豊かさとは何か :暉峻淑子

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この本は、今から33年前の1989年に出版されたものだ。
当時の日本は、モノとカネがあふれる世界一の金持ち国と言われた。しかし、環境破壊、
過労死、受験競争、老後の不安など深刻な問題を抱えたままであり、国民はゆとりも豊か
さも実感できなかった。
この本は、当時の西ドイツと日本を比較しながら、ほんとうの豊かさとは何なのかについ
て説いたものだ。
この本を読むと、当時の西ドイツの住居環境や福祉環境の充実度に驚かされる。
西ドイツの住宅のおよそ四割近くは、公共の住宅投資によって建てられたものであるとい
う。そのために良質で格安の住宅がじゅうぶんにあり、住むところに困るということはな
かったという。
また、西ドイツでは、道路に立っている柱に緊急ボタンが設置されていて、そのボタンを
押せば、救急車がかけつけてくるようになっていたという。また、西ドイツやスウェーデ
ンでは、老人住宅のトイレは、二十四時間、水が流れないと、自動的に救急機関に報知さ
れて、すぐ救助の人がかけつけるシステムになっていたという。今から30年以上も前の
話である。日本ではいまだにこういうシステムすら実現できていない。
さらに、西ドイツでは公共の老人ホームでも、すべて個室が原則だったという。しかもそ
れは、今から30年以上も前の話だ。翻って日本はというと、日本の特別養護老人ホーム
はいまだに4人部屋が多いようだ。

ドイツと日本は、同じように敗戦国として焼け野原からスタートした国同士なのに、どう
してこんなに差がついてしまったのか。
その原因の一つとして、日本という国は、昔から、一人ひとりの人間を大切にする国では
なかったからなのではないだろうかと思う。日本は、一人ひとりの人間のより、組織を大
切にしてきた国である。何か問題が出れば、それはすべて自己責任として、個人に責任を
押し付けてしまう。このため、これまでの政治の政策のほとんどは、組織を守るための政
策ばかりに終始してきたのではないか。組織を守るためばかりに税金をつぎ込んできての
ではなかっったか。
そして、もうひとつの原因は、そのような政治に対して、我々一般の国民が、ほとんど異
を唱えることなく、半ばあきらめ、従順に従ってきたことにあったのではないか。
西ドイツでは、市民グループをつくり、自分たちの払った税金は、当然、返してもらう、
という精神に立って活動していたという。そしてそれが民主主義の不可欠な柱になってい
たという。
日本では、大多数の人が自分の給料から自動的に税金が天引きされているために、自分た
ちがどのぐらい税金を払っているのか把握していないのが実情だ。そのために、自分たち
の支払った税金が、どのように使われているかについて、あまり関心がいかない。また、
自分たちの支払った税金を取り戻すというような考えも浮かんでこない。
政治家たちが、集めた税金を気まぐれで場当たり的な政策で浪費しても、政治たちの都合
ばかりで使いみち決めても、選挙のための人気取りのためのばらまきに使っても、国政選
挙をやれば、また同じような顔ぶれの与党が誕生するだけであった。これでは、政治家が
好き勝手にやりたい放題になるのは当然だろう。

日本の政治の現状をみると、日本の政治は、国民から集めた血税を、国民のために使うの
ではなく、政治家たちや一部特権階級のために使っている。それが日本の政治なのだとし
か見えない。
「強者には政治はいらない。弱者のために政治は必要なのである」と言われるが、この国
の政治は、強者による強者のための政治になっている。
結局、この国における政治の目的は、福祉社会の実現にあるのでなく、強者の手に富を蓄
積することだけににあったのだということが、この本を読んで、あらためて思い知らされ
たような気がした。

過去に読んだ関連する本:
ほんとうの豊かさってなんですか?
里山資本主義
しなやかな日本列島のつくりかた


金持ちの国・日本
・いま私たちが、胸を衝かれるような思いで見る難民の姿は、昨日の日本の姿でもあった
 のである。
・それらの記憶を持つ日本人が、突如として今度は未曾有の栄華と豊かさの中にいるので
 ある。日本人の多くがモノとカネの豊かさに夢中になるのも、無理からぬことなのかも
 しれない。
・エコノミック・アニマルと言われたり、金をためるだけを人生や社会の唯一の目的にし
 ている、と笑われたりしても、戦前の貧しさや戦争中の飢えを知る者にとっては、窮乏
 は恐怖である。そして、そんな経験を持つ祖父母や親に育てられたのが、現役の世代で
 あるから、モノとカネにしがみつき、すべてを金銭で評価する時代精神から脱却するこ
 とは、なおまだむずかしいのかもしれない。
・たしかに敗戦の廃墟から、生きることに向かって国民がたちあがったとき、国民の胸の
 中には、「忠君愛国」の精神主義や「天皇の絶対的権威」にひっぱりまわされるのは、
 もうコリゴリ、という思いがあったにちがいない。
・なぜなら精神主義による判断は、しばしば独善的な過ちに向かって暴走するが、モノと
 カネをいくら作り出したか、という金銭的価値判断は、理屈抜きに、誰の目にも合理的
 な客観性を持っているからである。そしてもちろん、貧しさにとって、モノとカネは、
 健康と幸せのための不可欠な条件でもあった。
・しかし、カネとモノをひけらかして金持ちぶりを自慢し続けるということの中に、じつ
 はそれしか自慢するものがない社会の貧しさを、私たちは自覚せざるを得なくなってい
 るのではないだろうか。日本人は、すべてを経済に特化するために、他のすべてを捨て
 てきたからである。
・西ドイツでは、経済の発展と同時に、国民の住宅や都市環境が美しく整備され、社会資
 本や社会保障制度の充実とともに、文化的事業に対してもゆきとどいた公的補助が行わ
 れている。
・日本の豊かさが、実は根のない表面的な豊かさにすぎず、板子一枚下には地獄が口を開
 けており、砂上の楼閣のようなもろさに支えられた贅沢が崩れ去る予感を、多くの日本
 人が、心中ひそかに感じているのではないかと思われてならない。
・いざとなっても、誰からも助けてもらえない不安と、ひとなみから排除されてしまう不
 安とで、強迫神経症のように、はてしない飢餓感に追われる日本人は、もっともっとと
 カネを貯め続けているのではないかと、私には思えてならない。
・企業が投資のために投資するのは、限りない自己増殖を続けることが目的である資本に
 とっては、当然と言えよう。しかし、人間の生活にとってのカネとモノは、本来、生活
 に必要なだけあればよいのである。人生にとってカネは手段であり目的ではない。家族
 や愛する者との健康で楽しい生活。趣味、生きがいのある仕事。人生の充実感、無目的
 な友情、自然とともにある安らぎ。それらが充たされれば、限りなく財テクやマネーゲ
 ームに目を血走らせる必要はないはずだ。資本の求める目的と、生活の求める目的は違
 っていて当り前である。
・豊かさが必然的にもたらすはずの落ち着いた安堵の情感や人生を味わうゆとりは、どこ
 へいってしまったのだろう。本能的に自然に湧き出るはずの他者への思いやりや共感な
 どは、金持ち日本の社会から日に日に姿を消していくように思えてならない。
・カネが儲かることと、人の生涯においての仕合せの感とは、いったい本当に、そんなに
 も密接な関係があるものなのであろうか。 
・日本が現在のようになってしまった原因を、どの時代にもある人間の貪欲や利己心とい
 う心の問題だと考える人もいるにちがいない。しかし、そう考えるのには、日本の社会
 には、いま、あまりに大きな問題がありすぎるように思われる。
・たしかに、どんな社会にも、貪欲な人とそうでない人がいる。しかしある種の社会では、
 より多くの人がゆとりを失い、バランスのとれた判断を失うこともまた事実である。
・主婦がパートに出る理由として、教育費、住宅ローン、老後のため、がいつもトップに
 あげられる。団地でも、地域社会でも、近所の人たちと、よい人間関係や、生活環境を
 作り出すようなゆとりを持つ人は稀になり、老人の相手をする人もなく、入院した家族
 のために乳呑児をつれて病院通いをする若い母親の姿をみても、手をさしのべる人は、
 めったにいない。
・効率競争社会が、家族をバラバラに引き離し、友情を忘れさせ、人びとが共有する未来
 について、あるいは自然とともに生きる人間の生き方について、考える時間を奪い去っ
 てしまったのである。
・効率を競う社会の制度は、個人の行動と、連鎖的に反応しあっているから、やがては生
 活も教育も福祉も、経済価値を求める効率社会の歯車に巻き込まれるようになる。競争
 は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他の者も自分を守るために自己的になら
 ざるを得ないから、万人が万人の敵となり、自分を守る力はカネだけである。
・そんな社会では、人間の能力は、経済価値を増やすか否か、で判定され、同じように社
 会のために働いている人であっても、経済価値に貢献しない人は認められることが少な
 い。
・日本は、企業の優劣を、利潤の大小によって序列づけしてしまい、たとえ良心的、個性
 的、創造的というような社風を持つ企業であっても、利益が大きくなければ評価されな
 い。そんな日本で、福祉のために献身的に働く人を高く評価するわけがない。
・中曽根内閣の行革・民活路線は、一言でいえば、「自然環境の保護とか、福祉社会とか
 は、経済価値を減らし、怠け者をつくり出し、日本を先進国病にする。経済の活力を維
 持するためには、カネは、カネを生むことののみ使われるべきで、国民の一人ひとりは、
 自分の生活に自分で責任を持たなければならない」というものだったのである。
・豊かさに憧れた日本は、豊かさへの道を踏み間違えたのだ。富は人間を幸せにせず、か
 えって国民の生活を抑圧している。
・富は分配されず、福祉の保護を願い出る者は辱められる。「老人のためにカネを使うの
 は枯木に水をやるようなもの」と言った政治家もいる。

