海と毒薬  :遠藤周作

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この作品は、いまから64年前の1957年に発表されたもので、内容は、太平洋戦争中
に日本の捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として使用された事件「九州大学生体解剖
事件
」を題材にしたもののようだ。ただ、登場人物もこの事件に関わった特定の実在の人
物をモデルにしたものではなく、ストーリーの構成においても創作性の強い作品だと言わ
れているようだ。なお、1986年に映画化もされているようだ。
作者はこの作品によって、成文的な倫理規範を有しているキリスト教を信仰している国々
とは違い、日本人には確固とした行動を規律する絶対的な成文原理がなく、集団真理と現
世の利益で動く傾向があるのだということを主張したかったと言われているようだ。
しかし、そのような絶対的価値基準となる宗教を持っているからといって、それですべて
がいいとは言い切れない場合もあるのではないかと私は思っている。その典型的な例が、
宗教が絡む戦争だ。自分が信仰する宗教の価値観が唯一絶対なのだと、お互いが主張し合
えば、そこには、のっぴきならない状態が生ずる場合が多いことは、歴史が証明している。
そうゆう観点からすれば、八百万神を信仰する日本人のほうが、ずっと融通がきいて、ま
だましなのではないかと、私には思えてしまう。
なお、この事件に関するノンフィクション作品としては「『生体解剖』事件 B29飛行
士、医学実験の真相」(上坂冬子著)のほか「九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実」
(熊野以素著)があるようだ。
また、今年(2021年)に、この「九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実」を原作と
して、NHKが「しかたなかったと言うてはいかんのです」というテレビドラマとして8
月に放送した。なかなか考えさせられる内容のドラマであった。


海と毒薬
・八月、ひどく暑いさかりに、この西松原住宅地に引越した。新宿から電車で一時間もか
 かる所だから家かずはまだ少ない。
・翌日、妻が医院をみつけて来た。風呂屋のすぐ近くに内科と書いた保険医の看板が出て
 いるのを見たと言う。昨年、会社の集団検診で私は左肺の上葉に豆粒大の空洞を発見さ
 れたのだ。幸い肋膜が癒着していなかったので、肋骨を切らずにすんだが、ここに来る
 前に住んでいた経堂の医者から半年の間気胸療法を受けていた。だから引っ越しをすれ
 ば、すぐ代りの医者を見付ける必要があった。
・妻に教えられた道をさがして、その勝呂という医院をたずねてみた。医院といっても公
 庫で建てたような小さなモルタル作りの家である。呼鈴を幾度も押したが誰も出てこな
 い。私は庭にまわった。雨戸を少しあけて白い診察着を着た男が顔を出した。医者は四
 十位だろうか老けた感じのする男だった。
・「今まで医者に見てもらったのかね」「半年ほど空気を入れてもらいました」「レント
 ゲンは?」「家においてきましたが」「レントゲンがなかとなら仕方がない」医者は、
 そう言ったきり、また雨戸をしめきってしまった。
・私はその翌日も翌々日も勝呂医院の所には行かなかった。左肺の空気は少しずつ減って
 きて、段々、いきぐるしくなってきたが、あの医者に針をさされるのがなぜか不安のよ
 うな気がしてきたからだ。
・気胸は普通、胸の側面に畳針ほどの太さの針を入れる。針にはゴムのチューブがつけて
 あって、そこを通る空気が胸に送られて、空洞を少しずつ潰すというのがこの療法なの
 だ。
・通いなれた医者でさえ、針をさされるのがイヤだから新しい医者に対しては尚更、心も
 となかった。下手な人にかかると自然気胸という突発事を起す時がある。自然気胸を起
 す患者は窒息するのだ。
・とはいえ、いつまでも我儘言ってはいられない。私の義妹の結婚式が半カ月後、九州の
 F市であるので、妊娠している妻の代りに出かけねばならなかった。妻は両親のない義
 妹のたった一人の身寄りなのである。
・妻があまりやかましく言うので僕はその夕暮、レントゲン写真を持って勝呂医師をたず
 ねた。細君がいない間、勝呂医師は一人で自炊しているらしかった。家の中にも診察室
 にも垢臭い変な臭いがこもっている。私は勝呂医師の診察着に小さな血の痕があるのを
 見てイヤだった。
・ひびのはいった空ベッドに私が横になっている間、彼は眼をしばたたきながらレントゲ
 ン写真を眼の高さまであげて眺めた。
・「手をあげて」と彼は低い声で命じた。彼の指が私の脇腹の肋骨と肋骨の間を探ってい
 た。針を突き刺す場所を確かめているのだ。その感触には金属のようなヒヤリとした冷
 たさがあった。冷たさと言うよりは私を一人の患者ではなく、なにか実験の物体でも取
 り扱っているような正確さ、非常さがあった。
・(前の医者の指先とちがう)と私は患者の本能で突然怯えはじめた。その時、私の胸部
 に針がはいった。肋骨と肋骨との間に針がすべりこむのがハッキリ感ぜられた。みごと
 な入れ方だった。
・気胸針を患者の胸に突き刺すのは何でもないようだが、あれでなかなかムツかしいのだ
 と私は経堂にいた時、通っていた老医から聞いたことがある。
・私の経験から言っても経堂の老医でさえ、罪に一、二度は肋骨のあたりで針を止め、改
 めて更に突き込むことがあった。こんな時、胸に痛みが走るのである。
・あの勝呂医師にはこんなことは一度もなかった。彼の一打ちは素早く針を肋骨の肺の間
 に入れ、そこにピタリと止めるのである。痛みも何もなかった。あっという瞬間にすむ
 のだった。もし経堂の老医の言うことが本当ならば、この男はどこかで相当、結核の治
 療にたずさわっていたのだろう。そんな医師ならば何も好きこのんで砂漠のような土地
 に来なくてもよさそうなのに、何故やって来たのか私には不思議だった。
・ある日、私は彼について一寸した知識を仕入れることができた。たしかここに来てから
 五回目の気胸の日だったが、順番を待っていた私は玄関においてある古い週刊誌の間に
 F医大の卒業名簿という小冊子を見つけたのだ。勝呂という姓名は珍しかったので、彼
 の名はすぐに確かめることができた。 
・気胸のたびに私が彼の家を訪れても、勝呂医師はほとんど口をきかなかった。患者は百
 姓の内儀やその子供が多い。彼等は玄関の上り口に腰をおろして患者用の新聞や週刊誌
 をめくりながら忍耐強く順番が来るのを待っていた。看護婦がいないので薬の調合も勝
 呂医師がやるのである。
・九月の終わり私は長い退屈な汽車に乗って九州のF市にむかった。義妹の結婚式のため
