上杉鷹山の経営学 :童門冬二

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この本に出てくる米沢藩(現在の山形県米沢市)というところは、元々はあの伊達政宗の
領地だったようだ。その後上杉藩の領地となり一時、直江兼継が治めたが、関ヶ原の戦い
で石田三成側について戦い敗れた上杉景勝が、それまでの領地会津から減移封されたため
にその領地を景勝に譲った。こうして米沢藩は上杉家の領地となったようである。
上杉家は、元々が名家であったため、藩主や藩士の暮らしぶりもそれなりに贅沢なものだ
ったのであろう。当時の石高のあまり多くなかった米沢では、それを支えることはできる
はずもなかったろう。歳入はどんどん先細るのに、歳出は以前のまま、財政は大借金だら
けという、現在のどこかの国に似ている状態だったと思われる。
しかし、上杉鷹山という人はすごい人だったようだ。まさに財政改革の神様である。
1700年代の江戸時代に、しかもまだ20歳代という年齢で、このような藩の財政改革
が行えたということは驚嘆するしかない。
今の日本の財政は危機的状態にある。このままいけば財政破綻するのは確実だろう。
2012年末の総選挙で民主党から自民党へと政権が戻った。再度政権を担当することと
なった安倍政権は、経済の再建を主眼において、これからの政策を行うようだ。しかし、
旧自民党のばら撒き政策の延長では、日本の財政破綻の引き金を引いてしまうことになる。
2011年3月11日に発生した東日本大震災からの復興は進まない。福島原発事故への
対応もしかりだ。これらを推し進める基盤となるのは国の財政だ。これがしっかりしなけ
れば、進むのも進まなくなってしまう。
江戸時代と現代、時代は異なるが、現在の日本の財政危機を回避するには、この上杉鷹山
の改革は、少なからず参考になるのではと思える。

まえがき
・経営改革というのは、たんにバランスシートに生じた赤字をゼロにすることではない。
 改革を進めるには、人づくりが大切だ。人づくりを無視した改革は決して成功しない。
・客に対するサービス精神を何よりも経営の根幹に置くべきである。
・絶望的な職場はたとえてみれば冷えた灰だ。しかし、その灰の中をよく探してみれば、
 必ずまだ消えていない小さな火種があるはずだ。その火種はあなた自身だ。その火を他
 に移そう。つまり灰のような職場でも、火種運動を起こせば必ずその職場は活性化する。
 そしてその組織は生き返る。
・大名やその家臣のために地域住民が存在しているわけではない。逆に、地域住民のため
 に大名やその家臣が存在しているのだ。
・お客さんのためにわれわれは存在する。
・国民や地域住民のために、役所や役人が存在するのだ。
・彼は経営改革の二本柱に、生産品に付加価値を加えることと、同時に人づくりを行うこ
 とを基本にした。
・品物を使う側や、サービスを受ける側の身になった時、われわれが差し出すものは、は
 たして満足を得ているのだろうか。もっと注文があるのではないだろうか?という疑問
 を常に持ち続けようということだ。
・上杉鷹山公の行った経営改革は、赤字を消しただけではない。人間の心の赤字を消した
 ことだ。人々の胸に、もう一度他人への愛、信頼という黒字が戻ったのだ。

プロローグ なぜ、いま上杉鷹山か
・上杉家は、名門であり、謙信以来の家なので、万事が形式を重んじ、その形式には出費
 が伴う。謙信の時に比べれば20分の1ちかく、景勝のときに比べても8分の1に収入
 が激減しているにも拘わらず、人員整理を全く行わなかった。つまり、経営規模が大企
 業から中小企業級に縮小しているにも拘わらず、社員をひとりも減らさなかったのであ
 る。
・改革を妨げる壁は3つある。@制度の壁、A物理的な壁、B意識(心)の壁だ。Bの
 「心の壁」を壊すには、@情報はすべて共有する、A職場での討論を活発にする、Bそ
 の合意を尊重する、C現場を重視する、D愛と信頼の念を回復する、ことだ。
・鷹山の経営改革の目的は、領民(おとくいさん)を富ませるためである。
・価値観の多様化による客のニーズの多元化と、国債バッシングの激しさは、現在の日本
 の多くの企業とそこで働くビジネスマンに、ともすれば暗い思いを湧かせる。必然的に、
 他人や職場環境に文句をいう風潮を生む。つまりヒトのせいにすることが多い。
・やる気のある者は、自分の胸に火をつけよ。そして、身近な職場でその火を他に移せ。

