生きている兵隊 :石川達三

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この小説は、今から84年前の1938年に発表されたもののようだ。
内容は、当時の中国戦線を作者自身が現地取材し、当時の状況を小説として描いたものと
言われている。作者自身は、実際の状況を忠実に記録したものではなく「かなり自由な創
作を試みたものである」と言っていたようだ。
しかし作者は、南京陥落(1937年12月)直後に中央公論社特派員として中国大陸に
赴き南京入りし、「南京事件」に関与したといわれる第16師団33連隊を取材しており、
描写が歴史事実と一致する個所も少なくないようだ。
この小説は、中央公論1938年3月号に発表されたが「聖戦にしたがう軍を故意に誹謗
したもの」「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」として、掲載誌は即日発売禁止の
処分となり、一般の人の目にはふれることはなかったという。そして、作者自身も、禁固
四カ月、執行猶予三年の判決を受けたという。
しかし読んでみると、とりわけ反戦小説とか、反軍小説とか言うような内容でもない気が
する。一部には非人道的な残虐・不法と言える行為の記述もあるが、日本軍の戦闘下の実
態がリアルに描かれている作品と言えるような気がする。
しかし、当時の軍は、躍起となって、この作品を発売禁止とした。それはなぜなのだろう
か。その背後には、「南京事件」があったからではないかとも言われている。当時の陸軍
中央は、その事実を知っており、その対策に頭を悩ませ、敏感になっていたからではなか
ったかと。この小説が日の目を見るようになったのは、戦後の1945年12月になって
からだったようだ。

私はこの作品を読んで「百人斬り競争」事件が思い浮かんだ。南京戦時において、二人の
日本陸軍の少尉が、敵兵の百人斬りをどちらが先に達成するか競争したという事件だ。当
時の新聞は、この競争をまるでスポーツ的感覚で報道し、日本国内の民衆もそれを、現在
に例えるなら大谷のホームラン数を話題にするように、話題にし盛り上がったという。
現代から見たら、それはとても異常なことなのだが、当時は、それを異常と感じない人が
少なくなかったようだ。
これは、戦争というのは、そのように戦場の兵士はもちろんのこと、一般の人々の感覚さ
えも異常なものにさせてしまうという恐ろしさがあるいい例だと思った。

過去に読んだ南京虐殺に関する記述のあった本:
大人たちの失敗
かくて昭和史は甦る
すべての戦争は自衛から始まる




・高島本部隊が太沽に上陸したのは北京陥落の直後であった。
・高島本部隊は、部隊終結して次の命令を待ちながら十日間の教養をとった。二人の中隊
 長は戦死し歩兵は兵力の十分の一を失っていたが、補充部隊が来るという話は聞かなか
 った。
・部隊本部にあてられた民家のすぐ裏から急に火の手が上がった。
・最初にかけつけた笠原伍長と部下の二人の兵とが現場をうろついていた一人の支那人を
 捕えた。
・笠原伍長は怒鳴った。しかし訊問するだけの支那語は知らなかった。
・「お前な、本部の通訳さんを呼んでこい」
・中橋通訳は拳銃を肩にかけ、肩をゆすりながら歩いてきた。
・通訳は二こと三こと厳しく何かを言ったが、青年はじろりと彼を睨んだまま黙っていた。
 通訳は軽く肩を突き飛ばしながらなおも訊問を繰り返した。すると青年は静かな声で短
 い返事をした。不意に通訳はびしりと激しい平手打ちを頬にくれた。青年はよろめいた。
・「こいつ奴、自分の家に自分で火をつけたんだから俺の勝手だって言いやがる!」
・笠原伍長はすっと立ち上がると青年の腕をとらえて歩きだした。青年は素直に歩き出し、
 二人の兵がその後に従った。十歩ばかり行くと笠原はふり向いて中橋通訳の方を見かえ
 りにやりと意味ふかく笑った。
・点々と農家はあるがどこにも人影はなかった。笠原は立ち止まってふり向いた。青年は
 うな垂れて流れるともないクリーク(小運河)の流れを見ていた。
・笠原は青年の後ろにまわり、ずるずると日本刀を鞘か引き抜いた。それを見るとやせた
 青年はがくりと泥の中に膝を突き何か早口に大きな声で叫び出し、彼に向って手を合わ
 せて拝みはじめた。
・「えい!」
・一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色に返った。首は落ちな
 かったが傷は充分に深かった。彼の体が倒れる前にぶかぶかと血が肩にあふれて来た。
 体は右に傾き、土手の野菊の中に倒れて今一度ころがった。
 
・笠原伍長は右足の靴を脱ぎ靴下を脱いだ。垢が黒く塊った大きな平たい足が湯気を立て
 ていた。
・笠原は左の腿の上に右足をのせたまま、またずるずると刀を抜いた。彼は足の裏の上に
 顔をかがめ鼻水をすすりながら、刀で以てこわばった皮を削りはじめた。充分に拭われ
 ていない刀には何箇所も刃こぼれがあり多少の赤みさえも残っていて、脂肪の濁りで刀
 身は鉛の様に光がなくなっていた。
 
・汽車は東北に向って走りつづけた。
・ソ満国境だ!
・その噂は突然に一種の戦慄をもて列車内にひろまった。
・今度の敵はロシヤだ。ロシヤ陸軍の恐るべき勢力も知っているし国境のトーチカがいか
 に完備したものであるかも聞かされている。
・卒然として故郷を思い再び故郷の山河を思うた。もう帰ることはあるまい。そしてじっ
 と唇を噛みしめた。さすがにその夜の貨車は眠らない兵が多かった。
・貨車はなおも東北に向って走りつづけた。一夜を汽車で過ごして大連につくとこの部隊
 は民家に分宿することになった。後続部隊の到着を待って一緒に船に乗って凱旋するの
 だと皆は思っていた。その夜は大連の街々を闊歩して酒を飲み軍歌をうたい、故郷への
 土産ものを買って帰った。
・翌日、部隊長から兵に通告が与えられた。
・「まだ凱旋ではない。土産ものを買ってはならん」
・船は一声の汽笛も鳴らさずに三隻、前後して大連を出た。兵たちは丸窓を開けて遠ざか
 って行く大連とその辺りの島々とを無言のうちに眺め、買ってきた土産ものを波の上に
 投げ棄てた。


・未明にこれ等の船列は白茆江が長江に合流する地点に到着した。そこにはほとんど三十
 隻ばかりも小型の軍艦が一列に並んでいて、黎明が始まると同時に一斉に右岸に向って
 砲火を開いた。
・倉田少尉の舟は進みはじめ、軽機銃手は舷側にのせた機銃の冷たい銃床にぴたりと頬を
 あてて身を低めた。他の舟も一列横隊になって進んだ。
・ピッピッと鋭い音をたてて敵弾が通りすぎた。久しぶりに聞くとこの音も一つ一つが心
 臓に響いた。しかし彼はもう死のうと思っていた。死を覚悟して働くというよりも何で
 もいいから早く死にたい気持ちであった。 
・予期された戦闘はなく終わった。右翼の方で師団参謀が負傷したという話はその夜にな
 ってから聞いた。
・民家を占領した床の上で焚火をして飯盒で飯を焚きながら、倉田少尉はまた今日の日記
 を丹念に書いた。同じ中隊の古家中尉が乾パンをかじりながら笑った。
 
