美徳のよろめき :三島由紀夫

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この作品は、今から60年以上の前の昭和32年(1957年)に発表されたものだが、
現代で言うなら「人妻の不倫」とでも言うような、今日読んでもそれほど古さを感じさせ
ない内容だ。
人妻の不倫」と言えば、有名人の不倫が頻繁にテレビのワイドショーに登場するように、
今では日常茶飯事的なものとなっており、それほど珍しい出来事ではないようだが、当時
の時代においては、かなり刺激的な出来事だったのかもしれない。
有閑階級」という言葉があるが、この物語は、まさにこの有閑階級の世間知らずの幼稚
な女性を描いている。有閑マダムの火遊びとは、こんなことを言うのだろう。生活になん
の苦労も知らないで育った女性の、優雅で贅沢で、気安さいっぱいの恋愛ごっことは、ま
さにこんなことを言うのだろう。
実際、この本の著者自身も、その家系を遡って行けば、天皇家や徳川家にたどり着くとい
う血筋だったようだから、まさに最上級国民に入る毛並み抜群の人物だったようである。
おそらく著者の育った家庭環境も、この有閑階級そのものの環境だったのではなかろうか
と想像する。
現に、この著者は、この作品を発表した昭和32年に、今の上皇后がまだ「正田美智子
だった時代に、聖心女子大を卒業したばかりの彼女とお見合いをしていたようだ。
そう考えると、この作品に描かれているような、まるで生活感のない主人公を取り巻く生
活環境というのも、うなずけるような気がする。おそらく、著者自身を取り巻く生活環境
が、この作品に描かれているような生活環境そのものだったのかもしれない。
しかし、この作品が書かれた1957年といえば、まだ敗戦からの復興道半ばの時代であ
る。そんな時代に、こんなまったく生活感のない、優雅な作品を書けるのは、やはり一般
の人々とはまったく違う世界にいた人でないとできないだろうと私には思えた。
なお、この作品は過去に映画化やラジオドラマ化・テレビドラマ化もされたようである。
また、この作品により、当時「よろめき」という言葉が流行語になったようだ。
私もこの言葉を借りるならば、わが人生も「よろめいて」ばかりの人生であったような気
がすることをここにつけ加えておきたい。

第一節
・倉越夫人はまだ28歳でありながら、まことに官能の天賦にめぐまれていた。非情の躾
 のきびしい、門地の高い家に育って、節子は探求心や理論や洒脱な会話や文学や、そう
 いう官能の代りになるものと一切無縁であったので、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、
 官能の海に漂うように宿命づけられていた、と云ったほうがよい。こういう婦人に愛さ
 れた男こそ仕合せである。
・節子の実家の藤井家の人たちは、ウィットを持たない上品な一族であった。多忙な家長
 が留守がちで、女たちが優勢な一家では、笑い声はしじゅうさざめいているけれども、
 ウィットはますます希薄になる傾きがある。とりわけ上品な家庭であればそうでる。節
 子は偽善というものに馴らされて、それが悪いものであるとは夢にも思わぬようになっ
 ていたが、これは別段彼女の罪ではない。
・現代においては、何の野心も持たぬということだけで、すでに優雅と四でもよかろうか
 ら、節子は優雅であった。女にとって優雅であることは、立派に美の代用をなすもので
 ある。なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅
 な女のほうであるから。
・少女時代に二三憶う男もあったのに、節子は親の決めた男と結婚した。良人の倉越一郎
 は、世間の男のするような愛の手ほどきをしてあり、節子は忠実にそれを習った。男の
 児も一人出来た。
・しかし何か不十分なものがあった。もしこんな手ほどきがなかったら、節子は川むこう
 のことなど考えもしなかったろうに、このおかげで川岸まで連れて来られて、それから
 は川むこうの草のそよぎに目を奪われるようになった。しかるに良人はこちらの川岸で、
 長々と寝そべって、そんな年でも無いのに午睡をはじめた。結婚後3年もたつと、夫婦
 のいとなみは間遠になった。
・節子は時折、結婚前に良人以外の男と唯一度したことのある接吻を思い出した。それは
 避暑地で知り合った土屋という同い年の青年であった。この接吻は必ずしも遊戯的なも
 のとは云えなかったまでも、大そうお粗末なもので、節子はあわてふためいた男の乾い
 た唇の、ほんの一触をおぼえているにすぎなかった。良人から教わった接吻は、これに
 比べれば、はるかに多岐にわたっていた。
・あの青年の接吻が、只一度であり、ほんの一瞬であり、しかも拙劣であったことが、節
 子の記憶の裡にかえってその重要性を高めたのである。節子は何か退屈な折に、良人か
 ら教わった多岐な接吻を、ひとつひとつ土屋の上に応用してみる空想にとらわれ、その
 たびにぞっとして身を退いた。これは決して恋ではなかった。あのときの私が今の私だ
 ったら、もっといろいろと教えてあげることもできたろうに、と節子は、忠実な生徒が、
 時たま教師になり変える空想をはぐくんでいたにすぎない。
・節子は堅固な道徳観を持っていたが、空想上の事柄については寛容であったというほか
 はない。この躾のよい女の羞恥心は、そもそも躾とししか働かなかったので、どんな夢
 を見ても、恥ずかしい気持ちにはならなかった。自分ひとりで見る夢を、誰に見られる
 心配があろう!
・その土屋には、節子は結婚後も、たびたび偶然に顔を合わせた。土屋は身ぎれいで、少
 し崩れたお洒落を好み、何かにおびえているような消極的な風情があって、節子はこの
 男が、一体何が面白くて生きているのかよくわからない。いつまでもこの青年がどこか
 でちゃんと生きており、自分もことらで生きているということがふしぎに思われる。
・偶然土屋と会った日には、家へかえって、一人息子の幼い菊夫の唇に、ちらりと接吻す
 るのが、節子の毎度の記念の行事になった。少女のころから、節子は痩せすぎな少年が
 好きだった。
・節子は女の友達は数多く、機知には乏しいけれども可愛らしいその人柄はみんなに好か
 れた。友達はそれぞれ結婚していたが、恋の事件はほうぼうで起きており、節子は忠実
 な聴き役になった。
・節子の好みはまったく官能的なものであった。男はただ荒々しくない美しい顔と、しな
 やかな体躯を持っていればよかった。そして何より若さと。男の野心や、仕事の情熱や、
 精神的な知的優越や、そういうものには節子は何らの関心がなかった。
・節子は野生を尊敬していなかった。男の魅力をあらしめるには、金のかかるお洒落と、
 一定の育ちから生ずる一定の言葉遣いとが必要だと思っていたのである。
・良人は時たま節子と外出する日以外は、通例夜の12時、おそいときには1時まで帰ら
 ない。そういう仕事なのである。節子は嫉妬を知らなかったので、永すぎる閉暇を埋め
 る感情の持ち合わせがなかった。
・女友だちとの附合をする他はない。お茶に呼ぶ。呼ばれる。一緒に買物にゆく。芝居を
 見にゆく。映画を見にゆく。とこうするうちに、節子は自分が異端者であることを知っ
 た。みんなを軽蔑する気もなく、煩わしくもないのに、節子とみんなの関心はどこかず
 れている。節子は大人しく、愛らしく、何の野心も、過剰な教養も持たないのに、何と
 なく自分だけは人とちがっていると感じるのである。
・こんな状態が、ある小さな事件で不意に崩れた。節子は自分が土屋に恋をしているのを
 知った。

