老いと孤独の作法 :山折哲雄

この本は、いまから5年前の2018年に刊行されたものだ。
本のタイトルから高齢者の孤独の問題を取り扱った内容なのだろうと想像していたが、
実際に読んでみると、単にそれだけでなく、巣鴨プリズンの戦犯たちの遺書の話や、
「主語を忘れた正義の声」という社会問題、安楽死の問題、そして平成天皇の退位の話な
ど、多岐に渡る内容におよんでおり、私にとってどの内容も今まであまり触れたことのな
かったものであり、自分の浅学さを思い知らされた。
特に巣鴨プリズンの戦犯たちの遺書をまとめた「世界の遺書」や「愛の像」に話について
は、まったくはじめて知る内容であり、驚きであった。
高齢になってもなお、まだまだ知っておくべきことがたくさんあるのだと、再認識させら
た本であった。

過去の読んだ関連する本:
老いの才覚
戒老録
新老人の思想


<生老病死を見つめる>
第二の人生を林住期と遊行期に分ける
・経済成長と医療技術の発展により、日本人の寿命はどんどん延びてきた。
 人生八十年の時代になり、いまや人生百年の人も珍しくなくなった。
・しかし、私たちをめぐる環境は、年金にしても社会制度にしても、人生八十年、百年の
 時代にまったく対応できていない。
 さらにいえば、人々の意識も現状とは乖離したままなのではないだろうか。
・人生五十年の時代は、ひたすら働いて、はたと気がついたころには、すでに死が目の前
 に迫っていた。  
 そのころの社会人は、四十歳くらいになると、どこかで死について考えていたように思
 う。
・われわれの祖先たちは、「生きることは即ち死ぬことだ。死を受け入れることなんだ」
 という独自の死生観を生み出したのである。
・そして、短い余生だからこそ社会への還元を重視していた。
 還元といっても単にお金を寄付したり、援助することだけを意味するわけではない。
 それまでの経験や得てきた知識を若い人たちに伝えることで、彼らの精神的な支えにな
 ることもまた喜びだった。
 人々に「生と死」を語ることも、高齢者の大事な役割だったのである。
・ところがこの三十年で、そのような価値観が大きく変化せざるを得なくなった。
 われわれ現代人には、生のあとにすぐ死がやって来るのではなく、長い余生があり、死
 の前に「病」や「老い」などの難しい課題が横たわっているのである。
・お金の使い方も変わってきた。
 いつ終わるかわからない老後のために、年金も蓄えも好きなことに使い放題するわけに
 はいかなくなってしまった。 
・さらに問題なのは、第二の人生を謳歌する精神的な余裕が失われ、老後もまたあくせく
 するようになったことだろう。
 こうして高齢者の役割だった社会への経験や知識の還元も忘れられていったのである。
・しかし、第二の人生を目標もなく、なし崩し的に生きるのは非常にもったいないことだ
 と私は考えている。 
 団塊の世代が高齢者世代になりはじめたいまこそ、老後のあり方を模索していかなけれ
 ばならないのではないか。

・日本の歴史をつぶさに眺めてみると、随所に第二の人生を上手く生きた人物がいる。
 たとえば、西行、雪舟、芭蕉、一茶、良寛などである。
・なかでも西行は同時代から現代にいたるまで、多くの人が論じてきた憧れの存在である。
 もともと西行は鳥羽院の居所を警護する北面の武士というエリートだった。
 そのような地位にありながら、二十三歳のときに妻子を捨てて出家した。
 理由は諸説あるものの、当時としても出家するには若かったことは事実である。
 西行はこの後七十三歳で亡くなるまで、旅から旅の漂白の人生を歩むことになった。
・考えてみれば芭蕉も同じである。
 僧侶の格好をしながら、旅先の神社などを訪ねて俳句を詠んで暮らした。
・ずいぶん好き勝手にやっているように見えないだろうか。
 彼らは仏門に入って、その道一筋に行い澄ましていたわけではなかった。
 俗界にも一方の足を置いて、柔軟性を保ちながら生きたのである。
・それを倣って、われわれも柔軟に第二の人生を考えればどうだろうか。
・実際に出家するとなると重大な決断になるし、簡単に踏んぎりがつくものではない。
 それなら、われわれの先祖の生き方をアレンジしてみればいいではないか。
 俗世界に生きながら、それと適度な距離を置くことであれば、そう難しくはないだろう。

・リタイア後に新天地で暮らそうとする方も多いようだが、事情は若干違うものの、私も
 生まれ育った土地から離れたということでは同じようなものである。
 私は四十代半ばまで、教師や編集者などさまざまな仕事をしてきた。
 住まいは東京や仙台、千葉など主に東日本だった。
・新天地で暮らそうと考えている人に、ぜひ知ってもらいたいのは、自分のすべてが受け
 入れてもらえると思ってはいけないということである。
 何と言っても、やはり生まれや育ちの違いは大きいものだ。
 そこに住む人たちの深いところには、あえて立ち入らない適度な距離感を保つことも必
 要ではないだろうか。 
・この距離感を保った人間関係は、第二の人生を迎えた高齢者にとって重要な意味を持っ
 ているはずである。
 どうしたって高齢者は、現役世代と同じスピードで物事を進めることはできないのだか
 ら、新しいコミュニティーと付き合うには、少し離れたところから必要に応じて集まり
 に参加するような適度な距離感を保つのがちょうどよいようだ。
 
・団塊の世代がいっせいに高齢化を迎えつつある現在の社会に、私は先輩高齢者として大
 いに関心を持っている。
 われわれの世代と違い、彼らの価値観の基礎には「成長」があるからだ。
 政治、経済、文化などすべてにおいて、そのような価値観ぬもとづいて生活を築いてき
 た。
・しかし、これからの高齢化社会では、成長を重視する西洋的な価値観を持ちつづけるの
 は辛いだけだろう。
・成長一辺倒の背景にある西洋の価値観は、「旧約聖書のノアの箱舟」にその原点がある
 と私は考えている。
 地球上に大きな災害が起こる。
 しかし選ばれたものだけが救命ボートに乗って助かるという物語である。
 だからこそ切り捨ての犠牲を前提にした弱肉強食の社会を生み出したのではないか。
・一方で、東洋では特定の人間だけが生き残るのをよしとはしなかった。
 それを儒教の言葉でいうと「中庸」ということになるだろうか。
 政治でも右だ左だと片方に寄ってしまうことが一番危険である。
 極端な道を回避することでバランスをとるのが、われわれ本来の姿だったのではないか。
・地震などの自然災害がとりわけ多かった日本では、この考え方が成熟し、日本の風土と
 一体化して「無常」という価値観を生み出した。  

・私がいまこそ第二の人生を語るべきタイミングだと感じたのは、昨年(2016年)に
 発せられた天皇の「退位」に関するメッセージがきっかけだった。
 あのご発言は今上天皇の退位の問題に留まるものではなく、日本人に第二の人生とは何
 か、そのために相応しい思想とは何かを提示したものだと感じたからである。
・ともすれば、われわれは第二の人生をいかに謳歌するかにのみ心を砕くものである。
 しかし、天皇は第二の人生の先にある「死」との向き合い方について熟慮を重ね、その
 内容を明らかにされた。
 振り返れば、天皇はこれまでも死後の埋葬の仕方として火葬を希望するなど、死にまつ
 わる話題を積極的に発言してこられた。
・昨年のメッセージで、日本古来の死生観の重要性をあらためて天皇が提示されたのであ
 る。
 天皇は「退位」することで、まだに「林住期」をへて「遊行期」に入ることを宣言なさ
 ったのではないだろうか。
 「遊行期」に入ってご自分の人生の始末をいかにつけていくか、みなさんも一緒に考え
 てみませんかとおっしゃているように私は感じたのである。
 この身の処し方は、第二の人生を生き抜くわれわれのモデル(象徴)にもなる可能性が
 ある。
・長い余生を過ごすことになった日本人は、いかに生きるかだけに関心が向きがちである。
 しかし、それだけでは、本当に第二の人生を生きているとはいえないと私は考えている。
 必ず訪れるであろう死をいかに内実のあるものとするか。
 あらためて考えることこそが必要ではないだろうか。
 
一人で生きることの意味と価値
・一人暮らしの世帯が急速に増えてくるという推計の数字を見て、「悲劇的な状況だ。こ
 れを救わないと日本の国が滅びる」という有識者の声が聞こえてくる。
 「一人」という言葉が負の価値を帯びて語られ、ネガティブな救済対象として取り上げ
 られているのである。
・人口がどんどん減少していけば、一人で生きる領域が空間的にも時間的にも広がること
 になる。
 そのとき、「一人で生きるとは何か」という新しい哲学や倫理学が必要になるだろう。
・しかし現代の日本人は、一人で生きる、一人で立つ、一人で暮らすことを否定的にとら
 えるばかりで、その本質的な価値を忘れ去ろうとしているようだ。

