金賢姫全告白 いま、女として(下) :金賢姫

この本は、いまから34年前の1991年に刊行されたもので上巻と下巻から構成されて
いる。内容は1987年11月に発生した大韓航空機爆破事件の犯人・金賢姫の手記であ
る。
上巻は大韓航空機爆破事件そのものを中心に描かれているが、この下巻は犯人であったこ
の本の著者(金賢姫)の幼年期から、ある日突然、工作員として召喚され、工作員として
養成されていく過程が詳しく描かれている。
私がこの本を読んで、まずわからなかったのが”召喚される”というのは、どういうことな
のか、ということであった。
中央党の人間が大学を訪れて、恐らくは大学当局から得た情報をもとに、成績優秀な学生
に目をつけて、何度かの面接を経て、最終決定した学生に、ある日突然”あなたは中央党に
召喚されました”と告げ、まるで人さらいのように連れて行くのだ。
この本を読むかぎり、それを拒否する権利はないようだ。これは自由社会に生きる我々に
はどうにも理解できない。
確かにそこには、”ベンツでの送り迎え”とか”飛行機に乗って海外旅行”というような一般
の庶民は経験することのないような優遇待遇により、優越感をくすぐられるという面もあ
ったようだが、本人の自由意志は、まったく認められない。
昔の日本で例えるなら、召集令状により軍隊に召集された人というような感じでなかろう
か。つまり、著者は、自分で希望して工作員になったのではないということである。
日々課題が与えられ、その課題を乗り越えているうちに、工作員に仕立てられていったと
いうわけである。
著者は、小さい頃から意志も強く真面目であり学業も非常に優秀であったようだ。
消耗品のような工作員とするには、非常にもったいない人材だったのではと思える。
しかし、たまたま工作員として目をつけられてしまったために、非常に悲劇的な運命を背
負い込むことなってしまったのだ。
ところでこの著者は、工作員として目をつけらた同じ頃、当時人民武力部長(陸軍大臣)
であった「呉振宇」の四番目の息子の花嫁としても目をつけられたようだ。
しかし、工作員に召喚されるのが一カ月早く、花嫁としての道が消えてしまったのだ。
なお、この「呉振宇」はその後、「金正日」に次ぐ序列第2位まで上り詰めている。
金正日に次ぐ序列第2位の人物の息子の花嫁と旅客機爆破犯とでは、”天と地”以上の差だ。
人の運命とは非情なものだ。

ところで、拉致被害者の「横田めぐみ」さんが北朝鮮工作員に拉致されたのは1977年
11月15日であり、「田口八重子」さんが失踪したのが1978年6月頃であったとい
う。
この本では、著者(金賢姫)が李恩恵(田口八重子)と2年近く一緒に暮らして日本人化
教育を受けているのだが、著者が2009年に田口八重子の長男(飯塚耕一郎氏)に語っ
たところによれば、1984年頃に平壌南東にある日本人居住地で横田めぐみ、田口八重
子と「金淑姫」(金賢姫の同僚工作員)の3人が一緒に生活していたという。
この本の内容を時系列に列記してみると、次のようになる。

1981年7月初め:金賢姫は李恩恵(田口八重子)さんと一緒に暮らしはじめる。
1983年3月中旬:金賢姫は李恩恵(田口八重子)さんと別れ金淑姫と一緒になる。
1984年7月初め:金賢姫は金淑姫と別れて生活
1984年8月15日:金賢姫は金勝一とヨーロッパへ出発
1984年10月2日:金賢姫、ヨーロッパから帰国
1985年1月初め:金賢姫は金淑姫と一緒に生活はじめる。
1985年7月末:金賢姫と金淑姫は広州に出発
1986年8月18日:金賢姫と金淑姫は広州からマカオに移動
1987年1月20日:金賢姫と金淑姫はマカオから平壌に帰国
1987年11月29日:金賢姫が大韓航空機爆破事件起こす

以上から、金淑姫が横田めぐみさん・田口八重子さんと一緒に生活していた可能性がある
のは1984年7月初めから1985年末の間の約半年だと思われる。
しかし、金淑姫の口からはそのような話は出なかったのか、この本にはそのことは描かれ
たいなかった。
なお、北朝鮮側の説明によれば、横田めぐみは1986年に結婚し1987年に一児を出
産するも、1994年年4月に入院先の病院で自殺、1997年に火葬したとしている。
小泉純一郎元首相が平壌を訪れ、金正日と日朝首脳会談を行ったのは、これらからずっと
後の、この本が刊行された1991年の11年後の2002年9月17日ことである。
そして、大韓航空機の爆破を命じた金正日は、2011年12月17日に心筋梗塞のため
死亡したとされている。
金正日は、大韓航空機爆破事件をはじめ日本人他の拉致問題、さらには核兵器開発、
偽札製造、麻薬の国家規模で製造・密輸などに深く関与した人物であったようだが、
その責任はまったく問われることがないままこの世を去ったのだ。

過去に読んだ関連する本:
金賢姫全告白 いま、女として(上)
金正日が愛した女


大統領特別赦免下る
・「今日もただ過ぎていくんだわ」
 私はその日も内心がっかりし、何もすることなく、テレビの前にうわの空で座っていた
 のだった。
 ちょうど七時のニュースの時間だった。
 「政府は今日、KAL機爆破犯人金賢姫に特別赦免を決定しました」
 ニュースが始まるや、真っ先のそのことを取り上げたアナウンサーの言葉を、私はほと
 んど聞き取れていなかった。
 いつもはテレビで金賢姫という名前を耳にするだけで、またどんなことをいわれるかと
 神経が張りつめたものだ。
 この日、視線だけぼんやりテレビに向けていたのは、他のことを考えていたからである。
・「ねえ、赦免よ!」

 女性捜査官が私の肩をたたいて叫んだ。
 耳をかすめていくアナウンサーの声が、私のことをいっているのだということを、その
 ときはじめて気がついた。 
・「おめでとう」
 女性捜査官と男性捜査官がお祝いを言ってくれた。
 私を担当している捜査官からは、まだ何も連絡がなかった。
 「ほんとかのかな」
 本人も知らないことが、報道機関に先に漏れたというのも信じられないことであった。
・私は興奮し、涙がこみ上げてきて、部屋に閉じこもった。そしてひとりで泣いた。
 なんとも言い表せない複雑な思いであった。
・赦免を受け、再び生き返ることが嬉しくもあり、命乞いをしてまで生き残ろうとする自
 分自身がみじめでもあった。  
 赦免してくれた大韓民国政府には感激するほどありがたいが、さりとて、これから一生
 を罪人として生きていくことに暗澹たる思いがあるのも事実だった。
・父や母がそばにいたら、抱きついてこの感動を伝えたいという衝撃にかられた。
 そして、それができないさびしさが一層つのった。
 喜びの報せと同じくらい、私の孤独感は深かった。
・振り返ってみると、北で過ごした私の二十六年間がどんなにつまらないものだったこと
 か。家族と仲睦まじく過ごしたのは二十歳前の話であり、人生の花のような時代はすべ
 て招待所で過ごしたのだ。
 私ははたして、何のために生きてきたのか。
 私自身のために生きたのでもなく、家族のために生きたのでもなかった。
・その当時は、祖国のためにこの生命を捧げるという大義名分のもとにとんでもない犯罪
 を犯したが、結局、祖国統一のために何の助けにもなれなかったことを知った。

平壌のアパート生活
・生まれてまもなく父の仕事の関係でキューバに行くことになり、私はそこでよちよち歩
 きはじめ、言葉を学んだ。
 キューバでの生活は幸福で、私の人生の始まりは北に住む一般の子どもたちより華やか
 だった。
 祖国に帰ってからはじまて、私が他の友人たちより裕福な生活をしたことに気がついた。
・モスクワに着くと、そこの大使館の宿泊所に何日か滞在した。
 モスクワの滞在中、母は毎日朝から夕方まで買い物で忙しかった。
 私は弟妹の世話を、一手に引き受けなければならなかった。
 見知らぬ国の見なれる雰囲気の中で、そうでなくても我慢できないのに、母が一日中外
 出していたので、私は弟妹を連れてどうしていいかわからなかった。
 部屋の中に大人がいないので怖いし、幼い弟と妹は母がいないので一日中泣き散らした。 
・もう一つ苦しかったことは、突然変わった食事の内容だった。
 モスクワ駐在大使館の宿泊所では大根汁にご飯が出たが、舌が肥えてしまった私は、
 それが全然食べられなかった。
 お腹がすいているが食事は一向にすすまず、キューバの食べ物だけが何度も思い出され
 た。
 「これからはこんな食べ物に慣れていかなくちゃ」
 母にいうことがどういう意味か私にはわからなかった。
 食事に慣れるまで相当長い時間がかかった。
・モスクワで何日か過ごした私たち家族は、飛行機で北京に行った。
 北京ではやはり駐在大使館の宿泊所に泊まった。 
 北京からからは国際寝台列車に乗って平壌に向かった。
・平壌で新しく割り当てられた外交部アパート五階20号室が私たちの家だった。
 キューバの家とくらべながら、私は「本当に小さい」と思った。
・キューバから帰って六カ月過ぎると父も帰国し、わが家は上り下りの楽な三階に引っ越
 した。私はここで中央党に工作員として召喚されるまで暮らした。
 このアパートは旧式で、十余世帯で、一つずつの水道とお手洗いを共同で利用するよう
 になっていた。  
 その上、煉炭でご飯を炊き、部屋を暖めるようになっており、不便で仕方なかった。
 水道とお手洗いを共同で使うということの苦労も、並大抵ではなかった。
 夏はそれでも我慢できるが、冬になるといつでも水道管が破裂し、その周囲が水浸しに
 なる。そしてそれが凍りついて水を汲むのがむずかしかった。
・越冬準備に欠かせないのは、煉炭であった。
 各町内にある煉炭工場から配給してもらえるだけの量を買い込んだ。
 煉炭が配達される日は、子ども、大人の区別なく家族全員が動員され、バケツ、たらい
 に煉炭を入れて廊下に積み上げる。
 廊下に真っ黒な煉炭が積まれると、美観上よくないので、煉炭の側面に白い紙を貼り付
 けておおわねばならなかった。  
・煉炭をたいて、最も危険なのはガスである。
 冬になるとガスのためにたくさんの事故が発生した。
 事故を未然に防ぐために人民班(隣組のようなもの)ごとに「ガス巡察隊」を組織し、
 世帯を見まわるようにした。
 普通、夜中の一時か二時頃に見まわるのだが、各家庭ごとにドアを叩いて起こし、異常
 がないことを確かめ印鑑を押してもらった後で帰っていく。
 ガス巡察隊は各世帯ごとに順番で人を出して組織した。
・わずかの期間とはいえ、便利な外国暮らしに染まっていた私たちは、祖国のこんな暮ら
 しに適応していくのはとても大変だった。
 しかし、私たちのアパートは、その周辺のアパートとは違い外廊式(廊下の片側だけ部
 屋がある)であり、いちばんいいアパートだといわれていた。
・特にそのまわりには学校、診療所、配給所、石炭工場、精米工場、商店など各種の便利
 な施設が隣接し、生活するには大変便利なアパートだった。
 それでもこのような不便を感じるのだから、他のアパートや家はどんなだろうか?
    
子役として映画出演
・私が人民学校へ通学している間、いろいろな事件があった。
 1967年には平壌に大洪水があった。
 大同江の水が氾濫し、平壌市が全部水びたしになり、言えと工場が水に浸かり、人や家
 畜、家財道具が流され、人的、物的被害が甚だしかった。
 私たちの住んでいたアパートも一、二階は水に浸かった。
・家具が水に流され、人々が木の切れっぱしをつかんで泳いだりした。
 水道が断水し三階からバケツにいろいろな色の縄で吊り下げると、バケツに半分ずつ飲
 料水を供給してくれた。
・同じ年頃の子どもたちには怖ろしさよりも窓越しに見える珍しい光景がおもしろく、
 ハラハラしながら見物した。
 その上、下の階から避難してきた何世帯かが一緒に生活することになり、子どもたちが
 七、八名ぐらい集まり、遊ぶには好都合で、とても楽しかった。
・水害によって社会が騒然としてから六カ月もたたないときに、アメリカの軍艦「プエボ
 ロ号事件
」が起こり、いまにも戦争が始まるような大騒ぎになった。
 情勢は極度に緊張し、人民たちは戦争準備に入った。
 大人から子どもまで綿入れの冬服とリュックサックをつくり、はつたい(米、麦の新穀
 を煎って粉にしたもの)、ろうそく、マッチ、固定燃料と米をリュックサックに詰め、
 靴と帽子を準備した。
 ラジオは連日戦争に関することだけで、「全面戦には全面戦で、報復には報復で」とい
 うスローガンが道のあちこちに貼り出された。
・人民班と洞(町・町内会に当たる)では毎日各家庭の戦争準備品を検閲してまわった。
 大人たちは戦争準備と訓練に悩まされたが、子どもたちはリュックサックの中にある、
 はつたいをこっそり取り出して食べ、自分用につくっておいたリュックサックを背負っ
 てみたりして、おもしろがった。
・とくに空襲警報に合わせて明かりを消す灯火管制訓練のときは、平壌市全体が暗黒の中
 に沈んでいく様子を見るために、アパートの屋上にあがったりした。
 
・北朝鮮の学校生活は、授業よりも組織生活と特別活動に多くの時間が割り当てられてい
 る。人民学校の二年生になると、誰でも少年団に自動加入した。
 そして各種のサークルの小組活動、通行人の服装状態を取締る「ちびっ子糾察隊」、
 外貨稼ぎの事業をする「ちびっ子収買事業」、選挙に参加せよと宣伝する「選挙歌唱隊」
 割り当てられた地域の掃除、緑化事業四・一五(金日成の誕生日)と九・九(共和国建
 国日)の集団体操(マスゲーム)などに動員される。
 一番ひどいのは各家庭に割り当てられる「人糞集め」だった。
・「人糞集め」とは、農村へ肥料の支援をするために、各世帯毎、乾いた人糞何キロかを
 集めて人民班へ提出したり、定められた日に来る収集車に出すようになっていた。
 朝六時から九時に人糞車が来ると、それまで集めておいた人糞をバケツに入れてもって
 いき、その質と量によって赤い紙と青い紙をくれるが、この紙は後で班長たちが集め、
 品物購買券割当ての参考にした。
・人糞を集めるときにはアパートの後ろの庭に穴を掘り、尿瓶に集めた家庭の便を持って
 土と混ぜ合わせなければならないが、わが家ではそれを長女の私がしなければならなか
 った。その作業を一生懸命やっていると、あちこちで人糞の臭いがして鼻をつまむこと
 も度々だった。  
・私は人民学校の頃、他の子どもたちより忙しかった。
 その中でもっとも大変で、もっとも思い出に残っているのは俳優として選ばれ、映画撮
 影に動員されたことである。
 何も知らずにやりぬいたが、友だちに羨ましがられ、まわりの人々に可愛がられた。
 その経験は私にとって貴重なものである。
・ある日、午後の授業のときだった。二年生になったばかりであった。
 先生に呼び出されて運動場に出てみると、マイクロバスにはすでに男女の子どもたちが
 六名乗っていた。
 先生の指示に従い車に乗ったが、何がなんだかわからなかった。
 そういえば何日か前、四十代の見知らぬ男性が子どもたちをじっくり観察して歩いてい
 たが、私の前でぱたりと立ち止まり、私の名前を聞いたことを思い出した。
・私は演出家とカメラマンの前で、人物審査を受けた。
 ひとりの演出家が、「この子、栄玉によく似ている・・・・」とつぶやいた。
 いろいろな審査を重ねた後で家に帰してくれた。
 家に帰って父母に一部終始を話すと、母は「うちの娘が映画に出る・・・」と大変喜ん
 だが、父はあまりいい顔をしなかった。
・何日の後、私が「社会主義の祖国を訪ねた栄秀と栄玉」という映画に「栄玉」の子ども
 時代の役に選ばれたと学校を通じて母に通知がきた。 
 映画館に行って泣いたり笑ったり感動していたが、私自身がそんな映画に出ることにな
 るとは信じがたかった。
・映画「社会主義の祖国を訪ねた栄秀と栄玉」のあらすじは、やはり政治的な宣伝物だっ
 たが、そんな映画文化に慣らされていた北朝鮮の人々がおもしろがる内容であった。
・この映画では私だけではなくみんな苦労が多かった。
 この映画は金正日が芸術分野を指導しているとき、よくできた作品だと誉めたので、
 天然色の広い幅(シネマスコープ)の映画に作りなおせとの方針が、撮影の途中で出さ
 れた。 
 方針が変更されると前に撮ったものは全部ご破算になり、広い幅の映画フィルムで再び
 撮り直すという二重の苦労をした。
・「社会主義の祖国を訪ねた栄秀と栄玉」が一般に上映されだした。
 この映画は北朝鮮でつくった最初のシネマスコープだったので、平壌で一番大きな映画
 館で封切りされた。
 映画が上映される初日、母は出演俳優に配られた入場券を持って、弟妹を連れて私と一
 緒に映画館に行った。 
 私たちははじめから観賞しようとしたのにバスが遅れて、映画館に着いたらもう映画は
 始まっていた。
・母は私の出る場面を見逃したことを残念に思い、映画が終わると映画館の支配人を訪ね、
 「私は栄玉役として出た子どもの母親なんですが、遅れてその場面を見逃したので、
 もう一度みせてください」
 と一生懸命頼み、私たちは今度ははじめからゆっくり映画を見ることができた。
・幅広い画面に私の顔がクローズアップされると顔の毛穴までみんな見えるようで恥ずか
 しく、場面場面ごとに失敗ばかりが目に入り私はそわそわした。
 とくにアメリカの軍人が母親を引っぱっていくとき、しがみついてぶら下がる栄玉を銃
 の台尻でたたき倒す場面で、スカートがまくれパンツが瞬間的に見えたときには顔がか
 っかとほてった。しかし、母や他の人たちはそれを見逃したのか気にしていなかった。
・映画が一般に公開されると、町内や学校はもちろん、市内でも私を知らない人がいない
 ほど有名になった。そのときから私は「栄玉」として通した。
・中学校にあがっても、一年生のときに学校で教室の掃除をしていると、顔見知りの撮影
 所の人が私を迎えに来た。
 彼は私を連れて家に行き、母に許可を求めた。
 「今度は『娘の心情』という映画に子役として出演させたいと思います。お許しくださ
 い」  
・母は映画出演に反対する父の意見もあり、はじめは乗り気ではなかった。
 「今回の撮影は地方ではなく平壌市内だけで撮ります。また出演する場面も少なく前回
 のように大変ではないはずです」
 撮影所のおじさんは、あれこれ母を説得し、結局引き受けさせてしまった。
 ちょうどそのとき、父はモスクワへ出張中だった。
・「娘の心情」という映画のあらすじは、「社会主義の祖国を・・・」よりは少し単調な
 感じのする内容だった。
 戦時中に人民軍隊が引き揚げるとき、地主の子の子守りをしている八歳の娘を火事の中
 から救い出し、連れて来て塾へ入れて勉強させる。
 この子が成長し、後に紡績工場へ入り革新者として英雄の称号を受けるという内容であ
 る。
 私はこの映画に出てくる主人公花順の学校の友達英愛の子どものときの役をあたえられ
 た。
・何日か後にモスクワへ行っていた父から手紙がきたが、「私にひと言の相談もなく映画
 に出演させるとは」という母を叱責する内容であった。
・その後、撮影所からまた「ある自衛団員の運命」に出演してくれといって来たが、今度
 は母も説得に屈しなかった。
 撮影所の人もやはり簡単には引き下がらず、説得作戦をくりひろげた。
 彼は金正日の名前までだし、あとでは脅迫するように説得したが、父に一度叱られてい
 る母はうなずかなかった。
 翌日も撮影所では車を迎えによこし、一方的に私を連れて行こうとしたが、母は私を近
 所の家にかくしてしまった。 
 何日間か撮影所ではしつこく人を寄こしたが、母が固く断り、その後私は映画とは完全
 に縁が切れた。
・各学校では自分の学校の少年団の活動を宣伝するために、「模範少年団員栄誉登録賞」
 をつくっているが、私たちの学校では模範少年団員が、このような活動をしたと写真を
 撮ってはりつけ、その説明文を書くようになっていた。私はこの写真を撮るため毎回選
 ばれて動員された。
 金日成革命研究室で学習する児童たち、花畑栽培、サークル活動、ちびっ子衛生などの
 題目の下についている写真には、いつも私が映っていた。
 
