王道楽土の戦争(戦前・戦中篇) :吉田司

この本は、今から20年前の2005年に刊行されたもので、友人から紹介されて読んで
みた。
しかし、なかなかぶっ飛だ内容で、この本の著者の思考パターンと私の思考パターンとは
噛み合わないらしく、著者の主張が何であるのか、私にはあまり理解することができなか
った。

それはさておき、私はこの本の中で驚いたのは、あの「安倍晋三」元首相が、平安時代に
東北地方(現在の岩手県・宮城県)で勢力を誇った豪族・「安倍氏」の血脈を継ぐ者だと
する説だ。
ほんとうなのか。
こういうときにはいま流行りのAI(人工知能)に問うのが一番と、まずChatGPTに問う
てみた。その答えは、
「安倍晋三氏が陸奥国の安倍氏の直系の子孫であるという証拠はなく、単なる同姓の可能
性が高いです。ただし、奈良時代の「阿倍氏」までさかのぼると、遠い血縁関係がある可
能性は否定できませんが、それを証明する歴史資料や系図は現時点では存在しません」
との回答であった。真っ当な回答だろうと思った。
しかし念のため、Microsoft社のCopilotに問うてみると、
「安倍晋三氏は、陸奥国の安倍氏の血脈を継いでいるとされています。安倍氏は、平安時
代から続く歴史ある家系であり、安倍晋三氏もその一員として認識されています」
とのこと。
これは困った。どちらが本当なのか。
さらに、GoogleのGeminiに問うてみると、
「その人物については十分な情報がないため、お手伝いできません」
とのことであった。
これでは、何が本当なのか。結局、謎のままだ。

ところで、この本の最初に述べられている次のような趣旨のアイデアには、とても興味を
持った。
“日々発売されて半年後には裁断されてゆく「売れない本」や「もう誰も読まない本」の
採集民となり、その「もったいない」切れ端を片っ端から、真っ白いキャンパスにべたべ
たと貼り付ける「コレージュ・ノンフィクション」という手法を考えている“
また、
“コンピュータ情報というのは、腐らない。情報はインプットされた時の鮮度をずっと保
っているのだ。劣化しないから、当時のまま使える”
という考え方にも、なるほどと思った。
なぜなら、私も「売れない本」「もう誰も読まない本」をせっせと読み込み読書メモとし
て残しており、いつの日かコンピュータ情報化することを趣味としているからだ。

なお、この本のタイトルにある「王道楽土」とは「公平で思いやりのある政治が行われて
いる平和で楽しいところ」という意味のようで、1932年に満洲国建国の際の理念だっ
たようだ。素晴らしい理念なのだが、それは日本だけに都合のよい理念だったようだ。


はじめに(ファイナルZからの挑戦)
・「王道楽土」「五族協和」の満州国が成立した1930年代というのは、日本国内では
 歌謡曲が成立した時代だ。
 古賀メロディーの名曲「影を慕いて」がぜんこくで大ヒットして、日本レコード歌謡
 (流行歌)の世界が誕生した。
 この頃、「モボ・モガ」、モダン日本ということが言われた。
 モダニズムが流行した頃だ。
・ここで問題なのは、帝国主義段階に入ったそのときに、モダン日本が誕生したというこ
 と。
 これはもう明らかに戦前昭和グローバルニッポンの誕生を物語っている。
 なぜなら、日本が帝国主義段階に突入したからなのだ。
 アメリカと対等に貿易できる。
 物資が大量にアメリカからもヨーロッパからもアジアからも入ってくる。
 それが大衆を豊かにしていく。
 華やかなものにしてゆく。
 それがモダン日本を生んだのだ。
・あらゆるところから新しい発見、発明、流行、そういうものが日進月歩で入ってくるス
 ピーディーな時代となった。 
 そうなってくると、日本人は自分たちの感覚でひとつひとつ整理できない。
 矛盾のままにぶつけ合って、いろいろな効果、違うものを発見していく。
 異質なものがぶつかり合ったり、併存したり、混乱のままに一つの画面に埋め込まれて
 いくことによって、その「日本と世界」の全体像が獲得されていったのではないか。
 論理ではなく、情念ビジュアル的に。
 あらゆる価値観を受け入れて、昇華する。
 アウフヘーベン(止揚)するという方法論が生まれてきたのだ。
・こういう方法論はモダニズムなのだが、インターネット時代の今もそうなのではないだ
 ろうか。 
 洪水のように情報が入って来て処理できない。
 そういうときにコラージュ的なかたちで物事をとらえていく方法論が必要なのではない
 か。
 いまや、ひとつの物語、小文字の物語、大文字の物語というイヤな言い方があるが、
 そういう話では追いつかない。
 大も小も、貧も富も、明も暗も、ぜんぶひっくるめて受け入れていくような方法論でな
 ければ、いまの刻一刻と変わっていく「日本と世界」の情報をリアルタイムで処理でき
 ないだろう。
・たとえば、日々発売されて半年後には裁断されてゆく「売れない本」は、30年代の
 「紙屑」のようなものではないか。
 イラク戦争の関連本は、戦争が終われば、もう誰も読まない。「古切手」のようなもの
 だ。
 私はそういうものの採集民となり、その「もったいない」切れ端を片っ端から、この本
 の真っ白いキャンパスにべたべたと貼り付ける。「コレージュ・ノンフィクション」と
 いう手法を考えている。 
・コンピュータ情報というのは、腐らない。凍結か、解凍か、廃棄か、この三つしかない。
 廃棄しないかぎり、再び稼働する。
 つまり、情報はインプットされた時の鮮度をずっと保っているのだ。
 劣化しないから、当時のまま使える。
 そんな情報化社会は頭脳・脳髄の世界、想像力の世界になっていくといえるだろう。
 インターネットの時代は人間のアナログな実感(身体)親交が壊れている。
・リアルなものとバーチャルなものが並立する二重世界(パラレルワールド)が現代なの
 だ。 
 そういうなかでは、超古代の物語も頭のなかでは全部リアルに展開している。
 価値に古いとか新しいとかいうことが今までのようには成立しない。
 そういうなかでこそ、古代や中世の物語が往来可能になる。
 時代に遮断がなくなる。
 それを物語の中で実現したときの面白さ。
 リアル感覚でぶつけるとどうなるか。
 古い物語が論理的に現代とつながっているというのではなくて、時間のズレはそのまま、
 モロに衝突させたときにどうなるか。
・たとえば、9.11米国同時多発テロ以降、テロ行為への恐怖予測が繰り返され、不断
 の先制攻撃が正当化されるのは、「われわれの未来をすでに起きてしまった何かとして
 取り扱うことができる」世界が出来上がったということだ。
・ある抗し難い説得力をもちながら、日本人の常識的な運命観や歴史観を打ち破ってゆく
 スケールの大きな「仮説の挑戦」。
 マスメディア情報をマスメディアの「紙屑」「古切手」を使って撃つ。
 情報によって打ち破ることで自由になってゆこう。
 そのためには自分のデータベースを使いきることが大切なのだ。
 データベースこそが戦いの根拠地なのだ。
 貧しき労働者、反権力グループの有無が根拠地なのではない。
 ネット、国家、共同体、あらゆるデータベースから自由になるためのコードとキーワ
 ードをこそ盗み出せ。

