アメリカ彦蔵  :吉村昭

この作品は、いまから24年前の2000年に刊行されたものだ。
内容は、江戸末期に、乗っていた回船が嵐に遭って船が難破し、漂流中にアメリカの商船
に救出され、アメリカに渡った当時13歳だった少年・彦蔵の物語である。
江戸時代は「漂流の時代」といわれるほど、たくさんの漂流事件があったという。
漂流の経緯がわかる漂流事件だけでも341件もあるといわれ、沈没した船はこの数十倍
はあったのではといわれている。
この物語と同様に、乗っていた船が嵐に遭い難破しアメリカ船に救出されアメリカに渡っ
た少年といえば「ジョン万次郎」が有名だ。
彦蔵と万次郎とは、非常に似かよったところがある。
漂流民となったのは、万次郎は1841年で彦蔵は1851年と10年ほどのちがいだけ
だし、漂流民になった時の年齢も、万次郎が14歳で彦蔵が13歳とほぼ同じだ。
ただ、万次郎がアメリカに滞在していた時期は1843年から1850年までで、彦蔵が
アメリカに滞在していた時期は1852年から1859年までだから、すれ違いになって
いて、彦蔵と万次郎が同時期にアメリカにいたことはなかったようだ。
彦蔵も万次郎も少年期にアメリカに渡ったので順応性が高く、英会話はもちろん英語の読
み書きできるようになっていたが、逆に日本語文書の読み書きは不自由だったようだ。
彦蔵も万次郎もいわば突然、タイムマシンでアメリカという未来社会に運ばれ、未来社会
を経験し未来の知識を日本に持ち帰った。これは、当時の日本にとっては非常に貴重な存
在だったといえる。しかし、その割には、幕府に重用されたようには見えない。
その理由として、二人とも英語は達者だが日本語の読み書きに難があったからなのではと
いうことのようだが、なんとももったいないことをしたものだと、私には思える。
なお、アメリカから帰国した後の彦蔵と万次郎は、直接で会う機会があったようだ。
同じく経験をした者同士、彦蔵は万次郎から励ましの言葉をかけられたという。
いずれにしても私には、万次郎よりも、この彦蔵の体験内容のほうがずっと豊富で興味深
かった。どうして彦蔵より万次郎の方が有名なのか、私には不思議に思える。
ところで、彦蔵は四十歳のときに結婚している。相手は松本e子という十八歳の女性であ
ったようだ。しかし、帰化した彦蔵には戸籍がなく、e子は絶家となっていた彦蔵の親戚
の浜田家を相続して浜田姓となり、彦蔵も「浜田彦蔵」と名乗るようになったという。
なお、万次郎は、三人の女性と結婚して五人の男子を残しているようだが、彦蔵には子は
なかったよだ。
彦蔵とe子の墓は、東京・青山霊園の外人墓地にあるという。これは、彦蔵が、フィクシ
ョンの中の人物ではなく本当に実在した人物であったことを示している。

過去に読んだ関連する本:
日本人漂流物語
ジョン万次郎
侍(支倉常長伝)


・十三歳の彦太郎は、ははがすでにこの世にないことが信じられなかった。
 彦太郎は、天保八年(1837)8月、瀬戸内の播磨灘に面した播磨国加古郡阿閇村古
 宮(兵庫県加古郡播磨町)に生まれた。
 幼い頃父は病死し、父の記憶はほとんどない。
・母と二人きりの生活になったが、目鼻立ちの整った母は、数年後、隣接の本庄村浜田の
 吉左衛門と再婚した。
 彦太郎は、母の再婚に不安を抱いていたが、その恐れは全くなかった。
 義兄の宇之松も、新たに弟ができたのが嬉しいらしく、よく面倒を見てくれた。
・宇之松が十六歳になった時、大坂と江戸の間を往復する大型回船の船頭をしている叔父
 に弟子入りさせた。
・今年の三月初旬、母方の従兄が百石ほどの船を浜に寄せ、彦太郎の家に立ち寄った。
 従妹は四国の丸亀に近い金比羅神社に参詣したいという江戸の客人を大坂で乗せ、丸亀
 に向かう途中であった。
 従兄は彦太郎に、「金比羅参りにつれていってやる」と言った。
 「船ぎらいの母は、決して許しません」
 彦太郎が答えると、従兄は母を説得し、母はようやく承諾した。
・彦太郎は従兄の船に乗った。
 村から初めて離れる彼は、胸をおどらせ、帆走する船の動きに興奮した。
 彼は従兄と金比羅神社に参詣し、さらに宮島に行き、厳島神社にも詣でた。 
・船は帰途につき、彦太郎は従兄と浜田へもどった。
 待ちかねていた母は彼を抱きしめ、二度と他の地へ行くようなことをしてはならぬ、と
 言った。
・その日、母の体に異常が起こった。
 彦太郎が、近所の家に行って金比羅神社と厳島神社に参拝した船旅の話をしていると、
 隣家の男が駆け込んできた、母が倒れた、と告げた。
 今まで母と話していただけに信じられず、彼は家に走った。
・母はすでに昏睡状態に陥っていて、やってきた医者は、脳卒中(脳出血)と診断して、
 薬を調合してくれたが、意識はもうろうとしていた。
 彦太郎がもどってきた喜びで、脳の血管が切れたにちがいなかった。
 母は、倒れてから四日目に息を引き取った。
・半月後、義父が帰ってきた。
 船で江戸から兵庫に戻って、妻の死を報せる手紙を受け取ったのだ。
 義父は悲しみ嘆き、百日間の喪に服して家に閉じこもり、供養の日々を送った。
・義父は、「彦太郎、これからどうする。わたしと一緒に船に乗って働くか。十三歳にな
 っているのだから、炊事の雑用をする炊に雇ってやってもよい」と、海に眼を向けたま
 ま言った。
 慎重な言葉づかいに、義父が、彦太郎の身を案じて長い間思いめぐらしていたことが感
 じられた。
・船乗りになるのを強く反対していた母の意向に背くことを申しわけなく思ったが、母の
 いない家に一人で暮らす気にはなれなかった。
 たとえ海が荒れても、それをおかして進む船に乗るのが男らしい生き方だ、と思った。
・彦太郎は、水主たちと艀に乗って「住吉丸」に行った。
 港に碇泊している船の中では最も大きく、彼は誇らしい気分になった。
 すでに船には、多くの積み荷の酒樽が整然と並べられていた。
・船は港をはなれ、南に向かって進んでゆく。
 風向きは好ましいようであったが、微風で船脚はおそい。
 帆はふくらんだり、しおれたりしていた。
・彦太郎は、先輩の炊にならって水主に出す食事の支度をした。
 炊は、食事の世話意外に船内の清掃その他の仕事をすることも知った。
・海に鋭く突き出た潮ノ岬が近づいてきた。 
 波のうねりがたかまって船の揺れが増し、波しぶきが船上に降りかかった。
 船は直進して岬の沖を大きくまわり、東に舳先を向けた。
 その頃から雨が落ち始め、しばらくすると風向が逆風になった。
・熊野近くまで来ていたので、義父は、航進を諦め、風待ちのため船を熊野の港に入れた。
 夜になると水主たちは、女と酒を求めて艀で上陸した。
・二日後の午後、港に「住吉丸」とほとんど同じ大きさの回船が入津してきた。  
 「永力丸だ」
 という声が水主たちの間から起こり、手をふったり声をかけたりしている。
 その船は、「住吉丸」の船主の親戚の持船で、そうしたことから水主同士、親しかった
 のである。
・風待ちで退屈していた水主たちは、義父とともに艀をおろして「永力丸」に行き、彦太
 郎もついていった。
 驚いたことに六十歳を過ぎた船頭の万蔵と水主の六人が、彦太郎と同じ村の者で、彼ら
 は彦太郎が「住吉丸」に乗っていることに驚きの眼をみはった。
・義父が、手短に事情を話すと、万蔵たちは、彦太郎の母が死んだことを悼み、彦太郎に
 同情の眼を向けた。 
 そのうちに、自分たちの船に乗り移らないか、とも言うようになった。
 船頭の万蔵は、船頭同士として義父と親しく家にも何度か来たことがあり、同郷の六人
 の水主もよく知っていたので、彦太郎は彼らのすすめに応じたい、と思った。
 それを義父に話すと、
 「お前は幼い。足手まといになるだけだから許さぬ」
 と言って、首を振った。
・そのことを彦太郎が「永力丸」の水主たちに伝えると、万蔵が義父のもとにやってきて、
 「彦太郎のことは、おれが面倒みる。おれたちの船に乗せてくれ」と、執拗に頼んだ。
 義父は、まだ幼いからという言葉を繰り返したが、万蔵の熱心な求めに折れて承諾した。 
 義父としてみれば、自分の手元におくよりは他人のもとで働かす方が、彦太郎のために
 なると考えたようであった。
 彦太郎は、手廻りのものを手に「永力丸」に乗り移った。
・「永力丸」は伊豆の石廊崎をかわして相模湾を突っ切り、三浦岬をまわって江戸湾に入
 り、船改めを受けるため相州(神奈川県)浦賀に入津した。
・仕事が一段落し、彦太郎は、水主二人と艀で隅田川の河港に入った。
 彦太郎は、水主たちと上陸し、歩いて浅草寺に行った。
 翌日は亀戸天神に参拝し、次の日には芝居見物をした。
・浦賀に碇泊中、同郷の水主清太郎から、八カ月前に彼が過去の安太郎、岩吉とともに恐
 ろしい経験をしたことをきいた。 
 清太郎たち三人は、「住清丸」に乗って兵庫を出船した。
 江戸について積荷をおろし、帰途につき、伊豆の妻良に寄港した。
 夜に出船したが、翌日になると強い北風が吹きはじめ、やがて西風に変わって大時化に
 なった。
 舵が壊れ、船は海洋のかなたに矢のような速さで流された。
 翌日も波は衰えを見せなかったが、はるか彼方に島影を発見した。
 船を島に近づけたが、波が高く接岸できない。
 そのため東南の方向に船を回し、辛うじて艀で岸にあがることができた。
 八丈島の巻縄という地であった。
・身じろぎもせず聞いていた彦太郎は、そのような死と背中合わせの恐ろしい経験をした
 というのに、再び船に乗り込んできた清太郎の強靭な神経に畏敬の念をいだいた。
・荷の積み込みもすべて終わり、「永力丸」は浦賀の港を出帆した。
 湾口から外洋に出ると、船の揺れは少し高まった。
 あいにく風は南西から吹いていて逆風だったので、船頭の万蔵は、
 「間切りだ」
 と、水主たちに声をかけた。
 それは、逆風でも船を進ませる航法で、帆の角度を変え、船はじぐざぐに進んでゆく。
 船脚は極めて遅く、遠く近くみえる回船も間切り航法をとっていた。
 

・その季節に江戸から大坂、兵庫方面に向かい回船は、遠州灘を横切って伊勢の鳥羽,安
 乗などに寄港するのを半ば習いとしている。
 海難事故を恐れるためで、それらの港で日和、風待ちをして気象状況をうかがい、それ
 から出船して大難所である紀伊半島突端の潮ノ岬をかわし、大坂、兵庫にむかう。
・しかし、船頭の万蔵は、
 「まちがいなく好天がつづく。伊勢に船を寄せて無駄な時を過ごすより、いっきに潮ノ
 岬まで行く。早くもどれば船主様も喜ぶ」
 と、明るい眼をして言った。
 そのようなことをするのは珍しくなく、水主たちも一様にうなずいていた。
・翌日も天候はよく、「永力丸」は遠州灘を突っ切り、夕刻に難所である大王岬ををかわ
 し、熊野灘に入った。
・気象状況がくずれていて、日没頃には空は黒ずんだ雲におおわれ、五ツ(午後八時)す
 ぎには雨が落ちてきた。
 「永力丸」は、ヨロのうみを南西方面に進んだが、しだいに風が強まり、波のうねりも
 たかまって船の揺れが増した。
・四ツ(午後十時)頃、紀州の熊野沖あたりと思われる海域にさしかかった時、にわかに
 風雨が激烈になり、風がうなりをあげて走り、雨が音を立てて降りそそいできた。
 熟睡していた彦太郎は、船の激しい揺れと風雨の音に目を覚まし、居住区から這い出し
 て船上を見た。
・彼は顔色を変えた。眼の前には、恐ろしい情景が広がっていた。
 船は、黒々とした波にのし上げられ、次には波の底に激しく突き落とされる。
・彼は、恐怖におそわれた。体にふるえが起こり、歯が音を立てて鳴った。
 船板一枚下は地獄、と母の言った言葉が、頭の中をかすめた。
 上下左右に揺れる船が、今にも砕け散るのではないか、と思った。
 母はこのことを恐れ、自分が船乗りになりたいといった時、頑なに許そうとせず、その
 ような愚かしい考えをしてはならぬ、と強くたしなめたのだ。
・前の前に色白の母の顔がうかび上がり、彼はその体にしがみつきたかった。
 義父の吉左衛門の顔も、目の前にうかび上がった。
 義父とともに乗っていた「住吉丸」からこの「永力丸」に乗り移ったが、「住吉丸」に
 乗ったままでいたら、このような恐ろしい目に遭わずにすんだのに、と後悔した。
・不意に、かん高い何人かの人の声がきこえ、かれは一瞬背筋が凍りつくのを感じた。
 悲痛な祈りの言葉が、絶え間なく繰り返されている。
・長く恐ろしい時間が過ぎ、ようやく明け方の七ツ(四時)頃に雨がやみ、風もいくらか
 弱まったが、波は少しも衰えを見せなかった。
・突っ伏した彦太郎の周囲がかすかに明るみ、彼は顔をあげた。
 波のうねる海上に眼を向けた。
 数艘の回船が遠く近く見え、それらは「永力丸」と同じように西の方向にむかって速い
 速度で動いている。
・海に眼を向けていた万蔵が、
 「帆をあげろ」
 と、叫んだ。
 彦太郎は、その声に深い安堵を感じた。
 船が陸岸にむかって帆走し、どこかの港に入り込むことができる。
・水主たちが、帆を上げ轆轤にとりついた。
 彼らは掛声をあげて轆轤をまわし、巨大な帆がゆっくりとあげってゆく。
 彦太郎は帆をみあげていたが、突然、北西方向から強い風が、あたかも魔物が走ってき
 たように吹き付けてきた。   
 「帆を下げろ」
 万蔵のうろたえた叫び声がした。
 水主たちは力をこめて轆轤をまわし、帆は徐々にさがってきて船上におりた。
・彼は、傍らの高く突き立った太い帆柱が、右に左に多くくしなうのを見た。
 その上方に、雲が船の速度と競うように走っている。
 「淦だ。胴の間だ」
 万蔵のかん高い叫び声がした。
 胴の間とは甲板のない船の中央部で、彦太郎は淦という言葉が入り込んできた海水だと
 いうことを知っていた。 
・彼は、胴の間に水主たちが集まり、スッポンと称する水鉄砲のような道具で水を排出し、
 桶で海水を汲みだすのを見つけていた。
 新造船ではあるが、すさまじい風波で結合部がゆるみ、浸水していくのを知った。
 それらの水主たちの上に、絶え間なく波が叩きつけるように降り注いでいる。
・不意に船尾で、物が裂けるようなすさまじい音が起こった。
 水主たちの口から、同時に悲痛な叫び声が上がった。
 彦太郎は、船尾を見た。
 舵の広い羽板が風波でたえずばたついていたが、それが裂けて海に落ちたのだ。
・突然、船の舳先がまわり、船が大きく傾いた。
 舵を失った船は安定を失い、横波にさらされたのだ。
・「後ずさりだ」
 万蔵の叫び声がした。
 彦太郎は、その言葉の意味を知らなかったが、排水につとめていた数人の水主が胴の間
 をはなれ、舳先の方によろめきながら急ぐのを見た。
 彼らは舳先にたどりつくと、二つの碇を力をこめて海中におろした。
 万蔵が命じた「後ずさり」とは、強い風波をしのぐ操船術であった。
・舳先から碇をおろすと、船は百八十度回転して、船尾が先になり、舳先が後方になる。
 つまり、後退するように船は進む。
 舳先は尖っていて、追風、追波の衝撃は少なくてすみ、さらに碇をおろしたことで船の安
 定度も増す絶妙な方法であった。 
・その措置で、彦太郎は、急に船の動揺が静まり、波が船に打ち込むのも少なくなったの
 を感じた。
・風波はさらに激しくなり、浸水が所々で起こり、九ツ(正午)近くには舵をつつみ込む
 外どもが破壊されて流れ去った。
 船は沈下しはじめ、万蔵は、重だった水主たちと短い言葉を交わし、
 「刎ね荷だ」
 と、悲痛な表情で叫んだ。
 船を軽くするため、積荷の一部を海に投げ捨てるのだ。
・水主たちは、大麦と小豆の俵をしばりつけている綱を切り、それぞれ百俵ずつ海に投棄
 した。
 船頭にしてみれば、荷主から託された荷を捨てるのは堪えがたいことであったが、危険
 がせまった折には許される定めになっている。
・海上は荒れに荒れ、船の中央部から後方のやぐらが次々に破壊されて流れ去った。
 食みをかぶりながら立っていた万蔵は、腰におびた小刀をぬき、丁髷のもとどりに刃を
 当てて切り落とした。
 白い髪が顔をおおい、海水ではりついた。
 それを眼にした水主たちが、万蔵から小刀を受け取り、次つぎと髪を切った。
 恐ろしい情景に彦太郎は身を震わせ、ざんばら髪になった彼らの姿に最後のときが来た
 のを感じた。水主の一人が彦太郎に小刀を渡し彼も髪に刃先を食いこませた。
・夕刻が近くなっていた。
 波に叩かれながら頭を垂れて坐っていた万蔵が、急に立ち上がると、
 「帆柱を切る」
 と、眼をいからせ絶叫するように言った。
 その声に水主たちは、無言で万蔵を見つけた。
 舵を失った上に、帆柱を倒してしまえば、船は航行能力を完全に失い、風波がおさまっ
 てもただ漂い流れる浮遊物にすぎなくなる。
 彼の顔には、悲痛な表情が浮かんでいた。
 帆柱を切るのは、船を覆没からのがれる最後の手段であった。
・夜の闇がひろがれば帆柱を切る作業などできず、万蔵は、まだ明るさの残っているうち
 に帆柱を切ろうと決意したにちがいなかった。
・二人の水主が斧をふり上げ帆柱に突き立てたが、風と波に打たれてよろめき、膝をつい
 た。
 体が衰弱していて、作業ははかどらない。
 他の者が替わって斧の柄をとり、刃を帆柱に食いこませた。
・そのうちに突然、鋭い落ちが起こり、根元に近い部分の帆柱が裂け、追風に押されて傾
 いた。
 帆柱の傾きから船首に綱が張られていたが、刀を引き抜いて構えていた万蔵の刀が一閃
 し、綱を断ち切った。
 それによって巨大な帆柱が音を立てて倒れ、弾むように海面に落ちた。
・彼は立ち上がり、海上を見渡した。
 遠くに帆柱のない船が二艘浮かんでいるのが見えた。
 さらに、海面に多くの浮遊物が漂い流れているのを眼にして、体をかたくした。
 それは、大小のこわれた艀やくだけた船材、桶、船板などで、多くの回船が風波に破壊
 され海中に呑み込まれたことをしめしていた。
 彦太郎は茫然とそれらを眼にしながら、たとえ帆柱、舵を失っても「永力丸」が沈没を
 まぬがれたことを幸運に思った。 
・近寄ってきた炊の仙太郎が、食事の支度をしようと声をかけてきた。
 彼は仙太郎と、味噌を添えたにぎり飯をざるののせて船頭の万蔵をはじめ水主たちに配
 った。水主たちは、競い合ってにぎり飯をつかみ、あわただしく口に運んだ。
・「集まれ」
 万蔵の声がし、彦太郎は仙太郎と烹炊所船の中央部に行った。
 「多くの船が海の藻屑となり果てたが、『永力丸』は神仏の御加護によって覆没をまぬ
 がれた。まことに幸運であり、それはお前たちが力を合わせて波風と戦ったからでもあ
 る」
 「船は坊主船となり、仮帆を立てはしたが、これからあてもなく漂い流れる運命にある。
 今はすっかり海は凪いだが、再び荒れ狂うこともある。
 しかし、船は新造船で、十分持ちこたえることができるはずだ。
 船さえ保たれれば、たとえ一、二年漂流しても、米は百六十俵も積んでいるので餓死す
 ることはない。
 いずれの地にか漂着すれば、また故郷に帰る手段もあるだろう。
 互いに人の和を心掛け、気を張って生きるのだ」
 万蔵は、重々しい口調で言った。
・夕刻近く、水平線にかすかに島影が見えた。
 何島かはわからなかったが、仮の舵を作って、その方向に舳先を向けた。
・「永力丸」は、徐々に島に近づいた。
 島に寄せる波の白さもはっきりと眼にできる。
 船頭をはじめ水主たちは、島を見つめていた。
 煙が立ち昇っていれば人が住んでいる証拠だが、その気配はなく無人島のように思えた。
・「船を寄せて、島にあがろう」
 清太郎が、上ずった声で叫ぶように言った。
 「そうだ。上陸しよう」
 安太郎が同調し、岩吉も同じ言葉を口にした。
 清太郎たちは、大海をどこに流されるかわからぬ船に身を置くよりも、死をまぬがれる
 ために島に上陸すべきだと考えたのである。
・水主たちは、無言で島を見つけている。
 彼らの顔には、決しかねている表情が浮かんでいた。
 水主の一人が口を開いた。
 「島に煙が上がっていないことから見ると、無人島だろう。人が住んでいるとしても、
 どのような人間がいるか、人食い人種であったら、皆殺しにされる」
 おびえた声に、かすかにうなずく者もいた。
・「船のことは船頭の御指図による。船頭のお考えはどうなのか」
 過去の中で最年長の五十歳を過ぎた舵取りの長助が、低い声で言った。
 万蔵が、水主たちを見回すと、
 「上陸したい者は、そうしたらよかろう。思うとおりにするがよい」
 と、寂のある声で言った。
 「上陸するとすれば、この船を捨てて艀で島にあがることになる。船頭の身としては、
 大金を費やして造った舩と積荷を大海に放棄することはできない。おれは船にとどま
 る。船の上で死ぬなら本望だ」
 「お前たちには、親兄弟もいれば妻子もいる。生きて故郷に帰ることをまず考えるべき
 だ。上陸したい者は上陸せよというのは、そういう意味からだ。上陸するものを決して
 とがめはしない」  
 彦太郎は、万蔵が船頭として筋道の通った考え方をしているのを感じた。
・「ミクジをひこう」
 長助が言った。
 長助は水主たちを見回すと、
 「ミクジは、上陸せよ、と出た」
 と言った。
 一人の水主が
 「念のためもう一度ミクジをひいてみよう」
 と言った。異論を唱える者はいなかった。
 しばらくして出てきた水主は、
 「上陸はならぬ、というクジが出た」
 と言った。水主たちは、顔を見合わせた。
 どちらのクジの結果に従うかということで、水主たちは激論を交わした。
・船頭、舵取りにつぐ年長者の幾松は、
 「このようにしていては、いつまでたってもらちがあかぬ。おれが最後のクジを引く。
 おれは船にとどまるもよし、上陸するもよしと思っている。つまり中立の立場だ。
 おれがひくクジを神のお告げとして、それに従うことに異存はないか」
 と言った。
・幾松の口が動いた。
 「上陸せよ、と出た」
・船頭が残るなら、おれも上陸せずにいっしょに残る」
 という声がした。
 万蔵の甥の治作で、船頭につぐ地位にある上席の水主であった。
 その言葉に水主たちの間に動揺が起こり、船頭、治作とともに船にとどまる、という者
 もいた。
・再び激しい言葉のやりとりが始まった。
 議論は、果たしなく続いた。
 「おい、見ろ」
 舵取りの長助が、突然、甲高い声をあげ、海上を指さした。
 その方向に眼を向けた水主たちの間から、悲鳴に近い叫び声が起こった。
 島がいつの間にか遠く離れている。
・船はそれから十二日まで北西の方向にゆっくりと進み続けたが、翌日は強い西風に変わ
 ったので、仮帆をおろした。
 船は、再び東へ流されていった。
 波が激しく、船に打ち込むようになったので、二度目の刎ね荷をし、大麦百俵、小豆三
 百俵を投棄した。
・飲料水は樽に収められていたが、水主たちが船に備え付けられている「ランビキ」で飲
 料水の採取をはじめた。その危惧は、海水を蒸留させて液化した蒸気から真水をとる装
 置であった。
 彦太郎は、ランビキを興味深げに見守った。
 液化した水が桶に点滴し、六合ほどの真水がとれた。
 しかし、海水を蒸留させるのに貴重な薪を多く費やしたので、二度とランビキを使うこ
 とはなかった。
・好天の日がつづき、水主たちはなにをすることもなく過ごした。
 無気力な空気が水主たちの間にひろがり、坐って海にうつろな眼を向けたり、体を丸め
 て寝転んだりしている。彦太郎も体の力が抜けているのを感じていた。
・十二月五日、海はまたも大しけになった。
 後ずさりの形をとっている後方の舳先に激浪が次々にのしかかり、船室は打ち込んだ波
 で水浸りになった。 
 そのため、水主たちは、船尾の方に身を避けた。
・このままでは浸水で船が水船となって沈没することは確実で、水主たちはスッポンや桶
 で水を排出するためにつとめた。 
・その作業を見守っていた彦太郎は、恐ろしいものを眼にして体をかたくした。
 二人の水主が、他のものが必死になって働いているのに腰をおろしたまま動こうとしな
 い。顔には拗ねた表情が浮かび、排水している水主たちを蔑むように眺めている。
 彦太郎は、その二人が船へ助からぬとすっかり諦め、水主たちの努力を無駄と思ってい
 るのを知った。
・水主たちは海に生きる逞しい男たちだと思っていたが、その二人の水主がすでに気力を
 失った死人同然になっているのを感じた。
 物悲しさを覚えた彦太郎は、排水をする水主たちのもとに行き、桶を手に水の排出につ
 とめた。
・食事もとらず働き、八ツ(午後二時)頃にようやく波も衰えを見せ、はじめ夕刻には風
 がおさまった。
 水主たちは、浸水個所の修理をし、それは夜遅くまで続いた。
・好天の日が過ぎたが、十九日にはいままでにない大時化となり、船はすさまじい速さで
 東へ進んだ。
 そのため舳先から垂らした二個の碇が、海面に踊るように跳ね上がる始末だった。
 船底が破壊されて、侵入した海水が六尺(1・8メートル)以上の高さにまでなり、
 水主たちは、排水につとめるとともに海水の入ってくる個所に衣類を詰め込み、辛うじ
 て浸水を止めた。 
・日没頃、風はようやくやみ、波も衰えをみせた。
 水主たちの顔には、絶望の色が濃かった。
 船がきしみ音を上げているのは、船体が破壊寸前にあることをしめしている。
 「この船は、一年前に出来た新造船だが、もう長いことは持つまい」
 水主の一人の言葉に、他の者たちは暗い眼をして黙っていた。
 

・彦太郎は居住区に入ると、ふとんにくるまった。やがて、深い眠りの中に落ちていった。
 不意に甲高い声がし、自分をつつむ空気が激しく揺れ動いているのを感じた。
 ひきつるような叫び声がきこえていた。
 何を言っているのかわからぬわめき声であった。
 尋常ではない声に、彦太郎ははっきりと眼をさまし、半身を起こした。
 船に異常が生じ、裂けて沈みかけているのではないか、と思った。
・叫んでいるのは、同じ村の出身である安太郎であった。
 上ずった声でわめきながら、激しく走り回っている。
 起き出した水主たちが、安太郎を取り囲み、
 「どうした、どうしたのだ」
 と、口々に声をかけた。
 安太郎は、雪をかぶった岩とか、城の天守閣とかいう言葉を吐き出すように口にしてい
 る。  
 「見えた、見えたのだ」
 安太郎は、西の方向を指さし、同じ言葉をかすれ声で繰り返している。
・安太郎は、再び雪をかぶった岩、天守閣という言葉を口にし、西の海上を再び指さした。
 水主たちが、ぎくりとしたように一斉に海に眼を向け、彦太郎もそれにならった。
・水主たちの間から、不意に鋭い叫び声が上がった。
 彦太郎の眼に、夜明けの空を背景に水平線上に下部が黒く上方が白いものがとらえられ
 た。  
 それはたしかに雪を冠した岩石か白い天守閣のそびえる城郭のように見える。
 海面に突き出た岩か、それとも小さな島か。
・彦太郎は、得体の知れぬものに視線を捉えた。
 それは徐々に近づき、輪郭がはっきりしてきた。波は高い。
 「船だ」
 水主の一人が叫んだ。
・黒い船は日本の回船とはちがって、帆桁に多くの帆が張られている。
 長崎に行ったことのある水主が、オランダ船ではないか、と言った。
・船は速度は速く、南方の海上を西の方向から接近してきて、東の方にむかって進んでゆ
 く。
 体をはねさせて喜んでいた水主たちが、船がそのまま進めば通り過ぎてゆくのに気づき、
 「助けてくれえ、助けてくれえ」
 と、叫びはじめた。
・船上に人の姿が見えたが、こちらに気づかぬらしく顔を向ける者はいない。
 船は東の方向に進み続け、「永力丸」に近づく気配は見せない。
・そのうちに、彦太郎の眼に船上にいる者たちがよりかたまり、こちらに顔を向けている
 のが映った。  
 水主たちは、一層声をはりあげ、布切れを振った。
 船上の者たちに動きがみられた。
 小走りに歩いている者もいる。
 彼らは「永力丸」に気づいたようであった。
・黒い船がゆっくりと北に船首をまわすのが見えた。
 船を見つけていると、船べりに並んで立っている者たちが、こちらに来いというように
 しきりに手招きしている。
 「艀をおろそう」という声が、水主たちの間から起こった。
 彦太郎は、船頭の万蔵に眼を向けた。
 万蔵は、反対する気配をみせず艀の方に近づいてゆく。
 長年の経験で彼は、「永力丸」がすっかりいたみ、沈没は時間の問題であるのを察知し
 ているにちがいなかった。 
 水主たちが船の中央部に乗せられている艀に走り寄った。
 まず万蔵と彦太郎が乗り、水主たちが衣類や米を入れた桶その他を手にして、乗った。
・黒い船にむかって漕ぎ始めた。
 しかし、体の衰弱した彼らは、すぐに息を喘がせ、艀は少しずつしか進まない。
 黒い船は、艀の風下の方向に停止していて、逆風のため艀に近づいてくることはできな
 い。艀を船に寄せる以外にはなかった。
・漕ぐ手が何度も交替したが、船との距離は縮まらない。
 彦太郎の胸に、絶望感がひろがった。 
 いったん救出しようとして停止した黒い船の者たちは、艀が近寄れないことを知って、
 船路を急ぐために立ち去るのではないか。
 水主たちも同じような推測をしているらしく、彼らの顔には焦りの色が濃く浮かんでい
 た。
・突然、水主たちの間から悲痛な声が起こり、櫓を掴んでいたものも漕ぐのをやめて黒い
 船を見つめた。
 船は徐々に動きはじめていた。
 恐れていたことが、現実のものになったのを彦太郎は知った。
 船は立ち去ろうとしている。
 黒い船の者たちは、漂流する「永力丸」の水主たちを救出しようとして船を止めたが、
 「永力丸」乗り組みの者は縁もゆかりもない者たちで、彼らに救出しなければならぬ義
 務はない。
・彦太郎は、呆然と動き出した船を見つめた。
 しかし、船の動きが異様であった。
 東に向かって航進すると思ったのに、舳先が西方向に、つまり艀の方にまわされた。
 逆風であるのに、船がこちらに進んでくる。
 「間切りだ」
 万蔵が叫んだ。
・それは逆風帆走法で、黒い船は確実にこちらに向かって進んでくる。
 船が、かなりの速度で近づいてきた。
 三本の帆柱は高く、張られた多くの帆は白い。
 船上には紺色の衣服を身に着けた者たちが立ち、一様にこちらに眼を向けている。
・船はいつの間にか、碇泊でもしているように完全に停止していた。
 帆がひらいているのに信じられることであった。
・船べりから数人の男が体を乗り出した。
 髭が顔をおおっていて、その一人が何か言い、綱がおろされてきた。
 それを伝って船にあがるようにと、手をしきりに動かしている。
・舳先が接舷し、万蔵が綱をつかみ、船べりに足をかけて昇ってゆく。
 水主たちがそれにつづき、彦太郎も綱をつかんだ。
 甲板にようやく上がった彦太郎は、万蔵をはじめ水主たちが、膝をつき両手をついてい
 るのを見た。 
 彼らは、肩を波打たせて泣いている。彦太郎の眼からも涙があふれ出た。
・水主たちは、甲板に立つ男たちに手を合わせて拝み、彦太郎もそれにならった。
 船の乗組員に感謝して、彦太郎は水主たちとともに何度も頭を深くさげた。
・彦太郎は、恐る恐る彼らに眼を向けた。
 髭が赤い者もいれば黒い者もいる。
 多くの者が顎髭をはやしていた。
 彼らは物珍しそうに彦太郎たちをながめ、かすかに頬をゆるめて片目をつぶる者もいた。
・船は進みはじめた。
 彦太郎は、水主たちと離れてゆく「永力丸」を見つけた。
 帆柱がなく船尾の破壊された船が、ひどくみすぼらしいものに見え、その船に十七人の
 男が乗っていたことが信じられない思いであった。
・船長が、四十年輩の異様な頭をした男を連れて後甲板にやってきた。
 頭の周りも上もすべて剃られていて、脳天の中央だけ髪がのび、それが編まれて後方に
 長く垂れている。
 長崎に行ったことのある水主が、
 「唐人(中国人)だ」
 と、仲間にささやいた。
・顔つきが他の乗組員たちとちがい、むしろ日本人に近かった。
 やがて知ったことだが、唐人は料理人として船に雇われていて、船長は彼をコックと呼
 んでいた。 
・陰気な眼をした唐人は、筆と紙、それに墨汁の入った壺を手にしていて、船長に声をか
 けられると、筆と紙に何か書いた。
 それは「金山」という漢字であった。
 唐人はなおもさまざまな字を書いたが、水主たちは首をかしげるばかりで、「米利加」
 という文字も何を意味するのかわからなかった。
・船長が、水主たちに自分についてくるようにという仕草をした。
 彦太郎たちは船長に従い、ひとつの部屋に入った。
 そこはあきらかに調理室で、船長は大きな樽を指で軽くたたいて水が入っていることを
 示し、干した肉などを指した。
 船長は、さかんに身振り手振りをし、彦太郎たちは、何を伝えようとしているのか真剣
 に見つめた。
 ようやく彼が、十二人乗りの船に彦太郎ら十七人が加わったので、食料と水を節約して
 もらわねばならぬ、と説明しているのを知った。
 水主たちは、納得したことを示すため何度もうなずいた。
・船長は、こちらに来いという手ぶりをして歩き出し、船長が連れて行ったのは小さな部
 屋で、美しい布の張られた椅子が置かれ、壁板も床も艶があって清潔だった。
 テーブルの上に大きな海図を広げた。
 彼は、多くの地を指して何か言ったが、水主たちは首をかしげるばかりであった。
 そのうちに男が広い土地を指差し、
 「アーメリカ」と言った。
・水主の中には、四年前に浦賀に二隻の異国の軍艦「コロンブス号、ヴィンセンス号」が
 来航し、それがアメリカからやってきた艦であるのを聞いた者がいてアーメリカが国名
 である、と彦太郎たちに言った。
・男は、水主たちが理解したのを知り、広い土地を再指さし、ついで部屋の床も指さした。
 それで彦太郎たちは、船がアメリカ船であるのを知った。
・次に男は、細長い小さな島に指先を置き、
 「ジャパン、イェド(江戸)」
 と言って、水主たちの胸を指さした。
 彦太郎たちの国を言っているらしいと察したが、ジャパンという名は聞いたことがなく、
 それに日本がそのような小さな国とは思えず、黙っていた。
・彼らは、船乗りとしてこの異国の船に興味をいだき、数人の者が後甲板を離れて、船の
 中をおずおずと歩きはじめた。
 水主の一人は、大胆にも舵手に近寄り手ぶり身振りで様々な質問をした。
 船名をたずねようと思い、このアメリカ船の名は、と船を指さすことを繰り返した。
 はじめはわからなかったが、舵手の口からオクラン(オークランド号)という言葉がも
 れ、それが船名のようであった。
・さらに水主は、船が向かっている目的の地につくまでどのくらいの時間がかかるかをた
 ずねた。 
 舵手はその意味を察したらしく、曲げた腕の上に頭をのせて寝る仕種をし、指で四十二
 を数えた。
 それで目的の港に入るまで四十二日間を要することを知ったという。
・十七、八歳の青い眼をした男がやってきて、彦太郎についてくるようにと手招きした。
 最年少の十三歳である彦太郎に親しみをいだいていることはあきらかだった。
 彦太郎は立ち上がり、彼の後について行った。
・導かれたのは、彼が管理しているらしい小さな食料品室であった。
 彼は和らない餅のようなもの(パン)を彦太郎に渡し、そのうえに黄色の油(バター)
 を塗って黒砂糖をのせ、食べろという仕種をした。
 また、傍らに汁(スープ)の入った深皿を置いた。
 男は用事があるらしく部屋を出て行き、彦太郎は餅状のものを口に近づけたが、油の臭
 いが不快で食べることが出来ず、袂に入れた。
 ついで恐る恐る匙(スプーン)で汁をすくって口に入れてみると、それはひどくおいし
 かった。 
 中には豆と塩漬けにした肉が入っていて、すべて飲みつくした。
・日が傾き、彦太郎たちは食堂に導かれ、夕食をとった。
 芋の煮つけ、餅状のもの、バター、塩肉、豆を煎ったコーヒーが出され、餅状のものは
 ブレ(パン)という名称であるのを知った。
 「永力丸」から持ってきた米飯を食べ、バターと肉は手をつけなかった。
・食後、水主たちの居室が用意され、彦太郎は、船長と四人の船員とともに一室に入った。
 船長が彦太郎だけを同室にしたのは、年少の彦太郎に親しみをいだいているからにちが
 いなかった。  
・船は、天測によって順調な航海をつづけた。
 水主たちは、いつのまにか船内の雑用を手伝うようになり、彦太郎も、初めてパ
 ンとスープをすすすめてくれた最年少の船員と食料品の整理をした。
 その船員が十七歳であるのを知り、彦太郎も指で十三歳であると教えた。
・船に救出された直後、船長室で海図をひろげて「アーメリカ」と言って船がアメリカ船
 であるのを教えてくれた船員は、船長の次の次の地位にある二等航海士であるようだっ
 た。その小柄な男は水主たちに親切で、ことに彦太郎を可愛がってくれた。
・彼は、大きな地図帳をもってきて水主たちの傍らに坐り、それをひろげて広い面積の地
 を指さし、「アーメリカ、アーメリカ」と、繰り返した。
 彦太郎たちがうなずくと、彼は船の進む方向を指さし、
 「カリフォルニア」
 と、言った。
 船がアメリカのカルフォルニアという地にむかって進んでいる意味だとすぐわかり、彦
 太郎たちはうなずいた。  
・十二月二十六日の朝、船の前部の方で絹を引き裂くような鋭い声が聞こえた。
 耳にしたこともない悲鳴に似た声であった。
 水主たちは足を止め、立ちすくんだ。
 彦太郎は、一頭の豚が両足を縛られて横たわり、大きな刃物を手にした唐人のコックが、
 それを振り上げて首を切断しているのを眼にした。
 彦太郎は、恐れを漢字で水主たちと後ずさりし、その場を離れて後甲板にもどった。
 日本ではそのような残忍な好意を見たことはなく、水主たちは一様に顔を青ざめさせて
 言葉を交わした。
 生き物を容赦なく殺す異国人に対する恐怖をそれぞれ口にし、水主の一人は、
 「公開が長引けば、異人どもはおれたちに襲いかかり、首や手足を切り落としてかぐか
 つ食うにちがいない」
 と、ふるえをおびた声で言った。
 彦太郎は、もしかするとそのようなことがあるかもしれない、と思った。
 

・船が港の入口に近づいた。水主の一人が、船員からその港がサンフランシーコ(サンフ
 ランシスコ)だときいてきた。
 新鮮な野菜などが船に積み込まれ、食事は豊かなものになった。
 船長は髭を剃り、黒い服に着替えて箱状のものをかぶり、上陸していった。
・船はそのまま動かなかったが、四日後にさらに港の奥に進み、長い波止場の近くで錨を
 投げた。 
 小舟が近づいてきて、黒服に箱状の帽子をかぶった二人の男が甲板にあがってきた。
 かれらはそれまで乗ってきた者たちより、はるかに上品で、船内を案内する航海士の態
 度で身分の高い人であるのが感じられた。
・二人は、後甲板に集る彦太郎たちの前に出て足を止め、二等航海士の説明をうなずきな
 がらきいていた。 
 二人は、水主たちに近寄り、手をにぎると、
 「ハワイヤ」
 と言った。
 それはハウ・アー・ユーであったが、「可愛いや」という二本語のようで、彦太郎たち
 はお辞儀をした。
・「ハワイヤ」と言った四十年輩の男が、彦太郎を見つけ、陸のほうを指さし、何か言っ
 た。
 彦太郎が怪訝そうに首をかしげると、二等航海士が彦太郎に手まね身ぶりをして、しき
 りに足もとを指さした。
 「オークランド号」の船員たちは、言葉の通じぬ地にしばしば後悔するので手まねや身
 ぶりがうまいが、ことに二等航海士は巧みであった。
 その仕種で男が、彦太郎に靴を買い与えたいので上陸するようにすすめているのを知っ
 た。
・彦太郎は、男が上品そうではあるが、ついて行くのが恐ろしく、航海士が同行してくれ
 るなら上陸してもよいという仕種をした。
 航海士はうなずき、航海士は、部屋に行って外出用の洋服に着替えてくると、彦太郎を
 うながし、二人の男とともに小舟に乗った。
 小舟は「オークランド号」をはなれ、波止場についた。
・彦太郎は、彼らについてサンフランシスコの町の中に入って行った。
 道幅は広く、石畳になっていて、両側に歩道があり車道に馬車が行き交っている。
 家は大半が石で出来ていて、二階建てや三階建てのものが多かった。
・一軒のガラス窓のある店に入った。
 男が、店の番頭らしい男に何か言うと、蛮刀が数足の靴を出してきて彦太郎の足もとに
 置いた。  
 うながされて靴を履いた彦太郎は、その中の一足がぴったり合っているのを感じた。
 上品な男はうなずき、蛮刀に金を払った。
・店を出た男たちは、近くの酒場に入り、細長いガラスの杯に入った酒を飲み、彦太郎に
 西洋の菓子を食べるようにすすめた。 
 彦太郎は一個食べただけで、仲間の過去に持ち帰るために残りを紙に包んでもらった。
・二人の男は腰をあげ、店の入口で足を止めると、航海士に別れの言葉を述べた。
 彦太郎は靴を指さし深く頭を下げ、航海士から感謝の言葉だと教えられた「サンキュー」
 というアメリカ言葉を口にした。男は微笑し、うなずいた。
・航海士をはじめ船員たちは彦太郎を、
 「ヒコ」と呼び、万蔵をはじめ喜代蔵、民蔵、亀蔵と蔵のつく名が多いので、
 「ヒコゾ」
 と呼ぶ者もいた。
 それにならって水主たちもいつの間にか彦蔵と呼ぶようになり、彦太郎は彦蔵という名
 を好ましく思い、呼ばれるままに彦蔵という名に改めた。
・船員たちは親切で、みずぼらしい着物を身につけた水主たちに同情して、自分たちのき
 ている古い洋服を与えた。 
 水主たちは、面映ゆそうにそれを着て、中には靴をもらった者もいた。
・「オークランド号」は、積荷を陸揚げするため倉庫用に使われている大きな古びた船に
 横づけになった。
 船員たちは倉庫船に積荷を運び、彦蔵も水主たちとそれを手伝った。
・荷揚げが一週間で終了し、倉庫船の船長が「オークランド号」にやってきて、彦蔵たち
 に手まねで一両日中に上陸して踊りをする場所につれていくという仕種をした。
 彦蔵たちが荷揚げを手伝ってくれた礼のつもりのようであった。
・翌々日、倉庫船長がやってきて水主たちに顔を洗って髭を剃り、洋服を脱いで着物に着
 替えるように言った。  
 水主たちはその指示に従い、彦蔵もしまってある着物を着た。
・夕食後、彦蔵立ちは倉庫船の船長につれられて上陸すると、踊りをする場所がある煉瓦
 づくりの二階建ての建物に行った。
 通された広い部屋には美しい布がかけられた長椅子(ソファー)やいすが置かれ、壁に
 眼にしたこともない大きな鏡がかけられていた。
・座るように言われ、腰を下ろした水主の間から驚きの声があがった。
 自分たちと同じ日本人が眼の前に何人もいる。
 水主たちは顔を見合わせ、低い声で、
 「かれらは、なぜここにいるのか」  
 とささやいた。
・倉庫船の船長が、着物に着替えるように指示して彦蔵たちをここに連れて来たのは、
 日本人たちに合わせるためなのだ、と低い声で言う者もいた。
 水主の一人が日本人に話しかけようと近づいたが、彼は日本人などいないことに気づき、
 足を止めた。
 彦蔵たちが日本人だと思ったのは、鏡に映っている自分たちの姿であった。
 全身が、それも何人も映るような大きな鏡を見たことも聞いたこともなく、そのための
 錯覚であった。 
 彦蔵は、自分の姿がこのようなものなのか、と鏡を食い入るように見つけた。
・「オークランド号」の船長が姿を現し、彦蔵たちを横のドアから大きな部屋に導き入れ
 た。 
 そこは芝居小屋の舞台のようになっていて、前面に巻くが垂れさがっていた。
 広い床に椅子が幕に向かって一列に並んでいて、船長はそこに腰かけるようにという仕
 種をし、一同、腰をおろした。
 幕をへだてて多くの人のざわめきが聞こえている。
・彦蔵たちは無言で坐っていたが、水主の一人が突然、
 「倉庫船の船長の野郎。ここに連れて来たのは、おれたちを見世物にして、金儲けをし
 ようとしているのだ」 
 と怒りを込めた声で言った。
 「着物に着替えさせたのはそのためか」
 水主たちが口々に言い、憤りの色を露わにして数人の者が立ち上がった。
 その様子を見ていた「オークランド号」の船長が走り寄り、彼らを手で制した。
・その時、幕が引かれ、彦蔵はおびただしい人たちの顔が幕の間から現れるのを見た。
 彼らは、灯りのともった大広間に立ち、こちらに視線を注いでいる。
 着飾った女もいた。
 彼らは無言で食い入るように撫隊の彦蔵たちを見ていたが、やがて互いに顔を見合わせ
 でしゃべりはじめ、中には笑う者もいた。
・舞台のそでにいつの間にか倉庫船の船長が立っていて、人びとに大きな声で何か言い、
 手をしきりに動かして彦蔵たちに舞台から降りて大広間を歩けという仕種をした。
 気持ちが動転していた水主たちは、その指示に無抵抗に従い、舞台から人びとの間に降
 りた。 
・観衆たちはしきりにこちらへ来るようにと手招きし、水主たちは散り散りになり、
 彦蔵も若い男に導かれて一人になった。
 人びとは近づいてきて彦蔵の顔を見つめ、着物にふれる。
 彦蔵は、彼らが初めて眼にする日本人を珍奇なもののように強い興味をいだいているの
 を知った。
 彦蔵の頭は空白状態で、若い男に導かれるままに人々の間を歩きまわった。
 男と女が近寄ってきて親しげに声をかけ、銀貨や金属製の装飾品を出し、取るようにと
 いう仕種をする。
 指にはめた指輪を抜き、彦蔵の手ににぎらせる女もいた。
 人々の間を歩いている仲間の過去の姿が見えたが、その水主も贈り物をもらっていた。
・彦蔵は、いい気分になった。
 自分たちが見世物にされたのは不快であったが、それは日本の漂流民を眼にしたいとい
 う彼らのこうきしんをみたすための自然な心情なのだ、と思い直した。 
 人々は一応に親切で、惜しげもなく物をあたえてくれる。
 手をにぎる者もいたが、その手は温かかった。
 彦蔵の両方の袂は、硬貨や装飾品でふくれ上がった。
・「オークランド号」の船長が姿を見せ、散っていた彦蔵たちを集め、階下の食堂に連れ
 て行った。 
 そこには食事が用意されていて、彦蔵たちは美味な食物を口に運んだ。
・踊りはまだつづいていたが、彦蔵たちは船長とともに建物を出て波止場の方に向かった。
 水主たちは明るい声で言葉を交わしながら歩き、すでに彼らが憤りの感情をいだいてい
 ないのを感じた。 
・数日後、積荷をすべておろした「オークランド号」は、次ぎの航海に入る準備を終えて
 いた。
 彦蔵たちは下船することになり、船長は、「ポーク号」という船に乗り移るので手廻り
 の物をまとめるように、と手ぶり身ぶりをまじえて指示した。
・翌日の午後、剣を吊った士官が、五人の水夫とともにボートを横づけして甲板にあがっ
 てきた。 
 「ポーク号」から迎えの人たちがあがった。
 万蔵の指示にしたがって、彦蔵たちは甲板に膝を突き、立っている「オークランド号」
 の船長や船員たちに何度も頭を深くさげた。
 死を目前に漂流していた自分たちを救ってくれた彼らに、日本声口々に感謝の言葉を述
 べた。
 船長たちの眼に涙が光り、近づいてくると彦蔵たちの手を一人一人強くにぎってゆすっ
 た。

・「ポーク号」は、「オークランド号」とちがって、船体が鉄製で、マストのまわりに大
 砲が据えられていた。 
 彦蔵たちは、その威容に気おされながらも甲板にひざまずいて士官たちに頭をさげた。
・「ポーク号」は三本マストの大船で、船内は清潔に整頓されていた。
 士官をはじめ水夫たちは、紺色の制服を着ていた。
 船尾に旗が立てられていたが、万蔵は、それが運上所(税関)の旗で、乗り組んでいる
 者たちはその役人と配下の者らしい、と言った。
・食事は「オークランド号」とちがって品数が多く、質も良好であった。
 士官と水夫たちはきわめて親切で、時折り菓子や飲み物をもってきてくれたりした。
・死ぬほど退屈な日々であった。
 「ポーク号」に移ってから数カ月が過ぎていた。
 水主たちは、怠惰な生活から逃れるには、何か仕事をする以外にないと話し合った。
 優遇してくれる船の者たちの好意に報いるためにも、船内の仕事を手伝いたかった。
・そのことを親切に世話をしてくれているトマスに話すと、トマスはすぐにその申し出を
 船長や士官に伝えてくれた。
 船長たちは喜んで承諾し、三人の水主が士官室、彦蔵が船長室の清掃その他の世話係と
 なり、他の水主たちは水夫たちとともに甲板洗いなどに従事した。
・万蔵が体の不調を訴えていて、それが気がかりであった。
 六十二歳という高齢の彼は、食欲がなくなり、体を動かすのも大儀艘で身を横たえてい
 ることが多くなっていた。  
 船つきの医者が万蔵を診察し、薬を与えてくれたが、快方に向かう気配はなく、日焼け
 した逞しい顔は青白く、頬骨が突き出ていた。
・トマスは、ひまさえあれば彦蔵たちのところへやってきて、英語を教えてくれた。
 なぜか日本にひどくあこがれていて、いつかは日本に行きたいと繰り返し言い、そのた
 め日本語を教えて欲しい、懇願した。
 ことにトマスは彦蔵に熱心に英語を教え、彦蔵もトマスに日本語を教えた。
 それを知った年長者の長助と幾松が、彦蔵を強くたしなめた。
 異国の言葉をおぼえて日本に帰ったら、鎖国政策をとる幕府からきびしい罰を受け、
 彦蔵のみならず船頭、水主たちも牢に入れられるというのだ。
 彼らの忠告に彦蔵は恐れをいだき、トマスから英語を教わるのはやめ、日本語を教える
 にとどめた。
・その年が暮れ、新年を迎えた。
 「永力丸」が破船し漂流してから、一年二カ月が過ぎていた。
 水主たちは、時折り今後のことについて話し合ったが、すぐに暗い眼をして口をつぐん
 だ。 
 命を救われはしたが、日本から遠く離れた異国の地に来て、帰国できる当ては全くない。
 歳月が虚しく過ぎ、やがて老い、死を迎える。
 遺体は異国の地に埋められ、骨も朽ちて土と同化してゆくだろう。
 彼らの顔には深い絶望の色が浮かび、彦蔵もより、寝台で身を横たえ、故郷のことを思
 って涙を流した。
・二月下旬、黒い大きな船がサンフランシスコ港に入ってきて、港口近くに投錨した。
 軍艦「セント・メリー号」であった。
 それから十日ほどした日の朝、士官と水夫が彦蔵たちのもとにやってきて、「セント・
 メリー号」を指さし、興奮したように手ぶり、身ぶりをまじえて話しはじめた。
 彦蔵立ちは、彼らが日本の国名を意味するジャパンという英語をしきりに口にしながら、
 彦蔵たちが海を越えてジャパンに行くという仕種をするのを見つめていた。
・水主たちの眼がにわかに輝き、かれらもジャパンという言葉を口にし、士官たちに手ぶ
 り身ぶりでその意味を問う仕種をした。
 日本語を少し理解しているトマスが、それに加わった。
 トマスは、たどたどしい日本語を口にしながら、大きな仕種で事情を説明することにつ
 とめた。 
・英語をいくらか知っている彦蔵は、おぼろげながらトマスの伝えようとしている意味を
 察した。
 港の運上所8税関)の高官が、アメリカの政府に彦蔵たちの扱いについて手紙でたずね
 たところ、丁重に待遇するよう指示するとともに、やがては軍艦で日本へ帰すという返
 事が来た。
 政府は、日本と握手すること(友好関係)を考え、そのために彦蔵たちを送還するのだ
 という。
・翌日、彦蔵たちのもとに「ポーク号」の船長がやってきた。
 彼は、トマスを通訳に説明した。
 トマスは日本語を口にしながら手ぶり身ぶりをはじめ、彦蔵たちはそれを食い入るよう
 に見つけた。
 それによると、二日か三日後に彦蔵たちは「セント・メリー号」に移乗し、「セント・
 メリー号は、彦蔵たちをハンカン(香港)まで送る。
 アメリカ政府は、ペリーを大将とする艦隊を日本に派遣する予定で、彦蔵たちを香港で
 その艦に乗せて帰国させるという。
・船長は、別れるのは非常に悲しいが、彦蔵たちが日本へ帰ることは喜ばしい、とトマス
 の通訳が語り、大きな掌で一人ずつ握手した。
 坐っている万蔵の傍らにしゃがみ、肩をたたき、病身を気づかう言葉をかけた。
 万蔵は、深く頭をさげていた。
・三月十一日朝、港口付近に碇泊していた「セント・メリー号」が錨を揚げて港の奥に進
 んできて、「ポーク号」の近くに投錨した。
 午後に、「セント・メリー号」から二艘のボートがおろされるのが見え、「ポーク号」
 の船べりに横づけになり、士官と水夫が甲板にあがってきた。
 彦蔵たちを迎えに来た者たちであった。
・「ポーク号」の船長をはじめ全乗組員が、彦蔵たちを取り囲んで別れを惜しんだ。
 船長は一人一人の手を握ったが、眼には涙が光っていた。
 彦蔵の胸にも熱いものが突き上げ、涙を流す水主が多かった。
・「セント・メリー号」は、これまで乗った船とは様子が異なっていた。
 左右の舷窓からそれぞれ二十二門の大砲がのぞき、乗員は多く、トマスが、金の筋の入
 った帽子をかぶっているのが士官だと教えてくれた。
 彦蔵たちは船室に案内され、手荷物を置くと甲板に出てトマスと別れを告げた。
 トマスは、頬を涙で光らせながら、
 「私ハあなた達ト日本へ行キタイ」
 と英語で言って悲しみ、艦からボートに移り、去って行った。
・「セント・メリー号は、次の日出帆の予定であったが、風向きが思わしくないため、翌
 日まで延期されることになった。
 それで彦蔵たちはボートを出してもらい、「ポーク号」に行って船長たちと最後の別れ
 を惜しんだ。
・数人の水主たちがなにか話し合っていたが、船長のもとに行き、思いがけぬ申し出をし
 た。
 治作が、トマスを自分たちに同行させてほしいと手ぶり身ぶりで懇請した。
 船長は驚きの色を見せ、治作に要請の意味を何度も念を押し、やがてうなずいた。
・船長は、部屋に戻ると手紙を書き、それをトマスに渡した。
 トマスはボートで「セント・メリー号」に向かった。
 やがてボートが引き返してきて、トマスが甲板にあがってきた。
 その表情の明るさに「セント・メリー号」の艦長が船長の依頼を承諾してくれたのを知
 った。 
 トマスは上機嫌で、「ポーク号」の干犯に立つ船長たちに大きな声で別れの言葉をかけ
 ていた。
・翌早朝、「セント・メリー号」はあわただしい空気に包まれ、艦長と士官が後甲板に立
 っていた。
 士官が増えを鋭く吹くと、水平たちはその合図にしたがって一斉に行動した。
 彦蔵たちは、出帆の模様を後甲板の隅に立って見物した。
 錨の鎖が車状のもので巻きあげられ、ついで三本のマストの帆がすべて展張した。
・艦が静かに動き出し、舳先を港口に向けた。
 彦蔵の胸に、熱いものが突き上げた。
 自分たちは、この艦で帰国の途につく。
 アメリカという異国の地で死を迎えるかと絶望していたが、日本へもどり故郷の土を踏
 むことが出来る。 


