満州難民 祖国はありや :坂本龍彦

この本は、いまからちょうど30年前の1995年に刊行されたものだ。
この本に出てくる満州国とは、いまから93前の1932年から1945年まで中国東北
部に13年間存在した国家である。そして、この満州国は日本の関東軍が設立した傀儡国
家であった。
建国にあたっては「五族協和」というスローガンを掲げ、多民族が協力する理想国家を建
国するのが建前であった。しかし、実際には日本人による支配体制が敷かれ、他の民族に
はほとんど実権がなかった。これは国際社会に「侵略ではない」と印象づけるためのプロ
パガンダの一環だった。
満州国には、日本の国策として日本から多くの農民開拓団が送り込まれた。
移住先の満州の地の多くは、未開の地ではなく中国農民が耕作していた既耕地であった。
それは軍事力を背景にして大幅な安値で買いたたいたり強引に奪ったりして、中国の現地
人を排除したものだった。当然、土地を奪われた現地人には恨みが残った。
一方、日本から満州に渡った開拓団の人びとも、主に農村部の次男、三男など土地を持て
ない貧しい人たちであった。けれど満州に渡れば広大な土地の所有者となり、「苦力」と
呼ばれる中国人労働者を使う大規模農業経営者となれた。
しかし、それも1945年8月のソ連侵攻までであった。
頼りの関東軍は、ソ連侵攻直前に日本人開拓団に何を報せないまま、こっそり撤退してい
た。開拓団は国境地帯に無防備のまま見捨てられたのだ。
その開拓団は、大部分の男性は関東軍に召集され、老幼婦女子だけの状態にあった。
そこへ飢えた狼のようなソ連軍が襲いかかった。
しかも襲いかかったのはソ連軍だけではなかった。多年にわたる収奪、抑圧に憤る現地人
もそれに加わり、必死に逃避行する老幼婦女子だけの開拓団に報復を繰り返した。
それは、日本という国家がつくり出した悲劇であったといえよう。
日本は、国策によって自国民を満州の国境地帯に移住させ、敗戦とともに無防備のまま異
国の地に見捨てたのだった。

現在において、戦争の悲劇というと、特攻や沖縄戦そして広島・長崎の原爆投下がメディ
アでよく取り上げられる。しかし、この満州における悲劇は、ほとんど取り上げられるこ
とがない。
それは、この悲劇は、国家として自国民を見捨てたといううしろめたさと共に他国を植民
地化したという加害者としての歴史でもあるから、あまり触れたくないことなのだろうと
私は思っている。

過去に読んだ関連する本:
王道楽土の戦争(戦前・戦中篇)
王道楽土の戦争(戦後60年篇)
石原莞爾 マッサーサーが一番恐れた日本人


<五十年目の手紙>

日本人はおそろしい
・鈴木ヒロノさんは、旧満州の内蒙古自治区に近い訥河(ノウホ)からひとりで帰国した
 のが1964年6月、東京オリンピックの年でした。
 中国語しかできない二十三歳の日本の娘が、シベリア抑留から帰国した父を頼りに、
 福島県の農村へ帰ってきた。
 しかし、父は倭かい義母と再婚していて、その間に三人の子供も育っていました。
 帰国した翌日から、他の草取りをして働いたという。
 1965年から、冬季は川崎に出稼ぎに出ていたという父親とは、じっくり話し合うこ
 ともなかった。
 「いつか話したい」と思いながら、父は1973年、脳溢血で急死してしまった。
・「中国人養父母のもとで二十年間近くこき使われてきたが、日本へ帰ってからの方が
 もっとつらかったよ」と語って、私とギョッとさせたことがありました。
 再婚していた父親に、母や姉、妹の死をじっくり話すこともできなかった。恨みももち
 ろんある。しかし、それだけではない。

・残留孤児、大道武司(中国名、孫有釣)さん(54)は、1986年1月、兄や姉の住
 む日本に永住帰国しました。
 ハルビン在住の文学青年でもあった大道さんは中国語で手記を書いていますが、その中
 でこういう一節があって、私をたじろがせます。
 「私が見た日本は、中国と同じ部分もありが多くの面で中国とは違っている。日本は文
 明の進んだ国であり、人々は皆、礼儀正しく、衣服もきちんとしている。人間関係も節
 度あるものである。しかしその実、日本の社会はおそろしいものであると私は思う。
 資本主義の日本は、完全に資本がものをいい、金銭がもっとも大切なのであって、もし、
 資産や財物がなければ生き延びることはむずかしい。お金のない者には誰も近づこうと
 しないし、まして、親族はつき合うことをこわがりさえする」
・帰国後、日本語と悪戦苦闘しながら中国惣菜を作って売る仕事をしていた大道さんの実
 感でした。 

・鈴木ヒロノさんにつって、絶望的に日本は遠かった。
 そして、訥河県の公安当局にお百度を踏み、二年がかりで日本国籍を回復し、やはり二
 年かかって帰国申請を許可してもらって、自力で故国へたどり着いた。
 父が生存していることがわかったからです。
・できれば、父の胸に取りすがって、母、姉妹の死を報告したかった。
 が、それはかなわなかった。
 義母があなたと父を隔てていたし、日本語を話すことができなかったからです。
・1941年4月、福島県会津高田町小川窪から、父母と姉は、中国黒竜江省の開拓団に
 入植し、あなたはそこで生まれた。
 ようやく開拓の実りが期待できるようになった1945年5月、敗戦の三ヵ月前になっ
 て、開拓団の男たちは次々と召集されて行った。
 あなたの父も例外ではなく、母と九歳の姉と、四歳のあなたと、一歳になったばかりの
 妹が残された。  
・敗戦の年の冬、前日、「三百円出せ」と言ってやってきたすごく背の高い三人連れの男
 が、早朝母親を襲った。
 姉妹は薄暗い部屋の隅で布団をかぶって震えていた。
 母の悲鳴とドサッと倒れる音が聞こえた。
 男たちが出て行ったので布団から這い出ると、口からブクブクと鮮血を溢れさせながら
 母親は死んでいた。
 母親の命を奪ったのはソ連の匪賊か、見分けはつかず、履いていた大きなブーツだけが
 目の底に残っている。 
 後で敗戦当時の記録を読んで、あなたは訥河県下の開拓団が徹底的な掠奪に遭っていた
 ことを知ります。
 日本開拓団によって、大事な土地を奪われたり、二束三文で買いたたかれた現地民の恨
 みが、どんなに深かったかも知っています。
・けれども、小学校三年生の長女を頭にした三人姉妹の暮らしは悲惨でした。
 カリカリに凍ったイモや大根をかじって過ごしました。
 姉は開拓団本部で作っている豆乳やおからをもらってきて妹たちの食事にしました。
 だが三人だけの暮らしは長くは続かず、1946年2月には、北学田にある日本人小学
 校の難民収容所に入ったのでした。
 妹はそこで栄養失調で死んだ、と姉から聞きました。
 しかし自分の目で目撃したわけではなかった。
・収容所に入って、一カ月ほど経ったある夕、すごいご馳走が出た。
 食べ終わると子供たちは水桶の水を飲まされた。
 姉は大人たちが水桶の中になにかを入れてかきまぜているのを見ていた。
 喉がかわいたというあなたに、「水は絶対に飲んじゃダメ!」とうすごい剣幕で叫んで
 外に走り出た。
 「これを食べなさい」と、凍った赤カブを食べさせた。
・水を飲んだ子供たちは口から泡を吹いたりして一晩のうちに四十人あまりも死んだ、と
 いう。   
 毒薬を飲んだ大人たちのもがき苦しんでいる姿も見たと、あなたは話してくれました。
 ソ連兵は匪賊に殺されるよりは、と用意されたていた薬で自決したのだ。
 
置き去り
・「三歳以下の子供は、ほとんど生き残らなかった」と、敗戦後の旧満州北辺では伝えら
 れていました。
 衰弱していた四歳のあなたは、生死の境界線上にいました。
 生き延びたものの起き上がれなくなってしまい、訥河の街のドイツ人神父に救われたの
 でした。
 その前日、収容所の小学校にいた大人たちはみんな逃げて行って、あなたと姉と、あと
 三人の親のいない子供だけが置き去りにされたのです。
 助けにきたドイツ人の神父様は、「足手まといになるから置いて行ったのですね」と姉
 に語ったことを、あなたは覚えています。
・このあなたの体験は、私にとっても、決して忘れることのできないものです。
 日本人とは何か、人間とは何か、という根源的な問いが隠されているからです。
・弱者、ことに幼児こそ、あの戦争と、旧満州を植民地化した日本の最大の犠牲者だった
 ような気がしてなりません。
 一体、中国民衆の幼な子たちの犠牲はどれほどだったのでしょうか。
 一方で日本民衆の幼な子たちも、植民地満州の代償として犠牲になっていったことを、
 私は忘れることができません。
   
・骨と皮だけになり、腹だけふくらませ「ひからびた蛙のような子」になって、奉天(現
 瀋陽)から引き揚げてきた歌手の「松島トモ子」さんを育てた苦労を、母親の志奈江さ
 んは決して忘れないでしょう。
 三井物産の社員で農業の増産計画を担当していた父の高橋健さんは敗戦直前の1945
 年5月に召集され、シベリア抑留で亡くなっています。
 トモ子さんは引き揚げてきたものの病弱だった。
 細くて曲がった脚を「せめて人並み」にするために、母親は三歳の時からバレエのレッ
 スンに通わせるのです。
 