嶋に散る華
・日本は大昔から「豊葦原瑞穂国」という美称を持ち、その中心の本州部分は、「大倭豊
 秋津島」と呼ばれ、太陽神アマテラスをいただく稲作民族国家だったとされているわけ。
 だから1980年代後半の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代になって大増上慢
 したと当時の首相・「中曾根康弘」は、日本列島を一個の巨大な「不沈空母」に変える
 と発言し、「日本人単一民族説」を大言荘語した。
 2000年代には「森喜朗」首相が「神の国」と呼んだ。
 日本は、そういう四方を海に囲まれた「島国」である。
 島(共同体)と国家の区別が判然としない。
 島の運命と国の運命がしばしば同一のもの、例えば「戦艦大和」に乗組んだ兵士たちの
 ように外部に逃げられない「生と死」の運命共同体として受け止める国民意識がある。
・1274年の「文永の役」、81年の「弘安の役」、二度にわたる蒙古襲来(元寇)
 最も悲惨な目に遭ったのは、玄界灘の孤島の対馬と壱岐、そして伊万里湾港に横たわる
 肥前鷹島だったという。
 当時、防衛の最前線の対馬に守備兵わずか80騎、壱岐には100騎しかいなかった。
 それが、900隻に船に分乗した3万の元軍に襲われたのだから、防衛もなにもありゃ
 しない。 
・だいたいその頃の鎌倉武士たちの戦い方って、己の功名を立てて恩賞をもらうって個人
 の「ぬけがけ」競争だったからさ、キリスト教諸国やイスラム・中国・朝鮮高麗などを
 征服してきたモンゴル軍の、世界最先端の火薬「てっぽう」を使った集団戦法にまるで
 調子が合わない。時代遅れで、全滅した。
 その全滅の、島民自滅の姿がスゴイんだ。
 言い伝えによると、島の住民は、津波のような蒙古襲来を知って、全員ムラを捨てて山
 の上の森の中に避難した。
 蒙古軍の上陸・捜索が始まると、森の中に隠れた住民の群れは、赤ん坊の泣き声で自分
 たちの居場所が発覚することを恐れ、それぞれが赤子の両足を握り、身体を木の幹に叩
 きつけて絶命させた・・・という、絶句するしかない悲惨な物語が残っている。
・文永の役で島民はほぼ全滅したが、七年後の弘安の役で、鷹島は救国の島として一気に
 歴史の脚光をあびた。
 元軍三千余艘がこの島の南方海上で沈没し、八万数千人の兵士が溺死したからである。
 服荒れる暴風雨に三千の船団は破裂し、粉砕されながら海に沈んだ。
 この暴風雨は偶然である。
 それお天祐神助と信じた日本人は、「神風」と呼び、六百数十年後、太平洋戦争へと暴
 走してしまう結果を生んだ。
 偶然の幸運は恐ろしい。
 
・「武蔵」とは、金のない貧乏帝国ニッポンがアメリカの巨大戦隊と互角に戦うため、
 「量より質」で造りだした超弩級戦艦で、当時世界最大の18インチ砲を搭載した軍艦
 だった。
 戦艦「大和」と並び、大艦巨砲主義時代のシンボル的存在だったが、太平洋戦争末期の
 第一次ソロモン開戦→マリアナ沖海戦と転戦し、ほとんど戦果をあげることなくシブヤ
 ン海に沈んだ。
 すでに艦隊決戦時代は終わり、空から攻撃してくる「花の航空隊」の時代が到来してい
 たからだが、日本海軍指導部はそれへの転換に後れをとった。
・現在の経済の「失われた10年」みたいなことをやりつづけ、終に「大和」も「武蔵」
 も襲い来るアメリカのハゲタカファンドならぬハゲタカ航空隊の魚雷攻撃と機銃掃射の
 的となって沈んだのである。
 空母から飛び立った「日本の荒鷲」たちお得意の「夜襲」戦法は、米海軍が開発した最
 新式レーダーとVT信管(近接電波信管)によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
・戦艦大和は沈没し、「浮かべる城ぞたのみなる」海軍が大崩壊して丸裸となった沖縄戦
 が始まった。
 攻寄るアメリカの「アイスバーグ(氷山)作戦」ときた日には、上陸米軍が七個師団の
 18万2800人、支援の海軍部隊を含めると54万8000人。
 開戦時の沖縄の人口が本土への疎開組を除くと約59万人だから、全沖縄島民よりも攻
 めてきた米軍のほうが多かった。
 沖縄の四方の海は米軍の浮かべる城=眞金の船大小1400隻に黒々と包囲され、四方
 の空は艦砲・機銃掃射の雨あられ、地上は敵戦車のキャタピラや火炎放射器の下に逃げ
 場もなく蹂躙され、日本軍約10万人と沖縄島民は地の底の洞窟の中での戦に追い込ま
 れていった。
・コレってさ、どう見たって、あの蒙古襲来の時の壱岐・対馬の「山の上」「森の奥」構
 図の再現ではありますまいか。
 同じことが、あの「赤ん坊の泣き声」封じが、ここでは赤ん坊の親ではなく、本土の、
 大和島根の日本軍の手で再演された。
・沖縄戦は日本で唯一の激しい地上戦だった。
 沖縄住民はアメリカ軍攻撃への”防衛の盾”として日本軍に利用され、次には軍事機密を
 知っている住民がアメリカ軍に捕まって「機密が漏洩せぬように」と、集団自決を強要
 され、日本軍の住民殺害が相次いだのである。
・沖縄戦と蒙古襲来を並べると、逃げ場のない「島国」の暮らしという空間性あるいは領
 土性というものが固定化されて浮かび上がってくる。
 そしてそこから連続的に、必然的に生まれてくる”島国の危機”の最終的なウルトラ解決
 法あるいは強制されてくる集団心理は、「一億総特攻」という散華システムしかなくな
 ってしまうことがよくわかる。 
・特攻隊とその散華の思想は、昭和サムライ軍人道のイデオロギーではなく、日本「島国」
 列島が危機を迎えたときに、きっと起こってくる、一個の倒錯した民族的強迫病理現象
 なんだと言い直してもいい。
 だから日本人の民族的一致団結が必要なときは、この国の政治階級は楽でいい。
 こう、お題目を唱え続ければいいからだ。
 「諸君。もう逃げ場はないぞ!」
 と。
・明治維新に始まる近代の日本史を学ぶに当たって、次の三つの前提を、考慮に入れてお
 きたい。 
 第一に、欧米列強の植民地支配圏の拡大は、明治維新の後もずっと続いていた。
 日本が独立を維持して、大国の仲間入りを果すまでの歴史は、列強の進出と同時進行で
 起こったことだった。
 北には、不凍港を求めて南下してくる、最大の脅威ロシアがあった。
 命じの日本人はどんなにか心細かったであろう。
・日本はユーラシア大陸から少し離れて、海に浮かぶ島国である。
 この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。
 当時、朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地と
 なり、後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となると考えられていた。
・ロシアは、日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。
 ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。
 このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が到底、太刀打ちできないほ
 ど増強されるのは明らかだった。 
 政府は手遅れになることを恐れて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた。
・1904(明治37)年2月、日本は英米の支持を受け、ロシアとの戦いに火ぶたを切
 った。 
 戦場となったのは朝鮮と満州だった。
・日露戦争は、日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。
 日本はこれに勝利して、自国の安全保障を確立した。
 近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だっ
 た白人帝国ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された民族に、独立へのかぎりない希
 望を与えた。 