西ドイツから日本を見る
・技術革新によって、いよいよ強大になった資本主義の生産力は、社会と個人を支配し、
 動かしていく原動力である。ハイテクノロジーによる効率性や利便性は、もし、人間が
 無防備、無自覚にそれを受け入れ、流されていくならば、「工業社会の生み出す毒」に
 よって、人間と社会と自然を破壊していく。
・その毒を制し、コントロールするには、抗体としての強い「個」と、社会的制度を、技
 術革新と資本力におくれないように育てていかなければならない。
・しかし、日本では、潜在的不安を抱きつつも、政財界は巨大な資本力や技術力を賛美し、
 経済大国に酔っているのだから、社会は、いよいよ自家中毒的に病んでいく一方である。
  
・バスの中から緑の多いベルリンの町を眺めていると、ほんとうに心が和んだ。道路は、
 植え込みのある分離帯で、整然と車道と歩道に分かれ、自転車道も整備されている。
 住宅は、道路からずっと退って建てられているため、木のかげにかくれてむき出しでな
 いのが感じがいい。さらに町を美しくしているのは、地域ごとに、建物の高さ、生け垣、
 窓のかけられているまっしろなカーテンなど、美的に調和した環境の美しさである。
・労働時間が短いせいか、勤めから帰ってきた人たちは、春から夏の、日の長いときには、
 地域のスポーツ・クラブや、少年たちのサッカーチームをコーチして、一緒にキャッキ
 ャッと汗を流している。散歩に出たり庭の手入れをしたり、とても楽しそうだ。
・西ドイツで珍しかったのは、お茶や夕食の招待のほかに、「散歩の招待」というのがあ
 ったことだ。私の家の玄関まで迎えに来て、森や湖や植物園を、おしゃべりしながら、
 一緒に散歩する、その楽しさが招待の主目的である。おカネもなにもいらない。
・日本のように、混雑した乗物で遠くまで出かけて森林浴をしなくても、老人や子どもが
 毎日の生活の中で楽しめる距離に、森や公園や湖が配置されていることにも驚いたが、
 豊かさに対する人びとの考え方の相違に私はしばしば考え込むことがあった。
・彼らによれば、豊かさとは、創造的で自由な生き方ができることであり、それを最大限
 に可能にする政治、社会であった。
・日本では和とか調和とか言うけれど、いつも周りに合わせて自己規制をしているのでは、
 新しい考えや文化は生まれないでしょう。お互いに批判したり衝突したりしないという
 のは、それだけ相手を信頼できないからではないでしょうか。理解や妥協と同時に闘う
 ことのできる社会でなければオルターナティヴな社会は生まれない。
・ドイツの親は、子どもを自立させるために、そして自立した子どもが、どれだけ大きな
 自由を、社会と自分自身にもたらす人間になれるか、それを目的として育てているので
 す。教育の目的は、いまの枠組みに迎合することだけではありません。
・日本人は「活力ある社会」と言う言葉が好きであるが、企業の競争、という意味の活力
 と、人間が自主的に創造的な活力を発揮する、ということとは、質的に違う。人間が、
 差別なく、自由に、のびのびとした活動を展開するためには、社会的共通資本、つまり
 社会資本や社会保障制度が、個人の日常生活を、下から、しっかりと支えていなければ
 ならない。そしてその土台の上に多様な個性が花開き、認め合われていなかればならな
 い。
・ドイツの学生たちは服装も食事も日本の学生にくらべると、じつに質素だ。しかし小学
 校の時から自由時間がふんだんにあり、その自由時間を使ってゆたかな自分の体験を持
 っている。ゆたかな体験からは当然ゆたかな発想が生まれる。
・日本では男性の定年退職者が、”粗大ごみ”とか、”産業廃棄物”呼ばわりされているが、
 それは、子どもの時から自由に自分の時間を楽しみ利用する習慣を持たず、いつも命令
 と宿題によって動かされ、学校管理から企業の管理の下に送り込まれて、ついに自分の
 人生を持てなかった人間の悲哀ではないだろうか。
・日本には、いつもいつもきまった枠があり、枠がなくなると、日本人は不安になる。休
 暇が長いと、それだけでも、何をしてよいかわからずに不安になる。自分の要求を持つ
 ことが学校時代から抑制され、仲間はずれになることを極度におそれる。
・西ドイツの老人ホームと病院は、同じ建物の上の階と下の階になっていたり、隣の棟に
 なっていたりで、老人は病院とホームを、いったりきたりできる。日本のように退院し
 てきたらホームの自分の籍がなくなっていた、ということはない。
・日本の場合、特別養護老人ホームには、体の不自由な、病気持ちの老人がたくさんいる
 のに、雀の涙ほどの、医療費とはいえない薬代と、パートの医師がいるだけで、死の床
 に医師の立ち会いもなく死んでいく人が少なくない。
・西ドイツの老人ホームは、みな個室制になっていた。ホームにはいった人たちは年齢的
 にみて、もう妥協したり強調したりすることは無理だろう。日本の公的老人ホームは四
 人部屋であるが、暑がりやの人は窓を開けたいし、寒がりやの人は閉めたいし、お互い
 に意見が合わない。世界一金持ちの国で、どうして老人に生理的に無理とわかっている
 こんな生活を強いているのか。これを日本型福祉というのなら、日本型とは、救貧的福
 祉型だということになる。
・どこのホームにも、食堂のほかに工芸室、お祈りの部屋、図書室、談話室、体育室、音
 楽室、それに小ホールがついているが、それらの部屋は、町の人と共用になっていて、
 ボランティアだけでなく、中、高の生徒や、町の人たちがいっしょに工芸室で織物を織
 ったり染色したり絵をかいたりすることができる。
・どのホームも入居者の半数は、公的な費用の援助を受けている人たちである。あと半分
 は自分の年金で利用料金を払っているといっていた。日本のように、貧乏人は公費老人
 ホームの四人部屋、金持ちはぜいたくなホーム、というように截然と区別していない。
 ホームの人手も十分にあり、看護婦とヘルパーと、看護大学に入学を希望している若い
 女性たちがいた。
・西ドイツでは兵役につきたくない青年は、兵役のかわりに有給で福祉施設に働くと、兵
 役が免除になる。老人ホームの食事をそのまま在宅老人に給食サービスしているところ
 もある。
・老人ホームのほかにも公立のケア付き老人住宅があり、ここではマンションに常時、看
 護婦とヘルパーが待機していて、老人たちの買物や掃除の手助けをしたり介護をしたり
 している。
・在宅老人は、自宅とデイケア・センターとの間を、専用バスが送迎してくれる。デイケ
 ア・センター出は食事、スポーツ、リハビリ、カウンセリング、マッサージ、絵や音楽
 や工芸をするそれぞれの部屋、水泳のプール、図書室や学習するミーティング室もあっ
 た。
・ショートステイの部屋では家族が夏休みをとるときなど、一カ月まで預かる。精神障害
 者や痴呆の老人も預かってくれ、もちろんみな個室である。
・ホーム・ヘルパーの時給は千五百円で交通費は別に支払われる。
・これらの家庭を訪問してみて驚くのは、住宅水準の高さである。昔、学校の教師をして
 いた、とか、洋裁店の針子だった、とか、鉄道マンや労働者など、いろいろであるが、
 みな、最低限、寝室、居間、台所、風呂場とトイレ、仕事部屋などが備わっており、が
 っちりしたよい家具がある。大学教授や医者の家ともなれば、まったくの大邸宅である。
・在宅看護のためには、まず住宅が高い水準になければならない。安全で、車椅子も使え、
 介護活動のできる住宅が、日本にどれくらいあるだろうか。老人の入浴やシャンプーを
 介助するにも、リハビリするにも、まず住宅である。
・西ドイツやスウェーデンでは、老人住宅のトイレは、二十四時間、水が流れないと、自
 動的に救急機関に報知されて、救急に、すぐ救助の人がかけつけてくるシステムになっ
 ていた。老人が電話の受話器をとりあげたまま三分間以上無言でいると、その場合も同
 じである。倒れたとき、天井のインタホンに向かって声をあげればよいし、あるいは声
 が出ないときは、天井からぶら下がっているヒモをひっぱってもよい。
・ドイツでは、朝起きてみると、アパートなどの玄関に、「暮らしに困っていたり病弱な
 老人をみかけたら社会局に近所の人が知らせてください」というステッカーがはってあ
 ったりする。イギリスでは、同じような文章のハガキが郵便局の窓口においてあり、そ
 こに記入して投函すれば保健局の人がたずねてくるようになっていた。
 