・中橋通訳は歩兵隊の兵に頼まれて馬の徴発に部落をあるきまわった。小部落で二十分も
 歩いて見ると馬は一頭もいないことが分かった。砲を曳いていた馬がクリークに落ちて
 足を折ったから明日の進軍に困るというのだ。兵は馬がいないのに諦めて牛にしようと
 言った。
・部落をはずれた所お農家の小舎に水牛が繋いであった。皺だらけの老婆がひとり黙々と
 火をたいていた。
・「おい、婆さん。俺達は日本の軍人だが、お前の所の牛が入要だ。気の毒だが貰ってい
 くよ」
・老婆はきいきいと甲高い声で反抗した。ヒストリーもちらしい老婆の愕きは大変なもの
 で、手綱をとった兵をつきとばし牛の前に立ちはだかって叫び立てるのであった。
・中橋通訳が突然げらげらと笑い出した。
・「なあおい、こいつとんでもない婆だよ。息子が二人いるから息子を連れて行って働か
 せるのはかまわんが牛は駄目だと言いやがる」
・老婆と水牛をとりかこんで兵隊は声をあげて笑った。
・「息子を四つん這いにさせて砲車を曳かせるかい」
・「どけイ」一人の兵は老婆を突き飛ばして水牛の手綱をとった。「じたばたすると命に
 かかわるぜ」 
・しかし老婆は唾を飛ばしてわめき叫びながらなおも抵抗した。
・通訳は舌打ちして後ろから彼女の襟首をつかみ、力かぎり引き倒した。彼女はひとたま
 りもなく道傍の泥田の中にあお向けざまに落ちこんだ。
・中橋は笑って歩き出した。
・「命ばかりは助けでやるぞ。戦争が済んだら牛も返してやるからな」
・兵たちは良い気持ちであった。無限の富がこの大陸にある。そしてそれは取るがままだ。
 このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは、野生の果物のように兵隊の欲するがま
 まに開放されはじめたのである。
 

・夜が明けて点呼が終わり朝食をおわると、勤務のない兵隊たちはにこにことして夜営地
 から出て来た。勤務で出られない兵がどこに行くんだと問うと彼等は、野菜の徴発に行
 ってくるとか生肉の徴発だとか答えた。進軍の早いしかも奥地に向っている軍に対して
 は兵糧は到底輸送し切れなかったし、その費用も大変なものであったから、前線部隊の
 多くは現地徴発主義で兵をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小
 さな徴発でもいちいち金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発による
 より他に仕方がなかった。
・ことに生肉の徴発という言葉は姑娘を探しに行くという意味に用いられた。彼等は若い
 女を見つけたかった。顔を見るだけでいい、後姿でもいい、写真でも絵でもいい、ただ
 若い美しい女を象徴するものでさえあればよかった。女もちのハンカチとか絹に刺繍し
 た女靴でも大事にもって帰って見せびらかした。
・しかし敵軍を掃蕩して入って行く部落には若い人間は滅多にいなくて年老いた者と子供
 とが残っているばかりであった。 
・わかい女は退却軍と共にどこかへ引き連れて行かれたか又は自分で安全な場所へ避難し
 ているのであった。彼女たちは度々の内乱に駆られて、戦場になった部落では若い辞女
 は滅茶滅茶にされるものであることをよく知っていた。従って姑娘を探して行く兵は多
 かったが彼女等にまぎり会って帰る兵は少なかった。
・町はずれの崩れ残った農家の中に若い女がいるのを近藤一等兵が眼ざとく見つけ出した。
・女は暗い室の中から彼等の様子をじっと見守っていた。たしかにまだ二十をあまりすぎ
 ていない女であることは遠くからも分かった。近藤たち四人は狭い畠をのそのそと踏み
 越えて大胆にこの農家の軒下に立った。
・女は顔色は真剣に緊張して恐怖を表した眼が黒く冴えていた。美しい輪郭をしてはいた
 が服装はひどく汚れて髪も灰色に汚れていた。
・「これはええ女だけど汚ねえなあ」と今一人の兵が残念そうに言った。
・「まあ入って見るかな」
・近藤一等兵はそう言って板の扉を押した。彼はのっそりと一歩入った。そのとき女は突
 然ひと足退って右手に持った拳銃を向け、引き金を引いた。カチッと音がして、不発で
 あった。
・近藤は背を丸くして彼女の胸元に毬のように飛びかかり、瞬く間に土間に叩き伏せ拳銃
 を奪い取って立ち上がった。
・女は土間の上に横向きに倒れたまま身動きもしなかった。ただ彼女のふくれた胸と腹の
 あたりが荒い呼吸のたびに波をうっているのが四人の眼にまざまざと映った。
・突然、彼等は狂暴な欲情を感じた。この抵抗する女をできるだけ苛めてみたい野性の衝
 動を感じた。
・「こいつの皮を剥いで見ろ」と近藤は言った。
・女はいかにも汚かった。手も、むき出しになったまま靴下をはいていない脛も泥と垢と
 で真黒になっていた。兵は顔をしかめながら服に手をかけびりびりと引き裂いた。垢で
 灰色になった下着が現われた。そして上着のポケットから出た布の財布の中から訳のわ
 からない速記のような符号を書いた紙片が発見された。
・「見ろ!スパイだ」
・他の兵は彼女の下着も引き裂いた。すると突然彼等の眼の前に白い女のあらわな全身が
 晒された。それはほとんど正視するに耐えないほど彼等の眼に眩しかった。みごとに肉
 づいた胸の両側に丸い乳房がぴんと張っていた。豊かな腰の線がほの暗い土間の上にし
 らじらと浮き上がって見えた。
・近藤は何となく拳銃の引き金を引いた。やはり不発であった。
・「これはたしかにスパイだよ。百姓女がピストルを持ってる訳はないからな」と衣物を
 剥いだ兵が言った。 
・近藤一等兵は拳銃を左手に持ちかえると腰の短剣を抜いて裸の女の上におっそりと跨っ
 た。女は眼を閉じていた。彼は暫く上から見下ろしていたが、そうしている中に再び狂
 暴な感情がわき上ってきた。それは憤激とも欲情とも区別のつかない、ただ腹の底かが
 熱くなってくるような衝動であった。
・彼は物も言わずに右手の短剣を力限りに女の乳房の下に突きたてた。白い肉体はほとん
 どはねあがるようにがくりと動いた。彼女は短剣に両手ですがりつき呻き苦しんだ。
 ちょうど標本にするためにピンで押さえつけたカマキリのようにもがき苦しみながら、
 やがて動かなくなって死んだ。
・そのとき扉の外に靴音が乱れて、「何をやったんだい」と言ったのは笠原伍長であった。
・近藤一等兵は簡単に事情を説明し符号を書いた紙をひろげて見せた。
・笠原は裸の女を眺めまわし、鼻水をすすって笑った。
・「ほう、勿体ないことをしたのう」
・近藤一等兵は、不発で終わった弾丸を取り出し掌の上で転がしながらさっきの女のこと
 を考えていた。医学大学を卒業して研究室のつとめていた彼にとって女の屍体を切り刻
 むことは珍しくない経験であった。しかし生きている女を殺ったのは初めてである。
 今になって格別に惨酷すぎたとは思わない。スパイであれば当然の処分であった。ピス
 トルで殺すのも一刀のもとに心臓を貫くのも同じことだ。ただ彼が思うのは、生から死
 への転換がこうも易々と行なわれるということであった。それは彼が戦場に来てから幾
 度か考えた問題ではあったが、女を殺して見てまたそれを痛切に考えるのであった。
・生命というものが戦場にあっては如何に軽蔑され無視されているのか。これは一体なん
 であろうかと近藤医学士は考えた。たとい敵であろうと味方であろうと、生命が軽蔑さ
 れているということは即ち医学という学術それ自身が軽蔑されていることだ。自分は医
 学者でありながらその医学を侮辱したわけだ。こう考えてくると彼は迷路に落ち混乱
 を感じはじめた。
・なるほどそう言えばこの戦場に来てから、彼は一度として医学士の待遇を受けたことも
 なかったし、その知識を実用に供したこともなかった。彼のインテリジェンスは出征以
 来ずっと眠っていた。そうだ、戦場では一切の知性は要らないのだと彼は思った。
 

