戒老録 :曽野綾子

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この本は、年老いた人に対して、どうあるべきか、どう生きるべきかを説いている。厳し
い言葉も並んでいるが、その言葉によって励まされることも多い。時々読み返して自分を
戒め、老いた心と体に「喝」を入れながら、生きていきたいものである。

まえがき
・どんなによい人間であろうと努めても、人間は生きている限り、多少なりともこの地球
 を汚し、他の生命を奪い、他人が得るべきであったものを収奪して生きる運命にある。
・自分で生まれて来たくて生まれて来たのではない。だから少々の悪をやすこともお許し
 ください、と私はのんびりした気分で謝る。そういう心の姿勢以外に取る方法がないこ
 とを感じて来たからである。

きびしさによる救済
・「くれる」ことを期待する精神状態は、一人前の人間であることを自ら放棄した証拠で
 ある。放棄するのは自由だが、一人前でなくなった人間は、精神的に社会に参加する資
 格も失い、ただ、労わってもらうという、一人前の人間にとっては耐えられぬ一種の
 「屈辱」にさらされねばならぬもの、と自覚すべきであろう。
・自立の誇りほど、快いことはない。社会にしてもらってもいいが、そのほかの部分では、
 自分が自らすることの範囲をできるだけ広く残しておかなければ、欲求はますますふえ、
 そのために不満も比例して大きくなるのである。
・どちらかといえば順調な暮らしをしてきた人々の中に、高齢になっても、何とか自分の
 最盛期の生活方法を保ちつづけようと悪あがきをする人がいる。しかし、人間と、その
 外側に社会との間にある原則は、そうそう変わるものではない。自分でできぬことは、
 老年といえども、無理なのである。  
・老年は自分中心になるのである。老人は、正直なところ、外界にもはや旺盛な興味を持
 つことができない。自分とは無関係の外界に興味を持つという能力は男性的なものであ
 って、女性には、やや欠けている力だから、女が年をとると、いよいよ、外界は希薄に
 なるのである。  
・「自分が正しいと思うことは、他人もそう思わなくてはいけない」というような科白を
 を前にすると、私は正直いって困ってしまう。それはそうなのである。しかし、そのよ
 うなことが世の中に通るのだったら、地球は、ずっと以前に別の姿を示していただろう。
 何が正しいか正しくないか、人間にはわからないことも多いし、たとえわかったとして
 も、正しいことも正しくないことも、ともに通ったり、通らなかったりするのが、歴史
 というものであり現世というものであった。  
・親切だからいいのだ、ということはない、と私ははっきり言い切りたい。親切から発し
 ても、悪い結果を生むことも多い。善意の押し売りは、悪意よりも始末が悪いことがあ
 る。幼児性から、そのまま老年性になだれ込んで、壮年の厳しさを一度も経なかった、
 しあわせな老人は、とくに注意しなければならないのである。  
・50歳になった時、私が感じたことは、もうこの年になれば人はそれぞれの長い歴史を
 持っている、ということだった。それを改変させようとすることは思い上がりである。
 50歳になれば、残り時間は、もしかすると短いのだから、その人の生きたいように生
 きることを承認したい、ということだった。  
・老人の愚痴は、他人も自分もみじめにするだけである。愚痴は土砂くずれのようなもの
 で、言い出すととどめがなくなる。
・社会には、あまりにも違った人がいるから、その人たちの存在を有意義にし、一緒に仕
 事をするためには、当選なことながら、人間は誰でも譲ってきたのである。そしてそれ
 はみじめなことでも少し悲しむべきことでもない。それによって性格が鍛えられること
 はあっても、普通は歪んだりすることはないのである。
・外見だけでもいい。心から明るくしろなどということはできない。人間は、そのような
 嘘ならおおいについていいのである。明るくふるまうことは、外界への礼儀である。表
 と裏の差に傷ついたり嫌がったりするのは、センチメンタリズム以外の何ものでもない。
・老年においては、病気そのものよりも、療養生活が恐ろしい。ほんの1、2週間寝るだ
 けで、病後めっきり、足が動かなくなってしまった、というような結果になることが多
 い。とにかく一日中寝っぱなしということだけは何とかして避けたい。5分10分の歩
