なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか :島田裕巳

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日本は多神教の国であり、日本には八百万の神々がいると言われている。そして、日本各
地には、これらの神々を祀ったいろいろな神社が存在する。
これに対して、一神教といわれるユダヤ教やキリスト教、イスラム教などは、神と言えば、
唯一絶対の神であり、複数の神が存在することなどあり得ないことだという。
この本は、日本の主な神社とそこに祀らている神々について解説しているのだが、この本
を読み進めて行くと、根源的な疑問が浮んでくる。
それは、”神とはなんぞや”という疑問や、”信仰とはなんぞや”という疑問だ。
日本人は、とにかく何でも”神”にしたがる傾向があるようだ。日本神話に出てくる実在し
たのかしないのかわからなうような人物を神としたり、山や水や雷などの自然や自然現象
を神にしたり、実在した昔の人物を神にしたり、戦争で戦死した人を神にしたりである。
こういうことを考えると、日本人の神と一神教でいうところの神とは、とても同列では扱
えないと思える。また、キリスト教などの一神教を信仰する人々の信仰心と、日本の神々
を信仰する日本人の信仰心も同列では扱えないような気がする。
それと同じように、信仰についても、日本の神々を信仰する信仰心と、一神教の神を信仰
する信仰心とは、とても同列には扱えないような気がする。
また、このような八百万の神々を信仰する日本の宗教を一般的に神道と呼ぶようだが、こ
の神道にも、神社神道をはじめ、皇室神道、民族神道、教派神道、国家神道など、色々な
種類に分類されるとのことで複雑だ。
この本は、比較的身近である神社神道を中心に解説しているようだが、この神社にしても、
いろいろな神社があり、なかなか複雑だ。しかも、神社は日本の神々を祀っていると思っ
ていたら、そうでもないということを知って驚かされた。
というのも、日本で一番数が多いと言われる八幡神社が祀る八幡神や、3番目に多い稲荷
神社が祀る稲荷神は、朝鮮半島から渡ってきた渡来人が持ち込んだ外来神だというのだ。
八幡神社や稲荷神社と言えば、われわれの最も身近に存在している神社だ。その神社が祀
っている神が外来神なのだと言われても、にわかには信じがたい。
もっとも、仏教も外来の宗教であるから、それを考えれば、不思議ではないことになる。
しかし、その仏教も、いろいろの宗派があるし、そもそも仏教においては”神”に当たるも
のがあるのかという疑問もわいてくる。
さらには、神道と仏教が習合することもあるというから、ますます複雑怪奇である。
そもそも宗教とは何か。宗教は、「世界宗教」と「民族宗教、土着宗教」そして「新宗教」
に分類されるという。キリスト教、イスラム教、仏教は世界宗教に分類され、ユダヤ教や
神道、ヒンドゥー教は民族宗教に分類されるという。
そして、神道やヒンドゥー教は多神教だと言われるが、ユダヤ教は一神教に属するらしい。
日本人は無宗教の人が多いと言われるが、これは、日本人の周囲にはいろいろな神があり
過ぎて、神過多になってしまっているからではなかろうか。
いずれにしても、世界的に見て、日本の宗教というのは、かなり特殊のは確かなようだ。
ところで、この本を読んで初めて知ったのだが、仙台市の隣の名取市に熊野三社というの
があるが、熊野三社をすべて勧請しているのは、全国でも名取市だけで珍しいものらしい。
名取市にある熊野三社のうち、熊野那智神社熊野神社は一度訪れたことがあるのだが、
熊野本宮社はまだ一度も訪れたことがない。機会を見て、ぜひ訪れてみたいものだ。


はじめに
・日本は多神教の国である。日本人は、八百万の神々を信仰していると言われている。
・この多神教と比較されるのが一神教である。一神教の代表がユダヤ教、キリスト教、イ
 スラム教である。こうした一神教においては、唯一絶対の創造神が信仰の対象になって
 いる。創造神とは、この世界を作った超越的な存在である。
・唯一絶対の神は、人間に対して自分以外の神を信仰することを禁じている。
・これに対して、八百万の神々が信仰の対象となっている日本の多神教の世界では、どの
 神を信仰しても、どれだけ多くの神々を信仰の対象としてもかまわないとされている。
 この両者の違いをもとに、日本では多神教の寛容さが強調され、逆に一神教は排他的だ
 とも言われる。
・周囲を見廻してみると、私たち日本人はたしかに多種多様な神々を祀っている。それぞ
 れの神社には特定の祭神が祀られていて、その種類は実に多い。立派な社殿をもつ神社
 ではもちろんのこと、町のなかには小祠が祀られ、そこにもやはりさまざまな神々が祀
 られている。
・神々の数があまりにも多いせいか、私たちは個別の神について考えることは少ない。そ
 の神を祀った神社にどういった由緒があるのかにもさほど関心をもたない。地域の氏神
 の祭神は何かと聞かれて、即答できる人はかなり少ないはずだ。
・日本のなかでどれだけの数の神々が祀られているのか、それを数えあげようとする人も
 いない。それは、数があまりに膨大で数えきれないからでもあるが、そもそも私たちは、
 日本の神々のことについて意外なほど知識をもっていないのだ。神のことについて思い
 をめぐらすことなどはほとんどない。
・たいがいの人たちは、神社で祀られている神々は、日本の神話について記した「古事記」
 や「日本書紀」のなかに登場するはずだと思っているかもしれない。こうした神話は、
 「記紀神話」とも呼ばれるが、実は、記紀神話の物語に登場する神々だけが神社の祭神
 になっているわけではない。むしろ、記紀神話に登場しない神々の方が、多く祭神とな
 っている。
・では、記紀神話に登場しないのだとすれば、神社の祭神はどこに由来するのだろうか。
 疑問はわいてきても、その問いに即答できる人はほとんどいない。私たち日本人は、そ
 れほど日本の神々について知らないし、知ろうともしてこなかったのである。
・日本の神々を祀る神道の本質は「ない宗教」にある。神道には、開祖もいなければ、教
 典も教義もない。当初は、神社の社殿さえ存在せず、神主という専門的な宗教家もいな
 かった。
・一般に宗教の役割は救いを与えることにあるとされていて、それぞれの宗教では救済の
 ための手段が開拓されているが、神道にはそうしたものがない。
・その点では、神道ほどシンプルな宗教はないと言える。そうした宗教が、長い歴史を超
 え、千数百年以上も続いていることは、世界の宗教史を考えても注目される事態である。
 神道とともに日本人の宗教世界を構成してきた仏教の場合には、6世紀に渡来したこと
 が分かっているが、そもそも神道がいつはじまったのか、それすら定かではない。
・私たちが住んでいる地域を見回してみると、実の多くの神社があることに気づく。神社
 では、季節ごとに祭が行なわれ、私たちはそれに出かけて行く。
・それぞれの神社では、鳥居の近くに「縁起」や「由緒」を掲げていることが多い。それ
 を読むと、どういった祭神が祀られているのかからはじまって、その神社の歴史、ある
 いはご利益などが説明されている。
・それを読んで、「なるほど」と思うこともあるだろうが、そんなに昔からあるものかと
 首をかしげることもあるだろう。けれども、ではどこがおかしいのかと考えると、それ
 をうまく指摘することができない。 
・また、それぞれの神社では、境内のなかに摂社や末社といった小祠が祀られている。摂
 社は、その神社の祭神と関連性の深い神を祀ったもので、末社は関連性が薄いものを言
 う。とくに、稲荷社が境内に祀られていることが多い。
・なぜ、一つの神社のなかに多くの小祠が祀られているのか。これも、神社のことを考え
 る上で、興味深い点である。
・日本の神々のことを考えていくと、いろいろと興味深い事実や出来事にぶちあたる。そ
 こには、歴史上のさまざまな事柄や社会関係、権力の問題などがからんでいる。神々に
 ついて知るということは、日本の社会を知ることにもつながっていく。逆に、神々につ
 いて知らないということは、日本社会について十分な知識を持ち合わせていないことを
 意味する。日本の神々の正体を知ることは、日本人の本当の姿を知ることに結びつくの
 である。

日本の神々と神社
・日本では、「八百万の神」、ないしは「八百万の神々」という言い方がよくなされる。
 この場合の八百万のとは、実際に、日本で信仰される神々がそれだけの数あるというこ
 とではなく、数が多いことの表現である。
・神々について記した書物としては、「古事記」と「日本書記」がある。 
・「古事記」の上巻にどれだけの数の神々が盗用するか。同じ神が別の名前で登場するこ
 ともあり、案外数えるのは難しい。歴史読本によれば、その総数は267柱にのぼると
 いう。これには、同じ神の別名を含まれている。
・なお、神が「柱」で数える。
・「日本書紀」の方では、181柱である。
・「古事記」と「日本書紀」で共通する神の数は、本文で56柱、一書で56柱である。
 そして一書に独自の神は59柱である。
・「古事記」の267柱と、「日本書紀」一書独自の59柱を合わせると326柱となる。
 さらに、「古事記」の中巻でも、1柱の神が新たに登場するので、それを合わせると全
 部で327柱となる。 
・しかし、現在日本の神社に祀られている神々は、必ずしも「古事記」や「日本書紀」に
 登場するものだけとは限らない。
・かなりポピュラーは八幡、天神、稲荷などは、日本の神話とは無縁の神々である。実は、
 そうした神々の方が、数としては多いように思われる。
・「思われる」と曖昧な言い方になるのは、神々の範囲は恐ろしく広いからである。
・稲荷信仰の中心である伏見稲荷大社の背後には、稲荷山という小高い山があり、そこに
 は、石碑に神名を刻んだ「お塚」の信仰が見られる。このお塚の数は、現在1万基を超
 えていると見積もられている。お塚に刻まれた神名には共通のものもあるが、それぞれ