アラモ系の人びと
・世界史で最も重要な「玉砕戦」は、1836年テキサス独立戦争の時に起きた「アラモ
 の砦」の戦いだった。
・「アラモの砦」は、アメリカが大西部の果て、ロスやサンフランシスコにまで達し、
 帝国化する時代のキーストーンとなった「愛国的」玉砕の鏡なのである。
 アラモは実はアメリカの最も醜い帝国的侵略の精神的な故郷と言ったほうが真実に近い。
・テキサスが合併された翌年に、メキシコとテキサスの国境問題がこじれて、戦争が発生
 した。  
 アメリカ軍は待ち構えていたようにメキシコに侵入し、1848年の終戦の条約では、
 カルフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコなど広大なと土地をメキシコから奪いとる。
・この経過を見ていて、アメリカ側のやり方に不審の念をもった人が、ごく僅かだがいた
 のだ。 
 この戦いが防衛のための戦いではなく、侵略のための戦いであったことを堂々と議会で
 述べたのは、まだ新米の下院議員だったエイブラハム・リンカーンである。
・ずっと後に、共和党の大統領候補になったとき、とうじを振り返ってこう書いている。
 「私が思うに、メキシコが合衆国やその人民を苦しめたり困らせたりしていることはま
 ったくなかったのですから、メキシコ住民たちの土地へ軍隊を派遣することは、不必要
 であり、また憲法違反でもあったのです」
・ちなみに、メキシコ政府は1831年に奴隷制度を廃止した。
 従ってテキサスは、メキシコ領からアメリカ領になることによって、逆にその後南北戦
 争まで30年間も、奴隷制度を長く続けることになったのである。

・日蓮は「立正安国論」で「蒙古襲来」を予言したと言われている。
 上は天皇、北条時頼から下は庶民に至るまで大混乱した時には、「この凶難を退けるこ
 とができるのは、(比叡山を除いて)日本で唯一自分だけである」と絶叫した。
 「我日本の柱とならむ。我日本の眼目とならむ。我日本の大船とならむ」と言い切って
 死んでいった、日本歴史上に輝き続ける「超人」的存在だ。
 だから、なにか日本人が危機に陥った時、必ず呼び出される”救国の亡霊”だよね。
・1930年代の昭和不況(世界大恐慌)から脱出するために、当時の日本は「満州建国」
 という拡張主義(帝国的侵略)に走るのだが、その未曽有の「国難」の時代に天皇軍国
 主義の守護神アマテラス(天照大御神)だけでは足りなくなり、鎌倉ルネッサンス時代
 の宗教的「超人」日蓮が呼び出され、神国日本の精神的支柱になった。
・アマテラス神道と仏教・日蓮が手を握った時代で、俗に「法華ファシズム」(日蓮主義)
 と呼ばれた。
 具体的にはどんなことやったかって言うと、「一人一殺」のテロ、まぁ、”人殺し”をや
 ったんだね。
 つまりあの時代は、時の政権は「浜口雄幸」ライオン首相、逓信大臣は「小泉又次郎
 (小泉純一郎首相の爺さま)だった。
 全国に失業者があふれるなかで、三井財閥が円貨でドルを買う投機的行為=「国賊」的
 行為を通じて巨額の利益をあげたとして国民的憤激を受け、それが浜口首相狙撃や三井
 財閥の「団琢磨」理事長暗殺、「二・二六事件」や「満州国」建国へとつながっていっ
 た。  
・あの日本人の血まみれなアジア侵略への道は、デフレ不況下における国民的憤激と右翼
 テロの「国賊征伐」「天誅!」思想が手の結んだ時からはじまったというわけで、その
 右翼テロリズムの背後にいた血盟団の「井上日召」や「北一輝」たちは、みんなその日
 蓮主義の人たちだった。
・その日蓮主義の先鞭をつけたのが国柱会の「田中智学」だね。
 彼は昭和二年に神国ニッポン(=大東亜共栄圏)のスローガン「八紘一宇」を作った思
 想家でもあり、「戦前の日蓮関係者で国柱会の英古湯を受けていない者は恐らく一人も
 いなかったのではあるまいか」といわれている。
 事実、満州建国の立役者だった関東軍参謀の「石原莞爾」も、「銀河鉄道の夜」の童話
 作家・「宮沢賢治」も、国柱会信徒だったもんな。
 