・日本人の基本的な教養というのは、芸術一本槍、あるいは宗教一本槍ではなかった。
 両方に足を置いて人生を考え、世界を考えていく。
 この複線的な生き方、複眼的な世界観に日本人は魅力を感じてきたのではないだろうか。  
 単なる宗教家、単なる芸術家ではもの足りないということころは、なかなかぜいたくな
 国民性だともいえるだろう。
・そのような柔軟な教養の伝統が、われわれの体内に流れていることを思い返さなければ
 ならない。
 「一人暮らしが大量に発生するから、事態は危機的だ」と叫ぶのは、昨今の社会学や心
 理学の側から発せられる警鐘の声を真に受けてしまっている。
 日本的教養の伝統を探り出す上で、これは障害になるだけではないか。
・貧乏とは何か。
 鴨長明から良寛にいたる隠遁者たちの生活は、徹底した貧乏暮らしから始まり、なだら
 かに一人暮らしへとつながっていた。貧乏ぐらしと一人暮らしを重ねてみるところから、
 新しい価値観、つまり人間としての本当の教養を引き出すことができるのではないかと
 私は考えている。
・「貧乏」という語は、じつは豊かな内容を持っている。「プア」とは違う。
 「誰かのために、あえてわが身を捨てる」という味わいがある。
 「貧乏神」という神さまさって、どこか愛嬌があるではないか。

・日本の歴史を振り返ると、三つの危機的な時代があった。
 それは思想史の上からみれば画期的な時代でもあった。
・第一は十三世紀。
 親鸞、道元、日蓮らが輩出し活躍した時代である。
 宗教的なカリスマたちが、一人一人の魂に生き方を問いかけていた。
 彼らにやや先んじて長明がおあり、やや遅れて「徒然草」の吉田兼好の存在がある。
・第二は明治維新である。 
 この国をどうするか、どうやって近代国家をつくっていくのか、という大問題だった。
 福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」といっている。
 「一人一人がそれぞれ独立しないことには、一国の独立はあり得ない」というメッセー
 ジである。
 福沢は英語の「インディペンデンス」を「独立」と訳したが、そこには「一人立ちをす
 る」という意味を込めていたと思う。
・第三の危機は戦後におとずれた。
 現代に生きるわれわれ自身の問題である。
 少子高齢化が世界で例をみないほど急速に進行し、一人暮らしの世帯が増えていく。
 一人で生きることの意味と価値をどう見出せばいいのか。
 この問題に対して、答えが出ていない。
 いまこそ十三世紀に学ぶべきときが来ているのではないか、と私は考えている。
  
・ここで、私が貧乏暮らしの基本として考えている三つの心構えを紹介しておこう。
 一つは「出前」の精神。
 どこへでも自分から出ていく。
 自分を出前する精神である。
 いまは便利な時代で、何でも宅配で賄える。自分から出て行く必要がない。
 しかし閉じこもっていては、何も生まれない。
 何ごとも、自分から出て行って仕事をしなければ話にならない。
 貧乏暮らしと一人暮らしにとって、出前の精神は欠かすことができないのである。
・次は「手作り」の精神。
 足りないものは、自分で作らなければならない。
 電化製品は何でもやってくれるけれど、故障したらお手上げである。
 便利な商品はこれからもいくらでも出てくるだろうが、貧乏暮らしや一人暮らしでは、
 結局は自分の手足を使うことが必要になる。
・三番目は「身銭を切る」ということ。
 貧乏は貧乏なりの身銭を切る。
 なけなしの銭でもやはり自分で使うということがないと、貧乏生活はやっていけない。
 安酒を飲んで元気をつける場合といえど、身銭を切るわけである。
・逆に、誰かの来てもらう。出来合いのものを使う。会社の経費や公共のサービスを必要
 以上にあてにする。ここからは何も生まれない。
 出前、手作り、身銭を切る。
 これら三つの心構えに共通するのは、「一人のライフスタイル」である。
 いわば貧乏暮らしの三原則こそが、「一人の哲学」を生み出す上でのスタートラインに
 なる。
 一人で立つ、一人で歩く、一人で座る、一人で考える。
 この立つ、歩く、座る、考えるを絶えず意識していないと、一人で生きることの意味を
 確かめることはできないし、「一人の哲学」を生み出すことはできない。
 
・いまから三十年ほど前のこと、父親がこの世を去った。
 最後の看取りの一週間ほどは、当時住んでいた仙台から父親が入院している故郷の花巻
 の病院まで、しばしば通うことになった。
 それまで比較的健康だった父親も八十歳を過ぎて、心臓の鼓動がしだいに弱くなってき
 た。
・そばにいて、じっとその姿を観察していると、だんだんと眼の力が弱ってきて、半眼に
 近くなっていき、そっと眼を閉じる。
 体調のよいときにはまた眼を見開いて、開眼の状態になる。
 人間はこの世を去るとき、体力も気力も衰えて、ものをみる眼、心の窓が徐々に閉ざさ
 れていくのだろう。
 そのように考えていると、かねてから抱えていた疑問がずっと溶け込んでいくように思
 えたのである。
・開眼から半眼、そして閉眼へ。
 その様子をなお注意深く観察していると、半眼の状態のままで時々、黒目がピクッと裏
 返ることがある。
 不気味な動きではあるが、怒っているのか、悲しんでいるのか、疑っているのか、どう
 とも解釈できるような不思議な眼の動きだった。
・そのとき私は、半眼の涅槃像のイメージが自然に浮かび上がってきたことにきづいたの
 である。 
 アジアの各地に残されている涅槃像の眼の表現には三つのパターンがあり、それは全体
 としてみれば生から死へのプロセスを表している。
 そのなかで特に死に臨んだ状態である半眼や閉眼に注目したのが、われわれ日本の仏師
 や絵師たちだったのではないだろうか。
 それが多くの人々の心をつかんだのであろう。
・今日、高齢者の介護が大きな社会問題となり、いかに人の死を看取るか、人はいかに死
 を迎えるかという課題が浮上してきた。
 その答えを導き出す上で、しだいに、半眼というテーマが重要なヒントを与えてくれる
 のではないかと考えるようになったのである。
・カトリックの神父で日本仏教とりわけ禅にも深い理解を示された故押田成人さんは、
 日ごろから「遠い眼差し」ということをおっしゃっていた。
 人間は歳をとって成熟のプロセスを歩いてくると、しだいに遠い眼差しになるというの
 である。  
 この遠い眼差しとは、半眼のことではないだろうか。
 眼をすーっと細めていくと、遠い風景が見えてくるからである。
・人間は誰も日常の生活から老病のプロセスをへて死に向かっていく。
 その最期の仕上げのときに、恐怖や悲しみや不安を乗り越える過程を経験するわけであ
 る。
・空海は人間の欲望がいかに始末に負えないものかを知っていた。
 曼荼羅を礼拝しつつ、かきたてられた欲望をいかに純化するか、それが空海の説く密教
 の修行だったのだろと私は推測している。
・私は、絵に描かれたり彫刻されたりしてきた仏像のなかで、とくに半眼という姿に光を
 当てようとしてきた。
 その半眼の姿こそ、インドで生まれ中国や日本で発達した大乗仏教の迷いのプロセスそ
 のものを象徴的に表していると考えるようになったのである。
・仏像の起源といわれるインドのガンダーラやマトゥラーの仏像は、ギリシャ彫刻を思わ
 せるような眼を大きく見開いた顔をしている。
 あたかも永遠性を象徴するようなこの眼は、人に安心を与える。
 完成した理想の人間を表現しているともいえる。
・ところが半眼の仏像は、よく見つめると、等しなみにある種の怖さを感じさせる。
 それは半眼の眼差しのなかに、最期の恐れ、悲しみ、死を受け入れるか受け入れないか
 と葛藤している精神の迷いが表れているからではないだろうか。