・椅子にくくりつけられたままボートから艦の甲板につり上げられた万蔵は、乗組員たち
 の注目の的になっていた。
 痩せこけた顔が粉を吹いたように白い万蔵が重病人であるのを、彼らはすぐに知ったよ
 うであった。
・艦長が、水兵に命じて万蔵を担架で医療室に運ばせ、彦蔵たちはトマスとともについて
 行った。
 その部屋には四十年輩の長身の男がいて、トマスが、医者を意味するドクトルだ、と英
 語で彦蔵たちにささやいた。
・医者は、万蔵を寝台に横たえさせ、トマスの通訳で万蔵に容体をたずね、彦蔵もトマス
 の通訳を助けた。
 万蔵は、腹痛、嘔吐、ゲップで苦しんでいると弱々しい声で言い、食欲がない、と訴え
 た。 
 医者は、万蔵の上半身を裸にさせ、しきりに腹部に手を押し当てていた。
・部屋を出た医者は、甲板に出ると、彦蔵たちに診察の結果を説明した。
 両掌で丸い輪をつくり、それを自分の腹部に当てた。
 トマスが、万蔵の腹部に丸く硬いものがある、と彦蔵たちに伝えた。
 医者は、彦蔵たちを見まわし、深刻な表情をして首を振った。
 彦蔵たちは、その仕種で万蔵の病状が恢復の望みがまったくなく、死が迫っているのを
 察した。 
 水主たちは、暗い眼をして口をつぐんでいた。
・「セント・メリー号」は、順調に航海をつづけ、トマスの話では、ハワイという島に向
 かっているという。
 艦の士官も水兵も一様に親切で、彦蔵たちは上質な食物を与えられ、快適な寝台で就寝
 した。
 水主たちは、水平たちの甲板洗いを手伝ったり、物の運搬に従事したりしていた。
・幸いにも海は時化ることなく、その上風も順風で、「セント・メリー号」は快走をつづ
 けた。  
 洋上に陸影は全く見えず、船の帆影を眼にすることもなかった。
・ハワイ島は、アメリカと清国(中国)との中間にある由で、艦はそこに寄港し、薪、水、
 食料を補給するという。
・四月三日早朝、見張りの水兵が声をはりあげるのがきこえ、彦蔵たちは船室を出た。
 夜明けの空を背景に、島影がかすかに見え、艦はその島に向かって進んでゆく。
・彦蔵は、日本に近い清国とアメリカとの中間点に艦が達したことに興奮した。
 艦はハワイ島に寄港後、一気に神国へ向かうのだろう。
 彼の胸に、穏やかな播磨灘に面した故郷の村の情景が浮かび上がった。
 義父の吉左衛門と義兄の宇之松の顔も思い起こされ、村に帰ったら、まず母の墓に詣で
 ようと思った。 
・島が近づいてきた。かなり大きな島で、その後方にも島が折り重なるように見え、島の
 中央には山がそびえている。
 艦の帆が半ば近くおさめられ、艦は岸に沿って速度をゆるめて進んでゆく。
 傍らに立つトマスが、
 「ヒロ港ダ」
 と、前方に眼を向けながら言った。
 自国は午前十一時頃で、「セント・メリー号」はすべての帆をおさめ、港に入るとすぐ
 に錨を投げた。
・トマスが甲高い声をあげて近づいてくるのに気づいた。
 彦蔵たちは振り返り、トマスのこわばった表情に何かが起こったのを知った。
 トマスは、しきりに「マンゾ」という言葉を口にし、さらに「ダイ」とも言った。
 彦蔵は、ダイが死を意味する英語であるのを知っていたので、トマスが万蔵の死を告げ
 ているのに気づき、それを水主たちに告げた。
 水主たちは顔色を変え、舷側を離れると万蔵の病室にあてられている部屋に走った。
・万蔵の甥の治作が、万蔵の腕をつかむと顔を伏して嗚咽した。
 水主たちの間からなき声が起こり、彦蔵も肩をふるわせて泣いた。
 帰国の途につきながら、幾多えた万蔵が気の毒であった。
・最年長者になった長助を中心に、万蔵の遺体の処理について話し合った。
 士官が入ってきて、万蔵の遺体に合掌し、日本ではどのような仕方で葬るのか、とトマ
 スの通訳でたずねた。  
 質問の内容を知った長助が、遺体に白い衣類を着せ、桶か箱に入れて葬るという仕種を
 し、彦蔵も言葉を添えた。
・士官が部屋に入ってきて、白い綿布を渡してくれた。
 水主たちはそれを裁断している形に縫い合わせ、万蔵の遺体に着せた。
 船に乗っている大工が作った長く大きな箱を、水平たちが運び入れてきた。
 水主たちは遺体をその中におさめ、小銭と杖を入れた。
 その夜は通夜をし、水主が交代で夜守りをした。
・ボートが岸につくと、百人近い島の者たちが集まってきた。
 色は浅黒く、いずれも裸足であった。
 艦長から島の役所に連絡がしてあったらしく、役人らしい長い棒を持った二人の男が島
 民たちに道を開けさせた。
 役人が先に立って水主たちがかついだ棺が進み、彦蔵たちと士官、トマスがつづき、
 その後から島民たちがついてきた。長い葬列になった。
・道を進んだ役人たちが足を止めたのは共同墓地で、その一郭に縦長の穴が掘られていた。
 役人の指示によるものであることは明らかだった。
 水主たちは穴に棺をおろし、その上に土をかぶせて盛り土にしたおおきな石を置いた。
 用意して持ってきた木の墓標に、文字を書くのが巧みな喜代蔵が、筆を執って南無阿弥
 陀仏日本万蔵と書いた。 
・埋葬が終わっても、水主たちはその場に立ったままであった。
 異境の地の土中に埋められた万蔵を、一人残して去る気になれなかった。
 万蔵には故郷の村に妻と二人の息子、一人の養子がいる。
・士官たちも無言で立っていたが、しばらくして声をかけ、トマスも行こうという仕種を
 した。 
 彦蔵たちは、あらためて合奏し、その場をはなれた。
 すすり泣くの声がもれ、彦蔵たちは、何度も振り返りながら町の方へ重い足どりで歩い
 て行った。
・連日、士官たちや水兵が補給品のために町に行くので、何をすることもない彦蔵たちは、
 ボートに便乗させてもらい上陸した。
 万蔵の甥の治作は墓に足を向け、数院の水主がついて行ってが、彦蔵はそれには加わら
 ず町の中を仲間の水主たちと無言で歩きまわった。
 万蔵は同郷の義父とも親しく、墓に行けば離れるのがつらく、そのような悲しみは味わ
 いたくなかったのだ。
・彦蔵たちの後からは、いつも島民たちがついてきた。振り向くと恥じらったように表情
 をゆるめて足を止め、後ずさりする者もいる。
 初めは彼らに恐れをいだいていたが、いずれも穏やかな者たちであった。
・彦蔵は、意味に船を出して漁をする島民以外の大半が、仕事らしい仕事もなく過ごして
 いるのを奇異に思った。
 逞しい体をした若い男たちが、茅葺きの小さな家の前にしゃがんでこちらを眺めたりし
 ている。
 女たちは、髪を後ろで束ね、浴衣のようなものを着ていて帯はしていない。
 島民たちが働かずに日を過ごしているのは、地味がおどろくほど肥えているからなのだ、
 と思った。
・果物はいたる所に実っていて、それを採ってもとがめる者はいない。
 芋畠があったが、日本のように植え付けて収穫するのではなく、片っ端から掘り起こし、
 蔓に芋を少しつけて残しておくと芋が自然に出来る。椰子の実も食べるという。
・海で漁をする男たちが砂浜に戻ってくるのを見たが、いずれの舟にも魚が満載されてい
 て、海に魚が群れているのを知った。
 浜に挙げられた魚を男と女が金を払わずに持ち去るが、漁師たちはそれをとがめる風も
 なかった。
・七日間で艦への物品補給は終わった。
 食卓に油でいためた魚も出された。
 「セント・メリー号」は抜錨し、帆をひらいた。
 彦蔵は、はなれてゆく島を見つめた。
 万蔵一人を残して去る悲しみが強く胸にせまった。
・水平線になるも見えない日が続いた。
 無風で艦の動きがほとんど止まったこともあったが、大時化に遭遇した時もあった。
 激浪が甲板を走り、船体は上下に大きく揺れた。
 しかし、乗組員たちは平然として船室にとじこもり、花札(カード)で遊んだり雑談を
 したりしていた。 
 艦は一人の舵手の操作で船体の安定を保っていた。
 彦蔵たちは、甲板洗いや艦内の雑用をして日を過ごし、士官たちはその勤勉さに感心し
 ていた。
・水主たちは、トマスをかこんで英会話を習いトマスも熱心に発音をあらためたりした。
 トマスは、彦蔵のもとにしばしば来て日本語を毎日のように習い、妙な訛りではあった
 が、片言の日本語を話せるようになっていた。
・「セント・メリー号」西進をつづけ、前方に長くのびた陸影を眼にした。
 トマスは、清国を意味するチャイナという言葉を口にした。
 艦はさらに西に進み、翌日、香港に接近し、入港して投錨した。
 その島はイギリスの支配下にあるという。
・次の日、艦の錨を揚げ、陸岸を右に進み、夕刻、マカオに入港した。
 港内には、大型の外輪式の蒸気艦が碇泊していた。
 アメリカの東洋艦隊旗艦「サスケハナ号」で、トマスは、艦にひるがえっている旗を指
 さし、  
 「オーリック司令官ノ旗ダ」
 と、英語で彦蔵に言った。
・三日後、彦蔵たちは甲板に集められ、士官がトマスの通訳で全員が「サスケハナ号」に
 移ることになった、と言った。
 理由についてトマスが、日本語と手ぶり身ぶりをまじえて説明した。
 アメリカ政府は、ペリーを大将に四隻の軍艦を日本に派遣することを決定し、ペリーは、
 このマカオに軍艦で来て、「サスケハナ号」に移乗し、日本に向かう。
 「サスケハナ号」に乗っている彦蔵たちは、艦隊が日本に到着後、日本側に引き渡され
 る。 
 ペリーはまだ来ていないが、いつ来るかわからぬので、彦蔵たちは「サスケハナ号」に
 移る。
 「セント・メリー号」は、フィジー島という南の島で数名のアメリカ水兵を殺した島民
 の処置をするためその島におもむき、それからアメリカに帰るという。
・艦長が士官とともにやってきて、彦蔵たちは膝を突き、年長の長助が、長い間親切に世
 話をしてくれたことに対して感謝の言葉を日本語で述べ、揃って頭を深くさげた。
 艦長は、一同が幸せに帰国できるよう祈っているといい、一人一人に握手した。
・「サスケハナ号」の甲板にあがった彦蔵たちは、艦の大きさに驚いた。
 多くの砲もそなえている。
 彦蔵は、このような大きな軍艦が日本におもむいたら、日本人は驚きと畏怖を覚えるに
 ちがいないと思った。  
・「セント・メリー号」はフィジー島に向けて去り、二日後、「サスケハナ号」はマカオ
 を出港、香港に入港した。
 「サスケハナ号」に移乗して意外であったのは、乗組員たちの気性が荒く、きわめて不
 親切であることだった。
・トマスが弁明するように、その理由を説明した。
 「サスケハナ号」は、東洋艦隊旗艦として長い間清国を基地に行動していて、貧しい清
 国人を労働者世して使っている。
 清国人は金銭を得るためヘリ下っていて、そのため乗組員たちは高慢な態度をとるよう
 になっている。
 皮膚の色も顔つきも似ている彦蔵たちを、乗組員たちは清国人同様に考え、荒々しい態
 度で接しているのだという。
・それを聞いた水主たちは、憤慨した。
 幼い頃から人間というものは相手を尊重し、決して獣のように扱ってはならない、と厳
 しく教えこまれている。
 それに反して清国人を見下す態度をとっているという乗組員たちに、水主たちは憤りを
 覚えたのだ。
・トマスの説明は、現実のものとなった。
 士官は、水主たちに怒声を浴びせかけたり、靴で蹴るようなこともするようになった。
 彦蔵たちは身をすくめ、いつのまにか船室からも追い出され、下甲板の居住区に入れら
 れた。そこは暑熱がよどみ、息苦しいほどであった。
・水主たちの中には、オーリック司令官に不満を訴えるという者もいたが、トマスは決し
 て良い結果は得られない、押しとどめた。 
・「サスケハナ号」は、なすこともなく碇泊をつづけていた。
 日本に派遣されるペリーが、本国から来るのを待つだけであった。
・ボートが陸岸に行き、食糧等の荷を積んでもどることを繰り返していた。
 その積み下ろしに彦蔵たちは使役された。
 ボートが岸につくと、清国人たちが運んできた荷をボートに載せる。
 清国人たちは一様に卑屈で、粗略に彼らを扱う乗組員たちに彦蔵たちは怒りを覚えた。
・乗組員たちが町に入ってゆき、彦蔵たちはボートの傍らでしゃがんで、乗組員がもどる
 のを待つことも多かった。


・ある日、ボートの傍らで町に入って行った乗組員がもどるのを待っていると、洋服を着
 た男がこちらを見つめているのに気づいた。
 彦蔵は、視線を向け続けている男にうす気味悪さを感じ、ひそかにその姿をうかがって
 いた。
・男は、そのまま立っていたが、やがてこちらに歩きはじめた。
 彦蔵は警戒心をいだき、男に眼を向けた。
・近寄ってきた男が、
 「いずこの国のお方たちですか」
 と、低い声で言った。
 彦蔵はぎくりとし、自分の耳を疑った。
 以外にもそれは日本の言葉で、漂流以来、日本語を口にする人間に出会ったことはない。
 男は洋服を着ているが、顔は西洋人ではない。
 洋服は清潔で顔は洗い清められ、髭は剃られていて髪も後ろできちんと束ねられている。
・眼をみはって男を見つめていた清太郎が、
 「日本の者だが・・・」
 と、低い声で答えた。
 彦蔵は、男の眼が一瞬うるみ、口もとがゆがむのを見た。
・男はかすかにうなずくと、
 「なんとなくそのような気がしまして、あなた方が岸にやってくる度に見ておりました」
 と言った。
・男は、顔を少し伏せると、
 「私は、肥前の国島原の口之津(長崎県南高来郡)の力松と申す者でございます」
 水主たちの口から、驚きの声がもれた。彦蔵も茫然とした。
 彦蔵の頭は、混乱していた。
 日本人などいるはずがない地に、日本人が眼の前に立っている。
・「なぜ、この地に・・・・」
 しばらく口をつぐんでいた力松は、
 「そのことは後で詳しくお話いたします。あなた方の身の上話もお聞かせください。
 お力にもなりましょう。明日にでも私の家においでください。日本力松の家はどこかと
 おたずねいただければ、すぐにわかります」
・その夜、水主たちは、力松のことについて話し合った。
 力松がなぜこの地にいるのかをききたかったし、また自分たちのこれまでのことも知っ
 てほしかった。
 力松は、自分たちの力になるとも言ったが、それは日本へ帰るのに力を貸すという意味
 なのか。 
 いずれにしても、明日、揃って力松の家を訪ねよう、口々に言い合った。
・翌朝、水主たちは、トマスに前日のことを話し、力松の家に行きたいので上陸を許可し
 てくれるように艦長にたのんでほしい、と懇願した。 
 トマスは承諾し、艦長のもとに行き、やがてもどってくると、艦長の許可を得たといい、
 直ぐにボートがおとされた。
・彦蔵は、前方から高齢の西洋人が近づいてくるのを眼にした。
 香港はイギリスの支配下にあるので、イギリス人にちがいないと思った。
 彦蔵は「日本力松ノ家ハドコデスカ」と英語でたずねた。
 老人は、よく知っているらしくうなずくと、
 「チンチン・ショウシュ」
 老人は手を合わせて頭をさげる仕種を繰り返し、彦蔵はそれが神社か寺であるのを察し
 た。
 次いで老人は「ナンバ、ツルイ、ハウス」と言った。
 それは、第三番目の家という英語らしく、力松の言えは神社か寺から三軒目であるのを
 理解した。 
・戸を開けて案内を請うと、西洋の女が出てきた。
 彦蔵が、片言の英語で訪れてきた理由を口にすると、女は承知していたらしく歓迎する
 仕種をして中に入るよううながした。
・力松は外出していたが、やがて戻ってきて彦蔵たちを見て喜び、女を紹介した。
 アメリカ人で、彼の妻だという。
 女は、髪が茶色で顔は桃色をおび、生毛が生えている。
 鼻が高く、瞳が青い。
 力松がこのような異国の女を妻としていることが不思議で、彦蔵はあっけに取られて二
 人を眺めていた。 
・力松は、
 「私のことはゆっくりとお話ししますが、まずあなた方がなぜアメリカ軍艦に乗ってい
 るのか。それをお聞かせください」
 と訝しそうな眼をして言った。
・長助が、これまでの経過を説明した。
 力松は、痛々しげな眼をしてうなずきながら聞いていた。
 彼の妻は、部屋の隅の椅子に座っていた。
 「ご苦労なさいましたな。しかし、船頭が病で亡くなられたとは言え、十六人の方が皆
 達者でおられるのはなによりです」 
 力松は、何度もうなずいた。
・少し口をつぐんでいた彼は、
 「それでは、私がなぜこの地におるのかお話ししましょう。もう十七年も前のことです
 が・・・」 
 と言った。
 彦蔵は、彼の眼に涙が浮かぶのを見た。
 顔を伏せ気味にした力松は、話しはじめた。
・天保六年(1835年)十一月、十六歳であった彼は、庄蔵二十九歳を直船頭にした地
 回りの回船に寿三郎二十六歳、熊太郎二十九歳とともに水主として乗り組み、天草沖に
 さしかかった時、大時化に遭って破船し、南西方向に吹き流された。
 三十五日間漂流し、積荷の薩摩芋で辛うじて飢えをしのぎながら、ヘレペン(フィリピ
 ン)という島に漂着し、上陸した。
・無人の地と思ったが、皮膚の茶色い男たちが十数人、刀、弓矢を手にして森の中から姿
 を現し、取りかこんだ。
 彼らは、刀や弓矢でおどし、衣類をはぎ取り、船にあった道具類もすべて奪った。
 殺されると思ったが、島人たちは力松ら四人を家に連れて行き、食物をあたえてくれた。
・その地に三十日ほどとどまっていると、弓矢、鉄砲をもった役人たちがやってきて連行
 された。 
 小舟で海を渡ったりして、ようやくマニィラ(マニラ)という町にたどりついた。
 その地はイスパニア(スペイン)が支配していて、マニィラは城下町のようだった。
・そのから力松ら四人は、役人にともなわれてイスパニア船に乗り、清国のマカオに送ら
 れた。 
 上陸した役人たちは、四人をある家の前まで連れて行くと、そこに捨てるようにして去
 った。
 「驚いたことに、その家に三人の日本人がいましてね。役人がわたしたちを家の前に置
 き去りにしたのは、日本人がいることを知っていたからなのです」
・「いったい、その日本人たちはだれなのです。どうしてマカオになどいたのです」
 清太郎が、言葉をしぼり出すようにたずねた。
 力松の顔に、再び悲しげな表情が浮かび、視線を落とした。
 顔を上げた力松は、
 「私やあなたたちと同じように、大海の波にもとあそばれ風に吹き流された漂流民たち
 だったのです」
 と言って、唇をかんだ。
・「その三人の日本人は、尾張国の宝順丸に乗組んでいた者たちです。私たちよりはるか
 に辛い目にあった由で、話を聞いているうちに涙が流れました」 
・力松は、眼をしばたたき、彼らから聞いたことを口にした。
 「宝順丸」は尾張国知多郡小野浦(愛知県知多郡美浜町小野浦)の樋口源六の持船で、
 源六の息子の重右衛門を船頭に天保三年(1832年)十月に尾張藩の廻米を積んで鳥
 羽を出帆し、江戸に向かった。船頭以下十四人が乗っていた。
・遠州灘を伊豆半島南端の下田にむかって進んだが、気象状況が悪化し、大暴風雨になっ
 た。舵は破壊され波が船内に打ち込み、覆没の危険が迫ったので帆柱を切り倒し、坊主
 船となった。船は潮流に乗って東へ東へと流された。
・乗組みの者たちは、積荷の米を粥にして飢えをしのぎ、雨水をすすって渇きに堪えて、
 四カ月の漂流の末、アメリカのフラッタリ岬付近に漂着した。
 その間に船頭重右衛門以下十一名が餓死し、岩吉、久吉、乙吉の三人が生き残っただけ
 であった。 
・彼らは、インディアンに捕らえられ、奴隷として酷使された。
 その地にカナダの毛皮貿易を独占していたイギリス政府支援のハドソン湾会社があって、
 会社所属の「ラマ号」船長マックニールが、彼らを救出し、会社の支店長マックラフリ
 ンが保護してくれた。 
・ラマックラフリンは、この三人の漂流民を利用すれば、イギリスと日本との通商を開く
 ことが出来ると考え、「イーグル号」に彼らをのせてロンドンに送った。
・イギリス政府の関心は、もっぱら清国にそそがれていて、日本との通商には不熱心であ
 ったため、三人はハドソン湾会社の所属船でアフリカの喜望峰をへて清国のマカオに送
 られた。 
 三人は、イギリス商務庁の保護下に入り、商務庁の主席通訳官である宣教師のドイツ人
 ギュツラフの世話を受けた。
 語学の才にめぐまれたギュツラフは、日本へのキリスト教伝道を悲願としていて、三人
 を自宅に住まわせ、日本語の習得につとめた。
・三人のうち岩吉は、片仮名文字しか知らなかったが、久吉と乙吉は漢字も知っていて、
 ことに最年少の乙吉は漢字を自由に書くことが出来た。
 ギュツラフは、乙吉の協力を得た「新約聖書」の中の「ヨハナの第一、第二、第三の手
 紙」を和訳した。 
・力松たち四人も、ギュツラフの家に引き取られ「宝順丸」の漂流者三人と共同生活に入
 った。
・広東の設けられたアメリカの有力商社オリファント会社の支店長キングは、七人の日本
 人漂流民を帰国させてやりたいと考え、七人の保護者であるギュツラフも同意見であっ
 た。
 二人は、積極的に準備を進め、オリファント会社の所有船「モリソン号」に彼らを乗せ
 て日本に送りとどけることをきめた。
・快速船「モリソン号」は、1837年(天保八年)七月、マカオを出帆した。
 「モリソン号」は七人を日本に引渡すことを目的としていたので、日本側を刺戟せぬた
 めに大砲はおろし、聖書も積んでいなかった。
・キングは、日本側へ渡す中国語で書いた書状を四通をたずさえていた。
 第一の書状には、漂流民が哀れでならず送還すると書かれ、
 第二は、アメリカの国情を簡単に記して、日本がアメリカと友好的な交流をしてほしい
 と記されていた。 
 第三は、「モリソン号」から贈るワシントン大統領の肖像画、望遠鏡、書物等の目録で、
 第四は、日本との交易を望み、それにあてる物品を記した目録であった。
・七月二十九日、見張りをつづけていた岩吉が、前方を指さして叫んだ。
 遠州灘と駿河湾の境い目に突き出た御前崎を眼にしたのだ。
 江戸通いを繰り返していた彼らは、次つぎと眼になじんだ地形が現れるたびに喜びの声
 をあげた。 
 夕方には伊豆半島南端の石廊崎を過ぎた。
・七月三十日(天保八年六月)、「モリソン号」は江戸湾に入り、浦賀に向かって進んだ。
 その時、突然、砲声がとどろき、海面に水柱があがった。
 さらに砲撃がつづき、「モリソン号」は浦賀に進むことを断念して野比村沖に投錨した。
・多くの漁船が集まって来て遠巻きにしたが、やがて一艘の小舟が横づけになり、老いた
 漁師が甲板にあがってきた。  
 それを見て危険はないと察したらしく、漁船がつぎつぎに船べりについた。
 多くの漁師たちが、「モリソン号」の甲板にあがってきた。
 彼らは臆する風もなく歩きまわり、帆柱を見上げたり、載せられているボートに手を触
 れたりした。
 キングは彼らに硬貨やビスケット、葡萄酒などをあたえ、医師のパーカーは、彼らを診
 察して薬を渡したりした。
・キングは、比較的みなりの良い者に短い書状を渡した。
 そこには、役人の訪れを待つということが中国語と日本語で書かれていた。
 キングとギュツラフは、高位の役人が来た折には七人の漂流民を会わせ、帰還させる方
 法について話し合うつもりであった。 
 漁師たちは上機嫌で、やがて漁船にもどり、去って行った。
・キングたちは、望遠鏡で陸岸に向けて役人が来るのを待ったが、その気配はなかった。
 翌日は夜明け前に激しい雨が降り、それがあがると、不意に丘から砲撃が開始された。
 「モリソン号」は、敵意がないことを示すため白旗をかかげたが、砲撃はやまず、一弾
 が甲板上に落下し、はねて海中に落ちた。
・やむなく「モリソン号」は抜錨し、帆を張って退避した。
 後方から数艘の舟が追って来て砲弾を打ちかけ、「モリソン号」は江戸湾外に逃れた。
・浦賀奉行は、文政八年に理由のいかんを問わず異国船をすべて撃退せよという幕府が発
 した異国船打ち払い令にもとづいて、「モリソン号」の国籍、来航目的もただすことな
 く砲撃させたのである。
・故国を目前にして帰国できると思っていた七人の漂流民の失望は大きく、無言で甲板に
 座っていた。
・「モリソン号」は、鹿児島に向かった。
 鹿児島を選んだのは、藩が密貿易をしていることをキングが知っていたからで、外国船
 も穏便に扱ってくれるにちがいないと考えたのである。
・船は西進し、八月十日の早朝、鹿児島湾口に到着し、佐多浦沖に投錨した。
 船からボートがおろされ、庄蔵と寿三郎が近くの漁船に乗り移り、上陸した。
 佐多浦の者たちは、洋服を着た二人に驚き大騒ぎになったが、二人が事情を説明すると
 深く同情し、涙を流す女もいた。 
・やがて役人が姿を現し、庄蔵がこの地に来た目的を話し、帰郷できるよう尽力してほし
 い、と訴えた。
 そのうちに上品な中年の役人が従者をつれてやってきて、庄蔵と寿三郎は、彼らを「モ
 リソン号」に案内した。
 キングは、鹿児島藩主宛の書状を渡し、役人は藩主に必ずとどける、と約束した。
・岩吉と庄蔵が役人と従者をボートで送り、上陸した。
 しばらくたって、岩吉と庄蔵が、三人の役人と水先案内人を伴って「モリソン号」にも
 どってきた。 
 役人たちは水先案内人に指示を出し、陸岸に引き返して行った。
 水先案内人はおどおどしていて、「モリソン号」を対岸の岡児ヶ水沖に導き、船が錨を
 投げると急いで岸に去った。
・岩吉と庄蔵は、上機嫌であった。
 上陸した二人が、「モリソン号」に乗っている自分たちをふくめた七人の漂流民の名、
 年齢、出生地と漂流した概要を役人に説明すると、役人はそれを克明に記録し、彼らを
 贈ってきた「モリソン号」のキングたちの好意を慈悲深いものとして賞賛した。
 七人の漂流民の処置については、
 「まもなく故郷に帰れることはまちがいない」
 と言って、いたわりの言葉をかけたという。
・「モリソン号」が鹿児島湾に入ってから三日目の八月十二日の朝は雨が降っていた。
 夜の間にいつの間にか陸岸の岡児ヶ水の岸に陣幕が長々と張られ、旗がひるがえり、
 道を騎馬が走るのが見えた。
・キングは、その情景が何を意味するのか分からなかったが、漂流民は、
 「戦さの準備をしている」
 と、悲しげに言った。
・ようやく事態を理解したキングは、退避を命じ、「モリソン号」は錨を揚げ、帆を展張
 した。
 突然、砲声がとどろき、張られた幕の間に白煙が湧いた。
 砲撃が連続したが、砲弾は「モリソン号」にとどかず、水柱をあげるだけであった。
・キングもギュツラフも、漂流民を鹿児島湾受け取ってもらうことを断念し、漂流民に長
 崎へ行って交渉してみる、と言った。 
 しかし、浦賀につづいて鹿児島でも砲撃を浴びた力松たちは、絶望感にとらわれ、長崎
 に行っても動揺の扱いを受けるだけだと言い、マカオに帰りたいと口々に言った。
 彼らは、鎖国政策をとる幕府が自分たちを罪人として入国をかたく拒否していることを
 知ったのだ。
 その意見にキングもギュツラフも同意し、「モリソン号」は帰航の途についた。
・力松は、頬を流れる涙を布でぬぐい、神戸を垂れて口をつぐんでいた。
 彦蔵は、言葉もなく力松を見つけていた。
 故国を眼の前にして引き返せざるを得なかった力松たちの悲しみが、胸に迫った。
・「ほかの方たちは、どうしておられます」
 長助が、声をかけた。  
 「熊太郎さんは、モリソン号でマカオへ引き返してきてからすぐに病におかされて死に
 ました」
 「そして、寿三郎さんも、阿片煙草を好んですい、痩せ衰えて息絶えました。阿片は肉
 も骨もとかす恐ろしい煙草です」
 「岩吉さんも先頃、この世を去りました。寧波に住んで清国の女を妻としていましたが、
 その女が不義をし、間夫(不倫相手の男)に殺されたのです」
・彦蔵は、暗澹とした。
 わずか十五年の間に七人の男のうち三人が死亡している。
・「その他の四人のお方は?」
 長助が、たずねた。
 「庄蔵さんは、すぐ近くに住んでおります。久吉さんは上海に住んでおり、いずれも清
 国の女をめとり、子もいます。庄蔵さんは手広く裁縫商を営み、久吉さんは漢字をよく
 知っておりますので、役所に勤めを得ており、私はイギリスの商館の仕事をさせてもら
 っております」
 「乙吉さんは、上海に住み、イギリス商館の支配人をしております。漢字をよく知って
 おり、イギリス語を話すのも巧みで、天竺(インド)の女を妻とし、何不自由なく暮ら
 しています」
・彦蔵は、生き残った者たちが異国の地でそれぞれ逞しく生きていることに畏敬の念をい
 だいた。
・他人ごとではなく、自分たち十六名も彼らと同じ道をたどるのか。
 「モリソン号」で故国を眼の前にしただけでも、彼らの方が自分たちより幸せなのかも
 しれない。
 彦蔵は、胸が裂けるような深い悲しみに襲われた。
・清太郎が沈黙を破り、
 「その後は、故国へもどる努力をなさらなかったのですか」
 と、いらだちをこめた声でたずねた。
 「大砲を打ちかけられた私たちは、故国が決して受け入れてくれぬことを身にしみで知
 りました。しかし、親兄弟に会いたい気持ちは強く、せめて自分たちが異国の地で無事
 でいることを伝えたいという思いから、庄蔵さんと寿三郎さんが、手紙を書いたことが
 一度あります」 
 「あれは、モリソン号でマカオにもどってから五年後の天保十三年(1842年)六月
 のことでした。
・長崎の出島に設けられているオランダ商館の商館長エドワルド・フランチスソンの任期
 が来て、ピーテル・アルベルト・ビクが新任の商館長として長崎へ向かう途中、マカオ
 に立ち寄った。 
 それを知った庄蔵は、寿三郎とともにビクに会いに行き、自分たちの境遇を述べ、手紙
 を長崎の奉行所役人に渡して故郷に届けてもらうよう懇願して欲しい、と頼んだ。
 哀れに思ったビクは承諾し、庄蔵と寿三郎は、それぞれ手紙を書いてビクに託した。
・「あなたは、なぜ手紙を書かなかったのですか」
 清太郎が、いぶかしそうにたずねた。
 「そのオランダ人が長崎の役人に渡してくれたとしても、役人は破るか火に投げ込むだ
 けです。私たちは罪人なのです。故郷になど届きはしません」
・力松は、ビクが手紙を長崎奉行に渡しても役人が破るか焼却するにちがいない、と予想
 したが、それは事実とちがっていた。
・力松たちを乗せた「モリソン号」が異国船打ち払い令によって砲撃さえたことに、国内
 の有識者たちから批判の声があがった。
 そのような強硬な手段は外国の怒りをまねき、日本を窮地におとしいれると憂慮する者
 が多く、洋学者の「渡辺崋山」と「高野長英」は批判文を書いた。
 これに対して洋学者に強い反感をいだいていた目付「鳥居耀蔵」は、崋山を永蟄居(の
 ちに自刃)、長英を永牢に処した。「蛮社の獄」である。
・その後、幕府は、崋山、長英の批判は当を得ているという反省から、異国船打ち払い令
 の廃棄を決定し、庄蔵と寿三郎がビクに手紙を託した翌月の七月二十三日に、打ち払い
 令を改めて異国船を穏便に扱い、食糧、水等を与える薪水供給令を発している。
 このような共生の変化によって、ビクから長崎奉行所にわたされた庄蔵と寿三郎の手紙
 は、奉行柳生伊勢守が正式に受領し幕府にも報告されている。
・この寿三郎と、庄蔵の手紙は、長崎奉行からそれぞれ宛名の者に送り届けられた。
 むろん、それらの手紙の返事は寿三郎と庄蔵のもとにはこず、二人は、力松と同じよう
 に長崎の役人によってにぎりつぶされたにちがいない、と思っていた。
 彼らは、深い諦めの境地にあった。
・水主たちの視線を受けた力松は、
 「あなたたちがどうしても帰りたいと言うのなら、お世話もいたしましょう。しかし、
 なかなかどうして、それは容易なことではない。私たちが追い払われたように、日本は
 あなたたちを受け入れてはくれません」
 と、断言するように言った。
・彼らは足をはやめて波止場に行き、待っていたボートに乗った。
 艦の甲板に上がると、自分たちの居住区に連れ立って入った。
 水主たちは急に饒舌になった。
 「あの力松という男の心の底は、よく見えている」
 「奴が故国へ帰るのを諦めたのは、奴の勝手だ。淋しいものだから、おれたち十六人を
 巻き添えにしてこの地にとどめさせようとしているのだ」 
 「アメリカの女を女房にしているのだから、それを残して帰国する気にはならぬのだ。
 異国の女を連れて帰ることなど、到底できはしない。おれたちは、あの男とはちがう。
 奴は清国人になりきってしまっている」
・ひとしきり力松への批判を口にした水主たちは、
 「おれたちは、なんとしてでも日本へ帰る。これまで神仏の御加護で生きてきた。これ
 からも必ず御慈悲によって道が開ける」 


・連日、暑熱が甚だしく、艦内にいると頭がかすみ息苦しかった。
 そのためボートで町に行く者が多かった。
 彦蔵たちも、それらのボートに乗せてもらい、木陰に座ったりして涼をとった。
 不信感をいだいた力松の家には、近づくことはしなかった。
・その日も、寺の境内の大きな樹の日陰で寄り集まって坐っていると、寺の中から老いた
 僧がでてきた。
 近づいてきた僧は、手を動かして寺の中に入るようににこやかな表情でうながした。
 煙草をすすめ、お茶も淹れてくれた。
 彦蔵たちは、しきりに頭をさげた。
 僧の言葉は、むろん彦蔵たちにはわからなかったが、香港の町を歩いている間に漢字を
 書けば医師が通じることもあるのを知るようになっていたので、清太郎たちがそれぞれ
 筆談をはじめた。 
 水主たちは、しきりに日本へ帰りたいという希望を文字に託し、首をかしげていた僧は
 ようやくそれを理解したようだった。
・ついで、アメリカ軍艦が日本へ行くというので、それに乗って行くつもりだ、と文字に
 書き、手ぶり身ぶりをまじえて説明した。
 その意味を察した僧は、激しく手をふった。
 日本は外国の船をことごとく追い払い、アメリカの軍艦も同様で、それに乗って帰国す
 るなどと言う考えは捨てたほうがいい、と書いた。
 それよりも、この香港から広東に行くべきだ、とすすめた。
 広東の役所に帰国希望の願書を提出すれば、清国は日本と貿易をしている関係にあるの
 で役所は許可し、船便によって南京に送り届けてくれるはずである。
 毎年、長崎へむかう清国の貿易船の出港地は乍浦という港で、南京の役所は乍浦の役人
 に指示し、彦蔵たちを貿易船に乗せてくれることは疑いないという。
・僧の言葉に、水主たちは興奮した。
 長崎に行ったことのある者もいて、それによると、港内に唐船と称される装飾をほどこ
 した清国の船が二艘か三艘碇泊しているという。
 唐船は毎年長崎に入港してきていて、それに乗ることが出来れば、「モリソン号」のよ
 うに追い払われる恐れもなく確実に長崎の土をふむことができる。  
・僧は、道中手形(旅券)を渡す、と答えた。
 僧の発行した手形は信用され、道中、それを示せば宿泊、食事の便宜をはかってくれる
 という。
 「ぜひ、それをいただきたい」
 と頼むと、僧は、朱色の紙に道中手形を示す文字を大きく書いて渡してくれた。
 彦蔵たちは、僧に厚く礼を述べ、寺を出た。
・問題は、旅費であった。日本の銭をそれぞれ持ち、サンフランシスコでアメリカ人から
 贈られた硬貨や装飾品もある。が、それらを清国の銭に替えなければならない。
・一人が、力松の家の近くに住む元船頭の庄蔵のもとに行って、それらの銭や装飾品を清
 国の銭に換金してもらおうと言った。
 力松は、広東行きに反対するにちがいなく、彼の力は借りたくなかった。
 しかし、水主の中には銭も装飾品もわずかしか持っていない者もいて、彼らは広東に行
 くことをためらった。
・彦蔵は相応の金品を手にしていたが、気乗りがしなかった。
 サンフランシスコから終始親切にしてくれたトマスに挨拶もせず広東に行く気にはなれ
 なかった。
・彼らは互いに言葉を交わし、九人が広東行きをきめ、彦蔵をふくむ他の七人が艦にとど
 まることになった。
 それは船頭万蔵を失ったからで、万蔵が生きていればそのようなことを許すはずはなか
 った。
・広東行きをきめた九人の者は、庄蔵の家に行くことになり、艦に残る彦蔵たち七人もつ
 いて行った。
 庄蔵が手広く裁縫業を営んでいると聞いていてが、たしかに家は大きく、広い仕事場で
 は十人ほどの者が繊維品をひろげて働いていた。
・庄蔵は商用で外出していて留守であったが、妻である清国人の女が親切に迎え入れてく
 れた。 
 日本語も片言ながら話すことができ、九人が広東に行くと告げると、家に泊って明朝、
 出発し、その間に日本の銭その他の換金もしておく、と言った。
・翌朝は激しい雨で、艦の士官は、九人がいないのに気づき、
 「ドウシタノダ」
 と、たずねた。彦蔵は、
 「日本人ノ招待ヲ受ケテ、ソノ家に泊リマシタ。ヤガテ帰ッテクルデショウ」
 と、答えた。
・日が傾き、彦蔵たちは甲板に出て風に吹かれていた。
 岸から清国の小舟が近づいてきて、舷側についた。
 甲板に上がってきたのは、思いがけず広東へ行った保人の水主たちであった。
 ズボンをつけてはいるが、上半身が裸で靴もはいていなかった。
・彼らが、顔をしかめて事情を説明した。
 九人の水主は、降雨の中を僧の指示してくれた通りの道を進んだ。
 途中、僧の渡してくれた手形を村々の者に見せると、例外なく親切に道を教えてくれた。
 空腹になったので、農家に行って銭を出し、飯を炊いてもらってそれを食べた。
・その家を出て二町ばかり行くと、突然、六十人ほどの男が出てきて道をさえぎった。
 彼らは鋤や短刀を手にしていてなにか威嚇するような声をあげ、水主たちを取り囲んだ。
 男たちは、鋤をふりかぶり短刀を突きつけ、怒声に似た声をあげる。
 服を荒々しくつかんではぎとろうとし、頭を拳で激しく突き、背中をたたく。
 水主たちは身の危険を感じ、洋服を脱ぎ靴もはずした。
 袋に銭を入れて持っていたが、それも奪われた。
 わずかにズボンをはくことが許され、半裸になった。
 男たちは、さらに鋤や短刀でおどし道をもどれという仕種をしたので、水主たちは夢中
 になって走り出し道を引き返した。気がついてみると五人だけになっていた。
・この事件は、日本へ帰る道をさぐるのがいかに困難であるかを、水主たちに感じさせた。
 清国の貿易船に乗ることが出来れば長崎にたどりつけるのだろうが、広東に行く途中で
 身ぐるみはがれ、命まで奪われかねなかった。
 貿易船に乗るには、気の遠くなるような距離にある乍浦という港にまで行かねばならず、
 そこに至るまでに命がいくつあっても足りぬほどの苦難を強いられるだろう。
 彼らは、深い失望感にとらわれた。
・わずかに帰国できる手段は、やがてやってくる使節ペリーとともに「サスケハナ号」に
 乗って日本に行く以外にない。
 水主たちは、手荒な士官や水兵たちの扱いに堪えながら、待つ他はないのを感じた。
・二カ月ほど過ぎた頃、アメリカの帆船が本国からやってきた。
 「サスケハナ号」をはじめアメリカ東洋艦隊の各艦に渡す嗜好品や手紙等を積んでいた。
 彦蔵たちは、その貨物船から物品を「サスケハナ号」に移す仕事に狩り出されたが、
 その間に貨物船の船員から聞き出した話が話題になった。
・日本遠征を企てるアメリカ使節ペリーは、清国に来て十一隻の軍艦をひきいて日本に向
 かうという。  
 十一隻という軍艦の数に、彦蔵たちは口もきけぬほどの驚きをおぼえた。
 それほどの大規模な陣容で日本に向かうということは、日本を徹底的に威嚇し、アメリ
 カの要求をすべて認めさせようとしていることを示している。
 強要に対して、日本も国をあげて反抗の姿勢を示し、その結果、大戦争となる。
 そのような意図を持つ「サスケハナ号」に乗って日本に向かえば、戦争に巻き込まれ、
 帰国することなどおぼつかない。
・水主たちは顔色を変え、口々に「サスケハナ号」で日本へ行くのは断じて避けるべきだ、
 と言い合った。 
 水主たちは、トマスのもとへ行き、意見を求めた。
・トマスも十一隻という艦隊規模に驚き、水主たちの危惧も当然だ、と言った。
 彼は、十五年前にアメリカの帆船「モリソン号」が砲撃を浴びて追い払われたことを知
 っていた。 
 「モリソン号」は商船で、しかも大砲も撤去していたのに砲撃されたことを考えれば、
 十一隻からなる艦隊に日本側も火力のすべてを傾けて砲撃することは疑いの余地がない、
 と気の毒そうに言った。
・彦蔵は、力松の顔が眼の前に浮かんだ。
 力松は、帰国する考えなど捨てて妻をめとり清国で安穏に暮らすようすすめた。
 その言葉に反撥はしたが、自分たちも力松と同じ運命をたどる以外にないらしい。
・彦蔵は、頭を垂れて座り続けていた。絶望感で体から力が抜け、頭の中は空白だった。
 足音が近づき、傍らに大きな体の男が座った。トマスだった。
 「私ハ、ペリー使節ノ艦隊ガクルノヲ待ツノガイヤニナッタ」
 トマスは、英語に日本語をまじえながら話しはじめた。
 彼は、彦蔵をはじめ水主たちが日本へ帰れるのを多助けするためにこの地までついてき
 た。  
 自分も日本へ行きたいという気持ちがあるからで、ペリーが来れば、この「サスケハナ
 号」で日本へ行けるというので、ペリーが来るのを辛抱して待っていたが、いつまでた
 っても来ない。
 しかもペリーは十一隻の軍艦をひきいて日本に行く予定だという。
 それは戦争を仕掛けるためとしか思えず、彦蔵たちはもとより自分も日本の地を踏むこ
 とはおぼつかない。
 「ヒコ、私はアメリカへ帰る」
 トマスは、日本語で言った。
・「ヒコ、私トアメリカへ行カナイカ、費用ハ私ガ負担スル」
 トマスは、二、三年後には必ず日本は開国され、外国人の渡航も自由になるだろう、と
 言った。
 開国すれば、彦蔵も帰国できる。
 その間にアメリカで英語を十分に学び、西洋文明の知識も身につけ、帰国して日本の役
 に立つことを考えるべきだ。 
・思いもかけぬ言葉に、彦蔵は茫然とした。
 優しいトマスではあるが、仲間の水主たちと別れる気など毛頭ない。
 これまで十五人の水主たちとともに互いに身を寄せ合って生き、その集団の中にいるこ
 とで、異国の地に来ても孤独感におそわれることもなく過ごしてきた。
 そこから一人離れることは、死にもつながる。
・「私ハ行カナイ」
 と英語で答え、首を強くふった。
 日本に近い清国へ来たというのに、再び遠いアメリカへ行く気などない。
 それに、ともに過ごしてきた仲間たちと別れ、アメリカ人の中に身を入れることなど想
 像するだけでもいやであった。 
・「ナゼダ」
 「仲間と離れることはできない」
 「ソレデハ、仲間ノ一人ヲ連レテ行クナラ、同行スルカ」
 と言った。
・彦蔵は、イエスと答えた。
 水主の中でアメリカへ行くという者がいるはずはなく、トマスの気分を損ねることを恐
 れてイエスと答えたのだ。
・翌日、トマスが近づいて来て、
 「ヒコ、カメガアメリカク行ク」
 と、言った。
 カメとは、トマスが亀蔵を呼ぶときの愛称で、トマスは、若い二十四歳の亀蔵を口説い
 たにちがいなかった。
 彦蔵は驚き、トマスの顔を見つめた。
 トマスとの約束もあり、亀蔵がアメリカ行きを承諾したかぎり、トマスに同行しなけれ
 ばなない。
 しかし、仲間たちと離れてアメリカへ行くのは恐ろしかった。
・トマスは、はなれて行ったが、その日の夕方、彦蔵のもとにやってくると、思いがけぬ
 ことを口にした。 
 「トラモ行ク」
 トマスの言葉に、彦蔵は呆気にとられた。
 トラとは、彦蔵と同じ村の出身である治作で、親しい亀蔵からアメリカ行きの話を聞く
 と、トマスのもとに来て、
 「ぜひ連れて行ってほしい」
 と、頼み込んだという。
・治作は二十九歳の思慮分別のある水主で、すすんでアメリカ行きをトマスに頼んだこと
 を知った彦蔵は、トマスと同行すべきかもしれない、と思った。
・その日、トマスから司令長官オーリックの許可が出たことを聞いた彦蔵と亀蔵、治作は、
 ほかの水主たちのもとに行ってトマスとアメリカに行くことを言いにくそうに告げた。
・彼らの驚きは大きかった。
 さまざまな意見が彼らの間から出て、三人が別行動をとるのは好ましくないと首を激し
 くふる者もいれば、「サスケハナ号」で故国に帰るのは不可能で、アメリカへ行って帰
 国の機会を探るべきだ、という者もいた。
・アメリカ行きは、彦蔵、亀蔵、治作だけのことではなく水主すべての問題になり、やが
 て彼らは全員がトマスとともにアメリカへ行くことで意見が一致した。
・思いがけぬ結果に彦蔵は驚いたが、早速、亀蔵、治作とともにトマスのもとに行った。
 事の次第を彦蔵が英語まじりの日本語で告げつと、トマスは表情を曇らせ、思案するよ
 うに顎に手を当てたりしていたが、無言で船室を出て行った。
・やがてもどってきたトマスは、彦蔵たち三人を連れて水主たちのもとに行った。
 トマスは、
 「アメリカニ行クコトヲ希望スル者ハ、前ニ出ナサイ」
 と言い、彦蔵が通訳した。
 水主たちは、全員がトマスの前に立った。
・トマスが、日本語まじりの英語で話しはじめた。
 オーリック司令官に彦蔵ら三人の退艦願を出して許可を得たが、全員をアメリカに連れ
 て行くという話をすると、それは断じて許さぬ、と言われた。
 理由は、やがてやってくる使節ペリーが、日本側との交渉に漂流民引き渡しを利用しよ
 うとしているからだという。
 「第一、私ニハ三人ヲ連テレイクダケデ精一杯デス。オ金ガアリマセン」
 トマスは、両手をひろげ、首をすくめた。
・水主たちは、顔を青ざめさせた。
 アメリカに戻るトマスは、むろん船賃を払って商船に乗る。
 彦蔵、亀蔵、治作の船賃は負担するが、その総額はかなりのものになる。
 トマスはそれだけで精一杯で、さらに十三人分の費用を出すことなど到底できないとい
 う。 
 無理からぬことで、水主たちの顔には諦めの色が濃く浮かんだ。
・彼らは、長い間黙っていたが、一人が口を開くと、他の者たちが苛立ったように思いの
 言葉を口にした。 
 それは、三人と別れるのは好ましくないというものだった。
 しかし、彼らの口数は少なくなり、やがて深い沈黙がひろがった。
 三人のアメリカ行きはオーリック司令官の許可を得ていて、すでに決定していることで
 あった。
・水主たちが、近寄って来て彦蔵たち三人を取り囲んだ。
 口をつぐんでいる彼らの眼には涙が光り、彦蔵の胸にも熱いものが突き上げた。
 漂流して以来、万蔵は死んだが、一同身を寄せ合って生きてきた。
 その環の中から自分たち三人が離れるのが辛く、申しわけない思いでもあった。
 最年長の長助が、泣ぐみながら、
 「くれぐれも達者でな」
 と、途切れがちな声で言った。すすり泣く声が起こり、彦蔵も涙をぬぐった。
・「達者でなあ」
 叫びに似た声は、清太郎の声にちがいなかった。
 新たに涙があふれた。
 アメリカに行ってもどうなるか見当もつかず、艦に残った十三人の行く末も予想できな
 い。 
 これが最後の別れになるかも知れず、その恐れが大きいように思えた。
・彦蔵は、あらためてトマスが情のあつい男であるのを感じた。
 三人のサンフランシスコまでの旅費は、ばかにならない額で、それを全額負担してアメ
 リカに連れて行っても、トマス侍臣にはなんの益にもならない。
 トマスは、三人が清国にとどまっていても帰国の望みはなく、アメリカに行けば、それ
 を可能にする道を見出だせるかもしれないと思っている。 
 トマスは、ひたすら三人を日本へ帰してやろうと考えている。
 彦蔵は、トマスの温かい気持ちに感謝の念をいだいた。
・マカオについて一週間後、港に近いイギリス商船会社の出張所の外壁に、広告が貼られ
 ているのを眼にした。  
 「コレダ」
 広告文を読んだトマスは、はずんだ声で言った。
 そこには「サラー・フーバー号」というイギリス商船が、二日後にサンフランシスコ向
 け出港すると記されていた。
・「サラー・フーバー号」は、いかにも老朽船といった感じの船で、船材は古く、塗料も
 はげかけている。
 船室は、三等船室だけであった。
 

