗山論文は概ね好意的に迎えられた。
 湾岸危機の勃発する4ヵ月前のことだった。
 「先進民主主義諸国の主要な一員となった今日の日本の外交は、これまでのような国際
 秩序を与件とする受け身の外交では世界に通用しなくなっている。これからの日本は新
 しい秩序作りへの国際的努力に積極的に参加することによって自国の安全と繁栄を確保
 していかなければならない。この意味で、日本外交は一刻も早く中小国の外交から大国
 の外交に脱皮する必要がある」
 「受け身の外交から、能動的な外交に転換する上で次に心がけなくてはならないのは、
 日本の特殊事情を対外的に訴えるのをできるだけ控えることである。国際秩序とは、国
 と国との付き合いについてのルールである。中小国が、都合が悪いルールの適用を免除
 されようとして、自国の特殊事情や特殊性を援用することは許される。中小国に対して
 そうした例外を認めても、ルールの全体としての実効性が損なわれる心配がないあらで
 ある。しかし、大国に同様の要求を認めれば、もはやルールがルールとして成り立たな
 くなる。そのような要求は、他国の目には、無責任な「ルール破り」が、そうでなけれ
 ば、自分に都合のよいルールを他人に押し付けようとする大国の倨傲と映り、国際的な
 反発や摩擦を招くことになる」
・だが不幸なことに、予期せぬ湾岸危機が勃発すると、栗山率いる外務省は、国際社会に
 対して「自国の特殊事情や特殊性」をさかんに言い立て、弁解につとめる役割を引き受
 けさせられてしまう。運命の皮肉と言わざるをえまい。
 かくして、日本は「自分に都合がよいルール」だけを言っているとして「国際的案反発
 や摩擦」を招いたのである。
・外務省は、危機に際して、国内を粘り強く説得し有効な施策を打ち出すためのコンセン
 サスを創り出せなかった。
 このため「異質国家ニッポンは危機を前になにもしようとしない」という国際的非難を
 浴びることになる。
 そしてそれが、国内で「日本は世界から蔑みを受けている」という意識をかきたてるひ
 とつのきっかけとなった。
 これこそ、栗山が最も恐れていた不健全で危険なナショナリズムの温床ではなかったの
 か。
 湾岸危機の発生以前、栗山は内に閉じこもりがちな日本社会を覚醒させようとしてこの
 論文の筆を執ったはずだった。
 だが危機が起きると、論文で自ら否定した役割を自身が演じる醜態に甘んじなければな
 らなかった。
・8月上旬、大使館で湾岸の情勢検討会議が開かれた。
 イタリアで腰痛の治療を受けていた「村田良平」大使に代わって、筆頭公使の木村崇之
 が会議を主宰した。
 間近に迫った海部首相の中東歴訪を予定通り実施するべきかどうか。
 ワシントンの日本大使館としての判断をとりまとめ、本国政府に意見具申を行なうため
 の議論が繰り広げられた。
・木村公使は、訪問を取りやめるべきだ、という慎重論を唱えた。
 公使たち在米大使館幹部らの、首相の中東訪問を取り止めるべき理由として、次の三点
 をあげた。
 第一:携えていく土産がない
 第二:行けば必ず先方から荷物を背負わされる
 第三:総理特別機が撃墜される恐れすら無しとしない
・すると、政務班の若手書記官が、15年近くもキャリアの違う先輩幹部たちに挑みかか
 るように反論した。 
 「今の日本としてもっとも大切なことは、お土産を持っていくことなどではないと思い
 ます。日本のポリティカル・メッセージを携えていくことこそ重要なのです。われわれ
 はあなたがたの味方です、と伝えるだけで十分なのではないでしょうか」
 「荷物を背負わされるというが、これだけの国際的な不正を前に、われわれはいずれ荷
 物を背負わなければならないのです。だとすれば、総理が自ら宣言して重い荷物を担う
 意志をこそ表明すべきではないのでしょうか。
 日本は侵攻に抗する側に立つ、という姿勢を鮮明にすることこそ、新たな侵略を阻む抑
 止力となる」
 「サダム・フセインは戦略的、戦術的に考慮して、総理特別機を撃ち落とすはずがない。
 不幸にして撃墜されても、もって瞑すべきではないか。われらが総理の名は永遠に砂漠
 の地に刻まれるだろう。そしてわれわれ日本人は湾岸情勢の厳しさを今さらながら噛み
 しめることになる」
・出席した中堅の参事官や書記官の多くは、この「海部行くべし」論に賛成したが、ワシ
 ントンの日本大使館から発出された公電は、結局、慎重論を色濃く滲ませたものとなっ
 た。
 本省は、この時点で既に海部の中東歴訪断念の腹をほぼ固めていた。
 本省がワシントンの大使館に期待したのは、彼らの意見具申などではなかった。
 同盟国アメリカも海部の歴訪には消極的だ、という言質をそれとなく取り付けてくれま
 いか、という点にあった。
 かくして、イラク軍クウェート侵攻から11日目の8月13日、「海部俊樹」はついに
 中東五カ国訪問の延期を決定した。
・海部内閣は坂道を転がり落ちていくだろう。
 ワシントンでの会議に参加しにはた参事官のひとりはこう確信したという。
・日本は冷戦後の秩序の維持を賭けたこの試練に際して、内外の支持を急速に失っていっ
 た。  
 湾岸危機の発生直後いち早く経済制裁の輪に加わり、一応機微な対応を見せたものの、
 この中東歴訪の断念で潮目は大きく変わってしまった。
 海部は東京にとどまり、代わって中山外相を中東に急遽派遣したのだが、ワシントンの
 公使たちが望んだような「国内の意見調整」も「貢献策の早期決定」も実現しなかった。
・東京・赤坂のアメリカ大使館では、一向に何も決めることができない外務省幹部の会合
 を「小田原評定」と呼んだ。 
・何も決まらない会合を糊塗するかのように、外務省内には、雨後の筍のように数多くの
 タスク・フォースが出現した。
 いったい幾つのタスク・フォースが存在し、誰がどこに所属しているのか。
 それを知っているのは栗山次官ただひとり、と言われるほどだった。
・こうして生まれたタスク・フォースのひとつが「法案タスク・フォース」であった。
 国連局の河村武和参事官を中心に総勢15名余り。
 日本が多国籍軍に協力するための法案作りが、こうしてある日突然始まったのである。
・外務省は、かねて暖めていた国連の平和維持活動への協力を、法案のもうひとつの柱に
 すえることとした。
 だが、国の進路そのものに深く関わるこうした重大な決定を誰がいつどのような形で行
 ったのか。明確に証言できる者はいない。
 混沌と錯綜のなかで、決定主体を欠いたまま、きわめて限られた時間的制約を受けて法
 案作成の実務が続けられていったのである。
・国連の平和維持活動への協力を一応の名分にしなければならなかったため、この法案は
 事実上、国連局が担うこととなった。
 これによって、法案の命運は定まったと言っていい。
 外務省最弱の局とすれ言われた国連局が、安保条約以来の重要法案を担当するには、
 あまりに荷が勝ちすぎた。
 のちに「国連平和協力法案」と呼ばれるこの法律は、その出自から不幸の影がまとわり
 ついていた。  
・歴代国連局の悲願は、国連のPKO・平和維持活動に日本がより積極的に参加できる道
 を拓くことにあった。
 そして湾岸危機こそ千載一遇の好機だとして法案作りを進めたのだが、そこには「国連」
 という名を冠すれば日本の世論も理解を示してくれるはずだ、という安易この上ない情
 勢判断があった。すべては絶望的なほど準備不足であった。
・この時点で、栗山は、日本の国際貢献は厳格に非軍事的分野に限るべきだと考えていた。
 したがって、国連のPKO活動に日本から人員を派遣する場合も、基本的には文民に限
 定し、自衛隊の海外派遣は考慮していなかった。
・加えて「法案タスク・フォース」の陣立ての薄さも致命傷となった。
 戦端を開いて優位に立つには、兵力の集中と突破が古来から用兵の鉄則である。
 だが、栗山は、戦後最も難しいといわれるこの法案の作成作業に、わずか十数名の陣容
 しか割かなかった。
 そして、条約のプロであっても、立法を手がけたことのない集団が一ヵ月という短期間
 で法案を書き上げた。
 本来なら数十名の陣容を擁して、ゆうに三カ月はかかろうという、大物法案のはずであ
 る。
・法案には随所に瑕があり、それを貫く思想を欠いていた。
 国会に提案される以前に、すでにそれは死んでゆく運命にあったのである。
・栗山尚一事務次官と外務省タスク・フォースの迷走。
 だが、その責めを彼らにのみ負わせるのは公平さを欠くことになろう。
 議院内閣制を採る国家にあっては、国権の最高機関たる国会の多数党が内閣を組織し、
 各省庁を統括するのが本来の姿である。従って、最終の政治責任は内閣にある。
・「しかしながら、日本の政治はまことに情けない現状にある。いまの代議制は、言って
 みれば、黒豆を鍋てぐつぐつと煮てできる表面の灰汁のようなものだ。政策決定の中身
 を握る黒豆が霞が関に高級官僚たちであり、われわれはしょせん、灰汁にすぎんのだ」
 これは陣笠代議士の言ではない。内閣の要にあって各省の次官や局長と渡り合った保守
 党の大物政治家の自嘲である。 
・たしかに、湾岸危機の発生以来、首相官邸からは外務省に対して確たる指示など何も下
 されていない。  
 政治的リーダーシップを発揮しようにも、新たな危機に臨む見識も蓄積もなかったので
 ある。
 それだけに、霞が関の官僚たちに課せられた責任は重かったのだが、これまで遭遇した
 こともない事態に、彼らもなす術を知らなかった。
・第三次石油危機なら、通産省が過去二度にわたるオイル・ショックを通じて体得したノ
 ウ・ハウに従って、石油の備蓄や省エネルギーの徹底といったマニュアルを発動し、日
 本経済の自己防衛を機敏に図ったにちがいない。
 また、通貨危機なら、大蔵省と日銀が、ニクソン・ショック以来培ってきた国際金融の
 人脈と知識を総動員して凌げたかもしれない。
 だが、サダム・フセインがクウェートの主権を蹂躙する未曽有の事態に対応するマニュ
 アルは、日本政府のどこを探っても見当たらなかった。
・8月26日、自由民主党の「小沢一郎」幹事長は、公邸に海部首相を訪ねて会談した。
 小沢は、外務省が中心となって国会に提出の動きを見せている、多国籍軍支援の法案を
 話題にした。
 「党のほうには何も相談もない。これほどの重要法案を出そうとするなら、党と十分協
 議をしてもらわなければ困ります」  
・この時、小沢は独自の外務省チャネルを通じて、法案の概要をすでに掴んでいた。
 だが、その内容が彼には不満だった。
 国連決議に基づく多国籍軍への協力は、憲法の制約上、基本的には為し得ない、という
 のが栗山外務省の見解だった。
 しかし、小沢はこうした戦後体制にこの際、風穴を開けたい、と考えていた。
・「アメリカは、あんな内容では評価しない。現行憲法が何を禁じているのかではなく、
 憲法の枠内で何をなしうるか、思いきって論議を戦わせるべきだ。
 日本国憲法と国連憲章はその精神において同じであり、いまの法体系でも自衛隊を中東
 地域へ派遣することはできるはずだ。憲法が禁じている集団的自衛権の行使と、国連に
 よる集団安全保障は異なるものだ」 
・小沢は、集団的自衛権に対する従来の違憲解釈とは切り離して、新たに「国際的安全保
 障」という概念を彼の理論武装の中心に据えた。
 国際連合は、加盟国がほかの加盟国に侵略行為を行った場合、侵略者と認定し、国際社
 会が一致して経済的、軍事的制裁を加えることを想定している。
 こうした国連の「集団安全保障」機能を、小沢は「国際的安全保障」と呼び、集団的自
 衛権の行使とは区別して「違憲ではない」と主張した。
 また、湾岸に派遣された多国籍軍は、国連決議の実効性を確保するために武力行使の権
 限を与えられている。
 国連の加盟国である日本が、国連による秩序の維持に関わろうとせず、従来の憲法解釈
 だけを盾に多国籍軍への参加の閉ざしてしまうべきではない、と論陣を張った。
・小沢の議論は一見整然と展開しているように映る。
 しかし、それは国内外での厳しい論争に耐え、鍛え抜かれた論理ではなかった。
 国際法に言う「集団安全保障」を「国際的安全保障」と言い換えているにすぎない。
 「普通の国家」を唱える小沢理論の中心的な概念すら、国内世論の反応に専ら配慮した
 末の産物だった。 
・日本だけが平和ならいいという「一国平和論者」も、小沢流の「普通の国家論者」も、
 ポスト冷戦の現実に自前の論理で立ち向かう術を持たなかった点で、同じ地平に立って
 いた。
・現行憲法の解釈の幅を少し広げるだけで日本は多国籍軍に参加できる、と主張する小沢
 一郎。
 戦後の平和憲法の価値観を所与のものとして身につけ、政治生活を送ってきた海部俊樹。
 首相は幹事長の言に戦前の論理を感じ取って、精一杯の抵抗を試みた。
 「やはり、自衛隊を出すことはできんぞ」
・小沢は海部とのやりとりのなかで「あんな程度ではアメリカは評価しない」と述べた。
 その背後には、「マイケル・W・アマコスト」大使の存在があった。
 アマコストは、自民党の真の権力者群を形成する竹下、金丸、小沢の参院を攻略するよ
 う本国から指示を受けていた。 
 アマコストは、彼らを通じて、日本をアメリカのワンタン政策に協力させるよう工作を
 続けた。
 将来政権鳥を睨む小沢も、アマコストを通じて米政権との間にホットラインを築いてお
 こうと、しばしばアメリカ大使公邸を訪れている。
 一方、外務省は、小沢・アマコスト会談の内容はおろか、会談が行われた事実さえも掴
 んでいないことがあった。
・たしかに、アマコストは小沢ルートを通じて自民党内の極秘裡の動きを捕捉することが
 できたが、失った者も大きかった。
 深夜人目を忍ぶように竹下や金丸の個人事務所を訪ねるアマコスト大使。
 こうした現場を幾度も目撃されるにつれて、彼は、日本人の心ある人びとの信を次第に
 なくしていった。