 である。義妹は東京の勤め先で知り合った会社員と恋愛結婚をしたのだ。男の家がこの
 F市なので式もここですることになったのである。身寄りの余りいない義妹には親類の
 うち出席したのも親代わりの私だけだったから肩身のせまい思いをしただろう。
・披露宴は街の中心にある小さなレストランでやった。テーブルで私の隣には新夫の従兄
 が坐っていた。名刺をもらうと医師と書いてある。「F医大を御卒業ですか。それなら
 ば勝呂という人を御存知ありませんかね」「勝呂をあなた、御存知ですと?」「体を診
 てもらっています。気胸をやっているもんです」「今、東京に彼、おりますとな。それ
 では」「学生時代のお友だちですか。勝呂先生と」「いや、あの人は・・・御存知かも
 しれませんが、例の事件でな」その人は急に声をひそめて話しはじめた。
・翌日、私は街に出てF市の新聞社をたずねた。「むかしの新聞を診せて頂きたいのです
 が」「戦争直後のです、戦争中、F医大で生体解剖をした事件の裁判があったでしょう」
 三階の史料課の隅で私は一時間ちかく当時の新聞記事を読ませてもらった。
・それは戦争中、ここの医大の医局員たちが捕虜の飛行士八名を医学上の実験材料にした
 事件だった。実験の目的はおもに人間の血血液はどれほど失えば死ぬか、血液の代りに
 塩水をどれほど注入することができるか、肺を切り取って人間は何時間生きるか、とい
 うことだった。解剖に立ち会った医局員の数は十二二人だったが、そのうち二人は看護
 婦である。
・裁判ははじめはF市で、それから横浜で開かれている。私はその被告たちの最後のほう
 に勝呂医師の名をみつけた。彼がその実験中何をやったかは書いていない。当事者の主
 任教授はまもなく自殺し、主だった被告はそれぞれ重い罰を受けていたが、三人の医局
 員だけが懲役二年ですんでいた。勝呂医師はその二年のなかにはいっている。
・私はなにがなんだかわからなくなった。今日までそうした事実はほとんど気にもとめな
 かったことが非常に不思議に思われた。今、戸を開けて入ってきた父親もやはり戦争中
 には人間の一人や二人は殺したかもしれない。けれども珈琲をすすったり、子供を叱っ
 たりしているその顔はもう人殺しの新鮮な顔ではないのだ。
・帰京すると既に秋である。その翌日の夕暮、勝呂医院にでかけた。私は何気ない口調で
 言った。「F市まで旅行してきましたよ」一瞬、勝呂医師は私の顔を眺めたが、その表
 情は相変わらず、物憂げだった。
・勝呂医師はこちらに背をむけてカルテに何か掻き込んでいたが、突然、眼をしばたたい
 て低いくたびれたような声で呟いた。 
・「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって
 自信がない。これからも同じような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまう
 かもしれない・・・アレをねえ」
 

・あの女はもう十カ月は保たないだろう。毎朝、臭気のこもった大部屋に行くたびに、垢
 じみた布団に身を横たえているおばはんの眼に光が次第に消えていくのを彼はとうから
 気づいていた。あれは門司が空襲で焼かれた時、この街に妹を頼って逃げてきた患者で
 ある。街にいってみるとその妹も家族と共に行方不明になっていた。警察からこの大学
 病院に施療患者として送られてから第三病棟の大部屋で寝たきりなのである。両肺がも
 う、半ば侵されているから手の施しようもない。おやじの橋本教授はとっくに匙を投げ
 ていた。
・破れた窓の間から大学の構内をクリーム色に光った自動車がゆっくりと登ってくのが見
 えた。第二外科の正門にとまったその車に、一人の見習医官を従えて、国民服を着た小
 柄の太った男が乗り込んだ。(あれは権藤教授と小堀助手じゃなかろうか)そう気づく
 と勝呂は更に憂鬱になっていた。
・たんなる医局の研究生にすぎない勝呂にも毎日、おやじの橋本教授の苛立った表情をみ
 るたびに部長の椅子めぐって医学部の教授たちが動揺していることが薄々と感ぜられる。
 戸田や勝呂のおやじである橋本教授が医学部長を継ぐのは至極当然の話に思われた。そ
 の当然の話が覆りはじめたのは権藤派がF市の西部軍と結びついて足固めを前からして
 いたからだ。権藤教授は自分が医学部長になれば大学の二病棟に傷痍軍人だけを収容す
 るという内約を軍に与えたと言うことだ。そして彼と軍との間をたえず連絡しているの
 は第二外科の講師だった小堀軍医だそうなのだ。
・学生時代から勝呂はおやじを遠くから眺めては、一種神秘的な恐れを憧れとのこもった
 気持ちを感じるのだった。若い頃はおそらく美男子であったに違いない彫りの深い彫刻
 的なその顔だちは年と共に、部内きっての手術の名手の威厳をおびてきた。勝呂は彼の
 夫人が留学時代に恋愛した白人の女性であることを思い出し、そんな人生は田舎者の自
 分には生涯、望めないのだと苦しく考えるのである。
・「実は本人も納得しているのですが、どうせ死ぬのでしたら手術をやってみたいと思い
 ますが」と浅井助手がおやじに言った。「ちょうど良い機会です。左肺に二つカベルネ
 が、右に浸潤部がありますから両肺オペの実験にはもってこいです」「柴田助教授が是
 非、やってみたいと言われるので」
・毛布の端で胸を包むようにしておばはんは勝呂の強張った顔を怯えたように見上げた。
 手術をやればこの患者は百のうち五十は死ぬにきまっている。まして、まだこの医学部
 も二例しかない両肺成形を行えば九十五パーセントは殺してしまうだろう。だがオペを
 しなくても、彼女は半年以内に衰弱死するだろう。
 

・本当にみんなが死んでいく世の中だった。病院で息を引き取らぬ者は、夜ごとの空襲で
 死んでいく。
・成形手術を行うためには患者の肉体的な条件を前もって記録しておかねばならない。浅
 井助手が勝呂に命じたのはその仕事だった。
・「おばはん、なぜ手術を承諾したとや」「柴田先生がなあ、このまんまじゃどうにもな
 らんから手術せいと言われるでなあ」
・一週間ほどたつと検査表も少しずつ出来あがった。思ったより彼女の肺活量はあったが
 赤血球の数が減り、それに心臓が弱っている。勝呂にも、おばはんに手術することは、
 九十パーセントまでは危険だろうと思われた。
・「オペは少し無理じゃと思いますが」「無理はわかっているさ」一、二杯の葡萄酒で顔
 を真赤にした助教授は勝呂の持ってきた検査表をパラパラとめくりながら答えた。
 「君は心配しなくてもいいよ。今度の執刀はぼくがするからな。第一あれは施療患者じ
 ゃないか」
・一台のトラックが埃をあげて病理研究所の前を走ってくるのが見える。トラックの上に
 は、草色の作業衣を着た背の高い男が数人、だらしない恰好でかたまっていた。トラッ
 クが第二外科の入口の前でとまった時、拳銃を腰にさげた兵士が二名、ドアをあけて勢
