夫の宿題 :遠藤順子

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この本は今から25年前の1998年に刊行されたものであり、著者は遠藤周作の夫人で
ある。
遠藤周作氏は、十代の終わりころから胸を病んでいたようだ。
また、両親の離婚や、実父との折り合いが悪く実父から勘当されて、学生時代は家庭教師
やアルバイトなどで生活費を稼いでいたという。
遠藤周作氏は、戦後初のフランスへの留学生としてフランスに渡っている。
そこで夫人の順子さんの妹と知り合い、遠藤周作氏がフランスから帰国後、妹さんの紹介
で順子さんと正式に知り合い交際後結婚に至ったようだ。
もっとも、順子さんと遠藤周作氏は慶応義塾大学文学部の先輩後輩にあたり、順子さんの
ほうは遠藤周作氏のことは知っていたようだ。
しかし、遠藤周作氏は胸の病のほかに糖尿病も患い、また腎臓も悪化してしまう。
このときの経緯にはちょっと驚かされる。
というのも、糖尿病で7年間、健康管理を託していた主治医から、突然、腎臓の悪化を告
げらるのであるが、その原因は主治医から処方されていた睡眠薬の副作用が原因だったと
いうからである。
さらにその主治医は、腎臓が悪化していることに重篤な状態になるまで気づかず見過ごし
ていたのだ。
このようなリスクがあることは、私も高齢になって病院にお世話になる機会が増えるよう
になると時々感じるようになった。
最近の医者は、どんどん専門的になり、単に外科とか内科とかではなく、外科でも内科で
も、それがさらに細分化され〇〇外科とか〇〇内科とかになっているのだが、最近はそれ
がもっと細分化されてきていている。
こうなると、自分のこの病状はいったい何科を受診したらいいのか、さっぱりわからなく
なってくる。
また、医者のほうも、自分の専門の病気に対してはいろいろ注意が向くが、専門以外の病
気対しては、ほとんど無頓着になってしまう。総合的に身体を診るという視点が欠如して
くるのだ。
この本の中でも順子夫人は、「肝臓の専門の先生が、まさかこれほど内科の他の分野の病
気について勉強不足とか思っておりませんでした」と嘆いている。
さらに最近の病院は経済的効率化にも追われている。できるだけ入院期間を短縮し、ベッ
ド回転率をあげなければならないようだ。若いからだなら、病気からの回復も早いから、
それでもいいかもしれないが、私のような高齢者にとっては、そう簡単には病気から回復
できない。それでも、本人の体に状態にかまわず、ガリガリと治療をされ、とっとと病院
から追い出される。残念なことに、老いぼれの身体は、いまの先進医療には、とてもつい
ていけない。
長い期間病気と闘い、何度も手術を体験した遠藤夫妻にとって「心あたたかな医療」とい
う運動は、患者という弱者に立った人の、まさに魂の叫びだったのかもしれない。

また、著者の提唱する「その病気に関する名医と言われる医師や専門医の名前、所属する
病院名や住所などを全国ネットで登録しておき、いつでも取り出して患者に渡せるような
システムづくり」というのも賛同する。
この本が書かれたのは、いまから25年も前のことであるが、いまだにそういうシステム
にはお目にかかれない。
政府は、デジタル化が他国から遅れをとっているとして、国をあげて莫大な税金を使って
マインナンバーカードの普及に前のめりである。いままでの保険証に代えてマインナンバ
ーカードを使えば、処方された薬だったり病歴だったりがわかり、効率的な医療体制が構
築でいると言うが、そんなことよりも、われわれ一般の患者が知りたいのは、自分の病気
に関する名医や医療機関名のほうだ。

過去の読んだ関連する本:

海と毒薬


今度もきっと、治してあげる
・主人は常々、
 「不幸って奴は、突然、人のうしろから切りつけてくるんだ!」
 と言っておりましたが、今回もその予言は不幸にも見事に的中してしまいました。
・K先生は、七年間毎月、採血にみえて主人の健康管理をしてくださっていた方です。
 前月の八月にK先生がいつもの健康診断にみえた時には、
 「肝臓のGOT・GPTなどの数値も大変よくなっているし、糖尿病の数値も、これま
 た、驚くほどよくなってます」
 と言われました。
・翌月の九月にK先生から、腎臓の数値が大変悪いので再検査したいという電話を頂いた
 時には、文字通り青天の霹靂でした。
・それまで主人は、長年、糖尿病でしたから、食事療法は何年もしていました。
 しかし、今度は肝臓が悪くなって、K先生に主治医をお願いするようになってから、肝
 臓には何より、高カロリー、高タンパクな食事をということで、1800カロリーと決
 められました。   
 糖尿では、低カロリーにと言われ、今度は肝臓で高カロリーにと言われ、困り果てまし
 た。
 そのシーソーゲームのような食事療法のバランスを、一体、どの辺りでとっていったら
 いいのかが悩みの種でした。
・クレアチニンの値4.3と言われた時には、クレアチニンとは何のことか、4.3とい
 うのは如何なる意味があるのかわかりませんでしたけれど、腎臓の本をさまざま読んで
 知識をつめこみました。
・クレアチニン3以上は腎不全を意味することも、1を越えた段階で手を打たなければ、
 いずれ透析になるということもわかりました。
 主人の場合、残念ながら発見された時にはすでに手遅れで、透析は時間の問題というこ
 とも理解せざるを得ませんでした。  
・それでも何とかして透析をさけさせたい。
 いきなりふりかかってきた火の粉の中から、何とか主人を救い出さねばと、夜中までき
 びしいカロリー制限の献立の計算をしました。
・少しでも好きなものを、少しでも美味しいと思ってくれるものをと、必死で許容量を算
 出する毎日が続きました。
 主人は元々、体が弱かったこともあって、人一倍、健康には用心をしておりました。
 主人にしてみれば、毎月、採血をして検査していただいていたのにどうしてだと、どう
 して手遅れになるまでほっておいたのだ、あまりにも無責任じゃあないかというやり切
 れない気分があったと思います。

・A病院の学長先生は腎臓病の第一人者で、かねてより主人も存じ上げておりましたので、
 相談に伺い、十月末に食事療法に少しずつ身体をならすための教育入院を一カ月ほどす
 ることになりました。
・今まで飲んでいた薬を全部もってきてほしいということで、入院の時に持参いたしまし
 た。
 ところが、睡眠薬としてK先生から頂いていた薬は、腎臓に重篤な障害を及ぼす薬だと
 A病院の担当の若い先生から言われ、呆然としてしまいました。
 さらに、糖尿病を患っていて急に糖尿の数値が良くなった場合は、腎臓が悪化している
 ということは内科医の常識ですよ、とも言われました。
・その直後、「週刊Y」に副作用が強いために厚生省が許可を取り消した薬の一覧表が出
 ていて、そのリストの中に主人が服用していた薬の名も載っていました。
 確かに、腎臓に重篤な障害を及ぼすと書いてありました。
・A病院の所見については、主人からK先生にも電話で伝えましたが、
 「見解の相違ですね!」
 の一言っきりで、その後は、主人がなくなるまでの三年半、K先生からは電話一本、見
 舞いの葉書一枚も届きませんでした。
・主人が三十七、八年前に結核で慶応病院に入っておりました頃とは違って、今はどの病
 院でも循環器内科とか、神経内科とか、内科も種々に分かれていることは、私も承知し
 ておりましたが、肝臓の専門でいらっしゃる内科の先生が、まさかこれほど内科の他の
 分野の病気について勉強不足とは思っておりませんでした。
・医者を選ぶのも寿命のうちと、世間でよく言われておりましたが、今のように人間の体
 を勝手に分類し、〇〇内科、〇〇内科と、段々と専門が細分化されてしまうと、自分の
 専門以外のことは眼中になくて注意不足になってしまうのでしょう。
 それにもかかわらず我々患者の側は、内科の先生といえば、内科のことは一応、何でも
 わかっていると思ってしまうのです。
・亡くなる半年前に慶應病院に移ってからは、母校でもあり、病院をあげて最善を尽くし
 て頂きました。 
 しかし、A病院で腹膜透析の手術をする前に、もっと早く転院できていればと今でもそ
 のことは悔やまれてなりません。  
・A病院で腹膜透析をすることになった時もいやな予感がして、どこか他の病院でダブル
 チェックをしてと、度々、主人に申しましたが、主人が、
 「俺、もう疲れたよ。また、鞄もって新しい病院に行って、また、一から検査をするの
 はいやだよ」
 と申します。
 その主人の気持ちもよくわかるだけに、それ以上、強く言えなくなってしまったのです。
 でも今になって考えてみれば、息子や息子の家内など、援軍をいろいろ頼んででも、も
 っと強く説得すれば良かったと思うのです。

