ジョン万次郎 :童門冬二

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この本は、今から26年前の1997年に刊行されたもので、ジョン万次郎こと中浜万次
郎の生涯を物語にしたものだ。
万次郎は、現在の高知県土佐清水市中浜の貧しい漁師の次男として生まれた。万次郎は9
歳の時に父親を亡くし、幼い頃から稼ぎに出て家計を支えていた。
しかし、天保十二年(1841)に14歳だった万次郎は、仲間と共に漁に出て嵐に遭い
遭難した。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島の「鳥島」に漂着した。そこで万次
郎達は過酷な無人島生活を送った。そして漂着から143日後に、万次郎たちはアメリカ
の捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられたのだ。この出会いが万次郎の人生を大
きく変えることとなった。

万次郎たちは、ハワイで降ろされたが、万次郎のことを気に入った船長は、万次郎をアメ
リカに連れて行った。そして養子として万次郎を学校に通わせたりして育てたのだ。
当時のアメリカは、まだ奴隷制があった時代で、有色人種であった万次郎は、やはり周囲
からは白い目で見られたようだ。
そんな中でも万次郎は負けじと英語・数学・測量・航海術・造船技術などを熱心に学び、
首席になるほどだったという。そして一等航海士の資格を得たのだ。
やがて、アメリカは、ゴールド・ラッシュの時代に入り、捕鯨は下火となってしまったの
を契機に、万次郎は日本に帰ることを決意する。
そして、嘉永四年年(1851年)現在の沖縄県に万次郎たちは帰国上陸した。
しかし、日本に帰ってきても、当時の江戸時代は鎖国政策をとっていたため、アメリカの
スパイではないかと疑われ、長期間にわたって厳しい尋問を受けた。
そして2年後の嘉永六年年(1853)に、やっと生まれ故郷の土佐に帰ることができた。
万次郎はその後、高知城下の藩校「教授館」の教授となり、藩士たちに英語を教えたよう
だ。しかし、鎖国時代の藩士たちの多くは、英語を学ぶことの意義を見出せず、真面目に
学ぶ藩士は少なかったようだ。
そんな状況に立たされた万次郎は、次のような言葉をつぶやいたという。
「学ぶ気持ちがなければ、何を教えたってだめだ」
「どうしても、それが必要なのだ、という気持ちを持たない限り、学問は身につかない」
まったくその通りだと思った。

その後、ペリー来航により日本は岐路に立たされることになる。万次郎も、幕府から江戸
に招かれたり、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団に同行した
りすることになるのだが、万次郎が表舞台に立つことは決してなかった。
それはなぜだったのだろうか。

万次郎に限らず、私が今まで読んだ本で、海外の文明国の知識を身に付けて日本に帰国し
た貴重な人物が、下記のように何人かいたのだが、どの人物も万次郎と同じように、表舞
台に立った例は見られない。
どの時代においても日本という国は、そういう貴重な人物を活かす素地がまったくない国
なのかもしれないと思った。
それでも、万次郎が日本の幕末の歴史に与えた影響は少なくなかったと思える。
天正遣欧少年使節     1582年〜1590年 ローマ、スペイン、ポルトガル
慶長遣欧使節(支倉常長) 1613年〜1620年 メキシコ、スペイン、ローマ
大黒屋光太夫       1782年〜1792年 ロシア
ジョン万次郎       1841年〜1851年 アメリカ

ところで日本には、江戸時代のころから、
「国民には何も知らせる必要はない。ただ、政府に頼らせておけばよい」
という考えが浸透し定着してきた。
それは、民主主義の国になったと言われる現代においてもあまり変わっていないように感
じる。特に近年の政治を見ると、日本はこれで果たして民主主義の国なのかと思えるよう
なことが多くなった。
江戸時代に万次郎がアメリカの民主主義を見聞きして日本に帰国したときに感じたことと
同じようなことが、現代の日本においても感じることが多いのだ。
これは結局、江戸時代の日本人も、現代の日本人も、根本的なところで変わっていないか
らなのだろうと思った。

過去の読んだ関連する本:
高山右近
侍(支倉常長伝)
日本人漂流物語


おそろしい日本の国
・「日本だ!日本に帰ってきた!」
 どんどん近づいてくる海の上の島を見て、伝蔵が喜びの声をあげた。
 しかし、島の姿は、万次郎の知っている日本ではない。
 万次郎が生まれ、育った土佐の風景とは全く違うのだ。
 島は沖縄だった。
・アメリカを出るとき、多くの船長が万次郎にいった。
 「日本という国は、世界でいちばん野蛮な国だ」
 国民の生活が野蛮だというのではない。外国に対する扱いが、まったく乱暴だ、という
 のである。 
・「航海しているとき、食糧や燃料が足りなくて、どうしても、近くの陸地で、足りない
 ものを補給しなければならないことが起こる。
 日本は、こういうとき、絶対に助けてくれない。助けてくれないどころか、船を追っ払
 うのだ。もし、無理に上陸でもすれば、上陸した外国人は殺されるか、死ぬまで牢に閉
 じ込められたりする。ほんとうに、日本という国はおそろしい・・・」
・そういうことをするのは、すべて、250年前にいまの日本の政府をつくった、徳川家
 康の考えを忠実に守っているからだ、という。
・日本は、海をわたって、よその国に出かけていかないかわり、海を渡って日本にやっ
 てくる外国人も国に入れない、という考えを持ち続けていた。
・日本が、大して目立たない国であったことも幸いして、つい最近までは、日本に近づく
 外国の船も少なかった。オランダだけが、九州のひとすみで貿易を続けてきただけだ。
・だから、その意味では、250年もの長い間、日本が外国と戦争もしなかったし、よそ
 の国の戦争に巻き込まれる、ということもなかった。
 また、国内でも戦争はなかった。
・”鎖国”と歴史の上で呼ばれている日本のこの制度は、戦争がなくて平和だった、とい
 う点では、確かに、そういう効果はあった。
・四国の沖で難破し、海を流れ流れて、ついにアメリカの船に救われ、ハワイやアメリカ
 本国で長い間暮らした万次郎は、日本の人間が想像もしないような考え方を身に付けて
 いた。 
・それは、「人間はどういうふうに生きることが、いちばん幸せなのか」あるいは「正し
 いか」ということであった。それは、いまの日本人の生き方を根元からひっくり返すよ
 うな考え方であった。
・日本は追っ払われた船がみんな日本を憎めば、日本は世界中の強い国に押しかけられる
 だろう。
 (そんなことになったら、日本は、第二の清になってしまう)
・隣の清国は、政府がしっかりしないために、いろいろな国に、つぎつぎと港を奪われて
 いた。奪われた港は、そこでどんな犯罪が起こっても、治外法権のために、清の法律で
 は取り締まれない。事実上の外国領土になってしまうのだ。国民にとって、こんなくや
 しいことはない。 

・万次郎と伝蔵・五右衛門の兄弟をここまで運んできてくれた船「サラ・ボイド号」は、
 水平線のかなたに遠ざかっていった。
 すでに万次郎たちを発見した島の人数人が、岸に集まって、がやがや騒いでいる。
 万次郎は知らなかったが、そこの浜は沖縄の南端、摩文仁である。
・急に島の人たちがぱっとわかれた。砂を蹴散らして、向こうからサムライがひとり、馬
 に乗ってやってきた。
・サムライは威張っている。鞭で島の人たちを虫けらのように追い払う。万次郎はちょっ
 といやな気がした。
・サムライは、この島を占領している薩摩藩の役人である。薩摩からきて、沖縄を監督し
 ているのだ。
・(島の人たちは、だいぶいじめられているな。)
 役人を迎える島の人たちのお辞儀の仕方や、顔の現れた怖れで、万次郎はそう感じた。
 こういう奴がわけもわからずに、外国の船を追い払うのだ。万次郎はそう思った。
・役人は厳しかった。万次郎たちが日本人だとは、絶対に信用しなかった。
 「怪しい外国人」として、万次郎、伝蔵、五右衛門の三人は、さらに厳しい取調べを受
 けるために番所に連れていかれることになった。 
・(日本はおそろしい国だ)
 今度は、自分のこととして、万次郎は、心の底から、そう思った。
・「どうも、お前たちは怪しい。那覇に連れて行って、本格的に調べるから、一緒につい
 てこい」と役人は命令した。
 那覇には、薩摩藩から沖縄の島を見まわる奉行がきていた。その奉行に調べさせようと
 いうのである。
・泥まみれのまま、やっとの思いで那覇に着くと、役人は一軒の汚い小屋に万次郎たちを
 追い込み、小屋のまわりに竹で組んだ囲いをした。見張りの番人がついた。
・まるで檻である。その檻の中で、万次郎たちは獣のように扱われた。もっとも、その役
 人は、万次郎たちを日本人だとは思っていなかったから、役人にすれば、当たり前のこ
 とをしたまでである。 
・役人の調べは予想以上に厳しかった。役人は、早くこの島から出て、薩摩に戻りたいと
 思っていたので、何とかして点数を稼ぎ、奉行にほめられようと思っていた。
 それには、万次郎たちを日本人と認めず、アメリカのスパイにしてしまうことが、一番
 の手柄になる、と思った。
・1841年(天保二年)15歳で土佐の中浜から領に出たときのことを、万次郎は何度
 も話した。しかし、役人は信じなかった。
・調べは、四国の海で嵐にあい、最初に漂流した鳥島のところまできていた。
 鳥島は無人島である。万次郎は、五か月の無人島での生活を離したあと、海上に、大き
 な帆船が救いに現れたことを話しはじめたところである。
 その帆船は、「ジョン・ハウランド号」というアメリカの捕鯨船だった。
・万次郎は証拠として、アメリカから持ってきた航海の本や、方位をはかる計器、それに、
 母へのお土産に買った時計などを示した。
 本の内容や計器を使う目的を話したが、役人にわかるはずがなかった。 

冒険のはじまり
・1841年(天保二年)万次郎は家を出た。
 「舟が出るぞ!」
 浜で寅右衛門が怒鳴っている。
 (おれも、たこをあげて遊びたい・・・)
 「万次郎、早くいかないか!お前が漁に行かなければ、うちは、もう食べるものもない
 んだよ!」
 母の声は、決して万次郎を咎めているのではない。14歳の万次郎が、まだ遊びたい気
 持ちが、母にはよくわかるのだ。
・しかし、土佐のこの貧しい漁村では、そんなことは許されない。万次郎のような少年で
 も働きに出なければならない。貧乏な村で生まれたら、死ぬまで貧乏なのである。
・万次郎には、兄が一人いたが、毎日、酒ばかり飲んでいた。
 「いくら働いたって、人並みの暮らしができる日なんて、絶対にない」
 と、兄は、この村で働きがいのなさに、愛想をつかしていた。
・世の中は不公平だ、と思った。
 金持ちの子は生まれたときから金持ちで、貧乏人死ぬまで貧乏人だ、というのは、何か
 世の中が間違っているような気がした。
・万次郎の家は、また特に貧しく、漁師なのに舟がない。漁師で舟がない、というのは致
 命的だった。 
 他人の漁を手伝って、わずかばかりの金や魚をもらって暮らすより、仕方がなかったの
 である。舟を持っている漁師は、自分の儲けを多くするために、万次郎のようなアルバ
 イトの賃金を安く値切ったり、魚もくずのようなところしかくれない。
・貧しさと、貧しさからくる辱めとの二重の敵と、万次郎はいつも闘ってきた。
 その戦いが万次郎を強くした。大抵のことにはびくともしない性格の強さを、土佐の厳
 しい条件が万次郎に与えていた。
・舟は五人乗りだった。乗組員は、船長の筆之丞(伝蔵の前の名前、38歳)、その弟の
 重助(28歳)、その下の弟五右衛門(16歳)、他に雇われた寅右衛門(27歳)、
 そして万次郎である。
・万次郎が乗りこんだ漁船は全長約8メートル、小さい舟である。
 当時、徳川幕府は、大きな船を造ることを禁止していた。日本人が、外国へ行くことを
 許さないための処置である。 
 だから、漁といっても、舟は決して遠くへはいかない。いや、いけない。遠海へ出れば、
 魚がたくさん獲れることがわかっているのだが、舟が小さいので出られないのである。
 これが”鎖国”を守る幕府の漁民政策なのだ。
 
