創価学会解剖 :朝日新聞アエラ編集部 |
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この本は、今から24年前の2000年に刊行されたものだ。 日本には数多くの新興宗教団体が存在するが、その中で代表的な新興宗教団体といえば、 やはり「創価学会」だろう。 創価学会は他の新興宗教団体に比べ比較的歴史もあり、一般の人にとっても知名度の高い 新興宗教団体と言える。しかしそれでもベールに包まれている部分が多く、一般の人にと ってはちょっと近寄りがたい存在であると言えるのではなかろうか。 特に近年、「旧統一教会」問題が明るみ出て政治問題化していることを考えると、創価学 会は大丈夫なのか?と考えでしまうのも無理からぬことと言えるのではないか。 この本は、かなり古いものではあるが、創価学会と言えば「池田会長」ぐらいしか知らな い私にとって、創価学会を知る上で手頃な内容と思えた。 私がこの本で知りたかったのは次の四点だった。 @創価学会の御本尊は何か A創価学会の収入源は何か B創価学会と公明党はどんな関係にあるのか C創価学会の葬祭の実態 この本を読んで、以上の四点については、ほぼ理解できたのであるが、懸念も残った。 一つはAの収入源だ。 私の住む宮城県内には、この本の中にも出てくる「東北池田記念墓地公園」や「創価学会 東北文化会館」などの施設があるが、どれも威容を誇るりっぱな施設だ。 このような施設は、相当の資金を要したはずと思うのだが、同じような施設は全国に点在 しているようで、その資金力には目を見張るものがある。 しかし、その資金力に無理なところがないのだろうかと心配になる。 特に、旧統一教会問題が明らかになってからは、ますます危惧の念を抱くようになった。 もう一つは、Bの公明党との関係についてだ。 公明党の支持母体は創価学会である。そして、公明党は現在、自由民主党との連立政権を 構成している。 ところがその自由民主党員のなかに、旧統一教会と密接な関係を長年にわたって持ち続け ていた者が少なからずいたことが明らかになった。 公明党がそのような党と連立を組んでいることを、支持母体である創価学会として、はた して認めていいのだろうか。もし、認めるならば、創価学会も旧統一教会と同じ穴のむじ なと見なされても仕方がないだろうと私には思えた。 過去に読んだ関連する本: ・オウム真理教事件とは何だったのか? ・ほんとうの宗教とは何か ・なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか |
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まえがき ・創価学会は公称812万世帯の会員を有する日本最大の教団です。 1999年、自民、自由、公明三党による連立政権が誕生しました。 公明党が自民党に協力して与党入りするのは初めてです。 その公明党を強力に支えているのが支持母体の創価学会です。 ・創価学会には、政治権力から弾圧された歴史があります。 教育者だった「牧口常三郎」初代会長が1930年(昭和5年)に創始した「創価教育 学会」は「仏法による民衆救済」を追求しました。 その根底に流れていた絶対平和の思想は当時の政治権力と相容れず、彼とその直弟子で ある「戸田城聖」第二代会長は戦時中の1943年、「治安維持法」違反で逮捕され、 牧口氏が獄死するという受難の道をたどってきたのです。 ・戦後、戸田氏のもとで再建され、1946年に創価学会と改称、反戦の混乱が一段落し、 都市化の波が押し寄せると、地方から東京や大阪に出てきた青年らを中心に飛躍的な発 展を遂げます。 ・しかし、急激な勢力拡大が既存の宗教団体に警戒心を与え、他宗教を排斥する非寛容な 態度は学会員以外の人々の反発を呼びます。 ・1960年に池田大作氏が第三代会長になると、創価学会の政治志向が強まります。 1964年に結党された公明党は、67年に衆院に進出し、69年まで順調に議席を延 ばしました。 ・が、この年に明るみに出た、いわゆる「言論出版妨害事件」が、学会と公明党との関係 ではひとつの節目とまりました。 政治評論家の「藤原弘達」氏の著書「創価学会を斬る」に対して、学会・公明党が出版 を妨害し、取次店などに圧力をかえた事件です。 当時の自民党幹事長「田中角栄」氏も学会の意向をくんで出版中止を働きかけました。 ・この「言論弾圧」について、池田氏は19670年5月に「二度と同じことを繰り返さ ぬよう猛省する」と表明、創価学会と公明党との役職の兼務をなくす「政教分離」を宣 言し、形の上では、公明党は学会から独立しました。 ・一方で、本来は「日蓮正宗」の教義を信奉する在家信徒の団体である創価学会は、信徒 の増加や資金力の増大とともに、独自に墓園を経営するなど寺院や僧侶から独立を志向 するようになり、日蓮正宗総本山大石寺(宗門)との間で摩擦を起こすようになります。 1991年11月には、宗門が学会を破門、両者の緊張関係はその後も長く続いていま す。 ・また、1980年代以降、学会内部では造反事件が相次ぎました。 顧問弁護士として学会の裏工作にかかわっていた「山崎正友」氏をはじめ、最高幹部だ った「石田次男」氏、都議会の有力者だった「藤原行正」氏らは学会から放逐され、激 しく学会を批判するようになりました。 ・こうした造反劇には、創価学会内部の権力闘争の側面もあり、1979年に名誉会長に なった池田氏が学会内で絶対権力を確立していく過程と重なっているともいえます。 ・言論問題も宗教問題も造反劇も、組織の肥大化にともない、創価学会の立場が非権力の 側にいた戦前とは大きく変わってきたことを物語ります。 ・この間、戦後長期間にわたり政治権力を「一党支配」していた自民党と公明党との関係 も一様ではありませんでした。 自民党にとっては、「無視しておけばいい対象」から「アメとムチを使い分ける相手」 へ、ついには「連携する存在」にと変わっていったのです。 ・1993年の自民党野党転落の後、「細川護熙」連立政権での公明党の初めての政権参 加に道を開いたのは、田中ー竹下派の流れを汲む小沢一郎自由党党首でした。 1999年秋の自民党との連立政権も同じ流れにいる「小渕恵三」首相ならばこそ可能 だったといえるかもしれません。 池田大作 ・1995年12月、東京・千駄ヶ谷の創価国際友好会館で、創価学会の本部幹部会と東 京総会が開かれた。会館には、千人以上の学会員が詰めかけた。 池田大作名誉会長(67)のかん高い声がつんざいた。 「じんせいの真実の勝負は長い目でみないとわからない。正義は必ず勝つ!」 爆竹の音を数十倍にもしたような拍手が起こった。 ・五日前、宗教法人法改正を臨時国会に参考人として呼ばれた「秋谷栄之助」会長(65) は、学会活動と選挙との関係を資す議員たちの質問を、 「宗教活動が全体の90パーセント以上だ。選挙の支援活動は限られた一部で、費用は 会員がボランティアとして負担している」 とかわした。 そのうえで、秋谷は、自分が学会運営の一切の責任を持っており、池田名誉会長は信仰 上の指導者だと説明していた。 ・その秋谷も、 「池田先生を招致するという、世界の平和の潮流に逆行し、日本を孤立化させる所業に なりかねない政治の暴挙には、『一切応じる必要はない』と声を大にして叫ぶ」 と力説した。 ・秋谷の発言のとおり、この臨時国会では池田の国会への参考人招致が実現寸前の段階ま でいき、「秋谷招致」で回避されたいきさつがある。 学会の内部には、新進党への底知れぬ不信感が漂っていた。 「本当に新進党に任せて大丈夫か?」 幹部さえそんな言葉を口にしていた。 まして池田の心中は、穏やかならざるものがあったに違いない。 ・自民党は年明けの通常国会で本気で池田喚問に取り組み構えを見せていた。 まだに池田にとっては待ったなしの段階を迎えていた。 ・秋谷の国会での答弁ぶりについて学会内の大半は、「よくやった」という評価だった。 中堅の学会員に聞くと、「堂々として立派なものだったと評判がいいですよ」との返事 がかえってきた。 ・しかし、別の見方もあった。 あるベテラン学会員は次のように説明する。 当日は、秋谷が自民党を論破してくれることを信じて、「午前六時から十時間お祈りし よう」という指令が、本部から地方の末端までおろされていた。 そのお祈りの途中で、気になってテレビをつけた彼の知人は、ペーパーを読みあげてい る秋谷の姿を見て愕然としたという。 「本部職員の書いた原稿を、官僚みたいに読み上げているだけ。もっと自信も持って主 張して欲しかった。あれではますます(自民党)に突っ込まれ、『秋谷会長の説明では よくわからないので池田名誉会長どうぞ』となるのは目に見えている」 という失望の声が上がったというのだ。 ・学会関係者によると、約250人いる創価学会の副会長の中で、最も便が立つのは西口 浩広報室長(48)だというが、先に秋谷が出た以上は、西口の出番はまずない。 ・「秋谷カード」を切った今、創価学会に池田を国会喚問から守る手立てはあるのか。 学会本部中枢には危機感が募った。 ・三十代の学会幹部は、 「名誉会長が喚問されるのは、自分らが裸にされてさらし者にされるも同然だ」 と語った。 ・池田が命名した人間が少なくとも50万人以上にのぼるという。 池田がこの世からいなくなっても、そうした人々と池田との絆はずっと続くのだ。 ・今の池田体制を盤石なものにしている要因のひとつに、池田の天才的な人事操作術があ る。例えば、こうだ。 ある人間を重要なポストに就かせ、そしてある時、急に閑職に落とす。 落とされた人間が次にどういう行動を取るのかしっかり池田は査定する。 こいつは自分を裏切る人間なのか、違うのか。 その手法に反発して池田のもとを離れた人間も少なくない。 ・また、空手形もよく切る。 「次は委員長だ」 「次は副会長だ」 そう言われて張り切って牛馬のように働く者、浮足立つ者、突然高慢になる者・・・。 ポストをぶらさげられて、池田の眼前で様々な人間模様が展開される。 ・中堅学会員は、 「名誉会長は人間の命の底まで見る」 という表現を使って池田人事の本質を語ってくれた。 ・世代交代の波は創価学会に押し寄せてくる。 元学会員はこう語る。 「池田さんが一番恐れているのは自分の存命中も、亡くなってからも、『池田の考えは 間違っていた』と批判されることだ」 だからこそ、池田は自分の絶対化に躍起になっているのだ、と付け加えた。 ・1996年1月、創価学会の新春本部幹部会が、東京の牧口記念会館で開かれた。 池田は、「これからは数学に力を入れる。女性が数学に力を入れれば、男性も自然につ いてくる」といった内容のスピーチをして、女性を持ち上げた。 ・婦人部の力があったからこそ学会がここまでの組織になった、という思いが強いのだろ う。 婦人の一日に占める学会活動は、昼間に会社や仕事がある男性とは比較にならず、布教 活動だけでなく選挙でも重要な戦力になっているからだ。 「婦人部が一番、働いているのだから、婦人部を中心に考え、実行するのが当然である」 と池田自身が語っている。 ・ある中堅学会員は、 「婦人部は名誉会長の貴重な情報源」 とも言う。 池田の口添えで、結婚した学会幹部は少なくない。 幹部夫人らの集まりである「伸峯会」に所属している婦人も多い。 そうした婦人が出席する会合には池田も顔を出すようにしている。 婦人一人ひとりとのコミュニケーションを大切にしようという理由からだ。 ・何でも筒抜けになってしまう。池田の目の届かない幹部の動きも妻の口からきちんと伝 わるという仕組みだ。 幹部はゾッとする。池田が、知らないはずのことを知っているということに震撼するそ うだ。 ・学会幹部は、 「夫婦間でも本音はしゃべれない。家庭で組織の話?とんでもない!」 ・池田は、婦人会員にとって人生の師であり、父であり、夫をすら超えた存在なのだ。 学会はある意味で、今の日本では見かけなくなった家父長制度をそっくり残している組 織とは言えまいか。 ・元婦人部幹部は池田が婦人部を大切にする理由として、 「自分の思いのまま忠実に動く戦力だからだ」 と語った。 ・もっとも、女性会員すべてが「池田絶対信仰」かというと、そうとも言えない。 池田の虎の威を借りた幹部の権威主義に嫌気がさして、脱会した例は少なくないし、 内部にもうさん臭く感じている会員はいる。 ・東京との元婦人幹部は、 「(池田)先生、先生のためにって言うな。先生を尊敬はするが絶対ではない。大事に しなければいけなのはご本尊様だ」 と抵抗したが結局、要注意人物のレッテルを貼られて脱会せざるを得なかった。 ・婦人部は男性よりも濃密な人間関係の上に築かれている。 近所づきあいでもお節介と思われるほど、マメに顔を出す。 小さなことまで自分のことのように心配する。 人間関係が希薄になってきた都市部では貴重な存在だ。 ・婦人部のメンバーに、筆者は呼びかけたい。 ひとつは普通の主婦感覚を大切にしてほしいということ。 もうひとつは脱会者に対して割くエネルギーを別のところに使ってほしいということだ。 ・元婦人部会員のほとんどが、無言電話、尾行、さまざまな嫌がらせを受けたと聞く。 ある学会幹部は、 「そういう例はごく一部。人間関係がたまたま悪かったところで起きただけ」 と語っているが、受けた本人にとってみれば大迷惑だ。 さまざまな理由はあるだろうが、やめていく人たちは放っておけばいい。 勧誘面では、学会の対応はかなりソフトになってきた。 ならば、脱会者に対しても、 「何か悩みがあったらいつでも相談しれね。うちはいつでも門戸を開けて待っているか ら」 ぐらいに懐の深さを持ってもいいのではないか。 ・日蓮正宗あり信徒団体のメンバーは自ら元創価学会員だったことを告白し、 「選挙活動に創価学会員を駆り立てる原動力は一体何か。『池田大作先生のために』の 一言に尽きる。それに『ご利益がある』という利己的な動機もある。私もそう確信して きた」 と語った。 ・学会の選挙にかける凄まじさにあらためて驚かされた。 それにしても、選挙活動とご利益はどう結びつくのだろうか。 ・学会員や元会員によると、この「ご利益」は学会を貫くひとつの生命線にもなっている という。 ・創価学会の母体となる創価教育学会は、1930年、当時東京・白金小学校の校長だっ た「牧口常三郎」によって創設された。 牧口は著作「創価教育学体系」の中で価値の対象は「利善美」と規定する「価値論」を 展開。 人生の目的は幸福になること、そのためには日蓮正宗を源泉にして生活しなければなら ない、という考え方に到達した。 ・第二代会長の「戸田城聖」は破天荒な人だったようだ。 1963年に創価学会に入信した作家の「志茂田景樹」に、「折伏鬼」という作品があ る。その登場人物、多田皓聖のモデルが戸田だ。 この作品には、戸田の人柄を彷彿させる表現が随所に見受けられる。 (志茂田さんは「自然に学会から足が遠のき、現在は学会員ではない」) ・牧口と同じ罪で逮捕された故稲葉伊之助の息子の荘は、戸田が芸者遊びをしたり、愛人 も二、三人いたというのを耳にしたから、 「人に法を説く者は身を潔白にしていないとだめだ」 と戸田に注意したことがある。 すると翌朝、戸田は家に怒鳴り込んできて、 「二号だろうが三号だろうが、二人とも幸せにすれば文句ないだろう」 と言ったという。 ・それでも、戸田には小さなことは気にしない懐の深さがあり、そのために、戸田を愛す る人も多かった。 ・稲葉荘は、「学会は僧侶を軽視している」として脱会するが、脱会後も戸田との交流は 続いた。 そのころの体験として、稲葉は、 「牧口氏は罰を前面に、戸田氏は功徳を前面に出しながらそれぞれ日蓮正宗を説いてい った」 と指摘する。 ・そして、1960年、第三代会長の座に池田が座った。元学会幹部はこう言う。 「今の学会には、牧口門下生、戸田門下生の時代の流れはないですね。古参は閑職に就 いてしまって・・・。池田学会は宗教団体ではない。完全に日蓮正宗から離れた池田教 ではないのか」 ・稲葉は、 「池田君はこの時代に戸田先生直伝の人身掌握術をはじめ、アメとムチを使い分け、 金をめぐる人間の裏表の見方をみっちりたたき込んだのではないか」 と語る。 元本部職員によると、どんな小さなことでも忘れず約束を守る、激励のこと菜などを添 えて贈物をするなど、自分にとって無害な一般会員への心配りは憎いほどキメが細かい。 ・一方で、自分の意に沿わない人物に対しては、例えば、各都道府県のトップクラスが集 まる県長会でギリギリ締め上げる。 自分の後輩がたくさん出席している目の前で「宗教貴族めっ」などと罵倒されるからた まらない。 中には卒倒する幹部もいるほど厳しい攻めに、その場に居合わせた幹部は心底震え上が ったそうだ。 ・池田は日蓮正宗の功徳を受けられる対象の範囲を微妙に選挙、財務、と広げていったと いう。 だから、いつのまにか選挙を一生懸命やるものも功徳、ご利益となってしまったと元本 部職員は解説する。 ・池田は1957年、渉外部長兼参謀室長時代に大阪での選挙違反容疑で逮捕され(のち に無罪が確定)、二週間の「獄中生活」を送っている。 ・内と外で評価がまるっきり変わるのが池田学会の特長だ。 なるほど、戸田亡き後の、幾多の権力闘争を経て今なおトップに君臨する池田を見ると、 外部の者ならずとも知略に秀でた権力者と映るのも不思議ではない。 ・牧口、戸田は日蓮正宗総本山とのつながりを守っていたのに対し、宗門との決別は池田 学会の「創価」のひとつの結果と言えよう。 ・1996年3月中旬のことだ。開港して二年目となる関西空港のVIPルームに、池田 名誉会長は1時間以上も缶詰め状態となった。 監禁されたわけではない。 池田が香港大学の名誉博士号授与式に出席するため香港を訪れた後、関西入りするとい う情報が、関西の創価が合い幹部に伝えられた。 その情報を数社の報道陣がキャッチ、池田を撮ろうと空港で待ち構えていた。 それを今度は学会側が事前に察知して、VIPルームへの緊急避難となったわけだ。 ・結局、報道陣は一時間経っても、池田の姿を確認することはできなかった。 報道陣が空港から引き揚げた後、池田は、フラッシュの放列にさらされずに悠然と関西 入りを果たした。 ・学会の最高指導者である池田の行動日程が外部に漏れることは、警備上、問題がある。 1996年1月に開かれた松本サリン事件公判の冒頭陳述では、オウム真理教が池田の 暗殺を企み、東京の牧口記念館周辺でサリンを散布した事実が明らかになった。 ・創価学会では、池田が非公式にカメラやマイクを向けられることに、極端に神経を尖ら せる。 それは、警備のためばかりではない。 池田がぶっつけ本番で何かをしゃべることなどあってはならないのだ。 ・五十代の学会関係者はこう解説する。 「簡単にテレビに登場することは池田神話の崩壊につながる。池田さんのカリスマ性は 表に出ないからこそ増幅される。以前にテレビカメラを向けられた時の慌てぶりといっ たらなかった。それこそ、国会の証人喚問なんてとんでもない。師たる人が答えに窮す るところを見せ、会員を失望させてはいけないのです」 ・情報の大切さ、怖さを学会でいちばんよく知っているのは池田だ。 だからこそ、情報の速度、確度には人一倍気を使う。 ・池田のそばでかつて仕えていた学会幹部によると、池田のもとには分刻み、秒刻みで情 報や報告が入ってくる。 池田は、そのすべてに目を通すという。 どれが大切な情報か、他の人間に任せてもいいものなのか、瞬時に見分け、処理してい く。国内各界の情報はもちろん、世界情勢、一般会員からの手紙・・・。 こういった情報や報告に対して処理を執行部に一任するか、さらに詳しい情報を要求す るか、報告書に赤鉛筆で書き込みながら指示を出す。一般会員に対して、返事を書く、 和歌を贈る、贈物を手配する・・・。 ・一日何百という案件を池田の指示のもとでこなしていくわけだから、池田直属の部署で ある第一庶務の職員は、ただ事務能力が優れているだけではだめらしい。 池田が次にどう判断するかを予想しながら行動しないととてもついていけない。 ・池田が移動するところが本部になる。 池田が北海道に行けば、本部機能はすべて北海道に移る。 膨大な情報の出入りも池田がどこにいようと、まったく同じだ。 ・対外的な情報管理で言えば、マスコミ対策が主になる。 ・対内的には、どういう情報の流れになっているのだろうか。 内部の情報管理は外部よりももっと複雑を極めている。 その道具に「統監」というものがある。 会員の現住所や本籍、聖教新聞の購読から入信前の宗教まで個人データを書き込んだカ ード。学会版戸籍謄本と思えばいい。 ・会員がどこかに引っ越す場合には、引っ越し先の責任者にそのカードが送られる。 カードに浸かられた付箋には、信心のランクから座談会に出席しているかどうか、家族 の理解などの欄があり、世泰緬でもある程度どういう人物か把握できるようになってい る。 ・ある会員が手紙で「問題だ」と指摘してきたのは、その付箋にある「状況」欄に書かれ ている内容だった。そこには人権にかかわるようなことも書かれている、というのだ。 しかも、書かれている本人は全く知らない。 例えば、「共産党寄りだ」「宗門寄りだ」「選挙に不熱心」「組織に反抗的」などとい った寸評が書き加えられている。さらに紙を付け足して、その会員の性格から行動まで 克明に書いてある場合もあるという。 信濃町 ・東京のJR信濃町駅前には、学会本部や聖教新聞社をはじめ、創価学会の各種の施設が 立ち並ぶ。 学会員が「信濃町」というとき、公称812万世帯の学会員を率いる、職業幹部を意味 する。 ・学会の施設の周辺には赤や青のブレザーを着た若者たちが立つ。 彼らは「牙城班」「創価班」と呼ばれる一般学会員。 藤色の制服を着る女性たちの「白蓮グループ」ともども、各地から集まり、無償で「任 務」に就く。 ・そうした警備や案内役に守られた幹部の職場に、一般学会員はめったに入らない。 ・創価学会の組織上の肩書は、専従職員の身分とは別だ。 「専従職員がみな、組織の主要幹部ではないし、他の職業を持つ人間が多い」 学会側はそう説明する。 もっとも、宗教法人としての創価学会の専従職員は三千人近い。彼らが県長レベル以上 の幹部の多くを占めることも事実だ。 ・在京職員は千三百人。地方の会館など出先に千七百人。 彼らは、宗教法人の事務局である組織本部や事務総局、役員室、機関紙の聖教新聞社、 公益辞表の墓苑事務局、という職場のサラリーマンとして給与をとる。 そのうえで、アフターファイブや休日には、組織幹部として地域で無給で一般学会員の 指導にあたる。 ・宗教法人の意思決定機関で、予算や決算、土地の取得、建築工事の発注などを決めるの は「責任役員会」。「森田一哉」理事長を中心に、創価学会全体の意思決定機関である 「中央会議」に合わせて月二回のペースで開く。 ・事務局の大半は、七階建ての創価文化会館の一、二階と、棟続きで五階建ての旧本部の 一、二階に集まっている。 ・事務総局は経理、管理、購買、建設、研修などの各局からなる。 池田名誉会長の秘書役を担う第一庶務室もここにある。 ・組織本部の職員は、地域や職業、年代別のそれぞれの組織の事務方だが、組織のトップ を兼ねるケースが多い。例えば、公称四百万人余りの青年部の頂点に立つ全国青年部長 は、組織本部の青年局のエリート職員でもある。 ・もうひとつ、本部が優位に立つのが、地方との関係だ。 東日本のある県は、公称四万世帯。県庁所在地の会館に、男性十人前後、女性三、四人 が勤める。 仕事は朝九時から夕方五時まで、その後は会合に出たり、学会員を訪ねて組織の指導を する。 ・元女性職員の一人は会館に貼ってあった職員五訓を覚えていた。 「敵を知れ」「二十四時間オルガナイザーたれ」「外交戦で勝て」・・・。 退職後に学会をやめた彼女は、顔なじみの学会員に三年余りにわたって尾行や張り込み をされた。町で出くわした元の上司や同僚は、口も利かずに立ち去った。 ・1970年が、創価学会にとって大きな転機になった。 前年暮れの総選挙で公明党はそれまでの25議席から47議席へと大きく伸びた。 一方で、言論出版妨害事件から政教分離を宣言し、公明党議員は順次、兼務にする学会 の役職を退いた。 ・1970年、学会統計局は、加入世帯数が750万世帯になったと発表する。 この数字は26年後の1996年で812万世帯だから、勢力拡大は、ほぼこの頃から 頭打ちの時期に入ってきたと言える。 ・「デタラメならば、名誉棄損で訴えばいいんだが、そうすると、池田名誉会長が法廷に 出なくちゃならないし、痛しかゆしだ」 と、ある学会員は、手元の「週刊新潮」を見やった。 そこには、創価学会の池田名誉会長に暴行を受けたとする、元婦人部幹部「信平信子」 の談話が載っていた。 「週刊新潮」は、1996年の2月から四週続けて、この「暴行事件」の関連記事や、 池田の女性関係についての記事を載せている。 ・学会にとって、池田の私生活にかかわる醜聞報道は、いわばアキレス腱なのだ。 反論しても、それについての報道がされること自体がマイナス、というジレンマがある。 ・1976年に学会は、池田の女性関係を掲載した雑誌「月刊ペン」の「隈部大蔵」編集 局長を相手に、名誉毀損されたと訴訟を起こしたが、逆に窮地に陥ってしまった。 一、二審は有罪判決だったが、1981年、最高裁は原判決を破棄し、審理のやり直し を命じた。 池田のように社会的影響力が大きい私人の場合、名誉棄損の適用範囲が狭まるという判 断で、「人権」より「表現の自由」に思起きを置いた判決だった。 ・差し戻し審では記事の「真否」が大きな争点になり、池田も証人として出廷、新聞や週 刊誌にその模様が伝えられた。 1983年、隈部に言い渡された判決は「有罪」だったが、罰金20万円という軽い刑 であり、学会は大きなダメージを受けた。 ・数あるメディアの中でも、学会は雑誌、特に週刊誌が苦手だ。 学会広報室によれば、「取材と言っても、記事の骨組みができた後で、コメントを求め てくる程度」 で、記者と接触する機会もわずかという。 このため、反撃の機会を上手く見いだせないでいる。 対照的に、新聞は露出量が圧倒的に少ないこともあって、比較的良好な関係を続けてい るのだ。 ・1982年まで広報部副部長を務めた小川頼宣は、現役時代、週刊誌と新聞の記者とで は、声色も変えていたという。 新聞記者には、紳士的に。週刊誌には、高圧的に。 媒体による区別だけでなく、記者一人ひとりの力量や考え方も見極め、区別していた、 と話す。 マスコミ関係者と会うたび、その人物の発言などを報告書にまとめ、上司に提出してい た、とも言う。 ・ある学会員は、友人の広報室員に彼流の「広報三原則」というものを聞かされた。 それは、 「選挙に勝つための広報」 「学会の非を見せない広報」(非を見せると、選挙に負けるから) 「学会の弱みをあばこうとするマスコミは徹底的に弾圧して、握りつぶす広報」 だった。 ・1980年代に入るころには、国内ジャーナリストのインタビューを池田が受けること は、めったになくなった。 1970年代後半から、宗門との関係が悪化し、内部の不協和音や、醜聞報道が流れる ようになったと呼応している。 互助組織 ・1996年2月、首都圏で開かれた、学会婦人部員と地域住民の交流会でのこと。 ゲストとして呼ばれた学会員の女性歌手は、歌の合間のおしゃべりで、池田名誉会長を 主人公にしたモデル小説「人間革命」の中で、自分が一番好きだという個所について触 れた。 それは、「池田名誉会長がモデル」とされる十九歳の山本伸一青年が、四十七歳の第二 代会長戸田城聖と初めて会い場面。友人に誘われて学会の会合に出た山本青年は、戸田 から注がれる泗川にはにかみ、目をそらしてしまう。 「これは、もう恋ですよ。恋。性別を超えた。いやだ、先生ったら、恥じらっちゃった りして〜なんて」 「ゴルバチョフさんもマンデラさんも、池田先生のお友達だから、みーんな私のお友達 よ、って思っちゃう」 といった、軽妙な語り口で盛り上げるのだ。 ・しかし、こうした脱線が許されるのは、この女性歌手の、学会内での立場ゆえ。 プロの芸術家の組織「芸術部」の一員であり、また、体験にもとづく信仰を、セミナー などで披露する「転教グループ」の一員でもある。 ・転教グループには、医師、スポーツ選手、難病を克服した人など、様々な職業や経歴の 人が属しているが、中でも、歌手の「雪村いづみ」、女優の「岸本加世子」ら芸術部員 の占める割合は多いという。 ・往々にして、「広告塔」と揶揄されがちな学会の芸術部員たち。 が、対外的案PRもさることながら、内部の士気の高揚に貢献している部分の方が大き いかもしれない。 池田同様、幹部や本部職員にはまねできないざっくばらんさで、組織を活気づけている ようにも見える。 ・その他、お笑い女優の「久本雅美」、女優の「柴田理恵」、テレビドラマ「不ぞろいの 林檎たち」デビューした個性派女優「中島唱子」ら、折に触れて聖教新聞や学会関連会 社政策のビデオなどに登場し、自分なりの表現で、信仰について語っている。 ・「真如苑」「幸福の科学」「統一教会」と、著名人の入信が話題にある新興宗教は後を 絶たない。 が、芸能界での信者の数は、依然として学会が他を圧倒している。 