・自分の家で寝たきりになっても老人病院にはいっても、介護する人が十分でなければ、
 「寝たきり」ではく「寝かせきり」になる。そうなれば関節は固まり筋肉は弱り「廃用
 症候群」が出る。
・日本では、今日まで、産業への補助に国の重点政策がとられて、住宅、社会資本、社会
 保障は、いまもなお、なおざりにされている。西ドイツでは住宅投資や社会資本投資は
 1960年代の末には、ほぼ終わっている。このことが、どれだけ生活水準を高めるの
 に寄与しているかははかりしれない。
・日本と西ドイツの賃金水準が、同じだとすれば、住宅のために多額な支出を家計から支
 出しなければならない日本と、ごく安価な住居費ですむ西ドイツの生活水準には、大き
 な開きが出てくる。
・西ドイツでは学生のアパートでさえ、一人で八十平米ほどの広さを持ち、台所、トイレ、
 シャワーつきで、約一万円の部屋代である。
・あるシーメンスに勤めている四人家族の家は、地下室にはピンポン室や食糧貯蔵室来客
 用の浴室とトイレなどが完備し、一階は台所、リビング、ピアノをおいた広い客室、二
 階には書斎、子供部屋、寝室、夫婦それぞれの個室がある。三階は、いわゆる納戸にな
 っている。その広さと、設備の立派さに驚いたが、それは標準的なサラリーマンの住宅
 だという。
・学生たちは一軒の家を数人で借りて、それぞれが個室を自分の住居とし、台所や風呂や
 トイレを共用して、一家族のように暮らしている場合もある。
・西ドイツの住宅およそ四割近くは、公共の住宅投資によって建てられたもので1968
 年には住宅不足解消宣言を出している。
・職住が接近したところに、計画的に建てられた住宅と、人間が住むのにふさわしく整備
 された環境は、半永久的な西ドイツの財産として、人びとの生活を安定した豊かなもの
 にするにちがいない。
・西ドイツの西ベルリンと東京都心の地価を比較すると百倍の差があるのではないだろう
 か。これでは、平均賃金の国際比較は無意味である。
 
・日本では、自助、というと、だれにもたよらずに自分で自分の生活を責任もってやるこ
 と、と解されるが、西ドイツでは、市民の集まりを、自助グループと言う。公的な補助
 金を出させるが、運営や活動は自分たちでやるというのが自助であった。つまり自助と
 は、公的権力に対抗して市民相互で助け合った歴史から生まれ、自分たちが払った税金
 は、当然、返してもらう、という精神に立っている。
 
・バス旅行には、老人ホームからでも参加でき。途中で倒れても、バスの運転手が道路に
 立っている柱の救急ボタンを押せば、救急車がかけつけてきて市立の救急病院に収容し、
 そこで死ねば、地下室の霊安室に三日間安置して家族や友人の別れにくるのを待ち、あ
 とは教会の墓地に葬るので、なにも心配ない、とのことであった。
・日本とはくらべものにならない社会的共通資本の威力を感じるのは、交通費の安さであ
 る。市中の交通は片道百十円のキップで、地下鉄、市電、市バスのどれにも乗りついで
 目的地までいくことができる。
・老人や学生や障害者には半額パスまたは無料パスが与えられている。
・国鉄を民営分割にして国鉄用地の販売で土地を高騰させた日本。いまでは千円は一日の
 交通費で飛んでしまう。 
・西ドイツの人口密度は、日本の七割弱である。しかし、一極集中を排している国土利用
 計画、都市計画の巧みさのために西ドイツに住んでいると、西ドイツの人口密度は日本
 の三分の一くらいに感じられるのだ。