第二節
・節子は「微妙な恋愛」などをしているのではなかった。節子は道徳的な恋愛、空想上の
 恋愛をはじめようと思ったのである。いかなることがあろうとも、決して許さなければ
 よいのだ。
・土屋はいつにかわらず、横柄かと思えば謙虚で、お尋ね者のようにおどおどしていると
 ころがあり、決して節子を正面から見なかった。しかし用心深い節子は、却って安心し
 て思うのであった。「この人相手なら、私の道徳的な恋愛は巧く行きそうだわ」
・節子は不思議な考え方をした。この男は私の思っているほど私を愛していないという安
 心の仕方は、もし節子が本当に土屋に恋しているなら耐えがたい考えである筈なのに、
 却ってひそかな幸福を節子に運んだ。なぜなら、節子の考え方によると、このことは、
 土屋が彼女以外の女をも愛していないという証拠に他ならなかったからである。
・男がまだ、眠っている状態にあることは、確かに節子を幸福にした。性欲的な男、衝動
 的な男に対する嫌悪が、いつの間にか彼女の中に根を張っていたのは、あの始終眠って
 いる良人の影響かもしれなかった。倦怠が女を、衝動の激しい男へ追いやるという説は、
 常に妥当であるとは限らない。
・節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長く続いた。その間には得体の知れぬ悲しみが来
 る。その期間はいわば真紅の喪である。
・一人でいるとき、扉に鍵をかけ、すっかり裸になって姿見を眺めていると、こんな悲し
 みも少し安らいだ。節子の体は決して豊満とは云えない。乳房は少し垂れていて、平ら
 な胸もとから、樹脂が流れて固まったように、小さな子供っぽい乳房が落ち、不機嫌顔
 を背け合っている。もっとも美しいのはその脚である。上半身はたよりないのに、下半
 身には或る勁さがある。日本人にはめずらしい長いまっすぐな脚だ。もし土屋が強いて
 頼んだら、この脚にだけは接吻させてやってもよいと節子は考える。
・どんな深夜の夢想の間にも、節子は土屋を、自分におそいかかり、自分に突き刺さって
 来るものとして思い描かなかった。ただ彼女のなめらかな自足した白い肌と、彼の引き
 締まった毛深い肌とが、触れ合うことだけを夢見ていた。
・節子の空想力には限りがあった。良人がナイトテーブルの抽斗に、買って来たときから
 久しく忘れて蔵い込んでいる数枚の絵や写真を見ても、醜いほどゆがんだ恍惚の表情が、
 節子には理解できなかった。絵空事だわ、それとも芝居をしているんだわ、と彼女は思
 った。
 
第三節
・土屋に会うと匆々、節子は自分で進んでこうして逢っておきながら、お説教口調になっ
 た。自分が妻として又母として縛られていることを、大いに力説しながら、一方、こん
 な自分の束縛の味方に立った。独り者の土屋を子供扱いするためには、節子は十分、妻
 たり母たる自身を、強調する必要を認めていた。
・町へ出ると忽ち暮れた。節子は土屋を強いて、人通りの少ない暗い道ばかりを歩かせ、
 それを土屋が誤解しないように、いかに自分が世間を怖がらなければならないかを説明
 した。そのくせ先に腕を組もうとしたのは節子であった。見覚えのある自家用車が目前
 をかすめるたびに、そこらの店から二三の客が談笑しながら出てくるたびに、節子は身
 を固くして、いそいで土屋の腕から自分の腕を外した。
・二人の間には共通の知人が多かったが、節子が敬虔なクリスチャンだと思っていた良人
 の、或る性的な奇癖の話も土屋は知っていた。
・家へ帰ってから、数時間の間、どんなに良人の帰って来るのが待ち遠しかったろう。節
 子はじっと坐って、あの土屋の一言、真裸でとる食事のことを考えていた。食卓はある
 のだろうか。皿は自分裸のお腹の上に置くのだろうか。そのお皿はさぞお腹の肌に冷た
 かろう。
・節子はそればかり考える。するとおの純粋な官能の絵図面だけで満ち足りて来、土屋に
 対する恋心らしいものだの憎しみらしいものだのは、影もとどめぬほどに薄れて来る。
 人間が恋しいなどと思ったのは嘘だったのだ。何か小さな、一つの新鮮な幻影がほしか
 ったのだ。 

第四節
・二三日たった或る日のことである。節子と女の友達四五人で集まる恒例のお茶の会があ
 った。土屋と逢引きをするようになってから節子がその会へ出たのは初めてである。そ
 れは退屈な会合であったが、土屋との数次の逢引きのおかげで、節子は自分が内心、そ
 んな退屈、そんな沈滞を凌いだものを蔵しているような気がして、進んで出席する気持
 ちになった。出てみると、いつもながらの噂話ばかりである。そのうちに一人の夫人の
 口から土屋の名が洩れた。節子は鋭く聴耳を立てた。土屋と或る映画女優との噂が出て
 いたのである。
・節子はその女優の映画は見たことはなかったけれども、雑誌の写真や記事で、その顔も、
 その海水着姿も、その履歴も、その生活上の意見も、その「理想の男性も」知っていた。
・ただ節子は持ち前の偏見から、女優という職業を蔑んでいた。一人として服装の趣味の
 いい女はいないというのが、こんな軽蔑の表向きの理由で、それというのも育ちが悪い
 からだ、と考えていた。節子は民衆の平均的な趣味というのを嫌悪していたのである。
 
第五節
・彼がはじめて(正確に言えば9年前のそれを最初として二度目)、節子に接吻したのは、
 節子が目論んでいたとおりの場所である。何度も重ねた逢引きの末に、家の近所まで送
 って来た土屋が、はじめて車を下りたのは、残念ながら節子が、「すこしお歩きになら
 ない?」とわざわざ口に出して誘ったからであった。寒い夜であったので、二人は外套
 の腕をしっかりと組合せて歩いた。やがて節子が立ち止まって暗示を与えた。ようよう
 のことで土屋は唇を近づけたが、その唇は節子の唇のすぐ間近まで来て止り、口のはじ
 で軽く笑って、知らないぞ、と言った。節子は返事の代りに男を抓ろうとしたが、男の
 外套の生地は厚くて抓るに由なかった。そうする間に二人は接吻していた。節子は、当
 然のことながら、9年前と比べて土屋の接吻が巧者になっているのにおどろいた。
・節子のしていることは何だったろう。これが恋だろうか。節子にとっては自分の官能的
 な魂を満足させないことが伊必要であった。そこでいつまでも、自分の寛容な美徳に頼
 ったのである。
・土屋との逢瀬は頻繁になった。しかし土屋は礼節を保っていた。別れ際の暗い川岸の散
 歩、別れの接吻、・・・そういうものは少し甘味を含んだ儀礼にすぎないと、考えてい
 るかのようであった。
・許さなければよいのだという、節子が最初に立てた戒律は、しかし時折、根拠の薄弱な
 ものになった。何故ならこの戒律は、もし土屋の心がそれを求めていなければ、忽ち根
 拠を失うからである。
・友の夫人たちが語る狼のような男たちに比べて、土屋はまるで異人種かと思われた。彼
 は酔いのまぎれにも、一度としてそれに似た要求を仄めかさない。それを土屋の行儀の
 よさと殊勝にとるには、土屋の日頃の話題があんまり放恣にすぎる。あるいは彼は、節
 子をほんの精神上の友たちと思っているにすぎないのか。節子にとってこんな空想は、
 まんざら思い当るところがないではないだけに、辛い空想であった。
・そこで節子は、許さないという意思表示をするために、まず土屋がそういう要求を持ち
 出すように誘導する必要があった。
・それは乱調子の春であった。その年の雪は三月になってはじめて降った。節子の体も、
 こんな気候の変調を反映して、どこか常ならぬものがあった。それが何かはわからなか
 った。しかし遅れがちな月経が二月にとうとう来ず、三月半ばを過ぎても何の音沙汰も
 なかったので、ようよう節子は思い当たった。節子の悪阻はいつも軽くない。ある朝、
 それらしい吐気が来たので、彼女はすぐ医者にゆき、妊娠を確かめた。
・帰り道、節子は目のくらむ思いがした。土屋の接吻だけで受胎したようなものだからで
 ある。あの最初の接吻の名残りを唇にとどめているその晩に、節子はいわれのないさび
 しさから、良人と久々に床を共にした。それはたまたま危険な期日であることを知りな
 がら、そうしたのである。良人はあいからず酔っていたが、節子の世にもめずらしい挑
 みに応じた。そして辛うじてそれを果して眠ってしまった。
・受胎は土屋との逢引きの中絶を意味している。この一向に捗らぬ、なまぬるい拷問のよ
 うな恋の中絶を意味している。もしかするとこのことは恩寵かもしれぬ。予測される節
 子の不幸を防ぐために、何ものかが、突然彼女の翻意を促しに来たのかとも思われる。
 彼女の腹は徐々にふくらみ、逢引きは滑稽になり、長い疎遠が生まれ、恋は終わり、そ
 うして良人の子が、正真正銘の良人の子が生まれるだろう。
・ここまで考えたとき、節子は、今自分が運命と思っているものに身を委せ、それに従順
 に従うことが、どういう結果を産むかを知った。こんな風に断念した恋の後では、生ま
 れる子供に対する彼女の心は、ややもすればあの晩の土屋の接吻の記憶を呼び戻し、そ
 の子は明らかに土屋の子ではないのに、ただ恋の形見として生まれ、一生節子は土屋を
 思うことなしにはその子を思うことはできないだろう。
・いかにも奇妙に思われるのは、この受胎を節子が、土屋のために黙って払っている大き
 な犠牲だという風に考えはじめたことである。そう考えはじめた当初は、罪の思いその
 ものにも、土屋のために我慢しているという快楽がこもっていた。
・さて節子が、良人への裏切りをおそれて、良人に内緒でその子を堕そうとの考えに達し
 たとき、今度はこんな決断は、良人のために払う犠牲だと考えるほうが自然ではなかろ
 うか?だが節子は妙に良人を庇った。そしてこの決断のいたましさを、ますます土屋の
 ために払う犠牲だと考えることを好んだ。
・過去に節子は子供を堕ろしたことが一度あった。そのときは病気勝ちで体が弱っていた
 ので、良人がむしろすすめて、そうしたのである。その折にも少し泣きはしたが、悲し
 みには甘さがまじっていた。今度はちがう。今度は何もかも自分で事を選んで、自分で
 決着をつけなければならぬ。
・今度土屋と逢うときまでは子供を堕すまい。手術の後のよろめく体で逢いたくはない。
 今度逢って、そのあくる日には必ず医者に行こうと節子は思っていた。
・しかしこうして誰にも知られずに終わってしまう筈の沈黙の劇の空しさは、だんだんと
 節子に何かしら報いを願う気持ちを育てた。こんな気持ちは、時と共に日と共に大きく
 なった。これだけ苦しんだのだから、どんな歓びも享ける資格があるような気がした。
 何を望んでいるのかはわからなかった。ただこれだけの犠牲を払って彼女が望むものは、
 決して罪にはならぬだろうと思われた。
・「ねえ、今度御一緒に旅行に行かないこと?」
 土屋の返事は、まことに間髪を入れなかった。
 「行こうよ!」
 そして彼はなつかしげな微笑をうかべ、それに誘われて節子も微笑した。
 
