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この本は、今から50年前の1972年に出版されたもので、この著者のデビュー作のよ
うだ。
先般、「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」(早坂隆著)を読んでこの「相沢事件」の後に
起こった「二・二六事件」のことを、もっと知りたくなってこの本を手にした。
二・二六事件は、昭和十年代初期に、当時の陸軍青年将校たちが政治腐敗や農村困窮を理
由に「昭和維新」「天皇親政」をスローガンに起こしたクーデター事件なのだが、未だに
謎の部分が多いようだ。
当時の青年将校たちがこのようなクーデターを蹶起した背景には、当時の日本陸軍内での
皇統派統制派との派閥争いがあり、そしてその派閥争いの中で起こった相沢事件とその
裁判の判決が直接のきっかけになったようだ。
この青年将校たちの動機は、腐敗に満ちた国を、自分たちの手で改革しようという純粋な
正義感から出たものだったようだが、主な要人を殺害すれば、その後に続いて陸軍中枢が
動いて軍事政権が樹立されるだろうというその計画は、あまりに手前勝手な思い込みで幼
稚としか言えないように私には思えた。
もっとも陸軍中枢の高級幹部たちの中には、この青年将校たちの行動に理解を示し、うま
く利用とした者たちもいたようだ。しかし、この青年将校たちの行動に対し天皇は激怒し、
天皇自ら鎮圧の命令を下したことによって、それまで好意的だった陸軍中枢の高級幹部た
ちは、手のひらを反すように鎮圧へと動いた。そして、非公開の軍法会議によって関係者
の処刑を決め、陸軍内部の不都合な事実を封印したようだ。
不思議に思えるのは、青年将校たちは、何をもって自分たちの計画が成功すると思ったの
かである。何かしら成功につながる確たる根拠がなければ、自分たちの命を賭けての行動
は起こせなかったはずなのだが、どうもそこがよくわからない。昭和天皇の弟であった
父宮
が関係していたのではという説もあるようだが、今となってはすべて闇の中だ。
それにしても、このクーデターを企てた青年将校たちは、クーデターが失敗に終わったと
きのことを、考えなかったのだろうか。クーデターに失敗して処刑された青年将校たちの
多くが新婚間もなかったというが、叛乱者の妻としてその後を生きなければならない妻た
ちの人生に思い及ばなかったのだろうか。妻帯者としては、あまりに一方的で身勝手な行
動だったような気がした。
これは軍人の特性なのかもしれない。軍人は負けたときのことは考えてはいけないと教育
されてきたのかもしれない。その後の無謀な戦争に突き進んでいた軍人たちを考えると、
そこには共通点があるような気がした。昭和の軍人とは、バックギアのない、前に突き進
むことだけしかできない車と同じなのだと思った。

いまから42年前の1980年に公開された映画「動乱」は、この二・二六事件を題材に
したもので、高倉健が演じているのは磯部浅一であり、吉永小百合がその妻・登美子を演
じているようだ。また主題歌は小椋佳が担当しており、なかなか豪華な顔ぶれで、先般、
BSで放送されていたのを、この本を読む前に観たのだが、なかなか見応えがあった。
なお、三島由紀夫の小説「憂国」も、この二・二六事件を題材にしたものだが、この自決
した青年将校夫婦のモデルは近衛輜重兵大隊の青島健吉中尉とその妻ではないかと言われ
ているようだ。

ところで、「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」を読んだときに、二・二六事件の首謀者の
一人であった村中孝次の墓が仙台市内にあるということを知って、北海道旭川市の出身だ
った村中孝次の墓がどうして仙台市内にあるのだろうと不思議に思ったのだが、この本を
読んで謎が解けた。中村孝次の妻が仙台出身だったのだ。中村孝次の妻がその遺骨を仙台
に持ち帰ったということのようだ。墓のある寺は松音寺のようだ。


1971年夏
・雨を忘れて乾ききった麻布賢崇寺の境内に、低く嫋々と読経の声が流れてゆく。
二・二六事件とは因と果との断ちきれぬ関係にある相沢三郎を筆頭に、事件に連座して
 自決あるいは刑死した二十一人が、香華のもとに呼びおこされる。
・七月十二日に銃殺された十五人、八月十九日に銃殺の四人、自決者二人。
相沢三郎中佐の未亡人米子さん。野中四郎大尉の未亡人美保子さん、安藤輝三大尉の未
 亡人房子さん。 
・二十一人の男たちは、叛徒としての死のあとに十四人の未亡人をのこしている。
・すでに五十代であった北一輝夫人をのぞけば未亡人たちはほとんどが二十代半ばの若さ
 であり、七人はいとけない遺児を抱えていた。そのうち三人はすでに亡い。
・処刑直後合祀しようにも引受け手のなかった遺骨は、それぞれの上に属する墓に納めら
 れ、やがて分骨をこの賢崇寺に一つに祀った。
・敗戦前には墓碑建立は禁じられ、戦後も、火葬の劫火戦災の火と、二度焼かれた遺骨の
 合同埋葬は、日米講和条約発効後であることを要求されたという。
・この三十五年、歴史の上で二・二六事件が解放された日は一日もない。天皇制下の日本
 では逆賊であり、敗戦後の日本ではファシズム軍国主義への決定的な転換点に位置する
 事件として、否定的な評価のもとにある。
・戦争責任を問われて絞首刑になった東条英機A級戦犯七人が、わずか十五年ののちに
 「殉国七士」として復権するような変遷は二・二六事件にはない。あってはならなかっ
 た。 
・主観的には天皇と国家と民のための一挙であったが、誰よりも天皇その人の激怒を買い、
 天皇の名によって裁かれ、叛乱罪で死刑の断が下った事件である。
・敗戦後、天皇を単なる象徴とする国に、天皇親政を力で実現しようとした人々の位置す
 るところはない。
・志が成るかに見え、もっとも昂揚した瞬間は、事件の四日間で永久に去った。この四日
 間に、叛乱軍は戒厳令下の警備隊に編入されて帝都の心臓部の警備任務につき、陸軍大
 臣の告示によって、その行動を肯定され、一転、奉勅命令違反の逆賊として収監される。
 所属部隊長のもとへ帰れという奉勅命令は、二十九日夕刻の逮捕まで、出動部隊の指揮
 官たちにはついに下達されなかった。軍法会議の審理は、この不可解な経緯を完全に無
 視し去った。
・私に軍隊を動かし、殺傷をあえてした人々が、軍法によってむごたらしくなぶり殺され
 た死顔を残しているのは、この四日間の謎と軍法会議の非条理さによる。その上、彼等
 の事件は、彼らを粛清した陸軍当局によって最大限に利用された。
・旧陸軍衛戍監獄処刑場跡に建てられた「二・二六事件記念慰霊像」には、殺害された内
 大臣斎藤実ほか諸大臣、殉職警察官、事件に関連する自決者、そして相沢三郎等二十二
 人の霊を含む三十四人が合祀されている。事件の被害者と加害者は、軍当局の処置へ抗
 議の諌死をした三人とともに二・二六事件殉難者として祀られている。
・加害者の側に立たされ、三十余年の未亡人生活を余儀なくされた女性たちの沈黙は、い
 っそう深い。ある日突然、選択の余地なく叛徒の妻となり、置き去られた妻たちは、辛
 い涙と耐えきれぬほどの忍耐の重さを訴える相手を持たなかった。戦争で未亡人となっ
 た同胞が、戦争の犠牲者として怨嗟の声をあげるとき、二・二六事件の未亡人たちは怨
 みも告発もどこへ向ければよいか。
・私をとらえて引きとめるのは、磯部浅一の獄中手記に代表される死刑者たちの怨念、天
 皇制の内側にいながら天皇制そのものの否定にまで登りつけていった執念の凄まじさで
 あり、死者の雄弁とは対蹠的な妻たちの沈黙であった。
・下関は田中勝中尉の故里である。未亡人の久子さんと母信子さんが住んでいる。結婚し
 て半年あまり。四カ月余の獄中生活の方がはりかに長い新婚生活であった。
・磯部浅一の「行動記」には、「維新」の実行部隊責任者として、早くから同郷の後輩田
 中勝の名前があげられている。磯部の最初の行動計画は、磯部、河野寿、田中の三名に
 より首相岡田啓介、内府斎藤実を殺害しようというものである。
 ・二・二六事件参加者の多くが、結婚後間もない妻を残しているが、事件半月前に挙式
 した坂井直中尉と、この田中の場合は特にきわだっている。
・田中夫婦はまた従兄弟の間柄、特に幼馴染みというほどの親しさはなかったというが、
 潮風と魚のにおいに明け暮れる町で、陸軍幼年学校、陸士へと進む青年は目立つ存在で
 ある。夫人は畏敬に似た気持ちをこめて一つ年上の田中を見守っていた。
・事件の起こったあとから見れば唐突なその結婚も、彼としては、志を分かち合える妻と
 信じてのことであり、夫人も、軍服の胸中にただならぬ火を包む青年と知って結婚した
 のである。
・二十六日午前三時半過ぎ、市川から東京三宅坂へ向う途中で、田中は小岩のわが家へ兵
 を連れて立ち寄った。慌しい別れである。夫を送って寒夜の街道へ出た夫人は、牡丹雪
 の舞う中にトラックや乗用車の一群を認めた。今、何が始まろうとしているのか、夫人
 は感じとっていた。
・一隊は、闇の中にたちまち消え去った。車上の夫も、路上に立ち尽くす妻も、まだ新し
 い生命の宿ったことを知らない。田中が願った「昭和維新」が死産に終り、叛徒となっ
 ての獄中で、懐胎を告げる妻の便りを受け取ることになる。
・田中は妻の手を取ると、「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」と言った。こ
 の言葉が田中の口をついて出た瞬間、改まった遺書には仄めかしもしない二十六歳の男
 の真情が、堰を切ったように溢れ出した。おそらく生きて抱くことのないわが子を思い、
 新婚の蜜月から叛乱・死刑の男の未亡人となる妻の身の上を思って、独房の田中は悶々
 として眠れる夜を重ねたのであろう。立会いの看守はいるが、この瞬間のほかに夫婦二
 人だけになる機会は来ない。夫と妻は二人だけになった。田中は立派に死なねばならな
 い男であった。未練があっても言ってはならなかった。ひたむきにみつめる妻の瞳の中
 で、きびしく己を律している男の本心がやった言葉になったのである。
・「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」そう言われて、夫人はもやもやと胸に
 わだかまりつかえていたものが一瞬に消える思いであったという。死にきれないほど想
 われている女の悲しい充足感が、ひたひたと夫人の胸をみたした。同時の「この人を失
 いたくない」という烈しい思いが、胸からほとばしりでた。
・七月十二日朝、ついに処刑の通知が届いた。陸軍衛戍刑務所へ赴いて夫の遺骸をひきと
 る。妊娠中の躰にさわるから、死顔を見ないほうがいいと、家族が立ち塞がったが、人
 垣のうしろで背伸びをしたら、柩の中の夫の顔がみえた。繃帯で巻かれた眉間のあたり
 に、桃色の血が滲んでいる。ああ、ここを射たれたのだと思った。
・処刑の翌日、夫の遺骨を抱いて下関へ帰り、実家に身を寄せた久子さんは、夫の予言通
 り男の児を産んだ。子供は遺言通り孝と名づけた。乳をふくませながら、夫人は母子二
 人生きてゆく明日からの生活設計を考えていた。
・子供が小さい間は外へは出られなかった。夫人は二年待った。保母を職業に選んだ理由
 の一半は、この彼女自身の経験に負うている。子供を安心して預けられる場所がなくて
 は、女は飛び羽を切られた鳥と同じであった。
・昭和十三年、・久子さんは無資格の保母として下関市立の幼稚園に就職した。東京で保
 母の資格をとっていた磯部夫人が応援の心組みで下関へきたのはこの頃のことである。
・三、四歳年下の磯部夫人から久子さんは保母としての最初の手ほどきを受けたという。
 昭和十六年、久子さんは単身上京、教員養成所に一年間学んで正式教諭の資格をとった。
・夫人は昭和三十七年に市立幼稚園の園長になる。定年まで勤めて、その後懇望されるま
 ま、新設の私立幼稚園の園長となった。
・二・二六事件の未亡人というより、戦前から戦後、仕事を守ってきた一人の先輩がそこ
 に坐っていた。愚痴をいっても歎いてみても誰も助けてはくれない。遥かな道を自分の
 二本の足で営々と歩いてゆく。夫の刑死後の産褥の孤独と仕事をもつ女の孤独と、人生
 の鞭に鍛えられて負けなかった人は、穏やかな諦観とも見える表情をみせている。女が
 職業をもって生きることをどう思いますかと聞いたら「しあわせとは思いません」とい
 う答えが返ってきた。
・「毎朝、天皇陛下を拝みます。御寿命長かれと祈らぬ日は一日もありません」天皇の意
 志にかなうと信じて事を起こし、その天皇の権威によって死を与えられた男の母は、な
 んのためらいもなくこう言いきった。息子の刑死から三十余年、まだ悲しみの涙は涸れ
 はしない。生ある限り祈りつづけるであろうこの母の祈りは、どこへ届くのだろうか。
 