 別の神々と考えれば、1万柱の神々が稲荷山だけで祀られていることになる。
・東京九段の靖国神社では、これまで日本が行なってきた戦争の際の戦死者、戦没者を
 「英霊」として祀っており、これを神々と考えると、その数だけで246万柱を超える。
・誰を神として祀ろうと、それは祀る側の自由で、どこかの許可を必要とするわけではな
 い。その点で、日本の神の数はつねに増え続けていくわけで、今後も増えていくものと
 考えられる。その点でも、その総数を数え上げることは不可能な作業である。
・しかも、神社における神の祀り方も、この数ということを複雑にしている。同じ祭神を
 祀っている神社であっても、個々の神社の名称には地名などがついていて、それぞれが
 区別される。
・さらに、一つの神社には本殿のほかに境内社があり、そこには本殿の祭神とは別の神々
 が祀られている。 
・日本の神々の世界は相当に複雑であり、数えることが難しいだけではなく、錯綜してい
 る。そこには、日本社会の近代化もかかわっている。明治に入るまでの時代、あるいは
 明治時代に入ってからもしばらくの間は、今よりも多くの神社が祀られていた。ところ
 が、明治の末期になると、政府の政策として「神社整理」が行なわれ、一つの町村に一
 つの神社を祀る体制の実現がめざされた。
・これに対して、民俗学者の南方熊楠などが強く反対したことはよく知られており、一町
 村一社まで整理統合されることはなかったものの、数はかなり減った。
・また、近代に入りまでは、祭神が必ずしも明確になっていない神社が少なくなかったが、
 記紀神話の浸透がはかられるなかで、祭神の明確化がされていった。つまり、それまで
 何を祀っているのか、性格がはっきりしていなかった神社に、記紀神話などに由来する
 神が祀られるようになったわけである。
・神道の信仰は古代からのもので、日本人の歴史と同じくらい古い。しかし、古いものが
 そのまま受け継がれてきたわけではなく、歴史のなかで人間の側の都合で、信仰のあり
 方や内容は大きく変わってきた。
・キリスト教やイスラム教といった一神教における神は、この世界を作り上げた創造神で
 あり、信者にとっては唯一絶対の存在である。それに対して、日本の神々は、創造神で
 もなければ、唯一絶対の存在でもない。その点では、異なるものに対して、同じ神とい
 うことばを使っていることが問題だとも言える。少なくとも一神教の神と、八百万の神
 々とを同列に扱うことはできない。
・日本の神々は次の三つの種類に分けられる。
 ・神話に根差した神々
 ・記紀神話には登場せず、日本の歴史が進行していくなかで、新たに祀られるようにな
  った神々
 ・人を神として祀ったもの
・習合という現象があるために、このうち二つの種類にまたがっているような神もある。
・さらに、日本の神々の特徴は、「勧請」によって、「分霊」され、一つの神がつぎつぎ
 と別の場所に祀られるようになっていくところにある。
・唯一絶対の創造神には、こうした勧請や分霊などということは起こり得ない。それは、
 一神教の神観念からすれば、あってはならないことで、ここにも、日本の神々と一神教
 の神との違いが示されている。
・日本で神々を祀る場が神社である。神社は、宗教施設である点で、仏教の寺院、キリス
 ト教の教会、イスラム教のモスクなどと共通する。ただし、神社の独自性もあり、他宗
 教の宗教施設とは性格に違いがある。
・もともと神道には、社殿を伴う神社はなかった。古代においては、祭祀を行なう際に、
 臨時に祭場を設けていた。それが、恒久的な施設へと発展していくが、いったいいつか
 ら今日の神社のような建築物が生まれたのか、はっきりしたことは分かっていない。
・仏教の寺院と比較した場合、寺院には基本的に住職が居住しているのに対して、神社に
 は必ずしも神主が住んでいるとは限らない。
・寺院が、本尊である仏に対して祈願する場であるとともに、僧侶が修業を実践したり、
 学問的な研鑽を行なう場になっているのに対して、神社には、研修や学問研鑽の場とし
 ての役割がほぼ欠けている。
・僧侶は出家であり、出家得度して以降はずっとその立場にあるのに対して、神主は出家
 ではなく、俗人であり、祭祀を行なうときだけその役割を担うことになる。
・大規模な神社には、かなり昔から、「社家」というものがあり、その家に属する人間が
 代々神主を受け継いできた。そうした例はあるものの、すべての神社に社家があったわ
 けではない。
・神道と仏教が融合していた「神仏習合」の時代には、神社の境内地に設けられた「神宮
 寺」と呼ばれる寺院に属する僧侶が祭祀を行なったり、その管理を行なっていたりした。
・明治以降、皇居に「宮中三殿」と呼ばれる皇室祭祀のための施設が作られ、天皇を中心
 に定期的に儀礼が営まれるようになったが、その場合、天皇は神主としての役割を担っ
 た。現在の憲法下では、こうした営みは天皇の私的な行為と位置づけられている。
・神社は、基本的に神が祀られた宗教的な空間としての意味を担い、それがあくまで中心
 である。神に対して祈願を行ない、神道式の儀式を営むことが本質的な役割で、それ以
 外の機能はもっていない。仏教寺院が、僧侶という「人のための場」であるのに対して、
 神社は「神のための場」なのである。
・神社界には、神社本庁という組織が存在し、全国にあるおよそ8万社の神社を包括して
 いる。神社本庁という名称からは、公的な組織、官僚機構のようなイメージがあるが、
 あくまで民間の宗教法人である。
・神社のなかには、靖国神社や伏見稲荷大社などのように、神社本庁に包括されず、単立
 の宗教法人として活動しているところもある。
 
八幡(日本神話に登場しない外来の荒ぶる神)
・「宗教年鑑」の平成22年版(2010)によれば、全国の神社の数は8万6440社
 となっている。
・神社の場合には、宗教法人としての認証を受けていない、一般に「小祠」と呼ばれるも
 のがある。街角にひっそりと祀られているものもあれば、家のなかに祀られた屋敷神も
 ある。あるいは、企業が本社の屋上などに祀っているものもある。そうしたものをあわ
 せると、8万社ではすまない。
・明治時代には、「神社整理」が行なわれた。国の政策として、複数の神社を一つに合祀
 したのである。これによって19万3千社あった神社が11万社あまりに減ったとされ
 ている。
・最近でも、過疎化などによって、それぞれの神社の氏子の数が減少し、維持できなくな
 った神社がつぎつぎと生まれている。その場合にも、近隣にある神社に合祀されること
 になるが、一年の間に数百、あるいは千の単位で減少しているとも言われている。
・神社として数の多い順、
 ・1位:八幡信仰、7817社(八幡神社、八幡宮、若宮神社など)
 ・2位:伊勢信仰、4425社(神明社、神明宮、皇大神社、伊勢神宮など) 
 ・3位:天神信仰、3953社(天満宮、天神社、北野神社など)
 ・4位:稲荷信仰、2970社(稲荷神社、宇賀神社、稲荷社など)
 ・5位:熊野信仰、2693社(熊野神社、王子神社、十二所神社、若一王子神社など)
 ・6位、諏訪信仰、2616社(諏訪神社、諏訪社、南方社など)
 ・7位:祇園信仰、2299社(矢坂神社、須賀神社、八雲神社、津島神社、須佐神社)
 ・8位:白山信仰、1893社(白山神社、白山社、白山比盗_社、白山姫神社など)
 ・9位:日吉信仰、1724社(日吉神社、日枝神社、山王社など)
 ・10位:山神信仰、1571社(山神社など)
・さらにこの後には、春日信仰、三島・大山祇信仰、鹿島信仰、金毘羅信仰と続いていく。
・八幡神社として著名なものとしては、鎌倉の鶴岡八幡宮、教徒の石清水八幡宮、博多の
 筥崎宮、大分の宇佐神宮などが挙げられる。ほかにも、富岡八幡宮、手向山八幡宮、鹿
 児島神宮などがよく知られている。
・八幡宮信仰で、何よりも興味深い点は、八幡神が「古事記」や「日本書紀」といった日
 本神話のなかにまったく登場しないことである。八幡神は日本神話と無縁な存在であり、
 神話では語られないまま、歴史の舞台に忽然と登場するのである。
・八幡のことが最初に文献に登場するのは天平9(737)年である。この年に新羅に使
 節が派遣されるが、受け入れを拒まれ、日本と新羅との関係が悪化した。そこで朝廷は、
 伊勢神宮、大神神社、筑紫国の住吉と香椎宮、そして八幡に幣帛を奉し、この出来事を
 報告したという。
・伊勢神宮は天皇家の祖神である天照大御神を祀る神社であり、奈良の大神神社は日本で
 もっとも古いとも言われる神社である。筑紫の住吉は新羅をのぞむ博多湾に面しており、
 香椎宮はいわゆる三韓征伐を行なったとされる神功皇后を祀っている。その意味ではど
 れも、新羅の問題を報告するにはふさわしい神社と言えるが、宇佐神宮のことをさす八
 幡が、なぜここに含まれたのかは注目される。
・八幡信仰が広がっていくにあたっては、八幡神が応神天皇と習合したことが大きくもの
 をいった。それによって八幡神は、天照大御神に次ぐ皇祖神として位置づけられるよう
 になったからである。
・その応神天皇の母が神功皇后で、皇后は妊娠中に三韓征伐を行なったことから、応神天
 皇は「胎中天皇」とも呼ばれている。
・8世紀のはじめの時点で、宇佐に祀られた八幡神が朝廷にとってかなり重要な存在であ
 ったこを示唆している。 
・聖武天皇が発願した東大寺における大仏の建立は、国家の総力を上げて行なわれた大事
 業であった。八幡神は、この国家の大事業を支える上で大きな役割を果たし、それを通
 して、神々のなかで、もっとも重要な存在にのぼりつめていく。しかも、八幡神は歴史
 の舞台に登場し、それだけの出世を遂げるまでには、さほど時間がかかっていない。こ
 れは驚くべきことであり、日本の宗教史における一つの事件である。
・さらに、八幡神をめぐって重大な事件が起こる。それは、法相宗の僧侶であった道鏡に
 まつわる事件である。 
道鏡は、物部氏の一族である弓削氏の出身であり、そこから弓削道鏡とも呼ばれた。こ
 の道鏡と深い関係を結んだのが、女帝の孝謙天皇であった。孝謙天皇は聖武天皇と光明