・栗山は、親子二代にわたる外務省人である。
 父の「栗山茂」は外務省条約局長などを歴任したキャリア外交官だ。
 太平洋戦争の直前にはベルギー大使を就任し、ブラッセルで日独伊枢軸反対論を唱えて
 いる。
 これが新聞に報じられ、怒った「松岡洋右」外相によって更迭された。
 その後、仏領インドシナ大使の補佐官となるのだが、ここでも軍部と衝突し、ついに自
 ら官を辞している。
 太平洋戦争中、栗山家は憲兵隊の監視かに置かれていた。
 息子の尚一は軍部の跳梁跋扈を目の当たりにして育ったのである。
 こうした生い立ちが、彼の自衛隊観に一つの影を落としている。
・湾岸危機の発生直後、栗山は自衛隊の海外派遣に否定的な姿勢を示していた。
 だが、航空機や輸送船の派遣をめぐって、民間に頼ることの限界が明らかになるにつれ、
 栗山の対応も少しずつ変質していく。
 自衛隊を全く除外した新組織を作ろうとすれば、膨大な費用がかかり、組織訓練にも気
 の遠くなるような時間を要する
 防衛庁や外務省の一部もにも、自衛隊をことさら除外しようとするのは非現実的だ、
 という指摘が強まっていった。
・こうした声を受けて、慎重派の栗山は、条件付きで自衛隊を活用する方針に傾いていく。
 自衛隊をそのまま平和協力隊に参加させるのではなく、一時自衛隊の身分を離れて文民
 組織に参加させることで、彼は決着を図ろうとした。
 自衛隊をそのまま海外に送り出すのはあくまで認めず、文民組織が指揮権を握ることで、
 実力部隊の暴走に歯止めをかけようとしたのである。
・「次官、ひとつ確認したいのですが、自衛隊の身分をめぐる結論はすでに出てしまった、
 と考えなければならないのですか。もし、いまだということであれば、反対論を申し述
 べたい」 
 外務省の幹部会議に出席した高官のひとりは、江栗山に質している。
 栗山は突き放すように答えた。
 「君、その問題についてはすでに結論が出ているんだよ。僕は、「自衛隊というものは
 結局モンスターだと考えている」
 出席者たちは栗山のことばに一瞬絶句した。
・栗山さんは、その平和哲学において海部総理と軌を一にしている。
 自衛隊を必要悪だと決めつけ、一種の思考停止に陥っている。
 よく言えばオールド・リベラリストだが、昨日の歴史を学ぶだけでは明日の歴史を書く
 ことはできない。
 栗山さんが官邸の主と違うとすれば、自らの考えをその豊富な国際知識と国際法上のレ
 トリックによって飾っている点だけだ。
・栗山は、少数の反対意見を押さえて、自衛隊員の身分を持ったままの海外への派遣は認
 めない、という外務省の最終方針をとりまとめ、首相官邸での協議に臨んだ。
  
・アメリカ軍のサウジ派兵開始から7週間目の9月29日、湾岸危機の発生後初めて、
 日米両首脳があいまみえた。
 イラクと対する国連の経済制裁はいまだ効果をあげておらず、ブッシュのサダム・フセ
 インへの怒りはまずばかりだった。 
 バグダッドの独裁者は挑発的な言葉を全世界に投げつけていた。
・果てしなく繰り広げられるクウェートへの組織的な蛮行と殺戮。
 経済制裁が降下をあげる頃には、クウェートの市民と国家はとうに死に絶えてしまうか
 もしれない。
・日米首脳会談では、まずブッシュが口火を切った。
 「アメリカと日本がただ漠然と連携をしているばかりでは力にならない。侵略という共
 通の敵に、日米が協力して立ち向かうことこそ重要です。われわれは、日本の憲法の制
 約や理解しています。しかし、そのもとでも国際的な平和維持の活動に加わることはで
 きるのではないでしょうか」  
・これに対して、海部は、かねて事務当局と打ち合わせてあったラインに沿って応答して
 いる。
 海部は、多国籍軍と周辺国への援助など、非軍事的な分野で行なってきた日本の努力を
 説明した。
 そして、経済制裁を今後とも継続し、イラクがクウェートから撤退するよう説得し続け
 るつもりだ、とブッシュに伝えようとした。
・だが、ブッシュは、そんな事務当局が作った模範解答を聞く時間はない、といった険し
 い表情で、海部のことばを遮った。
 「アメリカとしては、日本に速やかな貢献策の実施を期待している。湾岸危機によって
 打撃を受けている国々のために、日本雄資金がタイムリーに拠出されることが望ましい」
・大統領の棘のあることばにたじろいだ海部は、政府が準備を進めている法案について咳
 き込むように説明を試みた。
 「大統領。わが国は、国連の平和維持活動への協力などを柱とした「国連平和協力法案」
 の提出準備を進めています。しかしながら、武力行使を目的として海外に部隊を派遣し
 ないというわが国の立場は、今日、国民の合意となっています。そしてこれが近隣のア
 ジア諸国に安心感を与えてもきました。こうした基本方針のもとに、現在われわれは政
 府与党内部でご論を重ねており・・・」
・ブッシュは苛立ちを隠さず、こう切り込んだ。
 「自衛隊が武力に直接訴えずに、多国籍軍の輸送や後方支援、医療協力などで貢献すれ
 ば、多国籍軍に炭化している国々はこれを評価するだろう」 
・ブッシュがもたつく日本に速やかな人的貢献を求めてきたことは海部を戸惑わせた。
 海部は、ブッシュの申し入れを受諾するでもなく、再度持論を持ち出して、これを拒む
 わけでもなかった。 
・日本側の同席者は、この場の情景を次のように話している。
 「戦後行われたあらゆる日米首脳会議のなかでも、おそらく、最も冷たい、といっても
 いいものだった。あの時は、はたしてこれが同盟国の首脳同士の話し合いなのだろうか、
 とぞっとした」
・この会談の後、海部は外務省の幹部らと食事をともにした。
 「ブッシュさんの言うように、日本も人的貢献をもっとやらなければ。実は、俺もそう
 思っていたところなんだ」 
 海部の豹変ぶりに、同席者たちはことばを失った。
 これをきっかけに、海部は、国連平和協力法案の柱には自衛隊をすえたくない、という
 それまでの態度をあっさりと翻し、自衛隊員に平和協力隊員の身分を併せ持たせる「身
 分併有」の方針に大きく踏み出していくのである。
  
・10月9日、外務次官の栗山尚一は、首相官邸に呼び出しを受けた。
 すでに、海部首相と小沢一郎ら自民党三役が待ち受けていた。
 栗山はその場で「国際平和協力法」の最終法案の骨子を手渡された。
 「陸海空の三自衛隊を一本化し、自衛隊の身分で協力隊に参加させる」
 栗山は驚愕した。
 予想もしていなかった結論だったからだ。
・栗山は、海部ではなく小沢に問いかけた。
 「これでは協力隊のありかたが変質してしまいます。そうならば、自衛隊法を改正して
 いただきたい。自衛隊は基本的には軍隊であることを忘れてもらっては困ります」
 小沢は吐き捨てるように言い放った。
 「そんなことぐらい先刻承知している」
・ここにいたるまでの道のりで、栗山は幾度か苦い敗北を舐めている。
 当初は持論の自衛隊排除を唱えたのだが「現実的ではない」と退けられ、別組織構想も
 潰れ去り、ついには自衛隊の身分をめぐろ論争にも敗れ去った。
 彼には、法律の作成準備を外務省が行う以上、政府与党も最終的には外務省の意向を汲
 んでくれるはず、という甘い期待があった。 
 だが、自民党の小沢幹事長は早々と党内を押さえ、官邸をも制圧してしまっていた。
 栗山は、党と内閣の権力の所在を正確に掴めず、根回しも後手に回った。
 国内情勢の判断のお粗末さゆえに、外務省は法案作りの主導権を次第に失っていったの
 である。
・かくして「国連平和協力法案」は、外務省の意向を半ば切り捨てる形で、10月16日、
 閣議で正式に決定され、臨時国会に提出された。
 だが、政府自民党の首脳陣にも、誰ひとり、法案の成立を自信を持って言う者はいなか
 った。
 自由民主党の特別委理事のひとりは語る。
 「法案というのは生き物だ。たとえ野党側にどんなに強い抵抗があっても確固たる意志
 をもった少数の推進勢力があれば、針の穴を抜けるように法案が通ることがある。
 だが、この法案は政治生命を賭けても成立させようという主体に欠いていた」
 この予言どおり、法案は暗い迷路にはまりこんでいった。
・国会論戦の核心は、多国籍軍への支援が武力行使と一体のものであるか否か、という点
 に絞られた。 
 社会党の「川崎寛治」が、多国籍軍への協力にあたって武器・弾薬の輸送は認められる
 のか、と中山外務大臣を追求した。
・外務大臣の発言を封じるように、柳井条約局長がとっさに答弁席に歩み寄った。
 「どこに何を運ぶかというようなことはまさしくこの業務計画を策定いたしますときに
 決めるわけでございます」
・中山が答弁席に立つ
 「武器というものの輸送は原則いたしません。武器弾薬は運ばない。ただ、医薬品とか
 あるいは輸送機材とかあるいは修理用品とか、そういうものを輸送するということもこ
 の業務内容で諮って議論しながら決めていかなければならない」
・驚いた柳井条約局長は、
 「法律上は、おっしゃいましたような武器弾薬等を含めましていろいろなものを運び得
 ることになっております。その運ぶ内容につきましては限定というのは特にないわけで
 ございます」 
・川崎は「これだけ大臣と局長と・・・」と言って絶句した。
 当番がここまで真っ向から食い違っていては議論のしようがない、と言おうとしたのだ
 ろう。
 「これはもう重大な答弁の違いですから、これはもう明らかにしてください」
 と迫る川崎。
 「加藤紘一」委員長は、ここで外務大臣ではなく、協約局長をあえて指名する。
・「お待ちなさい。外務大臣が答えたことに対していま、条約局長が修正したわけです。
 明らかに修正ですよ」
・しかし、答弁に立ったのは柳井条約局長だった。そして、大臣の答弁を全否定して、
 自らの公式見解を繰り返したのだった。
・双方の応酬を見守っていた条約局の若手は思わず隣席に同僚につぶやいた。
 「もう駄目かもしれない。こんな状態じゃ答弁が持たない。大臣が法案のもっとも大切
 な部分を全くわかっていない。柳井局長の答弁は、大臣の発言を打ち消す下剋上答弁だ」
・特別委員会の審議が進むにつれて、政府側の対応に綻びがいっそう目立つようになった。
 外務省内での答弁の事前打ち合わせでは「協力隊員は自衛隊の制服を着るか」という野
 党の質問には「そのとおり」と答える手筈になっていた。
 だが、中山外相は、野党側の追及にあうと「隊員は協力隊の制服を着用する」と答えて
 しまう。 
 小火器の携帯をめぐる政府答弁でもたちまち足並みが乱れてしまった。
・こうしたなかで、野党側、政府側ともに「スケープ・ゴート」を探す心理が働きはじめ
 る。
 審議の先行きが読めない殺伐とした雰囲気のなかで、法案を事実上主管する赤尾信敏国
 連局長が答弁席に駆り出され、次第に追い詰められていく。
・赤尾は、質問者にではなく、野党席から飛ぶヤジに「すみません」と答えてしまう。
 また、答弁に立つべきか、立たざるべきか、しばし決断がつきかねてウロウロする。
 それがあたかも日照りの夏におろおろする農民のようにも見えたのだった。 
・だが、この赤尾の姿こそ、湾岸危機に直面して立ちすくむ日本の政治指導ぶの有り様を
 そのまま映すものではなかったのか。
・「総理、今度の法案には公明党をはじめ野党側の協力が得られるメドが立ちません。
 だとすれば、衆議院を通したとしても、参議院で成立する見通しはない」
 小沢一郎幹事長は、11月5日、ひそかに首相公邸に入り、こう海部を説得した。
 衆議院の特別委員会での審議がこれほどもたついている以上、国連平和協力法案を衆議
 院で可決し継続審議とすることは断念せざるを得ない。廃案にすることもやむを得ない、
 戸の情勢判断を伝えたのだった。
 海部は無念そうな表情を湛えていた。
・海部は複雑な心理で廃案決断の瞬間を迎えていた。
 彼は自民党ハト派だった三木武夫を政治の師と仰ぎ、日本の軍事大国化に歯止めをかけ
 る陣営に身を置いていた。  
 それだけに、自衛隊を「併任」の身分で海外に派遣し、多国籍軍の後方支援に協力する
 法案には、当初から違和感を拭いきれなかった。
 にもかかわらず、国会では法案審議の矢面に立ち、時には自らの政治信条と異なる答弁
 をせざるを得なかったのだ。
・国連平和協力法案の廃案が正式に発表された。
 その後、海部はうめくような呟きをもらしている。
 「だからあれほど言ったじゃないか。俺のいうとおりにさえしておけば・・・。こんな
 ことにはならなかった」 
・一方、井沢の動きは素早かった。
 公邸で海部を説得した後、赤坂のアメリカ大使館裏口から、そっとアマコスト大使を公
 邸に訪ねている。
 深夜の自民党の実力者が大使公邸を急遽訪れるのは、やはり異例の出来事といっていい。
・この時点で、外務省の事務当局をあずかる栗山尚一は、政府自民党による廃案割断の事
 実を知らされていない。
 従って、アメリカ政府への通告も外交ルートを通じてではなく、小沢・アマコスト・ル
 ートを介してのものとなった。
・「栗山さんには、この時、身を引いてもらいたかった。次官として、栗山さんは明らか
 に引き際を誤ったと思う」 
 栗山の誠実な人柄に身近で接し、指導を受けていた光背のひとりは辛そうな表情で語る。
 栗山は、その出処進退において決定的な過ちを犯してしまった。
・実は、栗山はこれ以前にも辞表を出すべき局面があったのだが、彼はその瞬間も逸して
 いる。国連平和協力法案のとりまとめにあたって、外務省内で「自衛隊を併任の身分で
 海外に派遣することはしない」と結論を出しながら、首相官邸での党三役との折衝で栗
 山が拒否された時である。 
 栗山は、この時官邸での対決がそれほど深刻なものになるとは見ていなかった。
 それゆえ党内の根回しも、辞表を携えて行く覚悟も怠っていた。
 彼は政局の読み誤り、官邸で栗山案が反古にされるという屈辱を味わった。
・法案の廃案とそれに伴う野党の協議が進む中で「あの国連局長では次の新法の審議は乗
 り切れない」という声が永田町で大きくなり、中山外務大臣に赤尾更迭をあからさまに
 要求する圧力が高まっていった。 
 当然のことだが、栗山は事務当局の責任者として懸命の抵抗を試みる。
 だが結局は、政治の圧力に屈して、赤尾の首を出しだしてしまった。
・更迭を呑んだ時点で、栗山は自らの外交官生活にピリオドを打つ決意を固めたという。
 部下を懲罰人事に付しておきながら、自分は時間という栄光の座に座り続けることは、
 彼の美学に照らして到底なしえなかったはずだ。
 だがここでも栗山はその志を遂げることができなかった。
・「湾岸危機から戦争にいたる日本の危機管理能力の欠如は、まさしく戦後日本の政治的
 リーダーシップの欠如にこそあり、その責めを事務次官が辞任という形で負えば、外務
 省だけが悪者にされてしまう。それでは組織はガタガタになる」
 外務次官経験者らはこう述べて、栗山を慰留した。
・結局、栗山は留任の甘い誘惑に抗することができず、責任を明らかにする好機を永遠に
 失ってしまったのである。   