男たちの退場
・昭和十一年七月十二日。陸軍衛戍刑務所に膚接する代々木練兵場では、早朝から演習部
 隊の軽機関銃が空砲をうちつづけていた。やがて、飛行機二機も低空旋回を始める。こ
 の日銃殺刑を執行される二・二六事件の十五被告の、刑執行の銃声をかくすためである。
 街はなにも知らない。
・事件鎮定直後の三月四日、緊急勅令によって東京陸軍軍法会議特設。弁護人を附せず、
 審理はすべて非公開、一審即決・上告を許さずの、世に謂う暗黒裁判である。 
・七月五日には下士官・兵を含む百二十三名に判決言渡しがあった。有罪七十六名、うち
 死刑十七名。罪名は叛乱罪である。
・処刑の日は、本人たちにも前日夕刻まで伏せられ、突然に来た。死刑囚十七人のうち、
 村中孝次磯部浅一は、同士から引き離され、処刑場から一番遠い新獄舎に移された。
・衛戍刑務所の一隅に新設された刑場は、五つの壕が煉瓦塀に向って直角に掘られ、刑架
 は十字に組まれ、そこに正座し、縛られて銃架と向い合う。銃口まで十メートル。銃架
 には二挺の三八式歩兵銃が固定され、照準は前額部に合わせられている。
・最初に眉間を狙って射つ。その一発で絶命しないときには、心臓部を狙う。
・処刑開始の直前、十五人は香田清貞の音頭で、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を喉も裂
 けよと叫んだ。
・空砲と万歳の声の間に実弾の音がまじるのを、磯部と村中は鋭く聞きわけていた。
・村中は東北方に向って正座して合掌をつづけ、磯部は狭い独房の中をぐるぐる歩きまわ
 った。
・磯部と村中の処刑は昭和十二年八月十九日。日中戦争の戦火がはてしない拡大の道をた
 どる時期である。西田税、来た一輝とともに刑架についたが、四人は、天皇陛下の万歳
 は唱えなかった。
・昭和十一年二月二十六日未明、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊の下士
 官・兵は、非常呼集により完全軍装で営門を出て行った。その数一千四百余。この瞬間
 に二・二六事件の幕が切手落とされたのである。
・総理大臣官邸・大臣秘書官松尾伝蔵即死、巡査四名即死
・内大臣斎藤実即死、春子夫人負傷
・高橋蔵相私邸。蔵相高橋是清即死、巡査一名負傷
・侍従長官邸・侍従長鈴木貫太郎重傷、巡査二名負傷
・教育総監私邸・教育総監渡辺錠太郎即死 
・殺害された人々は、軽機関銃が使用されたこともあった被弾おびただしく、むごたらし
 い最期であった。
・渡辺大将は、当時九歳の末娘和子さんの眼前で拳銃で応戦、肉片が飛び散る悲惨な死を
 遂げた。
・下士官・兵は非常呼集で叩き起こされ、命令によっての襲撃殺害とはいえ、上官の命令
 にやむなく服従したという以上のものがある。
・事件を起こした青年将校たちの名分は、「君側の奸」を倒すことであった。斬奸目標に 
 選ばれた重臣たちに対して、個々の私怨などがあったわけではない。しかし、高橋蔵相
 を殺害し、斎藤内府を殺害し、それらの死がなぜ「昭和維新」につながるのか。
・君側の奸である要臣を殺害し、軍政の要衝と占領して天皇親政を実現する。それは天皇
 の意にかない、なすべき大義であり善であると確信して、彼等は命令を私造して軍隊を
 動かし、殺傷をあえてしたのである。「尊皇討奸」の旗を掲げて殺傷をあえてしたこの
 確信は、どこから生じたのか。
・第一次大戦後の相対的平和と軍縮の時代、職業軍人たちは不満を鬱屈させていた。社会
 不況特に農村の窮乏、小作争議・労働争議の頻発と、満州事変以後硬化した国際世論に、
 不満は危機感へ転化する。昭和の一桁は、深刻な経済不況を縦糸に、軍人たちの切迫し
 た危機感を緯糸に時間を織りながら、満州事変を突破口とする軍人の掌中へ収斂されて
 いった。
・陸軍内部での対立。陸軍大将真崎甚三郎荒木貞夫など軍首脳による内部抗争の一方的
 な暴露、派閥の醸成、指導権争い。これらの諸要因は、「天皇機関説」論争に象徴され
 る国家主義思潮の擡頭、神格としての天皇絶対化の風潮によって、いっそう増幅された。
・戦闘を存在理由とし、無謬の神である大元帥・天皇に直属する軍人教育の歪みは、この
 傾向にさらに拍車をかけた。そういう軍人たちが自己主張を始める時代である。
・しかし、当時軍人たちの胸中に巣喰っていた一般的な傾向をあげつらってみても、二・
 二六事件の青年将校たちの熱狂的な信念の解明には不十分である。
・事件を発起した人々の平均年齢は二十九歳。思慮を欠くほどの若さではない。いたずら
 に血を好む異常神経の持主もいない。
・昭和九年十一月の陸軍士官学校事件を発端とする磯部、村中の陸軍追放、文書活動によ
 る軍の内情暴露。特に十年七月真崎教育総監更迭事情の暴露と、この真崎更迭人事を派
 閥軍政の所産とみて、重大な統帥権干犯が行なわれたとする告発。陸軍中佐中沢三郎に
 よる永田軍務局長斬殺への波及
・犯行は当然の正義とする相沢の陳述、弁護人の弁護は、世間の世論喚起を目的としなが
 ら、実は青年将校たちの心を鋭く抉った。相沢三郎を行動に踏みきらせたのは自分たち
 であるという自覚は、特に磯部、栗原にいちじるしい。
・磯部、村中、河野、栗原を中心に煮詰められていった行動計画の基点は、相沢公判にあ
 る。 
・事後の成算もないまま、事挙げさえすれば維新は成就するという奇妙なオプティミズム
(楽天主義)と、彼等の行動は天皇の意に叶うという自己信仰を支えたそもそものもの。
 そこに秩父宮の存在が微妙な影を投げかけている。
・秩父宮は陸士で西田税と同期、秩父宮が歩兵第三連隊勤務中に教育した士官候補生が安
 藤輝三である。刑死した坂井直は、秩父宮御殿への連絡将校であった。
・そして秩父宮と二・二六事件の青年将校の関係をはっきり書いているのは、中橋基明
 遺書である。
・秩父宮をめぐる流説は数多いが、この中橋の遺書は事実の照合は別として、青年将校た
 ちの心情を端的に表現している。中橋に秩父宮との接触の事実はない。
・西田税の陸士在学の最大の目標ははっきりしていた。秩父宮に接近し「革命日本建設を
 論諍し奉ること」である。
・事件前夜、秩父宮をめぐって、西田と青年将校の間で特に連繋があったという資料はな
 いし、青年将校たちに西田のような目的意識が働いていたとは思えないが、結果におい
 て、青年将校たちは秩父宮を通じて天皇へ至誠を通じ得るという期待のもとに動くこと
 になった。
・天皇と弟宮との対立内容は、二・二六事件の青年将校の志向と天皇の意志との乖離の原
 型のように見える。
・事件当時、外務次官であった重光葵は、「軍人の口から、しばしば、天皇に対する批評
 を聞き、二・二六叛乱の当時においては、もし天皇に対して革新に対して反対されるな
 らば、某宮殿下を擁して、陛下に代ふべし、という言説すら聞かされたことを想起せざ
 るをえない」と書いている。
・事件勃発後、二月二十七日に任地の弘前から上京した秩父宮は、世上の風説や青年将校
 たちの熱烈な期待にもかかわらず宮中へ直行し、帰順説得の役に任じた。
・二十八日夜、秩父宮の令旨なるものが歩三将校の野中、安藤両大尉のもとへもたらされ
 る。青年将校は最後を清くせねばならぬ、つまり自決せよ、部外者の参加は遺憾である
 という内容であった。
・昭和維新の起爆剤と自ら任じて彼等が行動に踏みきったのは、そのあとに「大御心」の
 収束があると期待したからである。秩父宮が実際に同調者であったか否かの詮議はあま
 り意味がない。彼等は秩父宮を媒体として、君側の奸に囲まれ大権を封止されている天
 皇に接近し得ると信じたことである。統帥権干犯の故に老臣たちを殺傷しながら、彼等
 自身天皇の命令なくして軍隊を動かすことは統帥権干犯ではないとする論理の支柱は、
 天皇との一体観であった。
・青年将校たちの自負と期待は、事件後、天皇そのひとによって微塵に粉砕されることに
 なる。 
・この日、香椎浩平戒厳司令官は、武装解除、止むを得ざれば武力を行使すべき勅命を拝
 した。しかし鎮圧は遅々として進まなかったのである。
本庄武官長の女婿、山口一太郎大尉は、歩一の週番司令として叛乱部隊の営門通過を黙
 認した人物である。
・本庄武官長は、天皇に対し、行動部隊の将校の行為は統帥権を犯し許すべからざるもの
 であるが、その精神は「君国を思うに出たものにして、必ずしも咎むべきにあらず」と
 述べた。
・青年将校たちは致命的な誤断をしたのである。彼等は恣意的に「あるべき天皇」を想い
 描き、現実の、生きた天皇の意志によって破摧されるのである。青年将校たちにとって
 は、天皇自ら討伐軍を率いて現地に臨む事態の方が、「残酷な救い」となったはずであ
 った。事件渦中から獄中まで、「日本には天皇陛下が居られるでせうか。今は居られな
 いでせうか」と苦悶にのたうつことからは救われたはずだからである。
・二・二六事件の四日間、軍中央がとった処置は因循姑息な謀略に終始している。
 二月二十六日、川島陸相の大臣告示が、近衛、第一両師団長に下達される。この両師団
 から叛乱部隊の主力が出動しているのである。
・陸相官邸占拠中の青年将校に告示を伝えたのは、のちの「マレーの虎」陸軍少将山下奉
 文
である。大臣告示で認められたことは、朝来、大権干犯・殺傷を行なってきた青年将
 校たちには最初の朗報であった。のちには説得の手段であったとして軍法会議ですべて
 無視される謀略的処置の筋書きは、誰が書いたのだろうか。二十六日の戦時警備令は、
 叛乱撫隊を正規の警備部隊に編入し、占拠中の場所で警備の任につくことを命じた。鎮
 圧にあたる軍当局によって、命令ならぬ命令で出動し襲撃を実行した部隊は、そのまま
 警備部隊になったのである。
・二十七日、緊急勅令により東京市に戒厳令がしかれた。香椎戒厳司令官による軍隊区分
 では、戒厳令施行の原因である部隊に、戒厳令下の東京の心臓部の警備を命じたのであ
 る。これを知った磯部は万歳を唱えた。叛乱部隊は警備部隊として、食料も被服も原隊
 から支給されたのである。
・事件から丸四十八時間後に、奉勅命令にのっとって、はじめて占拠部隊の撤退が命令さ
 れたのである。しかしこの命令にはタイム・リミットがないこれでは命令の体をなさな
 い。さらに致命的な不備は、奉勅命令が復帰を命ぜられている部隊には伝達されなかっ
 たことである。
・二十九日のラジオ放送、撒布されたビラで奉勅命令の実施を確知してから、青年将校た
 ちは占拠を断念、部隊は逐次帰営したというのも判決理由の一節である。青年将校たち
 は、一人として、絶対天皇制の根幹をなす奉勅命令に叛逆しようとはしない。そこに彼
 等の本質と限界があった。
・二・二六事件の中央幕僚たちは、手段を選ばなかった。「維新大詔」まで捏造しようと
 した。しかし、彼等の責任は問われない。
・事件の全経過を青年将校たちが子細に検討し、軍隊の命脈が乱脈をきわめた事実を暴露
 することになったら、国軍は崩壊する。その故に、彼等は死ななければならなかった。
・己れの黒い野心に煽られて血気の青年将校の耳に毒を吹きこみ、資金の調達に一役買い、
 二十六日朝には、「とうとうやったか。お前たちの心はようくわかっとるよぉーわかっ
 とる」陸相官邸に現われた軍事参議官・陸軍大将真崎甚三郎が、罪状明白なるにかかわ
 らず、全処刑のあとで無罪になるのもまさに同じ理由による。真崎を有罪にすれば、事
 件四日間にかかわった全陸軍首脳が連累するのである。軍の恥部を見た青年将校たちは、
 死なねばならなかった。
・二・二六事件の一挙を正当化するつもりはないが、この事件を裁いた東京陸軍軍法会議
 では、まったく裁く資格のない者が裁いたのである。戒厳令下、非公開の暗黒裁判であ
 ったことは、まことに好都合な幕切れとなった。
・事件四日間の不可解な経緯は、天皇の叛乱鎮圧への強固な意志に巧みに陰蔽され、溶解
 してしまった。
・男たちが万斛の恨みを呑んで刑架についたのは、理由あってのことである。その男たち
 の退場のあとに、妻たちは遺されたのである。
 