 行でも、毎日歩いていれば、足の力の衰えは、多少防げるかもしれない。
・人間には三つの時期がある。育てられる時代と、育てる時代と。私たちは食物と知識を
 与えられて一人前に育つ。それから徐々に他人を育てる側に廻る。まだ老境の入口にあ
 る人は自分より高齢の人を立て、年をとるにしたがって、しだいに若い人にその場を譲
 る気持ちを持つのが自然である。    
・老人になっても、あらゆることについて自分が前面に出たがる人がいる。それは前向き
 でいい生き方かもしれない。しかし、大人気がない。   
・年寄りになればなるほど、今よりももっと、深く絶望すればいいのである。決して思い
 通りにはならなかった一生に絶望し、人間の創り上げたあらゆる制度の不備に絶望し、
 人間の知恵の限度に絶望し、あらゆることに深く絶望したいのである。そうなってこそ、
 初めて、死ぬ楽しみもできるというものである。
・淋しさは、老人にとって共通の運命であり、最大の苦痛であろう。皮肉なことに、老い
 てなお、子供が独立していなかったり、金銭の苦労があったりする人は、この淋しさと
 いう苦しみを免除されている。淋しさは一応、恵まれた老人に課せられた、独特の税金
 だと言ってもいいかもしれない。   
・老齢の美しさは、譲ることができる、というおおらかさであろう。自分が、私が、と気
 張って前にしゃしゃり出る年代ではない。   

生のさなかで
・一人で遊べる習慣を作ることである。年をとると、友人も一人一人減っていく。いても、
 どこか体が悪くなったりして、共に遊べる人は減ってしまう。誰はいなくても、ある日、
 見知らぬ町を一人で見に行くような孤独に強い人間になっていなければならない。
・死後のことを心配することは、生きている人への圧迫になる。死のたった一つのよさは、
 もはや、何事も感じなくなることであろう。私の骨がどこにどうなっていようと、もは
 や、何の痛痒も感じないということなのである。今、墓を建ててもらったところで、い
 つかは無縁仏になる。
・私は老人は、自分の所有する財産を使い切って死ねばいいと思っている。私は個人主義
 もうまく使えば、老人と若い世代と双方の独立心を育て、肉親でありながら、というよ
 り、肉親であるゆえの醜い金銭的争いをしなくてすむと思うからである。老人のほうも
 子供たちの世界に入りすぎてはいけない。いい年の息子の仕事が多すぎるとか、そんな
 に会社のために働かなくてもいいとかいうような口出しは、厳に戒めるべきである。
・子供が30歳を過ぎたら、もうその生活一切に注意を与えたり、批判する必要はないよ
 うに思う。まちがったら、当人がその責任を負い、高い月謝を払ったと思って苦しめば
 いいのである。親にできることは、私は祈るだけだと思っている。そして子供が仮に犯
 罪者にでもなり、あらゆる世間から完全に捨てられた時には、一切の批判を捨ててひそ
 かに救えばいいのである。親だけが、この世でこういう時に批判を捨てて救うことのゆ
 るされる唯一の存在だからである。   
・年を取れば、自然何かと人手を借りることが多くなる。その場合、多少でも自分に経済
 力があれば、できるだけ他人の行為を当てにせず、仕事と思って事務的にやってくれる
 人を頼むべきなのである。他人の好意にすがることが、ずるずると自分の独立をくずす
 ことになる。   
・感謝ができるかぎり、目も見えず、耳も聞こえず、体も動かず、垂れ流しであっても、
 その人は厳然として人間であり、美しい、みごとな老年と死を体験することができる。
・苦しみの中から感謝することは容易ではない。しかし、感謝こそは、最後に残された高
 貴な人間の魂の表現である。そして感謝すべきことの一つもない人生はない。誰の力で
 ここまで生かされてきたかと思えば、誰かに何かを感謝できると思う。
・年寄りになったら、身なりなどどうでもいいようなものであるが、服装をくずし始める
 と、心の中まで、だらだらしても許されるような気になるものである。比較的若いうち
 から、女は靴下をきちんとはき、下着も省略せず、外出の時にはアクセサリーその他を
 揃えることを当然とする癖をつけておくことである。
・いわゆるむさくるしい、とか、じじむさいとかいう表現は、老人自身の心身の状態とは
 別に、身の回りに変化が少なくなって、停滞した感じを持つようになったときに使われ
 るのである。