ヒルコ系の人びと
・島と国とは必ずしも一致しない。
 人は自由で、島にも国にも縛られていない。
 人が島に住むのであって、住まわせてもらっているわけではない。
 島を捨てる自由、あるいは島々を往来する自由の中に、人は生きる。
 つまり「逃げ場はいっぱいある」ってのが島の本質である。
・こうした島国の領土性に閉じ込められない、流浪し、放浪、漂流する人生こそが、実は
 ほんとうの「日本人の原像」であり、最初のわれわれのご先祖の姿であった。
・平成17年(2005年)の現在、天孫族の末嫡たる資格継承問題(いわゆる「女性天
 皇」容認)をめぐって賛否の論争がかまびすしいのだが、朝日新聞には「宮中祭祀はど
 うするか。女性天皇は行えない新嘗祭」と題し、明治学院大学教授の「原武史」がこう
 寄稿している。
 「女性は生理中には宮中三殿に上がることができないという問題がある。皇室研究家の
 『高橋絋』によれは、宮中では整理を『マケ』といい、整理が始まって八日後に潔斎し
 てからようやく許される。皇后が生理になると、どんな祭日でも拝礼はしない(天皇家
 の仕事)。女性を不浄なるものと見なす価値観が、宮中ではないも生き続けているわけ
 だ。
 つまり、いまの旧ちゅう祭祀を前提とする限り、女性が天皇になれば、新嘗祭という最
 も重要な祭祀を天皇が行えなくなるばかりか、ほかの祭祀にも影響が出ることが予想さ
 れるのである。」
・原書は日本そのものが漂流する島=「移動する力」のシンボルだったのだ。
 日本に「大和民族」と呼ばれるような土着的な単一民族などあったためしはない。
 大和民族文化などという純血文明も存在しない。
 それらはみな海を渡って漂着したものの集合体であり、雑婚・交配種であり、「修理め」
 「固め成」された加工物であった。
  
島に咲く華
・天皇は(原)日本人じゃないってわけね。
 異国から来て、列島に根付いて咲いた「菊」の華なのさ。
 だからね、こうなると、いやはやどーも「満州」(中国東北部)は、日本「天孫族
 (古代天皇家)の故郷だったということになるぜ。
 そしてこの文脈において現代の2001年の天皇誕生日に飛び出したアキヒト天皇のあ
 の「百済発言」を読むと、事態はより一層リアルに見えてくる。
 彼は自らの口で天皇家の血統問題について、次のように語ったのだった。
 桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫だと『続日本紀』に記されていることに触れ、
 「韓国とのゆかりを感じています」
・でもそうなると、大変だぜ。
 中曾根康弘元首相の「日本単一民族説」も愛国右翼の神武天皇以来の「万世一系」の血
 筋ってのもぶっ壊れてしまう。
・この日本という国を作り動かしてきた根源的な力は、国境を越えて「移動する力」だっ
 たといえるのではないだろうか。
 そういう歴史民俗学の代表的学説が、1984年に「江上波夫」が発表した「騎馬民族
 説」である。
 これは、東北アジア系騎馬民族が朝鮮半島南部の加羅から北部九州へ渡り、そしてつい
 に五世紀のころ畿内へ侵攻し王朝を樹立したとする説。
・「樋口隆康」が次のようにまとめている。
 日本国は倭の国と言われるが、倭人は中国江南地方の原住民で、前四世紀から前一世紀
 の間に九州へ到来した。
 縄文人の狩猟採集文化を改め、弥生文化の水稲文化の水稲栽培を普及し、「伊都国」を
 興して、北九州を統合したことから始まる。
 そこに邪馬台国という女王卑弥呼による神権政治国家が興り、それが大和に移って、
 畿内を中心とした広範囲を支配した。
 即ち、大和朝廷の創設である。
 その創設者は「崇神天皇」であり、古墳時代の初めである。
 古墳時代は、一般には前期・中期・後期の三時代に区分される。
 古墳前期は弥生時代と同じ文化の流れであるが、中期は馬具などの騎馬民族的文化が急
 に出現し、後期へ繋がるので、中期と後期をひとつにするのが妥当であり、前期・後期
 の二期に区分したい
 その後期の初めである四世紀末から五世紀前半に騎馬民族の王家が到来して、日本の天
 皇家になったのである。
 この騎馬民族とは、東北アジアの扶余系の「辰王家」で、それがまず朝鮮に入り、任那
・加羅から筑紫に至る倭人の国を興し、当時、筑紫は「秦王家」の国とよばれた。
 さらに大和へ入って、日本全体を統一し、倭国王となった。
 その倭国から日本天皇として推戴されたのである。
 騎馬民族である扶余族の日本への進出は、けっして武力による征服ではない。
 宗教や文化の力、あるいは政治的手段によって、農耕民をうまく順化し取り込んで、 
 平和的に支配者として推戴してくれるようにしむけたのである。いわば、無血征服であ
 る。
・草原の遊牧国家としてスタートしたモンゴルは、「陸と海の巨大帝国」に成長したわけ
 で、そういう、クビライ汗の時代パワーあふれる「国書」が日本の鎌倉幕府にもたらさ
 れて、あのテンヤワンヤの「蒙古襲来」戦争が起こるのだが、実は、「その内容はきわ
 めて穏当なもので、善隣友好の趣旨を呑めて、両国間にこの関係を樹立しようという提
 案にすぎない」ものだったことは、現在では歴史学のほとんど通説になっている。
・1266〜1273年まで前後四階の使者が太宰府に到り、国書が京都朝廷と鎌村幕府
 にもたらされた。
 しかし、「軍事を専職とする鎌倉幕府の目」には当時のアジア・ユーラシアを覆った新
 しい世界史的グローバリズムの波=大モンゴル帝国の高度な文明・文化のレベルがほと
 んど見えていない。 
 実際、朝廷が「日本国大宰府守護所」の名で出したモンゴルあての辺諜案には「『蒙古』
 という国号はこれまで聞いたことがない。今般書面を受け取って、少々事情を知ったの
 みである」と記されているという。
 そして一回目のクビライ汗の国書の書面の末尾にある「兵を用いるに至っては夫れ孰か
 好む所ならん」の一句が恫喝に映った。
 無礼千万!と使節の首まで斬っちゃった!
 どーも昔っから日本の兵隊とかサムライ武士道ってのは、「関東軍」みたいな固ーいお
 頭の持ち主ばかりだったらしい。
・従来、文面が傲岸不遜で日本を脅迫する内容であったから、日本側の反応はしかたがな
 かったとされている。 
 しかし、それはまったく誤解である。
 むしろ、歴代の中国王朝の通常の外交文書からすると低姿勢であることに驚く。
 クビライ政権側に、初めから開戦の意思があったとは思えない。
 少なくとも幾度かの正式の国書を完全に黙殺したうえ、使節団の殺害まであえてした日
 本側は、明かにルール違反であり、みずから戦争を求める意思表示をしたと解されても、
 むしろ外交慣習上は当然であった。
・一回目の派兵「文永の役」について、
 このとき、モンゴル側に日本を征服する意志はなかったろう。
 「趙良粥」とその随行団をはじめ、あらかじめ日本の国情・人口・風土・地勢などを調
 査していたクビライ政府は、二万七千余の兵力で日本政府征服が可能とは思ってもいな
 かったのではないか。 
 わずか一日の戦闘で、せっかくの陸上拠点を簡単に放棄していることが示すように、
 九州どころか、博多、箱崎地区の「恒久占領」さえ、はじめから考えていなかったこと
 も十分にありえる。
 モンゴル軍の通例として、ユーラシア各地に対する拡大戦争においてしばしばそうであ
 ったように、未経験の土地については先乗り撫隊などでひとあたりたたくか、軽く接触
 しておいて感触をえておいたのち、再進攻か別の方策を図る場合が目につく。
 文永の役においても、様子見というか、日本軍の実欲を瀬踏みしたのだろう。
・それから七年後の「弘安の役」(いわゆる「神風」が吹いてこうも全滅したってヤツ)
 これは、クビライが宿敵の漢民族の帝国「南宋」を「ほとんど無傷のまま接収(すなわ
 ち無血征服)して北京に入城した後のお話だから、事情が一回目とまるでちがったと言
 われている。 
 一番の頭痛のタネは「40万以上にのぼる旧南宋の職業軍人たちであった。失職したま
 ま放置すれば社会不安になる」と言うのである。
・日本の明治時代、廃藩置県したあと、大量の武士団の再就職をどうするかに悩んだのと
 同じ問題である。
 北海道開拓の「屯田兵」やら西郷隆盛の台湾「征韓論」が起こったりした、あの問題で
 ある。
・そこで弘安の役の場合、来襲したのは、朝鮮半島経由の四万の武装せる東路軍と江南軍
 10万を乗せた3500艘の兵船で「おそらく人類史上で最大規模の艦隊だったが、
 その江南軍10万というのは再就職先を日本に求めたそれら旧南宋の老弱兵たちで占め
 られていたというお話である。
・彼らはこれといった武装をしていた形跡がみられない。
 たずさえていたのは、日本入植用の農機具と種もみであった。
 要するに、江南軍は移民船団に近かった。
・つまりモンゴル軍の大半は「集団入植」希望者の大軍だったのだから、日本側の、石垣
 を築き、用意周到に待ち構えていた10万の鎌倉武装団のほうが実際は優秀だったかも
 しれないのである。 
 神風(台風)についても、別にそれが吹かなかったって日本勢は勝ったという見方も成
 り立つ。
・東路軍については、糧食はほとんどつきていた。
 かたや、江南軍は実戦力がほとんどなかった。
 現実には、遠からず撤収するほかなかったのではないか。
・海に沈んだのは江南軍のほうがはるかに多かった。
 江南兵の大半が失われても、モンゴル側にとって痛手であったとは思えない。
 踊ろうことは、大量の未還者を出した江南地方で、彼らをとむらったり追善供養をした
 りする動きがまったく見られないことである。
 南宋では兵は社会から蔑視されがちであり、また無頼のものが多かったといわれている。
 もともと、安否を気にする身寄りもいなかったのであろうか。まことにあわれである。 
・その反面、将官たちが搭乗していた大鑑のほうは、ほとんど無事に大陸に帰投したのだ
 と伝えられている。

