消えたヤルタ密約緊急電   :岡部伸
            (情報士官・小野寺信の孤独な戦い)

この本は、今から11年前の2012年に刊行されたものだ。
太平洋戦争の終戦末期、クリミア半島のヤルタに米国、英国、そしてソ連の首脳が集まっ
て、戦後処理についての会談が行われた。いわゆる「ヤルタ会談」である。
その時、秘密裏にドイツ敗戦の三ヶ月後にソ連が日本に参戦するという密約が結ばれた。
当時の日本の状態は、すでに敗戦を強く意識し、和平工作を模索している段階であった。
そして、日本は和平仲介を依頼する国として、ソ連を唯一の拠り所にしていた。
その唯一の拠り所であるソ連に参戦されれば、もはや万事休すである。
その万事休すとなるソ連参戦の密約が結ばれたという秘密情報を、スウェーデンのストッ
クホルムの日本領事館に駐在していた小野寺信武官が入手し、日本の戦争指導の中枢であ
る陸軍参謀本部へ秘密電文にして打電した。
もし、この小野寺武官からのソ連が参戦するという秘密電文を受けて、日本の戦争指導者
たちが、ソ連による和平仲介を諦め、ポツダム宣言を直ちに受諾していたならば、東京大
空襲も避けられたし、沖縄戦も避けられたし、広島・長崎への原爆投下も避けられたし、
さらにはソ連参戦による満州や北方領土での悲劇も避けられたのだ。
しかし、実際にはそうはならなかった。
日本の指導たちは、ソ連が実際に参戦してくるまで、ひたすらソ連を頼って和平仲介を依
頼し続けていた。
その理由に一つに、小野寺武官の「ソ連が参戦する」という秘密電文が、途中で握りつぶ
され、日本の指導者たちには届いていなかったのだ。
こんな重大な秘密電文を握りつぶすとは、それはまさに最大の国家および国民に対する犯
罪である。
戦後になって、いろいろ調査した結果、その秘密電文を握りつぶした人物として、ある人
物が浮上してきた。その人物は、ほかの重要電報についても握りつぶした人物だとして疑
われている人物と同一人物だった。その人物とは当時のエリート参謀だった”瀬島龍三”だ。
当時の超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、どうにもならないほどに硬直化して
いたという。自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なも
のとして抹殺していたと。

現代の日本の政治の中枢である、今の政府の状況は、当時の大本営参謀本部作戦課の硬直
化の状況と、非常によく似ているのではないかと思えてならない。
自分たちの立てた政策に合致する情報だけを選択し、それ以外の不都合な情報は見ようと
しない。このように中枢が硬直化した国家は、国そのものの壊滅に直結することは歴史が
証明している。
このままいけば、日本は「第二の敗戦」を迎えることは必至ではないのか。
この本を読めば読むほど、今の日本の行末が見えるような気がした。

ところでこの本のなかで、「命のビザ」として有名な杉原千畝氏のことが出てきている。
杉原氏がリトアニアに日本領事館の領事となって赴任した頃には、リトアニアには日本人
は住んでいなかったという。
つまり、日本人が住んでいない国に領事館を置くことは、本来、必要ないことだった。
それなのにリトアニアに日本領事館を設置したのは他に目的があったからだった。
それは諜報活動のためであったという。
杉原氏は、ポーランド人の地下組織からのソ連やドイツなどに関する情報を得ていたよう
だ。その情報と引き換えに、ポーランド人の避難民に対して通過ビザを発行していたよう
だ。しかし、その中の多くは、ポーランド人ではなくユダヤ人だったという。
杉原氏は、そのこと気づきながらも、大量の通過ビザを発行し続けたのだという。
これによって、六千人ものユダヤ人の命が救われたと言われている。
後に杉原氏はイスラエル政府から顕彰されるのであるが、そのイスラエルが現在、ガザに
において非人道的ともいわれる攻撃を敢行している。なんだか複雑心境になる。

なお、この本を読んで、当時、日本とポーランドが深く結びついていたことを初めて知っ
た。また、終戦末期に、スウェーデンの王室が、日本の和平工作に動いてくれていたこと
も初めて知った。まだまだ知らないことがたくさんあることを改めて実感した。

過去に読んだ関連する本:
大本営参謀の情報戦記
大本営発表


日本が世界地図から消える!?:ヤルタ密約情報は届いたか
・英国立公文書館には、十五世紀以前にさかのぼるイギリス政府の公文書が保管されてい
 る。
 かつてイギリスは世界の陸地の四分の一を支配し、七つの海を自由に航海する世界帝国
 だった。
 その覇権の源泉となったのが卓越した情報収集と正確な分析力、つまりインテリジェン
 スであった。
 全世界で入手された政治、経済、軍事など多種多様な情報が本国で入念に分析され、フ
 ァイルに蓄積され、戦争や外交交渉に活用されてきた。
 いわば大英帝国の英知ともいえる膨大な文書が、周囲を緑に囲まれた静かな公文書館に
 眠っているのだ。
・1945年、第二次世界大戦における連合軍の勝利はほぼ確実なものになりつつあった。
 戦後の世界秩序を協議するため、米英ソの三国首脳が2月、ソ連のクリミア半島にある
 保養地ヤルタで首脳会談を行った。
 集まったのは、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、ソ連のヨシフ・スター
 リン首相、イギリスとウィンストン・チャーチル首相の三巨頭。
 カイロ会議ではスターリンは欠席したが、テヘランに続いて三回目の会議となった。
 同じ連合国ながら、中国の蒋介石はいなかった。
・ドイツの分割統治やポーランドやバルト三国など東欧諸国の戦後処理、そして国際連合
 の設立を決め、協定を結んで発表した。いわゆる終戦の前に戦勝国の三巨頭が世界を分
 割したのである。 
・表向き発表された「ヤルタ協定」のほかに、密約が交わされたことはよく知られている。
 「ソ連はドイツの降伏より三ケ月後に連合国側にくみし、日本に参戦する」
 というあの「密約」である。
・米英の西側民主主義陣営との戦いで配色濃厚だった日本によって、同盟国ドイツと角を
 突き合わせているとはいえ、中立条約があったソ連が最大にして最後の拠り所であった。
 だから、ついにソ連が参戦するという「ヤルタ密約」は、日本の敗戦を決定づける最高
 機密であった。 
 対日参戦の見返りとして、日本領南樺太の返還と千島列島の引き渡しなど、広範囲な極
 東の権益をソ連に与えることも確約された。
・この密約協定に従って、ソ連は1945年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を侵
 犯して対日参戦した。 
 南樺太や千島列島にとどまらず、帝政ロシアの時代から、日本固有の領土であった歯舞
 群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島にまで侵攻し、不法占拠の状態が今日まで続
 いている。
・ヤルタ会談が行われたころ、日本は、外務省、モスクワ日本大使館や陸軍、海軍のあら
 ゆる諜報機関を総動員して協定の中身の入手に全力をあげた。
 しかし、ソ連の対日参戦の企みを暴くことはできなかった。
 無理もない。日本と中立条約のあったソ連に配慮して、後に大統領となるトルーマン副
 大統領にさえ、ポツダム会議の直前まで知らせないほどのトップ・シークレットだった
 からだ。
・日本は、ソ連の侵略の野心を見抜くどころか、「最後の拠り所」とばかりに、英米の和
 平の仲介を依頼し続けた。
 全く勝算のない無意味な終戦工作を行ったことになる。
 敗戦に直結するソ連参戦の意思を政府首脳が見抜けなかったため、終戦の時期が遅れ、
 結果的にアメリカによって広島、長崎に原爆が投下された。
 そしてソ連の参戦で、悪夢のようなシベリア抑留問題や中国残留日本人孤児の悲劇、北
 方領土問題を招いたのだった。
・ところが、このヤルタで密約が結ばれたという情報を、会談直後に密かに入手して、北
 欧の中立国スウェーデンから、機密電報で日本の参謀本部に打電した人物がいたことを
 ご存じだろうか。第二次世界大戦を通して、帝国陸軍のストックホルム駐在武官だった
 「小野寺信」少将である。
・まず小野寺自身の告白を聞いてみよう。仙台陸軍幼年学校の会報(1986年5月)に
 小野寺は、こう書いている。
 「わたしは当時ストックホルム陸軍武官として、特別にロンドンを経た情報網によって、
 このヤルタ会談の中の米ソ密約の情報を獲得し、即刻東京へ報告いた」
・厳密にいえば、東京の報告したのは、小野寺の妻である百合子夫人であった。
 駐在武官の妻の任務として、夫、信、の命を受けた百合子夫人は、信が得た機密情報を
 特別暗号に組み上げて東京の大本営参謀本部に電報で送っていた。  
・小野寺が他界した後、百合子夫人は、ヤルタ密約を入手し、ソ連の対日参戦の半年前に
 打電していた経緯を1993年8月13日付の産経新聞夕刊で詳細に語っている。
・暗号電報を組む乱数表は、百合子夫人にとって命にも等しい大切なものであり、外出す
 る際にも、必ず乱数表を帯びの内側に入れて肌身離さず持ち歩いていた。
 むろん「ソ連が日本に刃を向けてくる」というヤルタの密約情報が、スウェーデン赴任
 以来、夫がつかんだ最大級のインテリジェンスであることが即座にわかった。
 だから念入りに、心して特別暗号に組み上げ、スウェーデン電報局から東京に電報とし
 て送ったのだった。 
・アメリカとの戦争の運命をソ連に委ね始めていた日本の中枢にとってソ連の参戦は、国
 家の運命を左右する第一級の情報でありながら、この電報に対する日本の大本営からの
 返事はなかった。
 それまでも送った電報に対して、必ずしも参謀本部から返電があったわけではないが、
 今回の機密情報は極めて重要なので、必ず届くように、とりわけ大切に特別電報を組ん
 だ。
 だから、「主人(小野寺)も私(百合子夫人)も当然、参謀本部へ届いているものと思
 っていました」と小野寺夫婦が考えたのも無理からぬことだった。
・ところが、真実はそうではなかった。
 終戦から38年経った1983(昭和58)年のことである。
 小野寺は「私の情報が上層部に伝達されていなかった事実をはじめて知って愕然とした」
 のである。
 同年に出版された元共同通信モスクワ支局長、坂田二郎の「ペンは剣よりも 昭和史を
 追って50年」を読んで、終戦時にソ連大使を務めた佐藤尚武が回顧録「回顧八十年」
 の中にヤルタ協定に関して次のように記述しているのを見つけたからだった。
 「不覚にも日本側としては、私も、東京も、その事実(密約)を知ることができず、終
 戦後に至ってようやく密約の存在を知った」
・確かにストックホルムから送ったはずの電報が中央には届いていない。
 つまるところ、日本政府はヤルタ密約を本当に知らなかったというのだ。
 そんなことがあっていいのだろうか。
 小野寺と百合子夫人が確認してみると、送ったはずのヤルタ電報を大本営が受理した記
 録はどこにも見当たらなかった。
・大本営陸軍部戦争指導班の参謀たちが業務内容を記述した業務日誌である「機密戦争日
 誌」を見た。
 敗戦の際に焼却指令が出されたにもかかわらず、ある将校が隠したことで、防衛研究図
 書館に所蔵され、終戦から半世紀を経た1997(平成9)年に一般公開された貴重な
 史料である。   
 小野寺のヤルタ電報が参謀本部に届いていたならば、この日誌になんらかの形で記載さ
 れているはずである。
・首脳会議がソ連のスターリン主導で行われたことは把握している。
 そしてドイツの占領と並び、重要議題であったポーランド問題が協議され、また国際連
 合設立で合意したことを突き止めている。
 しかし、肝心の日本の運命を決めた極東条項の密約(ソ連の対日参戦)の記載は一切な
 い。これは会談後の公式発表そのままである。
・確かに、大本営がこのヤルタ機密電報を受信したという公式の記録はどこにも見当たら
 ない。
 小野寺が送ったとするヤルタ密約の報告は、「行方不明」となり、「宙に浮いている」
 ことがハッキリとわかった。
・ヤルタ密約の機密電報が「行方不明」になっていることが判明して3年後の1986年
 5月、小野寺は、怒りを抑えながら、無念の気持ちを吐露している。
 「ヤルタ会談の中の米ソ密約情報を獲得し、即刻東京へ報告した。当時中央に勤務して
 いた諸兄の中で私の電報を取り扱いまたは耳にした御仁があっても不思議ではないはず
 である。これは戦争史研究上、きわめて大切なことである。因みに欧米諸国では、この
 種の資料は後日の研究用として確実に保存され、極秘電報でも現物が保管されている。
 証拠隠滅のため、大切な書類を焼却してしまうような行為は適当ではない」
・戦後、情報活動はもちろん一切の公職から離れた小野寺は、ヤルタ電報の行方を追い続
 けた。  
 それは、軍部という巨大な官僚機構との戦いだったかもしれない。
 この電報に限って何らかの事情で日本に届かなかったか、電報は届いたが日本で誰れか
 が握りつぶしたか。
 その答えが見つからないまま、小野寺は、1987年8月、89歳の生涯を終えたのだ
 った。
・軍の中枢に、あの電報を見た人物が必ずいたはずだ。百合子夫人も、スウェーデンでの
 小野寺の存在証明ともいえる消えた電報探し続けた。
 電報を見たであろう陸軍参謀本部の中枢にいた幹部や幕僚に次々と面談して問い合わせ
 た。
 しかし、返ってくる返事は、いつも「見ていない」「知らない」の一点張りであった。
・その百合子夫人も1998年、91歳で不帰の客となった。
 だが、その遺志は、長男駿一、二女節子ら遺族に引き継がれている。
・両親の無念を晴らしたい。
 遺族の想いは悲痛なほどに真剣である。
 日本では、届いていたとしても終戦時に全て焼却処分にしている。
 ならば敵国だった連合国ではどうだろうか。
 第二次大戦を制した連合国の勝因の一つがインテリジェンス、とりわけ暗号解読にあっ
 たことはよく知られている。
 大戦中、日本の外交、陸軍、海軍の暗号電報は連合国に傍受され、解読されていたのだ。
 つまり作戦が筒抜けだった。ならば、連合国の公文書館に、その解読文書が保存されて
 いるはずだ。  
・アメリカの首都ワシントンにある米国立公文書館では、米中央情報局(CIA)が保管
 していた米戦略諜報部隊(SSU)による小野寺の尋問調書など「小野寺信ファイル」
 を公開しているが、肝心の小野寺が打電したヤルタ電報を保管していて、それを公開し
 たという話はいまだ聞かない。
・そこで思い浮かんだのが産業革命以来の情報先進国イギリスである。
・元外務省の主任分析官で作家の佐藤優は、著書「国家の謀略」の中で、「戦前の三大情
 報を挙げるならば、強い順にイギリス、ソ連、日本である。現在は、イギリス、イスラ
 エル、ロシアである」と記している。
 彼の国は現在も世界に冠たるインテリジェンス大国に違いない。
  
・アメリカ検索エンジンの最大手グーグル社が、ロンドン郊外にある老朽化したビクトリ
 ア時代の大邸宅を永久保存すると発表したのは2011年8月のことだった。
 小さな町、ブレッチリー。かつてここにはイギリス政府の暗号解読学校(ブレッチリー
 ・パーク
)があった。
・イギリスは、1939年に第二次世界大戦が勃発するや、大邸宅を譲り受け、当時最強
 と言われたナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の傍受、解読に挑んだ。
 最盛期には1万人を超えるスタッフがいたと言われている。
 この大邸宅は世界最大の暗号通信傍受解読センターだった。
 天才数学者、アラン・チューリングをはじめ、幾多の奇人変人が独創的アイデアで「エ
 ニグマ」に挑み、これを読み解いたのだった。
・チューリングは、解読のため世界で最初の電子式コンピュータ「コロッサス」を開発し、
 ヒトラーの個人専用暗号を解読し、ノルマンディー上陸作戦にも貢献した。
・グーグル社は、チューリングが生み出した世界最初のコンピュータ「コロッサス」に敬
 意を表して、「チューリングがいなければ、今日のグーグルは存在しなかった」と、
 廃墟となる寸前だった大邸宅を「世界の遺産」として保存することに決めたのだった。
・その標的は、ナチス・ドイツだけではなかった。
 同じ枢軸国の日本の暗号の解読もその対象だったのである。
・大戦を通じて日本の外交暗号を解読していたイギリスの実力は相当なものだった。
 チャーチルは、昼夜問わず電話を入れ、最新情報を求めた。
 日本の真珠湾攻撃の前日にも、日本の最新の動向を尋ねていたことが、電話を受けた日
 本暗号解読担当者の日記に残っている。
・外交電報のほかに海軍の暗号も日米開戦時から連合国に解読されていて、ミッドウェー
 海戦
の敗北や山本五十六連合艦隊長官搭乗機撃墜につながった。
 しかし、陸軍の暗号は唯一解読されなかった。
 そこで、ブレッチリー・パークは米陸軍通信部と協力して、ヨーロッパにおける日本陸
 軍武官らの暗号電報に照準を絞った。
 そして、ようやく1953年ごろから、少なくとも1944年初めには解読に成功した
 のだった。
・東京と在外駐在武官との間の暗号通信文も、1943年6月ごろから解読された。
 ブレッチリー・パークは、ひとたび暗号解読に成功するや、1944年から1941年
 の太平洋戦争前ごろまで遡って、密かに傍受していた日本陸軍の暗号電報のすべてを解
 読していた。そして「トップ・シークレット」の公文書にしたのだった。
 こうして極秘に解読した秘密文書が英国立公文書館に残されていたのである。
・筆者が標的とした小野寺のストックホルム発の電報も、1944年9月7日分から全て
 解読され秘密文書として残されていた。
 実際には傍受した後ただちに解読できたのがこの頃からで、それより以前に傍受してい
 たものも順次解読して文書に残している。
 この中には、日本側では絶対に解読され得ないとされた電報、百合子夫人が念入りにワ
 ンタイムパッドの特別暗号で組んだ電報も数多くあった。
 ブレッチリー・パークは、日本側が解読困難と思い込んでいたワンタイムパッドの特別
 暗号をいとも簡単に読み解き、秘密文書に変えていたのだ。
・小野寺は、ロンドンにあった亡命ポーランド政府の参謀本部から在ストックホルムのポ
 ーランド武官を通じて届けられるイギリス軍の情報について、ソースを「ステファン・
 カドムスキー」とし、「ス」情報と題して、1944年1月から毎回、百合子夫人がワ
 ンタイムパッドの特別暗号を組んで参謀本部に送っていた。
 インパール作戦の戦果などが中心だったが、この中に、あの最高機密のヤルタ密約スク
 ープ電報もあったのだ。  
・しかし肝心のヤルタ会談があった2月中旬の日付けがある文章が見当たらない。
 暗号電報を傍受しながら、解読が遅れた可能性もある。
 45年5月以降のものや、そのほかの「日本陸軍武官の傍受電報だけが存在しないので
 ある。
・2月中旬から下旬に小野寺が打電して、それを傍受していてもおかしくはない。
 むしろ、この二十日間あまりが空白になっていることこそが、あまりにも不自然である。
 そもそも戦勝国三巨頭が戦後体制を決めたヤルタ会談の報告文書がないこと自体、整合
 性を欠いている。
 閲覧室で史料を見るうち、ここにイギリス政府からある意図が働いているのではないか
 という想いが去来してきた。
 
