独学のすすめ :加藤秀俊

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この本はいまから45年前の1978年に刊行されたものだ。
私はこの「独学」という言葉がとても好きだ。人生は一生が学びだとよく言われるが、
学びというと、すぐに学校に行くことを思い受かべることが多い。しかし、学校の教育で
何かが身につくということは、少ないのではないかと私には思える。なぜかというと、学
校で学ぶということは、どうしてもどこか受け身の姿勢であることが多い。何かを学び、
それが身につくには、受け身の姿勢では得られない。主体的に自分で学ばなければ身につ
かないと私は思っている。主体的に学ぶということは、つまり「独学」ということだ。
好奇心も持ち、その好奇心に衝き動かされて、自分からいろいろな本を読んだり実際に体
験したりすることによってはじめて、それが身につくようになる。学校は、単にそのきっ
かけづくりの場でしかないと私は思うのだ。
この本の著者は、日本の学校教育の重大な欠点を指摘している。日本の学校教育は、課題
を与えるだけの一方通行の教育で、自分から課題を見つけ出す能力を育てないという。
日本の学校教育は子どもの好奇心の芽を摘んでしまっているという。なるほどと思った。
著者は45年前に、今の日本の教育のままでは、日本社会の創造性はだんだん弱くなって
いくだろうと嘆いていたが、今日の日本の状況を見ると、まさに著者の言う通りになって
しまっていると感じる。

過去に読んだ関連する本:
独学のススメ
大人のための勉強法
死ぬほど読書


独学のすすめ
・ごく一般的にいって、学問の業績というのは、学歴だの学位だのをその背景にしている。
 いい大学で教育を受け、研究を続け、その結果として業績があがる。
 いや、そんなふうに努力しても、ほんとうに独創的なしごとを残す学者は少ない。
・学問をするためには、学校に行かなければならない、というのはひとつの常識である。
 だが、私はこの「常識」は、ひょっとすると、とんでもない間違いなのではあるまいか、
 と思った。
 なるほど、学校というのは、いろんなことを勉強するのに便利なようにできあがってい
 る。先生たちがいるし、教室がある。図書館もあるし、学力をためすためのテストもあ
 る。
 しかし、学校というのは勉強のための場のひとつであるにすぎない。ほんとうに勉強し
 ようとする人間は「独学」でちゃんとやってゆける。
・日本でも、博物学者の南方熊楠などは、「独学」によって驚くべき活動をした学者であ
 った。わたしは、南方こそ日本の近代が生んだもっとも偉大な独学者だと思う。
・よく調べてみると、これまで東西の大学者、思想家と呼ばれる人たちの少なからぬ部分
 が、学校教育を受けることなく、独学で勉強していたこがわかる。
 いや、学校に入らなければ学問はできない、などという思想は、ついこのあいだできた
 ばかりの新興しそうにすぎないのであって、人間の知識の歴史のうえでは、「独学」こ
 そが唯一の学問の這う這うであったのではないか。
・学校に行けないから、あるいは行かなかったから勉強ができない、あるいはできなかっ
 た、という人がいるとしたら、それはまちがいだ。勉強というものは、ひとりでもちゃ
 んとできるようになっているのである。 
・実際、「専門」と名がつくと、たいそうなことに聞こえるけれど、その実情をいうと、
 たいしたことはないのである。
 もちろん、それぞれの「専門」の最高権威ということになると、それは本格的なプロだ
 から太刀打ちできないけれど、そのへんでブラブラしている大学生風情の「専門」知識
 などというのはたいしたものではない。
 完全なシロウトが、まず、半年のあいだ頑張って「専門書」を通じて勉強すれば、平均
 的大学生をかなり上回るところまで学問は進む。
 「専門」などというのは、しばしばコケおどしであるにすぎず、熱心なアマチュアの独
 学には概ね、かなわないのである。
・実際、考えようによっては、学校というものは、「独学」では勉強することのできない
 人たちを収容する場所なのだ、といえないこともあるまい。
 すなわち、独学できっちりと学問できない人間が、やむを得ず、学校に行って教育を受
 けているのだ。 
・このことは、現代日本の母親たちに、一度考えていただきたい問題でもある。日本の多
 くの母親たちにちって、「教育」とは、所詮子どもたちの問題である。どうやったら、
 いい学校に子どもを入れることができるか。母にとっての「教育問題」はそれにつきて
 いる。
・しかし、教育とは子どもの問題にかぎられているわけではなく、また学校問題につきる
 ものでもない。それは、母親たち自身の問題でもあり、また独学の問題でもあるのだ。
 母親たちが、ご自分の「教育」はもう終わったのだ、と考えているとしたら、それは大
 きなあやまりである。
 「教育」とは、一生続くものであり、その大部分は「独学」によるものだ、ということ
 を、この際、考え直しておきたい。
 
学ぶこころ
・日本にはいたるところに「西行戻り松」、あるいは戻り橋と名づけられた古跡がある。
 そうした古跡には、まったく共通の伝説がある。
 つまり、西行戻りというのは、歌詠みの西行がそこまで来たところ、童子があらわれ名
 歌を詠み、西行は、ショックを受けてすごすごと戻ってゆく、というわけ。よもやこん
 なところに、といぶかしく思うほどの田舎に、たいへんな詩人や文学者がいるのである。
・教養だの知識だのを、高い価値を持つものとして尊敬する思想、それを、かりに「知性
 主義」ということばで呼ぶことにしよう。 
 日本という国、あるいは日本文化は「知性主義」によって貫かれているのである。
・そんなことをいうと、当たり前のことではないか、といわれるかもしれない。しかし、
 世界的に見て、「知性主義」の文化というのは、必ずしも普遍的な思想ではない。
 たとえば、歴史家のホフスタッダーは「アメリカにおける反知性主義」という大著を書
 き、そのなかで、たとえばアメリカの南部や西部でいかに知性だの教養だのがバカにさ
 れていたか、を多くの実例で示した。 
・今日でもある程度まで、アメリカにおける中心的な価値は、いささか荒っぽい行動主義
 であって、そこでは、西部劇に出てくるような、タフ・ガイが理想的人物とされていた。
 メガネをかけて本ばかり読んでいる、といったタイプの人物は、荒くれた男からせせら
 笑われ、突き飛ばされる喜劇的役まわりを背負わされるだけなのである。
・学問や教養が何になる。強いのは、力だ。そういう思考方法が「反知性主義」を特色づ
 ける。アメリカだけではない。世界の多くの地域文化で、「知性主義」は、そんなにゆ
 きわたっていないのである。 
・なぜ日本人が知性主義をわかちあうようになったのか。理由はいろいろあろう。
 日本に文字をおしえてくれた、おとなりの中国文化が知性主義の国であったから、その
 影響を受けた、という事情もあろうし、明治維新後の近代社会で、学問のある人物がつ
 ぎつぎに抜擢されて要職についた、という実績から、学問を立身出世の道具として考え
