乱読のセレンディピティ :外山滋比古 |
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この本はいまから11年前の2014年に刊行されたもので、「乱読」と「散歩」を薦め ている。 この本を読んで、私は初めて「読者論」なるものの存在を知った。 私の今までやってきた読書のやり方が、この本の著者のいうところの「近代読者」の読書 方法と姿勢が同じであるようだ。 ・能動的・批判的に読む:著者の権威に頼らず、自分で意味を見出す。 ・創造的読書:読むことが思考や表現を生み出す行為になる。 この姿勢で本を読むのが「近代読者」であるという。私もこの姿勢で本を読むことを心が けている。 ところで、この本の著者は、「わけもわからず、むやみに本ばかり読んでいると、心眼は 疲れ、ものをはっきり見きわめることが難しくなる。読書メタボリック症候群型近視にな ってしまう」と述べている。 しかし、どの程度の量の読書なら問題にならず、どの程度の量以上の読書なら問題となる と著者は考えているのか。その境界が明確に示されていない。 もちろん、一般の人と学者や物書きの人などとでは、その境界も異なるのではないかと思 うのだが、いったいこの著者の読書量はどの程度なのか。 AIを駆使して調べたが、相当の量の本を読んでいることだけは確かなようだが、この著 者の具体的な読書量は公にされたことがないらしく、結局のところ不明ままだ。 もっとも、私のように月に4、5冊読むので精一杯の人間にとっては「読書メタボリック 症候群」になる心配ないのは確かだろう。 その著者が、 「本は読み捨ててかまわない。本に執着するのは知的ではない」 「ノートをとるのも、一般的に考えられているほどの価値はない。心に刻まれないこ とをいくら記録しておいても何の足しにもならない」 「本は風のように読むのがよい」 と述べている。 メモを取りながらの読書スタイルをとっている私にとって、この言葉は衝撃的あった。 私の本を読む速度は遅く、とても風のような速度では読めない。風のような速度で読んだ ら、内容がまったく理解できないまま、ただ眺めただけで終わってしまうのは確かだ。 「本を風のように読む」のは私にはちょっと無理だ。 そこで、「読書メタボリック症候群」にならない読書量についてAI(ChatGPT)に問うて みて以下の回答を得た。なかなか興味深い内容だ。 退職者にとっての「適切な読書量」の目安と考え方✅ 1日2〜3時間までならOK(生活リズムが整っている場合)
読書と並行して行うと良い活動
読書量を調整すべきサイン
→ こうした場合は、「読書時間を減らす」よりも「他の活動を少し増やす」ことでバランスが まとめ:退職後の読書は「時間より質とバランス」
読書は、退職後の心の充実や知的活力にとても良い効果があります。 過去に読んだ関連する本: ・思考の整理学 ・本の「使い方」 ・死ぬほど読書 |
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まえがき ・本は風のように読むのがよい。 本を読みすぎるのは問題である。 ・気の向いた本を、手あたりしだいに読むのは、たのしいが、それだけでなく、おもしろ い発見もある。 知的刺激ということかすれば乱読にまさるものは少ないようである。 本はやらない ・本は買って読むべきである。 もらった本はありがたさがたりない。 ためにあることが少ない。 反発することが多い。 どこの誰が書いたかはっきりしない本から著者自身も考えなかったような掲示を受ける ことがある。 本は身ゼニを切って買うべし。 そういう本からわれわれは思いがけないものをめぐまれる。 ・図書館の本はタダで読める、というのがすばらしいというのは常識的で、タダほど高い ものはない。 自分の目で選んで、自分のカネで買ってきた本は、自分にとって、タダで借り出してき た本より、ずっと重い意味をもっている。 図書館の好みでいれた本をタダで借りてくるのは自己責任の度合いが少ない。 もちろん、図書館の本でも感動できる、自分のためにもなる。 しかし、自分の目で選んで買ってきて、読んでみて、しまった、と思うことの方が重い 読書をしたことになる。 ・本を選ぶのが、意外に大きな意味をもっている。 人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本がおもし ろくないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである。 ・あふれるほどの本の中から、何を求めて読むか。 それを決めるのが大変な知的活動である。 ・新刊については、新聞、雑誌に書評が出る。 用心深い読者は、書評を指針にして本を選び読む。 これも自己放棄である。 ・肩書付きの実名でする書評が、その本を正しく紹介、批判、案内することはたいへん難 しい。 狭い専門についての知識をもっているだけで、まっとうな書評ができるとはかぎらない。 ・ひとの意見によることもなく、自分の判断で本を選び、自分のカネで本を買う。 買った以上、読む義務のようなものが生じやすいが、読んでみて、これはいけない、 と思ったら、読みかけでもさっさと放り出す。 いかにも乱暴なようだが、いやの本を読んでも得るところは少ない。 放り出してから、どうして読み終えられなかったのかということを反省する。 ・手あたり次第、本を買って、読む。 読めないものは投げ出す。 身ゼニを切って買ったものだ。 どうしようと、自由である。 本に義理立てして読破、読了をしていれば、もの知りになるだろうが、知的個性はだん だん小さくなる。 ・新刊は新しすぎる。 古本は古い。 ちょうど読みごろの出版後五、六年という本は手に入れることもままならない。 図書館はここで役に立つ。 ・だいいち、どういう本が出ているか、読者は知ることができない。 本が多すぎる。 小さな書店には店主の思いつきの本がちょろちょろ並んでいるだけ。 こんなところで、おもしろそうな本を見つけるのは木によって魚を求むるに近いことに なる。 かといって大型書店に行くと本の海である。 羅針盤のない読者は途方にくれる。 ・結局、やみくもに手あたり次第、これはと思わないようなものを買ってくる。 そうして、軽い好奇心につられて読む。乱読である。 本の少ない昔は考えにくいことだが、本があふれるいまの時代、もっともおもしろい読 書法は乱読である。 ・乱読がよろしい。 読み捨てても決して本をバカにしてのことではない。 かりそめの読書がしばしば大きなものを読みとる。 悪書が良書を駆逐する? ・戦前の青年はいまよりもよく本を読んだが、あまり個性的ではなかった。 そして常識的読者が多かった。 哲学的なものが高給だと信じ込んで、難解な翻訳に取り組んで意気があがった。 わかりにくい翻訳書が読みやすい啓蒙書以上に人気があったのは、よくわからないから である。おもしろくないからである。 こういう本と格闘するのは青春のぜいたくと虚栄である。 わかりにくいから、悪書だから、まっとうな良書を圧倒した。 ・昔の若者は、危険思想に心をひかれたが、おもしろいからではない。 よくわからないからである。 社会主義思想の本はほとんどが翻訳であって、その訳文は日本語ばなれしている。 だから、おもしろいと錯覚する。 ・そこへもってきて、"お上”から禁じられている、というのである。 それで意欲が高まらなかったらおかしいのである。 数十年たった現在、そのもたらした成果としてみるべきことがどれだけあったかを考え ると、かつて流行した社会主義の本は”悪書”であったことがわかる。 