・「サスケハナ号」に残った十三人は、そのまま艦にとどまっていた。
 二月中旬、「サスケハナ号」は、香港を出港して陸岸沿いに北上した。
 揚子江の河口に達し、川をさかのぼって上海についた。
 翌日は、朝から多くの小舟が艦の舷側に集って来て、商人たちが盛んに繊維品を買って
 くれ、と声をかける。 
・商人たちの取り締まりをしているらしい老人が、寄り集まっている水主たちに近寄って
 くると、英語で、
 「日本人カ?」
 と問うた。
 長助たちが、そうだと答えると、老人は、
 「コノ地ニ日本人ガイル。ソノ名ハオトキチ」
 と、言った。
 長助たちは、香港で力松から上海に乙吉と久吉という漂流民が住んでいることを聞いて
 いた。
・長助たちは、乙吉に会いたいと思い、老人にその所在を片言の英語で問うた。
 老人は承諾し、筆をとると紙に略図を描いて渡してくれた。
・長助たちは、士官に上陸の許しを得て、上海の町に行く水兵のボートに乗せてもらった。
 町は区割りされていて、入口には柵門があって門番が立っていた。
 長助が略図を見せて乙吉の家に行きたいという仕種をしてみせると、うなずいた門番が
 先に立って歩いて行った。
 やがて門番が足をとめ、道沿いの建物を指さして引き返して行った。
・水主たちは茫然とし、顔を見合わせた。
 長い堀にかこまれた広い敷地に三階建の大きい建物が建っている。
 窓にはギヤマン(ガラス)がはめられ、その建物の背後にはいくつもの蔵が並んでいる。
 門番が他の家を教えたのではないか、と思った。
・しばらくためらっていた彼らは、恐る恐る門をくぐり、建物の扉を開けて声をかけた。
 清潔な服を身につけた清国の初老の男が出てきて、清太郎が紙に自分たちは日本人で、
 乙吉に会いたいと漢字で書いてしめした。
 男は、うなずいて奥に入り、すぐに断髪をし洋服を着た小太りに中年の男が出てきた。
・彼は、清太郎たちを見まわすと、
 「乙吉です」
 と、日本語で言った。
 水主たちの顔に安どの色がうかび、
 「私どもは・・・」
 長助が言いかけると、乙吉は、
 「お入りください。お話は奥でうかがいます」
 と言って、中に入るよううながした。
・「日本人が十人以上も香港に来ているという話を聞いていました。あなたたちですね」
 乙吉がたずね、長助が、
 「はい、香港におりました」
 と、答えた。
・肌の浅黒い、眼の大きな女が入ってきた。
 その後ろから数人の召使らしい清国の女が茶菓を運んできてテーブルに置いた。 
 「女房です」
 乙吉が、眼の大きな女を紹介した。
 「天竺(インド)の生まれです。
 乙吉が言うと、女はにこやかな表情をして頭をさげた。
・「なぜ神国に来ているのですか、お話しください」
 乙吉が、長助たちを見回した。
 長助にうながされて清太郎が、漂流するまでの経緯とアメリカ船に救助され、サンフラ
 ンシスコから清国に送られてきた事情を説明した。
 さらに船頭万蔵の四と彦蔵ら三人がトマスに連れられてアメリカへ引き返し、残ったの
 は十三人だ、と言った。 
・うなずきながら聞いていた乙吉は、清太郎が言葉を切ると、
 「難儀でしたね。今までよく生きてこられましたな」
 と、同乗するような眼をして言った。
・少しのあいだ口をつぐんだ乙吉は、
 「もう二十一年も前のことになりますが・・・」
 と言って、「宝順丸」に乗っていた乙吉らの遭難、漂流とその後の経緯を説明した。
・しばらくのあいだ沈黙がつづいたが、清太郎が部屋を見回し、
 「大層豊かなお暮しをなさっておられるようですが、お差支えなければ、なにをして生
 活の糧を得ておられるのかお教えください」  
 と、遠慮がちにたずねた。それはすべての水主の関心事であった。
・乙吉は、眼に笑みを浮かべながら説明した。
 家は、清国との貿易をするイギリス商社の持物で、彼はその出店の総取締りをしていて、
 三十人ほどの男を使い、清国でさまざまな物品を買い集めてイギリスに送っている。
 召使は七人いるという。
・漂流民でありながら豊かな生活をしている乙吉を、清太郎たちは信頼のおける人物だと
 思った。  
 イギリスの商社の出店をまかされていることは、乙吉が有能で誠実であることを示して
 いる。
・清太郎が、長助と低い声で言葉を交わし、乙吉に眼を向けると、
 「香港でお会いした力松さんに、日本へ帰りたいと申したところ、それは叶わぬことで
 この清国にとどまり、女房をめとって安穏に暮らすように言われました。
 しかし、私たちはなんとしてでも日本へ帰りたいのです。お力をお貸しくださいません
 か」
 と、訴えるような口調で言い、水主たちは乙吉の顔を見つけた。
・乙吉が、口を開いた。
 「私は、モリソン号で祖国を前にしながら石火矢(大砲)で打ち払われ、そのときから
 帰国をすっぱりと諦めました。 
 それは自分の宿命で、悔いはありません。
 断念はしましたが、その後、私は悟りを得ました。
 今後、私と同様に漂流の憂目にあった日本人を帰国せることが、私の務めであると・・」
 乙吉の顔には、かたい決意の色が浮かんでいた。
 水主たちを見回した乙吉は、
 「あなた方を帰国させるようお世話をしましょう」
 と、強い口調で言った。
 水主たちの顔に喜びの色が浮び、涙ぐむ者もいた。
 自らは清国の土となるのを覚悟し、そのうえで漂流民を帰国させることを自分の使命と
 考えている乙吉に感動した。
・「帰国するには、どのような方法があるのでしょうか」
 清太郎が、乙吉を見つけた。
 「清国から交易船が毎年長崎に出向いています。清国に産するもろもろのも物品をのせ
 て長崎に運び、日本の産物を持ち帰ることを繰り返しております。その船に乗れば帰国
 できます」 
 「この力南の方に乍浦という港があり、そこから清国の船が出帆しています。乍浦の役
 所に掛け合って乗船の許しを得る必要がありますが、そのためには、あなたたちが、
 まずサスケハナ号」から離れなければなりません。船将(艦長)に許可してくれるよう
 にお頼みなさい」
・「それであ、ただちに船へ戻り、船将にお願いしてみます」
 清太郎がはずんだ声をあげ、腰をあげた。
 彼らは、歩きながら話し合った。
 「サスケハナ号」に座剰していた東洋艦隊司令長官オーリックは、病を得てアメリカに
 帰っていたので、艦長ブキャナン中佐に頼みこまねばならない。
 水主たちは、オーリックとは何度も接したが、ブキャナンは遠くから見る存在にすぎな
 かった。 
・「清太郎、お前が頼み込んでくれ」
 長助が、清太郎に声をかけた。
 水主たちの中では、清太郎が片言ながら英会話に通じていた。
・清太郎は、長助とともに艦長室に行った。
 「私達ハ、コノ軍船カラハナレタイ」
 清太郎は、ブキャナンに言った。
 「ナゼカ」ブキャナンが、いぶかしそうな眼をした。
 「私達ハ、コノ地ニトドマッテ働キタイノデス」
  清太郎は、とっさに嘘の言葉を口にした。
・ブキャナンは、険しい眼をして早口でしゃべりはじめた。
 清太郎にはその英語をほとんど理解できなかったが、日本人漂流民を艦に乗せて日本へ
 連れて行く予定なので、艦から離れさせることは断じて許せぬ、と言っているのを感じ
 取ることができた。
・水主たちのもとに戻って艦長から拒否されたことを伝えると、水主たちは落胆し、打開
 方法について話し合った。
 アメリカ船に救出されてアメリカの軍艦で清国に送られてきた彼らは、十分にアメリカ
 に恩義を感じていて、艦長に無断で脱出する気はなかった。
・「乙吉さんに相談しよう」
 一人が言い、他の者も同調した。
 清太郎が乙吉のもとに行くことになり、八婆に向かうボートに乗った。
・しばらくすると、波止場に清太郎と乙吉の姿が見え、清国の小舟に乗って漕ぎ寄せてき
 た。  
 甲板に上がった乙吉は、士官に近づくと流暢な英語で艦長に面会したい旨を伝え、士官
 がうなずくと清太郎とともに艦長室へ通じる通路に入って行った。
・かなりの時間がたち、乙吉と清太郎が通路から姿を現した。
 「艦長は、四人だけは艦から離れるのを許した。私は、今日はこれで引き下がるが、後
 の九人についてはあらためて談判する」 
 乙吉は、四人を連れてすぐに上陸する、と言った。
・人選がおこなわれて、四人が選ばれた。
 彼らは船室の入ると、手荷物まとめて甲板にもどり、乙吉とともに小舟に乗って波止場
 に向かった。 
・清太郎は、残った水主たちに乙吉の交渉ぶりを話した。
 乙吉は、少しも臆することなく、よどみない英語で日本人漂流民を開放するよう強く求
 めた。
 艦長は、やがてアメリカ使節ペリーが来て漂流民を軍艦に乗せて日本へおもむく予定で
 あるので、断じて許可できないと答えた。
 しかし、乙吉は屈することなく、漂流民に慈悲を垂れて艦から解放出せるべきだ、と執
 拗に説き、ようやく艦長も承諾したという。
 「乙吉さんは大した男だ」
 清太郎は、感嘆して言った。
・「サスケハナ号」に残った九人の水主たちは、今後のことについて言葉を交わした。
 乙吉は、再び艦に来て九人を艦から解放させるよう艦長のブキャナン中佐に交渉してく
 れると言ったが、成果を危ぶむ者が多かった。
 やがてやってくるペリーは、日本人漂流民を日本との交渉に利用しようとしている。
 もしも、九人を解放したとしたらブキャナンは命令違反のかどで処罰されるにちがいな
 く、たとえ乙吉が執拗に要求したとしても、ブキャナンはそれに応ずるはずがない。
・水主たちは、自分たちが大きな岐路に立っていることを感じた。
 艦からはなれることができれば、清国船で帰国できる望みがあるが、艦にとどまった場
 合は日本の土を踏みことはおぼつかない。
・話し合っているうちに、彼らは艦長に無断で脱出する以外にないという意見に傾いた。
 「時間がたてばたつだけ、おれたちに対する警戒がきびしくなる。今夜、この軍船から
 こっそり脱け出そう」 
 清太郎が、結論を下し、その方法を口にした。  
・ブキャナンは、九人の水主の脱出が乙吉の指示によるものと考え、捜索する乗組員をま
 ず乙吉の家にさしむけるはずであった。
 そうしたことから考えて乙吉のもとに直接おもむくのは危険で、上陸したら少人数ずつ
 にわかれて町の中に身をひそませ、三日後の深夜、乙吉の家に言って合流しよう、と話
 し合った。 
・日が没し、彼らは夕食をとった。
 彼らは、手廻りの物をまとめ船室の身代に身を横たえた。
・不意に物音がし、水主たちは顔を見合わせた。
 あきらかに機関の始動する音であった。
 艦では時折り蒸気機関の試運転をするので、それかと思ったが、両舷側に取り付けられ
 た外輪がゆるやかにまわりはじめる音がしている。
 「出船だ」
 水主の一人が叫んだ。顔色を変えた清太郎がはね起きると、無言であわただしく船室を
 出て行った。 
 やがて戻ってきた清太郎が、
 「南京に戦さ見物に行くのだそうだ」
・戰さとは、「太平天国の乱」と称する戦乱で、上海でも反乱軍が攻め込んでくるのでは
 ないかという噂がながれ、騒然とした空気がひろがっていた。
・水主たちは、失望した。
 深夜ひそかに艦から脱出しようとしたが、艦が動きはじめてはどうにもならない。
・南京に近づくにつれて、岸の知覚にあきらかに軍船と思える無数の船を眼にするように
 なった。   
 華やかな色の幟や旗が立てられ、剣をふりあげたり拳をこちらに向けて突き出したりし
 て威嚇する兵たちの姿も見えた。
 艦は停止し、ブキャナン艦長をはじめ士官たちは望遠鏡をそれらの軍船に向けていた。
・ブキャナンがどのような判断をしたのか、艦は南京の手前で反転し、揚子江を下り始め
 た。 
 清太郎は、乗組員に艦の行先をたずねると、上海に戻るのだという。
 それを聞いた水主たちは喜んだ。
・艦は、揚子江を下って上海に帰港し、錨を投げた。
 それを陸岸から見ていたらしく翌朝、乙吉が小舟でやってきて、甲板にあがってきた。
 彼は、ブキャナン艦長に再び談判すると言って、清太郎を伴って艦長室に行った。
・乙吉は、ブキャナンに贈り物を渡し、流暢な英語で交渉した。
 水主たちは、「永力丸」で漂流中、アメリカ船に救出されて死をまぬがれ、されに軍艦
 で清国まで送られた。  
 そのアメリカの側の恩情に、彼らは心から感謝している。
 上陸も自由な彼らが、そのまま脱出しようと思えばできるが、それをしないのはアメリ
 カ側の好意をふみにじることになると考えているからだ。
 「カレラニ対シテ少シデモ同情ノ気持ガアルナラ、希望通リカレラヲ開放シテヤッテ欲
 シイ」
 乙吉は、切々と訴えた。
・ブキャナンは、ペリーが漂流民を連れて日本へ向かう予定だということを繰り返し、
 要請を拒否した。
 乙吉は、人道的にも彼らを艦に拘束するのは好ましくなく、仁慈の心をもって彼らの望
 みをかなえてやるべきだ、と執拗に懇願した。
・そのうちにブキャナンは口をつぐみ、しばらくの間思案するように舷窓の方に眼を向け
 ていた。 
  乙吉の熱情をこめた訴えに心を動かされたようであった。
・やがて乙吉に顔を向けたブキャナンは、
 「ヨロシイ。開放スル。タダシ仙太郎ノミハ艦ニ残ス。ソレヲ条件ニ他ノ八人ノ下艦ヲ
 許可スル」
 と、言った。
・乙吉は、仙太郎一人だけを艦に残すのが哀れで、全員を解放してやってほしい、と重ね
 て要請した。 
 「私ハ最大限ノ譲歩ヲシタ。ソレヲ受ケ入レヌト言ウナラ、コノ話ハナシニスル」
 ブキャナンは、声を荒げた。
・憤りに顔を朱に染めたブキャナンにこれ以上要請するのは無理と判断した乙吉は、ブキ
 ャナンの言葉を了承した。 
 ブキャナンが仙太郎を残留させようとしたのは、水主の中で最も若く、それに料理作り
 が巧みであるからにちがいなかった。
・水主たちは、乙吉が表情をこわばらせて口にするブキャナンとの話の結果に耳を傾けた。
 「仙太郎にはまことに気の毒だが、これがぎりぎりの線だ。仙太郎一人この軍船にとど
 まることになるが、いつかは帰国の手立てが必ず見つかるだろう。軍船は、やがて日本
 に向かい、その折には日本側に引き渡されるかもしれない。幸運に恵まれるよう神仏に
 祈願している」
 乙吉は、仙太郎に言いにくそうな口調で言った。
・彼は、他の水主たちを見回すと、
 「船将の気持ちが変わらぬうちに、八人はすぐに私とともに上陸する。手廻りの物を持
 ってくるように・・・」 
 と、あわただしく言った。
仙太郎は、顔に血の気を失わせて立ちすくんでいる。
 水主たち医は視線を落とし、口をつぐんでいた。
 「早くするんだ」
 乙吉が、声を荒げた。
 その声に、水主たちは重い足どりで船室に通じる通路のほうに歩いて行った。
・一人残った仙太郎は、身じろぎもせず立っている。
 乙吉は、視線をそらせていた。
 やがて、水主たちが手荷物を持って甲板に戻ってきた。
 誰の顔もひきつれている。
・一人が乙吉に近づき、
 「仙太郎を連れて行けぬのですか」
 と、哀願するように途切れがちの声で言った。
 「船将との約束だ。堪えてほしい」
 乙吉は、強い口調で答えた。
・彼らは、たたずむ仙太郎に顔を向けた。
 仙太郎の顔はゆがみ、眼に涙が光っている。
 不意に彼は背を向けると、中は走るように船室に通じる通路の方に入って行った。
 水主たちの間から、嗚咽の声が起こった。
 「さ、行くぞ」
 乙吉が声をかけ、舷側の縄ばしごのほうに歩いて行った。
 

・イギリスの支配下にある上海の町は、騒然としていた。
 南京を占領した太平天国の反乱軍が、上海を攻め寄せてくるという説がしきりで、イギ
 リス人の城将マンレインは城に四千の兵とともに立てこもり、石火矢二百五十挺を備え
 ていた。
・八人の水主たちは、乙吉の家に行って十二人になり、反乱軍に備えて乙吉から斧や槍を
 渡され、家の警戒にあたった。
 乙吉は、反乱軍が攻め込んできた折には、用意の小舟で海上に逃れるように、友指示し
 ていた。
・そのうちに反乱軍が上海を攻め込んでくるという話は、反乱軍が故意に流した噂で、軍
 は北京方向に向かったという情報が入り、ようやく動揺も静まった。
・五月四日、上海の港にアメリカ国旗を掲げた蒸気艦が入港してきた。
 多くの砲を装備した「ミシシッピー号」であった。
 上海の町には、その艦に日本へ遠征する使節ペリーが乗っていて、ペリーがすぐに東洋
 艦隊旗艦「サスケハナ号」に移乗したという話が伝えられた。
・「サスケハナ号」に乗ったペリーは、日本側との談判に利用しようとした漂流民が仙太
 郎一人を残して上陸したことを知り、甚だ不機嫌になった。
 当惑したブキャナン艦長は士官を乙吉宅におもむかせ、十二人の水主全員を艦に戻して
 ほしいと要求したのだという。  
・「一旦解放した者たちを軍船に帰させることはできない、とはねつけた。ところがアメ
 リカ士官は、ペリー使節の随行者にウイリアムズという者がいて、少しに日本語を話せ
 るので二、三人をしばらくの間軍船によこしてくれ、と申し出た」
 「しばらくの間などとは、偽りだ。軍船におもむいたりすれば、そのまま拘束される。
 それで私は、水主たちは二度と軍全へは行きたくないと申している、と言って拒絶した」
 と乙吉は言った。
 水主たちは、目元をゆるめた。
・翌日、「サスケハナ号」の士官が、再び従兵を連れて乙吉の家を訪ねて来た。
 水主たちは、家の奥に身をひそませていた。
 「今度は私に日本へ同行してくれぬか、と言いに来た。私が英語を操れるので、日本側
 との談判の通弁をしてほしいというのだ。そして、もしも帰国したいという望みがある
 なら日本側に引き環田主用努力する・・・と」
 「私には仕事があり、到底そのような余裕はない、と突っぱねた。何をたくらんでいる
 か。油断はならない。もうこれでやってくることはあるまい」
 水主たちの顔には、ようやく安どの色が浮かんだ。
・水主たちは、改めて乙吉に帰国したいという強い希望を伝え、力を貸してほしいと訴え
 た。 
 乙吉は承諾し、親しくしている上海城の城将マンレインのもとに彼らを連れて行った。
・マンレインの大きな部屋に入った乙吉は、贈り物を渡してよどみない英語で水主たちの
 身の上を話し、日本へ帰れるよう力を貸してほしい、と言った。
 同情したマンレインは、上海に入港してくるイギリス船で日本へ送り帰してやる、と言
 ったが、乙吉は、日本側が受け取りを拒む恐れが十分あると考え、それを拒絶し、長崎
 へ行く清国の交易船に乗せてやりたいのだ、と言った。 
 マンレインは素直に諒承し、役人を付き添わせて水主たちを乍浦に送り届けることを約
 束してくれた。
・水主たちは、いつでも出発できるように準備を整え、マンレインからの連絡を持った。
 乍浦には役所があって、交易船に乗る許可を得なければならないが、水主たちにそれが
 できるはずはなく、乙吉が妻を連れて同行することになった。
・乙吉は、役人とともに上陸して役所に向かった。
 漂流民を連れてきた理由を説明するためであった。
 やがて乙吉がもどってくると、それを追いように清国の役人がやってきた。
 役人は、
 「ほどなく迎えにくるから、しばらくの間待っているように・・・」
 と、言った。
・驚いたことにそれは長崎訛りの日本語で、交易船でしばしば長崎へ行っている交易事務
 に携わっている役人のようであった。 
 水主たちは、改めて乍浦が長崎とむずびついている港町であるのを感じ、眼を輝かせた。
・乙吉は、
 「あなたたちの身柄は、長崎へ行く唐船の船主に託された。六月か七月頃に船が出帆す
 る手はずだという。それに乗って日本へ帰りなさい」
 と言った。
・水主たちは、乍浦の会所から一歩も外へ出ることもなく過ごしていた。
 部屋の外には番人がいて、あたかも牢屋に閉じ込められたようであった。
 食事が粗末であるのに、一同辟易した。
 朝夕二食で、米飯を出してはくれるが、質が極めて悪い。
 それに、副食物も油をいせて煮たものばかりで悪臭がし、大いに困惑した。
・水主たちは、日本語に通じている役人が姿を見せるたびに、いつ船が出るかをたずねた。
 役人は、「程なく・・・」という言葉を繰り返していたが、六月に入ると、
 「当年は船を出さぬことになった」
 と、言った。
・水主たちは、口をきけぬほど落胆した。
 船が出ないならば乍浦などに来ることはせず、食事をはじめ待遇の良い乙吉方に世話に
 なって、来年になってから乍浦に来た方がよかった。
・十月に入ったある日、役人が十七人の日本人漂流民が乍浦に送られてきたと言うことを
 口にし、その日の夕方、日本の衣類を着て丁髷を結っている男たちが部屋に入ってきた。
 当然、船乗りたちと思っていたが、以外にも船乗り以外に大小刀を腰に帯びた武家もい
 た。武家たちは薩摩藩士であった。
・藩士たちは、藩名を受けて平左衛門を船頭とした船に乗って鹿児島を発して琉球(沖縄)
 におもむいた。 
 その地で用事も済ませて琉球を出て鹿児島に向かったが、途中、暴風に見舞われて帆柱
 が折れ、激しい東風に吹き流されて揚子江河口付近に漂着した。
 保護された彼らは役人に付き添われて蘇州へ送られ、その地に六十日ほど滞留した。
 その間に瘧(マラリア性の熱病)にかかって二人が死亡し、十七人になった。
 彼らは帰国を強く希望したので、乍浦に送られてきたのだという。
・その年の暮れに、薩摩船の水主が風邪がもとで死亡した。
 日本語を話せる役人が来て、長持ちのような箱を渡してくれた。
 薩摩線の水主たちは、遺体をそれにおさめ、涙を流しながら会所の外に運び出した。
・葬列は町の中を過ぎ、丘を登ると、頂に多くの小さな墓石がはらんでいる墓地があった。
 清国人が穴を掘り、柩をおろして土をかぶせ、石をのせた。
 近くに天尊寺という票札の出ている寺があり、一同、そこへ行って百文のお布施を差し
 出した。
 億から僧が出てきて墓所へ行き、木魚を鳴らして読経してくれた。
 僧は鼠色の衣服をつけていて、日本の僧と少しも変わりはなかった。
・嘉永六年(1853年)が暮れ、元旦に、思いがけず乙吉夫婦が会所に姿を見せた。
 「永力丸」の漂流民が清国の交易船で長崎に向かったという話がないので、心配してき
 てくれたのである。  
 二度と会えぬと思っていただけに、「永力丸」の水主たちは涙を流して喜び、改めて乙
 吉夫婦の心優しさに感謝した。
・彼らにとって気がかりであったのは、「サスケハナ号」にただ一人残してきた炊の仙太
 郎であった。
 それをたずねると、乙吉は、使節のペリーが蒸気艦の「サスケハナ号」「ミシシッピー
 号」と帆走艦を従えて上海を出港し、昨年の六月に日本の浦賀に着いた。
 四隻の軍艦を迎えた日本側は打ち払うどころか、平穏に応接したという。
・仙太郎が「サスケハナ号」に乗っていたことはまちがいないが、日本側に引き渡された
 かどうかは知らない、と乙吉は言った。 
 さらに、上海城が昨年八月に太平天国軍の攻撃を受け落城したが、市民に危害を加える
 ことはなかった、とも言った。
・薩摩藩の武士たちは、帯刀はあずけてあったが、常に会所の者を威圧するような態度を
 とっていて、公金状態にあることに不満をいだき、二月に入ると、
 「一同、ついて来い。町に行く」
 と言って、会所を出た。
 番人たちは恐れをなして制止もせず「永力丸」の水主たちも武士について町を歩きまわ
 り、夕方に会所に戻った。
・乍浦の中心街の道は石畳で、家々は瓦葺きであった。
 江戸で作られていた錦絵、団扇などを売っている商店もあり、乍浦が長崎に通じる港で
 あるのを実感として感じた。 
・清国では女性の足が小さく細いのをよしとする纏足の風習があり、上流階級の女性は自
 分で歩くこともできず、両側から召使に支えられて歩いているのをしばしば眼にした。
 そのような女性は二、三歳ころから絹布で足をかたく縛りつけ、成人に達するまで外さ
 ず足の成長を止めるのだという。
・二月の夕方、いつのまにか岩吉の姿が見えなくなっているのに気づいた。
 書置きが残されていて失踪したことを知った。
 書置きには、いつまでたっても帰国の当てはなく、食物も粗末で病死する恐れがあり、
 イギリス人にでも雇われて帰国の道を探る、と記されていた。
・清太郎は長助と相談し、世話をしてくれている唐船の船主の番頭二人にそれを告げた。
 番頭は、選手に伝えたものの乍浦の役所には届けなかった。
・時折り役人が来て点検していたが、岩吉の姿が見えないことに気づいた。
 役人から報告を受けた役所はきびしい取り調べをし、届け出を怠った二人の番頭を捕ら
 えて投獄し、さらに船首に対して岩吉を探し出すよう命じた。
 船首は、八方に人を派して探らせ、ようやく岩吉が上海のイギリス人経営の商会に雇わ
 れているのを知った。
 しかし、大きな権限を持つイギリス人の保護下にある岩吉を連れ戻すことはできず、
 困惑した船首は、すでに岩吉が病死していたと偽って役所に届け出た。
 役所では二人の番頭に百たたきの刑を科し、その件は落着した。
・五月に入ると、今年の夏に二艘の交易船が長崎へ行くという話が伝えられ、一同大いに
 喜んだ。 
 六月に役人が来て、薩摩の業流民と「永力丸」の水主たちをそれぞれ別の船に乗せて長
 崎へ向かうと告げた。
・七月朝、武士を含む薩摩の漂流民は、役人の指示で「豊利号」という交易船に乗るため
 会所を出て行った。
 「永力丸」の水主たちは、自分たちが乗る交易船が「源宝号」という船であるのを知っ
 た。
・気がかりなのは、安太郎であった。
 三日の夜からマラリアの症状があらわれ、悪寒とともに高熱を発し、強い発汗によって
 解熱することを繰り返していた。
・長崎言葉を話す通事が同行していて、薩摩の漂流民を乗せた「豊利号」はその日の早朝
 に出帆したと言った。 
・翌々日、順風を得て「源宝号」は乍浦を出帆した。
 乍浦を出帆して八日目の夕方から天候が悪化した。
 翌日は、風雨がさらに激しく、船は激浪にもまれるようになった。
 夜も海は荒れに荒れ、翌朝、東の方向に陸影が見えた。
 水主たちは、それを見つめた。船の進行方向から見て、故国にちがいなかった。
 乗組員他の動きがにわかにあわただしくなり、船は、波にもまれながら陸影に舳先を向
 けた。
・「源宝号」が辛うじて滑り込んだのは、薩摩藩領の羽島の港であった。
 突然の唐船の入津に、羽島は騒然となり、浦役人が早馬を鹿児島の藩庁に走らせた。
 直ちに薩摩藩から外事掛の役人その他が出張してきて、小舟で唐船に乗りつけて来た。
 役人は、「源宝号」が荒天で羽島に避難したいきさつをただし、また、「永力丸」漂流
 民十一名が乗っていることも確認した。
・「永力丸」の水主たちは、薩摩藩の役人にマラリアにかかった安太郎を治療して欲しい、
 と懇願した。
 安太郎を診察した医師は、病気が甚だ重く自分の手には到底負いかねると言って、秀れ
 医者が多くいる長崎で十分な治療を受けるようにと勧め薬を与えてくれることもせず下
 船していた。
・翌日になるとようやく天候が恢復し、次の日の朝には順風になったんで、浦役人の指示
 で「源宝号」は皆との外に出た。
 帆に風をはらんで北上し、肥後国天草諸島の大江に入った。
 翌日出船した五島列島の椛島沖に潮かがりをしたが、投錨してまもなく安太郎が息を引
 き取った。
 明日は長崎入港が予定され、それを目前に死亡した安太郎が哀れであった。
・役所つきの医師によって健康診断がおこなわれたが、十人中、浅右衛門、甚八以外はす
 べて病におかされている、と診断された。 
 ことに京助はかなり重症の脚気で、医師が入念な治療を行った。
・揚がり屋で病臥していた京助の病状が悪化し、息を引き取った。三十六歳であった。
・役所では、水主たちを一日も早く故郷に帰してやりたいと考え、それぞれの生地を支配
 下におく各藩に連絡を取り、引き取りに来るよううながした。 
・初めに長崎へ水主引取りにやってきたのは、鳥取藩士の村瀬弥兵衛であった。
 長崎に宿をとった村瀬は、役所に行って過去の与太郎三十一歳に引き合わされた。
 与太郎は、鳥取藩領の伯耆国(鳥取県)河村郡長瀬村の出身で、村瀬は引取りのすべて
 の手続きをすませ、与太郎を伴って長崎を去った。
・五日後、姫路藩の奉行下役赤石熊八が、小役人や村庄屋ら究明を連れて長崎に着いた。
 彦蔵と同郷の浅右衛門三十八歳、清太郎三十二歳、甚八四十三歳、喜代蔵三十七歳は、
 いずれも姫路藩領内の出身で、それぞれの村の庄屋たちが同行してきたのである。
 長崎に唐船が入津前日病死した安太郎は、清太郎らと同郷であったので、一同そろって
 埋葬されていた大音寺の墓前に行き、香華を手向けた。
 彼らは赤石にともなわれて姫路へ向かった。
・徳兵衛三十四歳、民蔵二十九歳もそれぞれの生地の藩士とともに故郷に去り、
 長助五十二歳と幾松四十一歳のみが残った。二人は同じ摂津の国(兵庫県)の生まれで
 あった。  
・一月に長助の故郷の神戸村の庄屋与兵衛と幾松の生地二つ茶屋村の年寄弥三兵衛が連れ
 立って長崎に来て、ようやく二人は長崎を離れて行った。
・故郷に帰った水主たちは、奇異な体験をした者として珍しがられ、しばしば各方面の人
 に招かれて漂流した折の話をし、謝礼の物品を受けたりした。
 その体験談を記録させる藩もあった。
 ことに彼らが輸入される洋書でしか知ることのできないアメリカの地を踏んだことに、
 出身地の藩は大きな関心を寄せた。
・伯州(鳥取県)河村郡長瀬村出身の水主与太郎(利七)の場合もその例にもれず、鳥取
 藩に招かれて詳細に難破のいきさつ、サンフランシスコから清国へ送られ長崎に帰るま
 での事情を述べた。  
 それは藩士奥多昌忠によって「長瀬村人漂流談」として記録された。
・与太郎は、日本人が乗ったことのない蒸気船に乗り、さらに水主としてその船を細かく
 観察していたので、藩は彼を藩校尚徳館の小吏に任じ、苗字帯刀を許して佐伯文太と改
 名させた。
 藩主の「池田慶徳」は、水戸藩主「徳川斉昭」の子で海外事情に強い関心をいだいてい
 たので、吉岡温泉に湯治の折、与太郎を招いて漂流談とともにアメリカ、清国の事情を
 聴取した。それは藩士である儒者堀庄次郎によって「漂流記談」としてまとめられた。
・彦蔵と同郷の水主浅右衛門、清太郎、甚八、喜代蔵は、姫路藩の奉行下役赤石熊八らに
 付き添われて、安政元年十二月に姫路に着き、浄化の宿屋に入った。
 郷里の苦心、親族らが賭けつけ、涙を流して喜んだ。
 その間、藩では事情聴取を繰り返し、それも一段落して、翌二年二月中旬に彼らは帰村
 した。 
・生還した「永力丸」の水主九名は、それぞれ故郷にもどったが、彼らには、きびしい制
 約が課せられていた。 
 鎖国政策にもとづいて、彼らは漂流の体験は口にしてもよいが、異国の地についての話
 を一般人にすることは一切禁じられた。
 また、再び異国の地におもむくことのないよう船に乗って海に出ることも厳禁された。
 これは、船乗りの仕事しか知らぬ彼らには生活上の重大問題で、彼らは生計を確保する
 ため仕事探しに歩きまわらねばならなかった。
・清太郎も途方にくれていたが、その年の四月下旬、彼のもとに、姫路藩士として国学寮
 教授の任にあった「秋元安民」から一通の書状が届けられた。
 内容は、学友の一色見龍その他が清太郎たち漂流民から異国事情を聞きたいと言ってい
 るので姫路に来るようにというので、路銀として二朱銀が添えられていた。
 秋元は国学者であったが、江戸に出中洋書に親しみ、西洋の文物に強い興味をいだいて
 いた。
・清太郎は、浅右衛門、甚八、喜代蔵とともに姫路へおもむき、秋元に会った。
 彼らは、秋元に連れられて藩校に行き、待っていた一色見龍にアメリカの事情、乗った
 帆船、蒸気船の構造などについて話し、菅生信胤が筆記した。
 五カ月を要して聞き書きが成り、「東西異聞」と題された。
・清太郎たちは謝礼を下賜されて帰村したが、二カ月後の十一月、再び秋元から清太郎の
 もとに書状が届けられた。
・幕府は、欧米の艦船が日本近海に出没することに危機感をいだいていて、洋式軍艦の必
 要性を痛感、二年前の嘉永翌年五月に薩摩藩の要請を入れて大型洋式軍艦「昇平丸」を
 起工させた。
・その一ヵ月後、ペリーにひきいられた四隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航して開国をせま
 り、幕府は近代海軍の創設を緊急課題として、それまで諸藩に課していた大船建造禁止
 令を解いた。
 それによって、まず幕府は大型洋式軍艦「鳳凰丸」を翌嘉永七年五月に竣工させた。
・また、日露外交折衝のため来日したプチャーチン座乗のロシア艦「ディアナ号」の座礁
 沈没によって、伊豆国戸田村で、洋式帆船が君沢型として建造され、その年の安政二年
 完成していた。
・このような気運の中で、秋元は、西洋式帆船の建造の必要性を感じ、藩主「酒井忠顕
 に建造を建言した。
 忠顕は、西洋式軍備の編成に熱意をもっていたので、秋元の建言を即座にいれた。
・秋元は、西洋式帆船の知識を洋書によって得ていたが、船乗りとしてアメリカの帆船に
 乗っていた清太郎の経験を活用したいと考え、手紙の筆をとったのである。
・清太郎たち四人は、ただちに姫路におもむき、秋元の指揮のもとに帆船建造に従事する
 ことに決定した。
 同時に彼らは苗字帯刀を許され、二人扶持それぞれ受ける身となった。
 清太郎は本庄善次郎、喜代蔵は濱本帰平、浅右衛門は山口洋右衛門、甚八は木村甚八と
 改名した。
 船の構造に最も詳しい清太郎が大工指図役、浅右衛門が材料買入役、甚八と喜代蔵が人
 足指図役に任ぜられた。
・秋元の所持する帆船建造の洋書にもとづいて、清太郎ら四人は室津で建造に取り組んだ。
 優れた船大工、鍛冶職人が多数集められ、鋭意工事が進められた。
 洋式帆船は、和船と構造上大きな差異があるので船大工たちは戸惑うことが多く、大工
 指図役の清太郎は彼らが納得するまで入念に説明することにつとめた。
 翌年末には基本工事を終え、安政五年を越えて最後の仕上げにかかった。
 その間、人足指図役であった甚八が病死した。
 工事は急速に進み、六月に竣工進水して「速鳥丸」と命名された。 
・藩船となった「速鳥丸」は、試し乗りを繰り返し、清太郎が船頭役、喜代蔵が表仕役、
 浅右衛門が舵取り役として江戸に初航海に出た。
 「速鳥丸」は清太郎らの指揮で船員たちは定めどおりに操船をし、無地江戸品川沖につ
 き、姫路に引き返した。その後、同船は明治四年までもっぱら江戸間を往復した。
・秋元は、藩主の許しを得て、「速鳥丸」より大型の洋式帆船の建造を企て、文久二年に
 清太郎らの協力のもとに起工、竣工させて「神護丸」と命名した。
 同船は文久四年一月、江戸に向けて初航海を試みた。船頭役は喜代蔵で、「神護丸」も
 性能が良く、明治時代に入っても航行をつづけていた。
 「速鳥丸」「神護丸」の船頭役は清太郎、浅右衛門、喜代蔵が交替でつとめ、彼らは洋
 式帆船の操船術に熟達した。
 「永力丸」の生還水主が海に出ることを禁じられていた中で、清太郎たちが藩に抱えら
 れて洋式帆船で公開をつづけていたのは異例のことであった。
・彼らは清国船で乍浦長崎に上陸後、奉行所では彦蔵、治作、亀蔵、仙太郎、岩吉につい
 て水主たちについて訊問している。
 その結果、トマスとアメリカに引き返した彦蔵、治作、亀蔵は「アメリカ商船ニテ出帆。
 行衛知レズ」、炊の仙太郎は「アメリカ船ニ居残リ、行衛知レズ」、失踪した岩吉は
 「欠落(失踪)後病死ツカマツリソウロウ」と、記録された。
 

仙太郎は、自分の若さを恨み、嘆き悲しんだ。
 彼は船室に閉じこもり、床に膝を抱えて座り頭を垂れていた。
 気づかった水兵が食物を持ってきても、ほとんど口にしなかった。
・水平たちは、仙太郎に同情してしきりに慰め、食事をとるようにすすめた。
 そのような水兵たちの熱心な態度に、仙太郎もようやく彼らの好意を受け入れるように
 なった。  
・漂流してアメリカ船に救出され清国に送られたのは自分の運命であり、一人艦に残され
 たのも宿命だ、と諦めた。
 これからは一人で自分の道を切り開いてゆかねばならぬ、と自らに言い聞かせ、
 名を仙八と改めた。
 水兵たちは、親愛の情をこめてサム・パッチと呼んだ。
・日本遠征の使節ペリーが、五月四日(嘉永六年三月)本国から蒸気艦「ミシシピー号」
 に乗って上海につき、ペリーは「サスケハナ号」に移乗した。
 「永力丸」の漂流民を日本側との交渉に利用しようとしていたペリーは、漂流民のほと
 んどが上陸したことを憤り、艦にもどすよう艦長ブキャナンに命じた。
 ブキャナンは、士官を乙吉のもとに派遣して交渉させたが効果はなく、ペリーも仙八一
 人を連れて行くことを渋々諒承した」
・「サスケハナ号」は、「ミシシッピー号」、帆船「サプライ号」とともに上海を出港、
 琉球の那覇におもむき、帆走船「サラトガ号」と合流した。
 艦隊は、小笠原諸島を測量視察後、那覇に戻り、日本に向かった。
・上海を出港後、仙八に積極的に接近してきた海兵隊員がいた。
 「ジョナサン・ゴーブル」で、彼は信仰心が篤く、バプテスト教会の宣教師になること
 を夢見ていて、将愛、日本で布教に従事する希望をいだいていた。
 彼は従順で賢い仙八に親愛感をいだき、日本布教に協力してもらおうと考えていたので
 ある。
・七月(嘉永六年六月)、蒸気艦「サスケハナ号」と「ミシシッピー号」は、それぞれ帆
 走船を曳いて江戸湾に入り、浦が東北方の海上に停止し、錨を投げた、
 浦賀は「永力丸」が最後に出帆した港で、仙八は、眼に涙を浮かべて浦賀の家並みを見
 つめた。
・仙八を恐れさせたのは、力松や乙吉たちが乗った「モリソン号」が追い払われたように、
 砲火を浴びせられることであった。
 そのような気配はなかったが、鉄砲、槍を手にした藩兵の乗る無数の小舟が各艦を取り
 巻いたことに、身の震えるような恐怖をいだいた。
・力松や乙吉が、自分たちは日本にとって罪人で帰国できる身ではないと繰り返していた
 言葉がよみがえり、甲板から日本の軍船を見るのが恐ろしく、艦内に身をひそませてい
 た。 
・ペリーがボートに分乗して水兵、海兵隊、軍楽隊ら三百人とともに上陸し、久里浜とい
 う地で談判を行なったことも知った。
 海岸には長々と陣幕が張られ、旗、幟も立てられていて、武装した多くの兵の姿が見え
 た。
 海上にもおびただしい軍船が浮かんでいて、仙八は今にも戰がはじまるのではないか、
 と身を震わせていた。
・江戸湾に入ってから十日目に、艦隊はつらなって湾外に出ると、外洋を西に向かって進
 んだ。 
 仙八は、これで故国の見納めかと思ったが、親しくなった海兵隊員のゴーブルは、
 「艦隊ハ、来年マタ江戸湾ニクル」
 と、慰めるように言った。
 ペリー艦隊は、琉球の那覇港に引き返し、香港、広東をへてマカオに言って碇泊した。
・ゴーブルの言ったように艦隊は、蒸気艦「ポーハタン号」、帆走艦「マセドニアン号」、
 「バンダリア号」の三隻を加えて再び日本へおもむく予定になっていて、年が明けると
 マカオを出港し、那覇を経て嘉永七年一月からぞくぞくと江戸湾に入った。
・艦隊は、湾内奥深く入って羽田沖に達した。
 それは日本側を威嚇する動きで、艦隊の威圧的な態度におそれをいだいた幕府は、横浜
 村で会談に応じた。
・その階段にともなう折衝で浦賀奉行所与力「香山栄左衛門」らの役人が、通詞をともな
 ってしばしば「サスケハナ号」に訪れたが、艦長のアダムスが香山に、サム・パッチと
 いう名で呼ばれている日本人が艦隊に所属していることを告げた。
・思いがけぬ話に、香山は大いに驚き、会ってみたいと言い、アダムスは、
 「二、三日中に要求に添うようにする」
 と、約束した。 
・香山の日記によると、仙八(サム・バッチ)に会ったのは二月七日(日本暦)で、与力
 の「中島三郎助」も同道して「サスケハナ号」おもむいている。
・香山は、姿を現した仙八について、
 「アメリカ風の衣服を相用い、頭亜h五分月代(断髪)にて、同国の風体(アメリカ人
 の身なり)」 
 と記している。
・仙八が、香山と中島と会った折のことについて「ペルリ提督日本遠征記」には、
 「約束によって、サム・パッチが連れ出されて、日本役人の面前に出された。
 彼はこの高官たちを見るか見ないうちに、明らかにまったく恐懼して直ちに平伏した。
 サムは祖国に到着すると生命が危険にさらされるだろうと述べているので航海中仲間の
 水主たちからしばしば笑われ、かれかわれていた。
 そしてこの哀れな奴は、たぶん最後のときが来たのだと思ったに違いない。
 アダムス艦長は、きわめて哀れ千万な恐怖をいだきつつ、四肢を震わせながらひざまず
 いている彼サムに膝をあげるようにと命じた。
 サムに対し自分がアメリカの軍艦にいるのであり、乗務員の一人としてまったく安全で
 あって、恐怖すべきものは何もないことを思い出させたのだったのだが、祖国の人の面
 前にいる間は気を取り直させることが出来ないとわかったので、まもなく立ち去らせた」
 と、記されている。
・ペリーに随行していた主席通訳官のウイリアムズの「ペリー日本遠征随行記」にも、こ
 の折のことについて、 
 「サム・パッチが彼(香山栄左衛門)に引き合わされて、身元について二、三の質問が
 行われた。哀れなこの男は、恐怖にふるえおののいて、何をしたらよいか、またどう振
 舞ったらよいか、ほとんど見当もつかない有様だった。
 甲板で平伏した彼は、支離滅裂な言葉をもぐもぐさせるばかりで、立ち上がることが出
 来ず、平生にはお目通りかなわぬ高い身分の栄左衛門の、厳しい眼光に射すくめられて
 脅えていた」
 と、記されている。
・「支離滅裂な言葉をもぐもぐさせるばかり」とがるが、仙八は、香山の質問に答えてい
 て、日本側の記録に、
 「生国安芸国(広島県)広島にて、生年二十三歳、倉蔵と申す者」
 と記され、「永力丸」乗組みの炊として難破漂流中にアメリカ船に救けられサンフラ
 ンシスコに上陸、清国に送られて水主の中でただ一人この軍艦にのこされたいきさつが
 書き留められている。
・仙八には、十六年前の天保八年に「モリソン号」に乗って日本に来ながら砲撃を受けて
 追い払われた力松、乙吉らのことが、頭にこびりついていたにちがいない。
 日本にとって力松らは、国法をおかした重罪人で、そのため火力によって追い払われた。
 武装もしていない商船「モリソン号」に乗っていた力松たちがそのような扱いを受けた
 ことから考え、大規模な武装をした軍艦に乗ってきた自分は、断じて許しがたい罪人と
 見なされていると考えたのだろう。
 そのため、彼は、恐怖のためか山と中島の前でただ平伏して体を震わせていた。
 倉蔵という偽名を口にしたのも、累が故郷広島の肉親、縁者に及ぶことを恐れたからで
 あった。
・むろん、仙八は、故国日本に帰りたく、故郷に戻るのを夢見、それが唯一の悲願であっ
 た。
 しかし、彼は、日本側に引き渡されれば極刑に処せられることは確実と考え、それを恐
 れて香山たちの前で平伏し、体を震わせていたのである。
・アダムス艦長をはじめ士官たちは、役人の前で示した仙八の態度に驚いた。
 仙八は水兵の一人として月に九ドルの俸給を与えられている身で、その恐れおののく姿
 は、艦隊の威厳を著しく損なうものと考え、早々にその場を去らせたのである。 
・アメリカ艦隊は江戸湾を出て下田に入港し、一部は箱館にむかった。
 下田に出張してきた主席通詞の「森山栄之助」は、艦隊の通訳官「ポートマン」に仙八
 を引渡してほしい、と申し入れた。
・仙八に対する艦隊側の態度は一貫していて、サム・パッチ(仙八)が望むなら日本側に
 引き渡すが、それには幕府が決して処刑しないという誓約書を提出することを条件とし
 ていた。
 森山は、処刑などするはずはなく、気の毒な身の上なので故郷に帰してやりたいだけな
 のだ、と力説した。
・翌日、森山は、下田奉行所の役人とともに艦に行った。
 ポートマンは、
 「サム・パッチノ考エ次第」
 と、重ねて念を押し、仙八を甲板に連れて来た。
 仙八は、またも平伏し、体をふるわせた。
・森山は、仙八のかたわらにしゃがみ、
「時勢は変わったのだ。罰せられることなど決してない。親兄弟が待つ故郷へ帰りなさい」
 と、じゅんじゅんと説いた。
 仙八は、額を甲板にすりつけ、顔も上げない。
 「アメリカ艦隊は、日本側にあなたをすぐにでも引渡すと言っている。これから私たち
 と奉行所の船に乗って上陸しよう」 
 森山は、穏やかな口調で言った。
・仙八は、平伏したまま急に後ずさりして首を激しくふった。
 「どうしたのだ。恐れることはない」
 森山がさとしたが、仙八は体をふるわせ首をふり続けている。
 傍らに立って仙八を見下ろしていたポートマンが、
 「上陸シタクナイト拒ンデイル。無理強イヨシテハイケマセン」
 と、言った。
 森山は仕方なく立ち上がり、憐れみをこめた眼で仙八を見つけた。
・アメリカ艦隊は、三日後に下田を離れ、那覇を経て広東に帰着した。
 任務を終えた各艦は、それぞれ清国を離れてアメリカ本国に戻った。
 ニューヨークに上陸して除隊した海兵隊員ゴーブルは、仙八を伴って故郷のウェンに行
 った。
・ゴーブルは、ウェンからニューヨーク州はハミルトンに移り、宣教師になるためバプテ
 スト系のマジソン大学に入り、仙八も入学させた。
 しかし、英語の未熟な仙八は授業についてゆくことが出来ず退学し、結婚したゴーブル
 の雇人としてすごした。
 その間に、彼はゴーブルのすすめでハミルトン・ファーストバプテスト教会でH・ハー
 ヴェ牧師のより日本人として最初の洗礼を受けた。
・1859年(安政六年)、ゴーブルは宣教師として日本伝道を命じられ、仙八を伴って
 ニューヨークに行き、「バルチック号」でニューヨークを離れた。
 サンフランシスコ、ハワイを経て「ゾウイ号」に乗っての本に向かい、1860年4月
 (安政七年)横浜についた。
 八日前に大老井伊直弼があんさつされた桜田門外の変が起こっていて、国内は騒然とし
 ていた。 
・仙八の上陸に際してその国籍が問題となり、アメリカ領事館と金輪環奉行所の間で折衝
 が行われ、アメリカ側の人間とされることで決着を見た。
 処刑されることを極度に恐れていた仙八は、アメリカ人であれば問題はなく、ようやく
 落ち着きを取り戻した。
・断髪をし洋服を着ていた彼は、アメリカ人を装って決して日本語を口にせず、サムパッ
 チという名で終始した。
 彼は、ゴーブル一家とともに成仏寺を宿所とした。
・その寺に、来日した改革派教会のバラ夫妻が住み、仙八はゴーブルから離れてバラの雇
 人となり、調理を受け持った。
 その後、バラとともに横浜村居留地に移り、さらにバラ夫人に従って、1866年(慶
 応二年)三月、アメリカに戻った。
・バラ夫人は、静岡学問所の教授として招かれている「ウォーレン・クラーク」に仙八を
 引き合わせ、仙八はクラークに従って明治三年に日本へ引き返した。
・クラークは仙八と蓮永寺に住んでいたが、駿府城の敷地内に二階建ての洋館を建てて移
 り、仙八は隣接した平家を居住とした。
 彼がクラーク夫妻と別の家屋に住んだのは、妻帯したからであった。
・クラークと仙八は、主人と雇人というよりは友人に近いものであった。
 仙八はクラークの身の回りの世話をして快適な食事をととのえ、クラークは妻とともに
 仙八に親愛感をいだいていた。 
 仙八のために一戸建ての家を建てたのもそのあらわれであった。
・明治六年十二月、クラークは仙八夫婦を伴って東京に移り、開成学校の理化学教授に就
 任した。 
 その頃から仙八は、罹病率の高かった脚気におかされ、翌年はクラークのすすめで外国
 人医師の多く勤務している東京府病院に入院した。
・クラークは、夫人とともに京都旅行に出発したが、仙八はその旅行中に病院から脱け出
 してクラークの留守宅にもどった。
 生真面目な彼は、クラーク夫妻が旅行から戻る前に家の内部を整頓しておこうとしたの
 である。 
・旅から戻ったクラークは驚き、すぐに仙八を再入院させたが、病状は悪化していて、
 心臓に重大な障害の起こる脚気衝心の重症患者になっていた。
 クラークは、しばしば仙八を見舞ったが、危篤におちいり、息を引き取った。四十三
 歳であった。