・1944年にあった大統領選挙はかつてない激しいものだった。
 再選を果たしたもののルーズベルトは身心ともに困憊した。
 就任式の演説でも体の震えが止まらず、奇矯な姿がブラウン管に映っている。
 体重が減り続け、まるで亡霊のようだった。
 クリミアまでの長旅は、ルーズベルトにとって、それだけで大きなハンディとなった。
 ニュース映像に残された車いすに乗ったルーズベルトは、どう見ても病人である。
 実際に、会談からわずか二カ月余り後の4月12日に急死する。
・スターリンは、ルーズベルトの病名がアルヴァレス病(動脈硬化に伴う微小脳梗塞の多
 発)であり、その発作からしばしば体調を崩しているとの情報を密かに入手していた。
 健康が損なわれるにつれて知的な活力が減退していたことを見抜いていたのだ。
 国家の命運を担う最高指導者の健康情報は、いちの世も最高の国家機密である。
・ヤルタでは、事前につかんだインテリジェンス通り、2月4日から始まった会議の初日
 からルーズベルトは健康不安を露呈した。
 午前中に行われた最初の会議中こそ元気だったが、突然、発作を起こして放心状態とな
 り、午後からの会議はしばしば中断された。
 その脇でチャーチルは、トレードマークの葉巻を吹かしながら、黒海からそそぐ風が心
 地よい温暖なクリミアでも大風呂敷を広げていた。
 そのチャーチルを冷ややかに警戒していたのがホスト役のスターリンであった。
 ルーズベルトに特別に好意的であったのと対照的だった。
・会談期間中、スターリンが、病気見舞いと称して絶えずルーズベルトを訪問して、チャ
 ーチルを蚊帳の外に置いたのも不自然なことではない。
 日本にとって苦々しい「極東密約」は、こうしたスターリンの「代表団分離戦術」によ
 って生まれたのであった。
・ルーズベルトはすでに疲労困憊しており、結局、スターリンの思うがままに譲歩してし
 まったのだった。
 かくしてスターリンの思惑通り、チャーチル抜きで対日参戦の密約が交わされた。
 これを知らなかったチャーチルは反対したが、ルーズベルトに説得される形となった。
 対米関係への影響を恐れて最終的に秘密協定に同意する。
・体調がすぐれなかったルーズベルトは、一日も早くソ連の対日参戦を実現することで頭
 が一杯だった。
 国務省作成の文書に目を通さず、独断で、スターリンの根拠なき主張ばかりか要求まで
 も無批判に受け入れてしまった。
 千島列島に日本固有の領土が含まれていることなどは眼中になかった。
・健康不安はあったにせよ、なぜ、ルーズベルトは、ここまでスターリンに譲歩したので
 あろうか。
 この時点では原爆開発は未完成だった。
 そして日本軍の戦力に対するアメリカの情報が不正確だったことが背景にあった。
 日本軍の戦意と戦力を過大評価し、日本軍は本土を焦土にしても天皇を擁して満州に移
 り、ソ連と手を組み、その支援のもとに徹底抗戦して、対日戦争は1947年ごろまで
 続くと予想していた。
 徹底抗戦が予想される日本本土上陸作戦では、アメリカ軍の死傷者をできるだけ少なく
 することを望んでいた。
 そのために必要なのが北からのソ連の協力だった。
 原爆完成後は情勢が変化するのだが、少なくともヤルタ会談時点では、米英はソ連に一
 刻も早く対日参戦させ、満州に雪崩れ込ませることによって戦争の早期終結を目論んで
 いた。
・ただし、民主主義体制下で選出されたルーズベルトは、共産主義の独裁者スターリンの
 野望にあまりにも無知であった。
 第二次大戦でもっとも大きな犠牲を払ったスターリンは、「大祖国戦争」を鼓吹して、
 その犠牲に見合う新たな領土の獲物を虎視眈々と狙っていたのである。
・スターリンは、新たにアジアの諸地域を思い描いた。満州、朝鮮半島北半分、南樺太、
 千島列島だ。いずれもかつて侵略を目指しながら、新興国日本に阻まれた地域である。
 それどころか北海道の北半分も加えようとした。
・白色人種が歴史上初めて黄色人種、に敗れた日露戦争の屈辱を晴らす。
 さらには神風と呼ばれる暴風雨に阻まれた日本征服の野望を遂げる。
 そこまでの幻想はないとしても、少なくとも占領地域を拠点に東アジアにも国際共産主
 義の世界赤化革命を拡げる野心があったことは間違いないだろう。

・この極東秘密協定は「厳秘」にされていたので、直接これに関与した者以外誰もその存
 在を知らなかった。
 アメリカでこのことを認知しているのは、ルーズベルト大統領と協議に参加したハリマ
 ン大使、通訳のボーレン補佐官のほかにマーシャル参謀総長、レイヒー海軍大将の軍首
 脳だけだった。
 国務長官、国務次官、大統領特別補佐官にさえも知らされなかった。
 極めつきは当時副大統領であったトルーマンである。
・ルーズベルトはヤルタ会談から二ケ月後に急死するが、ヤルタ密約協定の文書はホワイ
 トハウスの大統領官邸の地下室にある大統領私用の金庫に秘蔵されたままだった。
 新たに大統領に就任したトルーマンも国務長官になったバーンズも、その存在を知らさ
 れぬまま、それからおよそ三ヶ月間、秘密協定文書は金庫に眠り続けた。
・ヤルタ歓談から五ヶ月余り経った7月、連合国の三首脳は、降伏した第三帝国の首都ベ
 ルリン郊外のポツダムに再び集まり、大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合った。
 ポツダム会議である。
 アメリカは急死したルーズベルトの代わりにトルーマン大統領、イギリスのチャーチル
 首相も総選挙で敗北したため、途中で新首相のクレメント・アトリーに交代している。
 ヤルタからフルに参加したのはソ連のスターリンだけだった。

・小野寺夫婦が間違いなく参謀本部に打電したと明言するヤルタ電報。
 しかし、日本ではそれが軍首脳や政府に届けられ、国策に生かされた形跡はない。
 ロンドンの英国立公文書館でもブレッチリー・パークが傍受して解読した秘密文書は見
 当たらなかった。
 宙に浮いてしまった密約情報の行方が、現代史最大の謎の一つといわれる所以であろう。
・ロンドンの中心、バッキンガム宮殿に隣接して重厚感のあるレンガと石壁を組み合わせ
 たクラシックなホテルがある。ルーベンスホテルである。
 ヒトラーとスターリンの野望の果てに、祖国を追われたポーランド政府参謀本部情報部
 が、パリを経てここに移ったのは1940年のことだった。
 終戦まで、ここを本拠として世界中に諜報網を張り巡らせ、小野寺ら日本陸軍と緊密な
 インテリジェンス協力を続けた。
 彼らが亡命先の英情報局秘密情報部(SIS)とも連携して連合軍の勝利に貢献してい
 ることを忘れてはならない。 
 ブレッチリー・パークがドイツの暗号「エニグマ」を解読できた背景には、先に解読し
 たポーランドからの技術の提供があった。
 日本、イギリス双方と諜報協力を続けたのは、連合国の一員として生き残ろうとした小
 国の知恵だった。
・チャーチルにとって、ロンドンで支援している亡命ポーランド政府がヤルタで交わした
 「密約」を掴み、ただちに交戦国の日本に漏らしたことは、「不都合な真実」であった
 に違いない。
 イギリスには、小野寺がヤルタ密約情報を入手したことを知っていたことを示唆する史
 料がある。
・あらゆる公文書を保管しているはずの英国立公文書館に所蔵されていないということは、
 ブレッチリー・パークが傍受して解読した小野寺のヤルタ電報のファイルを、イギリス
 が現在もなお非公開にしていると考えるのが自然だろう。
 つまりイギリスは小野寺電報を傍受、解読しながらも、不都合なことに密約を亡命ポー
 ランド政府が掴み、日本へ渡した事実を抹殺して「知らなかった」ことにしたのではな
 いだろうか。 

・再び、防衛省防衛研究所の戦史研究センター史料室を訪ねた。
 小野寺が参謀本部に送ったはずのヤルタ電報が届いていたことを示す証拠のかけらでも
 見つけたい一心からである。
・大本営中枢にいた人物の回想録や日記、公式記録などを次々にみてゆくうち、次第に諦
 めがひろがっていった。 
 しかし最終段階にきて、あることを思いついたのである。
 ドイツが得た密約情報を同盟国の日本に伝えていなかったのだろうか。
 空振り覚悟で、大戦終盤にドイツに駐在していた関係者の史料をしらみつぶしにあたっ
 た。すると、大島浩元駐ドイツ大使が驚くべき告白をしていたことがわかった。
 「ドイツのリッベントロップ外相から、ヤルタ会談でソ連が対日参戦を決めたことを知
 り、二度も外務省に伝えた」
 というのだ。
 三振覚悟で振ったバットに、かろうじてボールが当たり、内野を抜けたのである。
 足の震えが止まらなかった。
・ヤルタ会談直後の2月に参謀本部に送った小野寺の特別電報に続いて、3月に大島が、
 二度にわたって外務省にこの機密情報を送っていたとすれば、日本の中枢は一体どうな
 っていたのだろうか。 
・大島が「もっと重要に取り扱ったら、宜しかった」と悔恨したところから判断すれば、
 外務省からの返電もなかったのだろう。
 小野寺電と同様に、もちろん政府が、ヤルタ密約情報を政策に生かした形跡はまったく
 見当たらない。
・ソ連がやがて日本に刃を向けるというインテリジェンスは敗戦に直結する。
 大本営にも外務省にも、耳障りな知りたくない事実であったにちがいない。
 ヤルタ会談があった1945(昭和20)年2月ごろの日本の上層部には、どうにもな
 らない戦局の悪化を前に盲目的にソ連に接近して和平仲介を期待する、ある種異様な時
 代の空気があった。
「鬼畜米英」と叫ぶ一方で、これも永遠の宿敵とされたソ連に一辺倒に傾斜していたのだ。
 ソ連仲介による和平を構想する者たちは、当のソ連が参戦するとの情報は不愉快の一語
 だったのだろう。
 しかし、巨大な官僚機構が、「不都合な真実」を陰蔽してしまったとすると、国民への
 罪の重さは計り知れない。
・ヤルタ会談での密約情報は、日本という国家の舵取りをする指導者が重大な決断を下す
 上で、最後の拠り所となる厳選されたインテリジェンスであった。
 しかし、このインテリジェンスを元に、国家の指導者がソ連の参戦を想定してゆるぎな
 き決断を下すことはなかった。 
 参戦目前のソ連を仲介とする和平工作ばかりを進め、米英との戦争を継続したことは、
 インテリジェンス・サイクルが機能不全に陥っていたことを如実に物語っている。
・大島元駐ドイツ大使がソ連の対日参戦情報を外務省に打電していたならば、その記録が
 日本に残っていないだろうか。
 東京・麻布台にある外務省の外交史料館を訪ねたが、大島大使が打電したと供述するヤ
 ルタ密約の電報は存在しなかった。
 しかし、妙な副産物が見つかったのである。
 小野寺が駐在していたストックホルム日本公使館の「岡本季正」公使が、重光葵外相あ
 てに驚くべき電報を打っていた。
 「ヤルタ会談で、ソ連が対日賛成を決めた情報は誤り」と小野寺がつかんだ密約情報を
 否定する内容だ。しかも打電したのがヤルタ会談直後の2月23日だから、あまりにも
 タイミングが良すぎる。
・岡本公使の「情報提供者」は、ソ連の対日参戦情報について、「米国から伝えられたも
 ので、参戦する可能性は低い」と語ったというのである。
 ヤルタ会談で決まったソ連参戦の密約と真っ向対立している。
 ヤルタ会談が終わってから、わずか12日後の2月23日に打電しており、小野寺が送
 った密約情報を、あわてて否定した形である。
・この当時、小野寺と岡本は、海軍武官に任命された扇一登海軍大佐のビザ発注などをめ
 ぐり緊張関係にあった。
 ヤルタでソ連が対日参戦を決めたことは歴史が証明する事実である。
 岡本公使は、その最大級の密約情報を小野寺から直接聞くか、東京からの返電で知った
 に違いない。
 対立する小野寺の特ダネを意図的に打ち消すために、このような的外れな電報を外務省
 に打ったのだろう。 
 ならば、岡本公使がソ連の参戦を否定した電報も、小野寺が確かにヤルタ密約の情報を
 つかんでいたことの傍証になるのではなかろうか。

・参謀本部で電報を受け取り、また情報を耳にすることができる立場にあった人物はいな
 かったのだろうか。 
 当時の参謀本部では、外地から電報を受信すると、まず総務部に届けられるが、実質的
 に大きな権限を持っていた第一部(作戦部)作戦課で仕分けして、担当の課に持参した。
 そして担当の課が配り先を決めていたという。
 となると担当課(ここではロシア課)が受け取った可能性が最も高い。
 ならば、仕分けした作戦課とともに担当したロシア課にいた人物が焦点となる。
・そこで筆者は、生前、小野寺が参謀本部内で確実に自分の電報を耳にする立場にあった
 と指摘した人物を探し出した。
 参謀本部第二部(情報部)のロシア課長を務めた林三郎である。 
 小野寺は、電報の行方不明が発覚して三年後の1986年、旧陸軍将校の親睦組織の機
 関誌で、林を名指しした。
 林は陸軍士官学校での小野寺の後輩にあたる。
・ならば、「ヤルタ密約電報を知っていたはずだ」と小野寺から指摘された後、どこかで
 反論してはいないだろうか。
 そう考えて史料を探すと、興味深い林の発言が見つかった。
 小野寺が機関誌で名指ししてから三年後の1989年8月、陸軍士官学校、陸軍経理学
 校、陸軍幼年学校、陸軍大学校出身の経済人で構成する同台経済懇話会で講演し、奇妙
 な形で反論しているのである。
 「ヤルタでスターリンが対日参戦、ドイツ降伏後三カ月で対日参戦の約束をしたという
 電報は見ました。見ましたが、それは小野寺電報ではありません。私の覚えているのは
 外務省の電報で、スペイン公使の須磨(弥吉郎)さんによる須磨電報です」
・林は、ヤルタ密約電報を見たことは認めた。しかし、それは小野寺電報ではなく「外務
 省電報」で、「スペイン公使の須磨電報だった」というのだ。
 講演録を読むなり、即座に驚いた。なんとも奇天烈である。事実関係に大きな矛盾があ
 るからだ。  
・確かに第二次世界大戦で中立を宣言したスペインは、まさに世界各国のスパイが暗躍す
 る「世界の情報の展望台」であった。
 そこで日本も「情報の須磨」といわれた須磨弥吉郎が1940年1月、駐スペイン公使
 としてマドリッドに赴任し、ユダヤ系スペイン人、アンヘル・アルカサール・デ・ベラ
 スコにアメリカでの諜報活動を依頼している。
 ベラスコは、配下の十数名の工作員をアメリカの主要都市に配置してネットワークを構
 築した。いわゆる「東機関」である。
 ところが、アメリカのマジックによる暗号解読から、活動実態が把握され、44年6月
 にベラスコの部下が射殺された。ベラスコもスペインに亡命して「東機関」は解散に追
 い込まれている。
・ヤルタ会談が行われたのはその八ヶ月後の45年2月である。
 いかに情報にたけた須磨公使でも、「東機関」がもはや存在しない以上、ヤルタ密約の
 機密情報を入手し、打電したと考えるには無理がある。
 もちろん外務省の外交史料館にそのような須磨電報はなかった。
・参謀本部で、ソ連が対日参戦する情報を得ていた林は、この事実そのものを否定できな
 かったのだろう。 
 そこで、それが小野寺のものであったことを否定して、論理に破綻をきたすことを承知
 で「スペインの須磨情報」と語ったのではなかろうか。そう考えないと理屈が通らない。
・ならば、なぜそれを活用しなかったのだろうか。
 そして参謀総長や首相らの上層部になぜ、伝えなかったのだろうか。
・林は、この同台経済懇話会の講演で、いみじくも釈明した。
 「スターリンがヤルタ会談において、ドイツ降伏三ケ月後に対日参戦する約束をしたと
 いう情報を、私は確かに参謀本部で見ました。見ましたけれども、その頃の陸軍中央部
 では、このソ連の密約説を半信半疑に受け取っておりました。今でこそあれは真実だっ
 たと言えるのですが、当時は半信半疑でした。早い話が7月下旬に参謀本部のロシア課
 は、ソ連の対日参戦の時期を夏秋頃と、非常に幅をもたせた判断をしている。というこ
 とは、この密約説をあまり信用しなかった証拠です」
・目を疑った。ソ連の対日参戦密約情報を「半信半疑だった」というのだ。
 小野寺がヨーロッパの最前線で生命を賭して掴んだ世界最大級のインテリジェンスを東
 京の参謀本部が「あまり信用しなかった」という釈明は寡聞にして知らない。
 しかも、上層部や政策決定者に報告した形跡もない。
・これは、まさに中枢の崩壊ではないか。
 電報の内容があまりにも衝撃すぎるということで、上層部に報告せず、握りつぶしたと
 すると、これは信じられない背信行為である。戦局の悪化が続き、国家の命運がそこに
 かかっていたのだ。
・では、なぜ林らが、このような最重要情報を上層部や首相に伝えなかったのだろうか。
 同台経済懇話会の講演で、どうしてソ連対日参戦密約情報に疑念を抱いたのかを、林は
 著書にこう記していた。
 「ドイツ降伏後のソ連に対日参戦については、なんらの疑問もさしはさまなかったが、
 三ケ月後という時間的な限定には、かなりの疑念を抱いた。というのは、ソ連は対日参
 戦の時期として『ただ一押しするだけで、渋柿が落ちる』ような好機を狙うであろうが、
 そうした絶好機が果たしてドイツ降伏三ケ月後に必ずくるとは考えられなかったのであ
 る」
・なるほど、「なんらの疑問もさしはさまなかった」と断言する林ら参謀本部の中枢にい
 たアナリストたちは、ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦することをある程度予測していた
 だろう。 
 1944年11月の革命記念日前日にスターリンが日本を侵略国家と非難したことを的
 確につかみ、ヤルタ会談後にシベリア鉄道で欧州戦線から数多くのロシア軍が極東に移
 動する情報も入手していた。
・しかし上層部や政府の首脳に、こうしたインテリジェンスを伝えた形跡はない。
 1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻を開始した報告を聞いた参謀次長だった「河辺
 虎四郎」は、寝耳に水だった様子を当時の日記に書き残している。
 「蘇は遂に起きたり、予の判断は外れたり」
 インテリジェンスの最高責任者であった参謀次長の河辺はソ連が参戦して来ることを全
 く予測していなかった。
 上層部はヤルタの密約を知らなかったためか、中立条約を破棄されながらもソ連に傾斜
 して、ソ連を仲介とする連合国との和平工作に邁進するのである。
・その一方で、林らは参謀本部情報部の担当課(ロシア課)では、ソ連が中立であるはず
 の日本に侵略意図をもってその準備を進めていることを的確に掴んでいた。
 対日参戦する情報に、「なんらの疑いもさしはさまなかった」のなら、なぜ、それを阻
 止するべく行動しなかったのだろうか。
 
・最後の望みをかけていたソ連が参戦することは、日本にとっては受け入れ難い。
 北欧のストックホルムの現場から決定的な情報が提供されているのに、情報の重要性を
 理解できないか理解しようとしない。
 ソ連の侵略意図が明らかであるのに積極的予防措置を取った様子がない。
 もたらされた情報を虚心坦懐に受け止め、その価値を客観的に判断できない・・・。
・国家の指導者に提供する前に、不吉で不都合な真実ゆえに、情報を握りつぶしたとする
 と、国家の損失は計り知れない。
・ヤルタ会談でのソ連の対日参戦密約は、国家の舵取りをする指導者が、重大な決断を下
 す拠り所となる厳選されたインテリジェンスであった。
 インテリジェンス・サイクルが回り、国家の指導者に伝えられれば、ソ連への傾斜を打
 切り、もっと早い段階で米英との和平に応じる決断に至ることも十分可能だった。
 刃を向けて来るソ連を頼った終戦までの半年間を、日本は無為に過ごしたとも言えるだ
 ろう。  
・小野寺は、第二次大戦を通じて、数多くの最高機密のインテリジェンスを入手してスト
 ックホルムから東京の大本営に送っている。
 しかし、参謀本部で握りつぶされて国家の指導者に報告されず、政策に反映されないこ
 とが幾度もあった。
 ドイツがイギリス本土ではなくソ連に侵攻したバルバロッサ作戦の予告、そして独ソ戦
 でのドイツの劣勢と日米開戦の反対、ヤルタ密約入手後、ソ連仲介による平和工作の非
 を警告するインテリジェンスなど、枚挙にいとまがない。