・「あれはなんだろう?」
 重助が空の一隅を指さした。黒い雲が一面の空をおおっている。その暗い重さが不気
 味だ。
 「嵐がくる!」
 「延縄をあげろ!」
 筆之丞が命令した。
・「嵐が来るまでに、間に合うか」
 それだけが共通の心配だった。
 雨が降り始めた。雫が二つ、三つ、五人の頬をたたいた。と思ったつぎの瞬間、雨は棒
 になり、林になった。 
・「もう、やめよう」
 筆之丞がいった。しかし、重助が言い返した。
 「せっかくここまでやったんだ。残りは少しだよ。全部ひきあげよう。せっかくのアジ
 がもったない」
・突然、ぼきっ!と大きな音がした。五右衛門が悲鳴をあげた。
 「櫓が折れた!」
 櫓は櫂と舵がとりつけてある台だ。これがなければ舟は進まない。みんな真っ青になっ
 た。
 櫂を 縄で結びつけろ!」
 筆之丞の命令で、万次郎は船尾に走った。
・残った櫂を縄で船尾に結び付けようと、力を振り絞ったが、波の方が万次郎より力が強
 かった。櫂と一緒に、波は万次郎を舟から連れ去ろうとした。万次郎は頑張った。
 しかし、ついに我慢できなくなって、万次郎は櫂を放した。櫂はたちまち、大波を越え、
 手の届かない遠くへ連れ去った。 
・(これは、大変だぞ)
 筆之丞が一番、この嵐の恐ろしさを知った。今までに、一度も経験したことのない大き
 な嵐なのである。
・夜が明けた。嘘のように嵐は静まっている。
 しかし、その波の上を、舟はなんという速さで流されていることか。
 飛ぶように海を走っているのである。潮流に乗ったのである。
 その潮流は、家のある村とは全然別な方へ流されていた。
 懐かしい室戸岬や足摺岬が、五人の目の前からどんどん左へ遠ざかって行く。
・やがて、紀州あたりの山々を最後に、陸は完全に見えなくなった。見えるのは、もう海
 だけである。 
・食糧も水もすでになかった。五人は、嵐の日にとったアジを食べていた。
 アジは、腐りやすい魚なのだが、幸いなことに、今は冬だった。
 火種も火打石も波にさらわれてしまったので、焼くことも煮ることもできない。
 アジは、生で食べるより仕方がなかった。最初はうまかったが、すぐ飽きた。
・八日経った。行く手に島が見えた。このへんになると、もう、誰も知らない世界だった。
 とにかく生まれてはじめて、こんな遠くの海へ来たのだ。
・次第に近づく島は、亜熱帯植物に満ち満ちていた。日本の風景ではない。
 五人は、ともかく水が欲しかった。新鮮な食べものが欲しかった。
 水と食べものの欲望に負けて、五人は、島の姿がはっきり目に映ったとき、ついに我慢
 できなくなって海に飛び込んだ。  
・あたり一面岩の壁だった。草木などほとんどない。
 「無人島だな」
 筆之丞がつぶやいた。
・五人は知らなかったが、この島は、いまの鳥島であった。
 土佐の中浜から室戸岬、潮ノ岬の沖と東を流され、そこから伊豆七島を左に見ながら南
 に流されて、ついに鳥島まで流されてしまったのである。
・その頃、日本では「遠島」といって、罪人を島に流す刑罰があったが、それでも、せい
 ぜい八丈島ぐらいまでで、こんな遠い島まで流されることはなかった。  
・(もう日本には帰れないのではないか・・・)
 島の位置がわからないながらも、五人の不安はますますつのった。
・(こんなところでは船も通るまい・・・)
 筆之丞がぽつんと言った。五右衛門が泣き出した。
・夕方までに、万次郎は一人で、ほら穴の中に藁の寝床を五人分つくった。
 火打石は海のなかに落としてしまったので、火をおこすことはできなかったが、アホウ
 ドリを二、三羽つかまえて殺し、その肉を石でたたいて、生の刺身をつくった。
 ほかに海草を拾ってきて、鳥の刺身のそばに添えたりした。
・(よく探せば、魚も採れる。貝も採れるだろう。この島は、案外、楽しい暮らしができ
 るところかもしれないぞ)と思った。
・島は、目測で、わずか4平方キロメートルくらいしかないことはすぐにわかった。
 また、木も草もはえていないことも、わかった。
 「岩だけだ・・・」
 万次郎は、そう思った。
・おそらく、こんな島に何カ月も暮らしていたら、気が狂ってしまうにちがいない。
 食べるものもなければ、助けにきてくれる船もそばを通らない。
 それは、万次郎たちが、約五か月のあいだ、航行する船が一隻もないことでわかった。
・こういう逆境になると、やはり、生まれたときから貧乏とたたかってきた万次郎のほう
 が強かった。体も強かったが、それ以上に、気持ちの持ち方が強かった。へこたれない
 ぞ、という闘志が次々とわいてくるのであった。
・危機がきた。水がなくなったのである。万次郎たちが、この島についてからほとんど雨
 が降らず、岩のあいだにたまっていた水も、しだいに底が見えてきた。
 ものがなくなると、人間の心は変わる。いやしくなるのである。
 残った少ない水を見つめる五人の目つきが変わってきた。のんびりと、自由に飲んでい
 た水を、やがて、奪い合うようになった。他人をつきのけても飲む。
・アホウドリも、もう、まったく人間のそばに寄りつかなくなった。
 アホウドリが捕れなくなると、食べるものが減り、食べるものが減ると、その不満はす
 べて万次郎にぶつけられた。
・「さぼってないで、ちゃんと食べるものを捕ってこい」
 四人は何もしないくせに、口々にそんなことを言った。
 今頃になって、「お前は使われている身だぞ」と、万次郎が使用人であることを言うの
 だ。

・島の夏がきた。海の色が変わった。空の色も変わった。太陽の光がいっぺんに強くなっ
 た。
・海が暖かくなったせいか、ときどき、澄んだ水のなかをサメが泳いでいるのが見えた。
 掴まえたいな、とは思ったが、銛も釣り針もない。どうやって掴まえるか。
 万次郎は、サメの癖を知っていた。
 サメは、海の底で岩の穴を見つけると、そのなかに頭を突っ込むのである。頭だけだ。
 胴から尻尾は、そのまま出している。
 でも、南海のサメも、それと同じ癖をもっているのだろうか。
・「サメを掴まえたら、合図する。すぐひいておくれ」
 そういうと、ざぶんと海のなかに飛び込んだ。さすがに水は冷たかった。
・すぐにはサメが見つからず、万次郎は、何回か水面に顔を出して、笛をふくような呼吸
 をした。四回目に潜ったとき、万次郎は、10メートルばかりの海底の岩穴から、青灰
 色の胴体と尻尾を出して、砂の上に体を置いているサメを見つけた。  
・万次郎は、腰に巻き付けていた綱をほどいた。その先を、サメの胴体に巻き付ける。
 体が触られているのに、サメは動かない。
 固くサメの体を縛り終わると、万次郎は綱をひいた。上にいる五右衛門への合図である。
 ところが、綱はひかれていない。万次郎はもう一度ひく。すると、ひいた綱がそのまま
 ずるずると手元にきた。 
・「だめだな、あいつは」
 仕方がないので、万次郎は、綱をあわてて握り、その先を持って、水面へ向かって上が
 りはじめた。一人でサメを引っ張りあげるつもりである。
・思い切り呼吸をして、岩の上に這いあがり、さて、綱を引き上げようとした途端、万次
 郎は、すぐ脇の高い崖の上で、「おーい!おーい!」と、狂ったように、自分のぼろ
 ぼろな着物を振っている五右衛門を見た。
 そして、五右衛門が、狂ったように着物を振っている方角を見て、思わず、
 「あっ!」
 と、声をあげた。船だった。
 それも、今まで見たこともない大きな帆船が、くっきりと海の上を進んでいた。
・そして、万次郎自身も、狂ったように、
 「おーい!おーい!
 と、その着物を振り出した。
・サメのことなどすっかり忘れてしまった。ちぎれるほどに着物を振り続けている万次郎
 と五右衛門の姿は、命ぎりぎりに生きてきた人間の、ぎりぎりの気持ちがあふれていた。
 白い帆船は、波をたてて、まっしぐらに、この鳥島に向ってきた。
 
マスコット、ジョン=マン
・鳥島から万次郎たちを救ってくれたアメリカ船、ジョン・ハウランド号の乗組員たちは、
 命の恩人である。いくら感謝しても、感謝しきれない。
・本当は、ジョン・ハウランド号は、鳥島にいた万次郎たちに気がついたわけではなかっ
 た。ウミガメの肉が食べたくて、島にさがしにきたのである。
 「ブタや牛は食べ飽きたな」
 乗組員みんながそう思ったので、よし、それでは、と代表がボートに乗ってウミガメを
 さがしに出かけてきたのである。
 だから、万次郎たちは、ウミガメのかわりに発見されたのである。
・身長2メートル、体重70キロぐらいの大男ばかりである。頭もちょんまげではなく、
 短く切り、着ているのもおかしい。第一、刀をさしていない。
 (やはり、異人はけだものだ・・・)
・日本では、外国人のすべてが南蛮人とかメリケン人とかいわれて、まるで、人間ではな
 いみたいに教え込まれていたからである。  
・船の外国人たちは親切だった。
 甲板の上にあげられると、すぐタオルを持ってきてくれたし、食べ物もくれた。食べ物
 は、蒸したジャガイモに、塩をふってあった。
 万次郎たちは、むしゃぶりついた。水もくれた。
・船員たちは、愛情に満ちあふれていた。漂流した五人の日本人を、気の毒だと思ってい
 たのである。五か月も無人島で頑張った日本人を、偉いと思っていたのである。
・万次郎たちは、アメリカ人を知らなかったが、アメリカ人は日本人を知っていた。
 そして、徳川幕府のやり方もよく知っていた。その幕府のやり方が厳しいために、万次
 郎たちがこんな辛い目にあうのだ、と思っている。
・乗組員たちが、5人の漂流者のなかで、特に関心をもったのは万次郎である。
 万次郎が一番小さかったからだ。
 (こんな小さな少年が荒海に出ていたのか・・・)
 みんな、そう思っていた。
・イモのあとに、船員はスープを持ってきてくれた。イモや、ニンジンや、肉の塊が入っ
 ている。肉はブタだ。 
・日本人はその頃、ブタや牛など、絶対に食べないのだから(仏教が、ブタや牛の肉を食
 べてはいけないと教えていた)、万次郎には何の肉かわからない。訊くにも言葉がわか
 らない。 
・(うまい肉だな)
 と思いながら、スープを飲み飲み、食べてしまった。
 筆之丞や五右衛門たちは、味噌汁以外飲んだことがないので、あまりにも脂臭い汁にま
 いって、すぐに吐き出してしまったが、万次郎だけが平気だった。
・「マンジロー」という名を、船員の誰かが、ジローを削って「マン」にした。
 そのかわりに、マンの上に船の名をとって、ジョンという名をつけた。
 万次郎は、いつの間にか、「ジョン=マン」と呼ばれるようになった。
 
・ジョン・ハウランド号がクジラをとっている頃のクジラのとりかたは、見張りが望遠鏡
 で海を見つめ、クジラを見つけると、合図する。 
 合図とともに、いっせいにキャッチャーボートが何叟も海におろされ、銛を持ってクジ
 ラに迫っていく。
 クジラに近づくと、次々と銛を打ち込むのだ。銛には綱がついている。
 銛をさされたクジラは、必死になって逃げる。
 船乗りたちは、綱の端を握り、クジラが疲れるまで、ボートを走らせる、というより、
 クジラに曳きまわされる。
・だから、相当、危険だった。特に、死に物狂いでクジラが逃げ回るとき、しがみつくよ
 うにして、綱を握ってボートを引きずられるときは、よほど気をつけないと、ボートは
 転覆する。
 こうして、今までに、どれだけの船員が死んだかわからない。まさに、クジラと命がけ
 の戦いになるのである。 
・万次郎は、すでに、かなりの英語を覚えていた。難しい言葉でも、なんども口のなかで
 反復して覚えるようにつとめたので、船の上での生活に必要な言葉は、ほとんどマスタ
 ーしはじめていた。ほかの筆之丞たち四人は、この点、だめだった。

・「私が見張りに!?なぜですか?」
 船長は、万次郎を見つめ続けて、
 (この少年は、とても勘がいい・・・)と感じたようである。
 「見張りが熱を出して寝てしまったのだ。代りを務めてもらいたい」
・万次郎の血は踊った。体じゅうが熱くなった。
 助けてもらった恩返しができる、と思ったからであり、また、日本では想像もつかなか
 ったアメリカ船の乗組員としての仕事に携われる、という喜びからであった。  
・20メートルほどの高さのマストの上の方に見張り台がある。籠のように、まわりを囲
 っただけの台だ。
・万次郎は見張り台にたどり着いた。相当に高い。下から見ていると、大したことはない
 ようだったが、登ってみると、眼がくらくらする。
 それに、甲板ではそれほど感じなかった船の揺れがすごい。ぼやぼやしていると、台の
 上から海へ投げ出されそうだ。あわてて、囲いのついた籠につかまりながら、万次郎は
 遠くを見た。
・万次郎は、アメリカ人というものを、少しずつ見直しはじめていた。
 (野蛮人だ、けだものだ、というのはどうも嘘みたいだ。日本人よりよほど親切だし、
 それに、色々なことを知っている。魚のとりかたも、船の造り方も、船の操り方も、何
 でもかんでも日本より優れている。こういう人たちを、ただ、日本に近づいた、という
 だけで追い払うのは、日本のために不幸なのではないか) 
・突然、万次郎は、船の右側前方に、青灰色の小さな山を見た。一つではない。三つある。
 うねる波に合わせるようにして移動している。
 目をこらす万次郎の前で、その青灰色の山の一つが、白い水を噴き上げた。
 噴水のようである。
・「クジラだ!」
 万次郎は緊張した。クジラは、もう一度潮を噴き上げた。万次郎は怒鳴った。
 「クジラだ!クジラだぞ!」
 怒鳴りながらも、指を突き出して泳いでいくクジラの群れをしめす。
 甲板の上は大騒ぎになった。船長も飛び出してきた。
 万次郎の示す方向を見て、船長は大きくうなずいた。
・船側に綱で吊るしてあったキャッチャーボートに、長い鎗のような銛を持った船員がつ
 ぎつぎと乗り込み、ボートはずるずると海の上におろされる。そのまま、高い波のうね
 りをこえて、クジラの群れを目指し、オールを漕いでいく。 
・船長の命令で甲板に降り立った万次郎を、
 「ワンダフル・ボーイ!」
 と、ホイットフィールド船長は、頭をなでた。
 そして、水夫に新しい水夫帽を持ってこさせると、自分で万次郎にかぶせた。
 水夫帽をかぶせたのは、これからは一人前の水夫として扱う、ということである。
・その日から万次郎は、正式の見張り員になった。
 そして、万次郎の手柄ばかりではなかったが、ジョン・ハウランド号は、万次郎を乗せ
 てから五か月のあいだに、大漁につぐ大漁にめぐまれた。
 基地であるマサチューセッツのフェアヘイブン港を出たのは、1839年だったから、
 もう3年経つ。  
・最後の年で、前の二年六か月分を超えるほどのクジラを捕った。
 当時、クジラは、主としてその油が大切にされ、アメリカの人々の燈火は、ほとんど家
 のなかでも、町のなかでもクジラの油が使われていた。
 ジョン・ハウランド号が目的としていたのも鯨油である。
・その年の12月、ホノルルに着いた。日本人によく煮た島の人たちは、底抜けに朗らか
 で、親切だった。
・ホノルルの上陸する前、ホイットフィールド船長は、五人の漂流者に言った。
 「君たちは、この島で降ろす。ここで、日本に行く船を待ちなさい」
・五人は顔を見合わせた。
 日本の法律は厳しい。このまま帰れば、おそらく咎めを受ける。簡単には許してくれな
 いだろう。 
・それに、ハウランド号の航海中に味わったアメリカ風の自由な生活は、何となく五人を
 とりこにしていた。
 (人間は、こんなにものびのびと生きられるのか)
 という思いが、みんなの心にいっぱいあふれている。ハワイの島の人は、さらに、何の
 屈託もなさそうだ。あくせく働かなくても生きていけそうである。
・「しばらくここで暮らそうか・・・」
 五人の意見は一致した。
 そのことを、ホイットフィールド船長に言うと、船長は、
 「それはいい!」と大きくうなずいた。
 うなずいたあと、ちょっと顔を赤くして、もじもじしながら、
 「ただし、ジョン=マンはアメリカに連れていきたい。私の子供にして、アメリカの教
 育を受けさせたい」
・驚いたことに、万次郎は、
 「船長と一緒にいきます」
 「わたしは、もっとアメリカのことを勉強したい。船のことも、漁のことも・・・」
 万次郎はそう答えた。答えたが、本当の気持ちは、もっと別のところにあった。  
・万次郎が勉強したいと思ったのは、船や漁のこともだが、それ以上に、こういうのびの
 びした人間が育つアメリカという国は、一体、どういう国なのだろうか、ということな
 のだ。
・一月、ジョン・ハウランド号は出帆した。
 この日、万次郎を見送った四人のうち、重助だけは、二度と万次郎に会うことができな
 くなる。
 なぜなら重助は、この日から五年後に病気になり、そのままハワイで死んでしまうから
 である。

