金賢姫全告白 いま、女として(上) :金賢姫

この本は、いまから34年前の1991年に刊行されたもので上巻と下巻から構成されて
いる。内容は1987年11月に発生した大韓航空機爆破事件の犯人・金賢姫の手記であ
る。
私は当時のテレビニュースのことが、まだ微かながら記憶に残っている。
犯人とされた金賢姫が、捜査官から両脇を抱えられながら旅客機のタラップを降りてくる
場面や記者会見でうつむきながら犯行を告白する場面を見て、衝撃を受けたことが思い出
される。こんな若い女性が、しかも美形の女性が、旅客機を爆破するという犯行を行った
というのが、にわかには信じられなかった。

私はこの本を読んでも、いまだに納得がいかないのが、なぜ、早期に金勝一と金賢姫の二
人に疑いがかけられ、バーレーンで拘束されたかということだ。二人がバーレーンで拘束
された時点ではまだ、KAL858便が爆破されたということはわかっていなかったはず
だ。
二人は日本の偽造パスポートを持っていたというのが拘束された理由のようだが、それな
らばなぜ金賢姫は日本に移送されて日本で取調べがおこなわれなかったのか。どうして、
いきなり韓国に移送されたのか、どうも納得がいかなかった。

金賢姫は平壌を発つ前日、生活の拠点にしていた招待所の仲の良かった料理係のおばさん
から、次のように言われたという。
 「まあまあ、美しく生まれついたばっかりに。醜い娘ならこんなにもったいなくなくは
 ないのに・・・勉強をちょっとさぼってもよいものを、なんでそんなに一生懸命したの
 さ・・・このまんま良いむこさんに嫁いで暮らしたらどんなによいやら」
金賢姫は、父親が外交官で党のエリートという北朝鮮では上流階級の家庭で育ったようだ。
学業も優秀で平壌外国語大学で日本語を専攻したようだ。
しかしこれがわざわいとなって、党の諜報機関にスカウトされることになってしまった。
北朝鮮では党の指示は拒否できない。
「祖国のために正義の任務を果たすのだ」と教えこまれ、自分の命が任務遂行後に不要に
なることも理解していたという。
金賢姫の次の言葉が、北朝鮮の工作員の厳しい運命を物語っており、哀れに感じた。
 「私が生きる道は家族が死ぬ道で、私が死ぬ道だけが家族の生きる道だった」

金賢姫の家族は、事件後どうなったのか。いろいろな情報があるようだ。
「政治犯収容所に送られた」という情報や「厳重な監視下で地方都市に強制移住させられ
た」といった情報のほかに、「父親の死去、母親の外出制限、弟の降格」といった具体的
な状況の情報もあるようだが、どれもその真偽はわからない。

過去に読んだ関連する本:
金正日が愛した女


はじめに
・1987年12月、私の本名が「金賢姫(キムヒョンヒ)」であることを告白した。
 それをきっかけにして、これまでの私の悲壮な覚悟は崩れ落ちてしまった。
 「蜂谷真由美」という名前で築き上げてきた城が崩れ落ちるまでに経験した苦痛と葛藤
 と煩悩は、とうてい口にすることはできない。
 二十六年間、みずから築き上げてきた思想を一瞬のうちに捨て去ることは、私にとって
 未練が多すぎた。
 また、愛する家族との絆を断ち切り、その愛に背かなければならないという思いが胸に
 迫り、か弱い女でしかない私には、とても辛い試練であった。 
・革命戦士という幻想に一途にひたっていたのだが、それがいま、もろくも破れ去ってし
 まった。
 その愚かな過去がいまはただ恥ずかしい。
 「KAL858便事件」のことを考えれば、心痛む思いがよみがえってくるばかりだ。
・KAL機を爆破するために出発する場面を書きながら、犠牲となられた方々と、そのた
 めに苦しんでおられる遺族の方々への罪深い思いのために、それ以上筆をすすめること
 ができず、ただ手をつけかねて多くの時間を過ごしたこともあった。
・私を日本人にするための教育を担当した「李恩恵(リウネ)」に関する日本の警察当局
 の追及は執拗だった。
 私がKAL機爆破の経緯を告白する記者会見の席上で、
 「日本から北に拉致されてきた日本人女性から日本人文化教育を受けた」
 と語ったため、日本では私の言葉をもとに、モンタージュ写真が作成されたからである。
・私に何枚もの写真を見せて、「李恩恵」ではないかとたずねた。
 見も知らぬ人たちばかりだったから、内心早く切り上げたいと思っていた頃になって、
 私の前に突然「李恩恵」の写真があらわれたのだ。
 その写真は、私が平素から知っていた彼女より、すこし太っていた。
 だがそれはまさに彼女が腰を痛めて「9・15病院」に入院していたときにまるまると
 して見えた、彼女の姿そのままであった。
 私はその写真を見た瞬間、懐かしさと嬉しさが一緒にこみあげてくるように感じた。
・いまや、「李恩恵」が、日本で実際に存在した女性であることが明らかになった以上、
 彼女を家族のもとに早く帰してあげねばならない。
 このことで、彼女の身の上に害が及ばないかと心配する人も多いが、私はそうは思わな
 い。
 家族や日本の国家が彼女の帰還に力を尽くすだろうし、そうなれば無知で粗暴な北朝鮮
 であろうと、恩恵に対してむやみな取り扱いはしないに違いない。
・思い切りおしゃれをして、街を闊歩する私と同じ年頃の女性を見ながら、私はやはり、
 女であることを意識し、彼女たちがひたすら羨ましかった。
 ずうずうしい願いであるが、私は罪人である前に、単純に、ひとりの二十代の女性であ
 りたい。

死刑を宣告する
・正直いって、KAL858便を爆破したというが、私は飛行機が爆破される姿も、爆破
 された現場も、この目で見たわけではない。
 だから、そのことが実感できずにいたのである。
 漠然と、罪もない115名の人命とともに飛行機を爆破した罪人であることだけ思って
 いた。
 しかし、遺族たちの号泣と苦悩を目の前にして、私のしたことが、どれほどむごいこと
 であったか、ハダで感じ始めていたのである。
・1989年4月、その日は判決公判の日だった。
 すでに3回の公判を体験し、少しは法廷の雰囲気に慣れてきていたが、判決公判の日と
 いうので再び恐怖が走った。
 いよいよ、私が犯した罪への罰があたえられるのだ。
 裁判長が、最後に言いたいことがあれば言いなさいと私に告げた。
 私は次のように話した。
 「ここに来て真実を知り、私の罪があまりにも大きいことを悟りました。そしてこの裁
 判を通じ、事件の真相がすべて明らかになり、幸いです。いまは金正日が呪わしいだけ
 です。遺族の方たちにどのように罪を償ったらいいのか・・・」
・しかし、私にはそのとき、どうしても口に出して言えなかった言葉があった。
 それは「私は生きたいのです。生き残って・・・」であった。
 命乞いをするようで恥ずかしく、口にせずにそのまま呑み込んでしまったのだ。
 ただ漫然と、これから生き延びても、それは死ぬことよりもっと大きな苦痛だろうと思
 いつつも、生き残ってしなければならないことがあるようにも思えた。
・人間というものはこんなにもずる賢い動物なのか。
 判決の前には、「死こそふさわしい」と思いながらも、一瞬でも生きていたいという願
 いがこみあげてきた。
 しかし一方では、死ぬことだけが、遺族や北にいる私の家族にとっても、また私自身に
 とっても、最善の道であることを、みずからに言い聞かせたりした。
・「115名の無辜なる人々を殺害した行為は断乎罰せなければならない。よって極刑を
 申し渡す」  
 「死刑を宣告する」という言葉を耳にいた瞬間、涙があふれた。
 当然、予想していたことなのに、「ああ、これで本当に死ぬんだなあ」と思った。
 その瞬間、家族の顔が、早回しのフィルムのように目の前をかすめていった。
 
生き恥をさらす
・真っ白い部屋に私は横たわっていた。
 窓ひとつない部屋で、夜なのか昼なのかを知る術もなかった。
 私の左の手首に手錠がかけられており、鎖で固くつながれて寝台の足にしっかり結ばれ
 ていた。
 酸素吸入器をつけられ、胃の洗浄のため、鼻と口にはゴムの管が入れられており、足に
 は注射針が刺さっている状態だった。
・「死んだはずなのに、生きている。大変だ!」
 生きていることは喜びではなく、苦痛の始まりであることを、私はすでに知っていた。
 私はまた意識がぼんやりしてくるのを感じた。
・明らかに、毒入りタバコのフィルターが割れたのに、なぜ、生き返ってしまったのか。
 息がつまるような思いだった。
 「どんな手段、どんな方法をつかっても、死ななければならない」
 目をつぶると、また意識がかすんできたが、夢うつつの状態においても、その一念だけ
 は捨てなかった。
 看護婦たちが使っている鋏を奪ったら自殺できる、と考えもしたが、体はすでに固く縛
 られ、微動だにできない有様だった。
・思いつくすべてを実行してみたが、死ぬ方法は見つからず、気も狂わんばかりであった。
 「これから、一体どうしたらいいのか?金勝一は、どうなったのだろう?あの人は、普
 段から脆弱な人だから死んだにちがいない!」
 金勝一が死んだと思うと、彼が羨ましく、あらたな恐怖が湧いてきた。
・平壌を出発して以来、任務を遂行する過程で、私は自分たちの行為に何の疑問も罪悪感
 も持ったことはない。 
 朝鮮人の民族的使命である祖国統一を私がやり遂げたと思うと、英雄になったような気
 分だった。
・「私ひとりが死ねば、そのぶん祖国統一が早まるんだ。いかほどの値打ちもないこの生
 命、どうあがいても一回は死ぬのだから、祖国のために死ぬ方が百倍ましだ!」
 そう思っていた。
 私ひとりだけが死ぬことだけを考え、飛行機に乗っていた数多くの人々については、
 まったく念頭になかった。
 私は工作任務を遂行することだけを考え、誰かの息子、誰かの夫、誰かの父というふう
 に、他の人間のことまで思いが至らなかった。
・しかし、このように囚われの身になってみると、理由がなんであれ、飛行機に乗ってい
 た人たちを殺したという思いが、先に立って、当然の任務を果たしたにすぎない、とい
 う淡々とした心境にはならなかった。
・あらゆる拷問をうける場面が生々しく思い出された。
 でも、南朝鮮に引っ張られるくらいなら、日本に行く方がましだ。
 南朝鮮に行けば、特務(北朝鮮工作員を調べる余韻を特務という。特務隊が由来)たち
 が、私を拷問するにちがいない。目玉をえぐり、歯を抜き、骨を折り、爪を剥がすだろ
 う。はたしてこうした苦痛を耐え抜き、秘密を守り通す力が私にあるだろうか?
 何としても、南朝鮮に連行されないようにしなくてはならない。
・事件との関係を感づかれたら、私は容赦なく南朝鮮に連れて行かれることだろう・・・。
 朝鮮人にも日本人にもなれないとすれば、これからは中国人になりすますしかない。
 私は応急策を講じた。
・幸いにも、私は1985年に龍城招待所で6カ月間、中国に住む同胞の指導員から、
 中国語の集中教育を受け、1年6カ月間、海外現地実習のために広州とマカオに派遣さ
 れたことがあったので、中国語には自信があった。
 運よければ、共和国の同盟国である中国に送られるかもしれないし、そうなれば、祖国
 は手を打ちやすくなるのではないか。
 希望が湧いてきた。そうだ。これから私は中国人だ。
・今回の工作にかかわる直前、私は対外情報調査部から同胞の工作員、金淑姫とともに広
 州に派遣された。  
 私は朴昌海指導員のアパートで十数日間滞在して、マカオの状況を調べた。
 マカオでは当時、長期間滞留している密入国中国人たちに、永住権をあたえるとの情報
 があった。
 その情報を知った金淑姫と私は、マカオの永住権を取得するために二度目に広州行きを
 果たしたのである。
 私は実在の中国人少女「呉英」、金淑姫は百翠恵に偽装する手筈が整っていた。
・永住権付与の発表を待っていると、突然、平壌から私に緊急帰国せよとの電文が送られ
 てきた。 
 あわてて平壌に帰ると、今回のKAL機爆破工作の指令を受けたのだった。
 