十一
・1852年(嘉永五年)十月、彦蔵は、亀蔵、治作とともにトマスに連れられてイギリ
 ス船「サラー・フーバー号」に乗って香港を離れた。
 彦蔵十五歳、亀蔵二十四歳、治作二十九歳であった。
・老朽船の「サラー・フーバー号」の船脚は遅く、海が荒れると悲鳴を上げるように船は
 きしみ音をあげた。
 べた凪さになると、船はとまり、潮流に乗って流された。
・船は、五十日間の航海の後にサンフランシスコに入港した。
 港内に碇泊すると、トマスは、彦蔵に手荷物の番をするようにと言って亀蔵と治作を連
 れ て上陸した。 
 彦蔵は、そのまま船に残されるのではないかと気がかりであったが、三時間ほどしてト
 マスたちがもどってきた。
・トマスの話によると、波止場につながれている税関の監視船「フロリック号」に、顔見
 知りのカーソン大尉とウィルキンソン大尉がいるのを知り、会って話し合った。
 両大尉は、彦蔵たちが漂流中救出された「オークランド号」からサンフランシスコで乗
 り移った税関監視船「ポーク号」の士官たちで、亀蔵、治作との再会を
 ひどく喜んでくれたという。
・大尉たちが船長に話をつけてくれて、彦蔵は「フロリック号」の雑用ボーイとして雇わ
 れた。
 ただし給料はほとんど与えられず、それでも彦蔵は、調理名での下働きや船具の整理な
 どに一身に働いた。
・十二月中旬の夜明けに、彼は、船が異様な揺れ方をし甲高い人の声がしているのに気づ
 いて、寝台からとび起きた。
 思いがけず、船は帆を開いて港口に向かって進んでいる。
 彦蔵は狼狽し、ウィルキンソン大尉のもとにいって、船はどこに行くのか、とたずねた。
 大尉は、
 「モンタレイ」
 と答え、船長が、柵や港の税関長からモンタレイに行くよう命じられたので出港したの
 だと説明した。
 彦蔵は、不安になった。
 船はこのままサンフランシスコに帰港せず、トマス、亀蔵、治作にも会えなくなるので
 はないか、と思った。
・彦蔵は、堪えきれずウィルソン大尉に、
 「コノ船ハ、サンフランシスコニ戻ルノデショウカ」とたずねた。
 「モチロンダ」
 大尉は、彦蔵がなぜそのようなことを聞くのか、といぶかしそうに答えた。
 彦蔵は、その言葉にようやく落ち着きをとりもどした。
・船はサンフランシスコにもどった。
 波止場に着船すると、それを見ていたらしいトマスがすぐに船にやってきた。
 トマスの顔を見つめた彦蔵は、「フロリック号」に乗っていれば、どこへ連れて行かれ
 るか不安でならず、
 「コノ船カラ下リタイ」
 と言った。
・トマスは、表情を曇らせた。
 亀蔵は月給六十ドルで測量船「ユーイング号」に、治作は七十ドルで税関監視船「アー
 ガス号」にそれぞれコックの職を得たが、彦蔵の働き口はまだ見つからないという。
 「実は、持ッテイタ金ヲホトンド使イ果タシタ。ヒコ(彦蔵)を上陸サセテモテベサセ
 ルコトガデキナイ」
 トマスは悲しげな表情をすると、食を見つけるまでもう少し船にいてくれ、と懇願する
 ような眼で言った。
 「ヨクワカリマシタ」
 彦蔵はうなずき、下船してゆくトマスを見送った。
・強くならなければいけない、と彦蔵は思った。
 運命のままにアメリカへ来たが、ここには頼るべき親も親類もいない。
 仲間をとおい清国に残してきた自分は、そのときから一人生き抜く定めにあったのだ。
 頼れるのは自分だけであり、他人の助力を期待してはならない。
 与えられた環境を素直に受け入れ、悩むことなくたくましく日々を過ごさねばならない、
 と自らに強く言いきかせた。
・彦蔵は、雑用ボーイとしてこまめに働いた。
 日本では口にしたこともない牛や豚の肉も食べ、臭いの位であったバターもパンに塗る
 ようになった。 
・気温がゆるみ、陸岸に春の花が見られるようになった。
 その頃、カーソン大尉、ウィルキンソン大尉をはじめ士官たちと船長の間で、彦蔵の給
 料のことで諍いが起こるようになっていた。
 士官たちは、アメリカ人夜もよく働く彦蔵がほとんど無休であるのは不当であり、働き
 に応じた報酬を支払うべきだと主張した。
 が、船長は、それに応じる風はなかった。
・士官がさらに要求すると、船長は、非子が仕事はするが片言の英語しか話せず、食べさ
 せてやるだけでもありがたいと思え、と言った。 
 これを聞いた両大尉は激怒し、使い者を出してトマスを「フロリック号」に呼び寄せた。
 大尉たちは、すぐに彦蔵を陸に連れて行けとすすめ、トマスが、働き口が見つからず、
 自分には彦蔵を養う経済的な余裕がないと答えると、生活費は自分たちが責任を持つ、
 と言った。
・その言葉に、トマスは納得し、彦蔵は船長や乗組員たちに挨拶して下船した。
 トマスは、治作の雇われている税関監視船「アーガス号」が近くに碇泊し、船長のピー
 ズ大尉と顔見知りであるので行ってみよう、と言った。
 長い間離れたままになっている同郷の治作に会えるのを喜んだ彦蔵は、トマスについて
 「アーガス号」に行った。
 姿を現した治作は、食事が良いらしく頬がふっくらとしていて、嬉しそうに近づいてく
 ると、アメリカ人のように両手を大きく広げ、彦蔵の手を固く握った。
 ピーズ船長も出てきて、彦蔵に握手し、機嫌よくトマスと会話を交わした。
・トマスの話をうなずいて聞いていたピーズは、
 「ヒコノ職ハ、私ガ見ツケル、ソレマデ私ノの船ニイナサイ」  
 と言った。
・さらにトマスに向かって、さしあたり月給五十ドルで「アーガス号」の伍長として働い
 てみないか、と言った。
 働き口を見つけられなかったトマスは、はからずも自分の職を得たことを喜び、ピーズ
 に何度も感謝の言葉を述べた。 
・三日後、約束通りピーズ船長が、彦蔵に月給二十五ドルで大きい下宿屋での仕事を探し
 てくれた。 
 が、その下宿屋では中国人のコックが彦蔵に理由もなく意地悪くあたり、彦惣は堪えて
 いたが、それを知ったピーズ阿、母娘で経営している下宿屋での働き口を世話してくれ
 た。
 そこは小さい下宿屋であったが、数人の泊り客はいずれも上品な人たちであった。
 仕事も楽で、しかも月給は三十ドルであり、彦蔵は快適な気分で一心に働いた。
・一カ月ほどして、トマスが来て「アーガス号」にいる治作に会いに来ないか、と誘った。
 彦蔵は、女主人から外出許可をもらい、トマスとともに「アーガス号」に行った。
 ピーズ船長は、サンフランシスコの税関長に呼ばれて出かけていて、彦蔵は、トマス、
 治作とデッキに出て雑談をしながらピーズ船長の帰りを待った。 
・しばらくすると、ピーズがもどってきた。
 一人の若い男を連れていた。
 その男の姿を眼にした彦蔵は、愕然とした。
 黒い紙を後ろに束ねているが、日本の着物を着ている。
 それに脇差を腰に帯び、大きな風呂敷包みをさげていた。
 治作も驚き、脅えた眼を彦蔵に向けると、
 「清国の仲間を置き去りにして、自分たちだけがアメリカに来たのがいけなかったのだ。
 おそらく仲間たちが国に帰り、おれたちがアメリカへ行ったことをお役所に訴えたにち
 がいない。刀をおびているところを見ると、あのこと子は役人で、処罰するためおれた
 ちを連れ戻しに来たのだ」
 と、震えをおびた声で言った。
・ピース船長が近寄ってくると、男を振り返り、
 「モウ一人、日本ノ漂流民ヲ連レテ来タ。タヒチカラコノ港ニ果物ヲ運ンデ来タアメリ
 カ船ガ、漂流船ノコノ男ヲ保護シタノダ」
 と言った。
・男は、上陸して税関長のサンダースのもとに連れてゆかれたが、手まね身ぶりで漂流し
 ていた日本人であることがわかったが、それ以上の事情は不明であった。
 サンダース税関長は、「アーガス号」に日本人漂流民の治作がコックとして働いている
 のを知っていて、ピーズ船長を呼び寄せた。
 そして、男を「アーガス号」に連れて行った治作に会わせ、英語を少し話せる治作を通
 訳にいて遭難の模様を聞き出すように命じたのだという。  
 男が日本の漂流民であるの知った彦蔵はおそれの感情も消え、治作の顔にも安どの色が
 浮かんでいた。
・彦蔵は、思いがけず日本人に会えたことがなつかしく、治作とともに男に近づいた。
 男は、彦蔵たちをかたい表情で見つめると、腰を折って深く頭をさげた。
 彦蔵は、男が髪を短くし洋服、靴をつけている自分たちをアメリカ人だと思っているの
 を感じた。
・治作が日本語で話しかけると、男は眼をみはり、治作の顔を見つめた。
 男の顔には、まだ治作が日本人ではなく、巧みに日本語を口にするアメリカ人だという
 表情が浮かんでいた。
・それを察した治作が、自分と彦蔵の名を告げ、破線してアメリカ船に救出され、清国か
 らサンフランシスコに戻って働いていることを説明した。
・男の顔に驚きの色が浮かび、急に膝を突くと手を合わせ、額を甲板に押し付けると、
 「お助けください。お助けください」と、繰り返した。
 治作が男の傍らにしゃがみ、
 「何を恐れているのだ。こわがることはない。この船の船長が、あなたの遭難の事情を
 知りたがっていて、それで日本人のおれたちのところに連れて来ただけなのだ」
 と言い、彦蔵も、
 「船長をはじめこの船の方たちは皆親切で、心優しい人ばかりです」
 と言葉を添えた。
 男は、ようやく安心したらしく、体を起こした。
 治作の問いに、男は難破漂流するまでのいきさつを話しはじめた。 
・男は勇之助二十二歳で、越後国岩船郡板貝村(新潟県岩船郡山北町板貝)に生まれた。
 十九歳で、寝屋村(山北町寝屋)の善太郎の持船「八幡丸」の水主となった。
 昨年の四月に「八幡丸」はエトロフ島に行って多量の塩鱒を積み、松前に寄港して九月
 一日出帆、新潟へ向かった。十二名乗組みであった。
・「八幡丸」の船頭熊次郎は、出羽の国(山形県、秋田県)の港に船を寄港させる予定で
 あった。 
 三日間は好天で、「八幡丸」は津軽海峡を離れたが、まったくのべた凪ぎが続き、強い
 潮に流されて津軽海峡を東に向かい、外洋に出てしまった。
 四日目の午後になるとにわかに北西風が吹きつけ、それは激しさを増して大暴風雨とな
 った。
 高々とした波が船に激突し、舵は失われ、船尾が打ち砕かれた。
 風に押されて潮流に乗った「八幡丸は」東に向かって速い速度で流された。
 熊次郎覆没が確実と判断し、帆柱を切り倒した。
・天候は恢復したが、舵も帆柱も失って坊主船となった「八幡丸」は、潮の流れにしたが
 って漂流するままになった。
 九日目に少量の米が尽き、食糧は塩鱒のみになった。
 水主たちは、雨水をためて少しずつ飲み、塩鱒を海水で洗って口に入れたが、塩分が残
 っていて激しい渇きにおそわれた。
・漂流を始めてから二カ月が過ぎ、乗り組みの者たちは悲惨な飢えと渇きにさらされ、
 最初の死者が出た。
 舵取りの勝之助で、痩せこけた遺体を水葬し、つづいて西之介が息を引き取った。
・新しい年を迎え、船に乗っていた選手の善太郎が朝冷たくなっていた。
 船頭熊次郎、勇次郎、惣吉、岩吉が息絶え、ついに勇之助一人となった。
・彼の意識は薄れ、突っ伏していた。
 かすかに小舟が船べりに接する音がし、次には自分の顔をのぞく異国の男たちの顔を眼
 にした。
 彼の体は抱きあげられボートに移され、帆船に収容された。
 アメリカの貨物船「エマ・パッカー号」であった。
・勇之助の言葉を彦蔵は、日本語まじりの英語で机の前の椅子に座ったトマスに伝えた。
 トマスは、それを記録していた。
 死者の続く悲惨な話を裕介がしている間、彦蔵は、しばしば涙をぬぐった。
 治作の頬にも涙が流れ、トマスは何度も洟をかんでいた。 
・ピーズ船長が入ってきて、顔をあげたトマスは、
 「コンナ恐ロシイ話ヲ、キイタコトハアリマセン」
 と、涙声で言い、書いたものをピースに渡した。
 ピースは、髪に記された文字をかたい表情で見つめ、
 「本当ニ恐ロシイ話ダ、地獄ダ」
・勇之助の漂流のいきさつをサンダース税関長に報告するよう命じられていたピーズは、
 英語のできる彦蔵とトマスに一緒について来てくれ、と言った。
・税関長のサンダースは、ピースの渡した記録に視線を落とした。
 白いエプロンをした若い女が茶を運んできて、静かにドアの外に出て行った。
 サンダースは、ピースの渡した記録に視線を走らせながら、さまざまな質問を勇之助に
 した。  
 意味のつかめぬ英語が多く、彦蔵はトマスの助けを借りて、勇之助に質問の大意を伝え、
 勇之助の答えをサンダースに通訳した。
・サンダースが、勇之助の手にした風呂敷包みの中身を問い、テーブルの上に風呂敷包が
 広げられた。
 金、銀、銅の日本の硬貨三枚があって、サンダースとピーズは物珍しそうに手に取って
 裏返したりしていた。 
 船名を記した標識版,ちりめんの掛け布などがあり、ことにサンダースとピーズが関心
 を示した箱におさめられた船磁石(羅針盤)であった。
 彼らの顔には興味深げな表情が浮かび、低い言葉を交わしながらときおり勇之助に眼を
 向けていた。
・一同辞去するため立ち上がると、サンダースが彦蔵を指さしながらピーズに何か言った。
 二人の話を聞いていたトマスが、彦蔵に向かって、
 「税関長は、ヒコを自分の家に住まわせたい、と言っている」
 と、たどたどしい日本語で言い、つづいて
 「学校ニ入イレテ教育ヲ受ケサセタイソウダ」
 と英語で言った。
 「素晴ラシイ申出ダ」
 ピーズが目を輝かせ、彦蔵にお受けするように熱心にすすめた。
・思いがけぬ話に彦蔵は戸惑いながらも、務めている下宿屋の女主人がひまをくれるなら
 喜んで、と答えた。  
 女主人のことはわたしにまかせろ、とピーズは微笑しながら言った。
・彦蔵は、女主人にサンダースからの申出を話し、職を辞したいと告げた。
 女主人は表情を曇らせ、仕事熱心な彦蔵を離したくないので、月給を四十五ドルにする
 から家にいてほしいと、と言った。
・彦蔵は好意を謝しながらも、月給のことではなく、教育を受けたいからなのだ、と説明
 した。  
 女主人は諒解し、改めてこれまでの彦蔵の勤務状態をほめた。
・下宿屋を辞職した彦蔵は、税関に勤務するようになった。
 その日は、ピーズ船長とトマスがやってきて、トマスが仕事の内容を教えてくれた。
 税関長サンダースのみのまわりの世話と、新聞、手紙の整理など、トマスは勤務上の注
 意をしピーズと共に去っていった。
・彦蔵は、朝、サンダースと馬車に乗って税関に行き、一日の勤めを終えると家に戻り、
 食事をより、快適な寝台で眠りについた。
 これまでとはかけ離れた生活で、彦蔵は自分が急に紳士になったような気がし、毎日が
 楽しく満足だった。 
・漂流民としてただ一人生き残った勇之助の話が人々の間に伝わったらしく、サンフラン
 シスコ・タイムズに大きな記事になった。
 記者は、ピーズ船長から取材をしていて、その記事は、「エマ・パッカー号」が最近タ
 ヒチからサンフランシスコ港へ向けて航行中、外国の難破船と遭遇、一名が救助された、
 という文章で始まっていた。
 彦蔵については「上記のコック(治作)以外にも、三年ほど前に難破船から救助された
 遭難者の一人である十五歳くらいの日本人のボーイ」がピーズの周辺にいる、と書かれ
 ていた。
 勇之助の所持品にも触れていて、羅針盤は「極めて精巧な道具で、普通の羅針盤と違っ
 て目盛りは二十四本しかない。そのうち十二本の目盛りに目印が付けてある」と、むす
 ばれていた。

十二
・七月中旬、主人のサンダースが、東部にある妻の住む本邸に連れて行くと言い、彦蔵は
 商船に乗ってサンフランシスコを離れ、ニューヨークに行った。
 サンダースは、視線を走らす彦蔵にニューヨークがアメリカ随一の商業都市で、八十万
 人の人間が住んでいる、と説明した。
・馬車が、五階建ての石造りの建物の前で止まった。メトロポリタンホテルであった。
 内部に入った彦蔵は、その美しさに驚嘆した。
・サンダースは家族の住む南西200マイルのボルチモアにあり、明晩帰宅することをテ
 レグラフ(電報)で報せると言い、彦蔵を連れて部屋を出ると階段を降り、地価の一室
 に入った。 
 サンダースは紙片に何かを書き、黒い服を着た男に渡した。
 うなずいた男は、部屋の壁際におかれた機械の前に座り、紙片に視線を走らせながら何
 かを打つように指を小刻みに動かしはじめた。
 カチャカチャという音が部屋の中に響いていた。
・その部屋を出たサンダースは、階段を上がりながら、二十分もすると電報の返事が来る、
 と言った。
 そんなに早く返事が来るはずはなく、サンダースが自分をからかっているのだと思い、
 黙って笑った。
・二十分ほどして、帳場の人が来て紙片をサンダースに渡した。
 それを眼にしたサンダースは、声をあげて読んだ。
 「家族ハ全員無事デ、家ノ掃除モシ、明日ハボルチモア駅デ待ツ」
 彦蔵は、呆気にとられた。
 電報の紙が鳥よりもはるかに速く飛ぶはずがなく、半信半疑であった。
・日が傾き、部屋が薄暗くなった。
 黒人のボーイが入ってきて壁際にある燈火台に近づくと、三個の穴がある銅管の栓をひ
 ねった。  
 気体の吹きだす音がして、マッチの炎を近づけて点火した。
 それは蝋燭の炎よりはるかに明るく、窓から道を見下ろすと、街路燈のガス灯が両側に
 つらなっていて昼間のように明るかった。
・翌日、馬車に乗ってニューヨークの駅に行った。蒸気車に乗るのだという。
 駅に着くと煙突のある機関車を先頭に多くの客車が鎖で連結されていて、彦蔵はサンダ
 ースとその一つに入った。
 やがて煙を噴き出す音が連続し、車が動き出した。
 ゆっくりとしたうごきであったが、次第に速度を上げ、田畠で耕作をしている人などが
 飛ぶ鳥のように後方にかすめ去る。
 車はゆれたが、読書できぬほどではなかった。
・やがて蒸気車は、ボルチモア駅に着いた。
 下車すると、サンダースが言った通り駅前に義弟が馬車を止めて待っていて、彦蔵はサ
 ンダースが自分をからかったのではないのを知った。 
 なぜ電報紙に書いた文字が鳥よりはるかに速く飛ぶのか、彼には分らなかったが、アメ
 リカには恐るべき機械があるのを感じた。
・サンダースには子どもがなく、夫人と二人だけで暮らしていたが、三年前に故郷のボル
 チモアを離れて商業で活況を呈するサンフランシスコに行き、ブラナムと共同出資の銀
 行を興した。
 経営は順調で、その能力を買われて政府から税関長の就任を要請され、銀行の経営をす
 るかたわら税関長に兼任した。
・彼が帰郷したのは、ロシアに商用ででかけるためであった。
 彼は、氷が暑気払いになり、さらに高熱を発した病人の解熱にも使用されることに注目
 し、ロシアから氷の独占輸入権を得るためロシアに行こうとしたのである。
・「ヒコ、ワシントンに連レテ行ク」
 サンダースは、彦蔵に言った。
 ワシントンは、日本で言えば将軍のいる江戸で、その名を聞いていた彦蔵は胸をおどら
 せた。
 サンダースの雇人になったことで、サンフランシスコにいる治作、亀蔵よりも多くのこ
 とを経験し、自分の世界が大きく開かれているのを感じた。
・「コレカラ、ブレジデントニ会イニ行ク」
 と、サンダースが言った。
 「プレジデント?」
 彦蔵には、耳にしたことのない言葉であった。
 「我ガ国の首長ダ」
 彦蔵は、身をすくめた。
 首長と言うと日本では将軍で、江戸城に住んでいる。
 庶民が顔すら拝めぬ雲の上の高貴な存在で、そのような人の前に出るのは恐ろしかった。
・彦蔵は、不思議な思いがした。
 サンダースは「我ガ国ノ首長」と言い、その人物が住む所はいかめしい豪壮な城郭のよ
 うな建築物と予想していたが、広いとは言え、ボルチモアのサンダースの邸とほとんど
 変わりはない。門は鉄製ではあったが、変哲もない門で、門番もいず、馬車はそのまま
 敷地内に入った。
 首長であるからには、多数の従者を召し抱えているはずなのに、それらしい人の気配は
 なく、警備の兵の姿もない。
・男が立ってきて、サンダースに奥の間に入るよううながし、彦蔵はサンダースについて
 進んだ。
 男は、サンダースと何か言葉を交わしながら握手した。
 サンダースは、彦蔵を振り返ると、漂流中に救出された日本人で、サンフランシスコか
 ら連れて来たのだ、と紹介した。
 男の顔に驚きの表情が浮かび、サンダースに質問を重ね、近づいてくると彦蔵の手を握
 った。
 中ぐらいの背丈の穏やかな風貌をした、見るからに好ましい人物であった。
 男は椅子をすすめ、サンダースは坐ったが、彦蔵は部屋の隅に退き、立っていた。
・男とサンダースは会話をつづけていた。
 二人は、対等の人間のようであるように話し合っていて、男がアメリカの首長であると
 は到底思えなかった。 
・日本では、小役人でもはるかに尊大で威厳があり、十六歳の船の焚であった自分に握手
 をし椅子を進めるようなことは決してない。
 サンダースは時折り笑い声をあげ、男はそれが癖らしく膝をたたいていた。
・男が彦蔵に穏やかな目を向けなら、年少であるので政府の学校に公費で入れ、学問を学
 ばせれば大いに役立つだろう、といった趣旨のことを口にした。
 サンダースは、
 「私ハ、自費デカレヲ学校ニ入レルツモリデス」
 と言って、男の申出を断った。
 うなずいた男はサンダースについで彦蔵と握手をし、二人は外に出ると待たせてあった
 馬車に乗った  
・馬車が門を出ると、彦蔵は、
 「今、アナタガ話シテイタ人ハ、ドウイウ人ナノデスカ」
 と、あらためてたずねた。どうしても首長とは信じられなかった。
 「プレジデント」
 と、サンダースはくり返し、アメリカの最高支配者であり、日本ならば皇帝にあたる人
 だと説明した。さらにその名は、「フランクリン・ピアース」だとも言った。
・それでも彦蔵は、男がそのような最高の地位に身を置く人とは思えなかった。
 アメリカのような広大な国の支配者なのに威厳はなく、警備の者も従者もいない。
 生活も簡素でつつましい。
 日本ならば、役人にはお供が付き、物々しい儀礼をつくさなければ近寄ることもできず、
 まして大名や将軍は、顔を見ることさえ到底不可能であった。
・サンダースは彦蔵に、一緒にロシアへ連れて行きたいが、留守の間に学校へ入った方が
 いい、と言った。 
 サンダースが出発してから三日後、夫人の弟に連れられて彦蔵はカトリック系の学校に
 行き、入学手続きをして学生寮に入った。
・学科は、英語の書き方、読み方、天文、地理、算術、音楽で、会話と簡単な単語の文字
 しか知らない彦蔵は、茫然自失のありさまであった。
 それを哀れんだクラス担任のウォーターは、授業が終わった後、彦蔵一人を教室に残し
 て学習を新設に見てくれた。
 彦蔵は、ウォーターに感謝し寮の部屋に戻ってからも復讐に励んだ。
・生徒たちは自分よりいずれも年少であったが、彼らは一様に優しく接してくれた。
 日本のことは地理書にも記されていず、そのような地から来た彦蔵に好奇心をいだいて、
 休憩時間には集まって来て話しかける。
 学習について親切な助言もしてくれた。
 これらの生徒との接触で、彦蔵は会話が巧みになり、読み書きも少しずつ進歩した。
・サンダースが、ロシアから戻ってきた。
 彼の話によると、ロシア政府との間でロシアから輸入する氷のアメリカ西海岸一帯での
 専売権を取得し、さらにサンフランシスコ駐在のロシア海軍主計官に任命されたという。
 サンダースはそれらの食味に従事するためサンフランシスコに戻らねばならず、彦蔵も
 連れて行く、と言った。
・彦蔵は退学届けを出して寮からサンダースの邸に戻った。
 彦蔵にとって短い学校生活であったが、英会話はもとより英文の読み書きができるよう
 になったのは幸いだった。
・サンダース夫人は、熱心なカソリックの信者であった。
 出発が三日後に迫った日、彼女は彦蔵に思いがけぬことを口にした。
 彼がボルチモアを去る前に、洗礼を受けさせたいのだという。
・十三歳で故国を離れた彦蔵は、幕府の重要な政策の一つにキリシタン禁制があることを
 知らなかった。 
 彦蔵は、夫人の申出を、素直に受け入れた。
 婦人は喜び、彦蔵を馬車に乗せて教会に行った。
・神父は、彦蔵を祭壇の前に連れて行き、サンダース夫人も傍らに立った。
 神父は、聖水で洗礼をし、ジョセフという名前をさずける、とおごそかな声で言った。 

十三
・彦蔵はサンダースとボルチモア駅に行き、蒸気車に乗ってニューヨークに着いた。
 メトロポリタンホテルに投宿し、サンフランシスコ行きの船便を待った。
 適当な船がなく、ホテルで泊まりを重ねたが、ようやく蒸気船に乗り、パナマ経由でサ
 ンフランシスコに向かった。
 船はサンフランシスコ港に入り、彦蔵は、上陸してサンダースの家に落ち着いた。
・翌日彼は、港に言ってまずトマスに会い、ついで治作、亀蔵とも会った。
 彼らは、彦蔵が立派な青年紳士になり、服装から動作まですっかりアメリカ人のように
 なった、と口々に言った。
 彦蔵の眼にも治作と亀蔵が、アメリカという異国の地に溶け込んでいるのを感じた。
・漂流船「八幡丸」でただ一人救出された勇之助は元気でいるか、とたずねると、意外な
 答えが返ってきた。
 勇之助は、サンフランシスコの倉庫船で職を得て働いていたが、サイラス・バロースと
 いう船持ちの商人が、新聞に大きな記事となって紹介された勇之助に強い関心を寄せた。
 バロースは、船で中国との貿易を盛んに行っていたが、勇之助を日本へ送り届けてやろ
 うと考え、勇之助に会ってそれを伝えた。
 思いもかけぬ話に、勇之助は泣いて喜んだ。
・十カ月前にペリーが艦隊をひきいて再び浦賀におもむき、日米和親条約を締結して、
 下田、箱館、の二港を開校させたことをバロースは知っていた。 
 バロースは所有している帆船「レディ・ピアス号」で香港に行く予定であったので、
 途中、志茂田に寄港して勇之助を上陸させようと考えたのである。
・サンフランシスコ・タイムズは、早速これを記事にし、仁愛の心のあついバロースが船
 賃なしで勇之助を日本に送還させようとしている、と報じた。
 それを知った、治作も亀蔵も、はたして日本側が勇之助の上陸を許し、その身柄を受け
 入れるかどうか危ぶんだ。 
 たとえアメリカが日本と和親条約を結んで下田を開港させたとしても、条約を締結して
 すぐのことであり、突然のようにおもむく「レディ・ピアス号」を穏便に迎え入れると
 は思えなかった。
・四月、勇之助を乗せた「レディ・ピアス号」は、サンフランシスコを出港した。
 船は、ハワイに寄港して石炭、伊豆、食料を補給し、太平洋上を西進した。
・六月、江戸湾口から強い南風を受けて湾内に早い速度で入ってくる異国の帆船を物見の
 者が発見、浦賀奉行所に急報した。
 船は浦賀沖を通り過ぎ、ようやく停まって投錨した。
・奉行所ではただちに船を出し、外事掛の与力「佐々倉桐太郎」、細倉虎五郎が通詞立石
 得十郎たちとともに異国船におもむいた。  
 その船は、アメリカ商船「レディ・ピアス号」であった。
 バロースは、ベーリーの通訳で船中に日本人漂流民一名がいて、来航の目的は彼を日本
 に送り届けるためである、と述べた。
・勇之助が、船長にともなわれて甲板に出てきた。
 彼は、佐々倉たちの前に出ると、平伏した。
 佐々倉が勇之助の素性について質問し、その答えを書役が、「越後国(新潟県)岩船郡
 板貝村八幡丸善太郎水主、上杉領之者由、勇之助、寅年二十三」と、書きとめた。
・佐々倉がバロースに、異国船の出入港できるのは和親条約によって箱館、下田二港のみ
 と定められているので、下田に行くよう指示した。
 しかし、風は強く逆風で江戸湾口に戻るのは不可能のため、そのまま碇泊させることに
 なった。 
 奉行所では、下田奉行所にアメリカ商船が下田に入港を予定していることを急飛脚で伝
 えた。
・バロースは、飲料水が乏しいので与えてほしいと申し出たが、その件について江戸に伺
 いを立てると、条約では開港した下田、箱館以外には支給できぬ定めになっているので
 許可してはならぬ、と指示してきた。
 バロースは、かさねて水を切に所望し、奉行所では、やむなく水を二十樽あたえ、さら
 はに鶏卵三百個、薩摩芋一俵、薪百二十束を支給した。
・翌日は晴天でようやく順風になり、「レディ・ピアス号」帆を開いて江戸湾口から外洋
 に出て行った。
・二日後に、「レディ・ピアス号」が、またも江戸湾内に入って来て、浦賀沖に投錨した。
 不審に思った与力の佐々倉らが船に出向くと、船主のバローズは、昨日、下田に近づい
 たが、無風になったうえに潮流が速く、下田港に入れずやむなく引き返してきた、と言
 った。
・船長のキャブホーヤは、水先案内人を乗せてほしいと懇願し、奉行はそれをいれて同心
 の臼井進平、土屋栄五郎と、江戸、下田間の行路を熟知している水主三名を乗船させた。
・船は順調に進んで翌朝、下田港外に達したが、べた凪になっていて動けず、そのため奉
 行所の指示で十八艘の小舟が出て、大綱をむすびつけて、港内に引き入れた。
・奉行所では、与力の「合原猪三郎」と通詞「堀達之助」らを船におもむかせた。
 すでに浦賀奉行所から船の来航目的の報告が寄せられていたので、合原はバローズに、
 はるばる漂流民を送り届けてくれたことに奉行が感謝している旨を伝えた。
・合原は、勇之助に会うことを望み、バロースが勇之助を連れて来た。
 勇之助は平伏し、額を甲板に押し付けた。
 合原は、勇之助に当地で身柄をまちがいなく引取るから安心するように、と穏やかな口
 調で言った。
 勇之助は、言葉もなく声をあげて泣いた。
・翌日、奉行所支配組頭の「伊佐進次郎」が通詞、書役とともに「レディ・ピアス号」に
 おもむき、勇之助の吟味をおこなった。
 勇之助は伊佐新次郎に、
 「一日も早く老母と妹に会いたく、なにとぞ早々に国元にお返しくださるよう、御慈悲
 のほどひとえにお願いいたします」
 と、涙を流して頼んだ。
 翌日、勇之助の身柄が船主バローズから奉行所に引渡されることになった。
・「レディ・ピアス号」に実務接触をしたのは与力相原猪三郎であったが、応接掛は支配
 組頭の伊佐新次郎で、彼の手によって応接書類が江戸にいる外国奉行に提出された。
 「レディ・ピアス号」が退帆して伊佐の役目は終わったが、彼は勇之助に強い関心をい
 だき、それが外国奉行への報告書にも記されていた。
・ことに彼が注目したのは、勇之助がアメリカ言葉を知っていることであった。
 勇之助は日本文の読み書きができる上に「アメリカ文字も少々は読み申候」と記した。
・通詞の堀辰之助は、むろんオランダ語の会話はもとより読み書きに熟達していたが、
 英語の知識は十分とは言い難かった。
 伊佐が堀に、英語で勇之助に問いかけてみるように命じ、堀が片言の英語で質問すると
 勇之助はたちどころに英語で答えた。
 了仙寺で堀がバロースと英語で問答を交わし、バロースの言葉の意味がわかりかねてい
 ると、勇之助が言葉を添えることもあった。
 また、勇之助が「レディ・ピアス号」の船員と自由に会話を交わしているのも、伊佐は
 観察していた。 
・当時、オランダ通詞の中で英会話に通じているのは大通詞の森山栄之助だけで、彼は、
 日本に漂着したインディアン系アメリカ人のラナルド・マクドナルドに本格的な英会話
 の伝授を受けていたのである。
・それを知っていた伊佐は、勇之助を英語通詞として活用すべきだと考え、外国奉行への
 報告書に、
 「両三年も彼地(アメリカ)に滞留」していたので、「アメリカ通弁」として江戸に送
 りましょうか。御指図くださいと記した。
・伊佐は勇之助に英語通詞になるようすすめたが、勇之助は一日も早く故郷に帰ることを
 切に願い、外国奉行もその心情をくんで故郷板貝村の領主上杉家に引渡し、帰郷させた。
・勇之助が下田で受け入れられたことを知らぬ彦蔵は、治作、亀蔵と同じように日本側
 が勇之助の上陸を許可するとは思えなかった。  
 日本がアメリカと和親条約を結んで箱館、下田二港を開港したということは聞いている
 が、それは条約文に記されただけのことで、ただちに実施されているとは考えられな
 かった。
 乙吉ら漂流民を乗せた「モリソン号」に対して、幕府が砲火を浴びせて追い払った姿勢
 は、今でも変わっていないと考えられた。
 砲撃は受けることはなくても、勇之助を受け入れるとは想像もできなかった。
 おそらく勇之助は、香港で下船させられ、力松の世話にでもなっているのではないのか、
 と思った。
・その年の暮れ近く、サンダースのすすめでイギリス人が教師をしている商業学校に入り、
 英文の読み書きをはじめ経理の授業を受けた。
・1855年(安政二年)の新年を迎え、それから間もなく、「レディ・ピアス号」につ
 いての小さな記事が前年十月のニューヨーク・タイムズに掲載されているのに気づいた。
 それを読んで彦蔵は、驚きの眼をみはった。
・同船は日本の下田に入港し、役人は船に漂流民勇之助が乗っているのに驚き、喜んで迎
 い入れた。役人や町民たちは、無料で勇之助を日本に送り届けてくれた船主バロースに
 深く感謝し、
 「使節を送るよりはこのような漂流民をおくりとどけるほうが、日本との友好関係を深
 めること大である」  
 というバロースの談話も載せられていた。
・彦蔵は、早速新聞を手に治作と亀蔵に会い、記事を読んで聞かせると、二人は驚き、
 顔を見合わせた。
 信じられぬことであったが、新聞が偽りを書くはずはなく、彦蔵たちは日本の対外政策
 が大きく変化しているのを知った。 
・ようやく落ち着きを取り戻した三人は、静かに語り合った。
 勇之助が上陸を許されたように、故国は自分たちも迎え入れてくれるだろう。
 問題はどのような方法で帰国できるかであり、それ雄探るためにじっくりと待つ以外に
 ない、という結論に達した。
 三人の顔には、喜びの表情が浮かんでいた。
・帰国できる望みのあるのを知った彦蔵は、落ち着いて勉学に励んだ。
 サンダースの好意によって通学できるのは幸運で、まだ当分はアメリカの地にとどまる
 ことになるにちがいなく、それには自活できる力を備える必要がある。
 アメリカ人社会の中で生きてゆくには、十分に英語の読み書きに長じ、さらに商業知識
 も身につけねばならない。 
 それに、もしも帰国できた折には、開国した日本でアメリカで得た知識が重要視される
 はずであった。
 すでに十八歳になっていて彦蔵は、自分の将来を考える思慮もそなえていた。
・しかし、学生生活は、その年の十一月に中断せざるを得なくなった。
 サンフランシスコを始めとした地方に金融恐慌が起こり、ブラナムと共同経営していた
 サンダースの銀行も支払い停止に陥り、閉鎖した。 
 金策に奔走したサンダースは、疲れ切った表情で、
 「誠ニ残念ダガ、学費ヲ出セナクナッタ」
 と、言った。
・幸いにも、省人の息子である友人が彦蔵に同情して学費を負担してくれて、彦蔵はその
 後も通学で来たが、友人の父も不況の波をかぶり、三月末には退学せざるを得なかった。
・彦蔵は、サンダースのもとに行って就職先を斡旋して欲しい、と頼んだ。
 サンダースは友人と共同で商社を細々と経営していたが、新たに人を雇い入れる余裕は
 なく、マコンダリー会社という章者に働き口を見つけてくれた。 
・彦蔵は、四月五日に入社し、サンダースの家から通勤した。
 その会社は、四名が資本を出し合って経営している大きな仲買会社で、世界各地から委
 託貨物が送られてきていた。
 支配人のもとに多くの社員がいて、活気に満ちていた。
 彦蔵は、事務の雑用係として一心に働いた。
・秋に入った頃には仕事にも慣れ、経営者の一人であるケアリーは勤勉な彦蔵が気に入っ
 たらしく、時折り食事に連れて行ってくれるようにもなった。
・英会話も不自由がなくなった治作は、税関監視船「アーガス号」を離れ、市内のウェル
 ズ・フェーゴ商会に入り、また亀蔵も測量船「ユーイング号」から清国との間を往復す
 る貨物船に移っていた。 
 その船で日本へ帰る機会を狙おうとしていたのである。
・彦蔵は、しばしば治作と会い、バン・リードというアメリカ人とも親しくなった。
 彼は商社に勤めていたが、日本へ行って貿易の仕事をする夢を見ていて、治作や彦蔵に
 日本語を教えてもらっていた。

十四
・1857年(安政四年)、春がすぎ気温が上昇し始めた頃、上院議員グウィンが彦蔵を
 会社に訪ねてきた。
 サンダースが税関長をしていた頃、税関に勤め始めた彦蔵は、グウィンと引き合わされ
 たことがあった。
・来訪をいぶかしんだ彦蔵に、グウィンは、
 「私ハ、重要ナ役目ニ任ジラレテワシントンへ行ク。君モ連レテ行キタイ。必ズ君のタ
 メニモナル」 
 と、言った。
・彦蔵は、
 「私ハ、サンダース氏ノ慈愛ノモトニ生キ、万事サンダース氏ノママニ動ク。氏ニ相談
 シテ欲シイ」
 と答えた。
・うなずいたグウィンは去り、その後、グウィンはサンダースのもとに手紙を送り、彦蔵
 はサンダースからのその手紙を見せてもらった。
 内容は、彦蔵をワシントンに連れて行って国務省の書記として雇ってもらうように努め
 る。 
 それが成功すれば、アメリカについて知識を持っている彦蔵が、日本に帰った時に大い
 に役立つ。
 彦蔵がアメリカの市民でないことが採用される上でいくらか困難が生ずることがあるか
 もしれないが、それも克服されると思う、と結ばれていた。
・サンダースは、
 「私ハ上院議員トトモニワシントンニ行ッタ方ガイイト思ウ。新シイ道ガヒラケルカモ
 知レイナイ」
 と言った。 
・彦蔵はうなずき、
 「アナタガソノヨウニ言ウナラ、行キマス。私ハアナタノ言葉通リ従ウ」
 と答えた。
・九月、彦蔵は迎えに来たグウィンとともに船に乗ってサンフランシスコを離れた。
 グウィンはワシントンに自宅があり、夫人が世話をしてくれるから心配はいらない、と
 言った。 
・グウィンの家は、樹木の繁った広い敷地に建つ美しい二階建ての家で、彦蔵はその一室
 を与えられた。
 多くの黒人の召使や下男が働いていた。
・一週間ほどしてグウィンは、サンダースからグウィンに出した彦蔵について記した手髪
 を新聞に発表した。 
 その手紙の内容は、彦蔵が十三歳のコックとして船に乗って遭難し、アメリカ船に救け
 られ、一旦清国に行ってからサンフランシスコに戻り、学校には行って現在は仲介会社
 に勤務しているというものであった。
・グウィンが、なぜ新聞にその手紙を発表したか。
 それは、政府の中枢部の者たちにあらかじめ彦蔵への関心を集めさせようとしたためで
 あった。
・グウィンのねらい通り、その発表は大きな波紋となって広がった。
 日本との間に和親条約が結ばれたとはいえ、彼らにとって日本は未知の国であり、日本
 人を眼にしたこともない。
 新聞に発表されたサンダースの手紙によると、ワシントンにジョセフ・ヒコという洗礼
 名の日本人が来ていて、しかもそれは難破漂流して救出された二十歳の男だという。
・人びとは興奮し、グウィンの家にきて彦蔵に面会を求め、贈物をして握手する者が絶え
 なかった。 
 また、夜の宴にも彦蔵は招かれ、彼は身長の服を着、靴をはいて出向いた・
 人々は好奇の眼を向け、握手してさまざまな質問をし、彦蔵は酒を飲み、にこやかに応
 対した。
・十一月、グウィンは彦蔵を馬車に乗せて国務省へ連れて行った。
 逞しい体格をした五十年輩の男が立っていて出迎えてくれた。
 国務長官のカッス大将で、グウィンは彦蔵を紹介し、カッスは新聞に発表された手紙で
 よく知っていると言って、彦蔵の手を握った。
・ついで、国務次官補兼書記官長のウイリアム・ハンターの部屋に行き、同様の紹介をし
 た。 
 グウィンが国務省を訪れたのは、長官と次官補に彦蔵の存在を知ってもらうためで、そ
 の効果はあって二人は好意に満ちた眼で彦蔵に接した。
・国務省を出たグウィンは、ホワイトハウスに彦蔵を連れて行った。
 四年前に大統領ピアースの指定にサンダースとともに行ってピアースに会ったが、その
 簡素な生活にプレジデントという役職がどのような意味を持つのか知識はなかった。
 その後、大統領がアメリカの最高の地位にある政治家であるのを知り、グウィンが自分
 を伴ってピアースについで就任したブキャナン大統領に会おうとしていることに緊張し
 た。 
・ブキャナン大統領がグウィンと握手し、グウィンが彦蔵を紹介すると、大統領はうなず
 いて手を出し、彦蔵は自分の名を口にしてその手を握った。
・大統領が椅子をすすめて座り、グウィンが向かい合って座ったが、彦蔵は立っていた。
 グウィンが用件を話しはじめた。
 日本は開国し、アメリカは日本と今後盛んに交流し貿易も盛んになる。
 もしも彦蔵が国務省の書記の職に就くことが出来れば、アメリカの政治機構の知識を得
 て、日本へ帰国した折にはアメリカのために大いに役立つと思われる。
 国務省に就職させたいので、大統領の力を借りたい、と言った。
・大統領はうなずき、
 「私カラ国務長官ニ話ヲシテミル。モシモ空席ガアルナラ、私ハアナタノ若イ友人ヲ喜
 ンデ任命スル」  
 と、答えた。
・彦蔵は、もしかするとピアースについでブキャナンと二人の大統領に会い、握手したの
 は日本人として珍しいかもしれぬ、と思った。 
 二人どころか大統領に会った日本人は初めてであることに、彦蔵は気づいていなかった。
・寒気の厳しい日が続き、彦蔵は、グウィンの家にとどまって秘書に似た仕事をしていた。
 新聞を整理したり、手紙類を閉じ込んだり、時にはグウィンに指示されて簡単な手紙の
 返事を書いたりして過ごした。
・その後、大統領からも国務省からも何の返事も来ず、年が明けてもその気配は全くなか
 った。
 グウィンはそのことについて口をつぐんでいた。
・相変わらず彦蔵を訪ねて来るものが絶えず、それによって多くの知己を得た。 
 その中に特異な人物がいて、彦蔵は彼と親しくなった。
 ジョーン・M・ブルック大尉であった。
 大尉は、また明らかにされていない清国や日本の沿岸測量をし、太平洋の海底調査をし
 ようと企てていた。
 むろん政府の支援が必要で、大尉はアメリカの国益になる事業なので政府はまちがいな
 く協力してくれるはずだ、と言っていた。
 さらに彼は、それが実現段階に達した折には、彦蔵を調査団の書記に任じ、日本に帰れ
 るよう尽力する、と約束してくれた。
 思いがけぬ申出に、彦蔵は喜び、調査団に加えてほしい、と懇請した。
・彦蔵は、グウィンの家にいることに倦いていた。 
 国務省の書記の働き口を見つけてやるというのでワシントンに来たが、一切返事はなく
 絶望的であることは明らかだった。
 そのため、グウィンの秘書に似た仕事をしていたが、それは他愛ない者で自分が手掛け
 るようなものではなかった。
・それに、グウィン夫婦の生活態度にも嫌気がさしていた。
 グウィンは、南部に広大な農園を持っていて多数の黒人奴隷を使い、巨額の富を蓄えて
 いると言われていて、婦人はしばしば夜会や舞踏会をもよおし、ワシントンの社交界の
 代表的な存在だった。
 婦人は仮名遣いが荒く、高価な衣服や装飾品を身につけて着飾っていたが、使用人には
 冷たく、給料も安かった。
 彦蔵の手当ては月額二十ドルの約束で、このまま飼い殺しにされるような気がしたし、
 他に職を得て少しでも多くの報酬を得たかった。
・「ヒマヲ頂キタイ」
 と彦蔵は申し出た。
 グウィンは無表情にうなずき、
 「サンフランシスコニ戻ルノダネ。帰ル船賃ヲ出シテヤル」
 と、あっさりと答えた。
・彦蔵は、ブルック大尉の調査団に加わりたいので、サンフランシスコに行く気はなく、  
 ワシントンに近いボルチモアで大尉からの指示を待ちたかった。
 ボルチモアには終始温かく見守って切れてきたサンダーズ夫婦が住む家があって、世話
 になることもできる。
 それに、多くの知人友人がいて、彼らの斡旋で働き口を見つけられるにちがいなかった。
・彦蔵はこれ下での月給をいただきたいと申出た。
 グウィンは承諾し、計算書を書いて渡してくれた。
 そこには前年九月上旬から二月上旬までの五カ月間の給料百五十ドルからダウィン家で
 の食費五十五ドルが引かれ、残額九十五ドルと記されていた。
 さらに福徳津の伸長大七十五ドルも引かれていて、彦蔵が受け取ったのは二十ドルだけ
 だった
・彦蔵は、呆気にとられた。
 サンフランシスコで仲買会社に勤めて満ち足りた生活をしていた自分を、半ば強引にワ
 シントンまで連れてきて五カ月間働かせ、その報酬が僅か二十ドルとは。
 これまで多くの親切なアメリカ人の世話になってきたが、上院議員でありながらダウィ
 ンのような冷たい人間もいるのか、と思った。  
・翌朝、彦蔵はワシントン駅に行き、蒸気車にのってボルチモアにむかった。
 ボルチモア駅に降りた彦蔵は、税関を探し当て、税関長に会ってダウィンの手紙を渡し
 た。
 手紙を一読した税関長は、
 「残念ナガラ、税関ニハ空席ガナク、要望ニハ応ジラレナイ」
 と言って、手紙を返した。
 税関を辞した彦蔵は、憤りをおぼえた。
 ダウィンには税関長に指示する権限などなく、わずかな金しか与えなかった彦蔵に対す
 るうしろめたさから、何の意味もない手紙を渡したにすぎなかったのだ、と思った。
・彼は、馬車に乗る金銭の余裕もなく、サンダースの家族の住む家に通じる長い道を重い
 鞄をさげて寒風に吹かれながら歩いて行った。
 ノッカーを鳴らすとドアが開き、召使が顔を出して彦蔵の顔を見ると、すぐに奥に戻っ
 ていった。
 奥から足音がして、思いがけずサンダースが夫人とともに出てきた。
 サンダースがいるとは思わなかった彦蔵は、その驚きを口にした。
 サンダースは、サンフランシスコでの仕事が一段落したので、家族のもとに戻ったのだ
 という。
・椅子に座った彦蔵は、グウィンと過ごした日々のことを語った。
 サンダースは、憤りの色を顔に浮かべて、
 「彼はソノヨウナ下ラナイ男ナノダ。軽ク約束ハスルガ、ナニモ実行シナイ」
 と吐き捨てるように言い、
 「コノ家ヲ自分ノ家ト思ッテ、イツマデモイテ欲シイ」
 と眼に涙を浮かべて言った。
 彦蔵も涙ぐみ、サンダースに深く感謝した。
・幼い頃死んだ父親の顔の記憶はなく、義父の吉左衛門は実子どうように可愛がってくれ
 たが、彦蔵は、サンダーズが実の父のように思えた。
 夫人も温かい心の持ち主で、少しも遠慮することなくサンダースの家で日々をすごした。
・困ったのは、所持金がほとんどつきていることであった。  
 むろん、食事はサンダース家で提供してくれていたが、金がなくては動くこともできな
 い。
・サンダースに援助を頼もうとしたが、それをすべきでないことを知っていた。
 サンダースは、サンフランシスコで「仕事が一段落」したのでボルチモアに帰ってきた
 と言っていたが、一段落とは破産の意味であるのに気づいていた。
 それは、低い声でかわす夫婦の会話から察したことで、恐慌にさらされたサンダースは
 再起を期して小さな会社を経営したが、それも破綻して一切を清算し、ボルチモアにも
 どってきたのだ。
・彦蔵は、ボルチモアの知人、友人を訪ねて仕事を探したが、ボルチモアも深刻な不況の
 波にさらされていて職を見つけることはできなかった。
・ある朝、ボストンに在住しているT・C・ケアリーという未知の人からの手紙を受け取
 った。 
 封を切った彦蔵は、T・C・ケアリーが、サンフランシスコで学校を退学後入社したマ
 コンダリー会社の出資者ケアリーの父であるのを知った。
 その若い出資者は、彦蔵に好意をいだいてよく食事にも誘ってくれたりして、彦蔵も心
 から慕っていた。
 文面によると、息子のケアリーは商用で清国に行っているが、手紙を父親によこし、
 彦蔵がどのようにしているか気がかりで、もしも金に困っているようなら自分名義で金
 を融通してやってほしい、と依頼してきたという。
・彦蔵は、呆気にとられた。
 以前勤めていた会社の経営者ケアリーが、自分の身を案じて清国から父親に手紙をよこ
 したことが信じられない思いであった。
 彦蔵はすぐにケアリーに返事を書いた。
 手紙をよこしてくれたことに心から感謝している旨をしたため、お金の件については、
 今後、御好意に甘えることになるだろう、と書いた。
 非郡戸は、人の人情の篤さを思い、ほのぼのとした気持ちになった。
・幸運は続き、ブルック大尉からの手紙が来た。
 大尉が企画していた清国と日本の沿岸測量調査が海軍に正式に認可され、彦蔵を調査団
 の書記に任命し、日本に連れて帰ってやる、と記されていた。
 彦蔵は、全身が篤くなるような喜びにひたり、部屋の中を手紙を手に体を弾ませて歩き
 まわった。 
・大尉の手紙には、調査団が編成され出発する地はサンフランシスコが予定され、それに
 ついては次の手紙で報せるが、彦蔵もサンフランシスコに来てもらうことになるだろう、
 と追伸に書かれていた。
・サンフランシスコに行くには船賃がかかり、出発の準備のためにもまとまった金がなけ
 ればならぬと考えた彦蔵は、ケアリーに手紙を出し、自供を説明して金を貸してほしい
 と、と頼んだ。 
 折り返し返事が来て、そこには銀行小切手が同封されていた。
 手紙には必要ならばいつでも再び金を送る、と記されていた。
 彦蔵は、小切手を受け取ったことを感謝している旨の返事を書いて送った。
・彦蔵は、ブルック大尉からの手紙をサンダースに見せた。
 サンダースは、夫とともに、彦蔵の念願がかなえらえることを喜んでくれた。 
・夕食後、サンダースが思いがけぬことを口にした。
 サーダースは、むろん勇之助が日本側に受け入れられたことを知っていたが、
 「ヒコノ場合ニハ、心配ナコトガアル」
 と、暗い表情で言った。
 日本ではキリシタン禁制を重要な政策の一つとしていて、開国したとはいえ、それが廃
 棄されたという情報は得ていない。
 「妻ガ、ヒコヲカトリック教会ニ連レテ行キ、洗礼ヲ受ケサセタコトヲ、今ニナッテ後
 悔シテイル」
 サンダースは、顔をしかめた。
・彦蔵は、自分の顔から血の色が引くのを意識した。
 洗礼を受けた時は、日本で神道や仏教の信者になるように、アメリカで生活するにはキ
 リスト教の信者になるのが自然だと考え、サンダース夫人のすすめにしたがった。
 その後、彦蔵は、日本ではキリスト教の布教が禁じられ、キリストの蔵を刻んだヒ手を
 足で踏むことによって信者でない証拠としているという話も耳にした。 
 海外生活を経験した漂流民は、まずキリスト教の信者になっているかどうか、厳しく追
 及されるという。
 勇之助も下田に上陸後、その点を調べられ、踏絵も強いられたにちがいない。
・自分はカトリック教会で洗礼を受け、ジョセフ・ヒコという洗礼名まで与えられている。
 それを隠そうと思えば隠せぬことはないだろうが、日本を訪れるアメリカ人の口からも
 れた場合、禁制であるだけに極刑に処せられるに違いない。
・「ソレデ考エダノダガ、アメリカニ帰化シタ方ガイイト思ウ」
 サンダースは、静かな口調で言った。
 「帰化?」
 ヒコには初めて聞く単語であった。
・「アメリカ国籍ニナルトイウコトダ。アメリカ人デアルナラバ、洗礼ヲ受ケタ身デモ、
 日本ヘノ入国ハ一切問題ナイ」 
 彦蔵の頭は、混乱した。
 ジョセフ・ヒコという洗礼名を与えられはしたが、自分はあくまでも日本で生まれ育っ
 た日本人であり、実名は彦蔵で、アメリカ人などになる気はない。
 「ドウカネ」サンダースがヒコの顔を見つめたが、彦蔵は返事もできず口をつぐんでい
 た。 
・考えもしなかったことであった。
 アメリカ船に救出され、アメリカの地でサンダースをはじめ多くの人の温情で生きてき
 た彦蔵は、感謝の念をいだいているが、アメリカ人になるなどとは想像すらしていなか
 った。
・彦蔵は、落ち着きなく眼をしばたたいた。
 母の顔が、目の前に浮かんだ。
 もしも母が生きていてこのことを耳にしたら、母は驚き、卒倒するにちがいない。
 御先祖様に申し訳がなく、自分が日本人であるのを放棄したことを嘆いて、自ら命を絶
 つかもしれない
・「国籍ハ重要ナ問題デハナイ。アメリカニ帰化シテモ、ヒコガ日本人デアルコトニ替ワ
 リハナイ」
・サンダースは、少し黙って彦蔵の横顔を見つめていたが、
 「今、大事ナノハ帰国スルコトダ。ソレニハ帰化スル方ガ、万事ウマクユク。今夜一晩
 ヨク考エテ欲シイ」
・アメリカに帰化してもヒコが日本人であることに変わりはない、といった言葉が身にし
 みた。
 たしかに髪を短く整え洋服を着、靴をはいてアメリカ流儀の料理を毎食口にしていても、
 自分は日本人であることに変わりはない。
 支障なく帰国するには、帰化する方が万事うまくゆく、とサンダースは言った。
 キリシタン禁制の政策をとる日本人に無地入国するには、その方法がもっとも無難なの
 だろう。
 サンダースは、ヒコが見せたブルック大尉の手紙で帰国できることを知った時から、
 それを実現させるためにあれこれと思案していたのだろう。
 その結果、彦蔵が洗練を受けたことが重大な支障になると考え、それを回避するために
 は帰化させるのが有効と判断したにちがいなかった。
・サンダースは、慈父のごとく自分の身を心から思ってくれている。
 彦蔵にとって最も大切なのは、日本に帰ることだ、と言った。
 それは破船し漂流していたときから切に願い続けてきたことで、ようやくその望みがか
 なえられようとしている。
 如何なる犠牲を払っても日本へ帰りたい。
 日本へ帰ろう、と彦蔵は胸の中で叫んだ。
・翌日、朝食を終えた彦蔵は、
 「帰化シマス」
 と、サンダースに言った。
・「ソレガイイ。万事ウマクユク」
 サンダースは何度もうなずき、前日口にした言葉を繰り返した。
・帰化の手続きはどのようにするのか、サンダースはすでに調べ上げていて、ボルチモア
 の地方裁判所へ行こう、と言った。
 夫人は、彦蔵を洗礼させたことが帰国の大きな障害になるのを知ってすっかりふさぎこ
 んでいたが、彦蔵が引かすることを口にすると、安堵したらしく表情が明るんだ。
・地方裁判所に入ったサンダースは、初期のスパイサーと話し合った。
 スパイサーはうなずき、立つと書類を手にしてもどってきて、サンダースと彦蔵の前に
 置いた。 
 保証人の欄にサンダースが署名し、帰化申請者の欄に彦蔵はジョセフ・ヒコと書いた。
 スパーサーは立ち、書類を手に部屋を出て行った。
 二人は、少し待たされた。
 スパイサーがもどって来て、
 「帰化ガ認メラレマシタ。証明書ヲオ渡シシマス。善良ナアメリカ合衆国市民トシテ生
 涯ヲオ過ゴシクダサイ」
 と言って、書面を彦蔵に渡した。
 証明書には、地方判事ジルとともにスパイサーの署名が記されていた。
・彦蔵は、あまりにも簡単に手続きを終えたことに驚きながら、またしてあった馬車にサ
 ンダースとともに乗った。 

・ブルック大尉から、彦蔵を調査団の書記に任命するという公式書類が送られてきた。
 冒頭に海軍大臣の命令により任命すると書かれ、郵船でニューヨークからサンフランシ
 スコに行き、到着次第私のもとに出頭せよ、と記され、指揮官J・M・ブルック海軍大
 尉と署名されていた。
 ブルック大尉の好意に、目頭が熱くなった。
・公式書類に、ブルック大尉の私心が添えられていた。
 そこには、大尉が部下の士官、水兵とニューヨークからサンフランシスコ向け先行する
 と記され、ニューヨークの税関吏をしている大尉の弟に彦蔵の郵船許可などの便宜を図
 るよう指示してあるので、弟のもとへ行くように、と書かれていた。
・彦蔵はサンダースと馬車に乗った。
 婦人をはじめ家族と召使たちが見送りに出て、彦蔵は感謝の言葉を述べ、動き出した馬
 車の中で手をふった。  
 駅に行く途中、サンダースは、
 「昨夜書イタ手紙ダ」
 と言って、分厚い封筒を彦蔵に渡した。
 駅に着くと、サンダースは、
 「サヨウナラ。無事ヲ祈ル」
 と言って、彦蔵の手を強く握った。
 彦蔵の胸に熱いものが突き上げてきた。
 今後、おそらく二度とサンダースに会うことはなく、老父と別れるような悲しみにおそ
 われた。
・座席に腰をおろした彦蔵は、サンダースが渡してくれた手紙の封を切った。
 それは驚くほど長文のもので、サンダースは、彦蔵に堪えず父親のような感情をいだき
 つづけ、それに対して彦蔵は、終始誠実、高潔、忠実で、恩義にあつく、友人のみなら
 ずあらゆる人々の信用と尊敬を得てきた、と記されていた。
・最後に、彦蔵と別れるのは残念だが、彦蔵の将来のことを思うと元気づけられると書か
 れ「君の繁栄と将来の幸福を心から願って」という文章で結ばれていた。
・読み終えた彦蔵は、顔を伏して嗚咽した。
 手紙の文面は、サンダースが自分のことを心から思ってくれている真情があふれていて、
 まさに慈父であり、再びサンダースと会えぬことが悲しかった。
・彦蔵は、サンダースに子がないことをあらためて思った。
 サンダースがサンフランシスコで税関長をしていた時、初めて会った自分を家に引き取
 ったのは、息子のように感じたからではないのか。
 その後、自分に接しているうちにその思いはさらに強まり、夫人もわが子のように考え
 るようになったにちがいない。
 手紙には、実の子に対する以上の深い愛が込められている。
 