・平成四年の十月に教育入院して、約一カ月で退院してからは、週一回、A病院の先生が
 採血にみえていました。
・クレアチニンの値は下がることはなく、反対にジリジリと上昇していき、翌平成五年の
 五月には、ついに透析を、ということになりました。
・主人のA病院の先生から、腹膜灌流の透析をすれば、夜間に透析ができるので、昼間は
 全くフリーだと聞かされ、腹膜透析を選びました。
 そして腹膜透析の手術を行うために、五月にA病院に再入院しました。
・当日手術する患者は全部で四名で、主人は二番手ということでした。
 簡単な手術で、一人、四十分もあれば充分なので、前後を入れて二時間とるので、朝九
 時から一人目の手術を始めて、遠藤先生は十一時頃までに呼出しがかかりでしょうとい
 うお話でした。
・ところが、ジリジリして待っているのに、十一時半になっても十二時になっても、一時
 近くになっても呼出しががかかりません。
 結局、二時間半ほどおくれて、一時過ぎに主人は手術室に運ばれていきました。
 手術は一時間半ぐらいで終わって、部屋へ戻ってまいりましたが、ほとんど虫の息と言
 ってもいい状態でした。
・後になって主人から聞いたところによりますと、今度の手術ぐらい苦しい痛い手術はな
 かったというのです。
 手術室の隣の準備室で寝かされている時に、
 「時間がないからやっちゃおうか!」
 という先生の声が聞こえたそうです。
 主人は慌てて、
 「まだ麻酔が効いていない!」
 と言ったそうですが、果たして、その声が先生方のほうまで届いていたのかどうか、
 手術室の扉の外で待っていた私にはわからなのです。
・手術後に学長先生と手術をした主治医(内科医)は病室へみえましたが、麻酔を担当し
 たという先生はどなたもみえませんでした。
 おそらく簡単な手術だからということで、専門の麻酔医は立ち会わなかったのだと思い
 ます。 
・後で伺ったところによりますと、第一番目の患者さんの時に、手術に手こずって時間が
 押してきたらしいのです。
 主人が手術の準備室で聞いた「時間がないからやっちゃおうか」という声は幻聴ではな
 かったのです。
 前の患者さんの手術が手こずって、時間がなくなってきたのなら、何故、その日に四人
 するはずだった手術を、たとえば二人にして、あとの二人は別の日にできないのでしょ
 う。
・その日に四人手術する予定だったというのは、あくまで病院のほうの都合ではないでし
 ょうか。
 時間がないからと、麻酔がろくに聞かないうちにお腹を切り始められれば、誰だって死
 ぬほど苦しいでしょう。
・おそらく麻酔の専門医が手術に立ち会っていれば、麻酔医の良心にかけても、そんな無
 茶は阻止してくださったのではないかと思うのです。
・そんなこととは知らない私は、手術室から戻ってきた主人の痛みようがあまりにはげし
 いので、昔、慶応病院で結果の手術をした時は、二度目も三度目も、少なくとも丸一日
 は麻酔が効いていたのに、今度はどうして手術室で麻酔がさめてしまったのかしら、と
 びっくりしたのでした。 

・その日は夜遅くなっても痛みはおさまらず、その上、顔がむくんできてしまい、素人目
 にも単に術後だからということではなく、これは容易ならぬ事態であるとわかりました。
 先生は心不全の危険があると言われ、本人も苦しい息の下から、
 「おい、順子!お前にも随分、世話になったが、今夜がお別れだね!」
 と申しました。
・手術後の主人の身体をやたらにさするわけにもいかず、片手で主人の手をにぎり、片手
 でロザリオをまさぐって祈っていたのです。
 おそらく無理な体勢で祈っていたためでしょう、その祈りの最中にロザリオの鎖が切れ
 て、珠がバラバラと落ちてしまいました。
・どんなに暗い夜でも明けない夜はない、と私は何度も何度も、呪文のように心の中で繰
 り返していました。  
 昔、結核の手術の後、主人の看病をしていた時、体験的に思った言葉です。
 その時、夜明け前の三時ごろが一番闇も深いのだということもわかっていました。
 いわゆる丑三つ時の時分でしょうか。
・苦しい一晩が明けて、主人の状態も重態ながら一応の危機はのりこえた様子となり、
 話も少しはできるようになりました。

・術後、もち直してほっとする間もなく、腹膜透析が始まりました。
 何しろ生まれて初めて見る機械、しかもやり始めれば十時間は主人の腹膜に直結してい
 る機械の操作です。
 ちょっとでも指先が管にふれたりすれば、たちまちバイ菌が入って腹膜炎をおこしてし
 まうのです。
・はじめのうちはピーイと警報が夜中に鳴り出しても、どこが悪いのか、さっぱりわから
 ずウロウロするばかり。
 緊張で夜間透析をやっている夜なか中、ねむれない日が何日も続きました。
・担当の先生も、度々、開始の時に立ち会ってくださり、危なっかしい手つきで準備をし
 ている私を監視しては、
 「そこはそうではないでしょう!」「そこはそうしては危険ですよ」
 ときびしいご注意できたえてくださいました。
 私もこれしか主人を生かす方法がない以上、どんなことがあってもマスターするしかな
 いと思って、無我夢中で毎晩の操作をいたしました。
・腹膜透析は、ビニール袋に入ったブドウ糖の薬液を、まず管に通して腹膜の中に入れ、
 一時間半そのまま腹膜の中に貯留させ、今度はそれを排液用のビニール袋の中に排出し
 ます。 
・こうして夜中に同じことを五回くり返しますと仮に毎回注入量より排出量が300cc
 多く排液されれば、300cc×5=1500ccということになり、ちょうど、成人
 男性の一日分の尿の量になるわけです。
・血液の透析とちがって腹膜透析のほうは、毎日やらなくてはなりません。
 今日は疲れたから、眠たいから、といって休むわけにはいかないのです。
・普通、結核の人は入院して結核を治してもらって退院するし、胃腸の悪い人は入院して
 胃腸を治してもらって退院するわけです。
・ところが腎臓病の現状では、腎臓で入院する人は、腎臓を治してはもらえません。
 今まで腎臓がやっていた仕事を、単に機械が肩代わりしたというだけのことなのです。
・これはどう考えても、おかしいのではないでしょうか。
 腎臓の専門医にとっては、患者の腎臓を治すことが最大の使命のはずです。
 ところが現在では、この腎臓の機能を回復するという腎臓の専門医が歩んでいくべき王
 道を、透析というものがふさいでしまっています。
 本末転倒もいいところだと思います。
・透析患者を十人もっていれば、その病院は経営的に成り立つとは、巷間でよく言われて
 いるところですが、あまりにも安易に透析、透析と言いすぎるのではないでしょうか。
・腹膜透析を始めた時にはわかりませんでしたが、老人の場合、一般的に腹膜の機能も低
 下しているので、初めの一年はよくても、段々に腹膜の機能が悪化して、排液の量が
 1000ccを割ってしまうのだそうです。
・主人の場合、最後の半年、慶応病院へ転院いたしましたが、慶応病院では腹膜透析は、
 患者さんにすすめていないとのことでした。
・私は腹膜透析などというものは、人間が半年以上もやるべきものではないと思っていま
 す。ましてや、七十すぎた老人にはやらせるべきことではありません。
 腹膜が100%丈夫で、排液の量も安定していたとしても、肝心の肉体が、あの過酷な
 毎日に耐えられるはずはないのです。
 そのことは私のような素人にも今はわかるのですから、まして専門医にわからぬはずは
 ないのです。
 腹膜透析にふみきったのは、病院の経済的効率に目がいきすぎていたからではないでし
 ょうか。
 インフォームドコンセントとは言いながら、腹膜透析の美味しいことばかりが一方的に
 情報提供されていたような気がします。
・今は安易に、透析、透析ということになりますが、七十過ぎた老人が透析をするという
 ことが、どんなに辛いことか、医療関係の方たちが自分で一年でも二年でも、経験なさ
 れば一番よくわかると思います。
 若いお医者さんでしたら、貴方の母親が同じように腎臓病になった時、本当に腹膜透析
 をすすめられますかと、伺ってみたい気がします。

・ともかく波瀾万丈の入院・手術は約一カ月後に終わり、腹膜透析の機械と共に主人も目
 黒の自宅へ帰って参りました。
・私は医学的知識は無論のこと、看護の基本的訓練もないまま、重篤な病人を一人で夜中
 に看護しなければならなくなりました。
・その頃、腎臓移植の話をすすめてくださる方がありました。
 東海大学のS先生で、腎臓移植がご専門とのことでした。
 もしよかったらフランスのリヨン大学の教授に紹介状を書きますとおしゃって頂きまし
 た。  
 その先生のお話によりますと、今、リヨン大学は外科がとても良くて、ことに臓器移植
 にかけては、ヨーロッパのメッカになっているというお話でした。
 主人もリヨンと聞いて、心が動いたようでした。
 何といっても、昔、留学していた懐かしい土地です。
 私も移植ということは、それまで考えてもみなかったことでしたので、もしそのような
 ことが可能ならば、どんなにいいだろうと思いました。
・年齢的なハンディもありますし、拒否反応などリスクのことも考えなかったわけではあ
 りませんが、毎晩続く夜間透析の過酷さと、こま切れに一時間ずつ五回、寝ては起き、
 起きては寝ての仮眠生活と、透析の機械からの警報やメッセージがいつ出るか、いつ出
 るかという緊張感とで、私自身もくたくたの状態だったのです。
・主人は思いあまって、フランス留学の時からの親友でもある井上洋治神父に相談をした
 ようでした。  
・井上神父が言われるには、
 「ヨーロッパなどでは、生体移植だから、フィリピンあたりの貧しい人たちが、自分の
 家族を養うために、片方の腎臓を売るケースが多いと思う。私としては、そのような腎
 臓を使うという考え方には賛成できない」
 という答えでした。
・主人も、
 「俺も、子供たちを食べさせるために臓器を売るような、気の毒な人の腎臓を買ってま
 で生きたいとは思わないよ。もう俺は充分に生きたよ」
 と申しておりました。
・ところがそれを聞いた息子の龍之介が、
 「それじゃ僕の腎臓を片一方あげるよ。親子だから、拒否反応も出ないのじゃない」
 と申し出てくれました。
・主人は言下に、
 「馬鹿なことを言うな。これから二人の子供を育てていかねばならない息子の腎臓をも
 らってまで生きたいとは思わないよ。俺はもう充分、生かして頂いたんだ」
 と強い調子で、龍之介に申しておりました。

・透析の辛い夜々を過ごしながらも、昼からは仕事をしたり、夕方は友人と食事をしたり
 の日々が続きました。
 私も少しは機械にも馴れ、警報が鳴る回数も段々少なくなりました。
・ただ困ったことには、この頃から突然体中がかゆくなってきたのでした。
 昼間はわりとまぎれているのですが、夜になっていよいよ透析に入りますと、かゆいか
 ゆいが始まります。かゆくて寝つかれないのです。
・病院からかゆみ止めは出ているのですが、A病院へ入院中から腎臓の先生も皮膚科の先
 生も、「腎臓の患者さんはこのかゆいのが悩みの種なんですね」、とおっしゃるばかり
 で、出してくださる薬があまり効果がないことは、先生方も先刻承知といったあんばい
 でした。  
・私は、透析が始まるとかゆいかゆいが始まりますので、長い間これは透析のための副作
 用なんだろうと思い込んでいました。
 病院へ一カ月に一回検査に伺った時に、かゆい話をしても、毎度のごとく、腎臓の患者
 さんがかゆいのは仕方がないんだねという調子でした。