 る風潮が生まれた。今日になお残る、学歴尊重主義なども、その風潮が生み出したもの、
 といってよかろう。
・だが、そんなことは、この際、どうでもよい。大事なのは、われわれは日本人がお互い、
 たいへんな知性主義である、という事実である。日本人は、まったくひとりの例外もな
 く、知識にあこがれているのだ。
・いうまでもないことだが、学ぶということは、ひとつの継続的な営みである。ときたま、
 思い出したように、ポツンと講演をひとつ聴く、というのもわるいことではないけれど
 も、それは、たとえば、普段からだを動かしたことのない人間が、ふと思い立って、あ
 る日突然に百メートルの駆け足をするようなものだ。そんなことをしてみても、たいし
 て健康には役に立たない。
・学習も同じである。大事なのは継続なのである。毎日続けることである。気まぐれの思
 いつきでは、なんの効果も期待できない。
  
意欲の問題
・人生をどう生きるか、は、それぞれ個人の自由である。意欲があってもなくても、人間、
 一度生まれて、一度死ぬ。どう生きようと、勝手といえば、勝手なことだ。
 しかし、ネコのひたいほどの庭でも、そこに花を明かせてみよう、というささやかな意
 欲によって生きる人生と、ぺんぺん草の生えるにまかせておく人生と、どっちのほうが
 しあわせか。
 花が咲いたら、絵筆をとって絵をかいてみようという意欲のある人生と、美術なんか、
 ちっとも興味がない、という人生と、どっちのほうにより多くのよろこびがあるか。
 おそらく、私たちの大多数にとって、答えは自明なのではあるまいか、とわたしは思う。
・男であろうと女であろうと、老人であろうと若者であろうと、どんな境遇、どんな職業
 についていようとも、意欲に満ちた人生はしあわせなのである。
 「生きがい」の問題も、要するに、この意欲の問題と深く関わり合っているにちがいな
 い。 
・私の考えるところによると、「教育」というものの基本的な目的と意味は、ひとりひと
 りの個人に、人生に対する意欲を培うことにある。意欲ある人生を送ることのできる人
 間、そういう人間をつくることが教育の使命なのである。
 そして、いまの日本の社会での教育の根本問題は、このような意欲づくりにあんまり貢
 献していないのみならず、むしろ、意欲を圧殺している、という点にあるのではないか、
 と思うのだ。
・日本の学校教育は、ひとりひとりの人間の自発的な、学ぼうとする気持ちをのばしてゆ
 くことよりも、むしろ、つぎからつぎへと新知識を圧しつけることに終始しているよう
 にみえる。 
・子どもや若者は、元来が好奇心のかたまりである。幼児は、自分の身のまわりを取り囲
 むあらゆるものについて、知りたがる。いろんなものの名前を、幼児は驚くほどのスピ
 ードで覚え、少し大きくなると、うるさいほど、なぜ、なぜ?を連発するようになる。
 そういう好奇心は決して「本能」ではないけれども、今日の人類の多くの社会ででは、
 生まれ落ちたときから、好奇心はほとんど自動的に人間に内蔵されているかのようであ
 る。
・だが、子どものそういう好奇心は、非常にしばしば、抑えつけられる。
 なぜ、なぜ?も、最初のうちは、可愛らしく、親は相好をくずしてそれに答えるが、だ
 んだん、面倒くさくなってくる。いい加減にはぐらかしたり、子どもはそんなことしら
 なくたっていいの、などと逆に叱りつけたりするようになる。
・もしも、親のほうが、一緒になって子どもの好奇心につき合い、答えを真剣に探してや
 ることができるなら、子どもの意欲は満たされ、さらに次の意欲への展開が用意される
 だろうけれども、頭から否定的にあしらったら、せっかくの好奇心も萎えてしまう。そ
 して、幼児期のそういう経験は、まず、一生とはいわまいまでも、長期間にわたってそ
 の人間の人生に痕跡を残すにちがいない。
・学校というのが、それに輪をかけて好奇心を圧殺する。だいたい、昔から、日本には、
 読書百遍、意おのずから通ず、指揮の暗記主義の伝統があった。とにかく、なんでもい
 いから、教科書にかいてあるとおりのことを暗記すればよい、という学習哲学、教育哲
 学が根強いのである。
 なぜ?に対しては答えることなく、とにかく、覚えろ、暗記せよ、本に書いてあるとお
 りのことを、オウム返しにすることがすなわち学習なのだ、というふうに多くの日本人
 は考えてきたのである。  
・要するに、やりたい、という気が起きたとしても、そういう気持ちを学校は大事に育て
 てくれなかったのである。
 ひとりひとりの好き、きらい、得手、不得手にかかわりなく、なんでも画一的に押し込
 むことが、これまでの日本の「教育」というものだったのではないか。
・そういう環境のなかで、ほんとうに自発的な意欲の展開、などということはありえない。
 せっかく、なにごとかについての意欲が高まることがあったとしても、それは、だいた
 い、教育の「制度」のなかで完全に粉砕されてしまうのが普通なのである。
 「制度」が求めるのは、あらゆる学科について、それぞれに、かなりいい成績をおさめ
 る人間なのであって、特定の領域にかたよりのある人間、たとえば、代数はよくできる
 が、外国語はダメ、といった人間は、おおむね「制度」のなかでは、決して高く評価さ
 れないのである。 
・だいたい、なによりの証拠に、日本の「優等生」というのは、さっぱり人間としておも
 しろくないのが普通だ。わたしも、「優等生」を何人か知っているし、そういう人たち
 は官庁や会社でも、だいたい枢要の地位についているものだが、そういう人物と話をし
 ていると、わたしは完全に退屈する。彼らは、おそらく、子ども時代に、先生から与え
 られた宿題を、教えられた通にソツなくこなしたに相違ない。そして、それとまったく
 同じ方法で、大人になっても、与えられた仕事をただ忠実に遂行しているだけなのであ
 る。そういう人たちが、能吏であり、また優秀社員であることにちがいないだろうけれ
 ど、彼らは、必ずしも、これまでにみてきたような意味での「意欲」に満ちた人間では
 ないように私にはみえる。
 彼らは、前例だとか、規則だとかを暗記する能力において卓抜だけれども、決して創意
 工夫の人ではない。そして、もしも、はじめにみたように、「意欲」こそが人生におけ
 る幸福の分かれ道だとするなら、こういう優等生たちは、その立身出世の代償として、
 しあわせな人生をついに知ることのない人たちなのではないのだろうか。
・大事なのは、意欲のある人間を育てることである。なにごとかを成し遂げようという内
 面的な燃焼炉を心なかにもった人間をつくることである。そういう人物は、こんにちの
 制度のなかでの優等生になれないかもしれないが、人間としての、ほんとうの優等生な
 のだ。

読書について
・人間が一生にあいだに読むことのできる本の量は有限である。人類がこれまで営々と積
 み上げてきた智慧と知識のごく一部にかすかにさわるのが人生というものなので、ちっ
 とばかり読書をしたからといって、思い上がってはいけない。お互い、人間にできるこ