第六節
・節子は空想からも罪の思うからも解き放たれた。そして女のほうから言い出したあの申
 し出も、今は後悔の感情はなかった。二人は、土屋の仕事のことも慮って、5月に旅へ
 出ようと約束した。
・土屋はえもいわれず優しかった。その優しさに節子はあくる日まで酔っていた。酔いの
 ままに朝早く医者へゆき、酔いのままに手術が運んだ。医者は彼女に麻酔さえ要らぬこ
 とを知っていただろうか?
・節子の中に本当の節子が生れ、目をさました。彼女は愛する男を発見したのである。奇
 妙なことに、旅行の談合が成立したその日から、土屋ははじめて恋人らしく振る舞い出
 した。その日を堺にして、彼はやっと自分の演ずる役割に気がついたかのようである。
 忽ち二人は眼差しだけで心の通い合う仲になった。節子は今年ほど4月の宵々の街の燈
 火を、官能的なものに感じたことはなかった。
・ある晩、二人は待ち合わせて映画を見、映画館を出たときに、めずらしい大停電があっ
 た。町のあらゆる灯が消え、ネオンはまたたきながら消えて行った。残っているのは自
 家発電のビルのあかりだけである。
・節子の情緒は動揺し、只ならぬ不安はすぐさま肉の思いにつながった。この暗い街中で
 は、人目を憚ることは要らなかったから、別の不安が、却ってこの不安を免れさせ、節
 子の情緒はあからさまになった。
・節子の腕には、組んだ土屋の腕の温かみが伝わり、彼女の記憶にたびたび断片的にあら
 われて男の腕は、この男の腕だったことがはっきりする。節子は街のまんなかで、はじ
 めて土屋に接吻を求めた土屋はかたわらの看板の片陰に立止まって接吻した。

第七節
・今までにも医者に休養をすすめられて、一人で二三日旅に出たことがある。良人は仕事
 が忙しいが、妻の旅先が近ければ、気まぐれに夜やって来て、あくる日の朝の早い汽車
 で帰京したこともある。今度の旅は遠くなければならぬ。
・女に友情がないというのは嘘であって、女は恋愛のように、友情をもひた隠しにしてし
 まうのである。その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめている。節子にも一人、腹
 心の友があった。与志子である。与志子も人の妻だったが、節子に先んじて、まことに
 執拗な恋人を持っていた。
・節子と与志子の談合は忽ち捗った。与志子はこの夏、或る避暑地に別荘を借りようとし
 ていた。そのための下見に行かなくてはならなかった。与志子の良人も多忙であったの
 で、下見は妻に一任し、彼女は一人で旅に出るということにすればよかった。それに節
 子が同道するという口実が出来たのである。
・どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している、と節子は考えていた。 
 節子の内部には、感情の価値の混乱が起こった。どんな邪悪な空想も心を苦しめること
 がなかったのに、久々に味わったやさしさや無邪気さが、良心の傷手になるのだとすれ
 ば、一歩進んで、彼女は冷たい打算や身勝手な計画を美徳と見なし、やさしさ、自然さ、
 無邪気さ、などの明るい感情を、悪徳と感じなければならなかったからである。
・彼女は良人思いのつもりでそう力めながら、良人が実際そんなものを望むかどうか、考
 えてみもしなかった。良人が望まなくても、貞節と美徳の本質はそういうものであり、
 むしろ節子自身のためのものだった。第一、良人は何も望んでなぞいはしなかった。彼
 はいつも眠っていたのだから。
・節子はそんな風にして、もともと穏健な躾のよい考え方から出発しながら、世にも危険
 な毒のある思想に染まってゆくことに気づかなかった。
 
第八節
・その朝に限って門まで送って出た節子に、振り向いた倉越一郎じゃ、5月の朝そのもの
 のような、又いわば、試合に勝った瞬間の野球選手のような、とてもない明るい笑顔を
 妻に向けた。それが妻を教の旅行に向かって、何ものにもまして鼓舞する笑顔だとは知
 らずに。そして又、どんなことをしようとこの男を不幸にすることなどできないと、何
 にもまして妻を絶望させる笑顔だとは知らずに。
・待ち合わせの時間には早かったが、菊夫が幼稚園から帰って来る前に家を出なければな
 らなかった節子は、時間をつぶすのにスーツケースを持ちあぐねた。スーツケースは決
 してそれほど重くはなかった。しかしこの姿を眺める人の目は、節子をわびしい気持ち
 にさせた。
・約束の定刻より数分前、突然、扉がひらいて、土屋の姿があらわれた。節子は思わず立
 ち上がった。この瞬間、すでに彼女は土屋に身を委せていたのである。
 