中学生の田植え戦闘
・中学校に進学してからも、私は各種の行事によく選ばれ、動員された。
 1972年11月2日、南北調整委員会の第二次会談のために南朝鮮の代表が平壌を訪
 問したとき、南朝鮮代表団員の一人に花束を贈呈したことがある。
 これが事件と関連していろいろな人の関心を集めたので、その時の状況を明らかにしよ
 うと思う。
・ある日、少年団の指導教員が私を呼んでいるというので少年団室に行った。
 選ばれた生徒二十余名は行事部の部屋で椅子に座り、行事部事業担当の女性から、注意
 事項を聞いた。
 「南朝鮮の『朴正熙』の次の地位の高い『李厚洛』という人が、代表団員と記者たちを
 連れて、二回目の北南会談のために平壌に来ることになった。この人たちは他の外国の
 お客さまとは違から、いつもよりしっかりやらなければならない。とくに南朝鮮の記者
 たちは良くないことだけを写真に撮ろうとしたり、何か言わせて言葉尻をとらえようと
 する。だから笑顔を見せないで深刻な顔で接しなければならない」
 行事部の女性は、南朝鮮の記者たちが訊きそうなことと、私たちが答えるべきことを詳
 しく言い聞かせた。
・南朝鮮の代表だが来る前日、もう一度行事部に集り花束贈呈の順序を決めたが、李厚洛
 代表に花束をあげる生徒は行事部の党幹部の娘が選ばれ、私は彼女の後につづき二番目
 に来る代表に贈呈することになった。
 そして当日着る花模様のチョゴリとチマ靴下、靴、リボン、少年団ネクタイを受け取っ
 た。
・花模様のチョゴリは何回か使われた後で一回も洗わずにそのまま保管されてたので、
 結び紐や襟が汚かった。
 そこで、家に持って行ききれいに洗いなさいと説明が付け加えられた。
・この日はくもりで肌寒かった。
 花模様のチョゴリとチマだけの私たちは寒さに震え、その上、南朝鮮の人々に会うとい
 うのでいっそう震え、緊張した。 
・しばらくするとヘリコプターが風とともに到着した。
 ヘリコプターの戸が開き南朝鮮の代表団員の姿が見えると、行事部の女性は私たちに早
 く出なさいと催促した。
 私は急いで走って行き、二番目に降りるお客様の前に行き、少年団の敬礼をし花束を贈
 呈した。
・「これは何という花かね?」
 花束を受けた人はいつくしみに満ちた声で訊いた。
 実際私はそのとき、その花が何という花か知らなかった。
 全然思いもよらない質問にうろたえもぐもぐしていると、かれはまた「何年生?」と訊
 いたので、「一年生です」と答え、すぐ自分の席にもどった。
 私は最初の答えができなかったことがひどく気になった。
・花束贈呈が終わると、私たちは行事部の女性の案内で、乗ってきたバスで行事部にもど
 った。
 もどると行事部の要員が私たちに、「何と訊かれた?」とたずねた。
 私は答えられなかった最初の質問のことは言わず、二番目の質問のことだけを継げた。
・いま北朝鮮では鄭姫善という女性を出してきて、私が花束を贈呈した事実まで否認しよ
 うとしている。 
 私はそれを聞いてあっけにとられ、言うべき言葉を失った。
・1972年金日成が還暦を見返る4月15日に、万景台革命学院運動場で平壌市青少年
 連合団体集会があった。 
 この時も金日成はじめ、党の地位の高い幹部たちが出席した。
 私は主席壇幹部の中の一人に花束を贈呈し、少年団ネクタイを結ぶ児童代表四十名の中
 のひとりとして選ばれた。
・1972年12月末、平壌学生少年宮殿で、平壌市青少年学生たちの「新年をむかえる
 公演」があったが、このときこれに金日成が臨席した。
 私は金日成一行に、少年団のネクタイを結ぶ生徒代表の五人の中の一人として加わった。
 金日成に従い三番目に入場する「金一」に少年団ネクタイを結んであけた。 
・1973年11月、カンボジアのシアヌーク殿下が平壌に来た。
 平壌大劇場の前を自動車が通りすぎる途中で区車が止まったら、そこで歓迎の花束を贈
 呈するように組織されていた。
 私はそのとき女性と代表八名の中のひとりとして選ばれ、金日成の夫人「金聖愛」に花
 束を捧げた。
・1974年9月、平壌の千里馬路にある平壌体育館で、「全国挑戦少年団熱誠者大会」
 が開かれた。
 このときも金日成が臨席したが、私は主席壇にあがり、金日成のそばに座っていた高級
 幹部に花束を贈呈した。
 
・私は中学校でも少年団の幹部をまかされた。
 少年団副委員長、分断組織委員長をまかされたりしたが、私は天性押しの強い性格では
 ないので、私が号令すると、子どもたちはニヤニヤ笑いながらいうことを聞いてくれな
 かった。 
 けれど、明順という生徒は、勉強はあまりできないが、子どもたちを指揮する能力にた
 けていた。
 私はしばしば明順を羨ましく思った。
 学級長をさせたら子どもたちは先生のいうことよりもその子のいうことをよく聞いた。
 男子生徒も彼女のちぢれた髪から「王ちぢれ」といあだ名で呼んだ。
・彼女は私が1980年、中央党に工作員として召喚される頃、除隊軍人として金日成総
 合大学に通う男性と結婚したといううわさを聞いた。 
 その話を聞いたとき、ついに私が買ったという優越感を感じる一方、平凡な道を行く彼
 女が羨ましくもあった。
・三月末から、全国的に”衛生事業”が始まる。
 衛生検査は身の周りの整理整頓や下着、さらに頭髪のしらみの卵も検査する。
 衛生検査のある何日か前から、生徒たちはお互いに頭髪の検査をし合い、しらみや卵を
 捕ってやり、酢で洗い、梳ぎくしで落とすのだが、検査のときにはしらみの卵が必ず見
 つかる。下着からもしらみが何匹か必ず出てくるのである。
・四・一五や九・九など大きな名節(祭日)行事のとき、マスゲームやカードセクション
 を担当する学校に指定されると、その学校の生徒たちはひどい目にあうことになる。
 二月になり、放課後学校の運動場や体育館の庭で練習が始まった。
 二、三月はまだ肌寒いのに水着姿で動作を習うのだから、女子生徒たちは唇が青くなり
 ブルブル震えた。
 母親たちは寒さに震える子どもたちがかわいそうでたまらず、自分たちで組をつくり夕
 方になると、順番で温かい汁をわかしてきた。
・とくにカードセクションに動員されると、行事進行中の九十分間、よそ見を一度もでき
 ず席を守って座り、指導教員の指示に従い寸分の間違いも許されない。
 もし違う色のカードを出したり、動作が遅れたりしたら大変なので超緊張状態で九十分
 を過ごす。 
・金日成の顔の作品をつくる場合には、指導教員までぐっと緊張する。
 金日成の顔がだめになったり、顔に黒い点でもあろうものなら、それに参加した誰もが
 ただではすまないからカードセクションに参加する生徒の中には、その席で放尿する場
 合が少なくない。甚だしいのは膀胱炎にかかる子どももいた。
・金日成の誕生日の行事が終わると、生徒たちはその疲れも取れないうちに四月二十五日
 頃から「田植え戦闘」に動員される。
 そして夏になると再び九・九の行事の準備をしなければならないし、秋になると「収穫」
 が始まり、再び全生徒が農村支援活動に出かけることになる。
・中学校四年になり社労青に加入すると、男子も女子もみんな軍事動員部名簿に登録され、
 地域の病院に行って身体検査を受ける。
 生まれてはじめての総合身体検査である上に、女生徒たちは産婦人科の検査を受けなけ
 ればならず、少し気恥ずかしかった。
 それは処女性の可否を見分ける検査で、ときたま体操は舞踊をした生徒は、他の生徒た
 ちと違う評価を受け、陰口をきかれりもした。
・この検査は女の子たちの「素行検査」と考えてもいいだろう。
 だから、「真一と本当に何もなかったのか?」という質問に対し、「本当に信じられな
 いのなら、産婦人科の検査をしてみたらわかることじゃないの?」という言葉が、自然
 に飛び出すのである。
・生徒たちの農村支援は、田植えと秋の獲り入れで終わるわけではない。
 六、七月に日照りになると、たらいやバケツを持ってとうもろこし畑に出て、水をやら
 なければならない。
 八月には約七日間草取りに動員される。そして苗代作り、とうもろこし”栄養団地”作
 り、野菜作り、牛追い、養豚、縄縒りなど、農村の仕事はすべてやった。
 
女子学生の軍事訓練
・七月初め、私は金日成総合大学生物学部に合格した。
 金日成総合大学は、北朝鮮では最大、最高の唯一の総合大学だ。
 九月一日、金日成総合大学に入学したが、学生生活を何日も経験しないうちにすぐさま
 教導隊軍事訓に、六カ月間出かけることになった。
 結局、私は金日成総合大学で一年間、時間を虚しく過ごしたことになる。
・私は金大に入学後、ただちに六カ月間教導隊訓練に出かけ、訓練を終えて帰ると今度は
 すぐ農損支援に出かけた。そのため学校生活に興味がわかなくなった。
 父は私に平壌外国語大学に入学したらどうかとすすめた。
 平壌外国語大学は卒業後良い職場を保障され、女性にふさわしい仕事が得られるという
 ので、女学生たちに人気が高かった。
 父はもう一度入試準備をしなさいと忠告し、入学試験をまた受けられるように”保障”
 してくれた。
・六カ月間の教導隊訓練がなかったら、私はそのまま金日成総合大学の生物学部に通った
 はずであり、私の人生はいまとは違っていたかもしれない。
 外国語大学で日本語を専攻しなかったら中央党に工作員として召喚されなかったかもし
 れないのである。 
・「教導隊訓練」とは、大学で誰でも義務的に受けなければならない軍事訓練のことであ
 る。
 北朝鮮では、中学校で必ず「赤い青年近衛隊」訓練を受けなければならず、大学では教
 導隊訓練を受けて卒業できるようになっていた。
 赤い青年近衛隊訓練は軍事訓練の基礎だけを学ばせ、大学では本格的な軍事訓練をさせ
 る。各自配属部隊で理論と実務を習う。
 私は金大に入学し、一カ月もたたぬうちに教導隊訓練に出かけることになった。
 六カ月間の教導隊訓練を終えると、大学卒業後、軍隊に入隊するときには少尉として任
 官できる。
・軍隊生活といい、農村支援といい、男女が集団生活をしていると、もっとも頭の痛いの
 は各種の非理事件(背信的な事件)と浮華事件(スキャンダラスな事件)であった。
 だから連隊から来た副参謀長や、中隊政治指導員が「政治思想教養」と「軍事規律教養」
 を話しながら、その間起こった各種非理・浮華事件例にあげて注意をあたえる。
・私たちの中隊の器具小隊に所属していた特務上士(下士官の上位)は、周辺の村の娘と
 何年間かつきあったが嫌になってその娘を捨てた。
 その娘の家族たちが問題にして、結局「浮華事件」として処理され、減年除隊して炭鉱
 に”配属”された。
 また隣りの中隊の女子特務長が隊員たちに支給される日用品(歯みがき粉、石けん、
 靴)を村に持っていって売ったり自分の家に送ったことが暴かれ、減年除隊となった。
・大学時代の「田植え戦闘」や秋の獲り入れが中学校のときよりおもしろいのは、すでに
 慣れていて働く要領がわかっているからかもしれないが、男女が一緒の作業組に”組織”
 されて働くからでもある。
 その当時は学生たちが恋愛をするとは徹底的に”統制”(監督)されていた時期であり、
 見つかると退学処分を受け地方の炭鉱に配属されたりした。
 しかしどんなに統制しても、いつのまにか恋愛話がひろがり女子大生たちの口を楽しま
 せてくれた。 
・男女間の関係というものはどんなに取り締まっても、それは自然の人間の本性であるよ
 うだ。
 軍隊や農村の仕事は女性には手に余るつらい日だったが、そんな中でも好き合う者同士
 の目は輝き、心が通い合い、本人たちはその苦しい峠を乗りこえ、周囲のものは浮いた
 話を話題にして騒ぎながら、苦労に耐えていったのである。
 
外国語大学で体験したこと
・平壌外国語大学は、他の大学と違って、一学級の学生数がとても少ない。
 専攻科は英語、フランス語、スペイン語、日本語、中国語、アラビア語、ロシア語の七
 学科からなっている。
 英語、フランス語学科の場合は一学級の人数がん二十余名である。
 日本語、中国語、アラビア語などの場合は、十余名またはそれ以下の人数であった。
 私が先行した日本語学科に入学した学生は九名だった。
・この大学の学生は外国語を身につけ、卒業すれば外交官または外国語を使う職場に配属
 されるので、特殊怪僧に属する人でないと入学が難しい。
 そこで北朝鮮を動かす権力者たちの子弟がほとんど集まっており、また一般的にも、簡
 単に入れない難しい特殊大学として知られていた。 
・北朝鮮では、大学生といっても中学生の時と同じように朝早く登校し、夜遅く家に帰る。
 私の家族は、私は平壌外国語大学に通う間も下新洞の外交部アパートに住んでいた。
 私は地下鉄を利用して登校した。
・学科の授業は八時三十分から始まった。
 午前中に三教科の講義を受け、午後一時半から昼食の時間である。
 昼食時には寮生たちは学校の食堂で食事をするが、その他の学生と先生は教室でまるく
 なって持参した弁当を食べる。
 いまもそうだが、私がいた頃も食糧事情がとても緊迫していたので、ほとんどの学生が
 麦ご飯かとうもろこしご飯を持ってきた。
・ある男子学生がカメラを持ってきて記念写真を撮った。
 私は英語科に通う貞姫から一緒に写真を撮ろうと誘われたが、まごまごしている間に、
 文化部副部長の息子を入れて三人で記念写真を撮ることになってしまった。
 その後、この写真が問題となり、私の大きな悩みの種になった。
・副部長の息子張秀明は南山学校出身で英語科に在学中であった。
 背は高く顔立ちもよい方だった。
 それに父親が芸術分野の高級幹部であるせいか、女優と恋愛中であるとか、どの科の誰
 と恋愛中だとか、とかくうわさの多い学生だった。
 女学生は誰もが彼のことを知っていた。
 そんな男子学生と私が一緒に写真に写ったのだから、他人のことをとやかくいうことの
 好きな女学生たちが黙っているはずがなかった。
 「『後ろに隠れてかぼちゃの種を割る』(おとなしいふりをして実際はどんなことでも
 するということ)」
 「そんな男と写真を撮ったのだから、普通の間柄ではないわ」
 「どうして多くの女学生の中で金賢姫とだけ写真を撮ろうとしたの?」
 根も葉もないうわさがひっきりなしに私の耳にも入ってきた。
 私はあまりにもくやしく、やりきれない気持ちでその写真を破ってしまったが、そのう
 わさはしばらくの間、私を悩ませた。
・私は母に事の次第を話して、悔しい立場を訴えたが母は、
 「大人になった女性が深く考えもせずに男と写真を撮ったのだから、そんなことを言わ
 れるのは当たり前じゃない?女はいつも行動を慎まなければいけないわ。思慮のない行
 動は、うわさの種をこしらえることになるのだよ」
 といって私の軽率さを叱るのだった。
・その頃、北朝鮮では大学生の間での恋愛は厳しく禁じいられていた。
 もしも恋愛をしている事実がばれると無条件退学であった。
 それで大学内である男子学生と女子学生が一緒に歩いたとか、ひっそりとしたところで
 話し合っていたとか、こういった場面が友人たちの目につきさえすれば、うわさが立つ
 のは当然であった。
・しかし、いくら学校で厳しく監督しても事件はひんぱんに起こった。
 フランス語四年生の男子学生がある女学生を連れて叔母の家に入ろうとして、その地区
 の人民班長に見つかった。
 それで退学処分を受け慈江省のある工場に送られた。
・また卒業前にした英姫と呼ばれるフランス語科女学生は、白頭山踏査にいって「万寿台
 創作社」で働く男と親しくなって妊娠した。
 彼女は卒業と数ヵ月後にして退学させられてしまった。
・このように、北朝鮮では男女関係ができれば個人的なスキャンダルになるだけではない。
 ほとんど一生を台なしにすることになる。
 そのために秘密は守ろうとするのだが、すぐにばれてしまうのだ。
 