十五
・翌日、ニューヨーク駅に着いた彦蔵は、メトロポリタンホテルに行き、部屋をとった。
 朝食後、税関に行ってブルック大尉の弟に会った。
 弟は、すべてを承知していて、海軍からの彦蔵の旅費三百ドルを渡してくれ、さらに
 蒸気船「モーゼル・テイラー号」に乗るように指示した。
 彦蔵は二等で行くと答えた。
・大尉の弟は、親切にも「モーゼル・テイラー号」の所属する太平洋郵船会社の事務所に
 いて社長に会い、二等料金で一等船客の乗船券を特例として交付して欲しい、と頼んだ。
 しかし、社長は規則を曲げるわけにはゆかぬ、と承諾しなかった。
・その日、港に行った彦蔵は乗船した。
 彦蔵は動き出した船のデッキからニューヨークの町を見つけていた。
 その時、
 「ヒコ、ヤハリ、君か」
 という大きな声がして、船長の服を着た男が近寄り、彦蔵の手を握った。
 それは漂流後救出されてサンフランシスコに着き乗船した税関監視船「ポーク号」の
 高級士官マックゴワンで、「モーゼル・テイラー号」の船長になっていた。
・マックゴワンは、彦蔵の傍らを離れたが船が郊外に出ると、再び姿を現し、船長室に導
 いた。   
 彼は、彦蔵が二等切符を持っていることを知っていて、事務長に呼ぶと一等船室を用意
 するよう指示した。
・船はアスピンウォールまで行き、サンフランシスコに行く乗客は、地峡部を蒸気車でパ
 ナマに行き、そこで待っている「ソノラ号」に乗る。
 「ソノラ号のボビー船長は親シイ。私モパナマニ行キ、君ニボビー氏を紹介スル」
 マックゴワンは、そんなことまで言ってくれた。
・公開は、マックワゴンの配慮で快適だった。
 食事の折には、最上席の船長の食卓で取ることができ、料理はよく、給仕人は心を込め
 て気を配ってくれた。 
・翌日、彦蔵は、マックゴワン船長と朝食をとり、上陸して蒸気車に乗った。
 地峡部を越え、パナマに行った。
 マックゴワンは彦蔵を「ソノラ号」に連れて行き、ボビー船長に紹介すると、
 「十分便宜ヲハカッテ欲シイ」
 と、頼んだ。
 ボビーは、ここ良く承諾した。
・ボビー船長は、事務長を呼び、彦蔵を紹介して上等の船室を提供するよう指示した。
 事務長は諒承し、ボーイが一等船室に彦蔵を案内した。
 食事は、船長のテーブルにつぐ事務長のテーブルでより、料理も「モーゼス・テイラー
 号」と同じように良質だった。
 船長も、事務長も、彦蔵が日本の漂流民であることに強い関心を寄せ、体験を聞こうと
 してしばしば船長室に招いた。
・そのうち、船長と事務長からきいた一等船室の乗客たちが彦蔵に近づき、親しげに声を
 かけるようになった。 
 彦蔵が散策のためデッキに出ると、人びとが集まってきて自然に人の環ができる。
 夕食後、人びとの招きに応じて彦蔵は、彼らと酒を飲みながら過ぎ去った日々のことを
 語った。
・彼らが知りたがったのは、日本のこと、日本人のことであった。
 日本については、ペリー艦隊の遠征で東洋に日本という島国が存在しているといった程
 度の知識しかなく、未開の地と思い込んでいるようだった。
 彦蔵が全国に多くの藩があって大名が領民を治め、さらに将軍がそれらの大名を統率し
 ていると述べると、日本が大統領を首長としたアメリカ合衆国と同じような政治形態を
 して、と感心した。
・学校は、という問いに日本では寺子屋という小規模な私立学校が全国各地にあり、日本
 人の半ば以上は読み書きに通じている、と説明すると、船客たちは信じがたいという顔
 をした。 
 そのような文化度の高い国とは到底思えぬようであった。
・上陸してサンフランシスコの町のホテルに入った彦蔵は、ブルック大尉に命令されてい
 た通り、測量調査艦の艤装を監督している大尉のもとに、すぐに出頭した。
 喜んで迎い入れてくれた大尉は、艤装が終了次第迎えに行くから、サンフランシスコの
 町で待っているように、と言った。 
・町に戻った彦蔵は、同じ「永力丸」の水主であった同郷人の治作に会いに勤務先のウェ
 ルズ・フェーゴ商会に行った。
 治作は元気で、彦蔵がもどってきたことを喜んだが、彦蔵が来るのを待っていたらしく
 予想もしなかったことを話しはじめた。
・二が月近く前の六月、税関から、イギリスの商船「カリビアン号」が入港したが、
 その船に明らかに日本人と思われる漂流民十二人が乗っているので、事実かどうか確か
 めてほしいという依頼を受けた。 
 日本語が少しできる貿易会社スウィニー・アンド・ボー商会につとめているバン・リー
 ドも同じ指示を受けて、治作のもとにやってきた。
・二人は、税関の役人に案内されて、半信半疑の思いで「カリビアン号」に行った。
 甲板に男たちが出てきたが、治作はまぎれもなく彼らが日本人であるのを知った。
 薄汚れて破れたりしていたが着物を着、足袋をつけて草履をはき、さらに丁髷を結って
 いた。 
・彼らは、膝に手を当てて治作とリードに深く頭をさげた。
 治作をアメリカ人と思っていることは明らかだった。
・治作が日本語で話しかけると、彼らは眼をみはり、驚きでしばらく口がきけないほどで
 あった。 
 治作は自らの素姓を告げ、漂流民としてこの地で過ごしていることを説明した。
・税関では、彼らの調書を作成する必要があり、その日から治作は「カリビアン号」に通
 い、バン・リードの助けを借りて彼らの話を聴取し、税務官吏に英語で伝え、管理は記
 録した。 
・漂流民たちは、尾張国知多郡半田村、(愛知県半田市半田)の七三郎と船頭とする
 「永栄丸」乗組みの者たちで、前年の安政四年(1857)年十一月に半田を出帆した。
 下田に向かったが、途中でにわかに西風が強まり、激浪にさらされるようになって舵が
 破壊され、航行の自由を失った。
 船は、風波に翻弄されて沈没の危険が迫ったので、帆柱を切り倒し、刎ね荷を繰り返し
 た。
・坊主船となった船は、東へ東へと漂い流された。
 米を積んでいたので食べ物には不安はなく、飲み水は雨水をためて渇きをしのいだ。
・破船してから五カ月後の四月、大海原しか見えなかった水平線上に白帆が見え、近づい
 てきた。 
 「永栄丸」に気づいたイギリス商船「カリビアン号」で、船頭七三郎ら十二名は救出さ
 れた。
・「カリビアン号」は、清国からサンフランシスコに行く途中であった。
 積荷以外に五百人ほどの清国人を乗せていて混雑をきわめていたが、船長ウインチェス
 ターは、七三郎たちのために乗組員の船室を空けてくれた。
 船長は親切で、洋服、帽子、靴などを与え、食事にも気を配り、しばしば見回ってくれ
 た。
 船は疾月にサンフランシスコに入港、清国人全員が下船し、積荷もおろした。
・彼らに会いに行った治作らに地元の新聞記者も同行していて、興味をいだいた記者によ
 って記事になり、それはニューヨーク・タイムズにも転載された。
 紙面に大きく扱われていて、治作とバン・リードが「カリビアン号」を訪れて七三郎ら
 と対面したことが冒頭に紹介されていた。 
・「それらの者たちに会ってみたい」
 新聞から目を上げた彦蔵は、治作に言った。
 「今は、この地にいない。カリビアン号は、彼らを乗せたままこれから北にあるランコ
 ウバイレンに金鉱堀りの清国人や異国人を乗せて出帆していった。しかし、八月中旬に
 はサンフランシスコに戻る、とウィンチェスター船長が言っていた」
 「まちがいなく、この港に帰ってくるだろうか」
 心配になった彦蔵は、治作の顔を見つめた。
・「その気づかいは要らない」
 治作は、理由を説明した。
 新聞に載った「永栄丸」漂流民の記事は、サンフランシスコ市民の反響を呼び、漂流民
 たちが切に帰国を望んでいることに同情が寄せられた。 
 日本との条約を締結したアメリカが彼らを帰国させれば、日本との友好関係は深まり、
 アメリカの国情を眼にした彼らは相互理解のために必ず役立つはずだ、という声が高か
 った。
 市民の間に漂流民を日本に帰すため政府に訴えようという署名運動が起こり、ブキャナ
 ン大統領あての嘆願書が作成され、すでにワシントンに郵送されたという。
・彦蔵は、治作とバン・リードにしばしば会ったが、親しかったトマスは近郊の町に行き、
 亀蔵は沿岸航海をする貨物船に乗っていて会うことができなかった。 
・八月、「カリビアン号」がサンフランシスコ港に戻ってきた。
 彦蔵は治作とともに「カリビアン号」に行き、七三郎らと会った。
 彦蔵は、その後一人で「カリビアン号」に行き、「永栄丸」の漂流民たちに会うことを
 繰り返した。
 サンフランシスコで会った漂流民の勇之助が、アメリカ船で下田に送られて日本側に受
 け入れられたことなどを話し、彼らを励ました。
・「永栄丸」漂流民の送還について、サンフランシスコの有志からブキャナン大統領に送
 られた嘆願書の回答が来たが、それは思わしいものではなかった。
 送還のための船を出すことはできず、その代わりにいずれかの船に乗って日本へ向かう
 折の船賃は負担するという。
・有志たちは協議を重ね、漂流民たちを救出した「カリビアン号」が香港に向かうので、
 彼らを乗せて香港に送り届けることになった。
 彦蔵は、はたして彼らが清国から日本へ帰れるかどうか危ぶんだ。
・「永栄丸」漂流民十二名を乗せたイギリス船「カリビアン号」が出港した。
 その後、「カリビアン号」は、太平洋上を西進し、日本暦の安政五年十月に香港に着き、
 七三郎ら漂流民は、下船した。
・日本語を話せるイギリス人が世話をし、役所に行くと、そこには庄蔵船の漂流民力松が
 いて、通訳にあたった。
 「永栄丸」の漂流民の一人である徳太郎の「談話筆記」には、「(力松は)漂流民たち
 は、十月にイギリス蒸気船に乗って香港を離れ、艦は福州に寄港後、上海に着いた。
 上海で彼らは、「宝順丸」漂流民の乙吉の世話になったが、「知多漂民異談」に乙吉の
 生活が「我国の一万石」の大名のようだと記され、豊かに暮らしていることを示してい
 る。  
・船は上海を出港して長崎に向かい、三日後に入港した。
 イギリスがこれら十二名の送還に努めたのは、日英修好通商条約が結ばれ、日本との友
 好関係を深めようとしたからである。
 彼らは生国の領主の家臣に次々に引き取られたが、船頭の七三郎は、帰郷寸前に長崎で
 流行のこれらで死亡した。

・彦蔵を乗せた「クーパー号」は、太平洋を進み、途中、海底の総量調査を繰り返しなが
 ら、ハワイのホノルルに入港した。
・彦蔵は上陸してハワイの町を歩きまわっていたが、ブルック艦長から「ハブマック号」
 というアメリカの捕鯨船が、日本人漂流民を乗せて入港してきたと言う話を聞いた。
・ハワイにも漂流民がいるのかと驚いた彦蔵は、ボートを出してもらい「ハボマック号」
 に行った。
 漂流民は勘太郎と喜平の二人であった。  
 彼らの話によると、前年(安政四年)の十二月に尾張国知多郡亀崎村(愛知県半田市亀
 崎)の「神力丸」に乗って江戸を出帆した。
 船頭代理源弥以下五人乗り組みであった。
 尾張に戻る途中、遭難して漂流、翌年(1858)二月にアメリカ捕鯨船「チャーレス
 ・フィリップ号」に救出された。
 その後、海上で捕鯨船「ハボマック号」に出あい、「ハボマック号」は人手不足であっ
 たので勘太郎と喜平が移され、二人は仕事を手伝いながら、ハワイに入港してきた。
 ハワイを基地に捕鯨をおこなうアメリカ捕鯨船が急激に増していたので、漂流していた
 「神力丸」が発見されたのである。
・勘太郎と喜平は、英語も流暢な彦蔵になんとか日本へ帰れるようにしてほしい、と手を
 合わせて懇願した。
・ハワイに来てから親しくなったハワイ王国の検事総長ベイツに、彦蔵は助力を請うた。
 ベイツは「ゲテアン号」というオランダ貨客船が清国に向かう途中、日本の長崎に寄港
 するという話を聞いていると言い、彦蔵を「ゲテアン号」に連れて行ってくれた。
 彦蔵が勘太郎と喜平を長崎に送り届けてほしいと頼むと、船長は快く承諾してくれた。
・翌日、彦蔵は貫太郎らが雇われている「ハボマック号」にベイツと行き、二人の下船を
 船長に懇願した。  
 誠実に働く二人に好意を持っていた船長は、彦蔵の願いを入れてくれた。
 勘太郎と喜平は泣いて喜び、彦蔵とベイツに何度も頭をさげた。
 二人は「ゲテアン号」に乗り、長崎に向かった。
 彼らが長崎に着いたのは、翌安政六年一月で、それぞれ生国の領主の家臣に引渡された。
・入港してきた船の一艘に、またも日本の漂流民一人が乗っているという話を聞き、彦蔵
 は出向いて行った。 
 彦蔵が近づき、
 「私は日本人で彦蔵という者だ。この船に日本人がいると聞いてきた。名は何と言う」
 と、たずねた。
 男の眼におびえのいろがうかび、膝をついた。
 日本語で話しかけられたものの、金ボタンのついた海軍の軍服を身につけた金筋の入っ
 た制帽をかぶった彦蔵を、日本人とは思えぬらしかった。
・彦蔵は、自分も漂流した身で海軍の船で日本へ帰る途中であると説明し、ようやく男は
 落ち着いてようだった。 
・彦蔵は、男に捕鯨船に乗っている事情をたずね、男は膝をついたまま政吉という名を口
 にし、捕鯨船に救出されるまでの経緯を説明した。
 政吉は淡路島の出身で、淡路と紀州(和歌山県)間の沿岸を航行する「住吉丸」の水主
 になっていた。
 船頭は吉三郎で、政吉ら二人の水主の三人乗りであった。
 紀州で蜜柑を積み込み、伊勢に向かい途中、安政三年十月に大時化に遭って破船、漂流
 した。
 沿岸航海の船なので食料も一定限度しか積んでいなかったため、激しい飢えにさらされ
 た。
 食物は完全につき、水主に次いで船頭が餓死し、政吉だけになった。
 政吉も死がせまったが、近くを通った捕鯨船に救出され、体も恢復して捕鯨の仕事に従
 事し、ハワイに着いたのだという。
・彦蔵は、
 「重ねて言うが、私は日本人だ、さ、立ちなさい」
 と、声をかけた。
 男は、急に手を突くと、
 「お願いです。あなた様は、アメリカの船で日本へ帰る途中だとおっしゃいました。ど
 うぞ私もあなた様の船で連れて行ってください」
 と言うと、頭を何度もさげた。
・彦蔵は、男を見下ろした。
 淡路島は、故郷の村の海岸から見えるなじみ深い島で、そこに生まれ育ったという政吉
 にひとしおの感慨をいだいた。  
・政吉をこのまま放置すれば、ハワイにとどまり、やがて春になって出漁する捕鯨船に乗
 り、船員となって労働に従事する。
 おそらく帰国の機会はなく、生涯を捕鯨船員として終えるかもしれない。
 「できるかどうかわからぬが、考えてみる」
 またくるからと言って下船した。
・「クーパー号」へ戻る道を歩きながら、彦蔵は思案した。
 「クーパー号」は小艦で、ブルック艦長をはじめ大尉、技師、書記の彦蔵とコックを含
 む十七人の水夫計二十一名が乗り、それが定員で政吉を乗せる余地はない。
・彦蔵は、体調を崩していた。
 サンフランシスコからハワイに車で台風や暴風雨に遭って船酔いに苦しみ、ハワイに着
 いてからも激しい消化不良が続いていた。
 再び艦に乗る気にはなれず、このままハワイにとどまって静養したかった。
・自分の代わりに政吉を乗せてもらおうか、と思った。
 書記に任じられているとは言え、それはブルック船長が自分を帰国させようという好意
 によるもので、同じように日本へ帰りたいと切望している政吉を受け入れてくれるので
 はないだろうか。
・「クーパー号」に戻った彦蔵は、早速、ブルックに自分の考えを述べた。
 静かに聞いていたブルックは、
 「ヨロシイ、承知シタ。ヒコト別レルノハ悲シイガ、ソノ哀レナ日本ヲ日本ヘ送リ届ケ
 テヤロウ」
 と、言った。
・彦蔵は、政吉を雇っている捕鯨船の船長に会い、解雇してくれるよう頼んだ。
 船長は、快諾していくれた。
・政吉は涙を流して喜び、彦蔵は彼を「クーパー号」に連れて行った。
 ブルックは、政吉を水夫見習いとして月給十二ドルで乗組契約をしてくれた。
 やがて「クーパー号」はホノルルを出港していった。

・1859年(安政六年)の新年をハワイで過ごした彦蔵は、ようやく体調が復したのを
 感じた。
 三月に入って間もなく、サンフランシスコから香港行きの快速大型帆船「シー・サーペ
 ント号」が入港してきた。
 この船には高級船客が多く乗っていたが、その中に思いがけずバン・リードがいるのを
 知った。
 サンフランシスコで最も親しかった友人の一人であった。
・リードは、「クーパー号」でサンフランシスコを離れて日本に向かった彦蔵がハワイに
 いることをいぶかしみ、事情を知って「シー・サーペント号」で同行するよう強く勧め
 た。 
・彦蔵の主事金は二十ドルだけど、そのような高級船に乗ることはできなかったが、彼は
 リードとともに日本へ行きたかった。 
 思いあぐねた彦蔵は、ハワイにとどまっている間に親しくなった有力者のハンクスに旅
 費の件で相談した。
 旅費を借り、日本に帰ってから返金しようと思ったのである。
・話を聞いたハンクスは、「シー・サーペント号」の船長と親しいと言い、
 「スベテ私ニマカセテ欲シイ」
 と、船に乗るようすすめた。
・彦蔵は、不安をいだきながらも、出港する「シー・サーペント号」に乗るため波戸場に
 行った。  
 そこに思いがけずハンクスが待っていて一等客の切符を渡してくれ、金を払おうとする
 彦蔵を手で制し、
 「船長ト諒解ズミダ。乗船シタラ読ムヨウニ・・・」
 と言って手紙を渡した。
・彦蔵は、いぶかしみながらもハンクス感謝の言葉を述べて握手し、波止場にやっていた
 バン・リードと乗船した。 
 彦蔵は、デッキでハンクスからの手紙の封を切り、読んで見た。
 文字を追う彼の眼に、涙が湧いた。
 内容は、ハンクスが知人たちに彦蔵が帰国の旅費に窮しているのを伝えたところ、たち
 まち寄付金が集まり、それによって一等客船の切符を入手し、彦蔵に渡したのだという。
・船は順調に航海し、香港の港に入り、錨を投げた。
 下船した彦蔵は、なつかしい香港の町を歩きまわった。
 「シー・サーペント号」は積荷の関係で碇泊をつづけていた。
・香港に着いてから十一日後、ホイットモア船長が商用で広東に行くが、一緒に行かない
 か、と誘われ、同行した。  
 小型船に乗って広東について船長は、イギリス領事館に行った。
 イギリスは清国を半ば植民地化していて、船長は便宜を図ってもらうため訪れたのであ
 る。
・船長が応接室で館員と打ち合わせをしている間、応接室の外にいた彦蔵は庭に出ようと
 して出入り口に歩きかけ、不意に足をとめた。
 館外から男が入って来て、その顔を見た彦蔵は短い叫び声をあげた。
 男も口半ば開き、立ちすくんでいる。
 「彦蔵」
 男の口から、うめくような声がもれた。
 意外なことに同じ「永力丸」に乗って漂流した水主の岩吉であった。
・彦蔵は、驚きで眼をみはり、早口に香港に来た経過の概要を説明した。
 しかし、かれは、うわずった声で話しながら岩吉を正視できぬような悲しみを覚えた。
・彦蔵が話し終えると、岩吉は、
 「そんなに長くアメリカにいたのか。よく清国に戻れたな」
 と、呆れたように言った。
・こんどは、質問するのは彦蔵の方だったが、彼はきくのが恐かった。
 「他の人たちは、どうしています」
 彦蔵は、ようやく口を開いた。
 不意に、岩吉の顔に動揺の色が浮かび、
 「仙太郎は、一人サスケハナ号に残された」
 と低い声で言った。
・炊であった仙太郎に、見習の炊であった彦蔵はこまごまとしたことで世話になった。
 「なぜ一人だけが・・・」
 彦蔵は、岩吉の浅黒い顔を見つめた。
 「例の乙吉という天竺の女を女房にしていた羽振りの良い男が、いただろう。奴がおれ
 たちを唐船に乗せて長崎へ送ってやるとか言って、サスケハナの艦長に掛け合ってこれ
 たちを船からおろしてくれた。  
 しかし、船長は仙太郎だけは残せと言って、一人残された。
 哀れな奴だ。
 泣いていたが、今頃、どうしているか」
・彦蔵は、茫然とした。
 仲間から離され、ただ一人艦に残された仙太郎の悲しみが胸に迫った。
 言葉もほとんど通じぬアメリカの士官や水兵たちの間で、どのように日々を過ごしたの
 だろう。 
 絶望の余り、自ら命を絶ったのではあるまいか。
 いつも穏やかな眼をした仙太郎の顔が目の前に浮かびあがった。
・「他の方たちは」
 彦蔵は、辛うじて言った。
 「唐船に乗せてやるという乙吉の言葉に従って、おれたちは乍浦という港町に行った。
 長崎へゆく唐船の出船地だが、いつまでたっても船の出る気配はない」
 岩吉は、彦蔵に顔を向けたが、その表情はゆがんでいた。
 「この国は、長い間戰続きで乱れに乱れている。交易などのんきなことをしているゆと
 りはないのだ。唐船は初めから出ることなどなく、乙吉に騙されたのだ。それでおれは、
 一人離れて上海に戻った」
・「なぜ、この領事館に・・・」
 岩吉は、こぎれいな洋服を身につけ、短い髪には油が光っている。
 不自由な生活をしているとは思えなかった。
・「長い間、イギリスの商館に勤めていたが、どうしてもと誘われて、この領事館の通弁
 役になった」 
 岩吉は、急に得意気な表情をして言葉をつづけた。
・広東領事のオールコックが駐日総領事に任命され、商社に勤めている岩吉に目をつけた。
 岩吉は英語に通じるようになっていて、日本へ赴任するオールコックは岩吉を通弁役と
 して日本へ連れてこうとしているのだという。 
 「イギリス様のおかげで、おれは晴れて帰国できる。清太郎たち仲間と離れたのは、賢
 明だったのだ。おれは上海に逃れたときに、見つけ出されぬよう伝吉と名を改めた。
 それで商社の者たちは、おれをダン・ケッチ、略してダンと呼び、この領事館でもダン
 と言われている」
 岩吉は、口もとをゆるめた。
・彦蔵は、炊をしていた頃、岩吉の性格をつかみかねていた。
 絶えず何かを考えているような眼をしていて、気が短く独自の動きをする。
 仲間からただ一人離れたというも岩吉らしかった。
 いずれにしても、イギリス領事館に雇われ、帰国の望みもかなえられるのは喜ぶべきこ
 とであった。 
・広東から香港に戻って二週間たった頃、伝吉が船に彦蔵を訪ねてきた。
 オールコックが総理児として日本へ向かうため広東を離れて香港に来て、伝吉も同行し
 てきたのだという。
 「主人のオールコック様が、お前に会いたいので連れてこいと言っている。おれについ
 てきてくれ」
 伝吉は、言った。
 彦蔵は承諾し、伝吉についてオール国庫の溜まっているホテルに行った。
・オールコックが近づき、よく来てくれた、と彦蔵の手を握り、椅子をすすめた。
 オールコックはアメリカでの生活をたずねた。
 彦蔵は、サンダースというアメリカ人の好意で十分とは言えぬながらも学校教育を受け、
 仲買会社に就職していたことなどをかいつまんで話した。
・オールコックは何度もうなずき、時にはおうと声をあげた。
 彼の眼には、彦蔵が流暢な英語を話すことに強い関心を寄せているらしい光が浮かんで
 いた。  
・彦蔵が辞そうとして腰をあげると、
 「ドウカネ。日本領事館ノ通訳にナラナイカ」
 と、やさしい口調でオールコックは言った。
 彦蔵は、初めてオールックが自分を招いた理由を知ったが、二つの理由を理由にして丁
 重に辞退した。
 一つは、すでに伝吉が通訳として雇われていて、自分が通訳になれば伝吉の職を奪うこ
 とになり、たとえ伝吉が解雇されなくても粗略に扱われることが予想される。
 第二は、アメリカに滞在中心温かい多くの人たちの世話になり、政府からも親切な扱い
 を受け、自分は深い恩義を感じている。
 自分としては、帰国するまで何の職にも就かず、日本に到着後、アメリカの外交官の指
 示に従って自らの職務を決めるべきであると考えている。
 「ヨクワカッタ。君ノ考エハ正シイ」
 オールコックは、気分を損ねた風もなくうなずくと、彦蔵の手をつかんだ。
・「シー・サーペント号」がアメリカに引き返すというので、彦蔵は下船し、友人のバン
 ・リードとともにアメリカ海軍軍需管理官スバイデンのすすめで、彼の家に世話になっ
 た。 
・アメリカの蒸気船「ポーハタン号」が入港してきて、同艦におもむいたスバイデンが朗
 報をもたらした。
 上海に、日本総領事から弁理公使に昇進したアメリカ外交官ハリスがいて、「ミシシッ
 ピー号」で近日中に日本に向かいという。
 ハリスは四年前の安政二年(1855年)に初代日本総領事に任命され、翌年通訳官の
 ヒュースケンをともなって下田に着き、下田条約を締結し、ついで、江戸に出て日米通
 商条約の締結に成功した。
 しかし、ハリスは健康をそこね、休養をとるため上海に来て滞在していた。
 帰国を願っている彦蔵のことを聞いた「ポーハタン号」の艦長は、ハリスのいる上海ま
 で送ってやる、と約束してくれたという。
・彦蔵は、艦長のもとに行って好意を謝し、ぜひ艦に乗せてほしい、と重ねて懇請し、
 バン・リードの乗艦許可も得た。
・自分はアメリカに帰化した身であり、ハリスが同行を拒む理由はない。
 改めて帰化を強く勧めたサンダースの深い配慮に感謝し、「万事ウマクユク」という言
 葉通りだ、と思った。
・二日後、彦蔵は、「ポーハタン号」の士官にともなわれて、「ミシシッピー号」に行っ
 た。艦長から乗艦許可を得ることとハリスに会うためであった。
・ニコルソン艦長に会ってこれまでの経緯を説明し、帰国の望みを伝えると、ニコルソン
 は、喜んで日本へ乗せてゆくと言ってくれた。 
 ついに日本へ帰れる手段を確実につかんだのを知った彦蔵は、胸に激しく迫るものを感
 じ、必死になって嗚咽をこらえた。
・艦長は、彦蔵をハリスのいる船室に連れて行った。
 長く白い髭をたくわえた気むずかしそうな顔をした男が、大儀そうに肘付きの大きな椅
 子に座っていた。ハリスであった。
 艦長が彦蔵の経歴を紹介すると、無言でうなずいていたハリスは、手を動かして椅子に
 座るようすすめた。
・彦蔵が向かい合って座ると、アメリカに何年いたか、どのような暮らしをしていたのか
 など、多くの質問をした。
 顔は無表情で会ったが、眼は興味を持っているらしい光が浮かんでいた
 アメリカに帰化したことも話すと、ハリスは少し口をつぐみ、彦蔵を見つめ、
 「その証明書ヲ私ニ見セナサイ。証明書ノ写シモ持ッテクルヨウニ・・・」
 と、言った。
・部屋に白い顎鬚をたくわえた長身の男が入ってきた。
 ニコルソン艦長が、この度神奈川領事に任命されたドールだと彦蔵に言い、彦蔵は握手
 した。  
 ハリスは、彦蔵がアメリカに帰化した日本人である、とドールに説明し、自分とともに
 「ミシシッピー号」で日本に行くことを伝えた。
・ドールは、彦蔵に時折り視線を走らせながらハリスと低い声で言葉を交わしていたが、
 彦蔵に顔を向けると、
 「私の領事館ツキノ通訳ニナリマセンカ」
 と、言った。
 思いがけぬ申出に、彦蔵は返事もできずハリスに視線を向けると、ハリスは、
 「君ハ適任ダ」
 と、言った。
 「ゼヒ通訳ニナッテ欲シイ」
 ドールの言葉に、彦蔵はうなずいていた。
・ハリスの部屋を辞して下艦した彦蔵は、「ポーハタン号」にもどった。
 嬉しさがこみあげてきた。
 領事館付き通訳という職を得て帰国できることに、思い切り叫び声をあがたいような喜
 びをおぼえ、興奮してデッキのうえを歩きまわった。
・翌朝、彦蔵は、帰化証明書とその写しを手に「ミシシッピー号」のハリスの部屋に行っ
 て渡した。   
 ハリスは、
 「神奈川に着イタラ、奉行ニ帰化証明書ノ写シヲ見セ、君ガアメリカ市民デ日本人デナ
 イコトヲ納得サセネバナラナイ」
 と、いかめしい表情で言った。
 彦蔵は、支障なく日本側に自分を受け入れてもらうには、それがよいのだ、と思った。
・「ミシシッピー号」を退艦した彦蔵は、波止場に上陸すると、A・ハード会社に泊って
 いる神奈川領事ドールを訪れた。
 ドールは喜んで迎い入れ、通訳生としての給与その他の取り決めをしてくれた。
 報酬は思ったよりはるかに良く、彦蔵は、あらためて領事館付きの通訳に雇われたこと
 に喜びを感じた。  
・A・ハード会社を出た彦蔵は、足をとめた。
 会っておきたい人物がいた。
 それは漂流民の乙吉であった。
 伝吉の話によると、乙吉が「サスケハナ号」に乗っていた水主たち十二人を艦から離れ
 させ、清国船で長崎へ帰させようとして乍浦に連れて行ったという。
 伝吉のみは乍浦から離れたが、残りの十一人は果たしてどうなったのか。
 むろん乙吉は知っているはずで、彦蔵は乙吉に会って彼らの消息を聞きたかった。
・乙吉は、イギリス商社の支配人としてオットサンと呼ばれ、その名は広く知られていて
 所在はすぐにわかった。 
 立派な家で、彦蔵は乙吉に迎え入れられ居間に入った。
・乙吉は、彦蔵の質問に答え、十一人の水主たちが清国船に乗って長崎に行き、奉行所に
 引渡されたと言った。 
 「ただし、安太郎という人は唐船が長崎に入津する直前に病いで死亡し、また京助さん
 という水主も長崎で死んだ、と唐船の者にききました」
 乙吉は、顔をしかめた。
・彦蔵は、無言でうなずいた。
 二人が死亡したとしても、水主たちのほとんどが帰国できたことに深い安堵をおぼえ
 た。 
・「乙吉さんは、日本へ帰る気はないのですか」
 彦蔵は、ためらいがちにたずねた。
 「私はいいのです。妻子もおりますし、仕事から離れることはできません。力松も同じ
 で、清国の土となる宿命なのです」
 乙吉の顔には、淋し気な笑いの色が浮かんでいた。
・彦蔵は、バン・リードとともにて荷物を抱えて「ポーハタン号」から「ミシシッピー号」
 に移乗した。
 リードは、日本語に通じるようになっていて、サンフランシスコで商社勤務をしていた
 実務経験を買われ、神奈川領事館の書記生として雇い入れられていた。
 彦蔵は、リードとともに日本に行き、同じ職場で働けることが嬉しかった。
・翌々日、「ミシシッピー号」の機関が始動し、上海を出発した。
 甲板に立って前方に眼を向けて立つ彦蔵は、感慨無量であった。
 九年前に破船漂流し、帰国をほとんど断念していたが、悲願がかなえられ、故国へ向か
 う艦に身を託している。  
 体が宙に浮いているような喜びが全身に満ちていた。
・上海を出港して二日後(安政六年五月)の夜、艦は長崎港口に達し、投錨した。
 翌朝早く起きた彦蔵は、甲板に出た。
 艦はゆるやかに進みはじめた。
 島のかたわらを過ぎ、港内に入ると、前方に長崎の町浪が見えてきた。
 「素晴ラシイ。美シイ港町ダ」
 傍らに立つリードが、感嘆の声をあげた。
  
十六
・イギリスの軍艦からボートがおろされ、「ミシシッピー号」に漕ぎ寄せてきた。
 乗艦してきた士官二人は挨拶のため訪れてきて、迎えた士官たちと握手を交わした。
 イギリス艦は「サンプソン号」で駐日総領事として赴任するオールコックが乗艦し、
 これから神奈川へ向かうという。
 彦蔵は、総領事館に通訳として雇い入れられた伝吉も乗っているはずだと思い、艦の甲
 板を見つめたが、それらしい姿は見られなかった。
・艦長のニコルソンが、彦蔵に近寄ってくると、
 「長崎ニハ下艦シナイヨウニ・・・。マタ地元民ノ誰トモ話ヲシテハナラヌ」
 と、厳しい表情をして言った。
・「ミシシッピー号は公使ハリスを神奈川に送り届ける使命を担っていて、彦蔵の身分上
 のことでいざこざが起きるとハリスがその処理にあたらねばならず、赴任が遅れる恐れ
 があるからだ、と説明した。  
・「サンプソン号」が出港し、「ミシシッピー号」はそれ追うように長崎を離れ、赤間関
 (下関)海峡を抜けて太平洋上を進み、下田に寄港した。
 そこには、ハリスの手足となって働いていた公使館書記官兼通訳官のヒュースケンがい
 て、直ちに乗船してきた。
 ヒュースケンは、その地でハリスが来るのを待っていたのである。
・艦は下田を出港、江戸湾に入り、神奈川沖に錨を投げた。
 近くにイギリス軍艦「サンプソン号」が碇泊していた。
・神奈川奉行を兼ねる外国奉行の酒井隠岐守忠行が、ハリス公使と神奈川領事に任命され
 たドールに挨拶のために来艦した。  
 彦蔵は、ハリスに呼ばれ、酒井と向き合って立った。
 ハリスは、彦蔵が日本の漂流民ではあるが、帰化してアメリカ市民となっていることを
 告げ、アメリカ人として扱うように要請した。
 彦蔵を無言で見つけていた酒井は、通詞の通訳でその言葉を聞くと、承知した、と答え
 た。
・翌日の午後、数人の艦の士官が彦蔵のもとにやってきて、
 「横浜ニ上陸シテ買物ヲシタイノデ、一緒ニツイテ来テ欲シイ」
 と、言った。
 彦蔵は承諾し、艦からおろされたボートに彼らと乗り、横浜町の船着所に上陸した。
 彦蔵は、足元の土を見つめた。
 それは故国の土であり、九年ぶりにその上に立っているのだ、と思った。
・彼は、士官たちと連れ立って村の中に入って行った。
 通商条約によって貿易は明日から開始されることになっていて、それに備えて運上所な
 どの役所や役宅、さらに各国領事館用の建物が建てられ、広い道の両側には多くの新築
 された商店が軒を並べている。
・彦蔵は、士官たちを連れて運上所に行き、ドルを日本貨幣と交換させ、士官たちは商店
 をのぞいて買物をした。  
 彦蔵は、士官たちが買おうとしている品物を吟味し、通訳する。
 商人たちは、彦蔵の口にする日本語に驚きながらも、洋服を着た彼を日本人とは思わぬ
 ようだった。
・その日は、神奈川領事のドールが領事館に定められていた「本覚寺」におもむくことに
 なっていた。
 艦からボートがおろされ、公使ハリス、ドール、「ミシシッピー号」艦長ニコルソンと
 士官たち、それに通訳彦蔵、書記生バン・リードが乗り、神奈川に上陸し、役人の案内
 で横浜村方面に歩き、本覚寺についた。
 寺の賃貸契約は済んでいて、僧たちは引き払ったらしく姿はなかった。
 境内に松の大木があり、枝を切り払ってそこにアメリカ国旗をかかげた。
 奉行所の役人や足軽たちは、黙って眺めていた。
・ハリスは、公使館を麻布の「善福寺」に置き、イギリス総領事オールコックは、高輪の
 「東禅寺」に総領事館を開設した。
 彦蔵は、神奈川領事館の仕事のかたわら、善福寺にもしばしば足を向けて公使館の家具
 の調達や日本人の料理人、掃除人などの雇入れに立ち会ったりしていた。
・そのようにこまめに動く彦蔵は、奉行所の役人や証人と接する機会が多く、自然に彼の
 存在は広く知られるようになった。
・六月、彦蔵は横浜村の運上所に日本硬貨の両替にゆき、帰途についた。
 背後から声をかけられ、振り向くと、横浜村で大きな店を構えている顔見知りの商人だ
 った。
 足をとめた彦蔵に近寄ってきた商人が、思いがけぬことを口にした。
 兵庫から江戸に荷を運んできた回船の船頭が、自分の弟がアメリカから神奈川へ来てい
 るという噂を耳にし、それが事実かどうか確かめたいと言っているという。
・「その船頭は、アメリカ帰りの男が紀州生まれだとも播磨生まれだとも聞いている、と
 言っていましたが、あなたの生国は?」
 「播磨です」
 彦蔵は、反射的に答えた。
・商人の眼が光をおび、
 「船頭も播磨生まれだと言っていましたが、兄さんがおるのですか」
 「義兄があります。船乗りでした」
 彦蔵は、自分の表情がこわばるのを感じた。
・「どうでしょう。その兄さんという人の家に出かけてみませんか。それとも領事館まで
 お連れしましょうか」
 商人が、彦蔵を見つめた。
・彦蔵は、首を振った。
 いずれは故郷の本庄村浜田にもどって義父や義兄に会いたいと思っているが、故国の土
 を踏んで一カ月もたたぬうちに、義兄と会えるなどとはあまりにも不自然過ぎる。
・「その船頭は、どこにおるのですか」
 彦蔵の問いに、商人は、品川の回船問屋の差配をしている者の家にいる、と答えた。
 「参りましょう。連れて行ってください。明日にでも・・・」
 と、彦蔵は言った。
・翌日は快晴で、約束通り商人が駕籠に乗って領事館にやってきた。
 商人は、昨日のうちに船頭のもとに手紙を出して家にいるように頼んだという。
 彦蔵は、駕籠に乗るのは生まれて初めてだった。
 窮屈な感じであったが、それにもなれて、右手にひろがる海を眺めながらゆられていっ
 た。
・やがて旅籠や茶屋のつらなる川崎宿をすぎ、玉川を舟渡しで渡り、品川宿に入った。
 商人は、宿場のはずれにあるがしっかりした構えの家の前で駕籠を止めさせた。
 商人は、家の格子戸をあけて奥に声をかけた。
 待っていたらしく、男が姿を見せ、恐るおそる家の外に出てきた。
・兄であった。義兄の宇之松であった。
 船頭らしい風格をそなえていたが、その風貌は少しも変わりはない。
 しかし、宇之松の眼にはあきらかに人まちがいであるという落胆の光が浮かんでいた。
 彼は、商人に顔を向けて口もとをゆがめ、ばつの悪そうな表情をし、再び彦蔵に視線を
 戻した。 
 宇之松が自分を義弟と気づかぬのが悲しかったが、無理はないのだと思った。
・彦蔵は一礼し、口を開いた。
 「お義父さんは、今どちらにおりますか」
 宇之松は、口をつぐんでいる。
 彦蔵は、宇之松に自分が義弟であるのを知ってもらいたいと思い、
 「叔母さんはお元気ですか。隣家の作兵衛さんはかなりの高齢でしたが、まだ生きてお
 りますか。義父と親しかった永力丸の船頭万蔵さんは、ハワイという島で病死しました」
 と、口早に言った。
・彦蔵は、言葉をつづけているうちに宇之松の眼が大きくひらき、自分を食い入るように
 見つけているのに気づいた。  
 ようやく宇之松が自分を義弟と認めはじめているのを知った。
 しかし、その目には依然として疑わしそうな光が消えず、宇之松は、彦蔵の顔や服装に
 視線を走らせている。
・彦蔵は、疑念を解くように漂流してアメリカに長い間住み、ようやく帰国の願いがかな
 って神奈川に上陸し、今ではアメリカ領事館の通訳として働いている事情を語った。
 「そんなことから、このように髪を切り、異国の服を着ているのです」
 彦蔵は、自分の服装に眼を向けた。
・こわばった宇之松の表情がゆるみ、
 「すっかり変わったので見ちがえた。彦太郎か」
 と、彦蔵の幼名を口にした。
 彦蔵は、何度もうなずいた。
・宇之松は、ようやく彦蔵を義弟と認めたらしく近づき、
 「叔母さんは元気だ。隣の作兵衛さんは今年が七回忌だ」
 と、言った。
・「お義父さんは、達者ですか」
 彦蔵の気にかかっていたことであった。
 宇之松は、視線を落とすと、
 「三年前の春、脳卒中で倒れ、そのままこの世を去った」
 と、言った。
 彦蔵は、無言でうなずいた。
 九年という歳月の長さが思われ、義父に孝行ができなかったことに胸が痛んだ。
・「村にお前と同じ船に乗って難に遭った者たちがもどり、家族たちは泣いて喜んだ。
 一時はそのことで村は大騒ぎだった。しかし、お前は治作たちとアメリカへ行った由で、
 行方は知らぬという。もう死んだものと諦めていた。それがこのように会えるとは」
 宇之松は途切れがちの声で言うと、不意に声をあげて泣きはじめた。
 彦蔵も、胸に熱いものが突き上げた。
・その夜、彦蔵は、自分の部屋でぼんやりと椅子に腰をおろしていた。
 早くも義兄に会って、義父の吉左衛門の死を知ったことをあらためて不思議に思った。 
 母はすでに亡く、むろん宇之松とは血のつながりはない。
 自分のふる里は、回船の行き交う播磨灘の海しかなく、故国に戻りはしたが、身を寄せ
 るところのない、孤独の身であるのを感じた。
 
・幕府は、通商条約の締結で神奈川を開港場としたが、神奈川は東海道筋にあって人の往
 来が激しく、そこに外国人が居留すると紛争が起こる恐れがあり、南方の横浜村を居留
 地にしようとして奉行所や運上所を建設していた。
 これに対してアメリカ公使ハリスは、あくまで居留地は東海道筋に置くべきだと主張し、
 オランダ人を長崎の出島に隔離したように横浜村に押し込めるのか、と激しく非難した。
 イギリス総領事オールコックもハリスに同調し、幕府の要求を無視して芝高輪の東禅寺
 を総領事館とし、ハリスも麻布の善福寺に公使館を設けていた。
・領事のドールも全くハリスと同意見で、神奈川奉行所におもむき、外国奉行兼神奈川奉
 行の「堀織部正(利煕)」に抗議し、彦蔵が通訳の任にあたった。
・堀は、落ち着いた口調で幕府の意向を説明した。
 国内には開国に反対し外国人を一掃すべきだと唱える過激な攘夷論者が多く、人の頻繁
 に往来する東海道筋では外国人を保護するのが極めて困難だ、と述べた。
 さらに、堀は、神奈川の海は浅く、それと比べて横浜村の海は深い。
 港町としての好条件をそなえている横浜村にこそ居留地を置くのが、外国人にも有利だ
 と強調した。 
・ドールは、
 「条約ニハ、神奈川ヲ外国人居留地トスル、ト明記サレテイルノヲ、オ忘レカ」
 と、追及した。
 堀は落ち着いた口調で、
 「たしかに神奈川を開港場としましたが、横浜村は神奈川内の一名称であり、決して条
 約の違反ではありません。横浜村に居留地を置くのがすべてにとって好ましい」
 と、答えた。  
・ドールは、筋道立った堀の言葉に答えに窮し、
 「コノ問題ニツイテハ、研究スルコトニシマショウ」
 と言って、席を立った。
・彦蔵は、堀に畏敬の念をいだいた。
 アメリカは、多くの蒸気艦船、鉄砲を保有し、強大な武力をそなえている。
 むろん堀はそれを熟知していて、日本がアメリカとは比ぶべくもない弱小国であるのを
 感じているはずである。 
 しかし堀は、大国の権力を十分に意識しているドールに、少しも臆する風もなく自分の
 意見を筋道正しく述べた。
 その論調に頭脳の冴えを感じ、通訳しながら堀の横顔を感嘆して見つめていた。
 ドールが堀の話に屈して反論できなかったのも、当然であった。
・それから間もなく彦蔵は、現実に堀の判断が正しかったのを知った。
 アメリカの有力商社の支配人ホールは、ハリス、ドールの韓国に従って神奈川に商館を
 建設する予定であったが、地理的条件を調査した末、横浜村に土地を入手し、商館の建
 築に着手した。 
 ドールはそれを中止させようとしたが、ホールは、港湾施設が神奈川より横浜村の方が
 はるかにまさっていると言って、その要求を一蹴した。
 それがきっかけで、マジソン会社が横浜村の一号岸壁に、デント商会が、四、五号海岸
 通りに事務所を開き、続々と商館の開設がつづいた。
・ドールは消沈し、その有様に彦蔵は小気味よさを感じ、実利を重んじる商人は、純粋に
 横浜村が港町としての条件を十分に備えているのを感じ、その地に移り住んで貿易を始
 めている。それを行使も領事も阻止することはできないのだ。
・そのような商社の動きによって神奈川に住む外国人は激減し、ハリスとオールコックが
 頑なに公使館、領事館を置き、わずかに宣教師がとどまっているだけであった。
 東海道筋の神奈川に固執しているハリスとオールコックが、滑稽に思えた。
・その横浜村で、殺傷事件が起こった。
 シベリア総督ムラビョフを乗せたロシア艦隊が江戸湾に入り、品川沖に碇泊していた。
 艦から食料調達のため少尉候補生が三名の水兵を伴って上陸し、横浜村に入って食料品
 の買い付けをして回った。  
・青物商の店を出た時、一人の武士が近づき、不意に斬りつけた。
 かなりの遣い手であったらしく、水兵の一人は即死し、少尉候補生は斬られて倒れ、傷
 ついた二人の水兵は青物商の店に逃げ込んだ。武士は、その場を足早に立ち去った。
・死骸と負傷者は、ロシア士官の仮宿舎に運び込まれ、日本人医師が重傷の少尉候補生の
 治療にあたったが、候補生はまもなく息絶えた。
・奉行所からアメリカ領事館に事件のことが伝えられ、彦蔵は、ドール領事とそれぞれピ
 ストルをたずさえて横浜村の仮宿舎に急いだ。
・ロシア艦から駆け付けた士官立会いのもとに奉行所役人と医師の検視が行われている最
 中で、彦蔵は、血に染まった二個の無惨な死骸に身を震わせた。
 少尉候補生は右肩先から左側の背にかけて長さ一尺二寸(36センチ強)、左肩から背
 にかけて一尺の長さで斬られていて、さらに左の太ももも切り払われていた。
 即死の水兵は、頭、顔面と右肩、左肩が切られ、さらに腕も付け根から斬り落とされて
 いた。
 これらの傷の具合から、武士は何度も刀をふるい、そのため刀の先端が折れたのだと推
 定された。
・夜が明け、彦蔵はドールと領事館へもどった。
 ドールは、神奈川のハリス公使に現場調査をしたことを手紙で報告し、横浜村のアメリ
 カ人に厳重警戒を指示した。
 外国人たちの動揺は激しく、武器をととのえ、日没後外出する者はいなかった。
・二人の負傷者はロシア艦船に引き取られたが、死骸はそのままロシア士官の仮宿舎に置
 かれた。
 夏期でもあるので早々に埋葬する必要があり、ロシア艦の海兵隊が上陸、彦蔵もドール
 領事と葬列に加わった。水兵の柩は、横浜村の「増徳院」境内に埋葬された。
 
十七
・十月に入って間もなく、役人が訪れてきて奉行所に同道して欲しい、と言った。
 お尋ねしたいことがあるという。
 役人は用件も口にせず、彦蔵はいぶかしみながらも奉行所におもむいた。
・支配調役が、綴じられた書面を手にして出てきて、彦蔵と対坐した。
 「これは箱館奉行様から江戸への上申書の写しで、米国へ漂流の者に対する吟味一件の
 ことが記されております」
・米国へ漂流の者という言葉に、彦蔵は表情をこわばらせ、役人の顔を見つけた。
 役人が拍子を操って第一行から読みはじめたが、彦蔵は思わず短い叫び声をあげた。
 「播州(播磨国)本庄村治作 北亜米利加江漂流」し、数年とどまっていたことについ
 ての吟味書、と役人は言った。  
・治作だ、と思った。
 彦蔵は、今年の六月に帰国できたが、治作と亀蔵は、そのままアメリカに残った。
 亀蔵は、雇われた船に乗ってサンフランシスコから離れていたが、治作はサンフランシ
 スコの商社に雇われて、彦蔵は彼を残して日本へ向かうことを申訳なく思い、辛かった。
 箱崎奉行所で、治作がどのような吟味を受けたか、彦蔵は役人の口の動きを見守った。
・「今般箱館港入津之同国(アメリカ)船江乗組罷帰候一件」という言葉が役人の口から
 もれた。
 治作さんが、アメリカ船で箱館に帰っている、と彦蔵は胸の中でうめくようにつぶやい
 た。
・最後に、治作は一日も早く母と弟七右衛門の待つ故郷へ帰りたいと願っているので、故
 郷の村を支配する姫路藩主酒井雅楽頭の家臣に引渡してやりたく、御指示を仰ぎたい、
 と結ばれていた。
・支配調役が、口を開いた。
 彦蔵がハリス公使、ドール領事一行と神奈川に着いた時、奉行所に提出された身上書に
 「永力丸」の炊として漂流し、アメリカに滞在して帰国した旨が記されていた。
 治作の吟味書にも「永力丸江被雇」江戸へ行って戻る途中難破したと記されているので、
 同じ船に乗って遭難したものと推定されていた。
・「いかがかな」
 調役は、彦蔵を見つけた。
 「その通りです」
 「治作と申す者のアメリカでの生活はいかがであった?」
 「へ次目は船の調理人に雇われ、ついで商館で働いておりました。真面目で、アメリカ
 人にも評判が良く親しまれておりました」  
 「キリシタンであったということは?」
 「そのようなことはきいたこともありません」
・彦蔵は、やはりキリスト教の信者であることが入国の障害になっているのだと思い、
 恩人であるサンダースのすすめでアメリカに帰化したことが賢明であったのを感じた。
・「御足労をおかけしました。江戸から一応貴殿に治作についておききするよう言われ
 ましたので・・・」  
 調役は、丁寧に頭をさげた。
 「いいお話をおききしました」
 彦蔵も一礼し、腰をあげた。
 取調べが終わったらしい治作は、やがて故郷へ帰ってゆくだろう。
 治作の喜びが想像され、彦蔵は嬉しくてならなかった。
・清国で別れた「永力丸」の仲間の大半は、唐船で長崎につき、それぞれの故郷にもどっ
 たという。 
 深刻で一人失踪した岩吉は、伝吉と改名し、ダンと呼ばれてイギリス公使オールコック
 の通訳となって帰国している。
 東禅寺の公使館にいるはずだが、その後、会う機会はない。
・「サスケハナ号」にただ一人残されたという炊の仙太郎は、どうしたのか。
 また、アメリカにいる亀蔵は、むろん帰国の機会を狙っているのだろうが、はたして健
 在なのかどうか。二人のみの上が気がかりであった。
・翌日、領事館に訪問者があり、出て行った彦蔵は、大声をあげて近づき握手した。
 サンフランシスコからハワイまで船に乗せてくれ、そこでわかれた測量調査艦「クーパ
 ー号」の艦長ブルック大尉であった。
 大尉は、海の調査を続けて日本沿岸の測量も行って神奈川沖に艦を碇泊させ、ドール領
 事に表敬訪問のためにやってきたのだ、と言った。 
・彦蔵は、すぐにドールの部屋にブルックを連れて行き、自分と大尉の間柄を説明した。
 大尉は、ドールと彦蔵を艦に招待したいと言い、ドールは快くお受けする、と答えた。
・彦蔵には、気がかりなことがあった。 
 「クーパー号」でハワイに着いて間もなく、ティムと呼ばれていた淡路島出身の漂流民
 政吉と会い、日本に帰りたいと涙を流して頼まれた。
 同情した彦蔵は、ブルック大尉に自分の代わりに日本向かう「クーパー号」に政吉を乗
 せて行ってやってほしいと頼み、大尉は諒承して水夫見習いとして雇い入れてくれた。
 その政吉は、今でも「クーパー号に」乗っているのだろうか。
・彦蔵は大尉に、 
 「ティム(政吉)ハ、ドウシマシタ」
 と、声をかけた。
 「天気デイル。ソノ古都デ君に是非トモ頼ミガアル。明日奉行にティムを連レテ行ッテ
 引渡シタイノダガ、君ニ立会ッテモライタイ」
 と言った。
・翌日彦蔵は波止場に行った。
 すでに「クーパー号」のボートがついていて、波止場の前の道に水兵とともに大尉が、
 浅黒い男と並んで立っていた。
 「政吉さん」
 彦蔵は、小走りに近寄るとその手をつかんだ。
 政吉の眼に涙が光っていて、非郡戸に謀反で頭を何度も下げた。
・奉行所の中に入ると、すぐに顔見知りの役人が出てきて案内に立ってくれた。  
 一室に通され、しばらく待っていると、奉行の「新見豊前守正興」が、支配調役らと入
 ってきた。
 彦蔵が大尉を紹介すると、新見は椅子をすすめ、彦蔵は大尉とともに腰をおろした。
 政吉は床に膝をつき、手をついて頭をさげた。
 大尉が、口を開いた。
 「我々ハ、コノティムトイウ日本人ヲ引渡シニヤッテキマシタ」
・彦蔵は言葉を添え、ティムはアメリカ人たちの呼び名で、淡路島生まれの政吉であり、
 荷船が破船漂流し、ただ一人生き残ってアメリカ捕鯨船に救われ、ハワイに上陸したの
 だ、と詳細に説明した。 
 支配調役が平伏した政吉にさまざまな質問をし、政吉は頭をさげたまま答えた。
・新見は、
 「貴官が日本人をかくのごとく親切に世話をし、無地に故国へ連れ帰らせてくれたこと
 に、心より感謝する」
 と言い、それを通訳すると、大尉は、
 「非常ニ良イ。私ハ嬉シイ」
 と言って、何度もうなずいた。
・彦蔵は、なおも手を突いている政吉のかたわらにしゃがんで肩に手を置くと、
 「ふる里に帰れます。本当によかった」
 と声をかけ、足り上がると大尉の後から部屋を出た。
 政吉とはその後会うことはなかったが、奉行所では入念な吟味がおこなわれた。
・奉行所での吟味で疑わしきことはないとして江戸に送られ、生地を藩領とする徳島藩の
 江戸藩邸に引渡された。
 藩では、改めて政吉が破船漂流したただ一人が餓死をまぬがれた経緯を審問し、捕鯨船、
 測量調査艦の船員として働いたことも詳細に聴取した。それらは記録され、書類が徳島
 に送られた。
 藩士にともなわれて政吉が郷里の淡路島に戻ると、すでに死亡したと諦めていた肉親は、
 涙を流して喜んだ。
・それから二ヵ月後、藩から使いの者が来て、彼は得島におもむいた。
 藩では、特異な体験をした政吉に大きな関心を寄せていた。
 藩には英語に通じている者がなく、日常の英会話を自由にこなせる政吉は、得難い通弁
 役の資格十分だと考えられた。
 それに、長い間捕鯨船に乗って西洋帆船についての知識も十分で、さらに捕鯨、測量の
 仕事にも従事したことは貴重だと判断された。
・藩は政吉に士分として仕えることを伝え、即日、苗字帯刀を許した。
 政吉がアメリカ人にティムと呼ばれていたことから姓を天毛とし、「天毛政吉」という
 名を与えた。 
・政吉は、通弁役となり、さらに藩の洋式軍艦「通済丸」の船頭役(船長)としてその航
 行を指揮した。
 木場嘉七郎の次女と結婚し一男二女の父となった。
 文久二年(1862年)には横浜へ出張して、藩の指示で洋船買入れに立ち会った。
 明治維新後、北海道で捕鯨船に乗ったりしていたが、明治二十五年、病を得て六十二歳
 で没した。
 
