「林住期」 :五木寛之

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五木氏の定義では、50歳以降を林住期というらしい。昔は人の寿命が現代よりもずっ
と短く、平均50歳ぐらいだったということもあり、「人生50年」と言われていたよ
うである。現代の人の寿命はずっと延びて、平均80歳以上になっていると思う。
しかし、それはあくまで平均であって、90歳近くまで生きる人もいるが、50才代で
逝ってしまう人もいる。自分の寿命がどのぐらいであるのかが、わかればいいのだろう
けど、五木氏の言葉を借りれば、「死は前からやってくるのではなく、後ろからやって
きて、ポンと肩をたたかれ、時間ですよと、と言われる」ようである。
それに、いくら80歳、90歳まで生きられるようになったと言っても、それは単に生
きているだけで、その年齢まで人間らしい生き方ができるとは限らない。病院のベット
の上というケースも少なくない。人間としてある程度身体的にも経済的にも自由に動き
まわれるのは、せいぜい70歳ぐらいまでではないだろうか。
人としての最後の年代をどのように生きるか。悩むところである。五木氏は、50歳に
なったら、今までの人生をリセットして、それまでとは異なる生き方をすべきと説いて
いる。50歳になったら、それまでのいろいろなしがらみから解放されて、ほんとに自
分がやりたいことをやりなさいということである。残された時間はもう少ない。このと
きにやりたいことをやらなければ、もう永遠にやりたいことをやれる時が来ないのであ
ろう。
しかし、しかしである。それでは、自分のやりたいことをやろうと決意しても、はたと
困ってしまう人が多いのではないだろうか。いったい、自分のやりたいこととは何だろ
うと。50歳からは、その自分のやりたいことを探すことが最大の悩みなのかもしれな
い。

人生の黄金期を求めて
・50歳に達すれば、人はおのずと自分の限界がみえてくる。体力の衰えも感じられる。
 若者たちからは旧世代扱いされ、家庭でも組織の中でも必ずしも居心地はよくない。
・功なり名とげた世の成功者たちは、ほとんどその年齢までには世に出てしまっている
 ようだ。自分はこれからなにができるのか。50歳というのは、じつにむずかしい時
 期ではある。
・50歳をはっきりひとつの区切りとして受け入れる必要がある、と私は思う。そして、
 そこから始まる25年、すなわち「林住期」をこそ、真の人生のクライマックスと考
 えたいのだ。
・その季節のためにこそ、それまでの50年があったのだと考えよう。考えるだけでは
 ない。その「林住期」を、自分の人生の黄金期として開花させることを若いうちから
 計画し、夢み、実現することが大事なのだ。
・人間はなんのために働くのか。それは生きるためである。そして生きるために働くと
 すれば、生きることが目的で、働くことは手段ではないのか。いま私たちは、そこが
 逆になっているのではないかと感じることがある。
・働くことが目的になっていて、よりよく生きてはいないと、ふと感じることがあるの
 だ。人間本来の生き方とはなにか。そのことを感がる余裕さえなしに必死で働いてい
 る。
・50歳になったら、今の仕事から離れる計画をたてる。そのまま死ぬまで現在の仕事
 を続けたければ、それもいい。好きな仕事をして生涯を終えることができたら、それ
 はたしかに幸せな人生である。