第九節
・4時間にわたる汽車の旅ののち、季節外れの閑散なホテルの一室で、かれらは最初の一
 夜を過ごした。土屋の最初の行為は不手際だったが、節子は意に介さなかった。その夜
 の彼女は、そういう行為さえ殆んど要らなかったほどである。
・その晩の節子は実際火のように清浄で、彼女自身、ほとんど肉感的な印象をとどめてい
 なかった。これまで土屋から受け取っていた多くの官能の断片は、土屋の髪の匂い、唇、
 肌ざわり、・・・そういうもの悉くは、まるで節子にとって重要でなくなっていた。こ
 の青年に身を委したという自分の精神的姿勢だけで満ち足りていたのである。節子はこ
 のとき、何に似ていたと云って、
・かれらの体は、朝早く、又しても不器用に結びついた。この人気のないホテルの一室に
 在りながら、 まるで混んだ電車で体がぶつかり合うようにして。
 屋は呆れるくらい子供に反ってしまった。猛獣狩りだと云って節子を追いまわした。節
 子は毛布をかぶって身を護り、ベッドのまわりをかけまわる男の腰の動きを、ずっと年
 下の男を見るような心地で眺めた。私も子供にならなければと節子は思った。子供にな
 り切りさえすれば、どんな道徳的恐怖からも自由になれると考えたのである。
・やがて落ち着いた土屋が、例の真裸の朝食をとろうと提案する。節子は寝床に隠れてい
 ればよかった。電話で注文した朝食が、朝日にまばゆい窓辺に運ばれるのを、仮にガウ
 ンをまとった土屋が迎えて、伝票に署名をすればよかったのだ。
・ではお給仕をいたしましょう、と窓際に立っていた土屋が言って忽ちガウンを脱ぎ捨て
 た。彼の体中の夥しい毛が朝日のなかで金色に光った。節子はシーツで身を包んでいた。
 トーストのようだね、と土屋が言いながらそれを剥いだ。節子は拒まなかった。節子の
 毛も寝台の裾の朝日のなかで金色になった。
・二人は体の上に焼けたパンの粉を平気でこぼし、銀の珈琲ポットの熱さにあわてて脇腹
 を引っ込めたりしながら、朝食を摂った。それは決して、かつての節子の空想をあれほ
 どに悩ませた淫らな食事ではなかった。むしろ子供らしい無垢な朝食だったと云ってい
 い。
・午後は雨になり、雷さえ鳴った。二人はホテルへ帰って、ロビイの煖炉の前にいた。節
 子が手水に立った。かえって来たとき、彼女は玄関口に着いた自動車からロビイへ入っ
 て来る一団の紳士を見た。その瞬間、節子は伯父の横顔をおの一団の中に見出した。節
 子は身を隠そうとして、ライブラリイへ駆け込んで、一番奥の薄暗い机に向かって座っ
 た。節子は机に顔を伏せて慄えている。
・節子は土屋の手を引いて自分の胸にあて、烈しい動揺をしらせた。そしてようやく、こ
 んな驚愕の理由を語った。土屋もその紳士たちを見ていた。
・節子は土屋に抱きかかえられて立ち上がったが、その美しい脚はまだ慄えていたしかし
 伯父のほうからは気づかれなかったという自信があった。部屋に戻ってドアを後ろ手に
 閉めるか閉めぬに、力のかぎり強く抱いてくれと、節子は男に言った。
・そうしているうちに、何かの拍子で見交わした目の奥底に、節子は押さえつけるような
 圧力的な微光を見た。軽い不安な接吻。土屋はあわただしくズボンを下ろし、節子はガ
 ータアを外した。この脱衣のおのおのの動作は、異常に素速く、又平静で、一瞬一瞬が
 符節を合して運ぶように思われた。二人は寝台のベッド・カバアを外す労をも厭うた。
・やがて二人の体が、寝台の上に漂う昼の闇の中で、深い吐息に埋もれるまで、はじめて
 いささかの曖昧さもない結合が進んでゆき、節子は男の筋肉のひしめきの一つ一つに感
 動した。土屋は生れかわった。この青年の巧者な、確信ある恋人になったのである。
・かれらの下着は首のところまで捲り上げられたまま脱がれなかった。そこで節子は男の
 胸毛に光っている汗を啜った。この暗い甘い体の匂いが、どうやらはじめて意味深いも
 のになった。

第十節
・いうまでもなく、旅から帰った晩、節子は良人に旅行の話をした。良人がのちのち与志
 子に同じことを訊いても大丈夫なように、あらかじめ与志子と打ち合わせておいた話を。
 ところが良人は、節子のことよりも、与志子の動静をいろいろと訊くのだった。その結
 果、節子は甚だ小説的な空想をめぐらした。もしかして与志子が良人と愛し合っていて、
 節子の留守に、何も知らぬ節子を笑いながら、二人が夜を過ごしたのではあるまいか?
 良人ももっとも人の悪い質問をしているのではあるまいか?
・節子はもちろん少しも嫉妬を感じなかったが、明くる日になると、女中に留守中の良人
 の帰宅の時間を尋ねた。良人は外泊はしなかったが、二晩つづけて、その帰宅がひとき
 わ遅かった。与志子に逢っていたのであろうか?
・旅行に行って数日後に月経を見たとき、節子の幸福感は絶頂に達した。これこそすべて
 が恕され、すべてが嘉納されたしるしであった。いつも来る悲しみも来ず、心は均衡を
 得てかるがるとしていた。 
・旅のあとの最初の土屋との逢瀬はたのしかった。目を見交わしているだけで、旅の記憶
 の細目が心に溢れた。
・食事のあとで土屋は都心を離れた宿へ節子を案内した。入口で女中は土屋に、はじめて
 の客のように応対した。そういう宿では、どんな馴染みの客にもそういう応対をするの
 だということを、まだ学んでいなかった節子は、少し固くなっているようにみえる土屋
 にも、不愛想な女中にも、等しなみに好意を感じた。通された洋間は、迂回した廊下の
 つきあたりで、小さな池に面していた。
・節子は凭りかかりのない洒落れた小椅子に坐っていた。青年が背後に立って、彼女の背
 中のホックを外しはじめた。一つ外れた、と節子は思った。二つ外れた。彼の指が節子
 のうしろの髪をそっと持ち上げるのを彼女は感じた。ホックは皆外れ、節子のやさしい
 優雅な肩から背はあらわになった。
・いつかしら、男は彼女の背にぴったり身を着けて立っている。そして胸から上だけをか
 がめて節子の頭を、うしろから包むように掻き抱いている。彼の息が節子の髪のなかを
 吹き迷うている。節子は突然背中の肌に、彼の愛のしるしを感じた。
 
第十一節
・逢引きを重ねるにつれ、節子はときどき土屋が宿を変える、その仮の宿々での、さまざ
 まな小事件を知るのだった。それこそ節子のはじめて知った社会である。廊下で会うと
 あわてて顔を隠す女客。何事かホテルの前に急に到着する救急車。それから廊下のいさ
 かいとけたたましい泣き声。今居るのはホテルなのか病院なのか、わからなくなる時が
 あった。
・嘘がひとたび生活上の必要と化すると、それはまるで井戸水のように、渋滞なくこんこ
 んと湧いた。節子は自分の持っている嘘の能力の豊かさに驚いた末、自分を一種の天才
 のように思ってしまった。かつての感じ易さは消え、どんな感情の危機をも乗り越える
 堅固な表情が身についた。もし良人がいささか敏感であったとしても、空想上の恋をし
 ていたころの節子を怪しみ、今の節子を却って怪しまなかったにちがいない。
・このごろとりわけ節子には、良人のいつも上機嫌な顔が、気に障って仕方がなかった。
 常に感情の平衡が保たれていて、妻の前で思い悩んだ顔を見せたことのない良人が、気
 ぶっせいに感じられて仕方がなかった。節子は今日こそ良人が、思いがけず、すべてを
 知って打ちひしがれた孤独な淋しい顔をして彼女を迎えることを夢みた。この空想は節
 子の気に入った。
・夫婦はエア・コンディションのある店で食事をした。するとこの人工的な涼しさは、感
 情の真空状態によく似合い、節子は自分の言っていることが、誰か他人の口真似にすぎ
 ない空々しさを忘れた。良人はよく喰べた。節子の心は良人の食慾さえ許していなかっ
 た。大事が起こっているのに、この平然たる食慾は何事だろう。
・食事がおわったあと、散歩をしている二人の目は、たまたま町角に掲げてあるホテルの
 広告に止まった。それはすでに節子が一度行ったことのあるホテルである。
 「東京のホテルなんて、東京住いの人間には意味がないね」
 良人がどうしてこんな子供っぽいことを言い出したのか疑問である。
 「さあ、だってあれはアベック・ホテルでしょう」と節子は言った。
 