燃えつきたひと
・希代の祈りを祈りつづけた磯場浅一。死ぬものか、成仏するものかと執念の呪いをこめ
 た磯部の墓は、南千住の小塚原回向院にある。小塚原は吉田松陰はじめ国事犯の処刑場
 として知られるところ。
・磯部夫妻の結婚の部隊は朝鮮。磯部の隊付勤務のときで、昭和五、六年の頃と思われる。
 芸者に売られてきて二日目の夫人を匿ったのが縁であるという。身請の金は連隊長に借
 金した。大正三年生まれの夫人は十八か九。磯部は九歳年長である。夫人については、
 没落した佐賀士族の娘ということしかわかっていない。世界恐慌のあおりを手ひどく受
 けて、日本中が不景気のどん底に喘いだ時代の話である当時としては珍しくない、家の
 犠牲者の一人であった。
磯部浅一も、貧しい左官の三男である。家柄のいい、恵まれた環境の子弟がほとんどの
 事件連累者の中では、磯部は特異な存在である。不遇な生い立ちの者同士、心惹かれあ
 った恋愛のかたちが見えるようである。
・磯部夫人・登美子は、束髪に結った古風な美人である。夫の遺骨を迎えてから、夫人が
 生きのびた時間阿わずかに三年七カ月。数え年二十八歳の早春に死ぬまで、夫人にも波
 乱の半生があったはずである。 
・磯部夫妻には子供がいない。夫人の弟が養子となってあとをついでいる。 
・未亡人たちが連絡をたもち、同じ境遇を慰めあったのは事件後半年たらず、風に吹き散
 らされたようにバラバラな人生を生きなければならなかった。磯部夫人は、若死にした
 せいもあって、ほとんど消息のわからない人である。
・磯部夫妻の結婚生活は長くみて五年しかない。平穏な明け暮れは、短い朝鮮時代だけ。
・上京後の磯部夫妻については何も資料がない。夫人が磯部の婚約者と名乗って同志たち
 の前へ姿をあらわすのは、士官学校事件のあとである。
・磯部が陸軍士官学校事件で免官になって十日後、相沢事件が起きた。事件後、それまで
 住んでいた新宿ハウスを引き払って、村中孝次のところへ同居する。村中夫人の記憶す
 る当時の磯部は単身で、結婚しているとは知らなかった。
・磯部も村中も不在のある日、村中夫人は磯部の婚約者と名乗る若い女性の訪問を受けた。
 磯部の帰宅までの間に、北朝鮮で救われたことなどの身上話を村中夫人は聞いている。
・しばらくの間、磯部夫婦は村中家の二階に住むことになった。なかなか籍も入れてもら
 えず。夫の身辺は只ならぬ雰囲気である。夫を失うまいとしてひたむきな夫人の姿が印
 象的な磯部夫婦であったという。
・村中夫婦との同居は二カ月足らず、磯部は千駄ヶ谷に一戸を構えた。はじめて磯部の妻
 として振舞える新居である。しかし、あるじは軍を追われて定収入をもたない。全国の
 同志将校のカンパもあったようだが、夫人にも磯部にも、生活の責任を負わされている
 家族があったはずである。その苦境をどう処理していたのだろうか。
・昭和十一年一月二十日以降のこと、磯部は陸軍上層部の意中の打診をしている。川島陸
 相
は、辞去する磯部に銘酒の箱詰を持ち出し「雄叫びというのだ、一本あげよう。自重
 してやりたまえ」とすこぶる上機嫌であった。磯部はこの言葉から、陸相は吾々青年将
 校に好意をもっていると推察した。
・一月二十八日、真崎大将は「何事か起こるなら、何も言ってくれるな」と言った。磯部
 が「余は統帥権干犯に関しては決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、
 閣下も御努力していただきたい」と千円か五百円の融通を願うと、「それなら物でも売
 ってこしらえてやろう」と快諾した。磯場はこれを、真崎大将が青年将校の思想信念、
 行動に理解と同情を有している動かぬ証拠だと信じた。
・軍事課長の村上啓作は「君らを煽動するのではないが、何か起こらねば片付かぬ、起こ
 った方がいい」といい、事が起こるのを待つかの態度を磯部に示した。
・この他、古荘次官、山下調査部長などと会い、いずれも同調的であると推量、まさか軍
 部が国民の敵となって重臣、元老、と結託はすまい、弾圧はしないであろうという確信
 をもったのである。事の起こるのを待つ陸軍内部の空気を磯部は敏感に感じとった。
・それならば成算ありと磯部は考え、強引に同志将校たちの説得にかかった。
・こういう磯部を、夫人はどの程度まで理解していただろうか。事件のとき夫人は数え年
 の二十三歳。自己の信念に酔っている男が見失っている現実を、冷静に見抜くほどの年
 ではない。 
・死者には酷ないい方だが、事件を起こした人々はすべてを自分たちに都合よくみようと
 した。純粋なだけ騙されやすい弱点をもっていた。老将軍や軍幕僚の老獪さ、打算には
 太刀打ちしようもない。事件を発起するまでの情勢判断も甘い。武力を使って事を起こ
 したら、あとは武力にものをいわせて維新でも革命でも奪取する以外に道はない。名分
 は、ここまで来れば二の次、三の次である。勝てば官軍、負ければ賊軍、どっちつかず
 の収拾などない。部隊が出動し、襲撃開始の銃声に歓喜した磯部は、黒々と口をあげて
 いる陥穽がみえなかった。
・二月二十九日、武装をとかれ捕縄を打たれる磯部たちに、白木の棺、白木綿など、手ま
 わしのよい自決の用意がされていた。死んでもらうのが一番好都合だったのである。こ
 こには、岡村寧次少将とともに、山下奉文少将が立ち会った。
・軍法会議は、裁いたという形式だけが必要であった。叛軍にあらずと血を吐くような被
 告だたいの訴えも顧みることもなく、所定の判決を下した。
・十五同志の刑死を獄舎で見送った磯部は、同志にすまないという苛責と、非条理な裁判
 への憤怒に、執念の鬼と化してゆく。
 「今の私は怒髪天をつく怒にもえています。私は今は、陛下を御叱り申し上げるとこ
 ろにまで、精神が高まりました」
 「こんなことをたびたびなさりますと、日本国民は、陛下を御うらみ申すようになりま
 すぞ」
・天皇とその国家は、磯部にとっては至上のものであった。磯部ほど天皇を崇敬し愛し、
 そして憎んだ人間も稀有である。磯部は、天皇と国家をほとんど否認するところかで自
 分を追い詰めていった。
・特設軍法会議では、真実はついに認められなかった。事件の渦中にいて事実を知る人間
 が書かなければ、処刑の完了とともに、すべては闇から闇へ消されてしまう。自分たち
 の真実の忠義は、二十年も五十年もしないと世間の人にはわからないと、磯部は書いて
 いる。いつか正義の士の目にふれると信じて、磯部は遮二無二書きついだのである。
・磯部は昼間は狂ったようにあばれて看守を困らせ、夜になると疲れて毛布をかぶって寝
 たようにみせかけ、高い天井から落ちる十燭光の光をたよりに、告発の文章を書く。
・看守によって密かに持ち出され、戦後程経てあら世に出た手記は、事件までの経過、四
 日間、軍法会議の審理など、軍法会議が無視した真相を後世に残す目的で書かれている。
・十五名の処刑を救えなかった磯部は、北、西田の助命に最後のたたかいを賭けた。
 「真崎を起訴すれば、川島、香椎、掘、山下等の将軍にルイを及ぼし、軍そのものが国
 賊になるので、真崎の起訴を遷延しておいて、その間にスッカリ罪を北、西田になすり
 つけてしまって処刑し、軍は国賊の汚名から逃れ、一切の責任をまぬがれようとしてい
 るのです」
・北、西田のさし迫った命を救うため、ことは火急を要する。獄外へ持ち出されても、秘
 匿されたのでは意味がない。しかるべき筋に届けられなければならない。磯部はこの危
 険な使命のクーリエに、妻を選んだ。露顕すれば、どんな処分が妻を襲うか予測もでき
 ない。磯部夫人の役割は、「叛逆罪」の夫の共犯者になることである。
・二万字を越える「獄中手記」と、磯部が血判を押した百武侍従長宛の嘆願は、登美子夫
 人によって、獄外へ持ち出された。
・夫人が危険をおかして持ち出した「獄中手記」は、磯部の指示通りに、然るべき筋へ届
 けられた。この爆弾手記とひきかえに、北、西田の命を助ける談合が、ある筋から陸軍
 当局へ持ち込まれたという話がある。
・一説によると、この文書を完全に陸軍側が押さえる条件で、北、西田助命の話がほとん
 どまとまりかけていたという。ところが、その時期に、絶対極秘の「磯部手記」の一部
 が印刷され、ひそかに世上へ流布される事件が起きた。手記を託されたある同志がやっ
 たことであるという。この怪文書事件で、陸軍当局との談合は御破算になり、北、西田
 の死が確定したという話である。
・怪文書事件の余波で、磯部夫人だけでなく、西田税夫人も憲兵隊に留置され、獄外へ持
 ち出された磯部手記の存在をきびしく追求された。
・憲兵の眼を逃れ、夫人が必死に匿し抜いた「磯部手記」が世に出るのは、昭和三十年、
 夫人の死後十四年目のことである。
・磯部の怨念と魂の苦痛が行間から軋んで溢れ出しそうな「獄中手記」。信ずる者に裏切
 られた人間の極限がここにはある。事件の評価を切り離して、一人の人間の行為と死の
 記録としてみても、あの天皇制の内部で、こういう男が事を起こし、そして憤死したの
 である。
・磯部夫婦が命がけで取り組んだ事業は、二人の生前にはなにひとつ実らなかった。しか
 し夫人が運び出した手記は、他の径路による手記とともに、三十五年後の今、雄弁な証
 言者として存在する。「獄中手記」は、死者のメディアとなったのである。
・夫人は夫の死後、保母の資格をとって働いていた。そして命燃え尽きたように、昭和十
 六年三月に病歿した。胸を病んでいたという。
 