名門・上杉家の崩壊―財政破綻はなぜ起こったか
・米沢藩が抱えている士の数は、藩総人口の23%に当たる。同じ収入規模の南部藩(岩
 手県)は6.94%であり、秋田藩は9.8%である。
・米沢藩は、定数言をまったくおこなわずに社員を温存したが、しかし給与そのものは温
 存する訳にはいかなかった。15万石という8分の1に減らされた時点で、米沢藩もさ
 すがに藩士たての給与をベースダウンしている。
・米沢藩内部において、上中級武士が下級武士を侮り、下級武士はまたそれに対して怒り
 の声をあげるという、憎しみの言葉の投げ合いであった。それも藩全体の貧しさゆえに
 生まれたものである。
・参勤交代に藩祖以来の仰々しい行列をそのまま守り、江戸での生活をことさらに贅沢に
 したり、また開藩以来の形式主義とそれに伴う財政支出をまったく放置したことなので
 ある。 
・これに輪をかけて米沢藩の財政支出を促したのは、吉良上野介によってであった。吉良
 上野介は赤穂浪士によって討たれた。この時、米沢藩の中では、吉良上野介を恨んでい
 る連中が多かったので、この知らせを受けると、哀しむ人間はほとんどなく、むしろい
 い気味だと口に出して言う者さえいた。
・吉良上野介の家が名門であったことは疑いない。足利時代からの由緒ある家で、徳川幕
 府の中でもわずか二千石の禄高しかとっていなかったが、吉良の家は高家と言われ、幕
 府の扱いは丁重であった。
・吉良上野介は一体どれほど米沢藩の財政状況を知っていたのだろうか。知っていたとし
 ても彼は容赦しなかったに違いない。吉良上野介は米沢藩を食いものにした。自分の贅
 沢な生活費のほとんどを息子に言い付けて、上杉家から支出させたからである。
・家臣の中には、早々にあるたけの財産を自分の子どもに譲ってしまい、家名を売って武
 士を廃業してしまうような者も出た。刀や槍など武具を売り払うことは日常茶飯事であ
 った。こうなると、いままで財政援助をしていた商人たちも見放した。米沢藩と聞いた
 だけで、一文の金も貸さなくなった。
・そこで窮した藩庁は、商人や農民の中で金を貸してくれる者には、武士としての待遇を
 与えた。つまり苗字を許したり、刀をさすことを許したのである。
・「米沢藩はもう駄目だ。他の土地に行こう」と言ってどんどん土地を放擲して逃げ出す
 者が増えた。
・税源がなくなってしまったのでは藩財政は立ち行かない。荒廃した土地と、乱脈を極め
 る経営に米沢藩は、ついに破局を迎える。藩主重定は、「謙信公以来の名家ではあるが、
 このままでは米沢藩は野たれ死をする。いっそのこと版籍を奉還して、名だけを保つよ
 うにしたい」というような悲愴な決意にたち至った。
・徳川幕府が開府されて以来、大名が版籍を奉還して封土を放り出したいという申し出は、
 明治以前ではおそらくはじめてのことだったろう。

名指導者への序曲―実学感覚を修得せよ
・得てして、偉い人は、立派なことを言います。そして、何でも思ったことを言ってほし
 いとおっしゃいいます。その何でも言ってほしいということに中には、自分の耳に痛い
 こと、つまり批判でもよいから言えというようなことがあります。真に受けて、藩公に
 直言しました。藩公は初めはニコニコして聞いていらっしゃいましたが、やがて段々表
 情が変わって、ついには目に怒りの色が浮かびはじめました。。やがて来たのは私に対
 する左遷の命令でした。その時私は悟りました。偉い人が、何でも言ってみろと言うの
 は、実はうそだと。本当は耳に快い誉めことばばかり欲しかったのです。
・私は人間には誠意があるということを信じております。すなわち、真心さえあれば、多
 くのことを語らなくても、人は自然に分かってくれるものだと信じておりました。しか
 し、米沢藩ではそうではありません。真心を持っていても、黙っていると、黙っている
 ことを良いことにして、人々はあらぬことを言いたてます。
・鷹山は人間一人一人を見つめることによって、藩の実態を知っていったのである。つま
 り人間に現れている現象がそのまま藩の実態を反映していると見たのである。したがっ
 て、人を知れば知るほどその分だけ鷹山は、米沢藩の実態を知った。一人一人に現れて
 いる実態の総和によって鷹山は次第に頭の中に米沢藩の実像を構築していった。