・つい先ほど、ほんの三時間ばかり前であった。部落の残敵掃蕩の部隊と一緒に古里村に
 入ってきた従軍僧の片山玄澄は左の手首に数珠を巻き右手には工兵の持つショベルを握
 っていた。そして皺枯れ声をふりあげながら露路から露路と逃げる敵兵を追って兵隊と
 一緒に駈けまわった。敵兵もこの町の案内は知らなかった。支那市街には至るところに
 露路があり袋小路がある。袋小路に追いつめると敵は武器をすてて民家にとびこみ征服
 をかなぐりすてて住民の兵服を着てしまう。だが、脱ぎ捨てた征服を処分する暇はなか
 った。
・「貴様!」とだみ声で叫ぶなり従軍僧はショベルをもって横なぐりに叩きつけた。刃も
 つけていないのにショベルはざくりと頭の中に半分ばかり喰い込み血しぶきをあげてぶ
 っ倒れた。
・「貴様・・・貴様!」
・次々と叩き殺して行く彼の手首で数珠がからからと乾いた音をたてていた。彼は額から
 顎髭まで流れている汗を軍服の袖で横にぬぐい、血のしたたるショベルをステッキのよ
 うに杖につきながらのそのそと露路を出て行くのであった。
・いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮の事を思い出しても玄澄の良心
 は少しも痛まない。むしろ爽快な気持ちでさえあった。従軍僧はどこの部隊にもついて
 いるが、彼ほど勇敢に敵を殺す僧はどの部隊にもいなかった。
・もっとも彼は拳銃も剣も持たない、武器はいつも有りあわせのものであった。
・「敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
・「いや、やっている従軍僧もあるようですが自分はやりません」
・「生きているのは殺さなけりゃなるまいが、戦死した兵は弔ってやってもいいだろうじ
 ゃないか」
・「自分はどうもそういう気持ちになれませんな。やっぱり戦友の仇だと思うと憎いです
 な」 
・「それはまあ人情だろう。しかしそれで君の宗教はどうなる?」
・「そうか、国境を越えた宗教というものは無いか」
・それはむしろ憮然とした言葉であった。部隊長は宗教というものまたは宗教家というも
 のに失望を感じたのであった。
・西沢部隊長は部下を愛する親のような感情を持つと同時に、敵を愛することを知らない
 軍人ではなかった。彼は幾千の捕虜をみなごろしにするだけの決断をもっていたが、そ
 れと共にある一点のかなしい心の空虚をも感じていた。この空虚を慰め得るものが宗教
 であろうと思った。彼はいま指揮官として敵の戦死者を弔う余裕と自由とをもたないが、
 それは従軍僧が代ってやってくれるのであろうと思っていた。しかしこの従軍僧が友軍
 の弔いはしても敵の戦死者のために手をあわせてはやらぬと聞いたとき、暗い失望を感
 じた。
・従軍僧自身にあっては、自分の寺で平和に勤行をやっているときにはこの宗教が国境を
 超越したものであることを信じていた。また従軍を志願して寺を出るときには支那軍の
 戦死者をも弔ってやるつもりはあった。しかし戦場へ来て見るとそういう気にはなれな
 かった。
・戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、同じ程度の
 ことしか考えない、同じ要求しかもたないものにしてしまう不思議に強力な作用をもって
 いるもののようであった。
・ただ彼に残っている宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知っているというだけ
 である。彼は僧衣を脱いで兵の服を着ると同時に、僧の心を失って兵の心に同化してい
 たのであった。

・翌朝、出発に先立って一つの事件が起った。町はずれに幾つも敵のトーチカがあった。
 朝になってから北島中隊の兵の一人が行軍の前にまず用を足しておこうと思い、トーチ
 カの穴の中でやるつもりで紙を片手にもって穴をのぞいて見た。突然彼は暗い中から拳
 銃の射撃を受けて倒れ、そのまま穴の中に引きずりこまれてしまった。
・この知らせを聞いた笠原伍長はぱくりと口を開けた。それが彼の何とも名状しがたい憤
 激の表情であった。 
・「ようし、機関銃もって来う!」そう叫ぶなり彼は刀を握って走り出した。
・「おい」と笠原はふり向いて部下に言った。「発煙筒をもって来う。三つ四つもって来
 るんだ。早く!」
・やがて発煙筒は穴の中へ投げ込まれた。両側の入口からむくむくと煙が出て来た。笠原
 は兵を押しのけ軽機関銃の台尻をかかえこみぴたりと畦の泥に寝そべった。しばらくす
 ると、青服に着ぶくれした支那軍の正規兵がひとり煙の中からとび出して、頭を両手で
 かかえて走り出した。
・だだだだ・・・と彼の機銃は大地を震わせて鳴った。
・「一匹!」と笠原は怒鳴った。
・次に婦たちつづいて同じ様にとび出した。
・「二匹、三匹!」
・再び機銃は菱形の炎を吐いて鳴った。そして彼はついに十一匹まで数えると立ち上がっ
 て歩き出した。
・穴の口まで来ると彼はずばりと大刀を抜いて、まだくすぶっている煙の下をくぐりなが
 ら這いこんだ。三人の兵がそれにつづいた。
 ・間もなく笠原が出て来、その後から兵隊たちは死んだ戦友お屍を抱いて出て来た。彼
 のからだは十一人の敵兵のためにずたずたに切りさいなまれていた。
・屍体は静かに畠の畝の上に横たえられた。
・「気をつけ!」と笠原は怒鳴った。
・「敬礼!」そう言った彼の声は喉につかえてかすれていた。彼の両眼は涙でびしょぬれ
 になっていた。 
・笠原伍長にとって一人の敵兵を殺すことは一匹の鮒を殺すと同じであった。彼の殺戮は
 全く彼の感情を動かすことなしに行なわれた。ただ彼の感情を無惨にゆすぶるものは戦
 友にたいするほとんど本能的な愛情であった。
 