花嫁人形 暗き陰翳
・磯部夫人と同じ大正三年生まれの未亡人がもう一人いる。陸軍中尉丹生誠忠の夫人であ
 る。一枚の写真に納まっている三十四年前の二人の女性を比べると、ぽったりと紅の濃
 い口許の丹生夫人に対して、磯部夫人は三、四歳年上に見える。生き方も対蹠的で、丹
 生夫人は、受身で静的な人生に終始しているようである。
・丹生誠忠は、事件の朝百七十名を率いて陸相官邸の占拠に向った。首相の岡田啓介とは、
 姻戚関係にある。
・新婚生活は、昭和十年四月の挙式から事件まで、わずか十カ月。
・丹生誠忠は、軍務一筋の青春を生きてきた青年士官ではない。日本最初の内乱罪の内容
 を具備したといわれる救国埼玉挺身隊事件には、首魁の容疑濃厚なる者として、多数の
 二・二六事件関係者が名を連ねている。これは歩一、近歩三の出動部隊と民間人とが協
 力して、重臣、政党政治家、財界首脳を襲撃する計画が、未遂に終わった事件である。
 歩一の香田清貞、栗原安秀、近歩三の中橋基明、そして丹生誠忠の名前も明記されてい
 る。その丹生誠忠が見合で選んだ相手は、国家革新はおろか、将校の妻の生活もさだか
 には自覚していない、世間知らずの二十二歳の娘である。
・処刑の日、最期の姿は死ぬまで目から離れまいと思い、丹生夫人は遺体の引き取りに立
 ち会わなかった。 そのためにかえって、生前の夫の面影が心に残り、消え去らなかっ
 たようである。
・愛されるとは、辛いことである。二・二六事件の妻たちが、長い歳月、夫の思いでを捨
 てきれず、事件の影をひいて生きてきたひとつの理由は、死に直面した男の切々とした
 愛の呼びかけが心にからみついているためである。
・男たちは死に直面して、妻への愛着を強くした。男たちが心を打明け、安らぎ、そして
 占領することの可能な存在は妻だけになった。そのためであろうか。死んでゆく男たち
 は一人も「再婚して忘れてくれ」とは言わなかった。
・「再婚話はありましたが、死んだ夫があまりいい人だったので、そんな気になれません
 でした」と丹生夫人は答える。やさしい立派な男性であったかもしれない。しかしわず
 か十カ月の新婚生活、その死から三十四年もたっている。子供もない。
・「いろいろ不幸な結婚をみて参りました。長い結婚生活で不幸な人生を送っている女性
 の多いことを思えば、私はこれでよかったのだと、この頃では思えるようになりました」
 不幸な結婚を口にするとき、夫人の言葉にはしみじみとした実感があった。
 