 皇后の子で、二人の間に男子が生まれなかったことから天皇に即位した。病気療養中に
 道鏡の宿曜秘法によって癒されたことから、道鏡を寵愛するようになったとされる。
・道鏡は法王(法皇)の位を授けられている。歴史上この位を与えられたのは道鏡だけだ。 
・宇佐の八幡神から道鏡を皇位に就けるように託宣が下ったという知らせが朝廷にもたら
 される。
・これまで我が国では君主と臣下は厳格に区別されており、臣下が君主となった例はない
 ので、皇統につらなる人間を皇位に就けるべきだというのである。これは、皇統と無縁
 な道鏡が皇位に就くことを妨げるものだった。
・この託宣を聞いた称徳天皇は、道鏡の皇位に就けようとしていたので、激怒し、清麻呂
 と姉の法均を流刑に処す。しかし翌年に称徳天皇は亡くなってしまったため、道鏡は下
 野国薬師寺に左遷、あるいは流罪に処せられたというのである。
・これが、今日では「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれるものだが、称徳天皇と道鏡とがい
 かなる関係にあり、道鏡を皇位に就ける計画が本当に進行していたのかどうかははっき
 りしていない。
・歴史の舞台に突然あらわれ、瞬く間に皇位を左右するまでの力を発揮するようになった
 八幡の神は、いったいどこから生まれてきたのだろうか。
・「託宣集」には、八幡神の起源にかんして、「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、
 吾は日本の神と成れり」という一文が出てくる。辛国は韓国のことであり、八幡神は日
 本の固有の神ではなく、外来の神、韓国の神であったことを意味する。
・一時は、弥生時代に大量の渡来人が日本に移り住むようになり、それで稲作がもたらさ
 れたという説が流布していた。しかし最近では、稲作は縄文時代からすでに行なわれて
 いたことが明らかになり、渡来人が縄文人を圧倒して弥生時代が誕生したという説は信
 憑性を失っている。
・しかし、九州北部は朝鮮半島に近く、かなりの数の渡来人が定住するようになり、その
 文化的な影響を被ったことは否定できない。日本にやってきた渡来人が、自分たちの信
 仰する神を捨て去ることなく、日本でもそれを祀るようになったことは十分に考えられ
 る。
・となると、八幡神はもともとは新羅の神であった可能性が高くなってくる。八幡神が、
 記紀神話に登場しないことも、その点から説明できる。日本に固有の神ではないがゆえ
 に、日本の神話にはまったく出てこないのである。
・後の時代のことになるが、新羅の神を祀った例がある。それが新羅明神と呼ばれる神で、
 三井寺とも呼ばれる園城寺を守護する護法神になっている。
・園城寺は、寺門とも呼ばれ、山門である比叡山延暦寺と対立した天台宗寺門派の総本山
 である。  
・新羅明神は、現在、園城寺の境内から5百メートルほど行った新羅善神堂に祀られてい
 る。その像は、一目で日本の神ではないと感じさせる異相の神、異形の神である。
・後の八幡神の展開を考えると、荒ぶる神という側面は興味深い。というのも、八幡神は
 武士を守る「武神」としての性格をもっていくからである。
・八幡神の期限は新羅の神というところにあり、伊佐周辺の地域に住むようになった渡来
 人によって最初は祀られていた。それが、大仏建立にかかわり、中央に進出していくこ
 とになる。
・八幡信仰研究の権威である中野幡能は、八幡神の本体が応神天皇であり、なおかつ弥勒
 菩薩であると宣言されたことで、神功皇后の子である応神天皇が弥勒菩薩として下生し
 たという信仰が、八幡神の地位の上昇に貢献したと述べている。それによって、八幡神
 は、地域の神、宇佐氏の氏神という制約を脱し、より普遍的な存在に変貌していったの
 だ。
・八幡神は皇祖神に祀り上げられた。それは、八幡神が朝廷による崇敬の対象になったこ
 とを意味する。
石清水八幡宮の祭神も、宇佐八幡宮から勧請されたもので、そこには八幡大神として、
 誉田別命(応神天皇の本名)、比淘蜷_(宗像三女神を意味する)、息長帯比賣命(応
 神天皇の母、神功皇后の本名)が祀られている。比淘蜷_とは、一般に主たる祭神の妻
 あるいは娘を意味するが、この場合は応神天皇の妻ということである。
・石清水に八幡神が勧請されたのは、貞観元(859)年のことで、当初から「皇大神」
 や「太祖」と呼ばれていた。石清水八幡宮は伊勢神宮につぐ「国家第二の宗廟」と呼ば
 れるようになっていく。
・さらに、源氏が八幡神を氏神としたことで、その信仰は広がりを見せていく。
・源頼義は、奥州における前九年の役に勝利して凱旋した折に、石清水八幡宮を勧請して、
 壷井八幡宮を建立した。
源頼朝は、石清水八幡に対しても崇敬を続ける。源氏の後に将軍家となる足利氏や徳川
 氏も八幡神を氏神としたことで、それは武神、あるいは弓矢の神、必勝の神としての崇
 敬を集めていく。
・もう一つ、八幡神を祀る神社として重要な存在となったのが、福岡博多の箱崎にある筥
 崎宮である。筥崎宮という呼称からは八幡神を思い起こさないが、別名を筥崎八幡宮と
 言い、宇佐や石清水と並んで日本三大八幡宮と言われている。
・筥崎宮は、宇佐や石清水から勧請されたものではなく、八幡神が直接託宣を下したこと
 で造立された。筥崎に八幡神が祀られるようになったのは、海外からの侵略を防ぐため
 で、蒙古が来襲した元寇の折には、亀山上皇が祈願を行なった。
・もう一つ、八幡神の信仰が広がる上で大きな意味をもったのが、仏教との密接な関係だ
 った。大仏建立のために上京した八幡神は、そのまま手向山八幡宮に祀られることにな
 り、東大寺の守護神としての役割を果たすようになる。
・さらに、東大寺が全国の国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけられたことによっ
 て、各国の国分寺にも八幡神が勧請されている。
・京都の東寺にも八幡神が勧請され、現在でも境内のなかに鎮守八幡宮として鎮座してい
 る。有力な寺院に守護神として祀られた八幡神は、ほかに大安寺、薬師寺、勧修寺、神
 護寺などの場合もある。
・八幡神と仏教徒の密接な結びつきを象徴するのが、「僧形八幡神」である。僧形八幡神
 は、剃髪し、袈裟をかけて、錫杖を携えている。僧形八幡神は、八幡神が神の身を脱す
 るために修行している姿を描いたものなのである。
・神道と仏教とを別の宗教として考えるならば、こうした発想は奇異なものに思えてくる。
 しかし、神仏習合の時代においては、人と神との距離は小さく、人が成仏を目指して仏
 道修行するように、神もまたその境遇を脱して仏になるために修行を行なうものと考え
 られていた。
・神道の世界のなかに、八幡信仰という相当に独立性の強い信仰世界が存在していること
 が明らかになった。それは八幡神を唯一の神とする一神教として見ることさえできる。
 しかも、八幡神は比淘蜷_と神功皇后からなる三位一体の構造から成り立っており、そ
 こでもキリスト教における神のあり方に近いのだ。
・もし八幡信仰が存在しなかったとしたら、日本人の宗教世界は軸を失い、現在とはかな
 り異なるものになっていたかもしれない。そうした信仰はほかにはない。匹敵するのは
 皇祖神である伊勢の信仰だけかもしれない。それほど八幡信仰のもつ意味は大きいので
 ある。
 
天神(菅原道真を祀った「受験の神様」の謎)
・天神信仰が関係するのが「菅原伝授手習鑑」である。こちらは時代はそのままで、天神
 として祀られるようになる菅原道真の物語になっている。その内容はほとんどがフィク
 ションである。ただ、天神にまつわる伝説が巧みに取り入れられており、まさに天神信
 仰を背景とした物語になっている。
・天神信仰にかかわる神社は、天満宮、天神社、北野神社などと呼ばれる。祭神は基本的
 に菅原道真公だけである。
菅原道真は、平安時代前半の人物である。彼が歴史の舞台に登場したときには、「古事
 記」などはとっくに編纂されていた。したがって、天神は八幡神と同様に記紀神話には
 まったく登場しない。
・八幡神の場合にも、途中で応神天皇と習合しており、その点では人間を神に祀ったもの
 と見ることができる。それに対して、天神の場合には、雷神と習合した面はあるにして
 も、もとは菅原道真という歴史上の人物そのものを神として祀ったものである。
・キリスト教やイスラム教のように、信仰の対象となる神が唯一絶対の創造神とされてい
 る宗教からすれば、人間をかみとして祀るということは考えられない。
・ただ、キリスト教でもイスラム教でも、あるいはその源流となったユダヤ教でも、その
 神は人格神としてとらえられ、人間のように性格や感情をもっている。そして、直接人
 に対して話しかけてくることもある。その点で、一神教の神にも人間的な側面は色濃い。
・また、キリスト教でもイスラム教でも、「聖人崇拝」あるいは「聖者崇拝」というもの
 がある。これは、殉教者や特別に信仰が篤い人間を死後に祀るもので、祀られた存在に
 は奇蹟を起こすなど特別な力が備わっていると考えられ、人々の信仰の対象となってき
 た。キリスト教では、「聖フランシス」、「聖バレンタイン」などと呼ばれている。
・人を神として祀る日本の慣習は、この聖人崇拝に近い。 
・天神の使いとされているのが牛である。各地の天満宮を訪れると、境内に横たわった牛
 (臥牛)の像を見かける。
・なぜ牛が天神の使いになっているのだろうか。それはまず、菅原道真が生まれた日が丑
 の日で、亡くなった日も丑の日だったからである。
・菅原道真が大宰府に左遷されたまま亡くなるが、墓を築いてそこに埋葬しようとして牛
 が引く車でそちらに向かった。ところが、途中でその牛が動かなくなった。横たわった
 牛は、その様子を写したものである。どうしても牛が動かなかったために、近くの安楽
 寺に葬った。この安楽寺が今日の大宰府天満宮である。
・もう一つ、天神と密接な関係をもっているのが梅である。各地の天満宮は梅の名所とも