・慶応病院へ転院した最後の半年は、病状もだいぶ悪化している状態で、飲む水分の量な
 ども極端に制限されていて、どんなに辛いかと傍で見ていて思うのですが、こちらがび
 っくりするほど、本人は穏やかな顔をしていることが多くなりました。
・穏やかな数カ月が過ごせたもう一つの原因は、思いがけないアクシデントによって、
 三年も苦しみぬいていたかゆみから解放されたこともあると思います。
・平成八年の一月頃、孫娘のさおりが火傷をしました。
 油がはねて、腕に火傷をしたのです。
 かかりつけの先生のご紹介で、目黒駅近くの皮膚科へ行ったところ、そこで孫娘は大変
 すぐれた先生に恵まれました。
・お父様のおできも、ひょっとして治るかもしれないと雅美(息子の家内)が、主人を連
 れていってくれたのです。
・皮膚科の先生は中山先生という方で、慶応ご卒業後は、済生会病院で長いこと皮膚科の
 トップにいらっしゃったベテランの先生でした。
・中山先生は主人を一目ご覧になるなり、
 「これは明らかに薬害ですよ」
 とすぐにアレルギー反応の検査をしてくださいました。
 一体、どんな薬を飲んでいらっしゃるのですかと、お尋ねがありました。
 薬の名前はあらかじめ書いて持参しておりましたので、お見せすると、
 「この薬とこの薬は、他のものに替えてもらってください。私から主治医の先生にお手
 紙を書きましょう」
 と、手紙を書いてくださいました。
 幸いなことに慶応病院での主人の担当医とこの中山先生とは面識もあり、話はスムーズ
 に運びました。
・他の薬に変更になったものは四種類ありまして、胃の薬や血圧の薬も、その中に含まれ
 ていました。
 驚いたことには、あれだけ苦しみぬいたできものが段々と色あせ、縮小していきました。
 かゆみも日一日とおさまって参り、二週間後にはすべすべの肌に戻ってしまいました。
・それにしても、A病院の腎臓病の先生方や皮膚科の先生方は、どうして薬のアレルギー
 ではないかというところに気づかれなかったのでしょうか。
 私も早々に薬害ではないかと疑ってみるべきでしたが、素人の悲しさで、透析の副作用
 とばかり思っていて薬のアレルギー反応を調べてみるということに思いいたらなかった
 のです。 
・どんなに外からいろいろな薬や温泉の液をぬってみても、一日三回、主人の体質に合わ
 ない薬を四種類も飲んでいたのでは治るわけがないのです。
 腎臓の患者がかゆいのは仕方がないんだよ、という先入観を棄て、こんなにできものが
 体中できるのは何か薬が体に合わないのではないかと考えてくださっていれば、三年も
 無駄な苦しみをする必要はなかったと思います。
 大して効かないとご自分たちでもわかっている、ヨモギエキスから作ったという薬を出
 すだけというのは、つまり厚生省の検査の時、かゆみをやわらげる薬も出していますと
 いう、ジャスチャーのためなのでしょうか。

・機械や検査の設備はたしかに長足の進歩をとげたと思いますが、機械をマニュアル通り
 に操作することに馴れすぎて、患者に対しても無意識のうちに、ついマニュアル通りの
 応対をしてしまうのではないかと思います。
 何とかしてせめてかゆいことだけでも治してあげられないかという視点があれば、どん
 なに患者さんたちが助かるかわかりません。
・病気になった以上、肉体的にある程度、苦痛を耐えたり苦しんだりすることは、避けら
 れないと思いますが、何も苦しまなくてもいいことまで、無駄な苦しみを味わわされる
 必要はないのです。
・繰り返しますが、透析にもっていったほうが、栄養指導をするより病院側の経済的な効
 率ははるかにいいという点に、この問題のネックがあるように思います。
・医師が手間をおしまず、また努力をすれば避けられるはずの苦痛や屈辱を、患者には絶
 対に与えぬという精神が日本の医療の現場にも基本的にあれば、主人が手術の時に聞い
 た「時間がないからやっちゃおうか」などという、ちょっと常識では考えられないせり
 ふが出たり、三年間もおできで苦しんでいるのを放置したりするような事態は、起こら
 なかったと思います。   

夫・遠藤周作という人
・遠藤と初めて出逢ったのは、慶応義塾大学の仏文科の教室でした。
 その頃は、慶応の仏文科には女子学生は三人しかいない頃でした。
・ある日、彼は教室へやってきて教壇に立つと、
 「ええ、僕は明後日フランスへ行きます。まあ、君たちはしっかり勉強したまえ」
 と申しました。
 「何でこんな人がフランスへ行けるのかしらん?」
 と口惜しく思ったことを今でも覚えています。
 留学などということは、まだまだ一般的には夢のまた夢という時代でした。
・戦争中、下の兄と妹の三人でずっとフランス語を習っていましたし、三人の中で、誰が
 一番はじめにフランスへ行けるかと、戦後も互いにチャンスをねらっている時でした。
・まもなく我が家では妹が一番先にフランスへ行くのですが、二年半ほど経った頃、妹か
 ら次のような手紙が届きました。
 「貴女の学校の仏文科から、面白い人がパリに来たわよ。私向きではないけれど、順向
 きだと思うから、帰ったら紹介するわ!」
・私はすぐ、あっ!あの人だなあとわかりましたが、
 「私向きとはとうてい思えないけどなあ!」と、その時も思っていました。
・まもなく遠藤は病を得て、日本へ帰り、前後して妹も帰国して、約束どおり正式に紹介
 してもらいました。    
 同じ慶応仏文の先輩後輩ということで、段々、デートなどをするようになりました。
・その頃主人の結核は、一進一退の状態で一週間に一回は、白金の伝研(現東大医科学研
 究所)に通って、気胸を受けていました。
 彼が伝研に行く日は、私も慶応の午後の授業をサボって、伝研で待ち合わせをしたり、
  目黒のパチンコ屋で待っていたりしました。
 私は一人ではどうしてもパチンコ屋の中へは入れず、いつもパチンコ屋の外で待ってい
 たので、「入ってやっていれば、待っていても退屈しないのに」と、いつも主人に笑わ
 れていました。
・主人はまだ小説家としてデビューする前でしたから、雑文を書いたり、婦人雑誌に名作
 のダイジェストみたいなものを書いて生活していた頃でしたでしょう。
 銀座でデートの時はよく、「ちょっとここで待っていてくれ」と言って、その頃、銀座
 にあった文藝春秋の前で長いこと待たされたり、有楽町のサンデー毎日の下で、これま
 た、長いこと待とされたりしました。
・デートで喫茶店に入ると、「ハンドバックを見せろ!」とバッグをとりあげて財布をし
 らべ、「チェ!しけてるなあ!」となげいていました。
 夜、「〇〇とどこどこで飲んでいるけど、出てこないか」という時はたいていピンチの
 時で、私もバイトをしながら学校に通っていましたので、急に言われても都合のつかな
 い時もあり、母を拝み倒して前借しては、言われた場所にかけつけたものです。
・遠藤と婚約したと母に申しましたら、
 「犬や猫をもらうのとは違うのよ!しかるべき人を間に立てて話を進めてからご返事を
 すべきなのに、結婚しよう!いいわよとは何というはしたないことか」
 と大変叱られました。
・父母にしてみれば文士などといってもわからないし、飲む打つ買うの三道楽の果てに、
 自殺をしたり、心中をしたりする連中という頭ですから、うんと言うはずがありません。
 私には幸か不幸か息子しかいませんのでよくわかりませんが、遠藤も「仮に俺に娘がい
 たら、文士とは結婚させん」と申していました。私もまったく同意見です。
・結婚して五年目に、主人の結核が再発して、二年半の療養生活をおくりました。
 主人の結核は、初めに伝研の内科に一年ほど入院している間に、薬にどれもこれも耐性
 がついてしまっていました。
 慶応病院に転院して、次の年の正月に二回、手術をしましたが思わしくなく、その年の
 暮れに三回目の手術となり、本当にその三回目の手術はかなり危険なものでした。
 「医者が五分五分という時は七三で危険だということだ」と、自分でも言っていたほど
 で、文字通り「死の影の谷を歩む」という詩編の言葉そのものでした。

・遠藤の母方の親類や遠藤の兄夫婦など、ごく少数の人々に祝福されて結婚式をあげまし
 た。  
 私の両親も兄妹も、遠藤のほうの父や二番目の母が出席しないところへ出るわけにはい
 かないということで出席を遠慮し、花嫁側の参列者は本人一人という変わった結婚式で
 した。