その猛威に屈して声なく消えた良書がどれだけあったかかしれない。 ・読書推進を本当に考えるなら、本を少なくすることだ。 年に何万点もの新刊が出るという話をきくだけでも、読書欲は委縮する。 戦後間もないころ、出版は不振をきわめた。本を出したくても紙がない。 ほかのものに比べて本の定価はひどく高い。 決して読書に良好な状況ではなかった。 買いたい本が手に入らない。 古本屋で探し当てると鬼の首をとったような気持ちになる。 ・哲学者の全集が出る当日、版元の前に、始発の電車で来たファンが長い列をつくった。 そういう話を聞くと、もともと関心のなかったものまで、つられて、行列に加わったり するのである。 ・ほしい本を求めて古本屋めぐりをするのはなかなかおもしろかった。 苦労して手に入れた本は宝物のようである。 値段なんか問題にしない。 食費を惜しんでも本を買う。 読書がありがたく思われたのは、本が手に入りにくかっただけではないが、大きな理由で はなる。 ・読書不自由の時代を通じて、青年たちは「西鶴」に興味をもった。 およそ文学に趣味、関心のなさそうな若者が西鶴に強い興味をもった。 好色文学を愛したのではない。 そのころの版本は、少しでもワイセツと見られるところをすべて伏せて〇〇〇で表記した。 それがおもしろいのである。 伏せ字になっていることばを考えるのもの好きもある。 伏せ字は多ければ多いほど人気があった。 ・かくされているから好奇心をそそられる。 白日のもとにさらしてみれば、目をそむけたくなる。 危ないのがおもしろい。 安全・健全なものは退屈にきまっている。 人間はそういう先入主をもっているらしい。 ・食べるには、空腹でなくてはならない。 空腹にまずいものなし、と言われるように、本を読むなと言われると、何でも読みたく なる。 読ませたかったら、まず、読むことを禁止するのが案外、もっとも有効な手となる。 ・おもしろい本とためになる本があれば、たいてい、おもしろい本が悪書、ためになる本 は良書にある。 おもしろくて、わかりやすいもの、あまり推奨されない価値の低いのが悪書である。 ためになる本は良書になる。 ・おもしろくて、わかりやすいもの、あまり奨励されない価値の低いのが悪書である。 有用な知識、価値のある考えなどを含んだものは、良書である。 良薬と同じで口に苦い。 放っておけば、いつとはなしに姿を消すのである。 ・良書の部分的引用を読ませて、良書を伝承するはたらきをしているように考える。 実は本を読むことの嫌いな人間をふやすだけにとどまっているのかもしれない。 良書を強制的に教え込むのに熱心なあまり、良書ぎらい、悪書好きを育てる結果になっ て自らの活力を弱め、悪書の量的支配を許してしまったことに気がつかない。 ・本を読むのは、なぜ読むのか、何を読むべきか、いったい、おもしろい本というのはど ういう本かなど、これまで考えられることの少なかった問題がいくつもある。 ・心ある読者が求められている。 つまり、自己責任をもって本を読む人である。 自分で価値判断のできる人。 知的自由人。 読書百遍神話 ・普通の人間にとって本を読み切るのはたいへんな荒業である。 しようと思ってできることではない。 最後まで読み切った本がないまま一生を終わる人は決して例外的ではない。 しかしそういう人もダメ人間ではない。 ・わからない本を何度も何度も読んでいれば、本当に、わかるようになるのか。 昔の人はのんきだから、そんなことはセンサクしない。 本当にわからない本でも、百遍読み返したら、わかるようになるのか。 ためした人はなかっただろうか、わかるのではなく、わかったような気がするのである。 自分の意味を読み込むから、わかったような錯覚をいだく。 読み返すたびに、読書の持ち込む意味が増える。 そうして、ついには、自分の持ち込んだ意味ばかりのようになる。 それをおのずからわかったと思い込む。 対象の本を自己化しているのである。 ・自分の意味をまるで持ち込めないような本は、百遍はおろか、一度の通読もできない。 はじめのところで、投げ出してしまう。 とにかく、何度も読めるのは、どこかおもしろいからである。 なにがおもしろいか、といっては自分の考えを出すことほどおもしろいことはない。 わからないところを、自分の理解、自分の意味で補充するのである。 一種の自己表現である。 隅から隅まで、わかり切ったことの書かれているような本では、こういう読者の参入は あり得ないから、たいへんつまらない。 ・本が少なく、良書とされるものが多く、読者に時間があるとき、読書は価値がある活動 である。 同じ本を反復、精読するというのが賞賛すべきことになるのである。 本があふれるようにあって、時間の少ない人間は、”ナメるように読む”といったことを 想像することはできない。 ・”ナメるように読む”はかつては、よい読み方とされたが、だんだん、そうではなくなっ ている。 いまはむしろ速読に人気がある。 十分間で1冊読みあげる法などを言いふらしている向きがある。 そんな本なら、いっそ読まない方が世話がない、とは考えないところが、かわいい。 ・読書百遍が神話なら、十分間読書は新神話である。 神話は生活を変えられない。 生活は神話にとらわれない。 ・これほど本が多くなったら、良書より悪書のほうが多いと思わなくてはならない。 悪書にひっかかるのを怖れていれば、本など読めるものではない。 雑書、俗書、不良本などだって、おもしろいものはあるだろう。 おもしろくなければ捨てればいい。 ・読者はきわめつきの良書、古典のみ読むべきだというのは窮屈である。 そういう価値ある本をもとめて苦労するのは愚かだ。 よさそうだと思ったのが、案外食わせものだった、ということだってあるが、それでも 心ある読者ならなにかしら得ることはできる。 たとえつまらぬ本でも、なにがしかの発見は可能になる。 ・多くの本を読んでいれば、繰り返し読みたくなる本にめぐり合うかもしれない。 しかし、それは例外的だと考えたほうがよい。 実際に何度も繰り返して読む本が五冊か七冊もあればりっぱである。 ・本は読み捨ててかまわない。 本に執着するのは知的ではない。 ノートをとるのも、一般的に考えられているほどの価値はない。 ・本を読んだら、忘れるにまかせる。 大事なことをノートにとっておこう、というのは欲張りである。 心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。 ・読書は心の糧である。 いくら栄養価が高いといって、同じものばかり食べていれば失調を来たし、メタボリッ ク症候群になる。 過食は病気の引き金になり、ストレスを高める。 ・本についても、過食は有害である。 知的メタボリックになる読書もあり得る。 同じ本を何度も読むなどということは、考えただけでも不健康である。 ・偏食も過食と同じくらいよろしくない。 勉強だといって専門の本を読みすぎると知的病人になりがちである。 専門バカはそのひとつである。 ・健康な読者のぞむなら、昔の貧しい時代の考えを修正、あるいは、変更させなくてはな らないだろう。 読むべし、読まれるべからず ・本などと関係ない生活をしていても、本は読まなくてはならない、読まないのは恥ずか しいことだ、という気持ちを捨てることはできない。 ヒマができたら、老後になったら心ゆくまで本を読んで暮らしたい。 そういう人は、年寄りを中心にいまでもかなりいるように思われる。 ・読書信仰の信者になるのは知的エリートだと自他ともに思い込む。 