 なっている。その背景には「飛梅伝説」がある。
・菅原道真は、大宰府に左遷されるとき、紅梅殿と呼ばれる邸宅に植えてあった梅の木と
 の別れを惜しんで歌を詠んだ。すると、大宰府へ去った道真を慕って、その梅は一夜の
 うちに空を飛んで行ったと言うのである。
・天神は人を神に祀ったものであるわけだが、一般にそうした場合、二つのケースが考え
 られる。一つは、その人間が生前に偉大な働きをし、それで死後にその遺徳を顕彰する
 ために祀るケースである。これに対して、もう一つのケースが、恨みをもって亡くなっ
 た人物が、死後に祟りを起こしたとき、あるいは起こしたと考えらたときと言った方が
 適切かもしれないが、その祟りを鎮めるために祀るケースである。
・菅原道真は、右大臣兼右大将の位にまでのぼりつけた。右大臣は太政大臣、左大臣に継
 ぐもので、律令制の官位では第位である。それが突如、大宰府に左遷され、そこで亡く
 なった。その無念さが、祟りを起こすことに結びついたとされたのである。
・最初に祀られたときには、祟りの神、怨霊の神としてだった。つまり、恐ろしい神だっ
 たわけである。ところが、時間が経つにつれて、むしろ菅原道真の生前の行ないの方が
 クローズアップされるようになり、学問の神、書道の神、あるいは寺子屋の神として信
 仰されるようになっていく。現代においても、天神、天満宮と言えば、受験の神である。
・死後に天神として祀られるようになった菅原道真は歴史上に実在した人物である。八幡
 神と習合した応神天皇は、歴史上実在したことがたしかなもっとも古い天皇とも言われ
 るが、3世紀から4世紀にかけての人物で、その生涯は不確かである。それに比べれば、
 菅原道真は9世紀から10世紀の人物で、生涯の歩みはよく分かっている。
・なぜ菅原道真が突如、左遷されたか。はっきりとしたことが分かっているわけではない。
 道真が醍醐天皇を廃して、娘婿である斉世親王を立てようとする陰謀に加担したからだ
 とされている。その背景には、醍醐天皇と宇多上皇との対立や、菅原道真の華々しい出
 世に対する嫉妬などがあった。もっぱら藤原時平が悪役に仕立てられ、その陰謀で左遷
・ されたことが強調されているが、現実はそれほど単純ではなかっただろう。
・大宰府に左遷されたからの菅原道真は、仏事と詩作の日々を送ったとされている。そし
 て、病によって延喜3(903)年2月に亡くなっている。左遷から3年目のことだっ
 た。その生涯は悲劇的なものである。しかも、実際にはそれほど重い罪ではなかった可
 能性がある。こうしたことは、菅原道真が悲劇のヒーローとして祀り上げられることに
 結びついていくのである。
・菅原道真が左遷された後、藤原時平は権力を掌握し、はじめて荘園整理令を出すなど、
 政治の改革にも力を尽くした。しかし、延喜9(909)年に39歳の若さで亡くなっ
 てしまう。菅原道真の死から6年後のことであった。
・藤原時平の死は、後に菅原道真の怨霊の祟りによるものとされるようになるが、時平が
 亡くなった直後には、そうしてとらえ方はされなかった。
・文献の上ではじめて菅原道真の怨霊の話が出てくるのは、それから14年後である。そ
 の後は、大規模な災厄が起こるたびに、それは菅原道真の怨霊の仕業とされるようにな
 っていく。
・菅原道真が雷神を操っていると噂され、道真の霊と雷神とが習合することになったとさ
 れるが、それを伝える同時代の資料はない。
・菅原道真の遺骸が葬られた大宰府の安楽寺では、延喜5(905)年に祀廟が創建され、
  延喜19年には勅命によって社殿が建設された。
・一般に、新たな神社の創建は、勧請によって行なわれるが、北野と大宰府の場合には、
 どちらかの祭神を分霊して創建されたものではない。京では、祟りの神として祀られる
 ようになり、大宰府では墓所が神社へと発展したのだった。
・祟りの神として祀られていることは、天神は恐ろしい神であることを意味する。しかし、
 時代を経るにつれて、天神は恵みをもたらす善神へと変貌をとげていく。
・事柄の真偽は不明だが、天神としての菅原道真の霊が、冤罪に陥った人間を救う「雪冤
 の神」として信仰されるようになった。祟るといった悪を行なうことができるというこ
 とは、悪を統制できることを意味する。そのために、祟り神はやがて善なる神へと変貌
 をとげていくのだ。
・中世において天神は、至誠の神、正義の神となり、さらには国家鎮護の神として信仰さ
 れるようになる。また、鎌倉時代になると、念仏往生を守護する神としても信仰される
 ようになる。生前の菅原道真が学問の人であったことから、「学神」としての信仰も生
 まれる。 
・面白いのは、さらに天神が書道の神として信仰されるようになっていく点である。菅原
 道真の書いた書というものは、実はまったく残っていない。道真が能書家だったという
 話も伝わっていない。ところが、天神が学問の神、詩文の神として祀られるようになる
 なかで、生前の道真は必ずや能書であっただろうと見なされ、そこから書道の神として
 信仰を集めるようになる。とくにこの面は、江戸時代に寺子屋で菅原道真が書道の神、
 手習いの神として祀られるようになったことで広がりを見せていく。
 
稲荷(絶えず変化する膨大な信仰のネットワーク)
・街角に小さな稲荷社が祀られていることが多い。そこは、地域の人々の信仰を集めてい
 て、通りがかりにその社前で拝む人の姿をよく見かける。屋敷神として祀られている稲
 荷社もかなりの数にのぼるが、企業が本社のビルの屋上に稲荷社を祀っている例もある。
・稲荷と言えば、千本鳥居と、白い狐の置物がすぐに頭に浮ぶ。稲荷神と聞いて、狐のこ
 とを思い浮かべる人も多いだろうが、稲荷社に狐そのものが祀られているわけではない。
 狐は、あくまで稲荷神の使いである。
・稲荷と言えば、「正一位稲荷大明神」という額や幟を掲げているのを見かける。正一位
 というのは、朝廷が臣下に対して与えた位階のうち、もっとも位の高いものである。そ
 れを神にも応用したのが、「神階」と呼ばれるもので、各地で祀られた神々にそれが授
 けられた。
・稲荷神に対しては、最初、従五位下が授けられた。その時点では、それほど神階は高く
 なかった。しかし、時代とともにそれぞれの神にはより上の位が与えられるようになり、
 稲荷神も正一位を授けられるまでに至った。
・しかし、正一位をことさら謳っているのは稲荷社に限られ、ほかの神社ではそうしたこ
 とはほとんど行なわれていない。
・伝承からすれば、稲荷の神は穀物の神であり、稲の神であったことになる。現在でも、
 稲荷にはこの稲の神としての性格が残されており、農村部でも信仰を集めている。
・稲荷も八幡と同様に、「古事記」や「日本書紀」に記された神話には登場しない神であ
 り、天照大御神をはじめとする日本に固有の神とはまったく関係がない。渡来人の秦氏
 が祀ったものだとすれば、それは外来神である。
・日本の神社のなかで、もっとも古い信仰の形を残しているとされるのが、大和国一之宮
 である奈良県桜井市にある大神神社である。この神社の何よりもの特徴は、拝殿はある
 ものの、本殿にあたるものがない点に求められる。一般の神社なら、本殿に御神体を祀
 り、それを拝殿から拝礼する。
・稲荷神は、稲の神、穀物の神としての性格がしだいに明確にしていったわけだが、その
 信仰が広まっていく上で、密教を核とする真言宗とのかかわりが生まれたことは大きか
 った。
・日本の仏教界は、中世において密教の信仰に席捲された。そして、密教は、神道と仏教
 を接合させ、神仏習合の信仰を広めることに大いに貢献したのである。
・稲荷神を描いた絵画には、老翁が稲束を担いでいるものもあるが、多くは白い狐に稲荷
 神がまたがったものである。ただし、稲荷神の姿はさまざまで右手に宝剣をもち、左手
 に如意宝珠をささげた女神であることもあれば、老翁が右手で稲穂をもち左手の上に如
 意宝珠を載せたものなどもある。こうした絵画が数多く描かれることで、稲荷神とその
 眷属としての白い狐は切っても切れない結びつきをもつことになったのである。
・現在の伏見稲荷大社は神道の神社であるが、稲荷信仰にかんしては、その一方で、豊川
 稲荷を中心とする仏教系の信仰が並立する形で存在している。このため、伏見稲荷は神
 道系の稲荷で、豊川稲荷は仏教系の稲荷とされているものの、江戸時代まで遡ってみれ
 ば、伏見稲荷も神仏習合の形態をとっており、必ずしも神道系には限定されなかった。
 神道と仏教とが明確に区別されるのは明治以降のことで、それ以前の稲荷信仰は典型的
 な神仏習合の信仰だったのである。
・日本の神々の特徴は、分霊と勧請によって、その信仰が広がりを見せていくことにある。
 稲荷信仰の場合はその典型であり、各地に伏見稲荷から勧請した稲荷社が建立され、多
 くの人たちの信仰を集めていった。 
・さらに、稲荷神に特徴的なのは、信仰内容も拡大していったことである。稲荷神は、そ
 の期限が示しているように、当初は稲の神としての性格をもっていた。稲は、もっとも
 重要な作物であり、人々は稲の豊かな実りが実現されることを稲荷神に祈った。そのた
 めに、各地に稲荷社が勧請されたわけである。
・しかし、稲荷神は稲の神にとどまってはいなかった。漁村地帯においては、漁業神とし
 ても信仰されるようになる。 
・江戸時代になると、さまざまな地方の武士が江戸に住むようになり、彼らは新たに開発
 された宅地に住居をもつようになった。その際に、土地の神を稲荷神として祀ることが
 多く、稲荷は屋敷神として広まっていく。
・そして、祀り手が拡大することによって、信仰内容も広がりを見せ、武士たちは武運長
 久を稲荷に願うようになる。また、商人や町人たちは、もっぱら商売繁盛を願うように
 なる。
・これほど、多くの人々の信仰を集めた神はほかにいない。その結果、無数の稲荷社が各
 地に誕生することになったのである。 
・稲荷のシンボルとしての千本鳥居は、伏見稲荷だけでなく、各地の稲荷社に建てられて
 いる。千本鳥居の起源は何なのか。実は、これについてはあまりよく分かっていない。
