一九五二年日航機「撃墜」事件 :松本清張

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この小説は1992年に出版された作品であり、1952年(昭和27年)4月9日に日
本航空の旅客機(愛称「もく星号」)が伊豆大島に墜落した、実際にあった航空事故を題
材にしている。どこまでが事実で、どこがフィクションなのか、その境界が複雑に入り組
んでいるのが著者の作品の特徴だ。
この「もく星号」の墜落事故は、日本における戦後初の旅客機事故だったようだ。この本
を読むと、日本航空(JAL)の設立の背景や経緯、そして当時はどのように運航が行わ
れていたかなどを知ることができ、なかなか興味深い。もっとも、この「もく星号」の墜
落事故が起こったのは、日本航空の最初の旅客機運航からまだ半年弱しか経っていなかっ
た。
この墜落した「もく星号」のマーチン202型双発機は、1948年に主翼構造の強度不
足が原因でミネソタ州上空を飛行中に空中分解し墜落するという事故を起こしている。こ
のため、わずか34機の製造で生産は打ち切られた。残された機体には対策が実施された
ようだが、その後も1950年3月から1951年1月にかけて、ノースウエスト航空の
機体が4機相次いで事故を起こしたようだ。
当時、日本航空では5機のマーチン202双発機を運航し、それぞれの機体に太陽系の惑
星に由来する愛称を付けた。「きん星号」「もく星号」「すい星号」「ど星号」「か星号」
であったらしい。
当時の日本は敗戦による米軍の占領下にあり、自主的な航空運営は認められず営業面のみ
日本人が担当し、運用乗務員はアメリカ人で、客室乗務員が日本人であったようだ。航空
管制も米軍の統制下にあり、当時埼玉県にあった米軍ジョンソン基地(現在の入間基地
が航空管制センターを担っていたようだ。
このなごりは現在でも「横田空域」と呼ばれるもので残っている。東京、神奈川、埼玉、
栃木、群馬、新潟、山梨、長野、静岡の一部一都八県の上空をカバーする広大な空間が、
実は今でも完全に米軍の支配下にあり、日本の民間航空機はそこを飛ぶことができないの
だ。この巨大な空域は、東京郊外にある米軍・横田基地によって管理されている。この
「横田空域」については、2019年にオリンピックに対応した羽田空港の発着枠の増加
に向けた新羽田航空ルート増設の際にも話題になった。この理不尽ともいえる「横田空域」
については、以前読んだ「日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか」(矢部宏治著)
でも取り上げられていた。
「もく星号」墜落事故調査の結果、気象やエンジンなどの機体については問題はなく、航
空管制誘導の誤りか操縦者のなんらかの過失による墜落との推定がされているが、当時は
まだフライトレコーダーやボイスレコーダーが装備されておらず、墜落事故の詳細は今も
って不明な点が多いようだ。
墜落した場所は、伊豆大島の三原山噴火口の東側1kmの御神火茶屋付近の山腹(裏砂漠
第一展望台付近)で、現在は慰霊碑(もく星遭難の地)が建っているようだ。
この「もく星号」に墜落事故に関しては、以前読んだ「日航機123便墜落 最後の証言
(堀越豊裕著)でも取り上げられていた。日航機123便は米軍や自衛隊にミサイルで撃
墜させられたなどいう説が出てくるのも、この「もく星号」墜落事件がいまだに尾を引い
ているのだろうと思われた。

ところでこの本の中で、あまり目にしたことがない「エガ・ガール」という言葉が出てき
ているが、何だろうと調べてみると、これは客室乗務員のことらしく、1931年に当時
の東京航空輸送社(後に大日本航空に吸収)が東京―下田―清水間の定期旅客路線に新卒
となる3人の初めての客室乗務員を採用したが、このとき客室乗務員のことを「エガ・ガ
ール」と呼んだらしい。それがその後「スチュワーデス」に変わり、さらに今は「キャビ
ンアテンダント」に変わっているとのことのようだ。
また、この本で板付(いたづけ)空港という名前が出てくるが、これは現在の福岡空港の
ことである。福岡空港は元々昭和19年に当時の陸軍が席田(むしろだ)飛行場として建
設したのが始まりであるらしい。終戦を迎え席田飛行場は米軍に接収され、このとき米軍
は席田ではなく板付空港と呼ぶようになったらしい。その後、昭和47年に米軍から返還
され、福岡空港と呼ばれるようになったようだ。福岡空港は27年間も米軍に接収されて
いたのだ。
この本に、「東京租界」という今ではあまり目にしない言葉が出てくるが、これは当時の
占領軍専用のキャバレーやダンスホールが銀座や六本木などに次々に作られ、日本人立ち
入り禁止だった場所のことらしい。バンドマン、バーテン、ダンサーは日本人が雇われた
らしい。戦争で夫を失った女性、職を失った女工たちがダンサーとして働いようだ。この
東京租界からは、江利チエミや雪村いづみなど戦後の芸能界を担う人材も現れたとのこと
だ。

この本に出てくる日銀の地下金庫に保管されていたとされる大量のダイヤモンドは、「M
資金」と呼ばれているようだ。GHQのESSの初代局長クレーマー大佐が日銀の地下金
庫に保管されていた、大量のダイヤモンド・エメラルド・プラチナ・金塊を接収してGH
Qに保管し、2代目局長マーカレット少将が管理していたことから、マーカレットの「M]
をとったとされる説や、マッカーサーの「M]からつけられたなど、さまざまな説が流布
されたようだ。「M資金」は、怪しげな存在感を放ちながら、戦後日本の政財界を漂流し
続けた。そして、その存在の一端が明らかになったのが、日銀のダイヤモンドにまつわる
謎である。ダイヤモンドの総量は12万7048カラットで、このダイヤは、戦時下にお
いて日本国民から供出されたものなどが含まれていた。そして、このダイヤは、サンフラ
ンシスコ講和条約後に返還される運びとなった。しかし、ここで問題になったのが、ダイ
ヤの総量だった。1952年(昭和27年)5月に当時の大蔵省が発表した返還対象とな
ったダイヤモンドは16万1312カラットだった。GHQ発表と日銀発表の数字の差は
3万4262カラットで、この差のダイヤはどこに消えたのかが問題になった。管理責任
者だったアメリカ陸軍のマレー大佐が、1947年(昭和22年)2月にサンフランシス
コの税関で、日銀の金庫からダイヤを盗んだ容疑で逮捕された事件もあったが、ダイヤの
行方は今もわからず、真相は闇の中のままである。

この本に登場する烏丸小路万里子は、松本清張の「日本の黒い霧」では小原院陽子という
名前で登場している。実在した人物のようだ。「もく星号」が墜落したとき、小原院陽子
の死体の周囲にはたくさんダイヤが散らばっていて、その収容をアメリカ軍側で秘密裡に
行なったということのようだ。
なお、この小原院陽子という女性は、「辻まこと」(詩人・画家)と交遊があったらしい。
「辻まこと」は「草野心平」主宰の雑誌『歴程』に寄稿していたが、これが縁で小原院陽
子と知り合ったようだ。ところでこの「辻まこと」の墓は、詩人の「草野心平」(福島県
いわき市出身)との縁で福島県双葉郡川内村の長福寺にあるという。「辻まこと」は、小
原院陽子が「もく星号」事故で死亡したという報を聞いて、交遊があったよしみで「西常
雄」(彫刻家)とともに三原山に登り、事故現場から彼女の遺品のダイヤを回収したらし
い。その話が「辻まこと」の著書『山からの絵本』(1966年)という画文集に収録さ
れているという。なお、福島県双葉郡川内村には、「草野心平」が名誉村民になったこと
を記念して建設されたという「天山文庫」というのがあるという。茅葺屋根の民家風の建
物で「草野心平」の蔵書が多数格納されているという。一度訪れってみたいところだ。