変革への激情―「真摯さ」がなければ、何事も始まらない
・そのころ、中央政府をとりひきる徳川幕府は、十代将軍家治の時代で、鷹山が上杉家を
 相続したのと同じ時期に、突然、田沼意次という人物がのし上がってきて、持ち前の才
 幹で、あれよあれよと人々が驚いているうちに、ついて家老筆頭(首相)になってしま
 った。田沼は父が紀州藩の足軽という、いたって低身分の出身だったが、それだけに、
 あまりしきたりにはこだわらず、思い切った政策を展開した。田沼はむしろ重商主義を
 とり、また、鎖国という国是を破って、開国同様の状態にし、外国の文物をどんどんと
 りいれた。が、田沼には大きな欠点があった。ワイロが好きだったのである。
・民の汗であり、あぶらである年貢(税)を、ワイロなどには使えない。米沢藩は自力で
 更生しよう。政治家は徳の人でなければならない、と鷹山は暗に田沼を批判した。
・そのうちに、田沼の政治に反感をもつ大名たちが結束し、田沼を失脚させた。田沼に代
 わって登場した町大ら定信が展開したのは「大倹約し政策」であった。商業を弾圧し、
 西洋の学問も禁じた。都市にいる若者には田舎にUターンを命じた。国民のぜいたくも
 一切禁じた。貿易も禁じた。日本は、固苦しいしめっぽい国になった。経済は低成長の
 まま、二度と景気が浮揚することは期待できなかった。
・上杉鷹山は、こういう時代に生きた。つまり、経済の高度成長と低成長の二つの時代を
 生きたのである。そして、田沼意次の国民の消費助長政策と、松平定信の緊縮政策の二
 つをじっとみつめていた。
・徳川幕府の経営改革が、なぜ今まで成功しなかったのか。その理由は
 一 経営改革の目的がよくわからない
 二 その推進者が一部の幕府エリートに限られたこと
 三 改革をおこなう幕府職員にも改革の趣旨が徹底していなかった
 四 改革の目的や方法が親切に国民に知らされず、一方的に押し付けられた
 五 国民の負担が軽くならなければならないのに、逆に幕府は増税をした
 六 改革を進める官僚は、すべてエリートであり、部下に対して、指示・命令としての
 み方法を押し付けた
・政府や企業が、経営改革をおこなう時には、当然それなりの理由がある。経済が高度成
 長から低成長に落ち込み、閉塞状況になって、税収が落ち、新しい仕事がやりにくくな
 った時に、必ず改革が行われる。あるいは思い切って身を削ぎ、身軽になって、新しい
 仕事に集中するために、古い仕事を切り捨てるというようなことがある。そのために、
 組織を縮小し、人員を減らし、経費を切り詰めるということは常套手段である。
・しかし、それは、経営改革とは行政改革とか、鳴り物入りで誇大に宣伝して仰々しくお
 こなうことではない。地道にコツコツとその当事者が、自分たちの生活を成り立たせて
 くれている人々のために、誠心誠意におこなうべき日常業務のはずである。それぞれの
 職場において、そこの成員が、討論と合意によって案を生み、より良い方法を、日常業
 務として実現していくことが、真の経営改革なのだ。行政改革なのだ。上杉鷹山は、こ
 ういう点に着目した。そして、今までの幕府が改革に失敗したのは、「すべて、民と社
 員に対する愛情の欠如だ」と思うようになった。
・「改革は、愛といたわりがなくてはならない」というのが、鷹山の経営改革の底にすえ
 るべき基本理念であった。たとえ財政再建のための行政改革、経営改革であっても、そ
 の対象となる人々への愛といたわりがなくて決して成功しないということを感じ取った。
・彼は、自分の経営改革は、決して藩政府を富ませるためにおこなうのではなく、むしろ、
 藩民を富ませるためにおこなうものでなければならない、と思うようになった。
・世の中のことはすべて二者択一ではなく三者択一であり四者択一であり、あるいは五者
 択一の場合さえあると思っていた。選択肢は無限にあるのである。その中から一番良い
 ものを選ぶ、あるいは次善のものを選ぶ、それが人間ではないかと思った。そうしなけ
 れば、人々は常に争い続け、何ら得るところがなく力を費やしたまま終わってしまうか
 らである。
・組織は人である、ということを鷹山はよく知っていた。そしてその組織は人であるとい
 う場合の「人」は、一人一人の人間であるということを知っていた。だから、まとめて
 こうしろああしろと言うことを鷹山はしなかった。一人一人の人間をよく見つめ、一人
 一人の人間が自覚に基づいて自分を変革し、その変革の総和が組織を変革していくとい
 うふうに考えていたのである。
・改革を進めるには、まず改革主体のモラールをアップしなければならない。また改革さ
 れる側が喜んでしの改革を受け容れるようにしなければならない。改革を喜んで受け容
 れたり、モラールアップをしながら改革を進めるということは、改革する側もされる側
 も改革の趣旨をよく理解し納得して、自発的に協力するようなムード作りが必要なのだ。
 それには、改革の目的そのものが、究極的には、誰かさんのために役立つという意義が
 設定されていなければならない。
・世の中は、誰が言っているかが問題であって、なかなか何を言っているのかにはならな
 い。その意味では、改革案がいかに立派なものであろうとも、それを作ったお前たちが、
 自分を変えなければ、米沢本国では到底受け容れられないだろう。
・あまりにも当時の米沢藩士は井の中の蛙で、社会状況を知らなかった。藩が経営的に追
 い込まれていても、形式主義を守り、旧来の習慣に生きることが、士のすべてだと思い
 込んでいたのである。自分の身に変革が及ぶされることを極度に嫌った。