 そもそも千本鳥居についての研究がないからである。
・江戸時代の絵図を見ても、千本鳥居は見出せない。その点からすると、江戸時代にはま
 だ稲荷社に千本鳥居を建てる慣習は存在しなかったことになる。おそらくそこには、お
 塚の信仰が関係している。
・お塚とは、稲荷山に無数に祀られている石碑のことをさす。今は、千本鳥居をくぐり抜
 けると、お塚のある場所へ出るようになっていて、それから後は、いたるところにお塚
 を見出すことができる。
・お塚の信仰が生まれたのは、実は近代になってからのことである。そこには、明治に入
 ってすぐに行なわれた神仏分離の影響があった。
・神仏分離は、明治政府が出した「神仏判然令」にもとづくもので、神道の純粋性を確保
 するために、神社に祀られていた仏教関係の仏像を撤去したり、境内にあった神宮寺を
 廃止することを目的としていた。
・神仏分離は、仏教信仰の排除にとどまらず、神社における信仰を純化することも含まれ
 ていた。その結果、伏見稲荷では、神号が祀っていた人々が、稲荷山の山中に勝手に石
 碑を建て、それを私的な礼拝施設にした。それがお塚のはじまりだったのである。
・お塚が近代に入って増え続けていた背景には、稲荷行者の存在があるとも言われる。彼
 らは、お塚のなかの特定の神を信仰の対象としていて、自分についてくる信者たちをそ
 こに導いた。お塚の神が、それぞれの人間汚守護神の役割を果たすことになったのであ
 る。
・千本鳥居も、このお塚の信仰の高まりの影響で生まれたのであろう。お塚を建てること
 は神社側によって規制されている。ならば、鳥居を奉納することでその代わりにしよう。
 それについては、神社側もコントロールが可能なので、許容されたのではないだろうか。
・この鳥居は朱塗りの木製ということもあり朽ちてしまうこともあろうが、それ以前に、
 新しく鳥居を奉納したいという希望があれば、古いものは取り去られてしまうようなの
 だ。
・これが、それぞれのお塚に奉納されている小さな鳥居となると、多くの信仰者を集めて
 いるところでは、数日前のものしかなかった。あまりに奉納される数が多いので、一週
 間もいないうちに取り払われてしまうらしい。
・お塚にしても、千本鳥居にしても、そこには、現在においても、稲荷信仰がいかに盛ん
 なものであるかが示されている。稲荷神が商売?盛の神としての性格を持つようになり、
 商売人が熱心に信仰するようになったことが影響している。
・今、稲荷山を訪れるのは、若者が中心であり、おそらく彼らの間にその信仰がこれから
 も受け継がれていくことだろう。しかも、伏見稲荷はいたるところに勧請されている。
 その信仰のネットワークは、全国津々浦々に広がっている。これからも、稲荷の信仰が
 衰えることはないだろう。
 
伊勢(皇室の祖先神・天照大御神を祀る)
伊勢神宮は、ほかの神社と同様に、今日では宗教法人の形態をとっているが、その正式
 な名称は「宗教法人神宮」である。伊勢神宮という名前は使われない。ただ、一般には
 伊勢神宮の名前が使われる。また、昔から「大神宮さん」と呼ばれるとともに、「お伊
 勢さん」とも呼ばれてきた。
・伊勢神宮は天照大御神を祀る内宮と、豊受大御神を祀る外宮からなっている。内宮の正
 式な名称は「皇大神宮」であり、外宮は「豊受大神宮」である。
・伊勢神宮を総本社として、伊勢以外の場所で天照大御神を祀る神社が神明社、神明宮、
 皇大神社などと呼ばれるものがある。
・代表的な神明社としては、東京の芝大神宮、石川の金沢神明宮、長野の仁科神明宮、京
 都の日向神明宮などがある。 
・神明社は、あくまでも伊勢神宮の下に属しているという感覚が強い。その点では、伊勢
 神宮からの勧請は、八幡などからの勧請とは性格を異にしていると考えるべきかもしれ
 ない。天照大御神は、伊勢という土地から離れがたいものであり、そこにこの神の特徴
 が示されているようにも思われる。
・天照大御神は、日本の神々の世界においては中心をなす存在であり、皇室の祖先、皇祖
 神とされている。 
・天照大御神という呼称は「古事記」のもので「日本書紀」では、天照大神と表記されて
 いる。 
・伊勢神宮の創建に関しては、「日本書紀」に記されている。
・天照大御神は、はじめ天皇の住む宮殿に倭大国魂の神とともに祀られていた。ところが、
 疫病が流行し、その原因は、二つの神が争っていることに求められた。そこで、二つの
 神は別々の場所に祀られる。倭大国魂の方は、現在の奈良県天理市にある大和神社に移
 された。
・問題は、天照大御神が移された笠縫邑がどこかである。それは、奈良県桜井市になる大
 神神社の摂社である檜原神社あたりではなかったかと言われているが、他にも候補地は
 多数存在する。
・外宮に祀られた神は、あくまで内宮に祀られた天照大御神に仕える役割を負っていた。
 それは現在にも影響しており、伊勢神宮と言えば内宮という感覚があるし、外宮を参拝
 してから内宮に参拝するという慣習も成立している。
・ここで興味深いのは、天皇と伊勢神宮との関係である。伊勢神宮に皇室の祖先である天
 照大御神が祀られている以上、代々の天皇は伊勢神宮に参拝していてもおかしくはない
 のだが、事実は違う。ただし、近代になるまで天皇が直接神社の社殿におもむいて参拝
 することはなかった。近くまでは行くが、参拝は家臣に任されるのである。したがって
 それは「行幸」と表現される。
・古代の天皇のなかで、伊勢に行幸した天皇はたった一人しかいない。「日本書記」によ
 れば持統天皇は伊勢へ行幸することを発表する。ところが、三輪高市麻呂という家臣の
 強硬な反対にあう。それでも持統天皇は行幸を強行してしまう。
・それ以降、代々の天皇は伊勢に行幸してはいない。古代だけでなく、中世においても近
 世においてもそうだった。持統天皇の次の行幸したのは明治天皇である。
・なぜ代々の天皇は伊勢神宮を訪れることがなかったか。それは一つの謎であり、そこに
 は興味深い事実が隠されている可能性があるが、明確な理由は判明していない。どっか
 にそれを忌避する感覚あったように思われる。
・天皇が行幸しない代わりに、伊勢神宮には、「斎宮」の制度が設けられた。これは、内
 親王や女王といった皇室につらなる女性が選ばれ、潔斎(神事の前に酒肉などの飲食を
 慎んで心身を清めること)を行ないながら神事の際に奉仕する制度である。
・この斎宮の制度は南北朝時代に廃絶されてしまった。それまでこの斎宮が常駐していた
 ために、天皇の行幸を必要としなかったとも考えられる。伊勢への行幸に相当な費用が
 かかることが、それが行なわれなかった理由だという説もあるが、果たしてそれだけが
 理由だろうか。
・伊勢神宮では、20年に1度遷宮が行なわれ、社殿が一新されるということは広く知ら
 れている。遷宮は伊勢神宮の専売特許のように思われるが、実は、ほかの神社において
 も遷宮が行なわれていた。摂津の住吉大社、下総の香取神宮、常陸の鹿島神宮などが主
 だった神社では20年に1度遷宮を行なうことが定められている。
・なぜ遷宮が行なわれるのか。一つの理由は、老朽化である。しかし、伊勢神宮以外の神
 社では、20年で社殿を建て替えるところはない。しかも、旧い社殿も用いられていた
 古材は、捨てられてしまうのではなく、リサイクルされている。
・たんに老朽化が理由なら、社殿をもっともたせる工夫はいくらでもできるだろう。実際、
 ほかの神社の社殿は、どこも20年以上もっている。それでも伊勢で遷宮が行なわれる
 のは、もっと別の理由による可能性がある。
・神道学者の櫻井勝之進は、建物が朽ちることが遷宮の理由ではなく、神に新しい宮殿を
 捧げる「新宮遷り」ということ自体が目的になっていると述べている。
・伊勢神宮では、古来から「私弊禁断」という禁令があり、天皇、皇后、皇太子以外の人
 間が私的に奉幣を捧げることは禁じられてきたとされている。
・朝廷の力が衰え、自分たちだけでは経済的に支えられなくなると、伊勢神宮の信仰はよ
 り広い層に開かれるようになる。 
・伊勢神宮への参拝を広める上で大きな役割を果たしたのが、「御師」という存在である。
 御師が最初に生まれたのは平安時代の中期とされるが、彼らは貴族の祈願や奉幣を神宮
 に取り次ぐ役割を果たした。
・御師の取り次ぐ奉幣は、やがて京の貴族から地方の地頭や名主などにも及び、武士の時
 代に入ると、武士階級にまで広がっていく。
・このようにして御師を媒介にして伊勢神宮への参拝が一般化していくと、それは「伊勢
 参り」と呼ばれるようになり、信仰活動としての重要性を増していく。
・集団で伊勢神宮に参拝する習慣も生まれ、江戸時代に入ると、伊勢参りは相当に盛んな
 ものになっていく。 
・ただ、伊勢参りに赴く人々が、純粋に信仰からそうした行動に出たかと言えば、怪しい
 面がある。何しろ外宮と内宮の間にある古市には遊廓が建ち並んでいたからである。古
 市に行くことが伊勢へ行く本当の目的だと言うのである。
・現代ではそういうことは行なわれていないが、江戸時代に生まれた習俗に、「お陰参り」
 というものがあった。これは、参拝のためにいっさいの準備をしないことにあった。寸
 前まで働いていたり、家事をしていた人間が、いきなりそれを中断し、そのままの恰好
 で伊勢参りに出かけてしまうのである。そのため、お陰参りは「抜け参り」とも呼ばれ
 た。
・これは、突発的な現象で、職場放棄にもあたるわけだが、それが信仰にかかわるもので
 あったために、店の主人などは奉公人のお陰参りを止めることができなかった。しかも、
 伊勢神宮へと至る街道に住んでいる人々は、お陰参りをする人たちに対して食事や銭を
 布施した。
・最初のお陰参りは、慶安3(1650)年に起こる。そのきっかけはえどの商人にあっ
 とされ、このときには、箱根の関所を一日に数百人通過していき、一番多いときにはそ
 れが2100人にのぼったとされている。
・これ以降、江戸時代には何度かお陰参りブームが起こり、それはほぼ60年に1度の周
 期でめぐってきた。 