第十二節
・節子はその必要が今までなかったので、このごろ時花の、月経の時期を早めもし遅らせ
 もする便利な薬品の存在を知らなかった。知っていても彼女は、そういう人工的な薬品
 を嫌ったかもしれない。実のところ、良人に対して節子が最初の軽蔑を感じたのは、彼
 が避妊の人口的な手段に熱心すぎたからであった。その点土屋の無為無策は、彼女に並
 々ならぬ信頼を託しているように思われる。
・逢引きの場所は、節子が今居る土地と東京との丁度中間にある海岸の小さなホテルであ
 る。前からそこに一度泊ってみたいと思っていたが、序でがなかったので、今まで果た
 せなかったのである。
・実のところここ数日、節子は肉欲に苛まれていたのだが、こうして目の前に眠っている
 土屋を見れば、彼女には自分の愛が決して肉体的な愛だけでないという確認が生じた。
 そして他ならぬこんな確認から節子の無恥がはじまるのである。
・その晩節子はホテルに土屋と泊った。夜は長い散歩をし、足もとに忍び寄る波の穂先に
 濡れた。部屋へ帰ってからもラジオをきき、ゆっくりと食後の酒を呑んだ。
・彼女は突然荒々しい素振に出た。そしてかつて良人が強いたが頑なに拒んだことのある
 愛撫を、一度もそれを求めたことのない土屋に与えた。彼女がそれについて描いていた
 忌まわしい幻影はきれいに拭われ、このいとおしさの潮のなかでは、何もかも清浄無垢
 になってしまった。
・節子の内部に累積されて来た肉の記憶を何に譬えようか。いずれにせよ、彼女自身にと
 ってもこれははじめての経験で、他に比べるものがなかった。節子の官能には、すでに
 土屋でなくてはならぬという条件が加わっていた。しかし当然のことながら、土屋が、
 土屋でなくてはならぬという愛され方をすればするほど、彼の普遍的な男としての肉体
 的な役割は重みを増し、土屋はますます無名の男になったのだった。
・このごろでは土屋と部屋に二人きりになり、扉に鍵がかかると一緒に、その鍵の音で節
 子の情緒は忽ち目ざめた。恥ずかしさからそれを隠して、殊更長い愛撫を求めるのだが、
 土屋はすぐさまそれに気づいて、不要な時を移さぬまでになっていった。節子は土屋の
 肌着さえ愛した。彼の若い裸の肩に手を触れただけで、火に触ったように感じた。彼の
 肉はただ、節子の欣びのためだけに生きていた。
 
第十三節
・その晩の食事のとき、節子はすぐかたわらの背中合わせの席に、あとから入って来て坐
 る男を見た。ちらと見ると良人の同僚である。まだ料理の注文もしないのに、彼女は土
 屋の耳に、クロークのところで待っているとだけ告げ、身をひるがえしてそこを出て行
 った。そしてあとから来た土屋に、食事の店を変えようと言うのであった。
・土屋は怪訝な顔をしていた。節子のこんな懸念、こんな狼狽は、およそ常識の域を脱し
 ている。よその男と一緒に食事をしているところを見られただけで、何が人妻の不名誉
 になるだろう。
・節子の心には秘密を入れておく抽斗がそう沢山はなかった。一つの新しい秘密が生まれ
 ると、前の秘密を蔵ってはおけなくなった。一つの新しい秘密。・・・節子は今月の月
 経が待っても待っても来ぬ不安を、土屋に隠していたのである。
・節子はタクシーに乗った。そして或る友だちの夫人の家へ行った帰りがけに、送って来
 た夫人が坂下の病院を指して、もし何かの時にはあそこの女医は大へん診断が確かで親
 切だと言ったのを思い出し、そこへ向かって車を走らせた。かかりつけの医者にかかる
 のはいやだったのである。
・そこは女医が院長というのにふさわしく清潔な病院で、受付の態度がまず節子の気に入
 った。おそらく節子の身なりが大そう良かったせいで、院長が手ずから診察をした。
 九分通り妊娠が確実であるが、ためしに通経済の注射をしておこう、七日たってなお月
 経をみなかったら、もう一度来るようにと院長は言い、節子は注射を受けた。
・いっそ土屋に黙って掻爬をしてしまおうという気になる。又すぐ思い返して、土屋に十
 分話した上で、土屋の意志に委かせてしまおうかという気になる。しかし躾のよい彼女
 はつらつら考えて、それを土屋に告げることが、脅迫がましくなったり、物欲しそうに
 見えたりするばかりでなく、もし土屋の口から中絶をすすめられれば、どんなにみじめ
 な気持ちであろうと想像する。
・節子は二日のち朝早く例の注射をした病院へゆき、掻爬をすませて、夜までそこで休ん
 でから帰宅すると、風邪と称して寝込んだ。おそく帰った良人がしきりに医者を呼ぶと
 言ったが、軽い頭痛がするだけだと断った。そのために売薬の風邪薬と、水の減ったコ
 ップを、今嚥んだ体にして、ナイト・テーブルの上に用意していたのである。
 
第十四節
・与志子はすぐにやって来た。病気の真相を告げられると、友達にだけ自然な無遠慮な態
 度で笑った。与志子は女にはめずらしい美徳を持っていた。聴手になることのできると
 いう美徳を。一通りきいてから、与志子は自分の不妊についてあからさまに話し、節子
 のいつも敏感な受胎を、動物的すぎると言って笑った。
・「ゆうべ私、ナイトクラブで土屋さんを見たわ」と与志子が言った。節子には、まだこ
 れはさほど衝撃ではなかった。「お連れの方はどなた?」と節子は重ねて訊いた。与志
 子は手短に、或る女優の名だけを言った。
・その後、与志子が自分の情事のわずらわしさを話し、一度その男に会ってくれないか、
 第三者の意見が一等よく利くと思うから懇々と話してくれないか、と相談をもちかけて
 くるあいだ、節子は上の空で、瞼の肉ばかりが動くのを感じていた。与志子が帰ったあ
 とで節子は泣いた。

第十五節
・与志子は秘策を授けた。どのみち手術後二三週間は体をいたわらねばならないから、そ
 の間はあくまで淡々と土屋に会うこと、さてその次の逢瀬には久々に共寝のできるとい
 う、はっきりした口約束をしておくこと。その約束の日が来て、いよいよ宿へ行こうと
 いうとき、理由もなく土屋を拒むこと。どうあってもその日だけは頑なに拒みとおすこ
 と。こんな仕返しのおかげで節子はようやく復権のめぐみに浴するだろうということ。
・ようよう節子が、手術の日に女連れで遊びに出た不真面目さを責めるにいたって、彼は
 その日がまさか手術の当日だとは思わなかったと言いひらき、女優もただ偶然の連れに
 すぎぬと言った。もしそれが女友達以上のものなら、こんな軽率な白状をしないで、白
 を切るだろうとも言った。しかし彼の白状の軽率さ自体が、計算ずみのものだろうと、
 節子には疑う理由があった。
・ホテルの一室に着いたとき、節子の体は流しすぎた涙のために、力を失って、死んだ鶏
 のようになっていた。土屋は荒々しく立ち働いた。靴下を脱がせ、洋服を脱がせ、スリ
 ップを脱がせ、コルセットを外した。なすがままに委せていた節子は、するうちに、土
 屋の荒々しい指先に、かつて知らない喜悦の激しさがこもっていることに気がついた。
 それは落ち着き払った、自信たっぷりに情人の指ではなかった。
・節子は自分の脚に男の唇を感じた。もし常の場合なら、忽ち足を引込めることであろう
 が、装った仮死状態の手前、そうするわけには行かなかったので、ゆくりなくも節子は、
 久しく夢を見ていた死のように恥じらいのない状態で、というのは彼女が裸でたった一
 人いるときのような状態で、われながら美しいと思うすんなりした脚に隈なく男の唇を
 感じることができたのである。
・しかし節子はそんなに永く、死を装っていることはできなかった。やがて肉のほてりは
 冷たかった指先にまで及んで、節子はよみがえり、高い声をあげた。生来のつつしみ深
 さから、(もっともそのつつしみ深さを裏切るような事態は起こらなかったので)良人
 の前では一度として声を立てたことのない節子が。
・われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。恋が本当
 に自由になるのは、たとえ一瞬でも思い出の絆から脱したときたということを節子は学
 んだ。繰り返しを怖れる気持を、われわれは粗雑にただ、堕落を怖れる気持ちだなどと
 呼んでいる。節子が怖れているのは、もう堕落などではなかった。
 
