読むクスリ  :上前淳一郎

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原敬と新渡戸稲造 戊辰戦争敗北をバネにした男たち [ 佐藤竜一 ]
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史上最強の平民宰相 原敬という怪物の正体 [ 倉山満 ]
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この国を揺るがす男 安倍晋三とは何者か [ 朝日新聞社 ]
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この本は、週刊文春に1984年から2002年まで「読むクスリ」(1から37)とし
て長期連載されたものを文庫本化したものの一冊で、今から34年前の1987年に出版
されたもので、当時の時代の空気感をあらわした小話集である。
いろいろ懐かしい話が出てくる。例えば、今のパソコンで黎明期の話。私も胸をわくわく
させながらワンボード・マイコンと言われた「TK80」を購入した一人である。今から
見れば、ほんとうにおもちゃであったが、これによって大きな夢を見ることができた。
これでなにかできたかというと、あまりにも単機能なため、私はほとんど使いこなせない
ままに終わっってしまった。
このあとに私が購入したのが富士通のFM−7だった。このパソコンは、なかなかのすぐ
れものだった。付属の基本ソフトであるBASIC言語のほかに、FDドライブを増して
OS−9というOSを導入することによって、8ビット機でありながら、UNIXと同様
マルチユーザー、マルチタスクの環境が実現できたのである。これは当時としては画期的
だった。しかし、必ずしも優れたものが市場に受け容れられるとは限らず、残念ながら世
の中はNECのPC98シリーズ一色に染まって行った。
東京ディズニーランドの清掃の話も凄いなと思った。確かに東京ディズニーランド行った
ときには、きれいで清掃が行届いているなと感じたが、その裏では、こんなことが繰り広
げられていたのかと思うと、改めて感動させられた。
山口百恵さんの著書「蒼い時」の誕生秘話もなかか興味深かった。私はその著書はまだ読
んだことがないのだが、その立役者の残間里江子さんの著書は2年前に「もう一度花咲か
せよう
」という本を読んだことがあった。こういうところで繋がっているんだと面白く思
った。


組織に生きる
・日本電気は日本のパーソナル・コンピュータの先発企業で、国内シェア45パーセント
 を誇るトップ・メーカーである。ところが、初めてパソコンを売り出したとき、それが
 こんな大型商品になると考えている社員は一人もいなかった。それどころか、トップか
 らコンピュータ関係者まで、ほとんど誰も発売に反対だった。
・昭和40年代の終わりごろ同社は、マイコン・チップの新しい販路を求めた。大量生産
 と技術革新で、半導体の値段がどんどん安くなりはじめた時期だった。単価が安くなっ
 たものは、大量に売らなければ利益が出ない。ではいったいどこへ売ればいいか。それ
 までチップは主としてレジスター用だったが、ミシン、編機、冷蔵庫などになんとか使
 ってもらえないかと、販売部隊が編成されることになった。
・いまでこそマイコン・チップを組み込んだ電化製品は当り前のことになっているが、当
 時はそんな有様だったのである。
・それでも、とにかく売らなければならない。アメリカではどんな用途に使われているの
 だろう、と研究のため西海岸へ出かけていくようになる。
・やがてシリコン・バレーのお膝元で、妙な機器が使われているのを発見する。おもちゃ
 みたいにちっぽけな コンピュータだ。当時はすでにアメリカにはアップル社が誕生し、
 のちにパソコン用のソフトで当てたマイクロ・ソフト社も活躍を始めていた。
・帰国して、工場の屋根裏部屋のようなところにこもり、”おもちゃ”、もう少し上等な
 言葉でいえばホビー・コンピュータづくりを始める。しかし、おもちゃとはいっても、