北朝鮮の生活のウソ
・北朝鮮では、満十六歳になると公民証が発給され、はじめて成人とみなされ、投票権を
 得る。
 公民証が発給されるまでは、子どもとして扱われるから、旅行には必ず保護者が同行し
 なければならない。
・私が公民証を所持する成人として地方旅行をしたのは、大学一年の冬休みが最初で最後
 だった。目的地は新浦にある本家であった。
・平壌外国語大学一年の冬休みのとき(一月)私にも、通行証が発給された。
 時を合わせて、新浦に須見伯母の次女が嫁に行くのに、婚礼品として持参する布団の生
 地を求めてくれと頼まれた。
 父は、知り合いのツテを頼りに、外貨商店からやっとの思いで布団生地を手に入れてお
 いたところであった。 
・発給困難な通行証を私がもらってきたので、両親は非常に喜んだ。
 当時、中学校に通っていた弟を連れて行くことにし、家族全員が旅行の支度を手伝って
 くれた。  
 私は、子ども一人と書いてある自分の通行証で旅行すると思うと、胸がときめいた。
 書類上、完全な成人になったのである。
・父は伯母の次女の婚礼祝いに、北朝鮮で一番人気のある赤い布地に芍薬の花の模様のあ
 るポプリンの布団生地を用意し、母は知り合いの商店の販売店から平壌では求めにくい
 菓子とパンを裏口から頼んで買っておいた。
・親類の中では父が一番の出世頭だったし、平壌に住んでいるから、本家の叔父と伯母の
 家族は、まず私たちの贈り物が何かと期待するに違いない。
 だから、贈り物には気づかいが必要だった。
 家族のお下がりの衣類をあれやこれやと用意した。
・背嚢とカバンに用意した贈り物を入れて、平壌駅に出た。
 両親は娘のはじめての旅行が心配とみえて、何回も注意を繰り返しながら、改札口まで
 見送ってくれた。
 出発は夕方の七時だったが、席を取ろうと思い、出発三十分前に駅に着いた。
・切符に記載してあったとおりに寝台車に乗ろうとしたら、ドアの前にあっていた女性案
 内員が、「団体客でこれ以上乗れないから、他の車両に行きなさい」と無愛想に言った。
 仕方なく一般客車のほうに移った。
・一般客車は足の踏み場もなく、人がぎっしり詰まっていて、列車が動きはじめるたびに
 あちこち押された。
 寝台車の切符を持っているのに、本当に悔しかったが、列車の中では乗務員のいうこと
 がすなわち法律であるからどうしようもなかった。 
・列車が平壌を出、成川に着くと乗客が大勢降りた。
 ようやく座席を一つ取って弟を先に座らせた。
 一晩中闇の中を走り、明け方近くに一つ席が空き、私も腰を降ろした。
 それまでの間、田舎の人々の大きな荷物に押されて、まんじりともしないで一夜を明か
 したので、ぐったりして、席に座ったとたんに眠ってしまった。
・車内がいきなり騒々しくなったので、目を開くと、移動販売隊が弁当を売っていた。
 弁当を買おうとする乗客は多く、弁当の数は足りなかったので、乗客たちは販売員の周
 りに寄り集まって、お金を販売員に突きつけながら大騒ぎになった。
 私もその中に入って、販売員の手に無理やりお金を渡して、「こっちに頂戴」と叫び、
 やっと弁当を二つ買った。
 苦労して買ったのに、中身はあまりにもひどかった。
 弁当箱の中には、麦ご飯と塩漬けの明太(スケソウダラ)が一切れと、大根オガリ(大
 根をきざんで干し、唐辛子、醤油、こまなどで味付けしたもの)、キムチなどが入って
 いたが、空き腹でさえ受つけないほどまずかった。
・この列車は、平壌駅で切符を買ったとき、確か「急行」となっていたので、急行の切符
 の値段を払って買ったのに、各駅ごとに停車した。
 おかしいと思って案内員に聞いてみたら、「鈍行」だという。
 それなのに、私たちの目的地の新浦駅は通過するので、その前の興南駅で降りて、他の
 列車に乗り換えなければならないという。
 腹が立ったが、万事こんなふうなのでどうしようもなかった。
・遠く海が見えてくると、魚の生臭いが漂い、そばに座っていた中年の男が次の駅が興南
 駅だと教えてくれた。 
 車窓の外から漁村の風景が見えた。
 十五時間の列車の旅でようやく興南駅についた。
 列車から降りると、厳しい潮風が顔を叩いた。
・興南駅の待合室で案内員に新浦行の列車の便を聞くと、午後一時までないと教えてくれ
 た。三時間以上も待たなければならないので、バスの便があるかどうか聞いたら、バス
 の停留所までは、かなり遠い。
 本家には電報を打ってあるので新浦駅まで迎えに来ているはずだと思い、そのまま待合
 室で列車を待つことにした。
・あまりにもみすぼらしい田舎の駅であった。   
 暖炉のそばには、乱れ髪で汚れた顔の、ぼろをまとった精神異常の女が乾明太をちぎっ
 て食べていた。
・いつも「わが共和国は、乞食のいない社会主義の楽園だ」という言葉を耳が痛いほど聞
 かされていたので非常に驚いた。
 平壌ではこのような光景は見ることができなかったからとても異様に思われた。
 「わが国も、乞食がいるの?」
 「まさか、乞食じゃないよ。気が狂って、家出をしたにちがいないよ」
 「精神異常者なら、なぜ病院に行かないの?」
・新浦行列車が着くという1時間近くになると、出札口の前に人々が列をつくりはじめた。
 平壌で勝った切符は興南駅に降りたときもう無効になっていたから、また列をつくって
 切符を買った。
 興南駅から1時間行くと新浦駅であった。
 新浦駅も、興南駅のように小さい駅であった。
・弟と私は、改札口から首を長くしてきょろきょろ見回しながら、迎えに来ているはずの
 本家に人々をさがした。
 列車から降りた人々と、列車に乗る人々がみんないなくなると、待合室には私と弟の二
 人だけがのこったが、誰も迎えにきてはいなかった。
 「列車の時間があいまいだから帰ったのかもしれない・・・」
 私たちは仕方なく、本家まで歩いて行くしかなかった。
 父が教えてくれた住所と略図を持って、通りがかりの人々に訊いてみた。
 何回も聞いて二十分ほど歩き、ようやく本家を見つけた。
・本家だと教えられた家の庭で、中学校二、三年ぐらいの女の子たちがケンケンパ(石け
 り遊び)と紐遊び(ゴム遊び)をしながら遊んでいた。
 「ねえ、英玉の家どこか知ってる?英玉を知っている?」
 するとその中のひとりが「私ですが、何ですか?」と、ひどい訛りで答え、弟と私をじ
 ろじろ見た。 
 父が書いてくれた住所と略図を、その子に渡しながら、「私たちは、平壌から来た金賢
 姫と弟なの」というと、その子は恥ずかしそうに体をよじりながら、「いらっしゃい」
 と言って家に駆け込んだ。
 遊んでいた子どもたちは私たちを取り囲んで、まるで外国人を見るように顔をじろじろ
 見ていた。
・次の日、平壌の両親に、無事着いたことを知らせる電報を打ちに郵便局に行ったら、
 私たちが平壌で打った電報がまだ配達されないままになっていることを知った。
 私たちが到着しているというのに、着く時刻を知らせる電報は、まだ着いていなかった
 わけだが、こんなことはよくあることだった。
・北朝鮮では旅行を徹底的に統制しているから、北朝鮮の人民のほとんどが、近い親戚同
 士なのに一度も会ったことのないケースが多い。
 伯父は平壌に何回か来たことがあるから、顔を知っていた。
 伯父が帰ってくると、家族みんなが集まって夕飯を食べながら、家族の安否や、本家の
 家族の近況について話し合った。
・食膳にはキムチと凍明太のシッケ(明太で作った漬物の類)、そして明太の腹子がおい
 てあった。  
 キムチは美味しかった。
 しかし、ご飯はざらざらしていた。しかも、肝油の臭いが耐えられなかった。
 肝油は凍明太の子でつくる。
・定期的ではないけれど、平壌ではたまに豆油とかとうもろこし油のような、食用油を配
 給している。  
 でも
 ここにはそういうものはまったくあく、各家庭で肝油をつくって食用油にしている。
 ところが、その臭いはあまりにもひどく、弟と私は、その臭いに耐えられず、鼻をつま
 まないではいられなかった。
・ご飯も、黄色いとうもろこしのご飯だった。
 地方は平壌と違い、雑穀八、米二(または七対三)の比率で配給しているから、ご飯を
 炊くと、黄色いとうもろこしご飯になってしまう。
 伯父からはじまって、先に男たちが米の多く入っている部分を茶碗によそうと、結局、
 女たちには、とうもろこしばかりのご飯しか残らなかった。
・本家の家族は私たちを、まるで月世界から来た大事な来客のように、もてなしてくれた。
 「むさくるしくて・・・」「おかずがまずくて・・・」「田舎はみんなこうだ」といい
 ながら、私たちがなにかと不便に感じているのではないかと、心配しているようであっ
 た。 
・私たちは、背嚢の中から持ってきたパンと菓子を出すと、特別品のように大事そうに受
 け取った。
 家族ですこしずつ分け、隣の家にも少しばかり配りながら自慢をした。
 「平壌の姪が持ってきたものですよ」
 村のおばさんたちもわざわざやってきて、平壌から来た私たちに好奇心を持って話しか
 けた。
・伯母だけでなく、近所の人たちにとって平壌は、耳にしたことがあるだけで、まだ見ぬ
 別世界だった。
 だからすこしでも多くの平壌のことを聞きたかった。
 私たちの話に聞き入るみんなの瞳は、童話の中の世界を見るように輝いた。
・私たちは普段着ている制服を、そのまま着ていたのだが、ここの子どもたちと一緒にい
 ると私たちがあまりにきれに見えて、一緒にいるのがすまない気さえした。
 地方の住民の身なりは、あまりにもみすぼらしかった。
 子どもたちは制服一着の着たきり雀で、学校に行くときも、遊ぶときも、働くときも、
 いつもそれで過ごした。
 袖はぼろぼろになっているし、肘と膝は穴が開いて、その部分につぎを当てているのだ
 が、そのすぎさえぼろぼろになっていた。
 長い間洗っていないらしく、垢がついてつるつるしていた。
・寒い日に、靴下をはいていない子も多かった。
 靴下をはいていた子も、爪先と踵は穴が開いていた。
 背嚢から、私たちが着古した衣服などを出すと、伯父の家の家族は目を大きくして喜ん
 だ。
 「まあ・・・本当に、これを全部くれるというの?」
 伯母は、子どもに着せてみながらいかにも嬉しそうだった。
・少しばかりお金を持ってきたので、英玉をつれて近くの商店に行ってみた。
 ところが商店は見かけだけで品物はほとんどなく、販売員だけが店番をしていた。
 販売員も給料と配給をもらわなければならないので、仕方なく品物もない店を守りなが
 ら、編み物をしていた。
・数日後、私たちは英玉と一緒に、父の姉である伯母の家をたずねた。
 伯母の家族は私たちが行くという連絡を受け取ると、遠くまで迎えに来て、私たちを待
 っていてくれた。  
 しかも弟と私が娘の婚礼品の布団生地を持って行ったからだろう、とても喜んで迎えて
 くれた。
 布団生地を出すと伯母は、これで一安心できたと涙を流した。
・父も、たまに地方出張中におばたちを訪ねると、生活があまりにも悲惨で、結核にかか
 っている子どももいて、気の毒だと話していたことがある。
 弟と私が、地方にいってきて感じたことも、地方住民の生活があまりにも悲惨だという
 ことであった。
・かぎりなく純朴で親切だが、私たちにあたえるものが何もなくて、切なく思っていたら
 しい彼らの面影がずっと心に尾をひいた。
・しかし、よく考えてみると、北朝鮮人民の生活は、地方の生活だけがみじめだといえる
 だろうか。 
 私は韓国に来て、こちらの人々の豊かな生活を見て、北朝鮮の人々はみんな可哀想だと
 思うようになった。
 高級幹部たちは、暖衣飽食して威張っているものの、それでも韓国の中流層に劣るのだ
 から、彼らもまた気の毒である。
・私は1988年12月10日付の韓国日報に、「スイス南北朝鮮キリスト教会議」での
 南朝鮮の代表たちと来た朝鮮側の女性たちとの談話の内容を読んで、とんでもないこと
 だと思ったことがある。 
 そのとき、北朝鮮側の女性は、
 「結婚して独立するときは、住む行政区域に申請すれば、順番によって家をもらえま
 す」と宣伝した。
・私は、韓国の新聞に、北朝鮮の虚偽の宣伝が、全然何らの検閲も受けることなくそのま
 ま載っているのには驚いた。
 北朝鮮のどこに行っても消えるウソの宣伝を、大きく報道していることを知って、私は
 ひどい衝撃を受けた。
・その北朝鮮の女性代表たちも、北朝鮮の人民みんながそうであるように、金日成の賢明
 な指導力と偉大性を誉め称えるために、懸命に努力しているのだ。
 しかし、私に彼女らを咎める資格があるだろうか。
 私も最近までは彼女らと同じに、金日成を紙のように崇めながら盲目的に服従し、生命
 すら捧げて忠誠を誓ったではないか。
 北では、そうしないと生き残ることができない。
・北側の女性大業たちが口にした、北朝鮮の住宅事情は実際にどうなっているのか。
 北朝鮮では、結婚して独立するようになると、家をもらえることになっている。
 しかし現実はそうはいかない。
 規定はあくまで規定で、そうはいかないのが北朝鮮の現実なのである。
・結婚してすぐ家をもらうなんて、高級幹部の子弟でないかぎり夢のような話だ。
 だから結婚すると、どちらかの実家の世話になるのが普通である。
 それすらできなかったら、他人と同居しなければならない。
・北朝鮮ではアパートを建設することになれば、軍人や学生を総動員する。
 そして土を掘り、背負い子で土とレンガを運び、手でセメントをこねて積み上げる。
 技術も機械設備もなく、人力だけで解決しなければならないのが実情である。
 どうやって増大する住宅需要に追いつけるのか。
 また、何とかして家をもらったとしても、一部屋に台所がついているだけである。
 韓国でいう家の概念とは、雲泥の差である。
・私は最初、南朝鮮の捜査官の調査を受けているとき、北朝鮮人民の食生活について、
 根掘り葉掘り尋ねられるのが一番いやだった。
 答えるのが恥ずかしかったし、また、暖衣飽食するのが、人間の幸せを計る尺度かと、
 突っかかりたかった。
 詳しく答えながら、恥ずかしくて顔が火照った。
 そしてそれが新聞記事になったのを読んで、また恥ずかしさに顔を上げることもできな
 かった。 
・北朝鮮では、何年もの間きびしい食糧難に悩んでいる。
 平壌で中の上の部類に入るわが家も、配給米だけでは一日三食をまかなうことができず、
 一色はお粥にしていたぐらいだった。
 しかも闇市場で、七倍の高い値段で不足の食糧を買わなければならなかった。
 このような食糧事情にもかかわらず、1987年には、全党、全人民の一年の配給量が、
 二カ月分カットされたことは小学生ですらみんな知っている。
・北朝鮮側の女性たちは、北朝鮮の物価は安く、月給は高いというのも忘れなかった。
 しかし北朝鮮の現在の実情は、品物の値段が「高い」「安い」が問題ではなく、高くて
 も買う品物がないのが問題なのだ。 
・哀れな北朝鮮の人たち、私は韓国の豊かさを見るたびごとに、世の中のあまりの不平等
 さを考え、彼らの不幸に胸がつまる。
 もちろんことらの国民も、豊かな社会をつくるために苦労したであろうが、北朝鮮の人
 民たちの苦労はその比ではない。
 結果においてあまりにも激しい差ができたのはなぜなのか。
 北には、私の愛する、私の身体の一部のような家族が残っているからかもっとも切実に
 その差を感じるかもしれない。

・1980年1月の末頃であった。
 その日も放課後、いつものように、金日成の革命歴史研究室で掃除を終えて、机に向か
 い、日本語版の「ロビンソン・クルーソー」を読むのに夢中になっていた。
 夕方七時頃、研究室小組の先生が入ってきて、ロシア語科の講座長から私に電話だよと
 伝えてくれた。
・行ってみると、他の先生は誰もおらず、講座長と見知らぬおばさんがひとり座っていた。
 見るからに格好のよい上品な女性だった。
 ちらっと見て、高級幹部の子弟の親だと思って、別に気にしなかった。
・話内容がちょっとおかしいと思われた。
 「最近も党の唯一指導体制の学習を一生懸命にやっているはずでしょうね?」
 「唯一指導体制とはなんですか?」
 「唯一的指導体制をやるためには、どうやったらいいと思のですか?」
 「全社会の金日成主義化とは、何ですか?」
 「社会主義の完全勝利とは、どんなものですか?」
 「後継者は、どのような方がよいと思いますか?」  
・私は、そういう質問と講座長とが気になるのではなくて、そばにいるおばさんの態度が
 非常に気になっていた。
 そのおばさんは、答えている私を、そばでまじまじと見つめていた。
 私を上から下までくまなく見たり、体を半分起こして、私のえり首や背中までしげしげ
 と見ていたいが、私が彼女の方向を向くと、素早く視線をそらして。しまうのだ
・何の変哲もない講座長との対話は、二十分余りで終わった。 
 「ご苦労さま。帰っていいよ」
 研究室に戻りながら、つくづく考えてみても、講座長のおかしな態度に対する解答が出
 てこなかった。
 「おかしいな。何のことだろう?そして、あのおばさんはいったい誰だろう?」
 しかし、あのおばさんの怪しい行動も謎として残ったままだったが、私は、すぐそのこ
 とを忘れてしまった。
・そういうことがあってから十日もたたないうちに、中央との面接が始まり、私はその年
 の三月、中央党に召喚された。ところがこの謎は一年後に解けた。
・工作員に召喚され、1年間、金星政治軍事大学で工作員として基本訓練を終えて、ちょ
 うど金日成の誕生日を迎えて、二泊三日の休暇を取って家に帰ったときであった。
 母は、私を見るやいなや、「この間、学校にいたとき、どこかのおばさんと話したこと
 あるの?」と訊いた。
 私はそのことをすっかり忘れていたので、そんなことはなかったといったら、母はその
 おばさんの容貌や印象を話してくれた。
 そのときになってやっと、あ、あのおばさん、と思い出し、そのときのことを母に話し
 た。 
・母はその後のことを詳しく私に話して聞かせてくれた。
 「あなたが中央党に召喚されてから、一カ月もたたない頃、あるおばさんが家に訪ねて
 来たのよ。あなたに会いたがっていたので、誰かとたずねてみると、自分は『呉振宇
 の妻だというの」
 呉振宇は当時、人民武力部長(陸軍大臣)で、大変な権力を持っている人だった。
・母は、ほぼ一年前のことなのに、非常に生々しく覚えていた。
 それだけ、母には大変な出来事だったのである。
 「何の用かと訊くと、自分は四番目の息子の嫁をさがしているので、あなたの写真を一
 枚ほしいといったの。
 でも、娘は中央党に召喚されてもう家には帰って来ないといったら、その人はびっくり
 して、いつ、そんなことになったのかと訊くと、そして写真を一枚くれというから、
 もうあきらめた方がいい、もう親でもどうしようもないのですから、と断ったの。
 そうしたら、その人はとても残念だといいながら帰ったわ」 
・母は、そう話しながら、自分もまた、その人と同じぐらい残念そうであった・
 「私も、ちょっぴり残念ね」
 と、ついに自分の気持ちを隠さずにつけ加えるのであった。
・「党の召喚がもうちょっとあとであれば、平凡な女で暮らしていたかもしれない」
 私は、非常に幸いなことだと思った。
 それは、私が成人になっていたことを再び実感させることであって、人の運命は束の間
 に代わるものだという気がした。
 もし一カ月ばかり中央党の召喚が遅れていたら、もしかすると、呉振宇人民武力部長の
 四番目の息子の嫁になってかもしれないのだ。
 
党に生命を捧げます
・私が十八歳、大学二年、二月の中旬頃であった。
 日本語の講義が終わり、休み時間に友達とお喋りをしていると、学部指導員が、教室の
 中に顔だけ出して私を呼んだ。
 学部指導員の後について第一学部長室に行くと、そこにはすでに日本語科の一年先輩と
 後輩が二人きていた。
 その前で、五十代の男性が私たちの様子をじっと観察していた。
 彼の胸には旗型の肖像バッジがついていた。
 中央党からきて人にちがいない。
 いまではあふれているが、当時は、旗型肖像バッジをつけられるのは中央党の人しかい
 なかった。
・私は当時、金日成革命歴史研究室の小組で活動していたから、学校も認めている誠実性
 と優秀な成績の所持者であるといえただろう。
 この小組は、金日成の革命歴史に関する研究を中心に管理、運営していたから、学校も
 一番神経を使っていた。
 全校で成績が優秀で真面目な女学生十人を選んで、この小組を運営していた。
・「親愛する指導者同志の徳性実技をたくさん学習したはずでしょう?覚えていること一
 つ発表してごらんなさい」
 彼は、ごく事務的に指示を下した。
 「お父さん、お母さんの職場と職位は?」
・他の学生にも同じ質問をし、簡単に終えた。
 学生たちに関することは、書類を見ると全部わかるわけだが、”談話”を通じてその人
 柄を把握しようとしていた。
・私はその日家に帰り、
 母に中央党の人が来て話をしたことを報告した。
 母はただ「何のことだろう」というだけで、さして気に留めなかった。
・ところが二月下旬頃、英語の時間が始まる前に、学部指導員が教室にきて私を呼んだ。
 幹部課の指導員のところに行くようにいわれた。
 本庁舎の幹部課に行って指導員に会うと、
 「今日三時までに平壌市党の組織一課に行ってください」
 といわれた。
 私が平壌市党委員会の建物の位置をすぐに思い浮かべることができずまごついていると、
 彼がその位置を教えてくれた。
・金日成広場付近にある市党委員会の正門に行くと、すでに同じ学校の一年後輩のスペイ
 ン語科の女学生と、金享稷師範大学英語科二年生の女学生が来て待っていた。
 指導員の案内である部屋に入ると、中央党の三人の指導員が並んで座っていた。
・真ん中にいる指導員が私の名前を呼んだ。
 「党の唯一思想体制の四大原則は?」彼の質問は、単刀直入であった。
 「神格化、信条化、絶対性、無条件性です」
 「なぜ日本語を習っていますか?」
 「その目的は、日本帝国主義と戦っている現在の状況において、少しでも祖国統一に寄
 与することです」
 「将来の夢は?」
 「党が要求することなら、どんなことでもやりたいと思います」
 「キューバにも住んだことがあるのですね?」
 「はい、幼い頃のことですが・・・」
・しばらくの間何の知らせもなく、十五日後の三月中旬になって中央党から知らせがあっ
 た。 
 この前と同じ、平壌市党委員会に行ったら、スペイン語科の女子学生の姿は見えず、
 金享稷師範大学英語科の女子学生だけきていた。
・しばらくすると、頭が禿げて眼鏡をかけている五十代半ばの男(後にわかったが金課長)
 が来て、先に私が呼ばれた。
 金課長は私に「日本語の勉強は?」「成績はどのくらい?」など、一般的なことを聞い
 た。 
 課長との”談話”が終わって、また控室に戻って待機した。
 金享稷師範大学の女学生も”談話”が終わって、私たちはかなりの時間を待たされた。
 そして、また呼ばれた。
 部屋に入ると、今度はもっと位の高い幹部の姜海龍副部長と面接をした。
 「炭鉱で働いたことはあるのか?」
 「はい、あります」
 「党が命令することを、生命を捧げてやる覚悟はあるのか?名誉な任務である反面、
 困難なときは生命まで捧げなければならない、それでも、やってみるかね?」
 「はい、党が要求することなら、喜んでこの生命を捧げます」
 「最近の大学生たちはよく恋愛するそうだが、恋人はいるのか?」
 「おりません」
 彼はうなずいて、最後のいくつかの注意をあたえた。
 「他の人にはこのことについては絶対に話してはいけませんよ」
・姜海龍副部長の注意があったけれど、家に帰り父と母にその面接のことを詳しく話した。
 いままで大したことではないと思っていた母も、
 「何かに選ばれたのは確かだけれど、一体何のことなんだろう?」
 と気がかりのようだった。
 そのときまで黙っていた父は、面接をした場所や人々について、具体的に聞いた。
 「市党組織一課で話をしたとすると、中央党に行くのは確かだけどな・・・」
 父は独り言を言った。
 その後、父は知り合いを通じてどういうことなのか、中央党について調べてみたけど、
 なかなか検討がつかないようであった。
・位の高い幹部に会ってからは、忙しくなって授業に出られないことが多くなった。
 市党組織一課の指導員について、市党庁舎近くにある写真館に行って名刺判の写真を撮
 った。  
 写真館も前もって連絡をしておいたのか、すべて妖異されてあったし、写真もその場で
 すぐに現像してくれた。
 生まれてはじめての写真がその場ですぐにできるのを見て、不思議に思った。
・北朝鮮では、写真を撮るためには必ず写真館に行かなければならない。
 カメラを持っていてもフィルムを求めるのが難しいし、現像するためには写真館に行っ
 てこっそり頼んでやってもらうので、カメラを持っている家庭はあまりない。
・次の日は、学校から身体検査表をもらって、平安南道の病院に行って綜合身体検査を受
 けた。そのとき産婦人科で処女性の検査まで受けた。
 その日出た検査結果は、のちに指導員に渡されることになっていた。
・三月二十九日、この日も土曜日だったが、私は夜八時まで研究室の小組員たちとともに、
 金日成革命歴史研究室にいた。
 研究室の館長先生がきて、党委員会から電話があって、党秘書が呼んでいる、と私にい
 った。 
 党秘書の部屋に入っていくと、そこには以前数回会ったことがある鄭指導員が来ていた。
 党秘書が先に口を開いた。
 「金賢姫は中央党に召喚されたのよ。中央党に呼ばれていくのは非常に難しいことなの。
 選ばれたことはあなた自身にも栄誉だけど、うちの学校にも栄誉です。心からおめでと
 う」 
 党秘書は手を差し伸べて握手を求めた。
 私は訳がわからなくてちょとんとしていると、鄭指導員が、
 「私が先生たちに移動に必要な書類は全部用意するように指示しておいたから、所持品
 を取り揃えて玄関の前に出なさい」
 とせき立てた。
・私は呆然としていたが、あまりにも急いでいるので、家に寄ることもできないまま党に
 召喚されるのではないかと、心配しながら所持品をすべて取り揃えた。
 小組員たちはそういう私を見て、びっくりして「いきなり何のことなの?」「どこに動
 員されるの?」「中央党の人と話をしてから?」と立て続けに訊いた。
 「うん、私にもよくわからない」
 うわの空で答えるしかなかった。
 小組員たちと別れの挨拶もロクに出来ないまま彼らの羨望を感じながら急いで玄関に出
 た。いま考えてみると、そのことが悔やまれて涙が出る。
・玄関に出ると、黒色のベンツがエンジンをかけたまま待っていて、運転手が私の荷物を
 受け取って車に乗せてくれた。
 車の中で待っていた鄭指導員が、私に「社労青移動証」「食糧臨時停止証明書」「図書
 返還証」「納付金完了を証明する経理証」などを渡した。
・車が動きはじめると、家にも寄らずに行ってしまうのではないかと心配しながら、独り
 言で、「担当の先生に挨拶もしないで・・・」と呟いた。
 そうすると鄭指導員が、「それはそうだな。そう、先生の恩をわすれてはいけないね」
 といい、車を第一学部の建物である第二号館の玄関に寄せた。
・当時、担任の先生は崔順という名前の日本人女性であった。
 この女性は1960年代に在日朝鮮人の夫について北朝鮮に「帰国」して、平壌外国語
 大学で日本語を教えていた。
・先生じゃ鄭指導員に私を褒め称えてから、私に「いつまでも元気で頑張ってください」
 と励ましてくれた。
・車が学校を出ても、鄭指導員の口から私の家に寄るという言葉が出てこないので、私は
 少しためらっていたが、勇気を出し、
 「両親には挨拶もしないで行くのですか?」
 と聞きながら鄭指導員の顔色を探った。
 「いま、家に向かっているんだよ、両親に挨拶もしないでいくなんてことはしないさ」
 とはっきり答えてくれたので、私は安堵の息をついた。
・車が、下新洞外交部アパートの家の前に停止した。
 北朝鮮では一般の人々がこのような高級乗用車に乗るのを飛行機に乗るよりもっと大し
 たことだと思っていた。  
・車が家の前に止まると、近所のおばさんたちが、いきなりあらわれた乗用車を見ようと
 窓から首を突き出した。そして車から降りる私をじろじろと見た。
 母は、私が見慣れぬ男と一緒に家に入って行くと、挨拶の声もでないほどびっくりして
 私と鄭指導員の顔を見くらべた。
・かしこまった言い方で鄭指導員がいった。
 「中央党から来ました。中に入ってお母さんとお話しすることがありますが、ご主人は
 いま、家にいらっしゃいますか?」
 そこでようやく、母は鄭指導員を部屋に案内した。
 鄭指導員が席に座ると母は、
 「うちの子に何か起こったのですか?」
 と急いでたずねた。
 「お嬢様を実によく育てられましたね。栄誉なことですが、金賢姫が党に召喚されまし
 た。これからは、党に勤めることになって等分会えなくなりますので、よろしくお願い
 します」  
 と私が党に召喚されていることを告げた。
 母が非常に驚いた様子であった。
・母はどうしたらいいのかわからないようであった。
 鄭指導員は父が夜十二時すぎないと帰って来ないと聞いて、また明日来ることにして席
 から立ちあがった。 
・北朝鮮では中央党が、金日成、金正日の一番の側近で、彼らの信任を得ているので、
 親戚の中でひとりでも中央党に勤務している場合、その権勢は驚くべきものになる。
 中央党に選ばれていくとその勢いは天をつくようになる。
 弟も妹もそのようなことを知っていたから大変に興奮していた。
 私もやはり少しは思い上がっていた。
 しかし母は違った。
 自分の愛している娘が家を出ることが心配だったのだ。
・夜十二時近くになって父が帰ってきた。
 母と弟妹みんな集まって、父に今日あったことを詳しく説明した。
 父は着替えをするのも忘れて、聞き取れなかったとでもいうように、同じことを何回も
 繰り返し聞いた。 
 父は少し寂しそうな表情を見せたが、すぐ平静を取り戻して私を呼んで座らせた。
 「私はお前が元気に育って良い人と結婚して、ただ平凡な主婦になるのを願っていた。
 子どもには賢い母になり、夫にはよい妻になることを願っていたんだ。しかし・・・。
 『虎は死んで皮を残こし、人は死んで名を残す』という諺もあるように、人間に生まれ
 て祖国のために生きて死ぬことも大事なことだ。『虎に喰われても気をしっかりと持て
 は切り抜けられる』ことを肝に銘じて、党の指示に従って頑張ってくれ。お前は本当に
 家族の誇りだ」
・私を励まし、いくつかの注意を与えたが、やはりさびしい表情を隠せなかったようだ。
 母は側で父の言葉に耳を傾けていたが、良妻賢母になってほしかった、というところで
 ついに涙を流した。
・私は家族と別れるさびしさもあったが、それよりは興奮の方がもっと大きかった。
 大勢の学生の中から選ばれたという自負心と、これから展開される党での生活に対する
 期待感に胸が膨らんだ。
 父と母がさびしがるのは、いわば、子どもが親の許から離れていくときに親が感じる当
 たり前のことで、無駄な心配だと思った。
・十時頃、鄭指導員が来た。
 父と簡単に挨拶をして、彼は私を連れて市内に出た。
 牡丹峰に上って行く道のあたりに、看板のない店があった。
 店で、下着、セーター、靴下、歯ブラシ、石けんなどを買ってくれた。
 鄭指導員は私を家まで送って、また三時に来ると言い、帰って行った。
 弟妹はトランクを開けて、北朝鮮ではじめて見る高級な衣服といろいろな品物を見て、
 「やぁ!さすが違うんだな」と私を羨んだ。
・鄭指導員が来るという三時が近づくと、みんながそわそわし出した。
 鄭指導員は家の雰囲気が暗くなっているのを感じて、
 「これから党がお嬢さまの将来のすべての責任を負い、保証します。結婚までも・・・。
 ですからすべてを党にお任せください」
 と慰めた。
 両親は指導員に「本当によかった。家の最高の誇りです。党の配慮に感謝します」
 といった。
・私は鄭指導員について家を出た。
 アパートの庭に止めてあった車に乗って外を見たら、見送りに出た母と妹は涙をながし
 ながら手を振っていた。
 父は心配そうな顔で立っていた。
 