とにかく、ありがたいこと。 毎日、読むことを欠かしてはいけない。 それができない自分はダメな人間である、と自らを責める人間があらわれる。 ・考えてみれば、読書ということはそれほどありがたいことではない。 どのくらいご利益があるかもはっきりしていない。 それでも、無理な努力をしてでも本を読む。 とくにそういう人間が日本人に多かったかもしれない。 ・戦前、欧米で、カメラをぶらさげて眼鏡をかけていたら、日本人だと思って間違いない、 というジョークまがいのことばがあった。 なぜ、眼鏡をかけるのか。 ルビつきの小さな活字を読むからである。 アルファベットを読むのに比べて日本の印刷物を読むのは、少なくとも目にとって、 たいへん負担が大きいのである。 しかし、それを教えてくれることもないから、どんどん近視がふえた。 ・少なくとも眼科の医師は、そのくらいのことがわからなくては、医者だなどといって いられないはずである。 しかし、読書の害を注意してくれるところはなかった。 ・いくらぼんやりしていても、もののよく見えない近視になれば、自覚はする。 近視を治すことはできないから、ぶざまな眼鏡である。 ・似たようなことが、メンタルな面にもおこるのではないか。 本をありがたがって、読みすぎると、心の近視になって、ものがよく見えなくなる。 ・わけもわからず、むやみに本ばかり読んでいると、心眼は疲れ、ものをはっきり見きわ めることが難しくなる。 読書メタボリック症候群型近視になってしまう。 頭の近視は、目の近視ほど不便ではないから、なかなかこれを治療しようとしない。 ・知識を身につけるには、本を読むのにかぎる。 もっとも手軽で、労少なくして、効果は少なくない。 読書は勉強のもっとも有力な方法になる。 真面目な人は正直だから、読めば読むほど優秀な人間になれるように勘違いする。 実際、博学多識にはなることができる。 それと裏腹に、頭の中が空虚になるということを教えてくれるものがない。 ・頭が知識でいっぱいになれば、頭ははたらこうにも、はたらくどころではない。 そのうちに、ものが見えない頭の近視がはじまる。 少しぐらいの近視なら、頭の眼鏡で対応できる。 頭の眼鏡は、もちろん、本で得た知識である。 知識があれば、考えたりする面倒がない。 それで読者は知識から信仰を生み、それが読書を支える。 ・知識はすべて借りものである。 頭のはたらきのよる思考は自力による。 知識は借金でも、知識の借金は、返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いでい たように錯覚することもできる。 読書家は、知識と思考は相反する関係にあることに気がつくゆとりもなく、多忙である。 知識の方が思考より体裁がいいから、もの知りになって、思考を圧倒する。 知識をふりまわして知的活動をしているように誤解する。 ・本当にものを考える人は、いずれ、知識と思考が二者択一の関係になることを知る。 つまり、もの知りは考えず、思考をするものは知識に弱い、ということに思い至るだろ う。 知識をとるか思考をとるか、大問題であるが、そんなことにかかずらわるには、現実は あまりに多事である。 高等教育を受けた人間はほとんど例外なく、知識信仰になる。 ・本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていない ことが多い。 年をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力に欠けているためである。 知識は、化石みたいなもの。 それに対して思考は生きている。 ・知識、そして、思考の根をおろしているべき大地は、人間の生活である。 その生活を大切にしない知的活動は、知識の遊戯でしかない。 いくら、量的に増大しても、生きていく力とのかかわりが小さい。 ・人間は生きているから人間なのである。 知識だけでは生きていかれないし、よりよく生きていくなど思いも及ばない。 それを無視して、やみくもに知識を多く身につけようとする教養主義がおこって、 文化の活動があやしくなる。 人間の活力はとっくに失われているのである。 ・そういう知識は本によって伝承されてきたのだから、読書好きの人は知らず知らずのう ちに、知識第一主義のとりこになって”遊民”になった。 高等遊民ということばがかつて存在した。 ・いったん知識信仰に入ってしまうと、生活を復元することは容易ではない。 めいめいの足もとを照顧することは至難のわざである。 そう考えると、本を読むことが、かならずしもよいことではないということがはっきり する。 ・まったく本を読まないのがいいということではない。 いまの時代、完全に文字から絶縁した生き方を考えることはできない。 ・問題はどう見ても、生き方とは結びつかない、知識のための知識を不当によろこぶ勘違 いである。 知識メタボリック症候群にかかっていては、健全な生き方をしていくことは叶わない。 知識を捨てることによって健康をとりもどす可能性をさぐる人がもっと多くなくては、 たくましい社会にはならないだろう。 ・知識があると、本来は役に立たないものでありながら、それを借用したくなる。 そしてそれを自分の知識だと思っている。 仲間うちなら、知識でも羽振りがいいかもしれないが、他流試合だと借りものの知識で は役に立たない。 まして、その知識が相手からの借りものである場合、いわば犯罪的になる。 いまの日本は国際化に当たって、いろいろな面において苦しい立場におかれているのも それである。 ・読書がいけないのではない。 読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。 新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。 ・国内のことを考えていれば、教養を誇っているが、好むと好まざるとにかかわらず、 世界的競争にさらされるようになると、生きる力に結びつかない知識や、独立独歩、 発明、発見の妨げになるような教養は捨てなくてはならないかもしれない。 ・本の読み方も、これまでのような装飾的、宗教的、遊戯的なものを改める。 よりよく生きるため、新しいものを生み出す力をつけるために本を読む。 有用な知識は学ぶが、見さかいがなくなるようなことを自戒する。 ・子供にそういうことを要求するのはいけないかもしれないが、一人前の年齢に達したら、 ただ本に追随することを恥じる必要がある。 風のごとく・・・ ・人さまざまで速く読むのもあれば、ゆっくりと読む人もいる。 一般に、じっくりゆっくり読むほうがいいように考える。 速く読むのは雑になりやすい。 きめ細かなところは読みとることができない。 ・声を出して読むことが流行のようになっているが、考えてみると、音読のすすめは、 適度の速さで読めということである。 黙読だとスピードが大きくなる。 目は光の速さで読む。光のスピードはきわめて大きい。 ・音読と黙読は、読みとる意味が大きくちがうことに気づくのは、相当の読書経験を要す る。 速読と遅読ではことばの感じがちがうのである。 ・ことばは、ゆっくりと読まれると情緒性が高まる一方、速く読まれると、知的な感じが 強くなる。 重々しい感じを与えたかったら、ゆっくりゆっくり話せばいい。 知的な印象を与えるには、速度が大切で、早口だと、なんとなく知的にきこえる。 ・速く読もうとすると、わけのわからなくなる文章が多い。 黙読を予想して観念的にこみいったことを圧縮して表現する文書法があいも変わらずま かり通っていて、速読ではまるで意味がとれない。 