・日本は明治以来、大企業の所有する富と、国民生活との断絶が大きな国であり、それが
 数々の破綻を生み出してきた。第二次世界大戦後も、企業活動と国民の生活の質とは、
 並行せず、戦前にくらべてその両者はほんのわずかしか近づかなかった。
・高い地価と住宅、教育費、不十分な社会保障と生活不安。そのために国民は貯蓄や財テ
 クに熱心にならなければならず、大都市は家族の住むところではなく、仲買人に追い立
 てられ、賃金の購買力は低く、日曜日以外の全労働の投入に対して、実際の口に入る所
 得は少ない。
・日本がその富を投資だけに使う限り、人間としての生活の満足感も安定も将来の繁栄も
 えられないだろう。
 
・西ドイツは、住宅、道路、その他のインフラストラクチャーを、ストックを貯蓄すると
 いう感覚で、何世代も先まで考えてバランスよく作った。西ドイツの人口は日本の二分
 に一、労働人口は三分の一であるにもかかわらずその輸出力はナンバーワンであり、そ
 の輸出力の七割を担っているのは中小企業である。中小企業は大企業の下請けではなく、
 独立して平等に強い輸出力を持ち、すぐれた技術で経済を担っている。
・西ドイツにはきれいな町並、快適な住居、そして豊かな文化遺産と充実した社会施設が
 ある。こういう生活環境のよさや時間的余裕は、彼らが自らの哲学に基づくいろいろな
 政策を長年実行してきた結果、つくり出されたものだ。
・日本ではいまだにわれわれが、三、四十年働いても自分の住む家も確実には手に入らな
 い。さらに退職後もういっぺん職場をみつけないと食べていけないという状況。これは
 先進国としてアブノーマルです。おそらくそんなことが西ドイツで現実に起きたら、直
 ちに政権交代となるでしょう。

豊かなのか貧しいのか
・政治家や財界人は、日本の豊かさに対して疑問を述べると、必ずといっていいほど「そ
 れは個人の心の問題である」と反論する。そう言って片づけてしまえば、それは個人個
 人の責任になり、社会問題としては一歩も先へ進めない。
・「強者だけの豊かさ」ではなく、それぞれが豊かに生きるためには、社会保障制度や社
 会資本を充実させ、環境を守らなければならない。しかし、日本の政財界のリーダーた
 ちは、モノとカネの豊かさしか信じず、「先進国病になると、国は亡びる」と言う。そ
 して、日本より少しでも経済成長率が低く、国民所得の低い国を内心バカにする。
 
・福祉国家では、国民の幸福を大きくするには、純生産物をどう分配すべきかを考えるか
 ら、純生産物が増加しなくても、分配の仕方を改良して幸福を増進させることができる。
 福祉国家にとって経済成長率が低いことは、苦しいことではあるが、致命的ではない。
 
・日本は先進国であっても、ほんとうの豊かさはなく、ただの経済競争国である。
・日本人は、まるで日本という工場で作り出された製品のようだ。もう日本に生まれた時
 から日本という機械の歯車であるのだ。
・個人を一列にタテ並びにし、ひとつのモノサシで優劣をきめ、他人を尊重しない。尊重
 したくないのだ。競争以外に、物事に対する積極的な関心、行動など、とうていあり得
 ない。世界一の所得だ、高い生活水準だ、という言葉にだまされているだけだ。
・豊かさとは、働きずくめで、働き疲れるとウサギ小屋に帰って、インスタント食品をぼ
 うばって寝る。そんなことではないはずだ。なぜ、日本人はそんなに働くのか。老後生
 活に不安があるからではないか。
・日本人が貧しい理由は、日本人が働くことばかり専念していて、よりよい社会に日本を
 していこうとしていないからだ。さらに社会が画一化され、人間社会を運営する歯車の
 ひとつでしかないからだ。
・豊かさや、しあわせの意味は、開発による環境破壊や戦争や核による恐怖をなくして、
 動物や植物とともに、命を大切にして生きること、つまり地球の豊かさである。それは、
 最大限に多くのものが大切にされ、生きていくこと、を意味している。
  
・生産の増大は、ある点を超えれば、欲望を育成するようになり、生産が急速に増加する
 のに比例して、需要も急速に増加する。だから、生産の拡大を、経済の親補や社会の進
 歩のモノサシにすることは、正しくない。
・自由競争にもとづく市場経済は、最も効率的な方法で資源(資本と労働)を分配する。
 しかし、自由競争による効率的な富の生産は、その代償として、敗れる者がいた当然で
 ある、と認めることを社会に要求した。敗者が出ることよりも、繁栄する者がいること
 の方が、富の増大にとっては重要であった。
・一般の市民にとって、競争は不安の種であり、人びとを自己防衛に走らせる。弱い人び
 とを排除する経済法則の冷酷さを嫌がる人びとに、どんな正当な理由づけをしてみても、
 人間から同情心を失くしてしまいことはできない。自己防衛と不安の中では、人間の気
 持ちを満足させることはできないであろう。
・競争だけでなく機械化された産業技術の過度の普及は、文化的な悪影響を与える。人び
 とは視野のせまい機械的な思考方法を要求され、それ以外のものは不必要とされてしま
 う。昼も夜もない情報化社会は、人間の生活の自然のリズムを無視して職業の不夜城を
 作り出す。金銭中心の文化は、人間の文明を亡ぼす。
・生産は、昔は、飢えに対する食物、寒さに対する衣服、家のない人への住宅等を意味し
 ていた。しかしいまは、いっそうぜいたくな、ある意味では不道徳で危険な欲望を作り
 出すものに変化している。
・数多くのなくてもよいような製品がなぜ必要か、欲望をかきたてるためのあくどい宣伝
 や売り込みがなぜ必要か、疑っている経済学者は少なくないが、それに対しては、「よ
 り多くを欲するのが人間性だ」、生産を増やさなければ停滞を招く」、「ロシア人の目
 にものみせてやらねばならぬ」等の反論が出てくる。
・経済学の消費需要の理論は、これまでそれらの問題を次のように説明してきた。
 一、欲望が充足されても、欲望は減退しない。肉体的欲望の次には、心理的欲望があり、
   心理的要望には限りがない。充足という概念は、経済学には存在しない。
 二、欲望は消費者の個性に根ざすのであって、その欲望がどうして生じたかには、経済
   学者はかかわらない。
・いまや生産の量ではなく、生活の質が問われ、平等や、人類の未来や、環境問題や、芸
 術的、知的表現の正直さに対して、沸き立つような関心がもたされるようになった。こ
 れらは、かきたてられる消費ではなく、自主的に決定された欲望への転換をあらわして
 いる。市場経済と公共サービスとのバランスを、国民が合意によって自主的に決定する
 ことなしには、豊かな社会は実現されないからである。
・しかし、私経済と公共経済のバランスは、努力なしには実現されない。自動車が増える
 と、道路や交通整理や警察や駐車場が必要になるにもかかわらず、公共的サービスは常
 に立ち遅れ、道路は混雑し、交通事故が起こり、空気は汚れ、子供たちは外で遊べない
 のでテレビにかじりついている。
・公共サービスに、どれだけの金額を使い、私的消費にどれだけのカネを使うか。それを
 決めるものこそ、自主的に決定された消費欲望である。
・広告と見栄と、あやつられた欲望によって需要が作りだされるような社会では、公共サ
 ービスは常に遅れる。 
・あやつられることのない、自立的な判断を持ち、福祉社会を創りあげるような人間を育
 成するのは、教育である。そして教育の仕事は、公共のなすべき第一の仕事である。
・もし、人びとが、より多くの生産物のためにより多くの欲望を製造するという、はてし
 ない競争から脱却することができたとしたら、それにとってかわる満足感は何だろう。
・幸福な、豊かな社会とは、どんな社会なのだろうか。それは、生産の効率至上主義から
 脱却できたときに、つまりその強制から解放され自由になったときにはじめて、ゆたか
 な社会と呼べるだろう。
・日本の社会は、経済成長の楽しみ以外に、それに代わる社会の幸せや、豊かさの哲学を
 持っていない社会だ。
・賃金が上がり所得が増えても、労働時間が長く、通勤時間が長くなった生活、生活水準
 向上と言えるのか。またテレビや自動車はあるが、老人が静養する部屋もなく、介護者
 もいない生活は、生活水準が高いのだろうか、低いのだろうか。あるいは、貯蓄はあっ
 ても、社会保障がととのわないため、たえず不安を抱いている生活もあるし、貯蓄はな
 いが、社会保障に守られている生活もある。貯金の金額だけで生活を比較することはで
 きない。
・生活の満足感、幸福感は、さまざまな要因によってきめられる。それは、人びとが、ど
 んな生き方を望むかということと密接な関係があるけれども、しかし、けして個別的な
 問題ではない。
・個人の幸福を主観的なもの、として片づけることは、最も簡単な片づけ方であるが、個
 人の幸福は、他人にも共通し、影響しあう共通部分がある。