 いよく飛び降りた。彼等のきびきびした行動に比べて作業服を着た連中は足をひきずる
 ように動かし緩慢な動作で階段をのぼっていた。小柄な二人の兵士たちの横で彼等の背
 があまりに高いので、米国人の捕虜だということが勝呂にも一眼でわかった。
・「オペ、受ける患者がまた一人、ふえた。個室に寝とる田部夫人や。看護婦さんたちが
 大杉部長の親類やと言うとるやろう。あの奥さんや」と戸田が言った。
・そう言われるまでもなく、勝呂はその田部とよぶ若い、うつくしい患者を見知っていた。
 個室では、おなじの態度も診断も丁寧になってくるが、特にその若い人妻に対しては細
 心をきわめた。勝呂も看護婦もカルテの端に「大杉部長、御親類」と書き込んだ浅井助
 手の筆跡を読んでいたのである。
・大阪のある富豪の庶子として生まれた戸田は学生の頃から、田舎者の勝呂にこうした医
 学部内の複雑な人間関係や学閥の秘密をよく教えては煙にまくのだった。「医者かて聖
 人やないぜ。出世もしたい。教授にもなりたいんや。新しい方法を実験するのに猿や犬
 ばかり使っておられんよ。そういう世界をお前、もう少しハッキリ眺めてみいや」「お
 ばはんは柴田助教授の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や」「患者を殺すな
 んて厳粛なことやないよ。医者の世界は、昔からそんなものや。それで進化したんやろ。
 それに今は街でもごろごろ空襲で死んでいくから誰ももう人が死ぬぐらい驚かんのや。
 おばはんなんぞ、空襲でなくなるより、病院で殺された方が意味があるやないか」
 

・手術の日どりが発表されたのは今朝である。来週の金曜日の午前にまず田部夫人をおや
 じ自身が執刀する。それから一週間たつと、おばはんのオペが柴田助教授の手で行われ
 ることになったのだ。そのいずれも勝呂は戸田と一緒に手術助手として立ち会うことを
 命ぜられていた。
・「先生、この娘の手術、大丈夫でしょうか」この頃は黒いモンペをはいた上品な母親が
 いつも田部夫人の病室につきそっている。少し眉をひきしめて母親が言うと、「浅井助
 手は「橋本先生の御手腕も我々の努力もお母さまには、見くびられましたねえ」と笑っ
 た。けれどもこれは本当だった。田部夫人の栄養も心臓も血液数も、そして病巣の位置
 さえ、手術にはベスト・コンデションだったのである。
・木曜日の夜がきた。オペの前夜に看護婦がアルコールで患者の体を拭き、毛剃をするの
 である。勝呂は戸田と大場看護婦長と研究室に遅くまで残ってオペに必要な写真を揃え
 なおした。
・金曜日の午前十時、田部夫人を乗せた運搬車が看護婦と母親に押されてゆっくりと進ん
 でくる。 
・手術中は二十度の温度を保っていなければならないので、部屋は既にむんむんとしてい
 る。床には埃と手術中の血をたえず洗い落す水が軽い細かな音をたてて流れている。二
 人の看護婦が田部夫人の裸体を折り曲げるように持ち上げて手術台の上に乗せる。
・「では始めます」一同は患者とおやじの方に向ってしずかに頭をさげた。「メス」差し
 出された電気メスを手袋をはめて右手で鷲づかみすると、おなじは少し前にかがんだ。
 ジュウという音が勝呂の耳に聞こえた。筋肉が電気にはじけて焼ける音なのだ。
・長い時間たたった。突然、田部夫人が呻きはじめた。まだ半ば意識が残っているらしか
 った。「苦しい。母さま。息が苦しい」
・おやじの額に汗が更に流れはじめ、看護婦長が幾度も背伸びしてそれを拭う。
・田辺夫人の血液が突然、黒ずんだのに勝呂は気がついた。瞬間、なにか不吉な予感が胸
 にこみ上げてきた。だがおやじは黙々と僧帽筋を切っている。血圧を調べている看護婦
 も何も言わない。浅井助手も無言である。
・「イルリガートルは大丈夫か?」彼は気がついたのである。血が黒ずみ始めたことは患
 者の状態がおかしくなってきた証拠なのだ。出血が多量なのだろうか。
・「異常は?」「血圧が・・・」突然、若い看護婦がうろたえた声をあげた。「血圧が下
 がってきました」 
・「酸素吸入器を・・・」と浅井助手がヒステリックに叫んだ。「早くするんだ」
・「ガーゼを早く」血をガーゼで拭きとり、塞いだが、出血はとまらない。おやじの手の
 動きが早くなった。「血圧は?」「下がっています」その時、苦痛に歪んだおやじはこ
 ちらをむいた。それは泣きだしそうとする子供の顔に似ていた。「血圧」「駄目です」
 と浅井助手が答えた。既に彼はマスクをかなぐり捨てていた。
・「死にました」脈を計っていた看護婦長が力なく呟いた。
・おやじは茫然としたように立っていた。だれも口をだす者はいなかった。
・「先生」浅井助手が呟いた。「後始末をつけなければ」「後始末?・・そうか・・本当
 にそうだったな」「どうします。兎も角、縫い合わせはやっておきましょう」
・田部夫人の顔は凹んだ眼をクワッと見開き、白痴のように開いた大きな口の中に赤い舌
 をのぞかせながら、こちらを凝視めていた。死体が眼を大きく開いているのは手術中、
 苦しんだ証拠である。その腹部にも手にも顔にもべっとり血がとび散っている。
・勝呂は、膝の力が全く抜けてしまったように床にしゃがみこんだ。
・浅井助手がおやじに代わって布団のように切り裂いた死体を縫った。その体を看護婦長
 がアルコールでふきはじめた。 
・「繃帯で包むんだ」浅井助手が高い声をあげた。「全身を繃帯で包むんだ」おやじは椅
 子に腰をおろして床の一点をぼんやりと見詰めていた。
・「患者の体は病室に運ぶ。家族には手術の経過を一切言わぬこと」浅井助手はかすれた
 声でそう言うと、一同を見まわした。その一同は怯えたように背を壁に向けて立ってい
 た。
・「病室に帰ると、すぐリンゲルを打つ。その他、術後の手当てはみんなする。患者は死
 んではいない。明朝、死ぬことになるんだ」その声は、既に研究室の浅井助手がいつも
 響かせる、あの甘い高い声ではなかった。
・運搬車に死体を乗せて白布をかぶせると、若い看護婦がよるめきながら車を押した。
 彼女には押す力もなくなったようだった。
・廊下で田部夫人の母親や姉らしい人が蒼白な顔をして駆け寄ってきた。
・「手術は無事終わりましたよ」浅井助手はつとめて平静を装うとして苦しそうに微笑し
 たが、声はかすれていた。大場看護婦長が家族たちの体を運搬車からできるだけ遮ろう
 と中にはいった。
・「しかし、今晩が山ですね。油断は禁物ですから明後日まで面会は禁止です」「あたし
 たちもですか?」と姉らしい人がとがめるように叫んだ。「お気の毒ですけれどねえ。
 今日は看護婦長もぼくも徹夜で看病しますよ。安心してください」
・病室の戸は開いたままだった。たった今、血圧計を計っていた若い看護婦が泣き出しそ
 うな顔で走ってくる。この娘は浅井助手に命ぜられた演技をどうやって演じてよいか、
 わからなかったらしい。