余燼の中で
・三十四歳の野中四郎大尉は、結婚して二年にならない妻、美保子と、誕生前の娘がある。
・美保子夫人の記憶に残る事件前の夫は、苦悩する人であった。眠れぬ夜を重ね、その懊
 悩の深さが、妻の目にもうつるほどであった。
・野中大尉はそれまで、中隊長としての職務に熱心な隊付将校であり、軍内の派閥や革新
 運動にも名前の出たことのない軍人である。事件の青年将校たちとごく親しかった西田
 税の「聴取書」にも、野中大尉とは面識がないとある。
・二月二十九日、暮色の迫ろうとする陸相官邸の一室で、拳銃を口にくわえて引鉄を引き、
 自決。野中の遺骸が、陸軍省が手廻しよく準備してあった棺に納められ、歩三へ向う頃、
 同志一同は憲兵隊の護送車で陸軍衛戍刑務所へ送られて行った。
・一月の終わり頃、夫のただならぬ様子を見兼ねた野中夫人が、井出宣時大佐夫人に相談
 に行ったことがある。井出大佐は、前年十一月末まで歩三連隊長であった。青年将校の
 動きが相沢公判とともに活発な様子は井出大佐も知っていた。しかし大佐も野中大尉の
 苦悩がそこに関わっているとは思わなかった。
・井出大佐は、野中たちの自決を熱望する戒厳当局と、愛した部下たちとの板挟みになっ
 た。そして、野中の自決寸前まで立ち会って、ひそかに家族宛の遺書を託されることに
 なったのである。
・事件を起こした先任将校の妻、責を負って死んだ陸軍大尉の未亡人として、野中夫人に
 は逃げ場がなかった。夫人は事件の全重量を負っていた。
栗原中尉夫人玉枝さん(二十三歳)は、二十五日に自宅で中尉の後を追い睡眠剤を多量
 に呑み自殺を企てたのを家人が発見、重体だったが昏睡より覚め命は助かった。
渋川善助の妻絹子は、夫の異形の死のあと、夫の両親、弟たちの住む会津若松市の渋川
 家へ身を寄せた。
・会津若松の海陸物産商に生まれ、陸士予科卒業に恩賜の銀時計を受けた渋川は、教育上
 の問題で上官と衝突し、陸士卒業目前に退校させられた。明治大学法科卒業後、民間右
 翼団体に関係、救国埼玉挺身隊事件では、黒幕として取調べを受けた。
・青年将校たちを衝き動かした一つの現実に、兵士の家庭、特に東北農村の貧困がある。
 渋川善助は不十分ながら蹶起と農民との共同戦線を考えていた。渋川の心中では、蹶起
 は農民と不可分のものであった。しかしあいつぐ兇作の打撃に疲れきった農村は、沈滞
 のどん底に喘いで、呼応する動きなどは皆無であった。
・事件当時、渋川は保釈中の身であり、二・二六事件で果たした役割は、絹子夫人同伴で、
 湯河原へ牧野伸顕の動静を探りにいった程度で脇役である。苦労人で温味のある渋川を、
 青年将校たちは万一の場合の家族の後見人として、後事を託していた。
・渋川善助は事件の実際にはほとんど関係がない。それでも叛乱・謀議参与で死刑であっ
 た。 
・刑死した中橋基明の遺骨が、憲兵当局の妨害によって故郷の佐賀駅に下車できず、手前
 の小駅に密かにおろされるような事件の余燼の中で、未亡人たちはその運命にそれぞれ
 に対応した。
・野中美保子さんは、一人娘の保子さんを連れて司法官の父のもとへ帰った。父の任地を
 転々し、金沢に落ち着いて図書館に二十年間在職した。
・栗原夫人は、その後栄養士の学校へ通っていたが、夫の一周忌を前に再婚した。渋川夫
 人も再婚した。二人とも刑死した夫との間に子供はない。再婚した二人は、固い沈黙の
 世界へ姿をかくしてしまった。
・妻たちにとって、二・二六事件の妻の宿命を脱ぎ捨てて、一人の女として再婚の道に進
 むことは、亡夫の思い出につながる一切の人々と音信を絶つほど、大変な決断を必要と
 した。面と向かって非難はできない。しかし再婚する妻は積極的に勇気づけられはせず、
 歓迎されないような空気があった。
・若い妻たちを未亡人の座に縛りつけておく権利も資格も、男たちは残念ながらもってい
 ない。再婚した妻たちは、誰にも遠慮する必要はないし、恥じる必要もなかった。新し
 い人生を選んだ己れの決断を大切にしていいはずである。しかし、沈黙の殻は驚くほど
 硬かった。

秘められた喪章(一)
・四谷大木戸の料亭の芸妓O女は、中橋基明中尉と深い仲であった。二月二十五日の夜半、
 残雪の上に雪が白く舞いはじめた中を、馴染みの待合まで歩いてきた中橋中尉は、じっ
 とO女の来るのを待っていた。O女が急に耳鼻科の手術を受け、一晩柏木の病院に泊め
 られているとは知らずに、老女中を相手に小一時間近く待ち、連絡のとれぬまま、雪の
 夜道を、赤坂の近衛歩兵第三連隊へ戻って行った。そこから事件に参加したのである。
・中橋中尉は近衛歩兵第三連隊の中隊長代理であった。その中隊を率いて蔵相高橋是清襲
 撃に向ったのである。 
・高橋邸では、老蔵相は就寝中であった。中橋中尉は蒲団をはねのけ「天誅」と叫んで拳
 銃を射ち込み、軍刀で切りつけた。この老人が中橋たちの願う「昭和維新」の障害にな
 るとしたら、国家財政の見地から、軍事費を出し惜しみするということであろうか。そ
 れも、幕末のアメリカ留学時代に奴隷に売られたり、芸妓の箱屋をしたり、逸話の多い
 苦労人の老財家は、無下に軍事費を否定したわけではなかった。算盤のはじけるような
 軍事予算を主張したに過ぎない。
・中橋基明は三十歳、高橋蔵相は八十三歳。そしてO女は二十三歳、磯部夫人や丹生夫人
 と同じ年である。
・保証人の判を捺したことから刑事事件にまきこまれ、犯罪者になろうとした父親の窮境
 を救うため、O女は芸者に売られた。女医になる日を夢みる女学生生活から、一転して
 花柳界の水に投じられて、最初の男性が中橋基明であった。
・中橋はどちらかといえば色白で優形の美男子である。三十歳の陸軍中尉に縁談がなかっ
 たはずはないが、独身であった。O女との間に結婚の約束はなかったという。
・O女は妻ではなかったし、ましてや未亡人ではない。中橋基明の三十三回忌までは、そ
 の生存を中橋の遺族たちも知らなかった人である。しかし、亡き人への追慕を捨てきれ
 ずに生きてきたその半生は、事件の妻たちと同じような痛みと悲しみがあった。
・収監された中橋の消息を知りたいと、狂うほど思っても、中橋家へ名乗ってゆくのをは
 ばかる気持ちがある。芸妓の分を考えると、心が臆した。
・愛する人の処刑は、号外で知った。事件直後の残雪の中では、後を負って死にたいとば
 かり思っていたが、何十日かの時間を生きて来れば、生活の責任が桎梏のようにO女を
 とらえていた。面倒をみなければならない両親があり、弟がある。処刑を知った夜、写
 真をかかえて親許に帰り、生き死にも自由にならない境遇を思って号泣したという。小
 さな祭壇を祀って中橋の写真の香華をそなえ、その前で娘時代からのばしていた長い黒
 髪を一束にして切った。
・O女にも戦争中から戦後、女としての苦労がついてまわった。芸妓に出される事情をつ
 くった父は死に、弟も二・二六事件の翌年、二十二歳で自ら命を断っていた。戦争がは
 げしくなり、芸妓をやめてから、大学生の子供のある人の後ぞいになり、六カ月で流産
 するようなこともあったが、愛情の湧かない相手との結婚は、続かなかった。
・終戦直後から人形町で働き、料亭をやるようになって、時勢も落ち着き、年齢を重ねる
 と、二・二六事件について心おきなく話せるようになる。
・昭和四十三年、中橋たちの三十三回忌法要の年、偶然がO女を佛心会の河野司氏に引き
 合わせる。
・三十年前、処刑直前の面会で「O女を頼む」といわれた中橋の弟妹は、河野氏の仲立ち
 で、亡兄が愛した女性とはじめて対面した。O女は五十代を迎えていた。O女が守って
 きた遺品の封筒は、ようやく遺族の手へ渡された。はじめて封を切られたその内容は、
 連隊で中橋が最後に整理した身辺の私物であったという。
・竹嶌継夫中尉は、栗原中尉の指揮する部隊とともに、首相官邸を襲撃した。
・竹嶌継夫は三十歳。陸士は河野寿大尉と同じ第四十期の出身。卒業成績は歩兵科第一席、
 恩賜賞のトップである。満州事変を戦った経験もあった。
・二・二六事件に参加した日、竹嶌は妻を離別して三カ月も満たなかった。結婚は昭和十
 年の秋頃。軍人大佐の娘との見合結婚である。新妻は十八歳位の若さであった。
・従来、この竹嶌の離婚については、事件への参加を決意したためであると言われてきた。
 ひとまわりほど年齢の違う夫婦を、わずか三カ月で引き裂いた事情は、今では知る術も
 ないし、とりたてていう必要もない。
・事件後も、処刑された後も、去った竹嶌夫人は音信不通のままであるという。
・ふと耳にした小さな噂を書いても、竹嶌継夫を傷つけることにはなるまい。彼にはかつ
 て愛した女性があり、子供もあった。結婚後そのことが知れて、夫人は実家へ連れ戻さ
 れたという噂である。
 