・私は敗戦の年の四月、中制ハルビン中学に入学し、寄宿舎生徒としてハルビンにいたの
 で襲撃された模様は知りません。
 敗戦の年の十月半ば、ハルビンにたどり着いた二歳年下の私の妹の頭には、「満人(旧
 満州在住の中国人の呼称)に大鎌で殴られた」という大きな傷跡がありました。
・難民収容所の花園国民学校にいては、伝染病と寒さで倒れてしまうと、私たち家族六人
 と佐山訓導の未亡人、そしてミッちゃんが、空き家になっていた満鉄の官舎に移り住み
 ました。 
 畳表や窓ガラスまで掠奪されている二部屋の住まいでしたが、ペチカは残っており、
 ハルビン駅近くへ行ってコークスを拾い集めてくれば、寒さはしのげたのです。
・生きて行かなければならない。
 母と妹、佐山先生の奥さんが、アンコを入れた栗餅を作り、私は手製の雪ぞりに栗餅と
 鉄鍋を載せて、日本人労働者がよく通る街路まで売りに行きました。
 鉄鍋で揚げて売るのです。一枚五円。よく売れました。
・その頃は、私が手にするおカネが一家の生活を支えていました。
 餅を一枚一枚売るたびに、「生きられるかもしれない」という実感を確かめていたので
 す。  
 同時に、「生活を支えている」という幼い自負と貧しい驕りが、十二歳の私に芽生えて
 いました。
・敗戦後の難民行の中で、ミッちゃんは骨と皮になっていました。
 大柄なお母さんが懸命に乳房を含ませるのですが、しなびた乳房からは母乳が出ないの
 です。
 大豆を買ってきて豆乳を作って飲ますのだが受けつけない。
 ミイラのようになったミッちゃんは夜中でもひきつけたようになって泣きました。
 薬もないし、医者にかかる方法もなかった。
・ザコ寝の部屋でミッちゃんの凪声で目を覚まさせられるたびに、私はミッちゃんを呪い
 ました。 
 「あんなしなびたちっちゃな体で、なんであんな大声を出して泣くんだ。なんでおれの
 睡眠を妨害する権利がある。ミッちゃんなんか死んじまえばいいんだ」
・ミッちゃんとお母さんをみる私の目がとげとげしくなっていたのを覚えています。
 少年の利己心からでした。
 冬を越せずミッちゃんは死にました。
 「夫に申しわけない」と、お母さんは何日も茫然としていました。
 ミッちゃんの死が少年の私に突き刺したトゲは、まだ私の中でうずきます。
 亡くなった佐山訓導の厳しい顔が目に浮かびます。
・私が、幼な子が最大の犠牲者だった、という根底には、骨に皮膚が張りついているだけ
 のミッちゃんの表情があります。
 バルビンの難民収容所で幼な子がしなび切って死んでいく姿を見ていた私は、幼児の命
 に不感症になっていた。
 ヒロノさんたちを置き去りにして行った大人たちも、少女や幼児の命を見守る感性を失
 っていたのです。怖ろしいことだ。
 
「しゃらしゃら」
・東京・中野区に住む外交官の妻「橋本カツ子」さん(46)は、日中国交回復後の73
 年、三等書記官として赴任した北京大使館で四年間、孤児対策に没頭し、訪日調査の糸
 口を開いた女性です。
 橋下さんは、国交回復後、毎日五十通から百通も北京大使館に届く残量孤児や残留婦人
 の手紙の束にびっくりしました。
 その手紙から、ハダで感じたのは、「戦争の傷痕」のすごさです。
・橋本さんは78年3月に帰国し、まだ三歳だった一人娘の明子ちゃんを育てるために、
 外務省を退職しました。
 けれど、孤児たちの切望をなんとかしたい、という思いは消せなかった。
 中国在住の孤児たちの了解を得て、橋本さんは翻訳した孤児の手紙を初めてまとめまし
 た。 
 橋下さんは孤児たちのナマの声で日本社会に訴えたかったのです。
 「1945年 慟哭の満州・日本人孤児からの手紙」です。
・日本で、中国に子供を置いてきた母親に会う旅も続けました。
 母親たちはそれぞれ、こう言ったそうです。
 「中国人に渡した時は、自分の頭がどうかしていたとしか思えない。名前も連絡先も渡
 さずにきたなどと主人にも言えなかった」
 「中国人養父母に、子供を返して欲しいなんて虫のいいことは言えません。ただ詫びて
 から死にたい、と思ってます」
 「預けてから内地の土を踏むまで、自分一人のことで必死でした。娘が一緒でないこと
 が現実としてわかった時、気が変になりそうでした」
 「生きて帰れたのは、本当はあの子と引き換えに食べ物と薬をもらえたからなのです」
 と泣いて話した母親もいたそうです。
・母親たちと一対一で会ってみて、橋本さんがさぐり当てたと思ったのは、自分を決して
 許そうとしない母親たちの心の中の「ヤミ」でした。
 この「ヤミ」を消すことはできはしないと感じた時、橋本さんは、幼な子を置き去りに
 した女たちの痛哭を知って、なにも言えなくなったそうです。
  
「吾子投げ捨てて」
・三友社出版社長の広永正也さんは、東大法学部を卒業してすぐ軍隊に入隊し、敗戦当時
 は、旧満州方正地区にいました。中国東北地方で唯一の日本人難民公墓のある方正です。
・敗戦の年の45年冬から46年春にかけて、同地区には5000人を上回る開拓団難民
 が集まり、そのうち3000人が越冬中に死んだ、と現地の残留婦人たちは言い伝えま
 した。 
 国境付近の開拓団婦女子たちは、「方正に行けば関東軍がいる。軍の補給基地もある」
 と、100キロから200キロの道のりを歩いてたどり着いたのです。
・広永さんは書いています。
 「太平洋戦争の激化とともに、後方からの補給輸送はほとんど途絶え、すべての物資は
 『現地調達』に頼り、逆に対ロ油の物資を『満州』から『内地還送』することが重要な
 任務となっていた」
 だから敗戦直前の45年4月から5月にかけて、十六、七歳の女子義勇隊員まで食糧増
 産のため開拓地に送り込まれ、「『国策』の名で犠牲を広げたのです。 
・「もともと、日本軍の物資調達、補給の根本原則は、『現地自活主義』であり、『糧は
 敵に拠る』という建前であった。つまり、占領地域における収奪主義であり、こんな補
 給戦略で近代戦が遂行される筈はない。広大な中国大陸で、『長期持久戦』の民族抵抗
 ゲリラ戦の泥沼戦争に陥り、米国の尨大な補給戦略に圧倒されて、惨敗に終わったのは、
 侵略戦争の不正義な戦争目的の根本的欠陥とともに、当然の結果であったのである」
 「日本陸軍の補給戦略を軽視した前近代的な精神主義的白兵戦思想が、ノモンハンや南
 方戦線の壊滅的敗戦を重ね、敗戦の結果に導いた根本的原因の一つといえよう」
 と広永さん指摘しています。
 
・関東軍とタイアップして「満州移民計画」の実現に乗り出し、「満州開拓移民の父」と
 いわれた満蒙開拓青年義勇軍内原訓練所の創設者「加藤完治」は昭和11年3月に行わ
 れた座談会でこう語っています。
 「(満州移民を)ますどしどし入れるということが日本国民の信念と思ってもらいたい
 のです。その希望を達するためには、妨げるものはいくらでも殺すという決心をしても
 らいたのです。
 我々としては、移民で行き詰った場合には、戦争しても移民をすることは当然なことだ
 と思う。そこに戦争の意味があると思うのです。我々はそこから出発している訳であり
 ます」
・1931年9月、柳条湖で南満州鉄道を爆破して満州事変を引き起こし、中国東北三省
 を軍事力で制圧した関東軍は、満州移民によって、中国に大日本帝国の分身を作ろうと
 したのでした。いや、大日本帝国より、もっと軍部の意のままになる満州国を作ろうと
 した、といった方が正確でしょう。
・在満最高統制機関とは、軍司令官が特命全権大使を兼ね、満州国の生殺与奪の権利を握
 っていた関東軍にほかなりませんでした。
 国策としての日本農業移民は、民族の移動であり、1937(昭和12)年から20年
 以内に、満州国総人口の1割に当たる約百万戸の植民を目的とするものでした。
 この日本農業移民は、現地中国人の強い抵抗に遭うことになった。
 武装した現地民に襲われ、三十余名の開拓員戦死者を出しています。
 永年の耕作地を、荒地なみに買いたたかれて奪われた中国人ら数千人が小銃で武装し、
 豪農の区長、謝文東を指導者として、一年余、抵抗したのでした。
 現地民が一斉に武装歩遺棄した「土竜山事件」はその象徴でした。
・広永さんは1944(昭和19)年の暮、方正に派遣されました。
 出張所を開設するためでした。
 「国境地帯には、満州事変以来、尨大な開拓団員が国策として派遣されており、特に三
 江省にはごく初期の武装移民である弥栄、千振等の開拓団があった。 
 この当時は根こそぎ動員で大部分の男子は関東軍に召集され、残っているのは老幼婦女
 子だけの状態であった。
 ソ連参戦とともに、関東軍はいち早く後方に撤退し、開拓団員は国境地帯に無防備のま
 ま見捨てられた。現在に及ぶ残留孤児の悲劇はこうして生まれたのである」
 と、広永さんは記しています。
・1945年8月23日昼頃、ソ連軍接収部隊が出張所に現れ、「兵器などを2時間以内
 に撤収せよ」と命令した。
 「この頃から、国境地帯に置き去りにされた開拓団の老幼婦女子が、よろめきながら到
 着しはじめた。国境地帯から200キロ以上の道のりを、多年にわたる収奪、抑圧に憤
 る現地人の襲撃にも遭いながら、辛うじてたどり着いた開拓団員の姿は無惨をきわめて
 いた。途中で絶命した者も多かっただろうし、幼児を松花江に投げ捨ててきたと慟哭す
 る母親もあった」と、広永さんは記しています。
  