・左手の太い小指に笠原伍長は銀の指環をはめていた。倉田少尉が見つけて、「伍長、そ
 れは何だね」と言った。
・「は?これですか、これはこんなもんです」と答えて彼はにやにやと笑った。そして隣
 の兵の手を掴んで言った。
・「こいつも持っとりますよ」
・どこから持って来た」
・「これは少尉殿、姑娘がくれたんですわ!」
・「僕は要らんちゅうてことわったんですがなあ、どうしても笠原さんに差し上げたいち
 ゅうてなあ、頼まれたんですわ。仕様がないですわ」
・支那の女たちは結婚指環に銀をつかうらしく、どの女も銀指環をはめていた。あるもの
 は細かい彫りがあり、また名を刻んだものもあった。
 
・軍馬の訓練について将校たちは新しい考えをもたせられた。それは日本の軍馬がいかに
 も弱いことであった。兵営での訓練は極めて規則正しく行なわれ、また飼料も時間をき
 めて与えられていた。その生活が続けば日本の軍馬は確かに優秀であった。けれども実
 戦のはげしい中にあって飼料の時間は不規則になり休憩も与えられなくなると、軍馬は
 まるで腰が抜けたように弱ってしまった。そこへ行くと支那馬は平素虐待されているた
 めに戦場では役に立つやつ等であった。兵は見つけ次第に徴発して行軍の列に加えた。
・敵国の馬には彼等はやはり愛情をもてないらしかった。支那馬に対してはいくらでも虐
 待を加え、倒れるとそのまま棄ててかえりみなかった。
 
・倉田少尉と平尾、近藤一等兵と、機銃分隊の笠原伍長とが鉄兜をならべて煙草を喫って
 いる壕のそばに一軒の平たい農家があった。屋根は砲弾に打ち抜かれ扉は土間に倒れ裏
 の菜園はふみ荒らされて、黄昏はそのあたりに一層色濃く思われた。この家の中から女
 の泣き声がしていた。銃声の止んだあとになってその声は急に兵士の耳につきはじめた。
・「なんだ、女が泣いとるぜえ」と女好きな笠原伍長が言った。「姑娘だぞ!」
・平尾一等兵が、どれ、調べてやると言って壕の上にとびあがり、小走りに民家の方へ進
 んだ。 
・「俺も行こうッと!」
・笠原伍長がそう言って壕の上にかけ上がり、下を向いてにこにこと笑った。
・二人は倒れた表の扉から土間へずかずかと入って暗がりに見えなくなった。そして泣き
 声が止んだ。待っている兵はいらいらして来た。それほど彼等は若い女に接しなかった
 し、戦場にいると不思議に女のことばかり考えるものであった。
・やがて笠原と平尾とはさっきの表口からのそのそと出て来た。
・「母親がな、弾丸を喰ってまいってるんだよ。十七、八の姑娘だ。可哀相にな」
・「いい娘かい?」一人の兵が言った。
・「ああ、良い娘だよ」と平尾はなぜか憤然とした調子で答えた。
・ときおり思い出したように敵の小銃弾がぴゅッと唸って飛んできた。
・一面の星であった。日本で見た星の数の何倍があるようであった。彼等はよく見馴れた
 北斗星やオリオンなどを見つけることができた。星は不思議に故郷を思い出させるもの
 であった。この星が見えているのにここが支那であるということが本当でない気がした。
 かすかな感傷が壕の中をより静かにしていた。
・こういう時になって急にはげしく兵士の耳に聞こえて来たのはさっきの姑娘の泣き声で
 あった。 
・「まだ泣いていやがる」と平尾一等兵は小さな声で呟いた。
・彼はさっき見た娘の姿を思い出していた。貧しい農家であった。娘はもんぺに似た綿入
 れのズボンを穿き襟の詰まった上着をつけていたが、母親の頭を胸の中に抱きかかかえ
 てその髪に顔をすりつけて泣いていた。彼女たちの泣き方は日本の女のように無器用な
 変化の乏しいものではなくて、その悲しみは率直にまた複雑に表現されているようであ
 った。
・夜が更けるとともにこの女の泣き声は一層悲痛さを加えて静まり返った戦場の闇をふる
 わせていた。
・聞いている兵士は誰も何とも言わなかったが、しんしんと胸にしみ透る哀感にうたれ更
 に胸苦しい気にさえもなっていた。
・「ええうるせえッ!」
・ふりかえると、真暗な中で平尾一等兵が背を丸くして壕の上に飛び上がる姿が大空の星
 を背負って見えた。
・「あいつ、殺すんだ!」
・平尾一等兵はそう言いすてて銃剣を抱いたまま低くなって駈け出した。すると、五、六
 人の兵がだだだッと足を踏み鳴らして壕のふちを走り彼のあとを追うた。
・彼等は真暗な家の中へふみこんで行った。砲弾に破られた窓から射し込む星明かりの底
 に泣き咽ぶ女の姿は夕方のままに踞っていた。平尾は彼女の襟首を掴んで引きずった。
 女は母親の屍体を抱いて放さなかった。一人の兵が彼女の手をねじ上げて母親の屍体を
 引きはなし、そのままずるずると下半身を床に引きずりながら彼等は女を表の戸口の外
 まで持って来た。
・「えい、えい、えいッ!」
・まるで気が狂ったような甲高い叫びを上げながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを
 三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほ
 とんど十秒と女は生きてはいなかった。彼女は平たい一枚の布団のようになってくたく
 たと暗い土の上に横たわり、興奮した兵のほてった顔に生々しい血の臭いがむっと温か
 く流れてきた。
・「勿体ねえことをしやがるなあ、ほんとに!」
・このひとことがどんなに倉田少尉の苦しさを救ったか知れなかった。このような殺戮は
 倉田少尉の神経としては到底たえられないことであった。士気に関する、そういう理由
 で彼は平尾一等兵の行為をはっきりと是認することはできた。しかしその理論とは別に
 彼の神経は八つ裂きの苦しみで喘いでいた。
・明るさをもたないのは平尾一等兵であった。
・「これで静かになった」と彼は小さな声で呟いた。
・たしかにあの泣き声を聞かされている間は彼の感情は救われる道を失っていた。戦争と
 いうことの国家的な意味はよく分かっていて批判の余地はないが、戦争の個人的な意味
 の痛ましさがまざまざと思わせられて耐え難い気がして来るのであった。彼のロマンテ
 ィシズムはここまで来てもまだ燻っていた。そうして彼女を殺すことが彼の苦痛を鎮め
 るものではなくて一層耐え難いものにするであろうことも彼の感受性はよく知っていた。
 しかも真っ先に立って銃剣を振るったのは苦痛から逃れようとする必死な本能的な努力
 であり唯一の血路であると同時にロマンティックな嗜虐的心理でもあった。
 