 とというのは限られているのである。
・ごく素朴な意味で、読書というのは、他人の経験を共有するということだ。
・小説だけではない。あらゆる読書は、著者の経験を受け取る、ということである。著者
 のこころの経験、あるいは、からだの経験、それを活字という手段を通して、われわれ
 は自らのなかに取り込んでいるのである。
 別な言い方をすれば、読書とは他人の経験を正々堂々と盗むということである。読書家
 とは、経験の大盗人のことである。そして人間は、他人の経験を貪欲に盗むことによっ
 て成長する。
・本屋さんの店頭に並んでいるおびただしい数の書物は、われわれに向かって、どうぞわ
 たしたちの経験を盗んでくださいな、と呼びかけているのである。われわれは、そのど
 れをどんなふうに盗んでもかまわない。さまざまな人のさまざまな経験は現代の社会で
 は、すべての人びとの前に公開されているのである。
・そのことを考えるたびに、わたしは、はたして、いまの社会で学校というものがどこま
 で必要か、という疑問を持たないわけにはゆかない。なぜなら、そもそも教育というも
 のは、他人の経験を盗むことであり、その経験の市場が「自由化」されている今日、わ
 れわれがその気になりさえすれば、別段、学校などという制度のなかにはまりこまない
 でも、いくらでも自由に教育を受けることが可能であるからだ。とりわけ、高等教育レ
 ベルでは、本を読むおとのほうが、授業を聴くよりはるかに有効である場合は少なくな
 い。
・教育というのは、子どもの問題というだけでなく大人の問題であり、人間一生の問題だ
 からである。  
 五十歳の主婦が、あらためて大学の聴講をしている、といった姿をわたしは力づよいも
 のとして受け取る。しかし、そうしたことができなくても、わたしのみるところでは、
 かなり部分は、読書によってカバーできるはずである。
 かつて、高等教育を受けられなかったことを後悔するだけでなく、それを取り戻すため
 の読書にも、もっと注意がむけられてよい。
・ほんとうに本が高くて買えないとしても、その気になりさえすれば、図書館だってある。
 本は、いくらでも読めるのである。暇がない、カネがない、というのは、怠惰の口実で
 あることがしばしばなのではないか。
  
生き方の学習
・人間は他の動物にみられないすばらしい能力にめぐまれているけれども、そうした能力
 のひとつに「理想」の構想力、というものがあるのではないか、とわたしは思う。
 人間というものは、たんに現在のあるがままの姿に満足することができず、つねに、こ
 うありたい、こうあってほしい、という理想像を心のなかにつくりあげ、それにむかっ
 て日々の生活をいとなんでいる存在なのだ。
・それがどのようなものであれ、理想あればこそ人間は生きるよろこびを知ることができ
 る。たとえ今日が苦しみに満ちたものであっても、明日がより楽しいものであるだろう、
 いや、楽しいものであってほしい、というほのかな希望が人を力づけるのである。
 人は、理想をみずからつくり、その理想によって生きるのだ。
・さまざまな理想のなかで、とくに注目していいのは、人生をどのように生きるか、とい
 う生き方の理想像であろう。
 人生というものは、われわれの多くにとって、じつは、たいへんにぼんやりしたもので、
 生きる、ということは、一種の不安に満ちた手さぐりの営みである。どんなふうに生き
 たらいいのか、は、正直なところ、よくわからないのが普通なのだ。そして、そういう
 われわれの不安にこたえてくれるものとして、これまでの地球上で生きた何人もの人び
 との人生のモデルがある。それが多くの場合、自伝だの伝記だのといった文学形式をと
 って、書物になっている。どんなふうに生きるか、という漠然とした問題にぶつかった
 とき、われわれは伝記をひもとく。そして、生きるための指針をそこからひき出す。伝
 記を通じてわれわれが学ぶのは、人生の理想というものだ。
・人間、生きたいように生きればよいではないか、という人がいる。たしかに、そうかも
 しれぬ。しかし、どんなふうに生きるかを、ことごとく自分で決めることができる、と
 考えるのは、思い上がりというものだ。人間の人生観、あるいは生き方の理想は、どこ
 かで、誰かから学んでいるのである。よしんば伝記を読まないとしても、誰かの人生を
 見たり聞いたりしながら、われわれは自分の人生を設計しているのである。
・他人の人生を学ぶのは、必ずしも伝記に限られているわけではない。わたしのみるとこ
 ろでは、およそ小説というものは一般的にいって人間によい意味でも悪い意味でも人生
 のモデルを提供してくれるものだ。   
・子ども文化をとりまくマスコミは、あんまり崇高でない英雄たちをつぎつぎにつくり、
 それをばらまき続けている。子どもマンガの主人公は、不良グループのリーダーであっ
 たり、あるいは、暴力的な超人であったりする。それらの主人公の生き方をモデルにし
 て、子どもたちが悪い方向にひきずられる、などと速断することはまちがいだけれども、
 現代の若い人たちにとって、生きてゆく方向性は相対的に弱くなっている。少なくとも
 混乱している。
 若い人たちが、しばしば「生きがい」の喪失をうんぬんするのも、わたしのみるところ
 では、このへんのところと深く関係しているようだ。
 生きたいように生きる、という思い上がりで、他人の人生から学ぶことを怠った世代は、
 結局のところ、人生の意味をつかむ手がかりを失ってしまったのである。
・さらにいうならば、それは、現代の教育のなかにある技術主義が当然に支払った代償な
 のかもしれぬ、入学試験だけを目標にして、どんなふうに問題を解き、どんなふうに暗
 記するか、を「勉強」だと錯覚する教師や親たちは、それぞれの子どもが、それぞれに
 生きるかけがえのない人生をどう生きたらいいか、という根本問題をいつのまにかすっ
 かり忘れてしまったらしいのだ。 
 人生の意味を勉強しなかった子どもは、たとえ一流大学に入り、一流企業に就職したと
 しても、不幸な人生をしか送れないだろう。
 
情報時代の自己教育
・人間の心というものは、外側から情報を取り入れることによってつくられてゆくのだ、
 という考え方は、これまで哲学者たちによって、取り上げられてきた。
 イギリスの経験論の哲学者は、人間の心とは、もともと、「なにも書かれていない紙」
 のようなものだ、と考えた。なにもない状態で、人間の赤ん坊は生まれる。ところが、
 その「なにも書かれていない紙」に、つぎつぎに、いろんなことが書きこまれてゆく。
 まず、母親がよびかけ、赤ん坊の心のなかには、いくつかのおとばが書き込まれる。
 赤ん坊は、やがて目をひらいて、母親の顔をおぼえ、身のまわりにある事物や、動物、
 植物などをつぎつぎにおぼえていく。「白紙」のうえには、こんなふうにして、いろん
 なものが書き込まれ、心は、だんだん豊かになってゆく。
・ものの名前を知るということは、とりもなおさず、ことばをおぼえる、ということであ
 り、それは、人間の心のなかに、「情報」が少しずつ蓄積されてゆく、ということであ