大いなる不安―絶望感は自らの力で取りされ
・米沢藩の領内の光景は決して明るくはならなかった。山も死に、川も死に、土も死んで
 いた。そして、何よりも死んでいたのはそこに住む人々の表情であった。表情だけが死
 んでいたのではない。心が死んでいるのだ。米沢藩内に住む領民は、誰一人として希望
 を持っていなかった。希望がないから心が死んでいるのである。
・改革を進めるのは、実に現場の人間たちである。その現場の人間たちに改革の趣旨や目
 標を説明しないで、何で改革を進めることが出来よう。
・みんなの頼むことは、指示・命令ではなく、協力の要請である。私は、みんなを統制・
 統御する力は持っていない。目標に対して私の力はあまりに小さすぎる。限界がある。
 したがって、藩士のみんなは大き過ぎる目標に比べて小さすぎる私の実態をよく見つめ、
 その目標と私の力との間に空いた隙間を、みんなの協力によって埋めてほしい。
・今後の改革に必要な情報は、すべて包み隠さずに、藩士全員に告げる。つまり、藩政に
 必要な情報を、藩の上層部が独占するのではなく、末端のヒラ藩士まで行き届くように
 する。
・各持ち場持ち場では、その持ち場における討論を活発にしてもらいたい。身分の上下に
 拘わらず、思うように意見が言い合えるような職場づくりに勤しんでもらいたい。そこ
 で働く人々も身分や年功や、経歴や、年齢など気にすることなく、これが領民のために
 なると思うことは、遠慮なく言ってもらいたい。
・現代の経営方法に則して言えば、
  ・実態の報告
  ・方針の明示
  ・自己の限界明治
  ・協力要請(統制ではなく参加を求める)
・鷹山の政治の根本は常に人間への優しさであった。

