玄冬の門 :五木寛之

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「玄冬」というのは、人生を四つに分けて考えたときの一番最後の時期である高齢期・老
年期にあたるという。現代の人の年齢で考えれば、65歳あるいは70歳以降にあたると
いうことらしい。その「玄冬」期をどう生きるかを説いたのがこの本のテーマである。
この本の著者の主張は、簡単にいえば、「自立した老人になれ」ということらしい。一般
に、高齢者は孤独にならないように、できるだけコミュニティなどに参加しよう、という
説が多いが、それとは真逆である。
考えてみると、まだ体の自由がきく前期高齢者の場合は、コミュニティなどに参加するこ
とも可能な人が多いのだろうが、老化によって体のあちこちに不具合が出て、外出もまま
ならない後期高齢者にとっては、もはやコミュニティなどに参加するなどということは非
現実的と言えるのではないだろうか。そう考えると、老人はできるだけ自立して孤独でも
生きていけるようにすべきだというこの著者の主張は、高齢者に適った、無理のない生き
方のような気がする。
私がこの本を読んでいちばん感動したのは、「置かれた場所で散りなさい」という言葉で
ある。なるほど、「置かれた場所で咲きなさい」よりも、高齢者のとっては「置かれた場
所で散りなさい」のほうが、より身近で、こころにぐっと来る言葉であると私には思えた。


未曾有の時代をどう生きるか
・人間の一生をいくつかに分けて考えるというのは、世界のどの国にも見られる慣習です。
 中国には、
  青春
  朱夏
  白秋
  玄冬
 という分け方があります。
・これには二説あって、まず玄冬から始まるという説もある。玄冬というのは、生まれた
 ばかりの、まだ何もわかっていない幼い子供のことで、生命の芽生えがそこから生まれ
 てくる、というのがひとつの説です。
・朱夏は、社会に出て、働き、結婚して家庭をきずく。そして社会的貢献を果たす。人間
 の活動期、フル回転の季節です。
・白秋は、人生の一通りの役割を果たしたあと、生々しい生存競争の世界から離れて、秋
 空のようにシーンと澄み切った、静かな境地に暮らす時期のことです。
・ただ、私はやはり、玄冬というのは高齢期、老年期だと考えます。
・特に最近、にわかに人口問題が普通の人の話題にも上がるようになって、少子化という
 ことがさかんに議論されるようになりました。いわゆる生産人口、働き盛りの人たちが
 目に見えて激減していく。今まさに私たちは、未曾有の事態に直面しているわけです。
・国でも慌てていろいろな対策を講じようとしている。それでも、人口減少は、簡単に止
 めることのできない流れだと思います。その一方では社会の高齢化が急激に進んでいく。
・いま、社会全体に大きな不安というものがわだかまっているような気がします。巷では
 やたらと家庭用金庫が売れているなどという話を聞くと、もう人々は銀行さえも信用し
 ていないのではないかと思われる。そんな中で、下流社会、下流老人、老後破産などと
 いうことが盛んにテレビや雑誌で語られるようになってきました。人々が大きな不安を
 抱いていることは間違いないわけです。
・不安の原因は主に三つぐらいでしょうか。一つは健康の問題。ふたつめは、この国は大
 きな災害に見舞われる可能性が高いということです。もう一つ大きな問題だと思うのは、
 昔の日本が、あるいは、少し前までの人々が当たり前のように確信していた未来図がい
 まはない。つまり、死後の世界とか、後生とか、来世とか、そういうものに対する確信
 が、現在はほとんど失われているということです。お盆には墓参りをするけれど、実際
 には、特定の信仰や宗教には無縁の人が大半でしょう。
・いまは人が生きさせられる時代なんですね。常識的に考えても、私たちは九十歳まで生
 きる可能性が非常に大きいわけです。しかも、九十歳までの生き方が見通しがつかない。
 元気で、孫たちに囲まれて、楽しく過ごすというような九十歳ではなくて、障害をかか
 え、病気をかかえ、介護の中で生かされるような未来像もあります。
・安定した、希望に満ちた生活というのが考えられない。核家族化していく中で、家族の
 絆というのもなくなっていく。言ってみれば孤独死を覚悟して生きていかなければいけ
 ないのに、まったく新しい人生観、つまり、後半生を中心にして考える人生観というも
 のが、現在まだはっきりと確立されていない。
・いま、非正規労働者の数が四割ぐらいですが、やがてそれが五割、六割になっていく。
 さらに労働の流動化と言いますが、簡単に職が失われるということも出てきます。生涯