「誤報」の偽装
・昭和27年4月9日午前7時34分、大阪経由福岡行のマーチン202型双発「もく星」
 号は乗客33名、乗務員4名で羽田空港を離陸した。機長はG・スチュワード、副操縦
 士はG・クレベンジャー、事務長関山哲雄、エア・ガールは権田節子であった。
・スチュワード機長は今年3月に着任したばかりで、日本では70時間だが、アメリアで
 は8千時間の飛行時間をもつ経験者であった。
・羽田から館山までは高度2千フィートで飛行せよ、と埼玉県入間にあるジョンソン基地
 の管制室が「もく星」号に指示した。占領下では民間機のすべてがジョンソン基地の管
 制官の命に従わなければならなかった。
・館山を過ぎても、伊豆大島の南端差木地、つづいて静岡県焼津の間までも2千フィート
 をジョンソン基地が指示したという説と、6千フィートを指示したという説がある。2
 千フィートでは当然に三原山に衝突するので、スチュワード機長がこれに抗議したとい
 う話も伝わっているが、「もく星」号のコースはグリーン8(米占領下で民間機航路)
 の下り便で大島の南海上となっている。
 たとえば高度2千フィートを指示されてそのとおり実行したとしても三原山とは関係な
 い。
・「もく星」は館山のビーコン誘導には反応があったが、あとは無反応だった。普通だと
 館山通過後、十数分くらいで焼津のビーコンに乗るはずだが、いくら経ってもそれがな
 かった。    
 
午前8時
・ス機長:いまグリーン8下り便コースで飛行中。高度6千フィートの海上。北の三原山
     は厚い雲で見えません。
・ス機長:あ、米空軍戦闘機が雲の中から現れてわが機に接近している。1機、2機、3
     機・・・。危険だから当機から離れるように命令頼む
・管制官:直ちに離れるように命令する。
・ス機長:空軍機はまだ接近を続けている。危ない。早くやめるように。
・管制官:極東空軍機の演習だ。もく星号から離れるように命じた。
・ス機長:まだ止めない。ますます危険。当機を仮想敵機にして襲いかかってくる。あ、
     一機は機銃をこちらに向けている。
・管制官:命令はもう間に合わない。避難せよ。
・ス機長:きわめて危険。北に転じて避難する。
・ス機長:雲中の盲目飛行だ。計器だけだ。当機の飛行にはさしつかえない。安全だ。ベ
     ルトを着けなくともよろしいと機内アナウンスさせろ。
・ス機長:管制室、管制室、また別の一機が当機を追跡している。あっ、尾翼が被弾した。
・管制官:高度を下げて北へ避難せよ。
・ス機長:高度5千フィートに下げて北へ転回する。
・ス機長:これより三原山外輪山の東側斜面の砂漠地帯に緊急着陸する。
・ス機長:あっ、山だ!おお神よ(ス機長の絶叫)

午後3時50分
・「米軍からの情報によると浜名湖西南16キロの海上で、米第五空軍の捜索気が遭難機
 を発見、直ちに米軍救助隊が出動し、乗員乗客を全員救助した」(国警静岡県本部発表)
・「横田の米軍基地からの通信によって、「もく星号」の遭難地点は静岡県舞阪沖」(
 航空庁発表)
  
午後4時ごろ
・日本航空本社では、新聞記者団に「全員救助」を発表。

情報の混乱
・その日は朝からの風雨であったから、「もく星」号は地上ビーコンの誘導によって計器
 飛行をしていた。同機にはレーダーの設備はなかった。
・伊豆半島から大島にかけての海、陸上とも地表から5,6メートルの高度まで雨雲がた
 れこめ、視界はほとんどゼロに近かったと思われる。 
・館山上空でのビーコンを最後に、大島以西のそれが絶えたのであるから、「もく星」号
 の捜索機は館山・大島間、もしくは館山・焼津沖(駿河湾)間を第一に遭難地点目標と
 すべきだったが、悪天候はつづき厚い雲に遮られて下界の視界がきかなかったのだった。
・「静岡県浜名湖西南16キロの海上に機体を発見、米軍巡視艇により救助が開始された」
 という情報がどこから入ったのか不明瞭である。
・「横田の米空軍基地からの通信によれば、日航機は静岡県舞阪沖の地点で遭難している。
 目下海上保安庁の巡視船と名古屋の航空基地から飛行機が現場に向かっているが、附近
 は濃霧のため機体を発見していない」この発表は、航空庁が名古屋航空保安事務所の報
 告によっておこなったことがわかる。横田は米極東軍の基地である。横田基地が東京の
 航空庁に連絡せず、名古屋の航空保安事務所に「通信」しただけなのも妙である。
・「米第五空軍捜索機が浜名湖西南16キロの海上で遭難機を発見、直ちに米救助隊が急
 行、全員救助した」(国警静岡本部発表)
・「米軍からの情報によると、浜名湖西南16キロの海上で、米第五空軍の捜索機が遭難
 機を発見、ただちに米軍救助隊が出動し、乗員と乗客を全員救助した」(国警静岡本部)
・国警静岡本部は「米軍からの情報」として二度にわたって発表している。だが、航空庁
 はこれについて何も発表していない。
・米軍情報とは、横田基地の極東軍からの通信で動いた米第五空軍(小松基地)だったこ
 とがわかった。      
・在日第五空軍の司令部は当時名古屋にあったのである。ここはハワイのパシフィック・
 エア・フォース(太平洋空軍)総司令部と直結していた。
・米軍の航空部隊は、関東では、横田、入間に基地が置かれていた。このうち埼玉県入間
 町の米空軍基地は「ジョンソン基地」とよばれた。ジョンソン基地の航空管制室は、規
 定された航空路を飛ぶ民間機も管制していた。
・日航機「もく星」号の機体を「舞阪沖で発見、全員救助」の報は、あとでは誤りとわか
 った。これについては衆院運輸委員会で運輸大臣村上義一が「この誤報の伝わった原因
 は、極東空軍のある人が日本航空会社に、全員助かっているということを報告せられた
 のに起因いたしております」と説明している。米軍人の個人的な報告を軽率に信じたた
 めに「誤報が組み立てられた」というのである。
・だが、おかしいのは、「舞阪沖で機体発見」の情報を発表したのは、日航本社ではなく、
 航空庁だったことだ。
・日航本社は村上運輸相が云うように「極東空軍のある人」から「全員救助」の報告を受
 けたのではなく、海上保安庁第四管区本部長から航空庁小松事務所に入った連絡によっ
 て「機体の発見」を報らされたのである。日航側は当初なぜ「全員救助」という虚言を
 云ったのだろうか。
・朝鮮戦争の休戦交渉が始まった翌年で、極東は当時まだ緊張状態にあった。
・横須賀海軍基地では横須賀に向け帰航中の米海軍掃海艇と輸送船に「直ちに舞阪沖に急
 行せよ」と指令した。両艇は直ちに現場に急行したが、日航ではこの現場に「急行した」
 を、現場に「到着した」と解した。そうして「もく星」号の機体は海上に不時着しても
 なお数時間浮上していることができるので、両艇に救われているにちがいないという希
 望的観測が加わっての誤報となったのである。
・常識的な眼からすれば、日航本社の誤報は幼稚きわまったものである。救助船艇の出発
 を到着と錯覚し、そこから全員救助の希望的観測→事実と確信→事実→発表という思考
 行動過程は飛躍しすぎる。
・極東空軍も第五空軍も共に極東空軍司令部に属する。日本の降伏直後に、アメリカ、ソ
 連、英国、中国(国民政府)、オランダ、インド、オーストラリアなど日本軍と交戦ま
 たは侵略を受けた諸国によって極東委員会が設置された。日本の占領政策を遂行する機
 関だが、実際にこれを行ったのは日本中に占領部隊を置いたアメリカである。
・アメリカの対日占領軍の総司令部(GHQ)は東京に置かれ、総司令官にはマッカーサ
 ー元帥が大統領によって任命された。  
・極東委員会には対日理事会という主要国の協議機関があった。総司令官の諮問機関でも
 ある。対日理事会ではソ連がアメリカの占領政策に強く反対する意見を述べたが、マッ
 カーサーはこれを無視した。あらゆる意見の参加は歓迎するが、占領方針はアメリカだ
 けが決めるとマッカーサー現スリは言明した。実戦部隊を日本に置いている強さである。
・1950年(昭和25年)6月、朝鮮戦争が勃発するとアメリカの主張で国連軍が結成
 され、国連軍最高指揮官にマッカーサーが任命された。だからマッカーサーは太平洋戦
 争中は連合軍最高指揮官であり、日本占領後は総司令部の最高指揮官であり、極東軍最
 高指揮官であった。それに加えて新設の国連軍最高指揮官を兼ねていたわけである。
・米空軍の基地は極東空軍が横田に、第五空軍基地が愛知県小牧にあった。第五空軍とあ
 るが、第六空軍以下はない。いわゆるジョンソン基地は埼玉県の入間にあったが、ここ
 には米空軍や民間機の管制室が置かれていた。

