首桶 :野中信二 |
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この作品は、今から23年前の2000年に刊行された「西国城主」という本に収録され ている作品の中のひとつだ。 内容は豊臣秀吉が、吉川経家が城代を務める因幡鳥取城を兵糧攻めにするてんまつを小説 化したものだ。 「兵糧攻め」というと、直接武器を使って殺し合う戦いよりはまだ良心的ではないのかと 思うのだが、この作品を読むとそれはとんでもない間違いで、この兵糧攻めというのは非 常に残酷な戦法であることがよくわかる。 この鳥取城の兵糧攻めでは、鳥取城に籠城した吉川経家側では、兵糧米がすっかり無くな ってしまうと、当時は肉を食べる習慣がまだない時代にもかかわらず牛や馬を食べたよう だ。そして、それらも無くなってしまうと、最後には人肉を食べるまでに至ってしまうの だ。これは人間が人間ではなくなってしまう、まさに地獄絵図の世界だ。 秀吉は、このほかにも、別所長治が籠城した三木城を攻めた際にも、兵糧攻めの戦法をと っている。この時は餓死者が数千人に及んだと言われているようだ。この時も最後には人 肉を食べたということのようだ。 このようなむごい兵糧攻めの戦法を、豊臣秀吉はよく用いたのはよく知られているが、こ の兵糧攻めという戦法も用いたのは、秀吉ばかりではなかったようだ。毛利側においても、 尼子氏の居城である月山富田城を攻めた際に、兵糧攻めの戦法をとり、約五年がかりで落 城させたようだ。この時も、籠城した側はかなり悲惨な状況に追い込まれたようだ。 明智光秀も波多野秀治が籠城する八上城を攻めた際に、兵糧攻めの戦法を取ったようだ。 この時も、籠城した側に四・五百人の餓死者が出たと言われている。 ところで、「人肉を食べた」というのは、なにもこの戦国時代だけではなく大東亜戦争・ 太平洋戦争においても、敗残兵となった旧日本軍兵士において行われたという記録がある ようだ。小説「野火」(大岡昇平著)にはそのことが描かれている。 戦国時代の戦も、近代の戦争も、むごたらしさにおいてはそれほど変わらないのだ。 過去に読んだ関連する本: ・武士の宴 |
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一 ・厳島の戦いで陶隆房を劇的な奇襲で打ち破り、その後、尼子氏を降し、毛利元就は中国 地方に覇を唱えた。 ・その覇権は当分続くかに見えたが、その元就が築いた毛利王国を圧し潰そうとする新興 勢力が出現した。革命児、織田信長である。 その信長軍を因幡で釘付けにするため、吉川経家はいま鳥取城へ向かっているのである。 ・毛利元就亡き後、毛利元就の次男、吉川元春が毛利王国の北にあたる参院地方を担当し ており、元尼子の居城であった富田城にいた。その元春から石見の一地方領主である経 家に、因幡鳥取城の城番としての白羽の矢が立ったのであった。 ・前方に巨大な砂丘が現われた。草木一本もない大砂丘の右手に因幡地方最大の港、賀露 の浜がその全容を現し、に船は無事に入港した。 ・日本各地からの物産が集まってくる山陰の台所らしく、色とりどりの旗を揚げた漁船が 数十隻停泊しており、真っ黒に日焼けした精悍な海の男たちが、荷の積み下ろしに忙し く動き回っている。 ・石見から四百人もの兵を乗せた軍船が湾内に入ると、今まで生き生きと輝いていた彼ら の眼が急に怯えたものになった。 昨年武士たちが勝手に始め、辛酸をなめた戦さが、漁師たちの脳裏をよぎった。因幡攻 略のため鳥取城まで迫った秀吉軍が、鳥取の城を裸城とすべく、領民の家屋を徹底的に 焼き払ってから一年も経っていない。 賀露の浜の付近には、最近建てられたような粗末な掘っ建て小屋のような漁師の民家が、 寄り添うように点綴していた。 ・武具で身を包んだ兵士の姿に、大人たちは驚愕し、おどおどした表情をするが、その態 度とは裏腹に横目遣いで見つめる眼差しは憎悪の光を放っていた。 ・去年の鳥取城下からの戦火が、城から離れているこの浜周辺の漁村にも広がり、ここら 一帯は焼け野原と化し、やっと今年になって家屋も粗末ながらぽつぽつと建ち始めたと ころであった。その束の間の平和な生活を脅かす者はいつの時代も、自分たちの都合で 戦っている武士のであった。 ・武士は百姓の米を取り上げるだけで、領民を守ってくれない。いつも勝手な時に戦さを 始め、その犠牲になるのは、弱者の百姓や漁民である。彼らの冷ややかな目はそれを訴 えていた。 ・経家は尼子攻めで、戦争そのものが持つ悲惨さを嫌というほど眼にしており、彼らの心 の奥底に残り火のように燃え続けている怒りを、十分にわかっているつもりだった。 経家は、自分は彼らの味方であり、この国を侵さんとする織田軍を撃退するために来た ことを説明しようとした。 ・彼らは、経家の誠実そうな動作や表情を恐る恐る窺った後、昨年の秀吉勢とは異なり、 危害を加えそうでない様子を見ると、怯えていた眼にやっと安堵の色が広がった。 ・鳥取城からの出迎えの兵であろう、色とりどりの武具を身に付けた兵たちが、馬上の指 揮官のもと、列を乱さず静かに近づいてくるのが目についた。 ・「一つお訊ねしたき儀がござる」 中村春続が大柄な体を後ろへ振り向けながら、経家に声をかけた。 「その従者の持たれている白木造りの物は何でござろうか」 ・「これは愚父よりの選別の品でござってな、某の首桶でござるよ」 経家は軽く自分の首を叩きながら、頬を赤らめて恥じらいながら言った。 ・「さすが元春殿が見込まれた人だわい」 春続は納得した様子で、何度も首を振った。 「皆の者よく聞け、今度の御城番様は、ご自身の首桶をご持参でござるぞ」 まるで自分一人でこの爽快さを独占するのを惜しむかのように。 ・鳥取城から出迎えの兵たちは、この大声に一瞬水を打たれたように静まり、やがてざわ めきが起った。 「今度こそ頼り甲斐のある御城番様が来られたぞ」 ・石見福光の城主である吉川経家が、因幡鳥取城の城番に迎えられるようになるまでには、 紆余曲折があった。 それまでの鳥取城主は、応仁の乱で有名な山名宗全の子孫で山名禅高(豊国)であった。 ・天正八年、織田信長の命を受けた秀吉を総大将とする二万の大軍が、突如鳥取城に押し 寄せて来た。 秀吉は真っ先に堅城鳥取城を攻めるような愚行はせず、鉾先をその支城に向けた。 四里西に位置する鹿野城には、禅高の愛娘と重臣たちの人質が毛利の監視下に置かれて いた。 ・人たらしの名人である秀吉は、禅高の弱い面を突いた。 山名王国の成れの果てである没落貴族というべき文化人は、もはや戦国武将としては失 格者であった。 わが娘可愛さのあまり、反対する重臣たちの意見を無視してあっさりと降参した。 ・秀吉は戦後処理を済ませると、ひとまず中国攻略の前線基地である姫路城へ戻る。 山名家で内紛が起こったのはその後である。 中村ら重臣が、禅高の不甲斐なさを詰った。いたたまれなくなった禅高は、城主の地位 を棄てて家出してしまった。 残された家臣は当惑し、毛利家に頼り甲斐のある城番を送ってくれることを懇願した。 ・三人の城番が来た。しかし彼らでは、織田軍との最前線である鳥取城を守り抜く任務は 重すぎた。 一旦織田方に付いたにもかかわらず、城主を追い出し、再び毛利方に寝返ったのである。 今度こそ、織田方の中国総司令官である秀吉は本気になり、皆殺しの気迫で鳥取城へ攻 め寄せて来るであろうことは火を見るより明らかである。 最前線に立たされた鳥取城の重臣たちは、一日も早く頼り甲斐のある城番の入城を毛利 家に催促した。 ・山陰担当の吉川元春は、熟考した後、自分の遠縁にあたる石見福光の城主、吉川経家に その大役を荷わせることにした。 二 ・鳥取城の天守は久松山の山頂にある。標高に百六十四メートル。大手門から見上げると、 実際の高さ以上に峻険に感じるのは、この山が途中から急に勾配がきつくなっているか らであろう。 ・久松山は峰続きの山ではなく、独立した山で、その西方に鳥取平野が広がり、城と城下 は千代川の支流、袋川が外堀の役目をしている。 ・城下では、広大な鳥取平野の至る所から黒煙がくすぶっていた。まるで戦場と見まごう ばかりの風景であった。 来襲するであろう織田軍の拠点とされないために、家屋を焼き払っている煙であった。 村民たちは強制的に立ち退きを余儀なくされ、空家となった領民の家は次々と崩され、 火をかけられた。 ・彼らは今まで住みなれた家に未練を残し、その場を立ち去りかね、焼けている我が家を 見て、目にいっぱいの涙をためて茫然と立ち尽くしている。 昨年織田軍との戦さで領民の住居は焼失し、やっと再建がなったところであった。彼ら は作りかけの住居を焼き払われ、帰るべきところもない。 ・軍議が決して、経家は領民たちの籠城を許した。 経家は、彼らの入城を拒否すれば、一揆にでも発展しかねない現実を重視したのであっ た。そうした措置を取らざるを得ないほど、彼らは、武士たちの身勝手を恨み、侍の都 合だけで、今まで住みなれた我が家を破壊している兵士たちに憤怒と増悪の目を向けた。 ・城内の久松山の山麓には、さっそく工事小屋が作られ、領民たちがにわか大工になって、 住居となる仮小屋が次々と建ち並んでゆく。払暁から日が沈むまで久松山の至る所から 掛け声と槌音が響く。女や子供も工事小屋で炊き出しを手伝っている。 ・鳥取城の兵士たちも領民たちとの無用の争いを避け、彼らの小屋普請を手伝う光景も目 立った。 ・籠城に詰め掛けた人々は、最初経家が予想していた人数を遥かに超えたものとなり、二 千名を超す領民が着の身着のままで入城し、三の丸付近の山麓に押し寄せた。城には因 幡衆千名。経家の率いてきた加番衆四百名。およそ四千名近い人間が籠ることとなった。 ・予想以上の大人数が籠城することになったことで、場内では新たな問題が起こってきた。 兵糧米のことである。これは経家の初めの読みに大きな手違いがあった。彼は秀吉襲来 を七月と予想していた。そして、十月頃にはこの地方は積雪期となる。雪が降り積もる 頃になるまで籠城を続ければ、雪に不慣れな上方軍は一旦引き揚げるだろう、と経家は 読んでいた。 ・城内の米蔵を見たとき、兵糧米のあまりの少なさに経家は思わず唸ってしまった。 堅固な鳥取城を一目見た時から、経家は織田の大軍を半年は持ちこたえてみせる、と決 意して大手門をくぐったものだった。