・だらしのない人間の部屋は、決して何もない、という感じにはならない。あらゆる不用
 なものが、生活の空間を占領していて、もっと積極的に使えるはずの場所をふさいでい
 る。人間は棄てることのほうに勇気がいるのであろう。
・物を捨てると、新しい空気の量が家の中に多くなる。それが人間を若返らせる。一般に、
 品物は一つ買ったら一つ捨てるべきであろう。一つとっておいたら、古いものを一つ捨
 てねばならない。限られた面積に住む庶民生活の、それが道理である。
・払える人は、何歳になっても、時の政府がどんなにダラクしても、自らの尊厳のために、
 自分にかかる費用は払うべきだし、与えられる特権も辞退すべきである。タダのバスな
 ら使わねば損、老人医療は安いのだから、すぐに病院に行く、という心の姿勢はそれだ
 けで老人くさい。
・実際に、老人の間で常に問題になるのは、自分の持っている金をどのようなテンポで使
 っていったらいいか、ということである。早く死ぬつもりが、長く生きすぎて一文なし
 になって余生を送らねばならぬと困る、という口実のもとに、爪に火をともすようにし
 て、倹約して暮らし、ついに自分の貯えた金の恩恵をまったくこうむらずに、何もして
 くれなかった甥や姪に残して死んでいく老人がいかに多いことか。それは滑稽である。
・よく日記を残したり、遺書にくどくど感情的なことを書き残す人がいる。経済的な配慮
 に関しては、事務的に処理するのもいいが、他のことは何も言わずに死ぬ方が美しいよ
 うに思う。 
・引退した今、会社にも、組合にも、役所にも、どこにも影響力を持っているわけではな
 い。だから、今さら、哲学の本を読んだって、世界情勢を知ったって、源氏物語やジェ
 ークスピアを読破したって、どういうことがあるのだ、という人がいるが、私は全くそ
 う思わない。それは自分でおもしろがるためである。酒を飲むのに、いちいち会社や組
 合や役所のことなど考えないのと、同じことだ。     
・私は、人間の一生に与えられるものに関して、ずいぶん謙虚になってしまった。一生の
 間に、ともかくも雨露を凌ぐ家に住め、毎日食べるものがあった、という生活をできた
 のなら、その人の人生は基本的に「成功」だったのである。
・人間がそれぞれに与えられている能力ほど違うものはない。体力や気力をしっかりと持
 っている人は、自ら鍛えたのでもあろうが、もとはと言えば、鍛錬に耐えることができ
 る性格や体質を与えられたのである。すべて自分の力でそうなったのではないから、思
 い上がりたくはないと思う。
・直接非難の形をとらなくても、一方的に、自分の体力や気力を標準にして、自分もこれ
 くらいのことができるのだから、相手にもできそうなものだ、と思い込む人がいる。こ
 とに高齢になると、意気昂揚している人はますます昂揚し、気持ちの沈む人は人一倍沈
 むものである。その差の開き方がはげしいから、くれぐれも、自分の体力、気力を物差
 しにして、他人の生き方をきめつけることは避けねばならない。
・もはや、急ぎ足に何かをする時ではない。急ぐことは、老齢に何のいい結果ももたらさ
 ない。残り時間は少ないのだから、人生のレールは敷かれているのだから、ゆっくり、
 怠けず続けるだけで充分である。老人のあらゆる心身の事故は急ぐことから起きる。
・ここまで来て何を急ぐのか。老人が約束の時間に多少おくれたからといって文句を言う
 人はあまりいないであろう。急ぐより待つほうがいい。
・老年は一歩一歩、歩きながら味わうことのできる年なのである。
・それ以前、四十代五十代は、人間は急がねばならない。その間になすべきことをしてお
 かないと、もう肉体がついていけなくなる。四十代になって、なにか打ち込むものを持
 たぬ人は、人生を半分失敗しかかっている。
・老化の一つの特徴は、外界がなくなることである。つまり外界を受けとめられないか、
 あるいは自分のことに手いっぱいでひとのことをまったく思わないか、どちらかである。
 私たちは外界と常に接触して生きている。外界を持つとは、お互いが眺められる存在で
 あることをいう。それゆえ、そこへ出て行くには努力と緊張がいる。
・人間にとっても動物にとっても、生きるということは、水や餌だけではないのである。
 危険や不安の存在が必要な緊張を生み、それが人間をも含むすべての動物の整理にいい
 効果を生むらしい。歴代の総理や政府が、「安心して暮らせる社会を作りたい」などと