<「平成」の終わりに>
無常を受け入れてきた日本人の死生観

・「死生観」とは、不思議な言葉だ。
 よく考えてみると、そんな言い方が中国語(漢文)にはないことに気づく。
 ヨーロッパのどこの国にも見出すことができない。
・その日本人の死生観を忘却の彼方からよみがえらせる上で、あの3.11の大災害はや
 はり決定的な意味をもっていたと思う。
 われわれは突然、数知れない死者たちの前に引きずり出され、意識の底に押し込められ
 ていた過去の記憶に直面させられることになったからだ。
・あらためて思うのであるが、いまわれわれは「挽歌の季節」を迎えているかもしれない。
 このごろはそのことをわれわれは「終活」と呼ぶようになっているらしいけれども・・。
・挽歌とは、もともと死者というよりも、死者の魂に向かって語りかける心の叫びであっ
 た。それが古代万葉人の作法であり、先祖たちの日常における暮らしのモラルだった。
・だから今日、われわれはもはや死者の魂の行方にリアルな想像力を働かせることができ
 なくなっている。遺体という死の現実を前にして、ただ呆然と立ちすくんでいるだけで
 はないだろうか。  
・私は二年前(2013年)、宮城県の石巻市を再訪問して「大川小学校」の前にたたず
 んだときのことが忘れられない。
 たくさんの学童が大津波にさらわれた悲劇の現場である。
 3.11の直後に訪れたときは、そこは瓦礫の山に覆われ、まさに賽の河原というしかな
 い荒涼とした光景をさらしていた。
・けれども時をへてふたたび訪れたときは、旧校門前に親子地蔵尊が祀られ、参詣者たち
 が唱える詠歌と釈迦心経の声が天空に響きわたっていた。
・寺田寅彦は最晩年になって「日本人の自然観」という注目すべき文章を書き残した。
 その中で、二つの重要なことをいっている。 
・第一が、日本列島の自然は自身の頻発にみられるようにきわめて不安定で、怖ろしい顔
 をしているという指摘である。
 その自覚が、われわれの死生観の芯を育むようになったのではないだろうか。
 それは、単に「忘れる」とか「忘れない」といった水準を遥かに超える根元的な意識だ
 ったように、私には思われるのである。
・第二に、日本の学問は、そのような厳父のごとき自然の脅威を前にして頭を垂れ、それ
 に反抗したり、それを克服したりするような、西欧流の攻撃的な考え方を抑制してきた。
 むしろ、自然に随順する姿勢を保って、防災と危機に備える知恵を蓄積してきたといっ
 ている。
 寺田寅彦がもし生きていたら、この地震大国の日本列島に四十基以上の原発をつくるこ
 とについて、はたしてどんな態度を示しただろうかと考え込まずにはいられないのであ
 る。
・「無常」という死生観にふれて最近しきりに思うことは、これまた3.11以後の社会
 現象としてとりあげられるようになった「想定外」をめぐる問題である。
 だがどう考えても、この「想定外」という言葉の使い方がやはり間違いのもとだったと
 思う。 
・3.11東日本大震災が襲ってきたとき、その言葉を使ったのは科学者だった。
 もちろん、この世の中で、われわれの思いも及ばない「想定外」のことはいつでも発生
 する。それはごく普通の人間の日常感覚になっている。
 たとえば、われわれの身の上にいつでも起こりうる想定外の「死」の問題などもその最
 たるものだろう。
・しかし、あの地震と原発事故が発生し、専門の科学者がその言葉を使ったとき、世間は
 それを科学者の身勝手な言い訳とみなして冷笑した。責任逃れの自己弁護ではないかと
 疑った。
 もしも「想定外」の事故を予見することができなかったとすれば、それこそ科学者思考
 の衰弱を意味するものではないのかと。
・阪神・淡路大地震も、専門家たちは地震発生を予知できなかったのだから、まさに「想
 定外」の出来事だった。
 それで地震学会はついて、3.11経験を踏まえて、今日の段階では地震発生を予知す
 ることはできないと告白するにいたった。
 つまり、地震については「想定外」のことがいつでも起こりうると認めたのである。
・そこへもってきて、御嶽山が噴火して多くの犠牲者がでた。
 それもまた「想定外」のことだったのだろう。
 このようなジレンマに満ちた「想定外」を乗り越えるために、本当に何が必要だったの
 だろうか。どのような対策がとられたのか。
・それは端的にいって、「想定される」激甚災害の発生確率や被害の規模を数字やパーセ
 ントによって予想し、公表することだった。
 地震や噴火を予知できないとすれば、それしかないわけで、そこで今度は、想定される
 確率や規模の数値が、大は小を兼ねるとばかり、いつのまにかうなぎ上りに大きくなっ
 ていった。 
・いったい、どこでブレーキをかけるのか。どの時点で、バランスのとれた歯止めをかけ
 るのか。そもそも、それを誰が判断するのか。
 われわれが防災のために、全力を尽くすべきはいうまでもない。
 科学や技術の専門家、そしてわれわれ国民一人一人がそのために努力し、知恵をしぼる
 べきことも論をまたない。
・だが、「想定外」に起こるであろう災害や人生の危機の可能性をゼロにすることなどで
 きないのも誰の目にも明らかだ。
 いくら発生確率の数値を精密化しても、それは不可能である。
 そしてまさに、そこにこそ「想定外」思考の限界があるといわなければならない。
 「想定外」と「想定内」という二元論的な考え方の不毛性といってもいい。
 それに頼っている限り、われわれの不安を真に沈静化することなどできないからだ。
 ましていわんや、安心を手に入れることなどできるわけがない。
・どうしたらいいのか。解答はどう考えても一つしかみつからない。
 すなわち、このわれわれの世界で発生することは、すべて「想定内」と受けとめること
 である。無常という名の「想定内」の覚悟といってもいいだろう。
 そしてそれこそが、この災害列島に生きつづけてきた覚悟というものであり、人生の知
 恵だったのだと思う。 
・かつてわれわれの社会には「備えあれば憂いなし」という言葉が生きていた。
 さらに「人事を尽くして天命を待つ」という信念が命脈を保っていた。
・今日、われわれの国はたしかに襲ってくるであろう危機や災害に対して万全の「備え」
 をほどこし、国民の総力をあげて「人事を尽くそう」としている。
 けれども、それならばわれわれはそのことによってはたして「憂いなし」の気持ちを抱
 くことができているのだろうか。「天命を待つ」覚悟が定まっているのだろうか。
・あの大災害のあと、気がつくとわれわれの社会は急激な人口減少と少子高齢化の大波に
 よって、まさに「挽歌の季節」としかいいようのない状況のなかに置かれている。
・周りを見渡すと、この世に生き残った者たちが同じ生き残った者たちの寄りそい、耳を
 傾け、慰めの声をかけようとしている光景に、災害地にかぎらずどこでも出会うように
 なった。 
 介護の手を差しのべる人、ケアのために献身する人、そして最期の看取りをする人・・。
 死者たちがもはや何ごとも語らない存在になってしまっている以上、それは致し方ない
 ことだったのかもしれない。
・生き残った者たちが死者に対してわずかにできることといえば、その死者たちに向かっ
 てしずかに別れを告げ、その魂が他界におもむくことを願うことをおいてほかにはない
 だろう。
 天国や浄土、そしてこの大自然の墳墓の地にお帰りいただく、それをただひたすら祈る
 ことだったのではないか。
・このように考えてくるとき、ああ挽歌とは、生き残った者たちが同じ生き残った者たち
 に向けて差し出す悲しみと慰めの歌だったのだ、ということに気づく。
 一見それは、死者たちに向けられた死者のための歌のように受とられがちではあるけれ
 ども、じつはそうではなかったのだ。
 それは生き残った者たちに向かって、さらに生きよ、と語りかける励ましと慰めの歌だ
 ったのかもしれないのである。 
・挽歌とは、生き残った者たちにこそとどけられる、究極の愛の相聞歌だったのだと、い
 まあらためて思うのである。