・情報戦争に敗れたのではない。
 大本営が情報を客観的に判断できず、そのことで政府首脳は政策に活用できず、敗戦の
 痛手が最大限まで拡大したのだ。
・問題は、参謀本部の中枢が主観に基づいて立てた仮説に沿うインテリジェンスは受け入
 れられるが、逆の場合は拒否される点にあった。
 自分に都合の良いものしか価値を与えない傾向が著しかったため、結果的に自分の仮説
 に合わない小野寺らのインテリジェンスは客観的に真実であっても信頼せず、東京のア
 ナリスト自らが情報を集め、結果的に偏った情報による判断が行われることになった。
 小野寺らのインテリジェンスの生産サイドに客観的な要求を出せず、またその結果を信
 頼して活用しなかったことこそが日本軍の情報部門における問題だった。
・「堀栄三」は1989年に上梓した「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」で、
 小野寺電が参謀本部に届いていたことを明確に証言していた。
 「2月11日のヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三ヶ月で対日攻勢に出る』
 と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の『プ』情報の電報にもあったが、
 実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されていたようだ」
 当時、中枢にいた大本営参謀の回顧録や著書の中で、小野寺電の大本営着信を証言した
 のは、堀栄三が唯一である。
・大本営にいた元参謀が、「『あの電報(小野寺電)が参謀本部に不着』ということは絶
 対にありえません」と断言し、参謀本部内で『ドイツが降伏したら、三カ月後にソ連は
 対日参戦する』というのが常識の判断になっていました」と明言する意味は大きい。
 間違いなく特別機密電報は届いていたのである。
 そして、それは一握りの者だけでなく、作戦課の「某」から耳にした堀や元情報部ロシ
 ア課長だった林らの間で、参謀本部の「常識の判断」になるほど多くの者が知り得てい
 たのだ。
 しかし、ソ連の対日参戦は敗戦をも意味する不吉な情報ゆえに、作戦課の「奥の院」は、
 本土決戦を控えた兵士の士気に大きく影響する軍事機密と判断し、これを握りつぶした
 のである。

・参謀本部でも指折りの情報将校だった堀がこのような断言するには強い理由があった。
 堀自身、同様に痛恨の体験があったからだ。
 堀自身、同様に痛恨の体験があったからだった。
・1944年10月、ハルゼー提督率いるアメリカ海軍の太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が、
 沖縄、奄美諸島、宮古島などを爆撃した。
 12日からは台湾にある飛行場が集中的に攻撃された。
 しかし、これは、レイテ島上陸作戦を敢行するためのアメリカ側の陽動作戦だった。
 当時の大本営はそれに気づかず、連合艦隊司令部は、この爆撃に対して、傘下の空母の
 航空部隊や南九州で控えていた第二航空隊にハルゼー艦隊を攻撃するように命じたのだ
 った。
 そこで12日からの四日間で、総数900機の航空機が空母や各航空基地から飛び立ち、
 ハルゼー艦隊への攻撃を行った。
・攻撃から帰還したパイロットの報告を受けて日本海軍は多大な戦果を挙げたとして、大
 本営発表は五回にわたり続けられ、「敵兵力の過半数を壊滅、輝く陸海一体の偉業」と
 いう大戦果とされた。
 戦況が悪化の一致を辿っているなかで、日本軍が久々の大戦果ということで大本営にも
 国民にも異様な興奮があった。
 そこで戦局の行方にも期待が高まった。
・「台湾沖航空戦」の大戦果に基づいて、「捷一号作戦」として準備されていたルソン決
 戦は急遽レイテ決戦に変更された。
 しかし、作戦は失敗する。
 陸軍は第十四方面軍の精鋭部隊や内地からも部隊を送ったが、大本営発表とは逆に、ほ
 とんど無傷だったアメリカ艦隊に補給路を断たれ、結果としてレイテ島も玉砕、十万人
 近くの日本兵が戦死する莫大な人的損害を出した。連合艦隊は事実上壊滅した。
・台湾沖航空戦の戦況認識に誤りがあったからだ。
 正確な戦果が判明するのは戦後になってからだが、実際には重巡洋艦二隻が大破したに
 すぎなかった。大戦果というのはまったくの虚報であった。
 その虚報をやみくもに信じた参謀本部たちの誤りによって、レイテ決戦の悲劇は引き起
 こされたのだった。 
・ところが、この「台湾沖航空戦の大戦果」に疑問を持ち、「点検の要あり」という電報
 を出張先から大本営に打って報告していた人物がいたのである。
 これが大本営情報参謀だった堀栄三である。
・偶然にも台湾沖航空戦の本拠地となっていた鹿屋飛行場に転進すると、事情の違いに驚
 かされた。 
 帰還したばかりのパイロットから話を聞いて回ると、華々しい戦果の根拠が薄弱である
 ことを突き止め、その場で参謀本部情報部長あてに、「戦果はおかしい。よく点検して
 作戦行動に移す必要あり」との暗号電報を打った。
・惜しむらくは堀の情報は参謀本部首脳に届かず、作戦行動に生かされることはなかった。
 打った電報は戦後も行方不明のままとなっていた。
・しかし、堀は、1958(昭和33)年になって、その電報の顛末について意外な人物
 から告白を受ける。
 その人物がシベリアから帰国した二年後のことであった。
・「ソ連抑留中もずっと悩みに悩みつづけた問題の一つは、日本中が勝った勝ったといっ
 ていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、きみの電報を握りつ
 ぶした。これが捷一号作戦を根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いた
 いとずっと思っていた」   
・「握りつぶした」という言葉を聞いて、堀は言葉を失った。この意外な人物に、死活的
 な情報が大本営上層部に届けられる前に抹殺されていた。
・この人物こそ大本営作戦参謀だった「瀬島龍三」であった。
 開戦時から参謀本部作戦課に所属していた瀬島は、いうまでもなく堀が書簡で指摘した
 「奥の院」の実力者であった。
・堀は、この瀬島の告白を長い間、胸に収めて伏せていた。
 瀬島と同じ大本営作戦参謀だった「朝枝繁春」には伝えたが、公表することはなかった。
 その朝枝が1986年になって初めて公にしたのだった。
・ところが、瀬島は後に、この告白を覆している。
 「堀君の誤解じゃないかなぁ」「記憶がない」
 多くのインタビューでは、否定を貫いた。
・堀の電報が握りつぶされたとの証言はまだある。
 参謀本部作戦課の高級部員だった「杉田一次」は、1987年に著した「情報なき戦争
 指導 大本営情報参謀の回想」ではっきり証言しているのである。
 「堀参謀は新田原基地に到着し、ただちに鹿屋に飛び台湾沖航空戦に参加した将兵につ
 いて直接攻撃の模様を聞き、同夜、第二部長宛『今日の海軍成果にはきわめて疑問あり、
 小官の鹿屋における観察としては如何におおく考慮しても撃沈せる米艦隊は数隻を出で
 ず、それも空母なりや否や不明なり』と打撃報告した。
 しかしこの電報は大本営軍部(作戦)で握りつぶされ上司に報告されなかった」
・瀬島の名前は記していないが、作戦担当の部門で握りつぶされ、上司に報告されなかっ
 たことを大本営の要職にいた作戦部高級部員が証言している意味は小さくない。
 電報にぎりつぶし事件は確かに現実に存在していたことを示している。
・瀬島という、一参謀がひとりで本当に電報を握りつぶすことができたのだろうか。
 事実なら、責任を問われなければならなかったはずでる。
・元作戦参謀の朝枝の証言では、
 「作戦班がそういう電報や情報の作戦的価値判断をして、それをどのように作戦に活か
 すかを決め、上長にも報告する。そして捷一号作戦は作戦班でかれ(瀬島)が担当して
 いた。いうなれば係長的な立場だったわけですから、当面の責任者であることは間違い
 ない」
・同じく作戦参謀だった「高山信武」は著書「参謀本部作戦課」で自戒を込めて書いてい
 る。
 「(電報握りつぶしは)制度上も組織上もできるものではありません。しかし、作戦参
 謀は非常に権限をもっていましたから、電信兵に命じて情報部長宛てで入ってくる電報
 でも見せろといって見ることは不可能なことではないと思います」
・電報は、捷一号作戦に関わるため、当然作戦課にも届けられただろう。
 それも真っ先に届けられたのが捷一号作戦の担当参謀だった瀬島であったに違いない。
・留意しなければならないのは、この時の作戦課は虚報の大戦果に沸きに沸いていたこと
 だ。その興奮に冷水を浴びせるような電報が届いたのである。
 堀の電報は、たとえ真実ではあっても、負け戦のなかで憂さを晴らす「大戦果」に酔っ
 ていたい大本営の作戦課では、不愉快かつ不都合であった。
・証言の確認は取れていないが、大本営参謀の間で密かに語られている次のような事実が
 ある。   
 「堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受け取った瀬
 島参謀は顔色を変えて手をふるわせ、『いまになってこんなことを言ってきても仕方が
 ないんだ』と言って、この電報を丸めるや、くず箱に捨ててしまったという。そのとき
 の瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである」
・瀬島が属していた超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、堀が「奥の院」と指摘
 するように、どうにもならないほどに硬直化していた。
 自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なものとして抹
 殺していたのである。 
 あくまで作戦上位、そのため主観的願望に溺れるということだ。
 この許しがたい官僚主義こそ情報軽視の本質であった。
 それは日本型官僚機構が持つ倨傲であった。
・では、堀が小野寺の「ドイツ降伏三ヶ月後にソ連が対日参戦する」という情報を伝えた
 作戦課の「某」とは誰のことであろうか。
 堀は、台湾沖航空作戦の戦果電報を握りつぶした「奥の院」の実力者として、開戦時か
 ら作戦課の参謀だった「瀬島龍三」の名前をあげて、「瀬島氏が私に告白しながら、
 その後は一切とぼけて語らず」としている。
 それから四ヶ月後のヤルタ密約での「某」も瀬島であったと考えられるが、堀も瀬島も
 鬼籍に入っており、確認することはできない。
 なお、小野寺の遺族によると、百合子夫人が生前、瀬島に「小野寺電報」について問い
 質したが、「見ていない。知らない」と答えたという。
・ちなみに日米開戦前夜の1941(昭和16)年12月7日午前11時ごろ、大本営第
 十一課(通信課)の戸村盛雄少佐は、瀬島少佐とともにルーズベルト米大統領から天皇
 あての親電の配達を遅らせたとの証言もある。
 結果的に最後通告の遅れにつながったのだが、日米の衝突を回避するための、国家元首
 から国家元首への親電すら、こうして無に帰せしめる彼らの倨傲は、決して許されるも
 のではない。  

・小野寺は、岩手県南部の胆沢郡前沢町(現奥州市)の町役場の助役と務める小野寺熊彦
 の長男として1897(明治30)年に生まれた。
 前沢小学校の頃から成績優秀で「神童」と言われ、柳田国男の「遠野物語」で知られる
 遠野にある遠野中学に進む。
 十二歳の時、父親の熊彦が病死したため、農業を営む小野寺家の本家だった小野寺三治
 の養子となる。
 そして1912(大正元)年に仙台陸軍幼年学校に入学したときは、わずか十四歳だっ
 た。
・小野寺は陸軍士官学校31期だが、卒業する際の成績は、五百名中、六番。
 わずか一番の差で恩賜を逃している。
 恩賜とは上位成績五番以内の卒業生に天皇陛下から軍刀が授与されることで、「軍刀組」
 と呼ばれ、海外留学、海外派遣、戦略レベルの作戦立案など陸軍将校の中でもエリート
 コースを歩んだ。
 成績優秀ながらも、わずかの差で恩賜を逃した小野寺はさぞ悔しかっただろう。
・陸大に在籍中の1927(昭和2)年、一戸百合子と結婚する。
 百合子は、旅団長として日ロ戦争の旅順要塞攻撃で勇名を馳せた「一戸兵衛」大将の孫
 である。  
・上司の中で、小野寺が最も影響を受けたのが「小畑敏四郎」大佐(当時)だった。
 小野寺がインテリジェンス・オフィサーとして成長する上で、この小畑大佐との出会う
 は重要である。
 小野寺は小畑に高く評価され、参謀本部きってのロシア専門家としてキャリアを積むこ
 とになる。小畑は小野寺の人生に大きな転機をもたらした人物ともいえる。
・小畑は小野寺のインテリジェンス・オフィサーとしての才能を見抜いていたのだろう。
 いわゆる「皇道派」の中心人物とされ、「陸軍三羽ガラス」の一人であった小畑は、
 陸軍内でも大きな影響力を持っていた。
 しかし、皇道派の青年将校がクーデターを起こした2.26事件の後、辞表を提出し、
 予備役に編入された。
 小野寺が参謀本部の中枢から遠ざけられ、ストックホルムから打電した重要な電報が政
 策に生かされなかった背景に、彼が小畑派、つまり皇道派とみなされたからだと指摘す
 るむきもある。

ドイツが最も恐れた男:同盟国の欺瞞工作を暴く
・「革命と戦争の世紀」といわれた二十世紀、欧洲には二人の独裁者が率いる全体主義国
 家があった。ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソ連である。
・不倶戴天の敵同士だったヒトラーとスターリンが野合した。
 時に1939年8月、電撃的に締結した「独ソ不可侵条約」だ。
・防共協定を結び、最も頼りにしていたナチス・ドイツが、あろうことか満州国境のノモ
 ンハンで戦った宿敵ソ連と手を結んだのである。
 同盟国ドイツから一切の相談はなかった。
・かつて七つの海を支配し、日が沈まぬ国といわれた大英帝国も落日の時を迎えていた。
 40年7月からドイツ軍はイギリス本土上陸作戦の前哨として空爆を開始、「バルト・
 オブ・ブリテン」の火ぶたが切られた。
 ドイツとイタリアが三国軍事同盟を結ぶのは、この頃である。
 小野寺がストックホルム駐在武官を命じられたのは、そんなころだった。
  
・では、帝国陸軍のスウェーデン駐在武官だった小野寺は、なぜロンドンに本拠を置く亡
 命ポーランド政府と緊密な関係を築き上げ、第一級の機密情報を入手することができた
 のだろうか。
 その謎を解くカギは、第二次世界大戦を通して日本の参謀本部がポーランド参謀本部と
 結んだインテリジェンスにおける組織的な協力関係がある。
・ポーランドと日本の間に、善意に基づく友好の歴史があったことはあまり知られていな
 い。その結びつきは、遠隔にありながら深く強力だった。
 ドイツとロシア・ソ連という二つの大国に挟まれたポーランドは、日本にとって仮想敵
 国ロシア・ソ連を牽制し、かつドイツの本音を探るときに、なんとも便利な存在だった
 からである。 
 日本と防共協定を結びながらソ連と不可侵条約を結ぶなど、ドイツは日本にとって「も
 う一つ信用できない同盟国」であった。
・ポーランド側にも日本に接近する理由があった。
 十八世紀末にロシア、プロセイン(ドイツ)、オーストリアの大国に三分割され、世界
 地図から消えたポーランドは、その後も粘り強く独立運動を続けたが、彼らに勇気を与
 えたのが日露戦争だった。
 日本は独立を支援し、ポーランドの政治家もロシアの弱体化のために日本の助力を期待
 した。
・ロシア革命でも、心温まる交流があった。
 日露戦争で敗れたロシアが内戦状態になる中でポーランド人は独立を求め、何度も武装
 蜂起を繰り返したが、そのたびに失敗を重ねた。捕らえられた者はシベリアに政治犯と
 して流され、難民として流れてきた人々も多かった。
・彼らの一部は、祖国独立のために、チューマ司令官以下約二千人の義勇軍を結成し、
 シベリアで反革命政権を樹立したロシアのコルチャック提督の白軍を助けて赤軍と戦っ
 た。 
 しかし、その試みは失敗し、極東の軍港ウラジオストクに逃げ込んだのだった。
 この時、立ち往生していたポーランド人義勇軍を救出し、祖国に帰還させたのが日本軍
 であった。
 ボルシェビキによる共産主義革命政権の樹立を懸念して米英仏とともにシベリアに出兵
 していた日本軍は、何かと国際社会で批判の対象となったが、こうした側面はあまり知
 られていない。
・シベリアには、追ってきた家族を含めると、数十万人ものポーランド人が残り、多くの
 子どもたちが生まれた。
 赤軍はポーランド人を見つけるや、反乱分子とみなし、虐殺が頻発した。
 ポーランド人や着の身着のまま東へ逃げ、その最中に多くの子供が親を失った。
 結果として多数のポーランド固辞(シベリア孤児とも言われる)が取り残された。
・その惨状を知ったウラジオストク在住ポーランド人は「孤児救済委員会」を組織し、
 世界各国に救済を依頼した。
 しかし、国際関係の緊張から各国は冷淡だった。
 そこで会長となったアンナ・ビエルケビッチは、最後に日本に期待をかけた。
 日露戦争で捕虜になった叔父から、日本人から親切にされたことを聞いていたからだっ
 た。 
・1920年6月、日本に渡り、外務省に孤児救済を訴えた。
 これに応じて外務省は直ちに日本赤十字社に依頼をして人道的立場から支援を決める。
 そして同年7月から、シベリア出兵中の陸軍がポーランド孤児の救出に乗り出した。
 その結果、決断までわずか17日という速断だった。
 1922年8月までで合計765人のポーランド孤児を救い出し、日本を経て祖国に帰
 還させた。日本では、国をあげて孤児たちを温かく癒した。
・ワルシャワでは、日本の尽力で無事帰国したポーランド孤児を新聞は次のように報じた。
 「われわれポーランド人は、この日本人の新説を絶対に忘れてはならない。われらも彼
 らと同じように礼節と誇りを大切にする民族であるからだ」
・余談になるが、75年の歳月を経た1995年に発生した阪神大震災の際に、いち早く
 ヨーロッパから救援活動に駆けつけたのがポーランドだった。そして震災で孤児になっ
 た日本の子どもたち三十人を、1996年と97年の二回、ポーランドへ三週間、招待
 した。あのポーランド孤児救出の返礼であったことは言うまでもないだろう。