 いうたわごとに近い無責任なことを言い、それをまたいい年をした大人や老人が歓迎す
 るという図式が繰り返されるが、安心できる社会などというものがこの世に出現するこ
 とだけは決してない。
・歩くことによって人間は、自分が入っていける世界を拡大することができる。新しいも
 のが見られ、珍しい体験をでき、知らない人と親しくなれる。これが続くかぎり、人間
 は孤立することがない。     
・老年(四十を過ぎれば老年が始まる」の悲しさは、若いときにはほうりっ放しでもよか
 った体の維持に、手数のかかることである。ことに老年は、体の各部が縮こむ方向に
 退化する。頭をぼけさせず、かつ肉体的に他人に厄介にならぬためには、つね日頃家具
 や靴や機械類の手入れを怠らないように、体の手入れもしておかなければならない。毎
 日同じことを、おもしろくなくても続ける根が大切である。やがて、それが爽やかに感
 じられるようになることも、本当である。   
・高齢者の行動には、若い人にはない特徴がある。若者はゆっくりすることができないが、
 老人は緩やかな行動をとることがうまい。根本的に老人は、老人に適した生活方式と行
 動のパターンがある。だから、若い人に同行したがることは自戒して、楽しみは自分の
 テンポで考えたほうがいいと思う。ことに団体行動をとる時によほど注意しなければな
 らない。体力、気力ともに、自信のある人は別として、旅行は誰かに合わせるというこ
 とだけで、一つの仕事になるからだ。   
・若いうちこそ、旅先で不慮の死を遂げることを恐れる。夫がおり、両親がおり、子供が
 いる。死ぬことも遠慮しなければならなかった。しかし、寿命が近くなって、どうして
 怖がることがあろう。どこで死んでも同じである。故郷で死ねば何かいいことがあると
 いうわけではない。   
・外国で死んだら金がかかるといって心配する人がいる。今日の状態では、それも準備し
 ておけば簡単である。自筆の火葬承諾書を携行すればいい。そうすれば、どこの国でも、
 お骨にしてくれる。お骨なら運賃もさしてかからない。航空会社が、安い値段で、小さ
 な箱詰めにして日本に連れて帰ってくれる。   
・どうしても孫の結婚式に出たい、というのは常に心に張りを与えるものだが、正装して
 でかけることが義務に思われるところには行かないほうがいい。大切なのは、死者、結
 婚する人、病人のために心から祈ることである。それはどこにいてもできる。心は愛す
 る人とどこにいても一致できるのである。   
・隠遁の生活は決して、ある性格の高齢者にとってよくない。それは気持ちをしずんだも
 のにし、うつ病的傾向を助長させる。できれば町の騒音の真っ只中にある老人ホームも
 必要である。   
・「隠遁の生活」風にみえるものを、本来の姿で愛せるのは、田舎の出身者だけである。
 それはしかし、古里へ帰るだけで、隠遁ではない。彼らは、自然の中の生活というもの
 が、どんなに厳しいかを、知っている。   
・老人の多くは都会育ちだということに、まもなくなるであろう。彼らに必要なのは、き
 れいな空気よりも、おそらく人臭さであり、雑踏の気配そのものなのである。

死と親しむ
・私には何のいいこともなかった、と言う人もいるかもしれない。しかし、この世で、ま
 ったく何のいいこともなかったという人は稀である。どのような境遇の中でも、心を開
 けば必ず何かしら感動することはある。それを丹念に拾い上げ、味わい、そして多くを
 望まなければ、これを味わっただけでまあ、生まれないよりはましだった、と思えるも
 のである。
・私の出発点はいつもゼロから出発する。ゼロから見ればわずかな救いも、ないよりは遥
 かにましなのである。私のは、足し算の幸福であり、友人がたとしてくれたことは、引
 き算の不幸のように私は思う。  
・死については、老いてからだけでなく、子供のうちから考えさせることが必要であると
 私は思う。  
・老いも死も願わしいことではないが、すべて願わしくないことを超えるには、それから、
 逃げていては決して解決がつかない。解決は正視することから始まるのである。
・十代からみたら、四十代はもう立派な、「じいさん、ばあさん」である。そんなことを
 言われて、なぜ、おたおたしなけえばならないのだろう。老いが不意に来たと思う人は
 用意が悪いのである。あるいは自分の体力や能力を過信していたのである。