ゆっくり読んでもわからない文章を速く読めばどうなるかわからぬまま、いけないとき めつける。 若い人たちが文章を読むのをあきらめるのも無理もない。 ・いくら勉強しても、どんなに多く本を読んでも、その割には知能が伸びない。 ことばの能力が高まらないのは、読み偏重の教育に、少なくとも一部は原因がある、 ということは認めるのは正直であろう。 ・戦後、アメリカの教育視察団がやってきて日本の学校教育改善の提言をした。 ことばに関してアメリカがおどろいたらしいのは、そして強く改善を求めたのは、 読み一辺倒の教育であった。 ・”読み、書き、話し、聴く”の四技能を併行して伸ばすように指示した。 日本人ははじめて、読み、書き、話し、聴くの四技能ということを知った。 これは正当な指摘、指示であった。 ・近代は読書を尊重してきた。 本はじっくり丁寧に読むべきものという考えをいつしかいだくようになる。 必要以上に、慎重に、ということは、ゆっくり、丁寧に読むべきものという意識にとり つかれる。 つまり、読む速度が遅すぎることになるのである。 おそいのが丁寧なのではなく、ことばに底流する意味の流れをとめてしまい、意味を殺 して、わかりにくく、おもしろくないものにしてしまう、ということがわからないこと が多い。 ・したがって、スピードをあげないと、本当の読みにはならない。 十分間で一冊を読了という電光石火の読みは論外としても、いま考えられている読書の スピードでは、ことばの生命を殺しかねない。 ・やみくもに速いのはいけないが、熟読玩味はよろしい、のろのろしていては生きた意味 を汲みとることはおぼつかない。 風のごとく、さわやかに読んでこそ、本はおもしろい意味をうち明ける。 本は風のごとく読むのがよい。 乱読の意義 ・読み方には二種類ある。 ひとつは、内容について、読む側があらかじめ知識を持っているときの読み方である。 これをアルファー読みと呼ぶことにする。 書かれていることがわかっている場合、アルファー読みになる。 もうひとつは、内容、意味が分からない文章の読み方で、これをベータ―読みと呼ぶこ とにする。 すべての読みはこの二つのどちらかになる。 ・日本の学校は早々と、ベータ―読みをあきらめた。 その代わりに、アルファー読みでも、ベータ―読みでもわかる、物語、文学作品を読ま せた。 フィクションは未知の世界のことを描ているが、日常的な書き方をしてあるから、 アルファー読みでもいくらかはわかる。 つまり、物語や文学作品は、アルファー読みからベータ―読みへ移るはしがかりのよう な役を果たして便利なのである。 ・それで、学校の読み方教育は、いちじるしく文学的になって、日本人の知性をゆがめる ことになった。 国語の教育は、文学作品が、アルファーからベータ―への移行に有効であるということ も知らず、作り話ばかり教えてきたのである。 文学的読み方では、新聞の社説すら読めない。 高度の読み、ベータ―読みを学校で学ぶことはできないが、学校自体、そのことをよく 考えない。 ・乱読ができるのはベータ―読みのできる人である。 アルファー読みだけでは乱読はできても解読はできない。 小説ばかり読んでいては乱読はできない。 ベータ―読みもうまくいかない。 文学読物をありがたがりすぎるのは、いくらかおくれた読者である。 ノンフィクションがおもしろくなるには、ベータ―読みの知識が必要である。 哲学的な本がおもしろくなるのは、かなり進んだベータ―読みの力が求められる。 ・ベータ―読みの能力を身につければ、科学的な本も、哲学も、宗教的読物も、小説とは 異なるけれども、好奇心を刺激する点ではおもしろい読みができるはずである ・ベータ―読みの力のない人は、自分の親しむひとつのジャンルにしがみつく。 小説好きはあけてもくれても小説を読む。 新しい小説もアルファー読みをするから、読者の成長は限られる。 文学青年も、中年くらいになると、あるガー読みにあきてきて、本離れをするようにな る。 ・乱読はジャンルにとらわれない。 なんでもおもしろそうなものに飛びつく。 とにかく小さな分野の中にこもらないことだ。 ・白く知の世界を、好奇心にみちびかれて放浪する。 人に迷惑がかかるわけではないし、遠慮は無用。 十年、二十年と乱読していればちょっとした教養を身につけることは、たいていの人は 可能である。 ・文科の人が理系の本に手を出さないのを純粋だと思っているらしいのは滑稽である。 悪い専門主義で、モノが見えるものが見えなくなっていることが多い。 つとめて、遠くのものに心を寄せる努力をしない。 ・大学が、小さな専門のタコツボをこしらえて、隣は、なにをする人ぞ、というのを正統 的であるとするのは、技術的、常識的学問の錯覚である。 ・いろいろなジャンルの本を、興味にまかせて読んでいく。 一つの専門にたてこもっていると、専門バカになるおそれがあるけれども、乱読なら、 そうはならない。 それどころか、専門主義、瑣末主義が見落としてきた大きな宝をとらえることが可能で ある。 ・乱読の手はじめは、新聞、雑誌である。 雑誌も専門誌ではなく、総合雑誌がいい。 新聞は雑誌より雑然としているだけ乱読入門には適している。 ・スポーツ欄しか見ない、経済関係しか興味がない、政治的ゴシップばかり追っていると いうのは、半読者である。 ・このごろは、ページ数がふえたから、読むのはたいへんだ。 読めないと頭からきめている人がいるが、半分は広告だから大したことはない。 つまらぬ記事も少なくないから、全部を読み通す必要はない。 仕事のある人はとくに忙しい朝の時間、じっくり新聞を読むのは難しい。 流し読みである。 ・短い時間で、新聞を読むには、見出し読者になるほかない。 見出しだけなら一ページ読むのに一分とかからない。 これはと思うものがあったら、リードのところを読む。 それがおもしろければ、終わりまで行く。 そんなおもしろい記事が二つも三つもあったらうれしい悲鳴をあげる。 ・見出しで、記事内容を推測するのはかなりの知的作業であるが、頭のはたらきをよくす る効果は小さくない。 ・いくら賢い人でも、乱読すれば、失敗は避けられない。 しかし、読めないで投げ出した本は、完読した本とはちがったことを教えてくれている ことが多い。 失敗をおそれない。それが乱読に必要な覚悟である。 ・人間は失敗によって多くのものを学ぶ。 ときとして成功より大きなものが得られることもある。 そう考えると、乱読が、指定参考書などより実に多きものであることがわかる。 セレンディピティ ・本を読むとき、ふたつの読み方がある。 ひとつは、本に書いてあることをなるべく正しく理解する読み方で、普通の読書はこれ によっている。 ひとの書いたものを正しく理解できるものかどうか、考えると厄介なことになるのであ る。 ・百パーセントわかったつもりの本も、実はほんとうにわかっているのは、七、八十パー セント。 のこりの不明な部分は、”解釈”によって自分の考えで補填しているのである。 したがって、本を正しく読んだという場合でもかならず、自分のはたらきで補充した部 分があるはずで、まったく解釈の余地のないものは、一ページも読むことはできない。 ・それはそうとして、普通の読書においては本にある知識、思想などは、ほぼ、そのまま 読者の頭へ移る。それはいわば、物理的である。 ・自分の得意とする分野はこの物理的読書である。 全く未知のことはまず出てこない。 ・それに対して、乱読の本では、よくわからないところが多い。 本の内容が、そのまま物理的に読者の頭の中へ入るということはまずない。 