中国人になりすまして
・医者の指示に従って、私は2時間ごとに10数分、看護婦と婦人警官の手を借りて、
 脚をずるずるひきずりながら歩く練習をした。
 そして1時間ごとに体温と脈拍をはかり、薬を飲み、牛乳がゆを半強制的に食べさせら
 れた。
 一度は、私の腕にゴムひもを結んで欠陥に注射針を刺し、血を抜いていった。
 抵抗できない立場だから、彼らのなすままに血を採られるしかなかったが、本当にその
 場で死にたい気持ちだった。
・北朝鮮では、こんな話を聞かされた。
 捜査機関では拷問をして、それでも白状しなければ、血管に何かの注射薬を入れ、自分
 でも知らないうちに事実をすらすらと白状させる・・・。
 私は、血を抜かれながらあまりの恐ろしさに震えた。
 白状させる注射薬を使用するため、私の血液検査をするんだ、と信じたのだ。
・私としては血を採られたあと、恐ろしくなって、小賢しい策略を弄することに決めたの
 だ。 
 急に話し始めるのも怪しまれると思って、まず看護婦に簡単な英語で、水をくれ、手が
 痛い、などの言葉を少しずつ喋りはじめた。
 すると、私の言葉を聞いた看護婦と警官たちは「真由美が話をした」と叫んで喜んだ。
 私が自分から話したのはこれがはじめてだった。
 他人の心も知らずに喜ぶ彼らが気の毒に思われ、また自分が卑怯者になるようで、もの
 哀しくもあった。

アンダーソンとマリア
・ヘンダーソンは焦っているのか、ある日ひとりの日本人女性を連れてきて日本語で取調
 べをした。
 ヘンダーソンが連れてきたその女性は、リージェンシー・インターコンチネンタル・ホ
 テルに勤める人で、金勝一と私がそのホテルに泊まったときに会ったことのある人だっ
 た。
・金先生と私がお昼を食べようとしてホテルのコーヒーショップに入り、スープとサンド
 ウィッチを注文して食べているとき、彼女が私たちのところへやってきた。
 そして自分は営業担当のオオクボと自己紹介をして、「日本からいらっしゃったのです
 か」と訊いた。
 私は話したくない気持ちを露骨に示した。
 仕方なく金先生が「はい、はい」と答えるだけだった。
 彼女はがっかりして空になった食器を持って立ち去った。
 先生は彼女の背中に向かって「ありがとうございます」と声をかけた。
・また、この女性は、私たちが捕まる前日の夕方、私たちの部屋に電話をかけてきて、
 「旅券についてちょっとお訊きしたいことがあるので、大韓航空の職員を連れてきまし
 た」 
 といった。
 そのときも金先生が電話に出た。そのすぐ前にも同じ内容の電話があったので、先生は
 腹を立てた。
・その女性が、いま私たちを調べるためにここに来ているのだ。
 振り返ってみると、彼女がホテルで私たちの周りに現れたのも決して偶然のことではな
 かった。
・「旅行をしている間、男女が同じ部屋で寝泊まりしたのに何事もなかったんですか」
 最後に彼女はこういう質問までして、私と真一との関係に探りを入れた。
 私はひどく侮辱を感じた。
 男女関係を厳しく律する北朝鮮で育ち、異性に目覚める前の18歳のときに工作員とし
 て徴用され、一般社会とは隔離さえた私。
 山の中の招待所で俗世間とは縁遠い生活をしてきた私としては、そのようなことを耳に
 するだけで恥ずかしく、プライドが傷つくような思いで耐えられなかった。
 癪に触って答えたくもなかったが、自分のおかれた立場が立場であることは誰よりもよ
 く知っていた。
 言葉で彼女を納得させることは無理だった。
 それでただ「何事もなかった」を繰り返すしかなかった。
 彼女はそれが信じられないように、首をかしげなから質問を続けた。
 私はそういう彼女を殺してやりたいくらい憎かった。
・以前、私がはじめて海外旅行の実習任務をあたえられ、資本主義国へ行ったとき、ホテ
 ルはどういうふうに使うのかと担当課長に聞いたことがあった。
 いくら工作任務とはいえ、また金勝一が年を取ったしかも有能な工作員とはいえ、彼が
 男で私が女であることは間違いない。
 さらに、私は人生経験豊富な女性でもないし、22歳の年頃の娘だったので、それが一
 番の心配事だった。 
・私の質問がまだ終わらないうちに課長は渋い顔をして、「部屋を二つも使えるお金がど
 こにあるのか」と怒鳴りながら、かえって私を変な目で見つけるのだった。
 要するに考えが不健全だということだ。
 二十歳過ぎの女に男と同じ部屋を使えというのには呆気にとられた。
 じつに驚くべきことだが、事情がそうであれば仕方なかった。
 それに、命令に生き命令に死ぬ工作員の身分からすると他に方法はない。
 自分自身がみずからを守るほかなかった。
 日本人の女が私たち二人の関係を怪しんだのも当たり前のことだろう。
・いろいろな心配はあったが、実際に金勝一は私をまるで実の娘のように可愛がってくれ
 て、私を異性として扱わなかった。
 それが単に相互批判する”総括報告”のためだけではないことは確かだった。
 彼自身身体が弱くてみずからを維持しるだけで精いっぱいで、私はときどき”おじいさ
 ん”と呼んだくらいに彼は年を取っていた。
・私はバーレーン空港で自殺を図った日から半月が過ぎたことを知った。
 まだ15日しかたっていないことが不思議に思われるくらいだった。
 何カ月もたったような長い時間を感じていたのに・・・。
 15日間におよぶバーレーン警察のしつこい尋問と懐柔、自分自身との戦い。
 その間の苦しみは、20年間のそれを合わせたくらいだった。
 それに私の苦難はここで終わっていない。
 
プラスチックを口の中に
・私は私自身を信じることができなかった。
 15日間の試練にはそれなりによく耐えられたと思う。
 しかし、これからもっと本格的で具体的な尋問が始まり、肉体的な拷問が加えられれば
 我慢できるかどうかは疑問だった。
・目の前に巨大な怪物のような飛行機が駐機していたが、それを見た瞬間、私はそこによ
 ろよろと倒れそうになった。  
 私を待っている飛行機にはKALのマークが鮮やかに記されていたからだ。
 その飛行機で南朝鮮に連れていかれると考えただけでもショックだった。
・飛行機のタラップの下で私を待っていた南朝鮮の特務たちは、私にさっととびかかって、
 荒々しく私の腕をつかむと素早く私の口に何かを詰め込んで接着テープを貼った。
 あっという間のことだった。
・口の中のものを噛んでみたら、プラスチック製品で、舌を噛んで自殺するのを防止する
 ためのものだった。 
 要するに、歯と舌とを分離するものだ。
 私は内心びっくりした。
 あんなに徹底していたバーレーン警察でも考えられなかったものを用意している。
 南朝鮮の周到さには新たなる恐怖を感じた。
・飛行機はすでに離陸して空を飛んでいるようだった。
 離陸するという案内放送も救命胴衣についての説明もないことから見ると、私を連れて
 いくための特別専用機のようだ。
 日本の偽造旅券を持ち、空港で自殺しようとした事実だけで、KAL機の爆破犯人だと
 いう確かな証拠もないのに、私を連れていくためにこんな大きな飛行機を遥か遠いここ
 まで送るなんて・・・。 
 南朝鮮は金持ちの国かな。
 それとも私が北朝鮮の任務をおびて、KAL機を爆破したという確信でも持っているの
 かな。特別専用機まで送ったということに対する答えが私にはよくわからなかった。
 