・はるか昔、黒潮にのって渡来した海洋民は、太平洋側の半島を拠点とし、やがて桓武平
 氏の旗のもとに結集していった。
 一方、中国北方の地から朝鮮半島を経て渡来した騎馬の民は、朝廷から源氏の姓を許さ
 れて各地に地歩を築いた。
 それから数百年の間に漁師は婚媾を繰り返し、民族的な同化をなし遂げてきたが、海の
 民、騎馬の民としての本能は互いの地の底に眠っていたのだろう。
・当時の日本列島は大きく「四つの民族」に分裂していたことが判然としてくる。 
 まずひとつめ、西国「平氏」の世界亜h「海賊的武者」を中心とした「黒潮の民」
 的世界。疑いもなく「ヒルコ系」の人々である。
 ふたつめは、東国の源氏の「弓射騎兵型武者」的世界。これも「東夷」と呼ばれた、
 大きな意味での「ヒルコ系」(国境を越えて移動する民族的パワー)である。
・そしてその源平合戦の中の「異分子(鬼子)」として「源義経」がいる。
 彼の背後には列島東北部「奥州」の藤原談大の民族史が脈打っていた。
 奥州こそ、大和朝廷に抗した日本先住民「服わぬ民」=「蝦夷」と呼ばれるアイヌ系
 「異民族」すなわち最も古い型のオールド「ヒルコ」たちが中心だった。
 日本全土あるいは沖縄あたりまで広がっていたこれらの人々は、漂着する渡來民族に追
 い上げられる形で列島東北部に結集してきた。
 彼らは王朝権力から「俘囚」とさげすまれ、「奴隷民」視され続けたが、この時代、
 岩手平泉に誕生した東北の「自立権力」藤原三代がもつ「黄金」と「砂鉄」と「南部馬」
 のパワーは、東国源氏(鎌倉幕府)の最大の脅威となった。
・藤原平泉の黄金文化が現れるまでに東北国家にはふたつの「自立権力」が育ち、朝廷や
 東国の騎馬武者と戦っては滅んだ。
 ひとつは安倍氏、次に清原氏である。
・「安倍頼良(頼時)」は十一世紀半ば、奥州戦域を支配、畿内の朝廷への貢物を進めず、
 国守の軍勢を破って、自立の姿勢を明確にした。
 これに対し朝廷は、「源頼義」を陸奥守兼鎮守府将軍に任じ東北を押さえようとしたの
 である。  
・ここで起こったのが、第一次「東北・東国戦争」いわゆる「前九年の役」である。
 安倍頼時は一族の全力をあげ、源頼義も坂東の精鋭を率いて戦った。
 頼時の死後も「安倍貞任」を中心とする安倍氏の抵抗は強力で、戦争は長引いたが、
 康平五年(1062)源頼義が出羽の「俘囚の王」清原氏の援助を得るに及んで、安倍
 貞任はついに破れ、安倍氏は滅び去った。
 まさしく安倍氏は東北人の「英雄」であった。
・そして次に永保三(1083)年、清原氏の内訌に乗じて東北征伐をねらった源頼家と
 の間に第二次「東北・東国戦争」(後三年の役)が起き、東北の覇者の位置を藤原氏が
 奪う。 
・なぜ「理由あって」安倍氏の物語を詳説したかと言うと、現在の自民党の「次の首相」
 の呼び声高い、あの対北朝鮮強硬派の「安倍晋三」は、この「俘囚の王」安倍氏の血脈
 を継ぐ者だからである。
 安倍晋三にはあの「満州国」経済を牛耳った革新派官僚・「岸信介」の血も流れ込んで
 いる。
・かつて「前九年の役」「後三年の役」で戦った東国と東北は、近代のとば口で「奥羽越
 列藩同盟」の姿をとる。
 戊辰戦争に敗れた奥羽越列藩は、朝敵として明治の世を起きなければならなかった。
 歴史における変革とは権力闘争の面が強く、明治維新もまさにそうであった。
・戊辰戦争のクライマックスといわれる「会津戦争」も、それは単に薩長対会津の私怨と
 いったものではなく、東日本対西日本の凄まじい戦いの諸相が秘められていた。
 東北に戦火がひろがった時、アメリカ公使の「ヴァン・ヴォールクンバーグ」は、
 「日本に二人の帝が誕生した」と本国に伝え、どちらかといえば会津を中核とする北方
 政権が優勢だと報じた。
・二人の帝とは薩長新政府が抱く明治天皇と奥州越列藩同盟が擁立した「輪王寺宮公現法
 親王
」である。
 列藩同盟の会議所は仙台に置かれ、仙台藩養賢堂指南統取、「玉虫左太夫」が采配を揮
 った。
・玉虫は「日米修好条約」の批准交換のために訪米した外国奉行「新見豊前守正興」の従
 者として、つぶさにアメリカを見聞した国際派であった。
・列藩同盟は当初、鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩救済を目的とするものであった。
 会津藩から同盟に加わったのは家老・「梶原平馬」である。
 この梶原は仙台、米沢、新潟を駆け回り、新潟港から世界に北方政権の存在をアピール
 した。
・南部藩家老・「楢山佐渡」もまた積極的に同盟に加わった一人で、藩論を反薩長にまと
 め、同盟を離脱した秋田攻撃に自ら出陣した。
 楢山もまた目指すのは北方政権であった。
・米沢藩参謀・「雲井龍雄」は有名な「討薩檄」を草し、薩長と戦うことを全国に呼びか
 けた。
・長岡藩・「河合継之助」、庄内藩・「菅実秀」も、おのれの信念にもとづき、果敢な戦
 いに突入した。 
・結果は空しく、ある者は戦いの中で落命し、ある者は責任をとって自刃した。
 さらに会津藩梶原平馬のように北海道の最果ての地で失意の日々を送り、蝦夷地の土と
 消えた人もいた。
・以来、東北は「白河以北一山百文」とさげすまれ、屈辱の日々が続く。
 これに鉄槌を加えたのが「原敬」であった
 原敬は、この戦争は新生日本の創世をめぐる意見の対立であり、南部藩は朝敵でも賊軍
 でもないと喝破したのである。
 薩長藩閥政治に真っ向から挑んた原敬は、大正七年、東北・越後発の総理大臣に就任、
 楢山佐渡の恨みを晴らすのである。
・「賊軍」南部岩手の汚名をそそぐことが原敬の生涯のテーマだったと言われているが、
 そうした薩長閥藩閥の近代を通じて抑圧された東北には、二つの民族的抵抗と夢が生ま
 れる。
 ひとつは、天皇の統率圏内に入り、直属の帝国陸海軍のエリートとして忠誠度を証明す
 ること。
 もうひとつは、日清・日露戦争を経たあとの東北論の夢だが、日本という狭い島国意識
 を捨て、貨物の新航路や大陸横断の鉄道を次々と開拓して拡大する世界資本主義の「交
 通革命」と直結させて、東北を一大貿易センターに変貌させる。そのことによって藩閥
 政府ニッポンを凌駕しようとした「東北ナショナリズム」の高揚である。
・前者は岩手県を日本有数の軍人大国にした。
 例えば「東条英機」陸軍大将の父・「東条英教」中将は盛岡藩出身である。
 満州事変の黒幕・「板垣征四郎」陸軍大将(岩手町)、「斎藤実」海軍大将(水沢市)、
 「米内光政」海軍大将(盛岡市)。
 さらに忘れてならない、ハワイ奇襲の日米開戦に踏み切った海軍大臣「及川古志郎」は、
 新潟県古志郡に生まれ、盛岡で育つ。
 満州事変の板垣、大東亜聖戦の東条、日米開戦の及川、終戦を演じた米内・・・言い過
 ぎを承知で言えば、大東亜戦争をおっ始めたのも、終わらせたのも、岩手の輩なのであ
 る。
・そうした「奥羽越列藩同盟の怨念」とでも呼ぶべき思想潮流を代償したのが山形県酒田
 市出身の「石原莞爾」だった。
 石原は板垣征四郎と組んで満州事変を起こし、帝国陸海軍(薩長支配)システムへの
 「下剋上」の先鞭をつけた。
 石原の血脈をたどれば、満州国建国とは単なる帝国主義的野望ではなく、東北的「反逆」
 の情念がそこに注ぎ込まれていることがわかるだろう。
・すなわち石原莞爾の父親・啓介の父・重道は、文久三年に「新徴組」の人選掛、慶応元
 年(1865)には、新徴組の取締役に進んでいる。
 江戸の新徴組は、京都の新選組と同様に(山形)省内田川郡の「清河八郎」の提議によ
 り作られた浪士隊である。
 慶応三年の庄内藩による江戸薩摩藩屋敷の焼打ちは、藩兵と新徴組の協同により行われ
 た。
・そしてふたつめの、後者の「東北ナショナリズム」のほうも世界「交通革命」と結びつ
 き、薩長支配の封建的なニッポンとは一味違う、もっと自由で理想的な「新天地」満州
 国を建設するという、フロンティアな”侵略の夢”につながってゆくのである。
 