「巣鴨の父」田島隆純の生涯
・東京駅の丸の内側の中央郵便局の前に「愛の像」(「アガベーの像」とも)という祈り
 の記念像が建っていた。
 この像は、青年が高く両手をひろげ、大空に向かって祈る姿をイメージしてつくられて
 いた。
 高さは3メートルほど、4.5メートルの円筒形の台座の上にすえられていた。
 敗戦後、巣鴨プリズンに収監されていた多くのBC級戦犯たちの過酷な運命を偲び、彼
 らを慰霊するまことをつくそうと建てられた像だった。
・なぜその場所が選ばれたのかといえば、東京駅のこの地こそ、戦時中、若者たちの多く
 が戦地に向かって出発していったところだったからだ。
・じつは、この「愛の像」を制作、設置するにあたって重要な役割を果たした人物がいた
 のである。
 それが、巣鴨プリズンの多くのBC級戦犯たちによって「巣鴨の父」と敬愛された仏教
 の教誨師、「田嶋隆純」だった。
 その上、彼は世に名高い「世紀の遺書」の生みの親の一人でもあった。
 BC級戦犯たちの戦後の過酷な運命を語る上でも、けっして忘れ去ることのできない人
 物だったのだ。
・戦後まもなく、戦犯を収容する東京拘置所はGHQによって接収されて「スガモ・プリ
 ズン
」と呼ばれ、1946年からは東京裁判がはじまる。
 はじめA級戦犯たちの教誨の任にあたったのは東京帝国大学文学部助教授の「花山信勝
 だった。
・A級戦犯の東条英機ほか6名が処刑されたのが1948年12月23日である。
 その直前に東京裁判は閉廷した。
 翌49年4月になって、花山信勝は突然、仏教教誨師を辞任する。
 その理由は必ずしも明らかではないが、花山のあとを継いで二代目の教誨師を委嘱され
 たのが、当時大正大学の教授で文学部長を務めていた田嶋隆純だった。
・わずか二日後になって、田嶋は巣鴨の戦犯長期服役者との連名をもって、死刑囚の助命、
 減刑の嘆願書を連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に提出している。
 花山が辞職したあと、委嘱の打診を受けてからでもわずか二か月後の短時日であった。
・田嶋の対応がいかに早かったかがそれでわかる。
 このような動きは初代の花山信勝の時代には考えられもしなかったことだった。
 そしてこの助命・減刑の嘆願運動が、その後の田嶋の活動の中心になっていくのだ。
・ともかくこうして、1951年9月、対日講和条約調印の日がやってくる。
 だが、その直後の10月になって田嶋のからだに異変が起こる。
 プリズン敷地内で倒れたのだ。
 さいわい生命はとりとめ、BC級戦犯たちの減刑・赦免のための活動はそのまま精力的
 につづけられ、その評判がプリズン内外にひろく知られるようになっていった。
・1954年、田嶋の存在はときの法務大臣から表彰されるまでになっていた。
 戦犯たちに対する刑務所内での処遇にも変化が現れはじめる。
 そうしたなかで、処刑された戦犯たちの最期の言葉を集めて後世に残そう、という計画
 が持ち上がった。
 そして所内に、戦犯者たちを中心とする遺書編纂会がつくられる。
・それは困難をきわめる作業だったが、幾多の屈折をへて、ようやく1953年12月に
 なって刊行にこぎつけることができた。 
・当時、裁判で処刑された戦犯の数は1千名近くに達し、そのなかには少数のA級、大多
 数のBC級が含まれていた。
 刑死の直前に便箋、包装紙、トイレットペーパー、書物の余白などに、鉛筆、ペン、墨、
 あるいは自分の血で書きつづったものを、整理してまとめていた。
・そのなかには、「刑死後は、復讐を」と無念の思いを述べて処刑された人も含まれてい
 た。
 しかし、戦犯としての刑死は「戦死」であると受けとめ、従容として最期を迎え、家族
 の幸福、祖国と世界の平和を願って死についた人も少なくなかった。
・戦争中の軍人の行為をめぐっては、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くことができるのか、
 そもそも戦時中の行為を法廷で裁くことなどできるのか、など矛盾に満ちた問題が生じ
 ることはいうまでもない。
 さらには、国家に強制された行為に個人の責任をどこまで問うことができるのか、容易
 には解決のつかない根本的な問いも浮上してくるだろう。
 「世紀の遺書」に収められている戦犯たちの言葉は、今日なお読む者の心に重苦しくの
 しかかってくるのである。 
・巣鴨プリズンの絞首刑の執行は、たいていの場合、木曜日の夜に呼び出されて伝えられ
 たという。
 金曜日は一日かかって遺書を書き、夜半から土曜日の明け方にかけて刑が執行された。
・のちに明らかにされた米国の公開記録によると、処刑直前の部屋のなかにおける本人の
 行動は、2、3分から5分刻みで、看守の眼を通じて報告されていた。
 そのほとんどが「粗末な机の前にかがんで鉛筆を握っている」とある。
・なかば強制された理不尽な死を前にしたとき、人間はどのような態度を示すか、心の姿
 をあらわにするのか。  
 過酷な運命のなかでしぼり出されるぎりぎりの言葉が、遺書の全面に、その行間に、そ
 の見えざる背面の奥に音を立てて脈打っているのである。
・田嶋隆純は、初代の花山信勝がおこなったような法を説く教誨の仕事をしようとは思っ
 てはいなかったようだ。 
 むしろ戦犯たちの助命嘆願の仕事に全精力を傾けようと考えていた。
・「世紀の遺書」は初版刊行後、しだいに多くの読者の心をつかみ、のちに講談社からそ
 の復刻版が刊行されることになった。 
 想像を絶する内容に、さしもの世間も強い衝撃を受けたからだった。
・やがて、戦犯者によってつくられた遺書編纂会を中心に、「世紀の遺書」の出版による
 益金で記念碑をつくろうという計画が持ちあがる。それが「愛の像」の建立へとつなが
 った。 
・東京駅前に「愛の像」がつくられ、除幕式がはなばなしく行われたのが1955年11
 月11日である。
 そしてその2年足らずののち、1957年7月、「巣鴨の父」と親しみをこめて呼ばれ
 た田嶋隆純はこの世を去る。享年65だった。
 今日の目からみればけっして長くはない人生だったが、おそらく教誨師の仕事による心
 労がたたったのであろう。
・あらためて時をへだてて振り返ると、戦後の巣鴨プリズンに収容されていた戦犯たちに
 とって、二人のまことに対照的に仏教教誨師が深くかかわっていたことが浮かび上がる。
 花山信勝と田嶋隆純である。
 花山はその在任期間はほぼ3年余に及んでいる。彼は主としてA級戦犯の教誨にあたっ
 た。
 そのあとを継いだ田嶋は、ほほ8年の長さにわたってその職にあった。
・私は田嶋隆純の存在とその仕事の内容について最近まで何も知らずにいた。
 花山信勝の名前はよく知られた氏の体験記録「平和の発見−巣鴨の生と死の記録」によ
 って記憶に刻まれていたが、あとを継いでBC級戦犯たちの教誨にあたった田嶋の事績
 についてはもちろん、「愛の像」建立のいきさつなどもまったく知らなかったのである。
・昨年(2014年)の秋ころだった。ある人を介してご遺族の方にお目にかかる機会が
 あった。長女にあたる田嶋澄子さんだった。
・年が明けて今年(2015年)の3月、私は小岩駅に向かった。江戸川区北小岩にある
 正直寺を訪ねた。ふたたび田嶋澄子さんにお目にかかるためだった。
 境内に入ってすぐ、「隆純地蔵尊」の像が目に入った。
 プリズンで献身的な活動をつづけ、「巣鴨の父」と慕われた故人に対する感謝の気持ち
 がそうした形で実ったのであろう。
 除幕式で幕を引いたのが遺児となった澄子、道子の姉妹であった。
 
・1949年6月、突然アメリカ兵がジープで大学に乗りつけ、巣鴨プリズンの教誨師に
 なってほしいといってきた。   
 初代の花山信勝がその職を辞したので、あとを継いでもらいたいという要請だった。 
 だが田嶋は最初、それを固辞しようとした。
 困難な仕事であることが予想されたからである。
・田嶋は、その任を引き受けるよう説得にあたる若いアメリカの青年将校に向かい、通訳
 を介して言った。
 「私がこの仕事をことわるのは、私個人の打算によるのではない。この不幸な人々が
 私ごとき者の言葉に満足するはずがないと信ずるからである。しかし、それでもどうし
 てもといわれるのであるなら、本当に試験的に、皆さんの前でお話をして、しばらくの
 あいだお手伝いをしてもよろいしい」 
・田嶋のいう試験的な教誨の仕事が、ためらいの気持ちを残したまま、こうしてはじまっ
 た。
・カチャーンという不気味な閂の音を立てて、鉄扉が開かれる。
 重く響く音にみちびかれて廊下をくぐり抜けていくと、その部屋があった。
 仏壇が置かれ、なかに阿弥陀仏が祀られている。
・死刑囚が一人、二人と入室してきた。
 どの顔も唇を固く結び、肌は白蝋のように蒼白く透き通っている。
 洗いざらしの米軍服をきちんと身につけ、手首にそれぞれ、粗末な数珠がかかっている。
 並んで座ったのが十人ほど、いずれも二十代から三十代の若者たちだった。
・一瞬の光景に、思わず涙が流れ落ちそうになる。
 それを隠すように、田嶋は背を向けて読経をはじめた。
 諦念に沈む眼差し、不安に満ちた視線、鋭い目つき、それらを背中に感じながら、田嶋
 はいまさら何を語り、何を説こうというのか、と臍を噛むような思いに打ちひしがれて
 いた。  
・読経を終え、向き直ったとき、田嶋の口から出たのはおよそ教誨とはほど遠い、切羽詰
 まった告白の言葉だった。
 「国民、誰一人として戦犯でない者がいるでしょうか。もし皆さんに罪があるとするな
 らば、その罪は私たちもまた負うべきものと思います」
 それがはじめておこなった田嶋による、三十分ほどの「教誨」のすべてだった。
・しばらくして、一人の死刑囚からのメモが彼のもとに届けられた。
 そこには、
 「我もまた汝と同じ罪人と泣きつつ君は説きましにけり」
 と短歌がつづけられ、「お願い」と題した感想が書きつけられていた。
・こうして彼のまったく意表をつくような「助命嘆願運動」が、巣鴨プリズンのなかから
 はじまった。
 それは教誨師の領分を遥かに逸脱する行動だったため、当初はGHQからきびしい処罰
 を受けるのではないかと心配されるほどだった。  
・助命嘆願運動に乗り出す田嶋の動きは素早かった。
 インドで開催された世界宗教者会議に提訴するかと思えば、国連軍に対する輸血奉仕運
 動にも参加して減刑嘆願の運動を展開する。
 また仏教界のリーダーたちにも積極的に協力を呼びかけて、助命嘆願の署名運動をはじ
 めた。
 一方、ラジオ放送にも出演して、戦犯に同情と救いの手を差しのべてほしいと熱誠をこ
 めて国民に語りかけた。
・田嶋の捨身ともいえる運動は、しだいに拘置所内の同胞たちに信頼をかちえていった。
 彼が所内の「教誨」の場に立つときは、それを聴こうとする者の数が1千名に達するこ
 ともあった。
 その言葉に耳を傾ける人々の姿にはいつも厳粛の気が漂っていたという。
 