「土着セシメテ生活ヲ営ム」
・関東軍司令部はその前年暮に「鮮満国境」までの撤退を決意しながら中ソ国境の開拓民
 には知らされず、この悲劇を生んだのでした。
・なぜこうした無思慮の逃避行が行われたのか。
 私は「朝枝大本営参謀の報告書」を思い出さざるを得ないのです。
 朝枝参謀とは、終戦時大本営五課(ソ連担当)に属していた対ソ作戦参謀「朝枝繁春
 陸軍大佐です。
・敗戦直後、関東軍の推定でも旧満州の在留邦人は135万人いた。
 関東軍も大本営も敗戦以前の生業を継続できるかのような見通しの下に方針を立ててい
 たことに、私は犯罪的な意図さえ感ずるのです。
 「満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム」ようソ連側に依頼し、「日本国籍ヲ離ルルモ支障ナ
 シ」と推断することは、当時の状況を考えれば、開拓団などの在満邦人を、極限状況下
 で祖国と切り離し、「棄民」とすることにほかならなかった。
 こうした土着方針から、旧満州で地獄の苦しみをもなめた老幼婦女子たちの引き揚げは
 中国本土の日本軍隊より遅れた。
・終戦後の在満日本人死亡者は18万694人(45年〜49年)に達している。
 大半は45、56年の使者です。
 50年以降の死者と行方不明者をも3万人と推定しています。
 むろんこの中にはシベリアに抑留された軍関係者の死者は入っていません。
 こうした「戦争終結後の惨禍」の責任の一半が「満鮮への土着」を方針として打ち出し、
 在留邦人の帰還者をわずか30万人と推定した関東軍や大本営にあることは明らかです。
・なぜ「土着セシメ」というような、状況を無視し、調査に戻づかない大本営参謀の報告
 書がまかり通ったのか。「土着」を果そうとして死んだ人々は浮かばれるはずもない。

・三沢市に住む元会社員の中岫正雄さん(64)は、「満州開拓二世移民は死せず」とい
 う死の難民記録を書いています。
 敗戦の年、開拓農民指導者を育てる千振農学校一年生で十五歳でした。
 第二次開拓団だった千振開拓団の婦女子を守りながら千振街から脱出し、方正の難民収
 容所へたどり着いた記録です。
・農学校生徒の軍刀を借りて死にかけたわが子の首を切り、狂い死にした母親がいた。
 中岫さんの僚友だった千振農学校の友人菅原七郎さんは、飢えと極寒に痛めつけられて
 起き上がれず、まるで枯木のような体となって死んでいきました。
 農学校の炊事をしていた油川のおばさんは、難民行の途中、馬車の上で凍死してギュウ
 詰めの馬車から捨てられた。
 腹を空かせた農学校の生徒たちに、お釜のおこげでおむすびを作ってくれたおふくろの
 ようなおばさんでした。
 お母さんの遺体を追って飛び降りた娘さんは行方不明になってしまった。
・日本人開拓民が現地の中国人を銃で脅して荷馬車の木炭を強奪し、平気な顔をしていた
 こと、日本人専用列車に乗った中国人老人を、日本の若者がなぐりつけて満州人専用車
 に押し込めたことを思い出して、こう考えたといいます。
 自分が目撃して鳥肌が立ったそうした思い上がりの行動の罰を、いま受けているのでは
 ないかと。  
・開拓団の用地を広げるために現地中国人の耕地が狭められていき、食事はトウモロコシ
 粉マントウに生ネギだけといった極貧生活の中国農民をも、中岫少年は知っていました。
 「五族協和」などという満州国のスローガンは真っ赤な嘘で、「東亜の盟主」という神
 がかりの標語にのぼせあがった日本人が、「満人」と呼んだ中国人をどれだけ踏みつけ
 にしたか、そして中国の人たちが、刺し貫くような目で日本人開拓民を見ていたことも
 少年の目はとらえていました。
・日本は神の国であり、日本民族は「選ばれた民」である、だからアジアの指導者として、
 アジアを植民地にし、劣等視した欧米列強と戦うんだ、という選民教育を中岫少年は受け
 ていました。
 それにしても、なぜ満人をあんなにいじめて平気なのか、というわだかまりを、中岫少
 年は持ち続けていたのです。
・日本は「神の国」であり、昭和天皇は神であるとは、中岫さんより二年学年が下で、
 敗戦の時、中学一年生だった私も、学校教育の中で教え込まれていました。
 「天皇は人間ではないか」と、疑問を感じていたものです。
・中国人たちの憎しみの根底には、日本民族をアジアの選民とし、社会的にも経済的にも
 中国民族や朝鮮民族を差別し、踏みつけにした歴史が横たわっています。
・敗戦への局面の中で、当時の大日本帝国政府がこだわり続けたのは「国体の護持」でし
 た。  
 「国体護持」とは、「大日本帝国の万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」という旧憲法第一条
 の天皇制を守り抜くことでした。
 当時の日本政府が、和議について、米英中国など連合国側への橋渡し役を期待していた
 のは、日ソ中立条約を結んでいたソ連です。
 だから、ソ連側をできるだけ刺戟しないようにと、大本営も関東軍も旧満州で「北方静
 謐」作戦をとり、開拓団や一般邦人はもとより、満州国官吏にも知らさないまま、満州
 ・朝鮮国境への軍の撤退をひそかに進めていたのでした。
・ソ連軍が侵攻してくる一週間前の八月二日のことです。
 「関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを前にして、『関東軍ハ盤
 石ノ安キニアル。邦人、トクニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ、生業ニ励むガヨロシイ』
 というデタラメな嘘を放送した。このときすでに作戦放棄した地域に対してである」
・この「朝枝報告」について、シベリア抑留の研究者である若槻泰雄元玉川大教授が、
 機関紙「全抑協広報」に「大陸残留は国の方針」として次のように書いています。  
 「(残留方針は)朝枝参謀や「山田乙三」軍司令官の発案ではなく、実は日本政府の方
 針であった。ポツダム宣言受諾公表の前日、八月十四日、外務省は大臣の名をもって、
 満州、中国、南方各地の在外公館に対し二通の訓令を発しているが、そこに述べられて
 いる「一般方針」には、「在外留民はできるかぎり定着の方針をとる」とあり、具体的
 方策もあげられている」
・ポツダム宣言には日本軍隊の本国帰還は義務づけられているが、一般国民の引き揚げは
 強制されていなかった。
 日本政府は明治以来の国策であり、努力の結晶だった海外発展と大陸経営の足がかりを
 残したと願望したのだろうし、在留邦人の中にも居残りたいと熱望した人たちがいた、
 と若槻さんは述べながらこう指摘しています。
 「敗戦後も”残留”を希望し期待したということは、日本政府も日本軍も、そして在留邦
 人も、在留国の国民の日本人に対する恨みと怒りが、どんなに大きかったかという認識
 が欠けていたことを意味しよう」
・当時、満州にいたい私の体験からいっても、窮民や難民が大量発生していることは、
 普通の目と耳を持っていればわかることでした。
 しかし、辺境の在満日本人は、国体護持を至上命題とした大日本帝国政府や関東軍から
 見れば、捨て石でしかなかったのです。
 敗戦直前、ソ連に和平交渉のあっせん役を期待して、折衝を続けていた「佐藤尚武
 駐ソ大使は、「東郷茂徳」外相宛にモスクワ発の電報を打ち続けますが、すべてを捨て
 ても、いまや国体保持さえできればいい、といっています。
 そして、難民救済のための経費も、国は現地調達にまかせるしかないとし引揚船のメド 
 はたたないまま、45年冬から46年春にかけて、日本人難民は各地で白骨をさらして
 いったのです。