第十六節
・肉は土屋と、これまでよりも深く結ばれているように思えるのに、節子は恋しながら孤
 独になった。それも白昼に裸で戸外を歩いたらこうもあろうかと思われる実にあからさ
 まな孤独で、身を隠す場所もないような気がする。隠れ家も、安息の場所も、心をやす
 める暖かい一隅も、そういうものはこの世界からすっかり失われてしまった気がする。
・逢瀬のたびごとに、ますます肉の欣びがつのるにつれて、土屋の話題はますます乏しく
 なるのに節子は気づいた。世にもあからさまに、彼は手持無沙汰な顔をしたり、放心状
 態を示したりするようになっていた。
・もし自分が土屋を失った場合のことを考える。帰って来るのは、この良人と子供のいる
 家だけしかない。そうなったとき、良人はどんな風にして自分を迎えるのだろう。その
 ときこそ、この何も求めない良人は、はっきり彼女を拒否するかもしれない。一つ屋根
 の下に、生涯別々の心と体を以て、夫婦が住むようになるかもしれない。
・孤独のおそろしさに心を噛まれ、節子は或る晩、久々で良人に挑んだ。もし自分が帰っ
 て来るときの、その帰来の場所を確かめようとしたのである。眠りかけていた良人は急
 に目をみひらいた。「おかしいね。もう僕がきらいになったのじゃなかったのかい」
・彼女の半眼の目のふちの潤いは、枕頭のあかりに艶やかに光り、その睫はいかにも深く、
 今じっと良人の肉体とわが肉との距離をはかっていた。良人はやさしく節子の手を引い
 た。どんな羞恥な考えがこもっているともしれぬこの体の上に、彼はおずおずと手をの
 ばした。
・節子はやがて、もう一段つつしみを押し切った。いつわりの高声を立てたのである。良
 人はこんなはじめての事態にびっくりした気配を示し、事実真正直に熱をあげて、その
 愛撫は大わらわになった。
・良人はこの一夜に味を占めたらしかった。彼の思いもよらぬ精励恪勤がはじまり、それ
 が近いうちに二度三度とつづくと、節子はいつまでも娼婦ではいられず、いつわりの声
 を立てることも億劫になった。こうして節子はいつもの節子にかえり、波紋はしずまり、
 新しい奇妙な習慣は消えてしまった。
・冬が来かかっていた。夏のあいだの逢引きの場所へ又節子が行きたがったので、東京か
 ら1時間の工程のそのホテルまで、午後二人は何の荷物も持たずに出かけた。浜には人
 影を見ず、ホテルの客はかれら一組である。浜の散歩は寒い。5時間あまりホテルの一
 室にいて、終電車で東京へかえったのである。
・節子は手づるを探していた。誰か無関係な、信頼できる人に打明け、解決とは云えぬま
 でも、心の方角を決めるだけの助言をしてもらいたい。与志子では物足りない。節子の
 今求めているのは、世故に長けた人の忠言ではなく、もっと厳粛な訓えである。恋の懸
 引の伝授ではなくて、もっと節子の存在自体を押しゆるがしてくれるような強い思想で
 ある。今そういうものに縋る機会が得られなければ、節子の心は解体して、一挙に破滅
 へ向かって走ってゆきそうに思われる。
・彼女はまじめな旧友の名を思い出し、おの悩み多い友が、しばしば悩みを打明けにゆく
 という年老いた人の名を思い出した。松木というその老人は人に知られぬ著述を重ね、
 ずっと以前から東京近郊の不便な土地に隠棲して、老婢一人を相手に仙人じみた生活を
 送っていたが、若いころは十数年にわたって欧米を放浪し、さまざまな国の裏面に通じ
 ていた。そのころ松木は政治にも関係した。やがて政治を見捨てた。世界各国のあらゆ
 る種類の女をも知った。やがて女を見捨てた。文学や美術や音楽にも近づいたが、芸術
 一般の虚偽の性質に呆れ果ててそれをも見捨てた。このごろでは著述からも遠ざかって、
 しらぬ間にたまっていた財産でつましく暮らしていた。
・告白はなめらかに運んだ。「それはお困りだね」と松木は言った。「それは本当にお困
 りだ。あなたのように悩まないでもいい人生を送れる筈の人が、そんな風に悩む成行に
 なる。それは本当にお困りだ」
・「土屋という人は、今はおそらくあなたを愛していないが、この世で一等協力なのは愛
 さない人間だね。そういうものには手の施しようがないし、しかもあなたはその男から、
 愛のしるしだけは確実に受け取っている。男はもう、あなたの上に自分の力を揮い、そ
 の力の影響を試すことだけにしか興味がないのだ。それなら肉体の仕業はみんな嘘だと
 思ってしまえば簡単だが、それが習慣になってしまえば、習慣というものは嘘も本当も
 ない。精神を凌駕することのできるのは習慣という怪物だけなのだ。あなたも男も、こ
 の怪物の餌食なんだよ。もっとも人生においてそれはそんなに恥ずべきことじゃない。
 あなたは必ずしも敗北者ではなく、男は必ずしも勝利者じゃない」
・「人間の欲望とういうものはケチなものだよ。あなたは本当のところ、もう欲望からは
 治ってしまっている筈だ。私は青年時代のいちばんはじめにそれから治って、あとの一
 生はただ習慣からだけ逃げて暮らした。そして人間のやってのける偉業などというもの
 に、みんなこの私と同じ、逃避の影のさしているのを知ってうんざりした。事業への逃
 避、政治への逃避、栄光への逃避、これが歴史を支えて来たのだ」
・「病人にむかって、病気と共に生きることをすすめるように、習慣と仲良くして一緒に
 生きろなどとすすめるのじゃない。道徳は、習慣からの逃避も認めないが、同時に、習
 慣への逃避も、それ以上に認めていないのだ。道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶
 ち切って、すべてのもの、あらゆる瞬間を、決して繰り返さない一回きりのものにしよ
 うという力なのだ」
・「自然の物理的法則からすっかり身を背けることが大切なのだ。自然の法則になまじ目
 移りして、人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか逃避の王者になるかして
 しまう。自然は繰り返している。一回きりというのは、人間の唯一の特徴なのだ」
・「私の道徳は、あなたに家庭に帰れなどとすすめてはおらん。私の言うとおりに
 すればむしろあなたは土屋というその人の体に、積極的に快楽を見出すだろう。快楽は、
 たしかに素晴らしいものだ。思う存分呼吸しつくし、味わいつくすべきものだ。そうい
 う快楽を知っているあなたはお言いだろうが、明日を怖れている快楽などは、贋物でも
 あり、恥ずべきものではないだろうか」
・「もしあなたが積極的に快楽を見出せば、その次には、あなたはそれを捨てるか持ち続
 けるかの自由をわがものにすることができる。習慣から逃れようとする思案は、陰惨で、
 人を卑屈にするばかりだが、快楽を捨てようとする意志は、人の埃りに媚び、自尊心を
 受け容れやすい」
・節子は考えていた。この人の教えてくれたのは、やっぱり男の思想だ。今私の本当にほ
 しいのは、女の思想なのに。