・主人の結核が再発して入院した年(昭和三十五年)は、『海と毒薬』を書いた後で賞も
 頂き、これでようやく筆一本で、親子三人食べていける見通しが立ったばかりの時でし
 た。
・いよいよ明日、三回目の手術という日になりました。
 例によって私は安静時間を利用して、夜の買物に行っていました。
 帰ってくると主人が大変興奮しているのです。
 どうしたの?と申しますと、今ちょっと前、顔はたしかに知っているんだけど、名前が
 どうしても思い出せない男の人が入ってきて、「遠藤さん踏絵を見せてあげましょう」
 と、紙の踏絵を見せてくれたのだ、とのこと。
 「踏んだ人の足の脂がキリストの顔の上に黒く残っていて、踏んだ人の苦しさがまざま
 ざと感じられた」と主人は言いました。
 「ああ、どなただったのかしらん」と私も考えましたが、手掛かりはなく、とうとうそ
 れきりになりました。
・おそらく主人はその紙の踏絵を見た瞬間、後に書いた『沈黙』のクライマックスの部分
 が、頭に浮かんだのではないかと思います。
・当時の結核の手術は、まだまだ熟練度の低いものでした。
 麻酔科なども独立していなかったように思います。
 正月に二度受けた手術の経験を、当然、当時のキリシタンの拷問にオーバーラップして
 考えていたのでしょう。  
 その男の人が帰ったあとも、何とかしてこれを小説に書きたい、生きてこれを書かねば、
 死んでも死にくれないという気持ちだったと思います。
・そんな折、二週間前に、主人の受ける手術と同じ手術を受けた大部屋のコイコイ仲間の
 患者さんが、術後、気管支ろうになって、絶望のあまり別館の屋上から飛び降り自殺を
 してしまいました。
 主人と同じようにどの薬もどの薬も耐性がついて、手術後、菌をたたく有効な薬がなか
 ったために、気管支ろうをおこしたのです。
・主人は入院する前までは、どちらかというと勉強一途なところがありまして、付き合う
 友達も、皆文学論をたたかわすような人たちばかりでした。
 ピーンと、張りつめたような感じがして、うっかり冗談も言えないという雰囲気のとこ
 ろがありました。 
・でもこの入院中の経験で、肉体的な苦痛に人間はどんなに弱いものかということも自分
 自身の経験でよくわかりましたし、また精神的に弱い人もたくさんいるんだということ
 もよくわかったのでしょう。 
 それだけに手術の前の日になって、この踏絵を見せられたことに、強く神様の意志を感
 じたのかもしれません。
・このむずかしい三度目の手術を乗り切って、長年の宿痾から解放された一番の原動力は、
 健康になって、自分が目にした踏絵に残された、人間の足の脂に象徴される、踏んだ人
 たちの苦しみを書きたいという、ものすごい執念であったと思います。
・主人が亡くなってからその人生をふり返ってみますと、一つ一つの過去の点だったこと
 が、皆一つの線として結びつき、ああ、あの時の辛い経験はこの仕事を完成するため必
 要なことだったのかとか、あるいは偶然出会った事柄と思っていたことも、あとから考
 えると意味があったりということで、神様の伏線というものを思わずにはいられません。
・結核で慶応病院入院中は、死や人間の苦しみ、悲しみが病院中にみちみちていて、こと
 に結核病棟においては、おそろしいことに死は、日常茶飯事でありました。
 なぜ神様は人間にこんな苦しみを与えるのか、新米の信者であった私には理解できませ
 んでした。 
 なぜなぜと病気で寝ている主人を問いつめたある日、主人は「やっとわかった」と言っ
 たことがあります。
 「試練を与えるためでも、信仰を強めるためでも、人間の罪の意識を自覚させるためで
 もないんだ。でも今それをお前に言ってもわからないだろうから言わない」
・たしか何回目かの手術を数日後にひかえている時でした。
 死と向かい合った二年半の療養生活は、そのまま神と向かい合った二年半でもあったわ
 けです。 
 その中で父なる神が段々母なる神に象徴される、同伴者イエスのイメージができ上って
 いった時期でもあったわけです。
 神様が計画された人生の伏線が、二年半の療養生活でまた一つ大きな実を結んで、次の
 作品へとのびていったのです。
・三回目の手術を終え、さらに五カ月入院生活を続け、翌年(昭和三十七年)の五月に退
 院をしました。 
・二年半も入院していたので貯えは底をついていたのですが、東京オリンピック景気が始
 まっていたのが幸いして、駒場の家の値上がりが見込めました。
 そこで、あるたけのお金をはたいて、入院中に町田市の玉川学園に土地を買ってしまい
 ました。
 空気の悪い東京に主人を住まわせるわけにはいかない、という一念からでした。
・主人は結婚以来、寝不足をしたといっては微熱を出し、お酒を飲み過ぎたといっては血
 痰を出しという生活でした。 
 退院後はちょっと無理をすると、また微熱が出るのではないかと首をちぢめるのですが、
 大丈夫だったと胸をなでおろす日がつづきました。
 今日も大丈夫、今日も大丈夫と、ちぢめていた首を段々のばしていく亀のようでした。
 微熱も血痰も出ない日が何日も続きました。
 もう大丈夫らしいとなった時の主人の解放感というものは、何にもまして貴重なものだ
 ったことでしょう。
・玉川学園は樹木も多く空気が良かったせいか、主人の健康もメキメキ回復し、仕事も順
 調にすすんでいきました。
・「物書きの女房というものは、亭主の書いたものなど読むものではない」というのが、
 主人の考え方でした。
 それでも昔は秘書もいませんでしたから、好むと好まざるとに関係なく、私がお清書を
 するので、ある程度は書いている内容は、機械的に手を動かしながらでもわかっていま
 した。 
・その後、秘書の塩津さんが来てくれるようになってからは、清書を含めて仕事のこと、
 スケジュールのことは専ら彼女の役となりました。
 私はたまに気が向いて、主人が「おばさんに」などと戯れにサインをしてくれた純文学
 の単行本以外、ほとんど主人の書いたものは読んでいないのです。
 読みたかったら俺が死んでから読めと言われていました。
 私も主人が嫌うことをすべきではないという気持ちでした。
・ただ昔、結婚の約束をした時、主人が言った言葉だけは、いつもしかと肝に銘じてきま
 した。遠藤曰く、
 「いまはみんな民主主義、民主主義と、民主主義でなければ夜も明けないような話だ。
 ついこの間まで八紘一宇などと言っていた連中が、くるっと掌をかえして民主主義の大
 合唱だ。そんな連中は信用できないから、またいつ言論の自由が脅かされる時代が来る
 かもしれない。家族に迷惑がかかることはできるだけさけたいと思っている。でも物を
 書く人間としてどうしてもゆずれないことができたならば、悪いけど僕はそのゆずれな
 い一線を守るために、君や子供を犠牲にするかもしれない。どうかその時は僕の気持ち
 をわかってほしい」 
 という言葉でした。
 私も、物書きの女房になる以上は、それはあたり前のことと思っていました。
・『海と毒薬』を発表した時も、人物設定など全面的に変え、教授夫人をドイツ人にした
 りして、当事者に迷惑がかからないように細心の注意をしていました。
 それにもかかわらず脅迫状が舞い込みました。 
 「日本の恥部を書いてどうするんだ!」というものや、「死ね!」とだけ書いたもの、
 血書や中には、これで自決しろ!と短刀を送ってくる人までありました。
 息子がまだ二歳の時でしたから、心配はしましたが、主人にはそこことで一言も申しま
 せんでした。
・『沈黙』が発表になった時にも、カトリック内部では、喧々囂々の非難が起こりました。
 所属していた町田の教会で、私一人だけミサに出席していた時、説教の中でM神父から
 名指しで非難されたこともありました。
 カトリックの内部でもよく書いてくれたと思う人もあれば、痛いところをつかれて、
 プライドを傷つけられた人もいたのです。
 事なかれ主義で、聖人伝でも書いていれば、いい信者というような時代でした。
・『沈黙』を読んで、この神様ならば信じられると思って洗礼を受けた人もたくさんいて、
 そのことがまた逆にますます一部の人々を逆上させることになったのでしょう。
・主人ももちろんカトリック教会の反発は、『沈黙』を発表する前から予想していたと思
 います。  
 でも今自分がこれを書かなければ、自分はまた病気になって死んでしまうかもしれない。
 どうしても死ぬ前に、あの病室で見た紙の踏絵に残された転んだ人の悲しみを、書きた
 いと思ったのでしょう。
・私は主人がサインをして初版本をくれたので、誰よりも早く『沈黙』は読んだのですが、
 読むすすむうちにこれは主人の肋骨七本の代償だと思って、涙がとまりませんでした。
 あの辛い療養生活と、拷問のような三度の手術がなければ同伴者イエスという視点は出
 てこなかったでしょう。
・その後ヴァチカンの公会議の影響も徐々に浸透してきて、主人もローマ法王様から長年
 カトリックの布教に功績があったとして、勲章を頂いたりしまして、日本のカトリック
 教会の空気もだいぶ変わりました。
 『沈黙』が二十数カ国語に翻訳され、高い評価を得たことも、そのような変化の助けに
 なっていると思います。
・それにしても人を批評するということは、むずかしいこととつくづくおそろしくなりま
 す。 
 批評する人自身がもっている枡の大きさが、結局如実にあらわれてしまうからです。
・十六世紀に日本へ布教に来られた神父たちの志の高さは誠に貴いもので、そのことにつ
 いては何も疑念はありません。
 ただその神父たちがどの程度、日本の文化的伝統についての知識を持っていたかは、大
 いに疑問です。 
 日本では『万葉集』や『古今集』の昔から言葉における美意識の錬磨が、日常的に行わ
 れていましたし、西欧が野蛮国からやっと脱した頃すでに『源氏物語』や『平家物語』
 が書かれていました。
 また法然や親鸞のようなすぐれた精神的指導者も多く輩出していたのです。
・そのような文化的伝統との同化なしに、キリスト教が日本で根をおろすはずはないのは
 明らかです。
 当時は情報が不足していたでしょうから、一概に非難できませんが、今は十六世紀では
 ありません。
 キリストに依らねば救いはないという考え方は、独善的な誤りから来ている教えだと今
 は教会もわかっているはずです。
・転び者として一生を過ごし、後悔と不安の中で死んでいった人たちの苦しみを、いつま
 でも無視することは許されないことではないでしょうか。
・自分は捨て石にはなりたくないが、踏み石には喜んでなる。
 踏み石は一つ置いてもまだ不安定でぐらぐらしているだろう。
 でも人々がその踏み石をふんでくれ、またそのまわりへ次々と踏み石を置いていけば、
 やがて踏み石もしっかりしてくる。
 だから一つの踏み石をおいたばかりのところで、その石の置き方は間違っていると、次
 の踏み石を置こうとする勇気をそぐような非難をあびせるのは、不毛なことではないか
 とどこかで主人が書いています。
・研ぎ澄まされた日本的美意識や日本人の心情に合ったキリスト教を育てていくために、
 踏み石になる人が多くなれば、主人が踏み石になった意味も活かされるのではないでし
 ょうか。 