 る。ものの名前をひとつおぼえる、ということは蓄積される情報量が、それだけ増えた、
 ということである。
 子どもたちは、ほとんど本能的に、こうして、つぎつぎに情報をそれぞれの個体のなか
 にたくわえ、また増やしてゆく。
・乳幼児期に、主として母親だの兄弟と一緒に生活しながらたくわえた情報量では、とう
 てい、現代社会で生活してゆくのには不十分である。だから、学校という制度を現代の
 社会はつくった。  
 これだけ社会が進化すると、どうしても、そこで生きてゆくための共通の基礎情報を社
 会は必要とする。だから学校へゆく。一連の学校教育によって、「白紙」には、ますま
 す多くのことが書き込まれる。
・生まれたての赤ん坊が、最初の言葉をおぼえたとき、あるいは、最初の事物を認識した
 その瞬間に、「白紙」には、ひとつのシミが落ち、その後、急速に、そのシミは数とひ
 ろがりを増やしてゆく。
・シミがひろがり、そして厚さを増してゆくということは、情報蓄積が増えてゆくという
 ことである。  
 人間の精神作用というのは、こうした考え方に立ってみれば、じょうほう蓄積の問題と
 深く関わり合うし、また、そもそも教育というのは、インゲンに情報を植え付けるため
 の作業であって、したがって、教育は情報行動なのである。
 人間の心は、情報をたくわえることによってゆたかになる。そして人間の心は、つぎつ
 ぎにさまざまなことを学びとり、それをたくわえるという驚くべき能力をもっているも
 のなのだ。
・もちろん、ある程度までは生まれつき、ある程度までは修練の問題ということになろう
 が、人間の記憶力には、多少のバラツキがある。一度おぼえたことは、決して忘れない、
 というものおぼえのいい人もいるし、また何べんおぼえようとしても、すぐ忘れてしま
 う人もいる。
 しかし、記憶力のよしあしは別として、とにかく人間には、情報蓄積の能力がある。そ
 して、その蓄積の過程は、別なことばでいえば「経験」ということだ。いろんな場面で、
 いろんな問題にぶつかった人間は、それだけ多様な情報を蓄積した人間ということであ
 り、そういう人のことをわれわれは、「経験」をつんだ人、「経験」ゆたかな人、とい
 った言葉で呼ぶ。子どもだの若い人たちは、「経験」ゆたかな人からみれば、まだ「経
 験」が足りない、ということになる。
・人生というのは、こう考えてくると、ひとりの人間の情報蓄積のプロセスなのである、
 といってもいいだろう。
 情報蓄積というのは、別に学校教育だけによって行われているのではない。いや、学校
 教育というのは、そもそも、どうやったら情報の蓄積ができるかという技法を教えるも
 のであって、人間にとっては、むしろ、学校教育を修了してからあと、引き続き、一生
 を通じて、新しい情報を吸収してゆくことが大事なのだ。情報蓄積は、一生のあいだ、
 続くものなのである。
・ところが、幼児期や少年期とちがって、人間は大人になると、大いに分別くさくなり、
 ややもすれば、「何でも見てやろう」の精神を失いがちになる。
 中学から高校にかけて、人間は微妙な時期をむかえる。簡単にいえば、一種のはにかみ
 のようなものが生まれ、あからさまな好奇心の発動が少なくなるのだ。
 幼いころには、知らない、ということが少しも心理的に負担になったりはしないが、十
 代のなかばになると、知らない、ということが恥ずかしい、という気持ちを呼び起こす
 のだ。 
 本当は知らないのだけれど、知らない、というと人に笑われるのではないか、という不
 安がある。だから、知らないのに、知っているようなフリをする。要するに好奇心にフ
 タをしてしまうのだ。
・知らないことを、すなおに知らない、といい、知る努力をすれば、情報の蓄積は子ども
 時代と同じように、ぐんぐん増えてゆくだろう。ところが、「知らない」という一言が
 言えないために、ほんとうは増えてゆくはずの情報が増えない。昔から、「聞くは一時
 の恥、聞かぬは一生の恥」というコトワザがある。「知らない」ということばを口にす
 るのは、恥ずかしいことかもしれないが、知らないくせに知ったようなフリをしている
 ことは、一生知らぬままに過ごすということであって、したがって「一生の恥」という
 わけだ。
・むき出しの好奇心にブレーキをかけて、はっきり「知らない」と言えず、そして、それ
 を恥ずかしい、と思うようになるのは、それだけ自我意識が確立した、ということにほ
 かならないわけだから、一概に、それを悪いことだ、とは思わない。しかし、知りたい
 という欲求をおさえて、知ったかぶりをする、というのは人生の生き方として、大きな
 マイナスなのではないか。
・さらに困るのは、二十歳そこそこで、世界のことはすべてわかった、という増上慢にな
 ってしまう人たちである。
 学校教育が終わると同時に、情報の吸収をぴったりと止めてしまう人が少なくない。
 つまり、知るべきことは、すべて、学校で知りつくしてしまった、というまちがった思
 い込みが、これからの人びとを支配しているのである。
 学校を卒業したから、それで現代の人間の知っていなければならないすべてがおしまい、
 といった観念は、むしろ滑稽だ。学ぶべきこと、おぼえるべきことは、無限にある。
 人間の向上心、あるいは好奇心は、その無限の世界に向かって、いつも積極的に関わり
 合っていなければならない。ほんのちょっぴりの知識を学びとったから、といって、傲
 慢になったら、そのとき、人間の精神は成長を停止したのだ、といってもよい。
・現代社会では、知ろうとさえすれば、なんでも知ることができるようになっている。
 図書館もあるし、百科事典もある。学校の先生をはじめ、専門知識をもった人もたくさ
 んいる。ものを知ろう、とする知的好奇心を満足させてくれる、ありとあらゆる手段が
 いまの社会には用意されている。
・考えてみれば、いまの時代は、じつにけたたましい時代である。いろんなニュース、い
 ろんな意見が、いつも、耳もとでガンガン鳴っているような感じさえする。だから、現
 代を「情報洪水」の時代だ、という人もある。たしかに、これは洪水だ。いくら人間の
 頭脳の情報容量が無限だといっても、これでは、たまらない。
・今日のように、あふれるばかりの情報に取り囲まれているというのは、たしかに困惑を
 人に感じさせるけれども、情報が欠乏している社会に比べれば、情報のゆたかな社会の
 ほうが、ずっといい。情報がゆたかすぎることを、ブツブツいうのは、やめたほうがい
 い。
・かつての社会とちがって、現代社会における情報は、その総量からいって、一個人には、
 とうてい消火しきれないのである。われわれが、「生涯教育」の覚悟をかためて、一生
 をたえざる勉強のプロセスとして生き続けることができたとしても、われわれが頭のな
 かに汲み入れることのできる情報量はかぎられている。いくらいれても、ほとんど底抜
 けの容量を人間の頭脳はもっているから、入れ物のほうは、だいじょうぶだけれども、
 情報を汲み入れるためのポンプの能力に限界があるのだ。