南山の地下取調室で
・ソウル、うわさだけではじめて見るソウル。
 北ではソウルを祖国統一の希望の峰と考えていた。
 しかしデモが絶えず、あらゆる犯罪と貧民たちがひしめいている巣窟とも教えられてい
 た。
 工作員(スパイ)たちはソウルに行き、生きて帰ってきただけで、英雄のように大きな
 顔をしていた。
 そのソウルに私は来ているのである。
・飛行機の搭乗口を出ると冷たい風が肌を刺した。
 それはなんと、平壌の空気が発散する匂いと同じだった。
 私は一瞬、もしかして自分は順安飛行場(平壌近郊)に到着したのではないかという錯
 覚まで覚えた。 
・広場には多くの飛行機が止まっていた。
 そこは順安飛行場ではなかった。
 順安飛行場とは比較にならないほど大きかった。
 彼方には大勢の人たちが集まりカメラのフラッシュがひっきりなしに炸裂していた。
 私が降りて来るのを待っているのだった。
 一歩一歩進むにつれて人々の騒ぎとカメラのシャッターを押す音が大きく聞こえてきた。
 私は目さえつぶればこの場から逃れられそうに思えて、じっと目をつぶっていた。
 大勢の人々が私を取り囲んでいるようであった。
 写真を撮らせようとするのか、私をその場にちょっと立ち止まらせた。
・写真の撮影が終わったのか、特務たちが私を乗用車の中に押し込んだ。
 すると車はものすごいスピードで走り出した。
 ただ呆気にとられるばかりだった。
 私がじっと目をつむったまますすり泣いていると、杣にいた女性特務が見るに見かねて
 なだめた、 
 「目を開いて、外をちょっとご覧なさい。ソウルがどんなところか気になりませんか」
 彼女はわつぃの腕をそっと揺すった。
 私の方もソウルの街が気にならないわけではなかった。
 しかし、目を開いたら余計怖くなりそうで我慢していた。
・どれほど多くの外国人連中がソウルに住んでいるのか。
 車がやたらと多い。
 私には外国人にすべての権限を奪われて生きている南朝鮮の人々が情けなく思われた。
・着いたところが南山の取調室であることが私にもわかった。
 北でいくども南山の地下取調室のことを聞かされたし、先ほど特務たちが「南山へ行こ
 う」と言ったことからしても間違いない。
・目を開けて周りを見回した。
 四郎壁の所々に手垢で汚れた跡がある。
 壁のあちこちが凹凸になっていて窓は一つもなかった。
 昼夜の区別がつかないようになっている部屋であった。
 それでなくても南山の取調室についての情報をいろいろと聞いていた私はぞっとして鳥
 肌が立った。
・これまでどれほど多くの革命家と愛国者たちがここで拷問にあって、死んでいったこと
 か。
 部屋の中にはベッドと机が二つ、そしソファがあった。
 ベッドには毛布が敷かれていて、向かい側にはドアが一つあったが、どうやらトイレの
 ようだった。
・私の枕元には女性捜査官がひとり椅子に腰かけて、私の顔をじっと見つけていた。
 足元には男性捜査官が座っていた。
 ソファと机には男女が座って何か一生懸命書いている様子が見えた。
 あちこち見回していたときに枕元に座っていた女性捜査官と目が合った。
 気まずくなって慌てて目をそらした。
 生まれてはじめて若い男たちがいる部屋に寝かされていることが恥ずかしくで気が気で
 ならなかった。
・捜査官たちはプラスチックを外して私を起こして牛乳を飲ませた。
 ほとんど半ば強制的だった。
 牛乳を飲ませてからも私が負担を感じるようなことはいっさい言わなかった。
 私をぐっすり休ませようとひたすら骨を折っていた。
 作戦としてはあまりにも完璧だった。
・ほとんど胃の中が空っぽの状態に牛乳を飲ませられたので身体がだるくなった。
 平壌を出発して以来、ぐっする寝たことがないので、身体は極度に疲れきっていたのだ。
 知らず知らずのうちに深い眠りに陥ちた。
 バーレーンでさえ、こんなに深く眠ったことがなかったのに、あの悪名高い南山の地下
 取調室に来て深い眠りに陥ちるとは、不思議なことだった。
・女性捜査官が私に起きなさいといって、部屋にあるトイレに連れて行った後でお風呂に
 入らせた。
 浴槽にお湯を沸かせておいて私を入浴させた。
 膝の傷が完治していないので、ひとりでは体を支えることができず、女性捜査官に支え
 られながら体を洗ってもらった。
・幼いとき、母に体を洗ってもらって以来、生まれてはじめて他人に体を洗ってもらうの
 で恥ずかしかった。
 しかもしばらくの間、お風呂に入れなかったので垢だらけ、それも恥ずかしかった。
 それでもお風呂に浸っていると、とても気分爽快だった。
 本当に生きた心地がした。
・その次には歯ブラシに歯磨きをしぼって手渡してくれた。
 何日ぶりの歯磨きかわからない。
 バーレーンではちょっと指に歯磨きをしぼってくれただけだった。
 歯ブラシを口にくわえた瞬間、歯磨き特有の爽やかで香しい匂いが口にさっと広がった。
・南朝鮮にこんな素晴らしい歯磨きがあるものかと、注意深く歯磨きに目をやった。
 それには朝鮮語と英語で書いてあったが、商品名そのものは英語であった。
 「ほら見ろ、舶来品だわ。南朝鮮は外国からの借款で国の経済をやりくりしていて、
 舶来品が幅をきかせていると聞いたが、その通りだわ。生活必需品の歯磨きでさえ自力
 生産できず、舶来品を使っているなんて先が見えた国ではないか」
・私はやや質が落ちても、自主生産している北朝鮮が本当に誇らしく思われた。
 石けん、シャンプー、リンス、タオル、お風呂からあがった後、顔につけなさいといっ
 て渡してくれたクリーム、どれ一つとっても外国の名前ではいものはなかった。
・この調子じゃ、この国はわが朝鮮を外国人の奴らに根こそぎ売り払ってしまうのではな
 いかと心配になった。   
・お風呂から上がるとバーレーンから着てきた服を脱がされて、南朝鮮のトレードマーク
 のついた下着とトレーニング・シャツに着替えさせられた。
 下着は女の子を虜にしてしまうほど、デザインと肌触りが素晴らしかった。
 下着にするにはもったいないような気がした。
 トレーニング・シャツもまたバーレーンから着てきたものとは比較にならないほど品質
 がよかった。
・ソファに腰をおろすと、男性捜査官たちが入ってきた。
 その中のひとりが紙コップにコーヒーを持ってきて、私に勧めた。
 コーヒーを見ると涙が出るほど嬉しかった。
 招待所や外国旅行中に飲み続けてきた私はある程度コーヒー中毒になっていたのだった。
・実をいうと、バーレーンの取調室にいるときからコーヒーが飲みたくてたまらなかった。
 コーヒーは熱かったが、ふうふうと吹きながら夢中で飲んだ 
 ちょうど私の口に合う入れ加減であった。
 そんな私の様子を見て、年配の捜査官が側にいる捜査官に何げなくいった。
 「あの子は朝鮮人に間違いない。熱いものを飲むときふうふうと吹きながら飲むのは、
 われわれ朝鮮民族だけだよ」
・私はその言葉を聞くと、飲んでいたコーヒーカップをテーブルの上においた。
 その瞬間、「あっ、しまった」と思いながら、自分の不注意を後悔した。
 「捜査官たちは自分を試そうとしてわざと熱いコーヒーをくれたんだわ。畜生」
・私はそれ以上コーヒーを飲みたくなくなった。
 食欲がなくなるほど気持ちが悪くなり、慌てた。
 急にコーヒーカップをおいたということは、彼らの喋ることを聞き取れたという証拠で
 あった。  
 とにかく私はコーヒーカップを持ってトイレに行って、捨てた。
 そして紙コップをきれいに洗っていたら、女性捜査官が「これは捨てるんだよ」と屑入
 れを指差した。
 私は紙コップにもう一度目をやった。
 「どうして、こんなに立派なものを捨てろというんだろう。まだ充分使えるのに・・・」
 本当に変だった。どうしても腑に落ちなかった。
・私はヨーロッパ旅行中でもマカオ生活中にもコーヒーの自動販売機を利用したことがな
 いので、紙コップについてはまったく知らなかった。
 バーレーンにいるときもプラスチック・カップにお茶を入れて出してくれたりしたが、
 洗ってまた使うものと思っていた。
 女性捜査官のいうままに、紙コップを屑入れに入れながら、もったいないような気がし
 た。南朝鮮の人びとは相当浪費的だと思った。
 「外国からの借款でやりくりしているくせに無駄遣いもはなはだしいではないか」
・2時間ごとに医師が来て診察をし、女性捜査官たちは膝の傷に湿布をしとうとお絞りを
 運び続けた。
 バーレーンでの親切さとはひと味違う親切さであった。
 バーレーンの看護婦さんと婦人警官たちはお人よしで人情深かったが、至れり尽くせり
 の面倒見とはほど遠いものだった。
・しかし南朝鮮の特務たちは、本当のきょうだいのような愛情でもってつくしてくれた。
 これが民族愛なるものなのかと、気をゆるめてしばし感動したりした。
 バーレーンから連れて来られる直前、飛行機の前で見覚えのある女性捜査官が同僚の捜
 査官に小さな声で心配していた。
 「この子の生理はいつなんだろうね。それがわからないと面倒の見ようがない」
 それを聞いて、実は私も切実な問題だったので思わず、「生理?」と日本語で聞き返し、
 紙に「24」と書いて渡した。
 この軽率な行動に対してもすぐ後悔した。
・捜査官たちは今日は大統領選挙の日とかいって、朝から交代で投票をしてきたようだ。
 彼らの会話をそばで聞いていて、何をいっているのかピンとこなかった。
 誰に投票するのか自分の勝手だとか、家族同士で派がわかれたとか、という話が私には
 さっぱり理解できなかった。
 「南朝鮮は本当に複雑で無秩序な選挙制度をとっているもんだ。わが共和国は偉大なる
 首領同志のような卓越した指導者に恵まれているため、意見がひとつにまとまるのだ。
 みんなが一人の方だけを仰ぎ慕っているから、幸せなことこの上ないのだ」
 指導者ひとりを選ぶのにもこんなに意見がまとまらないようじゃ、何をやったってうま
 くいくはずがないと思われた。
・南山に連れて来て2日間はぐっすり休ませ、何も訊かなかったが、私の一挙手一投足を
 綿密に観察している様子だった。
 しかし、私が聞きとれるかどうかはお構いなしに朝鮮語だけで話をした。
 わからないふりをしていると、背中には冷や汗が流れ、かえって私の方が胸苦しくて死
 ぬような思いだった。
 反面、捜査官たちは言葉と立居振る舞いは優しく飾り気がなかった。
 ある若い捜査官は罪人である私に尊敬語を使って話しかけた。
・正直いってこれまで自分が見聞きし想像していた雰囲気とはまるっきり180度違って
 いた。
 これが彼らの芝居だとしたら、この芝居は完璧すぎるほど完璧な芝居だとしかいいよう
 がない。
 しかし、どこにも芝居という感じはまったく窺えなかった。
・私が想像していた南朝鮮と実際の状況が完全にずれてしまって、これから先どう対処し
 ていけばいいのか、その計画が立てられなくなった。
 ただその場その場で、臨機応変に対処していくしかないと判断した。
 夢にも想像できなかったことが次々と展開されて、私としては混乱して収拾がつかない
 状態だった。 
 果たして北が南朝鮮を見誤っているのか、さもなくば南朝鮮の特務たちが意識して私の
 判断を誤らせているのか、まったく見当がつかなかった。
・ますますきびしくなる状況のなかで、いつまで自分の正体を隠しきれるか心配だった。
 ベーレーン警察署の取調室ではずっと手錠をかけっぱなしで、さらにベッドにつなぐな
 ど身体的拘束がひどかった。
 しかもヘンダーソンとマリアが私の正体を探ろうと毎日尋問を続けた。
 しかしここでは身体的虐待も、きびしい尋問する人もまだいないのに、その場その場を
 しのぐのが大変だった。
 人道的待遇をしてもらい、言葉遣いも優しく気軽に口をきいてくれたが、それが私にと
 っては落とし穴だった。
 早く事実通り自供しなさいと強要されるよりももっと苦痛であった。
 強要されたら知らんぷりをするか嘘をついて、なんとかその場をしのぐこともできよう
 が、こんな状態が続けば不可抗力での敗北が予想された。
 というのは、取り調べる特務たちも朝鮮人であり、中国人になりすましている私もやは
 り朝鮮人であるからだ。
 南山の地下取調室は平穏で静かであったが、私をじわじわと圧迫していた。
  