秘められた喪章(二)
インパール作戦で戦死した浦香治陸軍中佐の夫人は、かつて二・二六事件で一度未亡人
 になった女性であった。
・昭和十一年二月九日に式を挙げ、半月後の二十六日、事件に参加した陸軍中尉坂井直
 妻である。
・四日市の諏訪神社で坂井直と結婚式を挙げ、上京して花嫁荷物も解かぬうちに、二十歳
 の花嫁は気づかれで病気になった。早く入籍手続きをしようというところへ、二・二六
 事件が起きたのである。夫人は戸籍上は未婚のまま実家へ帰ることになる。そのために
 長く「秘密」が保たれることになった。浦夫人が坂井夫人その人であることは、戦死し
 た浦中佐しか知らなかった。
・夫人の母は二・二六事件の有力な同調者の一人で歌人の斎藤瀏少将の養女。夫人の父は、
 永田鉄山斬殺の相沢三郎中佐と陸士の同期生であり、戸山学校で一緒に教官を勤めた仲
 でもある。とはいえ、坂井中尉との結婚は、青年将校運動とはまったく無縁のところで
 きまった。結婚するまでに会ったのは、見合いも含めて二度か三度。
・病人の新妻を残してゆくことに、坂井はやはり心が残ったのであろう。女中か家政婦を
 雇おうとしてみつからず、家主の海軍大佐未亡人に、妻の世話を頼んで出て行った。
・夫人の名は孝子。
・坂井自身は何も書き遺さなかったが、秩父宮の歩三在勤中、秩父宮への連絡将校をつと
 めている。中橋基明が「蹶起の際は一中隊を引率して迎えに来い」という秩父宮の言葉
 を書き遺したのは、坂井の言による。坂井直は昭和八年頃から、青年将校運動の一員と
 して名前を列ねていたのである。
・浦家とは父が朝鮮の平壌勤務の時代に、陸軍官舎が近所同士で、女学生だった孝子さん
 は、少尉時代の浦を知っている。浦少佐は死んだ坂井直と陸士の同期生だった。
・昭和十六年十二月の暮にまず籍を入れ、十七年の二月に式を挙げた。浦夫婦には十七年
 十月に長男が生まれた。十九年三月、浦中佐は、大隊長として敗色日に濃い最前線へ出
 て行った。そして四月四日、浦中佐はビルマで作戦中地雷に触れて戦死。
・坂井直は死んだとき数えの二十七歳。その蹶起には青年の純真と固いおごりが感じられ
 る。結婚半月で大事に参画する男に、結婚とは、妻とは、どんな意味をもっていたのだ
 ろうか。
・ごく少数者の間で実行計画が練られ、計画の伝達から実行への時間はきわめて短い。誘
 われて、促されて、否と言えない下地は長い時間かかって培われていたとしても、最後
 に襲撃部隊を率いて起つまでの決断の時間は、ごくごく短い。結婚して半月のうちの最
 後の何日間かのことである。坂井にとってはおそらく不用意で不本意な結婚となった。
・二・二六事件を起こした青年将校というとき、人はどんなイメージを描くのだろうか。
 カーキ色の軍服、短く刈り込んだ坊主頭。軍人特有の顔。その内側に、天皇絶対の信仰
 を皮膚のようにまとい、遅疑逡巡を意識的に切り捨てた青春。若人らしいたゆとう想い
 や惑いの情感の生きる余地はないように見える。
・事件がもし挫折しなかったら、二・二六の男たちは、頑なでいささかやりきれない青年
 として終始したかもしれない。彼等にとってはこの上なく不幸な挫折、運命の逆転によ
 って、男たちは青年らしいその素顔を残すことになった。
 
母としての枷
・香田清貞大尉の妻冨美子の半生には、母という名の重さをしみじみ感じさせるものがあ
 る。その重さから脱れようとして、結局は母の座へ回帰する短い一生であった。
・香田夫妻の結婚は昭和五年、事件関係者では結婚歴の長い方に属する。
・香田は村中孝次と陸士の同期生だが、結婚前は、政治運動とのつながりは希薄であった
 ようである。もっとも、冨美子夫人を推薦したのが、同じ歩一の栗原安秀で、青年将校
 仲間の交遊の中に、時代の波を敏感に反映するつながりはあった。
・昭和七年の五・一五事件以後、西田税に伴われて北一輝を訪問、昭和八年秋の救国埼玉
 挺身隊事件では、栗原、中橋、丹生とともに、検察資料に記録されることになる。
・東京へおいてはいけないという上官の判断で、中国北支の駐屯軍へ飛ばされる。
・一度燃えついた心の火は、なかなか消えはしない。故国へ凱旋して第一回の週番勤務の
 日、真崎教育総監の更迭問題に憤激し、蹶起の決意で武装を整え、勤務に服した。
・そういう心情の香田大尉を招いた真崎甚三郎大将は、香田から青年将校の活動状況を聞
 いて同感の意を示すとともに、「青年将校の努力未だ足らず」として、憤懣の態度教育
 総監で更迭には最後まで反対した。
・香田の参加がはっきりすると、香田の父はカイゼル髭を大きなマスクでかくして、吉祥
 寺の家族を引き取りに行った。そして二十九日、それまでの「蹶起部隊」が叛乱軍とな
 ってから、香田、斎藤両家の確執は決定的になった。
・どちらの父親も一徹な性格であった。「娘を叛乱軍のところへやっておけるか」陸軍軍
 人の集落に生きている退役少佐にとって、叛乱、つまり天皇に弓を引くなどあり得べか
 らざることである。 
・香田の父の方は、裕福な市井の住人として、軍人たちとは自ら異なった対応があった。
 両家のあるじはどうにも収拾のつかぬところまで感情をぶつけあってしまった。香田の
 妻子の今後の身のふり方を、両方の親が真剣に親身に話し合うべきときに、率直な対話
 を妨げる感情の暗流が表面化し、いっそう激しくなった。香田夫人の問題であるのに、
 彼女の存在など吹き飛んでしまった。夫人の実家は、娘を引き取りいずれ再婚させると
 主張し、香田家は息子の嫁、孫たちの母を手放すまいとする。夫人は数え年二十五歳。
 実家と婚家の意志の板挟みになって、夫人には自分の選択がなかった。
・当時護国佛心会という遺族会は、処刑された青年将校の筆頭者の未亡人として冨美子夫
 人を遇した。ささえをなくして動揺する夫人の心には、これもまた重荷となった。
・子供を捨てたくて捨てたのではない。捨てる意志もなかった。しかし、世間の眼にうつ
 る香田夫人は「悪い女」であり、子供たちはその犠牲になった哀れな存在となった。
・実家に戻ってしばらくたってから、磯部夫人が保母の教育を受けているのを聞いて、夫
 人は昼間は幼稚園で働き、夜、保母の学校に学んだ。磯部夫人と机を並べて一時期もあ
 る。必要が消極的な女性にも進むべき道を指し示す一つの例がここになる。未知の世界
 に心臆して、最初に決断を回避した香田夫人も愚かといえば愚かだが、周囲があまりに
 も性急過ぎたのである。
・細々ながら自活の道を得て、夫人は子供たちに逢いたくて婚家の近くまで来るが、玄関
 から訪う勇気はない。電柱の陰に佇んで、子供たちの姿をじっとみつめて、黙って帰っ
 た行った。 
・実家の姓に戻ってしまえばまだ気持ちの切換えができたかもしれないが、香田家から籍
 は抜けず、死ぬまで香田清貞の未亡人のままであった。
  