魂立国
・20世紀東洋の「兵士みな殺し」近代兵器戦争の血みどろな実相は、まだ江戸幕末や文
 明開化からわずか30年ぐらいしかたっていない田舎共同体の民衆の理解の域を超えて
 いた。
 日露の戦死者が8万8千人余名が、満州、支那事変、大東亜戦争では240万余名に急
 上昇した。
・しかしこの「兵士みな殺し」の近代戦の苛烈さをただちには受容できなかった日本人は、
 なにもそういった「狐の里」の田舎共同体の人々だけではなかった。
 大アジア主義者・「松井石根」陸軍大将は、あの有名な「南京攻略(大虐殺)」の総指
 揮官をとったと言われ、凱旋した後の昭和15年、奇病な行動をとった。
・南京攻略戦の後、帰国した松井大将は熱海の伊豆山に観音堂を建てた。
 部下の戦没将兵だけでなく敵の中国兵も供養とするためである。
 中国の戦場から集めた土を陶工、加藤春二に託して観音像を焼いた。
 観音象の左右に安置された位牌には「支那事変日本戦没者霊位」「支那事変中華戦没者
 霊位」と記されている。
 この興亜観音の地には戦後、南京攻略戦の責任を問われて絞首刑になった松井大将本人
 をはじめ、東京裁判による7人の死刑者の遺骨もひそかに葬られた。
・つまりこれは、南京爆撃を含め、「兵士・住民皆殺し」の近代戦の苛烈さが、もはや自
 国民の戦死者だけを祀る「靖国システム」では通用しないほどの衝撃的かつ深刻なもの
 になったことを物語ってはいまいか。
・南京に現出した苛烈さが、日本人にとった、どの程度の質量をもつ衝撃波であったかを
 よく物語るエピソードがある。
 南京攻略の翌年の昭和13年に、岡山県の小さな山村、いわば「狐の里」田舎共同体の
 中で、「津山30人殺し」という日本猟奇犯罪史上最大の惨劇=大量殺人事件が発生し
 た。 
 死者の数だけで比較すりゃ、現代の地下鉄サリンの12名よりずっと多い。
 それを一人の犯人で、やってのけた。
 まあ、「異常中の異常」な事件と、歴史的に認定も終わっている事件だが、私はこの事
 件は南京攻略「虐殺」と連動して起きたという視点を持っている。
 外地で起きた日本の戦争史上最大の虐殺事件と、内地で起きた猟奇犯罪史上最大の殺人
 事件は心理的に密通しているのではないかと推理するのである。
・当時の警察調書にはこんな風に「30人殺し」の裏面史が書き残されている。
 原因は「結核」だったと。
 結核に感染した犯人のA夫が、夜這いの仲間のなじみ女たちから伝染をおそれて性交渉
 を拒否され、村人からも冷たい仕打ちを受け、逆上して起こした復讐の「一村皆殺し」
 だったというのである。
 しかし・・・だよ。
 治療薬ストレプトマイシンが流通する以前の昭和13年、岡山の訪韓暗黒農村だったと
 いう土地柄を含めてもだよ・・・、結核患者がそうした冷酷な差別を受けるのは、当時
 日本の地域共同体のどこでも横行していた一般的不幸、悲劇だったはずなんだよな。
 まあいわばそういう「普通」の出来事の中から、なぜわざわざ日本猟奇犯罪史上最大と
 いわれる「異常」=殺人「鬼」が生まれ出たのであろうか?
 