ゆとりをいけにえにした豊かさ
・「豊かさ」という言葉は、しばしば、「ゆとりがある」という言葉で言いかえられるこ
 とが多い。
・生活は企業とちがって、「胃袋の大きさには限界がある」から、本来の生活に必要な欲
 望は、充足していずれ落ち着き、「カネ儲けやモノをためこむ楽しみ」に代わる自分ら
 しい楽しみに生きがいを感じるようになる。
・人間的で個性的な生き方を実現できれば、横ならびに他人と比較して、いつもキョロキ
 ョロしなければならない切迫感からも解放される。
・しかし、経済価値だけが突出して、より多くのカネとモノを持つことが最大の願望とな
 っているような社会では、個人もまた社会の流れに押し流されてバランスを崩し、充足
 することのない人間になってしまう。いかに自分らしい、よき人生を生きるか、という
 ことよりも、いかに多くの富を持つか、ということに関心が集中してしまう。
・悲しいことに日本では、住宅や環境や老後保障が劣悪なので、生活における物的充足感
 がなかなか得られず、多くの人が財テクに走りやすい社会的背景を背負っている。つま
 り、個人生活が企業と同じようにただ富をためこもうとする利殖欲にひきずられやすく
 なるのである。
・競争社会で限りなく富を蓄積することを人生の目的にすれば、どんなに効率よく仕事を
 仕上げても、また次の仕事が際限なく待っていて、これで終わりということがない。そ
 の結果、自由な自分の時間を、いつまでたっても持つことができない。
・カネをためることには限りがないが、人生の時間は有限である。そればかりではない。
 他人の世界に対しても、ライバルか、損得の対象か、利用する手段と考えるようになり、
 万人は万人の敵となって、たよりになるのはカネだけ、という悪循環に陥る。
・それらのことを知りながらも、競争社会から落ちこぼれたら、住居も持てず、病気をし
 た時みじめな扱いしか受けられず、老後は人間らしい余生も送れない。そんな不安にか
 られて、競争社会で疲れ果ててしまう矛盾と悪循環。そのような中からは、ゆとりも豊
 かさも生まれないのは当然である。
・このように考えると、社会保障と社会資本の充実こそは、豊かさにとって、不可欠のも
 のであることが痛感される。 
・それは人びとに安ど感を与え、平等に向かって道を拓き、限りない競争から人びとを開
 放する。追い立てられる活力でなく、ゆとりを持った創造的活力を発揮することが可能
 になる。
・収入から、税や社会保障料を差し引いたあとの、自由に使えるお金を「可処分所得」と
 いう。しかし、「可処分時間」という言葉はいまのところあまり使われない。自分の人
 生のための可処分時間こそ、ドイツ人の言う「自由時間」であり、自由とは自由時間の
 ことだとすれば、労働時間短縮こそ、人間を自由にし、ゆとりを生み出す動機になるだ
 ろう。現在の日本のように可処分所得を増やすために可処分時間を減らすとしたら、ゆ
 とりも豊かさも生まれない。
 
・月の残業時間が十時間をこえると育児と子どもとの遊びがなくなり、二十時間をこえる
 と趣味や読書がなくなり、五十時間をこえると「夫婦の会話」もなくなり、夫婦の会話
 の次には「テレビをみる」がなくなる。
・家族との団らんや、子どもとの遊びや家事の手伝いは、残業十時間までが限度で、その
 あと家庭生活らしいものは急速に失われていく。また人間らしい個性的な生活時間とし
 ての、読書と趣味のための時間も同様に急速に減少する。
・日本の企業は、家庭の中に、家事も夫の世話も、一手にひきうけてくれる女性がいると、
 を前提にして、社員を働かせているから、すべてをひき受ける専業主婦がいなければ、
 企業戦士の生活はなりたたない。
・日本の企業には、組合が労働法三六協定を結んでしまえば個人は反対であっても残業を
 拒否することはむずかしい、という習慣がある。個人の生活権や思想や良心の自由は、
 企業にまったく認められていない。働いている時間だけでなく、全生活、人生の全目標
 を企業に捧げなければ、勤労者の生殺与奪の権は、会社に握られているのである。
・このような会社人間を当然とする社会の中では、それに過剰反応して、自ら働き蜂中毒
 をじまんする人が出てくる。 
・残業拒否の場合とは逆に、滅私奉公、働きすぎの人は、会社から喜ばれこそすれ咎めら
 れることはない。出世の道は、他人よりも早く出社し、他人よりも遅く退社し、有給休
 暇もとらないことだ、といまだに言われている。
・ウツ状態とか神経症とかになる人たちに働き蜂が多い、ということを、しばしばきくが、
 人間の本性に反した過剰適応は、どっちにしても長続きしない。その結果は、老後生活
 を見れば歴然とする。地域社会や家庭生活から孤立、産業廃棄物同様に自分自身の中に
 人格を豊かにしてきたものがない空虚、自分の人生の目標は企業利潤に奉仕するだけで、
 社会そのもののために本当に役立ってきたかどうか、という悔恨、老年になって妻の方
 から申し立てられる離間。
・人間は弱い存在だから、自分自身を失わないように、しっかりとした価値観を持ち、さ
 らに働く仲間と連帯していないと、抑制心を失い、自己を喪失した者の持つ「不安にせ
 きたてられた能動的ニヒリズム」に陥る。
・人権を主張するよりも、会社人間になることの中に、自分の生きがいを見い出すように
 なる。あるいは自分自身の人生の楽しみがないので、与えられた仕事をこなすことを生
 きがいだと信じようとする。
・仕事の中に我を忘れれば他のことを考えなくてすむし、家族を養うため、といういいわ
 けもできる。 
・日本の社会では、まわりによく思われたいために自己犠牲や自己顕示が、犠牲的精神と
 して評価される。そのため、本当の自分の欲求に直面するのをさけて、働き蜂を誇りに
 思うナルシシズムの人はあとを絶たない。
・それだけでなく、生活を大切にする人を、怠け者呼ばわりするのは、困った風潮である。
・私は人間にとって、労働の持つ重要な意味をけして否定しようとは思わない。しかし、
 現在の労働のように、人間が全体として生きていくことを否定し、人間と人間との連帯
 が、企業営利に奉仕するためだけの連隊になり、家族や地域社会から排除され、自然に
 対立する、このような労働は、商品を生産する、という意味での豊かさにはつながるか
 もしれないが、本当の豊かさとは、およそちがったものである。
・深夜勤や徹夜の労働は、労働時間の短縮という量の問題だけではない。「労働の質の問
 題」である。病院や保安上の深夜勤は、やむを得ないとしても、夜中にしなければなら
 ないわけでもない労働を、資本の効率上、強制して、人間の健康や生活上、大きな問題
 をひき起こしている。そんなにしてまで、利潤や経済効率をあげることが必要なのだろ
 うか。
・夜勤の結果、生理のリズムは乱れ、疲労は大きくなり、健康、家庭、社会生活は破壊さ
 れる。
・夜働いて、昼眠ると、昼眠では深い眠りができず、途中で目がさめたり睡眠の持続時間
 が短いなど、睡眠の質が悪い。その結果、疲労は回復せず、病気に対する抵抗力も弱く
 なる。
・コンピューターの導入は、はじめ、企業側の説明によると、仕事の時間を短縮し余暇を
 増やすはずのものであった。しかし現実は合理化と生産性の向上のために、労働の密度
 は増え、残業も増えている。しかも、人格や情緒にまで影響を与え、すべてに対して、
 速く結論を出し、白黒がはっきりしないと収まらない性格の人間をつくりあげて、家族
 との人間関係にトラブルを生み出しているという。
・因果関係の立証が難しい過労死は、災害補償も受けられないケースがほとんどなのであ
 る。その昔、武士は主君に忠誠をつくして死ねば、子孫のための家禄を保証された。企
 業戦士は、企業からも、また多くの場合、労働組合からさえも見放されて、使い捨てに
 される。
・日本では、昔から、労働を、生活を豊かにするためのものとは考えず、労働者の安全や
 健康をあと回しにして機械化や合理化、効率化を優先にしてきた。多くの犠牲者が出て、
 裁判で争われ、はじめて行政が動き出す、というパターンをくり返してきた。そのこと
 は、戦後になっても少しも変わっていない。
・女も男も、中高年の人も、あたりまえの生活をしながら、健康に働く労働条件がないと
 ころに、どうして豊かな人生と生活がありえようか。