・私は正直言って人生五十年というのは適当であったかなという気もします。人間の体は
 五十歳までならほっておいてもあちこち何となく保っている。というより、あまり補修
 に手間取らない。しかし五十歳を境に、かなり丈夫な人たちが、あちこち病気をするの
 を見ると、五十年というのは、肉体的にはやはりいい区切りなのかな、と思った。五十
 年以上の肉体を使う場合には、絶えず錆びつかないように、注意していなければならな
 いから、その手数がめんどうくさく感じられたのである。
・どこで人生を打ち切るかということは好みによる。その人の精神と肉体の強さにもよる。
 しかし医学も、長生きさせてばいいということで済まなくなったのは、おもしろいこと
 である。 
・人間はできる限り、自分で立って歩いて、自分お用を足すべきだ。それには時間もかか
 るし、看護人はじれったくなって、車椅子を持って来たくなる。しかしそれに逆らって
 も、ほんとうは歩かねばならない。  
・死を恐れるのは当然だが、死ぬのは一回だけである。ということは、たいていの場合は
 治るということである。それを思うと、治さねばならぬし、また事実治ってしまうので
 ある。体は悪いことは何よりも優先して直さなければいけない。医者へも行かず、ひた
 すら体が悪いと訴える老人がいるが、それでは周囲が困ってしまう。老年の病気は、な
 かなか治りにくいものではあるが、それでもやってみるほかはない。病気に関して的確
 な治療が見つからないのは何も老人に限ったことではない、ということも忘れてはなら
 ない。  
・人間は治らなくても、治そうとする過程が大切なのである。振り返ってみれば、私たち
 はみんな過程に生き来たではないか。さまざまの野心や夢を持っていたが、あまり思い
 どおりにはならなかった。しかしその経過が人生そのものであった。
・私たちは、個人から、社会から、常にいわれのない扱いを受けているのである。善い面
 においても、悪い面においても。世の中には復讐の物語も数多くあるが、決して復讐が
 道徳的にいけないからではなく、それには本質的に心を惹くものがない。ちんまりとそ
 れらしく作られてはいるが、現実に似せて作られているというだけで、決して現実的で
 はない。なぜなら現実はもっと奔放で雄大なものであり、ちまちまと金銭納簿のような
 損得勘定がひと目で出てくるようなつじつまの合いすぎたものではないからである。   
・老人の自殺には面当て自殺的な要素を含むものが多い。それも、その面当ての対象は、
 何もしてくれなかった他人へではなく、むしろ、わずかながら面倒を見てくれる身近な
 人間に対するものなのである。しかし、死はすさまじい拒絶である。未来永劫、もうお
 前とは口をきかぬ、ということである。たとえどのようなひどい扱いを受けたとしても、
 死を以て報いなければならぬほどの所業はない。どんな理由があろうと、自殺は迷惑千
 万である。首吊りをされた部屋など気味が悪くて使う気にもならない。人の飛び込ん
 だ井戸、首をつった木など、後どうずればいいのか。電車に飛び込んでも、海へ入水し
 ても、確実の他人と社会に迷惑をかける。どうして死ぬときに、それほどまでに迷惑を
 かけねばならないのだろうか。待っていれば、もうすぐ自然に死ねるのに。
・無理な若作りをすると、他人はその努力のためにだけにも、「お若いですね」という。
 しかし、内心は困っているのである。作りすぎると逆に老化はよく目立つからである。
・老人の中には、自分に与えられている生活のよい点をほとんど感じられなくなっている
 人がよくある。よい点は一つもなく、悪い点ばかり身にこたえる。もちろん、一般の市
 民生活では、言うこともない隠居の生活を遅れているという人も数少ないであろう。し
 かし寝たきりで、世話をしてくれる身寄りもなく、お金もない、という老人に比べれば、
 たいていの年寄りは、ましな生活をしているのである。
・終の棲家は、やはり子供のところなのだ、それ以外の他人は、はっきりと言うとみてく
 れるわけはないのだ、という程度の冷静な判断はもっていることが望ましい。少年を老
 人は夢を見る。少年の夢はまだしもご愛嬌だが、老人の夢ははた迷惑である。
・毎日世話をし続けるというのは、なみなみならぬ苦労である。自然、お互いにアラも見
 せる。毎日毎日、常に優しくしているなどということも人間にはできかねることである。
 一日だけなら、どんないい人にもなれる。持続してくれることがどれほど大事かを思う