・ヒトラーに第三帝国は、ヨーロッパを制圧する勢いだった。
 開戦からちょうど一年後の1940年9月、日本は三国軍事同盟を締結する。
 泥沼に陥っていた日中戦争の膠着の理由を、蒋介石の国民党政府を英米が背後で支援し
 ているためと分析していた日本だが、さりとて英米相手に戦争をするつもりはない。
 日本はドイツと同盟を結べば、英米を牽制して日中戦争を解決できると考え、同盟締結
 に踏み切ったのだった。
・枢軸国側の一員となって以来、日本は政治的自主性を失い、ひたすらドイツに傾いてゆ
 く。 
 それは大戦の終盤に政府、軍部をあげてソ連に傾斜したことに通底している。
・実際に同盟締結を主導した松岡外相は、イギリスがドイツに屈服し、ドイツがソ連と手
 を組むという想定のもとに戦略を練っていた。
 三国同盟にソ連を加えた四国協定を結び、英米連合軍に対抗しようというものだ。
 まさに羅針盤を失い、正しく情勢を読み解けず、希望的観測から迷走の末に暴走を始め
 ていたことになる。 
・実際に独ソ関係は、1940年6月、ソ連がルーマニア領ベッサラビア、北部ブロビナ
 を占領したことで悪化し、ドイツは同年秋、モトロフ外相がベルリンを訪問した時点で、
 ソ連と手を切る方針を固めていた。
 ドイツが密かに独ソ戦を準備していることを、ヒトラーはベルリンを訪問した松岡外相
 には伝えなかった。
・駐英武官だった「辰巳栄一」少将は、1940年10月段階で、「独軍の英本土攻略は
 不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する」と報告している。
 しかし、これらは、英米に偏りすぎた情報として処理され、大島駐独大使をはじめとす
 るベルリンからの親独的な情報ばかりが優遇されたのだった。
 冷静に考えれば、反共を掲げて政権を奪取したヒトラーと共産主義の拡大を目論むスタ
 ーリンがいつまでも盟友でいるはずがない。
 遅かれ早かれ両者の破局が来ることは容易にわかったはずだ。
 しかし、参謀本部は思い込みの勝った希望的観測から、独ソの蜜月が続き、ドイツがイ
 ギリスを屈服させるだろうと判断していた。
 松岡外相は三国同盟にあたり、期待したドイツによるイギリス上陸作戦と独ソの友好関
 係が破綻しつつあるにもかかわらず、「バスに乗り遅れるな」とばかり強引に同盟政策
 を進めた。 
・なぜ松岡外相は国際政治のリアリズムを欠いたまま迷走したのだろうか。
 ドイツの軍事力と工業力を過信し、アメリカの戦意を見誤ったことは言うまでもないが、
 その情報網に欠陥があったことは他言をまたない。
 小野寺ら駐在武官、現場ならイギリス上陸作戦ではなく独ソ戦が勃発するという正確な
 情報を幾度となく打電していたにもかかわらず、視野の狭い参謀本部中枢が情報の価値
 判断を見誤り、指導者の決断を促す材料として提供しなかった。
・ドイツの言うがままに、イギリス本土上陸作戦を信じていたベルリン武官室も、ついに
 ソ連への参戦情報を掴む。
 作戦が始まる直前の1941年6月に、ヒトラーから大島大使に直接伝えれらたのだっ
 た。 
・ベルイン武官室は想定外の事態に大慌てとなった。
 急いで、「独ソ戦近し」と東京に打電した。
 ところが、東京の参謀本部は、「本流」であるベルリンの情報さえも信用せず6月22
 日直前まで半信半疑だった。
 日本の中央の思い込みは、それほどまでに強固だったのだ。
・親独的な情報ばかりを送っていたベルリンの大島大使もようやく1941年6月、独ソ
 開戦情報を東京に伝えたが、日米交渉に没頭していた政府および陸海軍首脳は動こうと
 はしなかった。 
 内閣書記官の頓田健治は近衛首相を代弁して、「帰国した松岡外相が否定的であり、陸
 海軍も独ソ開戦せずという空気があったので、そのまま見送られた」
・「バスに乗り遅れるな」と三国同盟を結んだ日本は、1941年6月に策定した「対南
 方施策要綱」に基づいて、南進すなわち東南アジア方面への侵略の方針を決定しており、
 松岡外相が執心していた四国同盟構想を破綻させる独ソ戦勃発という情報は、国策の大
 きな見直しを余儀なくされるものだった。
 このため政府と軍首脳は、この情報を正面から受け取らなかったばかりか、「ドイツが
 欧州戦で勝利する」という希望的観測に終始し対ソ戦略の見直しなどの政策を変更する
 ことはなかった。 
・最初独善的に立てた作戦(構想)があり、そこから外れた情報は頑なに拒絶されたとい
 うことだ。 
 その情報分析には、独ソ戦の勃発が世界の軍事バランスを日独伊対米英という二大陣営
 に分断してしまうという、グローバルで怜悧な大局観はない。
・この時すでに本のインテリジェンス・サイクルは機能不全に陥っていたのである。
 日本型官僚組織に潜む病弊は根強い。
 敗戦を決定づけるヤルタ密約の最高機密を恣意的に葬り去った日本の統帥部は、開戦前
 から常闇の中にあった。
 日中戦争が中国全土に広がるなか、確たる勝算のないまま真珠湾で太平洋戦争の戦端を
 開くのは、この半年後のことである。

・ポーランド情報将校が諜報活動を行う上で、最適地がリトアニアだった。
 バルト海に面して並ぶバルト三国のひとつであるリトアニアは、北にラトビア、南にポ
 ーランド、東にソ連の構成国だったベラルーシ、南西に東プロセンのドイツ(現在はロ
 シア)と国境を接し、辛くも独立を保っていたが、隣接する大国ドイツとソ連の関係者
 が活動していて、彼ら周辺から情報収集したり、密かに両国に潜入したりすることもで
 きたからだ。  
・現在のリトアニアの首都は、ベラルーシやポーランド国境に近いヴィリニュスであるが、
 当時はポーランド系住民が多数在住していたため、ポーランドが実質的に支配していた。
 そこで西方の古都カウナスが仮の首都とされていたのである。
・カウナスには在留邦人はいなかった。
 日本はドイツとソ連の情報収集のためだけに、ポーランドの諜報活動の重要拠点である
 カウナスに領事館を設けたわけだ。
 いわば日本が合法的に設けたインテリジェンスの最前線基地であった。
 そこには陸軍参謀本部の強い意向があったことは言うまでもない。
 そして領事代理として、ロシア通の有望株、「杉原千畝」を送り込んだのだった。
・1939年8月に独ソ不可侵条約が締結された五日後、杉原一家はカウナスに到着する。
 ただし、椎原がエース格といての期待を担っていたわけではない。
 当時の日本が対ソ諜報の拠点としていたのは、同じバルト三国でも親日で協力的だった
 エストニアであった。
 中央から大きな期待をされていなかった杉原が、カウナスで歴史に残る大仕事を成し遂
 げるのだ。   
 それは小野寺に降りかかった運命と酷似している。
 なるほど人生とはわからないものである。
・白人が多くヨーロッパで、東洋人である日本人が頼みの綱にしたのがヤクビャニイェツ
 ら友好関係のあるポーランド情報士官たちであった。
 祖国を追われ、ヴィリニュスで諜報活動をしていたヤクビャニイェツらもゲシュタポや
 ソ連の秘密警察から身を守ってくれるパートナーを求めていた。
・領事代理となった杉原千畝の本当の任務は、ポーランド軍のインテリジェンス・オフィ
 サーと協力関係を結び、彼らから機密情報を得ることになった。
 ヤクビャニイェツらは、ソ連のスモレンスクやミンスク(現ベラルーシ)などのソ連情
 報や旧ポーランド領でのドイツ情報を杉原に提供した。
 その見返りとして、杉原から日本や満州国のパスポートを受け取り、領事館職員となり、
 ナチスの魔手から逃れた。
・もう一つ、ヤクビャニイェツらが見返りとして求めたことがあった。
 兵士を中心に押し寄せたポーランド難民への日本通過ビザの発給だった。
 当初、依頼したのは、軍将校の亡命支援だった。
 実際に杉原は「命のビザ」発給前に数多くの将校を日本に脱出させている。
・ところが、「カティンの森」で数多くの将校が処刑されたため、要請はユダヤ系難民の
 亡命支援に変わる。
 それは独ソの大国に翻弄された小国の悲劇でもあった。
 独ソ不可侵条約を結んだ際、両国は秘密議定書を取り交わし、独ソでポーランドを分割
 し、バルト三国をソ連の支配下に置くことを勝手に取り決めていたのだった。
・悲劇と言うべきか、奇跡と言うべきか、それは中立国リトアニアがソ連に併合されるま
 でのわずかな間に起きたのだった。  
 1939年9月、独ソが侵攻すると、行き場を失った多くのポーランド人が逃れてきた。
 とりわけポーランドが支配していたヴィリニュスをソ連がリトアニアに返還したため、
 返還前に中立国リトアニアを期待して多数の避難民が移った。
 ところが、そのリトアニアにソ連軍が進駐し、ソ連の支配下になる。1940年6月の
 ことだ。
 リトアニアがソ連邦下になれば、国外に出る自由は奪われてしまう。
 パレスチナやアメリカなどに脱出するビザを求めて避難民が首都カウナスに殺到したの
 だった。
・ドイツが追撃していた西方には退路はなかった。
 トルコ政府もビザ発給を拒否したため、トルコを経由してパレスチナに避難するルート
 も閉ざされた。
 残るはシベリア鉄道を経てアジアに逃れるルートだけだった。
 そこでカウナスにたどり着いた難民たちが日本領事館を取り囲んだのである。
・押し寄せた難民は、ポーランド人というよりもユダヤ人だった。
 ユダヤ人に寛容だったポーランドにはヨーロッパで最も多くのユダヤ系住民が生活して
 いた。  
 隣国リトアニアに多数の避難民が逃れ、その中で最も多かったのがユダヤ系だった。
 結果的に杉原が救ったのはユダヤ人となった。
・杉原が難民にビザを発給した最初の動機は、情報の見返り。つまり諜報任務のためであ
 る。 
 それを求めた亡命ポーランド政府参謀本部の狙いは、難民を北米大陸などに逃がし、亡
 命ポーランド軍に加わらせること」にあった。
・当時の日本政府は、日本が最終目的地でなければ、通過ビザを発給してもよかった。
 外務省の許可を得るまでもなかったかもしれない。
 かくして杉原は日本の通過ビザを大量に発給することになるのである。
・「命のビザ」を発給した発給した杉原は、途中から難民の多くはユダヤ人であると認識
 しながら発給を続けている。
 救ったユダヤ人難民は六千人ともいわれている。
 イスラエル政府から顕彰された人道的立場に基づく行動に疑念の余地はない。
 試練の中で示した勇気ある決断こそ「日本のシンドラー」と評価される所以であろう。
・しかし、人道主義だけであれだけの大量のビザを発給したのではない。
 その決断の前提にポーランド情報機関との諜報協力関係があったことを忘れてはならな
 いだろう。  
・「情報士官」杉原にとって大量のビザ発給は、情報収集と裏表の関係にあった。
 ヤクビャニイェツらの要求に応じて杉原が大量にビザを発給したことで、ポーランド情
 報機関は日本側に大きな恩義を感じたに違いない。
 杉原が築いたコネクションは小野寺によって引き継がれるのだが、配色濃厚となった大
 戦末期の日本に、彼らから長年にわたる恩義に報いる御礼が送られることになるのであ
 る。

・「謀略は誠なり」の精神で日本のインテリジェンス史上、燦然と輝く学校といえば、
 「陸軍中野学校」である。
 その前身、陸軍後方勤務要員養成所初代校長で対ソ諜報の第一人者といわれた「秋草俊
 が、ベルリンで秘密諜報機関として主導していたことは注目に値する。
 偽名の「星野一郎」を名乗り、星野の星の名を取った特務機関は、「星機関」と呼ばれ
 ていた。
・星機関は、ベルリンとワルシャワのみならずハンブルクにも拠点を置き、ヤクビャニイ
 ェツらポーランド人情報将校らの地下組織と連携してソ連とドイツを丸裸にしていた。
 ハルビン時代、亡命した白系ロシア人を使ってソ連情報の収集を行った秋草は、ヨーロ
 ッパではポーランド地下組織の工作員と連携してソ連とドイツにインテリジェンスを仕
 掛けたのだった。
 一説にはスターリン暗殺計画も練っていたともいわれる。
・ハルビン特務機関では、北満鉄道接収をめぐるソ連との譲渡交渉を成功させているが、
 その時に部下として交渉に携わったのが杉原千畝であった 

日米開戦は不可なり:北欧の都からの冷徹な眼
・「電撃作戦」が欧洲大陸を席巻した。
 空陸が一体となり爆撃機と戦車を中心に敵陣を切り崩していく。ドイツ軍の新戦術であ
 る。
・ヨーロッパを数ヶ月で制覇した「電撃作戦」に日本は幻惑されるのである。
 「ドイツ軍快進撃」を、逐一日本に報告したのはベルリンの大島大使だった。
 1941年6月に始まった独ソ戦でも、「ドイツの電撃作戦によりソ連が降伏するのは
 間違いない」と報告、これを無批判に受け止めた日本政府は、1941年秋から始まっ
 た御前会議でも、「ドイツが欧州で勝つのは確実なので、日本が参戦しても負けること
 はない」という結論が出て、同年12月に真珠湾攻撃へとつながってゆく。
 しかし、破竹の進撃を進めたドイツ軍も、真珠湾攻撃が行われた頃には、モスクワ直前
 で大敗北を喫していた。 
・不可侵条約を破ってソ連に大攻勢をかけたヒトラーには、どんな狙いがあったのだろう
 か。それは広大なロシアの大地に眠る地下資源を獲得し、スラブ人を駆逐してゲルマン
 人を入植させるという壮大なものだった。
 ところが、退却しながらも降伏しない赤軍の強さは誤算だった。
 スターリンによる粛清で弱体化していたはずのソ連軍は予想以上に再建されていたのだ。
 それまで、ドイツ軍に包囲されれば、ヨーロッパの国の軍隊はまるごと消滅するほどの
 損害を出して降伏を重ねていたが、ソ連軍は容易には手を上げなかった。
・北欧のストックホルムで小野寺は、ドイツの劣勢が手に取るようにわかった。
 ポーランド情報網から独ソ戦の実相を伝える報告を受けていたからだ。
 しかし、ナチス・ドイツに都合の良い「大本営発表」ばかりを鵜呑みにしていたベルリ
 ンの武官室は、「ドイツが負けるはずがない」と敗色情報を一顧だにしなかった。
 
・小野寺は、アメリカの暗号解読成功につながる暗号機械を開戦後まもなくストックホル
 ムで入手し、日本に搬送している。
 あるパーティーで知り合った暗号機械製造会社クリプトテクニク(現クリプト)の社長
 から、
 「アメリカもイギリスもフランスも、クリプトテクニクを買って使用している。アメリ
 カに勝つためには、日本も購入を」
 と勧誘され、参謀本部に連絡して最新の三台を購入し、ドイツから潜水艦で日本に運ん
 だ。
 その後、参謀本部の暗号解読班が、このクリプトテクニクの構造を数理的に解明し、
 アメリカが複雑に改造していることも突き止め、1944年9月、暗号解読に成功した
 という。

ヤルタ密約情報来る:存亡をかけたインテリジェンス
・第二次大戦で枢軸国日本とドイツの敗色が一段と濃くなった1945年2月。ストック
 ホルムを襲った寒さは例年にない厳しさだった。
 硫黄島で激戦が繰り広げられ、欧洲大陸では、ポーランドのワルシャワを陥落させた赤
 軍が宿敵ドイツの首都ベルリンに迫っていた。
 英米連合軍もライン川を越えたが、破竹の赤軍の勢いには敵わない。
 欧州の情勢はいよいよ最終局面を迎えつつあった。
・だが、小野寺の頭には、欧洲の戦局はなかった。
 気がかりだったのはクリミア半島南端にある黒海の保養地ヤルタに連合国の三巨頭が会
 した会議だった。 
 ソ連がいずれ日本にも刃を向けて来る。小野寺の警戒心は強まる一方だったはずだ。 
・クリミアで八日間にわたり繰り広げられた三巨頭の会談は2月11日に終了し、共同コ
 ミュニケが発表された。
 しかし、それはドイツやポーランドなど欧州の戦後体制に関するものがほとんどで、
 日本が注目するアジア政策の発表はなかった。いや伏せられたという方が正しい。
・クリミアの三巨頭会談が終わった数日後、2月半ばのことである。
 8時から始まる夕食前だった。アパート五階にある小野寺の自宅郵便受けにコトンと物
 音がした。 
 小野寺が郵便受けに投函された「手紙」を確認すると、アパート一階から外に出る人の
 気配を感じた。少年だったか、それとも年配の女性だったかわからない。
 しかし、小野寺には送り主がわかっていた。
 それはストックホルム駐在のポーランド武官、ブルジェスクウィンスキーだった。
・「手紙」には毎回、連合国軍、とりわけイギリス軍のインサイド情報がロシア語のタイ
 プで書かれていた。 
 リビコフスキーや同僚がロンドンの亡命ポーランド政府からクーリエでストックホルム
 のブルジェスクウィンスキーに送ってきたものだった。
・今回の「手紙」には、これまでで最も重要なことが書かれていた。
 とりわけ日本にとっては死活的に重要だった。
 それは日本の敗北を決定づける不吉な情報でもあった。
・クリミアのヤルタで三巨頭は秘かに密約を交わしていた。いわゆる極東条項である。
 「ソ連はドイツの降伏により、三ヶ月を準備期間として、対日参戦する」
・小野寺は思わず目を背けたくなったことだろう。
 あろうことか危惧していた最悪の事態が起ころうとしているのだから。
 あのロシアがやはり日本に刃を向けてくるのだ。
・ならば、このヤルタ密約を小野寺に、日本に伝えたのは、誰であったのだろうか。
 その供述書が米国立公文書館の「小野寺ファイル」に残されていた。
 「ロンドンの亡命政府参謀本部情報部長のガノから、『ソ連が対日参戦することを決め、
 ソ連軍が極東シベリアに移動している』と警告を受けた」
・ガノから「ソ連対日参戦」の警告を受けたというのだ。
 それは単なる情報提供ではなく「警告」だったというのである。
 そこには強い意志が感じ取れる。
 敗戦という国家破綻の窮地に陥った日本を救おうという意志である。
 ソ連の陰謀を見抜き、ソ連を警戒してほしい。そんなメッセージが込められていたので
 ある。  
・ガノは、リビコフスキーの直属の上司であった。リビコフスキーが転進後、小野寺にイ
 ンパール作戦などの情報を送り続けたのは、ガノであった。
 ガノは、1939年にポーランドがドイツに侵攻された際、上田武官にポーランド諜報
 網の接収を持ちかけ、特別諜報協力関係を結んだポーランド側の責任者でもある。
 そして欧洲中にネットワークを張り巡らしたポーランドの参謀本部第二部(情報部)を、
 大戦の途中から部長として主導している。いわば、ドイツのシェレンベルクに匹敵する
 亡命ポーランド政府のインテリジェンス・マスターであった。
・ガノは、ポーランド政府を代表として、長くて深い協力への謝意を込めて日本のピンチ
 を救うべく、最大の「宝」を贈ったのである。
 ガノにとって、日本は本当に大切なパートナーだったのだろう。
 そしてリビコフスキーを通じて心底、小野寺を信頼していたに違いない。
・1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ、敗戦が決まると、ガノはスト
 ックホルムのブルジェスクウィンスキー駐在武官を通じて、小野寺に心温まる申し出を
 行った。  
 長い間の日本との協力関係に謝意を表し、戦後の小野寺と家族に財政支援と身辺保護を
 提案したのでる。
 それは、敗戦で打ちひしがれた小野寺夫婦にとって、心癒される贈り物となったに違い
 ない。
・敗戦後の1945年1月、イタリアのナポリ港から、小野寺は引き揚げ船で日本に帰国
 した。
 リビコフスキーは、自動車に食料品を満載してナポリ港まで見送りに来たが、到着寸前
 で、引き揚げ船は出航してしまう。
 小野寺はこのことを後日知らされたのだった。
 共産主義政権になった母国に帰ることができず、カナダのモントリオールに渡り、一人
 娘を持つ医者の未亡人ソフィーと結婚して余生を送ったリビコフスキーだったが、
 1961年から小野寺が1987年8月に不帰の客となるまで文通を交わした。
・ドイツが日本の思うほど強くないことを小野寺に伝え、日本の対ソ参戦踏みとどまらせ
 たことで、日本がソ連占領による分断国家となることを妨げたと密かに自負していたの
 だ。
・小野寺情報を日本は政策決定に生かすことはできなかったが、結果的に、日本列島にソ
 連影響下の共産主義政権誕生を阻止したことは間違いない。