人生を横切る宝もの
・「原民喜」さんは寡黙な方で、実生活への適応性はほとんどないような方でいらっしゃ
 ったと、そのお人柄を主人はよく懐かしんでおりました。
 主人が後に書いた『イエスの生涯』に描かれているような、実生活の場においては、い
 つも無力なイエスのイメージを原さんに対して感じていて、敬愛の情を抱いていたと思
 います。
 のち主人は渡仏するのですが、リヨンについて約半年後に原さんの鉄道自殺を知らされ
 ました。
 衝撃のあまり食べるものも受けつけず、その晩はまんじりともできなかったと主人がそ
 の時の様子を書いています。
・主人は結局一生かかって母親から着せられたダブダブのキリスト教という、自分の身の
 丈に合わない洋服を何とかして日本人に合うような和服仕立て作り直したいと努力をし
 た人だと思います。

・主人と結婚して三年目ぐらいの時、ヨーロッパに参りました。
 一番の目的は山下達夫さんに仏訳をお願いしてあった『海と毒薬』を、パリにスイユ書
 店に持って行って見せることでした。
・スイユではあいにく、主人が顔見知りでしたJ・ケイロル氏が外国出張中とのことで、
 原稿はあずけ、パリでのサド侯爵の足跡を尋ねる日が二日ほど続きました。
 私も久々に二度目の滞仏中の妹とも逢い、パリでの用事は片づきました。
 あとは南仏に向かって発つばかりです。
・ロンドン・パリと廻ってきた厚いオーバーは荷物になると思いました。
 これからは南仏経由イタリア廻りで帰国するわけです。
 厚いオーバー、手袋、ウールのスカーフなどは出発の前日、船便で日本へ送り返し、
 身軽になりました。
・ところが、翌日アヴィニオンへ着いてみると寒いのです。
 夕方になると風が強くなってきて、これが南仏かと思うばかりの寒さです。
 「法王庁跡」を見物に行ったのですが、吹きとばされそうでお話になりません。
 ことに法王庁の長く続いている壁のところでは、風の勢いも強く、骨まで凍ってしまい
 ような寒さでした。 
・翌日起きてみると一面の雪です。
 やった咲き始めたミモザの花の上に、雪が残っていました。
 すでに雪はやんでいましたが、困りました。
 アヴィニオンへ来た目的はサドのお城を見に行くためでした。
 日本で見ていた写真では山の上にあるお城のようでしたので、タクシーが行ってくれる
 か心配でした。
・フロントへ頼んでもなかなか埒があきません。食事が終わってからも一時間ほどはたっ
 ぷり待たされました。
 「この雪の中をサドのお城をわざわざ見に行くなんて、この夫婦少し変なんじゃないか」
 口にこそ出しませんが朴訥な田舎の男です。言いたいことは皆顔に書いてありました。
・ようやく一台のタクシーが行ってくれることになりました。
 運転手の顔にもフロントの男と同じことが書いてありました。
 「時にはサドの城を訪ねるお客もあるかね」と道々主人が尋ねても、「まあ、年に一回、
 それも夏場だね!」吐き捨てるように言うばかりでした。
・だいぶ上まで登っていって、峰の鼻を曲がったところで運転手が言いました。
 「ほら城だよ!」
 なるほど、運転手が指さす方向に写真で見ていたサドのお城がありました。
 「もうここからは車がすべって危険だから進めないよ」
 と運転手は引き返す気でした。
・すると、「俺見てくる」と主人が突然言いました。
 「でも私、この靴では雪の中を歩けない」
 とやりとりが続いて、主人はとうとう
 「俺一人で見てくる」
 と車のドアをあけて、どんどん城のほうへ歩いていってしまいました。
・雪のつもった峰の中でフランス人の運転手と二人残されてしまったことは、何とも心細
 い思いでした。   
 どうせこの運転手、私たちのことをアブノーマルなことの好きな夫婦と思っているだろ
 うという先入観もありました。
 「奥さんそちらは寒いから助手席のほうへおいでよ!」
 と何回も言われました。
 冗談じゃない。そこへ行ったら百年目じゃないか。
 私は心の中でそう思っていました。
・フランスのタクシーでは、助手席は運転手のプライベートな空間とみなされています。
 向こうがサドにからめて誘い水のようなことを次々と言っても、こちらは日本の歴史の
 話をしたり原爆の被害を受けた広島、長崎の話をしたりと、必死でした。
・待てど暮らせど主人は帰ってきません。
 朝十時ごろ城に向かったのにお昼をすぎる一時になっても帰ってきません。
 こんなことなら、ホテルで飲物とサンドイッチでも調達してくればよかったと思っても
 後の祭りでした。
 フランス人のことですから、お腹が空いていれば、文句も多くなるのです。
 いざとなったら一対一なら負けぁしない。
 戦時中、植芝先生から習った合気道で大和撫子の心意気を見せてやろうと肚を決めまし
 た。 
・その時「ああ旦那だ」と運転手の指さす向こうに主人の姿が点のように見えました。
 前後してもう一人傍に人がいるのです。
 「一体あの人は誰でしょう」とこちらでも運転手と不思議がっていました。
 近づいてきた主人が「おい、この方によくお礼を言ってくれよ。俺、城の中庭にあった
 井戸の中へ落ちてしまったんだ。たまたまこの人が通りかかって助けてくれなきゃあ、
 凍死していたよ」と。
 助けてくれた人はアメリカ人の絵描きさんでした。
 城の近くに住んでいて、たまたまこの日、雪の城もいいだろうと思ってスケッチに来た
 のだそうです。 
 そのアメリカ人がもしこの辺りに住んでいなかったら、そしてまた雪の城を描きたいと
 思ってくれなかったら、本当に主人は凍死していたかもしれません。
・フランス人の運転手が、探しに行ってくれたとも思えません。よく助かったと思います。
 主人の強運にも驚嘆しましたが、後で考えてみると、その時のアメリカ人は、主人につ
 いている守護の天使が神様の指令を受けて連れてきた人かもしれません。
 
