憂国  :三島由紀夫

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この作品は、いまから60年前の1961年に発表されたもののようだ。
内容は、戦前の昭和の動乱の一つである「二・二六事件」を題材にしたもので、仲間から
決起に誘われなかった新婚の中尉が、叛乱軍とされた仲間を逆に討伐せねばならなくなっ
た立場に懊悩し、妻と共に心中するという物語である。
大義のため、そして皇軍への忠義のために成し遂げられた壮絶な割腹自決の状況が克明に
描かれている。この作品は「死とエロティシズム」を表現したものだとも言われているよ
うだ。また作者は、1966年にはこの作品を自主制作で映画化もしているようだ。
しかし、私には、この作品の主人公がどうして切腹しなければならなかったのか、いま一
つ理解できなかった。憂国と言うなら、切腹などせず、生き残って、国のために尽くした
ほうが、ずっと国への忠義を果たすことになるのではないかと。
この作者は、この作品を発表した9年後の1970年に、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニ
ーで自衛官たちにクーデターを促す演説
をしたのち、それを受入れられないと知ると、自
ら割腹自決した。まさに「憂国の自決」を遂げたのであるが、今読んでみると、この作品
にはそれを予感させものがあるような気がする。それでも、作者がいったい何を成し得た
かったのか、私にとっては未だ理解の外にあるままだ。



・昭和十一年二月二十八日(二・二六事件突発第三日目)、近衛輜重兵大隊勤務武山信二
 中尉は、事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態
 必至となりたる情勢に痛憤して、四谷区青葉町の自宅八畳の間に於いて、軍刀を以って
 割腹自殺を遂げ、麗子夫人もまた夫君に殉じて自刃を遂げたり。
・中尉の遺書は只一句のみ「皇軍の万歳を祈る」とあり、夫人の遺書は両親に先立つ不幸
 を詫び、「軍人の妻として来るべき日が参りました」云々と記せり。因みに中尉は享年
 三十一歳、夫人は二十三歳。
 

・武山中尉の結婚式に参列した人はもちろん、新郎新婦に記念写真をみせてもらっただけ
 の人も、この二人の美男美女ぶりに改めて感嘆の声を洩らした。
・二人の自刃のあと、人々はよくこの写真をとりだして眺めては、こうした申し分のない
 美しい男女の結びつきは不吉なものを含んでいがちなことを嘆いた。
・二人は仲人の尾関中将の世話で、四谷青山町に新居を構えた。新居と言っても、小さな
 庭を控えた三間の古い借家で、階下の六畳も四畳半も日当たりが悪いので、二階の八畳
 の寝室を客間に兼ね、女中も置かずに、麗子が一人で留守を守った。
・新婚旅行は非常時だというので遠慮をした。二人が第一夜を過ごしたのはこの家であっ
 た。床に入る前に、信二は軍刀を膝の前に置き、軍人らしい訓誡を垂れた。軍人の妻た
 る者は、いつなんどきでも良人の死を覚悟していなければならない。
・麗子は立って箪笥の抽斗をあけ、もっとも大切な嫁入道具として母からいただいた懐剣
 を、良人と同じように、黙って自分の膝の前に置いた。これでみごとな黙契が成立ち、
 中尉は二度と妻の覚悟をたしかめたりすることがなかった。
・結婚して幾月かたつと、麗子の美しさはいよいよ磨かれて、雨後の月のようにあきらか
 になった。 
・二人とも実に健康な若い肉体を持っていたから、その交情ははげしく、夜ばかりか、演
 習のかえりの埃だらけの軍服を脱ぐ間ももどかしく、帰宅するなり中尉は新妻をその場
 に押し倒すことも一再でなかった。麗子もよくこれに応えた。最初の夜からひと月過ぎ
 るかすぎぬに、麗子は喜びを知り、中尉もそれを知って喜んだ。
・麗子の体は白く厳そかで、盛り上がった乳房は、いかにも力強い拒否の潔らかさを示し
 ながら、一旦受け容れたあとでは、それが塒の温かさを湛えた。かれらは床の中でも怖
 ろしいほど、厳粛なほどまじめだった。おいおい烈しくなる狂態のさなかでもまじめだ
 った。
・麗子はほんの数カ月前まで路傍の人にすぎなかった男が、彼女の全世界の太陽になった
 ことに、もはや何のふしぎも感じなかった。
・これらのことはすべて道徳的であり、教育勅語の「夫婦相和シ」の訓えにも叶っていた。