・戸口で大場看護婦長が注射箱を受け取る。彼女だけが能面のように無表情だった。長い
 経験から、こんな時、何をどうすればよいか心得ているのは彼女だけである。
・顔を上げると、柴田助教授が彼の顔を見つめた。「オペは成功したの?」勝呂が首をふ
 ると、一瞬、助教授の肉のおちた頬にゆっくりとうすい嗤いが浮んだ。「死なしちゃっ
 たか。仕方がねえなあ。いつだね」「第一肋骨」「そうか。おやじも年をとったな」
・ほんまに、ほんまにコメディやったなあ」「そや。浅井さんも考えたもんや。オペ中、
 患者が死ねば、おなじの腕の全責任や。しかし、術後に死んだとすりゃあ、これは執刀
 者の罪やないからな。選挙運動の時にも弁解できるやないか」と戸田は勝呂に言った。
 

・手術の失敗は当事者たちの沈黙にもかかわらず、地面にしみる汚水のように教室にも病
 棟にも拡がっていた。看護婦室でも研究室でも、二、三人が集まると当分、おの噂でも
 ちきりだった。
・田部家では大杉部長の親類の手前、流石に表だって講義してこなかったが、故部長に育
 てられた内科系の教授連は、第一外科が内科の意見を押し切って強引に手術を早めたか
 らだと、非難しているらしい。いずれにせよ部長選挙でおやじが推薦される望みは、こ
 れで殆んどなくなったようである。
・柴田助教授が思い出したように、おばはんの手術を二、三カ月延期すると告げたのは、
 田部夫人が死んでから三日目のことである。「手術死を二度、重ねりゃ、第一外科の面
 目は丸潰れだからなあ」と助教授は肉の落ちた頬を歪ませて笑ったが、勝呂はそれを遠
 い世界のことのように聞いた。
・おやじは近頃、ほとんど研究室に来なくなった。週二回の回診は彼に代って柴田助教授
 がやるようになった。オペは失敗したとはいえ、おやじが姿を見せなくなると、研究室
 も看護婦室も病棟も、すべてがだらしなく乱雑になってくる。破れた窓にも廊下にも白
 い埃がたまり、付添婦たちは仕事を怠り、患者も安静を守らなくなった。
・「日本もこの第一外科も、もうガタガタやな」戸田は火のない部屋の中で足踏みをしな
 がら自嘲する。 
・その頃、勝呂はもう一度、トラックで運ばれたアメリカ人の捕虜を、第二外科の入口で
 見た。二人の若い兵隊があの時と同じように拳銃を腰にさげて車のドアにたっていた。
・捕虜たちを見て一週間ほど過ぎた昼すぎ、久しぶりでF市に長い空襲があった。いつも
 より敵機の数も多かったから、病院でも患者のうち歩ける者は歩かせ、それが出来む者
 は担架に乗せて地下室に避難させた。
・高射砲の炸裂する音がバアン、バアンと聞こえてきた。灰色の雲の中をB29が鈍い眠
 い音をたてて何時までも飛んでいた。
・まだ真っ暗な朝がた、看護婦に起された。おばはんが死んだのである。勝呂が改鋳電燈
 で照らすと、 おばはんは顔を横にして息を引き取っていた。
 

・おばはんの死んだ夜、研究室で寝ていたためか勝呂は風邪をひいた。体にも熱があるら
 しく非常にだるい。
・「柴田先生が呼んでおられます」そんなある日、看護婦がドアから顔をだして声をかけ
 た。
・体のだるさを我慢しながら戸田と第二研究室に入ると、柴田助教授と浅井助手との横に
 太った赤ら顔の医官が丸腰のまま腰をおろしていた。
・助教授は回転椅子を軋ませながら、しばらく脚をぶらぶらと動かしていた。浅井助手は
 立ちあがると背をこちらに向けて窓の外を眺めた。二人がなにか言おうとして、その機
 会を探しているのが戸田にも勝呂にもわかった。
・「いやね、いずれ、おやじから、明日にでも話があることだがね。実は・・・」と彼は
 話はじめた。「実は君たちにも参加してもらうか、どうか、随分、相談したんだが」そ
 う言って彼は口を噤んだ。「実際、これは滅多にないことだからね。医学者として、つ
 まり、ある意味じゃ、一番願ったりの機会なんだから・・・」
・「オペですか」と戸田がたずねた。「先生が我々に加われと言われるのは」「強制して
 いるんじゃない。ただ、承諾しなくても、これは絶対、秘密にしてもらわねば困るぜ」
 「何です。それは」「アメリカの捕虜を生体解剖することなんだ。君」
・俺は何故、この解剖に立ち会うことを言いふくめられたのだろうと勝呂は眼がさめた時、
 考える。言いふくめられたというのは間違いだ。たしかにあの午後柴田教授の部屋で断
 ろうと思えば俺は断れたのだ。それを黙って承諾してしまったのは戸田に引きずられた
 ためだろうか。
・「奴等、無差別爆撃をした連中ですよ。西部軍では銃殺ときめていたんだから、何処で
 殺されようが同じことですな」小太りに医官が笑っていた。
・解剖と実験の過程は次の通りである。
 一、第一捕虜に対して血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調査
   す。 
 二、第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査す。
 三、第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査す。
・第一捕虜に対して行う実験は戦争医学にどうしても欠くべからざる要請だった。普通、
 血液に代用される生理的食塩水は蒸留水100に対して食塩0.95パーセント混合し
 たものである。この代用血液を輸血を必要とする患者にどの程度まで注入することがで
 きるか、これは人体を対象とした場合、まだ不明瞭なのである。大体二リットルや三リ
 ットルは大丈夫と言われているがそれ以上はわかっていない。
・第三捕虜に対する実験こそ肺の外科医がどうしても知りたい問題である。成形手術より
 更に望ましい肺の切除療法は東北大の関口博士や大阪帝大の小沢教授によって行われた
 ことがあるが、問題の一つは気管支の端をどの程度まで切ってよいかと言うことである。

裁かれる人々
看護婦
・家庭の事情で二十五歳の時、やっとF市の看護学校を終えたわたしは医大病院で働くよ
 うになりました。その年の夏、この病院で盲腸を手術して寝ていた上田と知り合ったの
 です。
・ある日、上田は突然、私のお腹に顔をこすりつけて手を握ってきました。今でもなぜ、
 その時わたしが承諾したのか、わかりません。二十五歳という婚期におくれた年齢が急
 に頭に浮んできたし、満鉄の社員だという上田の地位のことも考えたようです。それ
 に恥ずかしいことですが、わたしはその頃、ひどく子供がほしかったのです。
・式がすむとすぐ下関から船で大連にむかいました。上田が満鉄のF市出張所から大連の
 本社によび戻されていたのです。 
・はじめの頃、わたしはこの植民地の街をめずらしく思いました。手入れの行届いたアカ
 シアの並木もロシア風の建物も薄汚い日本の街とはちがっています。軍人も市民も日本
 人であれば肩で風を切って歩き、すべてが活気にみちていました。