遠州灘への目
・第四管区海上保安本部は、日航名古屋事務所から「舞阪南西で米掃海艇により全員救助」
 の情報を得た。
・海上保安庁は米極東海軍に情報の確否を問い合わせた。極東海軍からは、米掃海艇は日
 航機の乗員の救助を確認していない、との回答だった。一方、海上保安庁の捜索巡視船
 からも「もく星」号を発見したという報告はなかった。
・海上保安庁は、(横田基地の)極東空軍当直士官から「ノースウエストのリポーターは、
 米掃海艇二隻が乗客・乗員を救助して横須賀に向かったといっている」という報告を受
 けた。  
・海上保安庁の渡辺警備課長は「ノースウエストのエングストロング氏は極東空軍から全
 員救助の情報を得たそうです」と言っている。
・アメリカの占領政策によって日本の航空活動は禁止されていた。その主な理由は、日本
 の軍国主義の撲滅と戦力再編の可能性を絶つことにあった。ところが米ソ対立の激化、
 中国共産党の全中国制圧の情勢を反映して占領政策が変化し、アメリカは日本を極東に
 おける対共産圏の基地にすることになった。とくに朝鮮戦争の経験が基地としての日本
 の重要性を教えた。そこでアメリカは日本に対して緩和政策に急転回した。
・昭和25年6月にGHQは日本政府に対し、航空機の保有と運航とを除く切符販売等の
 活動に限って、一社のみに日本側の営業権を認めることを許可した。これを受けて日本
 側では昭和26年8月に日本航空株式会社が設立された。 
・日本航空は、各国航空会社と営業提携の交渉をしたが、外国各社の思惑もあって営業開
 始の指定の期限が来ても提携はまとまらなかった。結局、GHQと運輸省との諒解を得
 て、米国ノースウエスト・エアライン(NWA)との運航委託契約が成立した。
・この契約によれば、航空機と、その正常な運航に欠かせない乗員整備など一切の役務を
 ノースウエストが提供し、日本航空はこれに対し、飛行実績によってチャーター料を同
 社に支払うというものであった。この両社の役割を平たくいえば、日航はノースウエス
 トから飛行機とパイロットを賃借りして、商売だけをやる。ノースウエストは旅客機が
 空港から飛び立ち再び空港に車輪をつけるまでの間の運航責任を負う、というものだっ
 た。 
・日航は、ノースウエストとの契約の基づき、昭和26年10月25日に、羽田から戦後
 最初の民間機マーチン202型双発機を飛ばした。
・海上保安庁は米海軍横須賀基地に「もく星」号の救助状態を問い合わせた。横須賀基地
 からは「救助したのは事実だが、人数は分からぬ」との返答があった。
・極東米海軍からの通報によれば「横須賀基地に確かめたところ、救助した事実はない」。
・乗客は33名。うち福岡行26名、大阪行7名。大阪行の中には、米人リード大尉(ジ
 ョンソン基地)というのがただ一人の外国人乗客である。ただ一人の女性乗客は烏丸小
 路万里子(37)である。彼女は福岡行だった。
・「発見」の報告は、名古屋航空保安事務所通信課長森寛三談によると、森課長は救援の
 B29に搭乗し遠州灘を三回捜査した。「三回目に、とにかく視界きかず海面すれすれ
 に飛行していて、舞阪沖で機長のジョナサン少佐が”あれだ”と指すので、見れは白い
 波頭なんですね。いくら違うと言ってもきかず、すぐ”もく星号発見を打電したのです」
 というのが誤報の因の実態だった。
  