 きちんとケースに収まった完成品なんて、どうつくればいいのかわからない。「ええい。
 部品をそのままビニール袋に突っ込んで売ってしまえ」買ったほうで組み立ててくださ
 い、というマイコン・チップつきのプラモデルみたいなものである。秋葉原のマイコン・
 ショップなどに置いてもらった。名前はTK80(トレーニング・キットの意味)とつ
 けた。昭和51年秋のことである。
・ところが、これが売れた。この小さなコンピュータには、初歩的な言語しかない。自分
 でハンダづけして組み立てたあと、説明書に従ってキーボードを押すと、簡単なプログ
 ラムやメロディが出てくるだけの、ほんとのおもちゃだ。それが売れたのだ。小さくて
 いい、自分でもコンピュータをいじってみたい、という層が、日本にも厚く存在してい
 たのだ。
・TK80でテレビゲームがつくれる。という発見がファンの間に口コミで伝わり、関係
 のないところからゲーム集が出版される。
・用途も思いがけないところに広がりはじめた。プログラムをつくって医師がカルテを管
 理したり、公認会計士が顧客リストの管理をする。あるいは、お寺が檀家の管理に使っ
 ている、という話も耳に入ってくるようになった。そうやって、TK80はあっという
 間に7万台を売りつくした。
・そうなると、プラモデルにすぎないTK80を、ケースに収めた完成品にして売りたい。 
 張り切ってケースをデザインし、組み立てたTK80を収め、もう少し高級な言語が使
 えるようにして、「コンポBS」と名どけた。
・日本電気は大企業や官庁向けに、通信機や大型コンピュータを納入してきた会社だ。し
 たがって、大衆向けに量販するルートや店を持っていない。それ以前に、量販商品をつ
 くるシステムが社内にできていない。
・社内のあちこちから反対の声が吹き出しはじめた。
・結果は、惨たんたるものだった。コンポBSはまったく売れなかったのである。コンポ
 BS失敗の原因を、あれこれ考えたみた。結論は、中途半端だ、ということだった。完
 成品として売るなら、ハードの面でもソフトの点でも、もう少し高級でなければいけな
 い。つまり、プラモデルでも完成品でもないものを売り出してしまったのだ。
・まず言語を完全なものにしようと、アメリカへ飛び、マイクロ・ソフト社に専用の言語
 BASICの開発を依頼した。
・その旅行で、アメリカではパソコンが普及しはじめていることを初めて知る。これはき
 っと日本でも売れるようになる、と確信した。
・工場の屋根裏で新機種の開発に徹夜を続ける一方、見てきたアメリカの事情を話し、コ
 ンピュータを使いたいが、大型には手の届かない層にきっと売れます、と筋道を立てて
 説明する。
・屋根裏でつくられた日本初のパソコン、PC8000は、そうやって発売された。昭和
 54年9月である。発売と同時に、羽根が生えているような勢いで売れていった。ほし
 いのにどうしても手に入らない企業が、社長のところへ直接頼みにくるまでになった。
・あんなおもちゃ、といっていた社内の空気が、からりと変わった。
・PC8000は25万台を売る名機になり、さらに高性能の機種へとグレード・アップ
 されて、パソコン王国NECの基礎を築くことになっていった。
  
・休日の入場者5万人と大賑わいの東京ディズニーランドでは、日に20トンのゴミが出
 る。この処理を一手に引き受けているのが、カストディアル(管理、の意味)と呼ばれ
 る同ランドの清掃部門。アルバイトを含めて400人いる。
・その掃除法は、日本ではちょっとほかに見られない画期的なもので、本場アメリカのデ
 ィズニーランドの清掃部門を確立したチャック・ボヤジャー氏によって持ち込まれた。
・開園に先立って特訓に来日したボヤジャー氏は、1冊100ページ、5冊からなる大部
 のマニュアルを突きつけ、そこに書いてある通り園内の掃除をやるように求めた。この
 マニュアルは厳重な社外秘だ。
・カストディアル・スタッフは、白シャツ、白ズボンに身を固め、5つの道具を持って園
 内を歩き回る。 
・5つの道具とは、ぼうき、ちり取り、雑巾、紙タオル、それにポケット・スクレーバー