断行―飽くなき執念と信念が奇跡を生む
・改革は、それを進め、あるいはその対象となる藩士たちが、委縮していては駄目だ。藩
 士たちが委縮するのは、何よりも勤倹節約のみの強行である。
・生命というものは、たとえ貧しい家に生まれ、あるいは、身体の一部を損なってこの世
 に出てこようとも、ひとしなみに尊いものである。人の命を粗略に扱ってはならない。
 ましてや、貧しい家に生まれたからといって、生まれたばかりの赤ん坊を殺すとはなに
 ごとであるか。天の道に背くものである。今後こういう行為をおこなったものは、厳罰
 に処する。
・鷹山の言うところは、自然条件に見合った植物を植え、それを原料にして製品を作り、
 収益の道を開くべきで、稲作だけに依存するのは間違いだということであった。それと
 同時に、米沢藩がそれまでやってきた原料輸出を止めて、原料に付加価値を加え、製品
 化し、それによる収益をあげようということであった。
・人間というのは張りがなくては働かないし、生きてはいかない。ただ締めるだけでは到
 底改革お目的が達成されないことをよく知っていた。
・鷹山の人間管理の原則は、「してみせて、言って聞かせ、させてみる」というものであ
 った。何につけても理屈だけではない、よくその趣旨を説明し、趣旨を分かってもらっ
 たところで、今度は自分が実行してみせる、手本を見せてそれに従わせるというのが鷹
 山の方針であった。そして自分の出来ないことは、正直に自分の限界を示し、出来る者
 に協力してほしいと頼むのである。
・おそらく年寄りは、この貧しい米沢の国では、肩身を狭くして日々を送っているであろ
 うから、何かしかの収入を自己の労働によって得れば、それによって精神的負担も少し
 は軽くなるであろう。あるいは孫に小遣いを与え得て、家の中における地位も復権する
 であろう。
・武士の妻だからといって、夫が城に出仕した後、何事もなく家事に縛り付けておくとい
 うのは、決して得策ではない。老人子供と同じように、女たちにも仕事を受け持っても
 らって、またそこで得た収益の何がしかを配分すれば、家計も潤うであろう。
・不要の組織は廃止せよ。また仕事のない藩士は、強いて朝決められた時間にから夕方決
 められた時間まで、城に勤務する必要はない。好きな時に来て好きな時に帰れ。そして
 自分の割り当てが済んだら、桑を植えるとか楮を植えるとか漆を植えるとかしてほしい。
 その方がはるかに生産的である。
・形式や外見にこだわって、用がない時もあるように取り繕って、同役が揃っております
 というようなことばかりが、従来この城で行われてきた。これは人間の無駄であって、
 時間の無駄である。そして、使えば使える労力を、まったく鈍らせている。人間は働か
 なくては生き甲斐を失う。
・鷹山は、こうして、武士をどんどん農業に従事させたり、時には職人に等しいような作
 業をさせたり、あるいはさらに商人と間違うような行為まで行わせた。これは、当時と
 してはかなり破格な考え方と行動であって、今でいえば近代精神の持ち主と言える。
・改革を進める過程においても、決して自分の居間で机の前に座ったきり、ああしろこう
 しろというような指示の出し方はしなかった。

最後の反抗―衆知を集めて悪弊を斬れ
・これらの製品を他国に輸出するのに、鷹山は決して江戸・大坂などの大きな商人に期待
 しなかった。領内の良心的中小企業を活用したのである。つまり、藩政府は、殖産興業
 の指導と、その流通経路を確保し、収益を全体で分配するというような共同会社のよう
 な形をとった。
・改革は何と言っても現場が軸となる。その現場がよく理解せず、ぶすぶす燻ったまま、
 ただ上からの押し付けだけで、仕事をさせられれば、決して納得した仕事ぶりは期待で
 きない。不満がわき、それはいずれはくすぶって火が付き、のろしとなって別な方向で
 炎をあげるだろう。

英断―必要とあらば、非常であれ
・権力は魔物である。権力に永く馴れていると、知らないうちに人間は堕落する。
・トップはつねに時代とともに歩む。社会が変化すれば、その企業に対するニーズも変わ
 る。そのニーズに応えるには、企業も企業人も変わらなければならない。特にトップを
 補佐する重役層は、このへんをよく考える必要がある。
・社会状況の変化で、所属企業に何を求められているかを知り、そのニーズに応えるには、
 いまの企業目的や組織や社員の意識が、それでいいのかどうかを反省し、それをどう改
 革して、上を補佐し、下を指導するか、ということを、自分で的確に把握することであ
 る。それが、トップ側近の補佐役の責務だ。

巨いなる遺志―老兵・鷹山と若き後継者
・藩主というのは、その国家と人民のための仕事をするために存在するのであって、国家
 や人民は、藩主のために存在しているのではない、と明確に言い切った。これは、今か
 ら250年も前に言った封建領主の言葉とは、とても思えない。

エピローグー愛と思いやりの名経営者・鷹山
・上杉鷹山の治績は、今も称えられている。それは、日本だけでなく、伝えられるところ
 によるれば、アメリカの故ケネディ大統領さえ、尊敬するほどであった。
・経済の低成長期の湿潤な時期においても、発想の転換をし、複眼の思考方法を持ち、歴
 史の流れをよく見つめるならば、閉塞状況の中でも、その壁を突破する道はあるのだと
 いうことを、鷹山の軌跡は如実に示している。
・鷹山の経営改革が成功したのは、すべて「愛」であった。他人への労り・思いやりであ
 った。経営改革を、顧客のものと設定し、それを推進する社員に、限りなき愛情を注い
 だ。痛みをおぼえなければならない人々への愛を惜しまなかった。その優しさが、北風
 と太陽の例ではないが、人々に古い外套を脱がせた。それも自発的にである。外套を脱
 いで、身軽になった米沢藩の人々は、士といわず町人といわず農民といわず、鷹山の改
 革に協力して勤しんだ。それは、改革に協力することが、自らも富むことにつながって
 いたからである。