三原山
・行方不明の日航機「もく星」号は伊豆の大島三原山噴火口近くで発見された。機体は散
 乱し、全員37名はすでに死体となっていた。消息を絶って以来24時間目に発見され
 た「もく星」号は日本の航空史上最大の痛ましい事故を起こしていたのである。
・日航機「もく星」号の墜落現場は大破した機体が四散し、墜死した乗客の死体が約30
 メートルの範囲に散らばり、ある者は砂に頭を突込み、ある者は上向けに横たわるなど、
 また衣服がはがれた裸に死体、顔や手を焼いた死体・・・など現場は眼をおおう惨状で
 ある。乗客らの所持品の写真機、ボストンバッグなどが広い範囲に散らばっている。墜
 落現場のこうした模様から三原山に衝突したものとは思えず、空中分解したものと考え
 られる。(朝日新聞記事)
・外輪山東側にそそり立つ白石山の頂上のこの遭難現場は、頂上附近から館山を望む東方
 斜面に約百メートルにわたって機体が散乱している。37の死体は頂きの直下25メー
 トル位の間に折り重なるように斜めに列をなして投出されている。機の中心部と見られ
 る翼の附近には、操縦士と思われる大きな体格の外人の死体が操縦かんを握り、足をふ
 んばったままの姿勢で仰向けになって投げ出され、衣服もすり切れ、顔面はめちゃめち
 ゃに崩れていた。スチュワーデスの権田節子さんは焼けだだれた発動機の下に頭を突込
 み、うつ伏せになっていた。(毎日新聞記事)
・写真新聞「サン」では、スチュワード機長の横向きの死体を頭部のほうから大写しで撮
 っている。次ページの写真はもっとも悲惨な乗客の姿を写している。機体の破片の上に
 おおいかぶさるようにうつ伏せになった女性は、スカートがまくれて下着をあらわにし
 たまま、右手をだらりと下げている。
・真珠の首飾り、真紅のセーターを着た女性は、エア・ガールを除いて、乗客中ただ一人
 の女性、烏丸小路万里子さんだ、腹部位が逆にねじまがっている。お人形さんの腰から
 下をひねって後ろ向きにしたようだ」(読売新聞記事)
・当時の新聞によると、「もく星」号の墜落原因はだいたい次の四つの「推定」に分類さ
 れたようである。
 1)「もく星」号のマーチン202型機自体に欠陥があること
 2)無電装置、発動機、高度計等機器の故障
 3)操縦士の未熟または何らかの錯覚によるもの
 4)その他不測の事故
・「もく星」号のマーチン202型機の安全性についてはそれまでにも批判の声があっ
 たといわれる。すでにCAA(米国民間航空局)からマーチン202型の機体の一部に
 対する改造命令が二度にわたって発せられたということも伝えられている。その改造命
 令というのは、給油系統の欠陥、横方向の操縦系統の欠陥、主翼取付部分の欠陥がそれ
 ぞれ指摘され、百時間以内に塗装をはがして顕微鏡で検査せよ、改造が終わるまで飛行
 を禁止するという意味のものだった。
・「もく星」号は日航が開業以来使っていたが、初めから何か暗い宿命をせおっていたよう
 な因縁つきの旅客機であった。前年11月には大阪から帰航途中、前方左側の非常口が
 吹き飛んで乗客をおどろかしたのをはじめ、2月には右発動機の故障や油もれの故障を
 起こして離陸直後引き返したり、無線機や油系統の故障が多く、最近右発動機を交換し
 たばかりであった。   

高度二千フィートの指示
・「もく星」号は高度二千フィートの低空を飛行中、眼前に山をみつけたので急に上げ舵
 をとったか、あるいは旋回して山を避けようとした。しかし間に合わなかったものと思
 われ、ヘリコプターで大島の現場に着陸した米軍関係者からも同様の報告があり、衝突
 説を裏づけている。したがって故障や空中分解による墜落ではないが、無電機が故障し
 ていたかもしれない」(ノースウエスト社のキング副社長)
・「二日間にわたって「もく星」号の残骸について調査した結果、原因は操縦士の過失よ
 りも計器、とくに高度計の故障によるものとの一応の結論を得た」。(航空庁市川調査
 課長)
・民間機の指定コースは「グリーン8」と呼ばれ、航空路の常用高度は、下り便は6千フ
 ィートまたは8千フィートの偶数高度と規定されており、上り便は5千または7千フィ
 ートの奇数高度となっている。日航機では下り6千フィートが標準であった。
・仮に、空中分解を起こして墜落したとすると、残骸はもっと広範囲にとんでいるはずで
 ある。また、片翼または尾翼などの一部が分解した場合は、失速してキリモミ状態で垂
 直に落下して地上に突込むはずなのに、現場は残骸が一直線に散っている。
・「空中分解ではなく偶発的な衝突だろう。現場を見たところでは「もく星」号は尾翼か
 ら地上に接触し、一度バウンドして滑り込むかたちで墜落したものと思われる。発動機
 が回転した跡がはっきり地上にみえる。座席のバンドが使用されていない」(航空庁の
 木暮右太郎技官)    
・外輪山の東南側一帯は一段と低く、火口原が砂漠となってひろがっている。映画の撮影
 隊がここをロケ地として、画面の上でアラビアやアフリカの砂漠に誤魔化すほどだった。
 「もく星」号が墜落した現場はこの砂漠の中である。火口丘をめぐって西北にあるのが
 御神火茶屋で、墜落現場には最も近い。
・「もく星」号現地調査団は、報道陣にとりあえず事故の原因推定を述べた。すなわち、
 二つある高度計は8千フィートと5千7百フィートとそれぞれ違う高度を示していた。
 そこで調査団の航空庁・日航側は、高度計が狂っていたのではないかとして高度計故障
 説を主張したのである。これに対して、ノースウエスト社側は、高度計は容易に故障す
 るものではない、と云っている。
・運輸省では、「もく星」号の「航空事故調査会」を新設、原因の「本格調査」に取り組
 むことになった。必要に応じノースウエスト社から資料の提出を求めるのはもちろん、
 米極東空軍や米民間航空局などの協力を受けることが期待された。
・ところが当初、日米共同の事故調査委員会を設置してもいいと云っていた米側は前言を
 翻し、調査委に参加しないと断ってきた。
・航空管制関係が正式な調査対象となった。地上管制塔から「もく星」号に無電で送った
 高度その他の指示に誤りはなかったかという点である。しかし、国内民間機の航空指示
 は米空軍ジョンソン基地(入間)内の航空管制室(コントロール・センター)に握られ
 ていた。ここから羽田のコントローラー(管制官)に指示が連絡される。これからの許
 可がなければ、日本の民間機は離着陸もできなかった。羽田のコントローラーは羽田空
 港の離着陸の指示だけを機長に伝える。羽田のコントローラーは極東空軍に所属する米
 軍人だった。
・航空管制に過誤があったかどうか関係方面の資料提出を待つという調査会の意味は、こ
 のジョンソン基地の資料のことだろう。資料の最大の価値は、送信を録音したテープで
 ある。管制指示(クリアランス)は自動的にテープに録音されることが義務付けられて
 いる。この録音テープはジョンソン基地に管理保存されていた。調査会が勝手に基地か
 ら取り寄せることはできない。     
・調査会の第五回総会では、これかでの各分科会の調査を総合して、次のことが確認され
 た。
 1)高度計には故障がなかった。
 2)針が動いたのは衝突のショックによるもの。
 3)発動機二基とも正規の回転をしており、飛行機も水平に近い角度で飛んでいたこと
   が証明された。
 4)無線機もまったく故障がなかった。
 5)尾翼の一部に落雷のあとがある。
・事故調査会は当然のことながらその交信テープの提出を米軍側に求めたのだ。だが、調
 査会がいくら催促しても米軍側は言を左右にしてこの録音テープを出してくれなかった。
 調査に協力を約束した米軍の態度としてはここがもっとも不可解なところである。
・スチュワード機長はトランス・オーシャン航空会社から派遣されてノースウエスト航空
 会社が日航と契約したチャーター機の機長として来日、同コースを10回飛んでいる。
 国内航空には比較的不慣れで酒を好み毎夜相当量の酒をたしなんでいた。またクレベン
 ジャー副操縦士は来日して14回同コースを飛んだ経験があるが、性格はおとなしかっ
 た。  
・出発を前にして、羽田空港の滑走路の端に停止して出発許可を待っていた「もく星」号
 の機長に対して、空港のコントロール・タワー(管制塔)から与えられたクリアランス
 (出発許可)では「館山通過後、高度2千フィートで南へ10分間飛べ」というのであ
 ったが、これに対して機長の航空会社のディスパッチャー(運航係)とが、すぐに「そ
 れは高度が低すぎるのじゃないか」と抗議したので、コントローラーは改めて「羽田を
 出発後、10分間高度2千ふぃーとで飛び、その後の飛行高度6千フィート」と訂正し、
 機長はこれを復唱し離陸して行った。
 