女性工作員の特訓
・車は下新洞外交部アパートを出ると街の中を走った。
 私は後部座席の窓から街の様子を眺めた。
 乗用車からの眺めはバスに乗った見るそれとは、まったく違っていた。
・街を足早に歩いている人民たちの疲れた姿は、私の心をだんだん豊かな幸福感にひたら
 せた。 
 車が止まると、街を歩いていた人々はクルマの中を覗き込んだ。
 そして若い女の子が座っているのを見ると、羨ましげな視線を投げた。
 すると、私はしびれるような快感のようなものを感じた。
 何と羨ましいことだろう、家族と別れるときのさびしい思いもきれいに消えていくので
 あった。
・静かな山道をスピードを落として走っている間、鄭指導員はいった。
 「これからは本名は使えませんよ。金玉花と呼びます。金淑姫という女と一緒に暮らす
 ことになるが、本名はもちろん自分のことについてはすべて秘密にしなければなりませ
 ん。金淑姫についてもたずねてはいけないし、訊かれても答えではだめ。誰にも金玉花
 同誌について知るきっかけをあたえてはいけません」
 彼は何度もこんな注意を繰り返した。
・車が庭に入ると、朝鮮服を着てエプロンをしたふくよかな顔の五十代のおばさんが出て
 きて、車のドアを開けながら、挨拶をした。
 外の社会ではめったに見られない、なめらかな皮膚、化粧もしているし、服も端正に着
 こなしていた。 
・鄭指導員がおばさんに私を紹介した。
 おばさんは、
 「まあ、なんとおきれいな方。先生、こちらこそよろしくお願いいたします」
 といった。
 生まれてはじめて先生といわれて照れくさかったが、突然変わった環境にひそかに怖い
 思いがした。
・私が寝泊まりすることになった部屋に荷物を置くと、招待所のおばさんは私をお風呂場
 に案内した。浴槽とシャワーがあった。 
 顔にこそ出さなかったが、あまりにも立派な施設に私は驚いた。
 外の世界では、家の中にこのような施設があるなんて考えることもできない。
 とりわけ熱い湯を水道の蛇口を通じて使うということは、公衆浴場以外では見られない
 ことだ。
 呆然としたまま、招待所のおばさんがするとおりに浴槽に熱い湯を入れ、その中に身体
 を浸した。
・招待所の夜は静寂そのものであった。
 風に吹かれてぶつかり合う葉擦れのおとが聞こえるだけだった。
 夜遅くまで寝がえりを打っていたが、朝方になってようやく寝入ることができた。
 それでもいつになく早く目が覚めてしまった。 
・縄跳びで汗を流しシャワーをすませると、料理係が朝ご飯の用意ができたと知らせてく
 れた。
 昨夜、彼女は私にご飯とパンのどちらを食べるかと訊いたのでパンにしたいと言った。
 卵のフライをのせた食パン、牛乳、バター、トマトなどが食卓にはあった。
 幼い頃キューバにいたときに食べて以来、はじめて目の前にした洋食である。
 あまりのことに、なんだかまぶしいような気分でもあった。
・翌日には朝食が終わると鄭指導員が、私と同じ年ごろの大学生の身なりをした女子学生
 を連れてきた。
 「こちらが金淑姫です。これから互いに助け合ってください」
・このとき鄭指導員に紹介された金淑姫とは、工作員生活七年八カ月のうち半分以上を一
 緒に暮らした。
 女二人で一緒に生活すればいさかいもあるおのだとよくいわれるが、淑姫とは相性がよ
 かったのだろう。やがては言葉で何も言わなくても通じ合うほどの間柄になった。
・長い間ともに生活し、それこそ苦楽をともにしたので、工作員としては絶対許されてい
 ない、互いの身元についても知るようになった。
・淑姫は私より一つ年下で、平壌軽工業大学日用品学科に入学したが、一年生のときに召
 喚された。  
 淑姫は顔は大振りだったが、目が大きく肌の白い美人型であった。
・鄭指導員は彼女と私をソファに座らせて、招待所の規則について教育した。
 注意事項はそのほとんどが身分と顔を隠して他人に知られないようにせよ、という内容
 だった。 
 これは任務をおびて敵の背後に潜入したときに、身分と顔を知っている人いて捕まえら
 れることがないようにするためである。
・担当部署の副部長が夕食前に訪ねて来た。
 副部長は私を選抜するときに三番目の面接に出てきて、「党が命ずることは生命を捧げ
 てなす覚悟ができているか」と尋ねたその人だった。
 姜海龍といい、「申相玉」、「崔銀姫」夫婦(監督と女優、1978年に北朝鮮に拉致
 されたが、1986年西側に脱出するのに成功、現在はアメリカや韓国で活躍中)の拉
 致を直接指揮した人物である。
・淑姫と私は、工作員養成所である金星政治軍事大学に入校するまで、金日成に関する文
 献をさがしてみたり、一日一回くらの割合でその付近にある工作員専門映画館に行って、
 金日成の外国訪問、外国元首との接見、各種行事、現地指導を題材にした記録映画を鑑
 賞した。
・東北里一帯には、農業用貯水池を中心にして多くの招待所が散在していた。
 私がはじめて入った招待所は東北里10号招待所であったが、その後2号、3号、9号
 と移されて収容された。
・何度も招待所を変える理由は、工作員の退屈な気持ちをまぎらわすためでもあり、秘密
 がもれないようにという考慮からでもあった。 
・後日聞いたことだが、ある者は招待所生活を十年、二十年もしたが、特別な任務をあた
 えられなかったという。
 こんなことはざらにあることだった。
 招待所生活が長くなると一般の社会生活に戻ってもなじむことができず、不幸に終わる
 者もある。
 早く任務指令を受けて招待所生活を終えることができればと思う工作員も少なくない。
 その工作員にあうような任務につけるかどうか、それは運命的なことである。
 招待所は工作員たちの隔離収容所でもあるといえた。
・東北里一帯は、要所要所に監視所をおいて外部からの人々の出入りを制限し、工作員た
 ちの行動を監視した。
・金星政治軍事大学の本部の建物は、ここからいくつか山を越えねばならない遠い場所に
 あった。
 そこでは、工作員が浸透したり復帰したりするときに案内する任務を持つ戦闘員を集団
 的に養成していた。
 そして工作員は招待所に隔離収容されて訓練を受ける。
・私たちが収容された招待所は、妙香山谷間一地区2号招待所であった。
 ここ妙香山谷間には八つの招待所があった。
・招待所内部は三つの部屋と洗濯室、トイレ、倉庫、そしてペチカなどがあった。
 おのおの部屋には金日成の肖像画がかかっており、廊下にはビニールが敷かれていた。
・ペチカとくっついている部屋が寝室であったが、それは温突部屋であった。
 部屋にはペチカに近いところに二つのベッドがおかれており、テレビ、衣裳箪笥、テー
 ブルがあった。
 そして寝室の隣りが学習室であるが、ここには机が二つと教卓、黒板があった。
 学習室と向い合せの部屋は板の間の書斎で、学習教材が備え付けられていた。
・この招待所には料理係がいない。
 それで私たちは、自分たちで掃除、洗濯をすることはもちろん、庭の草をむしったり、
 兎に食物をあたえたり、ペチカに薪をくべなければならなかった。
・軍服姿にマスクとサングラスをかけ、雨傘を広げて偽装を徹底的にして講義室へと向か
 う。はじめはそのような身なりがあまりにもぎこちなく、恥ずかしく思えたが、やがて
 それにもなれてきた。  
・講義室でも顔面の露出は許されない。
 声も知られないように言葉も質問もいっさい口にすることができない。
 語られる講義を一方的に聞くだけである。
・淑姫と私は訓練のほかにも兎を飼い、夏には自主的に副食を調達するために(自給自足
 をすること)、庭先の野菜畑を起こし、きゅうり、トマト、メロンなどを植えて育てね
 ばならなかった。  
 一日中学習または訓練または行軍の忙しい中で、畑の面倒をみるということは一つの重
 荷であり苦痛であった。
・毎日肉汁のスープが食卓にのった。
 おやつとしては毎週土曜日ごとにお菓子、砂糖、サイダー、ビール、りんご、梨、乾明
 太が配給された
 私たちへの食糧配給量は一日白米七百グラムであった。
 これは北朝鮮では最高の待遇だといえた。
・しかし、教育訓練中には、休暇とか家族との面会は絶対に許されなかった。
 工作員の居場所や仕事の内容はいっさい秘密にされていた。
・金星政治軍事大学の教育の生でもっとも難しかったのは軍事訓練だった。
 これは肉体的、精神的に極限状態を克服する訓練であるといえた。
・撃術訓練というのは、普通の男二名を制圧しうる能力を身につけることを目標とした。
 手足、肘を使って急所を正確に攻撃する訓練だった。
 訓練方法は縄を巻いた柱を打撃して手を強くする練習を反復するというやり方であった。
 この訓練は毎日三時間ずつ実施された。
・行軍は、毎日夜間に一時間ずつ十キロの背嚢を背負って四キロ「山岳行軍」をすること
 であるが、毎週土曜日には同じ十キロの背嚢を背負って二十五キロを三時間で「山岳行
 軍」した。 
・射撃ではピストル千に百発の実弾射撃と、AK小銃二百発の射撃をした。
 毎週二回、四時間ずつの教育を受けた。
 武器の分解、組み立て、修理訓練も繰り返しやらされた。
・手榴弾投擲訓練もあった。
 25メートルの距離で直径15メートルの円に投げる方法を学んだ。
 1回に3発投げる訓練もあった。
・ビト訓練は、夜間に地図を見て指定された場所をさがし出して、そこで穴を掘り、その
 中に入って三日間隠れている訓練であった。度胸と根気と忍耐が必要だった。
・短刀操法は短剣で相手の急所を指す訓練である。
 プラスチックの模型短刀(25センチ)を使ってその正しい握り方と急所を刺す方法を
 五時間でものにしなければならなかった。
・そのほかにも自動車運転、写真撮影、現像、印刷の実習も行われた。
・淑姫と私は歯を食いしばってきつい訓練に耐え抜こうとした。
 一つ一つ克服していくことで自信が持てるようになった。
 恐れを知らない超能力のある女になっていくような気分だった。
・「私たちはかなりの力の男数名は問題なくやっつけることができるわ」
 撃術と射撃、短刀操法を習いながら互いに偉そうな気分に浸った。
・教育には、講義と訓練だけでなく、映画鑑賞も入っていた。
 映画では実務を学ぶだけではなく、思想も固めることができるというのである。
 映画は、毎週一、二回スパイ映画を中心に観賞したが、見終わってからはこれに対する
 ”実効訓練”といわれる討論を淑姫としなければならなかった。
・私たちは「死に向かう五人」という外国のスパイ映画を見てショックを受け、淑姫と私
 は映画の内容についてよく語り合った。
 この映画では、女子工作員が五名の友軍偵察組に襲撃できる機会と時間をあたえるため
 に、敵の将校をおびきよせて身体までも許しながら任務を遂行するのであった。
 しかし、ついにはその正体がばれて、敵の将校にピストルで撃たれて死ぬのである。
・淑姫は泣き顔になって「私たちもあんなことをしなければならないの?」といって、
 私の方に振り向いた。
 私もそんなことをする自信などもてなかった。
・その後、担当課長が私たちに、
 「スパイ戦に女を使う理由を知っているのか?それが”美人計”(武器としての色仕掛け)
 というものだ。必要なときには身体もあたえるのだ。そんな覚悟なしには工作員などつ
 とまらない。外国で合法的な身分をえて活動するためには、その国の男と結婚するのが
 一番だ」と”教養”をくりひろげるのであった。
 こんな夜には、淑姫と私は同病相憐れむ心情になるのであった。
・こうして私たちは、それこそ血のにじむような努力の結果、一年間の訓練を無事終える
 ことができた。 
 教育が終わる三日前に、その間学んだ全科目に対する総合評価を受けた。
 すべてがいい成績であった。
・厳しかった一年間、訓練に訓練を重ねた日々の記憶が頭をかすめていった。
 両親がいればどれほど頼もしい思われるだろうかと考えると、目頭が熱くなった。
 一年の間、消息を聞くこともなく、また伝えることもできずに過ごした。
 母の「もう一度帰って来られるだろうね」といった言葉が、何度も浮かんで来た。
  
李恩恵先生との出会い
・淑姫と私は、東北里9号招待所に移された。
 私たちの所属は、朝鮮労働党中央委員会調査部二課であった。 
・午前中は自主的計画に従い、政治学習課題研究を抜粋したり、テープレコーダーで外国
 語学習をしたりした。
 午後には招待所の書庫にあった革命小説を読んだり、招待所の料理係を哲だってとうも
 ろこし畑の手入れもした。
 休む時間もなく忙しかったが、金星政治軍事大学時代の生活とくらべれば、はるかに楽
 だった。
 ペチカに火を入れたり、兎に飼料をやらなくていいというだけでもありがたかった。
 夕方六時頃格技場で撃術を練習し、技を忘れないように継続的な鍛錬を重ねた。
・日曜日はまさに休息の日で、朝十時からテレビを見たり、自由時間をもつことができた。
 約三カ月間、このように過ごしているうちに、鄭指導員が、李明吉指導員と交代した。 
 工作員と指導員は、こうしていつかは別れるものだが、鄭指導員ははじめて私の指導を
 担当してくれた人だったので、とても名残り惜しかった。
 