・医用機器がどんどん医療に占める比重をましていくとき、それに比例して看護婦は繁忙
 になり、患者が期待する看護から遠ざかっていく。病む人、苦しむ人に人間的な温かな
 世話、ゆきとどいた配慮、なぐさめ、はげましを与える看護婦像は現実から遠い存在に
 なってきている。
・それだけではない。機器が高度化すればするほど故障や破損にともなう事故も多くなり、
 操作上のミスが重大な結果をひき起こすことになる。看護婦は、記紀に習熟し、点検修
 理もてき、機器の示すデータに注意し、その意味を理解し的確に判断し、機敏にこうど
 うしなければならない。その緊張度は、きわめて高い。
 
・もし労働よりも自由時間の方が長くなれば、人生にとって労働が支配的価値となること
 をやめるだろう。労働は、人間の目的ではなく、生きるための手段になるだろう。
・もし、豊かな人生を生きる、という発想からすれば、「ゆたか」とは、人びととの共存、
 自然との共存をひろげていくような労働を意味する。そう考えると、私たちは、労働時
 間短縮、つまり自由時間の増大だけではなく、労働のありかたを変えていくことなしに
 は、豊かな生活はありえない。つまり、生活の中の労働と、社会的な労働を統一する必
 要にかられる。
・生活とも、地域社会とも切り離され、消費の楽しみしかなく、あるいは営利企業に組織
 されたレジャーの楽しみで、自分自身がふりまわされている。そういう生き方から、そ
 ろそろ私たちは脱却すべきではないのだろうか。

貧しい労働の果実
・日本人が勤勉に働き、生産性を高めても、勤労者の長時間労働は改善されず、住宅はウ
 サギ小屋から鳥カゴになりつつある。
・日本人の貯蓄好きは、戦前から有名であり、現在でも先進国中、最高の貯蓄率である。
 だが、貯蓄の目的は、常に上位の三または四が、
 一、病気・災害の備え
 二、老後の生活・子どもの教育
 三、土地・建物の購入
 となっている。
・これらの貯蓄目的は、もし日本に@社会保障制度が整っており、A教育費がかからず、
 B土地への投機を防ぐ公的政策があれば、そしてそのことによって公営住宅が普及すれ
 ば、消えてしまうものばかりである。
・働き蜂で余暇を持たず、所得は節約して貯蓄に回し、自己責任で人生のすべてに対処す
 る、という基本原理は、明治から今日まで、政財界によって磨きあげられてきた社会思
 潮であるといえよう。
・その貯蓄が、金融機関を通して企業の資金とともに土地の値上りに使われ、勤労者が一
 生働いても住宅が持てなくなったとは、なんという皮肉なことだろうか。
・金あまり現象が、狂乱的に地価をつりあげて、勤労者がまじめに一生働いても、マイホ
 ームを持てなくなってしまったことは、それ自体、人びとの豊かさ感を喪失させるのに
 十分である。またそのことによって、資産格差も大きくひろがった。
・大都市は土地が高いので、働く父親は都心のワンルーム・マンションに住み、週末だけ
 家族のいる郊外に帰宅する、という生活方式を竹下元首相も奨励したが、そんな生活を
 家族の生活とは言えないだろう。
・仕事の中に人間疎外を感じ、さらにマイホームを営めなくなった人びとは、どこにより
 どころを求め、どこに生きがいを求めるというのだろうか。 
 
・もともと、経済大国日本の住宅のお粗末さは、世界の蔑視を浴びている。
・国民の生活基盤の方はそっちのけにして、産業基盤整備を優先し、企業に対して手厚い
 保護助成策をとってきた日本の政府は、続発する公害に対しても、たえず住民を犠牲に
 して産業を守ってきた。
・その同じ体質は、住宅政策にもはっきりとあらわれている。国民の住宅は、「個人の自
 己責任」とされ、人間生活の基本であり、それゆえに基本的人権のひとつであるという
 考えに立った住宅政策を、政府は考えようともしなかった。
・効果の少ない金融措置だけをとり、好ましい公営住宅はごくわずか。地価は高騰するに
 任せ、国民一般への家賃補助政策をとることもなかった。生活保護世帯への家賃補助が
 わずかにあるだけである。
・てんでんばらばらに、自己責任として建てられる住宅は、高い地価のために、狭い土地
 に目いっぱいの建築物となり、最低居住水準にみたない規模の世帯が四百万世帯、アパ
 ートでトイレや台所を共有するのが五百万世帯、危険住宅が百万世帯といわれる。
・災害に対する安全や美観や公衆衛生や公共の福祉への配慮はほとんど見当たらない。こ
 れでは住宅政策というより産業政策として、不動産業や土建業に営利の場を提供してい
 るようなものである。
・安い住宅を求めて画一的、大量生産の高層集合住宅に入居した人びとは、経済事情から
 やむをえず受け身の形で入居しているため、永久のすみかとして地域社会やよい住環境
 を作ろうとする意欲に乏しく、それが住環境をいっそう荒れたものにしている。
・集合住宅では、家賃のほかに、管理費や修繕の積み立て金を納めなければならないが、
 それがけっこう高く、治められない世帯が出てきて、管理組合そのものが破綻している
 例もある。 
・西ドイツ、イギリス、スウェーデンのような家賃政策がないから、高齢者は年金から家
 賃を払わねばならず、払いきれなくなって施設にいくか、もっと低コストのところに移
 ることになる。年をとってからの移住は、適応力もなくなっているので、まわりのなじ
 みの環境からきり離されると、孤立しやすく、まわりからも厄介者扱いされる、という
 悲劇を生む。
・老人にふさわしい住宅がないために、病院から家に帰れないとか、住宅看護するにも、
 住宅が劣悪すぎて不可能だとか、住宅のレベルの低さは、どこまでもついてまわる。老
 人問題の七割は住宅問題だといわれるほどである。
・老人の自殺率の高さが問題になっているが、その理由も、病気になっても寝ているとこ
 ろがない、他の家族の迷惑になる、働いている嫁が介護のために仕事をやめたら住宅ロ
 ーンも払えなくなる、老人ホームの大部屋雑居がいやだ、という住宅にまつわるものが
 多いという。
・スウェーデンでも公的住宅、共同組合住宅が多く、約四割の住宅が、そのどちらかの所
 有になっている。日本のように公営住宅が低所得者向けのみに作られているのとは違い、
 すべての国民が利用できるものになっている。
・低所得の人だけを公営住宅に住まわせると、そこに住む人に対する差別観が生じるので、
 一般住宅を建ててすべての人を平等に住まわせ、必要な人に家賃補助をする政策をとっ
 ているのである。 
・住む場所がないことは貧しい。住んでいる住宅が、最低居住水準さえ満たさないことも、
 職場まで遠いことも、ローンに追われていることも、ゴミゴミした町の中で騒音や車に
 安全をおびやかされていることも、公園や図書館がないことも、災害時の緑地帯がない
 ことも、すべては貧しさの象徴である。
・それらは、政治がそう仕組んだのであり、経済がそう望んだのである。
 