・ドイツは、いち早く、原子爆弾の研究に乗り出した。
 アメリカは、ナチス・ドイツの核武装を恐れて、亡命ドイツ人・ユダヤ人科学者を秘密
 裏に動員して1942年6月に「マンハッタン計画」を始めた。
 ドイツの原爆のインテリジェンスを入手し原爆製造開発を進めるとともに、カウンター
 ・インテリジェンスとして開発を阻止する工作だった。
・アインシュタインやシラードは、ドイツに核技術を渡さないためにアメリカに協力した。
 道津にもハイゼンベルクらのすぐれた核科学者がいて、原爆開発能力があることを知っ
 ていたからだった。 
 ただし1944年初めには、アメリカはドイツに原爆を完成する能力はないという情報
 を得ている。
 ドイツが開発していたのは原子炉であって、原爆ではなかった。
 原子炉からプルトニウムが生まれるが、ドイツはそれを爆発させるための装置の開発を
 していなかったことが戦後になって判明している。
・小野寺が、1943年入手した「ドイツで原子爆弾の研究が進行中」という情報は、
 実験研究段階のインテリジェンスながら、参謀本部宛てに送った電報は傍受されて、
 解読された文書が米国立公文書館に残されている。
 そこには、「原子爆弾は戦争の将来を決するものと思われるから十分注意するよう」
 という意見が付け加えられている。
・ストックホルムはスイスのベルンとともに、原爆開発をめぐる情報戦の舞台でもあった。
 小野寺が1944年10月以降、ドイツのクレーマーかエストニアのマーシングから、
 アメリカが原爆開発に成功したとの情報を得たとしている。
 時期は不明だが、標的の国の欄には、クエスチョンマークつきで「アメリカ」と記され
 ており、ポツダム会議の直前ごろまでに、アメリカが新型爆弾、つまり原爆を製造した
 ことを掴んでいたとの見方もある。
・ドイツが大戦末期に開発したジェット戦闘機には、起死回生の新兵器として大きな期待
 が寄せられていた。
 小野寺は、この情報を入手したことを「証言テープ」で明らかにしている。
 大戦末期にもかかわらず、ベルリンの日本大使館から二人の若手書記官がストックホル
 ムを訪れた。
 大島大使と同じように、盲目的にナチス・ドイツを信奉していた男たちである。
 ドイツの敗色が濃厚にもかかわらず、「反独的な行為をしないで欲しい。ジェット戦闘
 機が出来ると勝てる」と小野寺に警告したのだった。
・当時世界最高峰の先端軍事技術を持っていたドイツは次々と新兵器を開発したが、劣勢
 の戦局を転換させることはできなかった。
 中立国のスウェーデンで、たそがれゆく同盟国ドイツの新兵器情報を的確につかんでい
 たところに小野寺のインテリジェンス能力の高さがうかがえる。

間に合った「国体護持」情報:8月14日にそれは届いた
・スターリングラード攻防戦以降、敗走を重ねるドイツでは、野望を捨てない独裁者ヒト
 ラーに対する不満がくすぶり、彼を亡きものとして連合国軍との講和を望む声が水面下
 で強まった。
・反乱グループには多数の軍人、政治家、官僚、文化人らが含まれていた。
 ドイツが警戒したソ連のスパイグループを「赤いオーケストラ」と呼んだのに対して、
 反ナチスのこのグループは「黒いオーケストラ」といわれた。
・ソ連国境に近い東プロイセン州ラステンブルク(現ポーランド領ケントシン)。
 この市街地化から数キロ東に位置する広大な針葉樹林の中に「狼の砦」と呼ばれる総統
 大本営があった。
 「狼」とはヒトラーの意味である。
・ヒトラーは、バルバロッサ作戦を開始した直後の1941年6月から、1944年11
 月までここに籠り、宿敵スターリンとの熾烈な戦い(東部戦線)の作戦指揮を執ってい
 た。  
・いわばヒトラーの作戦司令部ともいうべき「狼の砦」で、ドイツはもちろん世界中を震
 撼させる事件が起きた。
 幕僚であった国内予備軍司令部参謀長のクラウス・フォン・シュタウフフェンベルク大
 佐によって、ヒトラーが臨席する戦況会議室に時限爆弾が仕掛けられたのは1944年
 7月20日のことである。
・実行役だった同大佐は、予備軍参謀長だったオリブリヒト大将ら高級将校と、「ワルキ
 ューレ作戦」と呼ばれた国内反乱鎮圧計画を利用して、ヒトラーを暗殺、政権奪取のク
 ーデターを企てた。 
・時限爆弾は予定通り爆発し、4人が死亡、7人気重傷を負ったが、肝心のヒトラーは軽
 傷を負ったに過ぎなかった。
 「ワルキューレ作戦」は「黒いオーケストラ」の犯行に間違いなかった。
 彼らの試みは、四十回以上企てられた暗殺計画の最大だった。
 疑心暗鬼に苛まれたのだろうヒトラーは、七千人にものぼる関係者を逮捕し、約二百人
 を処刑した。
 北アフリカ戦線の国民的英雄・ロンメル元帥も自殺に追い込んでいる。
・この事件は、愛国心のある多くの良識派の軍高級将校とともにアプヴェール(国防軍情
 報部)が大きく関与していた。
 長官のカナリス提督は、「黒いオーケストラ」の主導者の一人であった。
 その目的が戦争の早期終結にあったことは言わずもがなであろう
 敗戦を確信したインテリジェンス・オフィサーたちが祖国を絶望の淵から救おうと考え
 たのである。
 ところが、カナリス長官ら幹部多数が逮捕、処刑され、逆に組織は解散に追い込まれた。

・小野寺は、ヤルタ会談から二ヶ月後の同年4月の電報で、連合国の中で、英米とソ連に
 政治的対立が生じつつあることを警告している。
 「(ドイツ敗北を目前にして)国際情勢に変化が出てきている。英米とソ連の間で政治
 的対立が生じて、今後、残念ながら武力衝突に発展する懸念すら出てきている。バルト
 三国の人たちの間では、(ドイツが敗北して第二次大戦が終われば英米陣営とソ連陣営の
 間で第三次世界大戦に発展すると懸念する声も出てきている」
・小野寺は連合国間に激しい角逐が生じていることを指摘し、アメリカが主導する自由主
 義陣営と、ソ連を盟主とした共産主義陣営の東西対立による大戦後の冷戦構造を、的確
 に予告していたのである。 
・こうしたソ連の野望を見抜いた小野寺のインテリジェンスに、東京の参謀本部は的確な
 対応をしていない。
 参戦してくるソ連を警戒するどころか、逆に「中立条約のある」ソ連と良好な関係を構
 築するよう求めて小野寺に電報を送っている。
 この電報は、判断能力を失い、盲目的にソ連に頼ろうとした中枢の参謀本部の見通しの
 甘さを浮き彫りにしている。 
 「(降伏寸前の)現在のドイツの状況を鑑みて適切な対応を取ってほしい。ドイツ敗北
 という厳しい情勢下で、今後ソ連との関係がますます重要になる。中立を維持するのみ
 ならず、より友好関係を構築していくことが求められる」
・ドイツの敗戦時に、「ソ連の対日参戦」がないことを前提に、ソ連に傾斜したこのよう
 な電報が参謀本部から届いたということは、三ヶ月前に小野寺が打電したヤルタ密約情
 報を大本営で握りつぶしたことを裏づけている。
 わが国中枢の崩壊は大戦末期に来て加速しつつあった。

・1945年4月、ドイツの傀儡だったイタリア社会主義共和国が解体され、同盟を破棄
 し、さらにドイツが破れて「三国同盟」は無効となった。
 それから間もなくの同年3月のことだった。
 陸軍武官室嘱託の本間次郎から、スウェーデン王室を仲介にした和平工作案が持ち込ま
 れた。
・スウェーデン国王グスタフ五世の甥であるプリンス・カール・ベルナドッテと仲介者の
 エリック・エリクソンから、スウェーデン国王にお願いして、日本の皇室に対し、イギ
 リス国王から英米に終戦の斡旋をしてもらうという提案であった。
・本間は元々、佐藤吉之助とともに三井物産の欧洲駐在員としてベルリンで勤務していた
 が、陸軍武官の業務を援助するため、三井船舶の駐在員としてストックホルムに来てい
 た。 
 本間と佐藤はスウェーデンの海運界には知人も多く、こうした人脈を利用した和解工作
 の提案がその真意だった。
・プリンス・カールの父親、ヴェステルイェートランド公は国王の弟で、スウェーデン赤
 十字の総裁でもあり、王室では皇太子に次ぐ重要なメンバーだった。
 だが、平民と結婚したプリンス・カール・ジュニアは、王族の称号も王位継承権も失っ
 ていた。
 国王は、甥のプリンス・カールを愛し、よく手許に招いていた。
・プリンス・カールは、熱っぽく小野寺に語りかけた。
 「国王は、常に戦況が悪化する日本のことを憂慮し、何かと早く終戦にすればよいのに
 といつも仰せられている。わが王室はイギリス王室とは、お親しいのだから、小野寺よ
 り国王にお願いして、イギリスと日本との間のお取り成しをお願いしてみてはどうか」
・プリンス・カールの背後には国王の配慮があることは痛いほどわかった。
 しかし、果たしてプリンス・カールがこんな重大な任務を全うできるのだろうか。
 加えてエリクソンという人物も正体不明だ。
 小野寺は、そのことを懸念して一時は断った。
・小野寺は苦悩していた。
 駐在武官の任務は、駐在している国、或いはその地域での軍事研究、情報収集が主たる
 任務であるのだから、その矩を越えて政治問題にまで関与していいものだろうか。
 軍人は戦うことが本職であるので、戦争最高指導に触れてははらないのではないか。
 思い悩む反面、敬愛していたドイツ陸軍を再興した軍人、ハンス・フォン・ゼークトの
 文章が小野寺の脳裏に蘇った。
 「敗戦、終末には専門的に判断し、意見を上申する。そして、戦争の見込みなき時は、
 違憲を具申する」
・そこで小野寺は二人に告げたのだった。
 「いずれそういうことになったらよろしく頼む。路線は開いておこう」
・ドイツが降伏した翌5月9日に、プリンス・カールとエリクソンが再び小野寺宅を訪ね
 てきて、改めて英米との和平話を持ちかけてきた。
 「日本も終戦すべきだ。この目的達成のために、せっかくの国王のご厚意を受けて、イ
 ギリスとの間の斡旋をお願いなさい」
・仲介者のエリクソンは、こう語りかけた。
 「ドイツが降伏した以上、日本が戦争を続行するのは無意味ではありませんか。戦争の
 続行は、ソビエトが利益を得るだけで、日本も、またアメリカもイギリスも利益にはな
 らない。日本はここで手を打つべきです」
 「国王が自発的に和平斡旋をしてくださる場合はどうですか?」
・エリクソンの素性に疑念を持っていたが、ドイツの敗戦を目の当たりにした小野寺は、
 日本の将来を考え、ついに彼らの提案に乗ったのだった。
 「国王が動いてくださるのなら、結構のことだ。東京に正確に伝えよう。ただし、国王
 陛下が自発的に日本の天皇に親書を送り、イギリス国王への和平斡旋をしてくださる場
 合である。それ以上は、一駐在武官の私に、和平条件は出せない。重大な問題なので口
 外しないように」 
 プリンス・カールは「国王にお目にかかった必ず成功させます」と約束した。
・このような国運を左右する重大な和平工作を進める際は、本来なら外交を担当する公使
 館の岡本公使に相談したうえで、連携して進めるべきだろう。
 しかし、小野寺は岡本公使には、工作内容を打ち明けなかった。
 東京の参謀本部へも、ある程度の目途が立つまで報告を控え、プリンス・カールからの
 返事を待つことにした。
 このことから、小野寺がスタンドプレーで和平工作を行ったと批判する人もいただろう。
 しかし、それまで、公使館が打電する重要な外務電報がことごとく連合軍に傍受されて
 いることを、暗号解読が進んでいたハンガリーやフィンランドの武官から聞かされてい
 た。 
 保秘が絶対条件の終戦工作を進めるにあたって、その行動に大いに疑問がある岡本公使
 に知らせなかったとしても判断ミスとは言えまい。
・ましてやプリンス・カールとエリクソンの斡旋では、いささか荷が重いことは自明の理
 だ。 
 この時点で確実に成功する確証はなかった。
 東京の参謀本部を説得するには、駐在武官よりも、やがてベルリンからくる阿部中将が
 報告した方がよい。
 小野寺は阿部中将が到着すれば、正式に阿部中将から意見具申して中央の判断を仰ぐつ
 もりであった。
・小野寺には信念があった。
 「そもそも、和平工作のような国の重大政策に関わる問題は、軍人はなすべきことでは
 なく、路線の準備をするところまでは任務としても、その先は中央に委ねるべきである」
 ことを堅持していた。
 プリンス・カールに対して、小野寺の方から和平条件などに触れなかったのは、こうし
 た想いが背景にあったからだった。
 その意味で小野寺はバックチャンネルを作ろうとしたのである。これは決して二重外交
 ではない。
・ここで注目すべきは、この和平工作が、アメリカ公使館の要請で行われていることだ。
 スイス・ベルンでのOSS欧州局長だったアレン・ダレスを通じた和平工作も、アメリ
 カ側からの働きかけを受けていたことが戦後、判明している。
 太平洋戦争の終結には日本よりもアメリカ側が積極的だった。
 ヤルタでルーズベルトがソ連に対日参戦を熱望したのは、本土決戦で徹底抗戦を目論む
 日本軍との死闘を回避する狙いもあった。
・しかし、まもなく予期せぬトラブルに巻き込まれる。
 駐日スウェーデン公使のウェダー・バッゲも、日本で同じように終戦工作の斡旋を持ち
 かけられていたのである。 
 そして帰国したバッゲは、スウェーデン国内で小野寺幸作とバッティングすることにな
 るのである。
・バッゲ公使が駐日勤務を終えてストックホルムへ帰ってきたのは、1945年4月下旬
 のことだった。
 帰国を前に、バッゲは朝日新聞専務の「鈴木文史朗」からイギリスを仲介とする和平工
 作を依頼されていたのである。
 鈴木は小磯内閣の重光葵外相に話を通し、政府レベルでの和平交渉へと発展させる手は
 ずを整えた。
・重光外相は「ソ連はいつ対日参戦するかも知れず、到底、日本のために和平を斡旋する
 地位にはない。もし日本が和平を申し入れるとすれば、信頼し得るべき仲介者を通じて、
 直接英米に対して意向を探るのが最も有利なるを感ぜざるを得ない」と判断していたの
 である。
・スウェーデンに帰国するや日本公使館に向かい、重光外相の依頼通りまずカウンターパ
 ートの岡本季正駐スウェーデン公使と面談した。
 「東京から重要な「電報が届いているはずだが・・・」
 驚くべきことに日本からはバッゲが期待した情報も訓令も何も届いていなかった。
 知らないどころか、岡本からは和平に対する熱意が全く感じられなかったのだ。
・日本で工作を依頼した重光外相は、小磯内閣崩壊とともに更迭され、交代した東条茂徳
 外相には、この和平打診工作が充分に伝えられていなかった。
 軍部を中心に水面下でソ連仲介工作が進められていたことも大きかった。
 訓令が来ていないことを理由に岡本は積極的に動こうとしなかったのだ。
・岡本公使は就任したばかりの東郷外相に問い合わせたが、東郷外相からは「前内閣のこ
 となので調べる必要があり、それには相当時間がかかる」との返電が届く。
 イエスでもノーでもない官僚的な対応だった。
 不運なことに、この間に六巨頭により行われた最高戦争指導会議で、対ソ工作を始める
 ことが正式に決まるのである。自動的にバチカン、スウェーデン、スイスなどで非公式
 に行われていた和平交渉は打ち切りとなった。

・ポツダム宣言後の7月30日に加瀬俊一ベルン公使が東郷外相に打った電報には大きな
 意味があった。 
 ポツダム宣言にある「無条件降伏」とは軍事力にかかわることであり、日本国民の民主
 主義的傾向を復活強化することが盛り込まれていると加瀬が解説したことで、東郷外相
 がソ連を介した終戦工作をあきらめ、ポツダム宣言受諾の方向に日本は舵を切るのであ
 る。
 また岡本中将が8月12日に陸軍省に送った、
 「アメリカは天皇制の廃止を考えていない」
 との電報は、鈴木首相と木戸内相に送られ、これを読んだ天皇が阿南陸相たちの一億玉
 砕の主張を退け、ポツダム宣言受諾に踏み切る根拠の一つともなっている。
・こうしたことを考え合わせると、同じ中立国のスウェーデンで岡本公使が、国家存亡の
 危機に、本省から正式な交渉権限を得られずとも、スピード感を持ってバッゲや小野寺
 と和平協力できなかったことが残念でならない。

・6月24日、政府も軍部も上層部あげてソ連に傾斜する日本から意外な電報が届いた。
 「梅津美治郎」参謀総長からのものであった。
 「帝国は必勝の信念をもって戦争を続行する決意を有することは、貴官も承知のはずな
 り。しかるところ最近ストックホルムにおいて、中央の方針に反し、和平工作をするも
 のあるやの情報なり。貴官において真相を調査の上一報ありたし」
・小野寺は情報が東京まで漏れていたことに驚いた。
 これはエリクソンが言ったオーソリティーから東京に何らかのアクションがあったため
 かと前向きに受け止めた。
 しかし、電報をよく読んでみると、「和平工作などするな」との叱責以外の何物でもな
 い。これ以上動けないと強く感じたことは間違いない。
・真実は意外なところにあった。
 東郷外相に報告したのは岡本公使だった。
 彼は協力するどころか小野寺を中傷する秘密電報を何度も打っていたのだ。
 外務省の外交史料館には、小野寺を感情的に非難する岡本公使の電報がいくつも残され
 ている。 
・岡本公使は、「上司に秘密で小野寺がスウェーデンで勝手な行動(和平工作)をしてい
 る」と、告げ口をしたのである。
 外務省抜き、自ら手柄を立てるべく策謀を働いていると、小野寺の人格を誹謗している。
 そして東郷外相から軍の首脳に伝えて工作をやめさせるように警告までしていたのであ
 る。
 この電報は当然ながら、連合軍に傍受され、米国立公文書館にも保存されている。
 アメリカ軍が解読したマジック文書には、解読者の特記事項として「岡本の小野寺に対
 する批判は辛辣を極め、個人感情にとらわれ過ぎている」とコメントされている。
 傍受・解読したアメリカ人から見ても、岡本公使の感情的な偏執性は際立っていた。
 梅津参謀総長からの電報の背景には、このような岡本公使の常軌を逸した動きがあった。
 
・1932年から上海総領事を務めていた岡本公使は、日米開戦の三日前の1941年に
 シンガポール総領事に転じた。
 このときイギリスはシンガポールやマレー半島、ビルマなどのイギリス植民地にいた日
 本人はインドを連行し、ニューデリーにあった古い城であるプラナキラに抑留した。
 別の収容所にいた岡本公使はプラナキラ収容所を視察して、待遇のあまりのひどさを知
 り、インドを発って交換船で到着したアフリカ南東部のポルトガル領モザンピークのロ
 レンソ・マルケスで電報を外務省に打っている。
 確かにイギリスによってインドに抑留された日本人の待遇が劣悪であったことは事実だ
 ろう。 
 電報から岡本公使が、イギリスに対して悪感情を持っていたことが読み取れる。
 これが原因でイギリス王室を介した和平工作に協力しなかったとしたら、個人的感情が
 日本に大きな損失をもたらしたことになる。
・ソ連に傾く日本の中枢から叱責を受けた小野寺は、この時、いかなる心境だったのだろ
 うか。 
 ソ連が参戦する、あのヤルタの最高機密情報をつかんでから、すでに四ヶ月もの月日が
 空費されていた。
 祖国の行く末を案じて、ストックホルムで焦燥の日々を送っていたに違いない。
・ソ連が条約を遵守しない国であることはヨーロッパでは周知の事実である。
 周辺国と十五の不可侵条約を結びながら、ドイツ以外の国にいずれも侵攻した。
 1939年、ポーランド、そしてフィンランドにも侵攻している。
 そのような国に仲介を頼むのは狼の前に置くことに他ならない。
 日本と中立条約を結びながら、鎗田で対日参戦する密約を交わした「スターリンの裏切
 り」を欧洲で一人見抜いた小野寺が慌てたのも当然だろう。
・このままでは、日本がポーランドやバルト三国のようにソ連に占領される。そして衛星
 国として共産化してしまう。
 そう考えるとソ連は断じて「救世主」ではない。
 北欧の地から小野寺がソ連を観る目は冷徹だった。
・しかし、大本営は小野寺の警告電報を無視するばかりか、ソ連に実現不可能な和平仲介
 を依頼したのである。
 すでにソ連は同年4月5日、ソ中立条約破棄の通告をしていたが、「一年間は自動延長
 だから日本への宣戦布告はありえないだろう」と根拠ない楽観的な見方をしていた。
 そこには日露戦争以来、大本営が一貫して抱いていたはずの「仮想敵ソ連」の姿勢が、
 あまりにも都合よく欠落した。
 参戦するまでソ連を頼った終戦交渉を夢見ていた見通しの甘さは呆れるほどである。
・小野寺が絶対避けるべきものと判断していたソ連仲介による和平工作は、日本の中枢部
 で着々と進んでいた。
・御前会議を前に、「広田弘毅」元首相に頼んで、マリク駐日ソ連大使と箱根で話し合い
 が持たれている。   
 日本と敵対する対日参戦の方針が決まっていたソ連は、それを悟られないように、のら
 りくらりと話をはぐらかした。
 その間の沖縄戦で日本軍は粉砕され、二十万人の民間人を含む死者を出すことになる。
・7月7日になって今度は「近衛文麿」を特使としてソ連に派遣する方針が決まる。
 モスクワでは佐藤駐ソ大使がモトロフ外相との会談にこぎつけたが、近衛特使派遣を認
 めようとしないまま、スターリンはポツダム会談に向かった。
 そして7月26日、ポツダム宣言が出され、8月6日、史上初めて原爆が広島に投下さ
 れるのである。
・ソ連は日ソ中立条約の延長を行わないことを、4月5日の時点で通達していた。
 日本政府が「一年間は自動延長だから対日参戦はないだろう」と楽観的な見方を前提に
 動いていた。
 はたしてソ連はそれを破棄し、8月8日、日本へ宣戦布告したのだった。
 ソ連は日本との会談を時間切れに持ち込み、近衛はモスクワに行くことはなかった。
 