 (チューインガムをはぎ取るための金属板)だ。
・これを使って、落ちているゴミはなんでも、ただちに拾ってしまう。吸い殻や鼻紙は、
 ほうきとちり取りで手早く。  
・こぼれた水やジュースなどは、紙タオルで拭き取る。ただし、かがんで手でやってはい
 けない。足で拭い、水分を吸った紙タオルはほうきとちり取りで、さっ、とすくう。目
 立たず、スマートに。
・それも、ただ歩き回っているのではない。それぞれ持場を決めて、「15分サイクル」
 と呼ばれる歩き方をする。元の場所に戻ってくるまで15分の範囲を、ぐるっと回って
 歩くのだ。
・つまり、広い園内には、徒歩15分の範囲に絶えず、1人ずつの清掃員がいることにな
 る。いいかえれば、客が捨てたどんなゴミでも、15分以上落ちていることがない。だ
 から、園内どこへ行っても、いつもきれいだ。
・人間というのは面白いもので、すぐ拾おうと待っていると、なかなかゴミを捨てない。
・園内に灰皿がない。吸い殻が突っ込まれた灰皿もまた、汚らしく見えるからだ。タバコ
 を吸おうとして灰皿がないことに気づいたゲストは、「ここは禁煙なんですか」と清掃
 員の顔を見る。1日に何十回となく同じ質問が出る。「かまいませんから下へ捨てて下
 さい」言われてあたりを見回すのだが、ひとつも吸い殻は落ちていない。ゲストは落着
 かない表情になって、吸おうとしていたタバコをポケットに戻してしまう。
・これが「15分サイクル」の最大の効果だ。誰でも、ちりひとつ落ちていない清潔な場
 所を、自ら汚そうとはしないものなのだ。
・その代わり、見えないところへ捨てる。吸い殻の場合は、ベンチのうしろの植え込みの
 土の中へねじ込まれることが多い。閉園のあとの清掃で、その始末がいちばん厄介だ。
・トイレもまた、ゲストが使えば当然汚れるものだ、という前提で管理されている。だか
 ら「あとの人のために、きれいに使いましょう」などという精神主義的な標語はどこに
 も貼っていない。その代わりすべてのトイレに担当者が決まっていて、「15分サイク
 ル」ほどではないが、まめにペーパーの補給と掃除をする。
・トイレ担当は女子大生のアルバイトが多いが、初めのうちは閉園まぎわになると、決ま
 って泣きべそをかきながら事務所へやってくる。「淋しくて、あたし、もうとてもだめ
 です」子供たちで賑やかだった園内も、夕暮れ迫るころには静かになり、ただっぴろい
 中にひとり取り残されたような気持ちになるのだ。
・ところが、決して泣き言をいわず、いつもにこにこ引き揚げてくる女子大生がいた。珍
 しい子だな、と思った事務所の係員、ある夕方こっそりのぞきに行ってみると、なにや
 ら話し声が聞こえる。「トオル君、ためじゃないの、またこんなに汚しちゃって」「ユ
 カリちゃん、さあ、きれいになりましょうね」
・女子大生は担当の便器ひとつひとつに名前をつけ、大声で話かけては心細さを紛らわせ
 ながら、 自分のオイやメイを風呂にでも入れるように磨き立てていたのだった。
 
・将棋棋士の世界は、厳然たる実力主義に貫かれている。盤上の勝負の結果だけで順位が
 決まり、その順位に応じて大局料、つまり収入も決まる。一分すきなく明快、ときとし
 て非常な世界である。
・ところが、勝負の盤をほんの数センチ離れると、そこには簡単に割り切れない、妙に人
 間くさい空気が漂いはじめる。
・対局が行なわれる座敷には、床の間がある。それを背にする位置が上座、その反対側が
 下座だが、勝負を始める二人の棋士のどちらが上座に坐るのか。それが大問題だ。
・上座を奪い合うのではない。勝負の世界ではあるけれど、そういう棋士はいたためしが
 ない。お互いに相手を立てて、自分が下座につこうとする。古きよき日本の謙譲の美徳
 である。
・棋士の間には、二つの考え方がある。ひとつは、あくまでも実力主義で、順位が上の側
 が上座につくべきだ、というもの。もうひとつは、先輩、すなわちこの世界で長く飯を
 食っている棋士に上座を譲る、というものだ。
・年長者がいつも順位が上ならいいのだが、現実はそうではないために問題が起こる。
 「きみ、順位が上だから、そちらへ坐りなさい」「いえ、私のような若輩が・・・」