捜査官たちとの攻防
・私はここに連れて来られてから、新しい品物を目にすると、その商品名を注意深く観察
 する癖がついた。
 南朝鮮にこんなにいいものはあるはじがないのにと思ってみると、なるほどその品物の
 名前は英語だった。
 「ロッテ」「オリオン」「クラウン」などと朝鮮語で表記されているものの、名前は英
 語の単語であった。
 舶来品を輸入して、ハングルの商品名をつけたに違いない。
・オレンジジュースの缶を見ると、「無加糖」と書いてあった。
 その意味がわからなくて女性捜査官に指でその文字を指しながら意味を聞いてみた。
 女性捜査官は「ノー・シュガー」と英語で教えてくれた。
 オレンジジュースに砂糖を入れないと酸っぱいだろうにどうして飲めるんだろう、砂糖
 が高すぎて入れられなかったものと、自分なりに推測した。
・機体では砂糖は目にすることさえ難しい。
 どんなに高級幹部の家でも砂糖は貴重なものなので、しまっておいて大事なお客が訪れ
 たときに出したりする。
 またお腹をこわしたときには薬として舐めたりもする。
 後になってわかったが、ここでは砂糖を摂りすぎると糖尿病になるといってできるかぎ
 り摂らないそうだ。 
 砂糖があり余っていると聞いて、恥ずかしくてどんなに赤面したことか。
 それで「無加糖」ジュースがもっとも人気があるということも知るようになった。

・金星政治軍事大学で工作員が身に付けるべき基本要素である精神的、肉体的条件に対す
 る訓練を受けた後、私は東北里3号特閣招待所に隔離された。
 特閣招待所は平壌と平城との境にあった。
 ここで私は当時25、6歳だった日本人女性から日本人化教育を受けた。
 これは私がどこでなりとも完全な日本人になりすますための教育であった。
 教育内容は日本語と日本社会全般にわたる風習、地理などであった。
 さらに化粧法、身振りまでも日本人らしくする教育だった。
・招待所に隔離されたその日から朝鮮語使用が禁止され、招待所内では完全に日本語だけ
 を使うようにとの指示が下された。
 私は平壌外国語大学で日本語を専攻したため、日本語だけで暮らすことにはさほど不自
 由を感じなかった。
 ただ母国語をずっと使わず外国語だけを使っていると、急なときには朝鮮語が条件反射
 のように飛び出して苦労した。 
・朝鮮人同士で暮らし、お互いに朝鮮語を使うことがどんなに幸せなことなのか、普段は
 気づかなかったが、日本人化教育のときには身に染みて切実に感じた。
 それと同様な心境は、この南山の地下取調室に来てからも何度となく感じた。
 調査官たちは私がたどたどしく朝鮮語を喋る姿を注意深く観察するだけで、発音を正し
 てくれるわけでもなくこれといった反応も見せなかった。
・これ以上話す言葉もないほど袋小路に追い込まれた状態だった。
 誰に相談することも、指導を受けることもできない。
 自力だけではこの八方塞がりから逃れられそうもなかった。
 こんなときはこうしろという教育をしてくれなかった北の指導方針が頭にきた。
 「秘密を守れないときには自決しろ」と教わっただけで、自決できなかった場合はこう
 しろとは教えてもらったことがなかった。
 井の中の蛙のように教わった通りを忠実に遂行してきたわれわれ工作員たちは、自力で
 臨機応変に解決しなければならない問題があろうとは想像もつかなかったことだ。
・どうするつもりなのか、捜査官が白紙を差し出して名前を書けといった。
 私は「百翠恵」と書いてやった。
 しばらく後に、その捜査官は何枚かの紙を手に持ってきて私の前に差し出した。
 覗いてみると先刻自分が書いた名前だったが、写真を撮ったように何枚にもなっていた。
 ある文字は胡麻粒のように小さくなっていて、ある文字は表札のように大きくなってい
 た。  
 あまりにも不思議なので目を拭いてのぞき込んでも、小さい文字も大きい文字もすべて
 私が書いた筆跡に間違いなかった。ただ大きさが違うだけだった。
・どうやってあっという間に筆跡を大きくしたり小さくしたりできるのか、自分にはとて
 も腑に落ちなかった。 
 同じように書くのもむずかしいはずなのに、魔法を使っているのではと疑ったりもした。
 手品かもしれないと考えた。
 後から聞いた説明によると、複写機と呼ばれる機械があって、その中に入れると何枚も
 のコピーもできるし、大きさも自由自在に調整できるようだ。
 そんなことはつゆ知らず、私はコピーの文字を見てどんにびっくりしたことか。
 それがわかってから私はまた新しい心配の種ができた。
 「ここの科学がこれほど発達していれば、北で聞いた通り注射さえ打てばすらすら白状
 させる薬が開発されているに違いない」
 私は怖くなって顔を埋めて泣いてしまった。
 私は恐怖におののいたまま泣きやまなかった。
 コピーされた文字を見て泣き出す私の姿を眺めながら、捜査官たちは狐につつまれたよ
 うな顔をした。
・寝床に入って目をつむっても、そのコピーした文字が目の前にちらつくほど、私には大
 きな衝撃だった。
 もうこの連中の巣窟で秘密をすべて吐き出して死んでいくときが徐々に迫っているよう
 な気がした。
・これに劣らず、衝撃的だったのは、夜遅くなった時間に、出し抜けに放たれた捜査官の
 ひと言だった。
 「ベオグラードでお前にあった人はいったい誰なんか」
 私は腰を抜かした。
 「私たち(私と金勝一)がベオグラードのメトロポール・ホテルでひとに会った事実を、
 この人たちがどうして知っているのか。なるほど南朝鮮の特務たちが世界のいたるとこ
 ろで活動しているとは聞いていたが、本当なのか」
・金勝一と私は、ウィーンから飛行機に乗ってベオグラードに行き、メトロポール・ホテ
 ルに泊まったのだ。
 そこで私は約束した通り、ホテルの入口に行って、崔課長と崔指導員に会い、彼らを私
 たちの部屋に案内した。
 崔課長一行は私たちに秘密のショッピングバッグを渡した。
 その中には時限爆弾のラジオと液体爆薬の酒瓶が入っていた。
 もっとも緊張した息の詰まるような出会いだった。
 その当時、私は崔課長一行がホテルマンたちにチェックされないように、前もって入口
 に出て彼らがくるのを待ち、直接部屋に案内したのだった。
 それなのになぜ南の特務たちがその事実を知っているのか。
 本当にわからないことばかりだ。
・「私は絶対にだらしない裏切り者にはなるまい。わが朝鮮の独立と社会主義の建設のた
 めに、生涯をささげた偉大なる「金日成」首領と、これからわが朝鮮人民をお導きにな
 る親愛なる指導者「金正日」同志の権威と威信のために、一生を捧げることを誓った身
 なのだから」
 私は革命精神に燃えていた工作員時代を顧みながら自分を鞭打った。
 しかし、それは昔のこと、明日でくわずことに対する不安感を払いのけてはくれなかっ
 た。