西田はつ 聴き書き 
・二月二十三日に、西田の留守に磯部さんが見えまして「奥さん、いよいよ二十六日にや
 ります。西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないでくだ
 さい」とおっしゃたのです。
・その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言を伝えました。「あなたの立場は
 どうなのですか」「今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。黙認する」西田
 はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
・事件が起きましたときに主人は三十六歳、私は三十一歳でございました。
・ある資料に、渋川善助さんが「命を捨てて革命に当たる者が妻帯するとは何事だ」と言
 って、西田をなじったという話が書かれております。その渋川さんも結婚なさいました
 し、二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
・結婚いたしました頃は、西田肋膜炎で陸軍は予備役になっておりまして、北先生の「日
 本改造法案大綱」の普及と国内改造のための運動に専念しておりました。次々の文書印
 刷を手伝うのがわたくしの日課になりました。
朴烈金子文子の極秘写真が配られてまして、民政党の若槻内閣の政治責任が問われた
 という事件がございます。この二人は今の天皇陛下の御成婚式に爆弾を投げつける計画
 を企んだということで、当時は大逆罪。一度死刑の判決がおり、のちに恩赦が出て無期
 になったのですが、重罪の嫌疑かけられた犯人でした。この恋人たちを予審の取調べの
 ときに密かに会わせて、検事が後日の資料に写真をとったのでございます。朴烈の膝の
 上に文子が腰をかけたような形にもたれあった、ずいぶん大胆な写真でした。新聞がと
 りあげ、反対党は絶好の政府攻撃材料というわけで大騒ぎになりました。大正十五年の
 夏のことでございます。
・その頃、なにか国家改造につながることをしなくては生きている意味がない。主人はそ
 んな執念にとり憑かれていたようです。
・新婚時代、怪文書と呼ばれるほとんどのものを、千駄ヶ谷のわたくしどもの家で印刷い
 たしております。 
・運動費や生活費は、北先生が蒐められた中から出ております。
・波のある不安定な生活でしたが、西田は年末がきますと、自分の母だけでなくわたくし
 の身寄りにも黙って送金するというふうなところのある人でした。
五・一五事件の日は、よく晴れた日曜日でございました。川崎長光は、大蔵さんが帰る
 とすぐ主人に会いたいと訪ねて参りました。西田は来客の多い人でしたから、二階の座
 敷へ通しました。わたくしは階下で食事をしておりましたら「ドタン」と二階で大変な
 音がしました。テーブルを挟んで対話中、川崎が突然拳銃を出す。西田が防壁にしよう
 とテーブルをひっくり返す。川崎が後退りしながら拳銃を射つ。それで右肩、右腕、腹
 部と右半身に五発の弾丸を受けながら、川崎を追ってドドドドと階段をなだれおりる。
 川崎は玄関から逃げました。
・あいにく日曜日のため、どこへ電話をかけましてもお医者さまが留守なのです。やっと
 お爺さんの医師が来てはくれましたが、傷を見まして「警察の許可がなくては手当はで
 きない」と、どんどん出血している怪我人をそのまま、帰ってしまいましたのです。
・北先生が手配してくださって、救急車でやっとお茶の水の順天堂へ入院しましたが、射
 たれて二時間も経っておりました。
・西田が狙われましたのは、事情に通じていながら参画しない情を憎まれたのか、陸軍側
 の行動を押さえた張本人と思われたせいなのか、いろいろ言われますが、本当のところ
 ははっきりいたしません。
・五・一五事件の後には、西田は青年時代の向うみずな血気は沈潜したようですが、青年
 将校運動との縁は切れず、わたくしはそういう西田の将来に不吉な予感を覚えながら別
 れられなかったのでございます。
・相沢さんが永田軍務局長を殺害する前夜、台湾へ転任の挨拶にみえまして私宅に泊って
 おられます。わたくしは軍刀を抜いてじっと凝視している相沢さんの姿を見るともなく
 見てしまいました。「なにかある」、そう感じまして主人に申しました。事件の朝、何
 人かの方へ電話をしていらっしゃるのですが、どうも別れを告げているように感じられ
 ました。
・北先生と西田は、二・二六事件の首魁として死刑になりましたが、事件の現場へ一歩も
 近づいておりませんし、事前の計画も参画はいたしておりません。
・西田が僚友とも教え子とも思っておりました青年将校たちが、こぞって蹶起を決意した
 あとで、西田としては「万事休す」の心境であったのでございましょう。北先生も西田
 も、事件への直接の参画・行動の点では死刑を科しようがなく、大正年間から昭和へか
 けて、国内革新を標榜して青年将校たちと交流をもった、その「実績」に強引に罪状を
 なすりつけられたのだと思っております。
 
生けるものの紡ぎ車
・二・二六事件で叛乱者の未亡人となった女性は十四人、そのうち五人が何故か同じ生ま
 れ年である。事件が起きたとき数えの二十五歳、五人とも子持ちの未亡人となった。香
 田冨美子、安藤房子、対馬千代子、野中美保子、田中久子。陸軍軍人に嫁し、日ならず
 して叛乱者の未亡人となる悲運にめぐりあう。
・五人が五人ながらに、いつ終わるとも知れぬ紡ぎ車を廻すような未亡人の道を、営々と
 生きつづけることになった。 
・安藤房子さんと対馬千代子さんは、同じ城下町に娘時代を送っている。去った竹嶌継夫
 夫人も、この静岡市から竹嶌のもとへ嫁いでいった。
・安藤夫妻の結婚は昭和八年五月、対馬夫婦の結婚は昭和九年十二月。どちらも見合結婚
 である。
・安藤の原隊は帝都の第一師団歩兵第三連隊、対馬の場合は弘前の第八師団歩兵第三十一
 連隊である。
・大正十三年四月、陸士在学中の士官候補生三名が歩三に配属になった。この候補生の軍
 事務官を担当したのが、当時歩三の第六中隊付将校であった秩父宮である。候補生の一
 人が安藤輝三であった。
・対馬は弘前の原隊から昭和六年満州事変に出征、凱旋後、豊橋の教導学校付となってこ
 こから事件に参加するが、昭和十年八月以後、秩父宮の配属先は対馬の原隊であった。
・安藤輝三は侍従長鈴木貫太郎海軍大将と親しく会う機会があり、鈴木の人柄と軍人とし
 ての識見に打たれるところがあった。しかし、二・二六事件では、長い苦渋を経て決断
 した後で、鈴木侍従長を襲撃し、重傷を負わせる立場に立つ。
・鈴木貫太郎夫人たかは、秩父宮の幼少時からの女官で母親のように慕われたという女性
 である。鈴木侍従長にとどめを刺そうとする安藤に懇願して思いとどまらせ、一命を救
 ったのは、このたか夫人である。
・五・一五事件を起こした人々も、その蹶起趣意書に国を救済する道は唯一つ、直接行動
 あるのみと謳い、「天皇の御名において君側の奸を屠れ!」「吾等は日本の現状を哭し
 て、赤手、世に魁て諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの」と訴えている。
・五・一五事件は犬養政友会内閣を倒し、戒厳令下に軍事政府を樹立するのが名分であっ
 た。 
・第一師団に入営する兵隊の多くは農村出身であり、東北農村は打重なる凶作に呻吟して
 いた。安藤が隊付将校として、日夜接する兵隊の家庭の貧困に胸を痛め、そこから政治
 の無策を憤って国内変革の志へと開眼するのは、昭和六年以後と言われる。西田税に近
 づき、歩三の営内で「日本改造法案大綱」について青年将校の集まりをもつなどの行動
 が目につくようになるのは、やはり満州事変以後である。この頃の歩三には、西田税に
 一番信頼された青年将校運動の指導格の菅波三郎が配属になっていた。菅波が熱源とな
 っていた。
・西田税の天皇への建白書を託された菅波三郎が、安藤の手配でひそかに秩父宮に会う出
 来事もあった。
・一月二十八日に相沢三郎の軍法会議が開始され、この法廷闘争へ過大な期待を青年将校
 たちは寄せていた。五・一五事件では、犬養首相を殺し、負傷者を出しながら、一人の
 死刑もなかった。法廷で政治の腐敗を痛撃する被告たちに、陸海軍当局はその心情を諒
 とし、世間は声援を送ったのである。
・相沢三郎に殺された軍務局長永田鉄山は、二・二六事件の青年将校とは対立関係に位置
 する。
・安藤は敵味方の次元で割切って単純に蹶起に賛成するには、多角的な関心を持ち、多様
 で柔軟な人間関係を生きてきていた。秩父宮との交誼も、軽々の行為を安藤に躊躇させ、
 結婚三年に満たない妻子への責任も安藤をしっかり捉えていた。
・けれども、時期尚早、成算に確証なしという不賛成の意見を貫く強さを安藤は欠いた。
 大勢に抗する「勇気」は、一時期、臆病者、卑怯者と区別がつき難い。
・二月十八日、村中、磯部、栗原、安藤が栗原の家に集まった。来週中に決行を決めたが、
 安藤は「今はやれない。時期尚早である」と反対した。磯部は歩三、歩一がやらなくて
 も単独で決行する決意で「ヤル」を主張し、結局、決行時期が決まった。
・安藤房子さんは未亡人になってまもなく実家へ帰り、子供を預けて上京して、母校の共
 立女専の恩師が主催する洋裁学校に学んだ。もう一年共立女専に学べば、教師になる道
 も開けたが、洋裁の方が向いていると判断してこの道へ進んだという。
・事件最後の日、自決を図った安藤は衛戍病院に収容された。安藤の両親と面会に行くが、
 本人が興奮しているからという理由で会えず、間もなく安藤は衛戍刑務所へ送られる。
・安藤は二発射たれたと言われる。
・対馬は満州事変に出征中、戦死した同志の遺骨の一片を食べてしまったという逸話の持
 主である。満州では失った部下の数だけ「匪賊」を斬首したという。戦死した部下の分
 骨をいつも肌身につけていた。そのまま事件に参加し、おそらくはそのまま銃殺された
 のである。
・対馬中尉が斬った中国人「匪賊」は、中国人からみれば愛国者であったかもしれない。
 熱血をたぎらせる対馬中尉の脳裏には、殺される異国の男の立場を思ってみる思考はな
 い。それが軍人の思考であり、論理であった。
・昭和十年の暮れ、対馬中尉は青森の郷里に帰った。両親と秩父宮に会うのが目的であり、
 帰路、東京へ出て真崎大将に逢って、十一年の元旦に帰宅した。
・事件前、対馬中尉は軍人であることに懐疑を抱いていた節がある。「軍人が嫌になった。
 満州へ言って満州国の軍人になろうと思うがどうだ」と夫人に問うたこともある。
・病褥に聞いた夫の死を、妻は信じきれなかった。しかし頑是ない子供の泣き声は、「し
 っかりしてくれ」と夫の代わりに叫んでいるようであった。夫の処刑は、動揺する千代
 子夫人の心に活を入れ、一進一退の病状に区切りをもたらす反面の効果を伴うことにな
 った。
・子供が幼稚園へ通い出して間もなく、対馬の生家では遺児を手許で教育する希望を伝え
 てきた。子供につきしたがって、青森の海辺に暮らす夫の両親の許に身を寄せる。長い
 歳月、嫁として終始する人生が始まった。
 