黄色い少年
・1843年5月。万次郎を乗せたジョン・ハウランド号は、アメリカ東部マサチューセ
 ッツ州のフェアヘイブン港に入った。
 船は、海からそのままアキューモネット川を遡る。
・とうとう帰ってきたな・・・」
 ホイットフィールド船長はが、万次郎の肩に手を置いてそういった。
 船長は、家族をみんな亡くし、本当は、一人ぼっちなのだが、それでも、故郷に帰れた
 ことはうらしかったのに違いない。
・男手一つでは万次郎を教育したり、生活の面倒をみたりすることが不便なので、ホイッ
 トフィールド船長は、万次郎を、部下の三等航海士ジョン=アスキンのところにあずけ
 た。
・この頃の万次郎は、ホイットフィールド船長のおかげで、アルファベット26文字も覚
 えていたし、簡単な会話や文章は、すらすらできるようになっていた。
 ちょんまげも切り、服も水夫のものをもらっていた。
 しかし、形だけはアメリカ人でも、中身は違った。
 何と言っても、肌の色が違うのだ。白色人種のなかに混じると、東洋の黄色人は、目立
 った。どこを歩いても、すぐにわかる。
・万次郎と一緒に船の上で暮らした船員たちは、道で会うと、懐かしそうにやさしい声を
 かけてくれるが、一般の町の人はそうはいかない。珍しそうに万次郎を眺めた。
 その目が、やはり、人間を見る目つきではない。どこかの野蛮人を見るような顔だ。
 というのは、この頃、アメリカにはまだ、黒人を奴隷にして使う、という悪い習慣があ
 った。 
・万次郎がアメリカに着いてから七年ぐらい後に、リンカーン大統領が、
 「黒人も、立派なアメリカ人である」
 と宣言して、奴隷制をやめるのだが、この頃は、黒人はかなり蔑まれていた。
 万次郎は、肌に色がついているので、この黒人と同じように見られたのである。
・万次郎が、アメリカで何を学ぼうとしているかを敏感に見抜いていたホイットフィール
 ド船長は、万次郎を街の教会学校に連れていった。
 しかし、どの学校にいっても、万次郎は、黙って首をふられた。その仕草は、はっきり
 万次郎の入学を拒んでいた。
・(自由なアメリカにも、こんなところがある!)
 人間が人間を蔑み、区別する。悲しいことだし、アメリカにとって大きな恥ではないか。
・(いいところばかりの国ではない)
 利口な万次郎は、表面は民主的で自由なアメリカの、隠された部分を鋭く見抜いた。
 しかし、その恥を、何とかして無くそうとつとめている、ホイットフィールド船長のよ
 うな立派な人がいることも、正しく認めた。
・いくつかの学校をまわり、万次郎は、ついに、ユニテリアン派教会の学校に入れてもら
 えた。この派は、同じキリスト教でも、人間に対して、差別したり、間違った考えをも
 ったりしなかった。白人も有色人も一緒にして勉強させた。もっとも、それだけに、ほ
 かの学校からは憎まれていた。 
・学校に入ると、万次郎の勉強ぶりと、その成績の優秀なことは、街中の評判になった。
 これには、それだけのわけがあった。
 あっちこっちの学校で、冷たく拒まれているうちに、万次郎は、一つの決心をしたので
 ある。それは、
 (もし、学校に入れたら、死にもの狂いで勉強してやり。そして、日本人が決して劣っ
 た人種ではないことを知らせてやるのだ!)
 ということだった。
 人種的偏見をもつ人間には、実力で勝負するよりほかに方法はない。万次郎はそう思っ
 たのである。
・万次郎の得意なのは、数学だった。高等数学の難しい問題をどんどん解いた。
 通訳などはおらず、講義はぜんぶ英語なのだから、これは大変なことである。
・教会学校で勉強を進める一方、万次郎は、アメリカに古くから住んでいるインディアン
 の生活の歴史を自分で学んだ。 
 自然との戦いに中心をおいたインディアンたちの生活の習慣は、日本人としての万次郎
 にも、ずいぶん参考になることが多かった。
・そのインディアンは、白人に追われて、次第に数も減り、またくらす場所も、不便な山
 の中に移っていた。
 「強いものが、弱いものを追っ払って生きていく」
 弱肉強食、とよくいわれる人間世界のありかたを、万次郎は、まざまざとアメリカで見
 るのだった。
・働く日は週に六日、日曜は必ず休んで教会に行く、というこの国のしきたりも、万次郎
 には自然に身についた。仕事になると日曜もない日本の労働とは、まったく違ったこの
 習慣を、万次郎は、(なるほど)と感心して受け入れていた。
 
・「しばらく、留守にする・・・」
 そういって遠くの街にいっていたホイットフィールド船長が帰ってきた。
 その船長は、ひとりの美しい女の人をつれていた。
 船長は女の人を、
 「ジョン=マン、わたしの新しい妻、アルバアテナだ」
 万次郎は、思わず膝を折り、アルバアテナの手の甲に接吻した。
・「捕鯨船は、しばらく出ない。ジョン=マン、それまで農民になろう」
 船長は言った。
 三人は馬車に荷を積み、海から4マイル離れたスコンティカット・ネックという土地に
 移った。
 二階家があり、家畜がいて、農具があった。畑を耕す男たちもいた。
 そして、何よりも万次郎を喜ばせたのは、馬がいたことだ。
・日本では、万次郎のような漁民の子は馬になど乗れない。乗れるのはサムライの子だけ
 である。 
 ここへくるまでに、インディアンと遊んで、はだか馬に乗ることを覚えていたので、
 万次郎はすぐ、農場の馬を乗りこなした。
・農場の仕事がうまくいきはじめると、船長は万次郎に、
 「君は、オックスフォード校へ行け」
 と言った。
・オックスフォードというのは、名門校で、本当の秀才でないと入れない。そこへ行って、
 数学や航海術や天文学などの、船員としての専門的な知識を学んでこい、というのであ
 る。
 船長が何を考えているのかはきくまでもなかった。船長は、万次郎を、立派な航海士に
 仕立てるつもりなのだ。
・万次郎は、また、街に戻ってオックスフォード校に入った。
 しかし、学校の費用を全部船長に出してもらうのは悪いので、万次郎は、街の桶屋に見
 習いに入った。桶屋で技術を学びながら、学費を少しでも稼ごうとしたのである。
・1845年、万次郎は、オックスフォード校からさらに上のバートレット高等学校に移
 り、ここでの教程を全部修了した。成績は抜群だった。

・「ジョン=マン、私は、また、海に戻る」
 「君も連れていきたいが、今度は、留守をたのむよ」
 と、船長は照れくさそうに笑った。
 「ベビーが生まれるのだ」
・万次郎は、オックスフォード、バートレット校と勉強しているうちに、すでに18歳に
 なっていた。もう、立派に一家を守る力を持っていた。
・捕鯨船は一度出航すると、三年から長ければ五年ぐらい戻らない。
 (そのあいだ、この農場で父親代わりか・・・)
 憂鬱であった。
・万次郎はリンゴのつくり方がうまかった。ジャガイモの育て方も鮮やかだった。
 枯れ草にいたっては9トンも刈り、そのうち、4トンはよそに売った。
 特に万次郎が得意なのは、牛のミルク搾りだった。
・農場のどんな仕事も、立派にやり抜いてくれるということは、奥さんとウイリアム=ヘ
 ンリーにとっては、大助かりであった。
 ウイリアムは、日に日に、かわいく育った。万次郎にも、よくなついた。
 やがて、万次郎を、まわらない舌で「ジョン」と呼び、さらに、「ジョン=マン」と呼
 ぶようになった。ウイリアムにとって、万次郎は、父と同じだった。
・「まるで、ジョン=マンを、ファーザーと思っているみたいね」
 奥さんがよく言った。そのたびに、万次郎は顔を赤くした。
・ホイットフィールド船長は40歳を過ぎていたが、奥さんは、また20歳代だ。
 万次郎と、いくつも変わらない。
 その奥さんに、「ウイリアムはジョン=マンの子供みたいね」と言われると、
 奥さんとウイリアムの三人で暮らしていることが、ちょっと変な気持になってきるので
 ある。 
 
ふたたび海へ
・「ジョン=マン、海に戻りなさい」
 奥さんは言った。
・自分たちの犠牲になって、万次郎が海に出たい気持ちをずっと我慢していた、というの
 である。それを、すまないと謝るのだ。
・「船長は、ぼくを救ってくれた恩人です。恩人の奥さんやぼっちゃんには、いくらご恩
 返しをしても、足りないのです」  
 万次郎は首をふった。
・「無理をしてはいけません。男は、したいことをするべきです。そうでないと、死ぬま
 で、後悔します」 
 万次郎は黙った。
・万次郎は不思議だった。
 日本の女の人だったら、生活の安定のために、止めただろう。
 万次郎に、「ありがとう。いつもでも、この農場にいてください」と、頼んだにちがい
 ない。 
 しかし、奥さんは、万次郎に、もう一度船に乗れ、という。
 海の男の妻だ、という奥さんの言葉には、勇気と自信が満ちあふれていた。
 万次郎はうなずいた。
 
・乗る船は、フェアヘイブン港に何隻もいた。
 ちょうど、アメリカには、この頃、いままでにない、”捕鯨ブーム”がおとずれていた
 のである。
 優秀な船員を求めて、各船の船長たちは血眼だった。
 ことに、「日本人、ジョン=マン」の名は知られていた。
・「給料は、あの船の三倍出すから、こっちへきてくれ」
 という申し込みは、ジョン=万次郎のところに殺到してきた。
・一漂流者でしかない万次郎を、これほどまでに欲しがるアメリカ人の考え方に、万次郎
 は、いよいよ不思議な漢字を持つのである。
・それは、実力のある人間なら高く買う、というアメリカの経済本位の考え方が、そのま
 ま人間の世界に持ち込まれた一つの例であったが、この”合理主義””能率主義”が、
 万次郎には、ただ「実力を大切にする」という美しい面ばかりが映ったのである。
・万次郎は、殺到する申し込みのなかから、”フランクリン号”という船を選んだ。
 船長のアイラ=デイビスが、もとホイットフィールド船長の下で、銛打ちをしていた男
 だったからである。 
・フランクリン号は出帆した。1846年のことであった。
 大西洋に出ると、アゾレス諸島、ケープ・ベルデ諸島を通って喜望峰を通り過ぎ、ニュ
 ー・アムステルダム島の沖を抜けた。
・デイビス船長は、万次郎のことをよく知っていた。ジョン・ハウランド号で、かなり長
 い期間、一緒に暮らしていたからである。 
 しかし、フランクリン号の乗組員たちは、必ずしも、万次郎に対して好感を持っている
 わけではなかった。
・それは、一つには、万次郎が、プロの自分たちをさしおいて、デイビス船長に重く用い
 られているためであり、もう一つの理由は、やはり、万次郎が、東洋の有色人種であっ
 たからである。
・日本がそのころ、日本に近づく外国船を、片っ端から追い払う野蛮な国だということは、
 世界中の評判だった。
・そのために、万次郎に向けられる白い目の底には、万次郎へのやきもちと一緒に、万次
 郎が、憎い野蛮な日本の人間だということが、大きく、船員たちの気持ちの底に漂って
 いた。 
・万次郎は、思った。
 (この船で成功するためには、まず、この船の乗組員たちの気持ちをがっちり掴むこと
 だ)
 そのためには何をするのが一番いいだろうか。万次郎は一生懸命考えた。
 考えた結果、それは、(日本人の勇気を示すことだ)と思った。
・ときは四月である。
 まだ、夏には間があるし、そう暑くもない。一番気候がおだやかだ。
 波の静かな日には船をとめ、船員たちは、海に飛び込んだり、魚を釣ったりして遊んだ。
・どうせ、二年も三年も海の上で暮らすのである。一日一日をこせこせ過ごしてみたとこ
 ろでつまらない。  
・小さな舟で、近海魚を求めてせかせか動きまわり、針をつけた網で魚を釣り集める、と
 いう日本の漁の方法が、いかにもみみっちく、つまらないものに思えてくるのである。
・(大きな船が自由に造れるからだ。そして、どこの海へでも出ていけるのだ)
 (日本だって、船を造らせ、鎖国などしていなかったら、世界のどこの国の人間にも負
 けないほどの働きをするのだ。クジラだって捕れる)
 自由ないまの海上生活を味わうたびに、暗く、いじましい故国日本の、海への考え方、
 外国船への応対の冷たさなどがくやしく思い浮かぶのである。
・そんな万次郎の心配を乗せて、四月中旬、フランクリン号は小笠原の父島についた。
・日本人がこの島々を発見した歴史は古く、1593年に信州松本の武将小笠原貞頼が、
 八丈島と一緒に見つけた、といわれる。
・1861年に、アメリカとイギリスが、この島々が日本領であることを認めたが、最初
 にこの島に住んだのは、アメリカ人やヨーロッパ人であった。
 捕鯨船が、燃料や食糧、水などの補給基地として寄港することが多いので、その用を足
 す人々が、まず住んだのである