わからないから、とちゅうで放り出すかもしれないが、不思議なことに、読みすてた本 はいつまでも心に残る。 感心して読んだ本なのに、読んだことも忘れてしまうことが少なくない。 再び開いてみると、前に書き入れたことばがあって夢のように思われるのである。 ・こういう乱読本は読むものに、化学的影響を与える。 全体としてはおもしろくなくても、部分的に化学反応をおこして熱くなる。 発見のチャンスがある。 ・専門の本をいくら読んでも、知識は増すけれども、心ゆさぶられるような感動はまずな い、といってよい。 それに対して、何気なく読んだ本につよく動かされるということもある。 ・改まって読んだ本はどうもおもしろくないが、立ち読みしたのがたまらなくおもしろく、 買ってきて、読んで見ると、さほどでない、ということもある。 ・どうも、人間は、少しあまのじゃくに出来ているらしい。 一生懸命ですることより、軽い気持ちですることの方が、うまくいくことがある。 なによりおもしろい。 このおもしろさというのが、科学的反応である。 神権に立ち向かっていくのが、物理的であるのと対照的であるといってよい。 ・化学的なことは、失敗が多い。 しかし、その失敗の中に新しいことがひそんでいることがあって、それがセレンディピ ティにつながることがある。 ・一般に乱読はよくないとされる。 なるべく避けるのが望ましいと言われる。 しかし、乱読でなくてはおこらないセレンディピティがあることを認めるのは新しい思 考と言ってよい。 「修辞的残像」まで ・せまい専門分野の本ばかり読んでいると、われわれの頭はいつしか不可発になり、 クリエイティヴでなくなる。 模倣的に傾くように思われる。 それにひきかえ、軽い気持ちで読み飛ばしたものの中に、意外なアイデアやヒントがか くれていることが多い。 乱読の効用であるように思われる。 専門バカがあらわれるのも、タコツボの中に入って同類のものばかり摂取しているから で、ツボから出て大海を遊泳すれば豊かな幸にめぐりあうことができる。 ・乱読のよいところは、速く読むことである。 専門、あるいは知識を得るための読書はしらずしらずのうちに遅読になりやすい。 ・ことばは、残像をともなっている。 時間的現象であるから、丁寧な読書では、残像に助けられる読みが困難である。 ・その点で、精読者は談話に及ばないところがある。 話す言葉はあり速度をもっている。 知的な話し上手ほどテンポが速いといわれるのはおもしろいことで、ゆっくりしたこと ばの情緒的効果は貴重であるが、新しいことを考えたり、オリジナルであることは難し い。 ・文字に書かれることばは、一般的に、話されることばよりテンポがゆるやかである。 それを読むのは、話されることばのテンポより速いことはもっとも注目されてよい。 ことばのテンポということからすれば、読者は筆者より優位に立っている。 難しいからといってナメルように読むのは、賢明ではない。 実際にナメルように読むのを推賞する人が少なくないが、一考を要す。 ・一般に、乱読は速読である。 それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。 ゆっくり読んだのではとり逃がすものを、風のように速く読むものが、案外、得るとこ ろが大きいということもあろう。乱読の効用である。 本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当 である。 しかし、いまは違う。 本はあふれるように多いのに、読む時間は少ない。 そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。 ・本が読まれなくなった、本離れがすすんでいると言われる近年、乱読のよさに気づくこ と自体が、セレンディピティであると言ってもよい。 ・積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり 多くおこるのではないか。 読者の存在 ・読者のないものは、はたして、作品といえるのか、文章ではあっても、作品とは言えな いように考えらえる。 少なくとも文学作品が成立するには、作者、作品、そして読む読者が形式上も必要であ る。 この点においても、読者のことをまったく無視しているのは不当である。 どうしてこういう不条理が世界的に常識になっているのか。 そういう疑問が湧いてきて、私は緊張した。 ・何年もの間、いつも、読者の問題が頭にあった。 そして、読者は作品にとって必要条件で、読者のないものは、文書記録ではあっても、 文学作品とは言えない、という命題に達した。 ・読者論というジャンルが必要だと考えて、試論を発表した。 それまで考える人もなかった問題だから、認める人はまったくない。 妙なことを言っていると白い目で見られていた。 ・私の考えた読者、それを私は近代読者と呼ぶことにしたが、受身一方の読者ではなく、 作品を賛美するだけの読者でもなく、自分の個性にもとづいて、解釈を加え、かすかで も作品の生命に影響を与えることのできるアクティブな読者である。 そういう読者がなければ、作品、読物は、多くの人たちに受け入れられるものにならな い。 そういう読者にとって、解釈ということがきわめて大きな意味をもち、ときとして、 作品の運命を左右することもある。 それが近代読者だと考えた。 ・自分でものを考える力をつけるには、近くに、強力な人や本があるとかえってよろしく ないようである。 むしろ遠くにありて読み、遠くにあって考えるものにセレンディピティはおこる。 成功かれは新しいものが生まれない。 失敗、誤解のもとにおいて偶然の新しいアイデアが生まれる。 母国語発見 ・明治以来、日本語は論理的でない。ひいては日本人も論理的でない、というのが、 知識人のひそかなコンプレックスであったが、それを本気になって考えた人は見当たら ない。 日本語と英語の本をちゃんぽんに読んでいて、違ったことばあることが痛いほどわかる。 もし、論理だけが同じだったら、それこそおかしい。 日本語には日本語の論理がある。 なければいけないということに気づいたのは、いつだったか自分でもわからないが、 よくわからないところで気づいてはいたようである。 偶然の発見(?)だったと思う。 ・どこの国のことばにも、固有の論理がある。 あるはずで、なくては、おかしい。 話が通じなくなってしまうだろう。 世界共通の論理をきめてしまって、それに合致しないものはすべて非論理だというのは 思想的ファッショである。 そう考えて、日本語の論理を考えるようになった。 ・日本語はアイランド・フォーム、つまり島国的性格を帯びている。 国境で他国と隣り合わせになっている国のコンティネンタル・フォームとは対照的であ る。 両者の論理が大きく異なるのは当然である。 ・人が他人との間にもっている心理的距離も、アイランド・フォームのくにではかなり濃 密で互いによくわかっていることが多い。 コンティネンタル社会では相手が未知であることが多く、警戒が必要である。 アイランド・フォーム社会では、一をきけば十はともかく、五や六までわかっているこ とが少なくない。 二、三、四と、すべてを並べなくても、一、五、十くらいで充分である。 いちいち、念をおしたりすれば野暮になる。くどいときらわれるかもしれない。 ・コンティネンタル社会のことばの論理が、ライン、線状であるとすれば、アイランド・ フォームのことばの論理は点的であるということができる。 ・点と点は、受け手によって、結びつけられる。 