ソウルでの初外出
・見かねた捜査官が、真顔になっていった。
 「私たちは急がない。よく考えて態度を決めた方がいい。あなたの話が矛盾だらけの嘘
 だというのは、あなた自身が誰よりもよく知っているだろう。私たちはあなたが過ちを
 悟り、自分から話しだすまで我慢して待ってるよ。
 飛行機には115人が乗っていた。そのうち、乗務員の何人かを除けば、ほとんど勤労
 者たちだった。その勤労者たちは政治やイデオロギー、体制とは関係のない、何の罪も
 ない人々だったんだよ。ただ家族を食べさせ、着させ、教育させるためにあの暑い国に
 出稼ぎにいった人たちなんだ。異国の地、それも砂漠で血と汗を流して苦労したんだ。
 懐かしい家族と何年も離れて、やってお金を貯めて一緒に暮らすために帰国する途中だ
 った。
 あなたがどういう理由で今回の事件を起こしたかはわからないけれど、どんなにもっと
 もらしい言い訳をしても、勤労者を犠牲にしたことは天罰が当たってもおかしくないぞ。
 それは獣ならともかく、人間のやることではない。
 私たちは女のあなたひとりがこの計画を練って、やったとは思わない。あなたにこんな
 恐ろしいことをさせた背後を明らかにして、罪を悔い改めた方が正しくないかな。私た
 ち人間が人間らしさを失ったら獣だよ。誤りを悟ったら早く許しを乞うて、贖罪の道を
 歩むべきだろう」
 捜査官は私の人間的良心に訴えてきた。私も彼の話は一つも間違っていないと思った。
・私は捜査官が話している間中泣いてばかりいた。
 とくに、飛行機に乗っていた人々のほとんどが可哀想な勤労者たちだったということで、
 少しばかり良心の呵責を感じた。
 私自身が小さく縮んでいくような気がした。
 私が彼の話に動揺の色を見せると、捜査官は毒薬アンプルの写真を私に突きつけなが
 ら、話しをつないだ。
 「人間の生命をこんなに軽視する組織に、あなたは利用されたんだ」
 私が秘密を守るために、毒薬アンプルを噛んだ事実のことを言っているのだった。
 「おおことに利用されるなら苦労の甲斐もあるけれど、罪もない人を殺すことに利用さ
 れたのは愚かなことだろう。それを悟らないのはもっと愚かだと思う。正義のために働
 いていた人が不義に向かうと、裏切り者とか変節者とかいわれるけど、不義から正義へ
 向かう場合は正義の闘士になる。あなたのような若い女性を、罪のない人を殺める殺人
 者もするのは不義であり悪だということを、悟らせる人間的責任が私たちにはある。
 あなたを正しい道に導こうとするのが正しくないといえるかな」
 彼は熱弁をふるった。
 私はそれ以上彼の言葉に耐えられなくなって、他のことを考えようとした。
・「今回の任務の目的は、オリンピックを開催してふたつの朝鮮を造作しようと策動する
 敵に、痛打をあたえることだ。だから祖国統一のためにはとても重要な任務だ」
 この工作の重要性を強調した部長同志の言葉を思い起こして、朝鮮人の民族的使命であ
 り、念願である民族統一のためには、これくらいの犠牲はやむをえない、と気を確かに
 持とうとした。  
 いかに巧みな誘いにぶつかっても、祖国と党、偉大なる首領様と親愛なる指導者同志に
 対する義理には背くまいと固く決心した。
 私の愛国の念は絶対変わらないのだと、心の中で叫んだ。
・私はベッドで横になってからも、泣き続けた。
 家族への思いだけではなく、このような状況でどう耐えていくか、もどかしく、情けな
 くて涙が止まらなかった。
 ふと、もし北に家族さえいなかったら、こんなにつらくはないだろうと思った。
 そうだとすると、私は自分だけが生きる道を求めればいいのだ。
 私は知らん顔をして、愛する家族を苦しい目にあわせるのには耐えられなかった。
・私が生きる道は家族が死ぬ道で、私が死ぬ道だけが家族の生きる道だった。
 当然のこととして私は自分が死ぬ道を選ぼうとした。
 私が筋書きどおり、親に捨てられた孤児だったら、私はつらい目にあうこともなく、
 なるようになれと、もうとっくには白状していたかもしれない。
 不安と恐怖に怯えながら、連日、嘘を作り上げるため頭を捻ることはもう懲り懲りだっ
 た。 
・雑談が終わると、男性捜査官が、
 「今日はソウルの見物でもしよう。出かけるときの洋服を買ってきたけど、合うかどう
 か着てみて」
 といって、机のうえに洋服を広げた。
 黒のツーピース、ジャンパー、セーターなどだった。
 新しい服をこんなにたくさんもらうのは生まれてはじめてだった。
・北では、服を一着こしらえようとすると、お金があっても闇取引でもないと気に入るも
 のはなかなか見つからない。 
 学生には何年かに一回、金日成の誕生日、あるいは金正日の誕生日に合わせて、首領様
 のプレゼントだといって新しい制服が買える購買券が支給された。
 学生時代は新しい制服を着ると、嬉しさのあまりしばらくは気楽に座ることもできなか
 った。
 工作員に召喚され招待所に入った次の日、平壌市内のサーカス劇場近くにある洋服店で
 洋服を一着注文してくれた。
 工作員は特殊だと聞いていたが、なるほどまったくそのとおりだと感心した。
 服を注文して戻ってきても、出来上がりが待ちきれないほどだった。
 服が出来上がってきた日は、嬉しくて嬉しくて寝るのも忘れて服を着てみたことがある。
・しかし、新しい服も外出も、私にはみんな煩わしいだけだ。
 どうかわたしを尋問しないで、新しい服もくれないで、ソウルの市内見物もやめて、
 ほっといてほしい、と思った。
・「まだ私の話が終わってもいないのに外出しようとするのは、この連中が私の話を嘘だ
 と思っているからに違いない」
 とわかった。
 信じるかどうかはさておいて、私は話を全部終えれば気がすみそうに思えた。
 「残った話を全部します」
 私はみずから申し出た。
・私は話を終えた。すると、捜査官が体を起こしながらいった。
 「いままでの話はよくわかったが、市内見物から戻って来たら私の話をしよう。どこが
 嘘か、いちいち指摘しながら話すから、まずは軽い気分で外出してくるように」
・こういう話を聞いてから外出が、軽い気分でできるはずがなかった。
 しかし実は、私の心の中はソウルについての好奇心でいっぱいだった。  
 はじめてソウルに着いたとき、南山にくる途中、車のなかで聞いた歌の歌詞が浮かんだ。
 「美しいソウルで、美しいソウルで暮らします」
 そのときも、ソウルは本当に美しいだろうか、と思ったものだ。
・外出するようにいわれたときには気が進まなかったが、いざ外出するために買ってもら
 った黒のワンピースに着替えるときは少し興奮した。
 新しい服を着て、初めて学校に行く小学生みたいに浮き浮きした。
・バーレーンで15日間、そしてここにきて1週間以上も、外界と断絶された生活をした。
 不安と恐怖に怯えながら、またみずからの葛藤に苦しんだ末だったので、明日死ぬこと
 になっても太陽の光を浴びて、思う存分手足を伸ばしてみたかった。
 話しだけ聞いていたソウルの街に出るということで、少しは胸騒ぎがした。
・北で聞いたように、汚くて、乞食と娼婦がうじゃうじゃし、ファッショが幅を利かせ、
 外国人でごったがえしているソウルだけが見たかった。
 それでこそ私の闘争心はいっそう燃え上がるだろうから。
・ソウルでのはじめての外出・・・。
 それが私にとって決定的な罠になるとは、予想もできないことだった。
 ただ一度のソウルでの外出が、私の固い意志を根こそぎ揺さぶるようになるとは。
・わたしを乗せた車が人気のない山道を走っていたとき、私は「いま、平壌で招待所を移
 動しているのではないか」という錯覚に陥った。
 それほどどこか北と同じ感じがした。
 はじめて南朝鮮の飛行機からソウルの金浦空港に降りたときも、そういう印象を受けた。
 私は、徒らに外出するのではなかった、と後悔した。
 南朝鮮と北朝鮮との同質性を感じるということは、そのときの私にとって得にならない
 からであった。 
・しかし、市内に近づいてくると、つかの間の錯覚はたちまちにして消えてしまった。
 自動車の波、それは文字どおり、波だった。
 西欧社会も見てきたが、こんなに広い道をぜんぶ覆ってしまうくらいの多くの車の行列
 を見たことがなかった。
・開いた口がふさがらず、びっくり仰天して車を運転している人たちを注意深く観察した。
 みんなが外国人ではなく、朝鮮人だった。
 そのとき、捜査官がそばで口を挟んだ。
 「あれはバス、あの車の上に表示のあるのがタクシー、そしてあれは自家用車、自家用
 車もお金のある人は運転手を雇うけど、ほとんどは自分で運転している。あの車はみん
 な私たちが生産したものなんだ。この頃は乞食も車をもって物乞いをするといわれるほ
 ど、家ごとに車一台くらいはあるよ。こうなると今度は道路と駐車場が深刻な社会問題
 になってしまった」 
・捜査官の説明ぬきでも、私たちの乗った車は自動車の波のなかで走っては止まり、止ま
 っては走った。
 運転している人々のなかにはおしゃれな女性もかなりいたので、まったくびっくりした。
・北では乗用車はみんな党か省(政務院)機関の高官が乗っていたので、学生時代は通り
 すぎる乗用車に向かってひたすらお辞儀をした。
 運転手は若い人が羨望する職業の一つだった。
 女はトロリーバスの運転くらいまでで、乗用車の運転は夢にも考えられなかった。
 外出の始まりからいじけて、肩の力が落ちた。
・とくに私を悩ませたのは、数多くの看板だった。
 車窓の外に見える看板の行列を眺めていると、目まぐるしくて車酔いをするほどだった。
・道行く人々の活気に満ちた表情と態度、各人各様のめかし込んだ身なりも印象的だった
 が、私の心をくつがえしたのは自動車でも、服装でも、看板でもなかった。
 自動車が信号待ちをしている間、街の露天商を見て私は衝撃を受けた。
 私は北で、南朝鮮では最下層階級に属するのが露天商だと聞いていた。
 その下層階級の露天商が売っているものが、私の視線を釘付けにした。
 高級時計を並べて売っているかと思うと、高級な家具、服、靴などを売っている露天商
 もいた。  
・北では、夢にも見られない空想の世界だった。
 北だったら、農民市場に時計を一つ持っていって売っただけで、5人家族が何カ月も生
 活できるお金になる。 
 あれを売るとすごい金額になるはずなのに、なぜ下層階級だというのか。
 私が知っている社会構造の考え方では、理解のしようがなかった。
 ただ、混乱するだけだった。
・自白した後、ソウルでの初外出の感想を書いて提出したことがあるが、それをここで紹
 介しよう。 
 あのとき、あまりにも興奮したため、筋の通らないまま書き下ろしたものである。
 しかしそのときの心境を率直に述べたものなので、ここに書き移すことにしよう。
 「私はもっとも平凡で一般的な人民が生活しているいろいろな所を見てまわって、多く
  のことを感じました。街の至るところに満ち溢れる、こざっぱりとしたきれいな国際
  品と豊富な食料品、そしてそれをうるために働く人々の親切と明るい顔、このような
  現象は北朝鮮とはあまりにも異なるものです。他の発達した資本主義社会とくらべて
  も勝とも劣りません。人民の福利の増進のために、国の政治、経済が協力しているこ
  とに深い感銘を受けました。
  街の施設も最新のもので、現代的につくられ、人民の生活に役立つように利用されて
  いるのを見ました。そういう点をとくに強調している平壌と比べようとしても、あま
  りの差にくらべようがないことがわかりました。南朝鮮の優越性をはっきりと知りま
  した。私が北朝鮮で聞き、学び、考えたこととはあまりにもかけ離れた現象ばかりで、
  これまで裏切られてきたという思いもあって、この地に対する肯定の気持ちが生まれ、
  それを抑えることができませんでした。
  私はソウルの一部だけを見たので、全体についてはよくわかりませんが、それが一部
  分であれ、それを通じて、ここは人民が思い切り能力を発揮して幸せに暮らせる地上
  楽園のような気がします。一方、北朝鮮がどんなに厳格で不自由な社会なのか、わか
  るようになりました。
  そして、西側資本主義国家に出かけるたびに、いつも私たちの低い生活環境が恥ずか
  しかったのですが、我が民族のなかにもこのように素晴らしい生活をしているところ
  があることがわかって、民族的自負心で胸がいっぱいになりました。このように発展
  した社会を作り上げるために、いままでどんなにご苦労があったのでしょうか。本当
  にご苦労様でした」
・これは拙い文章だが、あのとき私がソウルについて感じた正直な印象である。
 しかし、初外出を終えて南山の取調室へ戻る自動車の中では、外出しなければよかった
 という後悔でいっぱいだった。