・「ハワイに戻る」
 船長が言った。
・ハワイに船が入ると、乗組員は当番を残して、あとは全部ホノルルで休暇をもらった。
 万次郎は、むちゃくちゃに、昔の仲間に会いたかった。
・「寅右衛門、筆之丞、五右衛門、重助という日本人は、いないか?」
 島の人にきくと、すぐ、「ああ、いるよ」と、まず、寅右衛門の住まいを教えてくれた。
・器用な寅右衛門は、船の修理業をはじめていた。身につけていた船の修繕の技術が役に
 立ったのである。
 「万次郎じゃないか!」
 寅右衛門の使いが走って、筆之丞がとんできた。五右衛門も走ってきた。
・筆之丞じゃ伝蔵に改名していた。
・「それで、重助さんは?」
 「重助は死んだよ」
 「鳥島でけがをしたのがあったろう。あの傷が、また悪くなってね・・・」
・寅右衛門が、「この二人は、日本に帰ろうとしたことがあるさ」
 といった。
 「島に、ホイットフィールド船長がやってきたのだ」
 船長は、三人を見つけると、
 「日本に帰りたければ、乗りなさい」
 と言ってくれたのだ。
・「それでね。とにかく、八丈島までは行けたんだ」
 「だめだった。波が荒くて島に近づけないのだ。仕方がないから、もっと本土に近づい
 た。しかし、船長は、北の端か、南の端から上陸したほうがいいと、蝦夷へ行ったんだ
 よ」  
 「蝦夷は、寒い、暗い土地だ。人間などあまり住んでいない。ようやく、函館のそばの
 浜に上陸したのだけれど、島の人間がこわがって近寄ってこない。そして、しまいには、
 役人を呼んできた。つかまったらすぐ殺されそうなので、そのまま、諦めて船に戻った
 よ」
・「どうして、寅右衛門さんは行かなかったのですか?」
 寅右衛門はちょっと困ったような顔をしたが、やがて、
 「おれはハワイが好きになった。日本より、よっぽど暮らしいい」
 と言った。
・「ぼくが、本格的に日本に帰る準備をする。もう少し、三人とも待ってください。お金
 をためてお土産もたくさん買いたいし」
 万次郎はそういった。
・三人は、改めて万次郎を頼もしく見つけた。そして、
 (万次郎についていけば、本当に日本に帰れるかもしれない)
・1848年の冬のはじめ。フランクリン号はホノルル港を出帆した。
 胸に希望の星をいだいた伝蔵、五右衛門、寅右衛門の三人は、いつまでも船を見送った。
 そして、それぞれの心のなかで、思っていた。
 (万次郎よ、私たちを日本に連れて帰っておくれ。お前だけが頼りなのだよ) 
・ホノルルを出てグアム島に向かった船の中で、ちょっとした事件が起った。デイビス船
 長が気が狂ってしまったのである。余りに長い航海と、荒くれ男の船員をまとめていく
 緊張に、精神がついにまいってしまったのだ。
・放っておくわけにはいかないので、船員たちは相談し、デイビス船長を部屋に閉じ込め
 て、かわりの船長を選挙で選ぶことにした。
 投票の結果、選ばれたのは、何と万次郎であった。日本人の、しかも21歳の若造に、
 みんなは船長になってくれ、というのである。
・もちろん、万次郎は、学校で誰よりもよく学問を身に付けていたし、航海の経験もあっ
 た。しかし、みんなが万次郎を選んだのは、偉ぶらない彼の人格と勇気が気に入ったか
 らである。ことに、万次郎の勇気にはみんな敬服していた。 
・万次郎は、しかし、船長を辞退した。そして、自分より先輩を推薦し、
 「そのかわり、ぼくは副船長になります」
 といった。
・その後、フランクリン号は、フィリピンに向かい、台湾を通り、沖縄を抜け、そしてま
 た、日本に沿って進んだ。
 が、もう万次郎は、この前のときのようい心を動かさなかった。
 クジラは捕れ過ぎるほど捕れ、もうこれ以上は積めなかった。
 船長と相談して、マダガスカル、喜望峰を通過し、北アフリカをずっと眺めながら進ん
 だ。  
・1849年9月、フランクリン号はついに母港フェアヘイブンに着いた。3年4か月ぶ
 りの帰港であった。しかし、どうしたのか、出迎えの人は少なかった。
 その少ない出迎え人のなかに、万次郎は、ホイットフィールド船長と奥さんが港の岸壁
 に立っているのを見つけて、手を振った。 
・しかし、岸におりた万次郎は、ホイットフィールド船長の口から、
 「ウイリアムは・・・死んだよ」
 と、悲しい知らせを聞いた。
・そして、もっとびっくりしたのは、フェアヘイブンの街の様子がすっかり変わっている
 ことであった。街中、異常な空気が漂っているのである。 
 まるで、熱にうかされているみたいに、街の人たちがわいわい騒いでいるのだ。
 そして、それは、クジラのためではなかった。
 「金が出たんだよ。アメリカに」
 ホイットフィールド船長が言った。
 
ゴールド・ラッシュのなかで
・本当の人間の冒険心は、純粋で美しく、また、それが人間生活にいろいろな新しい便利
 をもたらすものだが、この冒険心に、ときどき、裏があることがある。
 それは、冒険によってお金を儲けようとすることだ。
・そのお金の儲け方にも、いろいろの方法がある。冒険者自身が、そのお金儲けのために
 出かけていく場合もあり、あるいは、冒険者に必要なお金を渡して、あとは儲けの一部
 を分けてもらう、という方法もある。 
 いま、フェアヘイブンの金持ちたちは、この後者のほうの方法を選んでいた。
・フェアヘイブンはクジラの街ではなくなった。ここを基地にする多くの捕鯨船は、むな
 しく岸につながれていた。船員も他の仕事に移った。みんな失業してしまったからであ
 る。万次郎も失業した。ホイットフィールド船長も失業した。デイビス船長は精神病院
 にいる。 
・「人の気持ちは移りやすい・・・・」
 農場の果てに落ちていく夕陽を見ながら、ホイットフィールド船長は、パイプの煙をく
 ゆらして、さびしそうに、そういうのである。
 ウイリアムを亡くしているだけに、その姿は、余計さびしそうに見えた。
 昔は、あんなに元気で、聡明だった奥さんも、そういう船長を見ても何もいわなかった。
・(海の男は、陸へあがるとだめになる・・・)
 万次郎はそう思った。
 人間には、やはり、生きる場所というものがあるらしい。
 力が思いきり発揮できるところにいないと、逆にだめになってしまうのだ。
 ホイットフィールド船長も、本当は海に帰りたいのだ。
・(どうすればいいだろう・・・)
 農場の仕事を手伝いながらも、万次郎は、毎日考えた。
 そして、ある日、心を決めた。
 (カルフォルニアに行こう)
 金を堀に・・・
 そう決意して、ホイットフィールド船長に話をすると、さすがに船長はいやな顔をした。
 「君もゴールドを堀に行くのか・・・」
 そういう船長の声には、かなり非難の色があった。
 万次郎ほどのまじめな青年が、こういうブームに巻き込まれたことが、残念だったので
 ある。  
・「もし、日本に帰れる日がきたら、と思って、その日のために、少しお金をためたいの
 です」
 とだけ万次郎は言った。
 船長は、
 「それもそうだね。もう、クジラを捕りに行く日は来ないかもしれないものね」
 と、少し機嫌をなおしてきれた。そして、
 「もし、金を掘り当ててお金を儲けたら、そのまま日本に帰る船を探してもいいのだよ」
 と言ってくれた。
・ホイットフィールド船長自身、もう、”金という悪魔の石”の虜になったアメリカ人に
 愛想をつかしていたのかもしれない。
・この頃、カリフォルニアにいく道は二つあった。
 幌馬車隊で陸をいくのと、海を、南米まわりで進む満ちである。まだパナマ運河がなか
 ったから、船は南米をまわって、遠回りして西海岸にいくより仕方がなかったのである。
・万次郎は、海の道を選んだ。船員としての経験を生かしたかったし、もし船の上で役に
 立って、給料でももらえるようなことがあれば、それはそのまま金を掘る資金になると
 思ったのだ。
・(それには、自分を高く売りつけることだ・・・)
 いつのころからか、万次郎はそういう考え方を身に付けていた。
 それは、アメリカにおける一つの鉄則であった。
 自分から、「どうか、お願いします」と言ってはならないのである。
・(アメリカでは、頼むほうが負けだ。頼ませなければならない)
 自分を安売りしてはいけないのである。どうしてもその人間を欲しがる者は、その代わ
 り、給料を高く出す。とくに、技術者はそうだった。
・”あわてる乞食は、もらいが少ない”という日本のことわざがあるが、それと同じだった。
 (自分からは、絶対に、船に乗せてくれと頼むのはよそう。どうか乗ってください、と
 頼ませるのだ。それまでは、じっと我慢しよう・・・)
 つらい作戦だったが、利口な作戦だった。
・まもなく、「一等航海士ジョン=マン、どうか、うちの船に乗ってください」
 という申し込みがきた。
 貨物船である。カリフォルニアまで木材を運ぶという。
 多くの船員が、みんなこの街を捨ててしまったので、もうフェアヘイブンには経験者が
 いない。とくに、海の難しい知識を持つ航海士は全くいなかった。 
・(とうとうきた・・・)
 万次郎はひとりでにこりと笑った。
 1849年10月のことである。万次郎は22歳になっていた。
・「からだに気をつけてな・・・」
 めっきり元気のなくなったホイットフィールド船長と奥さんが、波止場まで送ってくれ
 た。 
 (この日の別れが、その後21年もの長い間の船長との別離になる。万次郎が、もう一
 度、この恩人に会えるのは、1870年のことである。その頃、ようやく日本では、新
 しい政府ができようとしていた)

・ゴールド・ラッシュで忽然とアメリカ西部に出現した街、それがサンフランシスコだっ
 た。街のつくりかたも、実にいい加減だった。ホテルと酒場と郵便局、あとは金掘りの
 道具屋と、掘った金を貨幣に交換する店、そんなものが、”掘立小屋”のなかで仕事をし
 ていた。
 道も舗装されてない。雨が降ると、どろんこ道になった。そのどろんこのなかを、人々
 は皮の長靴をはいて歩いた。
 驚いたのは、ものの値段の高いことであった。それは、本当に”目の玉の飛び出る”よう
 な値段だった。
 ぼろ儲けの街、それがサンフランシスコだった。
・それでも、万次郎が感心したことがある。
 それは、新聞が次々と発行されていることである。どこの山に金が出たとか、あの山は
 もう金はない、とかいうような金についての記事も、もちろんあったが、それ以上に、
 ゴールド・ラッシュによって、どんどん形を変えるサンフランシスコの街の発展の有様
 や、そこに集まってくる人々の姿を、くわしく報道した。それは、生きたアメリカの歴
 史であった。 
・馬に五日ばかり乗りつづけて、万次郎は、ある谷にたどりついた。川が流れている。
 そう深い川ではない。谷川なので水が冷たく、流れも速い。
 (ここで砂金をとろう・・・)
 万次郎は、そう思った。
・砂金は、坑道を掘る必要もなく、川をさらって土砂を金網のついたざるでさらさら振れ
 ば、土や小さな石は落ちて、砂金が残る。 
 坑道式のように、大きな金の岩を見つけることはできないかもしれないが、確実にとれ
 る。そして、何よりも魅力だったのは、この方法なら一人でやれる、ということである。
 仲間と一緒に仕事をするのが、決していやではなかったが、こういう異常な雰囲気のな
 かだと、必ずトラブルが起きる。とった金の分け前で、もめごとが起こりやすいのであ
 る。
 (そんなことにならないように、初めから一人でやったほうがいい)
 損をしても、得をしても、一人なら、諦めるし、他人に迷惑をかけることもない。
 それが、万次郎の考えだった。
・万次郎は、ほかの金掘り人のように、場所につくと「わあっ!」と、すぐ川へ飛び込ま
 ずに、まず、寝る場所、雨が降ったときにこもる穴、寒い夜に暖をとる場所などを探し
 た。準備を全部整えてから仕事にかかる、というのが、万次郎のやりかただったのであ
 る。
 これは、すべて、どんなときにも決してあわてない、という船の上の生活から学んだ智
 恵であった。
・万次郎のそばに誰も来なかった。みんな、ほかの場所で金をとっていた。
 だから、万次郎は、一体、どれだけ金をとればいいのか、見当がつかなかった。
 そばにきく人がいなかったので、お金にかえる場合の率がわからなかったのである。
・万次郎は、準備を整えると、川に入った。
 金網のついたざるのなかに、スコップで掘った川底の土や小石をそのまま入れた。
 そして、ざるを川のなかでさらさら揺すった。
 ざるの底を見てみると、小石ばかりで何もなかった。
・川のなかをすくえば、金がざくざくとれる、というのが、サンフランシスコできいた話
 だった。いや、フェアヘイブンの街で聞いた話など、もっとひどい。とにかく、金のほ
 うが多くて、金のあいだに石がころがっている、という噂だったのである。 
・(だいぶ話が違うな)
 万次郎は苦笑した。
 もっとも、万次郎は、そういう噂を、ほかの人のように頭から信じたわけではなかった。
 世の中に、お金の儲かる話が、そうやすやすところがっているとは思えなかったからで
 ある。お金も儲けも、やはり、地道な努力の積み重ねであることを、万次郎は、幼いと
 きから知っていたのである。
・五回目にざるを川のなかで揺すったとき、万次郎は、ちいさな、それこそネズミのふん
 のような金属が残っているのに気がついた。鋭く光る灰黄色の金属だった。
 「金だ!」
 万次郎はつぶやいた。生まれて初めて、”金”を手に持ったのである。
・(これでは、この袋をいっぱいにするのは大変だ・・・)
 そう思った。
 しかし、ものごとの始まりはいつもそうである。始まってしまうと、意外とあとの収穫
 のスピードが速いものなのである。 
・袋がいっぱいになった日、万次郎は、馬に乗って街へいった。政府の出張所がある。
 金をお札にかえてくれる。はかりで金がはかられているあいだ、万次郎は、思わず足踏
 みをして、木の床を鳴らした。気持ちが落ち着かなかった。
・「20ドルだ」
 万次郎はびっくりした。袋をいっぱいにするのにかかったのは三日である。三日で20
 ドルなどという稼ぎは、ほかにはない。
 (やはり、金掘りは儲かる)
 そう思った。
・しかし、一方、この街のものの値段の高さを思うと、一日5ドルや10ドルは、すぐに
 生活費として消えた。ウィスキーを飲んだり、ギャンブルをしたりしようものなら、
 20ドルぐらい1時間でなくなってしまう。 
・儲ける率が高いかわりに、お金のいる率も、よその街では想像もつかないほど高い。
 (だから、あんなにルンペンや乞食がころごろしているのだ・・・)
 ああいう真似をしたら、なにもかも無くして貧乏になってしまう。
 貧乏になるだけならいいが、なまけ癖がついて、人間としても使いものにならなくなっ
 てしまう。そんな気がした。
・(やはり、魔の街だ・・・)
 その魔法にかからないためには、街に住まないことだ。あの谷間にいることだ。そして、
 金をかえたお金を、できるだけ減らさないようにためることだ。万次郎は、そう心に決
 めた。
・自分でパンを焼いたり、おかずを作ったほうが安上がりなので、小麦粉と豆と缶詰を買
 った。それだけで10ドル消えてしまった。替えズボンを買うと5ドルだった。せっか
 くきたのだから、と思って食事をすると3ドルとられた。
 結局手元に残ったのは2ドルである。まるで、お金と追っかけっこをしているようなも
 のだった。 
・万次郎は、純利益として持って帰るお金を500ドルぐらい、と決めていた。
 クジラとりでは、三年も四年もかかって300ドルぐらいの給料だから、これは、やは
 り大変な金額になる。ぼろ儲けなのである。そういう、努力をしないわりには儲かる仕
 事が、人間を次々とだめにしていく。もっとも、なるべき楽をしてお金を儲けよう、と
 いうなまけものが多く集まってくるのかもしれなかった。
・谷に入って三か月目、万次郎は、ついに目標に到達した。お金は650ドルになってい
 た。夢中で川をさらっているうちに、500ドルをいつのまにか突破してしまったので
 ある。
・万次郎は山をおりた。馬でサクラメント川に出て、また船に乗った。
 河口からサンフランシスコに上陸すると、サンフランシスコの街は、三か月のあいだに
 だらけきっていた。まじめに暮らしている人は少なく、ギャンブルと酒とけんかで夜が
 明け、日がくれる街にかわり果てていた。競馬があり、闘牛があり、トランプの賭博が
 あり、いやしいホステスも入りこんでいいた。
 そのなかで、酒場とか賭博場とか、ホテルを経営している人間だけが儲かっていた。
・金をお金にかえたまじめな人は銀行にお金を預ける。持っていると強盗に襲われるから
 だ。しかし、こんどは強盗はその銀行を襲った。そして、まとまったお金を盗んでいっ
 た。 
 取締りの役人も手が出ない。街にはピストルの音が鳴り続け、人間の血が川のように流
 れた。そして、遠い国からきた”金掘り人”が、虫のように殺されていった。死体は、
 街はずれの丘に、粗末な葬式で埋められた。
・万次郎は心が暗くなった。人間の欲望の果てしなさと醜さに、呆れた。どこまでも、卑
 しくなる姿をまざまざと見せつけられた気がした。  
 いつまでもこんなところにいると、せっかく努力してためたお金が、何か汚れてくる感
 じがした。やはり、金を掘って作ったお金だ、ということが、万次郎にはうしろめたい
 気持ちがしたのである。
・サンフランシスコには、船は次々と入ってくる。しかし、出て行く船はあまりない。
 万次郎はじりじりしてきた。
 (このまま、ここにいつまでもいたら、お金がなくなってしまう)
 そう思った。
 お金を使い果たして、どろんこ道に、乞食のように転がるのは我慢できなかった。
 一日もはやく船が来ほしい、そう願い続けた。
・そんなある日、ハワイからジャガイモをいっぱいに積んだ船が入港した。
 ゴールド・ラッシュに沸くカリフォルニアでは、ジャガイモが、それこそ金のように高
 く売れるときいて、ハワイの商人が目ざとく商売にきたのである。 
 積んできたジャガイモは、確かに高く売れた。
 商人は、「もう一度ハワイから運んでくる」と言った。
 利口な男だった。金を掘るより、そのほうが確実に儲かることを、この取り引きで知っ
 たのだ。
・これを聞くと、万次郎はすぐ船長のところへいった。
 「25ドルでホノルルに連れて行ってほしい」
 船長は、「いいとも」と、気持ちよく船に乗せてくれた。
・万次郎が乗った船は、蒸気船である。
 「まるで、空を飛ぶようだ!」
 万次郎がそう思うほどスピードが出た。
 白い波をたてて、船は、まもなくハワイに着き、ホノルルに入港した。
・伝蔵と五右衛門が飛びつくようにやってきた。
 万次郎は言った。
 「日本へ帰ろう!」
 二人とも、すぐ、大きくうなずいた。
・五右衛門は、万次郎がフェアヘイブンに去ったあと、島の娘と結婚していたが、日本に
 連れてはいけないので、結局、離婚することになった。
・ここで問題がおこった。
 寅右衛門が、「おれは帰らない・・・ホノルルに残る」
 と、言い出したことだ。
・日本へ帰ったって、どうせ、すぐ幸福にはなれない。
 また、暗い、貧しい漁師の生活がまっているだけだ。
 金持ちや役人ばかりがいばりくさって、働く人間を締め付ける。
 もうまっぴらだ!寅右衛門は、そうかんがえているに違いなかった。  
 寅右衛門は、この島で得た、”人間としての自由”を、もう離すのはいやだったのだ。
・寅右衛門のほうは、もう一つ、別な心配をしていた。それは、
 (日本に上陸すれば、すぐ殺されてしまうのではないか・・・)
 ということである。
・万次郎は、カリフォルニアで儲けてきた650ドルを全部出して、買い物した。
 三人を送ってくれる船に迷惑をかけないために、ボートも1叟買った。
 これを漕いで上陸したほうが目立たない、と思ったからである。
 ボートには”アドベンチャラー号”と名前をつけた。
・こうして準備を整え終わると、ちょうど清の上海へ行く、という船が入ってきた。
 上海に行くなら、日本の南を通る。
・船の名は、サラ・ボイド号。船長は、ホイットモーアといった。帆船である。
 こころよく三人を乗せてくれることになった。
・日本の実情を知るハワイの役人は、何かのときに役に立つかもしれない、といって、
 三人に、アメリカ政府のパスポートをくれた。  
・1850年の冬、サラ・ボイド号はホノルルを出帆した。
 そして、1851年の初め、沖縄に接近したのである。
 