・「満人はどこに住んどるの」と上田にたずねると、「街のはずれで」と彼は笑いながら
 「そらあ、穢い所だぜ。大蒜臭うて、お前にゃとても通れんぜ」
・上田の言う通りこの街に来て二カ月もたたぬ内、わたしは日本人として一番はじめに覚
 えねばならぬことが満人に対する態度だとわかってきました。叩かねばすぐ怠けるのが
 満人の性格だと上田も言っていました。一周に三度、わたしの家に女中代わりにアマが
 来るようになると、やがてわたしも彼女を理由もないのに撲るようになれました。
・街のうつくしさ、物価の安さが、わたしをすっかり満足させ、その満足を上田に対する
 満足だと考えていました。
・四月、私は満鉄病院でお産を待っていました。この病院には満鉄社員の家族はほとんど
 無料で入院でるから早く入るのが利得だという上田の言葉を真に受けたのです。赤ん坊
 もほしかったし入院させて女を家に連れ込まれているとは夢にも考えていませんでした。
・お産のことは今日、思い出すだけでも辛くなります。赤ちゃんはどうしたことか、私の
 お腹の中で死んでいたのです。子供の顔も、体も、遂に見ることはできなかったのです。
 看護婦学校を出たわたしは、この死産がどういう結果になるかをぼんやりと感じていま
 したから医者にも泣いて頼んだのですが、結局、母体を救うため女の生理を根こそぎえ
 ぐりとらねばなりませんでした。
・「心配することあらへん」上田は象のように細い眼で笑いながら言いました。今、考え
 ると彼は子供が死んだためにかえって、わたしと別れやすくなったと心中、悦んでいた
 のかもしれません。
・その言葉をきいていると突然わたしは彼が女を作っているのだなと気がつきました。け
 れども不思議に怒りの気持ちも嫉妬の情も起こりませんでした。
 ・それから二年後、わたしは上田と別れました。気持ちの上では勿論、生理的な欲望の
 点でも、この男に執着はありませんでした。子供を産めないという諦めがわたしの性欲
 まですっかり消していたのでしょう。それにも拘わらず、その後二年もの間、彼と生活
 したのは、むしろわたしの弱さ、世間体だけのためと思います。こんな植民地の街で男
 に棄てられて内地に帰っていく多くのみじめな女の一人になりたくなかったのです。
・F市に戻ると、戦争はすっかり南の方まで拡がっていて、街は軍人や職工であふれてい
 ましたが、生活は苦しくなる一方で大連を思い出すと、まるで天と地のような違いです。
 兄も義姉も出戻りのわたしを見ていい顔をしませんし、わたしもわたしで勝気なもので
 すからカッして大学病院に看護婦として働くことがきまると、彼等の家を飛び出しまし
 た。医学部に近いささやかなアパートに部屋を借りたのです。
・たしかにあの頃、橋本部長はわたしにとって職業的な先生という以外、なんの関心もな
 い老人でした。一人の看護婦にすぎぬわたしから見ますと教授や助教授という偉い先生
 たちは階級だけでなく、生まれまでちがう別世界の人のような感じがするものです。
・そんな看護婦の一人にすぎぬわたしを橋本部長に結びつけるのは皮肉なことに彼の妻ヒ
 ルダさんでした。ヒルダさんは橋本部長がドイツの大学に留学していた頃、やはり看護
 婦をしていた女です。この二人の恋愛はむかし看護婦学校にいた時、わたしはきいた記
 憶がありました。
・毎月三回、ヒルダさんは定期的に病院にやってきます。バスケットをかかえて大部屋に
 はいります。施療患者たちの汚れた下着を集め、その汚れものを次に来る時、すっかり
 洗濯して手渡すのです。それがヒルダさんの献身的な仕事でした。
・本当をいえば、こうしたヒルダさんの慈善はわたしたち看護婦には有難いことではなか
 ったのです。大部屋の患者たちだって迷惑なことだったでしょう。大部屋には空襲で家
 族を失った身寄りのない老人や老婆が多いのですが、彼等はこの西洋人の婦人が自分た
 ちに話しかけてくれるだけでも固くなってしまいます。その上、古びた行李や信玄袋か
 ら、ヒルダさんが汚れた腰巻などを引きずりだすと、あわててベッドから這いおりるの
 でした。滑稽なことにヒルダさんは病人の恥ずかしさや気詰まりに気がつかないようで
 した。わたしたち女の看護婦はいい気なもんだと考えていただけです。
・私が急に橋本先生に興味をもちはじめたとしても、それは勿論上役である彼に対してで
 はありません。彼があのヒルダの夫だからです。診察着に両手を入れて、病室の前に並
 んだ看護婦の前をこの老人が通りすぎる時、私はその診察着に小さな煙草のこげあとが
 ついているのさえ見逃しませんでした。先生の髪にはもう白髪がまじっています。老け
 て、くたびれた顔、頬の肉がたるんでいるのです。こんな男をあの青年のようなヒルダ
 さんがどうして愛するのでしょう。
・その日は二回の個室にいる若い人妻が手術をするというので看護婦室はガラ空きでした。
 わたし独りだけが宿直室で血沈表の整理をしていたのです。「一寸、来てつかあさん」
 大部屋に寝ている老人がボロボロの寝巻を着たまま顔をのぞかせました。「前橋さんが
 苦しんどりますけん」 
・大部屋に行くと、五、六人の患者にかこまれた中で、前橋という女は眼をひきつらせて、
 胸をかきむしって苦しんでいました。看護婦のわたしが見ても自然気胸をおこしたこと
 はハッキリしていました。 
・研究室に走っていきましたが助手に浅井さんも戸田さんも勝呂さんもみな手術に立ち合
 っています。手のあいているのは助教授の柴田先生だけですが、その柴田先生もどこに
 も見当たらなく、早く空気を抜かねば病人は窒息してしまいますから私は手術室に電話
 をかけたのです。
・「浅井先生いる?」受話器に出た河野看護婦にわたしは早口にたずねました。受話器の
 奥でなぜか知らないがサンダルの駆け回る音が聞こえました。わたしは不思議な気がし
 ましたが、それは普通の時は手術室は気味のわるいほど静かだからです。
・「何なの、君」突然、怒ったような浅井さんの声が耳もとに響いてきました。ひどく動
 揺しているような声です。「大部屋の前橋トキが自然気胸を起したんですけれど」「そ
 んなの、知らんよ。忙しいんだぜ、こちらは。ほっときなさいよ」「でも、ひどく苦し
 んでいますけれど」「どうせ助からん患者だろ。麻酔薬うって・・・」
・どうせ死ぬ患者だろ、という彼の声が心に浮びます。私は麻酔用のプロカイン液のはい
 った瓶と注射針を持って大部屋に戻ったのですがその時病人のベッドの金具をスボンを
 はいたヒルダさんが握りしめているの見ました。
・「気胸台を早く。看護婦さん」と彼女は叫びました。むかしドイツで病院に勤めていた
 という彼女は前橋トキが自然気胸を起したことを一目で見てとったのでしょう。突然彼
 女はプロカインの瓶と注射針に視線をやり、顔色を変えました。突き飛ばすようにわた
 しを押しのけると、ヒルダさんは大部屋を走り出て気胸台を探しにいきました。