 雇用が期待できない時代に入ってくるのです。「老後」と言ってしまうと本当に最後の
 季節という感じがしますが、これからはそうではありません。白秋・玄冬と考えれば人
 生のまだ半分なのです。
・我々、戦後に青年期を送った人間は、家族の絆とか、血縁の絆とか、地縁の絆とか、そ
 ういうものから逃れて自由な個人として生きるということが一つの夢だった。ですから
 絆というのは、自分を縛る鬱陶しいものという感覚が強かったのです。いまになって
 「絆」なんて言われても、という気分がある。そういうことではなくて、私は、これか
 らの人は孤立しても元気に生きていくという道を考えるべきだと思うのです。
・いま一番大きな問題になっているのは、高齢者が若者と対立しているという構図ができ
 つつあることです。定年を延長すればするほど、若い人たちの正規の就職の窓口を狭く
 するわけですから、そこには理由があります。
・単に人数が増えただけではありません。現在六十五歳以上の人々はかつてのような「穏
 やかで口数の少ない、弱々しい人たち」だけではなく、「豊かで元気な老人階級」とし
 ての存在感を急速に高めつつあります。
・圧倒的な多数を占めるこの階級は、実際には、下の世代が支える年金で支えられていま
 す。またその「命と健康」をつなぐための高額な医療費が、国家財政の大きな負担とも
 なっています。「若い世代にツケを回すな」というスローガンとは裏腹に、この世代の
 増大は、とどまるところを知りません。
・ですから、むしろ、「こういう高齢者が増えるのならば、自分たちの理想だ」と若者た
 ちが思えるような、そんな高齢者像を造らなければなりません。それには、やはり自立
 心です。自分は自立して生きていくと心に決めて、むやみにやたらと若い連中とのあい
 だに連帯を求めない。首を突っ込んでいかないことです。
・まず孤独者として生きていくという、その覚悟を決めて、自分一人でできることをすれ
 ばいいのです。自分の食事の面倒ぐらい自分でみるというのも、第一歩としては大事な
 ことです。
・「下流老人」という命名は、多くの人々にある種の不安感を強く与えたようで、人々に
 かなり強烈なインパクトを与えました。しかし、気軽に「下流、下流」と言うけれども、
 年金でカツカツに暮らして、電気も止められてテレビも見られなくて、ラジオしか聴け
 ないような暮らしをしている独居の人がいるとしても、それは望んでやっているのでは
 ないですよね。やむを得ずそのようにしているのであって、そういう人が出てくるのは
 いまの社会のほうに原因があります。しかし、それ自体は悲劇でもなんでもないのでは
 ないか。
・生活保護というのは、憲法で保障されている国民の権利ですから、受けるのをためらう
 理由は本来はないはずなんです。だけど、生活保護を受けたくない、そこまで落ちぶれ
 ていない、というプライドで苦しい生活に耐えている人は現にたくさんいます。生活保
 護を受けているというだけでも、世の中で肩身が狭いという。そんな気持ちで苦しいな
 がらがんばっている人もいるし、まさに人さまざまですね。
・いま出ている、高齢者に対するハウツー本というか、生き方指南の本は、基本的には、
 年を取ってもオシャレを忘れるなとか、運動は大事、とか、そういう内容のものが多い。
 しかし、本当は宗教というのも大きな要素です。若いときは考えなかったことを考え得
 る時代に入っているわけですから。
・やはり、「家族からすらも独立しなければいけない」という意識が必要になってくるの
 ではないか。「家族という病」(下重暁子著)などは、おそらく、血縁からの自由を求
 めてのあがきみたいな葛藤があったからこそ多数の人の共感を得たのではないでしょう
 か。
・家族がいたり、友人がいたりするのは結構だけれども、自分が孤独で不完全なものだか
 ら、他人にそれを補完してもらおうというような考え方は、これからは無しにしたほう
 がよいと思うのです
・高齢になっていけばいくほど、単独で生きていくという、その練習が必要だと思うので
 す。昔は、それを補完するものとして宗教というか、仏教とか、いろいろありました。
・「孤独死のすすめ」などと言うと、すごく刺激的で、むごいように聞えるかもしれない
 けれども、昔の西行とか芭蕉とか、いろいろな人たちが旅の途中で死んでいった、そう
 いう生き方を、もう少しきちんと、最初から意図して学んでもよいのではないかと思い
 ますね。
・尊厳死の問題というのがあります。自分は充分にこの世の人生を生きた、これ以上意識
 が混濁して、まわりの人たちに迷惑をかけたくないと思った高齢者が、どのように去っ