新しい日本のなかで
・「この男たちが、日本人ではないと?ばかなことを言うな、箸の使い方を見ろ」
 自分の前にいる万次郎たち三人を、しきりに、
 「メリケンのスパイでございます」
 という役人に、薩摩藩のその大名は、笑って言った。万次郎は伝蔵と顔を見合わせた。
 (おや?)
 と思ったのである。
 日本に上陸して初めて、まともな人間に会えた気がしたからだ。
・(この大名は、今までの役人と違う。頭もかなりいい)
 万蔵はそう思った。
 大名の名は島津斉彬といった。
・沖縄に出張している役人たちの常識をはずれた頑固さに、いい加減うんざりし、
 (とても、これでは助からない。薩摩に着きしだい殺される)
  と、諦めていた万次郎たちは、この大名に会って、
 (あるいは、助かるかもしれない)
 と思いはじめた。
・けもののように追い立てられて那覇から沖縄を出発し、薩摩に着くと、島津斉彬は役人
 に、 
 「三人をアメリカ国の姿で連れて来い」
 と命じた。
 見せものにされ、なぶり殺しにされるかと思ったが、斉彬はそんなことはしなかった。
 万次郎たち三人を、自分の城の一番上等な部屋に通し、できるだけのご馳走をした。
・「こんなメリケンのスパイに、そんなことをしてはいけません!」
 とあわてて止める役人には、ご馳走を食べている万次郎たちの箸の使い方を見せて、
 立派に日本人であることを証明した。
 こんな簡単なことさえ思いつかなかった役人に、まず捕まったのは、万次郎たちの不運
 であった。 
・島津斉彬が万次郎の話に関心を示したのは、わけがあった。
 万次郎はアメリカにわたっていて知らなかったが、ここ数年、日本の近海には、アメリ
 カ、イギリス、フランス、ロシアなどの外国の船がしきりに近づいていたのだ。
・薩摩の近くにもアメリカ船がきた。モリソン号という船である。
 モリソン号は、本当は日本の漂流民を返しにきたのだが、薩摩の役人は信じなかった。
 いきなり砲台から大砲をぶっぱなした。
 しかし、砲弾はひとつも届かなかった。みんな海のなかに、どぼん、どぼんと落ちて、
 沈んでしまった。
・普通なら、モリソン号は撃ち返すところなのだろうが、知らん顔をして、悠々と去って
 行った。 
 たまが届かない、ということは、幕府にとってはショックだった。
・ これを聞いた斉彬は、
 (いまの日本の大砲や船では、外国には絶対に勝てない)
 と思った。そして幕府に、
 「日本を守るためには、鎖国をやめなければだめだ。外国の文明を取り入れて、日本の
 工業を発達させるべきだ。大きな船もどしどし造らせなさい」
 と意見を出したが、幕府の老中たちは、
 「とんでもない!」
 と、首を振った。
 斉彬は、
 「ばかな老中め・・・」
 と思ったが、外様大名は老中にはなれない取決めがあったので、それ以上、なにもでき
 ない。
・(これは、政府をつくりかえなければだめだな・・・日本は滅びてしまうぞ)
 斉彬はそう思いはじめた。
 「そのためには、まず、薩摩だけでも工業を発達させよう。船を造り、砲台をつくり、
 外国船にたまの届く大砲をつくるのだ・・・」
 そう考えた。
 だから、外国の文明についての知識をどんどん仕入れていた。
・アメリカに漂流して日本に帰ってきた三人の日本人の話は、だから、斉彬を心の底から
 喜ばせた。 
・それに、万次郎は、アメリカから色々な機械を持ってきているので、話がおもしろい。
 斉彬も、オランダや清から買った色々なものを持っていた。
 居間には、時計も置いてあったし、地球儀もあった。
 アメリカがどこにあるかも知っていたし、日本の国が小さいことも知っていた。
・万次郎は、英語の入り混じった変な日本語で、知っていることを次々と話した。
 斉彬は、万次郎の話を高い立場で整理した。
 それだけの知識をすでに持っていたからである。
・自分の話が、砂漠に吸い込まれる水のように斉彬に受け入れられるのを感じて、
 万次郎は、 
 (日本の国を作りかえていくのは、こういう人かもしれない・・・)
 と思った。
・斉彬は言った。
 「残念だが、法律によって、お前を幕府に渡さなければならない。最後に一言だけ聞き
 たい。アメリカ国で暮らして、一番頭のなかに残ったことはどういうことか?」
・万次郎は、すぐさま答えた。
 「人間に、身分の高い、低いということがないことです」
 「誰でも、能力次第で偉くなれる、ということです。それともう一つは、どんなことで
 も話せる、ということです。アメリカでは政府を批判することも自由です。
 それに、政府の大臣も大統領も、みんな人民が選挙で選んでいますから、悪いことをす
 れば、すぐやめさせることもできます」
・これには斉彬も驚いたようである。日本でいえば、将軍や大名をぜんぶ住民が選ぶ、
 ということになる。斉彬侍臣がそういう立場に置かれるのだ。
・(信じられない!)
 斉彬は心のなかで声をあげた。
 かなり進歩的な考えを持つ斉彬でさえ、そうである。
 頑固な幕府の役人が聞いたら目をまわすだろう。
・斉彬は言った。
 「今のことは、幕府の取調べでは言わないほうがいい・・・」
 「わかっています。あなただから申し上げたのです」
 万次郎もうなずいた。
・斉彬は、万次郎のずけずけものを言う態度が好きだった。
 身分の違いがない、何でもものが言える、という外国の習慣を、この青年は全部自分の
 ものにしている、と思った。  
 そして、自分の国がそういう国になるのは、まだまだ遠い先のことだ、と思った。
・薩摩には二か月いた。
 何だかだといって、斉彬が万次郎を離したがらなかったからである。
 しかし、万次郎たちの日本上陸は、すでに幕府にも知れていた。
 いつまでも薩摩においておくと、斉彬が怪しまれる。
・万次郎たちは、幕府の外国関係の出先機関である長崎奉行所に送られた。
 斉彬の口ぞえで、沖縄に着いたときのようなひどい目には会わなかったが、調べは長く
 かかった。やはり長崎奉行所でも、別の角度から、万次郎たちを「アメリカのスパイ」
 と疑っていた。
・約一年、長崎にとめられて、翌1852年の夏、ようやく万次郎は故郷の土佐に帰るこ
 とを許された。 
 ひどいことに、アメリカから買ってきた品物も本も、みんな没収されてしまった。
・「髪を伸ばしてちょんまげを結え。メリケンの服も捨てて、日本の着物を着ろ」
 万次郎は仕方なくうなずいた。三人は、四国に向った。
 
・人がたくさんいる。垣を築いて、みんなこっちを見ている。何だか夢を見ている気がす
 る。
 人垣が二つに割れた。がやがや騒いでいた人声が一切消えた。
 その人垣のあいだから、一人の老婆がよろよろと出てきた。
 足の運びが落ち着かない。泳ぐようにして歩いている。
 万次郎は立止まった。老婆に自分の二つの目から飛び出た視線が集中する。
 目がみるみる大きくなるのが、自分でもよくわかる。
・万次郎は、突然叫んだ。
 「おっかあ!」
 声を聞いて、老婆は立止まった。ぴくり、と、その肩が動くのがわかった。
 驚いたというよりも、おそれた、と言うほうがいい。
 老婆は万次郎を見つけた。こわいものでも見るように、いつまでも見つけている。
 そして、そのまま、
 「ああ・・・」
 と、悲鳴のような声をあげると、老婆は、急に砂浜の上にしゃがみこんだ。
・「おっかあ・・・万次郎だよ、万次郎が帰ってきたんだよ!」
 そう叫ぶ。いや叫んでいるつもりなのだ。叫びは心のなかである。本当の声にはなって
 いない。
 母は、砂の上にうずくまったまま、いつまでも、
 「ああ・・・う、う、う・・・」
 と泣き続けた。
 これが、万次郎と母の再会であった。11年ぶりであった。
・「兄さんのお墓ができているよ」
 家に落ち着くと、すっかり大人になった弟がそういって笑った。
 万次郎は、弟に案内させて、自分の墓を見に行った。
 村のお寺の裏山にある共同墓地のなかに、一本の木の柱が立っていた。
 ”万次郎の墓”と書いてあり、死んだ日は、11前に万次郎が漁に出て行った一月にな
 っていた。  
・万次郎がのんびりしていられたのは、わずか三日間だけである。
 万次郎の帰郷を知った土佐の大名、山内容堂から迎えの使いがきた。
 「藩庁へきて土佐藩のサムライに英語を教えてほしい」
 という命令である。
 しかし、当時の身分制度は厳しく、漁師がサムライの先生になるわけにはいかないので、
 容堂は万次郎を形式上サムライにした。
 漁師や一般の市民は、当時、姓というものがなく、名前だけだったから、万次郎にも姓
 がない。サムライになると、姓がいる。万次郎も姓をつけなければならない。
 万次郎はいろいろ考えたが、生まれたところの名をとって、”中浜”と名のった。
 こうしてサムライ中浜万次郎が生まれた。
・大部分のサムライたちが退屈していた。漢文ばかり習ってきた頭には、英語など、全く
 のちんぷんかんぷんだったし、ちっともおもしろくなかった。第一、
 「いったい、何のために、おれたちは英語など習うのか」
 と、サムライたちは根本的な疑いを持っていた。
・世界の動きについて何の知識も持っていないサムライたちには、ひたひたと日本に押し
 寄せはじめている厳しい時代の波の動きなど、全くわからなかったのである。 
・先生である万次郎に対する態度も、決していいものではなかった。
 「漁師あがりのくせに、われわれサムライにものを教えよう、とは何だ」
 などと、悪口ばかり言っていた。
・教室での万次郎を迎える態度は従って、非常に悪く、万次郎が入ってきても、無視して、
 おしゃべりを続けたり、じろりと冷たい眼で睨んだりした。
・万次郎は、しかし、怒らなかった。
 漁師あがりの身分といえば、確かにその通りだったし、また、サムライが、その漁師を
 ”先生”と呼ぶことに、とても抵抗を感じる気持ちもよく理解できたからである。
・それに、万次郎は、英語に限らず、学問の勉強にひとつの考えを持っていた。
 それは、
 「学ぶ気持ちがなければ、何を教えたってだめだ」
 という考えである。
 いくら時間をかけても、学ぶ方に、覚えようという気持ちがなければ、教師のことばな
 ど、ただ、むなしくからまわりするだけなのである。
 どうしても、それが必要なのだ、という気持ちを持たない限り、特に英語のような学問
 は身につかない。
・(覚えようという気持ちがみんなにわくまで、気長にやるさ)
 万次郎は、そう割り切っていた。だから、あまり焦らず、生徒が居眠りしようと、あく
 びをしようと、かまわずに、決められた時間に、決められたことを教えた。
 そして授業が終わると、一人で海に方に歩き、桂浜というところに立って、太平洋の青
 波に見とれるのだった。
・(サムライがあくびや居眠りをしていられるのも、今のうちだ。すぐに、サムライたち
 は、そんなことをしていられなくなる。英語を知らなければ、日本の国の大切な仕事に
 携われなくなる日が必ずくる)
・英語を習うサムライたちのなかにも、何人か、見どころのある若者もいた。
 居眠りとあくびをするものばかりではなかったのである。
 特に十五歳前後の少年で、際立って熱心なのが三人いた。
 名前をきくと、
 「後藤象二郎です」
 「岩崎弥太郎であります」
 「坂本龍馬
・三人のなかでも、坂本龍馬はいっふう変わっていた。服装など全然かまわずに、髪もぼ
 うぼうに伸ばしたのを、紐で簡単にくくっただけで、いつも遠い目をしていた。 
 (こいつは、一体、どんな人間になるのか)
 と、万次郎にも見当がつかない。
 桂浜にもよくきた。
 砂の上に腰をおろして、よく万次郎にアメリカの話をしてくれ、とせがんだ。
 主に身分制のないこと、能力さえあれば偉くなれる、ということと、そして、議会や大
 統領制で成り立っている政治のしくみに、大変興味を持った。
 ことに、議会と、選挙で選ばれる大統領のことには、目を輝かせて聞き入った。
・もちろん、万次郎には、このときの坂本が、そののち日本の民主主義と海運の大先覚者
 に育っていこうとは夢にもおもわなかったが、ただ、 
 (この少年は、けたがはずれている)
 と思ったことは事実である。
 また、じぶんがぼんやり考えていたことが、こういう純粋な少年たちの胸の畑に、小さ
 な種として植え付けられ、どんどん芽を出して育っていくことに、驚きと喜びを感じる
 のであった。