・「世紀の遺書」は大きな反響を呼んだが、当時は戦犯たちに救いの手を差しのべようと
 する者はきわめて少なかった。
 戦犯の罪を問う声がそれだけ強かったからである。
・しかし、そんなとき物心両面の協力を惜しまなかったのが、千葉県市川市に居住する二
 代目の中村勝五郎氏とその子息の親子だった。
 中村家は味噌の醸造で知られるこの地の素封家で、有数の馬主としても知られていた。
 この親子は同情心と義侠心から戦犯の支援に取り組み、A級、BC級を問わず夷族に観
 音像をつくって贈ったり、競馬に招待したりしていた。
 そんななか、プリズン内で遺書の編纂事業が立ち上がったことを知る。
・たまたまその編纂・刊行の責任者だったのが、死刑判決を受け、のちに減刑された元主
 計中尉の冬至賢太郎だったのだ。   
 田嶋がプリズンの教誨師を「試験的に」引き受けたとき、短歌とともに私信のメモをと
 どけた人物である。
・戦犯たちの遺書は原稿用紙で二千八百枚に及び、しかも特殊な内容のため出版を引き受
 ける業者は当時どこにもいなかった。
 冬至は思いあまって田嶋隆純に相談し、その紹介でいっしょに中村家を訪ねたのである。
 話を聞いて、中村父子はただちに行動に移した。
 馬主仲間の出版社の社長が赤字覚悟で了承し、懇意にしていた画家東山魁夷と中村岳陵
 に装丁を頼む。一切無報酬だったという。
・こうして出版された「世紀の遺書」は予想外の評判を呼んで、よく読まれた。
 
主語を忘れた正義の声
・この国の報道や論説の中央から聞こえてくるのは、いつものように、依然として、
 ・主語なき普遍主義の声、
 ・主体を忘失した正義の言葉
 ばかりではないか。そう思うようになった。
・昨年(2015年)11月、フランスのパリで同時多発テロが発せしたときがそうだっ
 た。  
 マスコミの多くは異口同音に、テロを起こした犯人が他国から入ったテロリストではな
 く、フランスで生まれ育った移民一世だったことに触れ、フランス国民が衝撃を受けて
 いると報じた。
・同時に、その真の原因は移民への差別や大きな経済格差にあると指摘はするものの、
 責任は歴史や社会が負っており、そのことは国民一人一人がみんなで考えなけれならな
 いと主張していた。 
・しかし、ここでいわれている「社会」とか「国民」とか「みんな」というのは、いった
 い誰のことか。
 事件の衝撃に応え、それを「わがこと」として受け止める言葉や声は、どこからも聞こ
 えてこなかったのである。
・さかのぼって2011年には、ウサーマ・ビン・ラーディンのパキスタンにおける潜伏
 先が突き止められ、米軍によって殺害されていた。
 パリ同時多発テロの直前には、米軍は「イスラム国」のラッカで、日本人ジャーナリス
 トの後藤健二さんらを殺害した「聖戦主義者ジョン」を標的として空爆を行ったと発表
 した。
 米メディアによると、男が建物を出て車に乗り込んだところをピンポイントで狙い、無
 人機による攻撃をしかけている。
・個人の生命をあたかも獲物を狙うかのように襲う。罠をしかけ、有無をいわせずとどめ
 を刺す。
 その手法がイラク戦争やアフガニスタン戦争のような現代の戦争のまっただなかに登場
 してきた。
・一対一の「たたかい」という狩猟社会の原理が、国家対国家の近代的な総力戦に踵を接
 して出現し、襲撃と報復の連鎖を加速させている。
 この過激化する「個」の暴発を、「国家」はもはや完全に抑え込むことはできない。
 このような「個」のいっそうの個別化と孤立化、そして肥大化を、われわれの社会は、
 はたしてどのように食い止めることができるのか。
・「個」と「共同体」の関係が、世界的な規模で芯のところから融解しはじめているかも
 しれない。 
 その背景として、もしも貧困や差別、そして移民問題などを考えなければならないとい
 うのであれば、われわれはまずもって、もう一度狩猟社会の原点に立ち戻って人類の歴
 史の、それこそ「生き直し」を己れの課題として引き受けなければならないところにき
 ている。
・ところが、このような多発するテロの惨劇を真にして、われわれの社会がみせる言説空
 間は、あいも変わらぬ客観的な眼差し、冷静を装う視線ばかりではないか。
・大量の情報を収集し、分類し、整理する。
 背景にあるものを分析して、解説に終始する。
 政治、外交、軍事の世界地図を掲げて事態の推移を追う。
 最後にはテレリズムの行く手を予測し、危惧し、混沌の時代の到来を懸念する。
 そして現代の虚妄と恐怖を語る・・・。
・そこに共有されている論述の手法こそ、まさに主語なき普遍主義、主体を忘失した正義
 の感覚ではないか。
 主語なき個々の言説、己れの主体を忘失したままの個々の言説空間ではないだろうか。
・戦後われわれは、「個」「個の自立」という言葉を口にして倦むことがなかった。
 「個性」「個性の尊重」と異口同音に繰り返し唱えてきた。
 だがその結果、右をみても左をみても自己愛の個が蔓延し、孤独な個の暴走する姿が巷
 にあふれるようになった。
・なぜそのようになったのか。理由は種々あるだろう。
 だが第一に指摘すべきは、やはり横並び平等主義がわかもの顔に振る舞いだすようにな
 ったからだと思う。
 主語なき個、主体を忘失した個、個、個、個・・・の発生だった。
 それが戦後七十年もつづけばどうなるか。
 過程では親と子がオレーオマエの対等の関係に還元され、学校においては教師と生徒が
 トモダチ感覚に引きずり込まれるようになった。
 では会社ではどうなったか。各部局の上司は部下に対してほとんど調停者の役割を押し
 てられ、期待されるようになっていた。
・ヨコの人間関係だけを意識しつづけ、目に見えないものとのあいだにタテに働く関係軸
 や価値観を忘失したまま長い時間が経過してしまった。
 それがかえって、個性を埋没させる人間関係神話を作り出してしまったということだ。
・その神話を後生大事にしているうちに、人間関係そのものがガダガタになっていた。
 いつのまにか主語なき普遍主義がこの横並び平等主義とともに浮上してきたのである。
・身近な「他者」と自分を比較する、やみがたい癖が身についてしまったということだ。
 「他者」と比較すれば、たちどころに違いが目につく。容貌、性格からはじまって社会
 的背景、財産の有無まで、平等でも公平でもない非「正義」の現実をつきつけられる。
・比較地獄のはじまりだった。それが嫉妬地獄を招き寄せ、その自縄自縛のなかで、いつ
 しか敵意が芽生え、殺意へと育っていく。
 気がついてみれば、身のまわりに子殺し、親殺し、そして慢性的な自殺願望の増大とい
 う事態を招いていた。
・蓄積された敵意や殺意が外に向かって暴発するときには殺人を引き起こし、内攻すると
 きは自殺願望を刺激する。
 外にも内にも向けることができないときは、抑圧されたまま嫉妬や怨恨を抱えて右往左
 往するほかはない。  
 進むことも退くこともままならぬままにウツの状態へと退行していく。
・さて、その「個」とか「個性」ということが、考えてみれば、これらの言葉は西洋から
 輸入した理念の翻訳語であったことに気づく。
 そもそもそれは西洋の近代社会がつくりだした新しい理念だった。
 それをいち早く取り入れたところに明治維新の英知の一端をかいまみることもできるだ
 ろう。
・しかし、そのあとがいけなかった。
 なぜなら、その西洋直輸入の理念を日本語の伝統的な価値観と照らし合わせ、それこそ
 真剣に比較することが必要だったにもかかわらず、戦前から戦後七十年にかけて、われ
 われの社会はその仕事をほとんど完全に怠ってきたからである。
・歴史を少しでも振り返れば、たちどころにわかることだが、わが国は「ひとり」という
 日本語がまさに「個」あたる固有の場所、すなわち主語の居場所にちゃんと鎮座してい
 た。
・まず中世の夜明けに、親鸞が空前絶後の「ひとり」に目覚めていたことに注目してほし
 い。
 阿弥陀如来による救済の誓いは「ひとへに親鸞一人がためなりけり」と彼はいっていた。
 「歎異抄」にでてくる日本語である。
 自己の救済を確信する自立した「ひとり」の宣言だった、といっていいだろう。
・そしてもう一人、あの福沢諭吉にもふれておこう。
 諭吉といえば誰でも思いおこすのが、
 「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立しべし」
 ではないか。
・パリ同時多発テロが起こったとき、オランド大統領は議員たちとともに、ラ・マルセイ
 エーズ」を歌って、「イスラム国」への反撃を世界に向かって呼びかけた。
 テロによる怨念と報復の連鎖を断ち切るために、正義の旗を高く掲げた。
・私がまっさきに思い起こしたのが、今日なお声名高い政治思想家、ハンナ・アーレント
 の「暴力論」だった。
 その思想界における影響力はいまも圧倒的であるが、私はかねてこのアーレントの暴力
 論に対して、いい知れぬ違和感を抱いていた。
 その革新的な要点が二つある。
・一つはガンジーの「非暴力」をめぐる議論だ。
 彼は長いあいだ英国の植民地だったインドを非暴力の手法によって独立にみちびいたこ
 とで知られる。   
 だがさきのアーレントは、ガンジーの非暴力が成功したのは、相手が英国だったからで、
 敵がもしもヒトラーのナチスやスターリンのソ連、そして日本の軍国主義だったら失敗
 に帰しただろうと、ほとんど断定的にいっている。
・その発言にふれたとき、私は直感的に、はたしてそうかと疑った。
 なぜなら、ガンジーは、相手がナチスやソ連であろうと日本の軍国主義であろうと、そ
 して今日の問題としていえば、たとえ相手が「イスラム国」であろうと、その非暴力に
 よる抵抗を捨て去ることはなかっただろうと思ったからだ。
・もちろんそれが成功するか失敗するかは、やってみなければわからない。
 しかし彼の生涯の身の処し方からみて、相手の状況しだいで、独自にあみだした自分の
 抗いの手法を変更したり断念したりすることは、どうてい思えなかったのである。
・もう一つ、アーレントはさき論文のなかで重要なことをいっている。
 それが驚くなかれ、非暴力も暴力の一形態であって、その本質は暴力の反対概念などで
 はない、主張していたのである。
・そのいわんとするところの枝葉をはらって要約すれば、悪の暴力(権力)を打ち倒すに
 はもう一つの正義の暴力が必要になるということなのだろう。
 だとすれば、ガンジーの非暴力という暴力が、イギリス帝国主義の強大な暴力(権力)
 を制することに成功したということだ。
・そのような考え方の背後に、あのフランス革命を正当化する論理、すなわち旧体制の不
 正義の暴力を打ち倒す正義の暴力、という論理が横たわっていることに嫌でも気づく。
 フランス革命の果実として知られる人権宣言も、このような思想的母胎から生み落とさ
 れたことはもはやいうまでもあるまい。
・しかしガンジーの非暴力は、この危機の時代において、はたして彼女のいうような暴力
 の一形態であるのだろうか。
 彼の非暴力抵抗の思想は第二次正解大戦後、米国のるーさー・キング牧師をつき動かし
 て、あの公民権運動を成功にみちびいている。
 そのため彼はガンジー同様、暗殺された。
・しかしその運動はアパルトヘイト(人種隔離)で有名な南アフリカにも波及した。
 そして、この悪名高い人間差別をはね返す運動をリードしたネルソン・マンデラ大統領
 の誕生を可能にしたのだ。
・ところがまことに気がかりなことに、そのガンジーの存在に注目する論者がこの国には
 ほとんどいない。
 わが国の政治家もその名に言及することはほとんどない。どのメディアもその事実を無
 視して恥じるところがない。
・今度の安保法制をめぐる議論で集団的自衛権が問題にされたときもそうだった。
 首相をはじめ与党議員も野党議員もみなそうだった。
 安保法制に反対する組織やグループ、そして宗教界すらもそうだった。
 意外なことに「九条の会」まで同じ戦列についていた。
 非戦、反戦をつらぬこうとの意見を表明するとき、ガンジーの非暴力に学ぶ覚悟を語る
 者が、この国にはほとんどいなかったということになるだろう。
・主語なき普遍主義、である。主体を喪失した正義の主張、である。
 「個」の主張を世間の側、社会の側に転位しようとする。
 政治や経済という「他者」の側の舞台に移譲しようとする。
 そして、その世間や社会や他者とともに連帯しようと叫ぶ。
 主語なき普遍主義へのもたれかかりである。
 「ひとり」で立つ、「ひとり」で考える行動原理の放棄、といってもいいかもしれない。
 これを主語なき普遍主義といわずして何というのか。
 