・その頃、神奈川奉行所に頻繁に人の出入りがみられ、奉行所と江戸城の間に騎馬や幕府
 高官の往来がしきりであった。
 日米通商条約の締結の話し合いの中で、日本からアメリカに使節団を派遣する案が出て、
 公使ハリスは大歓迎するとして賛成し、それを実現するための準備があわただしく進め
 られていたのである。
・人選が難航したが、正使に江戸詰の外国奉行兼神奈川奉行の新見豊前守正興、副使に、
 「村垣淡路守範正」、目付に「小栗豊後守忠順」が任命された。
 一行はアメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗ってアメリカに向かい幕府の蒸気船「咸臨丸
 も同航することが決定した。
・測量調査艦の「クーパー号」は、暴風雨で海岸に座礁し、損傷は大きく航行不能と判断
 されて競売に付された。
 艦を失ったブルック艦長をはじめ乗組員たちは、アメリカ行きの商船にでも乗って帰国
 する以外になかったが、「遣米使節団」派遣のことをきいたブルックは、アメリカ公使
 館を通じて幕府に申し入れをした。
 「ポーハタン号」に同航する「咸臨丸」は、軍艦操練所で海軍伝習の教官をしていた日
 本人が操船することになっているが、むろん太平洋を横断するのは初めてで、ブルック
 が水兵たちとともに水先案内を務めたいという。
・この申し入れに対して、「咸臨丸」を操船する予定の日本の士官たちは、日本人だけで
 航海する自信がある、と言って強く反対した。
 しかし、幕府は、ハリス公使のすすめもあって喜んでブルックの申し入れを受けること
 に決めた。
・朝食後、領事のドールが、先刻、神奈川奉行所の役人が来て書状を渡して去ったと言っ
 て、それを英訳するよう彦蔵に命じた。
 書状を開き、文字を眼で追った彦蔵は、自分の顔から血の色が引くのを意識した。
 イギリス公使館付きの日本人通訳が、昨日夕刻、殺害されたことを報告する、という短
 い文面であった。
・同じ「永力丸」で漂流の憂目に遭い、アメリカ船に救われて清国に送られた過去の岩吉
 の顔が目の前に浮かびあがった。
 岩吉とは広東で偶然出会い、岩吉は日本に赴任するオールコックに通訳として雇われ、
 オールコックとともに日本の土を踏み、総領事館の高輪の東禅寺にいるはずであった。
・「何カアッタノカ」
 彦蔵が顔入りを変えているのに気づいたドールが、気づかわしげに訪ねた。
 「イギリス公使館付通訳ガ、昨夕、殺サレタソウデス。日本人ノ由デス」
 彦蔵が答えると、
 「ダンデハナイノカ」
 ドールの表情がこわばった。
・彦蔵は、奉行所に行って詳しい事情を聞いてみたい、と言った。
 ドールにしても、たとえ日本人とは言えイギリス公使館付の通訳が殺害されたことは、
 外国公館全体に関わる問題で、実情を完全につかんでおく必要があり、彦蔵の申出を直
 ちに承諾した。  
・奉行所は、あわただしい空気に包まれていた。
 遣米施設の出発準備に取り組んでいるところに、イギリス公使付通訳が殺害されたとい
 う報告が入り、それが管轄内で起きただけに奉行所は騒然としていたのである。
・彦蔵は、役人にドール領事の銘を受けてきたと告げ、事件の詳細な内容を教えてほしい、
 と要請した。 
 すぐに支配調役が応対に出てきて、報国を受けている事件の内容について説明に当たっ
 た。
 「殺された通訳の名は」
 彦蔵がたずねると、調役は書面に視線を落とし、
 「通称ダン。日本名伝吉と申すイギリス言葉に通じている者の由です」
 と、答えた。
・彦蔵は、言葉もなく調役の顔を見つけた。
 オールコックの通訳に雇われて喜んでいた伝吉の顔がよみがえった。
 危惧していた通り、殺されたのは伝吉で、念願かなって帰国したのに難に遭ったことが
 哀れであった。 
・前日の夕七つ半(五時)頃、伝吉はイギリス公使館の東禅寺の門外に出て、路上で女児
 が羽根つきをしているのを見て、面白半分にそれに加わった。
 道を一人の武士が歩いて来て伝吉の背後に近づくと、不意に脇差を素早く抜いて背に突
 き立て、そのままゆっくりした足どりで去った。
・伝吉は、よろめきながら門内に戻ろうとし、それに気づいた警備の者が走り寄って、体
 を支えたが、伝吉は仰向けに倒れた。
 公使館付のイギリス人医師が駆けつけて手当てをしようとしたが、脇差の刃先が背中か
 ら右胸に突き出ていて、すでに絶命していた。
・すぐに館員と警備の兵が門外に出て四方に散って捜索したが、夕闇も濃くなっていて下
 手人は発見できなかった。  
 目撃者の証言によると、白髪の六十年輩の武士であったという。
・彦蔵は、悄然と奉行所を出た。
 なぜ、伝吉は殺されたのか。伝吉の背に脇差を突き立てたのは攘夷派の武士にちがいな
 く、日本人でありながら伝吉がイギリス公使館に雇われていることに憤りをいだいてい
 たのか。
 僧だとすれば、アメリカに帰化してアメリカ領事館の通訳になっている自分も狙われる
 対象になる。
・攘夷派の者たちは外国人に激しい憎悪をいだき、国外に一人残らず追い払おうと強く唱
 えていると聞く。
 アメリカでは日本人漂流民を手厚く扱い、彦蔵などは学校教育も受けさせてもらい、
 何不自由もない生活をすることができた。
 アメリにも対照的で、攘夷を唱える日本人の視野の狭さが愚かしかった。
・領事館に戻った彦蔵は、ドールに伝吉の死を報告した。
 「コノ国ハ、狂ッテイマス」
 彦蔵は、深く息をついた。
 ドールが日本人を野蛮で無智な人種と思っているような気がして、恥ずかしかった。
・彦蔵は、伝吉の死を嘆き悲しんでいたが、そのうちに思いもよらぬ話が伝わってきた。
 事件の起きる一週間ほど前、神奈川奉行の溝口讃岐守直清がイギリス公使館に出向いて、
 書記官のユースデンと面談した。
 溝口の来訪目的は、伝吉についてであった。
・伝吉は、はじめの頃はつつましく通訳の仕事に従事していたが、しだいに傲慢な振る舞
 いをするようになった。
 イギリス公使館の館員たちはオールコックをはじめ幕府側に対して強圧的な姿勢をとり、 
 訪れてくる幕府の高級役人にも終始尊大な態度をとっていて、その気風がいつの間にか
 伝吉にも感染していた。
 イギリス公使館には、幕府から派遣された幕兵と郡山、西尾の両藩兵二百が警備にあた
 っていたが、伝吉はことさら彼らを見下すような態度をとり、それに憤慨した兵たちと
 しばしばいざこざを起こすようになっていた。
・館外でも、伝吉の好意は人の眼を引いていた。
 庶民は乗馬できぬ習いになっていたが、伝吉は得意気に西洋馬を引き出して町なかを回
 り、時には走らせることもある。
 大名の家来と道で出会っても蔑むような態度をとり、そのため互いに荒々しい言葉を投
 げ合うこともあった。
・彼の奔放さはさらにつのり、公使館の近くの三浦屋という茶屋の娘と強引に情交をむず
 び、娘を傍らに侍らせて夜遅くまで茶屋で酒を飲むことも多かった。
 肩をいからせて歩く伝吉に人々は顔をしかめ、彼の姿を眼にすると道の端に身を寄せる。
 彼に対する悪評は広く流れていた。
・神奈川奉行所では、このような伝吉が攘夷派の者に狙われる恐れがある、と推測した。
 もしも襲われて殺傷されれば、イギリスとの国際問題となる。
 奉行所では黙視できず、奉行の溝口が、公使館に警告に出向いたのである。
・溝口は、ユースデンに伝吉についての悪評を長々と述べ、事件が起こる確率が高いので
 それを回避するために即座に解雇すべきである、と要請した。
・この話を彦蔵は、奉行所の役人から聞いたのだが、奉行所としては、わざわざ
 奉行の溝口が公使館に出向いて強く警告したことでもあり、伝吉の死について一応責任
 は果たしてあるという意向をいだいているようだった。
・さらに彦蔵は、親しい役人から伝吉の目に余る行為の数々を聞き、伝吉を哀れに思った。
 伝吉は失踪して上海のイギリス商館に雇われて身をひそめていたが、そこでは冷たいあ
 しらいを受けていたにちがいなかった。 
 清国を半ば植民地化したイギリスは、絶大な権力をふるい、商館の者たちは荒々しく清
 国人をこき使っていた。
 伝吉は日本人であるとはいえ、商館の者たちには顔もよく似ている彼を清国人同様に冷
 遇していたのではないだろうか。
 そうした扱いに堪えてきた伝吉は、はからずもオールコックに通訳として雇われ、帰国
 することができた。
 接触する日本人たちは、彼を公使館付通訳として一目も二目も置き、それによって彼は
 次第に威丈高になり、奔放な振る舞いをするようになったのだろう。
・領事のドールが、伝吉の死について、イギリス公使館内の空気を彦蔵に伝えてくれた。
 書記官のユースデンは神奈川奉行所の水口の警告をはねつけはしたが、公使のオールコ
 ックを始め館員たちは、被頃から伝吉の粗暴な行為に顔をしかめていたという。
・オールコックは、伝吉の死をやむを得ないと考えながらも、イギリスの威信を示すため
 伝吉の葬儀を公使館付通訳らしい格式で行うよう指示した。
 埋葬地は麻布の「光林寺」として、公使館からオールコックをはじめとした館員が葬儀
 に参加する予定を立て、さらに幕府に神奈川奉行の溝口直清、堀利煕の会葬を要求した。
   
十八
・「咸臨丸」の出帆は、四日後と内定していたので、彦蔵は、艀で「咸臨丸」に行き、
 ブルックに別れの挨拶をした。
 その折り、「咸臨丸」の提督である軍艦奉行「木村喜毅」、艦長「勝安房」、通弁とし
 て乗り組んでいる士官の「中浜万次郎」らに紹介された。
 彦蔵は、中浜が漂流民で幕府に徴用されている通弁であるのを耳にしていた。
・中浜は土佐の漁民で、十五歳の折りに操業中遭難し、無人島(鳥島)に漂着、半年後、
 アメリカ捕鯨船(船長ホイットフィールド)に救出されてハワイに上陸した。
 その後、アメリカのニューベットフォードに着き、中浜の才能を愛したホイットフィー
 ルドによって学校教育を受け、英語、数学を学び、ついで航海術、測量術を修めた。
 その後、捕鯨船の船員になっとりしたが、弘化三年(1846年)にハワイを経て翌年
 正月、琉球に上陸し、長崎に至った。
・英語のみならず航海術、測量術の知識もそなえていた中浜は、土佐藩に召し抱えられ、
 さらに幕府に召されて永文書の翻訳、軍艦操練所教授、鯨漁御用などを務めていた。
・中浜は、彦蔵のことを聞き知っていて、
 「私と同じように漂流の憂目に遭った由ですが、お互いお国のために働きましょう」
 と言って、彦蔵の手をかたく握った。
 中浜は三十四歳で風格があり、十歳下の彦蔵は気圧されるものを感じた。
・二月下旬、ドール領事に辞任を申し出た。
 いつまでも領事館付通訳をしていても前途がひらけるはずはなく、自由に自分の道を切
 り開いてゆこうと思ったのである。 
・ドールは驚いて強く引き留めたが、彦蔵が、必要な折にはいちでも無報酬で領事館の通
 訳の仕事をすることを約束したので、申出をいれてくれた。
・彦蔵には、いつの間にか貯えもできてきて、つつましく過ごせば生活に差し支えること
 はなく、領事館を離れると横浜村に小さな家を借りて移り住んだ。
・三月、領事館から使いの者がドールの手紙を届けに来た。
 開いてみると大老の「井伊掃部頭直弼」が江戸で暗殺殺されたという急報が入ったので、
 ただちに領事館に来てほしい、と記されていた。
 彦蔵は、急いで領事館に行った。
・ドールは顔を青ざめさせていて、ハリス公使からの急状をしめした。
 そこには、井伊が江戸城へ登場する折り、桜田門外に待ち伏せていた浪人たちのよって
 惨殺された、と記されていた。
・幕府は、ハリス公使をはじめ外国の代表者たちに言いの傷は軽微で生命に別条はない、
 と伝えてきたと言う。
 しかし、江戸からは、井伊が浪人たちの集団に首級をあげられたという情報がしきりで、
 それは目的者の証言を持ちにした確報であった。
 幕府は、三月晦日井伊の死を公表したが、あきらかな斬首されたことを隠すための措
 置であった。
・ロシア艦の士官と水兵、フランス領事館雇いの清国人、そして伝吉の殺傷事件は、外国
 人またはそれに準ずる者を対象とした、明らかに攘夷派の手になるもので、彼らは、
 開国によって日本に入り込んできた外国人に敵意をいだき、それが殺伐な行為につなが
 っている。
・用心深いアメリカ公使ハリスは、公使館外にでることはしないというが、領事のドール
 も外出は極力ひかえ、やむを得ず外に出る時は、短銃を携行していた。
 それにならって、彦蔵も小型ピストルを所持するようになっていた。
・その月の下旬、またも横浜村で外国人が殺害されたという話が伝わった。
 彦蔵は、詳細を知らなかったが、入港したオランダの二隻の船の船長が夕方、連れ立っ
 て横浜村の日本人商店街を歩いている時、一人の武士が背後から突然斬りつけ、二人
 は倒れ絶命した。 
・九月、アメリカ軍艦「ナイアガラ号」が江戸湾に入ってきて、横浜村沖に投錨した。
 アメリカ訪問を終えた新見豊前守を正使とした遣米使節団一行がもどってきたのである。
・遣米使節団が帰着して三日後、奉行所から役人がやって来て、たずねたいことがあるの
 で奉行所においでいただきたい、と丁重な口調で言った。
 何用と思いながらも、彦蔵はその役人と奉行所におもむいた。
 一室で待っていると、支配調役が書役とともに入ってきて対坐した。
 「亀五郎と申す者を御存知と思いますが・・・」
 と、言った。
 彦蔵は記憶をたどり、首をかしげた。
 「御存知ありませんか」
 調役は、意外なという表情をし、
 「アメリカのサンフランシスコであなたと一緒に過ごしていたと申しております。それ
 から治作という者もいたと・・・」
 と言った。
・彦蔵は、思わず短い声をあげた。
 それはあきらかに亀蔵にちがいなかった。
 改名は常のことで、亀蔵はアメリカ人からカメという愛称で呼ばれていたので亀の名を
 残し、亀五郎と名を変えたにちがいなかった。
・「よく存じております。もとの名は亀蔵」
 「やはり御存知ですか」
 役人はうなずき、
 「新見豊前守様御一行の御帰国になられましたアメリカ軍艦に、その者が同乗しまして、
 只今、江戸で御吟味を受けております」
 と、言った。   
・彦蔵は、口を大きく開いた。
 亀蔵が帰国したという役人の言葉がにわかには信じられなかった。
・役人が、書面に視線を走らせながら事情を説明した。
 帰国の途についた遣米使節を乗せたアメリカ軍艦「ナイヤガラ号」は、九月に香港に入
 港して、石炭、食料、水を補給し、その間、新見らは香港に上陸したりして日を過ごし
 た。
 出港の前日に一人の日本人がアメリカ人の紹介状を手に清国の小舟に乗って艦にやって
 きて、オランダ語通訳官のホイットマンに面会を申し入れた。
 ホイットマンが会うと、男は亀五郎と名乗り、かなり流暢な英語で自分の身の上話をし
 た。 
・亀五郎は、船の炊に雇われ、長い航海をしてサンフランシスコにもどると、すでに彦蔵
 は神奈川に、治作は箱館にそれぞれ帰国したことを耳にした。
 ただ一人になったことを知った亀五郎は、狼狽して日本へ行く船を来る多様に探し回り、
 商船「ロッジル号」が商用で香港へ行くことを知って船長のノルデネルに乗せて行って
 くれるよう懇願した。
 船長は承諾し、亀五郎は水夫に雇われて乗船し、五十日間の航海を経て香港についた。
 彼は、遣米使節団の乗った「ナイアガラ号」が入港したのを知り、それに乗せてもらっ
 て帰国したいと考え、ホイットマンに面会を申出たという。
・亀五郎の話に同情したホイットマンは、正使の新見豊前守にそれを伝えた。
 亀五郎の話に強く心を動かされた新見は、「ナイアガラ号」の艦長に亀五郎をこの場で
 引取りたいと申出た。
 これに対して艦長は、艦に乗せて日本へ連れて行ってはやるが、新見に亀五郎の身柄を
 託すことには強く反対した。
 アメリカの法則では、漂流民を引き取る折りには、その地駐在にアメリカ領事から艦長
 宛の申請書の提出が必要で、適当と認められる場合のみ許される。
 そうした手続きを経ていない亀五郎を、日本側に引き渡すことはできないという。
・新見は、さらに懇請したが、艦長は頑なに拒否の姿勢をくずさなかった。
 そのため両者の話し合いの末、帰国後、亀五郎を艦長から駐日アメリカ公使に引渡し、
 その扱いは行使の判断にゆだねることに決定した。
 この話し合いに従って、亀五郎は艦に乗って品川に上陸後、公使館に拘留され、公使館
 は幕府の役人引渡したという。  
・おそらく亀五郎は、やがて吟味を終えてふる里の椋之浦に帰ってゆくだろう。
 肉親、親戚の者の驚きと喜びが思われた。
・彦蔵は、外国商人や日本の商人の依頼を受けて商取引の通訳をして相応の報酬を得て過
 ごしていた。 

・十二月のその夜、彦蔵は領事のドールからもらった葡萄酒を飲んで就寝したが、深夜、
 入口の戸をたたく音に眼をさまし、戸を開けた。
 領事館に住み込んでいる日本人の下男が立っていて、急用があるので領事館に来てほし
 い、と言った。
 彦蔵は、いぶかしみながらも短銃を腰におび、提灯を手にした下男とともに領事館に急
 いだ。
・「ヒュースケン殿ガ襲ワレタ。重症ヲ負ッタ」
 ヒュースケンは、麻布善福寺に設けられたアメリカ公使館付書記官兼通訳官で、オラン
 ダからアメリカに帰化し、公使ハリスの補佐役として日米通商条約の締結に尽力した。
 彦蔵は絶句した。
・七月、プロシア使節「オイレンブルグ伯爵」が軍艦をひきいて品川沖に着き、日本との
 条約締結を幕府に要請し、外交交渉が始まった。
 オイレンブルグは、通訳としてのみならず日本事情に精通しているヒュースケンの助力
 を得たいと考え、アメリカ公使館にその旨を要請し、公使ハリスは快諾した。
 ヒュースケンは、江戸の芝にある赤羽根接遇所を宿舎としているオイレンブルグのもと
 に通って、日本の通詞「森山栄之助」とともに通訳の任を果たしながら条約締結の実務
 を推し進めた。 
 その仕事は一段落し、条約文の照合も終わって、オイレンブルグをはじめ側近の者たち
 は、ヒュースケンに深く謝意を表していた。
・用心深いハリスは、館員の夜間外出をかたく禁じ、ヒュースケンにも日没までには必ず
 館に戻るように指示していた。 
 が、オイレンブルグのもとに連日のようにおもむいていてヒュースケンは、夕食をとっ
 て午後九時すぐに宿舎を出るのを習いとしていて、その夜もその時刻に接遇所を出た。
・ヒュースケンは馬に乗り、三人の騎馬の役人と馬を速足にさせてアメリカ公使館への道
 を進んだ。 
 役人たちは提灯を手に、一人は先に立ち、二人は後ろにしたがい、脇に四人の別当が提
 灯を掲げて走っていた。
 ヒュースケンは鞭を手にしているだけで、武器はたずさえていなかった。
・公使館までの中間点の道が狭くなっている個所にさしかかった時、七名の武士が突然襲
 いかかり、役人たちの提灯をたたき落とし、別当を突き飛ばしてヒュースケンに斬りか
 かった。 
 傷を負ったヒュースケンは馬を二、三百歩走らせて逃げたが、衰弱が甚だしく別当の助
 けを借りて馬から降り、数歩歩いて倒れた。
・馬も臀部に傷を負っていたので、別当が傍らの垣根に馬とつなぎ、役人たちは民家の雨
 戸をはずしてそれにヒュースケンを載せ、アメリカ公使館に運び込んだ。
・事件を知った久留米藩主有馬慶頼が藩医の山本甫丈を派遣し、またプロシア宿舎から、
 ルチウス医師、イギリス公使館からもマイバーク医師が駆けつけた。
 腹部から腰にかけて深く切られていて腸が切断されて露出し、医師たちはその縫合をお
 こない治療に当たった。  
 ヒュースケンは意識はあったが、出血多量のため目はうつろで、脈拍は弱々しくなって
 いた。
 彼は葡萄酒を少しほしいと言い、それを口にすると弱々しい声で周囲の者に例を述べ、
 眠りに落ちたという。
・ヒュースケンの死は外国の外交官たちに大きな衝撃を与え、彼らは幕府を激しく非難し
 たが、アメリカ公使ハリスは比較的冷静で、彦蔵は意外だった。
 ハリスは、その事件は幕府とは無関係だという態度をとり、条約を守る日本側の誠実と
 善意を確信している、と公言していた。 
 そして、幕府に対し、ヒュースケンの両親に一万ドルの弔尉金を要求し、幕府はそれを
 直ちに受け入れて、国際問題に発展することはなかった。
・ヒュースケンの葬儀がもよおされた。
 幕府側は、ハリスをはじめ外国の外交官が葬列に加わるのは浪士襲われる危険が大であ
 ると強く反対したが、ハリスは、愛するヒュースケンの遺体に随行すると断言し、その
 主張が入れられて長い葬列が組まれた。
・各国公使、領事をはじめ外国軍艦の武装兵がそれぞれの国旗を掲げて進んだ。
 日本側からは外国奉行の新見豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守、高井丹波守、滝川播磨
 守の五奉行をはじめ役人、兵らが加わった。
 葬列は、公使館を発して光林寺に到着した。
 柩が墓地に運ばれ、墓穴におさめられた。
 
十九
・ヒュースケンが殺害されて間もなく、神奈川で日本人商人が夜、路上で何者かに襲われ
 斬り殺された。
 その商人は、外国商人と商取引をしていてかなりの蓄財をしていると言われていた。
 攘夷派の者にとって、外国人と接して利益を得ている商人は国賊であり、そのため生命
 を奪ったのだろう。
 外国人たちは、商人の死に攘夷論者の自分たちに対する増悪の深さを感じていた。
・一月、横浜村で火事騒ぎが起きた。
 オランダの商人の馬小屋から出火、隣接する住宅と倉庫に燃え移った。
 失火か、放火か。
 その騒ぎに乗じて攘夷派の者が外国人たちを襲うのではないかと恐れた外国人たちは、
 誰一人として火災現場に行く者はなく、扉をかたく閉めて家に閉じこもていた。 
 火の回りははやかったが、神奈川奉行所から消防組が出て延火をくい止め、外国艦から
 武装兵が上陸して付近一帯の警戒にあたった。
・2月に元号が文久と改められ、それから間もなく彦蔵の家に奉行所の役人が従者をとも
 なってやってきた。 
 「役所では、あなたのみを案じております」
 役人は、険しい表情をして言った。
 「あなたは、つつましい言動をしておられ、それは役所でもよく承知しております。
 しかし、アメリカの領事館に雇われていたこともあり、髪も衣服も西洋風で、外見は伝
 吉同様です」
 「実は、浪人の中にあなたをつけならい、斬り殺してやると言っている者がいるとのこ
 とです。それ故、あなたの身を案じているのです」
・彦蔵は、役人が決しておどしているのではないことを知っていた。
 相次ぐ外国人と伝吉の殺害事件で、自分も死の危険にさらされているのを感じていた。
 役人は、事件が起きるたびに外国の公使、領事から激しい抗議を受けて幕閣は困惑し、
 その処理に苦しんでいる、と述べた。
・「それで、あなたには、これだけはぜひ厳守していただきたいことがあります」
 役人は懐から書面を出して読み上げた。
 一、馬に乗らぬこと。
 一、東海道に近づかぬこと。
 一、なるべく横浜村の外国人居留地外には出ないこと。
 一、日没後の外出は絶対しないこと。
 書面をおさめた役人は、庶民が乗らぬ馬にまたがるのは、ことに浪人たちに激しい反感
 をいだかせ、伝吉が殺害されたのもしばしば乗馬して町なかをまわっていたことがあげ
 られる、と強い口調で言った。
・彦蔵は、身じろぎもせず壁に眼を向けていた。
 自分をつけ狙っている者がいる、と役人は言ったが、単なるうわさではなく事実だろう。
 故国の土を踏むことを悲願とし、その望みがかなえられて帰国したが、平和であると思
 っていた日本は、死の危険に満ちた地であった。
・五月の夜、横浜村の日本人の間に動揺が起こった。
 北西の空に縦に長い箒星が現われ、人びとは外に出て見つめた。
 箒星は、兵乱や大災害が起きる前兆とされ、彼らは不気味な光におびえた眼を向けてい
 た。 
・翌日も次の日の夜も満天の星で、箒星は没することなく、夜空に長く尾をひいて光って
 いた。
 彦蔵も、外に出て空を見上げていた。
 箒星は長く上空に横たわり、彦蔵は薄気味悪さを感じた。
・翌朝、彦蔵は、居留地の空気が激しく揺れ動き、人々の声が飛び交っているのを耳にし
 た。 
 昨夜、江戸高輪にある東禅寺に設けられたイギリス公使館を、浪士たちが襲う事件が起
 こったという。(東禅寺事件)
 日本の商人たちは、やはり毎夜現われる箒星が、その事件の前兆であったのだと顔を青
 ざめさせて言い合っていた。
・彦蔵も、顔色を変えて立ちすくんだ。
 これまでの外国人に危害を与える出来事は、いずれも路上でのことに限られていて、
 浪士たちが外国の公使館を襲った例はない。
 しかも、幕府に常に強圧的な態度をとるイギリス公使オールコックの住む公使館である
 だけに、大きな国際問題に発展することはまちがいなかった
・オールコックの安否はどうなのか。
 むろん浪士たちの襲撃目的はオールコックの生命を奪うことで、もし殺されでもしたら
 当然イギリスは武力行動に出て、日本と戦闘状態に入ることが予想される。
 その場合、清国を半ば植民地化したようにイギリスは強大な兵力を投入して、武力に劣
 る日本をたちまちのうちに圧伏し、日本を完全に支配下に置くだろう。
・はたしてオールコックの生死はどうなのか。
 当然、ドールのもとには連絡が入っているはずで、彦蔵は、家を出ると領事館に急いだ。
 領事館の置かれた本覚寺には、奉行所から派遣された警備の者たちが険しい表情をして
 詰めていて、物々しい雰囲気であった。
 彦蔵は、本堂に立っている書記生のバン・リードの姿を眼にして近づいた。
 「イギリス公使館が襲ワレタソウダガ、公使ハ御無事カ」
 「危ナカッタ。全ク危ナカッタ。公使ハ助カッタ」
 リードは、興奮したように言い、
 「九死に一生でした」
 と、妙な訛りの日本語を口にした。
・前日の四ツ(午後十時)頃、東禅寺におかれたイギリス公使館に漁師たちが乱入した。
 後の調べで十四名であることがあきらかになった。
 東禅寺には、幕府から派遣されていた二百名近い警護の者が詰めていたが、ほとんどが
 寝に就いていて、不意をつかれた形になった。
 乱入に気づいた者の、「狼藉者」という叫び声に警護の者たちは跳ね起き、斬り合いが
 はじまった。 
 オールコックは奥の寝室で寝ていたが、若い通訳書記生に起こされ、護身用の連発短銃
 に弾丸を装填した。
 そ部屋に腕と首に傷を負った書記官の「オリファント」がよろめきながら入って来て、
 つづいて額を傷つけられて顔面を朱に染めた長崎駐在領事「モリソン」が姿を見せた。
・警護の者は善戦した浪士二名を斬殺し、一名を負傷させて捕まえた。
 重傷を負った浪士三名は、東禅寺から品川の茶屋に逃れ割腹した。
 東禅寺側でも警護の者と馬丁それぞれ一名が斬殺され、双方の死傷者の数は二十三名を
 数えた。
・イギリス公使館が襲撃されたことに動転した幕府は、各国の外交公館に多数の警備の者
 を派遣し、アメリカ領事館も兵によってかためさせ、夜間も警戒することが決定してい
 るという。
・バン・リードは、領事のドールがアメリカ公使館のヒュースケンが殺害されてからひど
 く神経過敏になり、常に弾丸を装填した短銃を身につけ、夜も枕もとに置いて就寝して
 いる、と言った。
 ヒュースケンが内臓まではみ出させたような斬られ方をしたのを耳にしたドールは、
 日本刀の鋭利さを極度に恐れ、銃で殺される方がはりかにました、と身を震わせて言う
 のが口癖だ、とも言った。
 「私も恐ろしい。侍の刀は恐ろしい」
 リードは、日本語で言った。
・彦蔵は、罪人の首が日本刀で一刀のもとに斬り落とされるという話を何度も聞いていた。
 武士は堪えず剣の修練につとめ、一瞬の間に刀で肉を裂き、骨も切断するという。
 銃弾は局部に命中すれば即死するが、刀で斬られた場合は激しい苦悶の末に死に至る。
 ドールが刀を恐れ、銃撃される方がいいと言っているのも当然だ、と思った。
・彦蔵の神経は、萎縮していた。
 ことにイギリス公使館の東禅寺に浪士が乱入した事件があってから、彦蔵は堪えがたい
 恐怖感に襲われていた。  
 路上で外国人とそれに準じるものを殺害していた浪士たちが、多くの警備の兵によって
 かためられていた公使館に押し入ったことに、彼らの外国人に対する憎しみの深さと大
 胆さを感じた。
・おびえた彦蔵は、夜間はもとより昼間も外へでることをひかえるようになった。
 浪士が町人に身なりを変えて襲ってくることも予想され、前方から歩いてくる男の気配
 をさぐりながら、距離を置いてすれ違うのが常であった。
・彦蔵はどこか遠い地に逃げ出したかったが、攘夷派の武士は全国至る所にいて、どこへ
 行っても斬殺の対象になる。 
 日本人でありながらジョセフ・ヒコというキリスト教の洗礼名まで与えられている自分
 は、断じて許し難い存在に思えるのだろう。
・ふと、アメリカへ戻ろうかという思いが、胸の中をよぎった。
 悲願がかなえられて帰国したが、日本は自分をしに陥れる恐ろしい地になっている。 
 アメリカには、多くの心優しい知人、友人がいて、生命の危険などない。
 帰化した自分はすでに本質的にアメリカ人になっていて、アメリカの地以外に生きるこ
 とはできないのかもしれない。
・自分の気持ちを理解してくれる身近な者は、領事館の書記生バン・リードしかいない。
 彼なら自分の置かれた立場もよく承知していて、アメリカに戻ろうということも無理は
 ないと考え、適切な判断をしてくれるにちがいなかった。
・彦蔵は、リードに顔向けた。
 「突然、コノヨウナコトヲ言ッテ驚クカモ知レマセンガ、アメリカヘ戻ロウト思ッテイ
 マス」 
 彦蔵は、英語で言った。
 リードは驚いたように彦蔵の顔を見つけた。
・彦蔵は、役人がしばしば訪れてきて、自分の命を狙っている者がいるという風聞がしき
 りで、十分に留意するようにと警告されていることを口にした。
 伝吉が刺殺されたように、外国の公館に仕え洋風の身なりをしている自分は、攘夷派の
 者の憎悪の対象となっていて、このまま日本にいれば日ならず殺されることは疑いない。
 日本では生きることはかなわず、アメリカのもどるのが望ましいと思う。
 「相談相手ハ貴方シカイナイ。貴方ノ意見ヲキキタイ」
・「非常ニ悲シイコトダガ、ソノ方ガ良イカモ知レナイ」
 「アリガトウ。私ノ気持ハキマッタ。アメリカヘ行ク」
 「モウ少シ考エテミテハドウカ。余リ早ク結論ヲ出スノハ好マシクナイ」
 「私ノ気持ハキマッタ。アメリカヘ行イク」
 彦蔵は、自ら言い聞かせるように答えた。
 リードは、アメリカ行きの可否についてそれ以上何も言わなかった。
・暗殺がつづく日本の不安定な世情がいつまでも続くわけではなく、やがて鎮静化するだ
 ろう。
 それを見計らって日本へ戻ってくればいい。
 彦蔵が日本で生きる道は、英語に精通していることと、アメリカの政治、社会、経済に
 対して知識を持っていることで、それを活用することに尽きる。
 それは開国した日本にとって重要であると同時に、日米両国の国際関係にも貢献する。
 彦蔵がアメリカへもどるのは日本から逃げ出すだけではなく、再び日本へ帰ってきた折
 に活躍できる何かをつかんでくることである。
・リードは、アメリカ海軍の倉庫監理官の職務について口にした。
 横浜にアメリカ海軍の軍艦がやってくると、石炭、食糧、水、薪を補給する。
 それらを貯蔵している倉庫が設けられていて、海軍から委嘱去れたアメリカ人が監理官
 という名目で各艦への補給をおこなっている。
 その監理官は、日本の商人からそれらの必要物を買い集めて倉庫に貯蔵しているが、
 言葉が通じぬために思うような買入ができず、実務は停滞し、各艦は不満をいだいてい
 る。
 艦からの苦情が領事館にもしばしば寄せられていて、ドール領事はほどほど手を焼き、
 ハリス公使も苦慮している。
・「モシモ君ガ監理官ノ資格ヲ得タラ・・・」
 と、リードは言った。
 彦蔵ならば、日本の商人から意のままに補給物資を適正な価格で買い付けて倉庫に貯蔵
 し、艦からの要請にも迅速に対応できるだろう。 
・「アメリカニ行ッテ、海軍ノ正式倉庫監理官の資格ヲ得テキタラドウダダロウ」
 リードは、彦蔵の顔を見つめた。
 彦蔵も、横浜村の日本人商人が艦への補給品を納入していることを知っていた。
 「ソレハ非常ニ良イ話ダ。ヤハリ貴方ニ相談シテ良カッタ」
 彦蔵の顔に、初めて明るい表情が浮かんだ。
・彦蔵は、サンフランシスコに行ったらケアリーの助力を仰ぐつもりだと言い、リードも
 賛成だった。 
 ケアリーは、彦蔵が勤めたことのあるマコンダリー会社の経営者で、彦蔵に親しく接し、
 帰国前、ほとんど無一文になった彦蔵に彼の父が送金してくれたのも、ケアリーの指示
 によるものであった。
・「ケアリー氏ハ、当然日本トノ貿易ニモ関心ヲ持ッテイルハズダ。日本カラ輸出デキル
 商品ノ見本モ持ッテイッタライイ」
 リードは、助言し、
 「イツ出発スルノカ」
 と、たずねた。
 「ナルベク早ク」
 彦蔵が答えると、リードは、領事館に届けられているアメリカ船の出入港一覧表を見て、
 一週間ほど後にサンフランシスコに向かう「キャリントン号」という船がある、と教え
 てくれた。
 「ソノ船の船長ハ良ク知ッテイルカラ、紹介状ヲ持ッテイケバ、便宜ヲハカッテクレル
 ハズダ」
 リードは、彦蔵がその船に乗ると言うと、その場で船長宛の紹介状を書いてくれた。
 
二十
・ようやく帰ることができた日本から離れることに、複雑な思いがした。
 逃げ出すのではなく、海軍の倉庫監理官の資格を得るためにアメリカへ戻るのだ、と自
 ら言い聞かせた。
 アメリカに帰化しキリスト教の洗礼名も受けた自分は、今の日本では生きるのが困難で、
 情勢が変わるまで一時アメリカに身を避けるだけなんだ、と思った。
・上陸してサンフランシスコの町に入った彦蔵は、なつかしさで目頭が熱くなった。
 ホテルに行って宿泊の手続きをし、部屋に入った。
・翌日、ホテルを出て彦蔵は、マコンダリー会社の経営者ケアリーに会うため会社におも
 むいた。  
 そこは彦蔵が務めていた会社であるだけに入口のドアを押して内部の入ると、視線を向
 けた中年の社員が、驚いたように席を立ち、
 「ヒコ」
 と言って近寄り、かたく手を握った。
 ケアリーに会いに来たと言うと、社員の一人が先に立ち、二階にあがった。
 部屋のドアをノックし押し、
 「社長、ヒコガ戻ッテキマシタ」
 と、声をかけた。
 部屋に入った彦蔵は、窓の近くの大きな机の前に座っているケアリーを眼にした。
 メアリーは、おうと声をあげ、
 立ってくると大きく胸を広げて彦蔵を抱きしめ、背を軽くたたいた。
 彦蔵は、胸が熱くなった。
・彦蔵は、サンフランシスコからハワイを経て清国に渡り、ハリス公使とともに神奈川へ
 上陸した経緯を話し、アメリカ領事館に通訳として雇われ、攘夷派の者にねらわれて身
 の危険を感じたのでアメリカに戻ってきた、と述べた。
・ロシアの士官、水兵につぐヒュースケンの殺害事件とイギリス公使館への襲撃は、サン
 フランシスコの新聞にも大きく報道されたという。
・少し口をつぐんでいた彦蔵は、
「オ願イシタイコトガアリマス」
 と言って、ケアリーの顔をみつめた。
 「何ドデモ言ッテクレ。私ニ出来ルコトナラ最大限ノ努力ヲスル」
 ケアリーは強い口調で言った。
 「バン・リード氏モ、ケアリー氏ニオ願イシタライイト言ッテマシタガ・・・」
 と前置きして、アメリカに戻ったのは海軍の倉庫監理官の任命書を得るためだ、と彦蔵
 は言った。  
 「リード君ハウマイ所ニ目ヲツケタ」
 ケアリーは何度もうなずいた。
・彦蔵は親しい友人たちのもとを訪れ、日本から持ってきた扇子や千代紙細工などを土産
 として渡した。 
 食事に招かれることも多く、ホテルを引き払って彼らの家を泊まり歩くようになった。
・ケアリーから連絡があって、彦蔵はマコンダリー会社に行った。
 ケアリーは、商社を経営している友人たちと話し合った結果を口にした。 
 彼らは海軍長官あてに彦蔵の推薦状を送ることも考えたが、彦蔵自身がワシントンに行
 って直接働きかけたほうがいいという意見で一致したという。
・ケアリーは、推薦状を友人である商社の経営者たちの連名とするが、さらに税関長をは
 じめサンフランシスコの有力者も推薦人になってもらうつもりだ、と言った。
 彦蔵は、ケアリーの好意に感謝した。
・翌々日、彦蔵のもとに税関の関税査定所の所員が来て、お力を借りたいことがあるので
 所長のマッジのもとに来てほしい、と言った。
 彦蔵は承諾し、所員とともに査定所に行ってマッジに会った。
・マッジは、彦蔵も乗ってきた「キャリントン号」のアメリカ人船客が日本から持ち帰っ
 た骨董品の関税査定に困惑している、と言った。
 その船客は、自分の帆船で日本に行ったが、骨董品に見せられて船を一万五千ドルで売
 払い、その金で日本の磁器、漆器を買いあさったのだという。
・関税査定所では、そのようなものを扱うのは初めてで査定できぬが、それらの骨董品は
 船客の申告額よりはるかに高い価格のものではないかと疑っているという。
 マッジは、所員に磁器と漆器を運ばせ、机の上に並べさせた。
 彦蔵は、立ってそれらをながめた。
 工芸品の価値を見定める経験も知識もなかったが、それらはいずれもどこでも見かける
 ような変哲もない物ばかりであった。
 その船客は、日本のものならば骨董価値があると思い込み、買い込んだにちがいなかった。
 彦蔵は、それらの価格が申告額よりはるかに安いと思ったが、
 「横浜デハ、コノ程度ノ金額デショウ」
 と、さりげなく言った。
 「御助力ヲ感謝スル」
 マッジは納得し、握手を求めた。
・推薦状を、どのような方法で海軍長官に渡すか。
 それについてケアリーは、母と妹がボストンに住んでいて、妹の夫アガシズが大学教授
 をしている、と述べ、アガシズは交際範囲がひろく、彼の紹介状を得れば、海軍長官に
 会う道が開けるはずだ、と言った。
 ケアリーは母の住所を記した紙片を渡し、電報で彦蔵が訪れることをあらかじめ報せて
 おく、と約束した。 
・サンフランシスコについては、彦蔵は、アメリカの南部諸州が独立して南部連合国を成
 立させ、合衆国側の北部軍とその年の四月以降、戦闘状態に入っているのを知った。
 北部は自由平等主義にもとづく産業資本が発達しているのに対して、南部は農業を主産
 業として奴隷の労働力に依存していることから、経済的な利害が対立し、それが南北戦
 争となったのだという。
・彦蔵は、サンフランシスコの友人から北部の経済力は南部のそれをはるかに越えている
 が、南部軍の、ことに将校は優秀で、その点では北部軍が劣っていると教えられた。
・戦争は長期化することが予想されていて、ケアリーは、そうした情勢もあるので、彦蔵
 に早めにワシントンに行くほうがよいとすすめてくれた。
・その忠告に従って、彦蔵は便船を求め、パナマに行く汽船があることを知り、それに乗
 った。  
 海軍力の点では北部軍が圧倒的に優勢で、パナマまでの航行には不安はないと言われて
 いた。
・汽船は無事にパナマに入港し、彦蔵は船客たちと蒸気車で地峡部を横断し、アスピンウ
 ォールについた。
 港には、ニューヨーク行きの汽船「チャンピオン号」が待っていて、彦蔵は乗船した。
 船は、アスピンウォールを出港して、北上したが、セント・ドミンゴ島沖にかかった時、
 右舷方向に一隻の汽船を認めた。
 その海域は、南部軍の武装商船が出没していて、「チャンピオン号」の船長はそれを武
 装商船と察知し、機関を全開させて船を北進させた。
・船長の推測は的中していて、その気船はサムナー大佐指揮の武装商船「サムター号」で、
 撃沈しようとして追跡してきたが、「チャンピオン号」の速力がまさっていて逃れるこ
 とができた。  
・上陸した彦蔵は、ニューヨークの町がひどくざわついているの感じ、それが戦争の影響
 であるのを知った。
 翌々日の夕方、ケアリーの母がいるというボストンに蒸気車で向かった。
 ボストンに着いた彦蔵は、ケアリーの母の家を訪ねた。
 彼女は、七十歳を超えた老女で、彦蔵を温かく迎え入れてくれた。
 彼女の夫は、彦蔵が帰国直前無一文に近く困惑している時、ケアリーの指示で小切手を
 送ってくれたが、すでに病死していて、彦蔵は老女にそのことを話し礼を述べた。 
・翌日、その時刻に行くと、アガシズ教授とその夫人、つまりケアリーの妹もいて、とも
 に食事をとった。
 ケアリーからの紹介状を読んだ教授は、
 「シーワド国務長官ト有力ナ上院議員宛てに手紙ヲ書キマショウ」
 と言って、食事を終えると数通の手紙を書いてくれた。
・ボストンでに目的を果たした彦蔵は、ニューヨークに戻った。
 その日は1861年1月1日であったが、ニューヨークの町には戦争の影響から新年を
 祝うにぎわいはみられなかった。
・ワシントンに行こうとしたが、アメリカに在住中最大の恩人である慈父同様のサンダー
 スのいるボルチモアを通り過ぎる気にはなれなかった。
 蒸気車でニューヨークを離れた彦蔵は、ボルチモア駅で下車し、サンダースの邸に向か
 った。  
 家の前に立った彼は、扉についたノッカーを鳴らした。
 扉が開き、顔を出した黒人の召使が目を大きく開くと、甲高い声をあげて小走りに奥の
 方へ入って行った。
 すぐにサンダースが姿を見せ、無言で近づいてくると彦蔵の体を抱きしめた。
 サンダース夫人も出てきて、サンダースにつづいて彦蔵の背に手をまわした。
 「良ク帰ッテ来タ。モウ二度ト会エヌト諦メテイタ」
 サンダースの眼から涙があふれ、頬を流れた。
 彦蔵も涙ぐみ、サンダースの手を握った。
 サンダースと別れてから三年半が経過したが、サンダースがなかり老け込んでいるのを
 感じた。夫人は、その頃と変わりはなかった。
・サンダースは、別れてから後の彦蔵のことをききたがり、彦蔵は食事後のお茶の時間に
 詳細にに語った。
 夫人も彦蔵の話に耳をかたむけていた。
 ボルチモアの新聞にも日本で攘夷派の武士による暗殺事件が報道されていて、彦蔵がそ
 の対象の一人にされていたという話に、夫婦は声をあげ、恐ろしそうに顔をゆがめた。
 彦蔵は、そのような険悪さも一時期のことで、やがて鎮静化するにちがいなく、その折
 には日本へ戻るつもりだ、と言った。  
・サンダースは、彦蔵が危険な立場に身を置いていたのは自分がアメリカへ帰化をすすめ、
 さらに夫人がキリスト教の洗礼を受けさせたことによるのだ、と嘆いたが、彦蔵はそん
 なことはない、と強く否定した。
・彦蔵は、サンダースにアメリカに戻ってきた目的を口にした。
 今後、アメリカの軍艦が横浜に来航することは年を追うごとに増すはずで、海軍の倉庫
 監理官の任務は一層重要になる。
 その官職につくことができれば十分に重責をはたす自信があり、身分を安定する。
 ケアリーをはじめサンフランシスコの有力者たちの推薦状をもらってあるので、それを
 手にワシントンにおもむく予定だ、と言った。
・うなずいて聞いていたサンダースは、その推薦状を読むと、少し思案した後、
 「ヒコ、私モワシントンヘ行ク。上院議員ノレイサム君ヲ紹介スル」
 と、言った。
 サンダースが八年前に自分をピアース大統領に引き合わせたりして政界、官界に知己が
 多いことを知っていた彦蔵は、サンダースの申出を喜んだ。
・彦蔵は雨の中を早朝、サンダースとともに蒸気車でボルチモアを離れ、ワシントンに向
 かった。
 沿線の道路の傍らに白いテントが見え、それが切れ目なく長々と続いている。
 兵たちの仮泊「するテントで、テントの外を雨に濡れて歩く兵たちの姿は、病んだ雛鳥
 のように哀れなものに見えた。
 彼らは首都ワシントン守備の兵たちにちがいなかった。
・夕刻、彦蔵は、サンダースと馬車に乗り上院議員のレイサムの邸におもむいた。
 サンダースは、彦蔵を紹介し、頼みたいことがあるが、明日再び訪れるから彦蔵の力に
 なってやってほしい、と言った。 
・二人は馬車でホテルに戻った。
 部屋に入ったサンダースは疲れ切った表情をしていて口数も少なく、椅子に背を持たせ
 て薄目を閉じている。
 老いたサンダースには、旅は無理だったのだと彦蔵は痛々しい思いがした。
・翌朝、食堂で食事をとりながら彦蔵は、
 「レイサム上院議員ニご紹介下サリ、感謝シテイマス」
 と言い、表情をあらためると、紹介して切れただけで十分で、これからは一人で任官運
 動をすると告げた。
 「寒サモ厳シク、アナタガ風邪ヲ引クト困リマス。夫人のモトニオ帰リクダサイ」
 サンダースは、無言でフォークとナイフを動かしていたが、顔を上げると、
 「私ハ、出来ルダケ君ノ役ニ立チタイ」
 と、彦蔵の顔を見つめた。
 彦蔵は、表情をやわらげ、
 「私ハ二十六歳ニナリマシタ。大人デス」
 と言った。
 サンダースは、少し視線を落とすと、
 「ソウカ、二十六歳カ。ソレデハ私ハ、今日ニデモ妻ノモトニ戻ロウ」
 と、自分に言い聞かせるように答えた。
・以前ならば、彦蔵の言葉に耳をかさず、連日、彦蔵を連れて政府の高官のもとを歩きま
 わるはずであった。 
 あっさり承諾し妻のもとに戻るというサンダースに、彼の老いを感じ、彦蔵は悲しかっ
 た。  
・ホテルを出た彦蔵は、その日、ワシントンの知人たちに会い、一流新聞の社長ウォレス
 にも会って歓談した。
 午後三時過ぎにホテルに戻ると、すでにサンダースはボルチモアに引き返して行ったら
 しく姿はなかった。
 帳場のフロントに行ってただすと、サンダースは午前中にホテルを出て馬車で駅に向か
 ったという。
・夜になって、彦蔵はレイサム上院議員の邸におもむき、ケアリーが渡してくれた海軍長
 官宛の推薦状をレイサムに見せた。
 それを読んだレイサムは、
 「コレハ最有力の推薦状ダ。明朝九時ニコノ種類ヲ持ッテ私ノ邸にキテクレ。私モ一緒
 ニ海軍長官ノモトニ行ク」
 と言った。
・食堂に案内され、レイサム夫妻と食事をとった。
 夫人はしきりに日本のことを知りたげって質問し、彦蔵は丹念にそれに答えた。
・翌朝、約束の九時に彦蔵は、推薦状を手にレイサム上院議員の邸に行った。
 レイサムは正装して待っていて、彦蔵をうながして馬車に乗った。
 馬車は海軍省につき、レイサムが面会申し込みをしてあったらしく、士官が長官室に案
 内した。
 海軍長官ギデオン・ウェレスは椅子をすすめ、彦蔵たちは長官と向き合って座った。
・レイサムは用件を口にし、彦蔵は立って推薦状を長官に渡した。
 長官は書類を開き、文字を眼で追っていたが、読み終わると、
 「レイサム議員。御承知ノヨウニ、コノ戦争で海軍ハ総力をアゲテ戦備ヲ整エテイマス。
 世界各方面ニ派遣シテイル軍艦ヲ本国に呼ビ寄セテオリ、日本ノ横浜ニ入港スル軍艦ハ
 少ナイ。マコトニ残念デスガ、コノ推薦状は受けトレナイ」
 と言って、少し言葉をきると、
 「国務長官のシーワド氏ノモチニ行ッテ、この推薦状ヲ見セテハ・・・」
 と、言った。
・彦蔵は、長官の言葉を素直に理解した。
 アメリカは南北に二分して戦争が行われていて、それは長期化すると予想されている。
 北部軍の海軍長官としては全兵力をアメリカに集中し、南部軍と対決しようとしている。
  神奈川の海軍倉庫監理官に、新たに一人の男を任官させる気にはなれないのだろう。
・長官室を出たレイサムは、国務長官のもとに行こうと彦蔵をうながし、海軍省を出ると
 国務省におもむいた。
・シーワドと握手をしたレイサムは、彦蔵を紹介して推薦状を渡した。
 それを弓終えたシーワドに、レイサムは、海軍長官から倉庫監理官への任官の余地がな
 いと言われたことを口にした。   
・シーワドは何度もうなずくと、彦蔵に顔を向け、
 「コノ度、神奈川ノ領事館ニ正式ノ通訳官ノ席を一ツ創設シマシタノデ、通訳官にナリ
 マセンカ」
 と、言った。
・彦蔵が神奈川のアメリカ領事館の通訳生をしていたのは、あくまでも臨時雇いで、シー
 ワド長官の口にした正式の通訳官という言葉には魅力があった。
 海軍の倉庫監理官に任じられることがまったく絶望的であるかぎり、通訳官という国務
 省の管轄下にある官職を得られるのは幸いであった。
 彦蔵は、長官に感謝の言葉を述べ、通訳官に任じてほしい、と頼んだ。
・シーワドは、
 「就任シテクレレバ、アメリカ政府トシテモ好マシイ。貴方は通訳官トシテマコトニ適
 任だ」  
 と言って、彦蔵の手を握りしめた。
 レイサム上院議員は、
 私の役目は十分ニ果タセタ」
 と、上機嫌であった。
 