・このところ、諸外国はしきりに日本の国に接近し、小さな侵略を繰り返した。
 ロシアは、日本海の壱岐・対馬を荒らしたり、漁民を殺したりした。
 フランスやイギリスやオランダも、しきりに、
 「港を開け!」
 と、威しにきた。
 しかし、幕府はがんとしてきかなかった。
 「鎖国は日本の法律である」
 といって、絶対にこの交渉に応じなかった。
・こんなとき、1853年(寛永六年)七月に、日本中あげての大騒ぎが起こった。
 それは、アメリカの東洋艦隊が江戸湾に乗りこんできて、艦隊の司令官ペリーが、
 軍艦の大砲を全部日本本土に向け、
 「すぐ港を開け!開かなければ大砲で江戸の街をふっとばす!」
 と威かしたからである。日本中大騒ぎになった。
・真っ黒な鉄でできた、黒い煙をもうもうと吐く巨大な軍艦の姿は、日本人を驚かせるに
 十分だった。  
・幕府の軍隊は、急いで芝浦の海岸に集まって防戦の準備をしたが、それも、未だに槍や
 刀を持ったサムライたちがうろうろしているだけで、何の役にも立たなかった。 
・吉田松陰、藤田東湖、佐久間象山などの知識人が国防のためにどうすべきかを考え、動
 き出した。
 西郷隆盛や大久保利通などの青年たちは、芝浦の浜で刀を抜いて、
 「アメリカ船め!」
 と、怒った。
 しかし、刀ぐらいでアメリカの軍艦がびくともしないことは、みんなよく知っていた。
・日本は、本当に危機に陥ったのである。
 ロシア、フランス、イギリス、オランダのように、黙って引きさがらないことは、夜の
 海上に浮かんだ四隻の軍艦の巨体がはっきり物語っていた。 
・日本中大騒ぎになった。
 既に、この情報を得ていた万次郎は、
 (いよいよきたな・・・)
 と思った。
 予感が本当になったのである。
・ペリーが日本に来た理由は、二つあった。
 一つは、世界中の船乗りの「日本は頑固なブタの国だ」という評判を、聞き込んだため
 であった。 
 「太平洋に、何とかして食糧や燃料の中継基地がほしい」
 という船乗りの希望を満たさなければならない。
 もう一つは、発展しはじめたアメリカが、自分の国でつくった品物の市場を世界に広げ
 なければならないことである。それも、東洋がもっとも儲かる場所であった。これにも
 基地がいる。それには、港の多い日本が一番いい。
・「悪いことになった・・・」
 万次郎は憂鬱だった。
 ペリーは、世界中の日本に対する悪い評判を、そのまま信じてきている。
 そして、事実、万次郎の心配する通り、ペリーは、そういう気持ちだった。
 「日本に平和的交渉をする必要はない。徹底的に威かしてやる!」
 そう公言していた。
・(そういう事情が、いまの幕府の役人たちにわかるだろうか・・・)
 それが一番心配だった。
 万次郎は実際に、世界の船の噂を、なまの声を、耳で聞いてきている。
 船長たちの不満にも、もっともなところがあるのだ。
・(もし、短気を起こせば、戦争になってしまう)
 世界中の国を敵にまわして、今の日本ではおそらく勝てないだろう。
 もっと心配なのは、ペリーだ。はじめから日本を「けしからん国だ!」と決めてかかっ
 ている。いちいちそういう目で日本を見れば、日本のやっていることは、何もかもけし
 からんことになる。  
・(250年間の日本の歴史の本当の姿を、ペリーにわからせなければだめだ・・・)
 万次郎はそう思った。
 そして、それができるのは自分だけだ、と思った。
 日本とアメリカの両方の国で、実際に生きてきた経験がものをいうのだ。
・しかし、今の幕府のしくみでは、一漂流民の万次郎を、そんな役目につかせることなど、
 思いもよらなかった。
 身分と形式にこだわる幕府は、昌平黌の、漢学者を大使として交渉させていた。
 英語のエの字も知らない漢学者に、ペリーのいうことなどわかるわけながい。
・「そんなことではだめだ。中浜万次郎を通訳にして、日本の実情をアメリカ国に話すべ
 きである」
 見かねた島津斉彬と山内容堂が幕府にそういった。
 ペリーの、威かしいっぽうの、がんがん怒鳴りまくる交渉に閉口していた幕府は、すぐ
 に二人の意見を受け入れた。  
・そして万次郎に、
 「至急、江戸にきて、通訳の準備をするように」
 という命令を出した。
・「幕府も、ようやくその気になったか」
 と、万次郎は喜んだ。
 いさんで江戸に行くと、幕府の役人は、急に、
 「あのことはとりやめだ」
 といった。わけをきくと、
 「水戸さまが、おまえのことをアメリカのスパイだ、と言っている。
 万次郎は呆然とした。
・水戸さまとは、将軍の親戚になる水戸斉昭のことである。
 こちこちの外国ぎらいである。
 自分の城にある水戸の近くの寺の鐘を全部つぶして大砲を造っている。
 そのための費用は、税金を高くしたり、サムライたちの給料を半分に減らしたりして造
 っている。だから、評判は全くよくない。  
・この水戸さまが、万次郎についてのよくないデマを聞き込んだのだ。
 万次郎は呆れた。
 (なんというばかばかしいデマを信じ込むのだろう!)
 こちこちの水戸さまの頭を疑った。
 (この人も、ブタの頭だ)
 と、つくづく思った。
 通訳はとりやめになった。
 せっかくの島津斉彬と山内容堂の名案も、無駄になったのである。
・二人の大名は胸のなかで、一つの決意をした。
 (もう幕府はだめだ・・・)
 と思ったのである。
 同時に、水戸さまのように、”攘夷”という考えが、今の日本にとって、いかに現実ば
 なれのしていることかを改めて知ったのである。 
 「日本の思想を開国に変えなければならない。外国と仲よく文化の交流をすることが、
 これからの日本を救う道なのだ」
・この考えは、あきらかに、日本の250年にわたる”徳川幕府”という政府を改良する
 か、倒す、という考えにつながっていた。 
 ただ、島津斉彬や山内容堂の考えた改良案は、あくまでもサムライ中心のものであって、
 そこには、一般の国民のことは考えられていなかった。農民や労働者や商人のことなど
 は、まったく考えのうちには入っていなかったのである。
・したがって、これは、万次郎の考えている”人間平等”の理想には、はるかに遠かった。
 大名の考えは、あくまでも、”大名の平等”であり、”サムライの平等”であった。
・がっかりした万次郎に、
 「わたしの手伝いをしてくれないか」
 と、呼びかける人がいた。
 伊豆の韮山に住む幕府の代官で、江川太郎左衛門という人だった。
・かなり前から、日本の国防のことを真剣に考え、自分のお金で大砲をつくったり、砲撃
 の練習をしたりしていた。   
 しかし、江川の本当の考えは、ただ外国船を大砲で撃つ、というのではなく、
 「日本も、遠い海に出かけられるような大きな船を造るべきだ」
 ということを、いつも主張していた。
 しかし、今の日本で、大船を造ることなど思いもよらないので、仕方なく、外国に攻め
 られた場合に備えるのだということを口実に、西洋技術の研究をしているのである。
・江川は、早くから万次郎の話をきいていた。
 「今の日本にどうしても必要な男である」
 と、万次郎のことを信じていた。
・なんだかだといって、のらりくらりと返事を渋っている幕府に愛想をつかしたペリーは、
 「来年早々、もう一度日本にくる。それまでに、港を開くか、開かないか、決めておけ」
 と、相変わらず大いばりの態度で言うと、四隻の軍艦を率いて去って行った。
・幕府の役人たちはほっとした。
 が、「来年、また来る」というペリーの言葉が忘れられなかった。
 「今度こそ態度を決めなければならない」
 と、本気で考えはじめたのである。遅い気のつきかたであった。
・「次の交渉は、外国の事情に詳しい者でなければならぬ」
 来年の準備のために幕府はそう決めた。
 そして、その交渉委員に、ようやく江川太郎左衛門を指名したのである。
・指名を受けると、江川は、心のなかで、
 (アメリカに詳しい通訳が必要だ)
 と思った。そして、誰が何と言おうと、(万次郎以外にない)と心に決めたのである。
・万次郎は、別に伊豆にいくこともなく、江川の江戸の屋敷の中で暮らすようになった。
 江川は、万次郎をできるだけ大切に扱うように気を使った。
 長崎奉行所にも連絡をつけて、万次郎が没収された本やボートやピストルなどを全部取
 り戻してくれた。 
・「いまに老中に阿倍正弘という大名が出てくる。25歳の若さだが、この人なら、きっ
 とお前を大切にしてくれるよ」
 江川がそんなことも言った。
・この時期、江川は、万次郎のためにさかんに正しい宣伝をし、万次郎が決してアメリカ
 のスパイなどではなく、本気で日本のことを心配していることを訴えた。 
・こういう江川の宣伝作戦のためかどうか、こののち二年間に、万次郎についての本が
 24冊も出た。人々は争ってこの本を買った。
 本の中には、狭い小さな国に閉じ込められて、したいこともできない多くの日本人が、
 誰しも胸の中に持っている願いを満たすものがあった。
 「万次郎の漂流記」は、この時代のベストセラーになった。
 