「Dデー」を探れ
・11月29日、国連の安全保障理事会は「1月15日までにイラクがクウェート領内か
 ら無条件で完全撤退しないかぎり、多国籍軍に武力行使を含むあらゆる手段の行使を容
 認する」という決議を採択。
 これが国際社会のイラクに対する事実上の最後通牒となった。
 だが、その翌30日、ブッシュ大統領は、突然、和平への変化球をバグダッドに投げか
 けた。
・アメリカとイラクの外相の相互訪問による直接対話を呼びかけたのである。
 「我々の決意をフセイン大統領に正確に伝える時期にきた、と判断して呼びかけを試み
 た。だが、フセイン大統領の面子をたてるつもりはない。国連の安保理決議の内容に譲
 歩するつもりも一切ない。これは最後通牒ではないが、われわれの決意をフセイン大統
 領に伝えて再考を促し、平和解決に必要な措置を講じるよう要求するのが目的だ」
・ベーカー・アジズ会談の舞台は、レマン湖とモンブランを望む景勝の地に建つ名門「イ
 ンターコンチネンタル・ホテル」が選ばれた。
 ベーカー国務長官とアジズ外相の会談は、9日11時、ホテル1階の会議室で始まった。
 レマン湖に張る氷のような冷ややかな空気。
 まずベーカーがブッシュ大統領の親書を渡そうとした。
 アジズはその内容を写したコピーにゆっくりと眼を通すと、厳しい表情でかぶりを振っ
 た。 
 「申しわけないが、この手紙を受け取るわけにはいかない。このなかには、元首に宛て
 た親書として適切さを欠く表現がある」
・かくして、サダム・フセインに宛てたブッシュの親書は、会議終了するまで6時間半、
 テーブルの中央に名が出されたままであった。
 最後にベーカーは、もう一度念を押している。
 「アジズさん、この書簡を本当に持ち帰らなくてよいのですか」
 「要らない」
・日にアメリカ側が明らかにしたところによれば、書簡には次のように記されていた。
 「私は、この書簡を脅しとしてではなく、通告のために書いたのです。撤退期限までに
 われわれの要求を呑むか、しからんずば武力行使の幕を切って落とすかは、ひとえに貴
 殿の対応にかかっています」  
・会談の決裂は、ブッシュによって折り込み済みだった。
 ベーカーは和平への最後のパフォーマンスをジュネーブで演じてみせたにすぎなかった。
 彼は新たな提案を行うわけでもなく、アジズを説得しようともしなかった。
 休憩をはさんで6時間半、交渉のテーブルに座っていること自体に意味がある。
 ベーカーはそれをよくわきまえていた。
・戦闘準備の指令は、ブッシュ大統領の最終承認を得て、12月29日、現地の多国籍軍
 に向け発出された。  
 「砂漠の盾」作戦は、16日午後7時をもって「砂漠の嵐」作戦に切り替えられること
 がすでに決定していた。
 
・外務省六階の奥まった一角は、厳重な立ち入り禁止区域となっていた。
 湾岸の危機管理を集中的に行う「オペレーション・ルーム」。
 そして、その向かい側にある会議室が、軍事情報だけをもっぱら扱う「第二オペレーシ
 ョン・ルーム」だった。 
・統括責任者を務めるのは、情報調査局安全保障政策室長の「森本敏」。
 外務省の幹部は、年明け早々、森本をスイス経由でサウジアラビアのリヤドに派遣した。
 1月12日、森本は外務省幹部80人を前に「現地出張報告」を行なった。 
 「アメリカ軍は1月15日以降、いつでも作戦の発起ができるものと思われる。もし、
 アメリカ軍が16日未明に攻撃を開始するとすれば、ブッシュ大統領はすでにベーカー・
 アジズ会談の直後に最終決定を下しているはずだ」
・「アメリカの作戦指導は、イラク指導者の政治生命を断つことにあるのか、イラク軍を
 クウェートから追放することが目的なのか、あるいはイラク軍を破壊させることを狙っ
 ているのか。作戦目的の如何によって、取られる戦略、戦術も自ずと異なってくる。
 いずれであっても、アメリカ軍は人的被害とアラブ諸国の反米感情を最小限に食い止め
 るため、短期決戦を志向するはずだ。その際、彼らは戦力の逐次投入を避け、陸・海・
 空の戦力を全力投入して、緒戦において一挙に決着を図るであろう。
 従って、開戦直後の航空戦力、とりわけ戦闘爆撃機、攻撃機とミサイル戦力による撃滅
 戦が作戦の帰趨を決めることになる」
・森本は、開戦に備えて、外務省とサウジアラビアの日本大使館を結ぶ通信回線の確保に
 全力を挙げ、作戦が開始された後の戦況を独自に入手する体制を整えておくべきだ、と
 指摘した。  
・そして最後に、彼は来るべき湾岸戦争の終幕を予測してみせた。
 「多国籍軍は、地上兵力50万をもって、クウェート・シティを遠巻きに西側から包み
 込むように攻略する。そして最後にイラク南部の都市バスラの攻防戦を敢行して作戦を
 終了する可能性が高い」
・森本は、出席者たちの求めに応じて、選挙区の見通しを覚書にまとめて提出した。
 この森本メモを一読した情報調査局の幹部は、吐き捨てるように言った・
 「君、何を言っているのか。現代では戦争は起こらないんだよ。ラスト・ミニットでイ
 ラクは必ず妥協する」 
・中近東アフリカ局のアラビストたちの多くも、森本の見通しに批判的だった。
 「サダム・フセインが勝ち目のない戦をあえてするはずがない。最終局面で和平にサイ
 コロをふるに違いない」
 中東のプロたちは、この段階でもなお、イラク軍が交渉によって撤退する可能性に賭け
 ていたのである。
・フセイン大統領は対外的には強硬姿勢をとっているが、大統領に近いバース党の首脳陣
 は開戦に消極的だ。
 こんな希望的観測が欧米ではくり返し流れていた。
 だが、日本経由のシリア情報では、
 「フセインの威令と恐怖政治は隅々まで行き渡り、有力なバース党幹部ですら大統領の
 意にいささかでも逆らう行動など考えられない。死を覚悟するならともかく、これがバ
 クダッドの現実だ」」
 イラク大統領府に配されたエージェントからの秘密報告であった。
・フセイン政権の中枢に諜報ネットワークを張りめぐらし、日本への貴重な情報をもたら
 していたのは、BND・ドイツ連邦情報庁だった。
 BNDは、旧ドイツ陸軍の対ソ秘密情報機関として知られる「東方外国軍課」にその淵
 源を有する。
 ヒトラーの第三帝国がスターリンと戦うに当たって、ソ連・東ヨーロッパに諜報網をつ
 くりあげたのは「顔のない男」と呼ばれた「ラインハルトゲーレン」将軍だった。 
 それゆえ、この組織は「ゲーレン機関」とも称せられた。
・「ゲーレン機関」は、東ドイツの秘密情報組織に対抗するため、CIAの後押しで再建
 された。
 アメリカはヨーロッパの心臓部に対共産諜報エージェントを持っていなかったからだ。
 こうして「ゲーレン機関」とそれを継いだBHDは、中部ヨーロッパの東西情報戦の主
 翼を永く担うことになる。
・BNDは、エジプト、イスラエル、イラン、イラクなど、中東の戦略拠点に諜報エージ
 ェントを巧みに配していた。
・日本は、意外な街でこの強力な情報機関と秘めやかなコンタクトを保ち続けていた。
 アラブ強硬派シリアの首都ダマスカスがそれである。
 当時、シリアには、外務省ドイツ・スクールに属し「衝立の向こうでドイツ語を話して
 いれば日本人と思う者はいない」と言われた小野寺龍二が日本大使として在勤していた。
 彼は、インテリジェンス畑を歩んだ数少ない外交官だった。
 BND・ドイツ連邦情報庁が接触を受け入れる日本側のカウンターパート。
・小野寺は、幼少時をラトピアそしてスウェーデンで送り、彼の地で大事に世界大戦の終
 結を目撃するという数奇な体験を持つ。
 父、「小野寺信」は帝国陸軍のストックホルム駐在武官として連合国側の情報収集にあ
 たっていた。
 小野寺信のルートを通じて日本にもたらされた機密情報のひとつが「ヤルタ密約」だっ
 た。
 1945年2月のヤルタ会談で「ソ連はドイツの降伏より3ヵ月を準備期間として対日
 参戦する」という約束が連合国最高首脳の間で秘かに交わされていた。
 小野寺信は、この「ヤルタ密約・極東条項」を妻・百合子に命じて特別暗号を組み、東
 京に打電したのだが、軍首脳からは何の反応もなかったという。
 イギリスの公刊戦史にも小野寺がしばしば極秘情報をつかみ、東京に電報を発していた
 ことが記されている。
 だが、陸軍の情報関係文書にはそのような重要電があったことを窺わせる記述はない。
 おそらく間際の混乱の中で、小野寺の機密電報は夥しい数の電報に埋もれてしまったの
 だろう。
・「本当に度肝を抜かれるような公電に接したことのある者なら、思わず傍のゴミ箱に電
 報を放り込みたくなる気持ちがわかるはずです。特に、わが国にとって、極めて不利益
 な情報、自分たちの予測に真っ向から反するようなインテリジェンスの場合はなおさら
 でしょう。証拠があるわけではありませんが、当時、小野寺電を受け取った陸軍の担当
 官は直属の上司くらいには相談したかもしれませんが、結局、握りつぶしたのだと思い
 ます」
 現役の外務省国際情報局の幹部はこう推測している。
・情報の持つ業の深さ、その非情さ。
 小野寺家の父母とその息子は、インテリジェンスの世界の深淵を垣間見た稀な人々であ
 った。 
・そして運命のめぐり合わせだろうか。
 日本は、戦後45年目にして遭遇した国際的危機にあって、再び小野寺を必要としたの
 である。
 息子、龍二の血のなかには、紛れもなく、父の信念が脈打っていた。
 真に価値のある情報をえようと思えば、情報源との間に深い人間的な絆を築きあげるほ
 か道はない。
・シリアに小野寺龍二あり。
 湾岸戦局の一隅に打たれた石、ダマスカスの動脈をどう読み解くのか。
 アラブ強硬派シリアの真意をつかむ責務は、情報将校、小野寺龍二に委ねられた。
・世界の視線は、サウジアラビア・クウェート国境に注がれていた。
 だが、ダマスカスの小野寺の眼は、遥か北方を見つけていた。
・ヨルダンとトルコに接する北部の国境付近に、だサム・フセインはイラク軍の精鋭の一
 部を割いて配している。  
 小野寺は、ドイツ連邦情報庁との接触を通じて、この地域に集結するイラク軍の規模や
 装備を掴んでいた。
・なぜサダム・フセインは、一平も惜しいこの時期に、対サウジアラビア前線から遠く離
 れた北部国境に兵力を投入しているのか。
・イスラエルが対イラク戦に打って出るとすれば、両国の狭間にあるヨルダンが主戦場と
 なる。 
・ヨルダン国境付近にイラク軍精鋭部隊がなお展開しているのは、サダム・フセインがイ
 スラエルの動向にいかに敏感になっているかを示すものだ。
 これが、小野寺情報の結論だった。
・ではイスラエルがもし参戦したら、シリアはどう反応するのか。
 中東で強大な軍事力を誇るシリアの去就は、湾岸戦争の帰趨に大きな影響を及ぼす。
 シリアの「アサド大統領」は「汎アラブ、反イスラエル」の旗を高く掲げるバース党員
 である。 
 はたして、シリアはアラブの大義に与してイラクに加担し、イスラエルと干戈を交える
 のか。
 小野寺は、シリア政府や軍首脳との度重なる接触の末、シリアの対イスラエル参戦の可
 能性は少ない、と読んだ。
・アサド大統領は、虎の子の第九機甲師団を湾岸のアラブ合同軍に派遣している。
 もし、シリアがイスラエルと戦う用意があるなら、対イスラエル最前線に配していた精
 鋭の機甲師団を送り出すはずがない。
 つまり、シリアは、たとえイスラエルが対イラク攻撃に立ち上がったとしても、自らを
 戦いの局外に置き、直接イスラエルと戦火を交えるつもりはない。
 小野寺はこうシリア・ファクターを分析する公電を東京に機密電として発出している。
・この小野寺情報は、東京のみならず、ワシントンやロンドンでも高い評価を得た。
 父・小野寺信が入手した「ヤルタ密約」の極東条項は、ついに軍上層部のとるところと
 ならず、闇に放り去られたが、息子・小野寺龍二の公電は主だった在外公館に「ダマス
 カスの小野寺電」として転電されている。 