・情報を選ぶことが、人生を選ぶことである。いい情報だけをじょうずに汲み込んだ人の
 人生は充実しているし、くだらない情報だけを汲み込んだ人の人生は索漠としている。
 どっちみち、一度しか生きない人生なのだから、それは充実したものであるにこしたこ
 とはない。できるだけ、いい情報だけを選んで、上手に生きたい。誰でも、そう思うだ
 ろう。
 しかし、問題は、どうやったら、いい情報だけを上手に選ぶことができるか、という
 ことである。
・差し当たりの方法として、われわれはもっと、批評というものに注意をはらってよい。
 例えばいい本を読みたかったら、新聞、雑誌などの書評欄を丹念に読むことからはじめ
 ることである。
 書評欄には、毎日数十冊というおそるべきスピードでつぎからつぎへと刊行される新刊
 書のなかから、目ぼしいものを選び、それぞれの書物にどんなことが書いてあり、その
 長所や欠点もきちんと分析して整理されている。
 書評をする批評家たちは、いわゆる経験の深い、専門の読書家であるから、その判定は
 おおむね信頼がおける。ひとりで、まったく予備知識も準備もなしに本屋さんい飛び込
 んでめくら滅法に本を買い込むこちに比べたら、あらかじめ、批評家の意見を読んで、
 それを参考にするほうが、ずっと危険率は少ない。
・ところで、批評家というのは、なにも、専門の職業的批評家にかぎられているわけでは
 ない。もっと手近なところにも、すぐれた批評家がたくさんいる。それは、友人たちだ。
 映画であれ、あるいは読書についてであれ、友人というのは、しばしば、最良の相談相
 手である。なにかおもしろい映画はない?ためになるいい本を知ってない?そういう問
 いを友人たちにぶつけてみたらいい。必ず、誰かが教えてくれるはずである。いや、そ
 うした、情報選択についてしっかりした意見をも持っている人間たちこそがよき友人な
 のである。 

教養とはなにか
・元禄時代から今日まで、およそ三世紀にわたって日本人は「三国志」を愛読し続けてき
 た。なにも本だけではない。講釈のなかでも、「三国志」はしばしば織り込まれてきた
 し、本だって、活字だけのとっつきにくいものではなく、大衆読物として、さし絵がふ
 んだんに入っているのが普通であった。だから、「三国志」のなかの成句や逸話は、日
 常の会話のなかにも散りばめられている。
・「三国志」は、その原産地が中国であるにもかかわらず、「水滸伝」や「西遊記」とな
 らんで日本の国民文学のひとつとして考えることができそうなのだ。
 それは、日本人全体が共有している基本的な知識と教養の一部を形成してきたのである。
・ところが、こうした日本人全体に共通する文学的素養なようなものが、どうやら私のみ
 るところでは、いま急速に崩壊の一途をたどっているようなおである。
・たとえば、有名すぎるほど有名な「花見酒」という落語がある。
 落語というのは、人間と人間のつくり出す社会状況のつくつかの典型を驚くほどの鋭さ
 でみごとにとらえた大衆文芸であって、日本の社会について考える場合、落語というも
 のは多少は知っていないと困るのである。そして、日本人は、代表的な落語をお互いの
 共通知識として生きてきているように、私には思える。
・ところが、若い世代の人たちには、そういう知識がまったくない。
 もちろん、落語をたくさん知っている人間がえらい、と言っているのではない。しかし、
 一連の代表的落語などは、大げさに言えば日本国民の基礎教養なのではないか、と私は
 考えるのだ。
 いくつかの物語を共有しないで、「文化」というものはたぶん存立しえない。そして、
 ついこのあいだまで、われわれ日本人にとって「三国志」も落語も、そういう共通の物
 語なのであった。学歴とか職業とかにかかわらず、誰でもがこれらの物語をなにほどか
 は共有していたからこそ、お互いを同じ文化のなかに生きる人間として認め合い、安心
 しあうことができていたのである。
・私はこんにちの日本人がひたすら「学校」を重視するあまり、基礎教養というものをさ
 っぱり忘れてしまっているのではないか、という疑問をおさえることができない。
 なるほど、学校での教育をしっかり身につけた人はたくさんいる。しかし、日本人とし
 て、学校なんかとかかわりなく知っていなければならない基礎の教養と知識がそれと反
 比例して減っているようなのだ。
 それぞれの道で立派な教育を受けた人が、たとえば「三国志」を読んでいない、とか、
 落語、講談のたぐいを知らない、とか、あるいは「百人一首」を一度もやったことがな
 いとか、そういう不思議な事態が出現しているのではないか。
・なぜこんなことになったのであろうか。ひとつの理由は、いうまでもなく受験教育だろ
 う。子どもや若者たちは、試験勉強にエネルギーと時間とすっかり吸い取られてしまっ
 ているから、これまで何世紀にもわたって日本人が共有し続けてきた基礎教育を身につ
 けるチャンスをほとんど持たないまま成長してしまった。
 母親にしたところで、子ども部屋をのぞいてみて、算数のテスト帳などを前に勉強して
 いれば安心するが、落語全集などを読んでいたら、たいていは叱りつけるのである。
 試験に関係のない本を読むのはムダだ、という、おそるべき信念が日本お親たちを支配
 しているのだ。 
・それにくわえて、核家族化の進行といった社会構成上の変化がある。かつての日本の家
 族では、お伽話だの、伝説、ことわざだのを子どもに語り伝えるのは主としておばあち
 ゃんの役割であった。親と子ではなく、祖父母と孫の関係のなかで、国民的文芸のよう
 なものは伝承されていたのである。
 ところが、子どもが祖父母の世代から切り離されれて生活するようになったため、その
 伝承の鎖が切断されてしまった。ひょっとすると、いまの日本の幼い子どもたちの中に
 は「猿蟹合戦」や、「かぐや姫」の話を聞くことなく成長している子どもが少なくない
 のではないか、とさえ疑いたくなる。
・このような国民文芸の復興がはたして可能かどうか、可能だとしても、はたしてまた間
 に合うかどうか、私にはわからない。わからないけれど、もしもたとえば「三国志」が
 日本人の教養からはずれるようになったとき、日本の文化がずいぶん変わってゆくであ
 ろうことは想像がつく。  

お稽古ごと
・日本のお稽古ごと、という教育のジャンルは外国ではあまり見当たらない。もちろん、
 その内容からいえばお稽古ごとというのは芸術教育の一形態であり、そのかぎりでは、
 世界じゅうどこにでもある情操教育の日本的な形であるのかもしれぬ。西洋でも、子ど
 もにバイオリンだのバレエだのを習わせている家庭はいくらもある。しかし、日本は、
 この種の情操教育がすば抜けてさかんな国なのだ。
 お稽古ごと、というのはきわめて特殊な、日本固有の教育のありかたであるらしいので
 ある。
・お稽古ごとのなかで一番その出現がはやいのは舞踊であるらしく、これが定着するのが
 江戸中期、宝暦のことからであるという。
 そして、そのもともとの理由は、たいへん現実的なものであった。というのは、娘に舞
 踊を習わせることが商売上の手段であったからである。