 べきである。
・老人になって最後に子供、あるいは若い世代に見せてやるのは、人間がいかに死ぬか、
 というその姿である。立派に端然として死ぬのは最高である。それは、人間にしかやれ
 ぬ勇気のある行動だし、それは生き残って、未来に死を迎える人々に勇気を与えてくれ
 る。それにまた、当人にとっても、立派に死のうということが、かえって恐怖や苦しみ
 から、自らを救う力にもなっているかもしれない。しかし、死の恐怖をもろに受けて、
 死にたくない、死ぬのは怖い、と泣きわめくのも、それはそれなりにいいのである。
 人間は子供たちの世代に、絶望も教えなければならない。明るい希望ばかり伝えて行こ
 うとするのは片手落ちだからだ。要するに、どんな死に方でもいいのだ。一生懸命に死
 ぬことである。それを見せてやることが、老人の残された、唯一の、そして誰にでもで
 きる最後の仕事である。  
・人間の精神が、柔軟で、深く思いまどい、相手の立場がわかりすぎれば、人間は、決し
 て断定的に、強くなれないものだと私は思う。もちろん個人差はあるが、どれほどにも、
 相手の立場に立てること自体が、人間の行動をむしろ歯切れ悪くさせるのである。
・働くということに関して、老人はもっと虚心坦懐に受け止めなければならない。「働き
 たくもあり、怠けたくもあり」というのが、壮年でも老人でも人間には多いのではない
 だろうか。一般的に言って、少しでも働く場所があり、働く機能をいささかでも持って
 いたなら、働けることに私は感謝すべきだと思う。世間では、老人を働かすのは体裁が
 悪いというだけの理由で無理に社会から引退させる家族がいるが、それは残酷である。
 もっとも、年をとるにつれて、社会的に大きな責任を持つようなポストからは、老人自
 らが引く心構えを持つことが望ましくはあるが。
・働ける栄光は人間として最上のものと思う。私としては死ぬ日まで何かして働いていた
 いと思う。肉体の労働とともに、頭脳の労働も実に大切である。肉体よりも、頭の老化
 が早くも四十代から始まっている人も時々見かける。物覚えが悪いとか、人の名前を忘
 れる、とかいうことではない。会議などに連なっていると、大局的な流れをつかめず、
 小さなことに固執し、あるいは他人の立場がわからず、無関心になったり、狭量になっ
 たり、何とかして無理やりに自分の立場を相手に認めさせようとしたりする。
・頭を鍛える最上の方法は、たえず抵抗のある状況に自分を置くことである。つまりいや
 な思いをすることである。ひとからいやな目にあわされて旗がたったら、心から感謝す
 べきなのである。これくらい心身の賦活に役立つものはない。
・小金を持っている老人たちが、自分は何歳まで生きるのかわからないから、今ある金を
 使えないと言って、何にも使わずに、一生倹約ばかりして生きている例は実に多い。
 老人たちが金に執着する理由は、子供からも社会からも見捨てられた時、最後に頼りに
 なるのは金だけだという考えから成り立っているのだが、それほどのひどい目にあうよ
 うになったら、金などあっても何もならない。もし使い切った後に、まだ命があって、
 そして、まわりに自分を見てくれる人が誰もいなかったら、その時こそ、もうこんな薄
 情なこの世に生きていなくてもいいではないか。その時は私は、着たきり雀で、歩き出
 すだろう。目的はなく、ただ、これと思った方向に力つきるまで歩くのである。途中で
 雨にあい、力つき、病気になったりしても、老人ならば、そうそう長い間、辛い目にあ
 わなくても、カタがつくというものである。この最後の行進は、本当に最後のものだが、
 昆虫の死のようで、そう悪くはないような気がする。この最後の更新の後の野垂れ死に
 を決意しさえすれば、それ以上、怖いものはなくなるはずである。金も適当に使える心
 になるはずである。それがいやなら、ちびちびとお金を出ししぶり、何も減らさず、手
 付かずで残してつまらなく死ぬほかはない。    
・金も身よりも何もない老人が、何らかの理由で生活できなくなったら、あらゆる知人や
 周囲の人にタカり、かつ、そのうちに誰かのところに転がり込むことである。少々乱暴
 な考えかもしれないが、それがそこまで生きてきた人間の権利だと思う。そこまで追い
 つめないように政治的配慮ができれば、それにこしたことはないが、黙って死んでいく