 麗子は一度だって口ごたえはせず、中尉も妻を叱るべき理由も何も見出さなかった。
・この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れ
 ていた。 


斎藤内府の邸は近くであったのに、二月二十六日の朝、二人は銃声も聞かなかった。十
 分の惨劇がおわって、雪の暁闇に吹き鳴らされた集合ラッパが中尉の眠りを破った。中
 尉は跳ね起きて無言で軍服を着、妻の差し出す軍刀を佩して、明けやらぬ雪の朝の道へ
 駈け出した。そして二十八日の夕刻まで帰らなかったのである。
・麗子はやがてラジオのニュースでこの突発事件の全貌を知った。それからの二日間の麗
 子の一人きりの生活は、まことに静かで、門戸を閉ざして過ごされた。
・麗子は雪の朝ものも言わずに駈け出して行った中尉の顔に、すでに死の決意を読んでい
 たのである。良人がこのまま生きて帰らなかった場合は、跡を追う覚悟ができている。
 彼女はひっそり身のまわりのものを片づけた。
・麗子はそうして、刻々のラジオのニュースに耳を傾け、良人の親友の幾人かが、蹶起の
 人たちの中に入っていることを知った。これは死のニュースだった。そして事態が日ま
 しにのっぴきならぬ形をとるのを、勅命がいつ下るかもしれず、はじめ維新のための蹶
 起とみられたものが、叛乱の汚名を着せられつつあるのを、つぶさに知った。
・二十八日の日暮れ時、玄関の戸をはげしく叩く音を、麗子はおそろしい思いできいた。
 良人にちがいないことがよくわかった。麗子がその引戸の鍵を、これほどまだるっこし
 く感じたことはなかった。そのために鍵はなお手に逆らい、引戸はなかなか開かない。
・「お帰りあそばせ」と麗子は深く頭を下げたが、中尉は答えない。
・ややあって、中尉はこう言った。「俺は知らなかった。あいつ等は俺を誘わなかった。
 おそらく俺が新婚の身だったのを、いたわったのだろう」
・麗子は良人の親友であり、たびたびこの家へも遊びに来た元気な青年将校の顔を思い浮
 かべた。 
・「おそらく明日にも勅命が下るだろう。奴等は叛乱軍の汚名を着るだろう。俺は部下を
 指揮して奴らを討たねばならん。・・・俺にはできん。そんなことはできん」
・「いいな」と中尉は重なる不眠にも澄んだ雄々しい目をあけて、はじめて妻の眼をまと
 もに見た。「俺は今夜腹を切る」
・麗子の目はすこしもたじろがなかった。そしてこう言った。「覚悟はしておりました。
 お供をさせていたたきとうございます」
・中尉はほとんどその目の力に圧せられるような気がした。
・「よし。一緒に行こう。但し、俺の切腹を見届けてもらいたいんだ。いいな」こう言い
 おわると、二人の心は、俄かに解き放たれたような油然たる喜びが湧いた。
・こうして健気な覚悟を示された中尉は、悲しみが少しもなく、心は甘い情緒に充たされ
 た。若い妻の子供らしい買物を見せられた良人のように、中尉はいとしさにあまり、妻
 をうしろから抱いて首筋に接吻した。
・麗子は足袋の爪先に力を沁み入れさせて、背後から良人の愛撫を受けた。
・二人が死を決めたときのあの喜びに、いささかも不純なもののないことに中尉は自信が
 あった。あのとき二人は、もちろんそれとははっきり意識はしていないが、再び余人の
 知らぬ二人の正統な快楽が、大義と神威に、一分の隙もない完全な道徳に守られたのを
 感じたのである。
・忙しいあいだに麗子が手早く顔を直したのを中尉は知った。頬は花やぎ、唇は潤いをま
 し、悲しみの影もなかった。若い妻のこんな烈しい性格のしるしを見て、彼は本当に選
 ぶべき妻を選んだと感じた。
・「ここへ来い」と中尉は言った。麗子は良人のかたわらへ行って、斜めに抱かれた。そ
 の胸ははげしく波打ち、悲しみの情緒と喜悦とが、強い酒をまぜたようになった。中尉
 は妻の顔を眺め下ろした。これが自分がこの世で見る最後の人の顔、最後の女の顔であ
 る。いくら見ても見倦かぬ美しい顔は、整っていながら冷たさがなく、唇はやわらかい
 力でほのかに閉ざされていた。中尉は思わずその唇に接吻した。
・窓の外に自動車の音がする。道の片側に残る雪を蹴立てるタイヤのきしみがきこえる。
 自分が憂える国は、この家のまわりに大きく雑然とひろがっている。自分はそのために
 身を捧げるのである。しかし自分が身を滅びしてまで諫めようとするその巨大な国は、
 果たしてこの死に一顧を与えてくれるかどうかわからない。それでもいいのである。こ