交信テープ行方不明
「離陸前に羽田のコントロール・タワーは、館山通過後10分間飛行高度2千フィートと
 交通許可をもく星号に与えましたが、直ちにこれを羽田出発後10分間飛行高度2千フ
 ィートと訂正しましたので、機長はこれを復唱して離陸しています。通常は直ちに高度
 を上げて行くのですが、当時アメリカ空軍の輸送機が一機羽田上空2千5百フィートの
 高度で空中待機中であり、なお約10機が附近を航行中でありましたのでこの措置がと
 られたものであります」(村上義一運輸相)
・ビーコンにはいろいろ種類があるが、大別すると指向性を持っているレンジ・ビーコン
 と、指向性を持たないホーミング・ビーコンの二つがある。これに付属物としてファン・
 マーカー、ゼット・マーカーというのがある。
・無指向性ビーコンというのは、ラジオ放送と同じように全方域に対して電波が均等に出
 ている。しかし、指向性のほうは航空機が要求する四方向に対して、その指向性を指示
 するような機構になっている。だが機上計器の指針の瞬間性のためにこれが判然としな
 いから、レンジ・ビーコンの場合はその指向性の中心から2マイルのところに、ファン・
 マーカーといって地上から扇型に出た一つの標識、すなわち電波を出しておいてその上
 を通過すると間もなく標識所の上を通過するぞという予備知識を与える。中心から2マ
 イルないし4マイルの地点に取り付けて、中心をあらかじめ知らすというのがファン・
 マーカーの役割である。
・ゼット・マーカーは、その標識所の上を通過しても音のしないノー・サウンドのところ
 があるので、ゼット・マーカーという電波を上から発射して、その上を通過したことを
 明瞭に機長に知らず機能である。
・日本では全部中波を使っているが、山岳・海岸線の多い地形のため指向性の電波は誤差
 が生じやすいので、これを利用する航空機は全部ホーミング・ビーコンと同じように無
 指向性ビーコンとしてこれを利用して飛んでいる。レーダーの設備のなかった当時の航
 空機はこういうラジオ・ビーコンの誘導にたよっていたのである。
・「もく星」号のラジオ・ビーコンの受信装置に故障があったかどうかは、機器を分解し
 て調べた結果、当時は故障なく動作していたことが判定された。
・民間機専用のグリーン8は、羽田から館山に南下し、その地点で約60度回転して西に
 向かう。西に向かって扇を半分開いた形のコースになる。羽田・板付(福岡)間の民間
 機が館山上空を迂回するのは、軍用エリアが米空軍によって占められているためだ。そ
 うして民間機が大島通過のときは、航路の中心線は島の南端の差木地の上空を通る。差
 木地にはラジオ・ビーコンの発信所がある。大島航空標識所である。このビーコンに機
 は誘導されるのである。  
・差木地から三原山の外輪山東側の白石山までは直線距離にして約3キロ半、三原山の噴
 火丘までは5キロ以上ある。したがってビーコンの電波の音がする帯の中心を通れば、
 たとえ視界ゼロの雲中や夜間飛行であろうと、三原山を避けて差木地上空南側を通過す
 ることは可能である。ところが、「もく星」号の事故からみると、同機はルートから北
 にはずれて航行している。機長の頭には前方に三原山があることを十分に知っていたの
 に、である。
・航空路というものは10マイルの幅を持っていて、その10マイルの幅の中を飛行する
 ことが規定されている。その10マイルの幅の航空路の中には、どういうような山があ
 り、川があり、飛行場があり、施設仏があるというようなことは、操縦士は十分承知し
 ている。
・幅10マイルというと約16キロである、航空路の中心線からすると片方8キロずつで
 ある。大島の場合、差木地が中心線になっているから北側8キロの極限は、進入角度か
 らいっても三原山を包含する。 
・「もく星」号は差木地のビーコンの上空からジョンソン基地に通信を送っていないので
 あるから、そのチェック・ポイント(義務位置通報点)にかかる前に事故を起こしたと
 みなければならない。
・当時、東京地区の各飛行場から出発して、同時刻ごろに同じ方向に向かっていた米陸海
 軍機が10機ほどあって、東京地区の航空交通管制を行っているジョンソン基地のコン
 トローラーは、このためにかなり多忙であったので、多少の錯誤はあったかと思われる
 が、航空交通管制は飛行機に対する命令ではなくて、いわば補助を行なうものなので、
 操縦者は不審な点を確かめたり異議を申し立てたりすることもできるので、飛行中の責
 任は操縦者自身が持つものとなっているのだそうである。
・「もく星」号が大島ビーコンのチェック・ポイントにかかる前に、そのルートの南方に
 約10機の米軍機が飛行していた可能性はある。これらの極東米軍機は東京地区の各飛
 行場からほとんど「もく星」号と同時刻に飛び立っていたというからである。
・近くサンフランシスコ条約発効に備えて、日米航空協定の交渉の下準備は進められてい
 たが、その成立までは米空軍によって日本の空はすべて管制されていたから、責任はす
 べて米側にあった。このことからして、アメリカ側は「もく星」号の事故調査会に積極
 的に参加し、いわば日米共同調査会といったものが組織されなければならないのに、米
 極東空軍側は単に「協力」を約束しただけだった。はじめから逃げ腰が見えた。
・当の航空管制を米空軍がしていたのであるから、そうして日本側の航空を全面的に禁止
 していたのがアメリカの占領政策であるから、この航空事故の調査責任は当然にGHQ
 なり米極東空軍当局が負わなければならないのに、調査協力を回避で押し通している。
・当時、東京を中心とする関東地方一円には各空軍基地から発着して各地と連絡する軍専
 用の航空路がアミの目のように張られていた。それらのコースは、ブルーとかレッドと
 かアンバーとかの色の名で呼ばれていた。
  
宣伝誌の編集長
・「もく星号の伊豆大島墜落を当分のあいだ日本側に隠すために舞阪沖着水とか全員救助
 とかのニセ情報を流したんだね」
・「その理由は二通りの考え方があるね。有力なのは、ジョンソン基地の管制官のミスを
 カバーするためだ。事故調査会の発表によると、もく星号に、館山から10分間、高度
 2千フィートで飛行せよ、という指示のあったことを、”東京モニター”が言及してい
 る。これでは、雲の中の計器飛行だと三原山の外輪山にぶつかることは当然で、あきら
 かに管制官の指令のミスだ。だが、占領軍はその威信の上から、すぐにはそれを日本国
 民に知られたくなかった」。
・「日本側の捜索の眼を遠州灘に釘づけにして、その間に、占領軍は三原山の墜落現場で
 何かごまかしの工作をしていたのですか」
・「ジョンソン基地では、日航機が消息を絶った瞬間に、遭難地点を察知したと思うのだ。
 館山ビーコンでは反応はあったが、次の大島の差敷地ビーコン、その次の焼津ビーコン
 も反応がなかったのだから、館山・大島間が遭難地点とはいっぺんにわかったにちがい
 ない」
・「もしジョンソン基地の管制官のミスだったら、2千フィートの指示が事実だったろう。
 6千フィートは、そのミスを隠すための言い逃れだろうね。だから、アメリカ軍側は、
 証拠品となるジョンソン基地ともく星号機長との交信を録音したテープを最後まで事故
 調査会には提出しなかったのだ。そのテープには、米軍にとって、よっぽど都合の悪い
 交信が録音されてあったにちがいない」
・「日本側の捜索の眼を遠州灘に釘づけしている間に、米空軍は三原山の現場にヘリコプ
 ターで兵士を降ろした。それは都合の悪い証拠を持ち去った説ですね」
・「ジョンソン基地が6千フィートの高度指示を出したと云い張っているのは誤魔化しで、
 ”東京モニター”がジョンソン基地の高度指示を傍受して2千フィートが本当なわけで
 すね?」  
・「その”東京モニター”だがね。高空部のベテランに聞いてみると、”東京モニター”
 がどこにあったのかよくわからないんだな。ある者は羽田空港内だろうと云うし、ある
 者はジョンソン基地だろうといっている」
 