対ソ交渉は極秘だった
・1945年8月9日、ソ連侵攻と同時に出された大陸令(大本営陸軍部命令)は、関東
 軍の行動として「皇土朝鮮ヲ保衛スル如ク作戦ス」とし、満州放棄を命令していた。
 「朝枝繁春」元参謀はその草案作成者でした。
 「ソ連が入ってきたら大変だから対策を、という方向にいかなかった。そんなことは起
 こって欲しくない。いや起こらないだろうという自己催眠に関東軍は陥っていた。
 残留孤児や残留婦人に対し、関東軍の責任は大きい」
 その朝枝元参謀は「土着セシメ、国籍ヲ失フモ可」の「朝枝報告」について、
 「シベリア抑留にも影響したかもしれない。反省しざんげしたい」
 とも語っています。
・大本営参謀五課(ソ連担当)の作戦班長だった朝枝参謀の敗戦前後の旧満州への飛来は、
 「梅津美治郎」大本営参謀総長の直接の訓令を受けた大本営軍使としてであり、大日本
 帝国政府の意を体していたといえます。
 梅津参謀総長は、最高戦争指導会議の一員です。
 そして同会議は、ソ連が対独戦争に勝利した1945年5月、国家機密事項として、
 日ソ両国間の話し合い開始を決めていました。
 それは、
 @ソ連の参戦防止し
 A進んで好意的中立を獲得し、
 B戦争の終結に関し我が方に有利なる仲介を為さしむるを有利とする
 ことを目的としていました。
・それは、話し合いのポイントを、
 @ソ連が対独戦争で勝ったことは帝国が中立を維持したことによると了解せしむる
 A将来、ソ連が米国と対抗する関係上からも日本に相当の国際的地位を保たらしむるの
  の有利となるを説く
 B日ソ支(中国)三国団結して英米に当たるの必要あることを説示する
 などに置いていました。
 日本の英米に対する終戦条件を有利にし、やがては、英米対日中ソの派遣争奪をも想定
 する中で、「社会主義国ソ連」を見かたにすることに帝国政府は賭けたのです。
・対ソ接近して、ソ連に和平の仲介をしてもらうことは国としての極秘事項であり、
 水面下でアヒルの水かきが繰り返されていました。
 1945年7月、「近衛文麿」公爵(元首相)を帝国の特使としてモスクワに送り、
 「スターリン」との会談を実現して戦争終結の糸口を探ることが試みられています。
 しかし、1944年11月に「日本を侵略国とみなす」とスターリンが演説し、
 195年2月の米英ソ巨頭会談(ヤルタ会談)で対日戦参加との引き換えに、樺太、
 千島など領土割譲決めていた独ソ戦勝者ソ連が、中立条約に頼る日本の特使を受け入れ
 るはずもなかったのです。
・このソ連を何とか説得して和平交渉のあっせん役をしてもらうことに、昭和天皇も積極
 的だったわけです。
 近衛文麿特使は拒まれたけれども、ソ連に活路を見出そうとする最高指導部の機密戦略
 は生きていました。
・英米を敵とした帝国政府は中立条約を結んでいたソ連との結びつきを強めようとしてお
 り、それが、満州での敗戦処理にも影を落としました。
 ソ連軍の満州進攻は、80万人の日本人難民を生み、さらに60万人を超えるシベリア
 抑留者を生んだのです。
・中国民衆や朝鮮人民衆を踏みつけにした日本帝国政府は、日本人民衆をも犠牲にするこ
 とによって、破滅的な戦争の収拾をはかったのです。
 1987年に、「草地貞吾」元関東軍作戦主任参謀は朝日新聞の記者にこう語っていま
 す。  
 「撤収自体が作戦の一部であった。それを『逃げた』というのは間違いだ」
 「軍は作戦を最優先せねばならない。敵に気付かれず、ひそかに撤退するのも任務なの
 だ。そのためには、居留民はそっとしておかねばならないこともある。多少の犠牲はや
 むを得ない。それが戦争なのだ。今、孤児には胸が痛むが、当時はしかたがなかった」
・居留民を見捨てての関東軍の隠密の撤退は、「作戦」という名で正当化されているので
 す。 
 「作戦」どころか、わが身や家族の保全を図ることに懸命だった高官がいることも、
 満州難民たちの胸に刻まれることになりました。
・1945年5月22、23日の大陸連絡会議は、軍部の日本本土が米軍に占領された場
 合、満州を根拠地として米軍と戦う案件の審議でした。
 物資、軍隊、武器などを満州国に移送するとする案件は、制空・制海権も米軍に握られ
 ていた当時、絵空事にしかすぎませんでしたが、こうした提案が軍から出てくること自
 体、日本の指導者は現実認識を失っていたとしか思えないのです。
  
「畜生!」の叫びを背に
・奉天の孤児収容所は、「まさに生けるしかばねの餓鬼地獄だった。
 十九人の日本人孤児が栄養失調の体を、カビくさい畳の上に横たえていた。
 ほとんどの子が北満から二カ月も三カ月もかかって逃げてきたという。
 収容所の食糧は底をつき、一日に一椀の高梁粥がせいぜいで、子供たちは歩くこともま
 まならない状態でした。
 「おやつのカンパンを食べ終わっても、食卓から離れようとしない子に、少し年上の女
 の子が水を飲ませてなだめていた」「じゃがいもを口に入れる手は老婆のようにしわだ
 らけ」だった。
・ようやく引揚船に乗り、子供たちが海の向こうを指さしている写真があります。
 「この船は日本へ行くんだよ」
 「日本てあっちの方なの?」
 ハダカの子どもの目には、まだ見ぬ日本の姿を探り当てようとする異様に光っています。
 私は引揚船の中で、「日本という国はほんとうに存在するのだろうか」と、疑心暗鬼に
 陥ってさえいました。
 日本という国が存在していたら、私たちがこんなひどい目に遭うことはなかったはずだ、
 という声がいつも心のどこかから聞こえていたからです。
・福岡市郊外の元陸軍保養所で、麻酔もなしに堕胎手術を受けている引揚げ女性たちの姿
 を見た。  
 難民行の中で暴行された女性たちである。
 博多港の上陸先で「婦人相談所」の看板を見て相談し、ここへやってきた。
 「女性たちは痛いとはいわない。畜生と叫んでいるんです。自分の身はどうにでもなれ
 と腹を決めたんです」
・「日本政府は、その当時、日本を統治していたGHQに船を回してもらうことを頼んだ
 のですが、ポツダム宣言で日本軍人・軍属は送り返すことになっているが、一般日本人
 の送り返しのことは条約にないので、GHQの責任ではない」と断られました。
 それ以来、遠慮して引揚げに使う船を頼むことをあきらめました。
 その間に多くの日本人が命を落としたり、孤児になっていった。
・ソ連参戦で朝鮮の羅津では軍司令官が真っ先に安全地帯に逃げ、一般邦人を置き去りに
 した。関東軍最高幹部は、家族を爆撃機で立川飛行場に送っていた。
 戦争の悲劇を女性や子どもという弱者にしわ寄せして身の安全をはかろうという軍人の
 仕打ちが我慢ならなかった。
・敗戦という混乱の事態の中で、見据えなければならなかったのは、「武士道とは死ぬこ
 ととみつけたり」などと大言壮語していた帝国軍人の保身のための浅ましさでした。
 特権階層の軍人や官僚こそ生き延びる権利があるとばかりに、保護すべき老幼婦女子を
 死地に置き去りにした帝国権力の無責任さ。
   
「日本人だよ」
・山村文子さんは新京で難民となりました。
 極寒の冬でも、薄いブラウスにモンペ姿、靴は片一方しかなく、鍋代わりの鉄カブトが
 大切な財産でした。
 「まだ息がある」と、一歳の息子の生死を毎日確かめるような生活でした。
 その息子の手をなでさすりながら一人の老人は言ったそうです。
 「ソ連の戦車が近づいた時、女、子どもに晴れ着をきせて広場に集め、首をはねて家と
 一緒に焼いた。鷲の孫もちょうどこのくらいだった」。
 親を失って零下三十度の街をさまよい歩いていた小さな子らの瞳を思い出すたびに、
 山村さんは生きている自分をすまなく思う、というのです。

・六十歳になる残留孤児の竹井澄子さんは残留孤児の日本語主張コンクールでも優勝した
 勉強熱心の働き者です。
 「奉天(瀋陽)の難民収容所で、姉さんは売られ、私も売られました」と、私に最初に
 会った時、竹井さんは話したのです。
 難民収容所で、母と弟妹は飢えて死んでしまいました。
 召集されていて瀋陽で再開した父も栄養失調で倒れた。
 十二歳の姉が近くの工場に石炭ガラを拾いに行き、それを売って買った一個か二個のト
 ウモロコシマントウが三人の食事でした。
 零下二十度になる瀋陽で、姉も妹も夏着のワンピース一枚だけしかありませんでした。
・ある日、病人用の部屋へ二人を呼んだ父は「このままだとみんな死んでしまう。和子
(姉)を中国人に売りたい。そのお金で元気になって日本へ帰り、必ず和子を買い戻す」
 と告げたのです。  
 翌日、「ボロ買い」の趙さんが「たくさんね」とお金を数えて見せ、泣いて動こうとし
 ない姉さんを輪タクで養家へ連れて行きました。
 「お姉さんを売ったお金」で食べ物を買い、竹井さんは生き返りましたが、父は助かり
 ませんでした。
 死体を埋めてくれる人がおらず、何日も父親の死体と一緒に寝ました。
 姉は、女の子を金で買い、大きくなったらその家の嫁にする「童養娘」として売られた
 のでした。
・姉の養家でしばらく暮らすうちに、竹井さんは「私も売られることになった」。
 九歳から十六歳まで、瀋陽市の「売られた養家」に住みました。
 小学校へは通えず、手押し車で石炭ガラを拾いに行き、養家の燃料にし、余ったら売り
 に行くのが日課でした。
 学校に通える中国人の子どもがうらやましかった。
・養父と離婚した養母と一緒に山東省に行き、改めて小学校に入学したのは十六歳の時で
 した。 
 しかし、すぐに大家族の家のお嫁さんにさせられ、九カ月通っただけでした。
 十五歳で嫁にさせられた姉さんは、食べるものも食べず働きづめに働いて十七歳の時に
 なくなってしまったそうです。
・1982年8月、あなたが中国の養家へ「里帰り」した時、弟に頼んで、二十七年前、
 「私を買った人」を連れて来てもらい、こう挨拶したそうです。
 「二十七年昔、私のためにたくさんのお金を使わせて、ほんとに申し訳ないと思ってい
 ました。里帰りしたのは養父母に恩返しすると同時に、あなたに返済したかったからで
 す」。 
 この時、養父母が受け取ってそのままのお金や穀物代を返済することで、重石がすっと
 とれたような晴ればれした気持ちになったといいました。
 日中国交回復以来、あなたはどんなに苦しい時でも、毎年十万円は養父母に仕送りして
 きたといいます。
 「私にとって中国は大切です。中国の水と食糧で大人になって日本に帰ってきたからで
 す」
・その里帰りは、あなたに改めて養父母の心を教えてくれることになりました。
 文化大革命中、あなたの養父は、中国を侵略した日本人の娘を育てたために「反革命」
 の疑いをかけられて強制収容所に入れられたことを、その折に知ったのです。
 そこでは逆立ちを続ける拷問にあって、それがもとで病弱になった。
 文化大革命の時は、多くの残留婦人と残留孤児の養父母たちがスパイの嫌疑をかけられ
 ています。
 だから「養父に何と申し訳ないことをしたかと胸がいっぱいになった」というあなたの
 気持ちはよくわかります。
・義父はあなたを恨むどころか、「日本から私の娘がきたのだから、おいしいものを作っ
 て食べさせたい」と家族にいい、義母は朝四時に起きて、あなたの好物の出来立ての豆
 乳を買いに行ったのだそうだ。
 そうした家族の厚い心を感じて日本へ帰ってきて、あなたは考える。
 「日本人はいかにも無責任だと思うことがあります。自分から子供を捨てて中国人民に
 育ててもらいながら、自分は日本で新しい家庭を作り上げているような人です」
 「日本人は中国でいい事をしたとは決して言えません。それでも中国の多くの養父母た
 ちは私たちの生命を助けてくださいました」
 「それに比べて日本の親はどうでしょうか。私の周りにも自分で生んだ子供が日本に帰
 ってきたことを迷惑のように思う親たちがいます。ただ、いまの生活の方が大事だとし
 か考えていないのです。そうした親ならいらない」
 