それが二カ月ももたない兵糧しか残っていないと は。 ・春続は、口重く、今までのいきさつを話し始めた。 それによると、今年に入るやいなや、因幡地方が豊作であるという噂を聞きつけた若狭 からの商人が、何十艘という船を連ねて賀露の浜にやってきて、普通の二、三倍の高値 で買い取っていったということだった。 ・今年は豊作であったので、いずれ秋の新米が米蔵を充填するだろうとの甘い見通しで、 絶対手をつけてはならなぬ城付米にまで手をつけてしまった。この好機に儲けた金で買 い込んだ武器や鉄砲や焔硝が、蔵にはうずたかく積み上げられていた。 ・冬将軍到来で、上方兵士たちが撤退を余儀なくされるまでの四カ月間の兵糧米を最低限 の必要量であったが、今、目の前にある米蔵内に残っているわずかの城付米を食いつぶ したとして四月はおろか、五月一杯まではとても持ちこたえられない量であった。 ・中村春続ら重臣たちが、播磨の仕置きに手間取った秀吉が、因幡攻めに腰を上げるのは、 早くても来年の春であろうと希望的観測をしたところに問題があった。 ・経家は直ちに近郷へ米の買い付けに走らせた。同時に石見福光の城にいる父、経安に手 紙をしたためた。 父への手紙を書きながら、石見を出てから数日しか経っていないのに、ずいぶんと父親 の顔が懐かしいものに思われて仕方なかった。 三 ・「万に一つにも生還の望めぬ役目だ。それでもどうしても行くというのか」 石見きっての猛将と、近隣にその名が鳴り響いた父、経安の意外な言葉を聞いて、思わ ず経家は、皺ばんだ彼の表情を見つめ直した。 ・「武士とは生き死により、名を惜しんでこそ武士というものだ」 これは厳格が昔気質である、経安のいつもの口癖であった。常住坐臥、潔い武士たらん と肝に銘じていた経家にとって、この父の言葉には出鼻をくじかれる思いがした。 一人の老父が吐露する息子への愛情の表現を、経家は複雑な思いで聴いていた。 ・(父上も年をとられたものよ) 今も頭の中にある父親は、豪気で、男臭さをむんむんとさせ、平家物語に出てくる古武 士を彷彿させる姿であった。子供心にもそんな父親を持つことが、誇らしかった。 ・「鳥取城へ行くということは死地に赴くということぞ、何も毛利の一族でもないそなた が行くこともあるまい」 幾重もの皺で緩んだその重そうな両目には、涙が溢れていた。 ・血気に逸る年でもない経家は、冷静に考慮して、鳥取行きを決したつもりであった。 息子の無事を考えて、鳥取城行きの決意を翻意させようとする年老いた父親の気持を、 経家は重々汲みながらも、武士としての潔い生き様の方を選ぼうとしていた。 ・どんなに贔屓目に見ても、落日の毛利王国の陰りがはっきりとわかる。 新興勢力の信長の怒涛のような進撃は、誰の力を持ってしても押えることはできない。 有岡城、八上城、三木城が次々と落ち、八年間抵抗を続けてきた一向宗徒の牙城、石山 本願寺すら信長の力の前に膝を屈した。 それを契機として、それまで毛利に靡いていた、機を見るに敏である備前の宇喜多直家 が風見鶏のような速さで毛利と手を切り織田の傘下に入った。 ・このような強大な織田軍を押し戻し、昔の元就時代の一大王国を築く力は、今の毛利に は望めぬと、経安は訥々と語った。 ・父親を悲します不幸は彼の心を苛むが、吉川家の部門を天下に示すまたとない好機が、 眼前にある。武士として潔く行動することを教えられてきた経家にとって、鳥取城行き の強い思いは止めどもなく湧き上がってくる。 ・妻の東は今年二十八歳になる。結婚して十年。二人の間には八つの女の子阿茶を筆頭に、 長男亀寿丸、亀五三つ、徳五二つと、三男一女の幼子があった。 経家は思わず胸が詰まって、泣き笑いのような父の顔を正視することができなかった。 ・(なんとしても兵糧が間に合ってほしい) ここ二、三日、朝早く目覚めると、経家は日課のように天守に立って賀露の浜を眺める が、それらしい小荷駄船の姿は一向に発見できなかった。 (織田軍が鳥取城下に来てからでは遅い。その前にぜひ兵糧を手に入れたい) ・その日も天守から、銀色に照り返す北西の群青の海面を飽かずに眺めていると、突然隅 の矢倉口から釣鐘が激しく鳴り始め、いっせいに喚声が上がった。 兵士たちの指差している方向に目をやった経家は、思わず生唾を飲み下した。 山麓に広がる鳥取平野の西の彼方から、盛んに土煙が上がっている。見る見る間にそれ は数万もの軍馬や兵であることが識別できるほどの大きさに近づいてきた。 今か今かと待っていた織田軍がついにその姿を現したのである。 四 ・戦いはまったく予期せぬ展開となった。 六月に忽然と姿を現した織田軍は、一気に攻め寄せようとせず、城から半里ほどまで兵 を進めると、そのまま鳥取城周囲に布陣した。 ・じっと相手の出方を見ていると、城攻めの法螺貝、軍鉦、太鼓の音ではなく、人々の力 仕事をしている声に混じって木材を伐る音、槌音、土砂を運搬する大声などが久松山に 響いてきた。 ・初めは彼らが何をしているのかわからなかった。が、徐々にそれが形を成してくると、 思わず経家は唸り声をあげた。 ・城の周囲を延々と続く土塁、空濠、木柵で取り囲もうとしているのである。それは三里 余りある大土木工事であった。 ・経家は完全に包囲される前に彼らを挑発し、野戦に持っていきたかったが、敵は彼らの 存在を無視し、黙々と巣造りに励む鳥のように、土木工事の手を休めようとはしなかっ た。 ・それを目の前にして、三千名の籠城兵と領民は、成すすべなく、ただじっと手を拱いて いるよりほかに方法はなかった。 経家は夜襲で相手を徴発したが、まったく乗ってこない。こうなると経家としても、何 ら打開策が見当たらない。 ・再度、夜襲をしようとの意見も出たが、経家はその無謀さを押えた。そうしているうち に、秀吉の本陣のある摩尼帝釈天の山頂に、ある日突然白壁に包まれた壮大な城郭が出 現した。いつのまにか城郭の位置する山頂は平らにならされ、無数の巨大な石垣がその 城郭を支えている。 鳥取城の兵たちは茫然として、その築城者である秀吉に度肝を抜かれた。 ・戦いは武器を手に取って行なうものであると思っている経家には、兵の数に物を言わせ、 持久戦をとろうとしている秀吉という男に無性に腹が立った。 ・すでに兵糧は底を尽いていた。後は城内に貯えのある水、塩、味噌といったものしかな かった。城内に植えてある松も食用と化し、肌をもぎ取られていた。 それも果てるようになると、籠城兵たちは、太鼓の音を合図に、城内から包囲の柵の内 側へと繰り出し、稲株、無人となった農家の入り込み、残っている食糧を食い漁った。 秀吉はそれを鉄砲で撃つこともせず黙って眺めている。籠城の兵が多いほど、城内の食 糧が減るのが早くなるからである。彼らが脱走しようとした時だけは、情け容赦なく鉄 砲で撃ち殺した。 ・それでも城下へ出て行ける者の体力が尽きてくると、自然とその回数が減じてきた。 この頃になると、食糧は完全に底を尽く。衰えている牛馬に限り、経家は家畜に手をつ けることを許した。 まったく戦さらしい戦さもなく、城内では深刻な飢餓との戦いが始まっていた。 ・経家の期待していた二回目の兵糧を積んだ小荷駄船は、出雲を出発して賀露の浜の近く まで来たが、そこには賀露の浜を埋め尽くすほどの、丹波・丹後から来た織田軍船が周 辺の海域を警戒していたので寄りつけなかった。そして兵糧を上陸させることを諦め、 帰国してしまった。経家はそのことを知らなかった。 五 ・八月に入ると、直射日光を避けて、木陰で死んだように横たわっていた兵たちも、餌物 を求めてうろうろと、幽鬼のような足どりで周辺をさまよい歩く。彼らのどの顔にも喜 怒哀楽といった人間らしい表情が失せていた。寝ても醒めても頭の中は、食べ物のこと で一杯であった。 ・暑さが緩む頃になると、飢えた狼のように涎を垂らし、夢遊病者のようにあてどもなく 山の谷間に降りてゆき、蛇やねずみといった生き物を捜すため、痩せ衰えた体をふらふ らと横に振りながら陣を離れてゆく。一人が餌物を見つけると、他の連中が集まってき て、それを奪い合い、刀を振り回して、殺し合う光景も珍しくなかった。 ・動く元気のある者はまだ良いとして、栄養失調で動けぬ者たちは、痛々しかった。地面 に這いつくばり、肩で喘ぐような息をしながら、死人のような虚ろな眼を浜風が来る方 へ向けている。 ・経家は毎日、毛利の兵糧船の到着を待っていた。日に日に衰弱してゆく兵たちを見なが ら、彼らと苦しさを共有しようとして、二度の粥を一度に減らした。その粥とて数粒の 米しか入っていないものであった。 ・武士らしい華やかな戦いを胸に描いていた経家にとって、こんな奇妙な戦さは初めてで あった。これは武士の行なう戦さというより、飢餓との戦いであった。 ・城方を支えている唯一のものは、毛利の兵糧船が後詰めと共にやって来て、秀吉の蟻一 匹も逃すまいと厳重を極めている包囲網を、突き破ってくれるという期待であった。 ・柵で包囲されている内と外の世界は、あまりにも違い過ぎた。食欲と性欲とが十分すぎ るほど満たされている外界を想像すればするほど、華麗な外の世界を想えば想うほど、 彼らは自分たちが身を寄せている世界が、疎ましく思われてきた。 ・(これが武士の行なう戦さか。上方の兵たちは人の心を持っているのか) 籠城兵たちは聴こえてくる嬌声や喧騒に、耳を閉ざし歯をくいしばって耐えた。 そんな城内の様子をあざ笑うかのように、包囲している敵兵たちは、強烈な心理的揺さ ぶりをかけてきた。 わざと敵陣近くへ行って炊飯を行なう。炊飯の煙に混じって、香ばしい御菜の匂いが城 内まで運ばれてくる。 もっと辛辣な者になると、これ見よがしに、見せびらかせて食事を摂る者もいる。飢餓 でうずくまって動けずにうらめし気に見ている城兵たちを尻目に、敵兵たちはわざと食 べ残りをそこら一帯にぶちまけた。 ・敵兵たちの姿が見える時は、まだ人間らしい誇りといった自制心が働いていたが、彼ら が柵から立ち去ると同時に、城内の兵や領民たちはまるで飢えた狼の群れのように奪い 合ってその残飯に群がった。 ・天守から、この武士の戦いぶりから程遠い、なぶり殺しのような、光景を眺めていた経 家の双眼に熱いものが溢れた。 (十月に入ればこの地方に雪が舞い始める。上方の兵は寒さに不慣れである。この地方 での越年はまず無理であろう。十月までは何としても耐え抜く。