・なぜこうした現象が起こったのか。それを解明しようとする試みもなされているが、今
 のところ謎が解けているとは言い難い。江戸時代には、政治的には安定が長く続いた時
 代であり、その安定に飽きた人々が、熱狂的な信仰行為を求めたかもしれない。
・明治時代になり、近代になると、政府は、神道を宗教の枠には入らない国民道徳として
 とらえ、それを国民全体に浸透させようとした。その際には、伊勢神宮は、庶民的なお
 伊勢さんではなくなり、皇祖神を祀る侵しがたい場所ととらえられるようになる。
・そこに祀られた天照大御神と現実の天皇との密接な関係が強調されるようになっていく。
 軍隊が集団で参拝し、境内を埋め尽くすようなこともあり、そこには近代天皇制の象徴、
 さらには軍国主義の象徴としての役割を担うようになっていく。
  
出雲(国造という名の現人神神主の圧倒的存在感)
出雲大社の社殿は八丈の高さがある。それは24メートルに相当し、これだけの高さを
 誇る神社建築はほかには存在しない。出雲大社は日本一大きな神社である。
・通常の神社では、本殿のなかには御神体が祀られている。ところが、出雲大社では、本
 殿のなかにさらに社があり、二重構造になっている。社となった神座のなかに、何が祀
 られているのかまでは分かっていない。おそらく、それを知っているのは出雲国造だけ
 だろう。
・本殿の内部にさらに社があるということは、そこは御神体をおさめる場所ではなく、何
 らかの祭儀が行なわれた場所であることを示している。
・実際、本殿の内部で祭儀が行なわれたことを示す図と絵が残されている。その図を見る
 と、国造自身が神として祭祀の対象になっていた可能性を示している。
・祭儀の対象になるということは、国造が神と等しい存在であることを意味する。国造は、
 神が人の姿をとってあらわれた現人神であるとも言える。
・現在でも、国造だけは本殿の内部に年鑑3回入ることが許されている。その際に、いっ
 たいどういう形で祭祀を行なうのか、それはまったく分かっていない。
・実は、国造は出雲だけに限られない。出雲のほかに、今でも紀伊国造と阿蘇国造が古代
 から代々受け継がれ、それぞれ日前宮と阿蘇神社の祭祀を司っている。
・本来の国造は、それぞれの地域の支配者であり、豪族であった。大化の改新以前には、
 国造は、それぞれの土地を支配するとともに、祭祀を司っていた。それが、大化の改新
 以降になると、政治上の権力は朝廷から派遣される国司に奪われ、もっぱら祭司を担う
 ようになっていく。祭祀王が、ただの祭司となったわけである。
・出雲大社の国造の家は、現在では二つに分かれている。出雲大社の本殿の西側には、千
 家があり、東側にはもう一つの北島家がある。千家と北島家はもともと一つの家だった
 が、14世紀半ばに二つに分かれた。千家の方が本家で、北島家は分家の立場である。
・出雲国造において特徴的なのは、「火継式」という特別な祭儀の存在である。国造は、
 その地位を引き継いでから亡くなるまで、屋敷のなかにある「斎火殿(お火所)」とい
 う場所で神火を灯し続け、この神火で調理したものだけを食べる。家族であっても、そ
 れを口にできない。
・この神火は、国造の地位を承継する際に新たに鑽り出したものである。先代の国造が亡
 くなると、その後継者となる人間は、古代から伝えられた火鑚臼と火鑽杵をもって国造
 の住居である国造館を出発し、八束郡にある熊野大社(北島家では神魂神社)へ向かう。
 そこに祀られた熊野神は、もともと国造が祀っていたものとされる。新たに国造となる
 者は、熊野大社の鑽火殿で、もってきた臼と杵を使って神火を鑽り出してくるのだ。
・興味深いのは、先代の国造の葬り方である。神火を鑽り出すことで、先代の国造から新
 しい国造への承継がなされたと見なされるが、昔は、その知らせが国造家にもたらされ
 ると、先代の国造の遺体は赤い牛に載せて運び出され、出雲大社の東南にある菱根の池
 に水葬されたという。この池は今はない。そして、墓は作られなかった。墓が作られな
 いのは、国造はその先祖と一体であり、永遠に生き続けるものと考えられているからだ。
・火継式から思い当たるのが天皇の大嘗祭である。大嘗祭では、代々の天皇に宿るとされ
 る天皇霊が先代の天皇から新しい天皇に受け継がれていくという説がある。絶やしては
 ならないとされる神火は国造の魂の象徴であり、火継式は実は国造の霊が承継される霊
 継式なのだというわけである。
・このように、出雲国造という存在は特別なもので、神秘のヴェールに包まれている。し
 かも、火継式は現代にまで受け継がれ、今の国造も厳格に神火を守り続けている。
・ただし、出雲国造そのものが出雲大社の祭神であると言うわけではない。祭神は、記紀
 神話に登場する大国主神である。
・大国主神とは、偉大なる国の王の意味であり、天照大御神のいる高天原に対して、地上
 を意味する葦原中津国の支配者である
・古代の出雲において、相当に高度な文明が花開いていたことは事実で、最近になってそ
 の全貌がしだいに明らかになってきている。
・出雲大社の周辺からは大量の青銅器が発見されている。昭和59(1984)年には、
 出雲大社から東南の方角にあたる斐川町の荒神谷遺跡から大量の銅剣が発見された。そ
 れまで日本国内で発見された銅剣は総数でおよそ300本だったが、荒神谷遺跡ではそ
 こだけで358本の銅剣が発見された。また、この荒神谷遺跡では、銅剣とあわせて銅
 鐸が6口、そして銅矛が16本発見された。
・これだけでも驚きだが、それから12年後の平成8(1996)年には、荒神谷遺跡の
 さらに東南3.4キロメートルのところにある加茂岩倉遺跡から39口の銅鐸が発見さ
 れた。これも一カ所から発掘された銅鐸の数としては最大である。
・銅剣も銅鐸も紀元前2世紀から前1年世紀にかけての弥生時代のもので、古代の出雲に
 おいて、かなり高度な文明が展開されていたことを示している。
・出雲大社には、各地に分社があり、その数は300ほどになっている。ハワイにもハワ
 イ出雲大社がある。 
 
春日(権勢をほしいままにした藤原氏の氏神)
・奈良の春日大社を総本社とする春日神社は、全国に1000社以上ある。
・春日大社や春日神社には、どういう祭神が祀られているか。実は、これはかなり難しい。
・春日神は記紀神話には登場しない。しかも、八幡や稲荷のように、歴史のなかのある時
 点で、日本に降ってきたというわけでもない。春日伸のことを語る物語は存在しないし、
 天神とも異なり、人を神として祀ったものではない。考えれば考えるほど、春日神は不
 思議な存在である。
・にもかかわらず、鎌倉時代以降になると、春日神を祀る春日大社は、伊勢神宮や石清水
 八幡宮とともに、もっとも重要な神社とされ、「三社信仰」さえ成立する。
・春日神という存在の実体が必ずしもはっきりしないのは、それが一つの神であるという
 よりも、複数の神が合体したものだからである。
・春日大社の祭神は、春日神とされる一方で、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神
 であるとされている。それを反映して、春日大社の本殿には、この4柱の神をそれぞれ
 祀る神殿が4つ並んでいる。さらに、それとほぼ同列の存在として若宮神社があり、そ
 こには天押雲根命が祀られている。
・注目されるのは、春日神として祀られている5柱の正体である。まず、天児屋根命は記
 紀神話の岩戸隠れの場面に登場するもので、天照大御神が岩戸を少し開けたとき、鏡を
 差し出した神の一つである。そして、中臣連の祖神とされており、中臣(藤原)鎌足を
 祖とする藤原氏にとっては氏神である。
・比売神は天児屋根の妻であり、天押雲根命はその子どもである。つまり、5柱の神のう
 ち、3柱は藤原氏の祖神であり、氏神である。
・もう一つ重要なことは、武甕槌命は常陸国一之宮である鹿島神宮から、経津主命は下総
 国一之宮である香取神宮から勧請されたということである。
・では、なぜ春日神は鹿島香取から勧請されなければならなかったのだろうか。それは、
 鹿島が藤原鎌足の出生の地だからとも言われるが、鎌足の出生の地が鹿島とされたのは、
 むしろ春日大社に鹿島神宮の祭神が勧請されたことを踏まえてのことかもしれない。鹿
 島香取の両神宮は重要な神社かもしれないが、春日大社との結びつきは不可思議である。
・春日大社が藤原氏の氏神であったということは、その信仰を広める上で決定的に重要で
 あった。藤原氏は、その娘を天皇に嫁がせることで外戚の地位を確保し、官僚機構の頂
 点にある摂政や関白の地位を独占した。その体制は長い間崩れることはなかった。平家
 や徳川氏は、天皇家の外戚となり、藤原氏に取って代ろうと試みたが、それはかなわな
 かった。それほど藤原氏の地位は強固なものだった。
・外戚という立場から、藤原氏は天皇に対しても春日大社への参詣を促す。通常は天皇が
 平安京の外、洛外にある神社仏閣に行幸することは極めて珍しいことだったが、永祚元
 (989年)には一条天皇が行幸し、後一錠天皇もそれに続いた。
・そして、大和国全体が春日大社の神領となり、さらに春日大社を興福寺が支配する構造
 ができあがる。要は、藤原氏が、氏神とう氏寺を使って大和国を自らの支配下においた
 ということで、それが藤原氏の財政基盤ともなっていく。
・若宮神社は春日大社の摂社と位置づけられたものの、その祭神は正殿の4柱の神とほぼ
 同列と見なされるようになっていく。 
・これは、春日大社とは直接に関係しないが、鹿島香取の信仰として興味深いのが「要石」 
 である。表面に出ている部分はわずかだが、要石は実は巨大なものであるとされ、これ
 で地震を起こす大鯰を押さえていると言われてきた。それだけ、この地域では地震が多
 かったということかもしれないが、江戸時代、とくに安政2(1855)年10月2日
 に起きた安政大地震の直後には、この鯰を題材にした「鯰絵」が大量に作られた。
 
熊野(浄土や観音信仰との濃密な融合)