<幻のくに>

「平等社会」
・敗戦直後に発刊された体裁百二十四ページのささやかな歌集を私は大切にしている。
 東京オリンピックの年、昭和三十九(1964)年十月の刊行であり、著者は1900
 年生まれの「望月百合子」さん。
 題名を『幻のくに』という。
 私家版の小歌集には、望月さんが『満州新聞』記者として過ごした「満州」の匂いがい
 っぱいにつまっている。
 「私は生きて故国へ帰れたことを無上の喜びとしながらその故国を見失ってしまった!
 わずかに残っていた私の心のふるさとは、もはやこの国土のどこからも消え去っている
 ようだった。私はその時から何もする気がなくなった」
 「心の世界は少しもよくなるどころか、ますます悪くなっていく」
・「人を信じ人を愛し助け合い慰め合い、喜びも悲しみも分ち合う生き方」は、どこへい
 ってしまったのだ。 
 経済の高度成長の半面で人心の荒廃が進む東京の現実を、「明治生まれの童女」といっ
 た趣きの望月さんは、切り傷に塩をもみ込まれるように感じていた。
・「満州では治安維持法で追われた人たちも正業を持っていたし、窮屈な日本より自由な
 空気があった。五族(日、漢、満、蒙、朝鮮民族)協和して、ほんとの王道楽土をつく
 るために夫と二人して全力を尽くそう、と話し合った」と、望月さんは回想している。
・「生命も栄誉もすてて王道楽土を造り出そうとした満州」と望月さんは書いている。
 「権力も暴力も否定する理想社会」は、娘時代からの見果てぬ夢だった。
 すでに、社会主義者や無政府主義者の言論は窒息させられている日本内地と違って、
 満州にはまだ自由な風が吹き通っている、という夢想が生まれていた。
・記者は天性似合っていたようで、「張景恵」満州国国務総理の取材にもよく出かけた。
 じ「自分は関東軍のロボットにすぎない」と自覚していた張総理に、「関東軍のいって
 いる王道楽土でなく、異民族が協同してほんとの平等社会を築いていく理想を一生懸命
 に話した」という。
・無政府主義者「大杉栄」と妻の「伊藤野枝」、甥の少年三人を関東大震災のおり殺害し
 た責任者の「甘粕正彦」元憲兵大尉が、満州建国の黒幕として文化活動を牛耳っていた。
 大杉も伊藤も、望月さんの友人だった。
 「大杉の仇を討ちに来たのじゃないか」と甘粕は軽口をたたいた。
・甘粕は敗戦直後に自決している。
 「日本の生命線」として、甘粕なりの理想を託した満州国が壊滅してゆく姿をみるのは
 耐え難かったろう。
・満州国に夢を描いた望月さんは、『満州新聞』の婦人部長となり、「国策の啓蒙家」の
 役割を果たしていく。
 「自分達女性もまた男性と共に、この新しき土、満州の文化の種まき者であり、耕作者
 であり、育てる者である自覚をもって、積極的に働き出さなければ」と満州新聞に書い
 ている。  
 「日本人の植民地気分を抜け出し、満州国の礎石となり国祖となる覚悟」を求めた文で
 ある。
・情熱家の望月さんが、「恋人のように身も心もささげた満州という国土」と書いた心に
 嘘はなかったろう。
 辺地の開拓団や義勇軍をも足繁く訪れて、王道楽土への道筋を確かめようとしていた。
 「満州に骨を埋める覚悟だと人にも言ってきたし、私立女子大建設を中国人と計画して
 土地も確保していた。日本には帰らないつもりだったんです」と、日本人の引き揚げが
 始まった後も二年間、中国にとどまっている。
 「国の威を背負わずとてもこのくにに生きるぞわれのまこと生くなる」
 と、敗戦直後には詠んでいた。
 無政府主義の理想を、民族のるつぼだった満州国に賭けたのである。
・しかし、支配者としての上流の生活が、満州生活を快適にしていたことも否定できない。
 思想犯として警察の厄介にもしばしばなっていた夫は、仕事のできる商社員になってい
 たし、望月さんは新聞社の月給八十円のほかに、百五十円の満鉄嘱託料ももらっていた。
 新京(現・長春)の高級住宅街に住み、学園づくりの資金も貯めていた。
 貧窮に苦しむ中国人の生活は見ていても、彼らの憤りや訴えを受け止める立場ではなか
 った。 
 「上から支配する日本人」の側にいて王道楽土や五族協和の夢想に生きたのだった。
 