すべてを告白します
・ソウルの街に出たのは、私の大きな過ちだった。
 取り返しのつかないことになってしまった。
 取調室に戻り、興奮と苛立たしさでおろおろしていると、捜査官が私を呼んで座らせた。
 彼は私の胸をはだけるように、いままで私がついてきた嘘を指摘しはじめた。
・私は服を一つ一つ脱がされ、裸にされたような恥ずかしさをおぼえ、耳を覆いたくなっ
 た。
 それ以上聞く必要もなかったし、それ以上聞きたくもなかった。
 羞恥心と怒りと申し訳なさ・・・私は複雑で微妙な感情に包まれた。
・寝ようとしたが、一睡もできなかった。
 私のことで苦しむであろう家族に思いをはせ、そのことが一番心を痛めた。
 私を愛してくれた家族を助けられないどころか、逆に苦しみをあたえるということが耐
 えられなかった。 
・「もうこれ以上何もいわないとしても、絶対生き残れないだろう」
 私は、決定を下さなければならないときがきたと判断した。
 「本当のことをいったら、生き残れるだろうか。もっと難しくなるだろう」
 いままで私の正体を探ろうとじっと我慢してきたが、私が北朝鮮工作員で飛行機を爆破
 したことがわかったら、直ちに態度を変えるに違いない。
 彼らがもっとも憎しみ、敵対している北朝鮮の工作員で、多くの同胞を死なせた犯人だ
 とわかったら、それこそどんな目にあうか・・・。
 どうすることもできなくて、気が狂ってしまいそうだった。
 当然、考えがまとまらなかった。
 自分の生きる道をさがしてみたり、家族の生きる道を求めてみたり、すべてをあきらめ
 てみたり、居ても立っても居られなかった。
 「私が秘密を全部喋ってしまったら、家族はどうなるだろう。また、家族や友達は祖国
 に背いた私をどう思うだろうか」
・このとき、私にとってもっとも大きな悩みは、北にいる家族の問題だった。
 わたし一人死んでしまえば、家族は最高の待遇を受けられるはずなのに・・・。
 私は本当に家族のためにも死にたかった。
 「首領様と祖国のためにこの身をささげる」とい名分で、家族4人の生命が助けられる
 ものなら、どうしてそれを拒むだろう。
・すべてをいうから、私を殺してください。私が最後までなにもいわずに死んだという噂
 だけを流してくれれば、いますぐにでもすべてを話します!」
 とすがってみたらどうだろうか。
 それは不可能だ。
 私をここまで生かしてきたのは、自分の口からその秘密を人々の前でつぶさに告白させ
 るためだから、そうたやすく死なせるはずがない。ため息ばかりこぼれた。
・「北から来た人々の一番大きい悩みが家族問題だというのを私たちはよくわかっている。
 あなたもこの問題がいちばん知りたくて、心配になっているだろう。私たちも家族を持
 っているから、その心はわからなくもない。
 しかし、その問題はあなたがやった行為の正当性をただした後の考えるべきだよ。
 飛行機に乗っていた人はみんなで115名で、彼らは政治、思想、理念とは何の関係も
 ない真面目な勤労者だったということをどう思っているのか。
 その恐ろしい罪を隠すために、あなたは死のうとしたんだよ。
 あなたはそれを実行したときも、自分の組織のために正しいことをやったと思っただろ
 う。しかし、いまは目を覚ますときだよ。いや、もうすでに覚ましただろう。
 だったら、あなたは果敢に生後の側に立たなければならない。これは決して裏切り者に
 なるということじゃない。あなたがもし正義の道を選ぶなら、あなたの家族は犠牲を受
 け入れるに違いない。
 あなたはだまされたのだから、だました人たちのためにこれ以上悩む必要なんかない」
・捜査官の話はおよそ3時間くらい続いた。
 同じ内容の繰り返しだったが、その言葉を聞く感じは昨日と今日、朝と昼とでは違って
 きた。少し前までは祖国と民族のために偉大なことをしたとみずからを誇らしく思って
 いたが、それが一つ一つ崩れ落ちた。
 私のしたことは、罪のない人民を犠牲にした、単なる殺人に過ぎなかったという罪悪感
 だけが残ろうとしていた。
 話しをはじめる勇気さえも出てこなかった。
・私が決心がつかずぐずぐずためらっていると、女性捜査官と他の捜査官はみんな部屋か
 ら出て、年配の捜査官二人だけがのこった。
 娘に接している父のように、ひとりが静かに語り始めた。
 驚くことに朝鮮語であった。
 「あなたがわかるかどうか知らないけれど、韓国語で話そう。あなたもいきなり話をす
 るのは気まずいだろう。では、夕食の前にまず名前だけでも教えてくれたらどうかな。
 人と人が会ったら、まず名前をいって挨拶するのが礼儀だろう」
・私は彼の言葉を、水に溺れた人に投げてくれる救命具のような気分で受け入れた。
 どうしてそんなに人の心の動きがわかるのか感心したくらいだった。
 この機会を逃したらもっと言い出しにくくなりそうだったので、私は恐る恐る口を開け
 た。 
 他人が適当につけた日本名の「真由美」から、架空の中国人娘百翠恵になり、いまにな
 って朝鮮民族の「金賢姫」に戻ると思うと目頭が熱くなった。
 名前  :金賢姫
 生年月日:1962年1月27日生まれ
・話し終えると涙が溢れ出た。
 このように哀れな身になるために、あの山奥の招待所で8年間もあらゆる苦労を我慢し
 てきたのか。 
 このような哀しい結末を迎えるために、溌剌として素直だった青春のすべてを費やした
 のか。
 このような意味のないことのために、殺人まで犯したのか。
 私は虚しさのあまり、涙を流した。
 私の小さい身体があまりにもあまりにも惨めだった。
・結局、彼らと私の勝負は、私の敗北で終わったのだと思った。
 長かった戦いの日々が虚しく終わってしまったいま、敗北者の卑屈な姿を見せたくはな
 かった。 
 死のうが生きようが毅然とした行動をとりたかった。
 罪を犯したことに対して堂々としたかったのではない。
 少なくとも、生き残るために卑怯な行動はとるまいという意味だった。
・勝負には敗けたが、彼らと私とでは最初から競争相手にはならないくらい、彼らが優れ
 ていたと認めざるをえなかった。
 彼らの根気と知恵と人間的な愛が私を屈伏させた。
 南朝鮮の特務たちの優れた能力に、私は手を挙げてしまった。
・「今晩、夜を明かしても、話を全部、終わらせたいがどうだろう。できるかな?」
 「はい、私もそうしたいんです」
 私は快く同意した。
 話が出たついでに、私はすべてを告白したかった。
 もし話が途切れ一晩が過ぎると、心変わりをしてしまいそうで不安だった。
・私が知っているかぎりでは、捜査官たちの最大の関心事は、唯一KAL機の爆破事件だ
 ったはずだ。
 「あなたが爆破したのは事実だろう?」
 だれもが真っ先に聞きたいだろうが、捜査官はそうしなかった。
 いきなり事件について訊かずに、私の生い立ちから話を誘導していった。
 その方法は効果的だったと思う。
 人間と人間の信頼を築き上げた後、事件について探ろうとしているようだった。
 そうすれば、何の嘘いつわりもない事件の全貌がすべて明らかになるからである。
 南朝鮮の特務たちは考え深い人たちのようだ。
 
緊急の帰国命令
・「私は平壌で生まれましたが、赤ん坊のころに母に抱かれてキューバに渡りました。
 外交部に勤めていた父が、キューバ大使館に転勤を命ぜられたためです。
 そして1967年に家族全員で帰国しました。
 私は金日成総合大学に入学して一年間通いました。
 しかし父の『いまは外国語を必要とする時代だ』という言葉にしたがって、1978年
 に平壌外国語大学の日本語科に入りなおしました。
 もしそのとき、私が金日成総合大学の生物学科にそのまま通っていれば、工作員として
 選ばれなかったかもしれないと思ったりします。
 また他人より日本語ができなかったら、選抜対象から外されたかもしれません。
 しかし、これらのすべてが私の運命であったとすれば、いまこのように、ここにいるの
 は仕方のないこでしょう。
 1980年3月のある日、大学二年生であった私は、突然労働党調査部の工作員に選ば
 れ、家を離れることになりました」
・いよいよ工作任務を受けて金勝一とKAL機を爆破したことを述べなければならない時
 間がやってきた。 
 事件と直接関係しているためか、いままでのように話ができなくなった。
 喉がつまって涙が溢れた。
・彼らは30分もかけて私を慰めてくれた。
 だいぶ夜が更けたが、取調室の雰囲気は夜とは思えないくらい、緊張感が張りつめてい
 た。涙を拭いて、ふたたび話し始めた。
 「私と金勝一はKAL858便に乗りました。そして飛行機の棚の上に、9時間後に爆
 発するように仕掛けた時限爆弾をおいてアブダビ空港で降りました」
・私は結論から話した。
 それからKAK便爆破の任務の実行過程を説明した。
 「海外旅行の実習に一緒に行ってきた金勝一と合流することになりました。その夜、
 体外情報調査部の李某が訪ねてきて、私たちに新しい任務をあたえました。
 二つの挑戦を認めることになる88ソウル・オリンピックを阻止するために、南朝鮮の
 飛行機を”消せ”ということでした。
 この任務を与えられた私たちは15日間かけて計画を立て、”路程”(道順)を研究する
 準備作業に追われました。
・私たちは東ドイツとの間に直行路線が開設されたので、その初飛行の朝鮮航空機に乗っ
 て平壌を離れました。
 平壌を出てモスクワ、ブダペスト、ウィーン、ベオグラードを通ってバグダッドへ行き
 ました。
 ブダペストまでは担当の崔課長と崔指導員が同行しました。
 そしてベオグラードで崔課長たちから時限爆弾のラジオと液体爆薬入りのビンを渡され
 ました。
 バグダッド空港でその爆弾を9時間後に爆発するように仕掛けてからKAL機に乗りま
 した。そしてそれを飛行機の棚においたままアブダビで降りました。
・アブダビ空港からはローマに行き、ローマからウィーンを経由して北朝鮮へ帰る予定で
 した。
 しかし、アブダビ空港で係員がバーレーン行のチェックインをしてくれたために、しか
 たなくバーレーンに行くことになりました。
 バーレーンで飛行機を待っている間に事件が発覚し、平壌から持ってきた毒薬入りのア
 ンプル噛んで自殺をしようとしたのです」
・私はそこで話を中断するわけにはいかなかった。
 私の犯したことがどういうことであるかを打ち明けないではいられなかった。
 生唾を飲み込んで、また話を続けた。
 「私と金勝一が飛行機に乗っていた人々を殺しました。私も死にたいんです」
・私は本当に死にたかった。
 自分がしでかしたことを取り消せたら取り消したい。
 しかし、ことは覆水盆に返らずだった。
 私は両手で顔を覆い、泣きだした。
   