「東京モニター」の怪
・「ジョンソン基地のコントローラーが主張する高度6千フィート指示だったら、もく星
 号に対する管制指示の疑惑は何も起こらなくて済んだはずです。それは完全にパイロッ
 トの操縦ミスで簡単に片づけられたでしょう。それが簡単にいかないで、複雑にしたの
 は、”東京モニター”です。そうではない、ジョンソンの管制室が2千フィートを機長に
 指示したと傍受したからです。いわば、”東京モニター”がジョンソン管制室後進の嘘を
 暴露した、という感じを日本側に持たせました」
・「ノースウエストのマーチン202型ですがね。あれは1951年1月にワシントン州
 のリアダンで墜落しています。もく星号が墜落した前年です。マーチン202型には欠
 陥があるんじゃないですか」 
・「GHQはマッカーサーのときから内部で対立がありました。ウイロビー少将とマーカ
 ット少将との勢力争いです。この抗争がGHQにずっと続いていた。ところがマッカー
 サーがトルーマン大統領に罷免されると、後任にはM・リッジウエイ大将がなりました。
 リッジウエイがGHQの最高司令官だったときの昭和27年4月に、もく星号の墜落事
 故が起こった」 
・「もく星」号がエンジン故障などでの危険を感じて不時着を敢行しようとして失敗した
 と推測するには、乗客は座席バンドを締めていない、という障害がある。機長は機体の
 安全に危険を感じて不時着を行う場合は、当然旅客に対して座席ベルトを締めるように
 命じる。乗客がそれをしていなかったということは、不時着の態勢をとっていなかった
 ことになる」
・このことは「接地時の飛行速度は180〜220km、発動機の回転数は2000〜
 2200rpm(これほぼ巡航状態に相当する)」と推定されていることと照応する。
・「10日の午前8時半に米兵2名が現場におりたわけだね。”サン”の宮田通信員が現
 場に到着したのは10時すぎ、村民もいっしょだったかもしれない。そうして大島地区
 署員や消防団員が現場に来たのは早くて11時ごろ。そうすると、米兵2名はヘリで降
 下してから、宮田通信員が来るまで2時間半くらい、署員や消防団員の到着まで二時間
 半くらい、彼ら二人だけが機体の残骸と犠牲者の遺体の散乱の中に立っていたことにな
 る」
・「尾翼の一部に焼けたあとがあったが、それは落雷のあとだったというね。たしかそう
 いう記事が新聞に出ていた」「出ていました。しかし、それが落雷のあとだか、被弾の
 あとだか、それは分かりませんよ」
  
仮想敵機
・「もく星」号が三原山に衝突した4月から三カ月後に発行された「科学日本」の記事の
 中に、「もく星」号の補助翼タブが三原山の墜落現場から発見できなかったとある。
・空中分解の原因となるフラッタリングが起こったかと調査したそうだが、フラッタリン
 グを起こすとすれば補助翼附近から起きるのが常識なんで、ところが、撒布している部
 品の状況から見て、尾翼は健在であるし、主翼の左右補助翼も健在である。タブも右主
 翼の補助翼タブをのぞいて全部現物がありフラッタリングをおこした跡がなかったとい
 う。  
・「補助翼タブというのは、どのくらいの大きさのものですか?」「機体の大きさによっ
 て違うといっている。マーチン202型は今ごろ見たこともないからわからないが、お
 よその推定で、長さが60センチ弱、幅が30センチぐらいじゃないだろうかと整備係
 主任は言っていた」 
・「そんな大きな部品が現場で見つからなとは、どういうことですかね?」
・「もく星号は三原山外輪山に激突する3分前か4分前には、何かの異常状況が起こった
 ままで飛行を続けていたことになります。たとえば雲の中から突然、米空軍機が現れて、
 ぐんぐん接近してくる。これが異常状況です。こういう状況の録音がなされていたから、
 テープの提出を米空軍が拒否した、といえるのではないですか」「そのほうが、交信記
 録テープを米空軍が頑強に日本人の事故共同調査会に出さなかった理由がこれまでのい
 かなる推測よりも説得力に富んでいる」
・「補助翼タブには機関銃を撃ち込まれた弾痕があった。だから日本人に見られては困る
 ので逸早く持ち去った。そういう想像が起きませんか」「そう想像してゆくと、もく星
 号がアメリカ空軍機の機関銃射撃をうけて大島に墜落したのを米空軍司令部は連絡によ
 って知っていた。すぐにもその証拠品を墜落機の残骸から見つけて取り除きたいが、9
 日は一日中あいにくの悪天候でヘリコプターから捜索兵を降ろせない。で、晴れ上がっ
 た10日の朝早速に現場に降ろさせた。そして弾痕が補助翼タブについているのを見て、
 ヘリコプターからの降下兵が日本人の現場到着前にタブを持ち去って行った」
・「その場合だけど、もく星号はなぜ米空軍機から機関銃射撃を受けねばならなかったの
 かね?まさか北朝鮮軍のミグ戦闘機が大島附近に現れたと見間違えたわけではあるまい」
・「朝鮮戦争の作戦中だし、空軍機のパイロットは実戦の経験もあったと思うんです。つ
 まり荒っぽくなっていた。そうして、面白半分に機関銃を民間機に向けて撃ったのかも
 しれない。もちろん、命中させるつもりはなかったが民間機のパイロットをおどかすつ
 もりでした。民間機のパイロットを仮想敵機と見立てて」
    