たとい土を食んででも 籠城を貫き、この城を死守するのが自分の仕事である) ・突然城中の隅櫓に吊られている大鐘がけたたましく鳴り響いた。 曲輪ではどこにそんな体力が残っていたのかと思われるほど、異様なぐらい痩せ細った 兵たちが大声をあげて、盛んに浜の方を指差して叫んでいる。 「船だ。やって毛利の船が来たぞ」 ・「ついに来たか。待った甲斐があった」 つぶやいた経家の頬が濡れている。 ・二百石の五艘の兵糧船は天守から手が届かんばかりに見える。甲板には山積みされた米 俵がきっしりと並んでいる。 城内の兵たちは思わず生唾を飲んだ。 ・突然、甲高い笛を吹くような音と同時に、暮色に染まり始めた空に、青と赤の数条の狼 煙が河口の両岸から上がった。 川岸で蝟集していた織田水軍の攻撃の合図であった。 ・敵中突破の陣型のまま、毛利水軍は飢えた狼たちから子供や雌を守る雄羊の群れのよう に、千代川河口へと向かって一直線に進もうとした。 すると河口の両岸に集まっていた軽舟の織田軍が、河口の左右から出現した。そして法 螺貝を吹き鳴らし太鼓を打ち叩きながら、迅速に毛利船団へ滑るように寄せてきた。 ・軽舟からは無数の火矢や、山と積まれている松明や、火のついた柴やわらが放物線を描 きながら大きい獲物に襲いかかった。 兵糧を積んでいる船がまず狙われた。思い食糧を積んでいる分だけ、船足が鈍い。護送 船は兵糧船を助けようとするが、無数の軽舟が毛利水軍の間にぎっしりと入り込んでい る格好となっているため、救援にもいけない。火攻めはおもしろいほど効果的であった。 ・久松山と丸山から、この千代川河口の船戦さの様子が一望できた。 両陣地から大きなため息が漏れた。 圧倒的な織田水軍の力であった。 (もっと多数の軍船で来てくれれば勝てたものを。陸上からも援軍が来てくれたら、秀 吉めも船戦さだけに専念できずにうろたえたかもしれぬものを) 経家はぎゅっと口唇を噛んだ。 六 ・日本之助は余勢を駆った再度の秀吉勢の丸山襲来を危惧した。 彼は境与三右衛門と共に、丸山陣地内の巡視を日課として行った。 ・境はもうこれ以上の食糧難が続けば、籠城兵たちが暴動を起こすことを心配していた。 「経家殿が再三、国元へ使者を派遣されたと聴いておるが・・・」 「どのようにして、この厳重な警戒の網をくぐって毛利領へたどり着けましょうや」 日本之助も境も千代川に目をやった。 あの船戦さ以来、千代川河口の制海権は奪われてしまっている。 翼をもった鳥でもない限り、この鉄壁に近い久松山と丸山とを囲む包囲網を突破するこ とは不可能である。 ・経家は船戦さで毛利の兵糧船が沈められてから、多くの細作を毛利へ派遣した。 が、誰一人として久松山へ戻っては来なかった。 ・ふと彼らは歩を止めた。前方の太い幹をもつブナの木の下の草むらに、群がって屈み込 んでいる雑兵たちの姿が目に入った。 よく観察すると、短刀で何かを切り取り、手づかみで頬ばっているらしい。 不審に思った日本之助は音を立てず、静かに彼らの背後へと近寄った。彼らの目の前に ある餌物がわかるほど近づいた日本之助は、思わず唸ってしまった。 ・それは明らかに人肉であった。切り刻まれて原形を止めぬ肉片が目の前にあり、彼らは 短刀で肉を切り取り、手で掴んだ肉片を口へ運んでいた。伸びた口髭が血でどす黒く染 まっており、肉片を口内で咀嚼する音が不気味に響いた。 ・真っ昼間からのあまりの非人間的な行為を目前にして、戦場で数限りなく修羅場を踏ん でいる日本之助ですら、たじろいで声が出ない。 ・彼らの目を見た日本之助は再び肝を冷やした。 彼らの目は命令されて不承不承に警備につく時の兵たちの目ではなく、せっかくありつ いた餌物を目の前にして、それを妨げる者に見せる、怒りと恫喝を込めた飢えた狼のそ れであった。 ・その目を見た瞬間、日本之助の胸の中に眠っていた野生の血が一気に沸ぎり立った。 憤怒と興奮に震える日本之助の手が、腰に帯びている太刀に触れるや否や、逃げ遅れた 一人の背中を斬った。 ・悲鳴を上げながら逃げ回る四人を、日本之助と境は必死な形相で追う。熊笹の生い繁る やぶ深くまで追いかけた彼らは、蛮声を張り上げながら次々と斬り殺した。 ・この真っ昼間の出来事を目撃した兵たちが、異様に目をぎょろぎょろさせながら、痩せ 衰えた体をひきずるような姿で、ぞろぞろと日本之助と境の周囲に集まってきた。 飢えと上げしい動きからくる疲労で、二人とも背中を丸め、肩を大きく波立たせている。 ・集まってきた兵たちの目を見た日本之助は、思わず驚愕した。 どの目も彼のした行為を非難している反抗的な目付きであった。生き抜くための当然の 行為を奪った者への激しい憎しみの込もった、飢えた野獣が持つ恐ろしい目であった。 ・人間が人間らしく生きてゆけるぎりぎりの世界に自分たちは立たされているのだと、日 本之助はこの時初めて思った。飢餓という地獄絵図をまざまざと垣間見た瞬間であった。 七 ・久しぶりに見る鳥取城内の様子は、この前と一ヵ月しか経っていないのに、随分と変わ ったものになっていた。 どの顔にも人間らしい表情が失せており、どんよりとした息苦しい空気が城内を包んで いた。わずか一ヵ月しか経たないというのに、日本之助たち一行は、飢餓地獄の深刻さ を実感した。 ・ゆっくりと頭を上げ、重臣の居並ぶ上座を見回しながら、一段高い所で彼の話を聴いて いる経家のやつれ様にぎょっとした。 鳥取城の城代として鳥取入りをした時の爽やかな経家とは思えぬほど、暗い表情であっ た。重苦しい沈黙が広間に漂う。 城代の苦しい立場を考えると、重臣たちは口をつぐまざるを得ない。兵糧米を確保して いなかった自分たちにも大きな責めはある。 ・日本之助は正式の武士ではない分だけ、庶民の考えがよくわかる。個人的には、爽快で あり、人の上に立つ者としての頼り甲斐のある経家を好ましく思っているが、自分一人 の名誉と引き換えに、籠城している者たちを飢え死にさせるということは、人間として 許されぬ行為であると思う。 ・いかに武士というものには自由がなく、名誉とか武門の意地とかといった何の腹の足し にもならないものに、身を縛られて生きてゆかねばならぬ窮屈な生き物であるかという ことを、今つくづく思い知らされた気がした。 ・籠城して飢餓地獄にどっぷりと漬かってわかったことは、武士は見た目より、割の良い 稼業ではないということであった。 武士とは辛い稼業である。そう思うと、目の前にまるで幽鬼のようにやつれ果て座って いる経家に、ふと同情を覚えた。 なまじっか武将という世間体の重いしがらみを背負ったばっかりに、人間らしい行動が とれないでいる経家が、妙に痛わしくおもわれた。 八 ・城内には、もはや一粒の米もない。弱っている牛馬に限り食用とすることを許した。そ してそれも食べ尽くしてしまうと、戦いに不可欠な軍馬にも手をつけることになった。 それも絶えてしまうと、今度は人肉を食う者が出てもおかしくない状況になっていた。 ・人肉を食っても不思議ではないほどの飢餓地獄であるが、いくら追い詰められた状況に 陥ろうとも、人間が人間を食うということは、人間であることを否定する行為に等しい。 そんな人間の尊厳を損なうような愚かな行為は、いくら何でも行われる訳がない、と経 家は考えている。 ・経家の頭の中で、人が人の肉を食うという事実をめぐって、それを決して受け入れよう としない人間らしい良心と、厳しい現実とが交錯していた。 もしそれが事実であるならば、その責任は自分のふがいない采配ぶりにある。一切の責 めは己れにある。 ・飢餓地獄が続いている城内では、兵たちの顔付きが人間らしさといった表情が消え失せ て人間性が日に日に失われていく。 人間味をまだ失っていない日本之助の苦言は、経家の良心を強く揺さぶった。 ・元春に白羽の矢を立てられ鳥取城の城代となった経家にとって、「さすがは吉川よ」と 言われるまでの籠城を貫き通すことが、彼の武将としての使命である。 そのためには、人間らしい良心を棄てて、戦いの鬼になり切れねばならぬ。そこには人 間味といった生ぬるいものが入り込む余地はない。人間らしい心を持ってはならぬのだ。 経家の心の中では良心と使命感とが葛藤を繰り返す。 ・しばらく遠ざかっていた城下の見回りをしようとした。 この日は久しぶりに遠出をし、三の丸のはずれ、足軽小屋の裏手に建ち並ぶ、百姓、町 人たちの仮小屋まで足を伸ばした。 ボロをまとい、悪臭を放散させる痩せ衰えた、老人とも若者とも見分けがつかぬ数名の 群れが、小屋の隅にたむろしていた。 彼らは歯をむき唸り声を出しながら、骨と筋だけになった手を、盛んに口のあたりに持 っていっては、もぐもぐと顎を上下させていた。 経家が近寄ってもわからぬようで、夢中で何かを食べている。口の周囲が赤く染まって いる。 ・「何をしている」 まさかとは思い、経家は彼らの背後から大声をあげた。 どこにそんな体力が残っていたのかと思われるぐらい俊敏に立ち上がると、彼らは怒り とも驚愕ともわからぬ異様な目を向けながら立ち去って行った。 後には四肢を切り裂かれ、内臓を食い散らかされた餓死者の残骸があった。 ・激しい衝撃が経家の全身を稲妻のように駆けめぐった。 茫然と立ちつくし、しばらく身震いがおさまらなかった。 人が人を食う。 あってはならぬことが目の前で行われていた。 九 ・「大将、羽柴秀長からの使者が来ましたぞ」 境与三左衛門の戦場嗄れのした大声で、床几でうとうとしていた日本之助は目を醒まし た。 ・「秀長というのは秀吉の弟のことだな」 「よし、通せ。話だけは聴いてやろう」 ・「主人、羽柴秀長からの口上を申し上げます」 「よし、聴こう」 ・「主人、秀長の申すには、吉川経家、日本之助殿などの永きにわたる籠城の様子に非常 に感激されております。武士の鑑ぞと、何度も感嘆されました。 皆々様の武門の意地はこれまで十分尽くされたと申しております。城さえお明け渡しく だされば、方々の御生命は誓って保証仕ると申しております」 ・「有り難い話だが、断わる」 「失礼を承知で申し上げますが、飢えで苦しんでいる兵たちを、どのようにして指揮し て、これ以上城を持ち堪えるつもりでしょうか」 ・「貴様に言われなくとも、儂は十分この城を支えて見せる」 「それは無理というもの。もう一ヵ月もこの状況が続けば、兵たちは皆飢え死に致しま する」 「それが貴様たち、上方の武士の戦い方か。武士らしく華々しく戦うことをせずに、兵 糧攻めという姑息な手段でしか戦えないのか」 ・「我々は無駄な血を流す戦いを好みません。