点と点が直線的な並び方をしているのはおもしろくないから、蛇行状に点が飛ぶ。 コンテクスト(文脈、前後関係)をとらえていない受け手には、こえを読み”解く” ことができなくて、わけがわからなくなったり、間違った筋として受け取る。 アイランド・フォーム社会は、そういうのを野暮として相手にしないのである。 ・通人は、飛び飛びになって散乱している点を便宜結び合わせて、言外の意味までも了解 する。 それがことばのおもしろさと考えられるのである。 ・俳句はそういう日本語の論理がもっともはっきりあらわれた様式で、コンティネンタル 言語になれた人には謎のようになる。 日本人にとっても、人によって点の結合の仕方が異なることがあって、同じ意味になら ないことがある。 乱談の活力 ・よくわからないが、2045年問題というのがあるそうだ。 コンピューターが進化して人智を凌駕するのが2045年だという。 コンピューターが進化して人智を凌駕するのが、2045年だという。 このままでは、そうかもしれない。 人間も新しい手を考えなくてはいけない。 人智の進化は難しくとも、進歩くらいできないことではない。 ・ここ300年、人類は、本を読めば賢くなるという迷信にとらわれてきた。 勉強はまず本を読むことなりと思い込んで、わけもわからず、とにかく本を読む。 本ばかり読んで知識をふやし、それを博学多識といってありがたがった。 教養をありがたがる。 ・二十世紀の中ごろ、計算能力のあるビジネス・マシーンがあらわれた。 これはオフィスで一部の事務を少しすることができたが、人間はのんきに、これを 使って喜んでいた。 ・これが進化してコンピューターになると、おそるべき力を発揮し出した。 人間を圧倒しはじめ、人間の知的作業を奪って、就職難をおこすまでになった。 2025年になると、人間はコンピューターに完敗するというのが2045年問題 である。 ・人間ともあろうものが、ユビをくわえて、便便とそれを待つという手はない。 コンピューター力に負けない能力を開発しなくてはいけない。 どうしたら機械にかてるのか、考える人も多くはないが、これまでやってきたこと を強化したくらいで仕方がないのははっきりしている。 ・コンピューターはリテラシー力において一部、人間を追いつめている。 いくら本を読んでみても、人間のリテラシーはコンピューターに及ばないだろうことは、 すでにほぼ明らかになっている。 ・コンピューターが当分できそうにないのはおしゃべりだろう。 ひとりごとはダメ、相手とはなすだけでも充分でない。 数人の人とおしゃべりする。 といって、ゴシップなど喜んでいては話にならない。 新しい価値を求めて談論風発するのである。 ・その間に、めいめいの頭はフル回転して、たのしい火花を散らす。 うまくいけば大小の発明、発見が飛び出すかもしれない。 これまでも、そういう例がいくつもある。 ・輝かしい先例があるのに、知的おしゃべり会は一向に広まらない。 研究、勉強というと、部屋にこもって机に向かい本を読み、物を書くことであるという 固定観念がそれだけ強力であるということであろう。 いまもって、おしゃべりが高度の知的活動であると考えるのは常識ではない。 ・人間のことばはもともとは、読んだり書いたりするものではなかったのである。 まず、しゃべることから始まる。 ・そこで、リテラシーが持ち込まれる。 リテラシーは声がない。あっても二次的である。 おしゃべりはあたまのはたらきもまったく異なる。 リテラシーにはなりより記憶がものを言うから、もの覚えのいいのがよい頭だとされる。 ・どれくらい覚えているか、学校ではときどき試験をしてチェックする。 頭がよくても、忘れやすいのは劣った頭であるとされる。 みなが忘れるのを怖れ、博覧強記をあこがれ、つまらぬことはどんどん忘れる創造的頭 脳を劣等なりとした。近代教育の落とし穴である。 ・記憶力の超人的なコンピューターがあらわれて、こういう博覧強記の価値は暴落したは ずであるが、頭の古い人が多くて、昔ながらの記憶型人間がエリートだという考えから 自由になることができない。 大部分がコンピューターと競合して、あえなく敗退することになる。 それには245年を待つまでもないかもしれない。 ・日本はほかの国に比べても、話すことばを軽んじてきた伝統がつよくて、会話というこ ともなく、ただ、ことばをかわしていた。 スピーチということも、明治になるまでおこなわず、したがって、それをあらわすこと ばもない。 明治になって、演説という訳語をこしらえたものの、演説のできる日本人はいなかった。 その後、弁論、雄弁などのことばがあらわれたが、談話は文章に及ぶべくもなかった。 ・話すことばで、おしゃべりのおもしろさを出すことに成功したのは、「菊池寛」の主宰 する「文藝春秋」であった。 座談会と呼ばれて、たちまち、広まったが、雑誌などの記事になったという点で、なお、 文字的なしばりを受けていた。 長い歴史がありながら、座談会文化を生むまでにはなっていない。 形式はすぐれていても、話し手の能力にもうひとつ欠けるところがあったものと思われ る。 いま、座談会は知的な表現様式ということが難しい。 せっかく世界に比を観ない新しい形式であるのに新しい文化を育てることができなかっ た。 日本人が話すことばをバカにしているせいであろう。 ・文字ことばがコンピューターに侵食されるのを見れば、活路は話すことば、それもひと りごとやふたりでの会話ではなく、何人かで、たのしく談論すれば、その間に、真に新 しい着想につながる。 雑談こそもっとも有望な頭の訓練ということになる。 ・文字を読む目の知性のほかに耳と口で話し、聴く知性のあることを、われわれは知らな かった。 これはどんなに大きな損失であるか、もちろんお互いにはよく知らない。 ・中国人は大昔、耳の方が目よりも高度の知性を育むことを知っていたようである。 聡明。聡は耳の賢さであり、明は目の賢さであるが、順位は、聡、つまり耳の方が上で ある。 そういうことばを移入させておきながら、日本人は耳を軽んじて、耳でする勉強を耳学 問などと言っておとしめたのである。 ・年を取ってからの乱談には、わかいときにないよさがある。 気が若返るのだ。年を忘れる。おのずと元気もでる。 少し気分が重いと思っても、おしゃべり会に出て、話していると気がしゃんとしてくる。 夢中になって話していると、いつしか、気分のよくなかったことも忘れて、別人のよう になり、足どりもかるく帰宅する。 まだまだ、やれるという自信がわいてくる。 ・老人を悩ます姿なき敵はストレスである。 現代医学はまだストレスが充分によくわかっていないようで、ストレス性の疾患には手 が出ないらしい。 老年でなくても苦しめられる腰痛なども大半はストレス性であるというから、治療の手 がない。糖尿病にもストレス性のがふえているという。 ・老化もストレス性が少なくない。 クスリも治療法もないが、乱談のストレス解消力は廊下をおさえるアンチ・エイジング のもっとも有効な方法であるように思われる。 ・乱読の活力は老衰をおさえるばかりでない。 若いときになかった頭のはたらきを促進する、若返る、などと考えるのは古い。 うまくすれば高齢者は、若いときになかった知力、気力、精神力をのばして、若いとき とは違った活力に満ちた生き方をすることができる。 そういう高齢者がふえれば、高齢化を怖れることもない。 ・社会福祉としても、おしゃべり、乱談による精神の活性化はもっともおもしろい方策で あるように思われる。 