 くらいなら、周囲の人に迷惑をかけることが、むしろ義務である。
・人間の一生の幸福感の総量は、似たり寄ったりのものなのだろうと私は思っている。何
 不自由なく見える人ほど、不満の度が強いということがあって、それは当人の心がけの
 悪いせいだと言えば言えるのだが、幸福というのは主観でしかありえないから、やはり
 当人は不幸なのである。   
・どんな客観的不幸の中にも、さまざまな形で救いは用意されており、どんな光の中にも、
 不安が隠されている。
・私たちはつまり何も見えていないのだろう。私たちがこの世で確実に掴み、味わった、
 と思う一切のものも、それは果たしてそれほど重いものだったのだろうか。
・誰にとっても、悪い一生ではなかった、と思うことは可能なのである。死刑囚ですら、
 そう思いうる可能性はある。世の中は何よりも、決して完全ではないが、おもしろいと
 ころだった。少なくとも私は今この年になっても、くだらないことによく笑っている。
 悲しいような、苦しいことさえもおかしく思えることがあった。反対に、どんなによさ
 そうに見えることも決していいことばかりではない。仲の悪い夫婦は、一方の死によっ
 て、確実に片方が救われるが、仲の良い夫婦は、片方の死によって、自分が生きながら
 死ぬ悲しみを味わわねばならない。 
・生命が私たちに好ましいものであるなら、死もまた私たちにとって、不快なものである
 はずがない。なぜなら、死は生命を創造した巨匠の同じ手によって創られたのですから。
・自分の魂のために祈ることは、今日から、つまり少しでも健康なうちからすぐに始めた
 ほうがいい。私は毎晩、まともな祈りのできない時には、「今日までありがとうござい
 ました」とたった一言の神への感謝だけはすることにしている。
・一生涯、努めること、というのは、決して若い世代のご機嫌とり用の行動をせよ、とい
 うことではない。それは何歳であろうと、人間の問題である。人間が人間をやめる時ま
 で、あらゆる職業、あらゆる年齢、あらゆる立場、あらゆる性格の人間に共通して課せ
 られた、人生を濃厚に味わう方法なのである。 
・道徳と徳はまったく似て非なるものである。私は昔から道徳というものを信じなかった。
 物を盗まないということは守られなければならないが、私は十代の頃から本当に食べ
 られなくなった時には、物を盗め、と教えられた。生きることは人間の権利であり義務
 である。それゆえに、人を殺さない、などということは道徳などという一種の規則では
 ない。それは、人間の存在の根底を支えるものである。
・徳は、自己の存在を永遠性のうちにいかに位置づけるかということにかかっている。蛇
 足かもしれないが、徳は他人の評価を目標としない。しないというより、することが不
 可能なのである。したがって位置づけというのも、完全に、その人の美学的な心の中だ
 けの認識にもとづくものである。自分はどれだけえらいことをしてきたかということを、
 勝手に決めることではない。美というものは、その当人にしか意味のないものである。
・徳は真の意味でのエゴイズムである。しかしそのエゴイズムは、他者に向かって自然な
 温かい拡散性を持つエゴイズムである。
・五十、六十を過ぎると、人間は勝ち目のない闘いに追い込まれる。つまり人間はもう若
 くなることは決してないのだから、これから先、体力はどんどん弱くなり、能力は衰え、
 美貌は失せ、病気はしだいに治りが悪くなる。
・人間は幸福によっても満たされるが、苦しみによると、もっと大きく成長する。ことに
 自分に責任のない、いわばいわれのない不運に出会うと時ほど、人間が大きく伸びる時
 はない。老年に起きるさまざまの不幸は、まさにこの手の試練である。四十年、五十年、
 六十年あるいはそれ以上の体験はそれを受ける力を用意してくれているのである。つま
 り老年の苦しみは、神が私したちに耐える力があると見込んで贈られた愛なのである。
・安楽死を拒否する理由には、たった一つ、最後まで生きてみなければわならなのである。
 最後の一瞬で、その人の生きてきた意味の答えはでないかもしれなのである。その可能
 性を途中で奪う権利は誰にもない。 
・老年は必ず経過なのである。初めから老人に生まれるという人は特殊な病人でないかぎ
 り通常はありえない。それを思わずに、老年だけを切り取って、問題にしようとする時、
 そこでは、人間は自己を喪失し、老年の絶望と告発が生まれる。 