・1981年7月初め、李指導員は淑姫と私に指示を下した。
 「同志らは革命任務がそれぞれ違いので、今日から別々に勉強しなければなりません。
 ですから玉花同志は別の招待所へ移動することになりました。今日、夕方六時に出発で
 きるように荷造りをしなさい」
・一年間苦楽をともにしてきた私たちは、強い友情で結ばれていたが、別れる心の用意は
 できていた。 
 工作員たちは、別れることに馴れなければならなかった。
・淑姫に見送られ、李指導員とともに出発した。
 車は夕陽に染まる農業貯水池に沿って行き、その近くになる東北里2階3号招待所に到
 着した。 
・この特閣招待所は9号招待所と大変近かったが、移転場所の位置を私に隠すため、ベン
 ツで付近をぐるぐる回った。
 ところが私はその付近の地理に明るかったので、車でむやみにぐるぐる回ったおかげで、
 さらにチリに詳しくなってしまった。
 秘密を守ろうとして逆効果をあたえる結果を招いたのだが、私は知らぬふりをしていた。
・車が招待所の庭に止まると、前もって連絡されていたらしく、招待所のおばさんと洒落
 た身なりの女性が嬉しそうに走り出てきた。
 その女性は、北朝鮮ではまず見かけないくらいお洒落をしており、李指導員に挨拶しな
 がら私をちらちら見ていた。
・利塩津院から聞いていておよそ見当はついていたが、一見しただけで、北朝鮮の女性と
 ははっきりと違い、全身から外国女性の雰囲気が漂っていた。
・身長166センチほどで、口と目も大造りの外国風の容姿であった。
 彼女は、その当時北朝鮮の女性たちの羨望の的であった宇不意ひらひらしたナイロン・
 ジョーゼット布地のページュ色のブラウスと、今野ロングスカートを着ていた。
 髪は長めでパーマをかけ、濃い化粧をしていた。   
・応接室に入ると、指導員は改めて紹介をしてくれた。
 「こちらは玉花に日本語を教えることになる「李恩恵」先生です。これから一生懸命に
 日本語を習ってください」
・恩恵先生は、それまでひとりでいたのでうんざりしていたのか、
 「これから、玉花同志と一緒に過ごせることになって大変嬉しい。心配しないでくださ
 い。私が責任をもって教えますから」
 といった。
 彼女の朝鮮語は日本式発音で大変ぎこちなかったが、可愛らしいところがあった。
・私も大学で習った日本語で、指導員の促すままに「よろしくお願いします」と挨拶して
 みた。
 恩恵先生は、私が日本語を話すのが意外というように驚いていた。
 私に何歳かと尋ねては、指導員に「とても魅力的です」とたどたどしい朝鮮語でほめた。
・恩恵先生は李指導員と朝鮮語で愛想よく話すのだが、舌足らずな声で同じことを何回も
 繰り返した。
 朝鮮語で意思疎通しようと努力する姿がおかしく、また気の毒でもあり、感心もした。
 彼女は日本から拉致されてきた日本女性であった。
 金日成に恩恵を受けたので、李恩恵という名前がつけられたという。
・李指導員は私と李恩恵先生にいろいろな注意をあたえた。
 「恩恵先生と玉花先生は、たったいまからすべての会話に日本語のみを使用し、朝鮮語
 をいっさい使わないこと」
 「玉花先生は恩恵先生から、日本の言葉のみでなく、身振り、風習、化粧方法、思考方
 式まで学び、完全な日本人になりきることができるよう学習させること」
 その指示内容は、私を徹頭徹尾日本人化させなさいということであった。
・恩恵先生と私は、互いに個人的身の上については秘密にしていたが、招待所の料理係を
 通じてある程度知るようになった。
 彼女は不幸せな女性であった。
・恩恵は、私に日本人としての名をつけてくれようといろいろ試案をしているうちに、
 無意識のうちに自分の日本名は”ちとせ”だと漏らしたことがあった。
・工作員が自分の身の上を明らかにすることは、厳しく統制されていたので、恩恵は自分
 の日本名を喋ってしまって、狼狽の色を隠せなかった。
 彼女があまりにも慌てていたので、私はそれ以上問い詰めず、そしらぬふりをしていた。
・彼女は当ヒ十九歳の私より、五歳上の二十四歳だといっていたが、身体つきはおばさん
 風であった。
 彼女と私は、招待所で一緒に入浴したことがあった。
 そのとき見たが乳房が垂れて、乳首が黒ずみ大きかったし、腰に贅肉がついていた。
 その身体つきを見ておおよその推量はできた。
 しかし、若い女同士の自尊心の問題もあって、恩恵は私にはじめは結婚していないと偽
 った。 
・恩恵と招待所のおばさん(料理係)の関係は、私と恩恵との関係とは違っていたので、
 彼女はときどきおばさんに自分の身の上話を打ち明けていたという。
・恩恵は東京出身者で高校を卒業してすぐ結婚し、息子と娘がひとりずつ生まれたのち、
 離婚した。
 1979年頃、息子が三歳、娘が一歳のときに彼女はどこかの海外に遊びに行き、浜辺
 を散歩しているうちに、北朝鮮の船に拉致された。
・拉致された後、牡丹峰招待所に収容された。
 そのときは子どもたちと家を偲んで泣いたり叫んだりして、ものを食べることを拒んだ
 が、何日か経つと諦めて環境に適応していったという。
 招待所のおばさんは「言動から見て、たぶん日本の酒場で働いていた女性でしょう」
 といった。私の目にもそのように映った。
 酒、タバコをよくのみ、”同席食事”のとき、恩恵が課長や指導員に酒を注いだり、
 灰皿をすばやく空けると、彼らは、
 「やっぱり慣れているだけあって手際がいいねえ。恩恵の恋人はたぶん五十人を越すだ
 ろう」 
 と冗談をとばした。
・恩恵は酒に酔うと、招待所の窓の外を眺めながらぼんやり座って、「私の子どもはいま
 何歳かしら?」といいながら、指を折って数えてみたりして、拉致されてきた自分の身
 の上を嘆いた。時には悲嘆にくれて咽び泣くこともよくあった。
・毎週土曜日の夕方は、一週間の「学習総括」を終えると、時間に余裕ができた。
 そんなときは、彼女は、招待所のおばさんが保管しておいた酒や、外貨商店からこっそ
 り買って来たウイスキーをサイダーで割ってカクテルをつくり、私にも勧めた。
 私は酒が嫌いだったが、雰囲気をこわさないように、飲むふりをしてつき合ったことも
 あった。  
・1982年のお正月には、40度の仁豊(銘柄)酒を瓶半分くらい飲んでひどく酔った
 ことがある。
 昼食後、李指導員が帰ってから、二階の応接室で恩恵とテレビを見ていると、テレビで
 功勲歌手の崔恵玉が歌う場面があった。すると恩恵は彼女を指して酒に酔ったまま叫ん
 だ。
 「親愛なる指導者同志の誕生日祝賀会に私も出席したわ。そこに芸術家がたくさん来て
 いたの。その日、服を脱ぐゲームがあった。あの人は続けざまに服を脱がされて、可愛
 そうな目にあってね。そのとき、日本人夫婦も来ていた。私のように引っ張られてきた
 ようだったわ」
・彼女は喋るのを止め、正気にもどったのか、驚いで話を切った。
 「玉花さん!この話は決して他の人にはいわないでちょうだい」
 彼女は気の毒なほど必死に哀願した。
・恩恵と私は、このようにお互いを思いやりながら暮らした。
 しかし、ときどき彼女が私たち朝鮮人の悪口をいうときは、はげしく言い合った。
 「朝鮮人は、食後に水で口をゆすいで、そのまま飲み込んで汚いわ」
 「朝鮮人は、ご飯を汁にまぜたり水にまぜたりして食べて、へんじゃない」
 「朝鮮人は、寸法をとったりおおきさを標示するとき、手で腕や手首をつかむのでいや
 らしいのよ」  
 あるときは、
 「朝鮮人はなぜ同じ民族同士で敵のように争うのかわからない」
 といって私を怒らせた。
・私は彼女に、
 「私たち朝鮮人をこのような状態に落としたのは日本人だ。日本は三十六年間わが民族
 を抑圧しながら、血と汗を搾り取って、分断の原因をつくったのだ」
 と反論した。
・私は恩恵先生と生活をともにしながら、コーヒーをはじめとして、はじめて食べたり見
 たりしたものが多かった。 
 コーヒーなどは、北朝鮮の一般市民には外国映画で見ることはあっても、一般社会では
 見られない。
 外国へ行った人が、ときどき外国から持って帰ることがあっても、味がわかるわけでは
 なく、珍しいものとして飲んでみる程度だった。
・恩恵は自分の贅肉を落とそうと、コーヒーを頻繁に飲んだ。
 北朝鮮ではポッチャリと肉付きのいい人が美人とされたので、スリムになりたいとする
 人を見ると変な気がする。
 ましてやご飯を抜いても痩せるなど、考えられないことだった。
 もともと食べ物が不足しているのだからわざとご飯を抜くなど信じられないことであっ
 た。 
・恩恵は朝食をとらなかった。
 ブラックコーヒー一杯にお菓子何個か食べる程度だった。
 私もひとりで朝食をとるのも嫌だったし、それに私より痩せた女性がそうであるから、
 私も彼女にならってご飯を抜いた。
 コーヒーも彼女と同じくブラックで飲んでみたが、胃が痛くなった。
 そして間食がだんだん習慣化していった。
・彼女は、時には応接室でカクテルを飲み、「加藤登紀子」の歌を聞きながら、故郷と家
 族を思い出して涙を流していた。
 そのとき私はまだ幼くて、革命性、思想性の理想に燃えた娘であり、彼女の胸の痛みが
 理解できなかった。
・彼女の身の上を人間として気の毒だと思いながらも、わが民族の分断に責任のある日本
 人が、統一のためにひとりくらい犠牲になるのは仕方がないと考えた。
 賢明な党のやることは、すべて信じていれば間違いないと思っていたからだ。
・夕食後、人の気配のないひっそりした裏山の道を散歩することも、日課の一つだった。
 別の方へ抜け出して、しばらく降りていくと、平屋建ての家々が並ぶ村があった。
 恩恵は北朝鮮に来て、まだ一度も庶民の生活を見たことがなく、その暮らしぶりを見た
 がっていた。  
 そして、夕方の散歩の道から帰ってくる途中、暗くなったら、他人の目につかないのだ
 から、その村の方へ行き住民の暮らしぶりをのぞいてみよう、と彼女は提案した。
・平壌周辺に住む人々の生活はどこもたいへん悲惨な状況であった。
 一つの屋根の平屋を二、三個所に分けて、各々小さな部屋ひと間と台所がある空間に一
 家が住んでいた。 
 台所には、ビニール張りの茶だんすが一つ、真っ黒くすすけた釜と、はげたホウロウ鍋
 があった。
 分厚い紙をべたべたはったつぎはぎだらけの床の上には、じめじめした布団が何枚か置
 いてあった。これが彼らの家具であった。
・私はそのような北朝鮮の人民の生活を、むりやり見ようとする彼女が憎らしい一方、
 恥ずかしくもあった。
 私は一生懸命引き止めて、もう帰りましょうと彼女を引っぱった。
・彼女はただ好奇心で見ようとしたのだった。
 私は彼女に、資本主義の国々にくらべ社会主義の北朝鮮はすべて均等で、平等であり、
 資本主義社会には「貧益貧、富益富」(貧しい者はますます貧しくなり富んでいる者は
 ますます富む)という欠点があることを指摘して、北朝鮮の優越性を理論的に説明した。
 私は彼女を思想的に北朝鮮にあこがれるようにしなければならないのに、それとはまっ
 たく反対の人民のみじめな生活を見たら、どうしようかと不安になった。
・恩恵はその”自由主義”をしばらくの間忘れるころができずに、嬉しそうに何度も話した。
 彼女は日本語で暮らすのだからよいけれど、私は外国語だけを使用して暮らすのだから、
 窮屈でやり切れない気分であった。
 恩恵との意思疎通に不便はなかったが、何かすっきりしなかった。
・そこで私はしばしば、夕食がすむと、料理係のおばさんの部屋をたずねて話すことがよ
 くあった。 
 そのおばさんは秋月という名前で、当時四十五歳くらいだった。
 秋月は夫を炭鉱事故で失ったのち、料理士、裁断士、接待員などを教育する商業大学を
 出て、中央党に選ばれて、招待所の料理係になった。
 子どもたちはすべて特殊学校である南浦学院に入ったので、いまは人の往来の少ない山
 奥の暮らしが気に入っているという。
・つまらない他人の身の上話であるが、朝鮮語で聞き、朝鮮語を話すこと自体が、私にと
 っては大きな慰めであった。
・恩恵は、山奥の招待所に監禁されて暮らせるような女性ではなかった。
 だから一層苦しみ、一層酒に酔って生きていこうとしたのだろう。
 彼女は”自由主義”をしばしばせがんだが、私はできるだけその提案を黙殺した。
・恩恵は生きる希望を失っているようだった。
 日曜日や休日になると、たいていの女性は服を取り出して、着てみたりして時間を過ご
 すものである。
 ところが、恩恵は何着かのパンタロンとセーターしかもっておらず着る服があまりなか
 った。
 彼女は外国人だから、毎月外貨商店で、外貨の代わりとして使いことができる”両替金”
 二百ウォン程度を受け取っていた。
 これはかなりの金額であったが、彼女は服も買わなかった。
 だからといって、その金を貯めるのでもなかった。
 商店に行っては、高い外国製のタバコや酒を買い、指導員にあげたり、招待所のおばさ
 んにも気前よくふるまったりして、使ってしまった。
・恩恵は、生きる意欲を失っていたかに見える暮らし方をしていたが、それでも北朝鮮の
 人と同じような待遇をしてもらいたがっていた。
 1982年3月から4月にかけて、私は入党するために彼女と別れ、しばらく他の招待
 所に行っていた。
 そのとき指導員は、恩恵が知ればさびしがりそうだからと、私が出かける理由を正直に
 知らせず、ただ行事があって出かけるとだけいった。
・しかし、私が入党して帰ってくると、誰が彼女に知らせたのか、私が入党した事実を知
 っていた。
 北朝鮮では誰でも党員になることを最大の栄誉に思っている。
 恩恵も北朝鮮に長らく暮らしていたので、このような実状を知るようになったようだ。
 私が帰ってくると、恩恵は指導員に天真爛漫な子どものように、
 「私も党員員になりたい。私はいつ入党できるのでしょう」
 といってせがんだ。
・私はその言葉を聞きながら、恩恵を本当に気の毒だと思った。
 よその国に来て、無視されながら、その国の人のように暮らしたいと願う彼女が哀れで
 ならなかった。 
・恩恵とは眠るとき以外はいつも一緒にいて、実の姉妹のように過ごしたが、彼女が時に
 私の自尊心を傷つけるようなこともあった。
 北朝鮮では、招待所の家具や什器は、一般社会からは想像もできないほどの高級品であ
 った。
 ところが恩恵は、招待所のそれを指して、自分の家のものよりもよくないとけなした。
・お正月には彼女に贈り物としてカレンダー、お酒三本、砂糖一箱、飴、牛肉の缶詰、
 さんまの缶詰、桃の缶詰、タバコ十箱などが送られてきた。
 彼女は、私には砂糖菓子をくれ、残りは招待所の人々に分けてやった。
 質が悪くて自分はそんなものは食べられないというのであった。
 北朝鮮では最高の贈り物と思われているのに、そんな言い方をされると自尊心がどうし
 ようもなく傷つけられるのであった。
 日本の経済が少しばかり進んでいるからといって、虚勢を張る人だと思った。
・しかし、ここ韓国に来て、はじめて恩恵のいう意味を知ることができた。
 そして、それはまったく見栄えではなく、実感そのものであったろうと認めるようにな
 った。時すでに遅かったが。
・恩恵と別れるときが迫っていた。
 私よりむしろ恩恵の方が名残り惜しがっていた。
 彼女は私にお礼を言い、彼女が大事にしていたペンの先端が金製の真っ赤な万年筆を記
 念品としてくれた。
 私は彼女に風呂敷と兼用できるスカーフを贈った。 
・1983年3月中旬、李明吉指導員が、「今日から李恩恵先生と別れて、他の招待所に
 行かなければならない。荷物をまとめてください」と指示を出した。
 私たちは予想したとおり、別れの時を迎えた。
 李恩恵先生は招待所の門の前に立ち、私たちが乗ったベンツが見えなくなるまで、私が
 贈ったスカーフを振っていた。
 長い間一緒に生活しながら、これまであまり感じなかったのに、スカーフを振っている
 恩恵の姿を見ていると、今さらのように切ない情が湧いてくるのを感じた。
 
日本人偽装工作を開始
・新たに私が移って行った先は、龍城40号招待所だった。
 龍城地域には大小の招待所が東北里より多く、招待所の歴史は古かった。
・車が招待所の庭に入って行くと、淑姫と招待所の料理係が出迎えて喜んでくれた。
 久しぶりに会った淑姫は再開を喜んでくれたが、一方ではとても浮かぬ表情で元気がな
 かった。
 後でわかったことだが、私が日本人化教育を受けて、凱旋将軍のようにあらわれたのに、
 自分はその間、金星政治軍事大学の科目にあきあきしていてからであった。
 だから自尊心が傷ついてといった。
・淑姫と私は再び、”配合”(組む)され、前と寸分も違わない訓練を受けた。
 政治思想学習、情報理論学習、映画鑑賞と観光などは以前と同じであったが、今度は実
 務実習訓練を多く受けた。
・”無線実習”としては、毎日決められた時間に、指定された周波数に合わせてラジオ放送
 を聞き、モールス符号の受信能力を養った。
 教育の結果、一分間にモールス信号二十組を受信する能力が身についた。
・また二か月間、毎日四時間ずつ乗用車のボルガに乗り、運転教育を受けた。
 主に曲がりくねった田舎道を走って市内に出た。
 北朝鮮では市内に車が少ないため、前方に注意しさえすればよい。
 この実力では、ソウル市内の運転はとうてい無理にちがいないが・・・。
・そんな訓練の中で、1984年の金日成誕生日に合わせて、二泊三日の休暇が下りたこ
 とは忘れられない。
 休暇になる二日前、李指導員が私に耳打ちしたあの言葉は、私には本当に夢のようだっ
 た。 
 「玉花、家に帰りたいですか。家も引越ししたそうだから一度見てこなければ。今度の
 4月15日の祝日に行ってきなさい」
・「それは本当ですか」と声が喉まで出そうになったが、ぐっと耐えた。
 ほとんど毎晩、夢の中で家族に会い、天気が悪い日や身体の調子が悪いときには、
 一層恋しく帰りたかった家である。
 そんなときは、「もう家には帰れない。祖国統一のために捧げた身体だから、どうする
 こともできない。革命を起こそうという私が、小さな一個人のことに神経を使ってはい
 けない」とみずから言い聞かせた。
・ところが、思いがけなく休暇をくれるというので、突然身体が宙に浮かび上がるような
 気分だった。
 胸が震え、手足が震え、全身が震え出して、じっとしていられなくなり、何にも手につ
 かなかった。  
・招待所のおばさんは、家族に持って行くようにと、米や砂糖、お菓子などを背嚢に入れ
 てくれた。
 私もその間、工作員商店で買っておいた化粧品、万年筆、石けん、歯みがき粉など、
 外部では買えないような品物を取り揃えて、同じように背嚢に入れた。三年ぶりであっ
 た。
・金星政治軍事大学で工作員基本訓練を終え、一年ぶりに家に帰ったのが最初の休暇であ
 った。そのときも、金日成誕生日の特別休暇だった。
・車は平壌千里馬路東城橋付近にあるアパートの前でいったん止まり、淑姫と指導員が降
 りた。ここには淑姫の家があった。
 指導員が淑姫を家まで連れて行く間、私は車の中で待った。
 車でわずか一時間あまりのところに家があっても、三年ぶりに帰るとなるともどかしか
 った。 
・二十分ほどたつとようやく指導員が戻ってきたので、今度は私の家に向かった。
 私の家は新しく建てた貿易部のアパートだった。
 下新洞外交部アパートよりも広く、中央に暖房と温水施設がある新設アパートだった。
 指導員があらかじめ連絡をしてくれたのか、家では両親と弟妹たちが顔を揃えて、私を
 待っていた。
 母は私をつかんで上から下、前から後ろと、くまなく目をやった。
 長い間離れたていた娘が、どこか変わったところはないかと見ようとしたのだと思う。
 しばらくして、ようやく以前と同じ娘の姿に安心したのか、私を抱いて背中を叩きなが
 ら、「賢姫・・・」というと、あとは涙が溢れだした。しばらくの間、言葉をつぐこと
 ができなかった。
 父は笑みを浮かべながら母の後ろに立って、母娘が抱き合っている情景を眺めていた。
・指導員は、家族の感激的な対面のそばにいるのが気まずいと思ったか、母がお上がりな
 さいと勧めても遠慮した。
 「あさっての午後にお迎えに来ますから、ゆっくりさせてあげてください」
 そういうと、指導員は帰って行った。
・母はときどき私の写真を出してきて、「もう会えないだろう」といって泣いていること
 が多かったそうだ。   
 中央党に召喚されて行くと、私の写真はすべて処分しなくてはならないのだが、母は写
 真を隠しておいたのだった。
・三年あまりを招待所に閉じ込められていたのだから、田舎娘になったような気がした。
 家族と話し合う共通の話題がなくて、気づまりな雰囲気であった。
 私は家族の一員ではなく、訪問客のようなものだった。
 家が引っ越したので余計雰囲気になじめなかった。
 母と賢玉は、むちゅうで留守中の話をしてくれた。
 私が家にいたときによく口にしていた好物をつくろうと、大事にしまっておいた材料で、
 母は食事をこしらえた。
 またたく間に二泊三日が過ぎてしまった。
 招待所にいたら、わずか数時間と思えるほど短かった。
・休暇を終えて招待所にもどると、はじめの何日間かは気持ちが浮ついて、仕事が手につ
 かなかった。 
 家に行った来てことが、まるで夢のような感じだった。
 淑姫も時間さえあれば、ベッドに横になってぼんやり天井を見つめたり、窓から外を眺
 めたりしてため息をついていた。
 言葉には出さなかったが、彼女も私と同じ気持ちだったに違いない。
・指導員は、このような私たちに気づき、
 「こんなことで、どうして革命家になれるのかね。今度から絶対に休暇をとらせないか
 ら覚悟しなさい」 
 とおどした。
・淑姫と私の家は、平壌でもいい暮らしをしている方であったし、まだ未婚だったから家
 への未練は少ない方だった。
 招待所の料理係の話によると、地方に家族がいる既婚者の場合は、一度家に行ってくる
 と、そのみじめな暮らしにショックを受け、招待所に帰ったのちに、ひどい鬱病に陥る
 という。  
 だから、地方出身の工作員たちの場合は、何年かに一度家に顔を出す程度で休暇がなく、
 工作員夫人たちは長く生き別れの生活を強いられるというのであった。
・1984年7月の初め、李指導員と対外情報調査部一課の崔副部長という人が招待所を
 訪れて、私にここの生活と学習内容に関する質問をして帰っていった。
 二、三日過ぎて、再び担当の崔副部長がやって来て、
 「一課から提起された事業があるので、玉花同志は明日から手伝わなければなりません」
 と指示した。
・次の日の午後三時ごろ、私は龍城招待所を出て、一時間後に東北里2階2号特閣招待所
 に移された。
 この招待所は李恩恵から日本人化教育を受けた東北里3号招待所付近にある。
・招待所に着くと、前に龍城40号招待所に訪ねてきて、私と話をした一課副課長が、
 五十代の指導員と老人ひとりを連れて私を待っていた。
 「この方はこれから先、玉花を担当する張指導員です」
 「そしてこの方は金先生といって、これからあなたとともに仕事をする人です。本当の
 祖父と思ってよく仕えなさい」
・紹介を受けた金先生は白髪まじりで、腰の少し曲がった老人だったが、あたかも”帰国
 者”(日本から祖国にもどった人)のような感じを漂わせていた。   
 この金先生という老人がまさに、私とともにKAL858便を爆破した金勝一である。
 この崔副課長は後に課長となり、その爆破任務を直接指揮した。
・私は、ただちに新しい任務が自分に下されたことに気づいた。
 はじめて任される任務がどんなものなのか、たいへん緊張した。
・夕方五時頃、対外情報調査部の李部長の乗った紺のベンツが、招待所の前に来て止まっ
 た。  
 李部長は、対外情報調査部部長に任命されてからいくらもたってなく、このときが私と
 のはじめての対面であった。
 彼は背丈が百七十センチほどで恰幅もよく、頭は少し禿げて、手強そうな印象だった。
・部長は普段、一般の工作員と会うことはあまりないのだが、任務を受けて出発するとき
 とか復帰するときにのみあらわれた。
・彼は応接室ソファに座ったかと思うと、再び立ち上がって文書を広げた。
 彼はより厳粛な面持ちで咳払いをした後、私たちに任務に関する指令を下した。
 「このたび、党から金先生と玉花に与えられた任務は、二人が日本人父娘の観光客を装
 って海外旅行をしながら、南朝鮮にいってくることです」
 私は息を殺して、私がなすべき任務は何かと耳を傾けた。
・「今回の組編成は討論の結果、日本人父娘に偽装するのが一番適当だという結論が出て、
 このように構成したのです」
 彼は金先生と私に、しばらく視線を向け、話しを続けた。
 「金先生は南朝鮮に行って別の任務を果たしたのち戻ってくる。玉花同志は今回がはじ
 めての工作だから、南朝鮮まで行かずに、その手前まで金先生と一緒に回りながら、
 金先生の健康に気をくばって海外実習をしなさい。党の信任と期待が大きいので、必ず
 成功するように路程と実情の研究をしっかりしなさい」
・南朝鮮という言葉が部長の口から出たとき、方がぐっと落ちたのだが、私は南朝鮮に行
 かなくていいと聞いて少し安心した。
・任務付与が終わると、部長は以前から金先生を知っているのだろうか、健康状態を聞き、
 日常の話を交わした。
 副課長が私にちょっと席を外すよう目配せした。
・見知らぬ人たちに囲まれて、嫁いできたばかりの妻のように、自分の挙動に注意して心
 身が緊張していたせいか、ひどく疲れていたので助かったと思った。
 しかし一方では、私が聞いてはいけない重要な秘密を話すために私を追い出すことが、
 何だか寂しいような気もした。
 私自身のためにも、必要のない”事業秘密”を知るのはいけないことだとわかっていて
 も、何だか疎外された気持ちを抑えることができなかった。
・立てられた基本方針が以下のとおりであった。
 1984年8月中旬、平壌から張指導員が引率して工作組二名が出発
 モスクワ→ブダペスト→ウィーン→コペンハーゲン(張指導員と別れる)
 工作組:コペンハーゲン→フランクフルト→チューリッヒ→ジュネーブ→パリ
 金玉花:パリ→香港→マカオ
 金勝一:パリ→ソウル→香港→マカオ
・マカオで三名が再び合流する。再度、張指導員の引率でマカオ→広州→北京→平壌で復
 帰する。
・日本人に偽装する方法としては、金勝一と金玉花は日本人の父娘の観光客を装って、
 金勝一は”蜂谷真一”、金玉花は”蜂谷真由美”に成りすます。
・日本の娘のようになるために、日本の雑誌やビデオなどを見ながら、服装と化粧、ヘア
 スタイルに神経を使った。   
・私には、金玉花名義の北朝鮮公務旅券と、「蜂谷真由美」名義の日本旅券があたえられ
 た。
 北朝鮮旅券には、ハングルで金玉花と自筆で署名し、日本旅券には、漢字で「蜂谷真由
 美」、英字で「M・HACHIYA」と署名した。
 この時私は、生まれてはじめて日本旅券を見た。
 こんなふうに偽造日本旅券をつくって使用しても大丈夫なのか心配になった。
・日本人に偽装するための工作装備には、すべて日本製品が支給された。
 太月春という招待所の料理係は、私の装備品に驚きを隠さなかった。
 シャンプーをどうやって使うのかとたずね、セイコーの時計を大変羨ましがった。
・私は彼女に何か一つでもあげたかったが、消耗品のシャンプー、石けんを除いたすべて
 の装備品は、戻ってきたのち再び品目別に返さなければならないので、そうすることも
 できなかった。  
・招待所を回っていると、ときどき実の母のような愛情をおぼえる料理係がいる。
 私には太月春がまさにそのような人であった。
 彼女は、私が出発したときは、還暦を一年後にひかえたおばさんだった。
 夫は戦争のときに死に、二十四歳で未亡人になったという。
 彼女はひどい苦しみにあいながらも、何ごとも一生懸命にやったので、村の女性同盟委
 員長になったこともある。
 そうこうしているうちに1970年ころ招待所の料理係として来ることになったという。
 招待所生活を始めてから、いい食事をして心配ごともないせいか、1984年、私がは
 じめて彼女を見たときには、年のわりにはずっと若く見えた。
 顔はふっくらとして肌も色白で艶があり、服もきれいに着こなしていた。
 私には四十代後半に見えたが、すでにそのとき、彼女は五十をずっと過ぎていた。
・彼女の娘は金策市に嫁いでおり、息子は安全員として働いていたが、いつも地方回りで
 大変な苦労をしていた。
 彼女は、幹部に頼んで息子を平壌に転出させてもらった。
 小さな家も一つ分け与えられて住むことになった。
 ところが、1985年ごろ、この息子は結婚式に行って酒を飲み、帰宅し、寝ている間
 に心臓発作に襲われて死んだという。
・彼女は、
 「夫が死んだときにはそれでもなんとか切り抜けたが、息子が死んだときには目の前が
 真っ暗になって、何も見えなかった」
 といってその死を嘆いた。
 1984年に会ったときには顔がふっくらとしていたのだが、その後やつれてしまい、
 しわがたくさんでてきた。 
 私を娘のように扱ってくれる彼女は、気の毒だという表情で、私の顔を見つめることが
 多かった。 
・1984年8月、張指導員と金先生と私の一行は、張副部長と崔副部長の見送りを受け、
 平壌の順安飛行場を出発した。
 朝鮮航空機が地面を蹴って空中に浮かびあがる瞬間、私はあまりの感激に、大声で叫び
 たい衝動を抑えるのに苦労した。
 幼い頃、キューバから戻ってくるときに飛行機に乗ったが、その当時は幼過ぎて、まる
 でわからなかったが、北朝鮮に戻ってきて暮らす間に、北朝鮮から外国に出て行くこと
 がどんなに難しく珍しいことか、わかるようになった。
 飛行機に乗り、外国旅行をするということが、どれほど深い政府の配慮であるかを、
 改めて感じ、感謝した。
・ソ連は北朝鮮と同じく社会主義国家だが、当時、北朝鮮で暮らしていた私の目には人民
 の生活に余裕があり、自由だと感じた。
 やはり、ソ連は先進社会主義国家だという印象を受けた。
・私たちはモスクワ空港を発ち、ハンガリーのブダペスト空港に到着した。
 当地駐在の鄭指導員は、大使館とは少し離れたハンガリー人の家の二階を借りて住んで
 いた。 
 彼は五十五歳の中年で、上の子どもは北朝鮮にのこして、妻と末娘と生活していた。
・この地は気候はさわやかで、汗ばむほどに扱った。
 空港で待機していたブダペスト駐在の張指導員の案内で、車で二十分あまりの距離の住
 宅街に位置した二階建ての招待所に到着した。旅装を解き、四泊五日間滞在した。
・鄭指導員や張指導員と金勝一は、資本主義の国に移動するための準備をした。
 ここで一番問題になったことは、オーストリア国境をどのように通過するかということ
 だった。  
・ソ連、ハンガリーなどの社会主義国では、北朝鮮の公務旅券を使用してきたが、資本主
 義国では日本の旅券を使用しなければならない。
 ハンガリー国境を越える前の出国審査のときは、北朝鮮の公務旅券を見せなければなら
 ず、オーストリア国境の哨所を通過するときは、日本の旅券を見せなければならないの
 だから、厄介なことであった。
 飛行機ははじめから利用することができず、列車を利用するか車を利用するかと、国境
 通過方法に関してもめた。
・私たちは、その地の事情に明るいブダペスト駐在の鄭指導員の意見に従って、列車を利
 用することにした。
 私たちは、完全に別室になっているコンパートメントを利用した。
 オーストリアに越えていく国境付近の駅で、北朝鮮の公務旅券に出国スタンプをおして
 もらったのち、同行していた鄭指導員にそれぞれ返納し、準備していた日本旅券を受け
 取った。
・オーストリア出入国管理所の入国審査は、心配するほどのこともなく、形式的な手続き
 だけであまりややこしくなかった。張り合いがないほど、簡単に終わった。
・列車は四時間ほど走ってから、ウィーン西駅に到着した。
 駅構内にある観光案内所を訪れて、アストリア・ホテルを予約したのち、それまで同行
 していた張指導員と別れた。
 張指導員と別れた金勝一と私は、いまや日本人観光客の父娘になって、資本主義への第
 一歩を踏み出さなければならなかった。
・初めてのウィーンの街は、ひたすら緊張を強いられる不慣れな街でしかなかった。
 特別な感銘を受ける心の余裕などまったくなかった。
   