十分に時間をかけて柿が熟して落ちるよう に、無理押しをせず、ゆっくりと待ちます」 「腰抜けの秀吉らしい戦さぶりよ。貴様の殿様は昔百姓だったからのう。槍や剣の扱い 方も知らぬ男よ」 「儂が腑抜けの秀吉の尻をたたいて、どうしても動くようにしてやろう。そして力攻め をさせて、思う存分中国侍の武士魂を骨身に染みるまで見せつけて、震え上がらせてや ろう」 ・「我々はいかなる挑発があろうとも、それに動じることはありません」 「こんなに秀吉を侮辱されてもか。貴様たちはそれでも男か」 「如何に言われても動きませぬ。それが我々の戦さぶりですから」 ・髭面の中にある野性味を帯びた日本之助の細い目が、不敵にも微笑したように思うと、 突然今まで直立不動の姿勢をしていた阿字戒の体が後ろに傾いた。 阿字戒の首はその大きな口を開いたまま、後方にいる境の足元へ、不気味な音をたてて 転がった。切り口からは鮮血が地面に流れている。 「境、その首、今から秀長の陣のよくわかる所へ放り込んでこい」 ・日本之助の本陣の周囲からは、大きなため息とも呻き声ともつかぬ、野獣の唸り声のよ うな蛮声が伝わってきた。 一抹の平和への夢が砕かれた断末魔のつぶやきであった。 彼らは平和への折角の機会を潰した日本之助を憎んだ。 十 ・経家は日本之助が秀長からの使者を斬ったことを聴いた。彼らしい挑発ぶりと思ったが、 今となればすべて遅い。 経家の心は、兵たちが人肉を食う現場を目の当たりにした時から、大いに揺れ動いてい た。自分を頼りにして、集まってきた領民たちを道連れに籠城を続けることが、良心の 痛みに変わり始めていた。 ・日本之助が秀長の和平の使者を斬ったという噂が、久松山にも広がるようになると、城 兵たちの心に生きたいという希望が強烈な炎となって燃え上ってきた。そして、徹底抗 戦を続けようとしている経家に敵意さえ抱き、憤怒に満ちた目を向けるようになる。 ・毛利の後詰めが絶望視されているうちは、城兵たちは絶望のうちにも、統制はとれてい た。が、一旦助かるかもしれぬという状況が醸し出されると、統制が乱れた。 平和を希求する心が城内に伝播すると、飢餓地獄が今以上に悲惨なものと思われてきて、 一刻も早く脱出できる奇蹟を懸命に望む空気が漂い始めた。 ・そんな切迫した城内の雰囲気を見透かしたかのように、秀吉からの使者が鳥取城を訪れ たのである。 ・城内のあちこちで私語が交わされる。百姓や町人たちはお互いに顔をつき合わせて囁き 合っている。どの顔にも深刻そうな表情の中にも、あるいは助かるかもしれぬという一 抹の安堵の色も浮かぶ。 ・さすがに兵たちは百姓や町人とは異なり、降伏後にくる秀吉の報復のことをあれこれ考 え、落城という事実が現実となりつつあることを憂えた。が、多くの兵たちも領民と同 じように、生還できるかもしれぬ期待に心震わせた。 ・彼らの頭の中にあるのは、経家が課した武士の面目のために耐乏生活を続けるというこ とではなく、勝見込みのまったくない陰惨なこの戦いが早く終わって欲しいということ だけであった。 ・「長らくの籠城にもかかわらず、一兵士の乱れもない統率に我ら主人ともども感服いた しております」 「恐れながら、城中の中の飢餓の様子を察するに、一刻も早い御決断の時機かと愚考致 しまする」 「敵、味方と分かれる仕儀とはなりましたが、吉川殿の比類なき武将としての統率力、 籠城兵たちを耐え抜かせた強靭な意志力には、主人秀吉も兜をぬぎました。鳥取籠城の 噂は上方でも持ち切りで、吉川殿を称賛する者どもが巷に溢れ反っております」 「今後、これ以上籠城を続けられても、結果は目に見えておりましょう。吉川殿の武門 の意地はもう十分立ったものと思われます。御思案の時機かと。決断が延びれば餓死者 も増えましょう。一刻も早い決断がよいと愚考致します」 ・経家の心は、人肉を食う場面に遭遇した時から揺れていた。開城する良い時機かもしれ ぬとは思う。が、若造二人寄こして得意気にしている秀吉の顔を思い浮かべると、皮肉 の一つや二つを言わなければ、腹の虫がおさまらない。 ・「秀吉殿にはもっと武士らしい戦いをして欲しかったものよ」 「御心中御察し申し上げます」 経家のさすように鋭い目は、徐々に敵意のない穏やかな色に変わってきた。 ・「城明渡しの条件を聴こう」 二人の使者は思わず目を見合わせた。 秀吉から重大な任務を言い渡された二人は、秘かに死を覚悟した。秀長の陣から丸山砦 へ、単身乗り込んでいった阿字戒が殺されてからそう日は経っていない。秀吉憎しで凝 り固まっている鳥取城へ行って、無事に帰って来られることは奇蹟に近い。 ・秀吉の命じている開城の条件は、武門の誇り高い経家の意に沿うものではなかった。 開城の条件を聴いた経家の反応ぶりは激しかった。 ・「それでは納得できぬ。どうしてもできぬぞ」 今まで穏やかな経家の表情は、一転して憤怒に引き攣った顔に変わった。 ・三条とは、 一、森下道誉、中村春続の両名は、山名譜代の恩顧を忘れ、主人豊国を放逐した逆臣で あるから、その首をはねる。 二、丸山の日本之助、塩谷高清、佐々木三郎左衛門は海賊、山賊として罪深い。