・平尾と近藤とは倉田少尉の命令を受けて舟を徴発に行くことになった。二人は土手の下
 に沿うて水際の枯草と支那兵の死体とをまたぎながら腰をかがめて下流に走って行った。
・「おい、平尾、姑娘がいるぞ、ごら、生きてるんだ!」
・指したのはクリークの向こう側の土手であった。そこの斜面の枯れた楊柳のかげに身を
 かがめて一人の女がうつ伏せになっていた。幅十メートルにすぎないクリークを超えて
 彼女の姿ははっきりと見えた。白い顔を上げて二人の方を見ているのだ。農家の若い女
 房であった。
・「子供を抱いとるじゃねえか!」と平尾は慄然として叫んだ。彼女はその胸の下に乳呑
 児を包むようにしてかかえていた。
・「何だってあいつ、こんな所を、うろうろしてやがるんだ」
・二町ばかり下手まで走って彼等は舟を見つけることができた。二人は棹を使って大急ぎ
 で漕ぎのびって来た。そしてあの百姓女がいたところまで戻って来たときに、彼等は乳
 呑児のはげしい泣き声を聞いた。女は水際までころがり落ち手足をのばしてあお向けに
 伸びていた。その彼女の胸の横でまだ這うこともできない嬰児がうつ伏せになり枯草の
 なかで鼻を突っ込んで泣きわめいていた。女のこめかみから細い血が糸を引いて流れ耳
 朶に黒く溜まっていた。
・平尾は立ったまま棹をじっと握ってその二人を見つけていた。近藤は皮肉な笑いを洩ら
 しながらせっせと漕いでいた。
・「平尾」と彼は言った。
・「あの児も殺してやれよ。昨日みたいにな。その方が慈悲だぜ。あのままで置けば今夜
 あたり生きたままで犬に食われるんだ」
・平尾はだんだん遠くなって行く子供と母親との姿を立っていつまでも見送りながら頬を
 ふるわせ唇を噛んで泣いていた。
 

・友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向い、西沢部隊は無錫にとどまって三日間の休養
 をとった。生き残っている兵が最も女を欲しがるのはこういう場合であった。彼等は大
 きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし廻った。この無
 軌道な行為は北支の戦線にあっては厳重に取り締まられたが、ここまで来ては彼等の行
 為を束縛することは困難であった。
・彼等は一人一人が帝王のように暴君のように誇らかな我儘な気持ちになっていた。そし
 て街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家までも出かけて行った。いうまでも
 なくこのような環状に上には道徳も法律も反省も人情も一切がその力を失っていた。そ
 うして、兵は左の小指に銀の指環をはめて帰って来るのであった。
 
・その日の夕方、武井はいよいよ残り少なくなった砂糖をつかって部隊長の料理を造ろう
 とすると、棚の上にのせておいた白砂糖の包みが無い。
・「おう!ここにあった砂糖どこへやった」
・当番の兵たちは口々に知らないと答えた。
・炊事場には支塘鎮あたりからずっと連れて来た支那人が五人も働いていた。上等兵は顔
 を真赤にして怒った。しかし言葉が通じないのである。彼は一番手近にいた十七、八歳
 の支那人の青年をびしりとなぐりつけた。その男が盗ったような気がしたのである。
・この青年は支塘鎮からずっと炊事ばかりやってきた支那人でよく言うことを聞いて働く
 おとなしい男であった。 
・この男の身体検査をやることになった。彼のポケットの奥の方から丸めた紙が出て来た。
 明らかに砂糖を包んであった紙である。砂糖はもう嘗めてしまったあとであった。
・武井上等兵は唇かよだれを垂らしながら怒った。
・武井は腰の短剣を引き抜くと一瞬の躊躇もなしに背から彼の胸板を突き貫いた。青年は
 呻きながら池の中に倒れ、波紋は五間ばかり向うの近藤が米をといでいる岸にばさばさ
 と波をうった。彼はあわてて米をとぐのをやめ、立ち上がって叫んだ。
・「何をやったですか」
・「ふてえ野郎だ、部隊長にな、やっととってあった砂糖を盗んでなめやがったんだ」
・上等兵は足どりも荒々しく帰って行った。そして近藤はもうこの池で米がとげなくなっ
 たのを遺憾に思った。それにしても一塊の砂糖は一人の生命と引きかえられるのである、
 と。またしても生命とは何ぞやであった。
・無錫を出発する朝、兵士たちは自分等が宿営した民家に火をはなった。というよりも焚
 火を消さないであとから燃え上がることを期待して出発したものが多かった。それは二
 度とこの町へ退いては来ないという覚悟を自分に示すものでもあったし、敗残兵が再び
 ここに入ることを防ぐ意味もなくはなかった。更に、この市街を焼きはらうことによっ
 って占領が最も確実にさえるような気もしたのである。
  