・「蟻の熊野詣」ということばがある。室町時代に入ると、地方の豪族などが熊野へ参詣
 に出かけるようになる。そして、江戸時代に入ると、一般の庶民も参詣に訪れるように
 なる。その数があまりにも多く、蟻の行列のように続いたことから、蟻の熊野詣という
 言葉が生まれた。
・熊野の地は、今でも交通が不便である。それでも江戸時代には東北や関東の人間たちが
 やってきた。 
・ただ、この熊野詣は、豪族や庶民がはじめたものではない。その先鞭をつけたのが上皇
 やその后である女院たちで、それは「熊野御幸」と呼ばれた。
・初期の熊野御幸では、海路が使われたり伊勢路が用いられたりした。寛治4(1090)
 年に白河上皇の御幸の折には、京都から大阪を経て和歌山に入り、田辺から中辺路を通
 って熊野へと至る参詣のための道が整備された。現在この道は、「紀伊山地の霊場と参
 詣道」として世界遺産にも指定されている。いわゆる「熊野古道」である。
・近年に入ると、神仏分離の影響があり、熊野詣をする人間は激減し、街道も荒廃した。
 熊野詣が盛んな時代には、街道沿いに多くの神社が祀られていて、そこを順に参拝して
 いくことが参詣の目的にもなっていた。その数が多くことから「九十九王子」と呼ばれ
 ていたが、それは一部しか現存しない。
・那智では、浄土信仰の延長線上に、得意な習俗として「補陀落渡海」が生まれた。これ
 は、那智の南方の海にあるとされた補陀落浄土に行き着くことができれば、極楽往生を
 果たすことができるという信仰である。補陀落渡海は、9世紀半ば過ぎから18世紀の
 はじめまでくり返された。最盛期は16世紀であった。
・補陀落渡海を最初に行なったのは、貞観10(868)年の慶龍上人だったとされてい
 る。渡海を敢行する僧侶は、小舟に乗せられ、ほかの船に引かれて沖まで連れていかれ
 る。そこで、曳船との綱が切られ、補陀落浄土へと漂流することになるが、その後彼ら
 がどうなったかは分かっていない。ただし、沖縄に漂着した日秀という僧侶の記録もあ
 る。
・補陀落渡海は、明らかに自殺行為である。そのため、なかには、これを拒否して、渡海
 の途中で近くの島に逃げ出したものの、とらえられて、その場で海に沈められた僧侶も
 いたとされる。
・諸国から補陀落渡海を希望して集まってきた僧侶たちを、先達が那智の浜のすぐ沖にあ
 る補陀落島へ導き、観音往生の儀式を行なった後に入水させた。結局のところ、死ぬの
 が、補陀落浄土へ行く着くために必要だと考えられていたわけである。
・私はそのことを知って、恐ろしい習俗だと感じた。何しろ、渡海船に僧侶が乗り込むと、
 釘付けにされ、そこから逃げられなくなるからである。
・こうした習俗が生まれた背景には、補陀落浄土へたどり着くことを望む強い信仰があっ
 たことになる。熊野へ多くの人たちを引き寄せたのも、そうした信仰の力である。
・現代の人間は、いかに長く健康に生きることができるかにもっぱら関心を抱くが、長寿
 を保証されていなかった中世や近世の人々は、いつ死が訪れるか分からないと考え、死
 が避けられないならば、何としても浄土に生まれ変わりたいと望んだ。そうした意識が
 極端にまで進んだとき、補陀落渡海のような習俗が生み出されたのである。
・熊野の神は、熊野神と呼ばれることもあれば、熊野大神と呼ばれることもあるが、もっ
 とも一般的なのは熊野権現という呼び名である。
・根源とは、仏が化身して日本の神として現われたもののことをさす。まさに、これは神
 仏習合の信仰の産物である。熊野の信仰には、神仏習合の側面が色濃いのである。
・熊野権現は、熊野三所権現とも呼ばれる。ここで言う三所とは、熊野本宮大社熊野速
 玉大社
、熊野那智大社のことをさす。この三つは本宮、新宮、そして那智と略称される
 ことが多い。  
・熊野は深い山に囲まれ、急峻な山がある上に、鬱蒼とした森があり、巨大な岩も見られ
 る。しかも、那智の滝に代表されるように、数々の滝があり、修験者が修業を行なうに
 は理想的な環境である。
・そのため、すでに奈良時代から、熊野で山林修業を行なう人間が現われたようだが、そ
 れが本格化するのは、平安時代に入り、密教の信仰が広まってからのことである。密教
 では、山岳修業を通して神秘的な霊力を身につけることが重視される。
・そもそも、根源という信仰対象は修験道と密接なつながりをもっている。その背景には、
 各地域に固有の修験道があった。立山修験の信仰対象は立山権現である。それが白山修
 験になると白山権現、羽黒修験では羽黒権現、日光修験では日光権現となり、熊野修験
 では熊野権現となったわけである。蔵王権現などは、もともとは吉野の金峯山をもとに
 しているが、各地に広がり、さまざまなところで蔵王権現が祀られている。
・熊野神を祀る熊野神社、あるいは十二所神社は、全国におよそ3000社があるとされ
 るが、地域的な片寄りは少なく、ほぼ全国に分布している。
・また、全国各地には、修験者によって熊野信仰が伝えられ、熊野神社が建立されていっ
 た。熊野三社をすべて勧請しているのが、宮城県名取市の熊野三社である。
 
祇園(祭で拡大した信仰)
・京都の3大祭と言えば、葵祭、祇園祭、時代祭である。
・このうち、歴史がもっとも浅いのが時代祭である。これは平安神宮の祭だが、そもそも
 平安神宮は明治になってから生まれた新しい神社で、その創建は明治28年である。
・平安神宮は、平安遷都を行なった桓武天皇と、明治天皇の父で、最後に京都に生活した
 天皇となった孝明天皇を祭神として祀っている。
時代祭は、その新しさもあって、平安時代以降の各時代の衣裳を身にまとった人物が行
 列する観光イベントに近い内容になっている。
・これに対して、葵祭と祇園祭は歴史も古く、どちらにも日本の伝統的な信仰が生きてい
 る。  
葵祭は賀茂御祖神社、いわゆる下鴨神社と賀茂別雷神社、いわゆる上賀茂神社の祭礼で、
 かつては「賀茂祭」と呼ばれていた。
・葵祭は、石清水八幡宮の石清水祭と春日大社の春日祭と並ぶ三大勅祭とされ、石清水祭
 が南祭と呼ばれるのに対して、葵祭は北祭とも呼ばれていた。
・葵祭の起源も、祟りが関係する。6世紀の欽明天皇の時代に大飢饉が起こり、卜部伊吉
 若日子に占わせたところ、賀茂別雷命の祟りであると判明した。そこで、馬に鈴を掛け、
 人には四猪頭をかぶせて駈け競べをさせたところ、風雨がおさまり、豊穣がもたらされ
 たというのである。 
・「源氏物語」の「葵」の巻には、光源氏の正妻・葵の上と、光源氏の恋人である六条御
 息所がこの祭の見物のための場所をめぐって争う「車争い」の場面が出てくる。
・日本全国には、下鴨神社と上賀茂神社から祭神を勧請した加茂神社、ないしは賀茂神社が
 300社近く存在している。
・葵祭が朝廷や貴族の祭であるのに対して、祇園祭は京都庶民お祭であり、京都の三大祭
 のなかではもっとも盛んである。そして、大阪の天神祭と東京の神田祭と並んで、日本
 三大祭にも数えられている。
・現代のイメージでは、八坂神社の祭礼である祇園祭のハイライトと言えば、山鉾巡行の
 ことが真っ先に思い浮かぶ。ただし、山鉾巡行は、本来は余興として後に生まれた「付
 け祭」で、本来の祇園祭は、巡行の後、夕刻から行なわれる神幸祭の方である。
祇園祭は観光のためにはじまったものではない。それは、怨霊を鎮めるための御霊会と
 したはじまったもので、当初は、現在の姿とはまったく異なるものだった。
・そもそも、八坂神社という名称自体が、古くからのものではなく、明治以降のものであ
 る。それ以前は、祇園社、祇園天神社、祇園感神院などと呼ばれていた。祭神も、明治
 以前は、中御蔵が牛頭天王、東御蔵が八王子、西御蔵が頗梨采女とされていた。
・現在、八坂神社が鎮座する八坂郷には、観慶寺という寺院が建てられ、祇園寺とも呼ば
 れていた。その観慶寺の境内に天神堂が設けられ、そこに天神と頗梨采女、そして八王
 子が祀られていたとされる。
・下鴨神社と上加茂神社の祭神である賀茂別雷命も雷神であり、それは天神であるとも言
 える。平安時代の京都には、いたるところに天神が祀られていて、後にそれが差別化さ
 れ、別の神と習合することで、異なる信仰を形成していったと見ることができる。八坂
 神社の場合には、天神が牛頭天王としてとらえられるようになることで、独自の信仰が
 生み出されていったのである。
・では、天神と習合した牛頭天王というのはいかなる存在なのだろうか。それは、由来が
 必ずしも明確ではない神格であり、どこからどのような形で生み出されてきたかは必ず
 しもよくわかってはいない。記紀神話には登場しないし、インド由来の神というわけで
 もない。八幡のように渡来人が祀っていた神でもない。
・祇園祭は、山車や囃子、踊りなどが出て華やかである上に、その担い手が一般の町人で
 あったことから、全国に広がり、今でも各地では祇園祭が営まれている。それを伝播さ
 せる上で、北前船の役割が大きく、東北や九州にも広まっていった。
 
諏訪(古代から続くさまざまな信仰世界)
・諏訪信仰は、長野県諏訪市にある諏訪大社を中心とした信仰である。この信仰は、諏訪
 地方を超えて全国各地に広がっている。
・諏訪大社と改称されたのは昭和23年のことで、それまでは諏訪神社と呼ばれていた。
 古くは諏訪社というのが一般的な呼称だった。
・諏訪地方以外の人々が、諏訪大社の存在を意識するのは、6年に一度、寅と申の年に行
 なわれる「御柱祭」についての報道に接したときである。
・諏訪を訪れても、諏訪大社という単体の神社にお目にかかることはできない。諏訪大社
 は上社と下社に分かれ、上社はさらに本宮と前宮に、下社は秋宮と春宮に分かれている。
 つまり諏訪大社は4つの神社の集合体であり、それぞれの神社は別々の場所に祀られて
 いる。
・祭神については、上社本宮が、建御名方神で、前宮がその妃である八坂刀売神を祀って
 いる。下社の祭神はどちらも、この二柱の神と建御名方神の兄とされる八重事代主神を
 祀っている。
・地元では、諏訪大社の祭神は、建御名方神としてよりも、「諏訪明神」として認識され