・落語に「妾馬」というのがあって、長屋の娘が大名に見初められ、その縁でパッとしな
 い無智な兄貴が侍にとりたてられる、という滑稽がわれわれをくすぐるけれども、それ
 に似たことが実際に起きていたのである。
・もちろん、踊り上手なら大名にお取り立てになるという保証があったわけではない。た
 ぶん、なにかの偶然で、そういう幸運の舞い込んだ例が二、三あった、という程度のこ
 とであったにすぎないのだろう。  
 しかし、たとえわずかでも、この種の成功物語が世間に流布すれば、ひょっとするとう
 ちの娘も、という気持ちになるのも無理はない。
・こんなふうにしえ、めでたく「芸能人」として大名屋敷に出入りする娘たちが現れたと
 いうのは、江戸中期の新世相であった。
 なぜなら、中世以来、元禄の頃までは「芸能」はプロの手中にあり、シロウトの立ち入
 ることのできない世界であったからだ。白拍子から出雲阿国までの歴史を振り返ってみ
 てもすぐわかるように、芸能は決してアマチュアのものではなかったのである。
・そんなわけで、江戸中の娘で踊りを習わない者はひとりもいない、というほど盛んにな
 り、町人の家庭だけでなく、武家の家庭にもこの流行はおよんだ。
・そういう中、上流の場合には、娘を金のタマゴと考えるのではなく、逆に、娘の芸自慢
 のためにどんどん金を使う、というパターンが出現した。お祭りなどがあると、金を使
 って出演させる。それだけではない。うちの娘は名手ですから、ぜひ御殿奉公させてく
 ださいませ、と大名屋敷に願い出る。もちろん、そのことによって金儲けしよう、など
 というのではない。そんなふうにして御殿奉公に出すことにすると、それは名誉であっ
 て、親も肩身がひろい。そして、そういう経歴があるといい嫁入り先を見つけることも
 できる。要するに、遊芸を身につけておくことは、望ましい花嫁修行の一環なのであっ
 た。ということは、とりもなおさず、嫁入りのためには御殿奉公が望ましく、そのため
 には遊芸のひとつやふたつ、学習しておかなければならない、というのである。
・踊りだけではない。時代がさがるにしたがって、他のさまざまな遊芸がこれに加わる。
 そして、その結果、こんにちのようなお稽古ごとn百花繚乱時代がやってくる。
・多くの人々は、お茶、生け花など、お稽古ごとの代表例を考えるにあたって、これらの
 お稽古が何世紀も盛んに続いてきたのだ、と思い込んでいるが、それはまちがいだ。 
 なるほど、お茶は利休にはじまり、華道もまた立花は室町時代にまでさかのぼることが
 できる。そして、それらが綿々と続いてきたことに疑問の余地はない。しかし、こんに
 ちのように何百万、いや何千万の女性がお茶、お花をたしなむようになったのは、大正
 期、それも旧制の高等女学校が普及したことからであり、もっとはっきりいうなら、太
 平洋戦争以後の過去三十年間の新しいできごとであったというべきなのである。
・そして、お稽古ごとの根本精神のほうも、江戸時代からこんにちまで、あきらかに連続
 しているようなのである。すなわち、私のみるところでは、多くの日本人にとって、お
 稽古ごとは、嫁入り修行なのである。結婚の資格なのである。
 もちろん、こんにちの日本には大名屋敷はなく、御殿奉公というものもない。しかし、
 その代わりに、大学というものがある。とにかくちゃんと結婚するためには大学くらい
 出ていなければねえ、というそれだけの理由で大学進学を娘に進める親たちの数は決し
 て少なくない。お稽古ごとの社会構造は、あんまり変わっていないのだ。その精神は、
 御殿奉公とたいして違わないのではないか。
・注目していいのは、お稽古ごとというものが、一般的にいってレジャー教育につながり
 うるという可能性である。多くの人がこれまで日本社会でのレジャーを論じ、そのたび
 に、日本人はレジャーの愉しみ方を知らない、という診断をくだすおとがしばしばであ
 った。
 たしかに、普通「戦中世代」と呼ばれるこんにちの中年は、若い頃に、あんまり遊ぶチ
 ャンスを持たなかった。だが、レジャーの愉しみ方を知らないというのは、極端にいえ
 ば、この世代を中心にした特殊な現象であって、私などがみるところでは、日本人ほど
 レジャーの使い方について苦心し、研究し、レジャー教育を開発した民族は他にあまり
 見当たらないのである。
・こんにちでも、明治生まれの年輩の人たちの生活のなかには、はっと驚くような充実し
 たレジャー活動があるのに気づくことがある。江戸時代のあの豊かなレジャーが生きて
 いるのである。そうした人におめにかかるたびに、わたしはうらやましいと思う。
 レジャーといわれて、戸惑うのは、そのつぎの世代以後の人びとなのであって、歴史的
 にいうなら、日本はみごとなレジャー教育のシステム化に成功していたのである。
・私は、ひとりの男として、もっと多くの男の子がお稽古ごとに参加していいのではない
 か、と思う。たとえば、ピアノにしても、絵画にしても、およそ芸術教育というものは
 女の子のもの、という思い込みがかなりひろがっており、男の子はめったにお稽古をし
 ない。男の子はスポーツというので、野球などはするけれど、それはお稽古というほど
 のものでもあるまい。そして、親たちのほうも、男の子と情操教育とをつなげることに
 意外と冷淡なのである。
・しかし、輪足などのみるところでは、男のつまらなさ、というのは、子どもの頃にこう
 した情操教育、あるいはレジャー教育を受けなかったことと関係しているにちがいない。
 音楽や美術の成績なんかより、国数理社の四科の点数をあげることだけに熱中して大学
 に入り、大会社に就職する。それが目標であるかぎり、日本の男たちは、がさつで野暮
 で、おもしろくない人間であり続けるのではないか。
 もし、私がもう一度人生をやり直せるなら、もっと芸術的な充実感がもてるような人生
 を設計したい、と思う。 
・芸ごとへの熱中は、日本が二百年以上にわたって鎖国政策をとり続け、国内的な平和が
 維持されていたこと、そして、京都、大坂、江戸という三つの都市を中心に、安定した
 都市文化が成熟したこと。そうしたことが重なり合って生み出されたものだろうけれど、
 同時代の世界をひとわたり見回して、こんなに熱心にレジャー活動を開発していた例は
 他にはない。 
・実際、ずいぶんいろんな芸ごとや趣味生活が日本の江戸時代には開花した。盆栽のよう
 なものへの関心がひろがったし、菊の品種改良を丹念に続けたり、懸崖づくりのみごと
 な鉢をつくったりする人も現れた。レジャーの使い方を知らない、どころのさわぎでは
 ない。いくら時間があっても足りないほど、いろんなレジャー活動を日本文化は用意し
 ていたのである。

「問題」とは何か
・実際、「問題」とは何か、について考えたら、ひょっとすると、巨大な書物が何冊でも
 書けるのではないか、とさえ思われる。われわれはさまざまな「問題」に取り囲まれ、
 それらを解くことに多くのエネルギーと時間を割いている。
・われわれ人間は、数かぎりなくたくさんの「問題」に直面し、それを解きながら、ある