忘却に美学 ・頭が知識でいっぱいになった人間が、まるで、ものを考える力を失い、口の悪いのから 「専門バカ」といわれたりするのはなぜだろうか、と考えていて、フト、忘れていたメ タボリック・シンドロームのことが思い出された。 ・そうだ、頭にも似たようなことがおこるに違いない。 知識を取り込みすぎ、それを使うこともなく、頭にためておくと、知的メタボリック・ シンドロームになるのではないか。 知識は有用であるが、消化しきれない知識をいつまでもかかえこんでいると、頭は不健 康な肥満になるおそれがあるだろう。 ・知識が少なくて、利用が活発であれば、余分な知識がたまって、病的状態になることは ないが、知識、情報があふれるようになり、さらにせっせと摂取していれば、消化され ないものが蓄積されて、頭の健康を害することがありうる。 ・ただ、知的メタボリックがよくない、というだけでは、無責任である。 どうしたらそうならないかをあれこれ考えた。 医学ではメタボリック・シンドロームにならないために、散歩をすすめたようであるが、 知的メタボリックは散歩だけでは対処できそうにないと考えていて、忘却を思いついた。 いくら知識がふえても、どんどん忘れていけば、過剰になる心配はない。 忘却は大切なはたらきであることに気づいた。 忘却が活発であれば、知識過多になる心配は少ない。 忘却がうまく働かないと、それほど摂取知識が多くなくても、余剰知識がたまって頭の 活動を阻害するおそれがある。 よく忘れるということは、頭のはたらきを支える大切な作用であると考えるようになっ た。 ・知識を食べものとすれば、忘却は消化、排泄に当たる。 ものを食べて消化、吸収する。 その残りカスは体外へ出す。 食べるだけ食べて、消化も排泄もしなければ、不健康な満腹、糞づまりとなって危険で ある。 糞づまりを放置することはあり得ないが、知的メタボリック・シンドロームによる糞づ まりは、うっかりすれば見逃されかねない。 ・そうなっては困るから、事前の摂理として消化、排泄がおこなわれるようになっている のである。 それが忘却である、と考えた。 自然の摂理と言ったのは、そういう重要なはたらきを個人の努力にまかせるのは危険だ からである。 うっかり、はたかせなかったりしたら大事になる。 そうならないために、自然忘却がある。 特に忘れようと思わないでも、自然に忘れられる。 それでいて、強弱の個人差があるようで忘却力の強い人は頭が空っぽ近くになるまで忘 れることができるのに、自然忘却の弱い人は、覚えていなくてもいいことまで忘れない。 これまでは、こういう忘れない人を優秀だと考えてきた。 ・自然忘却のもっとも重要なのは、睡眠中の忘却で、これはレム睡眠と呼ばれる眠りの間 に起こると考えられている。 普通、一夜に数回のレム睡眠がおこる、とされる。 ここで有用と思われる情報、知識のうち当面、不要と思われるものとが、区別、分別さ れて、廃棄、忘却される。 頭のゴミ出しのようなものである。 朝、目が覚めて、たいてい気分が爽快であることは、頭のゴミ出しがすんだあとで、 頭がきれいになっているからである。 ・これが毎晩、自動的に行われているのだからおどろきである。 なんの努力もしないで自然に忘却できるのだからありがたいと思わなくてはならないが、 自然におこっていることは当たり前だとして無視する。 それで、忘却の効用ということを知る人が少なく、努力を要する記憶をありがたがる、 ということになる。 ・人間にとって死活にかかわる体のはたらきは多く自然のように見える。 呼吸、血液の循環、睡眠など、みな自然に行われていて、とくに自覚的努力をしていな い。 そのために、そのありがたさが忘れられるのである。 忘却もその一つと言ってよい。 まったく忘れることができなかったら、人間は生きていられないだろう。 それを忘れていられるのは忘却のおかげである。 ・二十世紀に入って人類は、それまで知らなかった新しい”敵”をもつことになった。 ストレスである。 ストレスは、心労、緊張、苦痛などの刺激によって引き起こされる。 一時的ではなく持続的に生体を圧迫することで起こるとされる。 ストレレスの研究が進み、かなり多くの疾患がストレスによって起こっていることがわ かってきた。 多くの人が悩む腰痛なども多くはストレスが原因であると考えられるようになった。 糖尿病もストレスによるケースが少なくない。 ガンなどはストレスによるものが多いことは早くから疑われていた。 ・なぜストレスが疾患の原因になるのか、よくわかっていないようであるが、有害な刺激 が蓄積されるのがいけないことはかなりはっきりしている。 ・そうだとすれば、そういう有害刺激を速く忘れ、発散させるのは有力な健康法になるだ ろう。 ・はっきりしたことはわからないが、ものごとにこだわらず、さっぱりしている人にはス トレス棋院の病気にかかりにくいようである。 どんどんものを忘れるのは健康であると考えていいかもしれない。 ・さらに頭をきれいにする、はたらきやすくすることで、忘却は記憶以上のことをするこ とができる。 知識によって人間は賢くなることができるが、忘れることによって、知識のできない思 考を活発にする。 その点で、知識上の力をもっている。 これまで嫌われてきた忘却に対して、こういう創造的忘却は新忘却と呼ぶことができる。 これからますますこの新忘却が大きな力をもつようになるだろう。 ・記憶と忘却は、仲がよくない。 記憶のよい人は忘却力が弱いし、忘れっぽい人は記憶が苦手である。 しかし、記憶と忘却が力を合わせているのではないかと思われることがある。 思い違いである。 一般的に、思い違いは記憶の起こすミスであると考えられている。 ・なぜ、こういう誤りがおこるのかと考えた。 そして、思いがけないことを見つけた。 記憶が新陳代謝をするということである。 記憶は忘却の力を借りて代謝をおこし、再生されるらしい。 ・記憶はそのまま保持されるのではなく、忘却によって変化させられる。 そのあと、忘却しきれなかったものが、再生される。 この記憶もしばらくするとまた忘却のスクリーニングを受けて少し変貌する。 ・これを繰り返しているうちに、もとの記憶が、大きく、あるいは少し変形する。 その変化は美化であって、醜悪化されることは少ない。 忘却は記憶を改善(?)する作用をもっているように思われる。 ・時間の経過が必然的にもとのものを忘却する。 そしてそのつど、美化させる。 やがて、実物よりはりかに美しいものが記憶され、回想の中の姿になる。 幻滅は、こういう記憶の変化、忘却による浄化によっておこる。 それが記憶の新陳代謝だと考える。 ・記憶はいつまでももとのすがたであるのではなく、忘却によって、すこしずつ変化する。 しかも、よりよく変化する。 ・ふるさとの思いでは甘美である。 しかし、はじめからそうであったわけではない。 ふるさとを離れて時がたてば、おのずから記憶がうすれる。 それを回想すると、なつかしいふるさとが生まれる。 忘却をくぐってきた記憶、つまり回想はつねに甘美である。 甘美でないものは消える。 ・記憶は原形保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。 忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。 ときに消滅するかもしれないが、強い記憶は忘却をくぐり抜けて再生される。 ただもとのままが保持されるのではなく、忘却力による創造的変化をともなう。 ・それで、美しさがうまれるのである。 なつかしさも生まれる。 忘却はある種の創造がおこなっているのである。 