 ていけるか。昔は楢山送りとか、いろいろありました。かつての農村では、間引きと楢
 山送りが、べつに何も変わったことではない、当たり前だった時代があったのです。
・私はやはり、孤独を嫌がらない。孤独の中に楽しみを見出す。後半生はそういうことが
 大切だろうと思います。人生の前半は、友達をつくり、仕事仲間をつくり、職業に徹し
 て人脈を広げていき、社会に寄与するという役割があるけれども、後半生はそれを少し
 ずつ減らしていく。
・仮に家族に囲まれて幸せな中で生きていたとしても、その人は家族に甘えてはダメなの
 です。みんなに自分は大事にされているというところに甘んじてはダメなのです。そも
 そもが、そういうような「子供や孫たちに囲まれて」というような時代は、もうあり得
 ないと思ったほうがよい。それを期待しないほうがよいと思います。これから先は、老
 人ホームであれ、末期の療養所であれ、死ぬときは独りだ。そのことを悲惨とか、さび
 しいとか、悲しいとか思わない。独りで生き、独りで去っていくことの幸せを、自分で
 自分につくるしかないわけです。
・実際問題として、体が不自由になっていきます。行動半径も小さくなるし、旅をしてお
 寺回りをしようなどというのは、白秋期・林住期にできることです。ある意味では、心
 の世界に遊ぶということしかできなくなってくる可能性がある。
・人は誰でも、ある年齢に達すると足腰が非常に弱くなってきて、体の節々が痛み、夜も
 ずっと通して安眠できないし、ありとあらゆる体の困難が出てきます。思い糖尿の人は、
 やがて透析をしないといけないなど、困難がいろいろあります。そういうことをかかえ
 て生きていかねばならないのですから、好きなことをするというわけにもいきません。
・ですから、一括りにはできないけれども、結局、想像の世界に生きるというか、精神世
 界に生きるというか、そこでの遊び方をいっぱいもっているということが幸せなのでは
 ないか。
・本を読むことは体が不自由でもできるのです。私の楽しみというのは、夜中に目覚めて
 本を読む。こんなに貴重に思われる時間はないと思うぐらい面白いのです。本を読んで
 知識を増やそうとか、どこかで何かの資料に使おうとか、そういう気は全然ありません。
 活字を読む快楽というか、これはもう、いまの私にとって他に代え難い楽しみの一つで
 す。
・散歩したり、俳句を作ったり、ボランティアに参加したり、いろいろできるのも、ある
 年齢までなんですよね。その年齢以降の時間が、これから結構長くなるのではないかと
 いうことです。ただ、いまは七十歳の人が、玄冬期に入っているという意識はまだない
 のかもしれません。実際に玄冬期に入るのは、八十過ぎでしょう。ただ、玄冬期に入る
 前に、心構えというか、レッスンはしておかなければいけない。
 
「孤独死」のすすめ
・いま問題なのは、高齢者のあいだでの格差が大き過ぎるということです。年金生活で悠
 々自適という人がいる一方で、好きなように生きるなどという、そんな余裕のない人た
 ちがたくさんいますから。
・ある程度の経済的な安定がないことには、年を重ねて恋をするとか、異性に関心を持つ
 とか言っても、到底無理なのです。
・とりあえず、相続は考えないことです。九十までに全部使い尽くしてしまおうという計
 画を立てて、「九十過ぎたら、もう野垂れ死にでよい」という気にならないといけない
 と思うのです。「子孫のために美田を残さず」に徹する必要がある。
・いまの非常に現実的な戦いというのは、七十過ぎて、これまで自分がやったことのない
 ような、外国へも行ってみたい、あれもしたいこれもしたいということで、大金をはた
 いて実行しようとすると、まわりの家族が必死にストップをかけることです。お金を使
 わせないためにです。
・私は、家族の絆から離れるという方法もあるのではないかと思います。自分で部屋を借
 りて、自分で資産を運用して暮らしていく。肉親、家族にすがるなということは非常に
 大事だと思いますね。そうすると、そこから、自分の残された日々をどのように生きて
 いこうかというプランも出てくるでしょう。
・コミュニティに参加することが高齢の人たちにとって大事なことのように言われますが、
 コミュニティとは水のように淡々とした関係を保って、まわりに迷惑をかけないことが
 一番の社会に対する貢献だと思いますね。
・どんなに親切な家族でも、家族がいると自分の思うようには生活できないものです。み
 んなが食事を作っているのに、自分だけ別の食事を作るわけにもいかないでしょう。だ
 いたい、現役の家族が、七十、八十になった人と生活のリズムを一緒にしようというの
 が間違いではないのか。
・夫婦も、同じ一軒の家の中に住んでいても、ある年齢以降は別々に、勝手に生きるよう
 が本当はいいのではないでしょうか。ですから、共棲自立のすすめというか、一緒に住
 んでいるけれども、生活のリズムその他、何時に起きるかも、お互い勝手にやる。いつ
 までもてをつないで買物に行くとか、そんなことをしなくてもいいという人もかなりい
 るんじゃないでしょうか。ことに女性はね。
・夫婦もひっくるめて、家族の中で、ある年齢に達したら、自分の分離独立を考える。そ
 ういう生活のペースを確立する。「おじいちゃんは全然ペースが違うから、ほっときま
 すよ」と言われてもいい。理想を言えば、家族とは別に近くにアパートでも借りて住み
 たい。そもそも、家族とは寝る時間も起きる時間も全然違うのですから。そうすれば、
 お互いの生活のリズムが狂うこともありません。
・自分で洗濯ぐらいすればいい。私が言っている独立とは、そういう意味です。自分の面
 倒は自分でみるということです。「オーイ、お茶!」は、もう無理ですね。
・長いこと会社人間としての人間関係があって、友達もいるし、取引先もある。地縁、職
 縁ですね。それが退職してなくなってしまったときに、誰でもすごく孤立感を覚えるよ
 うですが、でも、それをいつまでも引きずってはダメでしょう。そこから一回生まれ直
 したというように決断しないといけない。これからは本当に自由人、肩書きも何もない
 一人の自由人として生きるのだと。
・働きたい人は働けばよいのですが、いま、そういう人たちに開かれている職場というの
 は、だいたいガードマンとか、簡単な作業ですね。職歴を活かすような仕事はなかなか
 ありません。そこで起業して、自分で新しい事業を始めてがんばる人もいますが、なか
 なかそううまくはいかないようです。
・これまでよく言われた「高齢者のすすめ」の中に、「自分史を書く」というのがありま
 す。自主出版したり、いろいろする人もいますが、これもなかなか難しい。
・私の「学問のすすめ」は高齢者のための「すすめ」です。つまり、人生を一回リセット
 して、全然違うことを勉強する。誰もが何かの職業に就いて生きてきたわけだけれど、
 それは子供のときから夢見た職業とは違ったかもしれない。そういう場合に、今度は長
 年親しんだ職業とは縁もゆかりもない分野のことを勉強してみるのです。
・高齢者にとっての幸福感というのは、精神世界というか、空想なり妄想なりの世界に遊
 ぶということです。それが、ものすごく大事だと思います。自分で空想の幅を広げてい
 く。空想の中でなら、どんなに恋をしようと不倫をしようと、何の文句もないわけです
 から、想像力の翼を無限に広げて、妄想に遊ぶということはすごい面白い。「妄想に遊
 ぶ」というのは悪いことのように思われるけれども、そうではないのです。なにも人に
 害を及ぼすわけではないですから。
・親鸞は六十三歳で京都へ帰って、九十歳で死にました。何人かの弟子がいるぐらいで、
 教団もつくらず、そういう仲間とも接触せず、ただ本を読んだり、書写に努めたり、ま
 た、手紙を書いたり、死ぬまで京都の一角でじーっと暮らすわけです。その地では本当
 に孤立していたんですね。当時の宗教界とまったく隔絶していて、関東の弟子たちから
 手紙をもらって、それに返事を書くぐらいの関わりしかもたなかった。あれはあれです
 ばらしかったと思います。
・法然が亡くなるときに弟子に言い遺したことは、「群れ集まるな」ということです。グ
 ループをつくるな。それぞれバラバラにいて念仏を広めろと言うわけです。ところが、
 法然が亡くなると同時に弟子たちが大きな追討法要を企画して、浄土宗という組織を強
 化していくことになります。
・鴨長明が五十歳ぐらいの山に入って隠遁生活をしました。これが理想なんですが、いま
 はなかなかそういうふうにはいかない。ですから、都会にいて隠遁するということを考
 える。
・法然は、十八歳ぐらいで黒谷というところへ行って、比叡山の出世コースからは下りま
 した。そのあと、そこでいろいろ勉強したあとに、今度はいよいよ野の聖として京都の
 街中へ出てくるわけです。
・親鸞は二十九歳で比叡山を下ります。それは、山奥に身を潜めるのではなくて、巷に隠
 遁するようなものです。リタイアして出世コースから外れることが、憧れの的だった時
 代でもあるわけです。
・それまでの親鸞以前の考え方というのは、ほとんどが早熟の思想というか、青年期の思
 想なのです。ところが、親鸞は晩年の思想として、行き着くところまで行き着いた。い
 まの我々に対して親鸞が何かアピールするものがあるとしたら、七十過ぎての思想家と
 いうところですね。
・いまは、人とのコミュニケーションの輪を広げようとすることばかりが強調されていま
 す。高齢者になると、何かのボランティアに入ったり、いろいろ勉強事をみんなでやり
 ましょうというようなすすめがあるでしょう。そうではなくて、どんどん独りになって
 いくべきだというのが私の説です。それで、やはり人間は、最後は独りで物をじっくり
 考えたり、感じたりしながら、自然の移ろいの中で穏やかに去っていくべきだと思いま
 す。
・家庭内自立というのは配偶者との問題だけではなくて、子供、孫とも、一緒に暮らして
 いても、できれば別々の生活をする必要があります。自炊して、離れの一間に住んで、
 ときどき顔を合わせるようなかたちでね。それが私の家庭内自立という説です。
・高齢者になったら、例えば、社会的に活動しなくてもよいと思っています。独りで音楽
 を聴く楽しみというのがある。自分が若い時代に流行った音楽で、いまはあまり顧みら
 れていないけれども、聴けば聴くほど思い出も広がってくるし、味わいもある音楽が無
 限にある。
・それから、孤独の一番の友は、やはり何といっても活字です。本を読む。これに勝る
 楽しみというか、快楽はありません。ちょっとのあいだでも、五分間でも読める。
・よく、みんなで楽しむということばかり言って、フォークダンスを躍ったりするけれど
 も、高齢者が集まって、タンバリン叩いて童謡を歌わせられるなんて、あんなのは見て
 いて悲劇的です。人はやはり独居の喜びを発見したほうがいい。
・世の中では、人の輪の中に入っていって、年寄りにもかかわらず、嬉々としてみんなと
 一緒に何かやっている人を持ち上げる風潮があるでしょう。テレビなんかでも、若い恰
 好をして、若い人たちと一緒に何かをやっているのを、良いことのように言いますよね。
 けれども、やっぱり高齢者は孤立すべきだと思います。もっと、例えば目に見えない世
 界とか、宗教的なものでもいい。神とか、絶対者とか、そういうものに対して思いを馳
 せるとか、般若心経の写経をしたい人はやればいいのです。
・人には個性があるから、人それぞれでいい。自分の全盛期に重要なポストに就いていた
 人は、肩書きがなくなったとき非常の不安になるといいます。それで、マンションの管
 理組合の理事長になったり、いろいろはことを最後までやろうとする人もいます。しか
 し、そんな人も、一回スパッと、自分の人生をリセットする必要があるんじゃないでし
 ょうか。違う人生を生きるのです。
・いずれにしても、この世から消え去っていくのだという決意をもたないといけない。い
 つまでもしがみついているのではなくて、将来的には、もうこれで自分の人生はいいの
 だと思ったときに、しかし、どのように具体的に去って行くのかということはあると思
 うけれども、現世において現世を引退するということはあり得る。
・これからは、自分がこの世から消滅していくことを一つのゴールとして、それを自然に
 受け入れて、きちんと考えていかないといけないのではないか。無から生まれて現世に
 生を受けて、また無に返る。返るときは、外部の力の無理やり追い返されるのではなく、
 自ら、この世から身を引いていくというつもりで生きていく。そういう道もあるのでは
 ないでしょうか。
 
趣味としての養生
・年を取るとよく眠れなくなったり、早く目が覚めたり、頻尿で夜中にしょっちゅう起き
 たり、いろいろしますが、どのようにして少しでもそれを楽なほうにもっていくか。そ
 れは工夫ですね。それこそ養生です。
・ブツダの寝ている図を見ると、右側を下にして横向きに寝ていますよね。私も横向きに
 寝ます。それは、睡眠時無呼吸症候群がちょっとあって、仰向けに寝ていると喉を圧迫
 して起きやすいからです。本当はうつ伏せがよいけれど、そうもいかないから横向きで
 寝ています。
・誤嚥の起きる原因は、無意識にやってしまうことなんです。カプセルの薬を飲むときで
 も、何のときでも、ほとんど無意識にやってしまう。そうではなくて、「いまからこれ
 を飲み込むぞ」と、脳からしっかり指令を出して、喉の気管を閉じる動作をきちんとし
 ないといけません。
・床に落ちているものを拾うとき、無意識にやるとぎっくり腰になります。「いまから腰
 を曲げて、床に落ちているものを拾うぞ。膝をできるだけ深く曲げて、腰は曲げないよ
 うにして拾おう」と、一つひとつの動作を意識的にやっていくことがすごく大事です。
・腰痛もずっとありましたね。いつも机の向かって、うつむいて仕事をしているので、何
 十時間も仕事をしていると、頸椎がずれていくのではないかと感じました。ですから、
 きちんと良いかたちで頭の重さを支えるようにしないと、頸椎から脊椎、腰部のほうに
 かけて負担がかかり過ぎて、腰痛になるのは当たり前のこと。ですから、姿勢をよくす
 る、呼吸をよくする。腰を曲げずに膝を曲げると気をつけていたら、なんとか腰痛はな
 くなりました。ところが、腰痛がなくなったら今度は脚が痛くなってしまった。
・腰痛については、これは必ず人間にはあるものだと覚悟して、できるだけそれが出ない
 ようにする。 
・一般的には、病気を「治す」と書きますが、私はあれを「なおす」と読まずに「おさめ
 る」と読むのです。病気は根本的に治すことはできない。病を治めるということだけを
 考えるべきでしょう。
・人間は年を取ってくると、体お老化は絶対避けることはできません。筋肉は硬化し、骨
 は脆くなり、血管は硬くなる。さまざまな不具合が生じるけれども、それをなんとか治
 めて、折り合いをつけてやっていくというような考え方で、「治るということはない」
 という考え方ですね。
 
私の生命観
・中世や江戸時代までの人の感覚は、いまの人の感覚とはまったく違います。つまり、理
 性的ではない。山には山の神様が住んでいる。竈には竈の神様がいるのだという感覚で
 す。四季折々にいろいろな神様が訪れてくる。雷が鳴ると、雷神が怒っていると考える。
 方違えだとか、方位だとか何だかんだと言って、井戸水が赤く濁れば大災害の徴だとか、
 本当にそう思い込んで生きてきたわけです。
・ありとあらゆる人たちが、自分たちは地獄へ落ちるのではないかという不安と恐怖に怯
 えて生きていました。そういう時代と違って、いま我々には地獄という観念はないでし
 ょう。はっきり言って、地獄がなければ浄土もないのです。
・ですから、古代から中世、そして近世に至るまでの人々の意識の中に頑固に値を張って
 いた、見えない世界への恐れとリアリティというものを、いま我々はまったく持たなく
 なった。持てなくなった。基本的に死んだら終わりとしか思わなくなりました。
・宗教というものが、昔はある年齢に達すると否応なく浮び上がってくるものでしたが、
 いまはそれがないから、宗教なき世界にどう生きるかということです。そこで元気に生
 きていくというのは、どういうことか。
・日本人ほど家族ベッタリという国民は珍しい。十六歳、十八歳になったら家を出るのが
 当たり前の、ドイツなどのシステムと、日本みたいに、四十、五十になっても同居して
 いるというのとは、やはり違います。そういう意味で日本は本当に、家族主義が美風で
 あるというように言われますが、個人の独立というか、それがまだないですね。
・玄冬期を元気に生きていく第一歩は、人との絆みたいなものに期待しないというところ
 から始まるような気がします。そこに非常に明朗な、孤独の中の明るさとか、生き甲斐
 とか、そういうものが生まれてくるし、そういう覚悟ができた人は、現在の家族との関
 係も、ベタベタした「庇護する者とされる者」でない関係が生まれてくると思います。
・また、精神的には游行期だということを自覚する必要があります。もう家も離れ、自分
 独りで杖をついてガンジス川の畔まで死にに行く。ヨタヨタしながら乞食のような生活
 をして生きていくということですが、それは一つのシンボルであって、気持ちの上で「
 遊行者なのだ」と切り換えることが第一歩だと思います。そのことによって、今度は独
 立自尊の自分の人生をどう生きるかを考える。「おじいちゃん、みっともないから、そ
 ういうことはやめてください」とか、いろいろ言われることなく、自分で生きていくわ
 けですから、そこからスタートする。
・不自由でも、できるだけ介護されずに生きていく方法を見つける。介護されるに至らな
 いように、 やはり七十ぐらいから気をつけて、自分の生活をコントロールしていけば、
 人生の楽しみや喜びというのは無限にあるような気がしますね。不測の事故で半身不随
 になった人は仕方がないけれども、それでも、障害をかかえながら、オリンピックに出
 る人もいる時代ですから、気持ちの持ちようひとつで自分でできることは自分でして、
 そこに見出す楽しみはあると思います。図書館だって、どしどし本を貸し出してくれる
 わけですから。
・この世に生を受けた人間は、ちゃんと世を去ってこそ人生です。そのしめくくりが遊行
 期であり、人生においてもっとも重要な季節と言えるでしょう。
・もの忘れがひどくなることを嘆くことはないのです。成長してくるなかで身につけた知
 識と記憶を、少しずつ世間に返していく。子供に還り、やがて誕生した場所へ還る。そ
 れを死というのです。
・「遊行期」とは、子供に還って遊び、戯れる時期なのです。気ままに、わがままに、そ
 して無心に。
・よく、「なにが辛いといっても、下の世話を人にしてもらうほど辛いことはありません」
 という高齢者の嘆きの声を耳にします。しかし、おむつをかえてもらうことを恥じる子
 はいないでしょう。人はみなそうやって、乳を与えられ、下の世話をうけ、さまざまな
 面倒をかけて育ってきたのです。「遊行期」になって、子供に還る、とはそういう道を
 戻っていくことです。肉親の家族以外の人々に世話をされて生きることを恥じることな
 どないのです。それは、この世に遊びにやってきた子が、家に還っていく姿なのですか
 ら。
・これから先、高齢者が増えるということは、やがて大量死の時代を意味するのですから、
 死に方の作法というものをきちんと考えないといけません。いまは出生率よりも去って
 いく行儀というか、マナーというか、これについて真剣に考える必要があります。
・上野千鶴子さんは、高齢者の人口増加というのは、もう峠を越したと言っておられます。
 地方では高齢者が激減していると。ほとんどが子供を頼って都会に出てしまったから、
 大都市は高齢者が激増し、地方では激減するような状況になっていて、大都市の激増状
 態も、片っ端から死んでいくから、いずれ、何十年か後には問題は解決するだろうとい
 うような見方をされていますね。ただ、このあとの数十年が大変なのだと。
・親鸞の考え方では、人は死んで、浄土へ行って仏となる。行ったきりではなくて、再び、
 仏の慈悲を身につけてこの世に戻ってくる。これは後世のことを言っているのではあり
 ません。生きている間に生まれ変わりを体験する。新しい人生が開けるという考え方で
 す。それで、慈悲、大悲というものを人々に施して、人を救うという。
・「歎異抄」は親鸞自身が書いたものではなくて、弟子の唯円が親鸞の言行をまとめたも
 のです。だいたい歴史に残る書物というのは、他人が書いたものです。後から鏡のよう
 にそれを写した。
・聖書、バイブルというのは、キリストの言行録であり、質問に対してキリストがこう答
 えた。こういう場面ではこういうことをなされた。そういうレポートですよね。
・ソクラテスは一冊の本も書いていなくて、プラトンがソクラテスの言行、言ったことや
 やったことを記録に残した。そちらのほうが大事な気がします。誰かに語って、それが
 受け止められて記録されたことのほうが大事という感じがありますね。
 
玄冬の門をくぐれば
・大事なのは、もう七十歳過ぎて癌を宣告されたとき、治療をするかしないかです。残念
 だけど天命と思って治療しない人のほうが、少なくとも安らかに死ねるらしい。ある程
 度のところで、その覚悟を決めないといけないというのがありますね。
・いま、アルツハイマーの治療法というのはこれという決定打はないけれども、唯一、回
 想療法というのが有効かもしれないと言われています。自分の過去の思い出を繰り返し
 咀嚼するというやり方です。
・良い思い出や楽しい思い出は引出しに入っているけれども、しょっちゅう出し入れして
 いないと錆で動かなくなるのです。ですから、練る前とか、うつらうつらしている時間
 とか、あるいはボーっとしている間に、「あのときはこんなことが楽しかったな」と、
 良い思い出をしょっちゅう繰り返し反芻することはすごく大事なのですね。それをたく
 さんもっている人は、財産をいっぱいもっているのと同じで、思い出すのは辛いことば
 かりというのではどうしようもない。
・先のことを考えないというのも一つの生き方です。その代わり「きょう一日」が積み重
 なって何十年か経っているわけですから。刹那的な生き方もすごく大事な気がします。
・会社にいると、どうしても他人に評価されることが多い。常に評価される側であって、
 評価する人が自分の外にいる。これを何十年もやっていると、そうではないあり方とい
 うのがなかなか想像できなくなって、結局、組織から離れたときに、では、誰が評価す
 るのだというと、自分で自分を評価するしかないのです。自分が「よし」と思えれば
 「よし」だと思えばいい。ですから六十五、七十ぐらいまでは、周囲の評価でもって生
 きてこないわけだし、協調しながら生きて行かないといけないけれども、それを過ぎた
 ら、やはりワガママ勝手に生きていってよいのではないか。それからはもう自由人にな
 る。
・「人は本来、孤独である」と覚悟する。「頼りになる絆などない」と覚悟する。「人間
 は無限に生きられない」と覚悟する。「国や社会が自分の面倒をみてくれるとは限らな