開拓地
・第一次開拓団が確保した土地のうち約33%は既耕地で、中国農民が耕作していた土地
 であった。
 第二次開拓団が確保した土地のうち約71%は既耕地であった。
・「第二次武装移民団」は、現地農民の盟主、謝文東を総司令とした土竜山事件に巻き込
 まれた。 
 「土竜山附近一帯の農民は団結して、日本軍による土地買収、武器回収、種痘に反対し
 なければならない。この機会に彼らの暴威と侵略を抑圧しなければ、土地への侵蝕はま
 すますひどくなり、遂に我々の民族は生命の安全を保てなくなる」という檄の下に、
 農民が武器をもって立ち上げり、日本軍の一部隊を土竜山で殲滅した。
・土竜山事件を引き起こした原因は、開拓農家一戸当たり耕作地10町歩、放牧採草地
 10町歩計20町歩を確保するための日本人による土地所有だった。
 関東軍は昭和九年一月からこの土地を準備するための買収工作を始めており、面積は数
 百万町歩に達していた。
・満州国の創設まで、中国政府は日本人に借地権は与えても土地所有権は拒否していたが、
 日本が実体的に支配した傀儡国家の出現で、土地所有権が認められ、土地の買い取りが
 可能になったのである。
 軍は満鉄の傍系会社東亜勧業公司を使って法外の安値で買収を進めた。
・土竜山事件の盟主で現地農民の信望を集めていた謝文東は、後に圧倒的に優勢だった日
 本軍に帰順するが、軍の銃剣に守られて、満州のモデル開拓村はようやく村づくりに着
 手するのである。  
・私の父は、昭和十七(1942)年夏渡満、千振郷開拓村にあった開拓者の指導者養成
 学校、千振農学校の教師をしていた。
 母や私たち家族も続いて渡満し、一年余、私も千振郷に住んでいる、小学校四年生だっ
 た。
 山に囲まれた甲府盆地で育った私は、広々とした天地に目を見張った。
 農学校の実習場では、トラクターやカルチベーターを使った機械化農法が行われていて、
 地平線まで黒土が連なっていた。
 黒土は一種の芳香を放ち、小麦にせよ、野菜にせよ、豊かな実りを生んだ。
・団の幹部も、農学校や国民学校(小学校)の教師たちも、団員も、みんな土壁とレンガ
 で作った同じ規格の家に住んでいた。
 内地のように、貧富による大きい家や小さい家の区別がないんだな、と子供心に印象づ
 けられた。 
 自給自足経済を目指すこの開拓団の先進地は、共同作業を続けていく共同体だった。
 日本人はお互いの暮らしは、平等な生活が原則であり、団員たちや教師たちの結びつき
 も強かった。
 学生時代はマルクス主義をかじったこともあるまだ三十代だった父親も、そこで、人間
 同士の協業を通じて、「王道楽土」を建設することを夢見ていた、と思う。
・しかし、日本人は、「ひとかたまり」に住んでいたのであり、国民学校と呼んだ在満日
 本人尋常高等小学校も、日本人子弟だけの学校だった。
 私たちは中国に住みながら、中国人とは無縁だった。
・「満州新聞」の女性記者として千振郷を訪れた望月さんは、昭和十四(1939に)年、
 「東満散策記」を書いて千振村を紹介している。
 現地民の抵抗は軍の力で抑えられていた。
・「入植後二、三年は鍬より銃を執ることのほうが多い日々を過ごした。果たしてこれで
 農民としてやってゆけるであろうか?誰の心にも不安は黒い雲のように沸き上がった。
 その不安に耐えかねて櫛の歯が欠けるように、ポロポロと脱退者が現われた」
・「だが落ち着いて住み着いてみるとやはり都だ。そのうちにみな揃って子供は生まれる。
 日本の農家と違って家族といえば夫一人だから複雑な家族関係の気苦労はなし、夫は可
 愛がってくれるし、何はなくとも楽しい家庭だ。そのうち次第に匪賊も影をひそめて不
 安は去り、農耕はできるようになる。苦力(満州人労働者)を使って20町歩の大百姓
 の生活を始めてみるとさらに楽しい」
・「どの家も貯金を持っていて、しかもそれが年に何千円ずつか増えてゆく。男にとって
 も女にとっても決して苦しい労働ではない。女の人達にとっては、むしろ楽すぎる生活
 かもしれない。冬になると凍って滑るからと井戸の水さえも汲みにゆくことはない。
 夫か苦力が汲んでくれる。子供を育て、ご飯ごしらえをし、衣服の縫いでもすればよい。
 農繁期には家督の世話ぐらいはするが、女の仕事といえばせいぜいそれぐらいなものだ。
 だから銀座からお嫁入りして来た人でも立派に開拓地の花嫁で通るわけだ。私が泊めて
 もらった家の奥さんが、ちょうどその銀座からお輿入れをしたという人で。パーマネン
 トのよく似合う美しい婦人だった。お母さんも娘さんについてきていて、部落唯一のお
 年寄りとしてお孫さんのお守りばかりでなく部落中の奥さんの相談相手になっている」
・望月さんが「複雑な家族関係の気苦労はなし」と書いているように、戦前、日本の農村
 にあった地主・小作の身分関係や土地所有関係は開拓村にはなく、家父長制を基盤とす
 る家族制度からもからも自由だった。
 「家の嫁」として縛り付けられた日本国内に較べれば、嫁たちは確かに解放感を味わっ
 ていた。
 自給自足経済の中で、内地では配給制が徹底するようになった昭和十八年でも食料は豊
 かだった。
 食料油も、飼育している豚肉もふんだんにあった。
・しかし、その「楽土」は軍事力で手に入れた「新しい土」の上に築かれた征服者の楽土
 だった。
 土壁に囲まれた「満人部落」の前を通ることは、少年の私にとっても恐ろしかった。
 同じくらいの少年や、子守りをしている老婆の刺すような視線を感じて、足早に通り過
 ぎたことを記憶している。 
・風吹けば「伏して時待つ悠容の民」は、私が住んでいた昭和十八年末には、「苦力」と
 呼ばれる忍苦の生活を耐えながら、日本敗戦の時を予測していたような気がしてならな
 い。
 トウモロコシ粉のマントウに、ネギと中国ミソの副食だけという昼食をとりながらも、
 大地を相手に働く苦力の日に焼けた顔には、「これは俺達の国だ」という悠然たる自信
 があって、少年の私は圧倒された。
・すでに三十九歳の女性記者だった望月さんは、満州帝国が五族協和の独立国ではなく、
 大日本帝国に貢ぐための「傀儡国」であることを知っていた。
 しかし、二十代のフランス留学時代を通して、「東洋の小国」日本への欧米の差別観を
 知り、日本が大国への一歩を印した日露戦争に、アジアの代表として欧米列強に挑戦す
 る姿をもみていた彼女である。
 日露戦争は、日本の庶民が食べるのも切り詰め、神社にお百度詣でして勝利を祈願した
 「食うか、食われるか」の戦いとして、望月さんをとらえていた。
  
謝文東
・千振郷の女性たちに、開拓地に生きる大陸の女たちの新しい息吹や力を感じながらも、
 望月さんが「奪いし土地」での日本人の繁栄に深い疑問を感じていたこともまた事実だ
 った。
 現地農民たちの信望を一身に集め、関東軍が懸命の帰順工作をした謝文東に、三回会い
 に行っている。
 弥栄村や千振村よりハルビン寄りの依蘭近くの土壁に囲まれた家に、『満州新聞』の女
 性記者として単身で訪れて行ったのである。
 「普通の民家ですが屋敷は広かった。謝文東は物の分かったいい男でしたよ。長身で、
 笑うとやさしくて、小さい日本の女が一生懸命会いにきた気持ちをちゃんと受けとめて
 くれました。こちらはピストルひとつ身に付けてるわけではないし、警戒されませんで
 した。私はこの人となら、すぐにいいお友達になれるなと感じました」
 「私があなたのような立場だったら、私もあなたのように蜂起したわ、と思いのままに
 話したんです。現地の農民だったら、日本人に対して立ち上がらざるを得なかったこと
 が、農村で育ったからわかるんです」
・当時、謝文東は日本軍に対しては帰順状態にあったが、面従腹背の抵抗の心は、望月さ
 んにも読み取れた。
 中国民衆にとっては「抗日の英雄」だった謝文東は、関東軍にとっては「匪賊の頭目」
 だったのである。
 「謝文東の気持ちは痛いほどよくわかった」という望月さんが、当時、そうした気持ち
 を、ペンに託せるわけはなかった。
 
・1986年発刊された『弥栄村史』に、団本部への襲撃で重傷を負った獣医の吉崎千秋
 がこう書いている。
 「思い出に残るものは、匪賊のことばかりで、それをかいた。がこの匪賊とは、一体何
 であったのか。匪賊とは、少なくとわれわれが闘った匪賊は、われわれと同じ素朴な農
 民だったのである。お互いによく闘った。そして双方共傷つき、それぞれ有能な同志を
 多数失った。いまから考えて、愚かなことと思う」
・戦後四十一年を経て、率直な実感だったのであろう。
 匪賊は、土地を奪われた農民を主体としていた。
 虚構の満州国の中で、農民が農民を討つ修羅を演じたのだった。
・「われと彼立場代えればわれも叉 匪と呼ばれつつ戦うものを」
 望月産のほんとの気持ちだった。
 「民族が他の民族を差別したり、バカにした李、搾取したりすることに私は耐えられな
 かった。満人のお手伝いさんを、”ねえや”なんて呼んでいた日本人の奥さんに、
 ”あなた”と対等に呼びなさい、とひどく怒ったことがあります。社会主義社会の国境
 なき平等を目指しながら、私はコスモポリタン(国際人)になりきれないところがある。
 明治、太陽時代の貧乏小国日本を留学先のパリで熱愛したことのあるナショナリストな
 のね。だから、自分の立場を、謝文東に置き換えてみれば、日本の侵入に抵抗するのは
 当然だと思ったんです」
   
・昭和十四年、五月ごろ、望月さんは満州国皇帝「溥儀」にも会ってしばしば話を聞く機
 会があった、という。  
 清朝最後の皇帝で、辛亥革命勃発後退位をよぎなくされたラストエンペラーの溥儀であ
 る。
・「溥儀さんは私に対してはいつも、日本に対する愚痴をこぼしておられた。関東軍の溥
 儀脱出と擁立工作に参画していた吉岡大尉という軍人が、溥儀さんのお目付け役でした。
 私に自由がない、裁量権もない、というのが、溥儀さんの愚痴でした。こんなはずでは
 なかった、というように聞き取れた。私は張景恵国務総理のところへもよく出かけて、
 関東軍の意のままにならされているという総理の憂鬱を知っていたから、溥儀さんの愚
 痴をもそうだ、そうだと、身にしみて聞いていたんです」
  