・もう一つ、最後につけ加えておきたいことがある。
 たとばiPS細胞のような生命科学の研究分野でも同じような現象が起こっているとい
 うことだ。  
 もちろんその最先端の技術が難病に苦しむ人々の心に希望の明かりをともしたことをい
 ささかも疑うものではない。
・ただ不信の念にたえないのは、このノーベル賞に輝く最新の技術が将来的には精子と卵
 子を人工的につくりだし、生命(受精卵)の誕生までを可能にするようになったという
 ことである。
・そしてこの重大な局面を迎えて、社会全体が考えなければならない、国民の一人一人が
 考えなければならない、とりわけ哲学や宗教の問題としてどう受けとめたらいいのかと、
 科学者の側が異口同音に発言している。
 そのこと自体にはもちろん誤りはないだろう。
・ところがまことに不思議なことに、そのような科学者たちの側からの問題提起のなかに、
 肝心要の科学者自身の社会的責任を問う言葉がどこからも聞こえてこないのである。
 そのことは国民一人一人が考え、とりわけ哲学や宗教の問題として考えなければならな
 いことはいうまでもないことだ。
 しかしそれなら、科学者たち自身はそれをどのように受けとめようとしているのか。
 その腹の底からの声が、一向に聞こえてはこないのである。
・主語なき普遍主義が、科学者たちの領域においても深く静かに浸透していると思わない
 わけにはいかないのである。 

瘋癲老人が見た日本
・「文藝春秋」が2017年3月号に、安楽死の是非を問う有識者のアンケートが掲載さ
 れた。橋田壽賀子氏による寄稿「私は安楽死で逝きたい」を受けた企画で、私も依頼に
 応じて回答を寄せた。
 アンケートの選択肢は「A、安楽死に賛成」「B、尊厳死に限りなく賛成」「C、安楽
 死、尊厳死に反対」の三つ。
・私はAの「安楽死」を選んだ。ところが誌面を見ると、私の答えはBの「尊厳死」に入
 っていたのである。 
・企画に付された各項目の定義を見て、合点がいった。
 このアンケートにおける「安楽死」の定義は、「回復の見込みのない病気の患者が毒物
 などを服用して、死を選択すること」。
 尊厳死の定義は「患者の意思によって延命治療を行わない、また中止すること」だった。
・私の考える安楽死の手段は、毒物ではなく「断食」によるものだった。
 精進料理からはじめて、五穀断ち、十穀断ちに入り、断食、断水をへて断眠に至り、死
 を迎える。 
 食物摂取をコントロールしながら最期を迎える断食死はべつに新奇なものではなく、ア
 ジアの仏教伝統にもとづくものである。
 インドでも中国でも、そして日本でも、比叡山や高野山の高僧らが断食死を実践してい
 た。 
・断食とは異なるけれども、私は若いころ、十二指腸胃潰瘍で吐血と下血を繰り返して入
 院し、断食療法を受けたことがある。
 口には水一滴入れず、身動きできない状態が二日、三日とつづくと、空腹感が飢餓感に
 変わっていく。
 病室のドアの隙間から流れ入る食べ物の匂いにも悶え苦しむようになる。
 ところが、五日目を過ぎたあたりから急速に飢餓感が薄れ、代わって清々とした感覚、
 軽やかな意識が戻ってくる。
 いま思えば、当時もある種の涅槃感覚を味わっていたのかもしれない。
・「文藝春秋」のアンケート結果で私がいちばん驚いたのは、「安楽死に賛成」と答えた
 人が、過半数にのぼったことである。
 橋田氏のように「安楽死で逝きたい」と願う日本人の声は、もはや止めようもないので
 はないだろうか。 
・たとえば連れ合いや親友に先立たれてしまい、面倒を見てくれる子どももおらず、仕事
 もなく、生きる意味も見出せない。
 認知症や重い病に罹ったり、「植物状態」になったら、わざわざ生きてまで人に迷惑を
 かけたくない、と考える高齢者は大勢いるはずだ。