・すべてが遅すぎた。
 しかし、小野寺やスウェーデン皇室、親日家の努力は水泡に帰したわけではない。
 スウェーデン王室からの申し出は、アメリカ大統領ハリー・トルーマンに届いていたの
 である。
・それは1945年「7月6日、アメリカの駐スウェーデン公使であったジョンソンがストッ
 クホルムからバーンズ国務長官に宛てた電報だった。
 「プリンス・カールは日本陸軍武官の小野寺少将から夕食の招待を受け、その席上交わ
 された会話は次の通りである。小野寺少将は日本の敗北をすでに承知し、時期が来れば、
 スウェーデン国王に直接連絡を取り、連合国へ接触を要請するだろう。国王は連合国に
 連絡を取る意向に傾いている。小野寺は天皇の地位が降伏後も保持されることのみを述
 べ、他の降伏条件は述べなかったが、まだ時期ではないからこの会話をアメリカ側に知
 らせないようにと要請した」
・ポツダムでスターリンとトルーマンが対立した。
 天皇制存続つまり「国体護持」について、8月12日のスウェーデンの新聞は
 「天皇抹殺論のソ連の猛反対を押し切って、アメリカが日本の天皇中心主義を認めさせ
 た」 
 とアメリカの外交の勝利を報じた。
・果たしてスウェーデン国王グスタフ五世は日本および昭和天皇のために、どのような形
 で一肌脱いだのだろうか。
 残念ながらスウェーデンでは、王室の行動に関する記録は作成・保存しておらず、公式
 文書で確認することはできない。
 そこで関連する資料を探してみると、考えるヒントとなる資料がいくつか見つかった。
 国王が天皇に親愛の情を示した資料が「高松宮日記」にあった。
 「午後、スウェーデン武官だった小野寺陸軍少将、よし様のお話にて来り。トルネル陸
 軍大将(侍従武官長)から帰る前(21年1月)に特に面会を求められ、『戦況不利に
 なってから殊に日本皇室に対し同情を以て見ていたが、(老年の)国王から(年若き)
 天皇に敬意を表するお気持ちを伝えられたい』とのことだったので、私から陛下に申し
 上げてくれとのことなり」 
・グスタフ国王は日本の皇室や昭和天皇に大変な好意を持っていた。
 そしてイギリス王室とも近しく、エリザベス王女とも電話で話ができた。
 国王が岡本公使ではなく小野寺に昭和手天皇への伝言を託したことは、小野寺の方がよ
 り国王の信頼を得ていたことにほかならない。
 その国王が、戦況不利になった日本皇室に対して同情していたという。
 ならば、日本皇室を救う、つまり天皇制存続に何らかの行動を取ったと思われるが、こ
 れは推測に域を出ない。

対ソ幻想の謎を解く:天皇の意思を曲解した人々
・いうまでもなくソ連はかつて日露戦争を戦った相手であり、その後も日本にとっては最
 大の仮想敵国であった。
 同盟国ドイツと壮絶な死闘を繰り返し、首都ベルリンを陥落させ、1945年5月には
 第三帝国を敗北に導いているにもかかわらず、日本はそのソ連に傾斜したのである。
 なぜだろうか。
・ナチス・ドイツが風前の灯となり、アメリカに本土決戦で一撃を加えようと苦肉の策を
 講じつつあった日本は、ソ連の参戦をもっとも恐れていた。
 そこで1941年4月に結んでいた中立条約に幻想に近い期待を抱くことになる。
 45年4月、翌年に5年間の条約期限が切れる中立関係を維持すれば、ソ連の対日参戦
 を防止でき、またソ連を好意的な仲介者として戦争を終わらせることもできる。
 いわば日露戦争のポーツマス条約で仲介の労を執ったアメリカのような存在として「中
 立国」ソ連に過剰な希望をつないでいたのである。
・「一億玉砕」をスローガンに「本土決戦」を唱えた陸軍を抑え、戦争を終わらせるには
 多大なエネルギーが必要だった。
 開戦直後の1942年ごろから戦争の終結を目指す政治家、官僚、軍人、民間人の動き
 がありながら、その都度、東条内閣や軍部が、敗戦主義者または「バドリオ分子」の策
 動として容赦なく弾圧したのは、その現れであった。
・終戦工作の主役が首相経験者を中心とした政治家グループだったのも当然かもしれない。
 暴走する陸軍を中心とする軍部に知れれば、たちまちクーデターを起こしかねない。
 実際に敗戦の受諾に反対し、天皇の玉音放送を妨害しようとした将校がいたことは、よ
 く知られている。
 このクーデターは失敗に終わり、日本は天皇の権威のもと、法に従い整然と戦争を終わ
 らせたのである。
・敗北が決定的になるにつれて、日本民族は滅亡の危機に瀕していた。
 1945年に入ると、列島各地で空襲が激化し、国民の半数以上が必要最低摂取カロリ
 ーの半分も摂ることができなかった。
 1945年末まで戦争が続いていれば、国民の三分の一が餓死していた可能性さえあっ
 た。
 ところが、陸軍は、民間人に竹槍を配り、「本土決戦」による徹底抗戦を計画していた。
 そして和平の言論を容赦なく弾圧していたのである。
・大げさに言えば、戦争を終わらせなければ、日本という国家が世界地図から消えていた
 かもしれない。それほど事態は逼迫していた。
 だから終戦工作は、日本国を滅亡から救い出した日本近代史上最大のハイライトと言え
 るかもしれない。 
・重臣といわれた首相経験者の中で、終戦工作の中心にいたのが2.26事件で首相だっ
 た海軍大将、「岡田啓介」であった。
 マリアナ沖海戦に敗北した1944年6月から、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎ら
 の重臣とともに、内大臣、木戸幸一と謀って戦時内閣といわれた東条英機内閣を総辞職
 に追い込む工作を始めている。
・また木戸内大臣も同年6月、重光外相と協議し、宮中は内府、政府は外相において全責
 任を負い、聖断によって事を運ぶほかない点を話し合っている。
・2.26事件で岡田首相の秘書官を務め、岡田啓介の次女と結婚した「迫水久常」は、
 著書「機関銃下の首相官邸で、次のように証言している。
 「岡田啓介大将が主導した東条内閣引き下ろし工作を手伝った。岡田大将は、はじめか
 ら戦争に反対であった。米内光政内閣の実現に骨を折ったのも、陸軍の戦争への一筋道
 の進路をできることなら阻止しようという彼の悲願に出たものであった。戦争が次第に
 わが方の不利となって来るといっそう一日も早く終戦をと考え、それには、開戦に踏み
 切った東条内閣を退陣せしめることが、先決問題と考えた。昭和18(1943)年の
 夏のある日、岡田大将のところへ例によって海軍司令部の対米作戦主任の長男、「岡田
 貞外茂
」中佐、陸軍参謀本部の作戦課の中心的存在であった「瀬島龍三」中佐、それに
 大蔵省総務局長であった私(迫水)の四人で会食をしながら、戦争の前途についていろ
 いろ話し合っているうちに大将から私に木戸内大臣に会って、東条内閣は退陣すべきで
 あるという意見を言ってこいという話が出た」
・迫水が調整して重臣グループと東条首相の懇親会が始まり、やがて東条内閣打倒に成功
 したが、終戦への地ならしする「小磯国昭」内閣を誕生させたものの、小磯首相は「戦
 争完遂」を叫ぶだけで、重光外相がスウェーデン公使ウェダー・バッゲに依頼した工作
 以外には具体化するに至らなかった。
・2.26事件以来、日本の権力の最中枢にいた迫水は、この後に岡田の肝煎りで誕生し
 た鈴木貫太郎内閣で、岡田の名代として内閣書記長官を務め、ソ連仲介による終戦工作
 の一翼を担うことになるが、1943年の夏から、岡田と通じて瀬島龍三と東条内閣打
 倒を発端とする終戦について協議していたことは注目していいだろう。
・瀬島は2.26事件で岡田首相の身代わりとなった「松尾伝蔵」の娘婿であった。
 岡田は義理の伯父にあたる。
 陸軍参謀本部作戦課の中枢にいた瀬島は、迫水と早い段階から気脈を通じていたことが
 うかがえる。    

・太平洋の戦局が悪化の一途をたどった1944年11月、モスクワでは「中立国」であ
 るはずのソ連のスターリンが革命記念日前日の演説で、日本を初めて侵略者と決めつけ
 て非難した。一縷の望みを賭けて望んだレイテ沖海戦も惨敗に終わった。
・陸軍参謀本部のエリート参謀が背広をまとい外交伝書使(クーリエ)として極寒のモス
 クワに向かったのは、ちょうどその頃だった。
 1944年のクリスマス当日。彼は「瀬越良三」を名乗り、東京駅を発ち、朝鮮、満州
 を経て極東ウラジオストクからシベリア鉄道に乗った。
 片道二週間かけて到着した首都モスクワに約一週間滞在して、今度は逆ルートを辿って
 東京に戻ったのは翌年1945年2月だった。
・このクーリエこそ、開戦前から参謀本部作戦課に勤務し、「影の参謀総長」といわれた
 実力者、瀬島龍三その人であった。
・「沈黙のファイル 瀬島龍三とは何だったのか」によると、謎の隠密行動について、次
 のように答えている。
 「ソ連へは外交伝書使としてではなく、スパイとして行った。外交伝書使としての仕事
 はソ連へ諜報に行くための偽装だった・・・」
 「参謀本部庶務課長柴田大佐とり外交伝書使としてソ連に旅行すべきを命ぜられ、『情
 報任務』は『独ソ戦の推移についてモスクワ日本大使館・陸軍武官府がどう判断してい
 るかを聴取して帰ること』と、ソ連が対日参戦に備えて兵力を極東に移動させているか
 どうか『シベリア鉄道の輸送状況を観察して帰ること』だった」
・ソ連への渡航の目的が、本当に「情報任務」であったのかは疑わしい。
 開戦前から作戦課の中枢にいた瀬島は、大使館、陸軍武官からの電報を真っ先に見る立
 場にあり、独ソ戦に対して在モスクワ大使館、陸軍武官府がどのような状況判断をして
 いるかは、東京で逐一把握できたはずだ。
 ナチス・ドイツに偏った状況判断をしていたベルリン大使館、陸軍武官府に比べて、モ
 スクワはソ連の反攻を比較的冷静に報告しており、モスクワまで出向いて情報交換をす
 る必要もなかった。
・ソ連軍最高総司令部は、すでに1944年12月1日から、極東への兵力、弾薬、燃料、
 食糧などの輸送を始めていたが、対日参戦のため欧洲戦線から極東へ兵力の移動を本格
 化させるのは、日ソ中立条約不延長を通告後の1945年4月からである。
 瀬島が帰国する1月下旬から2月初めは、極東への車走はまだ活発に行われていない。
・その約3ヶ月後の同年4月30日夜、実際に「情報任務」のためにシベリアへ渡った参
 謀本部通信課の金子昌雄大佐が、シベリア鉄道の列車内で、ソ連情報機関の工作員とみ
 られる男に毒を盛られ死亡したと疑われる事件が起きている。
・そもそも「情報任務」ならば、参謀本部情報課の情報将校が行うのが一般的だろう。
 作戦課の作戦参謀だった瀬島が、シベリア鉄道の輸送状況を調べる諜報活動のためモス
 クワに出張したというのは、合理的な説明にはあり得ないのである。
・奇妙にも、瀬島が2月に帰国してからソ連を仲介とする終戦工作が政府内で本格的に動
 き出すのである。 
 瀬島のモスクワ行きについては様々な憶測を呼んでいる。
・日本政府は、独ソ和平斡旋を通じた対ソ外交を構想していたが、瀬島がモスクワに行く
 三ヶ月前の1944年9月には、特使派遣の際、米英との和平実現のための仲介努力に
 対して、ソ連が要求する条件をすべて受け入れ、代償、つまり「贈物」を与えることを決
 めていた。 
 ならば、起死回生を狙ったレイテ沖海戦も惨敗し、さらに戦況が絶望的となる中で酷寒
 のモスクワに瀬島が和平の対ソ工作に行ったならば、当然、手ぶらではなかったはずだ。
 それは相手の心に響く相当な「贈物」だったに違いない。
・評論家の松本健一は、次のような興味深い見方を示している。
 「瀬島さんが昭和20年2月に帰ってきたとき、すでにシベリア抑留の合意ができてい
 たのではないかという穿った説もあります。つまり、ソ連が和平の仲介をしてくれる場
 合、貢ぎ物として日本が差し出すものの中に軍人のシベリア抑留があり、その下工作を
 瀬島さんがやってきたのじゃないかという説ですが」
・瀬島は迫水に「ソ連が参戦すること」を前提にした終戦工作を進言したことを認めてい
 る。
 ソ連から2月に帰国した瀬島から報告を受けた岡田、迫水らが、ソ連に関して楽観的な
 見通しを持って、瀬島とともにソ連を介した戦争終結へのグランドデザインを描き始め
 ていたということではないだろうか。
 ストックホルムから小野寺の「ヤルタ密約」の機密情報が参謀本部に届くのは、ちょう
 どこの頃であった。
・同じ頃、日本の敗北が決定的となるにつれて、木戸幸一内相は秘かに重臣の単独謁見を
 計画し、2月7日から16日にかけて、平沼騏一郎、広田弘毅、若槻礼次郎、牧野伸顕、
 岡田啓介、東条英機の順番でこれを実現させた。
 宮中グループを中心とする和平工作活動も強まり、近衛文麿が「国体護持」の立場から
 「敗戦は遺憾ながら最早必至なろと存候」と、速やかに戦争を終結すべきことを天皇に
 上奏したのは2月14日のことだった。
 
・東京府に属する硫黄島にも、2月19日、アメリカ軍は上陸作戦を敢行した。
 日本軍は徹底した持久戦で対抗したが、3月末までに捕虜約二百十人を除いてほとんど
 が戦死した。
・前年マリアナ諸島を攻略してサイパンなどの基地を拠点に始めていた日本本土爆撃はい
 よいよ本格化することになる。
 3月10日、東京を大空襲し、4月1日、アメリカ軍についに沖縄本島に上陸を始めた。
・もはや日本の敗戦は誰の目にも明らかだった。
 しかし、軍部は「一億玉砕」のスローガンを掲げ、国民が命をなげうって最後まで闘う
 ことを声高に叫んだ。
・そこで、大本営が1945年1月20日、「悌子機陸海軍作戦計画大綱」としてまとめ
 たのが、日本本土攻防をめぐる最終にして最大の決戦、「本土決戦計画」である。
・軍部が本土決戦に賭けたのは、ソ連を除く米英中の連合国が1943年11月のカイロ
 宣言で日本に無条件降伏を求めていたことと無縁ではない。
 「国体護持」をも否定する無条件降伏を最悪の事態と受け止めていた軍部は、その一歩
 手前で形成を挽回しとうと本土での決戦に期待を寄せていたのだった。
・瀬島がモスクワから帰国後まもなくして、陸軍上層部はソ連仲介案に前のめりになって
 いく。「対ソ・シフト」を明確に敷くのである。
 国民には「本土決戦」を唱えていたにもかかわらずである。
・政府のソ連仲介和平構想も動き出す。
 出張で東京に戻ったハルビン総領事の宮川船夫がソ連大使館のマリク大使を訪ねている。
 「卓越した国際活動家が和平の調停者となり、すべての国に対して戦争停止を要求する
 べき時が来た」と語り、「和平調停者は権威、威信があり、説得力を兼ね備えているべ
 きで、スターリン元帥以外にない」と言い放っている。
・また、3月4日には今度は外務省と密接な協力関係にあるロシア領水産組合の組合長、
 田中丸祐厚がマリク大使に「スターリン首相は、戦争の終結と和平を呼びかけることの
 できる国際的外交官である」と述べて、ソ連にアメリカとの和平仲介を依頼する希望を
 公然と示したのだった。
・こうして日本は、永年にわたって宿敵としてきたソ連に、一途に傾斜してゆくのである。
 そうした動きを参謀本部第二部(情報部)長だった「有末精三」は次のように回想して
 いる。
 有末は、戦争処理をどのようにすべきかについて前年から検討課題としていたが、同年
 3月末ごろ、「万策尽きた」結果として、「ソ連を通じた対連合国、特に対米和平を促
 進する案」をまとめ、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、秦彦三郎次長らに持ち込ん
 だ。
 有末は、「数か月、日夜ひそかに考え抜いたいえの『愚策』だが、せっぱつまった情勢
 でのやむを得ない佐久であった」と語っている。
・これは、時間の経過から見て、瀬島の訪ソ報告を受けての判断だったことは想像に難く
 ない。
 下剋上の陸軍参謀本部内で、瀬島は「奥の院」と呼ばれた作戦課で中佐でありながら、
 「影の参謀総長」と呼ばれるほど主導権を握っていたためだ。
・阿南陸相は当初、「蒋介石との和平には進むべきだが、共産圏のソ連とやるのは不同意
 だ」と異を唱えたが、有末の重ねての具申に、「眼とつむりましょう」ということにな
 り、陸軍首脳の同意を得た。
 ただし、陸軍上層部が乗り気になったのは、迫り来るソ連の対日参戦を防止することが
 目的で、直ちに終戦和平交渉に乗り出すことには後ろ向きだった。
・日本がなかなか戦争終結に踏み切れなかった理由に、米英中の三国が1943年11月
 のカイロ宣言で、日本の無条件降伏を要求した点があった。
 この時すでに、スイスや小野寺のいたスウェーデンなどの中立国ではいくつかの和平工
 作が行われていたが、「東郷茂徳」外相にはいずれも効果があると思えなかったようだ。
 東郷がバッゲ工作などを打ち切り、ソ連の仲介による和平路線に舵を切ったのは、無条
 件降伏以上に有利な条件を得ようとしたためであった。
・この時の模様を東郷は、戦後、米国戦略爆撃調査団に次のように語っている。
 「私が外相に就任した際には、和平の仲介を頼むとすれば、ソ連に頼む外はないという
 ことに軍部も宮中方面も、政界方面もほとんど一致していた。それは、米国をして、無
 条件降伏を日本に強いさせないように、再考させるだけの説得力のある中立国は、ソ連
 しかないという観点に基づいているものであった。私自身はソ連を仲介に頼むことは好
 まなかったが、スウェーデン政府は米国側に無条件降伏ということを撤回させる力のな
 いことは否めないし、しかも当時の日本の感情では無条件降伏は到底受け入れらそうに
 ないので、ソ連利用に同意する外なかった」
・それでは、「すでにソ連は対日参戦の肚を決めている」と読みながら、なぜ東郷はソ連
 との交渉に同意したのだろうか。
 恐らく駐ソ大使時代にノモンハン事件で停戦交渉をまとめたモトロフ外相との親交が脳
 裏にあったようだ。
 「日本が思い切った条件を出して譲歩すれば、あのモトロフも応じるかもしれない。可
 能性はゼロではない。ソ連に頼るしか道は残されていない」
・東郷がソ連仲介の和平に絞ったことが、英米と直接交渉するルートや、スウェーデンや
 スイスあるいはバチカンなどの中立国を通じたルートによる和平工作を潰すことになる。
 東郷がソ連以外のルートを公式に抹殺してしまった罪は少なくないだろう。
・その後、政府はソ連を介した戦争終結に向けて動き出す。
 ここで注目したいのは、政権中枢で敗戦までソ連仲介工作を進めた迫水が、外務省より
 も陸軍が主導権を持っていたと証言していることである。
 その代表格として瀬島の名を挙げている。
 それは東条内閣を倒閣した時と同様、政権最上層部で蜜月だった二人の濃密な関係を図
 らずも浮き彫りにしている。
 岡田啓介とともに迫水が瀬島とソ連和平工作に尽力したことは明白だろう。
・ここで重要なのは「終戦」を目指して1945年4月に産声を上げた鈴木内閣がソ連を
 仲介とした和平工作に乗り出す前に、瀬島が「ソ連参戦」の可能性が高いことを知って
 いた点である。 
 迫水の回想でも瀬島は「戦争を有利に導く方策はない」と見通しが暗い戦局を伝えてい
 る。
 この当時は、ドイツ降伏前であり、ソ連は中立条約の延長破棄を通告してきたとはいえ、
 それでも一年間は自動延長だから日本への宣戦布告はありえないだろうとの楽観的な見
 方が、政府、軍部ともに支配的であっただけに、瀬島の「ソ連参戦」を前提にした終戦
 工作の進言は異彩を放っている。
 「ソ連が参戦して来るから、その前に終戦すべし」と言い切れるのは、瀬島が「ソ連が
 対日参戦する」ことを確実に掴んでいたからではないだろうか。
・参謀本部作戦課の中心参謀だった瀬島が同年4月に「ソ連が対日参戦する」ことを確実
 に掴んでいたとしたら、それは同年2月中旬ごろ、小野寺が送った「ヤルタ密約」機密
 電から情報を得ていたからではないか。
 瀬島が迫水に「ソ連参戦の可能性が高い」と進言できたのは、こうした裏付けがあった
 ように思えてならない。