 繰り返しはじめたら、きりがない。勝負が始めらない。
・ところが、そのうちなんとなく決着がつく。ほかの棋士たちが見て、決して不自然では
 ないように二人の位置が決まるというから面白い。
・棋士の重要な資質のひとつはバランス感覚だとされるが「実力主義」と「謙譲の美徳」
 を足して二で割れるあたり、見事な感覚というべきだろう。
・ところで、下座についた棋士は、自分のほうから勝手に駒に手を出してはならない、と
 いう礼儀がある。上座の人が箱のふたを開け、袋に入った駒を盤面に取り出す。ついで
 上座が王(おう)を盤面に、ぴしり、とすえる。それを待って下座は玉(ぎょく)を取
 り、お互いに駒を並べていく。王のほうが玉より格が上なのである。
   
社外につくる人間関係
山口百恵三浦友和との婚約を発表し、芸能界から引退を表明したとき「婚約おめでと
 う」とお祝いのカードを贈った、まったく無名の女性記者がいた。アナウンサーからフ
 リーランスの取材記者になった、まだ二十歳代の女性だった。
・彼女は記者のかたわら、歌手の金子由香利のプロモートをしていて、由香利の歌が好き
 な百恵に、コンサートのプログラムに印刷する推せん文を書いてもらったことがある。
 百恵が自分で書いた推せん文は、文章がしっかりしているうえに情感がこもっていて、
 しみじみと読ませるものだった。いい文章が書けるひとだなあ、と女性記者は感心した。
・でも、百恵ちゃんとのつき合いはそのときと、取材を含めて二度だけ。むこうは有名、
 こっちは無名、どうせ覚えていてくれるはずはない、と思いながら、彼女はお祝いのカ
 ードに書き添えた。
・「私は近く女性誌記者をやめ、いよいよ由香利さんのプロダクションをつくります。記
 者をしているうちに、一度なにかあなたに書いてほしいと思っていたのですけれど・・」
・思いもかけず、折り返し手紙がきた。「あたしにはいま、自伝を出版しないか、という
 申し込みが四十件を越えています。でも、みんな申し合わせたように、あたしには書か
 なくていい、というのです。そんな本を出したくありません。一度あなたにお目にかか
 って、お話できませんか」
・記者は仰天した。活字の世界から足を洗おうとしているところへ、本をつくる話が飛び
 込んできたのだ。それも、天下のアイドル・スターから。
・百恵ちゃんは、歌手生活の総決算に、自分が歩んできた道を本にしてみたい、と思って
 いた。しかし誰も、書きなさい、とはいってくれない。出版したい人間はたくさんいる
 が、どうせ芸能人、書けるわけはない、と、ゴースト・ライターを用意しての申し込み
 ばかりだ。
・そのことが彼女には口惜しかった。本をつくるときには、芸能人としてではなく、ペン
 を持つ人間として扱ってほしい、と思う。ついに、四十件を越える申し込みをみな断っ
 てしまった。
・そこへ来たのが女性記者からのカードだった。「あなたに書いてほしい」と記してある。
 百恵ちゃんはこの一行に、弾かれるように立ちあがったのだった。
・「歌手としてのあたしは、たくさんの人の演出の上に乗っかって、ただ踊らされていた
 だけ。でも、本を書くのは自分ひとりの作業ですね。だからやってみたいんです」と百
 恵は言った。
・「でも、きれいごとはだめよ。ほんとのことだけ書きなさい」と女性記者は応じた。百
 恵は、うん、うん、とうなずく。
・二人で相談して章だてをつくり、百恵は書き始めた。東京にいるときは女性記者の事務
 所の片隅で、地方講演に出ると楽屋で。できてくる原稿を記者は読み、厳しい注文をつ
 けた。
・そうやって八カ月かかり、四百枚の原稿ができていった。女性記者はあらためてそれを
 ずたずたに削り、二百八十枚に縮めた。
・「三万部くらい売れてくれるといいね」
・「蒼い時」と題された本が発表されると、二人は胸をときめかせながら話し合った。 
・それから三年ほどの間に、単行本と文庫本を合わせて、三百万部が売れた。爆発的なベ
 ストセラーの出現だった。
・当時の女性記者の名は残間里江子。のちに女性誌「Free」の編集長になった。その
 世界では山口百恵くらい有名なひとである。
 