第十七節
・そのころから節子は衝動的な振舞や気まぐれな烈しい態度で、土屋をおそれさせる瞬間
 がたびたびあり、それが節子自身にもよくわかった。しかしこの賢明な青年は、何の反
 応も示さずじっと大人しくしているだけである。もっとも育ちのよい彼のことであるか
 ら、女に手荒い扱いをすることなどあるべきではないが、彼はおそらく、何もかも我慢
 して、おつとめだけはちゃんちゃ果たしながら、目と、黙った頬と、だるそうな身のこ
 なしとで、女に対して出てゆけがしの態度を示すことを、以前誰か年長の女の情事から
 学んでいたものであろう。
・節子にもそれがわからぬではない。しかしわかるのと一緒に、この横たわっている男の
 肉体が、俄かに、胸もふさぐような官能的魅力にみちみちで感じられる。
・土屋のほうでは、半ば迷惑しながら、半ば女のこの新たな態度を心ひそかに楽しんでい
 るらしかった。おそらく彼は、自分のほうではもう何ら情熱を持たぬ女から、かくも肉
 慾に満ちた荒々しい振舞をされるのを。・・・彼はそこにおそらく、新たな抽象的な快
 楽を見出したのであった。
・節子は松木の高遠な教訓に心足らわぬ思いをしていたが、あの孤独な老人の風格そのも
 のは永く心に残っていた。
 「男ってあんなにまで孤独になれるんだわ。女の孤独とはちがう。どんな老婦人の孤独
 も、もっと生ぐさくて、もっと物ほしそうだ。女はどんな孤独になっても、別の世界に
 は住むことができず、女としての存在をやめることができないからなんだわ。そこへゆ
 くと男はちがう。男は、一度高い精神の領域へ飛び去ってしまうと、もう存在であるこ
 とをやめてしまえる!」
・そこで節子の考えは又元に戻って、誰か世知に長けたものわかりのいい老婦人の、ごく
 世間的な教訓を仰ぎたいと思うようになった。明治の花柳界出の人で、政界の大立物大
 立物の未亡人である老婦人がこうして選ばれ、節子は友だちの紹介で身分を隠して会い
 に行った。
・「そういうお話は決してめずらしいことではありません。私の考えでは、女というもの
 は一度そういう経験をしておくべきだと存じます。なぜなら、良人と男は別ものですし、
 一生良人だけしか知らなくては、殿方というものについての私たちの知識は不完全であ
 ることを免れません」
・「女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。あなたば
 かりではありません。誰もそうしてものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、自分
 という人間の足りないところを、よくよく知るようになるのでございます。女は女の鑑
 にはなれません。いつも殿方が女の鑑になってくれるのですね。それもつれない殿方が」
・「けれども、情にまけるということが、結局女の最後の武器、もっとも手強い武器にな
 ります。情に逆らってはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に
 負け、情に溺れて、もう死ぬほかないというときに、はじめて女には本来の智恵が湧い
 てまいります。
・「ただ、最後まで世間を味方につけておおきなさいまし。一旦事があるときは世間は男
 を庇い立てして、不公平にも女ばかりの非を鳴らすとよく言われます。言われますけれ
 ども、私はそうは思いません。女のほうがずっと世間を味方につけやすいのでございま
 す。たまたま男に忠義立てして世間を敵にまわし、女だけが損をする結果になる。そう
 いう女は馬鹿な女だと申すほかはありません。世間はなるほど情事に寛大ではありませ
 ん。それというのも世間がしじゅう不道徳な事柄に興味を持ちすぎているからです」
・「一等怖れなければならないのは女たちのひそひそ話で、それに女は女の悩みを尊敬し
 ておりませんから、あなたのどんなまじめなお悩みも、お笑い草にされてしまいます。
 女は恋に敗れた女の同情しながら、そういう敗北者の噂をひろげるのが大そう好きで、
 恋に勝っている女のことは、「不道徳な人」という一言で片付けるだけなのでございま
 す。いわば、そういう勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、細目にわたる具体的な
 不名誉は、お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。ですから一番危
 険なのは、あなたが色恋で敗れた側に立ったという噂で、そのためには、その殿方とお
 別れになるときに、ぜひともこちらが捨てた形でお別れにならなくてはいけません」
・それは愉しい理論だった。しかしこんな教訓が節子に与えた効果は逆で、老婦人がこう
 しろとすすめることは、すべて恋をしていない時だけ可能なことにすぎないと思われた。
 そう思う節子の心の中には、病人の特権意識に似たものがあった。彼女は病人が今更日
 頃の養生の秘訣をきくときのような、傲然たる意識で聴いたのである。

第十八節
・土屋との逢引きは機械的につづいている。節子は土屋の情婦になった。逢瀬のたびの別
 れぎわに、もう逢うまいと思うことは、寝る前の祈祷のように、節子の形式的な習慣に
 なった。
・或る朝節子は嘔吐におそわれた。良人に気づかれぬように手洗いに駆け込んで、吐いた。
 蒼い顔色を紅を濃く刷いてごまかしたあとでは食慾が蘇ってきたが、折角とった朝食も
 また戻してしまった。
・それは決して予期しない出来事ではなかった。しかし自分の肉体のこんなにも酷薄な冷
 厳な繰り返しの、一寸比べるものもない正直さに呆れ果て、節子は今まで自分が人工を
 憎んで、ひたすら自然の法則に忠実であったことが、一体正しかったのかどうか疑われ
 た。
・節子は一日も早く掻爬せねばならぬと思った。一週間にわたって、節子はほとんど物を
 喰べていなかった。衰えは全身にあらわれ、女医は体をしらべ、その衰弱に驚いて、麻
 酔は心臓に危険であるから、麻酔なしの手術をしなければならないが、それでもよいか
 と尋ねた。節子はいいと答えた。
・突然友の一人から電話がかかって、松木の訃を報じた。久しく世間から遠ざかっていた
 その人の死を、紙面に載せた新聞は一つもなかった。感じ易くなっていた節子はその知
 らせに泣き、たまたま松木の死が彼女の手術の日を同じゅうしていた暗合におどろいた。
 あの孤独な老人は節子の身代わりに立って死んだように思われるのであった。そしてこ
 んな想像ほど、節子の別れの決心をかり立てるものはなかった。
・又或る日新聞が、乱脈な家庭の内部を赤新聞にあばかれたために、世に時めく人が自殺
 した事件を報じた。この事件は世間が当人の気の弱さを批判する材料にもなったが、同
 時に、現代に稀な道徳的行為だと称揚する声も起こった。その人は清廉な人で、今まで
 自他に厳しい人だったから、こんな矛盾を発見して、耐えられなくなったということは
 在り得る。
・たまたま節子は前日から、里の父に午餐に呼ばれていた。そこで父娘二人きりの午餐の
 席では、当然今朝のこんな報道が話題になった。
・里の父、藤井景安は65歳になっていた。穏やかなその人柄は世の敬慕の的になってい
 た。彼の生涯には、どんなに虫眼鏡で探してみても、一つの政治的変節、一つの私行上
 の悖徳も見当たらなかった。その結果として、現在の景安は、今までの職業とはちがっ
 た系列のものであるが、特に乞われて、あらゆる点から見て申し分のない人格の持主だ
 けにふさわしい、国家の正義を代表するような地位に就いていた。
・しかし景安は、決して他を律するに厳しい人ではなかった。その人となりは寛厚であっ
 た。もし他人の罪過がこの身にふりかかって来れば、自らの不徳といたすところと思っ
 て、いさぎよく身を引くような種類の人だったのだ。
・節子はとりわけ父に愛されていた。決して依怙ひいきするような父親ではなかったが、
 節子は数ある娘のなかでも特に父になつき、又父の目から見ると、彼女は一等たよりな
 く、何らかの庇護をたえず必要としているように見えたのである。
・多忙な仕事のあいまに、たまたま中食の時間があくと、景安はほうぼうの婚家から娘を
 一人ずつ午餐に呼ぶことがあり、これが生活の大きな慰めになった。一人ずつ呼ぶのは、
 それぞれの家庭の問題を、他のしまいに知られたくあるまいという心やりからで、何事
 にも節度のある景安は、自分から進んで彼女たちの家庭の秘事を聴き出そうという態度
 に出たことはなかった。
・そのとき今朝の新聞の話題が出たのである。「そう親しいというのではないが、私はあ
 の人を知っていたよ」と景安は言った。「立派な人だったね。申し分のない人だった。
 それでいて、何とも言いようのない不幸な人だった」
・節子はこの瞬間、目前の自殺者の話題から急に烈しい衝撃を感じ、一旦陥った安穏な気
 持ちから突き放された。突然その話題が、ただの新聞記事ではなくなって、自分たち父
 娘の間柄にのりうつって来たのである。はじめて自分の恋と、父の職業上の良心とを、
 一本の糸でまっすぐにつないでみた。節子は恐怖に搏たれた。
・「もしね、・・・もしかりによ。お父様の周囲にそんなことが持ち上がったとしたらど
 うなさる?やっぱり自殺をなさるでしょうか」節子の声は多少慄えた。景安は言下に答
 えた。
 「自殺はしないね。私にとっては、それが明るみに出ると否とは問わず、私がその事実
 を知っただけで十分だね。そうしたらその日に辞表を出して、世間から身を隠してしま
 うつもりだ」
・この日の午餐で節子ははっきり別れる決心がついた。彼女はすでに偽善を意識して、そ
 れを愛して、それを選んでいた。偽善にもなかなかいいところがある。偽善の裡に住み
 さえすれば、人が美徳と呼ぶものに対して、心の渇きを覚えたりすることはなくなるの
 である。望むらくはそれがまた、あらゆる渇きを止めて・・・。
 