さよなら、平壌
・「部長は、声を一段と下げて次のような支持を与えました。
 『結論からいおう。今回遂行しなければならない任務は南朝鮮の飛行機を落とすことだ』
 私はその瞬間、わが身を疑いました。
 予想外のことでドキッとしました。
 任務の内容を聞いただけで、すでに胸が震え、恐れを感じました。
・われわれの計画は何度かの修正を課さ円、出発まぎわになって完成された。
 その内容は次の通りである。
 ・工作目標 :バクダッド発アブダビ経由のソウル行大韓航空858便
 ・工作組編成:工作組長・金勝一、工作組員・金玉花
 ・案内組編成:案内組長・崔課長、案内組員・崔指導員
 ・工作組はウィーンで滞在する間に日本旅券を使用し、いかにも日本人父娘の観光客ら
  しく装って観光をしながら戦闘地浸透路航空券と復帰路航空券を購入する。
 ・浸透路航空券:ウィーン→ベオグラード→バクダッド→アブダビ→バーレーンを購入
  するが、バグダッドで大韓航空858便に搭乗してアブダビで降りるように準備し、
  アブダビ→バーレーン間の航空券は偽造航路であることを忘れぬこと。
 ・復帰路航空券:アブダビ→アンマン→ローマ行航空券を別途購入する。
 ・バグダッド空港で大韓航空858便に乗り換えるため2時間あまり待機する。
  その間、爆破用トランジスターラジオを作動させる。
 ・爆破用トランジスターラジオの作動操作は9時間後に爆破するようにセットされてい
  る固定位置にスイッチを入れることを原則とするが、状況が変動すれば任意に時間を
  調節して作動させる。  
 ・トランジスターラジオの作動は金勝一が行うことを原則とするが、金勝一が作動でき
  ない状況になれば、金玉花が行なう。
 ・バグダッドで大韓航空858搭乗後、爆破機材を座席の上の棚におき、アブダビで降
  りるときはそのままにする。
  もしも降りるときに発覚すれば、自分の荷物ではないと偽装する。
 ・爆破が成功すれば、アブダビ、バーレーンなどの地において捜査が行われるはずなの
  で、バーレーンには行かず、保税区域で待機してからアブダビより出発するヨルダン
  航空便アリタリア航空便を利用してローマに発つ。
  ローマについて羅、適当なホテルに泊まり、二泊三日の間、父娘観光客に偽装して観
  光しながら休息する。  
 ・アリタリア航空にてローマを出発、ウィーンにつき、案内組と再合流後、案内組長の
  指示にしがたい平壌に復帰する。
・そのように綿密に作られて計画表どおりにいっていれば、私はいま、平壌にいるはずで
 ある。
 しかし、いつも人生には予期しなかったことが起きるものだ。
 KAL858便に爆破機材をのせておいてからアブダビで降りるまでは万事順調に進行
 して、金勝一と私は、若干の自信をもち始めた。
 しかし、任務に成功したと考えた瞬間、その場所で決定的な問題が起きたのである。
・人生とはまったく不思議なものだ。
 計画通りにわれわれがアブダビからローマに発っていれば、任務遂行は完全無欠に終わ
 っていただろう。  
 航空職員がアブダビから次の路線への航空券を直接チェックインしてくれたことによっ
 て、事がこじれてゆくことになったのである。
・工作計画を討論する過程において、崔課長と金先生はときどきはげしい口論をした。
 くわしい内容は知らないが互いに意見が衝突しているようであった。
 私は主として一階で日本語の学習をしていたので、二階で二人が口論している内容を具
 体的に聞くことはできなかったが、時々聞こえてくる言葉から察すれば、今回の路程に
 は問題があるというのが、金勝一の主張であった。
・彼がいうには、今回のルートのなかには、イラン・イラク間での戦争地域があり、爆発
 物を持って行くにはあまりにも危険が多すぎるということであった。
 「万が一、問題が起こったときには、玉花と私だけではなく共和国全体が困難な立場に
 陥ることだってありえますよ。あなたがすべて責任をとるというのですかね」
 金勝一は神経質に問い詰めた。
 そのたびごとに崔課長の言葉は同じだった。
 「今回の任務については異議を唱えないでくださいよ。われわれも命令に従うだけなの
 ですから」  
 そういわれるよ、金勝一は返す言葉がなかった。
・われわれが平壌を発つ1週間前に、崔指導員が最悪の場合の秘密保持のために使用する
 ようにと、毒薬アンプルが入ったタバコを差し出したときには、本当に気分がよくなか
 った。 
 崔指導員はちょっとためらったのち、話しを切り出した。
 「われわれは今回、偉大なる首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志の信任と配慮
 で、きわめて重要な戦闘課業(任務)を遂行することになりました。このように重要な
 戦闘課業の遂行中にわれわれの正体が暴露された場合には、死をもって親愛なる指導者
 同志の権威と威信を“保障しなければならないはずです」
・崔指導員は米国製マールボロを2箱、差し出した。
 「このタバコは、タバコとフィルターとの間に毒薬のアンプルが入っています。そのア
 ンプルのなかには液体が入っているように見えますが、噛んだ瞬間に気化し、自然に体
 内に吸い込まれ、即死するようになっています。
 最悪の場合には、タバコを吸うように見せかけながらフィルターの前の部分を噛めばよ
 いのです」 
 彼は、その2箱のタバコを金先生に渡した。
・平壌を発つ前日、金賢姫が生活の拠点にしていた招待所の料理係のおばさんと多くのこ
 とを語り合った。そのとき、彼女は私をじっと見つめてから、
 「まあまあ、美しく生まれついたばっかりに。醜い娘ならこんなにもったいなくはない
 のに・・・勉強をちょっとさぼってもよいものを、なんでそんなに一生懸命したのさ・
 ・・このまんま良いむこさんに嫁いで暮らしたらどんなによいから」
 と独り言のようにつぶやいた。
・金勝一には7人の子供がいて、結婚した末娘も30歳を超しているという。
 過去に工作活動から身をひいて社会生活をしていたが、1984年にまた工作員として
 召喚された
 
ウィーンで買った航空券
・飛行機はモスクワに到着した。
 荷物を受け取った後、税関を通過するようになっているが、モスクワ空港は、他のどの
 国より警戒が厳しくてこうるさい検査をするところであった。
 荷物ひとつひとつをX線で透視して、それでも疑わしいと思うと全部なかの品物を取り
 出して、確認してから通過させた。
 爆発物を持っていた崔課長は、外交官だけが通過できる検査所に行って外交旅券を提示
 して、何の検査も受けずに無事に通過した。
・モスクワ駐在の指導員はあちこち回ってチケットを探したようだが、モスクワ発ブダペ
 スト行は、国際会議が開かれているとかで売れ切れになったとのことであった。
 「今晩中にブダペストへ行く飛行機があるが、それでいかがですか」
 指導員が崔課長にいった。
 「かえってその方がいいだろう」
 私たちは予定より早く出発する方が遅く発つよりよいと判断し、その場でその飛行機に
 決めた。
・夕食後、崔課長と崔指導員は、モスクワでくり上がった日程をどこで調整するかを議論
 していた。
 議論の結果、ブダペストが適当だと決定された。
・一行はブダペストへ発つソ連の航空機に乗った。
 飛行機には乗客が半分しか乗っていなかった。
 最初からスケジュールどおり進まず、日程が変更されたので先が思いやられた。
・私たちがウィーンでなすべき最初の仕事は、これからのルートの航空券を購入すること
 であった。  
 航空券の購入は任務の基本であった。
 ここで蹉跌が生じたら、万事休すであった。
 私たちはオーストリア航空会社の位置を地図で確かめたのち、1時間ほど休憩をとった。
・オーストリア航空会社の中には女性客がひとりだけで閑散としていた。
 まず来客用の椅子に座って、どこにおいてあるABC航空時刻表を取り、招待所で研究
 して計画した時間と合っているかどうかを確認した。
 金先生は私たちが検討した時間とまったく音字だと満足した表情を見せた。
 彼は航空会社のメモ用紙に私たちが搭乗する飛行機の航空路と日時を書いて男性の職員
 に提示し、この通りに予約できるかどうか確かめてくれと頼んだ。
・その男性は画面に文字が出るコンピューターのキーを叩いた。
 いくつかの航空便は向こうから連絡が来なければわからないといいながら、たぶん大丈
 夫だろうといった。
・私はこのとき、タイプライターのようにつくられた機械を使って、その複雑な予約状況
 を確かめるコンピューター・システムに本当におどろいた。
 私の祖国はいつになったら、こんなふうに発展するのだろうと羨ましく思った。
・部屋に帰って、アブダビからローマへの脱出する航空路、時間を再確認した。
 オーストリア航空で航空券を購入すれば、すぐアリタリア航空に行って脱出航空路であ
 るローマへ行く航空券を購入する予定であった。
 