 ている。あるいは、「お諏訪さま」とも呼ばれる。そして、この諏訪明神の正体は「ミ
 シャクジ」ではないかとも指摘されている。
・ミシャクジは、ミシャグチ、サクジ、オシャモジなど、さまざまな呼び名がある。
 柳田國男は、「石神」あるいは、道の分岐したところに祀られる、「塞の神」としてと
 らえたが、ミシャクジは道祖神、性神、蛇神、守屋神、農耕神、風水神などの性格をも
 っていると言われる。
・諏訪大社でも、上社前宮を除くと、どれも弊拝殿と呼ばれる拝殿しかなく、本殿をもっ
 ていない。上社本宮では、拝殿の後背林である通称「御山」が御神体とされている。下
 社秋宮ではイチイの神木、春宮ではスギの神木が御神体となっている。
・諏訪大社とその周辺には、「諏訪七石」と呼ばれる巨石があり、御座石、御沓石、硯石、
 蛙石、小袋石、小玉石、亀石からなっている。このうち御座石が石の御座に相当するも
 のと考えられるが、それは現在、諏訪大社の摂社で、諏訪湖の東南にあたる茅野市の御
 座石神社に存在している。境内にあって、信仰の対象となって可能性があるのが硯石で、
 現在は弊拝殿の右横にある。
・古代の信仰を彷彿させるもう一つのものが、「大祝」の存在である。大祝は、諏訪神社
 の祭祀組織の筆頭に位置するものだ。ただ、これは明治4(1871)年に、政府によ
 って廃止されている。
・重要なのは、大祝が祭神である建御名方神が8歳の子供に憑依したものとされていた点
 である。諏訪大明神には神体はなく、8歳の童男がその代わりだというわけである。
・大祝の位に就くことができたのは、有員を祖とする神氏と、もう一つは金刺氏であった。
・大祝が現人神である点は、出雲大社の国造の場合と共通する。実際、上社の大祝の住居
 は「神殿」と呼ばれている。 
・大祝の位に就くことのできる神氏や金刺氏を総称して諏訪氏と言い、諏訪氏からは数々
 の分家も生まれていくが、その特徴は、神職をつとめる社家であると同時に、平安時代
 以降、武士化していったことである。こうした例は全国的にも少ない。
・諏訪氏は、馬の放牧と馬上から弓を射る騎射に優れていて、諏訪の領地を守り抜くとと
 もに、源氏、執権の北条氏、足利将軍家に仕えた。このために、諏訪氏が祀る諏訪明神
 は、「軍神」として、ほかの地域の武士の信仰を集め、それが諏訪信仰が全国に広がっ
 ていく契機になった。
・諏訪信仰は、軍神として広がりを見せていったわけだが、もう一つ、狩猟の神として広
 がっていた面がある。諏訪明神は、仏教が殺生として禁じる狩猟や肉食をする人々を救
 済する役割を担った。
・諏訪神社は、諏訪地方を含む長野県に多いが、もっとも数が多いのは新潟県で、888
 社にも及んでいる。新潟県では、各種の神社のなかで諏訪神社がもっとも多い。
 
白山(仏教と深くかかわる修験道系「山の神」)
・白山信仰は、石川、福井、岐阜の3県にまたがってそびえる白山に関連した信仰である。
 もともとは白山を御神体とする信仰だとされる。
・白山信仰の拠点である石川県白山市三宮町の白山比盗_社には、弊拝殿の奥に本殿が鎮
 座している。白山比盗_社の祭神は、白山比淘蜷_、それに伊弉諾尊と伊弉冉尊である。
・白山比淘蜷_は、菊理媛尊であるとされている。
・白山比盗_社は、かつては知り山本宮と呼ばれ、神社というよりも、むしろ寺院と見な
 されていた。
・白山比盗_社は白山の山麓にあるが、白山の山頂、御前峰にはその奥宮がある。そこに
 は祭神として白山妙理大権現が祀られている。白山信仰の中心は、むしろこの奥宮の方
 である。
・奥宮を創建したとされるのが、奈良時代の修行僧、泰澄である。
・白山信仰は、全国に広がっているとは言え、やはり禅定道があった三つの県に白山神社
 が多い。岐阜県が345社、で福井県が310社、石川県が223社で、この3県が上
 位を占めている。逆に、白山神社は、中国四国九州地方にはあまり広がっていない。
・英彦山は、福岡と大分の県境に位置する標高1200メートルの山で、そこには英彦山
 宮が鎮座している。その祭神は天忍穂耳尊である。天忍穂耳尊は、記紀神話に登場し、
 皇室の祖とされる瓊瓊杵尊の父にあたる。社伝では、英彦山に降臨したとされるが、英
 彦山神宮の祭神はむしろ英彦山権現として知られてきた。
・最盛期には、英彦山の多くの坊舎(僧侶が住む建物)が建ち並び、数千人の僧兵を抱え
 ていた。 
・ほかに霊山としては、東海地方で富士山と伊豆山、関東地方では箱根山、武州御嶽山、
 赤城山、日光男体山、東北地方では出羽三山などが挙げられる。
・富士山自体を神格化したものが浅間権現で、これは記紀神話に登場する木花咲耶姫命と
 同一視される。 
・浅間権現は、現在では浅間大神と呼ばれるが、それを祀るのが静岡県富士宮市にある富
 士山本宮浅間大社で、富士山山頂には、その奥宮が祀られている。
・浅間大社の創建は古代に遡り、久安5(1149)年には、末代という僧侶が富士山に
 一切経の納経を行なったとされる。
・日光男体山の場合には、勝道上人が天応2(782)年に開いたとされ、中世に入ると、
 ここでも三所権現の信仰が成立する。そこには、日光が連山である点が影響し、男体山
 には大己貴命(本地仏は千手観音)、女峰山には田心姫命(本地仏は阿弥陀如来)、太
 郎山には味耜高彦根命(本地仏は馬頭観音)が祀られている。
出羽三山は月山、湯殿山、羽黒山からなっている。それぞれの山には、月山神社湯殿
 山神社
出羽神社が鎮座している。
・月山神社の祭神は月読命、あるいは月山神とされるが、かつては月山権現と呼ばれ、そ
 の本地仏は阿弥陀如来だった。そこには浄土教信仰の浸透というものが関係し、月山は
 極楽浄土としてとらえられていた。
・湯殿山神社の祭神は、現在は大山紙神、大己貴命、少彦名命の三神だが、かつては湯殿
 山権現と呼ばれ、本地仏は大日如来だった。出羽神社の祭神も、現在は伊氏波神と稲倉
 魂命だが、かつては羽黒権現と呼ばれ、その本地仏は正観音菩薩であった。
・出羽三山の開山となったのは崇峻天皇の子であった蜂子皇子とされ、役小角がそこで修
 行を行なったとされる。
・江戸時代には、熊野三山、英彦山と並ぶ「日本三大修験山」と称せられた。

住吉(四方を海に囲まれた島国の多士済々の「海の神」)
・住吉信仰の中心となるのが大阪市住吉区にある住吉大社である。
・住吉大社の歴史は古い。天平勝宝元(749)年の頃には、住吉社造営のことが記され
 ている。
・住吉大社では、現在でも式年遷宮が行なわれている。室町時代までは20年に1度遷宮
 が続けられていた。式年遷宮が行なわれるのは歴史の古い神社に限られている。
・住吉大社の本殿は、「住吉造」と呼ばれる特異な形式で、屋根には千木と鰹木を戴き、
 破風が直線的なところに特徴がある。また、回廊がなく、天皇の即位儀礼である大嘗祭
 のときに臨時に立てられる社殿、悠紀殿、主基殿に似ている。その点で、古い形を残し
 ているとも考えられる。
・もっとも注目されるのは、住吉三神を祀る第一から第三の本宮が、東西の軸に直列に並
 んでいることである。そして、もう一つの祭神、神功皇后を祀る第四本宮は、第三本宮
 の北に並んでいる。これは、四艘の舟が並んで海を航海する姿を示したものだと言われ、
 遣唐使船との関連が指摘されてきた。
・住吉大社の境内にある摂社、末社のなかにも興味深いものがある。たとえば、摂社の一
 つ、大海神社は豊玉彦命と豊玉姫命を祀るが、第一の摂社とされているうえに、社殿は
 本殿と同じ住吉造である。
・摂社としてはほかに、安曇氏がその現郷である志賀島に祀っていた三神に相当する底津
 少童命、中津少童命、表津少童命を祭神とする志賀神社がある。
・末社の中には、宗像三女神に含まれる市杵島姫命を祀る浅沢社がある。
・もう一つ、住吉大社には、貴船社という末社がある。貴船社の祭神は、たかおかみのか
 みで、本社は京都の貴船神社である。たかおかみのかみは雨や水を司る神である。
・貴船信仰に関する神社は、福岡と大分にとくに多い。なぜ九州で貴船信仰が広まったの
 か、その謎は解けていない。
・住吉大社の第四本宮には神功皇后が祀られている。その神功皇后が新羅に出兵した際に
 は、宗像で航海の安全を祈願したとされる。
・宗像大社の場合、特異な点は、祭神を祀る場所にある。宗像大社では、田心姫神は沖津
 宮に、湍津姫神は中津宮に、そして市杵島姫神は辺津宮にと、離れた場所に祀られてい
 る。
・このなかでもとくに注目されるのが沖ノ島の沖津宮である。沖津宮自体はただの小祠に
 すぎないが、島内には古代に遡る数多くの祭祀遺跡がある。
・沖ノ島は、今でも女人禁制で、たとえ男性であっても、普段は島のなかに入ることはで
 きない。毎年5月27日にはそれが許されるが、人数は200人に限定されている。
・宗像三女神を祀る著名な神社として安芸一宮の厳島神社がある。
・厳島の名は、宗像三女神の一つ、市杵島姫命に由来している。
・三女神のうち一柱だけを祭神、ないしは主たる祭神としているところもある。たとえば、
 日光二荒山神社では田心姫神が祭神の一つとなっているし、青森の岩木山神社では、湍
 津姫神が多都比姫神として祭神のなかに含まれている。 
・恵比須はもともと漁業の神であり、外来の神であるようにも思えるが、インドにも中国
 にもそれにあたる神はない。 
・恵比須は、蝦夷が転訛したものではないかという説がある。
・恵比須は最初、海の神、漁業の神として信仰の対象になったわけだが、中世においては、
 商業の神としても祀られるようになる。
・もう一つ、海上交通を司る神として名高いのが金毘羅信仰である。
・金毘羅の源流は、ヒンドゥー教の神、クンブーラで、これは、ガンジス川に生息する鰐
 を神格化したものである。
金刀比羅宮の創建がいつなのかははっきりしないが、その信仰が盛んになるのは江戸時
 代に入ってからである。金毘羅参りの習俗が生まれ、多くの庶民がそこを訪れるように
 なる。伊勢参りと同様に、一生に一度金毘羅参りをすることが庶民の悲願ともなった。
 現在でも、漁業関係者や船員、あるいは海上自衛隊員の信仰を集めている。