魂の交わり(心あたたかな病院)
・茨城から家へ手伝いに来ていた女の子がいました。
 鈴木友子ちゃんといって、二十歳ぐらいで色のおどろくほど白い、肌の透き通るような
 女の子でした。
 何となく淋しそうな雰囲気があって、主人も特に気をつけて目をかけて、冗談を言って、
 からかったりしていました。
・「私は遠藤家に一生いる」というのが彼女の口ぐせで、私は嬉しさ半分心配半分といっ
 た感じでした。 
 「女は結婚すると正月になかなか実家へは帰れないものだから、正月には必ず帰してや
 れ」
 というのが主人の持論でした。
 肝心の一番忙しい年の暮れから三ケ月にかけて、手伝いの人たちを田舎へ帰すのは困る
 のですが、我が家ではその主人の一言で、正月には皆実家へ帰っていました。
・その年も皆で暮れに忘年会をやり、次の日にそれぞれ故郷の向かって発っていきました。
 友子ちゃんも忘年会の時少し風邪ぎみではありましたが、元気な様子で、食欲も他の人
 たちよりも旺盛なぐらいでした。
・年が明けて田舎から帰ってきた友ちゃんは、明らかに暮れとは様子が違っていました。
 最初風邪がぶり返したのかと思いました。
 でも、どうも様子が変なのです。
 私はまず若い人の病気として結核を疑いました。
 全治したと医者にはその頃は言われていましたが、何と言っても主人は結核だった人間
 です。
 家へ働きに来ている子を結核にしてしまったのでは、私の責任は重大です。
 すぐかかりつけの熊谷先生のところに連れていきました。
 レントゲンを撮って頂き、胸のほうは何ともないということで、その日は一度帰宅した
 のですが、翌日どうも容態がよくないので、また再び熊谷先生のところへ連れていき、
 ともかく入院させました。
 ところが、翌日になって熊谷先生から思いがけない結果が知らされました。
 友ちゃんが癌だというのです。
 まさか二十五で癌とは夢にも思わぬことでした。
 すぐ慶応病院へ入院させました。
 まだ主人も私も半信半疑で、まさかまさかという気持ちでした。
・友ちゃんの診断の結果は骨髄の癌で、長く一カ月という思いがけない結果でした。
 発病は十二月の初めでしょうが、若いから転移も早いのです、との言葉に、主人も私も
 うちのめされてしまいました。
・大学病院ですから、あと一カ月の命とわかっていても、次から次へと検査、検査なので
 す。   
 主人も主治医の若い先生に、検査をしても助からないのなら、辛い検査はやめてやって
 くれと毎日病院に行っては若い先生と検査の回数を減らす交渉ばかりをしていました。
・もう助からないという病人にしてやれることは、そばについていて手を握っていてやり、
 君一人じゃあないんだよ、君のことを心から心配している人がそばについているんだよ、
 ということを伝えることだ。
・それと医者が言ったことを、違った意味にすり変えて伝えることだ。
 たとえば、医者があと一カ月ですと言ったなら、あと一カ月すれば楽になれるそうだよ
 と言ったり、今日は容態が悪いですと医者が言ったら、今日はゆっくり休むといいと言
 ってたよ、といった具合にな、と辛そうに言っていました。
・そのうち、主人は時々鼻血がでるようになり、友ちゃんのことで家中神経過敏になって
 いたこともあって、念のため慶応で診てもらうことになりました。
 「念のためにとりましょう」
 と言って撮ったレントゲンを見て、ちょっとお医者様の顔色が変わったそうです。
・衝立で仕切られた隣のところで、そのレントゲンを見ながら二人の医師が話している声
 が、主人の耳にも達しました。
・ショックを与えぬようにとその時診てくださった犬山先生は、まあ心配はないと思いま
 すが、一カ月に一回ずつ検査にいらっしゃってください、とおっしゃったそうです。
・主人が「癌を疑っていらっしゃるのではないのですか?」と伺うと、
 「このまま行くと上顎癌に移行する恐れもなきにしもあらずです」
 と答えられ、主人は友ちゃんのこともあって、二重のショックでした。
・早速、上顎癌の名医という先生をしらべあげ、翌日その先生に直接お電話をして、厚木
 の近くの東海大まで、診断を受けにいきました。
・その先生は名医でいらっしゃるかもしれませんが、軍医の経験がある方で、びっくりす
 るほど、神経の太い方でした。
 「ああこりゃ70%上顎癌だ。上顎癌の場合は手術の成功率は70%、再発率は50%、
 再発後の手術の成功率は30%で、死亡率は50%」
 と、息もつかず、まことにこともなげにこんな感じのことをのたまわったのです。
 帰り途二人とも、車窓の風景がセピア色の写真のように色が全然見えなくなりました。
 本当の話です。
・「俺はあんなラフな神経の人に手術をしてもらったら助からないと思うよ。やはり犬山
 先生に手術をして頂くことに決めた」
 と車中でもう覚悟を決めたようでした。
・ところが、ことらは決心したものの、犬山先生は外国の学会にご出席のため、手術は二
 週間後になるということもわかりました。
 お医者様のほうはこの状態なら、そんなに一日を争って手術するほどでもない、二週間
 後でも充分間に合うと思っていらっしゃるのでしょう。
 でも、そういう状態の中で待たされる患者の辛さは、経験した人でなければおそらくわ
 からないかもしれないのです。  
 その間にも友ちゃんの病状は、どんどん終わりに向かって進行していきました。
・いよいよ主人も明後日は入院という日になって、耳鼻科から電話がかかりました。
 肝臓の数値が悪すぎてこれでは手術はできないというのです。
 精神的にはまさに地獄でした。
 東海大の先生のところへ行ったため余計辛くなっていました。
 まるで毒をのまされたようなものでした。
 癌だと言われ、手術を決心したのに、肝臓の数値が悪くて手術できないというのは一体
 どういうわけなのでしょうか。
 私も主人も鼻と肝臓の因果関係がまるでわかりませんでした。
・私には主人の気持ちをどうやって平常に戻せばいいのか、もう手段がないと思いました。
 でもこのまま地獄の中に置いておくわけにはいきません。
 「貴方よりもずっとひどい癌の人もたくさんいて、皆何の精神的ケアも受けられないで
 苦しんでいるのよ。今の病院はたしかに何かが狂っているんじゃないかしら。もっと人
 間同士血の通った医療があるべきだわ。そのことをやれという神様のごい意思があるか
 ら貴方が今、こんな苦しみを体験しているんだと思うわ。もっと苦しんでいる人たちの
 ために、何かできることがあるんじゃない」
 と、何とか元気を取り戻させたという一心だけでした。
・しばらしくて主人は、
 「わかったありがとう。俺、その仕事をやるよ。もう大丈夫だ」
 と言ってくれました。
・その日のお昼頃、また慶応病院から電話が来て、こちらの手違いで数値が間違っていま
 した。
 手術はできますから、予定通り明日ご入院くださいと言ってきたのです。
 手術をできることになったものの、上顎癌の手術ということですから、翌朝は悲壮な思
 いでした。  
・病院のほうは「手違いで」と簡単に言ってくれますけれど、患者の側から言わせれば、
 心身ともに
 もみくちゃにされたような二日間でした。
 そんなずさんな病院に主人の命をまかせても、ほんとに大丈夫なのかと、心の中は不安
 でいっぱいでした。
 こうなればもう運命の神様の御手にゆだねて、あとは犬山先生のお人柄と技術に賭ける
 しかないと覚悟を決めました。
・ともかく主人は入院をして、主人は五階に、友ちゃんは一階にという、一家で二人が入
 院という事態になりまして、私は五階と一階を上ったり下りたりして、病院の中を駆け
 回っていました。
・いよいよ主人の手術の日となりました。
 犬山先生は手術後部屋へいらっしゃり、
 「肉眼で見た限りでは癌ではないように思いますが、念のため今検査に出しました。一
 週間したら結果がわかります」
 と言われました。
 まだこれからさらに一週間待つのかと思うと、張りつめていた気持ちもくずれそうでし
 た。
・そうこうするうちに友ちゃんのほうは、もうあと二日か三日という状態になってしまい
 ました。
 いよいよ今日が危ないという日、私はずっと友ちゃんの部屋についていました。
 友ちゃんの、仲のいいお姉さんもついていてくれました。
 安らかな死顔で、今まであんなに苦しんでいたのが、まるで嘘のようでした。
・助けられないのならせめて安らかに死なせてあげたい、と私もお茶断ちをしていました。
 主人も今まで何度も禁煙の志をたてながら失敗していたたばこを、友ちゃんの安らかな
 昇天を願ってぷっつりと断っていました。
 その願いが叶ったということだけがせめてもの慰め、と思うより仕方がありません。
・車が来て友ちゃんを見送ってから、五階の主人の病室へ上っていきました。
 主人に友ちゃんのことは何と伝えるべきかと心を悩ましていました。
 病室の扉をあけた瞬間、主人の声が聞こえました。
 「友ちゃん、今死んだんだろう?」
 私ははっとして言葉に詰まってしまいました。
・「今、俺がうとうとしていたら、元気な時のままの友ちゃんがニコニコして入ってきて、
 『旦那様!旦那様は癌なんかじゃありませんよ、大丈夫でしょう!』と言って消えてし
 まったので、ああ今亡くなったのかなあと思って祈っていたところだったんだ」
 と教えてくれました。
・それから二日経った日の午後、廊下を小走りに走ってこられる犬山先生に出逢いました。
 白い紙をつまんでヒラヒラさせていらっしゃいました。
 「パス、パス」と嬉しそうでした。
・ベッドにいる患者にとっては、夕食が五時に出てもまだお腹がすいていないので食べら
 れないのです。
 それはわかっていても病院側は、夕食をおそくすれば賄いの人の帰宅時間がおそくなる
 からできないということがわかりました。
・夜の賄い当番の人は、下膳後、食器を消毒液につけて帰宅します。
 朝の当番の人がそれらの食器を機械に入れるだけです。
 今はどこの病院でも、大体夕食は六時頃配膳されるようになりました。
・若いお嬢さんが自分の尿の入ったいれものをもって、衆人監視の中を歩くような屈辱的
 な思いをすることもなくなりました。  
・忙しくて患者のベッドサイドになかなかいられない医者や看護婦さんの代わりに、患者
 の愚痴や要求や、昔の思い出話など話題はさまざまのようですが、そのような患者の話
 をただ聞くボランティアを受け入れてくださる病院も増えました。
 すぐできるようなことは割と改善されてきていると思います。
・今回、主人が最後に入院した慶応病院でも、毎日待合室のお花の水をとり替えたり、し
 おれた花を挿しかえてくださるエプロン姿のボランティアの方々をよく見かけました。
 毎日活き活きと思う存分水を吸って限りある命を生きている花々を見るだけで、どんな
 に患者や介護のものがほっとするでしょうか。
 富裕の生活はいそがしいですが、庭先に咲いている花々や道端で見かける大きい樹木の
 花々はそれでも気がつきます。
 でも、ビルの中やホテルの中、またはレストランの食卓などの小さな花にも大きな力が
 あることを今回の入院で知りました。
・今日のように経済的効率ということだけが突出して珍重され、無用の用というような言
 葉は死語になりつつある世情のなかで、医療だけが例外のはずはあり得ません。
 医療側に意識の転換を求めていき、「心あたたかな病院」を実現させていくのは容易な
 ことではないのです。  
・小さな子供がいろいろな栄養をとって、段々大きくなっていくように、医者を志す方々
 は患者さんたちの人間的な苦しみを栄養として、知識をふやし、経験をつみ、技術を磨
 いていくのです。
 この厳然たる事実をよくわきまえておいて頂きたいのです。
・身体と心は別々ではないのです。
 一人の患者の病いと立ち向かうということは、その魂まで手を突っ込むことでもありま
 す。
・これからますます医療機械は進歩し、そのマニュアルをマスターすることが医者に要求
 されるでしょう。
 患者のデーターだけに首を突っ込んで、
 「ああ、データー、よろしゅうございますね」
 では困るのです。
・重症な患者さんを勇気づけることは、実際には本当にむずかしいことでしょう。
 でも病室へ入ってこられたら、
 「今日は目が活き活きしていますね」でも、「手の握力が今日は強いですね」でも、
 「空がこんなにきれいだから、今日はきっといい気持ちで過ごせますよ」でも何でもい
 いのです。 
 そんなつまらないことと思われるかもしれませんが、その一言で患者はその先生を信頼
 するのです。
 何故ならその言葉は、医師がマニュアルで言っている言葉ではないことが患者にわかる
 からです。
 もっと言えば、もう今の医療技術ではその患者を治すことはできないという時点に立ち
 至ってから、医者も患者も本当の勝負が始まるような気さえいたします。
・口で言うほど簡単なことではないと思います。
 でも、医者と患者のそのような人間的な交流なしには「心あたたかな医療」の意味はあ
 りません。
 単に尿をもって廊下を歩かないですむようになったとか、夕食がやっと人なみの時間に
 配膳されるようになったとかいうレベルで足踏みしてしまいます。
・ことにターミナルケアにおいては、死とゴールにむかって、いかに患者と医師とが二人
 三脚で走っていけるかということが最大のテーマなのです。
 考えようによっては、患者と医師のお互いの質が赤裸々に現れてしまう時期でもありま
 す。  
 それを思うと患者のほうも、衒気で生活している間の生き方が、そこに至って出てしま
 うわけですから、人間一日たりともおろそかには過ごせないと身が引き締まります。
・大都市の大きな病院や著名な大病院などには、全国から正確な診断を求めて多くの患者
 さんが集まります。 
 中には診断の結果、思いもよらない重篤な病名を医師から告げられてショックを受け、
 呆然自失の状態になる方も多いはずです。
 実際に経験されたことがある方はおわかりになるかと思いますが、そのような時、患者
 はまず、見立て違いではないか、もう一人か二人の医者にも意見を聞いてみたいと思う
 ものです。
 つまり、セカンド・オピニオンを聞きたいのです。
 まして、大きな手術の必要性などを宣告された場合はなおさらのことでしょう。
 当然のことです。
・大きな病院や大学病院では、重篤な病名を患者に宣告するばかりで、宣告を受けた患者
 の精神的ケアーは放置されています。 
 これだけパソコンもインターネットも発達しているのですから、その病気に関する名医
 と言われる医師や専門医の名前、所属する病院名や住所、電話番号などを全国ネットで
 登録しておき、いつでも取り出して患者に渡せるようにすべきです。
 その一覧表にしたがって患者が希望すれば、指定した医師の許に個人のデータなどを即
 刻電送できるシステムを確立すべきです。
 その一覧表を渡されるだけで、患者のショックの何%かは和らげられるはずです。
 また、衰弱した病人が新しい病院へ行って、一から検査やり直す負担も取り除くことが
 できますし、初めから診てもらった医師への気兼ねなどという、わずらわしい気遣いか
 らも解放されます。
・結果は同じことだと言われるかもしれませんが、重篤な病気で入院や手術の決断をしな
 ければならない患者にとっては、医療側のそれだけの心遣いはやはり一つの救いとなり
 ましょう。
 ことに地方から上京して診断を受けた患者さんは、その病院にそのまま入院して治療を
 受けられるとは限りません。
 自分や家族が住んでいる町からできるだけ近い都市で、同様の治療が受けられるかどう
 かを知ることができれば、どんなにほっとできるでしょう。
 心おきなくセカンド・オピニオンを聞ける態勢をぜひ作って頂きないのです。
・主治医は当然その病気の専門の方であろうと思うだけで、過去にどのような医療業績を
 あげられた方なのか、下で働く若いスタッフの先生方はどんな学位論文を書き何を目下
 研究中なのか皆目わかりません。
 業績はもちろんのこと、出身校や趣味まで患者側が入院時にわかれば、これまた、その
 医師たちの人柄なども想像できて、顔を出して頂くたびに、医師と患者という立場を超
 えた人間的なつながりも得られ、その結果、両者の間に信頼感も生まれるのではないで
 しょうか。
・看護のスタップについても同じです。
 スタップ全員を紹介してください。出身地も紹介してください。案外同郷の看護婦さん
 がいたりするものです。
 それだけで患者は、家族から突然引き離された淋しさから少しは救われることでしょう。
・薬についても、薬の名前だけわかっても『医者からもらった薬がわかる本』などという
 分厚い病室に持ち込んでも、見つけ出せない薬もあります。
 この薬はこのような病状を和らげるための薬です、ということをよく説明してあげてく
 ださい。 
・賄いなども、病人にとって食事は治療の大きな柱です。
 むずかしい食餌制限の患者に出す食事は骨の折れることと重々わかっていますが、あら
 かじめ一週間のメニューが渡されていて、昼も夜も三種類ぐらいのメニューから選べる
 と、どんなにいいかと思います。
 捕食できる患者を抱えた家族も、あらかじめメニューが発表されていれば、買い物のメ
 ドも立つでしょう。