「林住期」をどう生きるか
・親子の関係というのは、むずかしい。むずかしいが、できれば良き先輩後輩の関係を
 めざして努力するしかない。
・夫婦というのは、さらにむずかしい。だが、生涯、恋人同士というよりも、ほかに二
 つとない友情を育てていくことが好ましいのではないか。よく男女間の友情は成立す
 るか、などと青くさい議論がおこる。しかし、夫婦というのは、それが成立するまれ
 な場であると私は思う。
・金をかけずに優雅に生きていく、というのは、もし自分ひとりの生活ならば、愉快な
 実りのある趣味というべきではあるまいか。
・「研ぎ直す」。自分の人生を研ぎ直す。これは悪くない。イメージに鋭さと新鮮さが
 あっていい。
・私は林住期は、まず身の回りのモノを捨てることからスタートすべきだったと、ため
 息をつきながら反省している。いろいろなものが体にぶらさがっていたのでは、人生
 のジャンプどころではないだろう。肥大した人間関係、あふれ返るモノ、それから解
 放されることが第一歩だ。いただいた名刺は、申し訳ないが処分する。年賀状などは
 書かない。そういった孤独化のなかから、また新しい人間関係が生まれてくることも
 あるだろう。それはそれで、淡々と大切にすればいい。仲間と一緒にいても、心は常
 に孤独な犀のごとく歩め、という気持ちだけはなくさないようにしたいものである。
・人は孤独には弱いという。一人で生きることができないのが、人間のさだめだという。
 しかし、人は皆と一緒に仲良く生まれてくるわけではない。そして死んでいくときも
 一人なのだ。
・林住期に生きる人間は、まず独りになることが必要なのではないかと思う。人間は本
 来、群れをなして生きる存在である。夫婦、親子、家庭、地域、会社、クラブ、学友、
 師弟、その他もろもろの人間関係が周囲にひしめいている。まず、その人脈、地脈を
 徐々に簡素化していくことが大事だろう。人生に必要なものは、じつは驚くほど少な
 い。
・世の中のことは、思い通りにはいかない。そのことは、よくわかっている。むしろ思
 い通りになることのほうが少ないのが、この世というものだ。しかし、こうしたい、
 こうしてみたい、と思うことは大事なことなのである。
・働くために生きる、という思想は、この国には古くからある。日々の労働こそが尊い、
 という考え方だ。私はそのことに反対はしない。人間はどんなことにでも生き甲斐を
 見出そうとする本能がそなわっているからである。しかし、生きるために生きる、と
 いうことこそ、現代人に残された数少ない冒険の一つではないだろうか。
・金を稼ぐために生きるわけではない。生きるために働く、というのは自分本位の生き
 方にすぎない。もっと次元のちがう生き方は、あるのか、ないのか。私はいま、その
 ことを真剣に考え続けているところだ。

女は「林住期」をどう迎えるのか
・そもそも、いい女というのは50歳からだと昔から思ってきた。成熟した女の魅力は、
 20代、30代では無理だろう。40代は少し中途半端な時期でもある。やはり50
 代からが女の黄金期ではあるまいか。
・女性にとっての林住期とは、男と女の関係が新しく再生される季節だと私は思う。男
 女の愛から、人間的な理解へ。相手を理解することから生まれる友情は、自由な関係
 に成長する。愛よりも理解。愛情よりも、友情。長く離れていては、愛情は続かない。
 遠く隔てられていても真の友情は失われることはない。
・自分を見つめる季節が林住期ではない。相手を見つめ全人間的にそれを理解し、受け
 入れる。
・林住期には、恋人でも、夫でもない一箇の人間として相手と向き合う。それが可能な
 ら、バラバラに暮らしてもいいではないか。二人の結びつきは、さらに深まっていく
 かもしれないのだから。

自己本来の人生に向き合う
・人間は、国家や社会制度に貢献するために生まれたのではない。子供や、妻や家庭に
 奉仕するために世に出たのでもない。確かにそれは社会に暮らす者の、尊い義務では
 ある。そして義務は誠実にはたさなくてはならない。しかし、義務とは他のために献
 身することだ。「家住期」において十分にその義務をはたし終えた人間は、こんどは
 まさに自己本来の人生に向き合うべきだろう。
・前半の50年は、世のため人のために働いた。後半こそ人間が真に人間らしく、みず
 からの生き甲斐を求めて生きる季節なのではないか。
・自分が心から望む職業につけた人は幸せな人だ。その仕事で実りある業せみをあげ、
 定年を迎えたとすれば、最高の人生だ。しかし、多くの人は、必ずしも自分が夢見た
 職業につけるとは限らない。むしろ、生きるため、生活のため、そして家庭や身辺の
 事情で職をうるのである。
・好きでやってきた仕事を、ずっとそのまま続けるのもいいだろう。本当は好きとはい
 えなかった仕事を離れて、少年の頃の夢を追うのもいいだろう。「林住期」という第
 三の人生を、心ゆくまで生きるのが人間らしい生き方なのだから。
・人生の真の生き甲斐をどこに求めるか。そんなものを求める必要はない、という意見
 もあるだろう。それはそれでいい。しかし、心のなかで、かすかにでもそれを求める
 気持ちがあるなら、ためしてみるのも一興である。
・私たちは生活を支える必要がある。そのために働く。家庭を維持し、子供を育てるた
 めの必要から定職をもつ。あるいは自己の夢を実現する必要によって、社会的な活動
 に従事する。すへては「必要」からだ。
・「林住期」の真の意味は、「必要」からでなく、「興味」によって何事かをする、と
 いうことにある。私は「林住期」にすることは、すべて「必要」からではなく、報酬
 とビジネスを無視してやるべきだと考えているのだ。なにをやってもいい。とにもか
 くに、それで金を稼ごうなどと思わないことである。
  要するに道楽である。道楽で金を稼ぐべきではない、というのが私の意見だ。
・人は孤独のなかに自己を見つめることによって、転地万物の関係性を知ることができ
 るのかもしれない。仏教でいう縁起とは、すべてのものは孤立して存在してはいない
 ということだ。

「林住期」の体調をどう維持するか
・うつ病はボケより手前に待ち構えている怪物だ。そして、第三の人生、すなわち五十歳
 までの二十五年において、もっともおちいりやすい難病である。
・初老性のうつ病、などと気軽に言う。しかし、本当のうつ病はそんな月並みな成人病
 とはちがう。真の人生の危機を体感するおそろしい友なのだ。
・私たちはふだんあまり物事をつきつめて考えることなく暮らしている。くよくよ考え始
 め たら一歩も前に進めない、ということも確かだ。
 しかし、頭でそれを考えずとも、人間の体は正直に、敏感に物事の本質を感じとって
 いる。人間はいずれ死ぬものであり、他者を犠牲にして生き延びるものだと感じてい
 る。この私たちの一瞬一瞬が死への休みない旅であることも感じている。
・私たちが感じるふとしたうつの気配は、人間としての裸の真実の触れた瞬間のおびえ
 のようなものかもしれない。それは不気味な感覚であり、不可解な存在でもあるのだ。
 それこそがうつの正体である。そして、それは人間にとって重要な瞬間なのだ。
・うつを敵視し、それを悪と考えることをまずやめなければならない。うつは現代人
 の正しい心のありようなのだ。それをまったく感じないような人こそ病人だろう。
・子供の頃から「明るく」「元気で」と教育されて育った人には、うつに対する免疫力
 がない。
・まず、うつは人間の支えである、と考える。今のような病んだ時代に、心が萎えない
 ほうがおかいしのだ、と知る。
・生きるということは、楽しい一方ではなく、うつという重い荷物を背負って坂道を歩
 くが如しと覚悟する。
・その人間の運命的なうつを、自分は関係ないという内側に押し込め、無視することか
 らうつが病気に発展するのだ。
・日々、うつを感じつつ生きることこそ、現代における人間らしい生き方なのだ。

穏やかに死を迎えるために
・死は前よりしもきたらず。
・私たちが死を恐れ、それを意識の外に放置して実生活にうつつをぬかしているそのと
 き、死は背後に音もなく忍び寄ってきている。そしてポンと肩をたたいて、「時間で
 すよ」と無愛想に知らせるのだ。
・老いることは、必然的に心身ともに錆びついていくことだ。体の各所に言うにいえな
 い不具合が生じてくる。私自身、そのことで思わず舌打ちするような日々の連続であ
 る。それでもまだ、自分の足で歩き、トイレに行き、自分の歯でものを噛めるあいだ
 はいい。他人に介護されなければ日常生活もままならぬ日々をすごしたのち、人は病
 に倒れて死ぬ。逆であればいいのに、と思わずにはいられない。長く苦しみに耐えて
 生きた者に、少しずつ元気な体と、いきいきした心とを与えてくれる。そんな人生で
 あればと思う。

人生五十年説をふり返る
・たしかにむかしは五十年が人間の寿命だったのかもしれない。だが今は百年生きるこ
 とも夢ではない。しかし五十年間はとりあえずまともに動くように作られている存在、
 とおのれを考えれば、あとは口惜しくとも、耐用期限は過ぎたと認めるしかないだろ
 う。
・会社や組織に属している人間は、五十歳で定年退職するのが理想だと思う。六十歳で
 はおそいのだ。人体の各部が五十年をめどに作られているのなら、その辺で働くのは
 やめにしたい。あとは好きで仕事をするか、自由に生きる。
・働きたい人は働く。しかし、それは暮らしのためではない。生きる楽しみとして働く
 のだ。楽しみとは趣味であり、道楽である。趣味も道楽も、金を稼ぐ道具ではなく、
 逆につぎ込む世界だ。その日のために五十歳まで営々と額に汗して働いてきたのでは
 ないのか。
・できれは生活のために働くのは、五十歳で終わりにしたい。社会への義務も家庭への
 責任も、全部はたし終えた事由の身として五十歳を迎えたいのだ。

五十歳から学ぶという選択
・学ぶことのおもしろさに目覚めることも、その年をとる効用の一つだろう。六十歳か
 らでも、おそくはない。七十歳になって大学に顔を出す、などというのも悪くはな
 い老後の楽しみだ。
・それは純粋に自分のための楽しみである。社会に貢献するわけでもなく、世のため人
 のためでもない。人生の後半をそんなふうに生きることが、それだけで自然に世間を
 よくすることになる。