日本人観光客の父娘
・私たちが止まる部屋は三階だった。
 生まれてはじめてホテルの部屋を利用するので、豪華なホテルの設備に感嘆したが、
 ここで、考えても見なかった不安が生じた。
 金勝一がいくら年を取っていようと、二十三歳にもなる女性が、男性と一つの部屋で寝
 なければならないのは、心理的にすんなり受け入れがたかった。
 何でもない関係といっても、何かと不便なことがあった。
 そうかといって、別の部屋をとる余裕などなかった。
 どうしても一つの部屋を使わなければならなかったので、私は金勝一が寝てから、服を
 着たままベッドに入ったりした。
 かさっという音を聞いただけでも、目がさめた。
・金勝一はホテルの部屋に入ると、室外のときとは違って、徹底的に事務的に接してくれ
 たので助かった。 
 彼は気のつく人なので、私の悩みを見抜いたのだろう。
 私もまた、当時は誰にも引けを取らないくらいに思想性が徹底しており、党に対する忠
 誠心に燃え、革命精神で武装していたので、か弱い女性に見られる隙をあたえなかった。
・私たちはウィーン滞在日程を終え、八月二十八日、オーストリア航空便でオーストリア
 空港を発った。
 はじめて通過する資本主義国家の空港検査台で、私たちの偽造日本旅券が露見しないか
 と怖れ、緊張した。
 しかし、日本旅券の赤い表紙の威力は驚くほどだった。
 検査台の人は表紙だけ見て、出入国スタンプも押さないまま、無事通過させた。
 このとき私たちは自信を持った。
・コペンハーゲン空港でも同じように、まったく制止されることもなく入国手続きをすま
 せて、通過した。コペンハーゲンは秋の気候だった。
 はじめての資本主義国家の旅行で緊張したせいか、私は吹くという服をすべて着込んで
 も、骨の髄まで沁みとおる寒さを、どうすることもできなかった。
・私たちが最初の日に泊っていた中央駅付近のホテルは、料金が非常に高いので、少し安い
 ロイヤル・ホテルに宿を移した。
 このホテルは料金も安く、市内の中心街にあって、夜景もよく、交通も便利だったが、
 日本人が群れをなして出入するので、私たちは一挙手一投足に、細心の注意を払った。
・私たちはロイヤル・ホテルで五泊六日、滞在したが、その間に観光バスに乗り、デンマ
 ークの名所である人魚像を見に行った。
 観光客には人魚像の彫刻品が人気だった。
 記念に一つ買おうかと思ったが、北朝鮮の人々が見たら、女性の裸体にびっくりするよ
 うでやめた。
・北ヨーロッパの中心街には映画館が並んでいたが、どれもこれも顔を上げるのがつらい
 ほど、ヌードの絵とみだらな広告ポスターが、そこここに貼られていた。
 北朝鮮で聞いた通り、「資本主義は、確かに腐敗し、堕落した社会だ」と切実に感じた。
・私たちはコペンハーゲン空港を発って約二時間後に、西ドイツのフランクフルト空港に
 到着した。
 ここは他と異なり、静かで落ち着いた雰囲気だった。
 煩雑で、慌ただしいところより心もゆったりして、精神的にも少し緊張がほくれるよう
 であった。
・はじめて資本主義国家に入ったときは、南朝鮮からの特務や、現地の警察に尾行されて
 いないかどうか、また、使用している日本の旅券が偽造だという事実が発覚しないかど
 うか、不安に思い、ずっと緊張していた。
 しかし、ウィーン、コペンハーゲン、フランクフルトと回ってくる間に自信がつき、
 次第に落ち着いた。とくに、スイスのチューリッヒに来てからは、絵のように平和な雰
 囲気のおかげで、任務さえも忘れるほど気持ちが安定していた。
・チューリッヒのホテルは他の国々とは異なり、上品で、こぢんまりとしていて、静かで、
 美しかった。
 私たちが泊まったホテルは、川の流れが見下ろせる、青い芝生の上に位置していた。
 本当に「、絵葉書にでも見られそうな風景だった。
・タクシーを借り切って、ジュネーブへ行った。
 ジュネーブはチューリッヒより少し立て込んではいたが、やはりきれいで静かな都市だ
 った。  
・金勝一は金メッキの腕時計を一つ買った。
 のちに家に帰って取り出すと、家族はそれを一番喜んだという。
 私も時計店に入って、十字架の首飾りを一つ購入した。
 私が十字架の首飾りを買って、首にかけると、金勝一は顔をしかめ、露骨に嫌な様子を
 見せた。そのとき、私は十字架の意味を知らないで、ただ、その首飾りが非常に気に入
 って、金先生の冷たい眼差しも気にせず、そのままかけて回った。
・スイスで過ごした日々は、本当に短いものだったが、発つときにはとても名残り惜しか
 った。それほどスイスが私の心を捕え、幻想的な雰囲気に魅了された。
 フランスに向かう飛行機の中で、私はスイス滞在中に任務遂行の気持ちがたるんでしま
 ってはいけないと反省し、再び任務のことだけを考えるように努力した。
 パリのドゴール空港に降り立つ頃、ようやく現実に戻ることができた。 
・空港の手荷物検査台で検査を受けるため、約三十人あまりの他の日本人男女の観光客の
 間にはさまって、列に並んだ。
 手荷物検査は大雑把に見る程度の形式的なものだったので、順調に進んだ。
 ところが、私の番になると、荷物を開いて見せろとか、どこからきたのかといって、
 何やかんやと無駄口をきくのだった。
 私の答えを聞きながら、職員たちがにやにやしたりしながらからかっているのが、あり
 ありとわかった。
・怒りがこみ上げてきたが、怒りを表に出すこともできないまま、トランクに鍵を差し込
 んで開けようとすると、他の職員がいいからやめなさいと引き止めた。
 「真由美は美人だから、あいつらはただ話がしたくてあんなことをしたんだよ。こんな
 ときは、美人はかえって不利だね」
 金先生は、腹を立てている私をなぐさめた。
 彼らのからかいの混じった手荷物検査を受けたとき、私は偽造日本旅券を持っていると
 いう事実さえすっかり忘れて、彼らに食ってかかりたかった。
・北朝鮮でも、パリはすべてのファッションの中心都市、そして美しい都市として知られ
 ている。
 このような期待を抱いてパリに到着したのだが、はたしてパリは他の都市や国と異なっ
 ていた。
 あらゆる人種が集まったところのように、服装から化粧まで色とりどりだった。
 とくに、真っ赤な服にハイヒールの靴を履いて、真っ赤な口紅をしたお婆さんたちが、
 どの公園でも腰かけて本を読んだり、散歩をしているのは印象的だった。
・しかし、資本主義社会に対する印象は、そのようによいことばかりではなかった。
 ドゴール広場からタクシーに乗り、予約してホテルに向かったが、私たちは当然ホテル
 に直行してくれるものと思っていた。
 しかし、いくらいっても、街を迂回することをやめなかった。
 タクシーの料金は百ドル近くになった。
 後で、やはり騙されたと知り、どんなに口惜しかったことか。
 あるときは、オートバイが通り過ぎざまに、肩掛けカバンを瞬く間に引ったくって行っ
 た。気がついて見ると、前を行くおばさんたちも、同じ災難に遭って泣き顔になってい
 た。
 私のカバンの中には化粧品とお金がいくらか入っていただけなので、不幸中の幸いだっ
 た。
・このように多くの経費と時間を浪費しながら、ヨーロッパの多くの国々を巡った理由は、
 日本からまっすぐ韓国に入国する日本人の場合、金浦空を港で厳しい検査を受けて、
 身分がばれる怖れがあるからだ。
 ずいぶん前から日本を出発して、ヨーロッパ地域を観光してから戻ってくる途中に、
 ソウルを訪問する日本人観光客に偽装する方が、自然だという結論を得たので、そのよ
 うにしたのだ。
・金勝一はパリのドゴール空港で私と別れ、ソウル行きの航空機に乗るのに先立って、
 私にいくつかの注意をあたえた。
 「これからつねに警戒心を持って行動してください」
・実際に彼と別れて、はじめての外国旅行をひとりでやりとげることを考えると、不安が
 先だったが、そんな素振りも見せずに挨拶を交わした。 
・私は不安を抱きつつ、ひとりでタイに向かう飛行機に乗った。
 タイに到着したにのち香港行きの飛行機に乗り換えた。
 乗客に半分ほどは日本人観光客であった。
・私の横にはイラク人の男が腰かけていた。
 たどたどしい英語で、しかも大声で、日本人か、どこへ行くのかなど根掘り葉掘りたず
 ねるのだった。
 私の周囲に座っていた日本人の男性たちが、しきりにこちらを振り向き、私のことを心
 配する様子だった。
 イラク人がさらにつきまとうと困るので、私は疲れたふりをして、そのまま目を閉じて
 しまった。
 幸い、その男は、それ以上言葉をかけてこなかった。
・飛行機が香港空港に近づくと、私はひそかに恐怖心をおぼえた。
 香港は日本人が多く出入りしているところなので、旅券が偽造だということが発覚しな
 いかきがかりだった。
 また、指導員たちから香港には女性を拉致していくごろつきも多く、犯罪も多いところ
 だという話を聞いていたので、なおさら緊張した。
・香港空港に到着して、入国審査がそれほどややこしくなくて幸いだった。
 空港の外に出ると、真っ黒なサングラスをかけた男たちが多くて、みんなごろつきのよ
 うに見えて、彼らを避けて歩いた。
 マカオに行く船便がある埠頭に向かった。
 香港はヨーロッパと異なり、摂氏三十四度を越す蒸し暑い天気だった。
・切符売り場がどこかと若い男性にたずねると、彼はたまたま五時の切符を買ったが、
 事情があって行けなくなったので、自分の切符を買えとせがんだ。
 私はいますぐ発つ切符を買わなければならないと断ったが、彼はしつこく切符を押しつ
 けてきた。それを押しのけるのにひと苦労した。
 船に乗ると中国人たちでいっぱいだった。
・飛行機でもほとんど眠れずに、緊張状態にあったために、心も身体もひどくくたびれて
 いた。窓の外に見える美しい意味の景色すら、興味をそそらなかった。
 高速旅客船は午後五時頃マカオ港に着いた。
 そこには張指導員が迎えに来ていた
 短い期間だったが、緊張状態で苦しめられていたため、張指導員に会うと、嬉しさより
 先に、我慢していた深いため息が漏れた。
 張指導員も、私に会うと、戻ってきた娘を迎えるように喜びながら迎えた。
 張指導員は「いままではうまくいったが、これからが問題だ」と独り言を呟いた。
・ホテルの部屋で夕方のニュースを見ていたら、香港のアナウンサーが南朝鮮の動静を伝
 えた。 
 南朝鮮の大邱で一人のスパイが、ある女性を撃ち殺して自らも毒薬を飲んで死んだとい
 う報道があった。
 張指導員と私はあまりにも衝撃的なニュースを聞いて、もしや金先生に間違いが起こっ
 たのではないかと心配した。
・彼が帰ってくる予定になっていた九月二十六日、私たちはハラハラした気持ちで埠頭に
 出向き、金勝一を待った。
 万一彼にもしものことがあったら、これまでうまく進んでいたものがすべて水の泡にな
 るのだ。
 私がマカオに到着したとき、指導員が「これからが問題だ」といった言葉を思い浮かべ
 た。
・私たちの心配をよそに、金先生は数日後に日焼けしてやつれた姿で帰ってきた。
 「ソウルに会いに行った対象者(情報提供者)は、ソウルに住みながら大邱で事業をし
 ていましたね。そこを訪ねたのですが、数日たっても連絡がとれず、接触することがで
 きないまま帰ってきました。九月二十四日に大邱に行ったのですが、ちょうどその日、
 私たちの工作員のひとりが大邱の美容院で自殺する事件が起こりまして。大邱に出入り
 する人も車も、ことごとく検問されるので、ひどい目にあいました」
・平壌の幹部へのお土産のことで頭を悩ませた。
 お土産を渡すべき人数と価格を計算しながら、一晩中話し合った。
 私たちは新馬路の商店街へ出かけて、洋服生地四着分、女物服地四着分、高級パーカー
 万年筆三本、ガスライター十個、ボールペン十ケースを買った。
 新馬路では主に高級品を扱っているので幹部へのお土産はそこで買い、裏通りでは質の
 おちる安物を買った。運転手、招待所の接待員などのメンバーにもささやかな記念品を
 一つずつ渡さなければならないからだった。
・お土産を買ったのち、張指導員と金先生は、私に金の指輪を一つ選ぶようにといった。
 固く断ったのだがどうしてもといって指輪を買ってくれた。
・北朝鮮で金の指輪といえば、はけている人をみつけることができないほど、珍しいもの
 だ。
・金勝一とのヨーロッパ旅行中、私は気のゆるまないように毎日”総括”を通して、一日の
 活動中に出てきた欠陥を批判してきた。
 それで、張指導員と金先生は、私を融通のきかない女と見ていたようだ。
 金先生は旅行中、私のことを「こわい女だ」といった。
 もしかしたら、私が帰還した後に、幹部へのお土産を買ったことまで批判するのではな
 いかと思って心配しているようだった。
・金の指輪で私に口止めしようという下心があるように思えて、気分を害し、指輪のプレ
 ゼントを固く辞退した。   
 しかし、いつまでも遠慮していると、あまりにも情けのない女に思われそうなので、
 やむを得ず平凡な模様の指輪を選んだ。
・私たちはマカオ国境を通過して中国に渡る問題について話し合った。
 マカオ国境を越えるときは、北当選公務旅券を提示して中国に渡った。
 哨所を超えると、中国の広州に居住する朴昌海指導員が車で迎えに来ていた。
 朴指導員は、のちに私が淑姫と一緒に広州に実習に行っていたときに私たちの現地担当
 指導員になった。  
・私たちが乗った車は五時間以上走った。
 ヨーロッパの豊かで潤った生活ぶりを見慣れていたためか、車窓から見える中国人の生
 活ぶりは、このうえなくみすぼらしく見えた。
 広州市内に近づくと、人々も街も少しは見栄えがよくなるようだったが、やはり不潔で
 人の混雑ぶりは同じであった。
・私は中国の庶民生活がどのようなものであるかを注意深くながめた。
 広州はごみごみしていたが、通りにあるたくさんの商店や飲食店には品物や食べ物があ
 ふれていた。  
 金があれば思いどおりに買うことができる豊かさがあった。
・私はこれまで回った外国の中で、生活が窮乏している国を見たことがなかった。
 我が国が一番貧しいなと感じたが、その考えを打ち消すために、わが国は分断された国
 家であるからと、みずからを慰めていた。
・広州で二晩過ごして休息とり、広州空港から中国国内線に向かって出発した。
 北京空港には、そこに駐在している張指導員が出迎えに来てくれた。
・北京の街は広州よりはきれいだった。  
 競争でもしているように自転車が絶え間なく走っているが、そんな様子は見慣れていな
 いので、物珍しく面白かった。
 自転車が一般市民の重要な交通手段であることを知って、いい考えだと思った。
 健康にも良いし、油も要らない交通手段なのでそのように多く利用されているようだっ
 た。
・十月二日の夕方六時頃、私たち一行は平壌順安飛行場に到着した。
 平壌を離れてから四十七日ぶりであった。
 崔副部長と崔副課長が出迎えに来ていた。
 空港の貴賓室に入ってしばらく休んでいると、崔副課長が静かに私を呼んで外に連れ出
 した。
 「今度の旅行がはじめての旅行だったから、いいたいことも多いでしょうが、上辺だけ
 を見たことでものを言ってはいけません。資本主義社会の欠陥だけを考えなさい。そう
 すれば、わが社会主義朝鮮がどんなに幸せであるかを、もう一度感じることができるよ
 うになりますよ」
・彼は必要以上に言葉に力をこめた。
 強い意思を示すためのように見えた。
 貴賓室のドアの前に来て彼はもう一度、「言葉には充分気をつけなさいよ」と注意して
 くれた。
・私は崔副課長の言葉の意味がすぐにわかった。
 見たままを話すことができないということは認識しているだろうと信じながらも、私が
 女であるために、ありのままを話しはせぬかと心配しているようだった。
・金星政治軍事大学で訓練を受けていたころのことだが、時がたつにつれて気安く親しく
 なった教養指導員は、私たちに工作員の裏話をたくさん聞かせてくれた。
・ある工作員が、海外旅行所感を素直に感じたまま報告した。
 彼は変質した工作員という烙印を押されて落後していった。
 そのような裏話を知っていたので、私は用心しなければならないと考えていたところだ
 った。  
・東北里の招待所に帰ってくると、いままでの緊張が解けたのか、疲労が襲って来た。
 横になると身体がベッドに吸い込まれるような感じがした。
 私は夕方早くから眠ってしまった。
 翌日の夕方六時は部長が来たので、北京空港の免税店で買ったコニャックを出して、
 ”同席食事”をした。
・部長は私が首にかけている十字架の首飾りを見て、資本主義国家を歩きまわろうとする
 なら、ちょうどいい偽装装備だとおだてた。
 その後は、この首飾りについて誰も意見をいうことができなくなった。
 