二十一
・首都ワシントンに来て、アメリカが、自分の知っているアメリカとは別の国になってい
 るような感じがしきりにした。
 四年前の九月に離れるまでのアメリカは、社会の空気が静止したような平穏で、接する
 人はすべておおらかで親切であった。
 しかし、サンフランシスコは以前とは変わりはなかったものの、ニューヨーク、ボスト
 ンをへてワシントンに入ると、町の空気は甚だしくざわつき、人の眼も血走っているよ
 うに落ち着きを失っている。
 むろんそれは南北戦争の影響で、新聞の紙面は戦争の記事で埋めつくされ、人々は争う
 ようにそれをむさぼって読んでいる。
・倉庫監理官に任命されることを望んでアメリカに来たが、それも戦争のため拒否され、
 わずかに神奈川の領事館付通訳官に任じられるという約束を得たにすぎない。
 臨時雇いである通訳生から通訳官への昇格だけでもよしとしなければならぬだろうが、
 彦蔵は、その日、海軍長官と国務長官に会ったことによって、アメリカに来た結論がす
 べて出たのを感じた。
・日本へ帰ろう、と思った。
 南北戦争は長期化する気配が濃厚で、このままアメリカにとどまっていても自分にとっ
 てなんの益もない。
 毎日、英語のみにつつまれ洋食を口にしているが、日本語を耳にしては死で米飯を食べ
 味噌汁をすすりたかった。
・帰国するにしても、その前にボルチモアに立ち寄って、サンダースに会わねばならない
 と思った。老いたサンダースに会うのは、これが最後にちがいなかった。
 サンダースは彦蔵にとってアメリカそのものであり、彼の慈愛に満ちた眼を見たかった。
・ボルチモア駅で下車してサンダースの邸に行くと、サンダースは彦蔵の体を抱きしめた。
 目に涙がにじみ出ていた。
・彦蔵は、海軍長官に会ったが戦争のために倉庫監理官への任官が果たせず、国務長官か
ら神奈川領事館の通訳官に任命するという約束を得たことを告げた。  
 「ソレデ、ヒコは満足ナノカ」
 「満足デス。戦時下ナノデスカラ仕方アリマセン」
 「ソレナラ良イ。ヤガテ君ハ日本ヘ帰ルノダロウガ、ナルベク長ク私ノ家ニイテ欲シイ。
 ソレガ私ノ最大ノ喜ビダ」
 と、サンダースは目をしばたたいた。
・彦蔵は、その日からサンダースの邸で過ごした。
 老いたサンダースは、仕事からすっかり手を引き、貯えた金で暮らしていた。
 どこと言って体に故障はないようだったが、確実に老いが忍び寄っている。
 椅子にもたれて居眠りをすることが多く、歩く足もともおぼつかない。
 彦蔵は、サンダースの話し相手になり、腕をとって庭を散歩したりした。
・半月ほどが経ち、二月になった。
 サンダースの友人で元商船の船長をしていたブーズから、彦蔵を自分の家へ寄越してほ
 しいという手紙が何度かサンダースのもとに寄せられていた。
 清国にしばしば船で言ったことのあるブーズは、日本に強い関心を持っていて、彦蔵か
 ら日本の話を聞きたいという。
・「行ッテクレルカ。ブーズハ私ノ古クアラノ友人ダ」
 サンダースの言葉に、行きましょう、と彦蔵は答えた。
・ブーズは六十歳を過ぎていたが、元船長らしく快活で、彦蔵を歓迎してくれた。
 清国に行ったことのある彦蔵と上海、香港、広東、マカオなどの地について話題はつき
 ず、ブーズは船でそれらの地を訪れた折りの話をつぎつぎに口にした。
 さらにブーズは日本についての質問を執拗にして、彦蔵はそれに丹念に答えた。
・ブーズの家についてから三日後の日曜日に、彦蔵は彼の家族と教会へ行った。
 教会からの帰途、町が騒然としていて、多くの人が家から路上に出ているのを眼にした。
 ボーズが、不安そうな眼をして立っている男に何ごとか、とたずねると、セントポール
 教会の牧師が多くの兵に拉致されたのだ、という。
・その牧師は、礼拝で南部連合国の大統領のために祈り、北部の大統領についてはなにも
 口にしなかった。  
 礼拝に来ていた北部軍の兵たちが、北部の大統領リンカーンのためにも祈れと要求した
 が、牧師はそれらの声を無視して礼拝をつづけた。
 そのため憤った兵たちが説教壇に駆け上がり、牧師の腕をつかんで教会から引きずり出
 し、いずれかに連れ去ったという。
・夕食を終え、ブーズは、友人のブライアントの家に行こうと彦蔵を誘った。
 ブライアントは手広く乾物商を営んでいて、彦蔵に会って日本の話を聞きたいと言って
 いるという。 
 彦蔵は承諾し、ブーズとともにブライアントの家に行った。
 がっしりした造りの家で、ブライアント夫婦が喜びの色を顔にあふれさせて迎え入れた。
 夫人が葡萄酒を運んできて、一同グラスを手に乾杯した。
・その時、入口の扉が荒々しく開く音がし、足音が近づいて若い陸軍中尉が部屋に入って
 きた。   
 「コノ家にイルノハ、アナタ達ダケデスカ」
 呆気にとられたブライアントが、そうだと答えると、
 「ソレデハ男ノ方達ハ、私ト憲兵隊ニ御同道ネガイマス」
・ブライアントとブーズは、「ナゼカ」「意味ガワカラヌ」と口々に言ったが、中尉はせ
 き立てるように手を激しく動かした。
 その態度に気圧されて、三人は家の外に出た。
 家の前には、思いがけず銃を手にした二十人ほどの兵がいて、険しい眼を一斉に向けて
  きた。 
・夜道を歩きながら、彦蔵は、何かの間違いだと思った。
 ブーズは元船長、ブライアントは商人、自分は帰化したアメリカ市民で憲兵隊に連行さ
 れるいわれなどない。
 身元がわかれば人違いであるのがあきらかになり、中尉は無礼な行為を詫びることにな
 るだろう。
・暖炉の傍らに坐っている大尉が、三人を見回すと、彦蔵を指さし、
 「注意、ソレガ探シテイル男ダ。二階ヘ連レテ行ケ」
 と、甲高い声で命じた。
 彦蔵は驚き、大尉の前に行くと旅券を取り出してしめし、
 「アナタハ、私ヲ誰カトマチガエテイル。旅券ヲ見テクダサイ」
 と、うろたえ気味に言った。
 旅券をちらりと見た大尉は、険しい眼で彦蔵を見つめると、
 「ワシントンカラ、ジョセフ・ヒコヲ逮捕セヨトイウ電報ヲ受ケ取ッテイル」
 と、鋭い声で言った。
・中尉は、一室のドアの前で足をとめ、鍵を差し込んで空けると、無言で中に入るよう促
 した。 
 彦蔵が入ると、背後で鍵が閉まる音がした。
・人の気配がし、足音がして奥の部屋から髭の伸びた男が姿を現した。
 彦蔵は、ぎくりとして立ちすくんだ。
 四十年輩の男で、頬がこけ、顔が青白く、眼が異様に光っている。
 自分一人かと思っていたが、他にも拘束されている者がいるのが意外に思えた。
 「アナタハ、ナゼココニ・・・」
 彦蔵は、辛うじてたずねた。
 「ソレハ、私ノ方ガ教エテモライタイ」
 彦蔵は、呆気にとられた。
 自分もなぜ拘束されたのかわからぬが、この男も同じなのか。
 「私ハ二週間前ニ捕ラエラレ、ココニ閉ジコメラレタ」
・大尉は、ワシントンカラ逮捕命令を受けたと言ったが、自分には思いたることは全くな
 い。何かの間違いで、やがて誤解であることが明らかになって釈放されるにちがいない。
 しかし、男は二週間前に理由もわからず捕われ、その後、事情聴衆もされず家族との連
 絡も絶たれてこの部屋に閉じ込められている。
 それは自分にも適用されるにちがいなく、長い間拘束されるのだろう。
・彦蔵は、アメリカに対していだいていた考え方が無惨にも打ち砕かれるのを感じた。
 アメリカは自由と平等の国だと言われているが、実態は遠くかけ離れているのではない
 のか。  
・通路に足音がし、ドアの前で止まると、鍵をまわす音が聞こえた。
 長身の中尉が立っていて、彦蔵に視線を据えると、
 「デロ」
 と、鋭い声で言った。
 暖炉のある部屋に入ると、ブーズとブライアントが立っていた。
 椅子に座っている大尉が、彦蔵に冷ややかな目を向けると、
 「出テ行ケ」
 と、はき捨てるような口調で言った。
 ブーズが近づいてきて彦蔵の腕をとると、ブライアントが開けたドアの外に連れ出した。
・ブーズが、口を開いた。
 彦蔵が二回に連れられて行った後、ブーズとブライアントは憲兵司令官の部屋に行って
 執拗に交渉し、その結果、二万五千ドルの保釈金で彦蔵の釈放を認めさせたのだという。
 ただし、必要があるときには直ちに憲兵隊に出頭することを条件として・・・。
・それにしても、なぜ憲兵隊に連行されたのか釈然としなかった。
 翌日、ブースは所用があってワシントンに行く予定になっていて、彦蔵も同行を申し出
 た。  
 国務長官シーワドに会って、神奈川領事館の通訳官の件がどうなっているかを確かめた
 かったのである。
・保釈金で釈放された彦蔵は、いつでも憲兵隊に出頭することが義務づけられていて、
 ブーズの家を離れる折には届出る必要がある。
 そのためブーズは、ワシントンに彦蔵を連れて行く許可を得に憲兵隊に出向いて行った。
・三十分ほどすると、ブーズがもどってきた。
 「疑イハ、完全ニハレマシタ」
 彼が、事情を説明した。
 南部軍が首都ワシントンへの攻撃を企て、その作戦のために南部軍の高級将校が潜入し
 て偵察を行っているという情報を、ワシントンの北部司令官が入手した。
 憲兵隊は、司令部の指令に基づいて密偵を四方に放ってその将校の行方を追っていたが、
 密偵の一人が将校の古い写真に酷似している男がアレグサンドリアにいるという報告を
 もたらした。 
 それが彦蔵で、密偵は彦蔵の尾行をつづけ、ブーズとともにブライアントの家に入るの
 を確認して憲兵隊に通報した。
・憲兵隊では、彦蔵の旅券の内容をワシントンの司令部に伝えたが、司令部から電報で彦
 蔵が南部軍の将校どころか一切関係がなく、ただちに釈放せよと命じてきたという。
・ブースが軽装馬車を用意し、彦蔵は彼と乗ってワシントンの街に入った。
 ブーズと別れた彦蔵は、国務省に行ってシーワド長官に会った。
 任官のことをたずねると、シーワドは準備を進めていると答え、昨夜の件を口にした彦
 蔵に、  
 「時節ガ時節ダケニマチガイモ起コル」
 と言って、慰めてくれた。
・彦蔵は、揺れ動く空気の中で、またも捕われるような恐れを感じていた。
 その日は、みぞれが雪に変わったが、彦蔵はブーズの馬車に送られてワシントン駅に行
 くと蒸気車に乗った。
・窓外には雪が舞い、それを眺めながら彦蔵は、あらためて日本へ帰ろうと思った。
 アメリカは、彼の知っているアメリカではなく、戦争のため人間の心が荒々しくなって
 いる。  
 日本も激動期で、暗殺が頻発しているが、自分が生きてゆくのは日本以外にないのだ、
 と思った。
・彦蔵は町馬車でサンダースの邸に行った。
 そこは平穏な生活があって、彦蔵は夫婦と食事をし、茶を飲んで静かに語り合った。
 老いたサンダースを心配させぬように、憲兵隊に連行され拘束されたことは口にしなか
 った。
・サンダースの家に、シーワド国務長官から彦蔵宛の手紙が届いた。
 封を切ると、神奈川領事館付通訳官に任命するという正式辞令が入っていた。
 それをサンダースに見せると、サンダースは彦蔵の体を優しく抱き、おめでとうとい
 う言葉を何度も繰り返した。その夜、夫人は特別の料理を作って祝ってくれた。
・彦蔵はアメリカを二分した戦争が一層激化しているのを感じた。
 町の人たちは、そのうちにボルチモアも戦場になるのではないか、と話し合い、サンダ
 ース夫婦もおびえきった眼をして落ち着かず、時折り教会に足を向けていた。
・彦蔵は追い立てられるような気持になり、近々のうちに帰国の途につこうと思った、
 彦蔵はボルチモアを離れてワシントンに向かった。
 通訳官に任命してくれた国務長官のシーワドに、御礼をかねて帰国の挨拶をするためで
 あった。  
・あれ勝目手紙で面会の申し込みをしていたので、国務省に行くとすぐに長官室に通され
 た。
 彦蔵が帰国の挨拶をすると、シーワドは、
 「ソウカ、日本ヘ帰ルカ」
 と言って、しばらく思案するように黙っていたが、顔を彦蔵に向けると、
 「帰国前ニ、我ガアメリカ合衆国ノタイクン(大君)ニ合ワセテヤロウ」
 と、言った。
・大統領はリンカーンと言い、弁護士であったが、共和党の上院議員として大統領選に出
 馬し、当選して就任した。
 人情家と言われていて人々の評判は高く、信頼と敬意を集めている。
・前方に大統領官邸が見え、シーワドは内部に入ると、執務室の扉をノックして開けた。
 シーワドは、彦蔵に椅子に座るようにすすめ、自らも座ってテーブルに置かれた新聞を
 手にして活字を眼で追っていた。
 やがて、男はこちらに近づいてきた。驚くほどの長身だった。
・シーワドは、彦蔵に眼を向けて大統領に、
 「私ノ友人ノヒコ君デス。日本人デス」
 シーワドが、彦蔵の漂流のこと、アメリカに帰化したことなどを手短に話し、大統領は
 驚いたように彦蔵の顔に何度も目を向けた。
 シーワドが、この度彦蔵が神奈川領事館の通訳官に任命され、日本へ近々のうちにも戻
 ることを口にした。
 リンカーンは、大統領というより優しい納付のような感じであった。
・彦蔵はボルチモアのサンダースの邸に戻った。
 大統領のリンカーンに会った話をすると、サンダースは何度もうなずいていた。
 サンダースの眼には、わずかではあるがいつも涙がにじみ出ている。
 その涙に、彦蔵はサンダースの老いの深さを感じた。
・彦蔵はサンダース夫婦と静かに日を過ごしながら、帰国のために邸を出て行けば、それ
 がサンダースとの最後の別れになるのを感じていた。
 それをサンダースも知っているのか、眼には少しでも長く逗留して欲しいという、すが
 りつくような光が浮かんでいた。  
 彦蔵は、その眼を見るのが辛く、一日のばしに出発をのばしていたが、三月の夜、ひそ
 かに寝室で鞄に旅具をおさめた。
・翌朝、食事を終えた後、彦蔵は、二階の寝室に行って外套と鞄を手に階段を下りた。
 居間のドアを開けると、椅子に座っていたサンダースが、口を少し開けて彦蔵に視線を
 据えた。
・サンダースが、体を浮かせるように立ち上がった。
 「日本へ戻リマス。オ世話ニナッタコトヲ感謝シマス」
 彦蔵は、途切れがちの声で辛うじて言った。
 サンダースの眼から涙があふれ、彼は彦蔵にもたれかかるようにして体を接すると、背
 に腕をまわした。力のない抱き方であった。
 サンダースの口から嗚咽がもれ、それがたかまり、体が激しくふるえはじめた。
 彦蔵もサンダースの柔らかい体を抱き、涙を流した。
 夫人が近づき、
 「行クノデスカ、ヒコ」
 と言って、彦蔵のうでをつかんだ。その眼からも涙が流れていた。
・彦蔵は、鞄と外套を手に、
 「サヨウナラ」
 と言って居間のドアを押し、家の外に出た。
 外套を身につけて歩き出した彼は、邸を振り返った。
 居間の窓ガラスを通して、手を振る夫人と立ちつくしているサンダースの姿が見えた。
・四月、船がサンフランシスコに入港し、彦蔵は、ホテルに泊まった。
 翌朝、彦蔵はマコンダリー会社に行き、経営者のケアリーに会った。
 彦蔵は、ワシントンでの任官運動の経過の詳細を説明し、海軍長官から海軍倉庫監理官
 の職に就くことは拒否されたが、国務長官に神奈川領事館付通訳官の辞令を受けたと報
 告した。  
・「ソウカ、監理官ノ任命ハダメダッタカ」
 ケアリーは落胆したが、彦蔵は彼の好意に心から感謝している旨を伝えた。
 彦蔵は、ケアリーにアメリカへ来た目的も果たせたので、日本へ戻ると告げた。
 「ソウカ、帰国スルカ。シカシ・・・」
 と、ケアリーは表情を曇らせた。
・南北戦争の影響を受けてアメリカの貿易量は激減し、世界各地に輸出入品や貿易関係者
 を乗せて往復していた貨客船が、今ではアメリカ国内の兵員、武器の輸送に従事してい
 る。 
 日本との貿易は開国後日を追って盛んになってきていたが、ここに至って中絶状態にな
 り、日本に行く船は全くないという。
・彦蔵は深く息をつき、ここにも戦争の影響が重くのしかかっているのを感じた。
 日本へ行く船が皆無というからには、帰り―が言うように清国行きの船で清国に行き、
 その地で日本に向かう船を探す以外にない。
 彦蔵はケアリーに、清国へおもむく船が会ったら必ず教えてほしい、と頼んだ。
・彦蔵は、清国行きの船を当てもなく待ちながら日を過ごした。
 なすこともなく、ケアリーの会社に行って、戦況を報ずる新聞を読んだりしていた。
・五月五日にも、ケアリーの会社におもむき、新聞に眼を通した彼は、一個所に視線を据
 えた。   
 そこには、日本人漂流民十一人がアメリカ船「ビクター号」に救出され、入港したこと
 が記されていた。
 記事によると、清国からサンフランシスコへ航行中の「ビクター号」が、帆柱のない船
 が漂流しているのを発見、ボートをおろして船に乗っていた十一人を救出したという。
 彼らは日本人で、昨日「ビクター号」がサンフランシスコに入港した、と記されていた。
・彦蔵は、彼らの帰国に最大限の力をつくしてやろうと思った。
 開国した日本は彼らを受け入れる態勢にあり、帰国できる船便を探してやるだけでよい
 のだ。 
 サンフランシスコには、対日関係を担当する領事のブルックスが常駐していて、彦蔵は、
 かれと顔見知りであったので助力を得ようと考えた。
・彦蔵は、ケアリーの会社をあわただしく出ると、ブルックス領事のもとに行った。
 ブルックスは、すでに「ビクター号」船長クロウェルからの報告を得ていて、彦蔵が彼
 らを帰国させるよう尽力してほしいと頼むと、ただちに承諾し、ともに「ビクター号」
 へ行こう、と誘った。 
 願ってもないことで、彦蔵はブルックスとともにボートで「ビクター号」におもむいた。
・「ビクター号」は入港手続きに手間取っていて、乗客たちは下船せずにいたが、その大
 半は清国人であった。 
 クロウェル船長に会い、領事が、日本人漂流民のことで彦蔵とともにやってきたことを
 口にすると、船長は船員に彼らを連れてくるよう命じた。
・やがて、船長室の入口に短い髪を後ろに束ねた男たちが、一様におびえたような眼をし
 て姿を現した。頬がこけて顔は青白く、中には十三、四歳の少年もまじっている。
・彦蔵は椅子から腰をあげ、彼らをおびえさせぬように口もとをゆるめて近寄ると、
 「あなたたちは、わたしを御存知か」
 と、声をかけた。
 彼らは驚いたように彦蔵の顔を見つけた。
 しかし、髪を短くし洋服を着ている彦蔵を日本人と思うものはいないらしく、いぶかし
 そうな眼をしている。
・船頭らしい男が、
 「恐れながら、あなた様はとちら様でございますか」
 と、ためらいがちにたずねた。
 「播磨の国の彦蔵です」
 彦蔵の言葉に、彼らは互いに顔を見合わせた。
・彦蔵は十二年前に漂流してアメリカ船に救われたことを簡略に話し、彼らに「ビクター
 号」に救助されるまでの経過をたずねた。
・「私は沖船頭の清五郎と申す者でございます」
 彦蔵が船頭らしいと見当をつけた男が、一歩前に出ると事情を説明した。
・彼らは、尾張国知多郡中州(愛知県知郡南知多町中州)の大岩彦太郎の持船「永寿丸」
 に乗って、文久元年(1861年)十一月に江戸へ向かうため故郷を離れた。
 途中、鳥羽浦に帰航して出船したが、大暴風雨にさらされ、沈没の危機が迫ったので髪
 を切って神仏の御加護を祈り、帆柱も切り倒して漂流した。
 食料として積み込んでいた米は食いつくし、切断した帆柱でつくった臼で積荷の小麦を
 粉にひいて水団にし、さらにいわし、まぐろ、ぶりをつって飢えをしのいだ。
 文久二年三月にアメリカ船「ビクター号」に発見された。
・かれらが「ビクター号」に救出されたいきさつをきいた彦蔵は、ブルックスと話し合い、
 彼らを上陸させて帰国させる方法を探ることにした。
 彦蔵が清五郎にそれを伝えると、かれらは喜びの声をあげた。
・早速、ブルックスと相談して清五郎たちを収容する宿舎を用意し、二日後に彼らを上陸
 させてその家に連れて行った。
 彦蔵は、やってきたブルックスに眼を向けると、
 「このお方のお世話で、あなたたちはこの宿に入ることができたのだ。御礼を申し上げ
 なさい」  
 と、清五郎たちに行った。
 清五郎たちは膝をついて手を合わせ、何度も頭を深くさげた。
・彼らをどのような方法で日本へ帰してやったらよいか。
 日本へはもより清国へ行く船もなく、それは至難のわざであった。
 ブルックスは、適当な便船があるまで、彼らの面倒を見る、と言ってくれていた。
・ところが、三日後、ブルックスからその日入港してきたアメリカ船「コロライン・イー
 ・フート号」が、貨物を乗せて日本の横浜に行く予定だという連絡が入った。
 驚いた彦蔵がブルックスのもとに行くと、ブルックスは、すでに「コロライン・イー・
 フート号」の船長に漂流民の乗船手続きをすませていた。
・彦蔵もその船に乗って日本へ戻りたかったが、ブルックスの話でそれが不可能であるの
 を知った。
 船には余分の人員を乗せる余裕がなく、ブルックスの強い要望を入れた船長が、船倉の
 一部をあけてそこに十一名の漂流民を入れることをようやく承諾したという。
・彦蔵は、それでよいのだ、と思った。
 自分はやがて入港してくるであろう日本か清国へ向かう船に乗ればよく、漂流の憂目に
 あった彼らに一日でもはやく日本の土を踏ませてやりたかった。
・「コロライン・イー・フート号」は五月十四日に出帆の予定であったが、風向きが悪く、
 翌日にサンフランシスコを出港していった。
 その後、同船は順調に航海をつづけ、六月十三日には月蝕を眼にし、七月一日に八丈島
 を望んで翌日に横浜村沖についた。
・沖船頭清五郎以下十一名の漂流民は、奉行所役人に引渡され、吟味を受けた。
 奉行所の命によって、清五郎は「永寿丸漂流記」と題する日記を提出した。
 彼らは三百両の金と彦蔵をはじめアメリカ人から贈られた物品を持ち帰っていたが、
 それらはことごとく没収された。
・十一月上旬に彼らの生地を支配している尾張藩に引渡されることが決定し、百両のみが
 彼らに戻された。
 江戸築地の尾張藩邸に移された彼らは、藩士に付き添われて文久三年正月二日にようや
 く故郷の中州に帰った。
 家族たちは泣いて喜び、村人はもとより近在の村々からも人が集まって来て、清五郎た
 ちの漂流談やサンフランシスコでの話に耳を傾けた。
・その年の四月、尾張藩は、横浜村で西洋型帆船の購入契約を結んだが、操船できる者が
 なく、アメリカ船に乗って帰国した「永寿丸」漂流民に目をつけた。
 清五郎らを呼び出して帆船について知識をただすと、彼らは船乗りだけにアメリカの帆
 船操船術に興味をいだき、その手伝いをしたこともあきらかになった。
・藩では十一名のうち自由に読み書きのできる清五郎、常吉、栄助、彦五郎、権次郎の五
 名を選んで召し抱えた。  
 帆船は浦賀に碇泊していたので、清五郎らは藩士に伴われて浦賀へおもむいた。
 彼らは、帆船を細部まで調べて不良な船具等を良品に取り替えさせたりして、船を正式
 に受領し、藩では「神力丸」と命名した。
・「神力丸」に水夫三十名が乗り組み、清五郎ら五名が操船指揮をとって尾張に回航させ
 た。 
 その後、「神力丸」は大坂、江戸へ航海を続けたが、五カ月後、伊豆下田で台風に遭遇
 して破損した。
 修理できる船大工はいず、やくなく廃船とした。
・その後、藩ではイギリス製の蒸気船を入手して「知田丸」と命名し、清五郎らはその操
 船にも従事した。 
 彼らは、明治維新の折りに士族に列せられた。
 清五郎ら四名の家系は絶えたが、石垣という姓を与えられた権次郎のみは産をなして家
 族にも恵まれ、大正七年七月、八十九歳の長寿で朝鮮の巨済島で没した。
 
二十二
・「永寿丸」の漂流民を送り出した彦蔵は、便船を待ってサンフランシスコにとどまって
 いた。
 日本へはおろか清国へ向かう船はなく、ようやくハワイ経由で清国に行く船が入港して
 きたのを知り、友人たちに別れの挨拶をしてその船に乗り、サンフランシスコを離れた。
 船はひどい老朽船で船脚は遅く、ようやくホノルルに入港した後も長い間、港にとどま
 り、出港して香港についたのは、九月五日であった。
・清国を支配しているイギリスは、アメリカに悪感情をいだき、アメリカの軍関係者が香
 港に二十四時間以上とどまることを許さないという布告を出したりしていて、アメリカ
 の海運業も貿易も壊滅状態にあった。
・彦蔵はイギリス船「ロナ号」で香港を離れ、上海についた。
 彦蔵は、その地で日本へ行く船便を探し、「ガバナー・ウォレス号」が神奈川に向かう
 のを知って乗船し、船は文久二年八月に神奈川についた。
・上陸して横浜村に入ると、生麦村で起こった外国人殺傷事件で騒然としていた。
 横浜村に住むイギリス人商人三名と婦人一名が東海道を馬に乗って川崎方面に向かう途
 中、生麦村で薩摩藩主の父・「島津久光」の行列に接触、商人の一名が殺害され、二名
 が重傷を負わされた。
・イギリス代理公使ニールは、幕府と薩摩藩に強硬な抗議を繰り返しているという。
 彦蔵は、日本では相変わらず開国にともなう外国人に対する血なまぐさい事件が起こっ
 ているのを知った。
・翌々日、彦蔵は、神奈川の本覚寺におかれたアメリカ領事館に行った。
 むろんシーワド国務長官の通訳官任命書を手にしていた。
 領事館に人事異動があって、ドール領事は転出して半年前にフィッシャーが領事に就任
 し、書記生のバン・リードは辞任していた。
 また、公使もハリスが日本から去り、「プリュイン」が赴任していた。
・彦蔵の通訳人任命書は、すでにプリュイン公使のもとにとどいていて、フィッシャー領
 事も承知していた。 
 彦蔵は、フィッシャーに着任挨拶をし、正式の領事館付通訳官となった。 
 彼は、本覚寺の一室を与えられ、そこで起居するようになった。
・彦蔵は、不穏な空気が重苦しく自分の周囲にひろがっているのを感じた。
 「生麦事件」によって外国人たちは一層神経過敏になり、神奈川奉行所の動きもあわた
 だしかった。 
・さらに事件はつづき、品川御殿山に建設中のイギリス公使館が焼打ちされ、彦蔵は夜空
 が赤々と染まっているのを眼にした。
 むろんそれは、攘夷派による放火で、幕府は、外国公館が同じような災厄に見舞われる
 のを恐れて警備の兵を増員し、彦蔵の勤務するアメリ領事館の本覚寺にも兵が常駐して
 昼夜をわかたず警戒した。
・年があらたまり、文久三年に入ると天誅と称する暗殺が急増した。 
 対象になったのは、開国派の儒者や公卿の家臣、外国貿易で利益を上げている商人たち
 であった。
・生麦事件の余波は依然として尾をひき、幕府がイギリスに賠償金を支払ったものの、
 薩摩藩は要求をはねつけてイギリス側との対決は深刻なものになっていた。
・プリュイン公使から領事館に急報がもたらされた。
 その日、横浜に入港してきたイギリスの郵便船で、上海に駐在するアメリカ領事からプ
 リュイン宛の至急便の報告があった。
 横浜を出港したアメリカ蒸気船「ペムブローク号」が、赤間関海峡の入口で碇泊中、
 長州藩の軍艦に砲撃を浴びせかけられ、海峡通過をあきらめて豊後水道にのがれた。
 軍艦は激しく追尾してきたが、「ペムブローク号」は、それをかわして航行をつづけ、
 上海に入港したという。
 船長の報告を受けた上海の領事は、プリュイン公使にその不法行為をほうこくしてきた
 のである。 
・神奈川奉行に厳重抗議することになり、プリュイン公使が領事館に来て、使いを出して
 奉行を招いた。
 横浜村沖に碇泊中のアメリカ軍艦「ワイオミング号」の艦長マクドゥガル中佐も同席し
 た。通訳は、むろん彦蔵があたった。
・プリュインが、奉行にその事件を知っているかとたずねると、奉行は耳にしていると答
 え、某劇をしたのは長州藩の軍艦だと推定される、と言った。 
・「将軍ノ政府(幕府)ガ、砲撃サセタノデアロウ」
 その言葉を彦蔵が通訳すると、
 「長州藩独自の砲撃であって、幕府はなんら関係ない。幕府は、友好国であるアメリカ
 の船にこのような砲撃を加えた下手人を、逮捕処罰するよう尽力する。ただし、その報
 告は江戸についたばかりであり、どのような手段をとるか、しばらく御猶予を・・・」
 と、奉行は答えた。
・プリュインは、
 「ソレナラバ、私ハ軍艦ヲ長州ニサシムケ、報復スル。ソレニツイテ、ムロン将軍ノ政
 府ハ異存ハナイデショウナ」
 と、奉行を見つめた。
・彦蔵が通訳すると、奉行は顔をこわばらせ、
 「それはなりませぬ。江戸ではすみやかに事件を調査し、不法行為であることがあきら
 かになった降りには、日本の国法にもとづいて相応の処罰をいたします。そのような次
 第です故、軍艦などさしむけず、江戸より御沙汰があるまでお待ちいただきたい」
 と、強い口調で言った。
 それで会談は終わり、奉行は領事館を出て行った。
・彦蔵は、公使が領事、マクドゥガル艦長と話し合うのを聞いていた。
 公使は、艦長が賛成してくれれば、と前置きして、軍艦「ワイオミング号」を赤間関海
 峡にさしぬけて「ペムブローク号」を砲撃した長州藩の軍艦を拿捕し、横浜に連行した
 い、と言った。 
 公使自身も同行するという。
 艦長に異存はなく、「ワイオミング号」の出航が決定した。
・公使は、彦蔵に、
 「君モ私ニツイテ来テクレ」
 と言って、公使館にもどっていった。
・次の日の夜明け前に起きた彦蔵は、波止場からボートで「ワイオミング号」におもむい
 た。   
 出発時刻になったが、プリュイン公使は姿を見せず、艦長はしきりに望遠鏡を波止場の
 方にむけて公使が来るのを待った。
 彦蔵は、公使が長州藩側と放火を交えるにちがいない「ワイオミング号」に乗るのを恐
 れているのではないか、と思った。 
 その推測は当たっているらしく、いつまでたっても波止場に公使の姿は現れなかった。
・艦長は断念し、錨を上げさせ、艦は、江戸湾口にむかった。 
 艦は、雇入れた二人の日本人水主を水先案内人として太平洋上を西進し、二日後の夜明
 けには土佐藩領の室戸岬を過ぎた。
・「ワイオミング号」はさらに西へ進み、豊後水道に入り、周防灘の姫島の傍らで停止し
 て投錨した。
 艦長は、士官たちを集め、戦闘準備を命じた。
 砲をはじめ小銃、ピストルに至るまで弾丸が装填された。
・翌日は快晴で、空に一片の雲も見られなかった。
 艦は錨を上げ、商船「ペムブローク号」を砲撃した長州藩の軍艦を求めて周防灘を巡行
 した。 
 艦船の姿はなく、赤間関海峡方面にいると推測した艦長は、舳先を海峡に向けさせた。
 同時に、大砲に防水帆布をかぶせるよう命じた。艦を商船に見せかけようとしたのであ
 る。
・海峡の入口に近づいた時、全部甲板で望遠鏡を前方に向けていた中尉が、
 「武装シタ帆船二隻、蒸気船一隻、町ノ前面ニ碇泊シテイマス」
 と、報告した。
 「ヨシ、ソノ三隻ノ中ニ突ッ込ミ、蒸気船ヲ拿捕スル」
 艦長は、指令した。
・彦蔵は、水兵たちの顔から一様に血の色がひいているのに気づいた。
 放心したように当てもなく歩きまわったり、唇をふるわせている者もいる。
 実戦経験のない彼らは恐怖で動転しているのだ。
・勘が海峡の入口に近づくと、突然、砲声がとどろいた。
 右手の樹木の生い茂った岸から白煙が立のぼっていた。 
 その直後、海峡の入口に設けられた法大から砲声がとどろき、それが連続した。
 海面の所々に水柱が高々とあがり、砲声が、いんいんとこだました。
・艦長は、マストにアメリカ国旗をかかげさせると、
 「合戦準備」
 と、命じた。
 あわただしく砲をおおっていた防水帆布がとりのぞかれ、まず六十四ポンド砲が火ぶた
 を切った。 
・艦は、長州藩の三隻の船に向かって突き進んでゆく。
 長州藩の船からも砲台からも猛烈な砲撃がつづけられ、砲弾が艦上で炸裂したが、ほと
 んどがとどかず海面に水柱をあげた。
・蒸気船には藩の重役が乗っているのか、藩公の家紋が染められた紫色の幕が張り巡らさ
 れている。
 「ワイオミング号」は、その船に砲撃を浴びせかけながら蒸気船の前方を横切った。
 蒸気船はもやい綱をとき、港の奥の方へ逃れようと進みはじめた。
・蒸気船は、港の奥に退避してゆく。
 それを見た艦長は、十一インチ口径のダールゲン砲の砲手に発射を命じた。
 顔面蒼白で身を震わせている砲手は、その命令も耳に入らぬらしく立ちつくしていたが、
 士官に鋭い声をかけられ、ようやく砲に取りつくと発射した。
 砲声がとどろいて硝煙が濃く流れ、彦蔵は、蒸気船の中央部から大量の黒鉛とともに白
 い蒸気が吹き上げるのを見た。砲弾が蒸気機関に命中したのだ。
・それまでへたりこんだりしていた水兵たちの間から、フレー、フレーという歓声が一斉
 に起こった。砲弾の命中で、恐怖が一瞬に吹き払われたのだ。
・長州藩の蒸気船がゆっくりと身をねじるように回転し、徐々に傾いて海中に没していっ
 た。   
 その光景に水兵たちは別人ように活気づき、他の二隻の帆船にも砲口を向けて発射した。
・帆船は激しく応戦したが、被弾が甚だしくなって乗務員が豆がこぼれ落ちるように海に
 飛び込み、岸に向かって泳いでゆくのが見えた。
 小型帆船は炎に包まれて沈没し、大型帆船も甚大な損傷を受けて停止していた。
 陸岸の砲台はすべて沈黙していた。
・艦長は、
 「砲撃ヤメ」を下令し、艦を反転させた。
・艦の被害が集計された。
 被弾二十二発で、水兵四人が死亡、六人が負傷していることが明らかになった。
 砲戦は一時間足らずであった。
・艦は海峡を抜けて東進し、姫島の傍らに戻って投錨した。    
 ボートがおろされ、士官が船体を点検した。
 損傷個所はあったが、航行に支障はないと判断された。
・彦蔵は、艦長室に招かれ、士官たちとともに祝杯をあげた。
 日本人でありながら長州藩に大打撃をあたえたことになんの違和感もなく、彼らと勝利
 を喜び合った。 
・艦は、太平洋上を東進し、江戸湾に入り、横浜村沖に投錨した。
 彦蔵は、翌朝、艦長と食事をともにして下艦した。
 領事館に戻った彦蔵は、フィッシャー領事に、
 「プリュイン公使は、ナゼ来ナカッタノデスカ。マクドゥガル艦長ハ二時間モ待ッテイ
 マシタ」
 と、言った。
 領事は、笑いを眼に浮かべると、
 「公使ハ、ヒ前任のハリスと違って打算的で、ドイ消化不良ヲ起コシテ・・・」
 と、答えた。
・嘘をつけ、と思った。
 公使は、砲戦を恐れて艦に乗ることを避けたにちがいなかった。
 公使は多額の利益をもたらす貿易にも手をつけて私利私欲をはかっている節がある。
 それは、フィッシャー領事にも共通していて、彦蔵は彼らに不快の念をいだくようにな
 っていた。  
・領事館には、赤間関でフランス軍艦「キャンシャン号」についでオランダ軍艦「メジュ
 サ号」が長州藩側から砲撃を浴びせかけられ、かなり被害を受けたことが伝えられた。
 激怒したフランス領事は、軍艦「セラミス号」「タンクレード号」の二隻を報復のため
 赤間関に派遣した。 
・その二艦が横浜沖に戻ってきたのを耳にした彦蔵は、横浜村に行ってみた。
 フランス艦の士官たちは、長州藩側に大打撃をあたえ、陸戦隊も上陸して戦利品を持ち
 帰ったと得意気に言っていたが、艦の煙突はへし折られ、マストも飛ばされていて、
 数人の死傷者も出たようであった。
・生麦事件は、幕府が十一万ポンドの賠償金をイギリス側に支払うことで一段落していた
 が、札場藩は一切の妥協を拒み、度重なる談判も決裂していた。
 そのため、直接鹿児島へ行って決着をつけようとしたイギリス代理公使「ニール」は、
 キューバ―提督のひきいるイギリス艦隊七隻とともに横浜を離れ、鹿児島に向かった。
・横浜村の外国人たちは、艦隊の威容におそれおののいた薩摩藩が、ただちに屈して要求
 を全面的に受け入れるだろう、と話し合っていた。
 領事のフィッシャーも、
 「七隻ノ軍艦ヲ眼ニシテ体ヲ震ワセ、哀願スルダロウ」
 と、小気味よさそうに言っていた。
・彦蔵は、アメリカに長い間滞在していただけに、欧米諸国と日本の武力の差が天と地ほ
 どのへだたりがあり、大藩である薩摩藩も戦争となればたちまち圧伏されるだろう、と
 思っていた。
・イギリス艦隊が鹿児島に向けて発行してから四日後、領事館に奉行所の役人二人が彦蔵
 を訪れてきた。彼らの顔には険しい表情が浮かんでいた。
・上席らしい中年の役人が、二日前に東海道筋の茶店の厠の中に血に染まった男の首が投
 げ込まれていたことを口にした。  
 壁に貼り紙があって、そこには、この首は横浜から赤間関にむかったアメリカ軍艦に水
 先案内人として雇われた者の首である、と書かれていた。
 さらに、他に不埒な者が二人乗艦していたが、その者たちも追って同様の仕置きを受け
 るであろう、と書き添えられていたという。
 「その二人とは、あなたともう一人の水先案内人と考えられます」
・彦蔵は、自分の顔から血の色がひいているのを意識した。
 斬殺するという二人とは、役人の言ったように自分ともう一人の水先案内人を務めた水
 主であることはあきらかだった。 
 自分がアメリカ軍艦に乗っていたことを長州藩士たちが知っているのは、自分の周囲に
 情報網が張めぐされていることを示している。
・彦蔵が「ワイオミング号」に乗ったのは、公使のプリュインがついてきてくれ、と言っ
 たからだが、乗艦するはずのプリュインは仮病を使って乗ることはしなかった。
 彦蔵は、あらためて公使の卑劣さに憤りを感じた。
・身の危険を感じた彦蔵は、短銃に弾丸を装填して身につけ、領事館から一歩も外へ出ず、
 自室にとじこもるようになった。
・役人が来訪してから三日後には、横浜日本町に、幕府の役人をことごとく殺害し屋敷を
 焼き払うという立札が立てられているという情報が入った。
 そのため横浜一帯に警備の者が配置され、所々に検問が設けられているという。
・翌朝には、長州藩士たちが大挙して外人居留地を攻撃するため横浜に向かい、すでに大
 量の兵器と弾薬がひそかに日本人町へ運び込まれているという情報が奉行所から伝えら
 れた。
 領事館も襲われることが懸念され、警備の者が増強された。
・さらに二日後には領事館に不吉な報告が寄せられた。
 京都の豪商数名が何者かに襲われて、それらの者の首が夜の間に主要な橋の袂にさらさ
 れ、首の傍らには、次のような種面が貼られていたという。
 「この不逞な輩は、尻を得ようとして夷狄(外国人)と商いを致し、ために諸式(物価)
 高騰して民の大半は塗炭の苦しみを味わっている。まさに売国奴というべきで、よって
 ここに天誅を加えるものである」
・この出来事は、たちまち横浜の日本人街に伝えられ、大きな波紋となって広がった。
 横浜に商店をかまえているのは外国人と商取引をする商人たちで、攘夷派の者からは不
 逞な輩とみられ、天誅の対象となる。
 商人たちは恐れおののき、その日に早くも店を閉める者もいた。
・そうした商人たちの動揺を知った彦蔵は、追い詰められたような気持になった。
 陽次官から離れよう、と思った。
 通訳官という職を辞すれば、攘夷派の者たちから命を狙われることもないだろう。
 それに、彦蔵は、人間関係に嫌気がさしていた。
 前任のハリス公使にもドール路湯時にもアメリカの国益を守ろうという純粋な使命感が
 感じられたが、現公使と領事にはそれが欠落していて金銭についての執着が強い。
・公使も領事も高級だが、彦蔵のそれは不当に安く、これについて昇給を求めたが、全く
 耳をかさない。 
 アメリカと日本との外交関係に潤滑油の役目をしようと思って領事館員になったが、そ
 の望みは失われている。
・彦蔵は、熟慮した末、辞表を書き、フィッシャー領事に渡した」
 それを読んだ領事は、
 「コノ辞表ヲ受理シテ欲シイトイウ私の手紙ヲ添エテ、本国ニ送ル」
 と、淡々とした口調で言った。
・彦蔵は、領事館にそのままとどまっていた。
 ワシントンの国務省から批評を受理したという公式文書が到来しなければ、職を離れる
 ことはできない。  
 彦蔵は通訳官の仕事をつづけていたが、フィッシャー領事との関係はぎくしゃくしたも
 のになり、顔を合わせることも避けていた。
・その後、彦蔵は、横浜のイギリス系新聞社が増新聞(号外)を出し、それが鹿児島に向
 かった七隻のイギリス艦隊の動きを報ずるものであるのを知った。
 イギリスの郵便船「コルモレンド号」が上海から横浜に向かう途中、日向国の沖で碇泊
 しているイギリス艦隊五隻を眼にして停止した。
 旗艦「ユーリアラス号」からボートがおろされ、新聞記者が「コルモレンド号」にやっ
 てきた。 
 記者の話によると、鹿児島でイギリス艦隊と薩摩藩との間で激しい戦闘が行われ、二隻
 の艦が損傷を受けて続航してこないので、艦隊はそれが来るのを待っている、という。
・記者は、先頭の取材記事を船長に渡し、横浜の新聞社の届けてほしい、と依頼した。
 その日早朝、「コルモレンド号」が横浜に着き、ただちに記事が新聞社に渡され、それ
 が増新聞となったのだ。
・新聞には飢者の観戦記がつづられていたが、それを読んだ彦蔵は呆気にとられた。
 薩摩藩側との砲戦で「ユーリアラス号」艦長ジョスリング大佐、副長ウィルモット中佐
 が戦死するなど六十名の死傷者を出し、各艦も損傷を受けたという。
・彦蔵は、世界屈指の海軍力を誇るイギリス艦隊が、戦争になれば薩摩藩に壊滅的な打撃
 を与えると信じ込んでいたが、記事は艦隊の敗北を伝える印象が濃かった。
・二日後にまたも一層詳しい鹿児島での戦争記事が新聞に掲載された。 
 その日、旗艦「ユーリアラス号」が横浜に入港、乗っていた新聞記者が上陸して新聞社
 に観戦記を提出したのだ。
 その記事には、藩側にかなりの被害を与えたことが具体的につづられていたが、艦隊側
 のこうむった損害が甚大であったことも記されていた。
・領事館には、横浜在住の外国人たちが顔色を失って激しく動揺していることが伝えられ
 た。 
 それとは対照的に奉行所役人をはじめ日本の商人たちが、喜びの眼を輝かせているとい
 う。
 彦蔵は、喜ぶ気にはなれず、自分が半ばアメリカ人になっているのを感じた。
・八月に、入港したアメリカ船から、辞表を受理したという国務省の書類が領事館に届け
 られた。 
 フィッシャー領事からそれを聞いた彦蔵は、すぐに奉行所に領事館と無縁になったこと
 を報告した。
・彦蔵は、その日のうちに領事館を離れると、横浜村の日本人街に行き、親しくしている
 商人の離室に住みついた。
 一応、気持ちは落ち着いたが、恐怖感は残っていて、部屋に閉じこもって外出を極力避
 けた。
・貿易にたずさわる日本人商人が店を並べている横浜村は、異様な空気につつまれていた。
 商人の暗殺事件がつづいたため、奉行所から警備の者が詰め、外国人街にはそれぞれの
 国の武装兵も巡回していた。
・十月に入ると、横浜村の外国新聞に薩摩藩士とイギリス代理公使ニールとの間で講和談
 判が推し進められているという記事がみられるようになった。
 双方、率直な意見を述べ合い、それによって次第に歩み寄りの空気が生まれ、薩摩藩は
 二万五千ポンドの賠償金を支払うことを約束したという。
 十一月に、彦蔵は、賠償金が大八車にのせられてイギリス公使館に運び込まれたことを
 耳にし、生麦事件が決着を見たのを知った。
・文久四年に正月を迎え、二月には元号が改められて元治となった。
 横浜村は、一応平静を保っていたが、四月に巨大な三層甲板の軍艦が湾内に入って来て
 騒然となった。
 甲板には文蔵下多くの兵の姿がみられ、日本側との間で戦端が開かれるのではないかと
 恐れたのである。 
・艦はイギリスの「コンクェラー号」で将校二十二名、下士卒五百三十名の海兵隊が乗っ
 ていた。
 彼らの目的は、横浜、神奈川在住の外国人保護のための進駐で、幕府も諒承していた。
 海兵隊員は山手の天幕宿舎に入り、その進駐を外国居留民たちは大いに喜び、彦蔵も、
 身の危険が薄らいだのを感じた。
・彦蔵は、横浜村できわめて特異な存在であった。
 貿易に従事する外国人と日本人の最大の障害は、言葉が通じぬことであった。
 英語の通訳者が必要であったが、英会話の可能なものは奉行所に配属されている通詞だ
 けで、彼らは幕府と各国外交公館との交渉での通訳にあたっている。
 むろん彼らは、商人たちの通訳などするゆとりはなく、第一、それはかたく禁じられて
 いた。 
・商人たちの眼は、自然に彦蔵に向けられていた。
 アメリカ領事館付通訳官を辞した彦蔵は、すでに民間人で、なんの拘束も受けていない。
 そのため、彦蔵はしばしば商取引の場に立ち会わされ、会話はもとより契約書の翻訳、
 作成もし、複雑な取引も少しの支障なく成立させたりし、謝礼を得た。
 そのような仕事で彦蔵は多忙をきわめていたが、その間に自らも貿易業に手を染めるよ
 うになっていた。
・綿花の世界相場に、大きな変動が起こっていた。
 アメリカは綿花の主要生産国であったが、南北戦争で綿花畠にひろがる地域が戦場にな
 ったり輸送路が寸断されりして、生産量は激減し、輸出が杜絶えて、世界各国の綿花の
 価格が高騰していた。
 それに眼をつけた日本人商人たちは、日本の各地で栽培されている綿花を買い集め、
 外国の貿易商に売って多くの利益を得ていた。
 彦蔵も、その風潮に乗じて綿花の取引に手を突けていたのである
・一漁村にすぎなかった横浜村は、洋館を含む家々が建ち並び、港町らしいにぎわいをみ
 せていた。
 イギリスの郵便船が定期的に入港し、そこには新聞ものせられていて、居留地の外国人
 たちはそれを手にするのを楽しみにし、彦蔵も読むのを習いにしていた。
 
二十三
・外国の新聞は、彦蔵の商売に大いに役立った。
 そこには、世界各地の綿花をふくむ商品相場の変動が記録されていて、彦蔵はそれを参
 考にして商取引を行っていた。
・むろん横浜居留地の外国人商人たちも、相場の変動をにらみながら輸出、輸入をおこな
 っていたが、彦蔵が外国人とまったく同じ動きをして商売をしているのが、日本人の商
 人たちの注目を浴びた。
 彼らは、その理由をさぐり、彦蔵が外国に新聞から得たちしきを活用しているのを知っ
 た。
・自分たちも利益を得ようと考え、まず彦蔵と親しい商人たちが近づき、さらに面識のな
 い商人が訪れてきて、外国新聞にどのような刑崎自我載っているのか教えてほしい、と
 懇願するようになった。
・彦蔵は快くそれに応じ、外国新聞をひろげて貿易についての記事を和訳してきかせた。
 輸出品の相場を商人たちは真剣な眼をして書きとめ、相応の謝礼を置いて帰って行った。
・郵便船が入港するたびに、彼らは彦蔵の家に集るのが習いになり、家は一種の社交場に
 近いものになった。  
・商人たちの中には、経済記事以外に新聞にはどのような記事がのっているのかをたずね
 る者もいた。
 新聞には南北戦争、清国での内乱や各国の政治、社会の動静が記され、広告文ものって
 いて、彦蔵はそれらについて説明した。
 商人たちは眼を光らせ、耳を傾けていた。
・彦蔵が外国新聞を和訳して読んで聞かせているという話が、思わぬ波紋となってひろが
 った。 
 横浜に出向いて来ていた地方の藩の藩士たちが、それを聞こうとして訪れてくるように
 なったのである。
・初めの頃、彦蔵は、大小刀を腰におびた彼らが自分の命をねらう攘夷派の武士ではない
 かと疑い、恐れを感じていた。
 しかし、彼らは、日本の進むべき道は欧米諸国と友好関係を保ち、それによって西欧の
 政治、法律、科学に関する知識を導入しなければならぬという開国論の信奉者たちであ
 った。
・彦蔵は、ようやく警戒心をとき、彼らの来意も理解して、新聞のイギリス文字を眼で老
 いながら和訳した。
 藩士たちは、彦蔵の誤訳力に驚嘆しながら、熱心に矢立の筆を走らせていた。
・彦蔵は、漂流したアメリカ船に救出されサンフランシスコに上陸した時、初めて新聞と
 いうものを眼にした。
 その後、アメリカに在住中、ワシントン、ニューヨークのような大都市のみではなく地
 方の町にも新聞社があって、記者が取材にあたり、記事が印刷されて発行されているの
 も知った。
 新聞はあらゆる階層の人々の間にひろく浸透していて、新聞によって国内の動きはもと
 より世界情勢も知ることができ、アメリカ人の生活になくてはならないものになってい
 た。
・アメリカと異なって、日本に新聞に類するものは皆無で、彦蔵はあらためて不自然に思
 った。
・日本人が知る情報は、口から口に伝わるものに限られ、当然のことながら誤報も多い。
 そのため幕府はもとより各藩は探索の者を四方八方に放ち、豪商も人を派して正確な情
 報を得ることにつとめている。
 世界の動きについては、少し以前はオランダ、清国の船が入港する長崎に情報収集者た
 ちが常駐し、船にのせられた印刷物や船員の話によってうかがい知ることができた。
 しかし、それらの情報は、一般に知れわたることは少なかった。
 もしも新聞があって正確な記事を載せれば、世界、国内の情勢を人々に伝えることがで
 きる。
・彦蔵は、外国新聞の記事を和訳する自分の言葉に熱心に耳を傾け、紙に書きとめる商人
 や各藩の藩士たちの顔を思い浮かべた。
 その和訳文を文字に託し、それを新聞の記事として発行すれば、彼らはもとより多くの
 者を益するはずであった。
・新聞をつくってみようか、と思った。
 その新聞には、定期的に横浜に入港する郵便船がもたらす外国新聞の記事から世界情勢
 を紹介する。
 さらに横浜で外国人相手に発行されているイギリス、アメリカ系の新聞には、記者が取
 材した日本国内の記事も載せられているので、それも抜粋して掲載する。
 これによって、世界情勢と国内の動きを記事にすることができる。
・ここまで考えた彦蔵は、大きな難問があるのに気づき、深く息をついた。
 それらの記事は、むろん日本文でつづり、しかも名文であらねばならないが、自分には
 到底不可能であるのを感じた。 
・彦蔵の日本文字に対する知識は、十三歳まで寺子屋に通って得た範囲にとどまっていて、
 平仮名の読み書きはできるが、寛治は見当をつけて辛うじて読むことができても、書く
 ことはほとんどできない。
・たしかに新聞は、漢字をよく知っている者が記事を書かねばならないが、それを自分が
 しようと考えたことがあやまりなのだ、と思った。
 自分が和訳する新聞記事を日本の文章で巧みにつづれる者を探し、その者の協力を得れ
 ば新聞はつくれる。
・横浜村には、外国人経営の洗濯業者がいた。
 彦蔵は、アメリカに在住中、ワイシャツその他を洗濯屋に出し、その費用は生活費の重
 要な一部になっていた。
 横浜村でも外国人は洗濯屋に衣類の洗濯を依頼し、彦蔵も例外ではなく、大八車を曳い
 て定期的にやってくる洗濯屋の若い雇人に衣類を渡す。
・男は、横浜村を回って歩いていて、当然、顔も広い。
 外国人居留地には、英語を学ぼうとする日本の文人が多く入り込んできていて、男は彼
 らと接触もしているはずであった。
・彦蔵は、数日後にやってきた男に、文章に巧みな日本人がいたら教えてほしい、と頼ん
 だ。
 男は、いぶかしそうな表情をしながらも承諾し、衣類を大八車の籠に入れて去っていっ
 た。
・彦蔵は、横浜の外人居留地三十九番館に住む、アメリカ人ヘボンの家に寄寓している、
 「岸田吟香」のことを思いついた。
 ヘボンは、日本布教を目的にアメリカから夫人とともにやってきた宣教師兼医師で、
 五年前の安政六年九月に横浜に上陸した。
 ヘボンは、本覚寺におかれたアメリ領事館に領事のドールを訪れ、住居の斡旋を依頼し
 た。 
 彦蔵は、ドールの指示で本覚寺に近い成仏寺の僧と交渉し、ヘボン夫婦の住居として本
 堂を借りてやった。
 そのようなことから、彦蔵は、ヘボン夫婦と親しくなり、日本での生活の相談相手にも
 なった。
・吟香は、美作国(岡山県)の生まれで、幼い頃には神童と言われ、津山藩儒昌谷清渓谷
 に学び、江戸に出て林図書頭の塾に入った。
 学才がいかんなく発揮され、林の代講にまでなった。
 その後、三河挙母藩に召し抱えられで需官となったが、脱藩して江戸にもどり、落ちぶ
 れて湯屋の三助、左官の手伝いをした後、妓楼の主人となった。
 しかし、翌年、吉原が全焼して妓楼も灰になって流浪の身となり、眼病治療がきっかけ
 でヘボンに接触したのである。
・その頃、ヘボンは、日本語研究につとめ、和英辞書の編集に取り組んでいた。
 治療を受けながら、吟香は、ヘボンに自分の経歴を問われれるままに口にし、日本語の
 仮名づかいや文字のことを語った。
 ヘボンは、吟香の学才が並々ならぬものであるのを知り、和英辞書の編集に協力してく
 れるよう頼んだ。 
・彦蔵は、ヘボンの家に行き、吟香に会った。
 アメリカで新聞が普及している実情を具体的に述べた彦蔵は、日本でもそれを発行した
 いと言って、その方法について説明した。
・英語を身につけるためヘボンの和英辞書の編集に協力していた吟香は、外国新聞の和訳
 文をつづることに興味をいだき、力を貸してほしいというと彦蔵の申し入れを即座に承
 諾した。  
・喜んだ彦蔵は、新聞発行の準備にとりかかったが、家に一人の男が突然のように訪れて
 きた。本間潜蔵であった。
 本間は掛川藩の御典医の子として生まれ、駿府(静岡県)に出て漢字を学び、横浜で英
 語の勉学につとめていた。
 彼は、洗濯屋の男から彦蔵が外国新聞の記事を二本分でつづる筆記方を探しているとい
 う話を聞き、英語習得の好機会と考え、雇ってほしいと申し込んできたのである。
 彦蔵は、吟香についで潜蔵という協力者を得たことを心強く思った。
・イギリスの郵便船が入港して、ロンドンの新聞社で発行している新聞が陸揚げされた。
 彦蔵は、早速それを入手し、貿易品の相場表と興味深い記事に印をつけ、さらに横浜で
 発行されている英字新聞から国内記事を選び出した。
 吟香と潜蔵を呼び、彦蔵は、記事を和訳して読みあげ、二人はそれを筆で書きとめた。
 明快な文章でという彦蔵の求めに応じて、二人は互いに文章を照らし合わせ、訂正する
 ことを繰り返した。 
 それらの文章は清書され、こよりで閉じられた。
・新聞誌の発行は、人の口から口に伝わり、彦蔵の家に譲ってもらおうとして訪れる者が
 多くなった。
 商品相場が掲載されているのと知った商人たちは強い関心を寄せたが、世界情勢の記事
 ものっているので、役人たちや英語を学ぶため横浜に来ている各藩の藩士などもやって
 きた。
・その度に彦蔵は、吟香と潜蔵が手書きした新聞誌を渡したが、その授受に奇妙な習慣が
 生じた。
・彦蔵は、アメリカで発行されていた新聞が定められた金額で人々に渡り、購読されてい
 るのを知っていた。
 が、新聞誌を求めてやってくる者は、時にはわずかな品物等を持ってくる場合もあった
 が、ただ礼を述べるだけで帰ってゆく。
 彼らには、新聞誌が金銭の対象になるという意識はなく、彦蔵の好意としか考えていな
 いようだった。
 彦蔵は落ち着かなかったが、数枚の筆写した新聞誌の代償を求めるのもためらわれ、請
 われるままに無償で渡してやっていた。
・新聞誌は、月に二回平均で発行され、その度に人々は、礼を言って持ち帰っていた。
 彦蔵は、吟香、潜蔵と相談して新聞紙を筆写ではなく木版刷りにすることをきめた。
 記事は海外情勢を主としたものであったので、新聞誌を館外新聞と改題し、その第一号
 を翌年五月に発行した。
・海外新聞も月に二階の割で発行され、それも無料で希望者に渡されていたが、肥後藩士
 のショウムラ(荘村省三)と柳川藩士のナカムラ(中村祐興)の二人だけが、定期購読
 料を払ってくれていた。
・国内に政治的な大変動が起こり、騒然としていた。
 七月には京都で長州藩による「禁門の変」が起こり、幕府は長州藩征討令を諸藩に発し
 た。
 また、赤間関(下関)海峡を通過する外国船を砲撃した長州藩に対する報復のため、
 イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊十七隻が下関を攻撃、
 長州藩は惨敗した。
・長州藩征討は長州藩の幕府への恭順謝罪によって一応平静化し、また赤間関海峡問題に
 ついては賠償金支払い決着をみた。
・彦蔵は、貿易の仕事をするかたわら海外新聞を発行していたが、七月に入って間もなく、
 領事のフィッシャーからアメリカで衝撃的な事件が発生したことを耳にした。
 大統領のリンカーンが暗殺されたという。
・激戦を繰り返していた南北戦争は、その年(1865年)の四月、南部軍のリー将軍の
 降伏にとって終結した。   
・ワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーンが、南部出身のはい俳優ジョン・ウィ
 ルクス・ブースに狙撃され、翌朝、死亡した。
 また、同じ時刻に、国務長官シーワドの邸も襲われ、家人が刺され、シーワドも傷を負
 わされたという。 
・彦蔵は、茫然とした。
 握手してくれたリンカーンの大きな掌の感触がよみがえった。
 柔和な眼をしたシーワド長官の身が気づかわれた。
 シーワドは、親切にも彦蔵を神奈川領事館付通訳官に任命し、さらにリンカーン大統領
 にも引き合わせてくれた。アメリカでの忘れがたい恩人であった。
・慶応二年(1866年)が明け、幕府と長州藩との関係が再び険悪化し、それを中心に
 国内情勢は複雑化していた。
・彦蔵の貿易の仕事は先細りになっていたが、海外新聞の発行はつづけられていた。
・幕府は第二次長州藩征討令を発し、幕府軍艦による周防国大島郡の砲撃によって戦端が
 ひらかれた。 
 戦闘は、長州藩に有利に展開し、さらに大坂に出陣していた将軍家茂の死去によって幕
 府は休戦交渉を行い、九月には幕府軍と諸藩の兵は撤兵した。
・ヘボンが岸田吟香の協力のもとに推し進めていた和英辞書の原稿が完成し、それを上海
 で印刷することになった。 
 ヘボンは、吟香をともなって上海にむかい、筆記者を失った彦蔵は海外新聞の発行を中
 止した。それは日本での最初の新聞であった。
 