諸人の 見せしめのために、これも首をはねる。 三、経家をはじめ芸州から来た者は、雑兵にいたるまで無事送り帰す。 ・「馬鹿な話ではないか。森下も中村も毛利にとっては忠誠を尽くした重臣ではないか。 その者たちの首をはねるなどとどうしてできようか」 「考えても見られい。この城を指揮した責任者はこの儂ぞ。その儂が腹を切らずに、部 下が腹を切る。こんな無茶な話がどこにあろう」 ・「主人秀吉は経家殿の城将としての類い稀なる器量を惜しんでおります。その辺のとこ ろお主人の心をお汲み取り下され」 ・「いや。堀尾殿。儂一人腹を切ることでお許し願いたい。部下たちには何の責任もない」 経家はあくまで自分一人が腹を切って責任を取るともりである。 ・邪推すれば、無理を承知で秀吉はこの条件を持ち出してきたかもしれぬ。 今、飢餓地獄のうちにあっても、城内は経家を中心として予想以上の結束ぶりを見せて いる。 戦いを指揮した経家が生かされ、それに従った重臣たちが切腹することになると、経家 一人が浮いた存在となる。 鳥取城にいた因幡衆と、経家に随いてきた出雲衆の間に反目が起こり、経家が殺されで もしようものなら、秀吉側では思わぬ棚からぼた餅である。 経家という吸引力を失った鳥取城は恐ろしくない。すぐに自潰するだろう。 ・「秀吉殿にお伝え下され。開城の儀はあくまで経家の切腹が条件で承諾いたす」 十一 ・使者が帰ると中村、森下の二人が経家の周囲に集まった。 年配者の中村春続が、経家の顔色を窺いながら切り出した。 「吉川殿、芸州へお帰り下され。我々への義理立てなら無用にしてくだされ」 「貴殿をお招きしたのは、我々である。貴殿は期待通りの立派な働きをしてくだされた。 そのことで我々は、感謝の念で一杯でござる」 「我々が頼り甲斐のないばかりに、経家殿に腹を切らす羽目にさせてしまいまして、本 当に申し訳ない」 「我らには、大切な兵糧米を秀吉めに、それが彼の計略ともわからずに売り払った責め がある。それを思うと、何とも無念で夜もおちおち眠れぬ毎日でござった」 道誉は重臣としての責任からか、率直に経家に詫びた。胸につかえていた重いものを吐 き出すと、気が楽になったように思われた。 ・「いやいや、儂はこれで本望でござるよ。天下の織田を敵に回し、長い間この地で釘付 けにし、中国武士の意地を貫き通した。男子の本懐これ以上のものはござるまい」 秋晴れの空のように、経家の心は爽やかであった。 ・経家の「武士道」の爽快な姿は、天か衆目の的となっていた。 噂が広がり、経家は偶像化され、生まの経家としてのわがままが許されなくなっていた。 秀吉はそんな偶像化された経家を、政治的に利用しようとした。 ・「武士の鑑」となり、偶像化されてしまった経家に、詰腹を切らせることは、秀吉とい う人間を大きく見せるためには不利なことであった。経家を救い、安芸へ帰らすことこ そ、秀吉が「武士の情け」を知る人間として、彼の寛大さを世間に宣伝する格好の場で あることを知っていた。 ・使者が秀吉本陣と、鳥取城とを何度も往復した。 経家切腹の件は秀吉の思惑もあり、なかなか進展しなかった。 ・経家は内心焦っていた。 兵糧攻めという卑怯な戦法で自分を苦しめた男が、切腹という潔い行為を、政治の道具 として利用しようとしていることを悔しく思った。 ・「御両人。長らく交渉役御苦労でござった。これ以上の長談判は城内の者のために忍び ない。羽柴殿の条件を呑もう。五人の切腹を認める」 「ただし、儂も腹を切る」 「その儀ばかりはお許し下され。我らが主人に怒られまする」 「こればかりは譲れん」 「城代が部下に腹を切らせて、おめおめと安芸へ帰れる道理がなかろう」 ・城中の大広間に主たつ武士たちを集めた経家は、皆の前で礼を言った・ 「長い籠城にもかかわらず、よく耐えてくれた。経家一同に礼を申す」 「儂がこの城代となってより、皆には言語を絶する耐乏を課してきた。しかし一人の背 反もなく、各自、持ち場を死守して敵に侵入を許すことなく今日に至ったのは、皆が必 死で頑張ってくれた御陰である。儂の拙い采配にもかかわらず、励んでくれたことに経 家礼を申す。皆と一緒にここまで戦えたことを自分の誇りとして、喜んで死んでゆける。 皆が尽くしてくれたことを儂は決して忘れないだろう」 深々と頭を下げた。 ・主だった武士たちは、雑兵や百姓や町人とは違う。敗戦の悔しさから忍び泣きがあちら ことらから漏れ始めると、やがて嗚咽が広間を埋め尽くした。 ・十月二十四日夜に、森下道誉、中村春続、日本之助、塩谷高清、佐々木三郎左衛門の五 人は、それぞれの居城で腹を切った。 ・介錯人は出雲衆では右に出る者がない腕前の靜間源兵衛である。 「常日頃、稽古をしていないことをするのだ。弓矢のようにはまいらん。無調法な切り ようになるやもしれん」 経家は首を回して、心持ち緊張で青ざめて背後に立っている源兵衛に声をかけた。 これで源兵衛の武者震いが止まった。 「信長に見せる首だ。よく打て」 肉が削げ落ち、横皺が走る腹に、一尺五寸の小刀を突き立てた。 左から右へ、そして一度抜いた小刀を縦に臍まで引き回した。 「もう十分によかろう」 ・経家の首は、鳥取城へ持参した首桶に納められ、安土の信長の元へと送られた。 |