 こは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だった。
・麗子は浴衣に名古屋帯を締めていたが、その帯の紅いは薄闇のなかで黒ずんで、中尉が
 それに手をかけると、麗子の手の援ける力につれて、帯はうらめきながら走って畳に落
 ちた。まだ着ている浴衣のまま、中尉は妻の両脇に手を入れて抱こうとしたが、八ツ口
 の腋の温かい肌に指が挟まれたとき、中尉はその指先の感触に、全身が燃えるような心
 地がした。
・二人はストーヴの火明りの前で、いつのまにか自然に裸になった。
・「お前の体を見るのもこれが最後だ。よくみせてくれ」と中尉は言った。
・麗子は目を閉じて横たわった。低い光が、この厳かな白い肉の起伏をよく見せた。中尉
 はいささか利己的な気持ちから、この美しい肉体の崩壊の有様を見ないですむ倖せを喜
 んだ。
・中尉の目の見るとおりを、唇が忠実になぞって行った。その高々と息づく乳房は、山桜
 の花の蕾のような乳首を持ち、中尉の唇に含まれて固くなった。
・胸から腹へと辿る天性の自然な括れは、柔らかなままに弾んだ力をたわめいていて、そ
 こから腰へのひろがる豊かな曲線の予兆をなしながら、それなりに些かもだらしなさの
 ない肉体の正しい規律のようなものを示していた。光から遠く隔たったその腹と腰の白
 さと豊かさは、大きな鉢に満々と湛えられた乳のようで、ひときわ清らかな凹んだ臍は、
 そこに今し一粒の雨滴が強く穿った新鮮な跡のようであった。
・ついに麗子は定かでない声音でこう言った。「見せて・・・私にもお名残によく見せて」
 こんな強い正当な要求は、今まで一度も妻の口から洩れたことがなく、それはいかにも
 最後まで慎みが隠していたものが迸ったように聞かれたので、中尉は素直に横たわって
 妻に体を預けた。
・麗子は瞼も赤らむ上気に頬をほてらせて、いとしさに堪えかねて、中尉の五分刈の頭を
 抱きしめた。乳房には短い髪の毛が痛くさわり、良人の高い鼻は冷たくめり込み、息は
 乳房に熱くかかっていた。
・二枚の楯を張り合わせたような逞しい胸とその華色の乳首に接吻した。ここがやがてむ
 ごたらしく切り裂かれるのを思って、いとしさの余りそこに泣き伏して接吻を浴びせた。
・こうした経緯を経て二人がどれほどの至上の歓びを味わったかは言うまでもあるまい。
 中尉は雄々しく身を起こし、悲しみと涙にぐったりした妻の体を、力強い腕に抱きしめ
 た。二人は左右の頬を互いちがいに狂おしく触れ合わせた。麗子の体は慄えていた。汗
 に濡れた胸と胸とはしっかり貼り合わされ、二度と離れることは不可能と思われるほど、
 若い美しい肉体の隅々までが一つになった。麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、奈落
 から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔った。中尉は長駆する連隊旗手のように喘
 いだ。・・・そして、ひとめぐりがおわると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび
 相携えて、疲れるけしきもなく、一息に頂へ登って行った。
 

・時が経って、中尉が身を離したのは倦き果てたからではない。一つには切腹に要する強
 い力を減殺することを怖れたからである。一つには、あまり貪りすぎて、最後の甘美な
 思い出を損ねることを怖れたからである。中尉がはっきり身を離すと、いつものように、
 麗子も大人しくこれに従った。
・「さあ、支度をしよう」と中尉が言った。それはたしかに決然たる調子で言われたが、
 麗子は良人のこれほどまでに温かい優しい声をきいたことがなかった。
・身を起すと、忙しい仕事が待っていた。中尉は今まで一度も、床の上げ下げを手伝った
 ことはなかったが、快活に押入れの襖をあけ、手ずから蒲団を運んで納めた。
・素肌の上に軍服をきちんと着た中尉が風呂場からあらわれた。そして黙って、卓袱台の
 前に正座をして、筆をとって、紙を前にしてためらった。
・麗子は白無垢の一揃えを持って風呂場へゆき、身を清め、薄化粧をして、白無垢の姿で
 茶の間へ出て来たときには、燈下の半紙に、黒々と、「皇軍万歳、陸軍中尉武山信二」
 とだけ書いた遺書が見られた。
・麗子がその向いに坐って遺書を書くあいだ、中尉は黙って、真剣な面持ちで、筆を持つ