太平洋上にはためく日章旗
・江川太郎左衛門の言った通り、阿部正弘が老中になると、政治の進め方ががらりと変わ
 った。
 阿部は身分にこだわらず、才能のある人間は、どしどし重い役につけた。
 江川もその一人だった。
・江川は、
 「来春の日米交渉には、中浜万次郎を正式に通訳にしたいと思いますが」
 と、願い出た。
 阿部は、
 「いいだろう」
 とうなずいた。
・年が明けた。言葉どおりペリーがやってきた。
 海から、いきなり江戸の真ん前にきて、
 「去年の返事をきこう」
 と脅かした。
・「そんな目の前で大砲を突きつけられては、交渉にもなんにもならない。浦賀まで引き
 さがってくれ」   
 阿部は通訳を通じて、こう談判した。
・日米交渉の場所は、横浜村という小さな漁村に決められた。
 にぎやかな街で交渉すれば、「外国人を斬れ」といきまいている日本人がどんな乱暴を
 するかもわからず、それが原因で戦争が起こるおそれがあったからだ。
 そう考えたのは阿部であった。
・「中浜、いよいよ、おまえの晴れ舞台が来たな」
 と江川はそう言った。
・しかし、万次郎は、あまり本気で聞いていなかった。
 というのは、”中浜万次郎の正式通訳”という噂が流れると、猛烈な反対運動が起こっ
 てきたのだ。 
・水戸さまはもちろん、去年交渉にあたった漢学者たちまでが、
 「そんなことをされたら、私たちの面目がつぶれる」
 と、万次郎の悪口を言い出したのである。
・交渉の日がきた。決められた時間に、江川と万次郎は横浜に向った。
 しかし、会場に着くと、会談はすでに終わっていた。
 あくまでも万次郎に通訳をさせまい、とする反対派が、嘘の時間を教えたのである。
 しかも、交渉にあたったのは、相変わらず漢学者であった。
・阿倍正弘でさえ、水戸さまをはじめとする頑固派には勝てなかったのである。
 そして、その阿部は、体をこわしてまもなく死んだ。
・そんな状況のなかで1854年(嘉永七年)三月、日本はついに港を開く条約に調印し
 た。 
・このとき、日米交渉の場所に使われた神奈川の小さな漁村横浜村は、この日から急に、
 世界のヨコハマミナトに発展する。
・本当は万次郎を出世させたかったのに、すっかり逆な結果が出て、自分の責任を感じた
 江川は、万次郎に、  
 「これからは、日本でも大きな船が造れる。どうだ?捕鯨船でも造っては?」
 と、慰めるように言った。
・感じとして、とても成功するとは思えなかった。
 どうでまた、邪魔が入ると思ったのである。
 しかし、とにかく万次郎は、ロシアから幕府に送られていたスクーネル船に手を入れて、
 捕鯨船の建造にかかった。
・”一番船”と名前までつけたこの捕鯨船は、品川から出帆して、小笠原の方へ向かった。
 しかし、この航海は失敗した。途中で嵐にあうと、改造船は木の葉のようにゆれ動き、
 恐れおののく日本人の乗組員のあわてぶりで、万次郎の思うように船が動かなかった。
 ボートもオールも全部波にとられ、ほうほうのていで、伊豆の下田まで逃げ帰ってきた。
・失敗の原因は、何と言っても遠洋に出たことのない日本人の経験不足にあった。
 しかし、それ以上に、万次郎自身、気持ちが固まっていなかった。
・万次郎は憂鬱だった。あれほど力強く、明るい生き方をしていた万次郎であったのに、
 このごろは、黙ってじっと座っていることが多くなった。
・悪いときには悪いことが重なる。そういう憂鬱な時期に、江川が死んだ。
 万次郎は唯一の理解者を失った。
・(もう、ここにもいられない。土佐に帰ろう・・・)
 万次郎は、そう心に決めた。
 そして、江川の家族に礼を言って旅に出ようとした日、道を歩きはじめると、いきなり、
 「中浜先生!」
 と、ぽんと肩をたたかれた。
・びっくりして振り返ると、ひとりの乞食がにこにこ笑っている。
 いや、乞食に見えたのは、男の姿が余りにも汚いからであって、本当はサムライなので
 あった。   
・「坂本ですよ。土佐で英語を教えてもらった坂本龍馬です!」
 立派になって、と言いかけたが、その言葉が出てこない。立派どころか、坂本の姿は、
 昔に増して汚い。
・「先生を探していたんです」
 「いま、私は幕府の軍艦操練所にいます。航海を教える学校です。そこの校長が勝海舟
 といいましてな、これがまた変わり者です。中浜先生の話をしましたら、どうしても連
 れてこいというのです」 
・(どこでもいい・・・私を必要だ、というところがあるならば)
 万次郎は、そう思って坂本に従った。
・築地にある操練所は、これが幕府の学校かと思うほど粗末だった。
 中にいる学生がまた、柄が悪い。坂本に負けず劣らずの乞食ザムライがごろごろしてい
 る。
・ペリーの去ったあと、日本に嵐がきた。政府がアメリカと結んだ”開国条約”が、日本中
 の大問題になってしまったのである。
・反対運動は、違った形で起った。それは、
 「いまの徳川幕府は、本当の日本の主権者なのだろうか?」
 という疑問を、多くの進歩的な人々が言い始めたのである。
・そして、それでは誰がいったい日本の主権者なのか、という一般の疑問に対して、指導
 者といわれる人々は、「天皇である」と答えはじめた。  
・天皇は、700年も前から姓に関わることなしに、日本文化の守り手として京都の一隅
 でひっそりとくらしてきたのだが、またまたかつぎだされることになった。
・「徳川幕府は、国を守る力がない。外国にぺこぺこしている」
 「政府を替えなければいけない。天皇を中心とした政府をつくろう」
 こういう声が、日本中にあがった。
 声をあげたのは、多くは身分の低いサムライであり、貧乏な学者であり、農民であり、
 市民であった。
・とくに、徳川幕府を倒して天皇の政府を作ろうという人は、薩摩の島津の家臣や長州の
 毛利の家臣、あるいは、万次郎の生まれ故郷である土佐の山内の家臣に多かった。 
・幕府の方でも、黙ってはいなかった。
 「天皇をかつぎだす気なら、その天皇家と徳川家を親戚にしてしまえ」
 と言って、天皇の妹を、将軍の奥方にもらったりした。
・しかし、幕府の、運動者たちを捕まえたり殺したりする弾圧や、こういう政治結婚は、
 ますます運動者たちを怒らせた。
・弾圧の元締である大老井伊直弼は、江戸城の桜田門の前で雪の日に殺された。
 将軍と天皇の妹との結婚を決めた老中も、おなじく江戸城の前で斬られた。
・幕府を倒して天皇の政府をつくろう、という人々を”尊皇倒幕派”、いまの徳川幕府を
 そのまま続けさせよう、と頑張る人々を”佐幕(幕府をたすけるという意味)派”と呼
 んだ。
 日本の人々は、この二つに分かれた。そして、二つの派が会えば、必ずけんかになり、
 殺し合いになった。
・こういうありさまを見て、万次郎は、
 (こんなことをしていたら、外国がきっと割り込んでくる)
 と心配した。
 日本人同士が争っているときではないのだ。
・日本の国をどうするかは、日本の国民全部の意見によって、決めなければならない。
 その意見をまとめるためには話し合いをしなければならない。
 必要なのは話し合いであって、殺し合いではないのである。
・万次郎の心配は、現実となって現れはじめた。
 イギリスが倒幕派を、フランスが佐幕派を、それぞれ応援し始めたのだ。
・「みんな、もっと大きな心を持てなくてはだめだ。倒幕派とか佐幕派とかいって喧嘩を
 しあっているうちに、外国人に日本はだめにされてしまうぜ。このままだと戦争になる。
 もし、そんなことにでもなったら、取り返しがつかないよ」
 政府の軍艦操練所の校長である勝海舟は、万次郎に、よくそう言った。
 勝は、倒幕派も佐幕派もどちらもばかだ、というのである。
・万次郎は、そんな勝を、おもしろい人だと思った。
 (ずけずけと、自分の思っていることをいう人だ)
 と思う。
・勝は身分が低かった。それも一番低い。それが、日頃勉強していた西洋の学問と、頭の
 良さが認められて、軍艦操練所の校長にとりたてられたのだ。  
・しかし、勝は不満だった。
 何でも身分、身分で考え、ばかでもちょんでも身分の高い家に生まれれば大名にでも老
 中にでもなれる、という日本の制度は、実力があるだけに、勝には我慢できなかったの
 である。
・万次郎は、今の日本の動きかたに非常に不満だった。
 みんなが一生懸命に国のことを思っているのはわかる。政府を変えるのもいいだろう。
 しかし、いったい、誰のために、何のために替えるのだろう?
 その”誰のために”ということを討議する人が一人も出てこないのは、どういうわけだ
 ろう。
・倒幕派も佐幕派も、いっていることは、結局、各藩のこと、サムライのことである。
 一般の国民のことは誰もいわないのだ。
 今の運動は肝心の国民抜きで行われている。
・万次郎の率直な感じである。
 日本の国をよくするということは、そのことによって、国民が幸せになるということで
 なければならないはずだ。 
 (その国民の意見を全くきかないで、日本は良くなりっこない)
・日本の底の方にひしめいている多くの人々のことは誰も考えない。
 その人たちの幸福にするために、政府を替えよう、国を守ろう、ということではないの
 だ。 
・(どこかちがう)
 民主主義の良さを経験してきている万次郎には、日本の運動の動き方自体が、根本から
 間違っているように思えるのである。
・(これでは、政府が替わっても、結局はサムライや金持ちが幸福になるだけだ)
 一般の人は、相変わらず苦しい生活を送ることになるだろう。
  
・ある日、勝海舟がにこにこして帰ってきた。
 「おい、中万よ!アメリカに行くぞ!」
 「へえ、それはおめでとうございます!」
 「ばかやろう!アメリカにはお前も行くんだ!」
・アメリカ行きは本当だった。
 「前に結んだ”開国条約”の正式な調印書の交換を、アメリカの首都ワシントンで行い
 たい」 
 という申し込みが、アメリカ政府から来たのである。
 そのために、「軍艦ボーハタン号を差し向けます。どうぞお使いください」
 ということである。
・幕府は困った。
 「日本中が混乱しているときである。こんなときにアメリカに行ったら、乱暴なテロリ
 ストたちが、よけい狂ったみたいになるだろう」 
 「いや、仮にも外国と結んだ条約だ。行かなければ、日本の信用にかかわる。約束を破
 れば、それこそ本当にアメリカは攻めてくる」
 そんな論議がかわされた。
・結局、国際的信用を守る、という立場を貫くために、幕府は全権大使をアメリカに送る
 ことに決めた。 
 大使には新見豊前守正興という外国奉行が選ばれた。
 艦隊の司令官には木村摂津守喜毅という海軍奉行に決まった。
・そして、ボーハタン号の船長には勝海舟が選ばれたが、勝海舟はへそを曲げた。
 「ふざけてはいけません。アメリカから借りた船で、のこのこ太平洋を越えられますか!」
 「それでは、どうするのだ?」
 「決まっているじゃありませんか。日本の船で行くんですよ!」
 「日本にアメリカまで行ける船があるのか?」
 「ありますとも、幕府がオランダに造らせた咸臨丸です」
 「ああ、あの咸臨丸か・・・」
 木村は、ばかにしたように言った。
咸臨丸というのは、軍艦操練所の練習船として、幕府が買った小型の帆船である。
 とても太平洋の荒波を乗り切れるとは思えない。
・「ああ、あの咸臨丸とは何ですか。立派な日本の軍艦ですぞ!」
 なんとなく尻込みしている木村に、勝は言った。
 「よろしい。あなた方はアメリカの船でいきなさい。わたしは、軍艦操練所の生徒を指
 揮して咸臨丸で太平洋をおしわたる。日本人の意地を見せるのです」  
 それならいい、と木村は承知した。
・万次郎はきいた。
 「ところで、わたしは、何のためにアメリカへ行くのですか?」
 「通訳だ。いまの日本の通訳は、いい加減な英語で、肝心な話が一つも通用しない。
 本場仕込みの中万でなければだめだ」
 「それから、アメリカへいく日本人全部に行儀作法を教えろ。それもお前の役目だ」
 とも言った。
 つまり、アメリカの生活に暗い大使一行に、食事の仕方からホテルの泊まり方など、
 一切の仕来りを教えてやれ、というのである。 
・(ようやき、わたしの価値が認められはじめた・・・)
 万次郎はそう思った。
・日本の大使一行の出発は、1860年(安政七年)一月と決まった。
 
・万次郎は、咸臨丸の甲板にいた。見渡すかぎりの大海原である。
 「野蛮な国、日本」
 「ブタの頭をした国、日本」
 そう言われ続けてきた。
 (その日本が、今、初めて世界に向って胸を開く・・・)
 アメリカを手はじめに。そのアメリカへ行く。しかも、万次郎は、その大使たちの通訳
 兼教師として。
 アメリカで、海の上で、あれほど考え、願ったことが、ようやく実現したのだ。
・咸臨丸は荒波を突っ走る。一路サンフランシスコを目指している。
 万次郎が金を掘った懐かしい街だ。
 (みんな、きのうのできごとのような気がする)
・その咸臨丸のマストに、高々と日章旗がかかげられていた。
 日本で初めての旗である。
 それは、白地に赤い丸を描いた旗であった。
 もっとも、この時は、まだ日章旗は日本の国旗と決められたわけではなかった。  

あとがき
・咸臨丸は、太平洋を横断するのに37日かかった。
 船はこの37日間の大半を風と大波に苦しめられた。
 日本人が初めて日本の船で太平洋を横断したということで、咸臨丸の航海は高く評価さ
 れたが、本当は、さんざんだったらしい。
 それに、大きな海での航海技術を身に付けていない日本人乗組員は、ほとんど役に立た
 ず、アメリカ側の船員が、色々なことを根気強く指導してくれたようである。
・咸臨丸の乗組員に、一人おもしろい人がいた。
 福沢諭吉である。
 かれは、何の関係もないのに、船が出る直前、浦賀に駆けつけて、
 「中浜さん、どうか一緒に連れて行ってください」
 と、強引に頼み込んだ。
 アメリカの実態を自分の目で確かめ、さらに英語の勉強をしたい、という福沢諭吉の気
 持ちが非常によくわかるので、万次郎は勝に、 
 「ぜひ、連れて行ってあげてください」
 と頼み込んだ。勝も話のわかる男なので、
 「よし、引き受けた」
 と胸をたたいた。こうして福沢諭吉は咸臨丸に乗り込めたのである。
・その後の日本にとって、福沢諭吉がアメリカに行けたことの意義は、かなり大きいもの
 がある。 
 なぜなら、福沢諭吉は万次郎とともに、日本にアメリカのいい面、すなわち、民主主義
 を植え付けようと努力したからである。
・「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
 という有名な言葉は、福沢諭吉の考えをよくあらわしている。
 彼は、「人間はすべて平等である」ということを、日本人全部の考えにしたかったので
 ある。 
・「国民にはなにも知らせる必要はない。ただ、政府に頼らせておけばよい」
 という当時の考え方は、その後もずっと続く。
 しかし、福沢諭吉は万次郎とともに頑張り抜く。
 自分の思想を受け継ぐのは若い人たちだと考えて、慶応義塾を造ったりした。
 民主主義の種をまいた、という意味で、福沢諭吉の果たした役割は大きい。
 
・嵐の中を航海してきた咸臨丸は、すっかり船体を痛めてしまった。このまま航海を続け
 ることはできない。 
 咸臨丸はドッグに入って修理することになった。かなり長くかかりそうである。
 仕方がないので、正式の使節、新見豊前守一行は、ボーハタン号というアメリカの軍艦
 で先に行ってもらうことにした。万次郎たちは、サンフランシスコに残る。
 新見たちは五月にワシントンに着き、八日後に日米修好通商条約に正式に調印した。
・万次郎は、咸臨丸がドックに入っている約一か月間、福沢諭吉と二人でサンフランシス
 コの町を歩き回った。二人の関心は主に、本屋に寄せられた。
・咸臨丸の修理中、ドックの人に何もかもかませてワシントンに行ってしまうわけにはい
 かず、結局、勝海舟をはじめ万次郎たち乗組員は、ワシントンには行かなかった。  
・サンフランシスコで、万次郎はホイットフィールド船長に手紙を書いた。
 船長には無断で帰国した形になっているので、日本に帰ったいきさつとお詫びを、
 この機会にと思ってこまごまと書いたのだ。
 のちにホイットフィールド船長から万次郎に返事が来たが、ちょうどそのころ、
 アメリカは南北戦争に突入していたので、船長の手紙には細かいことは書かれていなか
 った。
・一ヵ月後、1860年(蔓延元年)三月、咸臨丸はサンフランシスコを出航して日本に
 向った。そして五月に東京湾の品川沖に着いた。
・帰国後の万次郎は、土佐の大名・山内容堂に頼まれて土佐藩の武士に航海術を教え、
 さらに幕府の英語の先生も務めた。
 明治維新後は、新政府に頼まれて国立の開成校(いまの東京大学)で英語の教授になっ
 た。 
・しかし、明治政府のやりかたは、民主主義とはほど遠いものであり、万次郎には納得で
 きないことが多かった。
 (アメリカから持ち帰った人間平等の考えが、日本で実現されるのは難しい)
 そう思いながら、1898年(明治三十一年)11月、悠々と死んだ。71歳であった。
 恩人のホイットフィールド船長は、その三年前に死んでいた。
 