 いは解こうと努力しながら生きているのだ。
 人生とは、ある意味で問題解決の連続であり、わたしなども、しばしば、人生とはコト
 ワザに言う「一難去ってまた一難」に近いものだ、という思いにとりつかれるのだ。
・小学生、いや、幼稚園の段階から、「問題」は先生が出すものと相場がきまっている。
 そして子供たちは、出された「問題」を解くことに熱中して人生のスタートを切る。
 もちろん、そのこと自体は悪いことではない。しかし、「問題」は、つねに先生だの、
 問題集だの、ドリルだのといったふうに外的に与えられたものだ、と考えてしまうのも、
 人間の精神にとって決して健全なことではあるまい、と私は思う。
 なぜなら、「問題」とは、ほんとうはそれぞれの個人が発見し、そしてつくる性質のも
 のであるからである。  
・「問題」の発見などというと、たいそうなことに聞こえるかもしれないが、たとえば、
 テレビをみていた子どもが、突然、テレビって、なぜみえるんだろう、という疑問を抱
 いたとするなら、それが「問題」発見なのである。
 なぜ、どうして、というあれこれの好奇心、「問題」というものは、そんな好奇心を母
 胎にして、心のなかから湧いてくるこのなのだ。そとから一方的に与えられるものだけ
 が「問題」なのではない。
・「問題」というものは、それぞれの人間がつくるべきものなのである。テレビはなぜみ
 えるんだろう、と考えた子どもは、そのとき、みごとにひとつの「問題」を自分でつく
 ったのだ。 
・私は、そんなふうに自分で「問題」をつくる子どもはすばらしいと思う。そして、そう
 いう「問題つくり」をうんと力づけてやるのが大人の責任だと思う。
・ところが、こんなふうな「問題つくり」→「問題解決」のサイクルを子どもや若者の心
 のなかにつくりあげてゆくことを日本の学校も家庭もあんまりしていない。いや、して
 いないばかりか、むしろ、それをおしつぶす。
 なぜテレビは見えるんだろう、数かぎりなく、こんこんと心のなかに湧き出てくる疑問
 を投げ出してみても、親たちは、かならずしもその子どもの「問題つくり」の手助けを
 してやらない。ひとつは面倒くさいし、正直なところ、親にも難しすぎてわからない。
・お母さんたちは心のなかでつぶやく。テレビがなぜ見えるか、だって?そんなこと知ら
 なくたっていいでしょ。だいいち、そんな「問題」は入学試験に出ないわ。
・つまり、親たちの頭のなかには、「問題」を自分の力で発見し、つくることがいかに大
 切か、という意識ないし思想が完全に欠落しているのである。
 「問題」は、ひとから出してもらうもの、という観念ががっしりと根をおろしてしまっ
 たいるのだ。   
・大学で若い人たちを相手にしていたときも、私はそのことを感じた。論文のテーマに何
 を選ぶのか、何を「問題」としてとらえるのか。それが自分の力でできるのがそもそも
 大学生の基本的な資格だと輪足は思っているのだが、年々、自分で「問題つくり」ので
 きる学生は減ってきた。何をやったらいいのでしょう、などと聞きに来る連中が押しか
 けてくる。私はうんざりした。ここは幼稚園ではないのだよ、問題は自分で見つけたま
 え、見つけたら手伝ってあげるからね。相当強い言葉で学生に言ったことがある。だが、
 彼らはキョトンとして、私を見つめ、私のことを不親切だ、などと悪口を言ったらしい。
・私は手遅れだ、と思った。小学生のときから、解くことのできる「問題」だけを与えら
 れ続けてきた若者たちは、「問題つくり」の能力を持たないまま、モヤシのごとく成長
 してしまったのである。  
 二十歳近くなったこのモヤシどもに、「問題つくり」の能力を与えようとしても、もう
 遅い。日本社会での創造性は、だんだん弱くなってゆくのであないか。私は淋しくなっ
 た。いまも、淋しい。
 
創造性というもの
・たぶん、人間にとって、一番大事な能力というのは、創造の力なのである。実際、あり
 きたりの知識だの情報だのというのは、今日の社会では、それほど重要なものではない。
 情報の質によっては、その記憶や再生は、コンピューターにまかせておくことだってで
 きる。人間の頭脳は、創造、という、もっとも高度で人間的なはたらきのために使うべ
 きなのである。創造的な活動のできる人こそが、もっとも、人間としての充実を感じる
 ことのできる人でもあるのだ。
・しからば、このような創造的思考をするためには、どうしたらよいか。常識を疑い、既
 存の観念の枠組みにとらわれないことがその秘訣だ、などといってみても、なかなか、
 常識でこり固まったわれわれが、いきなり創造的になることなんか、できた相談ではな
 い。やはり、ほんとうに創造的であるためには、幼いときから、創造力を養うような訓
 練が必要だ。大人になってから、創造的思考を身につけることも不可能ではないけれど、
 子どものうちからその訓練を受けておくほうが、はるかによろしい。創造力の問題は、
 私のみるところでは、教育の問題でもあるのだ。  
・どんなことであれ、「なぜ」を問うことは創造性の第一歩である。既存のものを疑って
 みないことには、新しい観念を生み出すことはできない。
 「なぜ」という問いを、そのまま受け止めて、一緒に考えるのが、私などのみるところ
 では、そもそも教育者という者の役目なのだが、一般にいって、今日の教育者、いや、
 昔から教育者というのはそういうものなのかもしれないが、「なぜ」という問いに答え
 ようとしない。 
・創造性への芽とでもいうべき、あらゆる疑問を日本の教育は、もっぱら圧殺してしまっ
 ているのである。せっかく育ってゆきそうな芽を、学校は、どちらかといえば、チョン
 チョンと切り取ってしまう。育つはずがない。
・その結果、われわれ日本人は、おしなべて、さっぱりおもしろくない。小手先のことは
 ともかく、ほんとうにひとをびっくりさせるような「創造」がない。大人たちは、つま
 ならそうな顔つきで、毎日、満員電車に揺られることを宿命と思い込んでいるし、若者
 たちの表情にも活気がない。
・創造的な人間。それは、ほんとうに充実した人間である。そういう人間を、本気で育て
 ることを、われわれは怠っている。いや、創造ということの価値さえ、われわれは知ら
 ないでいる。  
 学校が詰め込み教育である、とういうのも、はやく変えなければいけないけれど、学校
 がつみとってしまう創造への芽を、せめて、家庭では伸ばすことを考えたい。
 学校の試験制度にお付き合いをして、家庭でも、詰込み教育に熱中したりするのは、私
 のみるところでは、長期的に、子どものしあわせを約束するものではありまい、と思わ
 れるのだ。

わがままな期待
・日本の社会では非常に多くの母親たちが、三歳、四歳といった幼い子どもたちにピアノ
 だのバレエだのを習わせている。このごろでは、英語の幼児教育もはじまっているらし
 い。それを、日本の「教育熱心」という言葉で表現することもできるだろうし、幼い子
 どこたちのそういうあどけない学習風景は、たしかにほほえましい。
・しかし、よく考えてみよう。はたして三歳の幼児に、バレエだのピアノだのが、自分に