・「ハーバート・ビックス」は著書「昭和天皇」のなかで、稲作民族の神・天照大神の神
 統を継ぐ現人神としての「天皇信仰」が絶対的な形で成立したのは、明治天皇の時代よ
 りもむしろ昭和天皇の「即位式」以降だと指摘し、それを「新しいナショナリズム」
 (−八紘一宇の国体イデオロギー)と呼んでいる。 
 明治と昭和では、格段にウルトラ・ファッショ化して比較にならないほどだと言う。
 それは、ロシア革命→米騒動や大正デモクラシーなどの大衆民主主義の高揚に対抗し、
 それをおさえるために肥大化した帝国主義的エネルギーだった。
・日本がウルトラ・ファシズムに変化していったことの最も重要な触媒は「満州をどうす
 るか」だったのである。 
 そして、満州となれば、関東軍である。関東軍となれば、こうである。
 昭和三年八月の定期異動で、石原は陸軍大学校兵学教官から関東軍参謀に転じて来た。
 石原を招いたのは張作霖爆殺事件の仕掛人の「河本大作」であった。
 ここに満州事変の立案実行のための板垣・石原コンビが成立するわけである。
 石原が就任した関東軍は、当時、”小関東軍”という有り難くないあだ名があるくらい
 弱体な存在であった。
・ひとつだけ言っておこう。
 ”小”を”大”に変貌させていった熱源のひとつは、間違いなく日本本国内では「賊軍」
 として差別・嘲笑されてきた”奥羽越列藩同盟”の怨念がある。
 あるいは、コメ増産にための一種の”国内植民地”とされ、飢餓線上をさまよい、娘の
 身売りが常識となっていた山形や岩手、東北農村暗黒への憤りがあったろう。
 だから満州は、奥羽越列藩同盟系にとっては、新潟出身の親ユダヤ派の「安江仙弘」・
 大連特務機関長を含め、関東軍ナンバー3の板垣征四郎や石原莞爾らが、国内を支配す
 る薩長「藩閥」の監視網から離れ、自由自在に日本の未来を作画できる”解放区”となっ
 たのである。
 「満州」を自在化することによって、天皇をも動かせる=「賊軍」逆転の夢がいよいよ
 動き出したのだ。