・2017年のノーベル賞文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の小説「わたしを離さな
 いで」をお読みになっただろうか。
 臓器提供のためにつくられたクローン人間の物語だ。
 「提供者」と呼ばれるクローン人間たちはフリーセックスが認められているが、子ども
 を産むことは許されない。 
 提供者の介護人を務める女性が主人公で、彼女は提供者の一人と恋愛関係になるけれど
 も結局、離れ離れになってしまう。
・この作品は、人類が向かっている方向性をはっきりと予言しているのではないか。
 端的にいって、それは「親なき子」の時代といえるだろう。
・昔は、貧しさゆえに家のない子どもが路上にあふれたけれども、現在は豊かさゆえに親
 のない子どもが増えている。
 加えて、昨今の離婚や「親殺し」「子殺し」の世相をみれば、「親なき子」が今後、激
 増することは想像に難くない。 
・安楽死に関していえば、「自殺は社会悪だ」と非難する以前の問題で、われわれがいま
 現実だと思っていた「社会」そのものが消えつつあるのではないか。    

・私はここで提言したい。
 いまこそ日本に「死の規制緩和」が必要だ、と。
 死の緩和条件の第一は「九十歳以上の安楽死・尊厳死を認めること」
 第二は「死の定義を変えること」である。
・ここで日本人はもう一度、「生と死の規範」について考え、みずからの死生観を問い直
 さなければならない。 
 近代法のもとで「人の死」とされる心停止や脳死の基準にもとづいて死を測るのは、や
 はりわれわれの伝統に馴染まない。
・「殯」をへることにより、かつての日本人は死が点ではなく、線でつながっていること
 を感得した。 
 死ぬというのはただ一点の出来事ではなく、あくまでも生きることの延長線上にある。
 そう考えたとき、「自分がどう死ぬか」について無自覚でいられるはずがない。
 私は、九十歳を超えた人間がみずからの死に方を選ぶことは当然の権利であり、義務で
 ある、と考えるのである。
・現在、わが国における安楽死への「抵抗勢力」は医師会、法学界、宗教界の三つである。
 医師のあいだで安楽死への反対意見が強い最大の理由は、患者や家族の訴えに応じて人
 工呼吸器を外したり投薬を中止した場合、下手をすれば自殺ほう助や殺人の罪に問われ
 るからであろう。
・現在の日本において、安楽死や尊厳死の前に立ちはだかるのは「法の壁」である。
・しかし、そもそも「医」の本来の役割を考えれば、医療の本質とは「人間の苦しみを取
 り除くこと」にある。
 医師が安楽死や尊厳死を全否定するのは自己否定でしかない。
 さらに嘆かわしいのは、安楽死を認めない僧侶がいることだ。
 よもや彼らは「引導を渡す」という仏語があることを忘れてしまったのだろうか。
 衆生を迷いから救い、成仏へと導くことは、仏教の本義にほかならない。
・たしかに日本で安楽死を解禁すれば、最初のうちは混乱した状況が生じるだろう。
 しかし、その混乱の行き着く先が混沌(カオス)ではなく、より高い秩序である可能性
 もある。 
・安楽死は少なくとも医者や法律家が決めることではないし、政治家が決めるべきでもな
 い。あくまで現在を生き、そして死ぬわれわれ自身が訴え、決めるべきことだと思うの
 である。

<天皇の「退位」を考える>
退位表明に宿る「死と再生」の叡智

・今年(2016年)8月、今上天皇のビデオメッセージに接して、私は以前から感じて
 いた、ある切迫したものがついに言葉として表明されたのだと思った。
・2013年の秋には、みずからの喪儀のあり方を土葬から火葬にしたい、陵墓も縮小し
 て薄葬にしてほしいとのご意向を明らかにしたこと。
 そうして動きに何か急いておられる、早く物事を勧めなければという危機感を抱いてお
 られる、と感じていた。
 その予感が形をなした、そんなふうに思われたのである。
・あのご発言は、単に現在の天皇の体調について語られただけではない、日本の歴史、日
 本人の死生観にまで深く関わる広がりと射程をもっている私には感じられる。
・とりわけ私が驚いたのは、後半、「天皇の終焉」というお言葉で、みずからの死、それ
 から死後の行事まで言及されたことである。
・明治以降に壮大化してしまった喪儀のあり方から、本来のかたちに戻してほしいという
 点では、その「薄葬発言」から一貫したものを感じるが、ここで語られているのはそれ
 だけではない。
・現代は死と正面から向かい合おうとする意識が希薄な時代である。
 肉体的、物質的な生は、医療技術によって極限まで引きのばされようとするが、それも
 限界に来ている。
 むしろ、いま求められているのは、生のさなかに死を見つめる、いわば死との対話では
 ないだろうか。
・喪儀が壮大化、肥大化してしまっている。
 そして、社会や国民、「残される家族」にまで負担をかけるものになってしまった。
 なぜそうなったのか。
 それは明治以降、天皇が「統治権の総攬者」となってからの喪儀が、現代までつづいて
 いるからである。
・天皇が形式的にせよ、政治権力、軍事の頂点に立たされた近代天皇制は、天皇の長い歴
 史のなかではむしろ異例に属する。
・平安時代、江戸時代が典型的だが、権威を司る天皇と、政治権力を執る摂政関白、将軍
 は分離しており、その二元体制によって安定した統治が実現していたのである。
 これは中国的な専制君主制、皇帝がすべてを支配する政治形態を拒絶し、日本独自の文
 化、社会を守ることでもあった。
 また、この平安時代、江戸時代には天皇が生前に譲位をおこなっているケースが多い。
・今上天皇は戦後憲法下で即位された最初の天皇である。
 戦後七十年余をへたが、当初、戦後民主主義と天皇制は矛盾、対立するものではないか
 と考えられていた。多くの国民がそう思っただろう。私もそう考えた。
 しかし、実際には二つはだんだん歩み寄り、現在では調和の関係を実現したといってい
 いのではないか。
・これにはさまざまな要因があった。占領軍の思惑もあったろうし、日本における民主主
 義の成熟、美智子妃との御成婚にみられるような、「小泉信三」をはじめとするブレー
 ンの存在も大きかった。
 そして何より、今上天皇に代表される皇室の努力があったことは間違いない。
・しかし、問題はそこからである。
 これまでたゆみない努力で作り上げてきた現在の調和の関係が、今後もそのまま維持で
 きるとは限らないからである。 
 むしろ、いまの状態が当たり前であると思ってしまったら、戦後民主主義と天皇制の関
 係、いいかえれば国民と皇室の関係の調和は破れてゆく可能性もあるのではないか。
・私が危惧するのは、現在の調和が矛盾、対立に転じるというより、空洞化してしまうこ
 となのである。 
 もっといえば、制度的な空洞化と国民の象徴天皇観の空洞化という、両面の危険性をは
 らんでいると感じられるのである。
・制度的な空洞化とは何か。
 それは天皇、皇后両殿下をはじめとする皇室を宮城の内部に囲い込んで、ただ存在する
 だけの立場に追いやろうとする動きである。
・これは一見、天皇制というものを安定的に維持する方法に思われるが、一方では、政治
 権力にとって、もっとも利用しやすい状態を作り出すことになってしまうのではないか。
・その意味で、私は天皇の「元首化」は非常に危ういと思うのである。
 天皇を「元首」とする、というと、天皇の地位を高めるかのように響くが、たとえば、
 アメリカ大統領やフランス大統領のような意味での元首だとすれば、天皇は専制君主に
 近づくことになってしまう。  
・そうではなく、存在するだけでいい、何もしてはならないという面を強調すると、むし
 ろ天皇の存在が完全に空洞化されてしまう。
・いまの元首化の議論からは、天皇がいかにあるべきかという原理、思想がまるで聞こえ
 てこない。 
・さらにいうならば、今回のご発言を受けて、政府は退位問題に限定した特別法、それも
 一代限りのものを検討しているという報道もなされている。
 もし、そうだとするなら、政府は「今回の問題は今上天皇個人の事情によるものだ」と
 判断したことになる。
 これは言い換えると、「天皇のわがままに過ぎない」ということになるのではないか。
 それでは、ご発言に込められた天皇の思いや歴史的視野をまるで受け止めていないこと
 になってしまう。
・今回のご発言は、近代以降の天皇のあり方を歴史と伝統を踏まえて見つめ直し、今後の
 皇室がどうあるべきか、いかにして皇統の永続をはかるか、という国民への、天皇の問
 題提起にほかならない。
 その意味では、政府、国民の真剣な応答が試されているともいえるのである。
 そしてもう一つの懸念が、国民の側の意識の空洞化である。
 いま、国民の側に皇室というものに対する理解と共感がどれだけあるのだろう、と。
 女性週刊誌などをみると、毎週のように皇室に関連する記事が掲載されているが、その
 ほとんどの議論は皇室ファミリーに対するやっかみ、嫉妬のたぐいではないかと思えて
 ならない。 
・私がしばらく前から感じているのは、日本の社会が不寛容の度を増してきている、とい
 うことである。
 平等、平等と唱えながら、絶えず他人と自分とを比較する比較地獄、嫉妬地獄に陥って
 いるのではないか。
 そして、恵まれていると感じる人々に何かがあると、いっせいに攻撃を加える。
 しばしば皇室はそうしたバッシングの恰好の対象にされてしまっている。
・しかし、今回の天皇のご発言は、そうした国民の心にも、たしかに届く力を持っていた。
 これはなぜかというと考えると、生命の終焉と再生に関わる日本人の伝統的な死生観に
 訴える射程をそなえていたからだと思う。
・魂というものは、秋から冬にかけて衰弱する。
 これは日本の古来からの考え方である。
 だから秋にお祭りをして、衰えた魂、自然の生命力を再生しようとする。
 宮中でおこなわれている祭祀も、こうした原理に基づくものである。
 代々の先祖の霊に対し、敬虔に仕えることで、自分の心身を強化する。
 そうした宮中祭祀を、今上天皇は非常に熱心におこなってこられた。
・今回の天皇のお言葉には、再生の原理が底流にあることを強く感じるのである。
 みずからの死にも言及され、高齢による衰えを伝えることで、次の時代への継承、新し
 い天皇の魂の再生を願う。
 この極点において、かえって生命のパワーが強化され、強いメッセージとなる。
 その意味においても、ご発言は日本人と天皇の関係を考える上できわめて重要な、後世
 に残る言葉だと思うのである。
  