・「なぜ、注射しようとしました」戸口の所でヒルダさんは男のように腕を組み、私を難
 詰しました。 「死なそうとしたのですね。わかってますよ」「でも・・・」床に視線
 を落としたまま、わたしはくたびれた声で答えました。「どうせ近い内に死ぬ患者だっ
 たんです。安楽死させてやった方がどれだけ、人助けか、わかりゃしない」ヒルダさん
 は右の手ではげしく机を叩きました。
・その夜、私は夜勤でした。真夜中、病院を出てアパートに帰ろうとしますと、真っ暗な
 病院の構内を浅井先生が歩いているのにぶつかりました。「先生、手術は」いつもお洒
 落の彼が縁なしの眼鏡を鼻の先にずり落としているほど酔っていました「殺しちゃった
 よ」「殺したんですか」「家族にはまだ秘密だけどもねえ。おやじの腕ももう駄目だな」
・その晩、浅井さんは私の部屋に泊まりました。こちらはどうでも良いことでした。 
 「かえってスゴいんだぜ。聖女づらした女はね。あの体格をみなさいよ。君ひとつ、部
 長を誘惑してみない?ヒルダの鼻をあかしてやれよ」
 だが浅井さんに体をいじられても、わたしにはなんの悦びも感覚もありません。わたし
 は眼をとじ橋本先生が今日手術で患者を殺したことをヒルダさんにどう話ているかを考
 えました。ヒルダさんの白い手やそのブラウスから漂う石鹸の香りを思い出し、その香
 りに反抗するためだけに浅井さんに抱かれました。
・翌日、病院に行きますと、その浅井さんが昨夜とはうって変わったような冷たい表情で
 私を呼び止めました。「君、大部屋の患者をどうしたの」「自然気胸を起した女だよ。
 ヒルダさんから電話があったぜ。君をやめさせろと言うんだ」「わたしは先生がおっし
 ゃったように・・・」「先生?ぼくがか。ぼくは何も言いはしない」
・もう、どうにでもなれ、という気持ちでした。浅井さんも浅井さんだが、電話をかけて
 わたしをやめさせようとしたヒルダさんが憎かった。自分一人が聖女づらをするために
 病院の患者や看護婦がどんなに迷惑を蒙っているのか、あの女は気づかないのです。彼
 女が母親であり聖女ならば、女の整理を根こそぎえぐりとられたわたしは浅井さんと寝
 る淫売になってもかまわないと思いました。
・一カ月間、病院にも行かずアパートのガランとした部屋にいるのは辛かった。そんなあ
 る夜、浅井さんがまた、たずねてきました。「話があるんだがね」「あたしでも手伝う
 ことが、あるんですかねえ。患者を殺そうとした看護婦よ、わたしは」
・米国の捕虜を手術するという話をきいたのはその夜です。第一外科では部長も柴田先生
 も研究生の戸田さん、勝呂さんも立ち会うのだが、手伝う看護婦がいないと言うのです。
 「だから、わたしの所に来たというのね」わたしはひきつった声で笑いました。
・日本が勝とうが、負けようが、わたしにはどうでもいいことでした。医学が進歩しよう
 がしまいが、どうでもいいことでした。
・あの夕暮、看護婦室で神さまがこわくないかと叫んだヒルダさんの言葉を思い出して、
 私は微笑しました。それは少し勝利の快感に似ていました。自分の夫がやがてなにをす
 るかヒルダさんは知らない。けれども、私は知っています。
・その夜、浅井さんに抱かれながら、わたしは眼を開けて太鼓の音のような暗い海鳴りを
 聞いていました。ヒルダさんの石鹸の香りがまた蘇ってきました。彼女の右手、うぶ毛
 のはえた西洋人の女の肌、あれと同じ白人の肌にやがてメスを入れるのだとわたしは考
 えました。

医学生
・長い間、ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の呵責とは、
 子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけだったからである。
 勿論、自分が善人だとは思いもしなかったが、どの友人も一皮むけば、ぼくと同じだと
 考えていたのだ。偶然の結果かも知れないがぼくのやった事はいつも罰を受けることは
 なく、社会の非難をあびることはなかった。
・たとえば姦通という罪がある。この罪だってぼくは五年前、浪速高校の理科にいた年頃
 で既に犯していたのだ。それなのに、ぼくはそのために傷つくことも裁かれることもな
 く平然として生活している。一人の医者の卵として毎日、研究室に通い、患者を診察し
 ている。
・あの姦通を犯した時もぼくは決して自分が破廉恥だとも裏切者だとも思わなかった。多
 少後ろめたさ、不安や自己嫌悪はあったが、それもこの秘密がだれにも嗅ぎつけられな
 いとわかると、やがて消えてしまった。ぼくの姦通の相手は従姉だ。今、彼女は二人の
 子供の母親だから、名前もだすまい。
・女学校を出ると、すぐに結婚してしまったから長い間、会わなかった。彼女の夫という
 のは大阪の私立大学を出て、大津の問屋に勤めている男だった。浪速高校にいた夏休み
 だ。急に思い立って大津の彼女の家をたずねてみた。行ってみてぼくはひどく幻滅した
 のである。従姉はすっかり世帯やつれのした女に変わっていた。結婚して二年にもなら
 ないのに、生活に追いまくられてひどく疲れた表情をしていた。
・襖ごしに従姉夫婦の争うひくい声が聞こえる。従姉は甲斐性のない夫を口汚く罵ってい
 るのだった。「しっかり、してよ。今の店、やめたって新しく勤める所なんかないやな
 いの」
・「ツマらない。ほんとにツマらない」夫が朝、勤めに出かけると従姉はべたっと脚を横
 にだして、おくれ毛をかき上げながら溜息をついた。「やっぱり、女はちゃんとして大
 学出と結婚すべきねえ」
・その夜、従姉の夫は店の宿直とかで、戻らないことになっていた。従姉とわびしい夜の
 食事がすむと、もう二人はすることがない。十時近くまで彼女の長い愚痴をきかねばな
 らなかった。真夜中、ぼくは彼女が泣いているのを耳にした。
・その夜は特にむし暑かった。「剛さん、そこに行っていい」襖ごしに従姉がかすれた声
 で言った。「頭がひどく痛むんよ」長い間、好奇心をもって考えていた情欲が、こんな
 に索漠とした空虚なものとは知らなかった。「誰にも言うたら駄目よ。それを約束する
 なら、なにをしてもええわ」と従姉は言った。ぼくはなんの悦びも感動もなく童貞を失
 った。
・これがぼくの犯した姦通である。従姉は今、二人の子供の母親なのだ。彼女はあの晩の
 ことをどれほど苦しんだか、どうか知らない。(おそらく苦しみはしなかったろう)確
 かなことはそれを今日まで夫に告白しなかったことだ。相手もまた何も気づいていない
 ことだ。気づかれなかったために従姉は妻として母親として、ぼくは平凡な学生として
 今日まで社会で通ってきたのである。
・姦通だけではない。罪悪感の乏しさだけではない。ぼくはもっと別なことにも無感覚な
 ようだ。今となっては、これを打明ける必要もあるだろう。はっきり言えば、ぼくは他