新忘却の思考は、そういうはたらきを見逃さない。 忘却は、記憶に対して破壊的あるけれども、一部では、記憶を回想に美化させるはたら きをもっている。 美しい回想は記憶と忘却のはたらきによるというのが新しい忘却の美学である。 散歩開眼 ・だいぶ前のことになるが、かつて私の教室にいた人が、絵を画いて、個展を開いた。 招かれて見に行って、帰りにその人をご馳走した。 絵には感心しなかったので、一枚作品をくれるというのを辞退した。 ・雑談していて、私が散歩を日課にしているというと、何を思ったか、アマチュア画家が 散歩をけなした。 目的がないことをするのはいやだ、何にために散歩するのかわからない、そんな散歩は いやだ、だから散歩しないんだ、と彼は言う。 ・きいていてハラが立った。 かりにもこうして食事をさせている。 ホストに対して何たる言い方だ。 彼の絵だって、なんのために画いているのか、わからないではないか。 ・そんな話になって、はなはだ不愉快であった。 帰ってきて、自分はどうして、散歩するようになったのかを思い返した。 ・最初の記憶は、イギリスの話である。 明治の中ごろである。 神戸へ上陸したイギリス人が、遠くに見える山を指して、何という山かきいた。 神戸の人は、それに答えられなかったが、六甲山の山なみだった。 イギリス人は、明日、登ってみようといって、日本人をおどろかせた。 用もないのに歩いて六甲山へ行くといった酔狂なことを考える日本人はいなかったので ある。 ・つぎの覚えているのは、ドイツの哲学者が毎日、きまった時間に散歩する習慣であった という話で、これも、どこで読んだか覚えていないが、京都の哲学者たちが、それにな らって散歩し、哲学の道と呼ばれていることを知った。 哲学者は散歩するらしい。 ・そう言えば、ギリシアの昔、学問をする人たちは、机に向かって本を読むのではなく、 めいめいが歩きながら、哲学を論じたという話が新鮮であった。 勉強は机に向かってするものと考える日本人には、歩きながら哲学を論ずるというのが おもしろかった。 ・いちばん強く感銘を受けたのは、「モンテーニュ」のことばである。 「随想録」をそぞろ読みしていて、「私の頭は、歩いてやらないと眠ってしまう」とい う意味のことをのべている。 ものを考えるのに、歩くことがいかに大切かということをこれほどはっきり言っている のを知らなかった。 私の散歩への眼を開かせてくれたのはモンテーニュである。 ・私自身三十歳になったころ、偶然、歩きはじめたが、まだ散歩という考えはなかった。 書きものをしていると、行き詰まる。 どうも考えが浮かばない。 そんなときたいてい夜遅くだが、思い切って外へ出る。 しばらく歩きまわる。 そして帰ってきて机に向かうと、さっき越えられないところが、何とかのり越えられる ようになっている。 そんなことが何度かあって、そぞろ歩きが、頭のはたらきをよくしてくれるらしい、 という見当をつけて、うまくいかないことがあると、歩くことにした。 どこだったか忘れたが、”歩けばことが解決する”というラテン語の句を知って我が意を 得たりと思ったこともある。 ・そのころ私はどちらかと言えば、虚弱で、たえず体調を崩し、つとめを休んだ。 中学生のときスポーツ選手みたいであったのがウソのようだった。 どうも、運動不足がいけないらしいと気がついたけれども、人並みにゴルフやテニスを するなど思いもよらなかった。 ・歩くことはできる。 十分やニ十分では運動効果はないだろう。 それで一時間歩くことにした。 目に見えるほどの効果はなかったが、歩いた後の気分は爽快で世の中が明るくなったよ うな気がする。 ・そんなとき、同僚に糖尿病のグレーゾーンだと健診で言われた人が、しょげているから なぐさめ励ますつもりで「糖尿病くらい散歩すれば吹っとびますよ」と言った。 何を根拠にそんなことを言ったか自分でもわからず、いつとはなしに忘れてしまった。 ・一年たって、その同僚が「おかげで糖尿病の心配なしと言われました。キミのおかげで ありがたく思っています」とあいさつしたから面食らう。 彼はまじめな性格だから、こちらが、半ばいい加減に言ったことばを真にうけて、毎日、 せっせと散歩したという。 一年してその効果があらわれたのである。 ・その話をきいて、私は改めて、散歩が健康に良いということを納得した。 頭のはたらきに良いということの方が、少し先行したが、体のためにも良い効果がある らしいとわかって、散歩に対する信仰に近いものが生じた。 散歩の発見である。 ・それからかなりして、お医者が散歩をすすめるようになり、新しがり屋は万歩計をつけ て得意になった。 私は万歩計には目もくれず、毎日、一万二千歩くらいを目途にして自由に歩いた。 年を取るにつれて、歩数を減らしてはきたが、いまも、八千歩を下ることは少ない。 八十歳をこえることから、散歩の降嫁がいっそうはっきりしてきたようである。 ・病院でずっと毎月の定期診で、血液検査を受ける。 七十代では高すぎたり(H)低すぎたり(L)というコメントが五つも六つもついたが、 八十歳をこえると、減り出し、九十歳になって、すべてOK、となった。 「その年で、りっぱです」と主治医からほめられていい気持ちであった。 ・頭のはたらきにとって散歩はいっそう大きなプラスをもたらすと考えるようになった。 人間の頭は知識を記憶するためにのみあるのではなく、新しいことを考え出すのが大切 なはたらきであると考えるようになったのである。 しかし、どうしたら、新しい考えを生み出せるのか。 本を読むだけでは充分でない。 それどころか本を読みすぎると、知識バカになるおそれがあるということに気づいて自 分でも驚いた。 ・どうしたらものを考えられるようになるのか。 だれも、それを教えてくれない。本もない。自分で見つけるしかない。 そして、散歩を見なおした。 体のためだけでなく、新しい思考をするためには、机に向かっていてはいけない。 外へ出て、あてどもなく歩いていると、新しいアイデアが浮かぶ。 いつもというわけではないが、他のことをしているときより、はるかにしばしば、 アイデアが湧いてくるような気がする。 ・散歩に出るときは、メモの用紙とペンか鉛筆を持って出る。 いつアイデアがあらわれるか、わからない。 浮かんだ着想は、その場でとらえないと、すぐ隠れてしまう。 いったん消えると、いくら思い出そうとしても、二度とあらわらないことが多いからで ある。 ・足がリズムをもって動いていると、頭も同じようにリズムをもってはたらくのであろう。 歩き出しはまだ、頭は不活発で、きのう、きょうの、些細なことが頭の中でうごめいて いる。 しばらく歩いていると、そういう雑念が雲が流れ去るように消えていく。 三十分もすると頭はいい状態になるようだ。 そこへ、以前考えかけて、そのままになっている問題などがひょっこりあらわれて、 おもしろそうに見える。 ・それにかかずらわっていると、それとまるで関係のないことが姿を現す。 ニュー・フェイスである。 気をつけないと、また消えてしまう。 メモ用紙を取り出して、心覚えを書きとめる。 せっかくメモをとったのに見返さないのが私の欠点で、おもしろい考えをどれくらい消 失させたかしれない。 ・知識を得るには本を読むのがもっとも有効であるが、残念ながら思考力をつけてくれる 本は少ない。 ものごとを考える思考力を育んでくれるのは散歩である。 ・最近、本を読むにも、散歩のような読み方をすれば、思い嗅げないことを発見できるの ではないかと考えるようになった。 乱読である。 乱読によっておもしろいアイデアが得られる。 |