この寺院は仙台東照宮のすぐ近くにある。
この寺院に興味を持ったのは、先般、
延壽院を訪れたとき、「浄圓大徳」という僧侶が、江戸時代初期にこの仙岳院で修行した、
という話を知ったからであった。
この仙岳院は、
仙台東照宮の別当寺として1654年に建立されたようで、仙台藩の寺院では筆頭の格式であったらしい。
また、平泉・中尊寺の別当も兼ねていたという。
しかし、明治維新期に新政府より出された
神仏判然令により仙台東照宮から分離され、別当寺ではなくなったという。
この仙岳院の山門の脇に「輪王寺宮公現新王御座所」という石碑があった。
これはなんだろうかと調べてみたら、明治維新時に新政府軍に強い反感を持っていた輪王寺宮(
北白川宮能久親王)が、
榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで東北に逃避してきて、
奥羽越列藩同盟の盟主に擁立され、
ここを住いにしながら
白石城へ行き来して列藩会議に出席していたということらしい。
また境内に「小萩観音」というのがあったのだが、これまたすごい歴史のあるもののようだ。
この「小萩」という人は、
藤原秀衡の三男、和泉三郎忠衡の家臣、石塚民部守時の妻で、
文治5年(1189)に源頼朝が平泉を攻めたとき、和泉三郎忠衡の5歳の女児を石塚民部守時と小萩が護って、
守時の弟である加美郡色麻村の清水寺の観円のもとに身を寄せたという。
平泉の滅亡後、守時は出家し仙台に移った。しかし、まもなく守時も忠衡の娘も亡くなった。
残された小萩は、現在の東照宮の近くに一堂を建て、忠衡の娘の護持仏の十一面観世音菩薩を念持仏としてまつり、その冥福を祈ったという。
東照宮建立の際に、天神社とともに榴ヶ岡に移され、天神社の別当寺として仏生寺と称した。
しかし、明治維新後に廃寺となり、観音像は一時人手に渡ったが、仙岳院がこれを買収してこの地に祀ったのがこの「小萩観音」ということらしい。
しかし、現在の仙岳院は、見た感じあまり手入れが行き届いていないような印象を受けた。
寺院経営が厳しいのか、それとも後継者の問題なのか。ちょっと残念な気がした。
【所在地
仙台市青葉区東照宮1丁目1ー16