女性ダイヤ・デザイナー
・烏丸小路万里子(からすまこうじ・まりこ)(37)宝石デザイナー 唯一の女性乗客
 である。 
・「もく星」号が三原山外輪山の中腹に衝突した機の残骸と犠牲者たちの惨憺たる姿は各
 紙が載せている。そのなかで写真新聞「サン」の現場撮影がもっともなまなましい。大
 島元町駐在の宮田通信員が逸早く現場に駆けつけたからである。
・残骸の破片群は紙屑の山のように堆積している。黒服の上着がめくれて白シャツがむき
 出されている外国人はスチュワード機長かクレベンジャー副操縦士かそれとも乗客のリ
 ード大尉か。   
・右の端は婦人の遺体で、乱れた黒い髪を地に伏し、スカートの尻をまくり上げ、下着を
 まる出しにしている。顔はわからない。近くに、ふくらんだ手提げカバンと、四角な手
 提げカバンとが一個ある。どちらも施錠された状態で、壊れてもいず、中のものも出て
 いない。 
・機の残骸の左端に、生きている人間の二人の後姿が写っている。一人は制服である。も
 う一人は大柄なチェックのセーターに無地のズボン、短靴である。腰に白い布を巻きつ
 けているのは物入れの袋であろうか。アメリカ人と思われる。
・遠景にヘリコプター二機が着陸している。右端のヘリは白地の下端に黒い筋を入れた旗
 を立てている。もしカラー写真だったら黒い筋は赤い色であったろう。もう一機のヘリ
 には旗がない。  
・二人の人物のうち制服はカーキ色、セーターのチェックは派手な褐色であろう。日本人
 は一人も映っていない。地獄の風景の中にアメリカ人ふたりが向うむきに歩いているだ
 けである。彼らは ヘリから降りたのだ。あきらかに米兵であった。
・こうして見ると宮田通信員撮影の「サン」の写真がいかに貴重だかがわかる。これは隠
 し撮りである。アメリカ人は米兵に違いないが、彼らに気づかれないようにカメラマン
 は背後からこっそりシャッターを切ったのだ。もし気づかれたら宮田はいっぺんに追い
 払われるか、逮捕されただろう。米兵が逸早く二機のヘリコプターで来て現場で何ごと
 か調査していたことは、日本側に絶対に知られてはならないからである。
・惨死した乗客の中にいた烏丸小路万里子さんの持っていたダイヤなどの宝石類が足りな
 いと後で問題になった。このヘリコプターの行方と思い合わせて何かを推測してみたく
 なる事柄なのだが、事実はどうなのか。烏丸小路万里子さんが持って乗ったときのダイ
 ヤの数を証明できない限り、なんとも云えない問題で、永久にナゾとして残されるほか
 はなくなったわけである。(「人物往来」という雑誌の記事)
・烏丸小路万里子さんは月二回ほど板付飛行場に姿をみせていた。近くに米軍の宿舎があ
 って、そこを上得意としていたといわれる。彼女は父親がドイツ人で母親は日本人だと
 いうことだ。外国で暮らしていたが、終戦で父はソ連に連れてゆかれ、彼女は母親と帰
 国した。彼女は英・仏語がうまかったそうで、その語学で、山梨県に駐屯していた米軍
 関係の仕事についた。そこで米軍技術中佐と恋愛に落ちた。この恋人は間もなく帰国、
 宝石デザイナーに転進したのはそのあとである。進駐軍相手で、九州・青森と駆け巡り
 東京に落ち着く間もない人だということだった。三原山の現場に、実妹の木村芳子さん
 が、姉の宝石を求めて探しに行ったこともあったが、見つかるはずもなかった。(「人
 物往来」という雑誌の記事)   
・実妹木村芳子さんは「姉がいっそのこと山にでもぶつかって一思いにやられたのなら、
 海に落ちたのでは・・・さぞ・・・」と語っていたが、機が三原山に衝突したとわかり、
 「私の願いがかなりました」と泣きくずれていた。(写真新聞「サン」の記事)
・東京新聞には「姉を気遣う実妹の烏丸小路芳子さん」として、妹の写真がかなり大きく
 出ていた。二十代はじめに見え、ふっくらした丸顔の、かなりな美人だった。
・「烏丸小路万里子は宝石デザイナーと称していたが、ダイヤモンドを売っていたんだね。
 九州や青森をかけめぐっていたというのは板付や三沢の米軍基地で、そこでダイヤを売
 りさばいていたのだろうな。日本人が寄りつけないから日本租界だ」
   
クレーマー大佐の魔術
・「そのころの日本に米軍人に売るほどのダイヤがあるわけはない。あったとすれば戦後
 に日銀の金庫から放出された16万1千カラットの供出のダイヤだ。ただし、これは日
 銀に残っていた量で、その前に供出ダイヤを保管していた交易営団のダイヤが日銀に移
 される前に米軍に押収されている。その押収ダイヤの良質な一部が民間に泳いでいたか
 ら、それでダイヤが限られた範囲でだぶついたように見たんだろう」
・昭和20年9月30日、GHQのESS(経済科学局)キャップ、クレーマー大佐から、
 今夜8時ごろ日本銀行へ監察に行くという連絡が入った。ところで、ただの銀行監察と
 いうのに、クレーマー大佐は、物々しい装甲車に兵士を乗せ、約30数名を1グループ
 として、日銀を取り巻いたのであった。この日は日曜日だし、夜のことである。宿直の
 メンバーがいるだけだから、危険なことは何もなさそうなのに、大佐はこのわずかな当
 直者を集めて、その一人ひとりに厳重な身体検査を行った上、帰宅せよと命令した。あ
 とはたったひとりの保安要員を残したのみである。つまり、高電圧の技手一名だけが、
 あの広い日銀にぽつんとひとりで残った。しかし、日銀の首脳部は、逆に全員集合を厳
 命された。このときのメンバーは、総裁渋沢敬三、副総裁荒木栄吉、理事相田岩夫、柳
 田誠二郎などの各氏で、一体、この突然の命令は何事であろう、と心配顔で集まり、別
 館一室に待機していた。日本銀行の三井側や東銀側には武装車が停車し、物々しく着剣
 した連中が、日銀の入口全部を固めて、内に入らせないのである。
・昭和20年9月といえば、進駐軍が駐留して間もない頃で、何をされても日本側は文句
 の云えない時であった。武装兵士が日銀を包囲したのだから、一体、これからどうなる
 ことかと、総裁や理事たちの不安は一通りではなかった。
・一体、監察といえば抜き打ちでやるのが当然だが、それにしても、装甲車を出動させ、
 着剣の護衛兵を連れて夜間に乗り込んで来たのは、占領直後とはいえ、甚だしく異常だ
 った。  
・通訳がひとり付き添い、役員の案内で、クレーマー大佐は日銀の内部を順々に巡視して
 行くつもりだった。しかるに、日銀内の各室は鍵がそれぞれ違っている。それらの数多
 い鍵は守衛室の鉄庫に一括して収めてあるが、その肝腎の鉄庫を開くべき鍵をもった宿
 直員が、先方の命令で帰ってしまったから、どうしても各室を開けることができない。
 役員の一人がそのことを云うと、大佐はイライラしはじめた。
・クレーマー大佐が突然の監察を日曜日の夜に選んだのは、意味がないではなかった。彼
 はこの地下室の大金庫を開け、存分にその「中身」を観察したかったからである。鍵の
 問題に考え至らなかったのは、大佐の不覚であった。大佐は内心は怒り狂った。ところ
 が、このとき、大佐の頭に一つのヒントが浮かんだ。それは、鍵は、自分が必要なとき
 にはいつでも開けられるように、米軍内にも置かなければならないということだった。
 このことは、後に、米軍によってそのような措置が取られた。その副産物の一つが後の
 サンフランシスコ事件であり、カリフォルニア事件である。いずれも日本のダイヤの大
 量持ち出しであった。
・ところで、このときの検査は厳重を極めたが、クレーマー大佐は、なぜか焦っていた。
 バカ丁寧なくらい説明しながら案内しても、クレーマー大佐の機嫌は直らなかった。彼
 は、ときどき、怒鳴り散らしていた。ところが、地下室に来て、大金庫 四個を見たと
 き、大佐は、はじめて目的地に着いた安堵をその顔面にあらわしたのである。その微笑
 が何を意味するかは、当時案内した人びとは誰も気が付かなかった。
・かくて、金庫の扉は開けられ、役員は遠ざけられ、クレーマー大佐によって金庫の中は
 精密なる監査が行われたのである。 
・一国の中央銀行が一日休業したということは滅多にない例である。このような査察の作
 業が終了したのは午後4時半頃で、それから全行員の入行が許された。
・このクレーマー大佐査察のあと、接収貴金属を管理していたマレー大佐の事件が起こっ
 た。マレー大佐は本国に召還され、軍事裁判にかけられて、10年の判決を受けた。そ
 の裁判内容は、詳細には日本側に報らされていない。だが、その犯罪内容は、日本から
 多数のダイヤを持ち出したというところにあった。どれだけの数量をマレー大佐が持ち
 出したかは正確には不明だが、伝えられるところによると、10万カラットともいう。
・どうしてマレー大佐が宝石を着服したということがわかったのか。それは大佐が、いよ
 いよ日本銀行の仕事を終えて一時帰国で米国に上陸したとき大差を調べたところ、ダイ
 ヤモンドが出てきたからです。もうそのときにいろいろな調書が全部まわっていたわけ
 です。先回、夏休暇で帰って持っていたダイヤモンドを細君にやったり、お金にかえる
 ために出したりした、そういうことが全部わかってからの話です。
・これよりずっと後の昭和34年9月のことだが、米国空路勤務の日本人スチュワーデス
 が宝石を密輸して発見された事件がある。場所はサンフランシスコ空港で、彼女の旅行
 鞄の中から、二重底に隠されていた時価5マンドル相当の小粒ダイヤ約4千粒が発見さ
 れた。この事件は、FBI調査官の東京における活動で、その密輸ルートが主としてい
 わゆる東京租界と云われる地帯を舞台に行われていたことが判った。