広州とマカオでの実習
・1985年1月初め、金先生と別れてからは、私が所属している二課にもどって龍城5
 号招待所に収容された。
 そして約六カ月間別々だった淑姫と再び”配合”されて生活するようになった。
・淑姫はその間中国語を習いながら、ひきつづき招待所に収容されていたらしい。
 淑姫は派手になった私の姿を見て、以前日本人化教育を受けたあとで会ったときのよう
 な、不快は表情を浮かべた。
 そればかりか、いっそう露骨に嫉妬がからんだ目で私を見るのだった。
・日本人化教育を言えていたときは、私の化粧が少し濃くなっただけだったが、今度は十
 字架のネックレスをして金の指輪をはめていたし、外国製の服で洗練されて着こなしを
 していたから、淑姫も私が海外旅行をしてきたことに感づいてようだった。
 しかし、淑姫は心が広い人だったのでそんな気配を見せたのはちょっとの間だけで、
 私と再会できたことを心から嬉しがっていた。
・彼女の子孫心を傷つけるのではないかと思い、海外旅行についてはできるだけ話をしな
 かった。   
・私たちはここで、かつて中国の東北地方にあるハルビンに住んでいた表氏姓を名乗る、
 六十代の海外同胞から中国語を学んだ。
・私が中国語を学ぶのは、海外工作員は外国語の二つや三つできなければならないという
 方針の沿ったものであった。
 このような教育を実施するようになったのは、海外旅行の直後に、部長が私のことにつ
 いて行なった提言によるのではなかろうかと思われた。
 海外旅行を終えて戻ってから部長と”同席食事”をしているとき、部長が「海外に行って
 一番不便だった点は何だったのかね」と質問したので、私が「日本語一つだけでは言葉
 が通じないので、他の外国語も学ばなければならないでしょう」と答えたことがあった。
・今度の中国語学習には、淑姫の他に別の女がもう一人”配合”された。
 彼女は人民武力部偵察局「牡丹の花小隊」出身の成仁愛という女性であった。
 成仁愛は平安北道出身で当時二十六歳だった。
 彼女は、撃術が得意で短剣投げにもたけていた。
 彼女を通じて、私は「牡丹の花小隊」について詳しく知るようになった。
・偵察局では南朝鮮に直接入って行き爆破、暗殺、テロなど短期工作を遂行する女性対南
 工作員を要請するために「牡丹の花小隊」を創設した。
 そして、女性の中でずば抜けて美しく、体力的にもかなう人を選んで訓練をさせるのだ
 った。 
・訓練内容は、南朝鮮に侵入すれば、女性として職探しが一番簡単な、酒場と喫茶店の従
 業員としての職業訓練であったという。
 このような訓練を北朝鮮では”以南化教育”という。
・彼女たちは、資本主義実習をさせるために、五、六名ずつ組を編成し、デンマークなど
 の海外に十五日間ほど送り、実際に酒場に入って外国の客を誘惑する訓練もさせた。
 待遇も格別で消費物品は要求するまま与えられ、成仁愛の話によると、「湯水のように
 使った」という。 
・しかし、私たちと一緒にいる間わかったのだが、彼女はチーズやマヨネーズを知らなか
 った。消費物資は質的には高級なものではなく、ただ、量が豊富であったにすぎないの
 だろう。
・1984年、「牡丹の花小隊」員のうち、成仁愛を含む三名が、対外情報調査部に転勤
 配置され、二名は私たちが中国語学習をしているころにすでに、中国に行って語学学習
 をしていた。
 ところが、二カ月ほど過ぎて成仁愛に問題が起こった。
・三課に配属されて、中国の広州に語学学習に行っていた「牡丹の花小隊」出身の二名が、
 無断離脱し、隠れているところを中国警察まで動員してさがし出したそうだ。
 これが問題になって成仁愛まで除隊させられるというのだ。
・数日後、成仁愛は泣きながら指導員についていったが、それ以後二度とあらわれなかっ
 た。   
 彼女が除隊させられたあと、課長とわれわれは「牡丹の花小隊」出身者について不快そ
 うに話した。
 私たちは、牡丹の花小隊出身の女の内幕をよく知っているんだ。あの娘たちは南朝鮮に
 直接入って妓生になるためにあんな訓練を受けるんだよ。高級幹部の酒席にも動員され
 侍ったりもする。そのせいかまったく質がよくない」
 彼らは、頭が痛いといいながら首を振った。
・私が中国の広州に行き、そこに駐在している朴昌海指導員の家にいるときも、朴指導員
 夫人が「牡丹の花小隊」の女同志についての悪口をいうのを耳にした。
 「玉花がここに来る前に、牡丹の花小隊出身の娘たちが二名ここに来ていたのよ。度胸
 ばかりよいけれど、”自由主義”にそまって愚痴が多かったわ。いつの人が叱りつけた
 ら、担当指導員であるにもかかわらず楯突くのよ。うちの人と争った後いなくなって、
 大変な目にあったわ」
 彼らの言葉を総合してみると、「牡丹の花小隊」出身者たちには問題が多いというのは、
 事実であるようだった。
・龍城5号招待所では、成仁愛事件とは別にもう一つの事件があった。
 ある日、運転手に対して”革命化教育”のために集団的に”体操”(シゴキ)をさせた。
 そのため運転手たちが何日間もあらわれず、招待所の出入りも徹底的にチェックされた。
・招待所の料理係にその理由をたずねると、李恩恵という日本女性のためだと耳打ちして
 くれた。
 調査部には外国人ばかりを専門に管理している課がある。
 この課に所属している運転手が、酒に酔って恩恵を訪ねていき、身体を要求したのだが、
 彼女は頑として拒んだ。
 するとその運転手が「おい、誰かさんとはやって誰かさんとはやらないのか?」と彼女
 を殴った。
・気の強い彼女は泣いたり叫んだり、騒ぎ立てて、結局課にも知れるようになった。
 それで担当指導員と当事者である運転手は罷免され、他の運転手たちには”革命化”をし
 て綱紀を正すため体操をさせるというのである。
・私はその消息を伝え聞いて、恩恵と別れたときの様子を思い出した。
 彼女はまったく寄辺のない外国人である。
 そのうえ拉致されてきたため、彼女は誰からも無視されており気の毒だった。
 また一方では、彼女の身持ちの悪さが招いたわざわいであるようにも思えた。

・1985年6月下旬、中国語学習が終わると呉世永課長が来て、指示を出した。
 「同志たちは、将来海外に出かけて、”工作作業”をするために、これから一年間は中国
 の広州に行って語学実習をすることになります。続けて六カ月間はマカオに行って語学
 学習と資本主義社会に適応できるための訓練が予定されているので、そのつもりでいな
 さい。出発の時期は7月末頃になっているから、準備を徹底しておきなさい」と指示し
 たので、私たちは、すぐに準備に取りかかった。
・出発前日の夜、招待所食堂で開かれた歓送宴には、呉世永課長、崔副課長、李指導員が
 出席した。
 その席で呉課長は封緘した白い手紙一通を渡しながら、こういった。
 「北京と広州に到着したら、現地の駐在成員に案内するよう、すでに連絡してあるのだ
 が、まさかのときのために手紙を書きました。北京空港へ着いたら、迎えに来た朴指導
 員にこの手紙を見せればよく指導してくれるでしょう」
 彼らは、若い二人を送り出すのが不安であるのか、細心の配慮をしてくれた。
・七月末に淑姫と私は平壌順安飛行場を出発して、中国の広州へと発った。
 淑姫ははじめての海外旅行であるせいか、浮き浮きしているようだった。
 彼女は何度も荷物の点検をしながら、興奮を隠そうとしているのがありありと見えた。
・私は、自分のはじめての海外旅行実習のときを思い出して、淑姫の心情を想像できた。
 経験がある私ですら、一年以上の海外生活を思うと、胸とときめく思いになるのは同じ
 であった。
・飛行機の中で、淑姫はそっと私の方に目をやりながら、私と同じように行動した。
 私は彼女の自尊心を傷つけないように、ひそかに彼女の案内役をつとめた。
 やたらと自尊心の強い二十歳の娘たちの関係は微妙だった。
・淑姫と私は、呉課長がくれた一通の手紙を持って北京空港に到着した。
 税関を通過して出迎えに来た人を探そうときょろきょろしていると、五十代の男性が近
 づいてきて、自分が北京にいる朝鮮民航の代表だと名乗った。
 「朴指導員が事情があって来られないという連絡を受けて、私が代わりに来ました」
 私は手紙をこの朝鮮民航の代表に渡すべきかどうかためらったが、朴指導員に直接伝達
 するようにといった呉課長の言葉が浮かんで、結局手紙を渡さなかった。
・朝鮮民航の代表が買ってくれた広州行き飛行機の航空券を受け取って、北京空港の二階
 にある簡易食堂に上がって、三時間ほど待った後、広州へ出発した。午後二時頃であっ
 た。午後五時頃広州に到着したが、空港には誰も迎えがなかった。
 広州の気温は三十五度を超えるおそろしい暑さだった。
・全身を流れるような汗と垢にまみれた中国人たちの間を、きょろきょろしながら探し回
 った。仕方なく、メモしてきて電話番号で、北朝鮮貿易代表部に連絡しようとしたが、
 電話がつながらなかった。   
・私たちに困っていると、空港の案内員がやってきて、紙切れに書かかれた電話番号を見
 せなさいという。 
 私たちがメモしてきて電話番号は局番なしの四ケタだったのだが、最近二ケタの局番が
 ついたのだという、代わりに電話をかけてくれた。
 電話が通じたんで担当指導員である朴昌海を呼び出すと、外出中だという。
 私たちは貿易代表部の場所を聞き出しただけで、電話を切った。
・タクシーに乗って広州の北朝鮮貿易部怠業を訪ねて、警備員に朴昌海指導員との面会を
 求めた。しばらくして、朴指導員が息をはずませてやってきた。
 「そうでなくてもお待ちしていたのに・・・。北京を発つ自国の連絡を受けなかったの
 で、空港に出迎えに行かなかったのです。本当に申し訳ありません」
・中国語は、標準語である北京語を「中語」または、「普通語」といい、各地方ごとに方
 言があるが、その違いはあまりにも大きかった。
 大陸は広く、方眼が異なると話が通じないのだ。
 同じ中国人でも、通訳が必要なことさえあった。
 しかし、普通語は、ひどい方言しか使わない地方の年寄りでなければ大体通じる。
 学校では普通語で教育を受けるからである。
・外国語を習うのには、何と言っても現地人と会って直接会話を交わし、彼らの生活にと
 けこむほど確実でよい方法はないと思う。
 広州に行ってまもなく、現地の人と親しむ機会がおとずれた。
・ある日、朴指導員の家の下の階に住んでいたが、他の場所に引っ越したという許愛英と
 いう娘が遊びに来た。
 以前ここに住んでいたとき、朴指導員の子の平哲を可愛がっていて、この近所に用事が
 あってきたついでに、平哲を一目見たくて寄ったという。
・許愛英は、中国語を習うために来たのなら、私と友達になって学んだら、といった。
 彼女は当時二十五歳で、広州旅行社で経理の仕事をしていた。
・その後、何度かあって親しくなると、彼女の恩師で、広州のある中学校の化学の教員で
 ある唐吉明という女の先生とも面識をもつようになった。
 彼女は私たちに好感を持ち、週に一度くらいは必ず家をたずねるようにというほど親し
 くしてくれた。そして、自分の教え子たちをたくさん紹介してくれた。
・広州の一年が過ぎると、私たちはマカオに渡る準備に忙しかった。
 その間、広州で親しくなった友達には、祖国に帰ることになったと告げた。
 彼らは大変に名残り惜しんでくれ、送別の宴もいろいろ催してくれて、記念品を手渡し
 ながら、また必ず来なさいといってくれた。
 手紙をくださいといって住所まで書いてくれたのだが、私たちは身分上手紙を書けない
 立場をもどかしく思いながら、口だけはそうすると答えた。
・広州は社会主義国家とはいっても、資本主義社会と大して異なるところがなかった。
 お金さえあれば、何でも買える物資の豊かさがあり、個人の自由もそれなりに認められ
 た社会だった。 
・はじめは、道や人々が雑然としていてちょっと汚い感じがしていたが、暮らしているう
 ちに、だんだんよい印象を持つようになった。
 人々は純粋で情が深く、真実味があった。
・彼らの示してくれた温かい心にくらべて、私たちは任務遂行途中であるという圧迫感の
 ために、温かい心を心行くまで分かち合えなかったのがはがゆかった。
 同じ社会主義体制下に住んでいるためか、互いに反発することもなくうまく通じ合った。
 多分、資本主義社会の友達だったら、ときどき言い争うこともあったかもしれない。
 恩恵と私のように。
 振り返ってみると、私の人生の中で、広州の一年がもっとも自由で幸福なときだった。
・1986年8月18日、淑姫と私はマカオに行った。  
 私たちは朴昌海指導員がみずから運転する車で広州を出発して、マカオに向かった。
 中国国境哨所の前に車を止めて、徒歩でマカオ国境哨所を通過すると、孫指導員が出迎
 えに来ていた。タクシーをつかまえて乗り、明殊台アパートに行った。
 私たちの宿所は、このアパートの一棟三階のA号室だった。
・名珠台は海に面していて、金持ちたちが集まっている静かなアパートだった。
 後に二人でマカオの隅々を歩きまわってみたが、その小さな島の中でも、本当に中国大
 陸の哨所近くの住民生活と明珠台側では、天と地の違いだった。
 それに、広州では見られなかったことだが、門が二重になっていて、鉄の扉まであった。
 聞いた通りに強盗、殺人が氾濫している社会だと恐ろしかったが、実際に暮らしてみる
 と、それほどのこともなく、やはり人間の住んでいるところだなという気がした。
・私たちは、資本主義社会の生活を直接経験するのだった。
 毎月、電気量と水道料の請求書が間違いなくくることだとか、毎日のビニール袋に入っ
 たゴミの収集とか、電話一本でプロパンガスの配達をしてもらえることなど、資本主義
 の生活をはじめてしてみながら、本当に便利だと思った。
 しかし、あまりにもお金がかかるので気になって仕方がなかった。
・金勝一、張指導員と一緒に何日間かマカオに滞在したことがあったが、そのときは彼ら
 の後ろについて回るだけで、みずから資本主義社会の雰囲気を感じてみる暇がなかった。
 ところが、今度は淑姫と私は、生活費をさいて買物をするなど、実際に生活の中に飛び
 込んで生きた経験をすることができた。 
・マカオの生活と広州のそれとの違いは、近所の人々と親しくすることができなかったと
 いう点である。
 私たち自身も、偽装日本旅券を持って入国しているために、できるだけ友人などつくろ
 うとしなかったし、マカオの人々も他人などに気を遣う暇もなく、忙しく暮らしている
 のであった。それが資本主義社会の特質ではないだろうか、と思った。
 ある面では、人情が干からびて、せちがらく非人間的だと思われたが、身分を偽って暮
 らす私たちにとっては、それがかえって便利な点でもあった。
 委縮して、いつも後ろ髪をひかれるような不安な生活だったが、広東語を集中的に学習
 する機会であった。
・バーや賭博場をのぞいたとき、世界各国の女たちが働いているので、変な気がした。
 「あんな仕事をしようとして、祖国からこんな遠くまできたのか」と同情したくなった。
 さらには、身体を売って金を稼ぐ女たちを見ると、「あれは資本主義の犠牲なのだ」と
 哀れに思えた。 
・マカオも、広州も同じように中国人が沸きたっているような場所だったが、体制によっ
 て、人々が180度も違った生き方をしているのだということを切実に感じた。
・1987年の新年を迎えて、予定された期間の六カ月が過ぎようとする頃、孫指導員が
 来て指示を下した。
 「1月20日までに祖国に帰れという連絡があったので、1月18日に出発できるよう
 準備しなさい」  
・帰国の途中、広州にちょっと寄って朴指導員に会ったが、彼は「これで、また巣箱にと
 じこめられてしまうな」と冗談を言って笑った。
 その言葉を聞いた瞬間、背筋に水をかけられたような気がして、急に気持ちが引きしま
 った。 
 ずっと自由な生活を当然のように思っていたが、平壌に帰れば、また招待所暮らしが待
 っているのをしばらく忘れていたのだ。
・平壌に帰る飛行機の中で、淑姫は広州とマカオに自由な生活をのこしていくのを諦めき
 れず、名残り惜しんでいる様子がありありと見えた。
 私は、私がはじめて海外旅行から帰ってきて、副課長から注意された内容を淑姫にその
 まま話した。 
 「資本主義社会の表面だけを見て評価せず、資本主義社会の欠点だけを考えなければな
 らない。言葉に充分に注意しなければ」
 淑姫はわかった、とこっくりした。
・1987年1月20日、夕方6時に私たちは平壌に帰ることができた。
 飛行場には李指導員が出迎えに来ていた。
 李指導員も淑姫に言葉に注意するように忠告した。
・淑姫と私は龍城43号招待所に収容された。
 夢から覚めて現実に戻ったような気分になった。
 いっそのこと、外の世界がどうであるか知らないほうが、生きていくのに楽だという思
 いもした。  
 