・「いい教師と政治家になるための条件は、相手の名前と顔を一度で覚えることだ」とい
 われるが、自民党派閥の領袖だった故河野一郎は、もっと具体的だった。
 「市会議員は千人、県会議員は二千人、国会議員は五千人の名前をそらで覚えていなく
 ちゃいかん」
・平民宰相として日本で初の政党内閣を組織した原敬は、この点にかけては卓抜な政治家
 だった。自ら率いる政友会の党員の名前や顔はむろん、一人ひとりの経歴や、誰と誰が
 中がいいか悪いかまで、克明にそらんじていた。誰と会っても、やあ、と名前で呼びか
 け、気さくに話をするので、党員や支持者の間に非常に人気があった。
・大正十年、東京駅頭で原が刺客の凶刃に倒れたあとについで政友会総裁、内閣総理大臣
 になった高橋是清は、そういう人身収攬術がからしき下手だった。もともと彼は、まわ
 りの人間になんの興味も関心も持っていなかった。
・では、高橋はだめな政治家だったかというと、必ずしもそうではない。髪のなくなった
 頭と、大きな円い顔をで、ダルマの愛称をたてまつられて、国民の間には幅広い人気が
 あった。
・その財政家としての手腕を国民は正しく評価していて、金融恐慌や不況のたびに、ダル
 マ蔵相の出馬を求める声が湧き上がった。
・事実、彼は首相を辞めてからも何度か蔵相に就任し、昭和初期の日本の財政のかじ取り
 を見事にやってのけている。
・昭和十一年、雪の朝二・二六事件で高橋は青年将校の凶弾に倒れたが、その年、生前の
 口述記をもとに出版されたぼう大な自伝を読んだ人びとは、びっくり仰天した。あの健
 忘症の政治家が、何十年も昔の思い出を詳細に語っていたからだ。
・その秘密は、彼の手帳にあった。いつも着物のふところ、洋服のポケットに手帳を入れ、
 会った人の名や起こったことを細大洩らさずメモする習慣を身につけていたのだ。
・彼が射たれた私邸二階の寝室には、机の上といわず、本棚といわず、過去数十年間にわ
 たるおびただしい量のポケット手帳が、きちんと積み上げられていた。もの覚えがよく
 ないことを自ら知っていた彼は、頭の中にしまっていく代わりに、紙とペンと使ってい
 たのである。
 
国際人の目ざす
・東京・大田区に住む矢木太郎さんは明治生まれだが、いまも現役のハムである。アマチ
 ュア無線に興味を持ちはじめたのは少年のころ。大正時代すでに「CQ、CQ・・・」
 とやっていたという。日本のハム草分けのひとりだ。
・そのころ神戸にやはり無線好きの少年がいて、よく交信した。会ったことはないのだが、
 電波でお互いに近況を伝えあい、すっかり仲よくなった。井深という少年だった。
・戦後ソニーという会社ができたとき、矢木さんは東芝に勤めていたが、突如出現したそ
 のライバル企業の社長井深大さんがかつてのハム仲間とは、夢にも思わなかった。
・矢木さんや井深さんは、戦前さかんに外国と交信したものだった。海外の愛好家と交信
 すると、お互いに自分のカードに名前や日付を記入した証明書を交換する。QSLカー
 ドと呼ばれるが、太平洋戦争が始まるころ矢木さんは、このカードを一万枚以上持って
 いた。
・戦争が始まると、ハムどころではなくなった。空襲で家を焼かれ、奥さんを郷里へ疎開
 させて、東京・池上の友人の家にひとり転がり込む生活だった。
・昭和二十年九月、敗戦直後のある真夜中、その家の表戸を乱暴に叩く音がする。「タロ
 ウ、いるか」英語で叫び声が聞える。矢木さんの友人は青くなった。きっと米兵が捕ま
 えに来たのだ。そっとのぞいてみると、自動小銃を肩に下げた大男だ。それが、満足に
 鍵もかかっていない表戸を開けて、押し入ってこようとしている。
・「もう、だめだ。やられる」観念しながら、いぶかった。「それにしても、平凡な市民
 の自分が、なぜ・・・」
・「タロウか」大男がたずねる。「イエス」と答えた瞬間、相手は抱きついてきた。
・「おお、タロウ。無事でよかった。ぼくはジュリアス。ほら、ペンシルバニアの」ジュ
 リアスは何年も前に矢木さんが送ったQSLカードを差し出した。
・無線好きがこうじて空軍通信部隊に入った彼は、マッカーサー元帥の進駐より一足早く、