・戦捷終結に動き出すにあたって東郷は、小磯内閣時代に設置された当時の政策の決定機
 関である最高戦争指導会議を、陸海軍軍務局長の幹事を除いて正規の構成員である首相、
 外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の六人だけとし5月11日あら12日、14
 日と宮中で密かに開催した。
 主題は「日ソ関係の好転を図る」ことだった。
・冒頭、梅津参謀総長からソ連軍の極東への兵力増強の報告があり、外交による参戦防止
 の訴えがあった。
 「(ソ連は)最近、極東に向けしきりに兵力の移動を行っている。外交によってソ連の
 参戦を防止することが絶対に必要であると考える」
 これには異論がなかった。
・次いで米内海相から、参戦防止から一歩進めてソ連の好意的中立を目指す対ソ外交案が
 出された。
 「海軍としては、単に参戦防止だけではなく、できればソ連から戦争資材、とくに石油
 を供給させるような外交を希望する」
・対日参戦の準備を着々と進めていたソ連に石油を供給させるとは、どうみても希望的観
 測に過ぎない。
 さすがの東郷も唖然となる。
 米内は東郷とともに早期和平の構想をいだいていたが、ソ連に対する認識はひどく甘か
 った。
・この時すでに海軍は鈴木首相にも無断でソ連に傾斜する行動を取っていた。
 米内の命を受けた軍務局第二課長の末沢慶政大佐がソ連大使館を訪問し、残存していた
 戦艦、空母など軍艦のすべてとソ連の飛行機を燃料付きで交換することを申し入れてい
 る。
 むろんソ連側はまともに取り合わず、門前払いされた。
 「敵」にしたくないソ連へ盲目的に信頼を傾けたのは陸軍のみならず海軍も同じだった。
・すかさず世界情勢を踏まえて、東郷が反論している。
 「ソビエトを知らないにもほどがある。もはやソビエトを軍事的・経済的に利用しえる
 余地はない。ソビエトの好意的態度を誘致しようというならば、米英ソ三巨頭の会議の
 前でなければ駄目だ。あの三人が会ったあとには、日本の対ソ関係調整も独ソ和平も困
 難となることは覚悟すべきであった。今になってソビエトの重要軍事資材を利用すると
 か、好意ある態度を誘致するとかいっても手遅れである」
・ここで鈴木首相が発言した。
 「もう時機遅れとなってしまったかもしれないが、それだからといってソ連に対して何
 等外交の手を打たないのも面白くない。何かやってみようではありませんか。和平の仲
 介を頼んでみたらいかがですか。スターリンという人は西郷隆盛に似たところもあるよ
 うだし、悪くはしないような感じがする」
 東郷外相の意図する和平仲介という重大提案が鈴木首相から出されたのである。
・陸、海軍から反対意見は出なかった。
 無条件降伏を強いられる恐れが大きい米英に対して、日本に有利な条件で仲介しえるの
 は、中立国ソ連のほかないという点で出席者の意見は一致する。
 そして対ソ外交の目的として、
 @ソビエトの参戦防止
 Aソビエトの好意的中立の獲得
 B戦争終結に関してソビエトをして日本に有利な仲介をさせる
 が決まった。
・Bの仲介依頼の決定は、政府が初めて戦争終結に対して正式に検討した形で、いったん
 は決まりながら、軍が反対する。
 そして、「時期をみて」という条件が付けられ、当面は和平の仲介依頼は見合わせるこ
 とにする。  
・またソ連に提供すべき「代償」として、政府はポーツマス条約と日ソ基本条約を破棄し
 て、おおむね日露戦争以前の状態に戻る覚悟を決めた。
 南樺太の返還 、漁業権の解消、場合によっては北千島の譲渡である。
 ただし、朝鮮は日本の手に残し、南満州は中立地帯とし、できるかぎり満州国の独立は
 維持されるべしとした。
 千島列島のすべての譲渡を含んでいたヤルタ密約には遠く及ばず、この条件ではソ連を
 説得し得なかったことは明らかだ。
 ここにも当時の日本政府の状況認識の甘さが見て取れる。
・それにしても、強硬派の軍人を抑えて終戦を実現させた宰相として評価が高い鈴木首相
 だが、ソ連と指導者スターリンに対する甘い認識には驚愕するばかりだ。
 国家の指導者が、強国ソ連にすがって終戦の端緒をつかもうとして、「スターリンは西
 郷隆盛に似たところがあり、悪くはしないよう感じがする」と見当違いの幻想を抱いて
 いたとしたら、これほど悲しい滑稽感の漂う着想はないだろう。
 独ソ不可侵条約が締結され、「欧州情勢は複雑怪奇なり」と内閣総辞職した平沼騏一郎
 以来、日本の指導者の国際感覚の欠如は、目を覆うばかりである。
 鈴木首相から信頼を受けたスターリンは、無条件降伏ばかりか天皇制廃止も求めていた
 のだ。これはソ連に対する一方通行のラブコールに他なるまい。
・ソ連の対日参戦を防止したい陸軍の主導で進められた会議で、東郷は当初からソ連仲介
 案に反対だった。
 和平はアメリカと直接行うことを望んでいたからだ。
・ところが、東郷の「正論」は軍部によって却下される。
 無条件降伏を強いられる恐れが大きいとの理由からだった。
 どこかの仲介によるなら、やはり実力のある中立国ソ連のほかないという軍の主張に沿
 ってソ連仲介による和平工作に入ることが決まるのである。   
・そのような日本の独りよがりをあざ笑うかのように、スターリンとモトロフが、その三
 ヶ月前の2月クリミアのヤルタにて、ドイツ降伏三ヶ月後の対日参戦を米英に約束した
 ことを、東郷や迫水は知る由もなかった
・東郷外相が対ソ外交に終戦の突破口を見出そうとしていた時、陸軍では、徹底抗戦によ
 る本土決戦態勢を強化すべき動き出していた。
 沖縄戦が絶望的となった5月半ば、陸軍では早急に本土決戦態勢の整備を進めるべく、
 御前会議を開いて新たな戦争指導大綱を決定しようとしていた。
 6月6日、御前会議を前に最高戦争指導会議が開かれ、陸軍が起案した「戦争指導大綱」
 が採用された。
・あわせて政府から戦争遂行能力がない実情を描いた「国力の現状」が提出されたが、
 これを軍部が修正し、「精神力を高め、具体的施策を徹底すれば、本土決戦は可能だ」
 との解釈が付記された。
 戦争維持が困難である「現状」が意図的にねじまげられたのであった。
・こうして6月8日の御前会議では、「国力の現状」と世界情勢判断」の説明に続いて、
 最高戦争指導会議で決定された「戦争指導大綱」が決定する。
 「最後の一兵まで徹底抗戦」して本土決戦を遂行することが決まるのである。
・ここには開戦以来の戦争目的だった「自存自衛」と「大東亜共栄圏の建設」は跡形もな
 い。それに代わり、「国体護持」と「皇土保衛」、つまり天皇制の保持と本土防衛が戦
 争目的と変更されたのだった。
・しかし、当然ながら戦うためのまともな武器はない。
 大本営が敵と戦う方式を示す目的で配布した国民抗戦必携」には、「銃、剣はもちろん
 刀、槍、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口に至るまで白兵戦闘武器として用い
 る」と書かれている。
 軍部の本土決戦計画とは、かようにお粗末で狂気じみたものだった。
・御前会議の強硬な本土決戦の方針が決定されたことに、昭和天皇は不満で仕方なかった
 ことは疑いえない。 
 御前会議では、慣例通り一言も意見を発していないが、心中深く憂慮していた。
 「6月の臨時会議前の御前会議は実の変なものであった。政府の報告によれば、各般の
 事情を総合して戦争はもうできぬと判断されているにもかかわらず、軍令部総長と参謀
 次長とが勝利疑いなしとして戦争継続を主張した。この勝利疑いなしとする論拠は政府
 側の報告と非常に矛盾しているが、結局会議の決定は戦争継続ということになった」
・昭和天皇は6月9日に、満州に視察に行った梅津美治郎参謀総長から、「満州の兵隊は
 南方に抜かれていて、せいぜい一回決戦をやるくらいの兵力しかありません」と大陸の
 兵力が予想外に弱体であるとの報告を受けて、ますます戦争継続に疑問をいだく。
・6月12日には、天皇の特命を受けて、日本の海軍基地を視察した「長谷川清」海軍大
 将から、「到底本土決戦などできません。そんな馬鹿な話はありません」との報告を受
 ける。
・そして6月16日に木戸幸一内相を呼んで、「このまま続けていたのでは民族は滅びて
 しまうから、和平も考えなくてはならないのではないか」と和平を初めて口にした。
・木戸は御前会議で軍部主導により本土決戦方針が決定されたことを知り、終戦工作に入
 ることを決意して起草した「時局収拾案」を提案、天皇は即座に承認した。
 昭和天皇の勇断によって戦争終結の努力を開始するというもので、具体的には、天皇の
 親書を携行した使節をソ連に派遣し、和平交渉の仲介を依頼することであった。
・6月18日、鈴木首相は最高戦争指導会議を開き、和平努力の方針が決定する。
 これで5月の最高戦争指導会議で一度は決まりかけながら保留されていたソ連への和平
 仲介以来を改めて実施することが決まったのである。
・天皇は6月22日に最高戦争指導会議の構成員である六巨頭を御前会議として招集し、
 慣例を破り、戦争終結についての検討を語りかけた。
 「これは命令ではなく懇談であるが」と前提されての「御言葉」は次の通りである。
 「先般の御前会議において、戦争指導の大綱が決まったが、本土決戦について万全の準
 備を整えなくてはならないことは、もちろんであるが、他面、戦争の終結について、こ
 の際、従来の観念にとらわれることなく、すみやかに具体的研究をとげ、これの実現に
 努力するよう希望する」
・この「速やかに和平実現に努力せよ」との「御言葉」は、6日8日の徹底抗戦の御前会
 議決定を否定するものではなかったが、事実上、戦争継続の方針を戦争終結に大転換さ
 せる「鶴の声」となった
・天皇は終戦交渉を依頼する相手として自ら積極的にソ連を選んだわけではない。
 鈴木内閣が密かに計画を進め、かつ木戸も勧めたため、ソ連仲介による和平工作にお墨
 付きを与えたのだった。
・この決定を受けて6月28日、東郷外相は、モスクワの「佐藤尚武」大使に散り急ぎソ
 連側の回答、藤大使からの返電はなかなか来なかった。
 ソ連は「慎重に検討する」と言うばかりで意図的に返答を遅らせていたことは明らかだっ
 た。
・進展が見られない対ソ交渉に業を煮やしたのは昭和天皇だった。
 7月7日、鈴木首相に対して、「その後どうなっているか。時機を失してはよろしくな
 いから、この際むしろ、率直に仲介を頼むことにしてはどうか。親書を以て特使派遣の
 ことを至急取り運んではどうか」と述べている。
・東郷外相も7月8日、近衛文麿公爵と会見してモスクワ行きを依頼し、内諾を得た。
 そこで7月10日に開かれた最高戦争指導会議で、ソ連に近衛を特使として派遣して、
 終戦に関する仲介を依頼することを正式決定する。
・近衛の交渉案では、ソ連仲介による交渉に極力努力するが、万一失敗した際には直ちに
 英米と直接交渉を始めることとしていた。
 その時は国体護持を最低条件として、無条件降伏に近い降伏もやむなしという構えだっ
 た。 
・そこで7月13日、東郷外相は佐藤大使に緊急電報を打った。
 ポツダム会談前に和平協定に達したいと焦燥していた東郷外相は、対ソ外交の進展にす
 べての夢をかけていたのである。
・佐藤大使はただちにモトロフ外相に会見を申し込むが、ポツダムへの出発準備に多忙と
 の理由で拒否される。
 代わって13日午後会見したロゾフスキー次官に天皇の意向と近衛特使の派遣を申し入
 れた。しかしソ連からの回答はまたも遅れることになる。
・そして7月18日になって佐藤大使にようやくソ連側から回答が届く。
 ロゾフスキーからの親展の手紙であった。
 「ソビエト政府にとって、特派使節近衛文麿公爵の使命がいずれにあるやも不明瞭であ
 ります。よってソビエト政府は日本皇帝のメッセージについて、また、特派使節近衛公
 爵についても、何ら確たる回答をなすことは不可能であります」
 事実上の特使受け入れ拒否の回答だった。
・ポツダムでは、スターリンは日本が和平仲介と近衛特使派遣の希望を伝える天皇からの
 親書のメッセージの写しをトルーマンに渡し、対応について意見を求めた。
 電報暗号化解読情報で、その内容を知っていたトルーマンだが、あえて知らないふりを
 して、近衛特使の目的が不明であることを指摘するとともに、日本に一般的な返答をす
 ることに同意した。 
・これは、1943年10月に米英ソ外相会議で、連合三大国は枢軸国から和平交渉開始
 をもちかけられた際にはすべて互いに通報することを義務付けていたことによるものだ
 った。   
 つまるところソ連はアメリカの同意を得て和平仲介と特使派遣を拒否したのである。
・こうした米ソの固い結束を見抜けず、日本はソ連にすがり続ける。
・ソ連から近衛特使受け入れ拒否の回答を得た佐藤大使は、ソ連との交渉で有利な講和を
 成功させる可能性もなくなったと判断して、7月20日に東郷外相あてに速やかな戦争
 終結を求める最後の意見電報を打っている。
 これは国体護持だけを条件にして事実上の無条件降伏を進言した形だ。
・この時期に、スウェーデンの小野寺とともに、スターリンの「本心」と侵略の「野望」
 を見抜き、その脅威を中央に訴えていたのがモスクワの佐藤大使だった。
 しかし、こうした進言はことごとく無視され、握りつぶされるのである。
   
・日本が身動きが取れない状態にあるのを尻目に、ポツダムでは終戦に向けて大きく動き
 出した。
 7月26日、米英中の三国の指導者名でポツダム宣言が発表される。
・ソ連への和平仲介依頼とポツダム宣言がいかに関係しているのかが、このときの日本政
 府の最大の関心事だった。 
・天皇制に関して明示されておらず、不安は募った。
 頼みの綱であったソ連のスターリンやモトロフ外相は会談に主要メンバーとして出席し
 ていたものの、まだ対日参戦していないのでこの宣言には加わっていなかった。
・このことが無用に淡い期待を膨らませることにつながった。
 東郷らの外務省では、宣言はソ連の了解を得ているもので対米英との和平条件になりう
 るから受諾すべきとの判断だった。
 何よりも宣言では、「無条件降伏」は、「全日本軍隊の無条件降伏」とだけ書かれ、
 全体的に見て、「有条件降伏」を要求していると解釈できたからだった。
・ところが本土決戦で戦争を続けたい陸軍は、宣言を「謀略」と判断し、宣言にソ連が出
 てこないところに着目した。
 ポツダム宣言にソ連が加わっていなことに関して、二種の判断が生まれた。
 一、ソビエトは対日参戦し日本を永久に敵にまわしたくないため
 二、対日参戦を秘匿するため
 易きを求めるという意味で一の希望判断し、今さらスターリン首相の件名を期待するの
 であった。
・これがソ連が対日協調に転じるとの不毛の期待を抱かせ、ポツダム宣言拒否の根拠の一
 つとなる。    
 特使派遣を断われ、ポツダム宣言が出されてもなお、ソ連に対する盲目的な期待は途絶
 えることがなかった。
・翌日開かれた最高戦争指導会議で、特使派遣に関するソ連からの回答があるまで成り行
 きを見守り、明確な意思表示はしないことが決定される。
 政府としてはしばらく様子を見ることになったのである。
・ところが7月28日の記者会見で、ポツダム宣言について問われた鈴木首相が、「重大
 な価値があるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」と発言したため、新聞
 は「黙殺」と報じ、欧米では「リジェクト(却下)」、つまり日本政府の「拒否回答」
 と受け止められた。
・このことで日本は一気に奈落に突き落とされる、「。
 アメリカには原爆投下、ソ連には対日参戦の口実を与えることになったのである。
・広島に原爆が投下された8月6日、モスクワに戻ったモトロフに佐藤大使が会見を申し
 入れると、8月8日に会見が実現した。
 近衛特使派遣要請に対する回答がようやく得られると思い込んでいた佐藤大使を待ち受
 けていたのは、他ならぬ日本への宣戦布告であった。
 モトロフは「日本がポツダム宣言の受諾を拒否したため、日本のソ連への和平仲介の依
 頼はまったく基礎を失った。したがってソ連はポツダム宣言に参加して9日から戦争状
 態に入る」と通告したのである。
 
・それにしても敗戦がひしひしと迫るなか、国民の間でなぜ戦争終結に向けて行動が起こ
 らなかったのだろうか。迫水は次のように記している。
 「それは言論統制が徹底していたことが大きな理由であると思う。少しでも反戦的な言
 動があったものは、密告によったりして容赦なく検挙されるという、憲兵を中心とした
 警察政治が徹底していたからである」
 「当時の憲兵たちの行動は、まったく常軌を逸したものであって、いやしくも和平を口
 にし、戦争の見込みについて悲観的な言動のあるものは、直ちに反軍者として逮捕する
 有様で、吉田茂もこのような立場から鈴木内閣成立とほとんど同時に逮捕せられた」
 