・主人の最期を看取った体験から、最後に特に申し上げておきたいことがあります。
 「脳死」という言葉は、いったいいつ頃から出てきたのでしょうか。
 私もしかと記憶にありませんが、臓器移植ということが盛んに言われるようになってき
 てからのような気がします。
・呼吸がとまり、心臓がとまり、死後硬直が始まって、その人の死が周りの人々に確認さ
 れるということが、臓器移植が言われ始める前までは、ごく一般的な死の認知であった
 と思うのです。 
 わずかながらも自発呼吸があり、心臓の動き、病人の顔色の悪さはあるにしても、まだ
 血色が残っているうちに「脳死」と、いったい誰が決められるのでしょうか。
 医師は医学的に死をすべて解明しているつもりかもしれませんが、医師が死について掌
 握していることなど、まだほんの何%にしかすぎないのではないかという気がしていま
 す。
・主人はかねてから「無意味な延命治療」には反対でした。
 文章にも書き、家族にもいつも、
 「単に数時間、数日、命を延ばすために無意味な延命治療はやめてくれ」
 と、まだ元気な頃からいつも申していました。
・私も今までに身近な人たちの死に、何回か立ち合っています。
 でも、脳死というのは未知の経験でした。
 主人が度々文章に書き、また言葉としても度々言い聞かされていた私にとっても、主治
 医に「もうよりしいでしょうか?」と言われた時の気持ちはとても筆舌には尽くせませ
 ん。 
 90%ぐらいは「あれでよかったのだ」と思っています。
 でも10%ぐらいのところでは、私はもしかして殺人に手を貸してしまったのではない
 か?という気もしています。
・他人の臓器をもらえば自分の子供の病気が癒るというような場合、誰もが「人を殺して
 でも臓器をもらいたい」と思うのは人情でしょう。
 でも、人間としてやってはいけないこともある、のです。
 法律というのは、宗教的戒律などに較べれば、最低限の道徳律です。
 その最低限の道徳律である法律が、脳死によって臓器を取り出すことにGOサインを出
 すということは、私にはどうしても受諾できません。
・入院時に現在でも、「治療について、一切の異議は申し立てない」という誓約書を書か
 されることが一般的な日本の医療の現場です。
 新しい薬の治験に協力したり、新しい医療器具の実験台になることも受諾しないと、体
 よく退院を勧告されるというようなこともあると聞いています。
・入院時の誓約書の一項目として、脳死による臓器の提供がつけ加えられる日が絶対に来
 ないと言えるかどうか、と思います。 
 臓器移植の成功が医学部部長選挙などに利用されるくらいが関の山、と思わせるような
 医療の実態がまだあります。
 医師の意識の変革なしには、日本では臓器移植は定着しないことを、医療にたずさわる
 方々はよくよく考えていただきたいと希っています。
 