その秘密は、入信後の徹底したアフタケアにある。 入信を知られたくない人には、地域での座談会活動なども無理強いしない。 ・学会の平和主義路線の源を遡ると、戸田の「原水爆禁止宣言」に突き当たる。 1957年9月、横浜の三ッ沢競技場で開かれた青年部の第四回東日本体育大会の閉会 式。五万人の参加者の前で戸田はこう呼びかけた。 「ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは 悪魔であり、魔物であるという思想を広めることこそ、全日本青年男女の使命であると 信じるものであります」日蓮正宗 ・戸田は、世界平和は政治や外交に頼るのではなく、日蓮正宗の広宣流布によって実現さ れると信じていた。 日蓮が説く仏法に裏付けられた反戦平和主義と言っていい。 戦時中に治安維持法違反と不敬罪で投獄された経験も大きく影響しているに違いない。 戸田の原水爆禁止宣言から引き継がれた平和主義は、学会の生命線でもある。 ・学会を個人レベルで見ると、純粋な気持ちで平和運動に携わっている人たちがほとんど だ。 ところが、創価学会というと組織としての平和運動にはうさん臭さを感じてしまう人が 多いのはなぜだろうか。 ・反戦平和の屋台骨を背負ってきたとの自負心から、1992年のPKO(国連平和維持 活動)協力法が成立したときの、青年部、婦人部からの反発はただならないものがあっ た。 ・当時の公明党書記長「市川雄一」は、 「当初は創価学会の婦人部や青年部から強い反対論が寄せられたのも事実だが、一国平 和主義から世界平和主義への転換を機関紙や講演会を通して訴え続けた。その直後の参 院選は自分の首をかけて臨んだが党史上最高の勝利を収めることができたことは公明党 の取り組みが理解を得られたと言っていいのではないか」 と言うが、今でもわだかまりを持つ会員は少なくない。 ・純粋な信仰心の発露として、学会員個人としての平和運動がある一方で、組織としての 平和運動がある。 これはまるで違う側面を見せることがある。 保守化の軌跡 ・国会、地方議会を問わず、個人的に創価学会をはじめ旧公明党幹部との人脈がある自民 党議員は多い。実力者になればなおさらだ。 ・「森喜朗」も石川県の創価学会幹部らに人脈があり、学会に顔がきく。 学会側も森戸の付き合いを認めている。個人的な付き合いだけでなく、地方議会で公明 と与党を形成しているところはなおさら、露骨な学会攻撃はしにくい。 ・1995年、当時政調会長だった「加藤紘一」が、 「宗教が政治の中心を占めようというのは許されない」 と学会攻撃の火ぶたを切った。 ・「村上正邦」参院自民党幹事長も、 「国会冒頭からジャブも出せないようでは困る」 とニラミをきかせている。 国会でも池田名誉会長の参考人招致問題を新進党揺さぶりの材料に使おう、という思い からだ。 ・社会党執行部が今後の政治運営について話し合いをしたとき村山富市は、 「創価学会に政権を渡してはならない」 と固い決意を表明した。 ・自民党の宗教問題ワーキングチームは宗教団体側からも国家権力に介入してはならない という原則を示した。 ・そういった学会たたきの動きに対し、秋谷会長は、村山が退陣したとき本部幹部会で、 「村山首相が退陣し、宗教弾圧をたくらんだむらやま四月会内閣が崩壊しました」 と語り、盛大な拍手を浴びた。 ・「四月会」は1994年6月、創価学会に批判的な識者や宗教関係者で結成され、自社 さ議員らが支援してきた。 学会の活動を「政教一致」「政治に対する宗教の介入」などと激しく非難、学会員にと って目の敵だったからだ。 ・自民党がここまで本気になったのは、小選挙区制の導入、細川政権時の公明党の政権入 り、1995年夏の参院選での新進党の躍進ぶりが背景にある。 ・創価学会・公明党は古くは鳩山一郎、田中角栄といった大物から、竹下登、金丸信とい った実力者らとの連絡網を切らすことはなかった。 今は冷え切っている小沢一郎と市川雄一との一時の蜜月関係も、二人がそれぞれ竹下内 閣の官房副長官、公明党国会対策委員長の時代に築かれた。 ・最近、テレビや新聞などで、「学会は第二次政教分離宣言せよ」と提案するようになっ た中曽根康弘元首相とも、それ相応の関係を保っていたと思われる。 ・学会系企業の社長らが池田を囲んで懇談する社長会で、池田の発言は「仏の口から出る 言葉」として、複数の会員が記録する。その記録によると、池田は社長会でこう発言し たという。 「中曽根康弘は心配ない。こちらの小僧だ。総理大臣になりたいと言っていたのでよし よしと言っておいた。ケネディ気取りだ。坊やだ」 当時、中曽根は衆院当選九回生で、運輸相。 池田の発言から、彼は現役大臣も軽く見ていたことがうかがえる。 ・こういうこともあった。 1958年、第二代会長の戸田城聖が、静岡県の大石寺で広宣流布が達成されたときに 行う記念式典の「模擬試験」を挙行した。 各界の代表者らにも招待状が送られ、当時の「岸信介」首相にも招待された。 しかし岸首相自ら足を運ぶことはなく、代理として出席したのが娘婿で首相秘書官だっ た故「安倍晋太郎」代議士だった。 その時から安倍と学会との付き合いは始まり、息子の「安倍晋三」引き継がれることに なった。 ・その後も、公明党執行部による二階堂擁立劇、消費税導入の税制改革法案、湾岸戦争、 PKO法案、東京都知事選・・・。陰に日なたに、自民党と公明党・創価学会は地下水 脈を保ってきた。 ・東北地方の自民党国会議員は、 「うちの支持者にセンセイのファン、多いんですよ」 と、公明のある地方議員から声をかけられた。 新進党の対立候補が決まっていない選挙区ではこういう甘いささやきが聞こえてくる。 自民党代議士にとって、まとまった票は魅力であり、学会との距離をはかりかねている 議員は少なくない。 ・そんな中で、「安倍晋三」の行動はむしろ異色である。 1994年6月、四月会の結成総会に出席して関係者を驚かせた。 安倍晋太郎は学会関係者の就職などの世話をする、学会側は安倍晋太郎に全面的な信頼 を寄せて投票する、という関係がずっと続いてきたからだ。 ・安倍晋三が小選挙区制導入に反対する仲間とつくった民主政治研究会は反学会の立場を 鮮明にしている山崎正友元創価学会顧問弁護士を講師として呼んだことがある。 翌日、地元の公明幹部から、 「あなたがあんな会合に出るのはおかしい」 と言われた。 内輪の会合にもかかわらず、公明幹部の耳に入っていることにまず恐怖を感じ、こりゃ おかしいぞと思い始めた。 安倍晋三は振り返る。 「確かに学会とうまくやっていくほうが、どんなに楽かなと思いましたよ。でも、小選 挙区制が導入されて、二大政党制に近づけば、学会はいずれ自分から離れていく。そう 判断したんです」 ・安倍晋三も心が揺れたが、徹底的に戦うと決めた以上、ヨリを戻すわけにはいかなかっ た。 しかし、安倍晋三は不安げにこう言う。 「僕らが一生懸命になってやっているのに、いつのまにか偉い人たちが握手してるなん ていうのではかないませんよ。うちはムチには強いがアメには弱いからなあ」 ・小選挙区での選挙では、安倍晋三が言うように学会と完全に対立する場合もあるが、そ の逆も十分考えられる。自民党対新進党が、自民党対創価学会とイコールにはならない のだ。 ・さまざまな学会の選挙に携わってきた関係者はこう言う。 