大興安領の下で
・三河開拓団を大興安領に沿って南に下ったところに仏立府溝開拓団と興安開拓団があっ
 た。二つとも東京から送り出された東京開拓団である。
 1945年夏・ソ連軍の満州国侵攻をきっかけとした両開拓団の悲劇は「満蒙終戦史」
 の中でも特集されている。
・(満州国)西武は江南総省(蒙古)方面からマリノフスキー軍の快速の進撃に遭い、
 日本軍の撤退に取り残された日本人の状況は各所に酸鼻をきわめた。
 たとえば、日本軍に放置された興安街在住3,000余名中約1,400名が、その南
 方八里の地点でソ連軍戦車隊のために全滅させられた。
 また興安東京開拓団800余名がソ連軍と現住民暴徒に挟撃されて、これまたほとんど
 生還者なしという。
 誠に悲哀の極みといわざるをえない。
・その原因として、関東軍は第一線放棄を基本作戦としたと伝えられるが、ソ連軍機甲兵
 団の戦闘力と機動力の前には、合理的・組織的抵抗を行ういとまなくまったく四分五裂
 で潰走した。
 かくして、ソ連軍の進撃が、日本軍の退却に先駆した場合はもちろん、一般日本人が日
 本軍退避の後に取り残される事態が各地に生じたのであった。
・仏立溝開拓団については、「ソ連軍と現住民暴徒に挟撃され、団長以下600余名中、
 生還者はわずか3、40名」と記されている。
 生き残りの一人が、残留婦人で「中国帰国者の会」会長・「鈴木則子」さん(67)だ
 った。  
 1978年に帰国して、東京・立川市の都営住宅に中国人の夫・孫元貴(74)さんと
 暮らす。五人の子供はみな自立した。
・その鈴木さんの胸の底にあるのが、「私たちは三度国に捨てられた」という言葉である。
 一度は戦場で日本の軍隊に捨てられ、二度目は引揚げ対策の中断で捨てられ、三度目は
 帰国者の受け入れに総合対策や生活保障がないことで捨てられた、というのだ。
・東京の京橋で青果物問屋をしていた父の商売が戦時統制で行き詰まり、仏立溝に入植し
 たのは戦局の傾きかけた1943年7月だった。
 鈴木さんが旧制日本橋高女三年の時で、父母や姉妹と開拓地に渡り、仏立溝国民学校
 (小学校)で補助教員をしていた。
・「敗戦後の地獄を見ないだけで父母は幸せだった」という。
 慣れない農仕事で過労を続けた父は、ソ連参戦前に病死し、母もその後を追った。
 姉妹五人が残されたが、そのうち三人は難民として中国に骨を埋めていて、帰国は叶わ
 なかった。
・鈴木さんが、満州国が「幻の王道楽土」であることを思い知ったのは、1945年夏、
 激しい飛行機の爆音でソ連軍の攻撃がわかった時だった。
 それまで、日本人に最敬礼していた中国人の様子が変わっていった。
 日本人を見る目が、さげすむような視線になっていった。
・勤めていた国民学校に、玉君という使用人がいた。
 「ボーイ」と呼ばれて雑役をこなしていた若者だった。
 鈴木さんに同年輩としての親しみを見せていた王君は、開拓団が脱出準備を進めている
 時、こう話しかけた。
 「開拓団のみんなと一緒に行くと、きっと死んでしまうよ。生きて行くためにはぶくの
 家においでよ」。
・王君の家は、5、6人の家族なのに、一枚の布団しかないことを知っていた。
 なぜ、そんなに貧しい暮らしをしなければならないのか、王君に聞いたことがある。
 「ぼくたちの土地、ぼくたちの家、みんな日本人に奪われた。ぼくの父は日本軍に強制
 労働させられて殺されました」と、王君はきっとなって答えた。
 その時は、そんなことがあるはずはない、信じられない、と思っていた。
 しかし、ソ連軍侵攻の混乱の中で、現自民の痛いような敵意を感じながら、王君の好意
 は身にしみた。 
 王君の話した「日本人が奪った」ことは、ほんとかもしれない、とも感じていた。
・「死んでしまうよ」という王君の言葉はほんとだった。
 開拓団の600余人が、関東軍の司令部のあった王爺廊・興安街までよろばい着いた時、
 匪賊、馬賊の襲撃ですでに百人が殺されていた。
 それだけを頼りにしていた王爺廊の日本軍隊は、とうに立ち去っていなかった。
 みんなに、団幹部から、集団自決用の青酸カリが渡された。
 「死ぬなら元の部落へ帰って死にたい」と年寄りたちがいう。
 若者たちは馬に乗って近くまで行ったが、そこは破壊し尽くされていた。 
 現地民の日本人開拓民への憎しみの強さを感じて胸がつまった。
・満州国政府もあり、関東軍総司令部もある新京(現・長春)に向かうしかない、と団は
 決めた。 
 けれど、汽車の便を利用できるはずもなく、老幼婦女子中心の一隊は歩くしかなかった。
 それに、土砂降りに雨が毎日降り続いていて、大地は泥濘となっていた。
 「子供より私を先に殺しておくれ」と、夫に叫んでいる妻の声が耳をつんざいた。
 「軍隊はどこへ行ってしまったんだ」と、叫ぶ声も聞こえた。
 「私たちは五族(日本、朝鮮、満州、漢、蒙古族)協和のためにここへ来たんだ」と、
 襲撃された無念さに、うめく声も聞いた。
・開拓団員たちのほとんどは、最後にはソ連軍の一斉射撃で死んだ。
 本隊から離れていて助かった鈴木さんは、倒れた人たちの流血を顔に塗り、死体を上に
 引っ張り上げた。
 死体で身を隠してソ連軍兵士をやり過ごしたのである。
 ひとりぼっちでにげまどったとうもろこし畑で、姉と姉の子に出会った。
 十八歳の鈴木さんは衣服をいつか失くしており、パンツ一枚の体にとうもろこしの葉っ
 ぱをぐるぐる巻きつけていた。
 その姿で土に寝て、蚊に刺され通しだったから眠り込まずに生きておれたと思う。
 親切な中国人のおばさんが姉妹に食事を恵んでくれたこともあった。
 盗んだ野菜で飢えをしのいでいたが、現地民に丸太ん棒で殴られ、意識不明になって何
 日間も倒れていたこともある。
 姉たちとも別れて一人で歩いた。
 新京にたどり着いて、先に撤退した日本軍隊を捜さなくては、と思い込んでいた。
 同時に、王君が言っていた「日本人が悪いことをしたんだ」という言葉をも引きずって
 歩いていた。
・道路沿いの高梁畑にうつ伏せになっていた時、悲鳴と笑い声を聞いた。
 ソ連軍のトラックがから、暴行された日本人少女が裸で放り出されてひかれた。
 笑い声の中にはソ連女性兵士の声もまじっていた。
 死んだ少女に這い寄っていった。
 衰弱しきっていたからだが怒りで震えた。
 「私も生きていて何の意味があるのか」と思った。
・興安街郊外で倒れているところを中国人のおばあさんに助けられた。
 だがやがて、阿片を吸うバクチ打ちで人買いの中国人の手にわたる。
 三年間細い鞭を振るわれ「奴隷とはこういうものか」と思ったほど、休みなくこき使わ
 れた。 
 1949年10月、新中国が成立してやっと自由になった。
 人買いが人民裁判にかけられ、死刑になったからだ。
 しかし、生きる気力は失っていて、「どうやったら苦しまずに死ねるか」と思い惑う日
 が続いた。
・「中国共産党のあの政治工作員がいなかったら、女奴隷生活の長かった私は立ち直れな
 かったかもしれない」と、鈴木さんは遠くを見るような目をする。
 国府軍を打ち破り、民衆と共に社会主義国中国を築こうとしていた中国革命の主役中国
 共産党は、そのころ、若々しい希望に燃えていた。
・政治工作員は鈴木さんに話した。
 「あなた自身も、中国の民衆と同じように戦争の犠牲者です。民族が違っても、みんな
 が同等の権利を持って、自分を主張できる新中国が生まれたんです。元気をだしてくだ
 さい」  
・自分をさいなんだ中国人の人買いが、人民裁判で処刑されたこと、日本人を少しも差別
 しない政治工作員のすがすがしい態度、「これが五族協和ということか、と思ったんで
 す」と鈴木さんは話す。
 ひたすら、大日本帝国の勝利だけを信じて生き、「亡国」の苦汁をしたたかに飲まされ
 た軍国の乙女が、そのころの中国教団党員のモラルに接して変わっていった。
 「人間は美しい、ありがたい」と思うようになった。
・鈴木さん一家が仏立溝開拓団に入植した頃、海軍の学校にいた兄は内地に残り、その後
 南方戦線に行ったが、無事復員してきていた。
 その兄と連絡がとれて文通も始まり、鈴木さんがようやく一時帰国したのは、文化大革
 命の嵐もおさまった1978年6月である。
 清掃会社で働いて日本で生活できるメドが立ち、翌年、夫と末娘を迎え入れた。
・日本で生きてみて痛感したのは、お互いに助け合わない競争社会のきびしさとさびしさ
 だった。  
 日本語も上手に使えず、日本の生活慣習や職場環境になじめないまま挫折していく残留
 孤児世帯の姿が心に食い入ってきた。
 挫折の一因は帰国者への公的援護体制が、あまりに貧弱であることの証明でもあった。
・1981年、大学生たちの支援者と10人で、三鷹市に相談所を開いたのが、「中国帰
 国者の会」の出発だった。
 突き動かしているのは、満州で倒れていた女や子供たちの姿だ。
 襲撃にさらされた1945年夏の逃避行の中で、指導者から「赤ん坊を殺せ」の命令が
 出されて、泥濘の中に次々と幼いいのちが消えていったことを、はっきりと覚えている。
 わが子を捨ててきたために幻覚に脅かされ、中国で死ぬまで苦しみ続けた若い母親を忘
 れることはない。 
 死んでしまった赤ん坊を「生きてるよ」と背負い続けた母親も知っている。
 あれは幻影だったか?
 あの地獄の行進は?
 姉三人も帰りはしなかった。
・その逃避行で、馬の餌を盗もうと、馬小屋にしのび込んで蹴っ飛ばされたことがある。
 その時、鈴木さんの中の「幻の国ー王道楽土」も砕け散ったのだった。
  