 人の苦痛やその死に対しても平気なのだ。
・病室で誰かが死ぬ。親や姉妹が泣いている。ぼくは彼等の前で気の毒そうな表情をする。
 けれども一歩、廊下に出た時、その光景はもう心にはない。
・佐野ミツに対しても、ぼくが烈しい責任感さえ感じなかったのはそのためなのだろうか。  
 ミツは僕の世話をしてくれた女中だった。佐賀県から出てきた娘で、当時、医学部の三
 年生だったぼくはこの女中と一緒に小さな家を借りていた。
・そのミツがある日、洗面所で吐いているのを見た時、ぼくはみじめなほど狼狽した。彼
 女の生涯を気つけたたという気持ちよりは子供が生まれては大変だという不安がぼくの
 頭にまず浮んだのだった。産婦人科の仲間を誤魔化して借りてきた子宮ゾンデを使って、
 自分の手で胎児を掻爬したのである。局部をよく見るために僕は懐中電燈を一つだけ頼
 りにして汗まみれになりながら血まみれの小さな塊を引き出したのだ。こうした不始末
 を他人に知られまいという気持ち、一生をこんな娘のために台なしにしたくないという
 ことだけがぼくの念頭にあった。血の気の失せた顔を壁にもたせて 、歯を食いしばって
 我慢しているミツの苦しみにぼくはそれほど心をうたれてはいなかった。今、考えても、
 あの不潔な不用意な方法でよく彼女が腹膜炎を起さなかったと思う。
・一カ月ほどたってぼくはミツを故郷に帰した。食事つきの下宿にうつるから、もう女中
 はいらなくなったのだと口実を作ったのである。本当を言えば二度とこの娘を見たくな
 かったのだ。三等車がすべりだした時、ミツはいつまでも窓に小さな顔を押し当てた。
・そして一昨日も柴田助教授と浅井助手とがぼくたちにあの行為をうちあげた時、ぼくは
 火鉢の中に燃えている青白い火を眺めながら考えていたのである。(これをやった後、
 俺は心の呵責に悩まされるやろか。自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人
 間を生きたまま殺す。こんな大それた行為を果たしたあと、俺は生涯くるしむやろか)
・僕は顔をあげた。柴田助教授も浅井助手も唇に微笑さえ浮かべていた。(この人たちも
 結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会に対する
 罰に対してだけだ。自分の良心にたいしてだけではないのだ)
 
午後三時
・(今日だな。いよいよ今日だな)勝呂は自分にその言葉を言いきかせようとした。だが
 今となってはなんの興奮も感慨も起きてこなかった。心はむしろ、不思議なほど落ち着
 いている。
・校門の所で、向うから来る大場看護婦長に出会った。たしか彼女も今日の解剖に立ち会
 う筈である。モンペ姿の彼女は勝呂を能面のような無表情な顔でチラッと見つめたが、
 すぐ眼をそらして肩を落として先を歩いていった。
・重苦しかった気持ちは二人がやがて二階の手術室にのぼっていった時、思いがけなく崩
 れてしまった。実際、廊下には明るい笑い声がひびいていたからだ。戸田も勝呂も見知
 らぬ四、五人の将校たちが窓際によりかかり、煙草をふかしながら大声で談笑していた
 のである。それはまるで将校集会所の席でも待っているような様子だった。
・その時浅井助手が眼鏡を光らせながらゆっくりと廊下の向うから歩いてきた。彼は将校
 の群に向かって例の微笑をつくりながら、「捕虜はただ今、到着しましたよ」と女性的
 な声で言った。
・やがて無影燈のともった手術室の床に患者の血を流す水が乾いた細かい音をたてて流れ
 はじめた。浅井助手も戸田も黙ったまま上衣をぬぎ、靴をとり、白い手術着と木のサン
 ダルをつけはじめている。
・戸を開けて能面のような表情をした大場看護婦長が上田という看護婦を連れてきた。彼
 女たちも二コリともせず、無言のまま戸棚を開け、メスや鋏や油紙や脱脂綿を硝子台の
 上にそろえはじめた。
・勝呂には大場看護婦長は兎も角、この上田という看護婦がなぜ、今日の解剖に加えられ
 たか、わからない。この看護婦は病室に来て日も浅く、勝呂も大部屋を回診する時まれ
 に顔を合わせたことがあるが、いつもどこか一点を見詰めている暗い感じのする女だっ
 た。
・勝呂は壁にもたれて、押し込まれるように入って来た背の高い痩せた捕虜を見た。それ
 は彼がいつか、あの第二外科の入口であった数十人の米兵と同じように草色の身に合わ
 ぬ作業服を着た男だった。彼は手術着を着た勝呂たちを見ると困ったような微笑をうか
 べた。
・「勝呂君、麻酔マスクを用意してくれ」「俺は駄目だ。浅井さん」勝呂は泣きそうな声
 で言った。「出してください。この部屋から」縁のない眼鏡の上から浅井助手は勝呂を
 じろっと見上げた。けれども彼はなにも言わなかった。「ぼくがやります。浅井さん」
 戸田が勝呂に代って十文字の針金を渡した。マスクを顔の上にのせる。エーテルの液体
・をたらす。捕虜が左右に首をふってマスクをはずそうとした。
・「バンドをしめるんだ。バンドを」大場看護婦長と上田看護婦がのしかかるようにして
 手術バンドで捕虜の足と体を縛った。
・「こっちへ来て手伝わんかいな」突然戸田はひくい声で促した・「俺あ、とても駄目だ」
 と勝呂は呟いた。「今、ここまで来た以上、もうお前は半分通りすぎたんやで」「俺た
 ちと同じ運命や」戸田は静かな声で言った。
 
夜のあけるまで
・午後三時、白い手術着を着こんで顔を半ばマスクで覆ったおやじと柴田助教授が、将校
 にとり囲まれながら姿をあらわした。
・「脳の摘出はやりません。明日、権藤教授が別の捕虜に実験なさるそうです」「本日の
 捕虜に対する実験は簡単に申しますと肺外科に必要な肺切除がどの程度まで可能か、ど
 うかを調べることにあります」浅井は甘ったるいこえで手術室の壁に反響してキンキン
 と響いている間、おやじは背をまげてじっと床を流れる水を見下ろしていた。その落ち
 た肩が妙にうすくわびしかった。
・大場看護婦長だけが無表情な顔でマーキュロ・クロームを手術台に横たわる捕虜の体に
 ぬり続けている。戸田は今はじめてのようにこの捕虜が白人であったこと、日本軍に捕
 らえられた米軍の兵士であることを、今はじめて、その金色のうぶ毛のはえた白い広い
 腹を見ながら考えていた。
・「はじめますかな」血圧計を調べていた柴田助教授がおやじに声をかけた。床をじっと
 見詰めていた おやじは突然、体をゆがめて背いた。「はじめるそうです」浅井助手が
 叫んだ。
・電気メスを右手に握ると、オヤジは捕虜の体にかがみこむように近づいた。戸田は背後
 でジーッという八ミリ撮影機の廻る鈍い音を聞いた。第二外科の新島助手が解剖の過程
 を撮りはじめた音だった。 
・戸田は不思議な気持ちの捉われていった。(これが人間を殺している俺の姿や。この姿
 が一つ、一つフィルムの中にはっきりと撮られていく。これが殺人の姿なんかな。だが、