第十九節
・その晩の宿の、良い部屋はみなふさがっていて、通されたのは窄苦しい洋間である。ま
 んなかにベッドがしらじらしく据えてある。窓の帷を透かして、そのホテルの看板の大
 きなネオンの裏側が、明滅するままに部屋を明るくしたり暗くしたりする。
・女中が茶を運んで来て、引き退る。それでも節子が黙っているのを見て、土屋はいくら
 か不安に感じたものか、いつもなら少し巧くやることを、いかにも露骨に習慣的に感じ
 られるようにやってのけた。接吻をしながら、片手を背にまわし、片手で服の上から乳
 房を揉んだのである。
・節子のその態度の常套的なことに傷つけられたが、彼の唇を否むわけにはゆかず、乳房
 に触られると、忽ち稲妻が走って、身の奥深いところを、小気味よく絞り上げられるよ
 うな感覚を否むわけにはゆかない。これはここ数週間忘れていた筈の感覚である。
・節子は土屋の胸にもたれて、泣きながら長い物語をした。自分がどんなに苦しんだか。
 どんなに別れるべきだと思って、それを敢えてしなかったか。どんなに二人の恋にはこ
 の先望みがないか。袋小路であることを知りつつ、追いつめられねばならなかったか。
 こういう立場に置かれた女がどれほど不幸にならねばならないか。最後の節子はこう言
 った。「今夜でおしまいにしましょうね。今夜を本当にいい思い出にしましょうね」
・どうしてことは!土屋は動かなかった。彼は手の辷るほどに涙で光った節子の頬を両手
 で挟んだ。節子はそうされて、死にかけた人のように、一寸目をひらきかけたが又閉じ
 た。
・「いいかい。こんな話のあとでは・・・そんなことは出来やしないさ。男はそういう風
 に出来ているんだ」
・土屋がこんな言葉で、すでに別れを既定の事実にすりかえてしまっているのを、節子は
 夢うつつにきいた。彼女は急いで同意し、できるかぎり素直に、急いでうなずいた。
・ホテルを出ると、土屋は節子の悲しみの治療について、いろいろと親切な助言をした。
 こういう場合には、第三者に打明けるのが一等いいことだと彼は言った。そして馴染の
 酒場に連れてゆき、そこのマダムを呼び出して、一緒に夜食をとりにゆき、土屋が今夜
 の別れの状況の委細を話した。節子は又泣き、マダムは貰い泣きをした。そして土屋を
 さんざん悪党呼ばわりして、こんな男と別れることは、きっとあとでいいことだったと
 思い当たるにちがいないと慰めた。
・深夜であった。土屋が家まで送ってゆくと言って節子をタクシーに乗せた。しかし節子
 は運転手に別の行先を命じた。二人でたびたび歩いた公園の前までゆき、そこで土屋も
 下ろして車を去らせた。
・散歩道は森閑としていた。黙って肩を並べて歩くあいだ、土屋のいそぎ足に、非難を投
 げようとして節子は控えた。彼がいそいそ歩こうが歩くまいが、すでに節子の関わるべ
 きことではなかった。しかし彼女は、決して追随せずに歩度をゆるめた。さすがの土屋
 も気づいて、その歩みは遅くなった。
・もっと早く気づくべき疑いだったのだが、節子はここ数時間、一つの疑問のまわりをめ
 ぐって、その疑問ばかりを心に繰り返した。
 「私の苦しみは、もしかすると、私一人きりのものだったのではないかしら、すべては
 私一人の上に起こった出来事だったのではないかしら・・・」

第二十節
・苦悩などという言葉を、もう信じないようにしなくてはならない。昨日まで、それは生
 活にとって必須の言葉であった。今日はもう要らない。進んでそれを屑籠に投げ込んで、
 整理すべきものは整理しなければならない。とすると、今のこの心の空虚を、何と名付
 けるべきかに節子は迷った。これは苦悩でもない。痛みでもない。悲しみでもない。ま
 して歓喜でもない。苦悩の燠のようなものかと思ってみるが、それでもない。苦悩は確
 実に過ぎ去ったのだ。しかし感情はなお確実の、時計の針のように、わき目をふらず動
 いている。それはあらゆる意味を失った純粋な感情で、裸で、鋭敏で、傷つきやすく、
 わなないて、ただ徒に正確に動いているのである。
・節子は、お互いに手紙のやりとりをすることもここ数ヶ月は止めようという土屋との約
 束を破って、とうとう長い手紙を書いた。
 「今私は全速力で走っていた自動車が急ブレーキをかけて止った時におきる動揺のよう
 なものを感じています。私があなたを慕い、愛し、私の支柱はあなたであり、私の全身
 全霊はあなたのみ集中されていたこと、私の愛がいかに大きかったかが、お別れしてか
 らのち、はっきりとわかりました。あなたは泥試合のような醜い別れにならないでよか
 ったと仰言いましたけれども、私もそれをとてもおそれていました。あなたと私とはそ
 んなことで終りを告げたくないと考えていました。あなたは私の前からお去りになった
 けれども、私は全身であなたを想い、私の涙はあなたのために流れ、私の頭はあなたの
 ことで一ぱい、私はつくづく人間の弱さを味わっていまし。死に別れたら諦めもつき易
 いかもしれませんが、生き別れは耐え難いことです。あなたしか私には必要でなく、あ
 なたさえ居ていただけたならと思います。あなたのところへ飛び込んでゆきたいとどん
 なに思っているかわかりませんけれど、それは私の周囲の秩序をこわさなければ出来ぬ
 ことで、二人のためにあまりに多くの犠牲を出す結果になり、人々を不幸にしての幸福
 なのかもしれません。やはり私はすべてを諦め、私が犠牲になればと考えるより他あり
 ません。急ブレーキをかけて止ったあとのその動揺は不自然で、これを耐えることに私
 の神経はくたくたです。でも一生けんめい耐えてまいります」
・節子はこの手紙を出さずに、破って捨てた。