 通信設備を敷くために日本へやってきていた。アメリカを出るときから、日本に着いた
 らタロウに会うのを楽しみに、QSLカードをポケットにしのばせてきたのだが、東京
 は一面の焼野原だ。
・カードの住所を頼りにジープを走らせて来ると、焼跡になにか書いた立札が立っている。
 焼死したタロウの墓標か、と思ったそうだ。こわがる近所の人たちをやっとつかまえて、
 矢木さんの避難先がわかり、そのまま駆けつけてきたのだという。
・友情は復活した。二人は肩を叩き合ってハムの話をした。ジュリアスは毎日ジープで姿
 を見せ、食べものもない矢木さんと友人に砂糖やタバコを山のように届けてくれた。
・「それにしても、アメリカ人というのはたいしたものだ、とつくづく思いましたね」と
 矢木さんは振り返る。「戦争をやっていながら、昔のハム仲間を探し出して訪ねてくる。
 あのゆとり、というか懐の深さね。とてもかなわないという気がしました」
・もし日本が勝って、自分がアメリカへ上陸したとき、同じようにジュリアスを訪ねて行
 っただろうか、と矢木さんは考えた。とてもできな、友人を訪ねるゆとりなんてない。
 戦争をやるだけで精いっぱいだったろう。そう思うと、恥ずかしいような気がした。
・いまは空軍を引退したジュリアスはカルフォルニアに住み、アマチュア無線を唯一の楽
 しみに、悠々自適の生活をしている。矢木さんとの交信はずっと続いている。
 
街で・家庭で・・・
・元首相の福田赳夫さんは、1929年大蔵省に入り、翌年から三年間財務書記としてロ
 ンドンに勤務した。ちょうど、ウォール街の株価暴落に端を発したアメリカの大恐慌が
 ヨーロッパにも波及して、イギリス経済が危機に瀕した時期だった。
・1931年、イギリスの輸出は恐慌前に較べてほとんど半減し、失業率20パーセント
 に達してロンドンの街には失業者があふれていた。
・先行きの不安におびえる人びとが、手持ちのポンドを金とドルに換えはじめる。そのた
 めに、イングランド銀行からは銀がどんどん流出していった。
・窮地に立たされたイングランド銀行は、アメリカに巨額の借款を求めざるをえなくなっ
 た。なんということだろう。大英帝国が新興国に、金を貸してくれ、と頭を下げに出か
 ける破目になったのだ。 
・「よろしい。お貸ししましょう」ニューヨーク連邦準備銀行はおうように答えた。ただ
 し、条件がついた。「まず、失業保険金のたれ流しをカットしてください。でなければ
 貸しません」 
・国家予算に口をはさむとはなんたる無礼、とイギリス側は歯ぎしりした。しかし、条件
 を呑むしか道はない。貧乏はしたくないものである。
・当時イギリス議会の第一党は労働党で、党首はマクドナルドが首相だった。マクドナル
 ドは閣議で、アメリカがつけてきた条件を報告し、閣僚の了解を求めた。「私としては、
 失業手当の10パーセント削減や、公務員の減俸を行なって、借款を成功させるつもり
 です。どうかご理解いただきたい」
・「そんなばかな!」閣僚たちはいきり立った。失業保険カットや公務員の減俸は、労働
 党の政策を放棄することを意味している。それは党を支持してくれている労働者への裏
 切りにほかならない。
・やはり、そうか、とマクドナルドは首をうなだれ、もはや内閣を投げ出すしかない、と
 観念した。アメリカから借金できなければ、イングランド銀行は破産し、どちらにして
 も労働党内閣はつぶれるのだ。首相は閣僚の辞表をとりまとめ、国王ジョージ五世に報
 告のために官邸を出た。
・ところが、帰ってきたマクドナルドは、意外なことを告げて閣僚たちを仰天させた。
 「私は保守党ならびに自由党を含めた連立内閣の首班として、とどまることになった」
 ごうごうたる非難が巻き起こった。
・「首相、それはわれわれと労働階級への背信ではないか」「それほど首相の椅子に未練
 があるとは思わなかった。われわれは袂を分かつしかない」
・労働党は分裂し、マクドナルドに従うものはひと握りの議員だけになった。
・マクドナルドに首相留任を求めたのは、じつはジョージ五世だった。「この危機を乗り
 切れるのは、マクドナルドしかいません」と献策したのは、自由党総裁のサミュエルで、