・人間の一生において、成長期が必要なように、人間の精神の完結のためには凋落の時期
 もまた、不可欠なものなのである。この不完全性、逃れたい悲しみを、どんな人間も実
 感として得られるような仕組みが老年という形でできているからこそ、人間は人間とし
 て、人並みに悩み、考えることを知ったのである。それゆえに、凋落はむしろ、人間に
 対する何かの愛でさえある。

あとがき
・実は、どんなに用意しようと、私たちはやがて目がかすみ、耳が遠くなり、すべての機
 能が悪くなる。本当の老年の到来を迎えたとき、私はたった一つの態度しか思いうかべ
 ることができない。それは汚辱にまみれても生きよ、ということである。
・人間らしい尊敬も、能力もすべて失っても人間は生きればいいのである。尊敬や能力の
 ない人間が生きていけないというなら、私たちの多くは、すでに青春時代から殺されな
 ければならない。 
・人間の一生は無駄をすることである。死という最終目標が映っている人間にとっては、
 もし無駄はいけないというのなら、最初から生きなくてもいいのである。
・老いを体験するのも、もう癒されることのなさそうな病いと闘うこともまた、人間とな
 るために条件の一つであることにはまちがいない。そのような一種の「望ましくないこ
 と」を体験するにあたり、もはや当人は老いのために、人間的感性を失って惚けている
 とすれば、それこそ「万歳!」ではないか。 
・日本人は一般に政府をあまり信じていない。税金をうんと取られても、社会保障が行き
 届いていれば、万が一のときの貯えはいらないのだから、別に困ることもないはずであ
 る。言い換えれば、現在の方式は、社会保障はあまりしないから、その代わり税金を比
 較的安くしてめいめいで貯えよ、という型である。そして、これは確かに、日本人の感
 覚に合っているもののように思う。
・生と死は、老いの一時期に、急に濃密になってくる。それをいかように受けとめるかは
 個人の、たった一人の事業だ。それはうまくやったほうがいいとは思うが、うまくやれ
 なかったとて、別にどうということはない。人間の成功と失敗の差は、実は意外なほど
 小さいと私は思う。
・世界中に、日本ほど政治の理念にも日常の生活にも神のいない国は珍しい。いなくなっ
 てもやっていければそれで構わないのだが、これからさき日本人は、物質が解決し得な
 いさまざまなことに出会うであろう。「人はまずパンで生きる」と思い、それを実行し
 て来たあとに、「人はパンだけで生きるものではない」ことが強烈にわかって来る。そ
 して、この肉体と精神の飢餓感はどちらをも選び難いほど辛いものだということも、そ
 の時に初めて実感するのである。パンがあれば解決する、と思えた時代はまだしも楽で
 あった。物がありながら精神の飢餓を救うことのほうが、社会にとっても個人にとって
 もはるかに困難な作業なのである。
・私はこのごろ、晩年における四つの必要なことは、許容と納得と断念と回帰であろうと
 思うようになった。すなわち、この世に起こり得るすべての善も悪も、何らかの意味を
 持つと思えることが許容であり、自分の身に起こったさまざまのことを丹念に意味付し
 ようとするのが納得である。望んでも与えられなかったことが、どの人間の生涯にもあ
 り、その時執着せずにそっと立ち去ることができれば、むしろ人間はふくよかになり得
 ると思えることが断念である。そして回帰は、死後どこへ還るかを考えることである。
 無でもいいが還るところを考えないで出発することはおろかしい。
・今日、食べるものがない人にとって、夕飯にひと切れのパンにありつくことは、全世界
 を満たすほどすばらしい偉大な幸福を手にすることである。しかし贅沢になれた日本の
 子供にとって、おかずもなくバターもないパンひと切れを夕食に与えられることは、不
 満と惨めさの極みになる。日本の年寄りさえも、このからくりのわからない人が増え始
 めた。豊かになればなるほど、不満な年寄りは増えるだろう。社会が整備されればされ
 るほど、社会に不満を抱く人も多くなるだろう。
・例外なく誰もが、才能も金も着物も体の強さも、何も持たずにこの世に生まれたのであ
 る。それを思えば、すべて、僅かでも与えられていることは偉大な恩恵であった。老年
 の幸福は、この判断ができるかどうかだろう。老年は、幼児と違って、自分で幸福を発
 見できるかどうかに関して責任がある。最後の腕の見せどころなのである。