・この日、常州が早くも友軍によって占領されたことを知った。
・南京へ、南京へ!
・南京は敵の首都である。兵隊はそれが嬉しかった。


・まことに戦場にあっては、敵の命をごみ屑のように軽蔑すると同時に自分の命をも全く
 軽蔑しているようであった。それは身を鴻毛の軽さに奥と言うほどはっきりした意識を
 もって自己にその観念を強制したものではなくて、敵を軽蔑しているあいだにいつの間
 にか我れとわが命をも軽蔑する気になって行くもののようであった。彼等は自分の私的
 生涯ということをどこかに置き忘れ、自分の命と体との大切なことを考える力を失って
 いたとも言えよう。
・もうすぐ南京だぞ。すると兵たちは夜の焚火の前で股をあぶりながら口々に言うのであ
 った。
・「南京までは死なれねえな」
・笠原伍長は大連で民家に分宿したときに、雑誌に出ていたある映画女優の写真にひどく
 魅力を感じて、是非ともプロマイドにサインをして送ってくれるようにと手紙で頼んで
 やった。それが来るのが待ち遠しくてならなかった。
・第三部隊の加奈目少尉が部隊の警備状態を巡視して帰る途中で殺された。彼はある露路
 の曲がり角で、日向にぼんやりと立っている十一、二歳の少女の前を通りすぎた。少女
 は過ぎて行く少尉の顔色をじっと仰向いて見つめていたが、少尉は気にも止めないで彼
 女の立っている前をすれすれに通った。そして三歩とあるかない中に彼は後ろから拳銃
 の射撃を受けて舗道の上にうつ伏せに倒れ、即死した。
・少女は家の中に逃げ込んだが銃声を聞いてとび出した兵はすぐにこの家を包囲し、扉を
 叩きやぶった。そして唐草模様の浮き彫りをした支那風の寝台のかげに踞って顔を伏せ
 ている少女に向ってつづけざまに小銃弾をあびせ、その場に斃した。この家の中には今
 一人の老人がいたが彼もまた無条件で射殺されることになった。
・こういう事件は占領都市にあってはたびたびくりかえされることで少しも珍しくはなか
 ったが、相手が全くの非戦闘員であり、しかも十一、二歳の少女であるということが事
 件を聞いた兵たちの感情を嚇と憤激させた。
・「よし!支那人という支那人はみな殺しにしてくれる。遠慮してるとこっちが馬鹿を見
 る。やれ!」 
・事実そのために幾人の支那人が極めて些細な嫌疑やはっきりしない原因で以て殺された
 かわからなかった。戦闘員と非戦闘員との区別がはっきりしない事がこういう惨事を避
 け難いものにしたのである。ことに兵の感情を焦立たせる原因となったものは、支那兵
 が追いつめられると軍服を捨てて庶民の中にまぎれ込むという常套手段であった。
・また、南京に近づくにつれて抗日思想はかなり行きわたっているものと見られ一層庶民
 に対する疑惑は深められることにもなった。
・「これから以西は民間にも抗日思想が強いから、女子供にも油断してはならぬ。抵抗す
 る者は庶民といえども射殺して宜し」
・軍の首脳部からこういう指令が伝達されたのは加奈目少尉事件の直後であった。
 
・こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必
 死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけにはいかない。最も
 簡単に処置をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも気骨が
 折れてならない。
・「捕虜は捕えたらその場で殺せ」それは特に命令というわけではなかったが、大体そう
 いう方針が上部から示された。
・笠原伍長はこういう場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。彼は数珠つなきにし
 た十三人を片ぱしから順々に斬って行った。飛行場のはずれにある小川の岸にこの十三
 人は連れて行かれ並ばせられた。そして笠原は刃こぼれのして斬れなくなった刀を引き
 抜くや否や第一の男の肩先きを深く斬り下げた。するとあとの十二人はたちまち土に跪
 いて一斉に涎を垂らして拝みはじめた。ことに下士官らしい二人が一番みじめに慄えあ
 がっていた。しかも笠原は時間をおかずに第二第三番目の兵を斬ってすてた。
・そのとき彼は不思議な現象を見た。泣きわめく声が急に止んだのである。残った者はぴ
 たりと平たく土の上に座り両手を膝にのせ、絶望に蒼ざめた顔をして眼を閉じ顎を垂れ
 て黙然としてしまったのである。それはむしろ立派な態度であった。
・こうなると笠原はかえって手の力が鈍る気がした。彼はさらに意地を張って今一人を斬
 ったが、すぐふり向いて戦友たちに言った。
・「あと、誰か斬れ」
・さすがに斬る者はいなかった。彼等は二十歩ばかり後へさがって銃をかまえ、ようやく
 この難物を処分した。


・深夜、南京市街は炎々として火の底にあった。空爆の火災もあるが多くは自ら火を放っ
 たものであった。城内ではもはや支那兵の凶暴な掠奪がはじまっていたのである。
・機銃の斉射は顔も上げられないほどにはげしかった。さすがに首都防衛の最後の一線で
 あるだけに終日の闘いも多くの戦果を収め得ずに夜を迎えた。
・兵は岩かげに伏し銃を敵に向けたままで、きれぎれに居眠りをしてはまた攻撃をくりか
 えしくりかえし、敵の逆襲を阻みながら不安な一夜を明かして朝を待った。
・そうして夜が明けた。終日の闘いに疲れて居眠りをしていた兵が眼をさまし頭をもたげ
 て見ると、敵の塹壕は実に十歩とはなれない眼の前にあった。敵兵の顔の表情までもは
 っきりと見ることができた。
・手榴弾戦機銃戦がふたたび開始され、正午ちかくになってから古家中隊はようやく出来
 の塹壕の第一線を占領することが出来た。
・第一の壕を奪われた敵はたちまち逆襲して来た。物凄い叫びをあげ幅広の刀をふりかざ
 し銃剣をかまえて岩かどを飛び越えて来た。機銃は鳴りつづける。撃退。次には味方の
 襲撃だ。しかし岩はなを一つ上るとそこでばたばたと倒されてしまう。暫くは進むこと
 も出来ない。すると再び敵が逆襲する。
・笠原伍長は軽機関銃をかかえて壕の中に踞っていた。敵の突撃の声がきこえて来る。
 刻々と近く迫って来る。しかし彼は撃たない。
・「おい、撃たんか!」と傍の戦友が叫ぶ。すると彼は汚い顔の中でにやりと笑った。
・「大丈夫だい。黙って拝んでろや」
・敵の攻撃の声はほとんど頭の上に迫り、踏み鳴らす足音が銃をかまえた彼にひびいて来
 る。そして先頭のひとりが岩の上に片足をかけたとき、笠原の機銃はたちまち滅茶苦茶
 な鳴り方をはじめた。それは実に見事な射撃ぶりであった。敵の何十人が手を伸ばせば
 とどくほどのところに折り重なって倒れて来た。笠原はしゅんと子供の様に鼻水をすす
 って言った。
・「えへへ・・・ああいう風に殺すもんだよ。一発も無駄なしだ」
・攻撃は退けられても味方から攻撃することは出来なかった。そして正午も過ぎた。
・突然、部隊本部から西沢撫隊に向ってきびしい命令が伝達された。
・「午後六時までに紫金山を完全占領すべし」
・実をいえば部隊長は完全占領を明日と見ていた。それが無理のない先頭であろうと思っ
 た。
・まもなく命令は各中隊に伝達された。それと同時に部隊長はさらに命令を下した。
・「予備隊前進。軍旗前へ!」
・もはや犠牲の多いことは考えてはいられない。総攻撃は開始された。そして武井上等兵
 はこのときに戦死した。
・彼の傷は肩先に喰った機銃弾であった。しかし伏していた彼に向って頭の方から撃たれ
 た弾丸は肩先から入って上等への全身を縦に貫き腰の後ろからとび出したものであった。
・銃を握りしめ仰向けになって苦しむ武井を平尾は岩かげに引きずって行った。
・「畜生、畜生!南京へ入ってから死ぬんだ、南京へ・・・」
・そういう間にも彼の顔色は変わり唇は慄えはじめた。
・「がぶがぶと舌の間から血が喉にあふれて」もがき苦しみながら呻く声もとぎれて来た。
・西沢部隊は南京市政府を占領してここに本部をおいた。高島部隊司令部は中央飯店の石
 造りのビルディングがそれにあてられた。そして高島部隊はその幕僚と共に軍官学校の
 庭つづきになった蒋介石と宗美齢との私邸に入った。質朴な小さな二階建てで、庭の芝
 生は霜枯れ、山茶花が赤く咲いていた。
 