「退位」と文明化された「王殺し」
・今年(2016年)7月、「生前退位」という天皇のご意思が、突然NHKの電波にの
 って報道されたとき、各方面から驚きの声があがり、さまざまな憶測を呼んだ。
 そのことを心配されてのことだったのであろう。
 その陛下ご自身のお気持ちを、ビデオメッセージの形で直接国民に向かって語られるこ
 とになり、それが8月8日午後3時からの画期的な10分間の談話となった。
・はじめその内容は、事柄の性格上、天皇の「思いのにじむ」ような間接的なものにとど
 まるだろうと予想されていたが、実際にはそれを遥かに上回るいっそう踏み込んだご発
 言になっていて、そのことに、私は胸を衝かれた。
・このわれわれの高齢社会の広がりのなかで、象徴天皇もまた高齢化の運命を免れること
 はできない。 
 とすれば、象徴天皇としての務めをこれからどのように全うしたらよいのか、という問
 題提起であった。
・その冒頭の発言のなかに、私は、まさに悩める人間天皇が象徴天皇の「象徴」のあり方
 を問いつづけてこられた長い時間と嘆きの深さを感じざるを得なかったのである。
 天皇が病み衰えるとき、国と国民と皇族の上にもまた衰運の危機が訪れるであろうとの
 憂慮の念が示されたのであり、そのことがさらに私の胸に響いた。
・そして最後にお言葉が天皇ご自身の終焉と喪儀の問題に及んだよき、このたびの「退位」
 のご意思が並々ならぬご決断であることをあらためて知らされることになった。 
・このようにみてくるとき、このたびのご発言がまさに人間天皇による危機意識の率直な
 表明であったことがわかる。
・天皇は戦後七十年、即位後二十七年のあいだ、戦後民主主義と象徴天皇制とのあいだに
 融和の状態をもらさそうと努力を重ねられてきた。
 同時に、皇室における象徴家族と近代家族という、ときに矛盾をはらむ難しい関係に調
 和をもたらそうと工夫を重ねられてきた。
 そして現代にふさわしい「象徴」のあり方をつねに模索されてきたのである。
 その長い熟慮の結果として、このたび「退位」のご意思をかためられたのであるとすれ
 ば、それは敗戦直後の昭和天皇による「人間宣言」につぐ、第二の「人間宣言」といっ
 てもいいものではないだろうか。
・戦後七十年、そして即位後二十七年をへた今日、移り行く時代の転変のなかで、天皇が
 国民統合の「象徴」たる地位を安定的なものにするために、いかに心を砕かれたのか、
 そのことを振り返るとき、あらためてその嘆きの深さと熟慮の長さを思わないわけには
 いかなかったのだ。
・災害地への度重なる慰問、沖縄をはじめとする激戦地への慰霊と鎮魂の旅、恵まれない
 人々にたいする心遣いの数々、その努力の積み重ねはけっして尋常なものではなかった。
 それは戦後民主主義の革命情勢的な思潮と象徴天皇制の融和の関係を築きあげる上で、
 きわめて重要な役割を果たしたのである。
・今日、その象徴天皇がようやく身心の衰えを自覚され、まさに鎮魂のときを迎えようと
 している。生命の平安と沈黙の時間にわが身をゆだねようとされている。
 その祈りのようなお気持ちがじかに聞こえてくるようだ。
・もちろんその祈りにも似た感慨の奥底には、この国のかたちをつくってきた千五百年の
 伝統に思いをいたすことがあったにちがいない。
 天皇の権威が政治権力に対して、その象徴的性格を担保することができたとき、この国
 は長期にわたる平和を実現することができたということだ。
・その当代の象徴天皇が、次代の皇位の継承者にために「象徴」の座を降り、この国の将
 来の平和的均衡の到来を見守りたい、と考えられたのである。
 「象徴」から「象徴」へ、その速やかな移行のための大仕事こそ、最後に果たすべき象
 徴天皇の使命とお考えになったのではないだろうか。
 「空位」という危機的状況をいかに回避して、「象徴」の座を次代の後継者に譲り渡し
 ていくか。それがこのたびのお言葉に込められた「退位」の真意だったと私は思う。

・「王殺し」とは、アフリカなど各地の諸民族にみられる慣行である。
 それは「神聖なる王の弑逆」と称され、さまざまな変形を伴いながらも、基本的な事実
 は、王が少しでも衰弱のきざしをみせると、容赦なく王を殺害するという点にある。 
・王と国王は一体的なものと考えられているから、衰弱した王を殺して、元気な新しい王
 を立てることによって王国全体の衰退をくい止める。
 なかには年限をかぎって、王位にあったものを任期満了とともに殺害する例もあるとい
 う。
・定年制、あるいは任期満了にともなう退官という制度は、まさに文明化された「王の弑
 逆」であろう。  
 組織の衰退と崩壊とを未然にふせぎ、そのエネルギーの回復を願うためには、王は弑逆
 されなければならないのである。
 流血の惨をもたらさずに、制度として退位を強制するのは、まさに文明の知恵というも
 のであろう。

天皇病むとき、国衰える
・日本の天皇制が世界の王制に例をみない長期にわたる安定性を保つことができたのは、
 それが「血統原理」と「カリスマ原理」の二本立てのシステムによって維持されてきた
 からだ。
・このところ皇位の継承をめぐって男系か女系かの論議がおこなわれているけれども、こ
 こでいう血統原理はそのような男系、女系をともに含む原理だからである。
・カリスマ原理とは、天皇霊の転移・継承における霊威の働きを指す。
 具体的には、王位承継時における王座や王冠をめぐる儀礼に関わり、わが国では大嘗祭
 儀礼における天皇霊の継承に関連する。
・女性天皇を擁立する事例についていえば、それが歴史上しばしばみられるのはすでに周
 知のことだが、それを可能にしたのが二つの原理の並立のシステムであり、とりわけ男
 系、女系をともに含む血統原理にあったことを忘れてはならない。
・また天武天皇が崩御したとき、そのあとを継いだ皇后が持統天皇として大嘗祭をおこな
 っていることも記憶されてよいだろう。
・ちなみに奈良時代の天皇は、重祚した称徳天皇をのぞけば、元明、元正、聖武、孝謙、
 淳仁、光仁など、いずれの天皇も生前に退位している。その間も、血統原理とカリスマ
 原理の二本立てシステムが有効に働いていた。
・「皇室典範」の改正による女性天皇の擁立が可能になれば、現下の問題としては皇太子
 と雅子妃の将来にもより安定した道筋をつけることにつながるはずである。
 また、今回の陛下のご発言にみられるように、「象徴天皇の務めが常に途切れることな
 く、安定的に続いていくことをひとえに念じ」というお気持ちに通ずる道でもあると思
 う。