・日本では、大量に多様なモノがあれば、豊かだと思わされているところがある。しかし、
 どうでもいいようなものがあふれて、使い捨ての浪費をしているのに、住居のようにも
 っとも基本的な生活のよりどころになるものがない。それが、人びとの生活から、ゆと
 りと安定感を奪っているのではないだろうか。
・人間にとって教育を受けることは、個人的にも、社会的にも絶対に必要なことだし、生
 身の人間に、病気やケガや老化は、つきものである。すべての人に健康で文化的な生活
 を保障するためには、社会保障制度が不可欠の条件になる。
・とくに、失業や定年退職に伴う所得の中断は、本人がまじめに働いていても起こること
 であるから、本人の責任ではない。それは資本主義社会が、構造的に生み出す欠陥であ
 る以上、社会的に救済されなければならない。それは、ある意味で企業の肩代わりをす
 ることでもある。
・日本のように、強者の手もとに経済価値をためこむことが豊かさだ、と考えている社会
 では、人びとのよりどころとなる共同部分を充実させ、基本的人権を高め、人間らしい
 創造的で生き生きとした生活を保障しよう、という政策は出てこない。
・その反対に、共同部分を削減して私有部分をできるだけ拡大し、経済競争のもとに弱肉
 強食の社会ダーウィニズム(進化論主義)を貫こうとする民活路線が盛んになる。
・そして、国民もまた、哀れな者が権力者にお願いする、という形で、貧しさを訴え、貧
 しい者に同情心をひく、という形で、社会保障を「おめぐみ」として獲得してきたので
 ある。そのような慈善的差別思想にもとづく救貧政策は、人権としての国民の福祉を向
 上させることはない。
・だからこそ、中曽根内閣の第二臨調の行政改革で、厚生省予算が、まっさきに大量に削
 られたときも、世間は、マスコミも含めて、しかたがない、という反応を示し、国民全
 体の権利としてたたかおうとはしなかった。そればかりか、日本的自助の原則によって、
 先進国病に陥ることなく、甘えを捨てて、よく働くようになるだろう、と賛美さえもし
 たのであった。
・この「馬の鼻先ににんじん」の哲学は、一方では利益誘導によって何でも片づく、とい
 う政治と政策を生み出したし、他方では、福祉を充実させるという人間は怠け者になる、
 むしろむせしめに不幸な人間を存在させる方がよい、という反人権、非人間的風潮を支
 配的にしたのである。日本からゆとりと豊かさが失われたのは、このような反人権の哲
 学によるところが大きい。
・管理を強めることによって効率が争われ、効率の悪いものは人間であれ農業であれ切り
 捨てることが当然視された。経済成長を鈍化させるものはすべて敵であり、政治と経済
 の目的は、福祉社会の実現にあるのではなく、強者の手に富を蓄積することにあった。
・活力ある社会、といえば、いかにも、いきいきとした社会、のように聞こえる。しか
 し、経済の活力と、人間の活力とは、けして同じことを意味しない。
・人間の活力とは、経済の活力を含みながらも、もっと深く、経済の活力を支える源泉と
 しての人間の創造力を意味しているからである。
・ナチス国家のように、弱い者や精神障碍者のような厄介なものは切り捨てて淘汰しよう
 とした社会は、効率を求めて逆に亡び、それぞれの生活を保障し多様な個性を認める民
 主主義の国は、その多様性のゆえに豊かな社会を作ってきた。
・日本の保守党の政策は、集中豪雨的な輸出による経済成長と、そのみかえりにしての軍
 備の拡大、農業の淘汰を、しゃむに推進し、生活の土台を支える社会保障への財政支出
 を次々に削減していった。
・年金制度、児童手当、児童扶養手当が改訂され、国の財政負担が軽くなるぶんだけ国民
 の家計負担は重くなる、という状況が今日まで続いている。
・国民生活を第一に、と考える政府と、まっさきに国民生活を捨てる、という政府がある
 とすれば、後者の下にいる国民は、いよいよ自己防衛的にならざるをえないだろう。
・生活のよりどころを失った国民は、人生が長くなったぶんだけ、不安を増し、けして豊
 かな気持ちにはなれないだろう  
・日本より国民所得が低く、しかもはるかに老人人口の比率が高いスウェーデンや西ドイ
 ツで、なぜ、あれほどの老人福祉がいきわたっているのか、日本の厚生省や政府の説明
 では、理解できない。
・特養老人ホームの個室化が、いまなお日本はぜいたくと思われていることについて、学
 生も個室の下宿、官僚も個室のホテルに泊まる時代に、なぜ日本の老人だけが個室を許
 されないのか。七十〜八十年も自分の人生を生きぬいて、個性を身につけている老人が、
 雑居部屋で二十四時間、顔をつきあわせていてトラブルが起こらぬはずがない。
・ベッドをカーテンで仕切っても臭いも音もつつぬけの排泄の時のプライバシーの剥奪が、
 恥辱感から老人をボケに追い込むとも言われている。 
・日本では住宅や教育費も高く、生活の不安にも備えなければならないから、税金が高い
 といわれるスウェーデンより日本の方が生活水準としては、はるかに貧しくなっている。
・「寝たきり老人はいない。寝かせきりの老人がいるだけだ」。三日も寝たきりにすると、
 老人は、関節が固まってしまい、筋肉が弱くなり、すぐに歩けなくなるという。
・金持ちには豪華な民営の老人ホームがあるから安心と思っている人がいるかもしれない
 が、数千万円の入居金を払い、しかも毎日の食費その他はまた別の支払い、途中で退所
 すれば、入居金のわずか一部しか返してもらえず、常駐のはずの医者はいつまでも未定
 で、最悪の場合、倒産した例もあるなど、商品化された福祉に老人の不安のたねはつき
 ない。金で福祉の質は買えない。自立自助の土台を国が支えない限り、人権は金銭では
 解決できないのである。
 