・南京に残っていた住民はすべて避難民区域内に押し込められた。その数は二十万という
 が、正規兵も千人ぐらいはまぎれこんでいるらしい。その他の市街地にはほとんど支那
 人の姿はなくて、日本の軍人ばかりがぶらぶらと歩きまわっていた。酒保へ買物と物資
 に徴発と。
・倉田少尉はこうも荒れ果てた市街を歩いてみてつくづくと心に沁みることがあった。彼
 は夕飯の席で小隊長たちと一杯の酒を飲みながら言うのであった。
 「南京市として失われた富が幾十億あるだろうか。僕は戦争の勝敗は別としても、この
 戦争が日本の国内でなかったことを心から有難いと思うな。国富は失われ良民は衣食に
 も苦しみ女たちは散々な目にあって、これがもし日本の国内だったとしたら君たちはど
 う思う?」
・すると一人の小隊長が言った。
 「自分はもう南京は復興できんと思いますな。まあ三分の二は焼けております。あの焼
 け跡はどうにもなりませんわ。実際に戦争に負けたものはみじめですわ。何とも仕様が
 ありませんからなあ。自分は思ったんですな。戦争はむやみにやっちゃああかんが、や
 るからにはもう何としても勝たにゃならんです。それはもう孫子の代まで借金を残して
 も勝たにゃならんです」
・近藤一等兵の方は戦場を客観し次に妥協してしまって倉田少尉のように真剣な苦悶を経
 て来なかっただけにさほど大きな変化もしなかったが、戦場の客観にも新鮮さを感じな
 くなり慌しい闘争生活の中でそのインテリジェンスが鈍らされて行ったはてには、悪く
 戦場馴れがし何をするにも真剣味のない怠惰な兵にはって行った。彼は兵の悪いところ
 ばかりに興味をもちすぐに自堕落さを真似てゆき、まるで真面目な学生が不良青年にな
 って行く過程を自ら楽しむのように、俺には姑娘漁りもできるぞ、支那兵の死体をわざ
 と踏んで通ることも出来るぞ、街の家に火をつけることも出来るぞと誇っているような
 風であった。
・日本軍人の為に南京市内二箇所に慰安所が開かれた。彼等は壮健なしかも無聊に苦しむ
 肉体の欲情を慰めるのである。
・笠原伍長と近藤一等兵とは連れ立って市政府の宿舎を出た。もう銃を持ってあるかなく
 てもいいほどに市内は平穏になっていた。
・珍しく若い娘が街を横ぎる。すると笠原が叫ぶ。おい姑娘!娘は小さな足で驢馬のよう
 にとことこと走って逃げる。 
・「あははは逃げやがらあ」と彼は暴君のように鷹楊に笑うのであった。
・彼等は酒保へ寄って一本ビールを飲み、それから南部慰安所へ出かけて行った。百人ば
 かりの兵が二列に道に並んでわいわい笑いあっている。露地の入口に鉄格子をして三人
 の支那人が立っている。そこの小窓が開いていて、切符売場である。
・彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。一人が鉄格子の間から出て来ると
 次の一人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、
 肩を振り帰って行く。それが慰安された表情であった。
・露地を入ると両側に五、六軒の小さな家が並んでいて、そこに一人ずつ女がいる。女は
 支那姑娘であった。断髪に頬紅をつけて、彼女らはこのときに当たってもなお化粧する
 心の余裕をもっていたのである。そして言葉も分らない素性もしれない敵国の軍人と対
 して三十分間のお相手をするのだ。彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には
 憲兵が銃剣をつけて立っていた。
・平尾一等兵は毎日のように慰安所に通って行った。そして帰って来ると戦友に向ってこ
 う言うのである。
 「俺はな、女を買いに行くんではない。商女不知国恨、隔江猶唱後庭花ということを知
 らんかい。俺は亡国の女の心境を慰めに行ってやるんだ」
 
10
・虹口一帯はほとんど盛り場の観があった。昼は日本人商店は陸軍の兵士がぞろぞろと買
 物で歩きまわり、夕方からは一つ裏の乍浦路に軒を並べたカフェ、喫茶店、キネマ、酒
 場、おでん屋のあたりを将校と兵が群がりさわいでいた。みんな戦を終って前線から帰
 り休養している部隊である。夜更ける頃には料理屋の暗い門前に軍の自動車がずらりと
 並んでここは将校の慰安所になっていた。酔った兵が夜になってから上がろうとしても
 満員で上がれないほどであった。
・ここまできて近藤はある錯乱を感じはじめた。彼は永いあいだ軽蔑することに馴れてい
 た生命というものに再び価値を見出して来たのである。キネマは軍人で満員であり、映
 画の間にロシヤ女の猥雑な踊りを見物し、みんなと一緒に奇声をあげてその猥雑さに喝
 采を送った。そして欲情の活発な甦生を娯しむことも出来た。酒場の女のは彼の膝に腰
 をかけ彼の首に手を廻して歌った。
 「ああ、俺は生きていた。よくも生きてきた。生きていられるのは有難い」
・環境が戦場から盛り場に戻って来ると、戦場との妥協が必要でなくなった為であろうが、
 近藤一等兵は近藤医学士のインテリジェンスを回復して来たようであった。彼はもっと
 この理論を追求してみたかった。しかし彼は追求する前にすぐ知ることが出来た。それ
 は絶対的な解決点をもたない問題であって、解決は各時代の各社会状況のみがそれに適
 した方針を以て採用するものにすぎない、要するにこの問題は個人主義と社会主義とフ
 ァシズムと、三本道の分岐点であるに違いない。
・彼は頭を垂れて眼を閉じた。そしてどれほど大きな生命の嵐の中を自分が通過して来た
 かをしみじみと考えて見ることができた。彼は眼がくらむような恐怖の戦慄が背筋を走
 るのを感じた。そしてたちまち、自分の命へのはげしい執着が胸を熱くして甦って来る
 のを自覚し、恐れた。
・領事館員は一つのエピソードを語った。昨日も一人の支那人が開店したばかりの日本人
 を訪ねて、ここは俺の家だし家財もある。入ってくれては困ると言った。日本人はそれ
 に答えた。何を言うか、ここは占領地区だぞ、虹口一帯の建物一切は日本軍の管理下に
 あるのだ、帰れ。支那人は後をふりかえりふりかえりながら悄然と立ち去って行った。
・それを聞くと平尾は不意に戦敗国民の憐れさに目頭が熱くなった。かつての戦場で子供
 を抱いたまま土手下に倒れた女、母親の死骸にとりすがって泣いていた女、それからの
 一切の惨憺たる風景が一度に彼の記憶に生々しく甦って来た。
・中橋通訳は昨日の午後、首巻きにするものがほしくて洋服屋の二階へ上って行った。掠
 奪されつくして反物などは何一つない散乱した二階の仕立台のかげに、二人の若い女が
 赤裸になって死んでいた。鉄の鎧戸を半ばおろしたほの暗い床の上で死体の肌の白さが
 浮びあがって見えた。一方の女は乳房を抉り取ったように猫に食われていた。通訳は彼
 女等の衣服を死体の上にかけてやった。
 「あの女は子持ちなんですよ。乳臭かったから猫が食ったんだ、きっとね」
 
11
・「平尾、芸者買いに行こう」
・「行ってもいいが・・・待て、拳銃を借りて来る」
・近藤はなにか昂然としていた。というよりむしろ焦立っていた。平尾は夜道を帰るとき
 の用心のために通訳が持っている支那兵からぶん取ったモーゼルの大きな古めかしい拳
 銃を借りに行った。
・三人は黄昏近い衛門を出て大通りを歩いて行った。
・中庭に入ると二階から談笑する人たちの声が聞こえてたしかにこの家であった。彼等は
 階段を上がって玄関に入って見た。硝子戸の中に日本人の五十近い老女の顔が見えた。
 明らかに芸者屋の女将という恰好の女であった。彼女は笠原の声を聞くと蝋燭を持って
 玄関に出て来た。
・「いらっしゃいませ」
・「いい妓いるかねえ」
・「はあおりますよ」
・「電燈がないんで本当に不便ですよ。ほんとにとんでもない所へ来てしまいましたよね
 え。すぐ火を持って参りますから」
・笠原は黙って聞いていたが彼女が去ると、日本人の女の声を聞くのは大連以来懐かしそ
 うに呟いた。
・華やかな和服を来た若い芸者が一人、炭火を持ち酒を捧げ下駄を鳴らしながら入って来
 た。扉の暗がりに立った女の姿と化粧した白い顔とを見たとき、近藤は明らかに幽霊だ
 と思った。このような女がこの壊滅の死都にいるとは信じられなかった。こういう場合、
 着飾った女というものは、一種不気味な恐ろしいものでさえもあった。
・「俺あまた女を殺したくなって来た」
・すると芸者が横から口をはさんだ。
・「わたしも女よ、こわいこと言わないでよ」
・「貴様を殺してやろうか」
・近藤は酒のためにかえって青くなった顔に微笑をうかべ女の顔を見ながら腰のピストル
 を抜いて威嚇的にテーブルの上に置いた。
・「ああ、女を殺したくなった」
・近藤はまた言った。強迫観念のようにそのことばかりが頭を苛めていた。 
・その時芸者は座の静けさを救うように言った。
・「女を殺すなんてよくないわ」
・「何がよくない」と近藤はすぐに応じた。
・「だって女は非戦闘員でしょう。それを殺すなんて日本の軍人らしくないわ」
・この場合それは大変に生意気な言葉であり侮辱的であった。近藤は反省の余裕もなく持
 っていた盃を投げつけた。女は狼狽して立ち上げり乱暴するのいや!と叫んだが、近藤
 がテーブルの上の拳銃をつかんだのを見ると長い袂をひるがえしてドアの外に逃げた。
・近藤は撃つつもりがあったかどうか分からなかったが、女が逃げ出したのを見ると発作
 的に指が引金を引いた。爆発の音は二発つづいて起った。女ははげしい悲鳴をあげて戸
 口から外へ走り去った。
・平尾がすぐに立って彼の腕を脇の下にかかえこみ拳銃を奪った。
・「いかん、出よう」
・笠原が近藤の腕をかかえたまま廊下に連れ出した。平尾はすぐに後につづいた。
・平尾は弾丸は当たらなかったと思った。詫びて、勘定を済ませて出ようと思っていた。
 廊下に出ると小棹の上に一本の蝋燭がともっていた。笠原は引きずるようにしてそこを
 通り過ぎた。後につづいた平尾はそのとき足下に点々と落ちている血が黒く光っている
 のを見た。すると彼は改めてはげしい狼狽を感じ、すぐに笠原の背に顔を寄せて言った。
・「当たったらしいです。血が落ちています。早く出ましょう」
・奥の方で何とも名状しがたいはげしい女の悲鳴がつづいていた。
・「どうしたんだ。おい、どうしたんだ」
・上の窓から首を出して将校らしい者が叫んだ。
・追って来る者はいなかった。彼等はやがて真暗な中山路のしんと静まった舗道に出た。
・「伍長殿、すみません。御迷惑かけました」
・彼は捕えられた腕を静かに放しながら弱々しく詫びた。
・「馬鹿!懲罰でも食ったらどうするんだ」笠原は低いきびしい声で言った。
 
12
・昼飯のすぐ後で近藤は倉田中隊長から呼ばれた。彼はすぐ立って行きながら途中で平尾
 の室に駆け込み、小声で言った。
・「いま中隊長殿から呼ばれたんだ。ゆうべのことだと思う」
・「そうか」平尾は佇んで出て行く近藤の後姿を見送っていた。
・倉田少尉の室には温厚な綺麗な顔をした憲兵伍長がひとり座っていた。少尉はすぐに困
 惑した顔色で言った。
・「お前はゆうべ拳銃で女を撃ったという嫌疑を受けているが、そうか?」
・「はっ、自分が撃ちました」
・「うむ。・・・なんでそんな乱暴なことをしたんだ。今日までお前が度々の戦場で働い
 て来たのを、みんな棒にぶるようなことになるじゃないか。残念なことをしてくれたな
 あ」
・「は、自分が悪かったのです」近藤は突然にはげしい後悔を感じ、涙が湧いて来るのを
 止められなかった。
・「憲兵隊から呼び出しが来ておる。この伍長と一緒に行って来るがいい。気をつけてな」
・憲兵隊本部は昨夜の事件をおこした場所からつい近処であった。彼は着くとすぐに簡単
 なとり調べを受けた。その時に女の負傷は左腕の貫通で動脈にも骨にもふれていないか
 らすぐに治るものであることを近藤は知った。
・ドアの錠をはずす音がして、昨日の憲兵伍長が入って来た。
・「近藤一等兵、こっちへ来い」
・彼は黙ってついて行った。昨日調べられた室に入れられた。そこで彼は一つの宣告を受
 けた。
・「原隊へ帰って宜し。処分は追って通知があるだろう」
・突然彼は非常に狼狽を感じた。
・近藤は倉田少尉があるいているところまで行って原隊へ帰ることを許された由を喘ぎ喘
 ぎ報告した。
・「そうか、それは良かった。恐らく大した処分にはなるまい。列にはいれ」
・少尉は歩きながら喜んでそう言った。