「学会は基本的に負け戦はしない。だから、最初から勝てないとわかっている選挙は自 主投票になる可能性が高い。身内以外を支援する場合には、以下に一生懸命やったよう に見せるか、逆に自主投票とは言いながら一定の固まった票を出せるかどうかは学会 の腕の見せ所だ」 ・学会の選挙を見ると、その時々の社会背景、政治状況、内部事情などで選挙への対応が 刻々と変化するのがわかる。 防衛本能から常にキャスチングボードを握ろうとするからだろうか。 いかに自分を高く売りつけるか。そんな政治的思惑が垣間見える。 ・学会の選挙の凄まじさを物語るのに「突撃」という言葉がある。 突撃指令は、選挙戦終盤になって出される。 いわゆる票の掘り起こし作業だ。 確実に票を入れてくれると思われる支持者にも総当たりする。 組織外の支持者にももう一度票の依頼を頼むとともに、 「もう一人に声をかけてください」 などとお願いする。 地方では、相手陣営が金を使って票を切り崩してくる場合もある。 それでもあきらめずにひたすら頭を下げる。 この選挙戦に通常の信仰活動のスケジュールが加わる。 体力の限界を気力でカバーする。 ・1964年に公明党が誕生してからは、党が学会を守る構図に変わっていった。 学会が守り立場から守られる側に変わってしまったというわけだ。 元学会幹部は、 「公明党では『出たい人より出したい人』とよく言うが、誰が出すのを決めるかが問題。 師匠である池田氏が決めるのです。候補者は自分で立候補を決められない。そして、不 出馬は突然やってくる」 と語る。 池田の意向なしには動かないのが公明党だった、ということだ。 ・学会には世直しを求める反体制的な面がある。 戦後の一時期、理事長を務めた矢島周平、戦前の教員時代に「共産主義思想の持ち主」 として、拘留された人物だ。 ただ、現実には、学会は組織を広げるにつれ、共産党とぶつかった。 後に代議士となる「渡辺一郎」は、1953年、青年部研究発表で、 「共産主義は幸福に対して、生命に対してまったく無知な低級思想だ」 と敵意を込めた報告をしている。 ・「公明党論」を書いた「堀幸雄」東北福祉大教授は、この党を、 「国立戒壇の建立を目的に生まれた政策なき政党。言論出版妨害事件で自民党田中派に 負い目を持ち、革新色はイメージだけ」 と分析、1970年5月に政教分離を宣言し、国立戒壇論を放棄した後は、池田第三代 会長の国会喚問の回避が、政権を目ざす大きな理由になってきたとみる。 ・そもそも、創価学会の政治進出は、どう説明されていたのか。 戸田城聖第二会長は、 「ご本尊のありがたいことがわかっていた人の中から、国会議員が出て、国立戒壇の請 願が出され、国会で議決され、天皇陛下もまた、「ご本尊さまのありがたさを知ってこ そ、初めて広宣流布ができる」 「自由党、社会党、共産党・・・胸の奥底に広宣流布をしまっておけば何島でも差し支 えない」 ・戸田は、選挙進出以前から、青年部員に政治を語っていた。 「戸締りしない家がないように鍵の役目である軍備ながいことは考えられる」 「東洋の安定は日本人と中国とが融け合わねば出来得ぬ」 「日本の国に原子爆弾を落とされるのが怖い。それを救うのが広宣流布なのである」 ・一方で一般の学会員には、大学を出て政財界に進出し、強い信心で裕福になるよう、 ハッパをかけた。 既成政治への不信を語る一方で、現実の態勢は認め、会員にはその体制内での立身出世 を激励してきたのである。 ・1960年の日米安保条約改定をめぐり日本の国論が二分するなか、創価学会の総務の 地位に就いた池田は、 「安保改定に賛成するか、反対するか別に御書には書いていない。安保改定よりも、も っと本源的に大事なことは、邪宗改定である」 と訴え、組織の亀裂を防いだ。 政策がないまま政治に関わることは、学会組織の団結を崩す恐れがあった。 ・1960年5月、日米安保条約の自動延長の直前に池田が第三代会長に就くと、創価学 会は本格的な政策づくりに動きだした。 ・ひと通りの政策ができた1964年5月、池田は二万人を集めた創価学会本部総会で、 政党結成と衆院選への進出を発表した。 池田はこの年、「政治と宗教」を執筆。 「王仏冥合」の概念の上に、仏法民主主義、人間性社会主義、地球民族主義といった造 語を積み上げて、それなりに具体的な「政治性」を打ち出した。 ・「国立戒壇だ、広宣流布だ。百人が百人、そう信じていた。1980年ごろまでは、そ の気分は続いた」 と、ある国会議員OBは第一党を目指す組織の昂揚を振り返る。 ・池田は、そうした組織の昂揚を受けて、陣頭指揮に立った。 「今までは根本原理だけを教えてきたが、ここまできたら私が全魂を打ち込んで、育て ていく」 と。まず、打ち出されたのは、「舎衛の三億」と呼ぶ原理。 釈迦の教えの広まり具合を意味する仏教用語を現代に置き換えたのだ。 「学会員が総人口の三分の一、信仰はしないが公明党支持が三分の一。後の三分の一は 反対であっても、事実上の広宣流布だ」 同時に、これが、創価学会が信教の自由を認める証拠だ、とも主張した。 ・1967年の総選挙直前に池田は、憲法擁護や大衆福祉、安保の段階的解消を盛り込ん だ公明党ビジョンを発表。 翌1968年9月には中国との国交回復を提言した。 ・だが、結党6年目の1970年、「赤旗」の報道で明るみに出た創価学会と公明党の 「言論出版妨害事件」で公明党の勢いは止まる。 自民党幹事長だった田中角栄とのつながりが暴露され、公明党は他の野党から証人喚問 要求を突き付けられた。 自民党の姿勢に助けられて喚問を防いだ学会は、池田会長が本部総会で国立戒壇を公式 に否定し、党と学会の役職を分離した。 ・公明党は、折からの70年安保問題を、自動延長となる日の二日後に党大会をずらして かわし、王仏冥合や仏法民主主義を党の綱領から外した。残ったのは中道主義と人間性 社会主義だ。 「人間生徒は自由民主主義、社会主義は社会的公正のこと。自由経済をベースにした混 合経済」 ・当時の公明党関係者は、 「安保を認めると革新ではないとレッテルを貼られ、自民党の補完勢力扱いになる。 『新しい保守』だとは言い出せなかった」 と内心、安保や自衛隊を容認しながら、革新陣営に位置づけられるよう腐心したことを 明かす。 ・1972年の総選挙で47議席から29議席に転落すると、公明党は翌年、「安保即時 廃棄」の路線を転換した。 しかし、革新への路線転換は、それほど追い風を呼ぶことにはならなかった。 ・公明党は1980年代にかけて、「自衛隊認知」「安保存続」と、じりじりとスタンス を右に戻す。 党勢は一時よりも回復したが、それが頭打ちの状態にあるのもあきらかだった。 「聖」「俗」 ・1995年11月に発表されたSGI(創価学会インターナショナル)憲章は、「目的 及び原則」の1項で、 「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、 その解決のために協力していく」 と謳っている。 こうした他宗との融和路線は、宗門からの破門のよって、日蓮正宗の厳格な仏教の縛り がなくなったことを加え、宗教法人への法的規制強化の動きなどが重なって起きた、 といえる。 ・他の日蓮宗は「仏」を釈迦、「僧」を日蓮とする。 これに対し、日蓮正宗は、「仏」が日蓮で、「僧」は「唯樹一人の血脈で日蓮とつなが った、歴代の大石寺法主と、法主に率いられる僧侶。 ・そして、正宗の場合、何より重視されるのが、総本山大石寺に安置されている、板製の 本尊だ。 日蓮が弘安二(1279)年10月、「出世の本懐」として墨書したとされる曼荼羅で、 信者にとっては、本仏日蓮そのもの。 しかも、これを書き写し、信者に下付する権限は代々の法主に限る、とされてきた。 伝統的教義に従う限り、破門された学会員信者は信仰の基盤を失うことになる。 ・そこで、学会内で「平成の宗教改革」などと呼ばれる、一連の教義改新の動きが始まっ た。 まず、冠婚葬祭の自前化。「儀典部」を新設し、僧侶なし、戒名なしの「友人葬」を支 援する態勢をと整えた。 ・1977年から79年にかけて、宗門と学会の関係が悪化した「第一次宗門戦争」は、 学会が在家主義色の濃い教学路線を打ち出したことが、大きな要因だった。 が、その試みは失敗し、学会の教義は、伝統的日蓮正宗驚愕の枠組みに戻ってしまう。 ・そして宗門と和解した創価学会は、宗教学上、「内棲型の新宗教」などと分類されてい た。 つまり、「中核的な教義を共有しつつも、そう多雨的に独自な性格を持つ既成教団内の 新宗教」である。 ・1991年以来の動きは、独立した新宗教教団の成立につながるのだろうか。 現在の創価学会は、完全な独立をはたしたとはいえない。 ポイントは本尊にある。 大石寺にある本尊を否定しておらず、法主に頼らない、自前の本尊を調達するところま でいっていないからだ。 ・池田が本尊を書けばいい。 こんな意見は、研究者の間でもあるという。 教義核心を進めていけば、在家信者の代表が本尊を書くことは、タブーではなくなる。 霊友会などで、在家教団のリーダーが本尊を書いた前例はある。 ・元教学部長で池田のブレーンの一人だった「原島嵩」は言う。 「池田さんは、多分、ご本尊は書けないだろうな」 ひとつには、学会員の反発があり、池田本人にも仏法に背くことへの恐れがあるはずだ、 と言う。 ・池田が本尊を書く可能性について、五十代の婦人部員に聞くと、途端に怖い顔になった。 「そんなことがあっちゃいけないの。私たちが拝んでいるのは、日蓮大聖人なんだから。 私たちは池田教じゃなのよ」 ・日蓮正宗は、本尊に背き、日蓮に背くことを固く戒めてきた。 学会創立以来、日蓮の教えとされてきた法主の権限を否定し、完全に独立するのは、難 しい。 ・青々としたシキミの枝が飾られた祭壇。前に坐るのは、袈裟をまとった僧侶ではなく、 「導師」とよばれる黒い礼服の男性。 息を継ぐ間ももどかしいかのような勢いで、何十人もの参列者が二十分ほど声を合わせ て読経したかと思うと、導師や友人らが広宣流布に尽くした故人への弔辞を述べる。 ・創価学会が自前で行う「友人葬」は、だいたい、こんな形で行われるという。 普通の戒名も卒塔婆供養もやめ、香典のやりとりも最小限にとどめる。 遺族からの謝礼や会食の誘いはすべて断り、一切が手弁当。 にもかかわらず、死亡の連絡が早ければ枕経に始まり、お通夜と葬儀はもちろん、火葬 場での読経、唱題、初七日、忌明け・・・と、喪の儀式はできるかぎり付き合う。 もっとも心を砕くのは、「信仰のない人にも違和感なく受け入れてもらうこと」 ・宗門と決別した学会は「平成の宗教改革」と銘打った運動を起こし、既存仏教化した宗 門への批判論陣を張った。 「友人葬」はその最重要項目である。 ・同時に、墓にこだわらない自然葬を進めるグループの動きなどを紹介し、友人葬が時流 にかなうものだと盛んにPRした。 ・一貫しているのは、非学会員との融和路線だ。 内部向けの「儀典マニュアル」にも、その土地の慣習などを考慮するよう書かれたくだ りがある。 ・しかし、いくら学会側が地域社会との垣根を取り払う努力をしても、根強く残る 「学会嫌い」の感情を完全に拭い去ることはできないようだ。 ・父を亡くした東北地方の男性は、喪主であり、三十年来の信仰暦を持つ母の希望で、 友人葬を体験した。 二世であっても学会員ではない彼に、友人葬はどう映ったか。 まず感心したことは、学会員のフットワークの良さ。 平日にもかかわらず、通夜の晩は喪服姿の学会員が十人ほど、告別式には二十人ほど集 まり、手助けしてくれた。 みながボランティアで、種民の素朴な葬儀という印象を受けた。 派手な演出がなく、僧侶のお世話にならない分、支出もおさえることができた。 ・困惑したこともある。 通夜の晩、遺体が安置された六畳間では、十人ほどの学会員が棺を幾重にも囲み、題目 をあげ続けた。 遠来の客でも死に顔はおろか、遺影すら拝めない状態だった。 「まるで父が創価学会に取られてしまったような気がして、悲しさ、寂しさが広がって いきました。友人葬を選んだことへの迷いも。しかし、ぼくに対する学会員の気遣いは 皆無でした」 ・このとき実感したのは、創価学会は、内輪では人情味あふれた互助組織であっても、 非学会員に対しては無神経になり得る組織なのだということ。 この男性の伯父たちは友人葬に納得せず、遺骨の一部を持ち出して菩提寺で葬式をやり 直し、戸別に墓まで建てた、という。 ・創価学会の自前の葬儀や墓へのこだわりは、新宗教と呼ばれる教団の中でも突出してい る。 日蓮正宗以外をすべて「邪教」としてきた創価学会の場合信者数が増え始めた1955 年ごろから、葬儀などの典礼を拒否する入信者と各地の檀那寺との間で、トラブルが目 立つようになった。 ・厚生省は1949年に「宗教感情が著しく損なう恐れのある異教徒」に対しては、寺院 が埋葬を拒んでも構わないという見解を示しており、当時、檀那寺は学会員の埋葬を断 ることもできた。 学会側からの働きかけもあり、厚生省の前出の通達は1960年に廃止された。 ・しかし、埋葬を拒否された三重県の創価学会員が檀那寺を相手取って起こした裁判では、 1963年、津地裁が「改宗した信徒がその寺院の宗教儀式による埋葬に従わないなら、 寺院側はその埋蔵を拒否することができる」という判断を示し、学会員は敗訴した。 ・こうしたことから学会は1964年、八王子市にあった原島宏治理事長名義の土地に墓 園を造り、宗門側に寄進した。現在の日蓮正宗高尾墓園である。 「あのころは、共に戦った同志たちと眠るのだと、希望に燃えて墓を買いました。しか し、これで墓園事業に着目した学会は、墓を造っても宗門へ寄進しなくなった。墓をビ ジネスにしてしまった」 この墓園に墓を持つ元学会員は話す。 ・現在、学会直営の墓苑は、全国に五つある。 ・戸田記念墓地公園(北海道厚田郡厚田村望来村) ・富士桜自然墓地公園(静岡県) ・中部池田記念墓地公園(三重県) ・関西池田記念墓地公園(兵庫県) ・東北池田記念墓地公園(宮城県) その他に ・中国メモリアルパーク(広島県山県郡大朝町) ・山光メモリアルパーク(島根県八束郡八雲村) ・創価学会用語の財務とは、会員の寄付のことで、現在は年一回、夏または12月に集め ている。 普通、財務の一カ月前に、広布部員会とった名の決起大会が各本部合同やゾーン単位で 開かれたりする。 お金をたくさん集める盛り上げ大会のようなものだ。 この場で、いかにお金をたくさん寄付すれば幸せになれるかをそれぞれ発表しあって、 暗黙のプレッシャーをかける。 内々ではかなりひんしゅくを買っているが、表立って言えない。 