辛酸に堪えられよ
・夫たちの目指した昭和維新は軍ファシズムへ変型・屈折して受け継がれ、戦争への道を
 開いた。二・二六事件は、昭和史の不幸な岐れ道に位置している。死んだ夫にとっては
 不本意であろうけれども、歴史の刻み方は冷酷であった。歴史の審判を見ずに死んだ男
 たちは、幸運であったのかもしれない。
・村中孝次は静子夫人の次兄と陸士の同期生であり、親代わりの兄たちが病弱な妹の平穏
 な人生を願って選んでくれた伴侶であった。
・陸軍士官学校の区隊長であった村中の教え子から、五・一五事件に連座する士官候補生
 が出、二・二六事件で銃殺になる中島莞爾、安田優、高橋太郎の三少尉も、陸士時代に
 村中の薫陶を受けている。
・五・一五事件の後、一時村中は北海道の連隊へ飛ばされたが、亡父も陸軍軍人、兄二人
 も軍職にある環境で育った静子夫人は、夫の思想傾向を特に深刻に考えたことはなかっ
 た。 
・陸士区隊長を長く勤め、候補生たちと交流があってなんの警戒心も持たなかったこと、
 満州事変前後から急激に表面化した軍人の政治行動の渦中で、一方の理論家として目さ
 れていたこと、村中のもとこの二つの要因から巧妙に誘導されたのが、陸軍士官学校事
 件である。中央幕僚派の辻政信の意をふくんで村中孝次へ接近していた一候補生の執拗
 な問いかけに、村中孝次は実効性のない行動計画を語り、メモまで取らせたという。昭
 和九年晩秋のことである。
・腹心の候補生の報告を聞いて、辻政信じゃ雀躍として憲兵隊へ通報する一方、他の候補
 生は村中の「計画」通りに蹶起の決意を固めていた。このあたりに士官学校事件の虚実
 と、当時の青年の心情が覗いている。
・昭和九年十一月、村中は磯部等とともに陸軍刑務所へ収容された。当時賀陽宮が陸大教
 官で、宮は静子夫人の次兄の陸士同期生であった。宮から「教官会議があるはずだから、
 そのとき私が村中君の擁護をしよう。心配せぬように」と意向が伝えられていた。しか
 し教官会議を経ないで、陸軍省は卒業間近の村中孝次を退学にした。
・証拠不十分で不起訴となりながら停職処分を受けた夫に、「近所の方たちと顔を合わせ
 るのが厭だからどこかへ引越したい」と夫人は言い、村中は鷺宮に借家をみつけた。
・村中孝次にも、獄中で秘かに事件の真相と真意を綴った手記がある。好意的な看守によ
 って持出され留守宅へ届けられたほか、一部は面会の折に夫人に託された。夫人は固く
 秘蔵した。
・「磯部手記」が怪文書として外部へ流れたとき、まず面会禁止になったのは村中夫人で
 あった。面会禁止がいつとけるのか、一切不明であった。しばらく待ってから、昭和十
 二年五月、兄嫁に差し入れを頼んで村中母娘は仙台へひきこもった。
・東京衛戍刑務所から電報が届いたのは、処刑の三日前である。長兄は満州駐屯師団にあ
 り、日中戦争の拡大に伴い、各師団に同院令が下って次兄は動員の最中であったが、親
 のない静子夫人のために特別許可をとって、義弟であり同期生である村中孝次の最期の
 面会に立ち会った。村中は「自分たちだけ処刑が一年遅れた。強盗でもこんな仕打ちは
 されまい。こんなひどい話は聞いたことがない」と激しく憤っていた。
・子供を連れ遺骨を抱いて仙台に帰り、座敷の床の間に祭壇をまつった。その部屋に寝か
 せられていた法子さんは、突然むっくり起き上がって「そこにいるのはだれ」と鋭い声
 で祭壇を指した。「誰もいませんよ」と答えるとすぐにまた寝入った。
・両兄の出征中、昭和十三年に法子さんを連れて満州へ就職した夫人の心中は複雑である。
 生活に事欠かなくても、喪衣に閉ざされた生活から脱れたい気持ちもあった。仙台の土
 地柄は事件で亡くなった内大臣斎藤実敬慕の雰囲気が濃厚であった。墓参りに行って、
 その境内にある斎藤実の銅像を洗っている婦人会の人々と行き逢ったこともある。視線
 の中に無数の針を感じた。
・植民地のこの新興都市では、村中孝次の未亡人、遺児であることに同情的な空気であっ
 た。空襲もなく、終戦間近まで、軍関係者は食糧に困ることもなかった。
・ソ連参戦直後、関東軍とその家族は民間より先に新京を撤収した。終戦は通化で迎え、
 朝鮮を経由する帰国の途中で、夫の位牌まで奪われたが、名古屋の姉の許へ辿りついた
 のは昭和二十年九月九日、在満日本人の敗戦経験に比べると奇蹟的に早い帰国であった。
 
過去への旅 現在への旅
・刑死した水上源一の未亡人初子さんは北海道のある町に住んでいる。水上源一は北海道
 の出身、初子さんは青森の人であった。
・重い夫の骨を抱き、三歳の娘とともに夫の郷里へ帰る旅路で、若い初子さんはほとんど
 放心状態であった。
・結婚生活の始まりは昭和五年、日大在学中の青年と、三歳年下の女学生は、親たちの反
 対を押し切ってままごとのような新婚生活を始めた。水上が学内で救国学生同盟を組織
 するなど、国家主義的な政治運動に走るのは、おそらくその結婚と前後している。
・二・二六事件の資料の中で、水上源一に関する部分はきわめて乏しい。 
・自決及び刑死者二十一名のうちで、陸軍士官学校事件に縁のないのは北一輝と水上源一
 だけである。
・水上源一は二月二十五日夜、この日初対面の河野大尉の指揮下に入って牧野前内大臣の
 逗留先湯河原へ向う。
・二十六日午前五時を期し襲撃開始直後、河野大尉と宮田晃は警官の銃弾により負傷。計
 画変更を余儀なくされて伊東屋別館へ放火。女装にかくれて牧野伸顕は逃げのびた。
・水上源一は求刑では禁錮十五年、そして死刑の判決を下された。刑期の長いことは覚悟
 していたが、まさか死刑とは予期し得なかった。現役の下士官をふくむ湯河原襲撃部隊
 で、死刑は水上源一ただ一人である。
・夫は処刑前の面会で、宣子に手がかからなくなるまでの当座の生活費は同志某の夫人に
 預けてあると語った。おなじく未亡人となった夫人は、夫に委託されたものがあると一
 度は告げたが、それは水上夫人の手には渡らなかった。もしそれがあれば、母と子が離
 れ離れになることもあるまい。夫人は生まれて初めて人を恨む感情をしたたかに味わっ
 ていた。
・満州へ行こうという決心は、東京の煩わしい生活の自然な結論であった。 
・夫の家郷では「悪い妻をもったせいで水上源一はあんな死に方をした」という囁き声も
 耳にした。夫の死後の家族の杖になってくれると頼んだ「同志」たちは、事件後ぱった
 り姿を見せなくなった。
・東京へ単身で出て来てすぐ、初子さんは小さな仏壇を注文して造らせた。抽出しに処刑
 当日渡された夫の遺書や記念の品々を納め、夫の位牌をまつった。携帯しやすいその仏
 壇をもって渡満したのは昭和十三年である。一度はホームシックにかかって東京へ戻っ
 たが、やはり東京に長くはいられなかった。
・戦争の激しくなった昭和十八年に、夫の郷里へ娘を疎開させるため、身のまわりの荷物
 だけもって日本へ帰ったが、ふたたび大陸へ渡る機会は来ず、転々としたのちに夫人北
 海道に落ち着いて、現在に至っている。
 
あとがき
・青年将校たちの「悲劇」は、一言で言ってしまえば、もっとも激しい形で現われた天皇
 制内部の矛盾である。しかし、磯部浅一の獄中手記に代表される遺稿には、現象を超越
 する凄まじい執念と怨念がある。十余人の妻たちは「叛徒の未亡人」という重い荷物と
 ともに、この烈しい感情を託されて生き残った。
・短い結婚生活と、三十年余の未亡人としての人生。そこには、忍耐だけが時を刻んだよ
 うな妻の姿もある。 
・二・二六事件は、無残な要臣殺害と、陸軍中枢のかつてないみにくい暗躍と抗争を示す。
 有罪理由となる「奉勅命令違反」は、銃殺刑になる男たちへ達せられていない。命令は
 即天皇の命令という暗喩が二転三転して使われ、法廷では兵営を出た瞬間から、叛徒で
 あるとされた。
・流血の恐怖の刈入れは、鎮圧側の軍人によってなされ、果てもなく戦争への道を辿るこ
 とになる。