 後になってその映画を見せられたとき、別に大した感動が起きるやろか)
・電気メスを握るおやじの動きにも、コッフェルをとめている浅井助手、立会いの柴田助
 教授、ガーゼや器具をそろえている大場看護婦長の動作にもどこか、投げやりな、のろ
 のろしたところがあった。
・首をうしろに廻して、背後にかたまっている将校たちの群をそっと窺うと、左端の眼鏡
 をかけた若い将校が顔を横にそむけ蝋のように真白くなっている。初めて見た人間の内
 臓の生々しい模様に貧血を起したものらしい。その隣りのチョビ髭の中尉の顔は汗と脂
 で光り、口を馬鹿のようにポカンとあいていた。
・手術台の捕虜が烈しくせき込みはじめる。気管支の中に分泌物が流れこんだのである。
・骨の砕けるにぶい音と、その骨が手術皿に落ちる高い音とが手術室の壁に反響した。エ
 ーテルが途切れたのであろう、突然、捕虜が低く暗い呻き声をあげた。
・一人の若い将校が、ふいにこちらをむいて、手術着を着たまま自分たちの背後に立って
 いる勝呂を怪訝そうに眺めた。その眼は急に勝呂を詰問するような憤怒の色に変った。
 (怖しいのだな、貴様)とその眼は言っていた。
・その視線を額に痛いほど受けながら、勝呂はここにいる全員にとって自分が役にもたた
 ぬ一医員としかうつらなぬこと、手術の不参加を助教授に断れなかった無力な男だった
 ことに気がついた。
・「捕虜の左肺は全部とり、唯今、右肺の上葉を切断中です。従来の実験では両肺は二分
 の一以上、同時に切れば即死ということになっております」浅井助手の声がキン、キン
 と響いた。
・おやじは黙って死体を見おろした。彼の手にはめた血まみれの手袋には、まだ、光った
 メスがかたく握られていた。そのおやじの身を突き飛ばすように、大場看護婦長が割り
 込むと白い布で死体を覆った。おやじは一、二歩、よろめくように後退したが、そのま
 ま床にたったまま動かなかった。
・将校たちが去ったあと、大場看護婦長がそっと手術室から顔を出した。廊下にはだれも
 いないことを確かめると、彼女は上田看護婦と、白い布でなにかを覆った担架車を運び
 出した。
・勝呂は心の中で、呟いた。(お前は自分の人生をメチャにしてしもうた)だがその呟き
 は自分に対して向けられているのか、だれかに対して言ってよいか、彼にはわからなか
 った。
・「戸田君」浅井助手はまた唇に謎のような微笑をうかべると、手術皿を持った戸田の腕
 を押えた。「話があるんだがね。君、大学に今後、残りたい気持ちはないの」
・「よく考えてくれ給えよ。いいかい。君、おなじなんか、もう駄目なんだ。今後は柴田
 助教授とぼくとが組んで第一外科を立て直すつもりなんだよ。だから、ぼく等と手を握
 ってくれれば君の副手推薦なんでチョロいものですよ。それに第一、今日のことでぼく
 等は今後、一心同体にならなくちゃ、たがいに損だからねえ」
・人影のない廊下を浅井助手が去ったあと、戸田は手術皿を手にしたまま、妙に深い疲労
 を感じていた。 
・夕闇が既にその廊下をつつんでいる。土田は歩きかけて、向うの階段に響く固い足尾と
 を聞いた。その足音は階段をゆっくりと登ると、この手術室の方向に進んでくる。廊下
 の窓に体を寄せて戸田は夕闇の中に診察着を着た一人の男が夕顔のように白く近寄って
 くるのをぼんやりと眺めていた。おやじだった。
・戸田がそこに隠れているとは気がつかず、おやじは手術室の前に立止まり、診察着に両
 手を入れたまま、背を曲げて、じっと手術室の扉と向き合っていた。その顔ははっきり
 と見えなかったが、落とした肩や曲げた背や夕闇に光る銀髪は、ひどく老け込み、窶れ
 ているように思われた。ながい間、彼は扉をじっと凝視していたが、やがてふたたび靴
 音を、コツコツといわせながら階段の方に去って行った。
・大場看護婦長と上田ノブ看護婦とを乗せて昇降機は軋んだ音をたててゆっくりと暗い地
 下室に降りていった。 
・この昇降機ったら、嫌な音がするわね」上田看護婦は呟いた。だが壁にもたれた看護婦
 長は眼をつむったまま返事をしない。上田ノブはいつもより看護婦長の顔が痩せこけて、
 頬骨がひどく飛び出しているように思われる。その頭を覆った帽子から幾本かの白髪の
 まじった髪がのぞいているのに気がついてハッとしたのである。
・大場看護婦長は彼女より四年前に入った平看護婦にすぎなかった。同僚から孤立して、
 友だちらしい友だちもなく、表情のない顔で歩きまわる彼女は医者たちから重宝がられ
 たが、仲間からは「点かせぎ」と陰口を叩かれていたものだった。
・(そやけん看護婦長なんかになれたんだわ)ノブは今あらためて自分の上役になったこ
 の女に嫉妬と憎しみとのまじりあった気持ちを感じながら心の中でそう、呟いた。
・上田ノブは口をすぼめて「あたしたち看護婦って、それほど先生に御奉公せにゃいかん
 とですかねえ」それから彼女は独りごとのように呟いてみせた。「あたしなんか、誰か
 さんとちごうて別に橋本先生のためだけで今日の手術ば手伝ったんじゃないですからね
 え」
・その時、ノブの眼には唇を震わせて口惜しそうに何か言いかえそうとする大場看護婦長
 の歪んだ顔が見えた。看護婦長がそんな苦しそうな表情を部下に見せたのは、ノブが病
 院に勤めてから始めてのことだった。
・(あたしの想像した通りやった)ノブの心には相手の急所を遂に突いたという快感がわ
 いてきた。(ああ、イヤらしか。この石みたいな女、橋本先生に惚れとったんだわ)と
 考えた。
・(橋本先生、ヒルダさんに今日のこと言うだろうか。言えないだろうな)ノブはヒルダ
 に勝った快感をむりやり心に作りあげようとする。(ヒルダさんがどんなに幸福で聖や
 かて、自分の夫が今日、何をしたか知らないんだわ。だけど、あたしはちゃんと知って
 るんだから橋本先生が今日、何をしたかはあたししか知らないんだから)
・「なにが、苦しいんや」戸田は苦いものが咽喉元もとにこみあげてくるのを感じながら
 言った。「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治
 療法がわかるとすれば、あれは殺したんやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、
 考えよう一つで、どうにも代るもんやわ」
・「でも俺たち、いつか罰を受けるやろ」勝呂は急に体を近づけて呟いた」
・「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変らんぜ」「俺もお前もこんな時代の
 こんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場にお
 かれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや」