野火 :大岡昇平

成城だより3 (中公文庫 お2-20) [ 大岡 昇平 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

成城だより2 (中公文庫 お2-19) [ 大岡 昇平 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

レイテ戦記(一) (中公文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

レイテ戦記(二) (中公文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

レイテ戦記(四) (中公文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

野火/ハムレット日記 (岩波文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:935円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

ミンドロ島ふたたび改版 (中公文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

中原中也 (講談社文芸文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

花影 (講談社文芸文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

靴の話 大岡昇平戦争小説集 (集英社文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:671円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

野火 (角川文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:462円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

レイテ戦記(三) (中公文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

武蔵野夫人改版 (新潮文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:572円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

事件 (創元推理文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

小林秀雄 (中公文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

ゴルフ 酒 旅 (中公文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

現代小説作法 (ちくま学芸文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

成城だより 付・作家の日記 (中公文庫 お2-18) [ 大岡 昇平 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

俘虜記 (新潮文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:869円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

野火 汝、殺すなかれ (NHKテキスト 100分de名著 2017年8月) [ ...
価格:576円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

野火改版 (新潮文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:473円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

無罪 [ 大岡 昇平 ]
価格:913円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

戦艦「大和」副砲長が語る真実 私はその場に居た [ 深井俊之助 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

昭和二十年夏、僕は兵士だった (角川文庫) [ 梯 久美子 ]
価格:649円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

予科練の空 かかる同期の桜ありき (光人社NF文庫) [ 本間猛 ]
価格:869円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

太平洋戦争のすべて (知的生きかた文庫) [ 太平洋戦争研究会 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

投降 比島血戦とハワイ収容所 (光人社NF文庫) [ 小島清文 ]
価格:869円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

駆逐艦「不知火」の軌跡 レイテ沖海戦最後の沈没艦 [ 福田靖 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫) [ 山本 七平 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

ルソン島敗残実記改訂新版 [ 矢野正美 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

戦争を背負わされて 10代だった9人の証言 [ 広岩近広 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

証言記録兵士たちの戦争(5) [ 日本放送協会 ]
価格:2420円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

るそん回顧 ある陸軍主計将校の比島戦手記 [ 那須三男 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

マッカーサー [ グレゴリー・ペック ]
価格:1179円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫) [ 藤原 彰 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

昭和天皇の研究 その実像を探る (祥伝社新書) [ 山本七平 ]
価格:1078円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

戦争で死ぬ、ということ (岩波新書) [ 島本慈子 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

GHQ焚書図書開封(5) ハワイ、満洲、支那の排日 [ 西尾幹二 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

たった一人の30年戦争 [ 小野田寛郎 ]
価格:1762円(税込、送料無料) (2020/6/30時点)

この作品は、今から69年前の1951年に発表されたものである。作者のフィリピンで
の戦争体験をもとに書かれたといわれている。
フィリピンのレイテ島が舞台となっており、すでにフィリピンでの日本軍は米軍に完全に
打ち負かされており、劣勢挽回のために投入された主人公の部隊も、揚陸と当時に米軍か
ら空襲を受けて、半分以上の兵力を失ってしまうというような有様だったようだ。そして、
まともな戦闘をする前に、ほとんど組織的な戦闘ができない状態にまで追い込まれていた。
米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、日本軍の敗残兵たちは熱帯の山野を食糧を求めて彷徨
い歩く。しかも現地のフィリピン人たちは、既に日本軍を抗戦相手と見なしていた。
そういう日本軍の敗残兵たちにとって、もはや敵は米軍ではなく、飢えと病との闘いであ
った。そして、飢えの極限に達した敗残兵たちは、同胞を狩ってその人肉を食べるという
行為にまでおよんでいくのである。まさにこれは「餓鬼の世界」が現実化していたのであ
る。

この小説は、1959年と2015年に二度映画化されている。テレビでも何度か放映さ
れたことがあって、私もそれを観たのだが、なんだから暗い映画だなという感想のほかは、
どうも今一つ、理解できないことが多かった。
このたび、この作品を読んでみて、はじめてそういうことだったのかと、わかったことが
多かった。この作品の主人公の田村一等兵の心理状態を、映画で表現するのは、かなり難
しいのではないかと思えた。
戦争の悲惨さとして、よく飛行機による「特攻」のことが取り上げられる。確かに、必ず
命を落とすことになる飛行機による特攻は、理不尽で悲惨なことである。しかし、この作
品のように、国家の名の下に、赤紙一枚で徴兵され、貧弱な武器とわずかな食糧だけしか
与えられずに、フィリピンなどの海外の激戦地に送り込まれ、戦闘ではなく、飢えや病気
で死んでいった多数の陸軍兵士たちの悲惨さは、それをはるかに超える地獄絵図のような
惨状だったにちがいない。
そのような戦地から、幸運にもなんとか生きて帰れた人たちが、戦地の状況をあまり口に
しなかったのは、とても口に出して語れるような状況ではなかったからだろうと想像する。
戦争の悲惨さを語るなら、もっとそうした陸軍の兵士たちの惨状を、もっと知らなくては
ならない。
戦争の悲惨さというと、テレビなどでは、すぐに「特攻」を取り上げるが、戦争のほんと
うの悲惨さは、そんなものじゃない。「特攻は悲惨だった」だけで、戦争の悲惨さをわか
った気になってはいけないと感じた。
この作品の中に「戦争を知らない人間は、半分は子供である」という一節があるが、ほん
とうの戦争の惨たらしさを知らない、まさに現代の我々に向けられた言葉であろう。深く
心に刻んでおきたい。

出発
・私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。「馬鹿やろ。帰れってい
 われて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだ。
 中隊にゃお前みてぇな肺病やみを飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収
 集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねぇ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ
 帰れ。どうでも入れてくんなかったら、死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃ
 ねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」
・致命的な宣言を受けるのは私であるのに、なぜ彼がこれほど激昂しなければならないか
 は不明である。多分声を高めるとともに、感情をつのらせる軍人の習性によるものであ
 ろう。状況が悪化して以来、彼らが軍人のマスクの下に隠さねばならなかった不安は、
 我々兵士に向かって爆発するのが常であった。
・いくら「座り込ん」でも病院が食糧を持たない患者を入れてくれるはずはなかった。食
 糧は不足し、軍医と衛生兵は、患者のために受領した糧秣で喰いつないでいたからであ
 る。 
・11月下旬レイテ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦
 闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた。以前からの病
 気が昂じたのである。 
・私は5日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。軍医はまず
 肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見る
 と、入院を許可してくれた。
・三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない。5日分の食糧を
 持って行った以上、5日おいてもらえ、といった。私は病院へ引き返した。そして今朝
 私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の
 中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確かめたかったからにすぎない。
・私の生命の維持が、私の属し、そのため私が生命を提供している国家から保障される限
 度は、この六本の芋に尽きていた。
・向こうの林の中で、十数人の兵士が防空壕を掘っていた。円匙が足りないので、民家で
 見つけた破れ鍋や棒を動員して掘っていく。敗残兵同様となってこの山間の部落に隠れ
 ている我々を、米軍はもう爆撃しにも来なかったが、壕はとにかく我々の安全感のため
 に必要であった。    
・古兵交えた三ヵ年の駐屯生活の、こまごました日常の必要は、我々を再び一般社会にお
 けると同じエゴイストに返した。そしてそれはこの島に上陸して、状況が悪化するとと
 もに、さらに真剣にならざるを得なかった。
・私が発病し、世話になるばかりで何も返すことができないのが明らかになると、はっき
 りと冷たいものが我々の間に流れた。危険が到来せずその予感だけしかない場合、内攻
 する自己保存の本能は、人間を必要以上にエゴイストにする。私は彼らのすでに知って
 いる私の運命を、告げに行く気がしなかった。彼らの追いつめられた人間性を刺激する
 は、むしろ気の毒である。
・タクロバン地区における敗勢を挽回するため、西海岸に揚陸された、諸兵団の一部であ
 ったわが混成旅団は、水際で空襲され、兵力の半数以上を失っていた。重火器は揚陸す
 る隙なく、船もろとも沈んだ。
・しかし我々は最初の作戦通りブラウエン飛行場めざして、中央山脈を越える小径を行軍
 したが、山際で先行した別の兵団の敗兵に押し戻された。我々はやむを得ず南方に道な
 き山越えの進路を取ったが、途中三方から迫撃砲撃を受けて再び山麓まで下り、その辺
 一帯の谷間に分散露営して、なすところなくその日を送っていた。オルモック基地に派
 遣された連絡将校は進撃の命令を伝えたが、部隊長はそれを握りつぶしていると噂され
 た。
・オルモックを出発する時携行した12日分の食糧はずでになかった。附近部落に住民が
 遺棄したトウモロコシその他の雑穀も、すでに食べつくした。実数一個小隊となった中
 隊兵力の三分一は、かわるがわる附近山野に出動して、土民の畠から芋やバナナを集め
 て来た。というよりは食いつなぎに出て行った。4,5日そうして食べて来ると、交替
 に次の三分の一が出動する間、留守隊を賄うだけの食糧を持って帰って来るのである。
・附近に部落に散在する部隊も、同様の手段で食糧をあさっていて、我々はしばしば出先
 で畠の先取権を争い、出動の距離と日数は長くなった。


・病院は正面の丘を越えて、約六キロメートルの工程である。林の中は暗く道は細かった。
 私はうなだれて歩いて行った。奇妙の観念がすぎた。この道は私が生まれて初めて通る
 道であるにもかかわらず、私は二度とこの道を通らないであろう、という観念である。
 そして近く死ぬ私が、この比島の人知れぬ林中を再び通らないのも当然であった。奇怪
 なのは、その確実な予定と、ここを初めて通るという事実が、一種の矛盾する聯関とし
 て、私に意識されたことである。
・比島の林中の小径を再び通らないのが奇怪と感じられたのも、やはりこの時私が死を予
 感していたためであろう。我々はどんな辺鄙な日本の地方を行く時も、決してこういう
 観念には襲われない。好む時にまた来る可能性が、意識下に仮定されているためであろ
 うか。してみれば我々のいわゆる生命感とは、今行うところを無限に繰り返しえる予感
 にあるのではなかろうか。  
  
野火
・私は初めて見知らぬ道を選んだことを後悔した。しかしすでに死に向かって出発してし
 まった今、引き返すのはいやであった。
・林の奥に進むと、一軒の小屋があり、人がいた。一人の比島人が眼を見開いて立ってい
 た。私は立ち止まり、銃を構え、素早くあたりへ眼を配った。
・「今日は、旦那」と彼は媚を含んだ声でいった。年のころ三十くらいの顔色の悪い比島
 人である。色褪せた空色の半ズボンの下から、痩せて汚れた足が出ている。住民のこと
 ごとく逃亡したはずのこのあたりで、彼の存在がすでに怪しかった。
・彼は突然思いついたという風に、「芋をやろうか」といった。彼は立ち上がり、林の奥
 へ歩いて行った。私はぼんやりそのあとを見送っていた。彼は振り向きもせず、ずんず
 ん歩いて、やがて横手の窪地を降りて、見えなくなった。
・私は改めて荒れ果てた小屋の内部を見廻した。汚れた床板はところどころはがれ、竹の
 柱は傾き、あらわな板壁にやもりがはっていた。そういうがらんとした小屋の内部は、
 必要以上に生活を飾ろうとしない、比島の農民の投げやりな営みが現れていた。
・男はなかなか帰らなかった。私は不安になった。立ち上がった時の彼の素早い動作が思
 い出された。私は林の奥で、彼の消えたあたりまで行って見た。木々がしんと静まり反
 っているばかりであった。(逃げたな)と思うと怒りがこみ上げて来た。急いで縁まで
 出てみると、果して遠く川の方へ転がるように走って行く後ろ姿が見えた。振り返って
 私の姿を認めると、拳を威嚇するように頭の上で振り、それからまた駆けて行った。そ
 の距離はとうてい弾の届きそうもない、届いても当たりそうもない距離である。私は苦
 笑した。マニラで比島人の無力は増悪の眼を見て以来、彼らに友情を求めるのがいかに
 無益であるか、私はよく知っていたはずである。私は小屋に帰り、山の芋を煮た鍋を蹴
 り返して、その場を去った。彼が逃げた以上、ここに止まるは危険である。
 
坐せる者など
・病院は民家を利用したものであった。部落を構成する三棟の小屋のうち、一棟が医務室、
 二棟が病棟に充てられ、軍医二人衛生兵七人が約五十名の患者を看ていた。
・あらゆる物が不足していた。薬は与えられず、繃帯は変えられなかった。病院はもと海
 岸のある町に開かれていた療養所が、作戦の進行とともに移動したものであるが、その
 時連行した約三十名の独歩患者のほかは、食糧を中隊から携行する者しか受け付けなか
 った。 
・軍医たちは患者を追い出して食糧をセーブすることしか考えていなかった。少しでも下
 痢すると、食事が突然与えれらなかったので、患者は無理しても退院して行った。所在
 不明の原隊を追求するために、一食分の食糧が出発に際し与えられた。
・「また帰って来たのか」と声がかかった。振り返ると顔馴染みの安田という中年の病兵
 の、表情のない顔があった。「行くところがないからさ」と私は単に一般的事実を指摘
 するに止めた。
・私は改めて周囲のわが絶望の同僚を数えた。我々は八人であった。朝私がここを出た時
 にいた六人から一人が去り、二人が新しく到着していた。
・彼らは要するに私同様、敗北した軍隊から弾き出された不要物であった。そして彼らを
 収容すべき救護施設もまた、敗軍の必要からその能力がないことが判明すると、彼らは
 もう行く所がなかった。    
・私が正式の患者としてこの病院で暮した間、私は彼らの様子を注意していた。私もまた
 やがて彼らの仲間に入るかもしれない、と考える理由があったからである。
・小屋から見ると彼らは林縁の汚点のように見えた。思い思いの恰好で横たわり、時々立
 ち上がって無意味にのろのろと動いた。人間よりは動物に近かった。しかも当惑のため生
 存の様式を失った、たとえば飼い主を離れた家畜のように見えた。
・北の方の空を遠雷のような唸りを伴った砲声が渡り始めていた。それは我々が四方に聞
 く乾いた迫撃砲の音とは違った。地響きを伴う鈍い音で、我々が背を向けている岩山の
 後ろを、広い幅で藪って鳴り、谷々にこだましつつ、次第に南へ移って行った。
・「二十五サンチだ」と誰かが指摘した。それは我々が上陸したころも、朝夕きまって一
 時間ずつ、東海岸の米軍の砲兵陣地が、中央山脈を越して送ってきた榴弾であった。
・「なんだな」と新しい兵士は相変わらず嘲るようにいった。「いっそ米さんが来てくれ
 た方がいいかも知れんねぇな。俺たちはどうせ中隊からおっぽり出されたんだから、無
 理に戦争することたあねぇわけだ。一絡げに俘虜にしてくれるといいな」    
・「殺されるだろう」と別の兵士が遠くから答えた。
・「殺すもんか。あっちじゃ俘虜になるのは名誉だっていうぜ。よくもそこまで奮闘した
 ってね。コーン・ビーフが腹一杯食えらぁ」
・「よせ。貴様それでも日本人か」と声がした。


・「おい、おっさん、寝たのか」と近くで声がした。さっき私からトウモロコシをもらい
 そこなった若い兵士の声である。
・「なあ、おっさん、俺の一生の秘密を話さそうか」
・「聞いたってしようがねぇよ」
・「そういうなよ。実はな、今まで誰にもいわなかったがね。俺は女中の子なんだ」
・「うるせぇな。それがどうしたんだ。珍しくもねえ」
・「そうかしら、でも俺はまだ誰も女中の子だって奴に会ったことがねえが」
・「じゃ、こんどは俺の話をしてやろうか」
・「え、おっさんも女中の子か」
・「馬鹿やろ。俺じゃねえ、俺が生ませた子だ」
・「学生の時にできた子だ。おやじに見つかって、別れさせられた。つまりは俺が意気地
 がなかったわけだが、口をきいた兄貴が、感心にその子を里子へ出して育ててくれたん
 だ。俺にゃなんにもいわずにね。俺あ学校出るとすぐ田舎へ勤め口を当てがわれて、追
 っ払われたから知らなかった」
・「兄さんにも子供はあるんだろう」
・「そうさ。がその時はまだなかった。おやじに内証で兄貴が育ててくれた。おやじが死
 んでから、家へ引き取って、俺の子だって打ち明けやがった。しかし一生親子の名乗り
 はさせないってね」
 
砲声
・次に眼をさましたのは、砲声によってであった。音と煙が川の方の空に満ちていた。砲
 声は激しく、間近になり、ゴロゴロと遠雷のような唸りが交り始めた。丘の彼方、私が
 出てきた中隊のあたりの空に、偵察機が一機、獲物を狙う鳥のように、小さな円を描い
 て旋回していた。砲撃はそこに加えられているらしかった。
・敵発火点は不明であるが、これが我々の今まで受けた迫撃砲撃とは違い、組織的な攻撃
 であることは明白であった。あるいは上陸前の艦砲射撃かもしれない。レイテ西海岸の
 平野は浅く、我々は海岸と四キロと離れていなかった。
・砲声は止んだ。小屋は今は太い火束となって、盛んに燃えていた。火の中から、しゅる
 しゅると水の流れるような音が、聞こえて来た。風はなく、煙は真直ぐに突っ立って、
 私の眼の高さの中空から、扇形に開いた。
・私の今取るべき最も英雄的な行為が、再び谷へ下り、倒れた傷兵を助けることにあるの
 は明白であった。しかしその時私の感じた衝動は、私自身はなはだ意外とするものであ
 った。    
・私は哄笑を抑えることができなかった。愚劣な作戦の犠牲となって、一方的な米軍の砲
 火の前を、虫けらのように逃げ惑う同胞の姿が、私にはこの上なく滑稽に映った。彼ら
 は殺される瞬間にも、誰が自分の殺人者であるかを知らないのである。私に彼らと何の
 かかわりがあろう。私はなおも笑いながら、眼の下に散らばった傷兵に背を向けて、径
 を上り出した。 
・名状しがたいものが私を駆っていた。行く手に死と惨禍のほか何もないのは、すでに明
 らかであったが、熱帯の野の人知らぬ一隅で死に絶えるまでも、最後の息を引き取るそ
 の瞬間まで、私自身の孤独と絶望を見極めようという、暗い好奇心かもしれなかった。
  

・ある明け方北西に砲声が起こり、青と赤の照明弾が、花火のように中空に交錯するのが
 見られた。その夜頂上から見渡すと、輝かしい燈火が、見馴れたオルモックの町の輪郭
 を描いていた。西海岸唯一の友軍の基地にも、米軍が上陸したのである。
・糧食はとうに尽きていたが、私が植えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死
 がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目醒めていた。
・死ぬまでの時間を、思うままに過ごすことができるという、無意味な自由だけが私の所
 有であった。携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入ってい
 たが、私はただその時を延期していた。
・死はすでに観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により
 腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、さまざまな元素に分解するであろ
 う。三分の二は水から成るという我々の肉体は、大抵は流れ出し、この水と一緒に流れ
 て行くであろう。    
・私は吐息した。死ねば私の意識は確かに無となるに違いないが、肉体はこの宇宙という
 大物質に溶け込んで、存在するのを止めないであろう。私はいつまでも生きるであろう。
 
九月
・私が命を断つべきは今と思われた。香しい汁と甘い肉を持つ果実が頭上にあり、ここで
 私はいたずらに飢えている。もし私がいつまでもここを去らないなら、やがて樹幹に醜
 くしがみついて、息絶えねばならぬかもしれぬ。まだ自分の行為を選ぶ力が残っている
 うちに、自分にできることをするべきではなかろうか。
・私は過去を探り、その時を確かめようとした。記憶はなかなか来なかった。その時私は
 私を取り巻く椰子の樹群が、変貌しているのに気がついた。それは私が過去のさまざま
 な時において、さまざまに愛した女たちに似ていた。踊子のように、葉を差し上げた若
 い椰子は、私の愛を容れずに去った少女であった。重い葉扇を髪のように垂れて、暗い
 蔭を溜めている一樹は、私への愛のため不幸に落ちた齢進んだ女であった。誇らかに四
 方に葉を放射した一樹は、互いに愛し合いながら、その愛を自分に告白することを諾ん
 じないため、別れねばならなかった高慢な女であった。彼女たちは今私の臨終を見届け
 るために、ここに現れたように思われた。
・私は改めて彼女たちと快楽をともにした瞬間を思い浮かべた。あの女の腿は別の女の腕
 の太さしかなかった。しかし快楽の味わいは、死に近づいた私の肉体のメカニズムによ
 って思い出に入り得ず、その先だった渇望だけが思い出された。
・私は月光の渡った空への渇望が、ある女が私が彼女を棄てる前に私を棄てた時、私の感
 じた渇望に似ていることに思い当たった。私の手の届かないところへ去った女の心と体
 に、私は手の届かないという理由で、ひたすら焦がれた。
 
鶏鳴
・一つの丘があった。両側を細い支流に区切られて独立し、芒が馬の鬣のように、頂上ま
 ではい上がっていた。その形を私はなぜか女陰に似ていると思った。
・静かであった。叢を廻った向こうに家があり、人と鶏がいるのは確かと思われた。一瞬
 逡巡が私を捉えたが、銃を取り直し、押されるように、光の中へ出て行った。
・人はいなかった。一軒の小屋が斜面を見晴らし、数羽の鶏が軒に近い一樹にとまって、
 近づくと、また鳴いた。
・私は地に伏して銃を構え、慎重にねらって撃った。彼らはグライダーほどの角度で飛び
 立ち、斜面の下へ、遠く飛んで着陸した。そしてさらに短く連続して鳴きながら、駆け
 て行った。 
・日本の敗残兵が食糧を漁っているこの山間に、もういう畠が残されていたことは奇跡に
 近かった。   
 
楽園の思想
・こうして私は飽満の幾日かを過ごした。周囲に聞く砲声はたんだん稀になって行った。
 ことに南方の音は全く絶えた。私はその方面の日本軍が全滅し、叢林に屍体の横渡った
 大領域を空想したが、私自身がこの楽園に生きながら、友軍が滅びたと空想したのはか
 なり奇妙である。あるいは私は同胞の死を望んでいたのであろうか。それならば私は
 私の飽満の先に、死を予期していたのである。
・米機も私の楽園の訪問者であった。ある時は澄んだ音で空を満たして、編隊が高く飛び、
 ある時は突如空気を破るような音で、単機が樹の梢をかすめて去った。操縦士は原色の
 スカーフを首に巻き、人形のように前方を向いたまま、不動で過ぎた。その孤独な様子
 が私のうちに一種の共感を呼び起こした。

象徴
・それから毎日、倒木を渡ってこの斜面に坐り、海を眺めるのが私の日課となった。群島
 にかこまれたビサヤ海は静かであった。
・海岸の林の上に光るものは、夕方それが太陽と私の間に位置を占める時、ことによく光
 った。それはどこか、我々の通常樹木に感じる美感の根底をなす、あの自然さを欠いて
 いた。 
・ある日私はその形を確かめるために、私の位置を替えることを思いついた。二十間ばか
 り右へ行った時、私はその棒の、上から少し下がったところの両側に、かすかに耳が出
 ているように思った。その形を私は即座に認知した。十字架であった。
・私は戦慄した。その時私のおそれていた孤独にあっては、この宗教的象徴の突然の出現
 は、肉体的に近い衝撃を与えた。
・オルモックが陥ちた今、あそこにいる人間が日本人である可能性はまずなかった。湾に
 船がないところから見て、米軍がいないのは確かとしても、比島人はいるであろう。そ
 して彼らがいくら彼ら同士の間で、この十字架の下で信心深い生を営むとしても、私に
 対してはすべて敵であった。  
・私は彼らを少しも憎んではいなかったが、私の属する国が彼らの属する国と戦っている
 以上、我々の間には、十字架を含めて、何の人間的関係もあり得なかった。
・しかし私はその十字架から眼を離すことができなかった。黒い飛行機が一機、その上を
 のろのろと動いて行った。
・十字架は私に馴染みのないものではなかった。私は好奇心からそれの近づき、ついでそ
 のロマンチックな教養に心酔したが、その後私の積んだ教養はどんな宗教も否定するも
 のであり、私の青年期は「方法」によって、少年期の迷蒙を排除することに費やされた。
・その結果私の到達したものは、社会に対しては合理的、自己については快楽的は原理で
 あった。小市民たる私の身分では、それは必ずしも私の欲望に十分の満足を与えるもの
 ではなかったが、とにかく私は倨傲を維持し、悔やまなかった。
・私は私の少年時代の思想が果して迷蒙であったかどうか、改めて反省して見た。私が人
 生の入口で神のごとき不合理な存在に惹かれたのは、いかにも私が無知であったからで
 はあるが、その時は生活に即した一つの理由があったのを思い出した。私がすがるべき
 超越的実在者を呼んだのは、そのころ知った性的習慣を、自己の意志によっては、抑制
 できなかったからである。そして私がその行為を悪いと感じたのは、それが快かったか
 らである。    
・「恋愛とは共犯の快楽である」のごとき西欧のカトリック詩人の詩句に、事実において
 私が性愛の行為に、少しもそういう実感を持たなかったにもかかわらず、私の心の一部
 が共感した不思議を私は思い出した。
・あの快感を罪と感じた私の感情が正しいか、その感情を否定して、現生的感情の斜面に
 身を任せた成人の智慧が正しいのか、そのいずれかである。問題の性質上、ここには折
 衷というものはあり得ない。 


・左手の最も近い一軒の家が汚い横側を見せ、屋根が傾き、木の階段に階が欠けていた。
 棒が揚戸を支えた窓の内部にも、動くものはなかった。
・私はその家に駆け寄り、階の欠けた階段を飛び上がって、踏み込んだ。空であった。隅
 に置かれた一つの櫃は蓋が開き、安物の女の下着や、子供のサンダルなぞが散らばって
 いた。 
・状況が示すところは、この家の住民が急いで出て行ったか、掠奪されたかである。しか
 し明白な米軍の痕跡にあるのに、なぜ比島人は去る必要があったか。私はなおも理解す
 ることはできなかったが、ただこの村は無人らしい、ということだけは感じた。
・けたたましい犬の声がし、二匹が道の端に現れ、まっしぐらに駆けて来た。そして私の
 前方数間に立ち止まると、牙をむいて吠えた。膝から下が保護されている場合、地に匍
 う動物は無視することができる。私は銃口を下げて彼らを脅かしつつ、忙しくあたりに
 眼を配った。犬の声によって警告された人間の方が、懼るべきであった。
・何も動かなかった。私は眼を犬に戻した。私は彼らの表情に、飼育動物の優しさがない
 のに気がついた。彼らは今は低く唸っていた。私の上体を窺っているように思われた。
・私は立ったままねらった。しかし銃は犬の既知の懲戒具に入っていないらしく、犬は少
 しも怖れる気配がなかった。むしろ犬に攻撃され、発砲を強いられるのを、私の方で懼
 れた。私は遠くの丘に見た野火を意識した。銃声によってあそこにいる比島人を刺激し
 てはならぬ。
・私は銃を下げて腰に支え、なおも犬の態度に注意しつつ、素早く剣を抜いて、銃口に刺
 した。その時赤犬が跳躍した。真直ぐに私の喉に向かって来た。私の剣は空中で彼の体
 を受け、彼の肋骨の間に入った。血が飛び、彼の体は私の銃とともに横に降りた。
・他の一匹はすでに遁走しつつあった。警戒するように高く鳴きながら、径の端れの椰子
 の根方まで突っ走り、そこで立ち止まって、けたたましく吠え立てた。犬は左右から集
 まって数匹となり、並んで吠えた。私は進んで行った。
・この町が無人であることを私は確信した。住民は私の知らない原因によって、米軍の通
 過後再び逃亡したのである。
・私はその水道でまず犬の血のついた剣を洗った。敵を殺すために国家から与えられた兇
 器を、私が最初に使用したのが、獣を殺すためであったのは、何となく皮肉であった。
   
物体
・会堂の階段の前の地上にあった数個の物を、私がそれまで何度もそこに眼を投げたにも
 かかわらず、ついに認知しなかった理由を考えてみると、この時私の意識が、いかに外
 界を映すという状態から遠かったかがわかる。不安な侵入者たる私が、ただ私に警告す
 るものしか、注意しなかったのである。「物」と私が書いたが、人によっては「人間」
 と呼ぶかもしれない。いかにもそれはある意味では人間であったが、しかしもう人間で
 あることを止めた物体、つまり屍体であった。
・その時私が感じたのは、一種荒涼たる寂寥感であった。孤独な敗兵の裏切られた社会的
 感情であった。このすでに人間的形態を失った同胞の残骸で、最も私の心を傷ましめた
 のは、その曲げた片足、拡げた手等が示すらしい、人間の最後の意志であった。
・私はようやくこの村の状況を理解した。これらの屍体の前身たる日本の敗残兵は、おそ
 らく米兵が通過した後にこの村に現われ、掠奪して住民の報復を受けたのである。ある
 屍体の傍に投げだされてあった、大きな薪割りがその証拠であった。そしてその後も、
 たぶん頻繁なる日本の敗残兵の出没によって、住民は再び村を棄てたのであろう。
   
デ・プロフンディス
・私は屍体の群れを迂回し、会堂の階段を上った。内部は整頓されていた。
・中はやはり掠奪の跡を示していた。戸棚は開けられ、器物の蓋はことごとく取られて、
 空になっていた。書棚が開けられていない唯一のものであった。


・歌が聞こえて来た。それはスペインの旋律から肉感を奪って哀愁だけを残した、あの聞
 きなれた比島の歌であって、若い女声であった。
・夜はもう遅いらしく、月が出ていた。弱い斜めの光が、海面を銀に光らせていた。一隻
 のバンカーが光の上に黒く動いていた。二人の人間が乗っていた。
・男が艫に坐り、女が櫂を持って、漕ぎながら歌っていた。時々女は笑った。私は歯ぎし
 りした。   
・舟はやがて渚に着き、男がまず飛び上がって舟を曳いた。女は男の手にすがって岸に立
 つと、二人は手を取り合ったまま、笑いながら駆けて来た。
・私はなぜか彼らのこの家に来るに違いないと確信した。頭を窓の下に隠し、耳を澄ませ
 た。砂を踏む足音と笑い声が近づき、裏の戸が開いた。
・彼らは相変わらず笑っていた。私の第一の直感は人目を忍ぶ恋人たちが、この死の村を
 媾曳の場所に選んだということであった。しかも彼らは随分台所に用があるらしかった。
・私は音を立てた。話し声がとまった。私は立ち上がり、銃で扉を排して、彼らの前に出
 た。   
・二人は並んで立ち、大きく見開かされた眼が、椰子油の灯を映していた。
・女は叫んだ。こういう叫び声を日本語では「悲鳴」と概称しているが、あまり正確では
 ない。それはおよそ「悲」などという人間的感情とは縁のない、獣の声であった。
・女の顔は歪み、なおもきれぎれに叫びながら、眼は私の顔から離れなかった。私の衝動
 は怒りであった。 
・私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血痕が急に拡がり、女
 は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた。
・男が何か喚いた。また射った。弾は出なかった。私は装填するのを忘れたのに気がつき、
 慌ただしく遊底を動かした。手もとが狂って、うまくはまらなかった。 
・男はこの時進んで銃身を握るべきであった。が、彼の取った行動は全く反対のものであ
 った。パタンと音がし、眼を挙げると、彼の姿は外に消えていた。私も続いて出た。
・男はすでに浜に降り、私の覘いを避けるためであろう、S字を描いて駆けていった。舟
 を押し出し、飛び乗って、忙しく漕いで行った。私は砂に折り敷き、いい加減に発射し
 た。
・女の体はすでに屍体の外観を現し始めていた。息が沼から上る瓦斯のように、ぶつぶつ
 口から洩れていた。私は耳を近づけて、その音が止むまで聞いた。
・私はこの行為に導いた運命が誤っているせよ、私の心が誤っているにしよ、事実におい
 て、私が一個の暴兵にすぎないのを、私は納得しなければならなかった。
・私は私の犠牲者がここまで来た理由に好奇心を起し、室に彼らの行為の跡を探した。床
 板があげられ、下に一つのドンゴロスの袋が口を開けていた。中に薄黒く光る粗い結晶
 は、彼ら人類の生存にとっても、私の生存にとっても、はなはだ貴重なものであった。
 塩であった。
    

・男が去った以上、私は村に留まることはできなかった。雑嚢に塩を詰められるだけ詰め
 て、私はその家を出た。
・悲しみが私の心を領していた。私が殺した女の屍体の形、見開かれた眼、尖った鼻、快
 楽に失心したように床に投げ出された腕、などの姿態の詳細が私の頭を離れなかった。
・後悔はなかった。戦場では殺人は日常茶飯事にすぎない。私が殺人者となったのは偶然
 である。私が潜んでいた家へ、彼女が男とともに入って来た、という偶然のため、彼女
 は死んだのである。  
・なぜ私が射ったのか。女が叫んだからである。しかしこれも私に引き金を引かす動機で
 はあっても、その原因ではなかった。弾丸が彼女の胸の致命的な部分に当たったのも、
 偶然であった。私はほとんどねらわなかった。これは事故であった。しかし事故ならば
 なぜ私はこんなに悲しいのか。
・昨夜からの私の行為は、この循環の中にはなかった。しかし結果は、一人の比島の女を
 殺すことで終わった。あれは事故であったが、しかしもし事故がおこったのが、私がそ
 の循環からはずれたためだったとすると、やはり私の責任である。
・銃は月光に濡れて黒く光った。それは軍事教練のため学校へ払い下げたのを回収した
 三八銃で、遊底蓋に菊花の紋が、バッテンで消してあった。私は吐き気を感じた。
・すべてはこの銃にかかっていたのを、私は突然了解した。いくら女が不要慎で、私が理
 由なく山を降りたにしても、もしあの時私の手に銃がなかったら、彼女はただ驚いて逃
 げ去るだけですんだであろう。
・銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は国家に有用であると同じ程
 度に、敵にとっては危険な人物となったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意
 味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜の人が死んだ原因が
 ある。   
・私はそのまま銃を水に投げた。ごぼっと音がして、銃はたちまち見えなくなった。孤独
 な兵士の唯一の武器を捨てるという行為を馬鹿にしたように、呆気なく沈んだ。
・私は後悔したが、諦めていた。一度川底の泥に埋まった銃を、再び使用可能の状態に戻
 す困難は別としても、拾えばまた棄てるほかはないのを、私は知っていた。
  
同胞
・最後の林を出はずれと、私は切り開かれた畠の斜面の、朝の光の中に動く、三つの人影
 を見た。戦闘帽に緑色の襦袢、見違うことはできなかった。日本兵であった。涙が突然
 左右の地面に落ちた。
・「おめえ、どこの兵隊だ」と彼はいった。「小泉兵団村山隊歩兵、田村一等兵でありま
 す」「村山隊はアルベラで全滅したっていうぞ」「班長殿はどこの隊でありますか」
 「大島隊だ。ブラウエンへ斬り込んで、さんざんやられての帰りさ」
・こんなに芋がしこたま手に入ったのは、天の祐けさ、これだけありゃ、バロンポンまで
 持つだろう」バロンポンとは島の西北の半島突端の、後続部隊が上陸した町である。 
・「班長殿たちはバロンポンへ行かれるのでありますか」 
・「おめえ、また知らねえか。レイテ島の兵はことごとくバロンポンに集合すべし、って
 軍命令が出ている。お偉方もやっと、とてもいけねえと気がついたらしい。どの隊もみ
 んなそっちへ退却中だ」 
・「俺たちはニューギニアじゃ人肉まで喰って、苦労して来た兵隊だ。一緒に来るのはい
 いが、まごまごすると喰っちゃうぞ」
 
行人
・「飛行機に気をつけるんだぞ。道はならって来るからな」と伍長はいった。米機が道を
 ねらうのはもっともであった。三々五々連れ立った日本兵が、丘の蔭、叢林から不意に
 現れて、道に加わった。そしてやがて一個中隊ほどの蜿蜒たる行軍隊形になった。
・兵たちの状態は、見違えるように、悪くなっていた。服は裂け、靴は破れ、髪と髭が伸
 びて、汚れた蒼い顔の中で、眼ばかり光っていた。彼らはそれぞれ飢え、病み、疲れた
 体を引きずって、一つの望みにつながり、人におくれまいとして、一条の道を歩いて行
 った。
・軍命令は米軍にも知られているのであろう。林中の道ですら、頭上に低く飛行機の爆音
 を聞き、機銃掃射があった。兵たちは急いで四散し、新しい死者と傷者が道端に増えた。
・路傍に倒れた兵士の数が多くなった。私は死んだ兵士の銃を取る機会をねらっていたが、
 死者の傍に銃があることは絶えてなかった。最初から持っていないか、あるいは素早く
 取り去られるからであろう。   


・それから雨になった。レイテ島は雨季に入ったのである。
・兵士が倒れていた。彼らの体の下部は、草を流れる水に浸されていた。水の顔を伏せて
 動かないのは、息絶えたのであろう。
・屍体はピンと張った着衣のほか、何も持っていなかった。靴もはぎ取られたとみえ、裸
 わな足が、白鳳の天女の足のようにむくんで、水にさらされていた。
・雨のため頭上に飛ぶ米機が減ったかわりに、敗兵の列は自動小銃を持つゲリラによって、
 側面から脅かされた。道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿っていたが、そ
 ういうゲリラの攻撃によって、我々はされに山奥の杣道に追い込まれた。
・川もいくつか越えねばならなかった。水嵩を増した濁った流れが、飢え疲れた兵士の足
 をされって、呆気なく川下に運んで行った。
・濡れた兵士の歩み遅く、間隔は長くなった。濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道
 端に脱ぎ棄てられた。しかし「履けない」という判断は人によって異なるとみえ、それ
 ら脱ぎ棄てた靴を拾ってははき、次に棄てられた靴を見出すとはき替え、そうしてはき
 継いで行く者もあった。
・私が原駐地以来はいていた靴は、山中の畠を出た時すでに、底に割れ目が入っていたが、
 ある日完全に前後が分離した。私は裸足になった。
 
三又路
・戦闘当初、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部
 隊が、この辺りに多少の部隊体形を保ちつつ残っていた。ある夜我々は丘の向こうの国
 道上に、聞き馴れた日本軍の機銃と小銃の音が起こるのを聞いた。強行突破であった。
・国道には時々米軍のトラックや、緑色の小型自動車が通った。私が接触した最初の「敵」
 である。トラックには深い鉄帽をかぶった兵士が乗り、我々の潜む斜面に、気まぐれに
 自動小銃を打ち込んで行った。あるいは何か叫んで行った。
   

・チッとその群れの中で、金属が金属に当る音がした。途端に前から光が来た。同時に弾
 が来た。「戦車」と二、三の声が叫んだ。
・とっさに腹ばいにになった私は、前方の林に、巨人の眼のように輝いて動く、数個の光
 源が並んでいるのを認める暇があった。そして私の両側の草原が、交錯する光芒に照ら
 された、伏せた兵士の埋まっているのも。 
・土に額をつけた。顔の両側の小さな視野に光が輝くごとに、弾が風にあおられるように、
 頭の上を薙いで通った。私はじりじりと後ろへ下がった。物を叩くような発射音と、左
 右の泥のはね上がる鋭い音の合間に、私は自分の手と足の運動を、高速写真を見るよう
 に、のろく意識した。
・「わー!」と叫ぶ声が、立ち上がり、前進して、途切れた。私h再びそれが伍長だと思
 った。 
・私も立ち上がり、後ろ向きに駆けた。土手の草は、その上に自分の影がうつるかと思わ
 れるほど、明るかった。その明るさ目がけて駆け続けた。(土手の手前に溝があったっ
 け、あそこまで)溝の岸のエメラルドに光る草から、横ざまに倒れ込んだ。
・溝の水は音を立てて流れていた。弾は私の上を渡り、光も渡って、相変わらず土手を明
 るくし続けていた。しばらくはこうしていられる、と私は思った。洗車は湿地を渡って
 は来ないだろう。米兵はたぶん突撃しては来ないだろう。
・どれほど時間が経ったろう。銃声がやんだ。探照燈の光だけ、いつまでも土手の草の上
 を往来し、やがて一つ残った光が、叫び声のように一ヵ所にじっとしていたが、消えた。
・あとは再び案億と静寂であった。何も動くものはなかった。私と一緒に匍匐前進した兵
 たちは、どこへ行ったかわからなかった。
    
出現
・その道が白く開けて行くのを、私は丘の頂の叢から眺めた。道の向こう、林の前の原に、
 日本兵の屍体が点々と横たわっているのが見えた。その数は、昨夜戦車に照らされた時
 に見た数より、はるかに少ないと思われた。(俺みたいに逃げて来た奴も、いるのかな)
・それから弾が来た。迫撃砲の乾いた発射音が前方の林で起こり、私のいる丘は一面に射
 たれた。私は急いで反対の斜面を下り、弾の来る方向に背を向けて、一つの窪地に身を
 潜めた。弾着はだんだん延びて、私の周囲も喧しい炸裂音で埋まった。土煙はさらに下
 の草原を渡り、向かい側の丘を匍い上った。木の枝が飛ぶのが見えた。
・おそらく崎谷の銃声に驚いたのであろう、あたりに日本兵の姿はなかった。その空虚な
 緑の丘と原が、ひたすら射たれた。弾は一通り私の視野を埋め尽くすと、さらに遠く脊
 梁山脈の中までも拡がっていった。
・一時間もたったかと思われた後、ついに砲声が熄んだ。すると飛行機が一機、低く丘の
 頂をかすめて現われ、斜面の林に機銃掃射を加えて去った。爆音は遠ざかり、空で鋭い
 旋回音を聞かせると、また空気を破る音を立てて丘に現われ、射って舞い上がった。そ
 うしてさまざまな角度から、反復して射って廻った。
・その飛行機もついに去った。私は再び丘の稜線を越し、広い湿原の向こうの林に、トラ
 ックが姿を現わす前から、射撃の音が聞こえて来た。兵士たちはひたすら射ち続け「う
 えい」と喚声を挙げながら、私のいる丘の林を盲滅法に射って、通り過ぎた。
・やがて一台の赤十字のマークを附けた車が道に止まり、五人の衛生兵が下りた。無造作
 に林の前に散らばった日本兵の屍体を点検して廻った。二人が車へ帰り、後部の開き戸
 から、乱暴に担架を引きずり出すのが見えた。重ねたまま、倒れた日本兵の間へ持って
 行くと、馴れた動作で地上に並べた。そして何か叫び声をあげながら、それぞれに一つ
 ずつ、屍体を載せて車まで運んだ。
・内部へ収容するまで、一つの担架がしばらく道の上に放置された。その上に横たわった
 屍体の頭部に、米兵が何かを挿すのが見えた。ライターが光った。すると意外にもその
 屍体が軽く頭をもたげた。細い煙がゆるやかに日光の中に立ち上げった。煙草であった。
 その屍体は生きていた。
・私は息を詰め、この情景を見続けた。あの同胞は生きていた。負傷しただけで、生きて
 いた。そして今後も米軍の病院で生き続けるであろう。それから祖国の土地に松葉杖を
 突いて、いつまでも、たぶん死ぬまで生き続けるであろう。私が昨夜かすり傷一つ受け
 ず、逃げ帰ったのが、幸運であったかどうか、疑問であった。
・その日一日、私は道に再び赤十字のマークをつけた車が来るのを見張っていた。トラッ
 クは絶えず通り、相変わらず威嚇射撃を続けて行った。しかし私の待つその車は二度と
 来なかった。   
・この時私が降服するつもりであったかどうかはいいがたい。ただこの時私が降服の用意
 をし始めていたということはできよう。
・問題は私の降服の意志をどうして「敵」に表示するかであった。私が思いついたのは、
 やはり白旗という古典的方法であった。この時私の持物で白いものといえば、褌一つで
 あった。それも垢と泥でよごれ、茶褐色になっていた。この標識が通用するであろうか。
 敵はそれを遠方から「白旗」と認めるであろうか。
・一台の小型自動車が来て、私の潜む叢の前で止まった。故障らしく、降り立った一人は、
 後部に廻って車輪を調べ、ほかの一人は銃を構えて、四方へ眼を配っていた。(駄目だ、
 こいつは射たれる)   
・さらに大きな障害がそこにあった。笑って何か喚きながら、一人の比島の女が、車から
 出て来た。緑色の米軍の制服と脚絆をつけ、腰に弾帯を巻いて、軽く自動小銃を肩にか
 けた、勇ましい姿であった。彼女は白い歯を出し、警戒の米兵に身を寄せて、屈託なさ
 そうに笑った。
・私はそのゲリラの女兵士が海岸の村で殺した女に、似ていると思った。そしてここへは
 出て行けないと思った。
・私はすでに標識として、茶褐色の褌を木の枝に結んだ「白旗」を用意していた。私はそ
 れを地上においた。そして今すぐその死の必要を充たすため、私が殺した女によく似た
 女兵士の銃の前に、身を曝そうかどうかと思案していた。
・その時、十間ばかり離れた叢から、一つの声が起こった。声は「こーさーん」と叫び続
 けながら、道へ、自動車へ向けて駆けた。
・私はその日本兵をまた伍長だと思った。彼は叫びながら駆け、泥に足を取られてのめっ
 た。銃声が起こった。一発の上に、容赦なく五、六発重なった。女兵士は自動小銃を腰
 にあてて、発射していた。米兵が慌ててその終身を握るのが見られた。女はなおも白い
 歯をむき、銃を米兵と争って喚き続けた。
・日本兵は、泥の上に伏し、動かなかった。緑色の襦袢の背中に、あざのような赤い斑点
 が現われ、次第に拡がって行った。
    

・私はその米兵と比島の女兵士のいる道から引き返した。中隊を出て以来、幾度となく
 「引き返した」経験の、もはやこれが最後であると、私は感じた。
・至るところに屍体があった。生々しい血と臓腑が、雨あがりの陽光を受けて光った。ち
 ぎれた腕や足が、人形の部分のように、草の中にころがっていた。生きて動くものは、
 蠅だけである。
・私はある干いた屍体についている靴を取ってはいた。臭気が手と足にしみた。
・生きている人間にも会った。私同様、無帽無銃裸足で、飯盒だけぶらさげた姿であった。

飢者と狂者
・いくら草も山蛭も喰べていたとはいえ、そういう食物で、私の体がもっていたのは、塩
 のためであった。雨の山野を彷徨いながら、私が「生きる」と主張できたのは、その二
 合ばかりの塩を、注意深く節しながら、嘗めて来たからである。その塩がついに尽きた
 時、事態は重大となった。
・少し前から、私は道傍に見出す屍体の一つの特徴に注意していた。海岸の村で見た屍体
 のように、臀肉を失っていることである。最初私は、類推によって、犬か鳥が喰ったの
 だろうと思っていた。しかしある日、この雨季の山中に螢がいないように、それらの動
 物がいないのに気がついた。雨のはれまに、相変わらずの山鳩が、力なく鳴き交すだけ
 であった。蛇も蛙もいなかった。
・誰が屍体の肉を取ったのであろう。私の頭は推理する習慣を失っていた。私がその誰か
 であるかを見抜いたのは、ある日私が古典的な「メデューズ号の筏」の話を知っていな
 かったら、あるいはガダルカナルの飢兵の人肉喰いの噂を聞き、また一時同行したニュ
 ーギニアの古兵に暗示されなかったら、果してこの時私が飢えを癒すべき対象として、
 人肉を思いついたかどうかは疑問である、先史的人類が喰べあった事実は、原始社会の
 雑婚とともに、学者の確認するところであるが、長い歴史と因習の影の中にある我々は、
 嫌悪の強迫なくして、母を犯し人肉を喰う自分を、想像することはできない。
・この時私はそういう社会的偏見を無視し得たのは、極端な例外を知っていたからであっ
 たと思われる。そしてこの私の欲望が果して自然であったかどうか、今の私は決定する
 ことができない。記憶が欠けているからである。恋人たちがその結合のある瞬間につい
 て、記憶を欠くように。   
・私の憶えているのは、私が躊躇し、延期したことだけである。その理由は知っている。
 新しい屍体を見出すごとに私はあたりを見廻した。私は再び誰かに見られていると思っ
 た。比島の女ではあり得なかった。私は彼女を殺しただけで、喰べはしなかった。
・生きた人間に会った。彼の肉体がなお力を残していることは、その動作で知られた。立
 ち止まり、調べるように私の体を見廻す彼の眼つきを、私は理解した。彼も私を理解し
 たらしい。  
・私の眼は、人間ならば、動かぬ人間を探していた。新しい、まだ人間の形態を止めてい
 る屍体を。そして孤立した頂上の木に、背をもたせて動かぬ一個の人体を見た。彼は眼
 を閉じていた。彼は生きていた。眼が開いた。真直ぐに太陽を見ているらしかった。
・齢は四十を越えているらしい。彼の服は将校の服であった。ただ剣も拳銃も持っていな
 かった。彼は眼を開け、手で蠅を払い、深く叩頭した。「天皇陛下様、大日本帝国様。
 何とぞ、家へ帰らしてくださいませ」
・「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに、俺が死んだら、ここを喰べてもいいよ」彼
 はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。
  

・私はその将校の屍体をうつ伏せにし、顎に水筒の紐をかけて、草の上を引き摺った。
 その草の灌木に蔽われた蔭で、私は誰にも見られていないと思うことができた。
・私は屍体の襦袢をめくり、彼が自ら指定した上膊部を眺めた。
・私はまず屍体を蔽った蛭を除けることから始めた。私は右手で剣を抜いた。私は誰も見
 てはいないことを、もう一度確かめた。
・その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。こ
 の奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。私が喰べてはいけないものを喰べ
 たいと思うと、その食物が目の前に出される前から、和足の左手は自然に動いて、私の
 匙を持った方の手、つまり右手の手首を、上から握るのである。
・そうしてしばらく、力をこめたため突起した掌骨を見つめているうちに、私が今まさに
 喰べたいと思っているのは、死人の肉であるか、それともその左手の肉であるかを疑っ
 た。
・この変な姿勢を、私はまた誰かに見られていると思った。その眼が去るまで、この姿勢
 をこわしてはならないと思った。
・私は起き上り、屍体から離れた。


・斑な萱の原を越え、十間ばかり先の林の暗い幹の間に、厨子の中に光る仏像のような、
 二つの眼だ。眼は二つだけではなかった。その眼の下にただ一つ、鋭く白い完全な円の
 中に、洞のように黒く凹んだまた完全な円。鋼鉄の円。銃口であった。
・私は獣のように、砂に耳をつけ、音を聞いた。音は近づいて来た。靴ははいていない。
 ひそかに礫と砂を踏む音であった。たしかに人間の重量を載せた足が、地球を踏む音で
 あった。 
・そしてついに彼が現われた。掌を押し開いて、そこに立ち、私を見下ろした。
・蓬々と延びた髪、黄色い頬、その下に勝手な方向に垂れた髯、眠たげに眼球を蔽った瞼
 は、私がこれまでに見た、どんな人間にも似ていなかった。
・その人間が口を利いた。しかも私の名前を呼んだ。「田村じゃないか」ぼろぼろに破れ
 た衣服が、日本兵の軍服の色と形を残していた。「永松」と、ついに病院の前で知った、
 若い兵隊の名を呼ぶと、目先が昏くなった。
  

・「しっかりしろ、水だ」私はその水筒を引ったくり、一気に飲み干した。永松はじっと
 私を見ていたが、雑嚢から黒い煎餅のようなものを出し、黙って私の口に押し込んだ。
・その時の記憶は、乾いたボール紙の味しか、残っていない。しかしそれから幾度も同じ
 ものを喰べて、私はそれが肉であったのを知っている。干いて固かったが、部隊を出て
 以来何ヵ月も口にしたことのない、あの口腔に染みる脂肪の味であった。
・いいようのない悲しみが、私の心を貫いた。そえでは私のこれまでの抑制も、決意も、
 みんな幻想にすぎなかったのであろうか。僚友に会い、好意という手続きによれば、私
 は何の反省もなく喰べている。しかもそれは私が一番自分に禁じてきた、動物の肉であ
 る。  
・肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何か
 が私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった。
・私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。「猿の肉さ」
・あの猿の肉を喰べて以来、すべてなるようにしかならないと、私は感じていた。


・「(手榴弾は)実はあったんだ。雑嚢にね」私は何気なく取り出して、安田に渡した。
 「ほう、九九式だな。こりゃ使えそうだ」そういいながら、彼の取った動作は奇妙なも
 のであった。彼は当然のことのように、さっさと自分の雑嚢にしまうと、しっかり紐を
 結んでしまった。
・「おい、返してくれ」「返してもいいが、だれが持っていても同じだろう」「返せ」私
 は安田の雑嚢へ手を延ばすと彼は剣を抜いた。私は飛びのいた。私もまた剣を持ってい
 たが、この密林の友人と、なぜ剣を抜いてまで、一個の手榴弾を争う必要があるのか、
 わからなかった。
・その時遠く、バーンと音がした。「やった」と安田が叫んだ。私は銃声のした方へ駆け
 て行った。林が疎らに、河原が見渡せるところへ出た。一個の人影がその日向を駆けて
 いった。髪を乱した。裸足の人間であった。緑色の軍服を着た日本兵であった。それは
 永松ではなかった。銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駆け続けた。
・振り返りながらどんどん駆けて、やがて弾が届かない自信を得たか、歩行に返った。そ
 して十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった。
・これが「猿」であった。私はそれを予期していた。
・かつて私が切断された足首を見た河原へ、私は歩み出した。萱の間で臭気が高くなった。
 そして私は一つの場所に多くの足首を見た。足首ばかりではなかった。その他人間の肢
 体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。陽にあ
 ぶられ、雨に浸されて、思う存分に変形した。それら物体の累積を、叙述する筆を私は
 持たない。 
・しかし私がそれを見て、何か衝撃を受けたかと書けば、誇張になる。人間はどんな異常
 の状況でも、受け容れることができるものである。
・私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に
 生きて行くことを、私は少しも怖れなかった。
 
転身の頒
・「やい、帰って来い」と声がした。振り返ると、林の縁に永松がいて、銃で覘っていた。
 私は微笑んだ。私は演技する自由を持っていた。今は私の所有しない手榴弾を握る振り
 をし、構えた握りをした。「よせ。よせ。わかった」永松は笑って、銃口を下げた。
・手榴弾を持った安田を殺すために永松が考えた方法は、彼の若さに似合わぬ、狡猾なも
 のであった。彼の予想では、武器を握った以上、安田は必ず我々を殺しに来るのであっ
 た。そしてそのためのテントを立ち退いて、どこかで我々を待ち伏せているのであった。
・「いいか、まず彼奴に手榴弾を使わちまわないとまずい。声を出せば、きっと抛って来
 やがるから、怒鳴って、途端に逃げるんだぞ。」
・彼は林の奥へ叫んだ。「おーい、安田。獲って来たぞ」そして踝を返して急に駆け下り
 た。後ろで炸裂音が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎ取った。私は
 地に落ちたその肉を泥を払い、すぐ口に入れた。私の肉を私が喰べるのは、明らかに私
 の自由であった。    
・「畜生。なんて悪賢い野郎だ」永松は歯ぎしりした。ついに声は止んだ。ただ草を匍う
 音が近づき、泉の向こうの崖の上に、頭が現われた。しばらくそうしてじっとしていた
 が、不意に、全身を現し、滑り降りた。
・永松の銃は土にもたせて、そこへ照準をつけてあった。銃声とともに、安田の体はひく
 っと動いて、そのままになった。
・永松が飛び出した。素早く蛮刀で、手首と足首を打ち落とした。怖ろしいのは、すべて
 これらの細目を、私が予期していたことであった。
・私は立ち上げり、自然を超えた力に導かれて、林の中を駆けて行った。泉を見下ろす高
 みまで、永松が安田を撃った銃を、取りに行った。
・永松の声が迫って来た。「「待て、田村。よせ、わかった、わかった」
・新しい自然の活力を得た彼の足は、私の足より早いようであった。私はかろうじて、一
 歩の差で、彼が不注意でそこに置き忘れた銃へ行き着いた。
・永松は赤い口を開けて笑いながら、私の差し向けた銃口を握った。しかし遅かった。
・この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに喰べなかった。
 喰べたなら、憶えていつはずである。
・私は私の手にある銃を眺めた。やはり学校から引き上げた三八銃で、菊花の紋がばって
 んで刻んで、消してあった。私は手拭いを出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭っ
 た。
・ここで私の記憶は途切れる・・・。
  
狂人日記
・あれから六年が経った。鉄の遊底蓋を払ったままで、私の記憶は切れ、次はオルモック
 の米軍の野戦病院から始まっている。私は後頭部に打撲傷を持っていた。頭蓋骨折の整
 復手術の痛さから、私は我に返り、シダに識別と記憶を取り戻して行ったのである・
・私はどうして傷を受け、どういう経路で病院に運ばれたかを知らなかった。米軍の衛生
 兵の教えるところによれば、私は山中でゲリラに捕らえられたので、傷は多分その時受
 けたのだろうという。 
・俘虜病院に収容された当初、私は与えられる食膳に対し、一種の儀式を行うことで、同
 室者の注意を惹いたそうである。人々は私を狂人とみなした。しかし私は、今でもそう
 だが、自分のせずにいられぬことをするのを、恥じないことにしている。
・主私が突然その儀式をやめたのは、してもしなくても同じことだと、思ったからである。
 私は私の心を人に隠すのに、興味を覚えるようになった。
・部隊を離れてからの経験について、私は誰にも語らなかった。比島の女を殺したことは、
 戦争犯罪者に加えられるおそれがあり、たとえ人肉常食者にせよ、僚友を殺したことを、
 俘虜の仲間がどう思うかわからなかったからである。
・私は求めて生を得たのではなかったが、いったん平穏な病院生活に入ってしまえば、強
 いてその中断を求める根拠はなかった。人は要するに死ぬ理由がないから、生きている
 にすぎないだろう。そして生きる以上、人間どもの無稽なルールに従わなければならな
 いことも、私は前から知っていた。祖国には妻がいた。
・妻は無論喜んで私を迎えた。彼女のうれいそうな顔を見ると、私自身もうれしいような
 気がした。しかし何かが私と彼女の間に挿まったようであった。それは多分比島の山中
 の奇怪な体験と、一応いっていいであろう。人を殺したとはいえ、肉は喰わなかったの
 だから、なんでもないはずであり、私の一方的な記憶が、妻との生活の間に「挿さまる」
 なぞ、比喩としてまずい比喩であるが、どうもほかに考えようもない。
・だから五年後、私が再び食膳を前に叩頭する儀式を恢復し、さらにあらゆる食物を拒否
 するようになった時も、私としては別におかしいとも、止めねばならぬとも思う根拠は
 ないわけである。     
・五月のある日この精神病院へ連れて来られて、比島の丘の緑に似た、柔かい楢の椚の緑
 が、建物を埋めているのを見た時、ああ、この世で自分が来るべきところはここであっ
 た、早くここに気がつけばよかったと思った。
・ついに私が入院ときまり、私が重い扉の内側に、妻はその外側に立った時、妻が私の
 注いだ涙を含んだ眼に、私が彼女の心に殺したものの重さを感じたが、しかし心を殺す
 くらい何であろう。彼は幾つかの体を殺して来た者である。
・しかも妻の心が彼女の全部ではないのも私は知っている。人間がすべて分裂した存在で
 あることを、狂人の私は身をもって知っている。分裂したものの間に、親子であろうと
 夫婦であろうと、愛なぞあるはずがないではないか。
・この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しいこと、つまり戦争をさ
 せようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから
 別として、再び彼らに欺されたらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が
 比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは、思い知るであろう。
 戦争を知らない人間は、半分は子供である。  
・しかし革命家たちはこの組織を破滅さすのに、実に愚劣な方策しか案出できないのであ
 って、しかも互いに一致せず、つまらぬ方針の争いを繰り返している。
・誰も私にもう一度戦場で死ぬのを強制することはできないと同様、方針の部分品として、
 街頭に倒れることを強制することもできない。誰も私にいやなことをさせることはでき
 ないのである。 
・不本意ながらこの世へ帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。戦争へ
 行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。そ
 れが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。生還も偶然であっ
 た。その結果たる現在の私の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子を、
 私は全然見ることができなかったかも知れないのである。
・しかし人間は偶然を容認することはできないらしい。偶然の系列、つまり永遠に堪える
 ほど我々の精神は強くない。出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、
 我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々のつちの
 生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか呼んでみずから慰めている。ほかに考え
 ようがないからだ。 
・看護人が多く旧日本軍の衛生兵であるのははなはだ皮肉であるが、彼らが時々患者を殴
 る様子に、彼らの前身を偲ぶのも私には快い。前線の私の生活と、現在の生活との間に、
 一種の繋がりを感じさせるからである。
 
再び野火に
・私の家を売った金は、私の当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれるようで
 ある。私は妻はもちろん、附添婦の同質も断った。妻に離婚を選択する自由を与えたが、
 驚くべきことに、彼女はそれを承諾した。しかもわが精神病医と私の病気に対する共通
 の関心から感傷的結合を生じ、私を見舞うのを止めた今も、あの赤松の林で媾曳してい
 るのを、私はここにいてもよく知っているのである。
・どうでもよろしい。男がみな人喰い人種であるように、女はみな淫売である。各自その
 なすべきことをなぜばよい。 
・比島の女を殺した後、私がその罪の原因と考えた兇器を棄てて以来、私が進んで銃をと
 ったのは、その時が始めてであった。そして人喰い人種永松を殺した後、なお私が銃を
 棄てていなかったところをみると、私はその忘却の期間、それを持ち続けていたと見な
 すことができる。私は依然として神の怒りを代行しようと思っていたのであろうか。
 
死者の書
・私、不遜なる人間は暗い欲情に駆られ、この永遠を横切って歩いて行く。銃を肩に、ま
 るで飢えてなぞいないかのように、取りつくろった足取りである。
・野火に向かい、あの比島人がいるところへ行きつつある。すべてこの神に向かい縦に並
 んだ地球の上を、横に匍って、神を苦しめている人間どもを、懲らしめに行くのだ。
・しかしもし私が天使なら、なぜ私はこう悲しいのであろう。もはや地上の何者にも縛ら
 れないはずの私の中が、なぜこう不安と恐怖に充たされているのであろう。
・人は死ねば意識がなくなると思っている。それは間違いだ。死んでもすべては無にはな
 らない。それを彼らにいわねばならぬ。
・夢の中を人が近づいた。足で草を掃き、滑るように進んできた。今や、私と同じ世界の
 住民となった、私が殺した人間、あの比島の女と、安田と、永松であった。
・死者たちは笑っていた。もしこれが天上の笑いというものであれば、それは怖ろしい姿
 である。     
・思い出した。彼らが笑っているのは、私が彼らを喰べなかったからである。殺しはした
 けれど、喰べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であ
 るが、たしかに私の意志では喰べなかった。だから私はこうして彼らとともに、この死
 者の国で、黒い太陽を見ることができるのである。