・中東の小国が軍事強国の狭間で生き残ろうとすれば、敵の動向を誰よりも早く知る以外
 に道はない。
 建国以来40余年、アラブ諸国の剥き出しの敵意に囲まれて、しぶとく生き抜いてきた
 イスラエルにとって、情報機関モサドは、日々の糧にも似て不可欠な存在だ。
・1981年6月、午後六時半、イラクの首都バグダッド近郊、トゥワイタの上空に、
 見慣れぬ戦闘機の編隊が突如姿を現わした。
 イスラエル空軍のF16戦闘機8機とF15戦闘機6機であった。
 これらのイスラエル空軍機は次々と急降下し、完成したばかりのフランス製原子炉に空
 爆を加え、サダム・フセインの宝物をあっという間に無惨な残骸に変えてしまった。
 この瞬間、他のアラブ諸国にさきがけて原子爆弾を手にしてみせる、というフセインの
 野望は一挙に吹き飛んだのである。
・「サダム・フセインは狂人ではない。が、一種のうつ病の傾向がある。彼は、アラブ諸
 国を統一して、自らの指導者たらんとしている。この独裁者に核兵器を持たせてしまえ
 ば、イスラエルの国民は一瞬も安して眠りにつくことはできない」
・情報機関モサドは、イラク国内に侵入させていたエージェントの諜報報告から、原子炉
 が7月1日に稼働する見込みであることを知った。
 このまま看過すれば、フセインが核兵器を保有する日が近い将来必ずやって来る。
 イスラエルのベギン首相は、国際社会からまきおこる非難は覚悟のうえ、イラクの原子
 炉を叩き潰す決断を下した。 
・イスラエルの情報機関モサドは、世界中に約3万5千人のエージェントを持つと言われ、
 遥か極東の地にも有力な機関員を配していた。
 湾岸危機が勃発するまでは、彼らは至極平凡な外交官や社員を装って東京に在勤してい
 た。  
 だが、ひとたび、湾岸に異変が生じるや、彼らは日本政府にとって決定的重みを持つ情
 報源となった。
 とりわけ、多国籍軍に部隊を送っていない日本が湾岸戦争の開戦日「Dデー」をつかむ
 うえで、なくてはならない存在だった。
・国連決議が定めたイラク軍のクウェートからの撤退期限が切れた直後に多国籍軍の空爆
 が敢行される可能性が極めて高い。 
 これがモサドの当古湯へのメッセージだった。
・イスラエルは、こと湾岸戦争に関しては、一切の見返りを求めなかった。
 彼らは戦後にすべてを賭けていたのである。
 そして湾岸戦争の終結後、イスラエルはおもむろに行動を開始した。
 オイル・ショック以来、いわゆる「アラブ・ボイコット」に加担し、明らかにアラブ側
 に傾斜していた日本の中等外交の是正を静かに求めてきたのである。
・「敵についての知識は、神からも悪魔からも得ることはできない。それは、洞察によっ
 てのみ手に入れることが可能である」  
 イギリス秘密諜報部に永く言い伝えられる格言だ。
・「イスラエル、ベルリン、ワシントン、ロンドン。日本ほどの経済大国になれば、世界
 各地から枢要なインテリジェンスが各省や民間のルートを通じて怒涛のように流れ込ん
 でくる。そこから微かに光り輝くダイヤモンドを選り分ける眼力を持ち、ときに互いに
 交換し、価値を認め合うことこそ大切なのだ。だが東京は、宝石の原石を金にあかして
 買いあさり、玉石混淆のまま金庫にしまいこむ商人にも似ている」
 東京で長年、日本の情報に対する鈍感さを目撃し続けているイギリス外交官の皮肉な弁
 である。
・日本政府は多国籍軍に兵多くらなかったが、それなりの開戦情報は得ていた。
 だが、それらのインテリジェンスを精選し分析を加えて、内閣や党の政策決定者に伝え
 るシステムはあまりに貧弱だった。
 そして、海部首相をはじめ要路の人々も、情報の価値の何たるかにひどく鈍感だった。
 「他の国に情報を頼っていて、どうして自国の政策を満足に遂行できるだろうか」
・撤退の最終期限が過ぎて4時間がたった16日正午。リアドの日本大使館に日本人会の
 主要メンバー20人余りが緊急に集まり、戦争が始まった場合、各自どのような対応を
 とるか、協議が行われていた。
 「まもなく戦争が始まると思います。だが重要な仕事がある人はリアドに残っていただ
 くほうがよいと考えます」
 サウジアラビアの恩田宗大使はこう述べた。
・当時、サウジアラビアのでは、発電施設や通信回線の建設など多くの工事を日本企業が
 手掛けていた。 
 これらの仕事は、対イラク戦にとっても重要なプロジェクトであり、戦いが始まったか
 らと言って日本人だけが逃げ出してしまった、という印象を与えるのは好ましくない。
 だが同時に、邦人の安全には万全を尽くさなければ、と恩田は考えていた。
 たとえイラクからミサイル攻撃を受けても、リヤドとダーランには多国籍軍の長距離ミ
 サイル、パトリオットが迎撃用に配備されている。
 カフジなど前線に近い法人には避難勧告を出すつもりだが、リヤドがただちに危険に晒
 される可能性は低いとして、リヤドにとどまってもよいのではないか、と説明した。
・多国籍軍の前線基地ダーランのホテルには、大使館員二人を派遣して臨時の出張を開設
 し、情報収集と邦人の保護にあたらせていたが、多国籍軍が妨害電波を出して一般の無
 線通信を封鎖したため、リヤド・ダーランの通信が途絶えてしまった。
  
テヘラン発緊急電
・冬の陽が傾きはじめた夕刻のことであった。
 ひとりのイラン人がテヘラン市内の高級アパートメントの扉を静かにノックした。
 部屋の主は西側主要国の外交官。
 客は、外交団のパーティーなどでかねて顔見知りの人物だった。
 いかにも知識人といった風貌であり、いまはイラン政府高官の顧問を務めている。
 過去に幾度かワーキング・ランチをともにしたことはあるが、男が直接自宅に訪ねてき
 たことはない。何か重大な事態が持ち上がったに違いない。
 それは、世界を震撼させる出来事のはじまりだった。
・「実は、イラク機がバフタランとハマダンのわが空軍基地に、イラク軍の新鋭機が、
 それも編隊で突如着陸を試みたのです」
 外交官は表情を動かさない。質問も発しない。相づちもうとうとしない。
 急いてはすべてを失ってしまう。
 「わたしはイランの山岳地帯についていささか不案内でしてね」
 外交官は書斎からイランの地図を取り出し、客の前に広げていせた。
 イラン人はその日起きた教学すべき事件を再現しはじめた。
・国境上空に金属質の点がひとつ、ふたつ、みっつ。陽光を反射して小さな光を放ってい
 る。運用機の機影だ。
 イラン・イラク戦争の終結以来、平穏を保っていた国境で、突如ジェット機の爆音が炸
 裂し、静寂を切り裂いた。
・国境の防空部隊からの通報を受けて、イラン空軍に緊急スクランブルが下令された。
 空軍基地から戦闘機が次々と飛び立って、侵入機の行く手を阻むように展開する。
 だが、要撃の体制には入らない。
・スクランブルをかけたイラン空軍のパイロットから防空部隊の管制塔に刻々と連絡が入
 ってくる。  
 「侵入機はイラク軍機か、至急、確認せよ」
 「イラク空軍機に間違いなし」
 「空襲の意図は窺えるか」
 「侵入機に攻撃の意図はなしと推量される」
・イラク空軍機は編隊を組み、ザグロスの険しい山岳地帯を這うようにして飛び続けた。
 イラン防空レーダーの捕捉を逃れるため、山肌すれすれに超低空で飛行しているのだ。
 編隊の中央には大型の輸送機。それを取り囲むように新鋭戦闘機が配されている。
 突如、一揆が編隊から脱落し、斜面に激突して消えていった。
 技量の劣るパイロットに操られていたのだろう。
 こうした墜落機は確認されただけで3機を数えている。
・イラク空軍機の意図がおぼろげながら輪郭を現わしてきた。
 彼らは、ハマダンなどイランの空軍基地を目指してはいるが、軍事施設を襲おうとして
 いるのではない。  
 おそらく、来るべき湾岸戦争に備えて、多国籍軍の空爆からわが身を守ろうと、仇敵イ
 ランを亡命の地に選んだのではないか。
 湾岸戦争の勃発直前の1月16日。この日一日だけで、イラン・イラク国境を越えたイ
 ラク機はあわせて40数機におよんだ。
・イラン政府は果たしてイラク軍機をすすんで受け入れようとしたのか。
 テヘランの最高指導部の真の意図は奈辺にあるのか。 
 男は事件の核心部分には決して触れなかった。
 
・イラクの精鋭部隊が国境を破ってクウェートに大挙侵攻した、という一報が隣国イラン
 にも伝わり、政府の首脳陣に衝撃を与えた。
 だが、イラン政府は、イラク軍の侵攻から24時間のあいだ、一片の声明も発せず、
 ひたすら沈黙を守り続けた。 
 テヘランの各国大使館は、その動きを固唾を呑んで見守っていた。
・イラクと千二百キロもの長い国境線で接する軍事大国イラン。 
 イランがイラクと事を構えれば、サダム・フセインは苦しい二正面作戦を強いられる。
 逆に、もして減れbb・バグダッド枢軸が成立すれば、イラクは国際的孤立を免れる。
 中東の戦略地図にあって、イランは誰もが無視できぬ決定的なファクターなのである。
・イラン政府は8月2日夜遅くになって、国営テレビ、ラジオを通じて、ようやく当別声
 明を発表した。
 「イラク軍のクウエート進攻はペルシャ湾岸地域の安定を損なうばかりか、超大国の介
 入を招くものだ。国際的に認められた国境線へすみやかに撤兵し、イラク・クウェート
 間で平和的手段で紛争を解決するべきである。イランは湾岸地域に最大の関心を有する
 もっとも大きな国として、イランの安全とこの地域の安定を脅かす動きには無関心では
 いられない」 
・駐イラン日本大使「斎藤邦彦」はこの声明文を幾度も吟味してみた。
 イラクに「平和的手段での紛争解決」を促すとともに、「超大国の介入」に警告を発し
 ている。 
 湾岸のもうひとつの大国を自認するイラン。
 短い声明には、寄木細工のような中東世界でその独自性と影響力を誇ってきたイランと
 いう国の絶妙な外交感覚が凝縮されていた。
・ホーラム・斎藤会談には、イラク上層部の意向が影を落としていた。
 湾岸危機という嵐の到来を国境の彼方に見据えて、巨泉の進路をどう定めるべきか。
 その決定に際して、イランの指導者たちは、遥か東方の日本の動向がどうしても気がか
 りだった。
・そこには、イラン・イラク戦争以来の日本とイランとの陰影に富んだ経緯が潜んでいる。
 1979年、イスラム原理主義革命はついに親米派の「シャー」を国外追放し、栄華を
 誇った「パーレビ王朝」を倒した。
・反米闘争は首都テヘランで沸騰し、怒れる若者たちがアメリカ大使館に押し入って、
 アメリカ人外交官を人質に籠城する事件が起きた(イランアメリカ大使館人質事件)。 
 イランとアメリカの関係は決定的破局を迎えたのである。
・「ホメイニ師」に率いられたイランは、アメリカの封じ込めにあって国際的な孤立を深
 めていく。 
 イラクのサダム・フセインは、この期を逃さなかった。
 1980年、西側諸国の反イラン感情の昴まりを巧みに衝いてイランと戦端を開き、
 その後8年に及ぶ「イラン・イラク戦争」が始まった。
・テヘランのメヘラバード空港。チューリッヒからのイラン航空機が滑走路に着陸した。
 タラップに8人の日本人が姿を見せる。
 イラン外務省の幹部たちが待ち受け、にこやかに握手で迎えた。82年秋のことである。
・日本人一行の団長は「松永信雄」外務審議官。
 イスラム革命以来初めて、この地を訪れる日本政府のハイレベル・ミッションだった。
 当時、日本が国策としてイランと合弁で進めていた石油化学プロジェクト、IJPCの
 施設が戦火にさらされて、後事は中断したままになっていた。
 IJPC問題こそ、両国の喉仏にささって棘であった。
 たとえささやかな打開策でもいい。なんとか解決への糸口を見出だしたい。
 松永のテヘラン入りにはこんな狙いが込められていた。
・到着した日の午後、さっそく一行はイラン外務省でアルデビリ外務次官らとの会談に臨
 んだ。 
 松永はイラン側と国際情勢の基本認識について意見を交わしている。
 松永の狙いは的中した。
 嬉々としてアルデビリは自らの見解を求めてきたことをイラン側はことのほか高く評価
 したのだった。
 「イランは東西両陣営のいずれにも偏していないことをまず申し上げておく。我々は伝
 統あるイスラム文化を宣布するが、革命を輸出するようなことはしない」
 アルデビリは、イランが西側諸国の言うように過激な路線を歩むつもりがないことをこ
 んな表現で伝えた。
・街にはイスラム原理主義運動の熱気がみなぎっていた。
 だが、イラン政府部内にも西側諸国との関係改善を望む現実派が秘かに出番を探ってい
 たのである。 
 松永は、公使の「片倉邦雄」に案内されてグラン・バザールの奥にあるペルシャ絨毯の
 店を訪れた。
 店の主人は、片倉と森に猪狩りにでかける鉄砲仲間だった。
 実は、この主人はホメイニ革命の原動力となったバザール商人たちの中心人物であり、
 ホメイニ師が亡命先のパリから帰国する折りにも金の工面をした革命の黒幕だった。
 松永はここで見事な絨毯を求める。
 バザール文化に敬意を表して、値切ることも忘れなかった。
 「松永は、数あるバザールのなかで、あえであの店を選んだ」という情報がすぐさま当
 局の耳に入ることを読んで、片倉が演出したショッピングだった。
・11月1日には、ベラヤチ外相が松永らの前に姿を見せた。
 「イランは、イラクとの和平条件に、戦争を始めた責任者の処罰は求めない。だが、
 国際機関が何らかの形で戦争の責任を認定しなければならない」
 ベラヤチは従来よりやや柔軟な姿勢を示して、日本との関係改善を望むシグナルを送っ
 てきた。 
・ホメイニ師への憎しみを募らせるアメリカは、同盟国イギリスや、イラクにエグゾセ・
 ミサイルの売込みを図るフランスなどを誘って、反イラン包囲網を敷いていた。
 イランは、こうした反イラン枢軸を打ち破ろうと、イラクに武器を輸出せず、いわば手
 の汚れない唯一の西側先進国、日本に照準を合わせ始めたのである。
・だがその一方で、イラン国内のイスラム原理主義者たちの間には、
 「なぜ日本はあまり化に追従するのか。アメリカは日本に原爆を落とした国ではないの
 か」  
 という厳しい対日批判も渦巻いていた。
 日本は、中東の地に吹き荒れるつむじ風のなかで、独自外交の可能性を探っていった。

・「安倍晋太郎」は、外相就任後初めて国連外交の檜舞台立ったためか、やや上気した表
 情でスピーチを続けていた。
 国連総会は83年9月に幕を開け、各国の首脳や外相がニューヨークに集ってはなやか
 なロビー外交を繰り広げた。
 「わが国は幸いにして両国のいずれとも極めて友好的、協力的な関係にあり、両国の安
 定と繁栄を念願するとともに、わが国と両国との友好をいっそう増進することを強く希
 望しております」 
・この演説に先立って、安倍は、前月にイランとイラクを訪れている。
 イラン・イラク戦争勃発後、西側の外相としては初めての同時訪問であった。
 日本がイラン、イラクの双方に対して等距離外交を展開している実績を踏まえて、安倍
 は両国の紛争の解決への努力を促した。
・「この紛争の解決のためには、当事国の公正かつ正当な主張が満たされなければならな
 いと感じております。この関連において、わが国は、先般両国に派遣された国連被害ミ
 ッションの報告に注目しております」  
 この瞬間、イランの国連代表の表情がわずかになごみ、イラク代表の顔は険しくなった。
 だが、それに気づいた者はごく少数だった。
・実は、この演説には、テヘランに向けた「暗号」が隠されていたのである。
 日本の外交当局は、現下のイラン・イラク情勢を読みに読みぬいて分析を重ねた。
 そして、その末に書き綴った表現豊かな言葉が、当事者のもとに正確無比なメッセージ
 として届いたのである。 
・だが、この巧みな仕掛けは党の安倍外相にも知らされていなかった。
 暗号は「国連被害ミッションの報告に注目しております」というくだりにさりがなく埋
 め込まれていた。
 国連は、イラン側国境の非武装の町が攻撃された事件を調査するため、特別ミッション
 を現地に派遣した。
 その結果、国連調査団は、この攻撃にイラクが関与していた疑いが強い、と結論づけた。
 日本政府は、この報告に注目する、と会えて議場で表明することによって、日本は真剣
 にイランとの関係改善を望んでいる、というシグナルをテヘランに送ったのである。
・安倍スピーチは好評だった。
 演壇には80人近い各国代表が歩み寄り、彼に称賛のことばを伝えている。
 その多くは一般的な外交上の儀礼に沿ったものだった。
 だが、握手を求める行列のなかには、ひときわ満足げな笑みをたたえるイラン代表の姿
 があった。 
・「日本はイランと出来ているな・・・。イラクはピンと来たのだと思う。現に、イラク
 の中堅外交官が国連のラウンジでわれわれに不満をぶつけてきました。だがこれが外交
 の面白いところで、日本がイランとの関係を深めていけばいくほど、イラクも日本を重
 視せざるを得なくなる。この辺の機微は男女のなかにも似ているのです」

・バグダッドは、テヘランに中立を守らせるためなら如何なる犠牲も辞さない覚悟を固め
 た。イランが兵を動かさず、東部国境が安定すれば、イラクは30個師団をサウジアラビ
 ア国境に振り向けることができる。
 東部戦線異状なし。これこそ、フセインの至上命題だった。
・ひとたび心を決めたサダム・フセインの行動は早かった。
 イラク政府は、8月15日午前11時、バグダッドの放送を通じて、イランに画期的な
 和平提案を行なったのである。 
 フセインは、イラン・イラク戦争によって得た領土からイラク軍を全面撤退させるとと
 もに、75年のアルジェ協定を受け入れた。イラン側の主張を呑んだ全面的な譲歩であ
 った。両国は電撃的な和解に向けていっきょに動き出した。
・このころになると、アメリカ軍のサウジアラビアへの大量派兵が軌道に乗り、前線基地
 にはアメリカの空挺部隊が続々と到着していた。 
 イスラムの聖地メッカ、メジナに近い砂漠地帯に異教徒の軍が乗り込んできたことで、
 イスラム諸国の間には微妙な空気が醸成されつつあった。
 「聖なる大地をサタンの国に踏み躙られてなるものか。イスラムの同胞が撃たれるのを
 黙ってみていていいのか」
 こうした声がイランの急進派を中心に渦巻いた。
・だがその一方で、イラン・イラク戦争で夫や息子を失った民衆の間からは、これまで被
 った屈辱を一挙にそそぐため、この際、イラン軍を駆ってイラクに攻め入るべきだ、と
 いうイラク憎しの世論も沸き上がった。 
・きわめて有力なイラン政府高官と面談中のことであった。
 斎藤邦彦イラン大使は、思わず心臓が凍りつくような場面に遭遇した。
 話が中立問題に及ぶと、この高官は斎藤の目を射抜くように見てこう言い放ったのだ。
 「我々は無論中立を守るつもりだ。だが、イスラエルが参戦すれば話は別だ。イスラエ
 ル軍が戦線に加われば、我々は選択の余地はなく、いいですか、われわれは必ずイラク
 側に立たざるを得なくなってしまう」
・この高官は確かに斎藤にこう明言したのだが、彼は斎藤を介して、ワシントンに重大な
 警告を発していたのである。
 イランは湾岸危機に際して、現世に中立を守るつもりだ。
 だが、アメリカがイスラエルを押さえかねて、イスラエル軍がヨルダン領に侵攻しイラ
 クと対決する構図が出来てしまえば、我々の自制もその時までだ。
 イランはイスラムのタイ語のためにイラク軍を支援してイスラエル軍と干戈を交えざる
 を得ない。

・90年暮れから奇妙な情報がテヘランの日本大使館に寄せられていた。
 イラン全土の各都市にネットワークをもつ日本の商社関係者から「イラク航空機がイラ
 ン国内にいる」という話が持ち込まれてきたのである。
 両国の間には航空機の相互乗り入れは実現しておらず、イラク制裁の国連決議によって
 もイラク機の飛行は禁止されている。
 イラク航空機の姿をテヘランの航空で見かけることなどあり得ないことだった。
・そして、今度はイラク軍機がイラン領内に飛来した、というのである。
 この重大な機密情報は、国連の対イラク撤退要求の期限が切れた1月16日、斎藤邦彦
 大使のもとに届けられた。
・茶色の封筒に厳重な封緘が施されたテヘラン発の緊急電。
 外務省六階の「オペレーション・ループ」でこの公電に接した外務省幹部のひとりは、
 こう述懐している。
 「イランがイラクと手を握る。この悪夢と言うべき事態を頭から振り払おうとしたが、
 ほとんど恐怖に近い感じを短い電報から受けたことをはっきり覚えている。あるいは電
 報を持つ指先がかすかに震えていたかもしれない」
 
・湾岸の危機は砂漠の熱戦に転化しつつあった。
 前線からは、ワシントンに向けて、大部隊の移動が続き、空爆の準備が整ったことを伝
 える報告が相次いでいる。
 ホワイトハウスを行きかう補佐官たちの顔貌も、異常な高ぶりを隠すことができず、
 その眼は充血していた。
 在ワシントン日本大使館の安全保障問題の担当官は席に着くと、事務的な口調で用件を
 切り出した。
 「極めてお忙しいことと思いますので、重要な点に絞って説明させていただきます。
 アメリカ側も軍事衛星などで状況は把握しておられるでしょうが、イラク機のイランへ
 の飛来についてテヘランの日本大使館から確報が届きましたのでお知らせしたい。
 わが方でもごく限られた者しか承知していないインテリジェンスですので、最高度の機
 密保持に務めていただくよう願います」
・この担当官は、テヘランからの極秘電の概要を英文メモに従って説明した。
 相手の視線が鋭さを増すのを彼は見逃さなかった。
 「アメリカ側も軍事衛星などで状況を把握しておられるでしょうが」
 というくだりは、一種の外交辞令だった。
 担当官は、イラク機飛来の第一報をホワイトハウスはさして正確に掴んでいない、とい
 う感触を得ていた。
・イラクの基地からイラン南部のバフタラン基地までジェット戦闘機ならわずか10分。
 やや内陸部に入ったハマダン危地でも20分足らずの距離だ。
 しかも、超低空での隠密飛行であったため、多国籍軍側が現場を押さえていない可能性
 が大きかった。
・40数機ものイラク軍機が集団でイランに飛来した事実はアメリカの統帥部を緊張させ、
 困惑に陥れるに十分だった。
 アメリカを盟主とする多国籍軍にとっては、イラク機が安全なイランを策源地とするこ
 とはまさしく悪夢だった。 
・イラク軍機がイランの軍事基地に飛来するには、イラン当局が何らかの形で承認を与え
 ている可能性が高い。
 イラク軍機の受け入れを黙認しただけであったとしても、水面下で両国の協力関係が出
 来上がっている事実は覆うべくもない。
 もし、バグダッドとテヘランの間に密約があるなら、時代はより深刻だ。
・イラク軍機の第一陣が飛来した際、イラン空軍がスクランブルをかけたという事実は何
 を物語っているのか。 
 これを素直に受け取れば、イラン政府はイラク機の飛来を事前に知らされておらず、
 承認も与えていなかったことになる。
・外務省はイラン・イラク密約説を裏付ける状況証拠をいくつか握っている。
 まず技術的面から分析すれば、イラク機は退避する際に特定の苦衷回廊を使用している。
 また、イランは要撃行動を取っておらず、イラク機にレーダー支援を与えている。
 さらに、航空機の飛行のためには飛行部隊のみならず、整備・補給・管制等の支援体制
 が整っている必要があり、少なくともイラン側上層部の暗黙の了解がなければ、このよ
 うに連日の退避飛行は不可能である。 
 したがって、両国間には事前の調整があったと考えざるを得ない、というのが外務省の
 結論だった。 
・加えて、イラン領に逃げ込んできたイラク軍機のパイロットのうち、ベテランは再びイ
 ラクへ戻り、別の新鋭戦闘機を操って帰って来たという。
 戦闘機のピストン輸送が行われていたのだ。
 イラン山岳地帯の地形は複雑で、熟達したベテラン・パイロットの腕に頼らざるを得な
 かったたらしい。
・イラン側はなぜ大量のイラク軍機を自国の領内に退避させたのか。
 湾岸戦争の開戦前夜に行うにはあまりに大胆な決断ではなかったのか。
 イランが新鋭イラク軍機の策源地になる・・・。
 もし、多国籍軍側がこう判断すれば、イランは攻撃を受ける恐れを無しとしない。
 だが、その一方で、虎の子のイラク軍機を領内に退避させれば、イラン政府は貴重な外
 交カードを手にすることになる。
 イラク軍機を留め置くも、イラク側に使わせるも、そして接収してしまうも、すべてイ
 ランの意のままだ、と彼らは考えたに違いない。
 「イランの最高指導部は水面下でのサダム・フセインとの折衝を通じて、イラク軍機を
 自国の領内に迎え入れてもよい、というシグナルを送ったはずだ。
 そのときには、場合によっては、イラン領内から発信して多国籍軍を叩いてもよい、
 と思わせたのかもしれない。
 だが、結果的には、イランはイラクを見事に裏切ったのだ。
 その証拠に、2月末になるとイラク軍の新鋭機は新たな迷彩を施して、イラン軍の練習
 機として使い始めたではないか。
 イラン・イラク戦争の賠償の一部として、まんまと押収してしまったのだ。
 つまるところ、湾岸戦争の真の勝者は、アメリカに恩を売ったイランとイスラエルでは
 なかったのか」

・多国籍軍のF117ステレス戦闘爆撃機がイラク空軍基地を襲い、その効果を発揮し始
 めた1月26日、イラン国営通信は「イラクの戦闘機7機がイラン国内の空港に飛来。
 このうち1基は墜落したが、6機が緊急着陸した」と伝えた。
 これ以上の君鎰保持はむずかしいと見て、ついにイラク機飛来の事実を見たのである。
 斎藤チームの第一報から数えて11日目のことだ。
 イラン政府は、その後、イラク機は20機を数えるにいたったと発表している。
・一方、アメリカ側はイラン領に逃げ込んだイラク機は合計両者の言い分には149機と
 公表した。両者の言い分には120機以上のもの落差がある。
 だが、ホワイトハウス高官は、その点を衝かれても、穏やかな微笑を投げ返すだけだっ
 た。 
・「イラン政府に統一的な意図を見出だそうとするのは、この国の内実に通じていない人
 たちの通弊だ。
 そもそもイランにはまとまった意志など存在しない、と言ったほうが正確かもしれない。
 宗教指導者、議会、外務省、それに軍の当局者たち。それぞれが独自のチャネルで様々
 な考えを外部に表明する。
 それがイラクの最高意志なのか、まとまった方針なのか、判然としないケースがほとん
 どなのです」
・イランのような老練な国家は、いくつもの政治的な意図を籠めて外交上の布石を打つ。
 はたしてその意志がどこにあるのか、外務からは容易に窺い知れない。
 イラク軍機の飛来を受け入れたイラン政府の思惑は奈辺にあったのか。
 多国籍軍の盟主アメリカに対して、自らの軍事上のプレゼンスを主張する。
 サダム・フセインに対しては、虎の子のイラク新鋭機を温存させて恩を売る。
 そして、労せずして百機を超える戦闘機をまんまとせしめ、イラクの航空戦力を減殺す
 る。
 ペルシャの民は、ひとつの決断に複数の意図を潜ませて、情勢の変化に備えたのではな
 いか。

密室の「湾岸方程式」
・「多国籍軍が戦闘行動に突入する場合は、アメリカ政府から日本政府に何らかの形で通
 報があるのか」
 ワシントンの「村田良平」駐米大使は、記者団からのこうした質問に巧みな予防線を張
 っている。
 「日本は多国籍軍に部隊を送っておらず、直接作戦に関与していないので、取り立てて
 事前の連絡と言ったものはないのではないか」
 だが実際には、アメリカ政府から同盟国日本政府への内報は行われたのだった
・1月16日、国務省ベーカー長官室から、日本大使館に連絡が入った。
 「ベーカー国務長官から、村田大使に直接お話ししたい件がありますので、おいでいた
 だきたい」
・会談はわずか8分間だった。
 だが、ベーカーは村田ひとりを呼び込んで、二人だけのさしの時間を持つことによって、
 ブッシュ政権は日本政府を極めて重視しているというメッセージを伝えようとしたのだ
 ろう。
 湾岸で戦いが今まさに始まろうとする直前の8分間は、ベーカーにとって黄金にも値す
 る貴重な時間だったはずだ。
 ベーカーは、情に流されて無駄な弾を打つような男ではない。
 ベーカーの上着の内ポケットには、4日後に日本政府に突き付けるはずの湾岸戦争の請
 求書が忍ばせてあった。

・ペルシャ湾に浮かぶ米海軍の専管「ミズーリ」と戦艦「ウィスコンシン」。 
 現地時間の1月17日午前3時、甲板上の発射装置から54発の巡航ミサイル「トマホ
 ーク」が一斉に飛び出していった。
 記憶装置には、攻撃目標として、バグダッドの大統領官邸や指揮・統制・通信施設、
 飛行1場、核・生物・化学兵器工場などがインプットされていた。
・1発の価格が日本円にしておよそ1億8千万円。
 この「トマホーク」によって開戦の口火が切られた事実は、戦いがかつてない高価なも
 のになることを予言していた。気が遠くなるほど金を喰う砂漠の戦争が始まったのであ
 る。 
・パウエル統合参謀本部議長が案に認めたように、第一撃で百発以上のトマホークが発射
 されたとすれば、「砂漠の嵐」作戦が発動されてわずか半日余りの間に、巡航ミサイル
 の費用だけで占めて180億円を瞬時に使い果たしてしまった計算になる。
・パウエルはこの会見で、FA18ホーネット戦闘攻撃機が敵の迎撃ミサイルによって失
 われたと発表した。
・ちなみに、
 ・FA18ホーネット戦闘攻撃機:40億円
 ・F14トムキャット戦闘機:95億円
 ・F15イーグル戦闘機:66億円
 ・F117Aステレス戦闘爆撃機:56億円
 ・地対空ミサイル・パトリオット:1億5百万円
・イラク軍クウェート侵攻以来、5ヵ月余りの間に、アメリカ軍を中心とする多国籍軍は、
 サウジアラビアを中心に、陸・海・空、それぞれに海兵の四軍を増強し続けた。
 アラビアの砂漠には突如として巨大な軍事都市が出現したのである。
 湾岸の駐留コストも開戦前にすでに百億ドル、日本円にして1兆3千億円にも達しつつ
 あった。 
・ホワイトハウスがアラビアの砂漠に巨額のドルを注ぎ込んでいくにつれ、極東の経済大
 国、日本に向けた期待と圧力も次第に高まっていった。 
 ブッシュの別荘では、大統領を囲んで側近たちがこんな本音のやりとりを交わしていた。
 「日本とドイツは、憲法上の制約もあり、今度の湾岸危機で安全保障上の大きな役割は
 果たせまい。しかし、この危機をきっかけに従来の安保政策を変え、潜在的なミリタリ
 ー・パワーになっても困りものだ」
 「だが、彼らには肩身の狭い思いをしてもらわなければ…。国際的な批判を浴びれば浴
 びるほど、多くの財政負担をせざるを得なくなるからな」
 「東京とボンこそ、われわれのディープ・ポケット(でかい財布)だ。そこに彼らの戦
 略的な価値がある」
 彼らは、日独両国が域外に実力部隊を派遣できない弱点を衝いて、その代わりに膨大な
 資金を提供させようと目論んでいたのである。
・9月初め、アメリカ議会では、在日アメリカ軍の駐留経費を全額日本政府に負担させる
 ことを求める決議案を提出する動きが秘かに進んでいた。
 この法案を書き上げたのは、民主党のデビッド・ボニアー下院議員。
・ボニアー議員は、議案の上程にあたって、日本に安上がりの安全保障を享受する時代は
 過ぎ去ったことを警告してやろう、と呼びかけた。  
 後に、下院本会議はこのボニアー決議案を圧倒的多数で可決し、湾岸危機への対応でも
 たつく日本に、アメリカの苛立ちを見せつけたのだった。

・オーストラリア政府の場合、湾岸危機の発生直後、いち早く海軍のミサイル・フリゲー
 ト艦、駆逐艦、補給艦各1隻をペルシャ湾に送り、軍事面での貢献が高く評価された。
 このため、アメリカから資金面での協力は求めなかった。
・これに対して、日本の場合は、軍事面での貢献は限りなくゼロに近い。
 当初、ジャクソン大統領特別補佐官は、日本がペルシャ湾に掃海艇を派遣してはどうか、
 と打診した。  
 「機雷を除去して公路の安全を確保する掃海艇の派遣なら、日本の憲法が禁じる自衛隊
 の武力行使には当たらないのではないか」
・だが、この提案に日本側からはついに反応が得られなかった。
 それならヨルダンなど周辺国からの難民救済を日本が一手に引き受けてはどうか、と持
 ちかけたのだが、法制上の不備もあって、日本はすぐには行動に移れなかった。
 1月29日、日本は新たにいわゆる「湾岸政令」を定めて、自衛隊の輸送機をヨルダン
 のアンマンとエジプトのカイロに間に飛ばし、難民の輸送に協力することを決めた。
 だがその時には、国際機関からの派遣要請がなく、結局、難民救済も実現していない。
 
ハシモト蔵相の光と影
・ブレディ財務長官がますこう切り出した。
 「日本政府から拠出いただいた総額20億ドルにのぼる多国籍軍への資金がきっかけと
 なって、初期の湾岸への派兵は順調に実施することができました」
 「我々の作戦としては、当分の間、イラクの軍事施設への空襲を断固として行うつもり
 です。そしてイラク軍の継戦能力を奪った後、地上戦に入る予定です。
 初戦では、まずトマホーク・ミサイルやスマート爆弾などを大量に使用して、イラク側
 の軍事拠点を破壊します。 
 この作戦には、きわめて高価なハイテク兵器の使用がどうしても不可欠です。
 しかも、徹底した攻撃を長期に行う必要がある。
 このため、戦費もわれわれが会戦時に試算した額を大きく上回るものとなっています。
 橋本さん、日本政府も、ひとつお国の力に応じて協力をお願いしたい」
・橋本はほとんど表情を動かさなかった。
 「もちろん、わが国として多国籍軍を支援するのは当然のことであり、応分の協力は惜
 しみません」 
・橋本はすでに腹を決めていたが、同時に、公称にあたる者として自分から金額を提示す
 るわけにはいかなかった。
 この種の会談では、具体的な金額を最初に切り出した方が不利になる。
 アメリカ側の要求額が80億ドルであるのに、日本側が百億ドルを提示してしまえば、
 先方はそれに飛びついてくる。
 また、あまり小さな額を示せば、現状認識が甘いとアメリカから集中砲火を浴びかねな
 い」
・「ブレディ長官。貴方は日本にどんな貢献を期待しておられるのですか」
 「橋下さん。日本には当座の戦費90億ドルほどをご負担いただけませんか」
 橋本にとっては、拍子抜けするほどの率直さであった。
・「ブレディ長官。お引き受けしました。
 橋本の答えもまた至極あっさりしたものだった。
 「ですが、私にもお願いがあります。90億ドルの件はそちらではしばらく伏せておい
 ていただけませんか。
 アメリカから押しつけられたという印象が拡がれば、日本国内で反発を招くことになり
 ます。私が帰国して海部総理にも話をし、根回しをする時間をいただきたい。
 それまではアメリカ側のプレスには金額を公表することを控えていただきたい」
・ブレディの前には、厚さ10センチはあろうかという大部なファイルが置かれていた。
 この資料は、財務省や国防総省のスタッフが夜を徹して準備したものだった。
 橋本が90億ドルの根拠を細かく突いてきても、ブレディが即座にページを開いて説明
 できるよう、インデックスが付されていた。
 だがアメリカ側の予想を裏切って、橋本は「なぜ90億ドルなのか」を尋ねようとしな
 かった。 
・半世紀に及ぶ日米の同盟史上、永く記憶されるべきスタンホープ会談。
 冷戦後も世界の覇者であり続けようとするアメリカの戦いに、日本ははじめてその戦費
 を担うことを約束した。
 だがこの会談には陥穽が潜んでいた。
 日本が拠出する90億ドルが「全額アメリカに渡されるのか、他の多国籍軍参加国にも
 配分されるのか」「拠出はドル建てか、円建てか」といった核心部分が詰められていな
 かったのである。
 これが後に日米関係を危地に追い込むこととなる。
 
痛恨の二元外交(日本敗れたり)
・「有事のドル、平時の円」。
 これはかつて為替ディーラーたちを衝き動かしていた行動原理だった。
 米ソ冷戦期には、戦争や動乱が勃発すれば、東西対立に最も敏感なヨーロッパ地域の緊
 張が高まり、マルクスやウランの通貨が売られ、世界の基軸通貨であるドルが買い進め
 られた。
・だが湾岸戦争は、為替相場を支配していた常識を裏切り続けた。
 たしかにイラクのクウェート侵攻直後はドルが一時買い進められたが、しばらくすると
 弱含みに推移していく。 
 ドルは有事に強いはずではなかったか…。
 湾岸危機下のドル安をいぶかる市場関係者の間では、戦闘突入となれば今度こそドル買
 い、とも囁かれた。
・「船橋洋一」は、有事のドル安についてこう分析している。
 「『有事』も『ただの有事』ではなく『究極の有事』でなければドルは強くならないと
 見られている。『究極の有事パワー』としての米国像は、冷戦後の世界における米国の
 地位と役割、そしてパワーの不確かさと不安定さを示している」 
・たしかに、多国籍軍の盟主アメリカの国力の翳りを反映してか、湾岸線戦争の火ぶたが
 切られると、ドルは一挙に急落していく。
 市場関係者は、もはやだれも「有事のドル買い」を口にしなくなっていた。
・ところが、湾岸戦争の終結点が見えてくると、アメリカの景気が予想以上に早く回復す
 るのではないかという期待も重なって、ドルは急ピッチで買い戻され、一挙に反騰して
 いった。皮肉なことに、有事のドルは戦争終結後、じりじりと高値を追っていったので
 ある。 
・円・ドル相場の急展開に、ブッシュ政権の対日関係者たちは狼狽した。
 とりわけ、ホワイトハウスと国務省の高官は、事態の成り行きを深刻に受け止めていた。
 なぜなら、三月上旬の為替水準では、日本からの拠出金の受取額は85億ドル余りにし
 かならないからだ。 
 日本からの拠出が円建てである限り、橋本蔵相が約束した90億ドルは、わずか2ヵ月
 足らずの間に5億ドルも目減りしてしまったことになる。
・ブレディ財務長官は「日本にはドル建てで支払ってもらうよう話し合った」と述べて、
 アメリカ政府としては、あくまでドル建てで90億ドル全額の支払いを求める姿勢を示
 した。 
・これに対して大蔵省は次のように反論している。
 「アメリカ側とは日本が補填する必要はない約束になっている。為替市場が変動相場制
 である以上、こうした事態は避けられない。もし為替が円高に振れれば、アメリカが得
 をすることもあり得た」
・90億ドルをめぐる財務当局同士の位相のズレは、日米関係全体を緊迫にせずにはおか
 なかった。  
 在ワシントン日本大使館の担当者とホワイトハウス対日関係者の間では次のようなやり
 取りが交わされた。
 「早く手を打たなければ、重大な事態を招く心配がある。平時の経済交渉ならいざしら
 ず、戦時の日米協調に関わることだけに、ひとたび処理を誤れば日米同盟に傷がつく」
 「全く同感だ。こちらと東京では、どうしても湾岸戦争への思いに隔たりがあるのだろ
 う。アメリカの若者が血を流しているさなかに、日本が金のことであれこれごねている、
 という反感が広がらなければいいが」
 「いったい、ブレディ長官と橋本蔵相の間で本当に何が話し合われ、どのような合意が
 取り交わされたのだろう」 
・アメリカ政府部内では、首脳同士のいわゆる差しの会談には、大統領の他は国家安全保
 障担当補佐官だけが同席してメモを取り、その記録は、ホワイトハウスの担当官や国務
 省にも厳秘とされ回覧しないことがある。
 日米首脳会談でこうしてケースが出てきた場合は、大統領補佐官や国務省の次官補が日
 本側に頼み込んで、自分たちの大統領の発言内容をこっそり教えてもらう。
 今回も、アメリカ側当局者は、日本の外務省なら非公式な形でも会談記録を持っている
 かもしれない、と考えたのである。
 だが、この会談に限っては、アメリカ側の期待は裏切られた。
 外務省は、橋本とブレディの間で交わされた協議の核心部分を窺い知る記録を大蔵省か
 ら一切渡されていなかった。
・会談には通訳として大蔵省の財務官室長の「柏木茂雄」が陪席している。 
 彼は会談後、その内容をまとめて大蔵省の首脳陣に報告した。
 大蔵省が意図的に記録を破棄しないかぎり、「橋本・ブレディ会談録」は省内の保管庫
 に眠っているはずだ。
・ホワイトハウスとの間で目減り問題の処理にあたった外交官は次のように述懐する。
 「会談の中身がわかっていれば対処の仕様もあった。何も知らされずに事務処理だけし
 ろと言われても打つ手がないのです。とはいえ、放っておけば状況がどんどん悪くなっ
 ていくため、アメリカ側と会談の様子をあれこれ推測しながら手さぐりで後始末に奔走
 しました」
・このままでは議会を怒らせ、問題が一層こじれてしまうと心配したブッシュ大統領は、
 対日関係の調整にあたっていたダン・クエール副大統領とカール・ジャクソン特別補佐
 官を呼んで尋ねた。 
 「いったい、ニックは橋本蔵相との間でどんな手打ちをしたんだろうね。君たちからも
 一度、詳しく尋ねてくれないか。そしてその結果を必ず知らせてほしい」
・大統領の命令は絶対の権威を持つ。
 クエールとジャクソンは連れ立ってブレディ財務長官と会い、スタンホープ会談の内容
 を資した。
 とりわけ、日本側が約束した90億ドルはドル建てか円建てか。
 また、90億ドルの提供先はアメリカだけか、それとも多国籍軍参加国に配られるのか。
 ブレディの答えにふたりは色を失った。
 「ダン。それが、そのところをどうしてもよく思い出せないんだ・・・」
・ブレディのおおらかで愛すべき人柄については、クエールもジャクソンもよく知ってい
 るつもりだった。 
 しかし、今度ばかりはただ呆れ果てるばかりであった。
 これでは大統領へ報告のしようもない。
 あの会談にマルフォードとダラーラのふたりが付き添っていながら、なぜ、さしの会談
 などさせたのか。
 ホワイトハウスにとっても、橋本・ブレディ会談はあまりにも多くの謎に包まれていた。
・海部首相は、90億ドルの拠出はあくまで円建てであり、したがって補填するつもりが
 ないことを国会の場で明確にしてしまった。
・外交交渉に関わる重要な質疑の場合は、事務当局が委員会に先立って議員の質問内容を
 入手し「答弁資料」の名目で模範回答を作成するのが常だ。
 首相はこの答弁資料をもとに質問を受けて立つのである。
 だが、この日の海部答弁は違っていた。
 外務省のある幹部は次のように証言する。
 「本来なら、橋本・ブレディ会談に関する質問なのですから、まず当時の公電をひもと
 いてみるのが常道です。しかし、90億ドルをめぐる日米交渉については、肝心の部分
 が公電として存在していない。したがって、国会答弁に立つ総理も、あの会談が果たし
 てどのようなものであったのか、なんら根拠となる文書に目を通しようがなかったので
 す」
・外務省は公電そのものを持っていなかったのである。
 理由は至極単純だ。スタンホープ会談から村田良平駐米大使ら外交官が排除され、日米
 の財務当局が申し合わせて会談の中身を外務に明かさなかったからだ。
・この会談の経緯を詳しく知りえる立場にあった外務省の当局者は「あの席に職業外交官
 がひとりいて、橋本大臣にメモを一枚差し入れれば、それで済むことだった」と述べて
 いる。 
・いっぽう、橋本・ブレディ会談を事務当局の責任者として支えた「内海孚」財務官は、 
 混乱の原因は記録文書や公電の有無より、外交当局の言って適確な事後処理がなされな
 かった点にこそある、と主張する。
・この内海証言に、外務省の首脳陣のひとりは公電に拠って反論する。
 外務省は日本の公電をワシントンの村田大使に向けて発出していた。
 そして、それには、日本からの財務貢献が円建てで行なわれること、さらには資金のふ
 り分けについても明記されていた。 
 本省は、村田体がこれらの訓令を執行して、アメリカ政府に日本の意向が伝えられたこ
 とを復命する報告が届いている。
 アメリカ側は、日本から、為替レートも配分先も正式に通告を受けていたのである。
・だが、内海はこの「アメリカ悪人説」にも「外務省無謬説」にも納得しない。
 「外務省の連中は公電を打ったと言っているが、アメリカ国務省の下っ端に公電片手に
 説明などしても、肝心のホワイトハウスやベーカー国務長官にメッセージがデリヴァー
 されなければ、何の意味もない」
・かくして、日本の政府内部で果てしない批判と言い訳が繰り広げられた。
・ドイツ政府はマルク安による湾岸拠出金の目減り分の補填に早々と踏み切っている。
 ドイツ大蔵省は、マルクの目減り分を上乗せして、アメリカ政府に振り込んだ。
 為替変動分に対するドイツ政府の素早い措置は、日本政府をより一層窮地に追い詰める
 結果となった。 
・湾岸で熾烈な航空攻撃が繰り広げられ、地上戦の開始に向けた準備が進められるにつれ
 て、局外に身を置く極東の経済大国ニッポンへの風圧は日ごとに強まっていった。
 強風は、ひとりアメリカだけでなく、イギリスやフランスなどの多国籍軍に大量の軍を
 送った主要国からも吹き荒れていた。
 日本が「湾岸協力会議(GCC)」を通じて拠出した90億ドルを、イギリスやフラン
 スにも当然受け取る権利がある、と声高に要求し始めたのである。
・ニューヨークでのG7蔵相・中銀行総裁会議でのコーヒー・ブレイクのおり、イギリス
 のラモンと蔵相が橋本の姿を見つけて近づいてきた。
 「橋下さん。日本が今度多国籍軍出す資金について、ちょっとおうかがいしたいのです
 が、資金の配分をわが国も受けられる、と考えておいてよいのでしょうな」
・「ラモントさん。あなたのご質問には、そのとおりです、とお答えすることにしましょ
 う。もっとも、日本からの資金の大部分はアメリカの手に渡ると思います。だが、お国
 にもその一部は配分されると受け取っていただいていい」
 ラモントは満足げに頷いて、穏やかな微笑を返してきた。
・この束の間のコーヒー・ブレイク会談は、見逃せない事実を示唆している。
 橋本は、ブレディとの会談で、日本からの90億ドルは、第一次、第二次拠出の際とま
 ったく同様、湾岸協力会議(GCC)を通じて多国籍軍に参加している米、英、仏など
 の各国に配分されるものと考えていた。
 このため、橋本からブレディにとりたてて資金の配分先については確認しなかったと言
 う。
 橋本は、日本からの拠出金はGCCを通じて各国に配分されるという当然の前提に基づ
 いて交渉に臨んでいたのである。
 だからこそ、ラモントの問いかけにも「その通り」と明快に応じたのだった。
 
・「木内昭胤」駐仏大使は、人目につかぬよう官邸の中庭を抜けて、「ロカール首相」の
 執務室を訪ねた。
 ロカールは首相秘書官ひとりを陪席させただけで、木内を待ち受けていた。
 ロカールは、いつもどおりの温顔でこう切り出した。
 「実は、湾岸戦争が終わって、戦争にかかった費用をざっと試算させてみたのですが、
 当初の見込みより多く、相当なやりくりが必要なことがわかりましてね。無論、サウジ
 アラビアやクウェートからは協力をしてもらっているのですが、それでもかなり厳しい
 情勢です。この時期になって申し上げるのは誠に心苦しいのですが、日本にも何らかの
 ご支援をいただけないかと思います」
・実は、フランス政府からの依頼は、日仏の大蔵ルートを通じて内々に打診が行われてい
 た。フランスの大蔵省のトリシェ国庫局長は、内海財務官に「湾岸戦争の戦費の一部を
 負担してくれ」と頼み込んでいていたのである。
 内海は、いまからでは難しい、と判断した。
 だが彼はトリシェの求めを直接断らず「この件については日本の外務省が窓口になって
 いるので、そちらに頼んでみるといい」と応じている。
・木内大使は、日本の大蔵省の動きを察知していただけに、かえって闘志をたぎらせた。
 「首相閣下、ただちに本省と連絡を致しています。私としても、東京をできるだけ説得
 してみるつもりです」 
・日本政府は、90億ドルはGCCに振り込むことを決めていた。
 その張りつけ先についてもすでに決定済みであり、この段階になってフランスが資金の
 分配を求めてきたことに、木内は困惑していた。 
・一方、アメリカは、日本との交渉で獲得した90億ドルは耳を揃えてわが懐に入るもの
 という強気の姿勢を崩さなかった。
・もはや、アメリカ政府の意図するところは明らかであった。
 日米蔵相会談で何が話し合われ、何を合意したか、など問題ではない。
 ブッシュ政権としては、日本から90億ドルを1セントも欠けることなしに取り立てる、
 ということが確認されたのである。
・ベーカー国務長官の補佐官のひとりはこう述懐する。
 超過密スケジュールに生じた小さな空白。
 そこには、政治的な意図が込められていた。
 橋本がニューヨークでのG7会合を終えて、ワシントンに立ち寄ってくれれば、ベーカ
 ーは橋本を朝食に招く心積もりだったのである。 
 橋本が日本を離れるにあたって、アマコスト駐日大使は
 「できればベーカー国務長官ともお会いになったほうがよろしいかと思います」
 と助言した。
 だが、橋本は「国会日程もあるので、もしワシントンに行く必要があれば立ち寄るが、
 ブレディ長官との間で話し合いがつけばそれでいいのではないか」と言い残して、ニュ
 ーヨークへ発っていった。
 アマコストは、橋本・ブレディ会談に一抹の不安を抱いていた。
 やはり、橋本がベーカーと会い、会談の結果をきちんとつたえておくほうがいいのでは
 ないか、と考えていたのである。

・ブレディは橋本から「たしかにお引き受けしました」という約束をとりつけるや、いさ
 んでブッシュ大統領に電話を入れ、会談結果を報告した。
 次いで、ベーカー国務長官にも連絡をとり、日本から90億ドルの拠出を約束してもら
 ったと告げている。
・ベーカーは90億ドルの果実をわが手にするや、ただちにアメリカ議会の上下両院の大
 物たちに内報した。
 だが、彼はこの時、90億ドルが円建てかドル建てか、また全額アメリカに渡るのか、
 多国籍軍に参加しているイギリスやフランスにも配分されるのか、といった詳細をブレ
 ディから聞かされていなかった。
 かつて財務長官として歴史的なプラザ行為をまとめあげ、円高を演出したベーカーだっ
 たが、日本の拠出が円建てで行なわれることなど念頭になかったのである。
・湾岸拠出金が、橋本からブレディへ、ブレディからベーカーへ、そしてベーカーから議
 会指導者へと伝えられるにつれて、発言のニュアンスが少しずつ変容していった。
 かくして、上下両院の議会指導者たちは「日本が90億ドル全額を速やかにアメリカの
 国庫に振り込んでくる」と思い込んでしまった。
・このため、イギリスやフランスが90億ドルの一部を配分するよう求めてくるや、アメ
 リカ議会から不満の声が噴出する。
 「日本が新たに約束した90億ドルについては、全額アメリカ軍の戦費に向けられたも
 のだ。日本からの90奥ドルは、日米蔵相会議でアメリカが要請し、獲得したものだ」
 と日本への先制攻撃に打って出たのだった。
・交渉に瑕疵があっても、決して自らの責任だと認めるな。部隊を送らない日本への反感
 が問題点がもはや覆いがたくなったときには、むしろそれを俎上に乗せて相手を攻めま
 くれ。
 これこそ、弁護士ベーカーが数々の訴訟を勝ち抜いてきた手法そのものだった。
 ベーカー発言には日本の国会から強い反発が出てのだが、彼は一向に意に介さなかった。
・一方、ワシントンでは、村田駐米大使とキミット国務次官との間で四回にわたって事後
 処理をめぐる会談が行われた。 
 「わが国としては、円建てで補正予算を組み、拠出金を出した以上、今さら円安による
 目減り分を補填するわけにはいかない」
 「アメリカ議会には、中東の石油に大きく依存していながら多国籍軍に部隊を送らなか
 った日本への反感が根強い。この問題で日本に対する誤解が増幅されないかと心配です。
 補填をできるだけ早く実施して欲しい」
・当初、両者の主張は対立したまま膠着状態が続いたが、日本側は円安による目減り分は
 補填できないものの、湾岸戦争後の中東情勢の安定、とりわけクルド難民への救援資金
 として5億ドルの支出に応じることで、ようやく日米の折衝がまとまったのだった。
 この頃には、日本がペルシャ湾に掃海艇を初めて派遣し、これがアメリカ議会の空気を
 和らげる助けとなったとされている。 
・だが、のちにクリントン政権で国防長官の要職につくことになるレス・アスピン下院軍
 事委員長は、議会で発言を求め、日本を名指しで非難した。
 「日本は特別な批判を受けてしかるべきだ。そのもてる財力を思えば、不承不承、仕方
 なく財布を開いたと言えないか。だが問題なのは、日本が約束した金額そのものではな
 い。日本に拠出を呑ませるためにわれわれはどれほど大変な思いをしたことか。ようや
 く金を出すことになったと思ったら、もったいぶってなかなか渡そうとしない。渡され
 てみると、当初約束したドルベースの金額よりも円建ての金はずいぶんと少ないものだ
 った。おまけに使い道を制限するヒモまでついている」
・日本国民はこの国際的な危機に際して、敢然と増税を受け入れ、多国籍軍に国民ひとり
 あたり実に1万円もの多額の税制貢献を行った。
 だが、その果てにわれわれが受けた評価は、かくのごときものだったのである。
・アメリカ議会から浴びせかけられた、あらん限りの罵詈雑言。
 その多くは、アメリが側の誤解や返還に根ざしていた。
 とはいえ、そうした感情的な反応を適確に扱い、日米関係を平穏ならしめることこそ、
 日本の官僚たちに委ねられた責務だったはずだ。
 だが、大蔵省と外務省との間で繰り広げられた凄まじいばかりの抗争は、結果として日
 米の軋みを一層激化させてしまった。
 この非常時にあって、官僚たちは「財務省との間で使や拠出金をめぐる交渉を行うべき
 はどちらなのか」といった省益をめぐる縄張り争いに憂身をやつしていた。
・日米蔵相会談が持たれる度に、外務省は大蔵省に「せめて交渉の結果だけは通知しても
 らわなければ困る」と申し入れる。
 すると、しばらくたってのち、大蔵省の当局者は申し訳程度の話を伝えてくる。
 だが、それは何日も前に新聞に載った何の価値もない情報なのである。
・湾岸危機に際して、日本の屋台骨は軋みをたてて揺らいでいた。
 だが、日本の官僚機構の「省壁」は微動だにしなかった。
 戦後絶えて経験したことがない風波にさらされたがゆえに、官僚たちはますます結束し、
 自分たちの城塞に閉じ籠った。
 「自前の情報を守りぬけ。我が省の生き残りを賭けた戦いと心得よ」
 高級官僚はこう檄を飛ばし、部下たちを督励した。
 彼らは出先で掴んだ情報をひたすら抱え込み、容易なことでは他省庁に渡そうとしなか
 った。
・本来、官僚組織を統括すべき政治指導部は、会って無きがごとき存在だった。
 この国の高度成長が軌道に乗り出したころから、政治家たちは意思決定の大半を官僚機
 構に安易に委ねるようになっていたのだ。
 こうした国においては、行政官は過大な政治責任をも実質上担わなければならず、現に、
 平時にあっては政治の意思決定にも関わってきた。
 だが、ポスト冷戦の秩序の創出をかけた局民に遭遇しても、官僚たちは自らの領域で日
 常の細かな決定を積み重ねていくという従来の行動様式を改めようとしなかった。
 霞が関の砦には省旗だけが翻り、国の医師の所在は突きとめようもなかった。
 「省益あって国益なし」
 日本は針路を適確に定めることができず、湾岸危機の円形劇場で、ひとり迷走と躓きを
 演じたのだった。
・各省にあって、国に情報なし。
 これがために、90億ドルの拠出をめぐって円安・ドル高による目減り問題が起こると、
 日本政府は苦境に追い込まれていった。
 アメリカ政府、とりわけ財務省は、大蔵省と外務省の対立を巧みに利用しながら、つい
 に5億ドルの追加拠出を日本に認めさせた。
 だが、わが国が失ったものは5億ドルにとどまらない。
 大蔵・外務の対立を衝かれて、アメリカ側の要求にあえなく屈してしまった日本政府の
 不様さが、国内世論の底に嫌米感を沈殿させ、日米同盟を内側から腐食させていったの
 である。
・官僚機構の偏狭なセクショナリズムは、ときに、国家の存続をも危うくしかねない弊害
 をもたらす。
 本来、政府部内に広く開示されなければならない重要情報をひとつの省内だけがにぎっ
 て離さない宿痾。
 それは、日本の官僚制につきまとう風土病であり、周期的に発言して国政を死にいたら
 しめる。

・太平洋戦争の開戦と敗戦にあたって外務大臣をつとめた「東郷茂徳」は、国家を破滅に
 導いた過誤のひとつに、軍部による情報の独占を挙げている。
 日本政府は日米開戦を回避しようと、昭和16年11月、「来栖三郎」特派大使をワシ
 ントンに送って、ハル国務長官らアメリカ側と最後の交渉にあたらせた。
 外務省は、この日米折衝に関するワシントン発公電の写しを、陸・海軍省と陸・海の統
 帥部にはすべて送付するのを慣例としていた。
 陸軍大臣の東条英機は執務室でこれらの公電には必ず目を通し、続きナンバーで欠けて
 いるものがあれば、外務省に催促して送らせたという。
 これにひきかえ、軍部は、ベルリンやワシントンの駐在武官から打電されてくる公電を
 原則として外務省に見せようとはしなかった。
 こうした情報の独占は、軍部の独走を許す温床となり、彼らの二元外交を次第に肥大さ
 せていったのである。 
・1937年、東条茂徳は、「もう一人の駐独日本大使」としてベルリンに赴いた。
 当地には、すでに「リッベントロップ」が真の駐独大使と遇する「大島浩」駐在武官が
 いた。
 大島は、陸相をつとめた父によって、幼い頃からドイツ式の教育を授けられ、ドイツ的
 なるものに心酔してきた。
 ベルリン駐在中は、軍服もドイツ風に仕立て、ナチス・ドイツに深く傾斜していた。
・東郷は、着任したその日から、軍部による二元外交に孤独な戦いを挑まなければならな
 かったのである。 
 「外交交渉を行う正式な権限は大使たる自分にあって、大島武官にはない。今後は、大
 島武官との直接の交渉は慎んでいただきたい」
 東郷は、外相に就任したリベントロップとのはじめての会談で、こう釘を刺した。
・ナチス・ドイツは、日本を新たな日独連携に引く込むために、満州国を承認し、蒋介石
 のドイツ軍事顧問団を引き上げ、中国への武器輸出の禁止措置を取るなど、日本側に甘
 い餌を投げかけてよこした。
 その一方でリッベントロップは、ドイツが中国で日本と対等な経済活動を行なえる保証
 を求め、東郷がこれを拒むと、今度は「特恵待遇」を与えるよう要求してきた。
 東郷は、リッベントロップの対日要求の影に大島の姿を見た。
 事実、大島は早々にドイツ側の言い分を支持し、ドイツ外相に要求リストをとり下げて
 はならないと助言していたのである。 
 日独軍事連携の強化こそ国益にかなう、と頑なに信じて猛進する大島。
 これを推進する者は愛国者であり、反対する者は非国民だ。
 ナチス・ドイツに傾倒する駐在武官はこんな論理で自己を正当化し、国益を売りわたす
 役割を演じていたのである。
・東郷は、中国問題をめぐってリッベントロップと会談した際、聞き捨てならない外相の
 発言を耳にした。
 「支那のおける日本とドイツの経済提携の件については、すでに大島武官らとも協議済
 みだが」
 東郷はリッベントロップを直視し、厳しい口調で詰め寄った。
 「日独間の話し合いは、自分とリッベントロップ外相との間ですすめられるべきであり、
 傍系のものを仮にも利用するようなことがあっては断じて困る、とあらかじめはっきり
 と申し上げてあったはずだ」
・リッベントロップは弁解に終始する。
 「ベルリンでは日米防共協定の締結以来の古い慣習もあり、重要会議には大島武官の同
 席を常に求めることにしている」
・「古い慣習」は大使館のなかにも残っていた。
 「関係者以外立ち入り厳禁」と表示された電信室。
 ここに陸海軍武官の補佐官たちが我が物顔に入り込み、大使あての機密電報を自由に読
 むことが黙認されていたのである。
 東郷は着任後、こうした弊風を改めるよう厳命した。
 だが、東郷はこれによって軍から返り血を浴びねばならなかった。
 大島をはじめとする武官とその補佐官たちは、東郷がドイツ大使として留まることは日
 独関係を悪化させる国益を損なう、と東京に訴え続けた。
 ここでも、軍の利益に叛旗を翻す者は愛国者に非ず、という論理が貫かれている。
 ベルリンと東京で東郷更迭の策謀が蠢めいていた。
・東郷は、大島にも外交の二元化を招くような行動は厳に慎むよう申し渡した。
 「軍関係の案件について、武官とドイツ側軍事当局が接触することは差し支えない。
 しかし、こと外交問題については、外交当局間にこれを一任することが当然である。
 第三者が介在することは、面白からざる結果を招くことになる」
・これに対して、大島は次のように応じている。
 「時に参謀本部より、軍事以外の事項についても命令を受けることがある。例えば、
 日本のドイツ大使の後任問題や植民地問題に対するドイツ側の意向を参謀本部から尋ね
 てくることがあるのです」
 大島は「ドイツ大使の後任問題」について参謀本部からドイツ側の意向を探るよう指示
 を受けていることを東郷に堂々と明らかにしている。
 一種の威嚇と見ていい。
・大島は単独でリッベントロップとの関係を深めていった。
 ふたりは「日独防共協定」を強化し、「日独伊三国軍事同盟」をめざす秘密交渉を、
 人知れず始めている。
・大島ら軍部の秘密外交は、やがて、日独伊三国軍事同盟として結実した。
 だが、これこそ、日本の対米開戦を不可避なものとし、国家を滅びの門に引きずりこむ
 亡国の条約だったのである。
 
・松永信雄は、4年半に及んだ駐米大使としての人気を終え、1989年秋、ワシントン
 を去るにあたって、後輩の若手外交官たちにこう言い残している。
 「戦前、わが国はその強大な軍事力を扱いかねて進路を誤ってしまった。だが、戦後は、
 金の力で再び国を謝ろうとしているような気がしてならない」
・日本は、戦後半世紀足らずの間に、経済大国としての地位を揺るぎないものにし、日本
 の円は、国際金融の世界で圧倒的な力を誇るに至った。
 企業群は世界の市場を席巻し、日本は世界最大の債権国となった。
・大蔵省が金融大国の司祭役として果たしてきた役割は絶大であった。
 戦前、軍部は、統帥権をテコに日本社会の隅々に強大な権力を行使した。
 戦後、統帥部という名の権力機構は消滅したが、大蔵省は予算反省を通じて、各省庁
 の頂点に立っていたった。  
 その強大な支配力ゆえに、大蔵省の持つ政治権力は「財政統帥権」とすら呼ばれること
 がある。
 だが、彼らはその持てる力を過信してはいまいか。
 その傲りゆえに日本の針路を誤らせる危険はないのか。
・松永は、日本の蔵相会談から、一国の全権大使が排除される異常さをことあるごとに警
 告してきた。 
 こうした事態を放置すれば、国の外交は二元化し、国益を著しく損なってしまう、とい
 うのが彼の主張だった。
 だが、政治家も、そして霞が関の官僚たちの多くも、これを外務省対大蔵省の単なる省
 益抗争としか見なさなかった。
・湾岸危機という未曽有の暴風雨にさらされると、日本は、うちに包み込んでいた二元外
 交の病弊を会えなく露呈する。 
 多国籍軍への再生支援をめぐる日米間の折衝で、交渉の窓口が外務省と大蔵省に跛行し
 てしまったのである。
 これによって、日本の外交は縦深性を失っていった。
・「外交とは常に懐の深いものでなければならんのです。大蔵省が日本の国内政治に大き
 な影響を持っていることは事実であり、アメリカもそのことはよく知っている。それだ
 けに、大蔵省は外交のフロントに出てくるべきではない。大蔵省は外交でも予算をつけ
 る査定官庁であるべきなのです。
 だが、90億ドル問題では、「大蔵が自ら対米折衝に乗り出してしまった。そのため、
 大蔵が大蔵に90億ドルを予算要求する奇妙な立場に立つことになった。これでは、
 大蔵が自ら予算の要求官庁となる。一種の自家中毒だ」
・90億ドルをめぐる交渉では、大蔵省は外務省を除外し、外交の窓口が二元化した。
 それによって、アメリカに足元を見透かされる結果を招いたのである。
・しかし、国益を損なった責めを負うべきは、ひとり大蔵省だけではない。
 外務省も、大蔵省に日本外交のグランド・デザインを掲示し、彼らを説得する真摯な努
 力を怠っていた。   
・「代表なければ課税なし」
 壇上のスピーカーは、在ワシントン日本大使館の筆頭公使、木村崇之である。
 湾岸戦争中のアメリカの振る舞いが日本の人々をいかに傷つけたかを伝えるにはどうす
 ればいいのか。
 彼は、アメリカ国民の尊敬する建国の父たちの言葉を引いて、苦言を呈することにした。
 「日本は、今回の湾岸戦争で総額130億ドルにも及ぶ資金協力を行なった。
 だが、多国籍軍が、どれだけの戦費を必要とし、それをどのように調達するのか、
 といった意思決定のプロセスには参画することができなかった。
 それゆえ、日本国民は、十分な同意なしに一方的な財政貢献を強いられた、という印象
 をぬぐいきれずにいる。
 これは双方にとって不幸な事態ではないだろうか。
 もし日本にこれほど巨額の公権を求めるなら、それなりに遇してもらわなければ困る。
 でなければ、日本の世論を、世界に積極的に貢献していくよう促すことはむずかしい。
 アメリカがすべてを決定し、すべてを自力で実行できるならそれでもいい。
 アメリカが自ら決定し、その実施は他国に押しつける。
 そんな時代はすでに過ぎ去ったのではないだろうか」
・「代表がなければ課税なし」
 植民地の住民は、イギリス議会に代表を送っていない以上、本国の議会は植民地に税を
 課することができない。
 木村はこの理念を湾岸戦争における日本とアメリカの関係に援用した。
 「政策決定への参画なくして、一方的な財政貢献なし」
 彼はこう述べて、アメリカに対日政策の再考を求めたのだった。
・だが、ワシントンの街では「湾岸危機に際して満足な責任を果たさなかった国が、われ
 らが建国の父の言葉を引いて、ブッシュ政権を悪しきように論評した」と、手厳しい批
 判が渦巻き、物議をかもした。
・対日攻撃の険しさは、ワシントンに住む日本人たちを憂鬱にさせた。
 「これが同盟国に対することばづかいだろうか」とため息を洩らす人たちもいた。
 日米関係はまぎれもなく、戦後最悪と言っていい状態にあったのである。
・3月11日の朝、「ワシントン・ポスト」紙を広げた日本の外交官はわが目を疑った。
 幾度も30カ国の国名をなぞり「JAPAN」の文字がどこかにないか探し続ける。
 しかし、日本の名はついに見当たらなかった。
・在ワシントンのクウェート大使館は「ワシントン・ポスト」や「ニューヨーク・タイム
 ズ」など全米の有力紙に派手な全面広告を掲載した。
 「ありがとう、アメリカ。そしてグローバル・ファミリーの国々」
 クウェートの国土と主権を奪還してくれたアメリカに心から謝辞を呈している。 
 これにつづいて「砂漠の嵐」から「砂漠の平和」の達成に貢献のあった国、30カ国の
 名前が列挙されている。
 憲法にあたる基本法が国防軍のNATO域外派遣を禁じているため、部隊を湾岸の多国
 籍軍に派遣しなかったドイツの名も掲げられている。
 だが、なぜかJAPANの文字が見えない。
・この外交官は、大使館に出勤するや、すぐさまクウェート大使館に抗議の電話を入れた。
 「なぜこのリストから日本の国名が削られているのか。日本は、憲法上の制約から、
 たしかに軍隊を送っていないが、西側主要国のなかでは唯一増税に踏み切って、総額
 130億ドルにものぼる巨額の財政貢献を実施したのは、あなたがたもよくご承知だと
 思う。この貢献は、直接侵略の危機にさらされたサウジアラビアなどを除けば、群を抜
 いているはずだ。直接当事国以外では第一位の貢献国に謝意を表さない理由をお聞かせ
 いただきたい。そうでなければ、大変な負担をお願いした日本の納税者に申し訳が立た
 ない」 
・クウエート大使館の広報責任者の答えは、実に素っ気ないものであった。
 「なぜ国際協調の参加国リストから日本を除いたのか、調べてみたい。だが、意図的な
 誤りではないと思う」
 クウェートにとっては、目に見える人的な貢献をしなかった日本は、自国の自由回復に
 手を貸してくれた国とは映らなかったのである。
・クウェートはなんと日本から戦費の援助を受けている。
 サウジアラビアに亡命中のクウェート人部隊が多国籍軍に参加するため、90億ドルの
 一部を手にしたのである。
 その額は、日本円で6億3千万円。決して少ない額ではない。
 だが、感謝リストから日本の名が落ちていることに象徴されるように、クウエートに日
 本が財政支援を行った事実を知るクウエート国民は皆無と言っていい。
 湾岸戦争の財政貢献は世界中のほとんど誰からも感謝されず、評価もされなかった。
・かつて、将棋の「坂田三吉」は自らの不本意な指し手に「ああ、銀が泣いている」と絶
 句した。 
 日本の納税者が多国籍軍に支払った血税もまた、そのあまりに不本意な扱いに泣いてい
 るに違いない。
 ・アメリカ:1兆7百90億円
 ・イギリス:390億円
 ・サウジアラビア:192億円
 ・エジプト:147億円
 ・シリア:76億円
 ・フランス:65億円
 ・パキスタン:30億円
 ・セネガル:7億円
 ・クウェート:6億円
 ・バングラ:6億円
 ・モロッコ:6億円
 ・ニジェール」6億円
・湾岸危機の発生から戦争の終結にいたるまで、日本からの財政貢献なくして湾岸に50
 万余の兵力が展開することは難しかった。 
 その点で、日本の円は、紛れもなく、中東の秩序回復に少なからぬ役割を果たしたはず
 だ。
 しかも、その資金は、一部、増税をあえて行ってまで賄った。
 だが、こうしたわが納税者の志は国際社会に少しも伝わらなかった。
 各国に配られた90億ドルは、さながら「金」の葬列だったのである。
 
エピローグ
・我れ、湾岸戦争に敗れたり。
 経済大国日本は、安全保障、国際貢献、国内政治など、すべての分野で敗戦国ではなか
 ったのか。
 内閣は各党を束ねることができず、迅速な政策決定を下せなかった。
 国権の最高機関たる国会もまた、危機に臨んでも日本は何をすべきか、その進路を指し
 示すことができなかった。
 行政府も、そして立法府も、何の備えもなく荒れ狂う嵐に巻き込まれ、無惨な姿をさら
 したのだった。
・国家のかじ取りを誤った者は誰か。
 外務省は、外交を国民から委ねられている以上、「敗戦」の責めを負うべきだという非
 難の声を浴びなければならなかった。
 たしかに、霞が関外交は、縦割り行政の弊を克服できず、危機に全省が一体となってあ
 たる体制を整えることができなかった。
 国連平和協力法案の挫折は、国内政治や世論の動向を読み解き、与野党への働きかけを
 怠ってきた外務省の持つ欠陥を端なくも示すものだった。
・日本が持つ圧倒的な経済力と国際社会の責任の大きさ。
 湾岸戦争における日本の振る舞いとその末に国際社会から受けた評価。
 そのあまりのギャップに、多くの人々は眼を背けたくなるほどの自己嫌悪に苛まれ、
 やり場のない念懣を外交批判という形で噴出させたのだろう。
 醒めてみれば、人々は自分自身を悪し様に言っていたことに気づくはずだ。
 だが、その後遺症はあまりに深く、戦争が終わってもなお、真摯な反省はこの国に生ま
 れていない。 
 湾岸戦争の「敗戦の教訓」と著した戦史を編む勇気を持ちあわせた者は誰ひとりとして
 いない。

あとがきにかえて
・戦争は同盟国に潜む矛盾を一挙に噴出させる。
 湾岸戦争もまた、日米同盟の最も柔らかい脇腹を直撃したのだった。
 日米同盟はその主たる仮想敵国ソ連をすでに失いつつあり、同時に「アメリカ経済の心
 臓部は異質な国日本の経済進出によって喰い荒らされている」という意識がアメリカ社
 会に深く浸透していた。
 湾岸戦争の勃発以前に、日米同盟が拠って立つ地殻に大きな変動が起きていたのである。
・「経済大国日本を、ある日、突如襲った湾岸危機。それはすでに明らかになりつつあっ
 た日米最深部のひび割れを一挙に表面化させることになった。外からは小さな、と見え
 た亀裂は、見る見る深い断層へと広がっていった。同盟をめぐる危機の所在をいち早く
 把握すべき戦略指導部が、日本にはすっぽりと欠落していた。それゆえ、迫りくる嵐の
 中心部にあえて飛び込むことも、暴風雨の圏外に身を置き続ける決断も為しえなかった。
 日米同盟は、推進力を失った飛行体にも似て、太平洋上を迷走することとなった」
・湾岸戦争に日本がどう立ち向かい、いかに敗れ去っていったかを検証するにあたって、
 残っている然るべき資料は驚くほど少なかった。
 自己保身の本能から記録を消し去ろうとする官僚組織との対峙を余儀なくされた。
 この国にあっては、官僚たちが政治決定の実権を実質的に握っている以上、政治責任の
 半ばは彼らにある。
 にもかかわらず、官僚たちは守秘義務を名目に証言を拒むケースが多かった。
 時に口を開いても、それは身勝手な記憶の断片に過ぎなかった。
 熾烈をきわめた官僚機構の内部抗争や多くの瑕を抱えた外交交渉は、外部の光に照射さ
 れることなく、姿を匿そうとしていた。