 妻の白い指の端正な動きを見詰めていた。
・中尉は軍刀を構え、麗子は白無垢の帯に懐剣をさしはさみ、遺書を持って、神棚の前に
 並んで黙祷したのち、階下の電気を皆消した。
・中尉は床柱を背に正座して、軍刀を膝の前に横たえた。
・「じゃあ、行くぞ」とついに中尉は言った。麗子は畳に深く身を伏せてお辞儀をした。
 どうしても顔が上げられない。
・そのとき中尉は鷹のような目つきで妻をはげしく凝視した。刀を前へ廻し、腰を持ち上
 げ、上半身が刃先へのしかかるようにして、体に全力をこめているのが、軍服の怒った
 肩からわかった。中尉は一思いに深く左脇腹へ刺そうと思ったのである。鋭い気合の声
 が、沈黙の部屋を貫いた。
・中尉は自分で力を加えたにもかかわらず、人から太い鉄の棒で脇腹を痛打されたような
 感じがした。一瞬、頭がくらくらし、何が起こったのかわからなかった。五六寸あらわ
 した刃先はすでにすっかり肉に埋まって、拳が握っている布がじかに腹に接していた。
・これが切腹というものかと中尉は思っていた。それは天が頭上に落ち、世界がぐらつく
 ような滅茶苦茶な感覚で、切る前はあれほど鞏固に見えた自分の意志と勇気が、今は細
 い針金の一線のようになって、一途にそれに縋ってゆかねばならない不安に襲われた。
・麗子は中尉が左脇腹に刀を突っ込んだ瞬間、その顔から忽ち幕を下ろしたように血の気
 が引いたのを見て、駆け寄ろうとする自分と戦っていた。とにかく見なければならぬ。
 見届けねばならぬ。それが良人の麗子に与えた職務である。
・中尉は右手でそのまま引き廻そうとしたが、刃先は腸にからまり、ともすると刃は柔か
 い弾力で押しだされて来て、両手で刃を腹の奥深く押さえつけながら、引き廻して行か
 ねばならぬのを知った。引廻した。思ったほど切れない。中尉は右手に全身の力をこめ
 て引いた。三四寸切れた。
・苦痛は腹の奥から徐々にひろがって、腹全体が鳴り響いているようになった。中尉はも
 う呻きを抑えることがきでなくなった。しかし、ふと見ると、刃がすでに臍の下まで切
 り裂いているのを見て、満足と勇気をおぼえた。
・中尉の顔は生きている人の顔ではなかった。目は凹み、肌は乾いて、あれほど美しかっ
 た頬や唇は、涸化した土いろになっていた。ただ重たげに刀を握った右手だけが、操人
 形のように浮薄に動き、自分の咽喉元に刃先をあてようとしていた。ホックは外されて
 いるのに、軍服の固い襟はともすると窄まって、咽喉元を刃から衛ってしまう。
・麗子はとうとう見かねて、良人に近寄ろうとしたが、立つことができない。血の中を膝
 行して近寄ったので、白無垢の裾は真紅になった。彼女は良人の背後にまわって、襟を
 くつろげるだけの手助けをした。慄えている刃先がようやく裸かの咽喉に触れる。麗子
 はそのとき自分が良人を突き飛ばしたように感じたが、そうではなかった。それは中尉
 が自分で意図した最後の力である。彼はいきなり刃へ向って体を投げかけ、刃はその項
 をつらぬいて、おびただしい血の迸りと共に、電燈の下に、冷静な青々とした刃先をそ
 ば立てて静まった。


・中尉は血の海の中で俯伏せていた。項から立っている刃先が、さっきよりも秀でている
 ような気がする。
・麗子は血だまりの中を平気で歩いた。そして中尉の屍のかたわらに坐って、畳に伏せた
 その横顔をじっと見つめた。中尉はものに憑かれたように大きく目を見ひらいていた。
 その頭を袖で抱き上げ、袖で唇の血を拭って、別れの接吻をした。
・それから立って、押入れから、新しい白い毛布と腰紐を出した。裾が乱れるように、腰
 に毛布を巻き、腰紐で固く締めた。
・麗子は中尉の死骸から、一尺ほど離れたところに坐った。懐剣を帯から抜き、じっと澄
 明な刃を眺め、舌をあてた。磨かれた鋼はやや甘い味がした。
・麗子は遅疑しなかった。さっきあれほど死んでゆく良人と自分を隔てた苦痛が、今度は
 自分のものになると思うと、良人のすでに領有している背かに加わることの喜びがある
 だけである。
・麗子は咽喉元へ刃先をあてた。一つ突いた。浅かった。頭がひどく熱して来て、手がめ
 ちゃくちゃに動いた。刃を横に強く引く。口のなかに温かいものが迸り、目先は吹き上
 げる血の幻で真赤になった。彼女は力を得て、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通した。