・日本は単独で米英に勝利することは不可能であることを認識していた。
 そこで戦争終結には外交、とわりけ「中立」関係にあった大国ソ連との外交が極めて重
 要となった。
・この奇妙な「中立」関係に日本は過剰な甘い期待をかけ、日本に都合のよい「幻想」を
 追い求めるのである。
 開戦直後から、北方のソ連との政治的・軍事的安定を図る「対ソ静謐の保持」と共に採
 られた「独ソ和平」推進の方針は、三国同盟締結の際に「松岡洋右」らが期待した四国
 協商の延長線上にあった。
 ドイツと同盟を結び、ソ連とは中立関係にある日本がその立場を利用して、交戦状態に
 ある独ソ両国を講和させようという構想だった。
 世界大戦で日本が優勢に立つための対外政略の一つとして大戦中、何度も検討された。
・開戦当初は、イギリスを屈服させることでアメリカの戦意を喪失させることを狙って、
 ドイツを対ソ戦から解放させ、対英戦に専念させると同時に、ソ連を枢軸国側に引き込
 むことが早期戦争終結につながると考えられた。
 論理的には間違ってものではなかったろう。
 しかし、この独ソ和平の仲介構想は、当事者であるドイツとソ連の意志を無視した日本
 の一方的な希望であって、現実には互いに民族の存亡をかけて戦う両国に講和する遺志
 はさらさらなく、ドイツから日本に来た要請は、和平仲介どころか対ソ攻撃だった。
 現実のパワーポリティクスを無視した日本の外交方針は、インテリジェンスの欠如から
 すでに早期において間違っていたことになる。
・日本の指導者が、そこまで独ソ和平にこだわったのはなぜだろうか。
 連合国の間で、(とりわけソ連の地中海、中東進出により)ソ連と米英の利害がやがて
 対立するだろうと判断していたのだった。
 確かに小野寺が盛んに電報で伝えたように、英米とソ連の利害は次第に対立するように
 なり、英米側でもその点は論議されてゆくのだが、それは連合国陣営の勝利がほぼ確定
 したヤルタ会談後の大戦末期のことであり、1943年後半の時期はまだ枢軸国陣営打
 倒で連合国は団結していた。
 ソ連と米英間で角逐が生じるという重光らの情勢認識は、客観性を欠いた独善的なもの
 だったといえよう。
・陸軍でも独ソ和平にかける期待は高まっている。
 身勝手な「幻想」をどんどん膨らませ、ソ連に傾斜していく契機はかなり早期に訪れた。
 ソ連通の秦彦三郎が1943年4月に参謀次長に就任すると、対ソ関係改善が本格的に
 進められる。
 参謀本部は秘かに、1943年の時点ですでにドイツ崩壊を想定しており、ソ連を介し
 た対米英和平プランを構想していたのだった。
・サイパンが陥落する同年7月には、参謀本部内で開戦後初めて終戦構想が練られた。
 戦争指導班の班長である松谷誠、種村佐幸、橋本正勝は、1945年春を目途とする戦
 争指導に関する研究を行い、「今後日本は作戦的に大勢挽回の目途なく、しかもドイツ
 の様相も概ね帝国と同じ今後ジリ貧に陥るべきをもって、速やかに戦争指導を企画する
 を可とする」ことを決めている。 
・そこで1944年7月に、「昭和19年末頃を目途とする帝国戦争指導に関する説明」
 を作成して、同年後半に米英との決戦を企図しつつ外交努力によって「独ソ和平の仲介
 をもはかる」とし、その実現は、「能否の問題を超越し決戦遂行のための絶対的要請な
 り」と義務付けられた。
 ここにきて米英との和平を視野にいれた独ソ和平構想が陸軍で大きく膨らむことになっ
 たのだ。
 むろん、それは、ドイツとソ連の当事者双方が意図しない身勝手な「幻想」であった。
・日露戦争以来、最大の仮想敵国としてロシア・ソ連を警戒して戦争準備を進めてきた軍
 中央の、ドラスティックな政策転換だった。
 「反ソ・反共」から正反対の「親ソ・容共」へ戦争方針を一変させた軍中央に現地軍が
 混乱し反発を招いたものも当然だった。
 この政策転換を軍中央である参謀本部内で推進したのが「種村佐幸」ら戦争指導班であ
 ったことは明記しておかねばならないだろう。
・佐藤大使は独ソ和平構想が非現実的であることを何度も電報で伝えるが、日本政府の期
 待は変わらなかった。
・何度も和平仲介が断られたためか、三度目となる今回の目的は「中立関係維持、さらに
 友交増進」として、特使にはモスクワ大使経験のある元首相、広田弘毅が選出された。
 この背景には陸軍、とりわけ参謀本部の強い意向があった。
 敗色濃厚となるに連れて対ソ防衛に危機感をつのらせた参謀本部が、外交によってソ連
 参戦の脅威を除去しようと要望したためだった。
 そこには「鬼畜米英」に今さら直接降参することはできないという面子とドイツ敗戦後
 に日本への集中砲火が懸念される強大なソ連の軍事力への恐怖があった。
・日本は特使派遣を最終的に断念するが、軍部の圧力を受けた重光外相は執拗に佐藤大使
 に独ソ和平など対ソ工作の実施を支持している。
 佐藤大使は、「代償」をもって日本がソ連を米英から離散させることは不可能であり、
 「ソ連に対して見苦しき譲歩を敢えてし我のみ生き伸んとするごとき態度は大国として
 恥さるを得ず、『タイ』等より以て迎えらるるは到底忍ひ得さるところなり」
 と反論する電報を打った。
 まことに正論だが、ソ連に傾斜する日本の中枢は佐藤大使の意見具申を一顧だにしなか
 った。
・同年11月の革命記念日前夜の演説で、スターリンは、初め日本を「侵略国」と非難し
 た。日本の抱いていた対ソ認識が国際常識に反する希望的観測に過ぎなかったことが判
 明したのだが、にもかかわらず日本は、救世主めいた「対ソ幻想」を逆に強めてゆくの
 である。
・1944年12月、参謀本部作戦指導課が作成した「帝国の採るべき戦争指導に関する
 観察」では、米英ソ中間の協力の現状に破綻を期待するのは当分無理として、「帝国は
 外交に依る世界情勢の転回を企図するのはほとんど不可能」と結論づけている。
・ここに開戦以来、模索した独ソ和平を中核とする対ソ工作は失敗に終わり、次なる焦点
 は1945年4月に破棄期限が迫った日ソ中立条約の存続、ソ連の対日参戦の防止に移
 ることになった。 
・ヨーロッパでは、ナチス・ドイツが風前の灯火となり、1945年2月、クリミア半島
 のヤルタでおこなわれた米英ソ首脳会議で、スターリンは、ドイツ降伏後三ヶ月後に、
 いよいよ対日参戦することを密約し、同年下旬からソ連軍の極東への移動が始まる。
 一方で、日本政府と軍部のソ連への期待は加速してゆく。
 日本が独ソ和平の仲介を果たすことはできなかったのに、英米との和平の仲介はソ連に
 依頼しようという都合の良い算段なのだった。
・断られても断られても片思いの相手に求愛するが如く、日本は盲目的にソ連を最後の拠
 り所として頼ったのである。 
 その求愛をあざけるようにソ連は肘鉄を食らわすことになる。
 1945年4月、かねてから懸案だった日ソ中立条約の延長を日本政府が希望すること
 を2月の会見で申し入れていた佐藤大使は、モトロフ外相から文書で、ソ連は中立条約
 を延長しないことを伝えられたのだった。
・佐藤大使も当然予期していたことだろう。
 すでにヤルタで対日参戦の密約が交わされており、参戦の前提となったドイツの敗北も
 間近に迫っていたからだ。
 実際問題、ソ連としては、中立条約の期間満了となる1946年4月まで維持すること
 さえ不可能だった。 
・早くから戦後を見据えて領土拡張と共産主義のアジアへの浸透の戦略を立てていたソ連
 のしたたかさに比べて、客観情勢を無視してご都合主義で暴走した日本外交がいかに視
 野狭窄であったかが、ここに如実にあらわれている。
 
・独ソ戦勃発直後から、特使をモスクワに送り、連合国の仲間に引き入れようとしていた
 アメリカのルーズベルト大統領も、当然ながらおなじ戦略を持っていた。
 アメリカは開戦前から極東に米軍基地を建設することも求め、英米は開戦当初から公然
 と対日参戦を要請した。
・しかし、ナチス・ドイツと激しい「大祖国戦争」を戦っていたスターリンに、その余裕
 はなかった。 
 対独戦争に勝利するため英米の協力をもっとも必要としていたが、東と西で二正面作戦
 を取ることができなかったからだった。
 太平洋戦争開始直後、駐米ソ連大使のリトビノフはモスクワからの政府訓令をもとにル
 ーズベルトに断りを入れている。
・スターリンは、開戦以来、「中立」条約でわずかに友好関係を保っていた日本にはあい
 まいな態度をとりながら、連合国のアメリカと両天秤にかけていた。
 そして対日参戦を懇願するルーズベルトの足下を見て、アメリカから武器・弾薬をはじ
 め独ソ戦に必要な物資を供給させている。
 したたかな二重外交をとり続けたいたことになる。
・アメリカはソ連に援助を惜しまなかった。
 日米開戦前の1941年11月依頼、ソ連に「武器貸与法」を適用して、1944年4
 月までソ連に対して、大砲、戦車、飛行機、自動車など艘がk113億ドル(現在の価
 値で約48兆円)もの援助を行っている。
 裏を返せば、ソ連はアメリカの援助なしで屈強なドイツとの戦いを続けられなかったこ
 とになろう。  

・そもそもソ連は最初から日本のために和平を仲介する意思などなかった。
 それは日露戦争以降の歴史を辿ればわかる。
 帝国ロシアがアジアの新興国に敗れ、世界中に恥をさらした屈辱感が今なおロシア人の
 心を支配しているのだ。
 第一次大戦でも日本は英・仏の依頼でロシア白軍を助け、赤軍と戦っている。
 ロシア革命では、日本はボルシェビキ革命政府を打倒する目的でシベリアに七万の兵を
 送り、7年間も広大な大地を占領し、干渉を続けた。
 ソ連は重なる屈辱を晴らす復讐の機会をうかがっていたのである。
 だからクレムリンの独裁者が敗戦寸前の日本への参戦を「千載一遇」のチャンスと受け
 止めていたとしても不思議ではない。
 
・それにしても瀬島や迫水ら、最後までソ連仲介による終戦工作を推進していた人々の共
 産主義国家ソ連に対する認識が
 極めて甘かったことは特筆されてよい。
 しかしそれは、ある種時代の空気であったかもしれない。
・その典型的な人物は内相として天皇の最側近だった木戸幸一である。
 1945年3月、訪問してきた日本銀行に勤める友人の宗像久敬に木戸は、ソ連仲介工
 作を進めれば、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては
 条件が不面目でさえなければ、これを受け入れてもよい、という話をしている。
 さらに木戸は続けた。
 「共産主義というが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義
 ではないか。欧州もしかり、支那もしかり、残るは米国くらいのものではないか」
・驚いた宗像が「共産主義になると皇室はどうなるのか。国体と皇室の擁護は国民の念願
 であり木戸の思いでもあるはずだ」と問い返し、「ソ連ではなく米国と直接接触すべき」
 と主張すると、木戸からはさらに驚くべき言葉が返ってきたという。
 「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るのがよい。英米に降参
 してたまるものかという気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手
 をにぎることになるのではないか」
・天皇側近の木戸までが天皇制と共産主義の両立ができると考え、その動きを容認してい
 たのである。 
 ただただ眉をひそめざるを得ない。
 ロシア革命以来、日本は国体である天皇制とボルシェビキ革命政権のイデオロギーは相
 容れないと考えてきた。
 共産主義が日本を含むアジアに波及することを阻止するために日本軍がシベリア出兵ま
 でしたこともあった。
 この時代、国家社会主義という共産革命の火種が日本の中枢に巣くっていたと言っても
 いいだろう。

・このような幻想に警告を発したのが近衛文麿であった。
 1945年2月に、天皇に出した上奏文で近衛は、英米では敗戦後の国体変革(天皇制
 廃止)までは考えておらず、憂慮すべきは敗戦ではなく敗戦の混乱に伴う共産主義革命
 であると述べた。
 そこで欧州ではソ連が共産主義ないし親ソ容共政権を樹立させており、東アジアでも同
 様の工作が行われていると指摘し、将来的にソ連による内政干渉がありうることも示唆
 した。
 日本でも共産主義革命が起こりうる情勢にあり、国体と共産主義が両立する論があり、
 少壮軍人に共産主義が受け入れられやすくなっていると指摘している。
・ソ連への警戒を打ち出して、陸軍内部の親ソ・強硬派を粛清し、ソ連ではなく米英との
 直接的和解によって米国の「民主主義」と国体護持の両立を訴えた近衛の国際情勢の分
 析は正鵠を得ていたといえる。
 しかし、「鬼畜米英」とソ連一辺倒に傾く陸軍とその影響を受けた木戸の意見を聞いて
 いた天皇は、米英との直接和平を選ぶことはなかった。
 選択したのは「一撃後の和平」やソ連を介しての和平だった。

・では一体誰が、このソ連仲介の和平工作の青写真を描いていたのであろうか。
 これまでの一般の理解では、本土決戦を主張する軍部、とりわけ陸軍は、終戦直前の和
 平工作に異を唱え、和平に肝腎のことは何も知らされていなかったとされる。
 ところが参謀本部中枢の作戦指導班では、東条内閣時代から終戦工作が検討され、とり
 わけ大戦末期の1944年7月から戦争指導班長を務め、大本営の戦争指導を行ってい
 た「種村佐幸」大佐が、対米戦争を継続するため、ソ連との同盟を主張し、対ソ工作の
 原案を作ったというのだ。
・種村は、陸軍士官学校の三十七期「で、陸大を経て1939年12月から参謀本部戦争
 指導班に所属し、1944年7月から戦争指導班長を務めている。
 この間、1944年2月5日から3月30日まで、秦参謀次長から命ぜられ、瀬島と同
 様に外交クーリエとしてモスクワに主張している。
 このソ連出張の目的は藪の中である。
 帰国した種村は同年4月4日、木戸幸一内相を訪ね、ソ連情勢を説いている。
 ポツダム宣言が出された後の8月、種村は第十七方面軍参謀として朝鮮にわたり終戦を
 迎えている。   
 このため1950年1月に帰国するまでシベリアに抑留された。
・1954年に在日ソ連大使館二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフKGB中佐が
 アメリカに亡命するという「ラストヴォロフ事件」が起こった。
 その際、「志位正二」少佐と「朝枝繁春」中佐が警視庁に自首しており、ソ連のエージ
 ェント(工作員)だったことが判明している。
・ラストヴォロフの米国での証言の中に、
 「シベリア抑留中に11名の厳格にチェックされた共産主義者の軍人が教育された」
 との供述があり、志位、朝枝のほかに瀬島龍三、種村佐幸の名前が挙げられている。
 また種村は帰国後、公然と日本共産党員となったという。
・ちなみに瀬島は1945年8月19日、関東軍参謀としてソ連軍と停戦交渉を行った際、
 捕虜の抑留と使役を自ら申し出る密約を結んだとの疑惑が、斎藤六郎らから指摘されて
 いる。 
・瀬島はまた、1946年10月の東京裁判で「松村知勝」少将とともに、ソ連側証人と
 して出廷している。

・第二次大戦を戦った日本軍は、最初に参謀本部作戦課が主観的に作成した作戦計画があ
 り、それに合致しない情報は、たとえ客観性のある真実でも無視される傾向があった。
・情報は生のもので、想定した通りにはならない。
 ところが、「情報」が「作戦」に従属するとされた日本軍では、いわゆる「軍刀組」し
 か入れない「奥の院」の作戦課によって、ひとたび作戦(戦略・戦術)が立てられると、
 それに合致する情報だけが集められ、それに基づいた分析しかなさなかった。
・「独立王国」ともいえる絶対的権限を持っていた作戦課では、寄せられた電報を軍事機
 密に指定さえすれば、情報を独占することができた。
 作戦参謀が自分に都合のいい情報しか採用しなかったのはこうした事情からである。
 したがって、想定した作戦計画から外れる情報は、たとえ事実であっても、不都合で不
 愉快な情報として陰蔽される傾向にあった。
 そこでは机上で立てた作戦という主観的願望に沿った情報しか集められず、いつしか希
 望的観測が客観的事実にすり替わっていたのだ。

・瀬島龍三は「9月までに参戦する可能性が高い」と語っているが、「可能性」と「確実
 に参戦する」では受け止めるニュアンスが全く異なる。
 参戦することが決まっていれば、その相手に和平仲介の依頼などできないだろう。
 和平を進めるうえで、ソ連が確実に参戦するというヤルタ密約情報は、瀬島が戦後一度
 は大本営の情報参謀だった堀栄三に抹殺を告白した台湾沖航空戦の電報と同等に、いか
 にも「不都合な真実」だったに違いない。
・こう考えれば、ヤルタ会談でスターリンが交わした裏切りの密約は、不吉な将来を予見
 し、立案した計画を破綻させてしまうがゆえに、ソ連への和平仲介工作を構想していた
 瀬島ら政府中枢グループと、本土決戦で戦局打開を模索していた強硬派の軍部双方が、
 激しく拒否反応を起こしてしまったのである。
 ここにも日本型官僚機構の倨傲があった。
 それはまた「作戦」を「情報」の上部に置くという、インテリジェンスの位置づけの問
 題でもあった。 
・近代史最大級のインテリジェンスであったヤルタ密約のスクープ電報は、国際情勢を示
 す第一級の情報であるがゆえに、ソ連仲介による和平工作構想を無に帰せしめる恐れが
 あった。
 その究極の「不都合」がこの電報を深い闇に葬り去ったとすれば、それは、日本の国家
 を破滅寸前で救う一大プロジェクトの過程で起きた、敗戦国日本の悲劇の一つかもしれ
 ない。
・昭和史研究の第一人者の半藤一利は「小野寺電が大本営に届きながら『奥の院』で抹殺
 されたことは間違いない」と断言した。
 生前の堀栄三から、「確かに参謀本部に届いていた」と直接聞いたことがあったという。
 哀しくも小野寺電が抹殺された理由を半藤は二つ挙げた。
 まず水面下で始まっていたソ連を仲介とする和平工作と衝突したことである。
・では誰が握りつぶしたのであろうか。半藤は静かに語った。
 「決定的な証拠がなく、最後まで本人は認めなかったが、台湾沖航空戦の電報と同様に
 瀬島龍三に違いない。ヤルタ電抹殺は台湾沖空戦の握りつぶしの延長線上にあり、連続
 性のものだ」
 「瀬島はモスクワでソ連政府の肚を探り、和平仲介の下交渉を行ったとみられる。岡田
 啓介、迫水久常らとソ連和平仲介工作のグランドデザインを描き始めたところに、スト
 ックホルムから、ソ連がドイツ降伏後三ヶ月で参戦することを伝えた小野寺電は、いか
 にも都合が悪かった。2月の時点では、
 ドイツは降伏していなかったから、瀬島は、ソ連参戦は少し先のことと考え、ソ連参戦
 までにソ連を通じた和平を成立させようと邪魔な小野寺電を抹殺したのだろう。
 現在の原子力ムラと同様の大本営ムラの暴挙だ」

あとがき
・福島原発事故の対応を見るにつけ、日本が戦前、戦中と同じく、政権中枢のインナーサ
 ークルで、貴重な情報を握りつぶし、国策に生かせないでいることが悔やまれてならな
 い。
 戦後六十七年を経ても繰り返される「悲劇」を、天国から小野寺氏は、どんな想いで眺
 めていることだろうか・・・。
・なぜ、世界最高水準の機密情報を得ることができたのか。
 その機密情報は、大本営に届いていたのか。
 届いていたのなら、なぜ当時の中枢は国策に活かさず、ソ連仲介の和平工作を進め、終
 戦が遅れたのだろうか。 
 「情報」を活用して国家の指導者が決断すれば、無用の損害と多くの尊い命を犠牲にす
 ることもなかったはずだ。次々に疑問が湧いてきた。
・しかし、大本営は海外の出先も含め、電報など関係資料を終戦と同時に償却処分してお
 り、小野寺氏が巣鴨拘置所で供述した調書や米中央情報局(CIA)が集めた「小野寺
 信」ファイルなどの秘密文書が公開され、英国立公文書館でも2007年ごろから、ブ
 レッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読した小野寺氏の電報が秘密解除され
 たことは光明となった。
 ロンドンの英国立公文書館に足を運ぶと、「ヤルタ電報」を除き、小野寺氏がストック
 ホルムで送受信した電報を傍受・解読したほぼすべての秘密文書があった。