 い」と覚悟する。そういうことが大事でしょう。
・ある年齢に達したら、玄冬の門をくぐったら、あとは自由に生きる。自由を束縛するも
 のは、できるだけそこを避けて、排除していくというように考えないといけません。例
 えば、「友達が少なくなった」とか、そんなことを考えているなんて、甘えだと思いま
 すね。
・精神世界というか、想像の世界やそういうものに生きるとすれば、古人とか、外国の人
 とか、「なるほど、この違憲は面白い。この人は自分と共通の感覚をもっているんだ」
 というように、精神上の友人はもてます。共鳴する人がいるということが大事。そうす
 れば、孤独感ではなくて、ある程度心豊かに残りの時間を過ごせる。そういう精神上の
 友人は、現実の友人と違って逃げていかないですから。
・年を取るということは、体のあちこちに不具合が生じるということです。耳が遠くなる。
 老眼鏡が離せなくなる。歯がダメになる。数え上げればキリがないくらいです。
・私も脚が痛くて、雨が降ると本当に具合が悪いのだけれど、そういうものに対して、処
 方がないというのが一番問題ですね。いまの医学ではむくみに対応するものがないので
 す。どんな医学の先端技術を駆使しても、脚がむくむことに対する処方がないのです。
 なぜそんな簡単なことができないのだと、不思議に思います。
・宗教というのは、大袈裟に構えて、自分の信念を賭けてどうとかするなどと考える必要
 はありません。老後の楽しみの一つと思えばいいわけです。お寺に行ってみる、教会に
 行ってみる。あるいは、バイブルを読んでみる。般若心経の写経をしてみる。仏教の入
 門書を読んでみる。これは死と、生きるという「死生」に関することだから、非常に身
 近に感じられると思います。
・宗教というのは、いま大問題です。宗教を信じている人の数がものすごく増えつつある。
 宗教が、世界の動乱や戦争、政治的対立の根底に大きく関連しているということは、い
 ろいろな人たちが言っています。
・ですから私は、叱れるかもしれませんが、宗教とか、宗教について関心をもつというこ
 とを、そんな大層なことを考えずに、俳句や川柳に関心をもつのと同じくらいの気持ち
 で、そういうものを向き合ってみたらどうかと提案します。
・それから、「再学問のすすめ」と言ったけれども、好奇心のある人は、改めてカルチャ
 ーセンターに行ってみるとか、何かの通信講座で勉強してみるとか、それをやると「こ
 ういう役にたつから」ということではなくて、楽しみとしてやってみるといいと思いま
 す。
・いまは結局、後世というか、浄土とか天国とかいうことに関心がないのは、地獄に対す
 る恐怖がないからでしょう。 
・それはどんな楽しみか。例えば、孤独の楽しみであり、物を学ぶ楽しみであり、自由に
 なる楽しみであり、大真面目にではなく冷やかしで、カジュアルに宗教を信じてみる、
 宗教をいろいろ試してみる楽しみです。
・弄便という、壁じゅうにウンコを塗りまくったり、暴力行為をしたりする老人がときど
 き出てくるのだそうです。どういうときにそういう問題が起きるかということを考える
 と、相手の人権みたいなもの、相手に対する尊敬の念をことらが忘れたときに怒るとい
 うのです。人はどんなときでも、相手から認めてもらいたい、承認されたいという自尊
 心があります。ですから、最後の最後まで人としてきちんと対応しないといけない。上
 から物を言ったりするとダメだと。
・老人ホームで一番扱いにくい患者は、元医者の人だそうです。本当に威張るし、命令口
 調で物を言うし、どうしようもない、救い難いという話が出ました。
・痴呆やアルツハイマーというものが全然なければ、人間は最後のところまで自分なりに
 身を処すことができるでしょうけれども、こればかりは、自分がそういう人格崩壊の状
 態になっていくことは自覚できない。どの辺までで気がつくのかわからないけれども。
 ですから、これは本当に悲劇だと思いますね。
・いままで戦後七十年のうち、五十年ぐらいまでは、いかに生きるかということがテーマ
 になってきました。いまでも、「置かれた場所で咲きなさい」とか、生きることに対す
 るみんなの関心は高いけれども、「置かれた場所で散りなさい」という考えも必要です。
 今度は、そこが社会の大問題になってくるような気がします。
・私の考え方としては、人間はこれだけ大変な世の中で苦労をしながら生きてきた。生ま
 れるときも自分の意思で生まれてきたわけではないから、せめて死ぬとぐらいは自分の
 意思で幕を引きたいというのが、究極の願望です。去るときぐらいは自分で退場したい
 と思う。