  保守党総裁のボールドウィンもこれに賛成した。これを受けて国王はマクドナルドを
  強く慰留したのである。
・それにしても、意外な出来事だった。保守党は第二党で、自由党と合わせれば労働党を
 軽く上回ることができる。にもかかわらず、ボールドウィンまで労働党首を首班とする
 連立内閣に賛成したのだ。
・その裏にある判断は、こうだった。この未曾有の危機は、国民の支持がなければとうて
 い乗り切れない。だとすると、いま国民の支持がもっとも集まっているのはマクドナル
 ドだ・・・。
・むろん、その判断のさらに裏側に、保守、自由両党の打算があるだろうことは、マクド
 ナルドにはわかっていた。つまり両党とも、いま表面に出て傷つきたくはない。あくま
 でも労働党を矢面に立て、自分たちはその陰にかくれて嵐をやり過ごそう、というのだ。
・そこまで知りながら、挙国連立内閣の首班を引き受けたマクドナルドは偉かった。そう
 して背景が理解されていくにつれて、マクドナルドの株は上がっていった。彼の行動こ
 そは、大英帝国へのいつわりのない忠誠心から出た、ほんとの愛国的行為だ」人びとは
 そういって称賛した。
・ただ、挙国連立内閣は、失業手当カットと公務員の減俸には成功したが、ついにイギリ
 ス経済を大恐慌から救うことはできなかった。
・そして四年後、保守党総裁ボールドウィンは、おそらく彼が計算して狙っていた通り、
 マクドナルドに代わって首相の地位についた。
・それから四半世紀の歳月が流れて、1960年、福田さんは岸信介内閣のもとで農林大
 臣をしていた。  
・日米安保の改定をめぐって、国会周辺には数十万のデモの隊列が荒れ狂っていた。デモ
 隊は国会内になだれ込み、あるいは官邸をびっしり取り巻いて、首相や閣僚たちを閉じ
 込める。
・死者まで出たデモには学生や労働者のほか多くの文化人が加わり、安保改定に反対する
 新聞もこぞって岸内閣総辞職を主張した。空前の規模を持つ、国民的な反対運動が展開
 されつつあった。
・戦後の保守政権にとって、最大の危機が到来していた。このままデモ隊によって国会の
 機能が麻痺し、安保条約の議決ができなければ、ことは国際信義の問題に発展し、岸内
 閣はいやでも崩壊せざるをえなくなるのだ。
・「ここは一時、野党と連立内閣をつくるかたちで、政権を譲ったらどうでしょう」と岸
 首相にひそかに、思い切った提案をしたのは、福田さんだった。
・具体的な首班候補として、西尾末広民社党委員長の名を、福田さんはあげた。民社党は
 前年、社会党から分離したばかりで、安保にも柔軟な立場をとっている。西尾委員長も
 議会政治を尊重する穏健な指導者として、国民の間に幅広い支持層があった。
・しかし福田提案は、ほかの閣僚たちに聞こえたら、唐突にしか受け取られなかったろう。
 ダナボタ式に野党に政権を与える、というやり方には、なじみがないのである。福田さ
 んは、若い日のロンドンでの体験を説いて岸さんにいった。
・岸首相はこれに動かされた。たしかに西尾委員長なら、いま国民にいちばん大きな影響
 力を持ちうるだろう。その指導力のもとに安保危機を乗り切り、そのあとであらためて
 自民党は民社党との間で政権を争えばいいではないか。
・「いい考えだ。それでいこう」岸さんはいった。
・西尾さんは連立内閣の首班に非常に乗り気だった。氏もまた、議会政治を救わなければ
 ならない、という点で、同じ危機感を抱いていたのだ。
・しかし、二度、三度と話し合いを重ね、政権委譲の具体的な手続きに話が入っていくと、
 西尾さんはためらいはじめた。 
・「いま政権を担当して、安保改定を強行したら、私は政治生命を絶たれるだろう。私の
 死ぬ場所は、まだほかにある」悲痛な表情の西尾さんは、最後にはそうまでいって、政
 権委譲を拒んだ。
・岸内閣は混乱のうちに自民党単独で安保条約改定を強行採決し、批准後に首相は退陣を
 表明した。 
・あとを継いだのは池田勇人内閣で、結局自民党は政権維持に成功したのだが、もし福田
 ー西尾の連携が成り立っていたらその後の政権の行方は、いったいどう変わっていただ
 ろう。