二回目のマカオ浸透工作
・夢のように過ぎていった過去と現実を行き来しながら、総括報告書を作成するのは、
 大変な作業だった。
 総月報告書の集会が終わるとすぐ、私たちに二泊三日の休暇があたえられた。
・私の母は、ますます艶めかしくなった娘の姿を心配そうに眺めていた。
 この当時は、まだ北朝鮮では女の化粧はそれほど濃くなかったが、私の化粧はかなり濃
 い方であった。 
 私は恩恵から教わった日本風の化粧をし、より洗練されていたので、母の目には見慣れ
 ぬものと映ったのであろう。
・母は、男の前でむやみに笑ってはいけないと私に教えるくらい、並外れて厳格な人だっ
 たが、何年ぶりに一度会えるかどうか、という成人した娘を叱ることもできず、心の中
 でやきもきしているのが手にとるようにわかった。
 母は厳格であったばかりか、したたかな女性でもあった。
 夫と子どものためなら、どんなことでもためらわずになし遂げる人であった。
・父は家にいなかった。
 アフリカのアングラに貿易代表部水産代表として出向いており、四月十五日頃、休暇を
 もらって帰ってくるということだった。
・母は今回は懐かしいというよりは、むしろ心配そうな様子で私を迎えた。
 「おまえ、これからどうするの?」
 だんだんと齢を重ねていく娘の行く末が心配でたまらないという。
 「いつお嫁にいくの?」という言葉と同じだった。
・「私のことを心配しないで、賢玉から結婚させなさいよ」
 私はいつものように答えた。
 「この四月にお父さんが帰ったら、お嫁にいかせようと思っているの・・・」
 母は姉を差し置いて妹から先に結婚させるのが、どうしても心にひっかかるらしかった。
 「いいじゃない。相手の方がいるの?」
 「観光総局で仕事をしている青年がひとりいるけど・・・」
 母は私にひどく気がねしながらも、妹の縁談を持ち出した。
 「私の心配はしないで。私はしなくてはならない仕事がたくさんあるの。党がちゃんと
 してくれるわよ」
 その話はそれで途切れた。 
・次女を結婚させる喜びより、長女の心配をする母と、これ以上向き合っているのは苦し
 かった。
 私も100パーセント気持ちが落ち着いているわけではなかった。
 年齢を意識しないわけはなく、招待所に入っているうちに、花の青春をすべて国に捧げ
 てしまったという思いに、気が塞ぐこともあった。
・私はいつしか秋を嫌う癖までついた。
 招待所生活を始めてから、私は秋が嫌いになった。
 人気のない招待所の窓の外に見る、やつれた感じの木の枝には暮れゆく日陽しがかかり、
 秋風にあちこちに転がっている落葉を見ると、運命を他人に委ねて漂う私の身の上のよ
 うに思えてならなかった。
・そんな思いで物悲しくなって、知らず知らず涙を流したりした。
 これからの運命をはっきりと知ることができないまま、専ら人の気配をうかがう生活に、
 少し疲れていた。
・大学時代の友達や家族を思い出すと、いっそのこと「私にはできません」と任務を手放
 したい気持ちにもなった。  
 そして社会に出て、気楽にお嫁にでも行ってしまいたい。
 こんな気持ちになるのは決まって秋のことだった。
 そんな気持ちは私だけでなく、淑姫も同じだった。
・「私にこれからどんな仕事をさせるのかしら?」
 重苦しい気分のときには耐えかねて、彼女は私にそんなふうにたずねたりするのだった。
 「そうね・・・あなたは男の工作員と結婚させられて、香港にでも行かされるんじゃな
 いかしら」 
 私はできるだけ希望の持てるような、幸福な工作員の例をあげて答えてあげた。
・「でも、私は?」
 私も淑姫の口から慰めの言葉でもかけてもらいたかった。
 すると、淑姫からはいつもおなじような返事が返ってきた。
 「あなたのこと?あなたは日本語が専門だから、日本にいくようになるに違いないわ。
 幹部が話すのを聞いてもわかるじゃない」
 私はその言葉が大きな慰めであった。
 私たちは、お互いに女だけの和やかな話を交わし合う、かけがいのない相手だった。
・休暇はあまりにも短かった。
 結婚を控えた賢玉、大人びてきた賢洙、皮膚癌にかかって期限付きの人生を生きる範洙、
 みんなが私を少しでも温かく迎えようと努力しているのを見て、私はすでに家族の一員
 ではなく、お客のようになっていることを悟った。
 招待所こそわが家になってしまった。

・厳しい訓練期間中、四・一五(金日成誕生日)の二泊三日の休暇をもらってまた家に帰
 った。たまたま父も休暇でアンゴラから帰国していた。
 私を連れて行った指導員に、そのときたまたま酒に酔っていた父は、
 「私の娘はいつ嫁に行かせるんですか?」
 とくってかかり、彼を狼狽させた。私は顔を赤らめた。
・私が中央に召喚されたのち、初休暇をもらって戻ってきた日も、母が指導員をつかまえ
 て父と似たようなことをいったことがあった。
 「賢姫をいつになったら返してくれるのですか?」
 母は、目に涙を浮かべて訴えた。
 帰る車中、指導員は露骨に不快そうな表情を示し、
 「革命家の母親があんなに軟弱でとうするんだ・・・。そんなことで、娘がどうして大
 事をなすことができるのかね」  
 と舌打ちした。
・私は顔がほてり、きまりが悪くて居ても立ってもいられなかった。
 母の気持ちはわかるが、なぜ見せかけでいいから指導員の前で、強い態度をとってくれ
 なかったのかと恨めしく思った。
 一方では、自分にも子どもがいるのに、どうして母の気持ちを理解してくれないのか、
 指導員が恨めしくもあった。
・そんなことがあったのに、今度は父が指導員に抗議をしたので、私は当惑した。
 しかも父は、以前と違って私に対する態度も冷たかった。
 視線を合わせようとせず、私と話しをするのも避けている様子だった。
・父の急変した態度が、招待所に帰ってからも気にかかってたまらなかった。
 私はある夜、”自由主義”をして招待所を抜け出し、父に会いために家に飛んで帰った。
 家に着くなり私は父に、
 「私が何か間違ったことをしましたか?」
 と問い詰めた。すると父は、
 「もう私情を断ち切るときになった」
 と、苦痛に満ちた表情で答えるのだった。
 私はそれでやっと父の気持ちを理解し、招待所に帰ってきた。
・その後しばらくして、五月に指導員が一日の休暇をくれた。
 休暇の意味もわからずに、病気で寝ていた範洙にあげようと、マカオで買ったテープレ
 コーダーとナイロンのトレーニング・ウェアを包んで招待所を出た。
・家の前にくると指導員は、弟の範洙に問題が生じたと伝えてくれた。
 家に入ってみると範洙はもう亡くなっており、葬式も終え、数日が過ぎていた。
 私は範洙のために持ってきたトレーニング・ウェアとテープレコーダーをおいて、泣き
 崩れてしまった。
・範洙のことがあってから、ようやくみんなの心が少し鎮まった頃、私は開城から母方の
 祖母が八カ月ぶりに訪れたという話を聞いた。
 それでまた”自由主義”をして家に帰った。
 すると、賢玉の夫の訃報に接した。
・九月、左肩に残っているBCG摂取の痕を消す整形手術をしてくれるというので、私は
 九・一五病院に入院した。
 ところが手術がうまくいかず、傷痕がかえって大きくなった。
 この入院中に、広州に行けという指令を受けた。
 当時、担当課長であった韓明一課長と李指導員が招待所をたずねてきて指示を下した。
 「最近、マカオ移民局では大陸から密入国してきた難民たちに身分証(永住証)を発給
 してくれるという情報が入りました。そこで同志たちは明後日、マカオの身分証を得る
 ために広州に行って待機するように」
 淑姫と私は再び広州に出かけることになった。マカオ浸透工作のためである。
・あまりに急いだので、すべての準備ができていないまま、次の日の朝九時、張指導員の
 引率で平壌の順安飛行場を離れた。
 私は祖国平壌を離れるのはこれで何度目かと指を折ってみた。
・範洙が亡くなったこと、賢玉の夫が急死したこと、父との気持ちの晴れない別れ、肩の
 傷の手術の失敗と副作用など、私の心境は複雑であった。
 まだ完全に治っていない身体で平壌を離れると思うと、私はひどく憂鬱だった。
・ところが広州に着いてから何日もたたないうちに、私は「ひとりだけで即刻復帰せよ」
 という命令を受けて平壌に帰ってきた。
 そして、思いもよらぬ指令、「南朝鮮飛行機を消せ」という任務を受けて金勝一ととも
 に平壌を後にしたのだった。
 その出発が平壌との最後の訣別になることを、私はそのとき少しは予感していたかもし
 れない。  
 しかし、「よもや・・・・」という期待感も捨て去ることができなかった。
 「残してきた平壌は無事であろうが、残してきた家族はどうなっているだろう・・・」
 
母方の親戚との対面
・長い長い夜が去っていくと、明るい新しい朝が近づいてくるように、私にも朝は訪れた。
 私は、赦免の話を聞いたあと胸騒ぎがして、まんじりともせず夜を明かした。
 夢のなか、現実のなか、すぐには現実として受け入れることができなかった。
 夜通し泣いたり笑ったりした。
 これまでの苦しかった日々を思って泣きもし、新しく始めねばならない人生設計を考え
 て、ニコッと笑ってもみたのであった
・ドアの前に落ちている長官の「金賢姫 赦免」という活字が目に入った。
 しかしなぜか、その新聞を気軽に取り上げるのが恐ろしかった。
 赦免という言葉の後に出てくる文字が何であるのか気になりながらも、すぐ拡げて見る
 ことができなかった。 
 足もとにおかれた新聞を見下ろしているうちに、私はとうとうその上に涙を落としてし
 まった。昨日、テレビニュースで感じた感激とは、また異なる感慨を感じた。
 私は結局、新聞を取り上げることができず、そのまま背を向けた。
・神様は、死のどん底から二度も、私を救い出してくださった。
 バーレーン空港で正体がばれて、これ以上持ちこたえることができないと判断し、毒薬
 のアンプルを噛んだときがその最初だった。
 また、裁判で死刑宣告を受けて、結局は私は死ぬのだと思ったときが、その二度目だっ
 た。 
 だが、その強い毒薬からも目覚め、恐ろしい極刑からも解き放たれた。
 「赦免」という嫁にも思われない「特恵」を与えられたのである。
・万一、バーレーン警察で裁判を受けたなら、私の正体はばれなかったかもしれない。
 しかし、少なくともKAL858便爆破犯と認定され、生き残ることはできなかったで
 あろう。
・外国人たちは、大韓民国がなぜ私のようなひどい罪人を生かしておくのか、たぶんその
 こと自体も理解できないに違いない。
 人命に重きをおき、犯罪者の処罰に果敢であり、法秩序に透徹している彼らには百十五 
 名を飛行機とともに犠牲にした犯人に対し、これほど寛容な処置をほどこすことはない
 だろう。
 民族の分断の悲劇を、みずから体験している私たち朝鮮人でなくては、到底理解できな
 い、納得のできないことである。
 
・ある捜査官が私に、
 「ミス金、ソウルで暮らしているあなたの親戚のひとりを見つけたよ」
 と知らせてくれた。
 「え、嘘、そんなはずありません。私たちの親戚はみな、北朝鮮に住んでいるんですよ」
 と言って、この言葉を信じようとはしなかった。
 私は北にいるとき、両親や母の里の親戚の誰からも、親戚が南朝鮮に行ったとか、住ん
 でいるという話は聞いたことはない。
 それに近い親戚はすべて北朝鮮に住んでいるのだから、この言葉は信じられなかった。
・また、自分の親戚と勘違いした人があらわれたのだろうと、さほど気にしなかった。
 「間違いないようだよ。恐らくあなたの母方のおじいさん林曾浩氏の弟らしいわ。すぐ
 すべてが明らかになるよ」
・具体的な話なので、今度は何か根拠がある様子だった。
 「でも、私は聞いたことがないのに・・・」
 と、この人たちがまた無駄骨を折っているんだと思った。
・そんなある日、捜査官が、昔のモノクロ写真数枚を持ってきて差し出しながら、「よく
 見なさい」と言った。
 私は写真を見る前に、「よく見たって・・・」といいながら身体を起こした。
 「おお、この写真はどこから出て来たんですか?」
・そっくりな写真が私の家にもあったので、それを子細に見る必要もなかった。
 ひと目で、私の母が女学校時代の友達三名と一緒に写した写真だということがわかった。
・また別の写真は、学校を背景にしたクラス全体の団体写真であった。
 顔が非常に小さく写っているが、これもまた家でよく目にしたものだった。
 私は母がどこに立っているのか、もうわかっているので、ひと目で母を指しながら、
 「これが私の母です」
 というと、捜査官は、
 「あなた、どうして若い頃の母親の姿をひと目で見つけられるの?」
 とびっくりした。
 母の写真を見て、まるで母に再会したかのように嬉しかった。
 驚きのあまり感情がこみ上げてきて、泣き崩れてしまった。
・この写真一枚を持っているだけでも、これからはさびしさが紛れるように思えた。
 しかも、この写真を持ってた方が、私たちの親戚筋に当たり、私の母をよくご存知の方
 だというのだから、その喜びは言葉ではとうてい表現できないものであった。
・一刻も早く会って、どんな方なのか確認したかった。
 しかし、一方では、ひそかに別の心配もあった。
 「私は、実に百十五名もの多くの人々を殺した殺人者なのだ。どうしてその方が、私が
 金賢姫の親戚です、と気軽に名乗り出ることができただろうか。いまになっても、この
 罪人を訪ねてくる、その勇気にただただ感謝するばかりだ。けれど、私がその方に会い
 たいと言ったら、その方は殺人者の親戚だという汚名を着せられ、結局、被害を受ける
 かもしれない」  
 よくよく考えれば、私には、その方の前に出る勇気がなかった。
・7月21日、私に母の写真を送ってくれた母方の親戚のおじいさんと、お会いする集ま
 りがあるという朝であった。
 時間が近づくにつれて、会うことが恐ろしくなり不安は増した。
 年配の捜査官が、
 「今日は心を落ち着けて、いうことがあればはっきりと言うように。はじめて会う方た
 ちの前で、だらしないという印象を与えてはいけませんぞ」
 と重ね重ね念を押すのであった。
・これは心をしっかりと持って、感情に傾くことなく、記者たちの質問にははっきり答え
 ろという意味であることがわかった。
 「わかりました。私はそんなに弱い女ではありませんよ」
 と自信ありげに答え、彼を安心させたが、心の揺らぎは抑えられなかった。
 「ところでその方は私と会うのをどう思われているのでしょうか?その方の希望で会う
 のでしょうか」 
 私は気になったことを捜査官に訊いてしまった。
 「そうだ、その方はお前に会いたいと思っているのだ」
 と確信を持って答えてくれたが、心から信じることはできなかった。
・司会者が私を案内してその場所へ連れて行った。
 そこにはすでに多くの汽車が集まっていたが、私が部屋に入ると同時に、どっと押し寄
 せてフラッシュを浴びせ始めた。
 気が動転するほどのフラッシュの攻撃で、私はお会いしなければならない方の顔を確認
 する間がなかった。
・司会者がようやく場内を整理して私たちを紹介した。
 そのときになって私は初めてその肩を振り返って見た。
 「まあ、あの方は母方の二番目の叔父、光植さんにまったく似ている。光植おじさんが
 老けたならきっとあんなふうだろうに」
・その人は、もう私が親戚であることを確信したように、愛情のこもった視線で私をみつ
 めながら涙ぐんでいた。   
・司会者の説明はあまりにも長く、退屈に感じられた。
 早くあの人の胸に抱かれて思いっきり泣きたかった。まだ紹介は続いていた。
 確認の手続きとして、お互いにいくつかのことについてたずね合ったが、あの顔を見た
 だけでも光植おじさんそっくりだとわかるのに、どんな確認が必要なのだろうかと思わ
 れた。
・多続きが終わるやいなや、私たちは互いに手を握りしめあい、声をあげて泣いた。
 言葉もなくただひたすら泣きたかった。
 「おじさん、どうしていまになって私に会おうとしたのですか。私ひとりだけの苦痛で
 充分です。なぜ親戚だと言われたのですか・・・。むしろ知らないふりをしていてくれ
 たらよったのに・・・・」
・私は大きな声で泣き叫んだ。記者たちがポーズを求めたが、よく聞こえなかった。
 思いっきり泣けず、涙らしい涙を流すことができなくなって、どのくらいだろう。
 いままで胸の中に詰まっていた涙が一度にこみあげてきた。
・「お前のおじいさんは開城の大金持ちで家は七十間をこえていたんだよ」
 「お前の母明植はキリスト教系の女学校へ通った。その写真を同級の金鳳淑が持ってい
 たんだよ」
 ほかにも、開城にある祖父の家の話で時間がたつのも忘れた。
 話をしていくにつれて、いっそう彼が私の親戚であるのを確信した。
・その方たちと名残惜しみながら別れて帰ってくる車の中で、初めて知るようになった三
 つの問題をじっくり考えてみた。
 一つは母がキリスト教系の女学校を卒業したということ、もう一つはわあつぃの母方の
 家がたいへんな富豪であったこと、そして最後に私の家が「越南者」(韓国に南下して
 住む家族のある家)であったということであった。
・この三つとも、北朝鮮では身分の悪い家として目をつけられる条件であった。
 そのために、子どもにこのようなことは隠してきたのだと考えると、母の心の苦しみが
 今さらのように感じられて胸がつまった。
・とくに、母が神を知る人であるということがわかって、いっそう恋しさがつのってきて
 泣き止むことができなかった。
 私が小児麻痺にかかって奇跡的に快復したとき、母が思わず漏らした「神様が助けてく
 ださった」といった言葉の意味がわかって、母が哀れで身悶えしながら泣いた。
・ときどき、父が母に、「あなたの父は昔は金持ちだった・・・」というと、母はひどく
 いやな表情をした。
 そして母はひとり言のように「私が開城の人であるということであなたの出世に差し障
 りがありましたか」といった。  
 それをかげんな思いで聞いた覚えがあるが、その秘密がここに来てはじめて解けたのだ。
・北朝鮮では、出身成分が社会に進出するのに、もっとも大きい影響を及ぼす条件である。
 だから「越南者」だとか、地主、南朝鮮地域だった開城出身といえば、党幹部として出
 世するのは難しい。
・北朝鮮の実情がこうなのに、どうして母が愛する子どもにその秘密を教えてくれること
 ができただろうか。  
 状況が違うこちらでそのことを知ったために、私は母と母の家が立派であることを知っ
 て、自負心を持つことができた。
・しかし、このような私の家庭の秘密がすべて明るみに出たとすれば、私の家族に加えら
 れる苦痛が、どれほど甚だしいものであるか。
 それを思えば、私の孤独が多少癒されることなど、問題ではなかった。
 私は行く日も食事ができないほど胸を痛めた。

北朝鮮の両親への手紙
・お父さん、お母さん、私は賢姫です。
 生き残ってこんなお百手紙を、お母さんとお父さんに差し上げます。
・お母さん、お父さんと別れてからの三年間、私のせいでわが家にも多くの変化が会った
 ことと察しています。 
 私にとってこの三年間は、まるで百年、二百年のように思える時間でした。
 耐え難い大きな試練と難しい峠を、いくつも越えてこなければなりませんでした。
・私はお母さんと最後に別れたその年の秋に、中国の広州に行きましたが、突然本部から
 帰って来いという指令が下り、再び平壌に戻ってきました。
・その任務とは、南朝鮮で開かれることになっていた1988年ソウル・オリンピックを
 妨害するために、南朝鮮旅客機一機を「取り除け」ということでした。
・私は1987年11月12日にこの任務を遂行するために金勝一というおじさんと平壌
 を発ちました。   
 これが最後かもしれないという予感もしましたが、まさかという気持ちも一方では持っ
 ていました。
 しかしそれが本当に、永久に最後になってしまいました。
・金先生と私はバグダッドに行き、南朝鮮の飛行機に搭乗して爆発物をおき、アブダビと
 いうところで降りました。 
 結局、その飛行機はビルマ、アンダマン海域上空で爆発し、それに乗っていた乗務員と
 乗客百十五名全員が犠牲になりました。
・私とそのおじさんはバーレーンまであたふたと逃げましたが、そこで正体が知れて捕ま
 ってしまいました。 
 私たちはその重大な秘密を死守するために、平壌で支給された毒薬を口に入れました。
 ところがどうしたことか、そのおじさんは即死したのですが、私だけが三日後にバーレ
 ーン病院で息を吹き返し、結局南朝鮮に連れてこられました。
・死ねずにまた生き残ったこのしぶとい生命を恨みながら、私も祖国統一のために何かを
 なしたという自負心を持っていました。
 しかしその自負心は恥と後悔に変わったのです。
・私が北朝鮮で聞き学んでいたことは、すべてが偽りであったということを、すぐ悟りま
 した。  
 ここ、南朝鮮は経済的に発展し、アメリカや日本、そしてヨーロッパの多くの国とも肩
 を並べて競っています。
・私がいくらお話ししても、そちらのみなさんたちには想像がつかないことであるので、
 どこからどう説明してよいのかわかりません。
 簡単にいうと、一般庶民のほとんどが、カラーテレビ、冷蔵庫、電話、ビデオを持ち、
 二軒に一台の割合で自家用自動車を持っています。
・北朝鮮においてのように、三度の食事もままならない家はほとんど見当たらないほど、
 豊かな生活をしています。
 そして人々にはあらゆる自由が保障されていて、私の目には、こんなにしていても国が
 保っていかれるのかと疑問を抱くぐらいでした。
 ソ連の人々がこの南朝鮮を訪れて帰るときに、ここはまさに地上の楽園だと口々にいっ
 ています。  
・またすべての人々が、わが民族の統一を熱望しています。
 こういうことですから、私は何の意味も信念も希望も与えることのできない任務のため
 に、生命まで投げ打っていた自分が恥ずかしく、虚脱感すら抱くようになりました。
・私の行為が、何の罪もない善良の人々だけを犠牲にした殺人行為にすぎなかったという
 事実を悟り、私は再び良心の呵責にひどく苦しめられました。
 私のせいで苦痛と涙の毎日を送っている家族の方々を思うたびに、その痛みは何にも例
 え難いのです。
・お母さん、お父さんからはもちろんのこと、周囲の人々の愛を独占してきたこの娘が、
 お母さんとお父さんがこんないい子に育ててこられたこの娘が、百十五名の流した血を
 手につけて、殺人者として生きていかねばならないのです。
 子の心境をわかっていただけるでしょうか。
・私がお母さんとお父さんの娘であるという事実をあきらかにすることすら、恥ずかしか
 ったのです。  
 しかし、ここにいらっしゃるすべての方々はみんな、私の立場を理解してくださり慰め
 てくださいます。
 「金日成と金正日が、何も知らないあなたにそのようなことをさせたのが過ちであり、
 どうしてあなたひとりだけの罪であろうか。責任をとるべき人は別にいる」
 とおっしゃいます。
 そしてこの残忍な私を生かしてくださり、自由な生活まで保障してくださったのです。
・お母さん、また驚かれることがあります。
 私は数日前、林寛浩という方々にお会いしました。
 お母さんならよくご存知の名前でしょう。
 さびしかった私は、この人たちにお会いした瞬間、まるでお母さんにお会いしたように、
 彼らを抱きしめて止めどもなく泣きました。
 彼らも私を見て、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさんたちを思い出すと
 いっては、私を胸に抱きしめてくださって一緒に涙を流しました。
・私はここに来てわかったことはあまりに多いのですが、その中でももっとも強く残った
 ことは統一の彼我遠くないということです。
 ドイツが統一されたように、世界情勢が、わが朝鮮にも間もなく訪れてくると卯一を予
 告しています。  
・私たちは必ず会えます。
 そのときまで、お母さん、お父さん、どうか健康に気をつけて生きていてください。