<祖国はありや>

ハルビン
・「ロシアの満州開拓の基地」だったこの街に、1911年に滞在したライトとディグビ
 ーによるハルビン市の大通り、キタイスカアの描写だ。
 「大勢の夫人はいずれも上流階級の女で、着ているものは上等で容貌は美しい。アジア
 ・ロシアでは、実際めったに見られぬ情景である。それらの女たちよりもっと貧しい者
 も、シベリアの女のあの自堕落な態度を身につけていない。あの女たちときたら、いつ
 も家の戸口に置いてある消防ポンプに着物を着せたように見えたものだが、ここでは農
 婦の装いをした女も見かけない。女たちはいずれも、よく似合った薄物の黒いレースの
 スカープを頭にかぶっている」
・「年のいかぬロシアの女学生は、スマートな麦わら帽子をかぶり、そのブラウスには鈴
 蘭の花束をつけて、通りに出てくると幅広い気の歩道に沿って置かれているベンチに、
 取りすました様子で座り込んでいる」
 「豊かな色彩があふれている」
・ぴかぴかした黒いベルトをしめた赤シャツのロシア人、オランダ風の上っぱりを着て腰
 に深紅のスカーフを巻いた派手な馭者、腕を組んでいくドイツ人の一団、銀の締金で止
 めた暗青色の軍のマントを羽織った男、パナマ帽の男、つばの広い中折れ帽の男、純白
 のヘルメットをかぶった男、イギリスの自動車帽の男。
・「日本人もいるが、男は一様に西欧風の服装で、たいていは金縁眼鏡をかけている。
 彼らの女たちはスカートとブラウスがお気に召していないらしい。日本の女は美しい民
 族衣装をまとい、丈の高い木の履物でカタカタと音をたてて歩く。目が細く、派手な着
 物を記せられてはしゃいでいる小さな日本の赤ん坊を肩から回した帯で背中にくくりつ
 けている者も、ちらほらと見かける。そしてシナ人はいたるところで目につくが、布の
 靴をはき音もなく群集のあいだをぬって歩く・・・」
 ハルビンは国際都市だった。
・1932年、軍事力を背景に、日本は満州国の建国宣言をし、1933年には満州国問
 題で国際連盟を脱退して国際的孤立化の道を歩む。
 その年、東支鉄道を満州国に譲渡させる交渉が始まった。
 1935(昭和10)年3月、鉄道と附属する一切の施設・財産が1億7千万円で満州
 国に譲渡されて、建設したロシア人の代わりに満鉄の日本人が、経営の実権を握る。
 その前、1932年2月に、日本軍は、武力攻撃もしながらハルビンに入って、北満で
 も支配体制を固めていくのである。
 だが、ハルビンの街で日本軍はどうみられていたのだろうか。
  
難民と市民
・敗戦の年、ハルビン市内に三百カ所あったという難民収容所の中でも、校舎がねぐらと
 なった花園収容所は、もっとも多くの日本人難民が生命を落とした場所である。
 引揚者の援護機関として1945年8月からかと同を続けた財団法人満蒙同胞援護会の
 記録によると、同年冬、中ソ国境や周辺からハルビン市の収容所に入った難民たちは、
 8万8000人に達した。
 このうち、凍死、栄養失調や、発疹チフスで、越冬中1万2000人が死んだ、と記録
 は語っている。
 私の目の奥には、講堂をすくまなく埋めて横たわり、よろばっている人たちや、骨と皮
 だけの幼児や、校庭に積まれた死者たちの凍死体が焼き付いている。
 そうなのだ。あの敗戦の大陸で、幼な子たちの命はもっとも脆く弱かった。
・「戦禍の犠牲者は兵士よりも子供」という現実は、五十年前の満州の悪夢をよみがえら
 せる。 
 食事といえば薄い高粱粥一杯の花園収容所で、まず赤子が、そして幼児や年寄りが動か
 なくなっていった。
・『哈爾賓物語』を読むと著者の杉山公子さんは敗戦一年前の1944年春、ハルビンの
 高等女学校を卒業し、満鉄ハルビン鉄道局に勤めたというハルビン生まれ、ハルビン育
 ちの人である。
 生家は繁昌した農機具商だった。
 その杉山さんは戦後のハルビン暮らしについてこう書いている。
 「収容所の状況をみれば、翌年の春をいったいどれだけの人が迎えられるだろうか、と
 おもわれるほどものだった。それと比べれば、以前からのハルビンの住民だった私たち
 は恵まれていた。とくに自宅を動くことのなかった地区の人びとはなおのこと幸いだっ
 た。家財を処分することで一年間をしのぐことができたからだ。開拓団の人びとと比べ
 れば天国と地獄ほどの差だ」
・私の父は敗戦時、開拓地の国民学校(小学校)の校長だった。
 学校には寄宿舎もあったから、ソ連軍侵攻と共に開拓団員たちは小学校構内に集結し、
 寝泊まりして襲撃に備えた。
 いわゆる「現地暴民」に襲われ、学校の教師にも死傷者を出しながらハルビンにたどり
 着いたのは、冷気鋭い十月初めだった、と記憶している。
 花園国民学校の収容所に入ったのである。
 すでに開拓団からの脱出者たちは、収容所に着くまでに家財のすべてを失い、心身とも
 に衰耗の極限状態にあった。
 その人たちが、ギュウギュウ詰めの収容所で高粱粥に頼り、板敷きに寝るのである。
 虱は恐ろしい勢いで群生し、発疹チフスを流行らせていた。
 杉山さんが、「天国と地獄ほどの差」と書いたことは誇張ではない。
 その中から大勢の残留孤児や残留婦人が生まれたのである。
 衣食住が、極限状況にあり、それが一週間、十日と続くと、人間は人間でなくなってい
 く。
 逃避行の中で、開拓団家族たちの自決は数知れない。
 子を殺して母親も青酸カリを飲むという行為、あるいは幼な子を置き去りにしたり、
 命を断つという行為が積み重ねられた。
 しかし、天国の住民、つまり生きて行くことを保証されている人達が、その当否を云々
 することはできない。
 死は、いまの地獄を逃れるための救いだったし、自分の生命がもはや定かでない状態で
 子を捨てることは、願いや祈りに通じていたのかも知れないのだ。
・本来なら、中国に引き渡されるはずの満州の産業施設が、日本人を大量動員して徹底的
 に撤去され、ソ連領土に運ばれた。
・瀋陽での「男狩り」「兵隊狩り」では、1万6000人が、労働力としてソ連に送り込
 まれた。  
 十八歳から五十三歳までの日本人で、終結後、すぐにシベリアへ連行されている。
 日本軍捕虜の逃亡を、一般市民で穴埋めした、と噂されていた。
・満州浸入から1946年4月まで続くソ連軍政下で、法はないに等しかった。
 治安悪化にたまりかねて、瀋陽では日本人居留民会が経費を負担して、市内の要所要所
 にソ連兵を立哨する措置をとった。
 「日本人を悪質なソ連兵士や暴民から保護するため」である。
 こうした無秩序はハルビンも同じだった。
・杉山さんはこうも書いている。
 「満州国時代といえども開拓団の日本人は都市市民とは比較にならない生活だった。
 女学校でその窮状が訴えられ、全校生から衣類を集めて送ったことがある。
 私が開拓団の暮らしに思いを致したのはその一度きりだった。それくらい、同じ日本人
 でも都市市民と開拓団とは互いに隔絶した世界に生きていたのだ」
・私が堺さんのアパートでお世話になったのは二週間内外だったが、ベッドで寝ることと
 いい、買った花を飾ることといい、都市市民の生活に驚いたのだった。
 開拓団の経済についていえば、貯金額一人当たり二万円というような千振開拓団の例も
 あるのだから貧しいとはいえない。
 あったのは、当時の日本内地にもあった都市生活者と農村生活者の隔たりだ。
 開拓団の小学校から出てきた軍国少年の私は、街と人のハイカラぶりに戸惑った。
・収容所とはいえ、身の安全と保護を託すべき場所ではなかった。
 仮にナチスの強制収容所ほどの冷酷無惨さはなかったにせよ、まったく力尽きた避難者
 たちが異民族管理の舎屋内に留置さえて、喚起と飢餓の責めるにまかされたのみならず、
 不断の強制労働に生命を消耗していったのである。
・開拓団難民たちは、ハルビン、長春、瀋陽などの大都市に地獄の旅をしてたどつき、
 収容所に入れられたが、そこも地獄だった。
 売り食いが可能だった都市居住日本人との生活格差は「天国と地獄」だったのである。
・私が「満州難民でした」という言葉には、「私は祖国喪失者でした」という意味が込め
 られている。
 日本こそ、戦後の私にとって「幻の国」だったのだ。
 満州が瓦解して、むき出しの生を生きなければならない満州難民にとって、「国家」な
 どという枠組みは、一種の虚構に過ぎなかった。
 
あとがき
・敗戦の時の東京居住者が、阪神大震災で焼け跡の東京を思い出したように、満州ハルビ
 ンの居住者だった私は、難民収容所を思い出す。
 敗戦後、満州では二十万人前後の日本人が死に、各難民収容所には死体の山が築かれて
 いた。
 戦いのすんだ後、満州の日本人難民たちは死と隣り合わせの日々を生きていた。
・一人当たり一畳もない収容所の元小学校講堂の人いきれから、ふっとにおってきたのは
 死と生の入り混じったにおいだったかもしれない。
 なにしろ、いのちの証しのような幼児が、まず生を閉じていった。
 その中で人びとは、人間が共に死んでいく「共死の世界」をわかち合っていたのである。
・敗戦の1945年夏から、翌46年5月の引き揚げ開始まで、満州難民に対して、祖国
 日本は何の援助もしなかった。
 何の手も打てなかった。
 ひとりひとりが、生きぬくために精一杯の才覚を働かせるしかなかった。