 とって必要だという判断ができるだろうか。いや、判断などという高級なことはともか
 く、そもそも、興味があるのだろうか。興味なんか、多くの場合、ありはしない。三歳
 の子どものこころは、きわめて不定形なのである。かれらは、少なくとも自発的にピア
 ノを習おう、という気持ちにはならない。ピアノを選ぶのは母親である。母親が習わせ
 るのである。そこに働くのは、自発性というよりは強制である。
・強制ということは、とりもはおさず、子どもの人生の一部を親が勝手に左右する、とい
 うことだ。一人前の人間なら、その判断力によって何を学ぶかを決定することができる。
 だが、三歳の幼児の学習は、本人が決定するのではなく、母親が決定する。もしも、そ
 の決定が、その子どもの将来にとって望ましいものであるならば、問題はない。だが、
 その保証はどこにもない。
・それならば、というので、一人前になるまで放っておけばよい、ということもできない。
 だいだい、人間が一人前になる、というのは広い意味での教育の結果なのであって、人
 間とつきあうことなく、オオカミとともに育った野生児の例が示すように、放ったらか
 しで一人前になるはずがない。
・ピアノだの語学だのの場合は、多くの心理学者たちの教えるところによるろ、幼い頃に
 始めるのが望ましい、ともいう。本人の決心でなく母親の、そして教育者の決心で人間
 の一生は決まってゆく。   
 教育の営みに関わるすべての人、すなわち教師や親たちは、人間の社会的生命を左右し
 ている、という事実に目を向けるべきだろう。
・人間は、生まれてきた子どもの人生を、かなり勝手な仕方で左右できるし、また、しな
 ければならない、という責任を背負っているのだ。ひょっとすると、人間の人間に対す
 る支配は「教育」にはじまる、ということになるのかもしれない。だから、といって、
 その「支配」はほとんど宿命でさえある。これを避けて人間がその人生を生きることは
 できないのである。  
・そして、私は、この問題について考えるたびに、親として、あるいは教育者として深い
 懐疑主義におそわれる。とにかく、幼い子どもに厳密な意味での主体的判断力がない以
 上、いつ、なにを、どんなふうに学ぶかは親が関わって判断してやらなければならぬ。
 そして問題は、その親の判断の基準が必ずしも正しくない、という点にある。
・現代はゆれ動きの時代である。子どもの人生がどんなものになるか、について親たちは
 イメージを持つことが難しい。三歳でピアノだの英語だのを学ばせ始めるのは結構だが、
 その子どもがピアニストになったり、外交官になったり、という希望を親は持っている
 のであろうか。ただ何となく、みなさんがやっていらっしゃるから、それだけの理由が
 親の判断の背景にあるのではないのか。
・子どもを東大に入れたい、というのは親の希望であるかもしれぬ。しかし、うちの亭主
 が東大出でないばっかりに会社でソンをしている、だから息子にはどんなことがあって
 も東大に、というのは母親のバケげたエゴイズムというものだ。息子には息子の人生が
 あり、大学進学の時期になれば、息子は自分の力で学校を選ぶことができる。いや、進
 学すべきか否かをさえ選ぶ自由がある。本人がイヤなものは、しかたがない。
・そのうえ、東大だの、ピアノだの、英語だのといったものが、これからの時代にどんな
 権威を持つかわからない。世界は動き、時代は変わっている。親が自分の経験のなかで
 欠けている部分を子どもに埋め合わせてもらおう、と思っても、所詮時代が違えば、埋
 合せとみえる部分がかえって子どもの人生にとってのマイナスであるかもしれないので
 はないか。   
・自発性というものがさっぱりなく、親の期待に応える、というだけのために大学に入っ
 てくる若者たち、私が数年前に日本の大学の教師であることを辞めた一因は、こういう
 不思議な学生たちに愛想がつきたからである。こんなふうに、もっぱら親のために進学
 する人間がいくら増えたって、日本の学問や文化はよくならない。むしろ、悪くなるに
 決まっている。
・かつての若者たちは、みずからのやみがたい向上心によって進学した。そして、しばし
 ば、それを思いとどまらせようとするのは親の側であった。百姓の子が学問なんかして
 何になる、だいいち、そんなカネがあるものが、親はそういって子どもを叱った。それ
 にもかかわらず、子どもはそれを振り切って学問をした。子どもの向上心のほうが、親
 の期待より高かったのである。
・ところが、現在はちがう。子どもにはさっぱり向上心もないのに、親の期待値がべらぼ
 うに高い。東大に入ってほしい、大企業だの官庁だのに入ってほしい、出世してほしい。
 期待が高いのは結構だが、ご本人のほうにその希望もなく、能力もなければしかたがな
 い。そして親の期待に応える、という珍妙な「教育」が横行する結果、さまざまな悲劇
 が発生しはじめた。
・人間が他の人間の生命を奪うことは罪悪である。それと同じように、人間が他の人間の
 人生を勝手に操作することも罪悪ではないか。いったい、教育とは、どこまでが、どん
 な種類の強制でありうるのか。私には正直なところ、わからないことだらけだ。
 
学校の意味
・われわれの多くにとって、学校教育というものの「目的」が、国家の支配層の一員にな
 ることに置かれている、ということである。
 もちろん、高等教育を受けた日本人のすべてが官界に入って、高級官僚になりたいと思
 っているわけではあるまい。官界、政界よりも、むしろ自由度の高い経済界、実業界で
 働くことを選ぶ若者もたくさんいる。しかし、実業というもの、じつのところは、国会
 の支配体制とぴったり結びついているわけだから、結局のところ、大学を卒業して就職
 すれば、どこに行っても、いわゆる「体制」側の一員になる、という公算が高いのであ
 る。
・私が指摘しておきたいのは、学校というものが、おしなべて、直接、あるいは間接に国
 家の支配原理と重なり合って存在しているという事実なのである。その事実は、なかな
 か動かしにくい。一言で言うなら、学校というものは、おしなべて保守的な性質のもの
 なのだ。
・そんなふうに、図式的に言いきってしまうことは、決して適切でないかもしれぬ。しか
 し、放っておけば、学校教育というのは、さっぱりおもしろくないものになる可能性が
 高い。いったい、どこから、学校というものに活力を与えられるのであろうか。私は、
 要するに、ひとりひとりの人間の知的好奇心にこそ活力の源泉があるのではないか、と
 思う。学校から、教育を「与えられる」とか考えるのではなく、さめた好奇心によって、
 教育の機会を刺戟源として「使う」こと、それが、学校の「使い方」であり、教育とい
 うものの本来の趣旨なのではないか。
・学校教育は、受けるにこしたことはない。しかし、個人の側に、主体性がないかぎり、
 どんな立派な学校に行こうとも、その人間の人生は、あんまり充実したものではありえ
 ないだろう、と思う。「独学」とは、主体性に学ぼうとする姿勢のことにほかならない
 のである。