・生活保護は、基本的人権としての生存権が具体的にどのように保障されているかを示す
 もので、国民にとっては、最後のよりどころとなる最低生活保障である。
・ところが、生存権の最後のよりどころである生活保護にも「適正化」、つまり受給制限
 のしめつけが強くなり、生活保護申請者をどうやって水際で、排除するか、ということ
 が福祉事務所の担当の係員の主たる仕事になってきたという。
・いま、福祉の現業に従事する地方公務員は、困窮している住民と、しめつける国との板
 ばさみに合って、挫折感、無力感の中で消耗し、職をかわりたい、と答える人が、八割
 にも及んでいるという。
・福祉事務職員の本来の仕事は、保護を受けたい人や受けている人の相談に乗り、自立で
 きるよう援助し、病人や孤独な人が社会人として人間らしい生活を送ることができるよ
 うに援けることなのである。・すべての国民は困窮に陥ったとき、その原因のいかんを
 問わず、無差別平等に、国家の責任において、健康で文化的な生活ができるよう、生活
 保護を受けることができる、と生活保護法は定めている。
・しかし、現実は、厚生省のきびしいしめつけと監査があるため、生活保護の相談に来る
 住民に、違法といえるほど多くの提出資料を求めたり、身辺の調査をしている。本人に
 挙証責任があるわけではないのに、証明する資料が揃うまで申請書さえ渡さない。
・多くの現場の話しからわかることは、困っている人たちで、福祉にすがろうと思ってい
 る人は、ほとんどといってよいほどいないことである。体も弱く、生活に困窮していな
 がら、生活保護を受けず借金して医療費も払っている人とか、福祉事務所や行政からの
 恥辱に人間としてたえられず、死んでも自分の尊厳を守ろうという人が、むしろ多
 い。
・国の豊かさ、財界の豊かさは、一人ひとりの豊かさを保障する豊かさではない。社会保
 障や住宅問題の貧しさを通して知ることができるのは、人間にとって最も大切な生活の
 土台が保障されていないことである。そのために生活はくずれやすく、もろくなってい
 る。保障がないために貧富の格差が緩和されず、貧しいものは自己責任として社会から
 おちこぼれ蔑視される。それを見ている人びとは、おちこぼれないために必死に働き、
 貯める。これでは、ゆとりも心の安らぎも得られない。
・その国の豊かさは、最も困窮している人に対してどのような処遇をしているか、によっ
 て証明される。
・強者には政治はいらない。弱者のために政治は必要なのである。 

豊かさとは何か
・日本は経済大国であるという。しかし、豊かな国ではない。
・経済力が国民の生活の豊かさに結びつかないだけでなく、金あまり現象が地価をつりあ
 げ、かえって住宅水準を低下させている。
・格差や不公平が拡大しているだけでなく、基本的人権さえ守られていない。
・金融、証券業界は繁栄し、不動産や土建業界も大いにうるおっているのに、そこで働く
 勤労者は、長い労働時間に疲れきっている。
・労働の果実は小さく、老後のケアは貧しい。
・いったい、なぜ、経済大国なのに私たちは豊かではないのだろうか。他の先進国にでき
 るいることが、なぜ、日本ではできないのだろうか。
・豊かな社会を作り出すために、まず社会的に必要なことは、社会保障、社会資本を充実
 させることであり、それとともに、公共の福祉を守る方法、制度を確実なものにするこ
 とである。
・イギリスをはじめヨーロッパの先進国は、住宅を基本的人権のひとつと考えて、住宅基
 本法を定めている。
・経済価値に役立つ人間だけでなく、社会の豊かさにかかわる人びとの、待遇の改善が必
 要である。老人福祉や、看護や、障碍者へのケアに従事する人の給与は、商社マンにく
 らべれば、雲泥の差がある。
・これまでモノとカネは、経済価値をさらに増やすためにのみ使われてきた。モノとカネ
 を福祉のために使う習慣が、日本には根づいていない。
・日本人にとって人と人とのかかわりは、多くの場合、商品やカネのやりとりでしかない。
 人間全体が、モノとカネ、経済の中にのみこまれてしまっているのである。
・人間の復権をもたらそうとするなら、共同体的な場を、私たちは意識的に構築していか
 なければならない。人間の自由は、孤立からではなく、連帯する生活基盤があって、は
 じめて可能だからである。 
・公共とは、お上ではない。一人ひとりが、自主的に、共同体的な土台に対して、意見や
 行動を投げかけて、たえずそれを「われわれのもの」として改善していくと同時に、そ
 の土台がわれわれ一人ひとりを支え自由にする、という意味で、公共のものは共有の財
 産なのである。それは、支配服従の関係でもなく、ある価値観の押しつけでもない。
・企業の歯車のひとつになりきって、全人生を会社に捧げたり、家に帰りついたら、寝る
 だけでは、自分自身の全体としての人生はない。カネというひとつの価値だけに支配さ
 れることも豊かではない。
・もともと、生きる、とは生命力の全体的な発揮であり、偏った部分的な人生は豊かな人
 生とはいえないのである。 
・人間というものは、まだ知られていない多くのものを持っている未知の存在で、ただモ
 ノとカネがあれば幸せだ、ときめつけられるほど単純なものではない、ということであ
 る。つまり、豊かな社会の実現は、モノの方から決められるものではなく、人間の方か
 ら決められなければならないということである。
・これまでの多くの労働組合が、いわゆるモノ・カネの目にみえる物質的な要求だけに重
 点を置き、労働のよろこびが感じられる職場、人間性の尊重、共存の原則というものに
 熱意を示してこなかったのは、労働組合が、そのまま資本の論理にからめとられ、その
 おこぼれをかすめ取ることに満足してきたからだとしか考えられない。つまりそのよう
 な一面的な労働運動は、豊かさの実現からははるかに遠く、豊かさをむしろ歪めてきた
 からかもしれないのである。
・本当の豊かさを実現するためには、まずそれぞれが、自分自身の豊かな人生の実現とは、
 どんな生き方なのかを、理論的にだけでなく身体的にも知らなければならない。
・個性や自由の名の下に、結局、画一的モノサシで競争の勝ち負けがきめられ、結局は強
 者の支配の下に画一化されて服従してしまうことは、豊かで創造的な自由とはちがって
 いる。
・労働を自分で感得できるものにするために、全体を見通せる小規模なものにすること。
・技術は、失敗が許されるゆとりのある技術を使うこと。
・原発のようなギリギリの技術を使うことは、自然や人間にとって危険であるばかりでな
 く労働そのものを非人間的にする。
・労働と生活の境い目をなくし、人間の活動として統一したものにすること。

あとがき
・好況の中で、日本の経済力に酔う人も確かにいるが、他方では、巨大な経済力の舵取り
 を誤って、日本が自己崩壊を起こす危険性を予感する人もいる。
・日本の貧しさの象徴である労働時間の長さや、住宅をはじめとする社会資本の貧しさ、
 削減される社会保障、自然環境の破壊、ひとびとの意識の画一化、偏差値教育などから、
 それらを発生させる社会の根に降りていきたいと考えた。
・豊かさに対する考えは、時代により、個人により異なっているが、しかし、その基底に
 は、ある共通のものがある。それは基本的人権や福祉社会に、ある共通した普遍性があ
 るのと、非情に似ている。