二十四
・岸田吟香が上海に去ってまもない十月、横浜の港崎町の沼近くから火の手があがった。
 折からの西の強風にあおられて火がのび、大火となった。
 家々は燃えつづけ、夕方になってようやく風がおさまり、鎮火した。
 日本人町の半ばと外人居留地の四分に一が焼失した。
 彦蔵の住んでいた商人の家は幸いにも類焼をまぬがれたので、夜明けになって彦蔵は家
 に戻った。
・それから八日後、横浜の太田町からまた出火し、大火にはいたらなかったが、混乱に乗
 じて夜盗の群れが商人の家に押し込むなどして人々を恐れおののかせた。
・その頃、長崎で商社を炯々しているフレイザーから、アメリカに帰ることになったので、
 商社を引き受けてくれないか、という手紙が来た。
 フレイザーは、ウォルシュ兄弟と横浜で貿易の仕事をしていたことがあり、彦蔵はその
 三人と旧知の間柄であった。
・三人は、横浜を去って開港された長崎に行き、それぞれ商社を設けた。
 ウォルシュ兄弟の兄ジョンは、貿易商を営むかたわら長崎のアメリカ名誉領事の役職も
 兼ねていた。
・焼跡の拡がる横浜の地に失望していた彦蔵は、フレイザーの依頼を受け入れようか、と
 思った。   
・フレイザーは、長崎が同じ開港場の横浜、箱館といちじるしく異なった性格を持ってい
 ることを説明した。
 それは、輸入の筆頭が艦船、武器であるという点であった。
・それらの購入者は幕府と諸藩で、政治情勢が緊迫化するにつれて急増している。
 ことに幕府との対立が上げしくなった薩摩、長州両藩は、諸外国から艦船をしきりに買
 い入れ、また大量の鉄砲の入手にもつとめている。
 長崎がそのようなものを輸入する開港場になっているのは、江戸から遠く、幕府の監視
 が及ばないことである。 
・幕府も鷹揚なところがあって、外国の圧力に対抗する意味から諸藩に艦船、武器の輸入
 をさかんにすすめ、ただし、それは長崎に設けてある運上所への届け出を条件としてい
 るという。
・これらの購入のため諸藩の藩士たちが、多数町に入り込んでいて、外国人貿易商と盛ん
 に接触しているが、貿易商人の中心人物はイギリス人「トーマス・グラバー」で、グラ
 バーは特に薩摩藩とかたく結びつき、他の商人は割り込むすきがないという。
・彦蔵は、フレイザーの貿易の仕事に手をつけ、外国の商人たちを多く知るようになった。
 彼らは、フレイザーが彦蔵を紹介すると、一様に好意的な目を向けてきてかたく手を握
 った。 
 彦蔵が漂流してアメリカに行き、アメリカに帰化して金輪が乗領事館の通訳官の職にあ
 ったことも知っていた。
 彼らは、彦蔵を食事に招いて漂流時の話やリンカーンを始め三人の大統領に会った折の
 話を聞き、感嘆の声をあげていた。
・彦蔵の存在は、長崎に藩命で武器等の購入のために出張していた藩士たちの間にも知れ
 渡ったらしく、佐賀藩の「本野周蔵」という藩士が従者を伴って訪れてきた。
 本野の用件は、全藩主「鍋島直正」の命を受けたもので、直正が外国事情を聞きたいの
 で彦蔵を佐賀に連れてくるよう命じたという。 
・直正は外国の知識を導入することに極めて熱心で、兵器廠とでもいうべき兵器工場を創
 設して大砲その他の兵器の製造につとめさせている。
 そのような直正に会ってアメリカ事情を話すのも意義があると考え、彦蔵は快諾した。
 しかし、直正は急に京へおもむくことになり、それは実現しなかった。
・グラバーは、最も緊密な関係にある薩摩藩の武器輸入を一手に引き受けていたが、長州
 藩へも密かにそれらを斡旋しているという声がしきりであった。 
 二度にわたる長州征討で、幕府は長州藩を激しく敵視し、長崎の運上所に長州藩だけに
 は、一切武器の輸入を認めてはならぬ、と通達していた。
 しかし、薩摩藩は、あたかも自藩で購入するように装って、ブラバーに長州藩へ武器の
 斡旋をするよう指示し、グラバーも積極的に応じていた。
 この武器の輸入で、薩摩、長州両藩はかたく結びつき、薩長同盟の密約もできて反幕の
 姿勢をいっそう強めていた。
・南北戦争が集結してアメリカから不要になった大量の銃法が輸出され、グラバーは上海
 経由でこれを入手し、薩長両藩に売って多額の利益を上げているようだった。
・フレイザーが帰国して間もなく、グラバー商会の大坂支店長であるマッケンジーが訪れ
 てきて、思いがけぬ申出をした。
 長崎の港外にある高島炭坑は、佐賀藩の過労の知行所で、その炭坑で産出される石炭は
 きわめて良質で、しかも価格は世界相場よりかなり安い。
 上海方面では蒸気艦船の出入りが頻繁になっていて石炭の需要が急増し、グラバー商会
 は、佐賀藩からそれを買い入れて上海方面に輸出していた。
・マッケンジーは、グラバーが高島炭坑を佐賀藩と共同経営をしたいと望んでいるので、
 仲介に立ってほしと言った。
・彦蔵は、本野周蔵の顔をすぐに思い浮かべた。
 その後、本野の商会で佐賀藩士たちと親しくなり、その中には藩の輸出入のことで長崎
 に常駐している松林源蔵もいた。
・彦蔵は、この契約案が極めて妥当であるのを感じた。
 イギリスの商人はあくどい商取引をすると言われているが、この契約案は下が藩側の立
 場も十分に考慮に入れていて、佐賀藩もグラバー商会との共同経営で多くの利益を得る
 ことは確実だった。  
・彦蔵は、番頭の庄次郎に長崎の佐賀藩屋敷にいる松林源蔵を呼んでくるよう命じた。
 松林が姿を現したのは、その日の夕刻であった。
・彦蔵はマッケンジーが、グラバーが佐賀藩と高島炭坑の共同経営を切望していると伝え
 に来たことを口にした。 
 グラバー商会は最新式の採炭法を導入し、それによって出炭量も三倍に増える。
・この件について佐賀藩では慎重に検討した末、彦蔵立会いのもとに調印にこぎつけた。
 共同経営をするにあたって佐賀藩から松林ら数名の者が役員となり、実質上の経営はグ
 ラバー商会が当たることに決定した。 
・その後、イギリスから炭坑技師を招いて雇入れ、蒸気機関を動力とする新式の運版機械
 も据え付け、排水、換気設備を整えて採炭を始めた。
 彦蔵は、その経営に関与し、給与を受ける身になった。
・フレイザーから商社を託されはしたが、彦蔵は、長崎での貿易がグラバー商会を中心に
 動いていて、時分単独で貿易業を営んでもほとんど成果が上げられないことに気づいて
 いた。 
 長崎の外国商社の中にはグラバー商会の傘下に入っているものもあって、彦蔵は自分の
 商社もグラバー商会に吸収される形になった方が望ましい、と考えた。
・彦蔵は、グラバーのもとに行ってその旨を申し入れた。
 グラバーは、快諾した。
 彼が最も必要としていたのは日本語と英語に精通した通訳で、それによって商談も成立
 する。 
 商業知識もある彦蔵は願ってもない存在で、彦蔵は、一応自分の商社を持ちながらもグ
 ラバー商会に所属する身になった。
・その月の下旬、木戸準一郎、伊藤俊輔(博文)と名乗る薩摩藩士が訪れてきて、外国新
 聞を読んでる彦蔵に世界情勢についてあれこれ質問した。
 二人が去ってから蛮刀の庄次郎が、彼らの言葉には薩摩訛りがなく、年長の木戸準一郎
 と名乗った武士は長州藩の「桂小五郎」のようだ、と言った。
 顔を見たことがあるという。
・幕府から敵視されている長州藩は、艦船、鉄砲をグラバー商会その他の外国貿易商から
 購入しようとしたが、運上所では許可してくれず、そのため薩摩藩に頼み込んで名義を
 借りて、ひそかに入手するようになった。
 明かに違法行為で、それを幕府側に察知されないよう薩摩藩士を装っているのだろとい
 う。  
 そのような秘密を口にしたのは、彦蔵がグラバー商会櫂に属していて信頼できると思っ
 たからにちがいなかった。
・さらに彼らは、幕府が政権を握っているのは不当で、長州藩は朝廷に政権が復するよう
 力をつくしている、と力説し、その立場を外国人の間にも広く理解してもらえるよう周
 知して欲しい、と言った。
・そのご、彼らは、彦蔵のもとに気軽に訪れるようになり、長州藩の貿易についての特別
 代理人に就任して欲しいと懇請した。
・彼らと親交をむすんだことから長州藩士「井上聞多(馨)」、薩摩藩士五代才助(友厚)
 らを識り、またイギリス公使館の通訳「アーネスト・サトウ」の来訪も受けた。
・あわただしくその年は暮れ、慶応四年の正月を迎えた。
 七日に町の者たちは七草粥を例年のように口にしたが、その頃、徳川慶喜が将軍職を辞
 して大坂に引き揚げたという話が伝わった。
 さらに伏見で薩長両藩の軍勢と幕府軍との間で戦争が起こり、幕府軍は敗走したという
 説が流れ、それを追うように入港してきた外国船が、幕府軍が敗北を喫したことを伝え
 た。
・入港してくる外国船から情報が次々に伝えられ、江戸に向かった朝廷軍の大軍が江戸を
 無血占領し、さらに東北諸藩の鎮圧に兵を進める態勢をかためているという。
・グラバーは、それらの情報を耳にする度に、商人として激変する情勢にどのように対処
 すべきか苛立っていた。
 中央から遠く離れた長崎にいては十分な動きができない、と彼は言い、あわただしく支
 店のある大坂に出向いて行った。 
 戦争は続いていて、彼は朝廷軍の求めに応じ武器の供給を企てていたのだ。
・四月に入って間もなく、入港してきた郵便船に、グラバーから彦蔵宛の手紙が託されて
 いた。直ぐに大坂に来るように、という。
 その要請にもとづいて、彦蔵は蒸気船「コスタリカ号」に乗って長崎をはなれた。
・汽船は、赤間関をぬけて瀬戸内海を進み、二日後に兵庫の神戸港に入った。
 兵庫は、彦蔵が十三歳で初めて「住吉丸」に乗り、出帆した地であったが、前年に開港
 場となった兵庫は、まったく別の地のように変貌していた。
 港には大小さまざまな汽船や帆船が碇泊し、外国人居留地には多くの洋館が建ち並び、
 外国の男女が道を行き交っている。長崎よりも活気に満ちていた。
・グラバー商会の大阪支店は、繁忙をきわめていた。
 グラバーは、江戸に出張していた。
 新政府との間で武器に関する折衝が多く、彦蔵はそれに立ち会い、休むひまもなかった。
・大阪に来て数日後、大坂在勤の薩摩藩士「五代才助」が支店にやってきた。
 五代は、彦蔵に大坂に来ていた上海支店長「フランシス・グルーム」とともにすぐに横
 浜に行ってくれと言った。
・幕府は、アメリカとの間に甲鉄艦「ストーン・ウォール号」の輸入契約を結び、すでに
 艦は品川沖に到着している。
 新政府軍の海軍力は幕府のそれよりはるかに劣っていて、「ストーン・ウォール号」の
 ような強力艦が幕府軍に渡れば、海軍力の差はさらに大きく開き、陸戦では新政府軍が
 優勢だが制海権は幕府軍に占められる。
 新政府軍としては「ストーン・ウォール号」が幕府側に渡ることをあくまで阻止し、
 新政府軍が入手する必要がある。
 その交渉のため、すぐに横浜へ行ってほしい、というのだ。
・横浜に着いた彦蔵は、グルームと手分けして「ストーン・ウォール号」がどのような状
 況下に置かれているかを探ることから手をつけた。
 グルームはイギリス公使に会いに行き、彦蔵は、アメリカ側と接触している外国事務局
 判事の「寺島宗則」のもとにおもむいた。
・彦蔵は寺島に「ストーン・ウォール号」を新政府軍が入手できるようアメリカ公使ファ
 ン・ファルケンブルッフに交渉したい、と言った。
 「それは不可能だ」
 寺島は、即座に答えた。
・アメリカ公使は、幕府軍にも新政府軍にも「ストーン・ウォール号」は断じて渡さない
 と公言している。
 もしもその甲鉄艦を、一方に渡せば、局外中立を守るアメリカの姿勢が問われることに
 なり、そのため艦は公使館保有のものとしているという。
・「公使に会っても、何の意味もない」
 寺島は、断言した。
 その強い口調言葉に、彦蔵は、それ以上要請することができず寺島のもとを辞した。
 やがてイギリス公使館からグルームがもどり、公使からも同じことを告げられた、と言
 った。 
  
二十五
・戦場は奥羽地方に移り、新政府軍と幕府側の戦闘は至る所で繰り広げられていた。
 支店には、役人、商人が頻繁に出入りしていたが、兵庫県知事に就任した伊藤博文が姿
 を見せた。 
 彦蔵は、伊藤がすっかり変貌していることに思わずその顔を見つめた。
 長崎では、伊藤は林宇一という変名でしばしばグラバー商会に姿を見せ、主として鉄砲
 の買い付けに走り回っていた。
・しかし、彦蔵の前に立つ伊藤の表情は別人のように穏やかで、眼には和らいだ光が浮か
 んでいた。
 倒幕に奔走し、望みどおりにそれが成就して樹立し荒れた新政権の要職についているこ
 とに、くつろぎを感じているにちがいなかった。
 「川遊びをしませんか。船を用意してあります」
 用件があって訪れてきたと思ったが、伊藤は、屋形船で淀川をのぼろうという。
・彦蔵は伊藤の後ろから石段をおり、船の中に身を入れた。
 行燈の灯りに、若い芸妓が二人いるのが見え、彼女たちは手をつき、頭をさげた。
 彦蔵は伊藤と杯を手にし、芸妓がさけをついだ。
 彦蔵も、久しぶりにくつろいだ気分になって杯を口にはこび、伊藤とのんびりした口調
 で雑談を交わした。 
・彦蔵は、ふと郷里の本庄村浜田のことを思った。
 漂流中にしばしば村の全面にひろがる播磨灘の海を眼にしたいと切望し、帰国してから
 も村のたたずまいを思いうかべていた。
・しかし、アメリカに帰化した彦蔵は、故郷におもむくことが不可能であるのを知ってい
 た。
 日本と諸外国との間で結ばれた条約には、外国人の歩行範囲は開港場の役所から七里四
 方と規定されている。
 開港場の標語から本庄村までの距離は許容範囲をはるかに越えていて、村に行くことは
 できない。
 それに、相変わらず外国人を敵視する攘夷論者が多く、居留地外に出ることは危険であ
 った。
・兵庫県知事の伊藤は大きな権限を持っていて、自分が故郷へ行くことに力を貸してくれ
 るかも知れぬ、と思った。
・「おねがいしたいことがあるのですが・・・」
 「私は1850年(嘉永三年)、十三歳の折に故郷のお本庄村を離れて初めて船に乗り、
 それが破船漂流して救出され、それから十八年、故郷を見たことはないのです」
 彦蔵の言葉に、伊藤は、神妙な表情をしてうなずいた。
・「アメリカに帰化した私は、歩行区域外の故郷へ行くことは禁じられていますが、なん
 とか安全に行ける方法はない者でしょうか」 
 「それはたやすいことだ。政府ように『オーファン号』という小型蒸気船を購入したが、
 それに乗って故郷の村へ行けばいい。外国人が陸路を行くのには制限があるが、海上を
 移動するのは自由だ」
・彦蔵は、不意に胸に熱いものが突き上げるのを感じた。
 船で行けば、たしかに伊藤の言う通り故郷の土を踏むことができる。蒸気船からボート
 をおろしてもらい、村の浜に上陸すればよいのだ。
・帰国して間もなく、偶然、義兄の宇之松に会い、義父の吉右衛門の死をしらされた。
 実の母はすでに亡いが、村人たちは生きて帰って来た自分を喜んで迎え入れてくれるだ
 ろう。美しい播磨灘の海も見たかった。
・彦蔵は、良いが体に快くまわるのを感じた。
 伊藤に会い川遊びをしたことが幸運に思えた。
 村の家並、綿畠、海がなつかしく思い起こされ、母と義父の墓を詣でたかった。
 彼の眼には、涙がにじみ出ていた。
・彦蔵は、伊藤について兵庫県庁に行った。
 「オーファン号」の機関が故障したので、本庄村には陸路をたどらねばならなくなった。
 伊藤は苦笑しながらも、吏員に指示して手続きを進めてくれた。
 まず、外国人である彦蔵が許可された地域外を旅するには通行免状が必要で、伊藤はそ
 の作成を指示した。   
 また、外国人の命をつけねらうものがいることも十分に予想されるので、武装した役人
 を警備のため同行させるよう命じた。
・その日、彦蔵が故郷の本庄村に行くという話が伝わったらしく、外国商人たちの間に思
 いがけぬ動きがあった。
 原則として居留地外に出るのを禁じられている外国商人たちは、彦蔵が旅行を許可され
 たのを耳にして同行を望み、伊藤のもとに行って通行免状の交付を強く嘆願した。
 伊藤は、日頃から武器輸入等で親しく接している彼らの願いを拒むことができず、四人
 の商人に通行免状を交付することを約束したという。
・外国商人が同行するのを知った彦蔵は、むしろ好ましいことだと思った。
 自分一人警護の役人たちにかこまれて故郷へ向かうのは、何か罪人が押送されていくよ
 うで息苦しいが、彼らとにぎやかに旅をするのは楽しい気がする。
 彼らに、海に面した美しい村も見せたかった。
・伊藤は、彦蔵をはじめ彼らに通行免状を渡し、英語で、途中の宿場で彦蔵たち一行にあ
 らゆる手配を優遇すること、一行が必要とするものを購入する場合には適正な価格以上
 の金銭を要求してはならぬ、というお触れを出している、と説明した。
 また、彦蔵には、故郷の村役人に彦蔵の帰郷を伝え、歓迎するよう指示してある、とも
 言った。
・彦蔵は、面映ゆい気持であった。
 警備の役人に守られて、外国商人たちと駕籠を連ねて故郷へ向かう。
 故郷に錦を飾るという言葉があるが、まさにどの通りだ、と思った。
 沿道の住民たちが、駕籠の列に驚いたように視線を向け、旅人も足をとめる。
 駕籠に外国人が乗っているのを眼にしたことのない彼らは、呆気にとられて駕籠の列を
 見つめていた。
・浜田に近づくと、前方の道の片側に多くの人が立っているのが見えた。
 迎えに出ている村人たちにちがいなく、駕籠はその前で止まった。
 警護の役人が、村役人らしい羽織を身につけた初老の男に近寄り、なにか言葉を交わし、
 もどってくると彦蔵に、
 「出迎えの村の者です」
 と、言った。
・彼らの表情はいずれもかたく、身を寄せ合っておびえたような眼を向け、ひそかに言葉
 を交わしている者もいる。
 外国人を眼にしたことのない彼らが、恐れを感じているのも無理はなく、駕籠に乗って
 いる洋服を着た五人のうち、彦蔵がそれであるのかわからぬらしく戸惑いの色も眼に浮
 かんでいた。
・駕籠の列が動き出すと、村人たちはあわてたように一人残らず頭をさげた。
 駕籠が村の入口に近づくと、正装した数人の男が立っているのが見えた。
 役人が近づき、すぐにもどってくると、出迎えの庄屋たちだ、と言った。
 駕籠の列は、彼らの案内で村の中に入り、門構えの庄屋の家の前でとまった。
 彦蔵たちは、駕籠の外に出た。
 小太りの庄屋が、警護の役人に連れられて彦蔵の前に立った。
 彦蔵は、
 「沖船頭をしていた吉右衛門の養子で、幼名彦太郎。今では彦蔵と名を改めています」
 と言った。
 庄屋は無言で頭をさげ、ぎこちない足取りで後ろへさがった。
・彦蔵は、周囲を見回した。
 駕籠が村に入ってから、彼の胸に驚きの感情が湧いていた。
 十三歳の折まで眼にした村とは異なって、大きく立派に見えた家々がいずれも低くみす
 ぼらしい。 
 広いと思っていた道もひどくせまく、それは体の小さい少年の眼に映じていた村の姿が
 胸の焼き付いていてからなのだろう。
・彼はあたりを見回した。
 村のたたずまいは侘しく、家がかたむき、明らかには廃屋になっている家もある。
 物かげから男や女が彦蔵の姿をうかがい、路上に姿を見せているのは幼い子供たちだけ
 で、それらの子供たちの衣類はいずれも粗末で手足が細く薄汚い。
 夢に描いていた故郷とは大きなへだたりがあり、彦蔵は肌寒さを感じた。
・彦蔵は、警護のため同行してきた県庁の役人たちが、庄屋や村の重だった者たちから村
 の現状についてたずねているのをきいていた。
 村では綿花畠が多く、姫路藩の木綿専売制のもとに綿花が農家の主要な収入源になって
 いたが、綿花の価格暴落で農家の収入は激減した。
 さらに終始幕府に中世の姿勢をとっていた姫路藩は、幕府による長州征討、鳥羽、伏見
 の戦費を村人に課し、その上、連続する不作で村は貧困の極みに達した。
 そのため田畠を捨てて流亡する者が後を絶たず、六十二戸あった人家が三十戸にまで減
 っている。  
・彦蔵は、外国人商人たちに気恥しさを感じていた。
 道中、彼らは故郷がどのような村であるかを問い、その度に彦蔵は、眼を輝かせていか
 にすばらしい村であるかを説明した。
 が、現実に眼にする村は荒廃していて、人々の眼にも生気が失われている。
 商人たちは、一様に浮かぬ表情をして口をつぐんでいた。
・彦蔵は、庄屋に声をかけた。
 日本に戻ると途中、上海で漂流民の乙吉から「永力丸」の水主たちが唐船で長崎に送還
 されたことをきいたが、彼らの中には、彦蔵と同郷の清太郎、浅右衛門、甚八、喜代蔵
 の四人の水主もいて、それぞれ故郷に帰っているはずであった。
 彦蔵は彼らがなつかしく、庄屋に彼らを呼んできてくれるように、と言った。
・庄屋が、低い声で答えた。甚八は帰郷後病死し、他の三人は、西洋の船に乗っていた経
 験を買われて姫路藩に召し抱えられ、姫路に住みついていて、村にはいないという。
・義父の吉右衛門の縁者もいるはずだが、それらしき者が姿を見せないのは、自分に会い
 たい気持ちがないのか、それとも貧窮におちいって田畠をすてて流亡したのか。
・吉左衛門は死んだ、と宇之松は言っていたが、いつ死んだのか。
 それは菩提寺の蓮花寺に行けばわかる。
・「蓮花寺に行きたい」
 彼は、庄屋に声をかけた。
 庄屋はうなずき、村の重だった者たちと低い声で言葉を交わし、二人の男が腰をあげた。
 彦蔵は立ち上げり、男の後について家の外に出た。
 そこには多くの男女がむらがっていて、彦蔵の姿を見ると散った。畠の中に走り込む者
 もいた。  
・せまい道をたどると、蓮花寺の山門が見えてきた。
 案内してきた男が内部に入ると、やがて五十年輩の僧が姿を現した。
 彦蔵は頭をさげ
 「本庄村の吉左衛門の養子で彦蔵と申します。この度帰郷いたしましたが、義父の歿年
 を知りたく参りました」
 と、言った。
・僧について本堂に行くと正座し、仏像にむかって頭をさげた。
 僧が過去帳を手にして近寄り、坐って紙を操ると、 
 「これでございますな」
 と言って、過去帳を彦蔵の前に置き、ある個所を指さした。
 彦蔵は、視線を据えた。弘覚性信士という戒名の下に義父の名が書かれ、安政三年とい
 う歿年が記されていた。
 安政三年というと十二年前で、自分が破船漂流してから六年後に死亡したことになる。
・彦蔵は、義父の戒名を見つめていた。
 彼の視線が横に流れ、不意にその眼がとまった。
 「流船中ににて死」と書かれた市という文字が、眼の中に食い込んできた。
 「いかがなされました」
 僧がいぶかしそうにたずねた。
 「これは・・・」
 「ああ、それは吉左衛門さんの養子の・・・」
 そこまで言うと、僧は不意に口をつぐんで彦蔵を見つめ、そのまま動かなくなった。
 「私のようです。子とあるのは私です。戒名までついている」
 僧の顔がかすかに青ざめ、無言で戒名を見つめている。
 「生きておられたのですか。み仏の御慈悲によるものです」
・「御戒名は、たしかに私がおつけしました」
 僧が、しずかに語り始めた。
 嘉永七年(1854年)夏、姫路藩から役人が村に来て、航海中消息を絶った「永力丸」
 水主清太郎、浅右衛門、甚八、喜代蔵の四人が唐船で無事長崎についたという報せが長
 崎奉行所からもたらされたことを伝えた。
 死んだと諦めていた清太郎たちの家族は狂喜し、祝宴も用意したが、同じ船に乗ってい
 た彦蔵、治作、亀蔵の家族のことを思い、中止した。
 役人が持ってきた長崎奉行所からの種面の写しには、彦蔵たち三人が商船でアメリカに
 引き返し「行衛不知」と記され、さらに死亡をほのめかすことが書き添えられていたと
 いう。
・吉左衛門の嘆きは甚だしく、寺に何度も来ては仏像に手を合わせていた。
 そのうちに僧に彦蔵の戒名をつけて回向してほしい、頼んだ。
・自分の戒名がつけられている理由を知り、彦蔵は義父吉左衛門の慈愛の深さに目頭が熱
 くなるのをおぼえた。  
 彦蔵は、僧に礼を述べ、義父への回向料を渡して腰をあげた。
・夕食の膳が運ばれ、彦蔵と四人の外国商人の前に置かれた。
 県庁の役人の指示らしく、椀に米飯が盛られていて、商人たちはぎこちなく箸を手にし
 たが、すぎに置いた。
 洋食を食べなれている彦蔵も、郷里の食事がこのように粗末なものであったか、と肌寒
 い思いであった。 
・「厠は、どこですか」
 商人の一人が、外人特有の訛りの日本語で言った。
 村人が、こちらですと言って商人をうながし、家の裏口の方に案内してゆく。
 彦蔵は、顔をしかめた。厠は、家の裏手にあって、夜は手探りで内部に入り用を足さな
 ければならない。
 外国の便器は腰かけ式になっているが、日本の厠はしゃがんでする。
 商人の戸惑いが想像され、彼は恥ずかしかった。
・三つの部屋にふとんが敷かれ、蚊帳が吊られた。
 洋服を脱ぎ、シャツ一枚になった彦蔵は、かび臭いふとんに身を横たえた。
 彦蔵は、体が地中に深く沈んでゆくような失望感にとらわれていた。
 現実の故郷は、思い描いていた郷里ではなかった。
・その日眼にした村は、すべてが貧しく、畠は荒れ、綿の栽培されている気配はない。
 このような村で人が生活しているのが不思議で、自分には到底この村で生活は堪えられ
 ない。
 今日一日身を置いただけでも苦痛で、明日はそうそうに村を離れよう、と思った。
・同行してきた外国の商人たちが夕食の食べ物の大半を残したように、彦蔵もそれらを口
 にするのが苦痛で、ナプキンを膝に置いてスープをすすり、牛肉を食べたかった。
・同じ部屋のふとんに身を横たえた商人は、ベッドではないので眠れぬだろうと思ってい
 たが、すでにね息を立てはじめている。
 彦蔵は眼を閉じ、やがて眠りに落ちて行った。 
・翌朝、遠く近くきこえる鶏の啼き声で目をさました。
 彦蔵は身を起こし、洋服を身につけた。
 土間で靴をはき、外に出た。
 夜が明けはじめ、家や耕地が靄でかすんでみえる。
・彦蔵は、道ばたで放尿した。
 不意に、涙が流れた。
 さわやかな空気には潮の香りがかすかにしていて、たしかにふる里の匂いがしている。
 細面の色白な母の顔が眼の前に浮かび上がった。
 しかし、彦蔵の気持ちはすぐに冷えた。村にはなじめず、むしろいまわしい地にすら思
 える。
・どうにでもなれ、と胸の中でつぶやいた。
 このような人間になってしまったのは運命で、アメリカ人にみられるならそれでよく、
 アメリカ人として自由にいきてゆこう、と拗ねた気持ちになった。
・やがて出される朝食のことが思われた。
 椀に盛られた米飯と、それに味噌汁と漬物。
 自分は食べられるが、外国の商人たちは飯と漬物は辛うじて口にできても、味噌汁は飲
 むことはできるはずがない。   
・鶏の啼き声に、彦蔵は、朝食に外国人が常食にしている鶏卵を出させようと思った。
 それがあれば、かれらも少しは食事をとるきになるはずだった。
 彦蔵は、県庁の役人たちに鶏卵を一人三個ずつ朝食に出すよう村人に命じてほしいと頼
 んだ。
 「生のままでよろしいですね」
 役人の一人がたずねた。
 「いや、ボイルしてもらわねば困る」
 「ぼいる?」
 役人が首をかしげた。
・彦蔵は、役人の顔を見つめた。
 ボイルという英語を日本語では何と言うのか。
 彦蔵は、少し口をつぐんていたが、沸騰した湯に卵を入れ、内部をかたくするのだと途
 切れがちのこえで説明した。
 「茹でるのですな」
 若い役人が言った。
 急に記憶がよみがえり、彦蔵は、
 「そうだ、茹でるのだ。ボイルだ」
 とうなずいた。
・食事を終えた彦蔵は、県庁の役人に兵庫へ帰ることを早口で告げた。
 居留地にもどり、外国人の間に身を入れたかった。
 「よろしいのですか」
 重だった役人が、いぶかしそうな表情をした。
 帰郷を喜んでいた彦蔵が、少なくとも数日間は滞在すると思い込んでいたようだった。
・「これからすぐに出立する」
 彦蔵は、強い口調で言った。
 反対する商人はいなかった。
 かれらも村での生活に辟易しているようだった。
 あわただしく準備が進められ、彦蔵たちは駕籠に身を入れ、庄屋の家の前をはなれた。
 駕籠の列の後ろから多くの村人がついてくる。
 彦蔵は、彼らの存在がわずらわしく声を浴びせて追い払いたかった。
 
二十六
・彦蔵は、本庄村にもどったことを思い出すたびに、うつろな気分になった。
 思い描いていたふる里はなく、喜んで迎え入れてくれると思っていた村人たちも、自分
 に珍奇な生き物でも見るような眼を向けていた。
 さらに自分が死者として戒名までつけられていたことに強い衝撃をおぼえた。
 人間としての自分の根は故郷の本庄村にあると思っていたが、それは幻想にすぎず、
 根のない浮草のようにはかなく漂い流れている身であるのを感じた。
・年が明けて、彦蔵は相変わらずグラバー商会の仕事をしていたが、七月、商会が突然破
 産法の適用を受け、倒産した。 
 武器の輸入で莫大な利益をあげていたが、箱館戦争の終結で注文が皆無になったためで
 あった。
・食を失った彦蔵は、貿易業者の依頼で商取引に立ち会ったりして日を過ごしていた。
 彦蔵の胸には、しばしば故郷に戻った折のことがよみがえった。
 いまわしい記憶しかなかったが、母の墓を詣でなかったことが深い悔いとして残されて
 いた。 
 村から一刻も早く離れたい一心で墓参りの余裕がなかったのだが、内心では母の墓を眼
 にするのが恐ろしく足を向ける気にはなれなかったからでもあった。
・母の棺桶が埋められた土の上にはその印として石がのせられているだけで、もしかする
 とその所在も不明になっているのではないだろうか。 
 もしも義父の吉右衛門が墓碑を建ててくれていたとしても、それは粗末なものにちがい
 ない。
・彦蔵は、日増しに自分の手で立派な母の墓を建ててやりたい気持ちが募った。
 それが子として母に対する義務に思えた。
・母の墓碑を建立したいという気持ちは抑えがたいものになり、十月、彦蔵は、アメリカ
 汽船「ニューヨーク号」に乗って長崎をはなれた。
 兵庫から故郷の本庄村に行こうと思ったのである。
・村に行くには外国人通行免状を携帯する必要があったが、兵庫の外人居留地に入った彦
 蔵は、親しい県知事の伊藤博文が中央の要職に転任して東京に去り、知事の職務は大参
 事が代行しているのを知り、失望した。
 外国人に対する規制は依然として厳しく、通行免状の交付を拒否されることが予想され
 たが、帰郷の念やみがたく彦蔵は堅調に願書を提出した。
・翌日、県庁におもむいてめんじょうのことをたずねると、思いがけなく免状はすでに作
 成されていて交付してくれた。   
 前回、伊藤知事が許可したのに大参事が不許可にすることはできないと判断したらしく、
 彦蔵は喜ぶとともに、あらためて伊東が新政府内で大きな存在になっているのを感じた。
・外人居留地のホテルに戻った彦蔵は、本庄村浜田の庄屋宛に再訪するという手紙を書き、
 飛脚問屋に託した。
 三日後、彦蔵は駕籠を雇って頭を離れた。
 むろん、護衛の者などつかず、彦蔵は腰におびた短銃に銃弾を装填し、すだれの中から
 外に警戒の眼を向けていた。
・村人の姿はなく、駕籠は庄屋の門前でおろされた。
 いり愚痴に立って案内を請うと、すぐに庄屋が姿を現し、座敷に通された。
 庄屋とあいさつの言葉を交わしていると、廊下から一人の初老の女が入って来て手をつ
 き、額を畳にこすりつけて頭をさげた。
・女が顔をあげ、彦蔵は思わず短い声をあげた。
 母方の叔母で、彦蔵が来るのを庄屋宅で持っていたらしく正装していた。
 彦蔵は、母が病死した折幼い自分を励まして葬儀、埋蔵を取引ってくれた叔母がなつか
 しかったが、叔母は、すっかり変わった彦蔵に戸惑いを感じているらしく、肩をすくめ
 て部屋の隅に座っていた。 
・彦蔵は、腰をあげて叔母の前に座ると、皮膚の荒れた叔母の手をつかんだ。 
 ようやく縁者に会えたことに、帰郷した実感が胸にせまった。
・叔母は、顔を伏したまま聴き取れぬような低い声で、前年に彦蔵が村を訪れた時、実家
 に不幸があって村を離れていた、と言った。
 彦蔵は、涙ぐみながら無言でうなずいていた。
・彦蔵は、叔母に亡母の墓を建立するために村に来たことを告げ、母の墓がどのようにな
 っているかをたずねた。  
 帆場は、埋葬した個所にただ石が置かれているだけだと言い、彦蔵は想像していた通り
 だと思った。
 母と子だけの生活を改めて思い返し、母のために墓を建てようとあらためて思った。
・彦蔵は、庄屋と話し合い、叔母を連れ立って菩提寺の蓮花寺に行った。
 住職は在宅していて、座敷に通してくれた。
 彦蔵が母の墓を建立したいので相談に乗ってほしいと言うと、住職は、
 「御奇特なことで・・・。いかようにもご相談に乗ります」
 と、神妙な表情で答えた。
・「私は、母にとってただ一人の子で、今でも母の夢をよく見ます。孝行したいときには
 親はなし、と申しますが、せめて母の墓は恥しくないものを建てたい。それがわたしの
 母に対する孝行です」  
 と言って、墓建立のために用意している金額を口にした。
 住職は、彦蔵の顔を見つめた。
 その表情にはその額が思いがけぬ多額であることに驚きの色がうかんでいた。
・少しの間思案するように口をつぐんでいた住職は、腰をあげると彦蔵と叔母をうながし、
 庫裡の外に出た。
 山門の方に歩いて行った住職は、山門の内側で足をとめると、
 「ここに建てられたらよろしい」
 と言った。
 そこは、あきらかに境内で最高の場所で、彦蔵は住職の好意に礼を述べた。
・座敷のもどった住職と彦蔵は、具体的な打ち合わせをした。
 墓について住職は、近在で最もうでのよい石寅という石工が二見付(現明石市)にいて、
 その石工に依頼する方がいいとすすめ、彦蔵は一任する、と答えた。
 さらに彦蔵は、義父の戒名も同じ墓に刻みたい、と言い、住職は大いに結構だと答え、
 先祖の戒名も刻むことをすすめた。
・彦蔵は寺を辞して、その夜は叔母の家に泊った。
 翌朝、石寅が弟子をともなって訪れてきた。
 彦蔵は、石寅と墓についての打ち合わせをした。
 彦蔵の希望をうなずいてきいていた石寅は、それにふさわしい墓石は三段御影石で、
 その費用の概算を口にした。
 彦蔵は、即座に諒承し、碑の表面に母と義父、それに祖先の戒名を刻むよう指示した。
・「裏面だが・・・」
 彦蔵は、鞄から紙とペンを取り出し、英語で「両親ト家族ノタメニコレヲ建テル」
 と書き、by Joseph Hecoと記した。
・それまで平静な表情をしていた石寅は、驚いたように英語の文字を見つけた。
 そのような文字を刻んだことはもとより、眼にしたこともない。
 彼は、茫然としてその文字を見つめ、字の形を指で何度もなぞり、ようやく納得したよ
 うだった。 
・彦蔵は、石寅に内金を渡し、石寅は墓建立の期限を口にした。
 石寅は、英文の記された紙を丁寧に折りたたんで、去っていった。
・石寅と蓮花寺との連絡はすべて叔母に一任し、彦蔵は、庄屋に挨拶して駕籠を呼んでも
 らい、村をはなれた。
 彦蔵は、晴ればれした気分であった。
・兵庫に戻った彦蔵は、便船を得て長崎に引き返した。
 グラバー商会が倒産後、仕事は失っていたが、長崎での輸出入業は相変わらず盛んで、
 その商取引に関与するなど雑用は多かったのだ。
・長崎では、「本木昌造」が活版所を創立して活字鋳造をはじめ、上京して活版による
 「横浜新聞」と言う日刊紙を創刊したことを耳にした。
 彦蔵はすでに新聞発刊についての熱意は失っていたが、新聞が日本人にとって必要不可
 欠のものであるのをあらためて感じた。
・明治四年になると、六月に長崎で対外通信が開始され、長崎から上海、ウラジオストッ
 ク、香港、シンガポールなどとの通信が可能になった。
 長崎と横浜間で書簡が交わされる場合、早飛脚で七日から九日の日数を要したが、電信
 線が架設されて通信がはじめられ、利用者が急増した。
・秋の気配が濃くなった九月、思いがけず姫路藩の元藩主である県知事の「酒井忠邦」か
 らの書簡を受け取った。
 故郷本庄村を旧藩領とする元藩主からの手紙に、いぶかしみながらも極度に緊張した。
 恐る恐る書面をひらいてみると、文相は当然のことながら漢字まじりで、彦蔵は戸惑い
 ながらも文字を眼で追い、辛うじて大意をつかむことができた。
・忠邦は、アメリカ帰りの彦蔵の名が高いのに注目していたが、思いがけず彦蔵が急姫路
 藩領の出身者であるのを知って驚き、どうしても会って話を聞きたいと考え、書簡を送
 ってきたのである。   
 神戸の元藩邸で待っているから、なるべく早く汽船に乗って来てほしい、とも記されて
 いた。
・九月、「コスタリカ号」は神戸に入港した。
 上陸した彦蔵は、波止場で客待ちをしていた駕籠に乗り、元姫路藩屋敷におもむいた。
 玄関に出てきた元藩士に名を告げると、奥に入った藩士がすぐにもどってきて、奥座敷
 に案内した。
・忠邦が家臣を伴って姿を現わし、
 「待ちかねていた」
 と言って、厚い座布団に座った。
 元藩主と言うからにはある程度の年齢を予想していたが、忠訓が余りにも若いのに驚い
 た。十八歳であった。
・忠邦は、西欧文明に強く関心をいだいていると言い、非郡戸にアメリカ在住時のことを
 矢つぎばやに質問し、その答えに耳を傾けていた。
 質問は鋭く、彦蔵は忠邦が優れた頭脳の持ち主であるのを感じた。
・一応の話を終えると、忠邦は遠路はるばる神戸まで来て、その上貴重な話を聞かせてく
 れたことに感謝している、と言い、家臣に命じて藩主の定紋入りの羽織と金二十五両を
 もってこさせると、渡してくれた。
 定紋入りの羽織は功績著しい者に与える名誉の勲章に似たもので、彦蔵は謹んで拝受し
 た。 
・忠邦は表情を改めると、
 「姫路に行ってくれぬか」
 と彦蔵の顔を見つけた。
 姫路の元藩士である県の役人たちは海外事情にうとく、外国の話を聞かせて新しい時代
 認識を深めさせてやってほしい、という。
・忠邦の要請に、彦蔵は承諾した。
 彦蔵は、そのまま元姫路藩邸にとどまって日を過ごした。
 姫路行きの手配が家臣たちによって推し進められ、彦蔵は、家臣たちと駕籠を連ねて神
 戸を離れた。
・彦蔵は、駕籠に揺られながら、姫路までの中間に位置する故郷の本庄村に立ち寄ってみ
 ようと思った。
 墓の建立はすでに成り立っているはずで、それを確認したかった。
 もしも墓が完成したら、姫路から神戸へ帰る途中に村に行き、村人を招いて墓碑建立の
 宴をはる。
 その折りに忠邦から下賜された定紋入りの羽織を披露する。
 村人たちが自分がそのような栄誉を受けるに値する身であるのをしめしたかった。
・彦蔵は、宿場で休憩した折りに、重だった家臣に本庄村に寄り道したい、と言った。
 家臣に異存はなく、駕籠の列は土山宿から左に折れた。 
 武士たちの乗る駕籠の中に洋服を着た彦蔵の乗る駕籠がまじっているのが珍しいらしく、
 耕地にいる百姓たちは好奇の眼を向けていた。
・駕籠の列が本庄村に入り、叔母の家の前にとまった。
 叔母が、家から出てきた。
 「墓はどうなりました」
 彦蔵の問いに、叔母は、一昨日、墓が完成し、彦蔵の墓と義父の遺骨も墓石の下に移葬
 された、と答えた。
・「お手数をおかけしました」
 彦蔵は礼を述べ、姫路へ行くいきさつを簡単に説明した。
 さらに神戸への帰途立ち寄って、村人を招いて墓碑建立の宴をひらきたいので、その準
 備を整えておいてほしい、と依頼した。  
 「庄屋様とよく御相談いたしました・・・」
 叔母は、頭をさげた。
・故郷の本庄村を支配する姫路藩の城下町に入ったことに、彦蔵は興奮した。
 宿の主人に通された部屋は、最上級らしい座敷であった。
・姫路についてから、城の壮麗さに眼を見張っていた。
 白鷺城とも呼ばれているというが、たしかに白鷺が羽をひろげているように優美で、
 しかも城の構造に堅固さが感じられる見事な城であった。
・元家老の本田壱岐の招きで盛大な宴がもよおされた。
 本田は彦蔵に姫路に来てくれた礼を述べ、最上席につくよううながした。
 彦蔵はうろたえた。
 舟乗りの子にすぎない自分が、高位の元藩士たちの前で上席につくことなどできない。
 しかし、本田たちは県知事の大切な客人なのだからと強引に彦蔵を床の間の前に座らせ
 た。
 彦蔵は、面映ゆさを感じると同時に、彼らの手厚いもてなしに胸を熱くなるのを感じた。
・快適な姫路逗留は終わり、彦蔵は姫路を離れた。
 県庁では、とくに数名の役人を随行させてくれた。
 山陰道を帰途につき、予定通り郷里にたり寄ることにしていて、駕籠をつられて本庄村
 に入った。
・彦蔵は、待っていた叔母の案内で蓮花寺に行った。
 墓と向き合った。
 三段積みの立派な墓石で、住職が指定した通り山門を入ってすぐ右側に建てられていた。
 住職が法衣を身につけて出てくると、墓前で読経をした。
 彦蔵は、これで鼻と義父への義務を果たしたのを感じ、住職に永代供養料を渡した。 
・その夜、庄屋の広い座敷を借りて、彦蔵は宴をはった。
 村の主だった者が並び、随行してきた役人たちも加わった。
 彦蔵は、立って墓碑建立の挨拶をし、持参してきた元藩主から下賜された羽織を取り出
 して披露した。
 庄屋たちは、恐るおそる藩主の紋の入った羽織に近づいて頭を深くさげ、手を合わせて
 拝む者も多かった。
・酒肴が運ばれ、彦蔵は杯を手にして、横に並ぶ役人たちと酒を酌み合った。
 席を立った村の重だった者が、つぎつぎに近づいて来て膝をついて酒をついだが、退る
 と再び近寄ってくることはなかった。
・村人たちの表情は一様にかたく、杯を口に運びながら時折りうかがうような眼を向けて
 くるが、すぐにそらす。
 低い声でなにかささやき合っている者もいた。
・彼らの顔を見ているうちに、彦蔵は次第に白けた気分になった。
 宴を開いたのは、村人たちとうちとけたいとおもったからだが、村人たちは彦蔵との間
 に厚い壁を設けたように入り込んでくる気配はない。
 むしろ身を遠ざけるようにしている節さえ見える。
 自分の故郷は、この村だが、村人たちはそれを許容してはくれていないらしい。
 彦蔵は、胸の中に冷たい風が吹きぬけてゆくようなむなしさをおぼえ、自分には故郷は
 ないのだ、とつぶやいた。
 彦蔵は翌朝、うつろな眼をして村を離れた。
   
二十七
・明治五年を迎え、八月に彦蔵は東京に出て、大蔵大輔の井上肇(聞多)のすすめで大蔵
 省に入り、会計局に所属した。
・その頃彦蔵は、自分が陰で「アメリカ彦蔵」と呼ばれているのを知り、やがてそれが半
 ば公然としたものになったのを感じた。 
・しかし、彦蔵は、年を追うごとに自分の存在価値が日本の社会の中で次第に薄れてゆく
 のを感じていた。
 明治維新以来、英語教育は急速に充実し、英米人と見まがうほど流暢な英会話をこなし、
 読み書きにも長じた者が増していた。
 大蔵省にもそのような者が多く職についていて、外国人と自由に接触している。
・彦蔵は少し以前から漢字の読み書きを独学で学ぶことにつとめ、ひそかに夜、筆を手に
 して習字をするようにもなっていた。
 が、漢語の多い公文書を読むことは辛うじてできても、書くのは苦手で、官吏として不
 適であるのを知った。 
 そのため翌年夏から出省せず、自然退職という形になった。
・気持ちが滅入った彦蔵は、東京を離れ、親しい外国人の多くいる神戸に行った。
 英語を話せるのが嬉しく外国人の貿易商たちと接しているうちに、豪商の北風荘右衛門 
 取り合い合ってそのすすめで茶の輸出業をはじめた。
 一応、事業は順調で、神戸に腰を据え、ようやく落ち着いた生活ができるようになった。
・明治十年二月、西南戦争が起こり、九月に西郷隆盛が自決して戦争は終結した。  
 彦蔵は四十歳になり、松本七十郎の娘e子十八歳と結婚した。
 帰化人である彦蔵に戸籍はなく、e子は、絶家となっていた彦蔵の親戚の浜田家を相続
 して浜田姓となり、彦蔵も「浜田彦蔵」と名乗るようになった。
・茶の輸出業を続けていたが、悪徳商人によって詐欺にかかり、それ訴訟にもなって神戸
 地裁で勝訴したが、商売に嫌気がさして店を閉じた。
 彦蔵には恒産できていたので、頭でなすこともなく妻と静かに暮らした。
・彦蔵は、これまでの自分の生き方を顧みることが多かった。
 帰国してからあわただしく生きてきたが、冷静に考えてみると多くの外国人と日本人に
 利用されて生きてきただけのことで、自分が今でも坊主船に乗って漂い流れているよう
 な気がする。 
 彦蔵は虚しい気持ちになって、長い間空を見つめることが多かった。
・その頃から彦蔵は、神経痛におかされるようになり、明治十二年に入ると医者通いをは
 じめた。 
 彦蔵は英字新聞を読み続けていたが、漢字もおぼえて日本の新聞にも眼を通すようにな
 った。
・新聞を開いた彦蔵は、紙面の一個所に眼を向け、驚きの声をあげた・
 「四十年前の漂流者山本乙吉 其の子が帰朝して入籍願」
 という見出しの記事があった。
 乙吉とは、二十年前の安政六年(1859年)に上海であった「宝順丸」の漂流民乙吉
 ではないのだろうか。
 彦蔵は、あわただしく記事の活字を眼で追った。
 「四十年前に亜米利加へ漂流したる山本乙吉の子ジョン・ダブリュー・オトソンはこの
 たび帰朝して、神奈川県へ入籍を願ひ出たり」
 と前置きして、神奈川県令野村宛の入籍願が記されていた。
・乙吉は、モリソン号事件で帰国を断念したと言っていたが、むろん故国の土を踏みたい
 と強く願っていたはずだ。 
 開国後、日本へ帰ろうとしなかったのは、国法によって極刑に処せられることを恐れた
 というよりも、妻子を抱える身として帰国できなかったのだろう。
 シンガポールで死亡したという乙吉が、哀れであった。
・入籍願を提出したジョン・ダブリュー・オトソンは、父乙吉の帰国への悲願を叶えよう
 と来日したにちがいなかった。 
 オトソンは、乙吉の長男二十二歳で、妹二人がいるが、いずれもイギリス人と結婚し、
 イギリス国籍となっている。
 彼の容貌は日本人と少しも変わらぬので、申出に相違ないとして、神奈川県庁は入籍を
 許可し、それは神奈川県令野村から内務卿伊藤博文のも上伸されたという。
・しかし、それから三年後、山本乙吉と改名して神戸製鉄所に勤務していたジョン・ダブ
 リュー・オトソンが、除籍願を艦側県庁に提出したことを彦蔵は知った。
・オトソンは、その願書で父乙吉がジョン・エム・オトソンと言う名のもとに英領シンガ
 ポールでイギリスに帰化していたことを最近知り、自分も父同様にイギリス国籍を得た
 い、と記していた。
・この願書は、審議の結果、日本人が外国籍になるのは結婚した場合にかぎられると法律
 で定められていて、まして本人がいったん日本席になったのに除籍して欲しいというの
 は自分勝手すぎる、として却下した。
・その経過を知った彦蔵は複雑な気持であった。
 オトソンは日本に来てイギリス人が敬意をはらわれているのを知り、父親同様にイギリ
 ス国籍になろうとおもったのではないのか。
 おそらくオトソンは幼い頃から英語に親しんで日本語は知らず、日本に来てから生活に
 不自由を感じて英語圏のシンガポールに戻りたいと考えたにちがいない。
・彦蔵は、オトソンも父乙吉と同じように漂流民なのだ、と思った。
 日本国籍を得ようとして来日したが、日本の地になじめず除籍を願い出て却下された。
 彼は根のない浮き草に似て、ただ漂いながれているにすぎない。
 それは、ふる里で死者扱いされて帰る地もない自分と同じなのだと思った。
 彦蔵は、死を日本で迎えるにちがいないオトソンが気の毒であった。
・彦蔵は、髪に白いものがまじり、顔面神経痛におかされて片側の頬がけいれんして口も
 とがゆがむようになった。  
・明治二十一年、彦蔵は妻とともに住み慣れた神戸を離れ、東京へ向かった。
 気候の異なる東京に移住すれば、神経痛に効果があるだろうという医師のすすめに従っ
 たのである。
 東京に行った彦蔵は、上野公園に近い根岸に家を借りて住んだ。
 文人や画人の多く住む閑静な地であった。
・その年の暮れ、彦蔵は新聞に載せられた広告に顔をしかめた。
 それは、豊かな官吏、銀行家、商人が個人的に出した広告であった。
 趣旨は同じで、年末から一月四日までは温泉等に行くので在宅せず、来客を一切ことわ
 るという内容であった。 
 彦蔵は、その広告に日本人の昔からの風習が崩れ去っているような悲しみをおぼえた。
 外国文明に毒された利己的な行為で嘆かわしく、まして広く知らせるため広告を出すな
 ど許しがたいことだ、と思った。
・彦蔵は洋服を排して、毎日、着物を着て正座して日を過ごすようになり、筆を手にして
 一心に習字に励んだ。
 日本には、外国にはない美しい伝統があり、日本人として自分もそれに従わねばならぬ、
 と心から思った。
 アメリカに帰化した身ではあったが、彦蔵は折りを見て日本国を得たいと念じていた。
・明治二十二年、元姫路藩邸に近い原町に小さな家を新築し、転居した。
 彦蔵は五十二歳になり、なすこともなく過ごした。
 疲労が体にのしかかっていた。
・新聞社が相次いで創設され、彦蔵が創刊した海外新聞の吉を明快な文章でつづってくれ
 た岸田吟香の名も、しばしば新聞に見られた。
 吟香は、東京日日新聞に招かれて記者としての才幹を発揮し、台湾征討に最初の従軍記
 者として従軍したりした。
 その後、記者をやめて銀座に楽善堂薬舗を設け、眼薬精リ水を販売し、その広告が新聞
 にものせられていた。 
・吟香になつかしさをおぼえたが、それは遠い過去のことで会いたいとは思わなかった。
 彦蔵は、さらに本所横綱町に転居した。
 隅田川沿いのその地が病弱の身を養うのに適している、と思えたからである。
 隅田川の岸辺に座って、川をながめていることが多かった。
・雑沓をきわめていた香港の町並み、馬車の走っていたアメリカのサンフランシスコ、ニ
 ューヨーク、ワシントンなどの町の情景が紗通してみるようによみがえる。
 それらの地で生きたことが不思議に思えた。
・故郷の本庄村には計三度行ったが、その後は足を向けていない。
 その村ではすでに自分は死者であり、残されているのは英文の刻まれた母と義父、そし
 て祖先の墓碑しかない。
 すでに叔母も病死し、縁者は一人もいなかった。
・彦蔵は、時折り故郷の村のことを思った。
 侘しい村ではあったが、潮の香のまじった空気がなつかしく、不意に涙が頬を流れた。
 自分のふる里は本庄村以外にないのだ、と胸の中で繰り返しつぶやいた。
・村からの便りで、生還して姫路藩に召し抱えられていたという清太郎、喜代蔵、浅右衛
 門はつぎつぎに死亡したとあり、同郷の者で生きているのは自分だけであるのを知った。
・彦蔵は、ぼんやりと日を過ごし、ただ習字を日課として続けていた。
 明治三十年に入ると、息切れが激しく、隅田川の岸辺にいくこともなくなった。
 彦蔵は、その日の夕刻、突然激しい胸痛に襲われ倒れた。
 すぐに医者が呼ばれたが、意識はもどらず息絶えた。六十一歳であった。
・妻のe子の手で青山の外人墓地に墓碑が建立された。浄世夫彦之墓と刻まれていた。

あとがき
・幕末に生きた彦蔵は、日本人として類を見ない珍しい体験をしている。
 思わぬ運命に翻弄されて三度アメリカの土を踏み、サンフランシスコからニューヨーク、
 ワシントンにも何度かおもむき、驚いたことに、ピアース、ブキャナン、リンカーンの
 三代にわたる大統領に官邸で会い、握手も交わしている。
・彦蔵自身漂流民であったが、彼の周囲には多くの漂流民がむらがり、それらの人物の生
 死は、幕末の日本の激しい動きを反映した劇的なものであった。