ジョン万次郎とその時代(対談解説:童門冬二、松永義弘
・ジョン万次郎は、非常に強運であった。
 あのころ、日本の外に出ちゃった人は、早く言えば日本に帰って来られなかったわけで
 す。帰って来てもまた追い返されるか、殺されるかということです。
 ところが、たまたま開国寸前、そのぎりぎりのところだった。
 日本の辿り着いた所が薩摩だった。その薩摩の藩主が島津斉彬だった。
 これがまた幸運の一つの理由です。
・とき老中の阿部正弘はペリーが来たときに、外海に面している大きい大名、太平洋だっ
 たら薩摩藩とか、土佐藩の山内容堂とか、あるいは伊予宇和島藩の伊達宗城とか、玄界
 灘でいえば佐賀藩の鍋島直正とか、日本海でいえば越前藩の松平春嶽とか、こういう人
 たちと当時、保革連合政権を組もうと思っていた。
 外海に面している所なら国防上の知識や技術も、当然、進んでいるはずだというニーズ
 が高まっていたわけです。
・結局、万次郎たちは島津斉彬の所にしばらくご厄介になって、斉彬自身はアメリカの諸
 制度をジョン万次郎から聞いてほとんど吸収しちゃったわけです。
・その後、土佐藩に引き渡されたんだけれども、まだ幕府に遠慮してジョン万次郎を公に
 処遇することができないから、「河田小竜」という坂本龍馬の先生の所に預けたわけで
 す。
 河田小竜も海外雄飛や日本の国防の問題とかに関心をもって間もなく長崎に行っちゃう
 人ですから、海外事情に飢えていたでしょう。
 それでジョン万次郎からどんどん聞くことによって、そういうものを吸収していく。
 結局、河田小竜の知識とか、ものの考え方は、そこに遊びにきた坂本龍馬にそのまま引
 き継がれていくわけです。
・東京大学の前身の開成学校のさらに前身である蕃書調所は、ジョン万次郎に、オランダ
 語はもう国際語ではない、英語だということを教えられて、日本における外国学、外国
 語の勉強を切り替えていくわけです。
・だから万次郎は蕃書調所に阿部に呼びされた後は英語の翻訳に、実際に従事しているわ
 けです。 
・条約批准のために咸臨丸に乗って行ったのは結局、英語がわかるからです。
 勝海舟でも、オランダ語しかわからないからです。 
・だから福沢諭吉が、オランダ語はだめだといって、英語に切り替えようと猛勉強を始め
 たときですから、サンフランシスコに上陸して他の連中がアメリカの土産物を夢中にな
 って買っているときに、二人でウエブスターの英語辞書を買って帰ってきた。
 これが日本の英語界にえらい役に立つわけです。
・万次郎の子孫である中浜博さんの「私のジョン万次郎」という本には、江戸時代に鳥島
 に漂着した十五件の記録が挙げられているんですけれども、万次郎たちは漂流した日数
 が五日半で圧倒的に短いんですね。長い人だと五十日、六十日とかかかっているんです。
 また島にいた期間も一番長い人だと十九年ですが、四か月程度で短い。
 それに、他の人たちはほとんど自力で脱出したり、後から漂着した人と協力してやっと
 脱出しています。この点でも、やはり運に恵まれていますね。
・アメリカの「ブルック大尉」が咸臨丸に便乗してアメリカへ帰ることになって、通訳が
 心配になって、「アメリカ彦蔵」と一緒に万次郎に会っています。捕鯨船員上がりと聞
 いていた二人は、たかだかスラングをしゃべるのではないかと思っていたんですが、流
 暢で立派な英語だったので非常に喜んだということです。 
・咸臨丸が最初にアメリカへ行った往路は、日本人乗員は士官も水兵も全く役に立たず、
 ブルックはこれでは沈没すると言って、部下十四人を使って操船にタッチするんです。
 ブルックは日記に書いています。
 嵐の海で船室に潜り込んでいる日本人は、砂の中に頭だけ隠して、それで身の危険を逃
 れると思っているダチョウと同じだと。 
 それでも少しずつ、日本人船員も働き出し、それにはブルックから英語の指示が飛ぶ、
 その時、万次郎が乗船していたことがどんなに役に立ったことか。
・勝海舟はむくれているしね。ふんぞり返っちゃってね。げろを吐いているくせにいばっ
 ていて・・・
・福沢諭吉が勝海舟を批判していますね。
 木村摂津守喜毅も怒っています。あいつは何もしないで、げろは吐いていただけだと。
・明治以後になってから他の人間は、皆、死んじゃって嘘だか本当だかだれも知らなくて、
 勝海舟は何でも「俺が、俺が」と「氷川清話」や、「海舟座談」なんか書いているから、
 皆、そう思っちゃうんだよ。
・勝海舟だとか、木村摂津守などが万次郎のことを書いていないのは、やっぱり認めたく
 なかったんだ。勝海舟は特にそうです。   
 だから勝海舟というのは上昇志向の強い人ですね。身分制にこだわりがあったんじゃな
 いかな。
・明治になると万次郎は表舞台に出ていきません。役割が終わったんでしょう。
 万次郎が帰ってきて、そして十年たって咸臨丸が向うへ行って帰ってきたら、アメリカ
 の事情に対する日本人の知識は、もう数倍になっていますから、正直いって万次郎は、
 もういらないですものね。 
 起爆剤であり、呼び水みたいな役割を果たせば、それで使い捨てという存在だったんで
 しょうね。
・それから結局、アメリカは思想のない国でしょう。
 共和制度はあくまでも資本家擁護のためのシステムですよね。
 だから、株式とか、大統領選挙だといってみても、金のある市民へ奉行する社会体制と
 いうか、政治体制だから。
 日本では下級武士でも一応は儒学、朱子学なり、陽明学なりで政治というのはどうある
 べきか。何のためという目的意識をきとんと添えています。
・万次郎の場合にはイギリスとか、ドイツとか、フランスといった伝統のある国の政治思
 想などを学ぶ時間がなかったでしょう。
 アメリカ・プロパーでいって、純アメリカ的な教育を受けてきているから、民主主義と
 いうのはアメリカの民主主義なんです。だからイギリスとか、ドイツ、フランスで育っ
 てきたものには歴史的な積み重ねというか、一つのイデー(理念)がありますよ。
 そこまでは体系かできなかった。 
・やはり、専門学校、技術学校なんですね。これが結局はペリーのときにもオミットされ
 る。
 事務屋の出番になって用がなくなってしまったということなんでしょうね。
 事務屋イコール官僚。阿倍正弘が用いた「岩瀬忠震」とか、「川路聖謨」とか。
・外交用語を知らないでしょう。国家同士が使うときの用語を万次郎は知らないでしょう。
 英語でも知らないし、日本語だと余計知らない。
 そうしたら官吏同士がやり合うときには使えません。
 ただ会話だとか、技術だけの用語でしたら万全でしょうけれども。
 実用語は知っていたんでしょうね。その裏打ちとして小学校や中学校くらいの基礎教育
 は受けている。 
 系統的な政治学とかはやはり分からなかったでしょうね。特に経済の問題はね。資本主
 義の何たるかは無理じゃないかな。
・万次郎は坂本龍馬にはたぶん、直接会ってはいないでしょうね。
 仲介は河田小滝ですよ。
 竜馬が河田小竜の所に通っているときに河田小竜の言葉として、今、アメリカに資本主
 義というか、株式組織があって、つまりお金を皆で出し合って、それによって事業を行
 ったときに利益があれば、出資額に応じて配分していいよ、お前はそういう会社をつく
 れと。
 それに必要な人材育成は俺がやってやるよと小竜がはっきり言っているんです。
 河田小竜がそんなことを知っているはずがないから、これはジョン万次郎の知識を入れ
 て、それを自分なりに消化して小竜なりに考えた。
・坂本龍馬というのはオリジナリティーが、全然、ないんです。独創的にものを考える人
 じゃないんです。 
 大体人からヒントを得たり、あるいは他人がこれはだめかなとうっちゃったのをちりか
 ごから拾ってきて、これは使えるんじゃないかと。
 薩長連合でも、皆そうなんです。だから彼の船中八策から大政奉還に至る原案は、やは
 り河田小竜であり、その前は中浜万次郎です。
・坂本龍馬だって明治三十二年から三十四年までは無名の新人ですよ。だれにも知られて
 いないんですから。
・土佐藩は皆、板垣退助や谷干城だって、中岡慎太郎の武力倒幕派に心酔しているから、
 あの当時は大政奉還とか、共和制なんていっている坂本龍馬みたいな奴は生ぬるくてだ
 めなんですよ。ジョン万次郎もその傾向だから、思想的に明治新政府は受け入れられな
 い。
 だから影響を与えたという意味でいえば、坂本龍馬の船中八策のルーツは河田小竜であ
 り、勝海舟です。勝海舟だって、結局は発想はジョン万次郎からです。
・吉田東洋の所で後藤象二郎が一生懸命に万次郎の話を聞いて、それから河田小竜と会う
 わけです。それで長崎の土佐商会をつくるわけです。
・長崎では万次郎もずいぶん芸者買いをしています。だから後藤象二郎は機密費がずいぶ
 んあったんです。その余慶が万次郎まで回ってくるんですから。
・蕃書調所とか海防掛とか、今の外務省ですが、帰ってきても万次郎を使おうとか、活用
 しようという気は、全然なかったんじゃないですかね。 
 だってアメリカのペリー、ハリスと条約を結んだのは岩瀬忠震と井上清直、
 それからロシアのプチャーチンと通訳にきたゴンチャロフとつきあったのは川路聖謨と
 筒井政憲でしょう。
 言葉は何もわからないですよ。ロシア語もわからないし、英語もわからない。だけど、
 それで無理をしてやっちゃうということは、万次郎を加えて仕事が進んだという実績づ
 くりを、やっぱり排除していたんではないかな。
 それは実際に役立たなかったのか、役に立つんだけれども、万次郎の人柄がそうさせな
 かったのか。
 それにプラス身分制度が加わってきているから、構造的にはちょっと難しいかもしれな
 い。
 それからもう一つは、その時代の武家的な教養がなかったことが致命傷ですね。
・何と言っても儒学ですよ。
 どんな世の中でも新しいばかりでは人間は使えませんよ。
 だからある程度の利用はできてもこれを真ん中に据えることはちょっと難しいでしょう。
 これが万次郎の限界です。
・福沢諭吉は自叙伝で、万次郎について書いていない。
 あの自叙伝も「俺が、俺が」です。
・蔓延元年の遣米使節団の少年通訳となった「立石斧次郎」というのがいます。
 斧次郎のことも、子供が英語を少し喋れるらしいと福沢諭吉が言っている。
 だからあの人も自分は下級侍でぶうぶう文句を言っていたけれども、下に対しては、
 やっぱり威張りくさっていたんでしょうね。
・ホーツン事件というのがあります。
 これは、文久三年一月に、捕鯨のために立ち寄った小笠原で万次郎がアメリカ人の犯罪
 者を逮捕した事件です。
 条約に則って日本人が外国人を逮捕した最初です。船長ですから、船長の権限は強いし、
 自分の船の上でそういう事情があれば、船長として・・・。
 何も日本人だとか、外人だとかは別にして船長としてもやらざるを得ないでしょうね。
 そして連れてきたやったら幕府が困った。
 余計なことをしたなと外交部局の連中は舌打ちする始末・・・。
・そのへんも幕府の外交意識と万次郎の意識にはちょっとずれがあったんでしょうね。
 要するに、小笠原諸島というのはアメリカも、ある意味では狙っていたし、イギリスも
 何ならというところだった。
 水野忠徳が出かけていって、この時の派遣船が咸臨丸で、船長は小野友五郎、通訳は
 中浜万次郎で、日本領有を宣言し、どうにか国際的に認められるようになったばかりの
 時です。  
 こういう時、アメリカ人を逮捕してきたんです。
 そうすると、案の定アメリカ大使のプリュウインは、ホーツンの無罪を主張して、不法
 逮捕の慰謝料として二千ポンドを要求して、恫喝態度で臨むのです。
 万次郎は、非常に怒ってプリュウインに食ってかかるのですが、外国奉行は、これ以上
 ごたごたが長引いて、その他多くの外交問題に悪影響があってはならないということで、
 いわゆる政治的解決というやつで、ホーツンに千ドル渡して小笠原に返すことで一件落
 着です。 
 万次郎はものすごく不満だったでしょう。でも、幕府としてはここで事は早く収めたほ
 うがいいということでしょうから、そういうふうな政治性は万次郎は持ち合わせていま
 せん。
・万次郎は、導入者としては、それなりの功績があるんじゃないですか。
 アメリカの民主主義、共和制とか、資本主義のはしりなどを導入したんです。
 でも日本人の悪い癖は何を言ったかじゃなくて、誰が言ったかなんですよ。
 つまり言ったときの相手の身分とか、立場とか、権威とか、名刺の肩書きだとか。
 ただの人はだめなんです。
・そういう意味でジョン万次郎は何もないから、非常にいいことを言って、日本の近代化
 にものすごく役に立っているんだけれど、やっぱり肩書きがないから、ある人は認めた
 くないでしょう。  
 それを取り入れたほうは、今度は俺が言ったんだみたいなことで転用していっちゃうん
 じゃないか。
 それから万次郎自身も、系統的な学歴がないだけじゃなくて、ある程度、上になっちゃ
 うとポストを渡り切れるほどの学力もなかったんです。
・幕末から明治を見ていると、結局は組織の勝利ですよ。
 とにかく倒幕とか、いろいろなことに結びつく世論の形成者はいちばん最初は個人なん
 です。学者。「梁川星巌」とか、「頼三樹三郎」とか、こういう人でしょう。
 だけど、個人は安政の改革のときでも「吉田松陰」とか、「橋本左内」を含めて抹殺さ
 れてちゃったでしょう。
・そこでそういう思想家の芽は絶えて、ここで痛い経験をしたから、その後は個人がグル
 ープをつくる勤皇の志士とかはだめだとなっちゃう。
 それで脱藩者が連合をつくったけれども、皆、つぶされちゃったでしょう。
 それを見ていて、長州藩も、薩摩藩も、土佐藩も、究極的には勝利して大臣級にまでな
 った奴は最後まで脱藩しない奴です。あの大久保だって、桂だって、伊藤だって、全然、
 脱藩していない。最後まで組織にしがみついている。
 だからジョン万次郎も土佐藩の中で、身分がないから何かが必要だったのかなと思いま
 す。一つの道筋としては坂本龍馬に何かでくっつかなかったかなと。海援隊に入って、
 参謀的な役割を果たすとか。
・万次郎が日本に帰って来て突き当たった組織と個人の問題などは、今でも日本人の中に
 続いているのではないでしょうか。
 勢いで会社を辞めたりするような人が今でもいますが、結局、残っていた人が得をして
 いたりとか。
 辞めてよかったなんていうことはないです。絶対、残るに限る。
・何をもってわれわれが今、万次郎から学ぶというか、あるいは反面教師とするかという
 ことをビジネスマンに置き換えた場合には、もう少しテクニックが必要だったかなと。
 せっかく持ち帰ったものを友好的に活かし、自分も得をするような生き方も、あるいは
 あったのかなということです。宝はずいぶん持ってきたんですよ。
 だけど、彼はそういうことをあまり求めないし、いわないし。それとやはりジョンなん
 ていう名前を上につけていると。  
・日本にだって中華思想はあるんですよ。つまりあれは中国だけの問題じゃなくて、周り
 の国々からきている奴を毛唐といってばかにする思想は、日本だってやっぱりあるんだ
 から、散切り頭で帰ってきればどうなんでしょうかね。 
・下田の「唐人お吉」がたった二日しか、ハリスのところに行っていないのに一生だめに
 されちゃうような、ああいうものですよ。
 やっぱり外個人をばかにする考えは根強いんじゃないですか。アメリカ帰りなんていう
 のは、今はともかく、昔は誇れないことじゃないかな。
・グローカルという言葉があるんですよ。グローバルにものを見て、ローカルに生きて行
 くと。
 だからトンボの目のように、片方で国際的視野、巨視的なものの見方をし、片方で今、
 自分が根っこをはやしている場所を大事にして生きていくことがいちばん大事なんです。
 結局、それはあり意味で生きていく上の技術がいるんです。両方をフィードバックさせ
 ていかなければいけない。
 万次郎はそこがうまくいかなかったなという気がします。