甲府
・烏丸小路万里子は、山梨県に駐屯していた米軍関係の仕事についていて、米軍技術中佐
 と恋愛に落ちた。米軍が駐屯していた山梨県とは甲府以外にはなく、米軍関係の仕事と
 はPXだろう。
・「県立図書館のあたりに米軍の施設があったように聞きました。県立図書館は昔の甲府
 城の中で、戦前は陸軍の甲府聯隊がありました。米軍機が来襲して、一夜のうちに焼き
 払ってしまいました」(甲府駅前の飲食店の中年の主婦)
・「占領軍の司政官はミールズ少佐といった。階級は少佐だが、たいへんな権力を持って
 いた。県知事も市長も彼の前では縮み上がっていた。召集前の本国では小さな農場主だ
 ったらしいがね。彼は日本人の女秘書を連れていた。たいへんな美人で、大柄だから派
 手な服装が似合い、日本人ばなれしていた。兵隊が運転する最高のジープにミールズ少
 佐とならんで座っている烏丸小路の姿は甲府市民の目をひいたものだ。俗にいう虎の威
 を借りる狐という烏丸小路万里子はたいそう威張っていた。駐留軍にもハバを利かして
 いたし、甲府市政にも少佐を通じて口出ししていた。彼女は「女司政官」と陰口された。
 占領時代が終わり、ミールズが帰国すると、彼女も何処かへ行っちゃった」(山梨時事
 新報:占領下の甲府物語)
・「接収ダイヤ(戦争中の供出ダイヤ)は、日銀金庫にいきなり入ったのではなく、その
 前は交易営団に官吏されていた。ダイヤが交易営団にあったころに米軍がきて、ダイヤ
 の大量を「預かる」と称して領収書も書かずに持って行ったことがある。営団の係員が
 「進駐軍」を信用して、というよりはその威をおそれて領収書を取らなかった。そのと
 きダイヤのほとんどが営団から三井信託地下金庫に移されているのを兵隊は係から聞き、
 では三井信託へ連れて行けと係は背に銃を押しつけられた。クレーマー大佐の軍隊が日
 銀を包囲して渋沢総裁を一室に監禁して金庫を査察したあと、交易営団にきた連中はマ
 レー大佐の部下だったらしい。交易営団のダイヤは三井信託を経て日銀金庫に入ったの
 だ。それをマレー大佐は知った」   

伝説の女
・「烏丸小路万里子は大柄の美人で、入江たか子(映画女優)に似ていたそうだ。近視眼
 で、細縁の眼鏡をかけていた。眉の端が三日月のように吊り上がっていたので、眼鏡が
 よく似合ったそうだ。身長は165センチくらい」(画家:浅木佐津子の話)
・「烏丸小路万里子が甲府で司政官のミールズ少佐と同棲していたのは、昭和22年から
 23年にかけての1年半ぐらいです。その期間はダイヤと関係がなかった。ミールズは
 帰国して彼女は一人になる。次に現れるのが高級将校で、彼女にダイヤを売らせた。そ
 れが昭和25年ごろと推定されます」

スケッチ画と写真
・甲府の仙峡ホテルから大型封筒が届いた。写真が二枚入っていた。両方とも長椅子によ
 ってくつろいでいる眼鏡をかけた女。一目で烏丸小路万里子とわかる。だれかと話して
 いる烏丸小路万里子は、下を向いて編物をしながら、くつくつと笑っている。そこには
 「陰の女司政官」の姿は少しもない。このころが彼女の最も幸福な時期だったのだ。ダ
 イヤとはいっさい関係なく、なんの屈託もなかったのだ。
・「混血美人」の彼女は無籍者だったのだろう。彼女は父親のドイツ人がオペラ好きだっ
 たのを母親から聞き、一世のソプラノ歌手マリア・カラスをもじって「烏丸小路万里子」
 と自分で付けたのだ。マリア・カラスがギリシア移民の子として他国に生まれ、13歳
 のときに離別した母に連れられてアテネに渡ったのも、彼女の境遇と似ている。彼女の
 本名はだれも知らぬ。生地も分からぬ。闇から闇へ三原山へと消えて行った。
 
真実探求
・「烏丸小路万里子は、福岡行のもく星号に乗って、板付の米空軍基地に、彼女のパトロ
 ンである高級将校のお使いでダイヤを売りさばきに行くところでした。交易営団や日銀
 金庫からマレー大佐などが略奪した、大粒で純度の高いダイヤの流れです。ところが、
 もく星号の墜落現場にはそのダイヤが一つもないのです。現場検証で、遭難者の遺留品
 にダイヤはありませんでした。墜落現場にもダイヤは落ちていませんでした。軍用ヘリ
 で降りた連中がダイヤをみんな持ち去り、現場にダイヤが一粒も見つからなかった」
・「それは売却せずに、極東空軍か第五空軍司令部に引き揚げて、極秘裡に処分されたと
 想像できます。昭和27年4月といえば、前年に調印した日米講和条約が発効する直前
 です。講和条約が発効しても、日米行政協定が結ばれてアメリカ軍は残るけど、占領当
 時より部隊の数はぐっと少なくなります。そういうことで、ダイヤを早いとこ米空軍内
 部で処分しなければならなかったのです。売却してはいけない。それは交易営団や日銀
 金庫にあったダイヤの流れですから、基地に残しておくと、司令官はマレー大佐のよう
 に窃盗罪に問われます。事は米空軍全体の名誉にかかわる問題です」   
・「日航広報部では烏丸小路万里子の資料を入れたファイルだけがファイルごと亡くなっ
 ているとの回答でした」