「私は結婚資金の三百万円を寄付しました」 「百万円出したら息子がいい企業に就職できました」 「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました」 など、威勢のいい発言のたびに周りからワーッと拍手が起きる。 金額が少ないと本当に肩身が狭くなる思いだ、と参加経験のある会員は語ってくれた。 ・学会の説明ではこうした会合で、寄付した金額を言い合わないように徹底しているとい う。 心から寄付してくれた人に嫌な思いをさせたくないからとの理由だ。 ・それにしては、広布部員大会への批判が、頻繁に漏れ伝わるのはどういうわけか。 高額寄付者への厚遇をも含め、財務に対する学会の厳格な姿勢がとっくの昔に消え去っ たことの証明とは言えまいか。 ・金集めのミソがいくつもある、と教えてくれたのは東海地方の中堅学会員だ。 「創価学会研修シリーズ」という小冊子がある。一カ月に一回、一冊六十円で発行して おり、収益は聖教新聞社の収益事業会計に収めるという。 ところが中堅学会員によると、シリーズ関連の小冊子が百円から百五十円ほどで、だい たい二週間に一回、全国の活動家に配られ、活動家を約二百万人と見積もると、一回当 たりの小冊子の売り上げが二億円以上になるという。 ・現役、元に限らず、学会員がさらに問題だと指摘したのは地区幹部の集金競争。 集金額が自分の査定に響いてくるからだ。 副会長などの幹部になればそれなりの優遇措置が施される。 給料が上がる。創価学会の宿舎に住むことができる。 子弟は創価小・中学に入学しやすくなる。 ・もともと、学会は寄付を必要としなかった。戸田城聖第二代会長の時代は、 「わが宗は賽銭箱なんか置いていない。他の教団はおカネにまつわるトラブルが絶えな い」 として、他宗を批判していた。 当時の学会には、寄付金の多寡ではなく信仰心の厚さを重んじる誇りさえ感じられる。 ・会費をとらない宗教団体。それが戦後、貧しい人々にも抵抗なく受け入れられ、燎原の 火のごとく会員が増えていった要因でもある。 ・戸田時代の1951年、財務制度が始まったが、金を出すのは財務部員に限られた。 財務部員は、信心が厚いか、身元がしっかりしているか、経済的にゆとりがあるかなど 厳しい審査を通して選らばれた。 金を出すから幸せになるのではなく、信心をした結果、福運を得て家も豊かになったか ら財務部員になれるという図式だったのだ。 ・だから、ステータスは高かった。 当時、金バッジは学会幹部だけしかつけられなかったが、財務部員だけは金色に縁取り されたバッジをつけることができた。 一般会員からは羨望の眼差しで見られていた。 ・そのころは一口千円で年四回(合計四千円)だった。 ところが、その決まり事がなし崩しにされていく。 1965年10月、正本堂建立のための供養が行われた。 四日間の供養期間にもかかわらず、目標額五十億円に対し、三百五十五億円という莫大 な金額が集まったと言われる。 ・「目標の七倍も集まった。いちばん驚いたのが池田さん。『みなさんからお金を集める のはこれ一度っきり』と約束して集めたがそうはいかなくなった。財務のうまみを知っ たからだ」 集まった金額の大きさもさることながら、この怒涛の財務に注目すべきことがある。 「池田さんが会員から集めた金を大石寺に寄進したが、その時すでに金の分配権、つま り予算権を手中にしていた。権力一極集中を達成した池田さんの中に、大石寺からの独 立の気持ちがすでに芽生えていたのではないか」 本山との対立は、この正本堂財務がひとつの引き金になっているという分析だ。 ・正本堂供養募金によって学会にカネ余り現象が起きる。 当時の支出は杜撰で幼稚だった。 「日蓮正宗への寄付という名目を外れ、大学や会館建設、行事の運営に流用されかけて いた」 「共産党や反学会勢力対策の機密費総計三億円が私を経由した」 と後に集金関係者は暴露する。 ・正本堂が完成した二年後には、再び財政が逼迫したため、1974年に財務を再開。 「各地に自前の施設を構える『創価学会万代路線』を目指し、1974年から数年間で 千四百億円集める特別財務を始めた」 ・もっとも、1977年に民社党が学会施設にある豪華な池田専用設備などを追求する構 えを見せたため、逆に蓄えを解体、撤去に費やす羽目に陥った。 ・こうした支出の増大に対応して、財務の集金システムも次第に確立される。 1977年には一口一万円に。さらに、銀行振込用紙まで作成された。 ・創価学会会館はその威容を誇るまでになったのに、元会員の心は離れていった。 「池田さんと宗門のどっちが正しいのか、迷いながらの生活でした。財務が信心のバロ メーターのようになってきて、日蓮正宗の供養とは性格が違うことがわかってきた。 金額が少ないと『お前、退転したのか』と信仰者にとっていちばんつらい言葉をかけら れる。宗教という隠れみのを着た集金組織に変わり果ててしまったんです」 ・宗門との対立で法華講総講頭を退いていた池田が、再び総講頭に復帰した1984年、 財務は百億円から千億円の単位にはねあがる。 ・1991年には宗門と決別。 正本堂や数百カ寺の寄進が無駄になったが、気兼ねなく学会施設に潤沢な資金を使える 条件が整った。 ・学会の収入は、財務の他、新年勤行会や、創価学会の日などの大きな行事に集まる広布 基金がある。 各都道府県の会館には広布基金コーナーが設けられ、そこに寄付する。 だから、年一回の定期的な財務だけでなく、断続的に歳入はあると見ていい。 ・学会本部の会系は財務を主財源として宗教活動をする一般会計に加えて、聖教新聞や池 田らの出版物を政策、販売する収益事業会計、墓地を開発し、会員から使用量を得る墓 苑公益事業会計、の三つに分かれる。 ・一般会計は非課税、収益事業会計は軽減税率、墓苑公益事業会計は土地分が非課税で墓 +石は軽減税率の対象になる。 あとがき ・創価学会は、戦後の政治・社会の荒波にもまれつつ、その組織の拡大に伴い、明らかに 変質してきました。 攻撃から防御へ、革新から保守へ、その軸足を移しています。 ・創価学会と公明党に、違和感を抱いている日本人も少なくない。 その理由は、次の三点に集約されるだろう。 まず第一に、なぜ公明党はくるくる立場が変わるのか、という疑問。 第二に、創価学会が外に対して閉鎖的で、不気味である、という多分にイメージ的な側 面。 最後に、その学会が公明党をしているのではないか、つまり本当に政教分離しているの か、という問いである。 ・一方で、学会員の中には、自民党との連立になおアレルギーを感じている人も少なくな い。 「反自民」のスローガンで選挙運動に大きなエネルギーを裂いてきた学会員ほど違和感 を感じていると言われる。 また公明党の議員=学会幹部経験者という図式は少しずつ崩れ、そのことが学会員の公 明党への親近感をうすめている。 公明党の自民党追随がっより明確になれば、政治への幻滅を抱く学会員もさらに増える だろう。 ・自公が手を結んだ背景には、制度面の影響も無視できない。 小選挙区比例代表並立制という新しい衆院の選挙制度は、単独の精力としては生き残り にくい学会ー公明をますます与党の側に引き寄せる役割を果たしたと言える。 ・学会への行動が不気味に映るのは、批判に対して極めて不寛容で、「ツルの一声」です べてが決まる、と外から見られているからだ。 |