・石原莞爾の最終戦争論は、別に彼の独創というよりは、当時の宗教的流行現象=終末思
 想(ハルマゲドン)のひとつ、つまり仏教的原理主義(日蓮主義)としてみなすべきで
 はないのかと、私は考察する。
 ただこれに、戦争作戦参謀の軍事技術的予見が組み合わせてあるところに、当時の機械
 文明技術オンチである極東日本の田舎大衆を幻惑する秘密があった。
・要するに石原は世界最終戦争論」のヴィジョンが先に出来ていて、それに沿って満州事
 変の鉄道爆破やら錦州爆撃などの軍事的陰謀(関東軍の暴走)を繰り返したということ
 だ。
 「最終戦争とは何か」・・・それがすべての始まりなのだ。
 トンデモ思想なのだ。
 彼の「世界最終戦争」が公衆の前ではじめて語られたのは、大正14年バルビンの国柱
 会信徒団体の講演会だったという。
 その時、石原は二年間のドイツ留学を終え、帰国の途中にあった。
・「信仰」と「空想」で、鉄道爆破されたり満州建国されちゃたまらないのだが、
 ここまでくると、ほとんどオウム麻原彰晃の「ハルマゲドン」(最終戦争に生き残る選
 民思想)と同じレベルの物語ではないだろうか。
 実際、石原莞爾がドイツ留学に旅立ったのは、大正12年、第一次大戦が終結して4年
 後のことだが、この頃欧米のキリスト教文化には一種のキリスト教原理主義的傾向=
 「ハルマゲドン}説が力を増していた時代なのだ。
・永久平和論というは「最終平和」の視点が、戦争が終わってから、核戦争下における米
 ソ共存の平和体制を予言していたとか、決選兵器として原爆ピカドンの東条を予見した
 とか、大評判を呼んで、軍事的天才・石原莞爾の名前は、戦後平和のなかでさらに高名
 なものとなっていったのである。
 彼を「原理主義者」と見る視点は、今なおひとつだにない。
 彼らはこれまでずっと「右翼革命ロマン主義者」という美名で、マイルド化されてきた。
・私が問題にしているのは、石原莞爾の”時間感覚”についてである。
 破壊兵器(決選兵器)が現実に開発されはじめているのに、彼はまだ「予言」の段階な
 のである。
 「リアル」と「ファンタジー」の決定的な時間差がある。
 すなわち彼は少しも”独創的な軍事の天才”ではない。異端でもない。
 むしろ日本帝国陸海軍の伝統的発想の上に忠実に乗っかった「軍人崩れ」だったように
 思える。
・私は、石原莞爾の「世界最終戦争論」とは、政界的な宗教「終末論」の大流行や日露戦
 争以来の戦争へ行き開発の夢といった、大衆や国家の精神構造と通底し合って形成され
 たもので、彼の独創的知性が切り開いた、まったく”新しい地平”だったとはどうしても
 思えないのである。
 百歩ゆずって、石原が原子爆弾を予見していたとしても、その決選兵器性が整うのは、
 30年後だと指摘している。
・しかし、石原が最終戦争論の全貌を語った昭和15年からわずか4年後、スターリンの
 ソヴェト赤軍が新兵器カチューシャ(ロケット連射砲)でナチス・ドイツ軍をなぎたお
 しながらベルリン攻略を目指した時、その最大の秘密指令はナチス研究所の「原子爆弾
 のノウハウ」の独占だった。 
 その切迫感にくらべたら、石原の原爆認識は”風呂の中で屁をこいている”ような、暢気
 な父さんの物語ではなかろうか。
・もうひとつだけ、「原子爆弾より百倍の破壊力をもった神話」のお話を付け加えておき
 たい。 
 なぜなら、ピカドン原爆二個の下に死んだ者の数は投下時4万人、戦後計33万5千人
 という驚くべき数であり、日本帝国を無条件降伏に追い込む破壊力を世界中に示した。
・しかし一方、日本近代「魂立国」の時代を通じてアマテラスの名のもとに積み上げられ
 た死者の数は、アジア2千万人、日本国内で3百万人と公的には言われている。
 原爆とアマテラスのどちらがより大きな破壊力を持っていたかは歴然ではないか。
・しかも、破壊したのは、人間の生命だけではない。
 天照大御神(アマテラス信仰)とは、一言でいえば徳川封建農村の白骨るいるいたる飢
 餓の暗黒の世を救う太陽神=「五穀豊穣」の農業神すなわち稲作「大和」民族の救世主
 として登場してきた「神道原理主義」である。
 アマテラスの下では、必ずや、稲・麦・大豆などの追う本の穂波とたわわな結実がムラ
 やマチや大東亜共栄圏の国々に満ち溢れるはずだった。
・しかし、現実にはどういう事態が起こったか。三例をあげる。
 @植民地朝鮮の米不足が日清戦争を引き起こしてゆく
 A当時世界最大規模の中国東北部における「大豆モノカルチャー圏」の徹底破壊
 B大東亜共栄圏が世界最大の米生産国の東南アジア諸国を米不足と飢餓に追い込んでゆ
  く 
・まず隣国の朝鮮半島で、稲作の神アマテラス・ン本が起こした代表的な破壊
 日本商人は、農村のあちこちで米を買いあさったので、わが国(朝鮮)の農村では米が
 不足して農民の生活が困難となった。
 穀物の流出を禁止する防穀令を出すと、日本政府は問題があるといいがかりをつけ、
 朝鮮政府に賠償を要求した。
 こうした状況からわが国(朝鮮)の農民たちは、日本の経済的侵略に強い反感を持ちよ
 うになった。
・なぜ日本商人が米を買い占めたのか。
 米の生産も伸びたが、生活水準の向上で農村でも米食が普及した上に、日本全体の人口
 増加もあって、米は不足がちになった。
・つまり不足した米を、日本は朝鮮への「経済的侵略」で解消したのである。
・日本の経済的浸透により農民の生活が困難となった。
 しかし(朝鮮)政府は、農民の苦しみを解決できなかった。
 そこで農民たちは、外勢の侵略を退け、国を守ろうと大規模な農民運動を起こした。
 これが有名な朝鮮農民蜂起=「東学党の乱」である。
 農民蜂起はまたたくまに全羅道全域に広がり、東学農民軍はついに全州を占領した。
 これを鎮圧する自信をなくした政府は秦に軍隊を派遣してくれるように要請。
 清が軍隊を派遣すると、日本も朝鮮にいる日本人を保護するという口実で軍隊を派遣し
 た。
・この日清両軍がぶつかって、とうとう日清戦争がおっ始まったのである。
 だから、日本の米問題が朝鮮の農民一揆と昼間両国崩壊の大戦争を引き起こしたのだと
 いう。 
 これまであまりスポットを当てられなかった「経済侵略」の側面が日韓双方の中学校教
 科書を併せ読むとよくわかってくる。
 つまり自国の急激な近代化が作り出した農村暗黒を他国に肩代わりさせて生き延びる明
 治時代の日本人のゴーマニズム精神=農村メシア「アマテラス原理主義「」のトンデモ
 ナイ詐欺的救済の実像がくっきりと浮き彫りにされるのだ。