また逢う日まで
・「死について考える」という著書の中で、主人は、
 「病気とか老年とかいうものは、神様がそろそろ自分の素顔を見てごらん。それが私の
 ところへもってくるお前の本当の顔なのだよ」
 と鏡を渡してくださる時だと思う、と書いています。
・人間誰しも普段の生活の場では、他人と円滑につき合っていくために自分の心の奥底に
 押さえ込んでおかねばならぬものがたくさんありますが、若くても病気になって長い間
 寝込んだり、または年を取って段々と死が近づいてきたりということになると、今まで
 ひそかに隠していた「本当の自分」と対面せねばならなくなります。
 今まで意識的に避けてきた「死」というものに対しても、いや応なしに直面せざるを得
 なくなります。 
・青年時代は肉体の季節、中年は心と知性の季節、そして老年は魂の季節とすれば、人間
 五十歳を過ぎたら、そろそろ自分の死に支度をととのえておくべきかもしれません。
・老年とは、神様のところへ持っていける最低必要なものは何かということを吟味して、
 今までの生活の場で欲張って、あれもこれもと背負い込んでいたものを整理する時期の
 ように思います。 
・同じ著書の中で主人は、
「人間年をとってくると、今まで若い時や壮年期には聞こえてこなかった声が夕日に染め
 られた雲の中からひそかに聞こえてくる」
 とも書いています。
 その声はあの世へすでに、旅立っていってしまった親しい人たちの声なのだそうです。
・病を得て、生活の喧騒からやむなく離れたり、老年になって意識の重点が段々と
 生活から人生へと移行してきた時、かつて自分をこよなく愛してくれていた人たちの声
 が夕暮の雲の間から聞こえてくるとしたら、人間にとってそれはやはり大きな慰めにな
 るのではないでしょうか。 
・日本人には宗教心が欠如していると指摘されることも多いのですが、死後の世界を信じ
 ていますかと聞かれて、わからないと答える人が半数いるかもしれません。
 でも日本の男性に死ぬ時、一番迎えに来てもらいたい人はと聞けばおそらく90%以上
 の人が、「死んだ母親」と答えるでしょう。
 ちなみに妻の場合は圧倒的に「死んだ夫」だそうです。
・まだ主人が伝研に入院している時分に、ちょうど主人の病室の小さい壁のほうにとりつ
 けられた窓から、真正面に向こう側の病室の窓が見えていました。
 看護婦さんたちの話では、病人は肺癌でもう、二、三日しかもとないという話でした。
 病院の台所で、奥さんがガーゼでしぼってリンゴジュースなどを作っているのを私も何
 度か見たことがありました。 
・ある夕方、主人が何気なく外を見ていると、その奥さんが背中をこちらに向けて寝てい
 るご主人の手をじっと握っていたそうです。
 まるで化石にでもなったように何時間もその姿勢のままで、その奥さんの背中からは、
 おそいかかってくる死から必死に夫を守ろうとしている強い意思がひしひしと感じられ
 たと申しておりました。
・翌々日その方は亡くなりましたが、
 「あのご病人は、きっと奥さんのことを母親と思って死んでいっただろうなあ」 
 と主人がしみじみと呟きました。
 そのご病人の母上がご存命の方か、もう亡くなってしまわれた方なのか詳しいことは何
 一つわかりません。
 ただ、あの奥さんも現身の人間としてついていけるギリギリの線まで、手を握るという
 行動でもって夫の苦しみを共にしたのだと、私も胸にこみ上げてくるものがありました。
・このエピソードの後、伝研から慶応病院へ移って三回の肺切除の手術を主人は経験する
 ことになりましたが、三回ともストレッチャーにのせられて手術室へ運ばれていく主人
 につきそってエレベーターを降り、長い廊下を看護婦さんと共に押していくのです。
 ところが赤いランプが上についている手術室のドアのところまで来ると、
 「奥さまはここでお待ちください」
 と言われてしまいます。
・もし手術中に何かあれば、もう生きている主人を見るのはこれが最後になるわけです。
 たとえ親子でも夫婦でも、どんなにその病人と深い関係の人間でも、
 「残念ながらそこから先は行けません」
 というところがこの世にもあるのです。
・『侍』という本の中で、その主人公の侍の忠実な僕であった与蔵が、いよいよ処刑場に
 ひかれていく主人公を見送る時、
 「ここからは・・・あの方がお供なされます」
 と申します。
・夫婦は人生の同伴者とよく言われました。
 また実際に生きている間は、そのような夫婦像が一般的だと思いますが、人生のなかに
 おいて夫婦が死別と隣り合わせでいることは、今日の世の中ではよくあることになりま
 した。  
・「ここからは・・・あの方がお供なされます」
 という瞬間が、長い夫婦生活の中では何度か訪れます。
 何度か経験した、手術室の扉の前での主人との別れの時、私の傍をすりぬけて主人と一
 緒に手術室の中へついていってくださった方の存在を、私はいつもいつも感じておりま
 した。 
・手術室の扉の前での別れは四十三年間の結婚生活のなかで六回ほど経験しており、その
 うち初めの三回はまだ息子も小学校へ上る前でした。
 でもその六回の時のほうが覚悟ができていたのかもしれなせん。
 自分でも医師や看護婦さんの前で毅然としていたと思います。
・主人も最後の一年ほどは、もう誰の目にも再起は不可能と思われました。
 主人は背が高くて身長は178センチくらいありました。
 体調のいい時には57、8キロから60キロの体重を維持していたと思いますが、もう
 その頃には体重の制限は45キロから最後には39キロまで制限されていました。
・それでも私は生まれつき楽天的なのかもしれませんが、あんなに急変して亡くなってし
 まうとは夢にも思っていませんでした。
 ともかく当初9月5日に退院する予定が、発熱のために延び延びになっているものの、
 一度は退院して我が家へ連れて帰れるとばかり思っていました。
 それに神様は無駄な苦しみを人間に与えるはずはんじ、だからきっと助けてくださると
 いう気もありました。
・今思うとキリストの生前、駄目弟子たちがそれぞれ自分勝手な夢やイメージをキリスト
 に押しつけていたように、私も限られた人間の知恵の中で、現世利益的に神様をとらえ
 ていたのだと恥ずかしく思います。
 ですから、亡くなる前日に食物を誤飲したことから急転直下して危篤となり、次の日の
 夕方主治医の先生から、
 「もうどうにもお助けする方法がありません。これ以上この状態を続けても、お苦しみ
 が増すばかりです」
 とおっしゃられた時にも、愚かしい発想でしたが奇蹟が起こるかもしれないじゃあない
 かとまで思いました。
・それから数時間の苦闘の後、主治医のH先生が
 「もうよろしゅうございますか?」
 とおっしゃった時には、私も
 「長いこと、ありがとうございました」
 と頭を下げるしかありませんでした。
・人工呼吸器のスイッチがパチンという音と共に切られ、思わず私は時計を見ました。
 「まだ人工呼吸器の余波で五分ほどはお命がおありです」
 とH先生はおっしゃられ、それではこのまま死なすには忍びないと思い、口や鼻に入っ
 ている管を全部抜いて頂きました。
・三十秒ぐらいですっかり管も抜けて穏やかな顔に戻ったなあと思う間もなく、主人の顔
 は歓喜に充ちた表情となり、まるで体中から光が満ち溢れているようでした。
 一年前から口があまりきけなくなり、もっぱら手を握り合うことで、主人の意思や今や
 ってほしいことなどを判別する習慣が続いておりました。
・臨終の時も主人の手を握ってままでしたが、主人の顔が歓喜に充ちた表情に変容した途
 端に、
 『俺はもう光の中に入った、おふくろにも兄貴にも逢ったから安心しろ!』
 というメッセージが送られてきました。
・私もこれまでの四十三年間の結婚生活の中で、一度も見たことのないような主人の歓喜
 の表情を見て、 
 「ああ、この人は長い苦しみを経て今、光の中に入っていったんだ!」
 と確信できました。
・今になって考えますと、もしそれまで普通に会話ができてきて急に人工呼吸になって物
 が言えなくなったのだったら、おそらく握っていた手から主人のメッセージは受け取れ
 なかったと思います。 
 世の中に何一つ無駄なことはないのだと、主人の臨終の時に覚りました。
・一年間ほとんど口がきけず会話が失われていたのですが、その失われたものがあったか
 らこそ、手を握り合わせてコミュニケーションを伝え合う訓練ができていて、あのメッ
 セージをキャッチすることが可能だったと思います。
・人間本当に悲しい時には涙も出ないようです。
 それもあったかもしれません。
 でもそれだけではなかったと思います。
 もしあのメッセージが最後に主人から伝わってこなかったら、私はあの場に崩れ倒れて
 いたかもしれません。
 光に包まれた状態になってから約二分後に、主人は生涯を閉じました。
・日本人は死に際の美しさという美学をもっている民族だと思いますが、主人は、
 「俺も自尊心があるから従容として死にたいけれど、たとえのたうち廻って、死にたく
 ない死にたくないと叫びながら死んだとしても、神様はそういう人間の弱さを先刻ご承
 知だと思うので安心していられる」
 とよく申しておりました。
 でも幸いなことに臨終をむかえた主人はカトリック信者として望み得る、最高の死を与
 えられたと思います。 

・私は日本人が昔から持っている、何かを作り替える才能の素晴らしさにいつも期待して
 いるのです。仏教も日本に伝わってから、日本人の血となり肉となるまでには多くの名
 僧たちの天才的な努力があったわけです。
 漢字も中国から入りましたが日本人はこの漢字から世界に誇れる美しい仮名文字を創作
 しました。
・考えてみると日本人は万葉の昔から歌を詠むことによって言葉について絶えず細心の注
 目をはらっていたと思います。 
 言葉の美しさ、美意識の錬磨ということは古代から現代に至るまで脈々と続いていると
 思います。
 日本以外のどこの国に、これだけ和歌や俳句のような詩的表現を錬磨するために、何百
 何千というサークルがあり、詩を本職としない会社員や主婦などが、それぞれのサーク
 ルに参加して日夜表現の錬磨に励んでいる国があるでしょうか。
・日本ほど無月から始まって満月に至り、また無月へ還るまでの一カ月間の月の営みにた
 くさんの名前をつけている国はないでしょう。
 雨の名前も風の名前も、おそらく世界一ではないかと思います。
 桜狩り、紅葉狩り等という風流を解するのも日本人の美学の一つと思います。
・キリシタン時代の負の部分についての総括も、一度はきっちりとなされねば、信者でな
 い99%以上の日本人の納得を得ることはできないのではないでしょうか。
・十六世紀に来日した宣教師たちの、殉教を含む数々の崇高な布教活動については盛んに
 喧伝されていますが、負の部分についてはほとんど何も総括されず現在に至っています。
 宣教師たちも人間ですから、数々の誤りを犯したとしても不思議ではありません。
・日本の布教にあたっても、イエズス会とフランシスコ会の醜い功名争いもありましたし、
 九州でキリシタン大名から土地をゆずられて教会が領有地をもったというような事実も
 あり、秀吉のような為政者の眼から見れば明らかに危険視されて当然のようなミスも犯
 しています。
 また仏像を燃やしたり、寺院を焼いたりという無茶もやっています。
・何より問題なのは、現在のような情報社会ではないにしても、当時スペイン、ポルトガ
 ルから来日した神父たちが
 「キリスト教に依らねば救われない」 
 という、今考えれば明らかに独善的な考えをもって排他的な布教をしたことです。
 その結果、キリスト教以外の宗教を異端視したために、流さないでもいい血が多く流さ
 れたことや、宣教師の方々はたとえ善意からではあったにせよ、異邦人への布教という
 美名の許に結果的に西欧諸国の東洋における植民地支配に手を貸した、等々の見方もあ
 ります。
・秀吉や家康があそこでキリシタンの進出をくい止めたから、日本は西欧諸国の植民地に
 ならずにすんだ、と考えている日本人も多いと思います。
 キリスト教の東洋布教について教会側の立場に片寄らない公正な立場からの科学的、学
 問的な検証がなされるべき時かもしれません。
・キリシタン大名と言われる人たちも最初は、信長や秀吉がキリシタンの布教に寛大だっ
 たこともあり、また武器を保有したさにキリシタンの宣教師たちに近づいたのでしょう。
 ただそのような利害関係の結びつきだけではなく、受洗に至るまでには、来日した神父
 さんたちの人格的な高潔さと、弱者に対する優しさにキリストそのものを感じた点もあ
 ったであろうことは充分察せられます。
・最初は武士階級にキリシタンの教勢が拡がったということですが、当時一応知識階級と
 目されていた大名たちが  
 「キリストに依らねば救済はない」
 という、今日で考えればキリスト教徒の独善というべき説をどうして易々と受け入れら
 れたのでしょうか。
 その点が私にはわからないところです。
・日本の歴史や宗教関係の書物に少しでも眼を通していれば、いくら情報が少ない時代だ
 とはいえ、
 「それは貴方の独善的な考え方ではないですか?」
 と反論はできたはずではないでしょうか。
・当時の日本の知識階級が責任を充分果たせなかったために、庶民の信者たちはキリスト
 かインフェルノ(地獄)かという二者択一を迫られ、ある者は殉教し、またある者は転
 び者という烙印のために、辛い一生をおくらねばならなくなりました。
 天国へ行く選択肢の一つとしてキリスト教が提示されていれば、あれほどの犠牲者は出
 さずにすんだと思います。
・あくまで転ぶことを拒んだ信徒たちの耳がそぎ落された時、それを日本布教の初穂とし
 て尊んだと書物に書かれています。
 この宣教師たちの対応の仕方は、自分たちは神様のためにこんなにも布教の実をあげた
 という西欧人としての論理ばかりで、耳をそぎ落された信者の痛みを自分自身の痛みと
 してはあまり感じていないという感じがしてしまいます。
 そんな史実を知ると、例は悪いですが、オウムの幹部たちの功名争いを思わず彷彿させ
 られます。
・『沈黙』が出版された時に、「このキリストならばわかる」と言って多くの方々が入信
 された裏には、いまだに殉教というような当時のパードレエたちの西欧的な眼から見て
 華々しい手柄のみを強調して、都合の悪いことは頬かむりをしている日本のカトリック
 教会に対する、それまでの一般の日本人の抜きがたい不信があったからではなかったか
 と思われます。