KAL858便に搭乗
・ベオグラードの第一印象は、無秩序だということだった。
 ウィーンからユーゴスラビアのベオグラードまではわずか2時間半足らずなのに、ウィ
 ーンとベオグラードの印象には雲泥の差があった。
 ウィーンはきれいで心地よかったのだが、ベオグラードは薄暗く、さびしい感じがした。
 空港からしてそうだった。
・ベオグラード空港では、意外と入国審査は簡単だった。
 税関で日本のパスポートを出すと、何も言わずに入国のスタンプを押してくれた。
 税関を通るときも、私たちにはあまり厳しくなかった。
・とうとう案内班の崔課長、崔指導員に会う予定の日、つまり戦闘開始の前日の夕方にな
 った。   
 早めに夕食をすませ、ホテルのロビーに座ってくつろぎながら、7時になるのを待った。
 10分前に金先生をロビーに残し、私はホテルの正門に出てオーストリアはらユーゴス
 ラビアに入国した崔課長と崔指導員を待った。
・ホテルの外で女ひとりがうろうろしているのも他人の目につきやすいので、ホテル内の
 焦点のショーウィンドウをのぞきながら、ガラス窓に移る姿を見ていた。
 7時になると、タクシーが1台つき、崔課長と崔指導員が降りた。
 彼らを金先生の待っているホテルのロビーに案内し、私たちは一緒に部屋に戻った。
・崔課長は空港の免税店などで商品を入れてくれるビニール製のショッピングバックを私
 たちの前に差し出した。  
 「爆破用ラジオを持ってきたから、私たちが帰ったあと確認してください」
・彼らは必要なことだけ簡単に話して、席を立った。
 私たちがみんなで外に出るとホテル側に注目されるから、金先生はそのまま部屋で別れ
 の挨拶をし、私だけがホテルの入口まで見送った。
・金先生は崔課長たちがおいていったショッピングバッグの中のものをテーブルの上に取
 り出した。  
 そのなかには、私が以前招待所で作動練習をしたことのあるトランジスターラジオと、
 金先生が毎日飲んでいる薬のビンとまったく同じ薬酒ビンがあった。
・「この酒のビンに入っている液体爆薬は、このラジオが爆発するときに同時に爆発して
 威力を高めるものだから、いつもラジオと薬酒ビンは一緒においておかなければならな
 いんだ」 
 彼は万一のときのためか、私ひとりでも任務を遂行できるように詳しく説明した。
 「そして爆破用ラジオに入っている電池は他のものと取り替えはできないから、絶対な
 くしてはならないんだよ。わかったね」
・ベオグラード空港に着いて、人込みをかくわけて発着時間案内板を見た。
 私たちの乗るバグダッド行の出発時間は提示に表示されていたが、私たちはもう一度確
 かめた。
 時間がずいぶん余っているんで、二階のコーヒーショップに入り、コーヒーとお菓子を
 食べながら崔課長と崔指導員を待った。12時きっかりに崔課長と崔指導員があらわれ
 た。一緒にお茶を飲みながら発着時間案内板を注視した。
 しかし、出発1時間前になってもバグダッド行案内表示は出てこなかった。
 私たちの乗る飛行機より遅く出発する便の案内はすでに表示されているのに。
・なにか手違いが生じたのではないかと不安に怯え、金先生がよろよろ歩きで急いで航空
 案内所に問い合わせに行った。
 しばらくして、金先生があかるい表情で戻ってきた。
 彼の手には手続きの終わった航空券が握られていた。
 バグダッド行イラク航空226便は定時に出発するが、案内板が壊れたそうだ。
・私たちが前もって財布と旅券を取り出して順番を待っていると、職員のひとりが私たち
 が持った日本の旅券の表紙を見るや、混まない窓口に呼び旅券にざっと目を通してから
 通過の合図をした。
 ここでも私たちは経済大国としての日本の威勢を改めて実感した。
 先に飛行機に乗ると他の人々の視線を集めるのではないかと、免税店を見てまわりなが
 ら時間を少しつぶした。
 搭乗客がある程度飛行機に乗った後、私たちも後についてイラク航空の搭乗口にいった。
 航空機の入口でも軍服のようなものを着た男女乗務員が所持品と身体の検査をした。
・女性乗務員は私をカーテンの仕切りの中に連れて行って、カバンとビニール・ショッピ
 ングバックをひっくり返して、所持品を取り出し、いちいちチェックした。
 女性乗務員はトランジスターラジオから電池四個を取り外した。
 「飛行機内にはどのような電池も持ち込むことはできませんので、私たちがお預かりし
 て、飛行機からお降りの際にお返しします」
 といいながら、小さいビニール袋にそれを入れた。
 それから、再び私の身体を手探りでチェックした。
 私は身体を彼女に任せながらも、他の電池と混ざったらどうしようという心配で、電池
 にだけ気をつかった。 
 まったく計算に入れなかったことだったから、心配で心配でならなかった。
 金先生も席に座りながら、自分もひげそりの電池をとられたという。
・金先生に心配そうに相談したら、彼は「私たちのものを別の袋に入れてもらって」と指
 示した。
 私がスチュワーデスに他のものと混同させないようにと頼むと、彼女は目を丸くして私
 たちの電池を出してみせた。
 「オー、イエス、これがあなたのものでしょう。絶対まぎれこむことなどありません」
 彼女は自信たっぷりに答えた。
 私たちの電池は外観からは他のものと変わりがなかったが、電池をつつんでいる透明テ
 ープを軽く引っかいて傷をつけておいたので、すぐに見分けることができた。  
・その日の夕方、バグダッド空港に到着した。
 飛行機が停止しると、スチュワーデスが通化旅客は手を挙げるように、という。
 私たちのほかにも西洋人の男女がいた。
 乗務員は通過旅客はそのまま席に座って待って、他の客は降りてくださいといった。
・さきほどのスチュワーデスが「これに間違いないでしょう」と確認までして、電池四個
 を返してくれた。
 それを薄い青色のビニール・ショッピングバックに入れながら、私たちは本当に危なか
 ったとため息をついた。
・バグダッド空港に着くと、ここでもやはり戦争地域だけあって、検査が厳しかった。
 女性案内員が通過旅客と降りる旅客とを区別して案内した。
 私たちは西洋人の男女二人と一緒に待合室にいって、待った。
 30分ぐらいたつと、太った女性案内人がきて、私たちを保安検査台に連れて行った。
 男子と女子にわけて荷物だけでなく、身体を隅々まで検査した。
・ここでもまた、ビニールバッグに入った電池四個が問題になった。
 女性検査員は、
 「ここの空港では、絶対電池を機内に持ち込めない」
 といって、電池を取り上げて返してくれなかった。
 私が泣き出しそうな顔で返してくれるように頼んでも、この人は頑としてきかなかった。
 最後にはこんな電池くらいで、なぜそんなに哀願するのか、変に思ったようだった。
・しかし、私にとってその電池をとられるときは、すべてが終わるときだった。
 私に与えられた最大の任務が失敗に終わり、結局は当と首領様の信任と配慮に背く結果
 になってしまうという切羽詰まった状況だったので、命がけですがった。
・そうこうしているうちに、たまたま検査を先に終えた金先生が女性検査室の方にきた。
 彼を見た瞬間、まさに神様に会ったような気がした。
 金先生に走り寄って、前後の事情を話していると、
 そお検査員が電池を検査室の前のゴミ箱に投げ捨ててしまった。
 私はゴミ箱へ走っていって、そのなかをのぞいた。
 幸い他のゴミはなく、電池四個だけだった。
 すばやく電池を取り出し、金先生に渡した。
 彼はラジオに電池を入れ、ラジオをつけて音が出るのを確認した後、検査員に抗議した。
 「この音を聞いて。これはただのラジオ用電池だ。なぜ、ここでだけ特別に個人の所持
 品を取り締まるのか。厳しすぎて不愉快だ」  
・金先生が日本語で強く抗議すると、私にはあんなにきっばり断った女性検察官は電池を
 持って行くことを黙認した。
 そばでこの光景を見守っていた男の検査官がよってきて、
 「すまない。ここの規則だから、わかってくれ」
 と誤り、ゴミ箱を探して汚れた手を洗うよう、私にトイレまで教えてくれた。
・また女性案内人についていくと、また検査台があった。
 ここでも徹底して検査をするのは同じだった。
 ここでは金先生が電池を持っていたが、無事に通った。
 私は金先生がどうやって無事に通ったかを知りたかった。
 どうやったのかを訊いたら、金先生は電池を腹巻きにいれて別に問題はなかったと答え
 た。 
 金先生もさんざん冷や汗をかいたらしく「ここは戦争地域だから困難が多いと説明した
 のに・・・」とつぶやき、露骨に不満をこぼしていた。
・金先生はKAL機に搭乗する20分前に、ラジオを出して電池を入れ放送を聞いてみた
 後、9時間後に爆発するようにアラームスイッチを真ん中ほどに合わせ、再びビニール
 バックのなかに入れた。
 私は先生がラジオを動作させる手つきを見て、ほとんど息がとまるような緊迫感につつ
 まれた。 
・スイッチを操作する金先生の指先がかすかに震えた。
 そのスイッチ一つがどれほど多くの人々の運命を変え、どれほど大きい衝撃と悲しみを
 あたえるかは、そのときは想像もしなかった。
 ただ、私たちが無事に任務を成し遂げることで、党と金日成、金正日の信任と配慮に応
 えなければならないという一念だけだった。
 彼の手が震え、私が息をひそめたのは、ただただ発覚することなく任務を終わらせよう
 とする不安からであって、罪悪感からではなかった。
・飛行機へ向かうバスに乗ると、完全に南朝鮮の人々に囲まれた。
 飛行機までの距離は短かったが、かなりの時間がかかっているように感じた。
 バスから降りながら、明るいライトを受けているKAL機を目にしたが、けっこう立派
 な飛行機だった。 
・私たちの隣りの席には、幸いにも南朝鮮の人ではなく30代半ばくらいの西洋人の女性
 が座った。南朝鮮の人だったら、もっと困惑しただろう。
・金先生は座席の上にある棚に、爆発物の入ったショッピングバッグと私たちのカバンを
 乗せた。 
 私は席に座ってからすぐ、安全ベルトをしめて目を閉じてしまった。
・飛行機は定時に離陸した。
 南朝鮮の乗客は、そのほとんどが勤労者のようで、帰国する楽しみからか、機内はすこ
 し騒然としていた。
・すこし時間がたってから、飲料水と機内食が配られた。
 私たち二人は食事に手をつけるふりをしただけで、何も食べなかった。
 また、食べる気にもならなかった。
・食事後、隣の西洋人の女性がトイレに立ったとき、私もトイレに行ってきた。
 トイレにいく間も、ただ飛行機のフロアを見て歩くのが精一杯で、棚を見上げる勇気は
 なかった。
・飛行機はエンジンの音が大きく聞こえるだけで、中空に止まっているように感じられた。
 外を見ても夜空に止まっているようだった。
 棚の上のビニール袋にすべての神経が集中していたが、見上げることができなかった。
 上から押さえつけられているようで、頭もあげられないくらい圧迫感を感じた。
・とうとう飛行機がまもなくアブダビ空港に着陸する予定なので、安全ベルトを着用する
 ようにとの機内放送が流れた。
 金先生と私は、だれが先でもなく同時にお互いの顔を見合わせた。
 飛行機がガタンと音をたてて着陸し、すぐ止まった。
 飛行機の着地の音で、心臓が止まりそうになった。
・飛行機内の上客がみんな立ち上がって出る支度をしていて、機内はとても混雑した。
 私たちもその混雑を利用して、急いで棚のドアを開けてカバンを取り出した。
 爆発物の入ったビニールバッグが山よりも大きく映った。
 隣に座っていた西洋人の女性も、荷物を持って私たちの後ろに立っていた。
・早くその場を離れたいのに、通路の列はなかなか進まなかった。
 ほとんどの朝鮮人の人は荷物を置いたまま、手ぶらで降りた。
・飛行機から降りると、アブダビ空港の係員が立っていて、乗り換えの乗客からは航空券
 と旅券を集め、降りて再び乗る朝鮮人には黄色いカードを渡した。
 金先生と私は当惑した。
・当初の路程計画では、アブダビ空港到着後、すぐに航空会社を通じて搭乗手続きをすま
 せ、アブダビ→アンマン→ローマ行のヨルダン航空とアリタリア航空便でローマへ向か
 う予定だった。
 しかし、まったく予期しなかったことが起こった。
・空港係員が航空券の提示を要求した。
 もし、乗ってきた飛行機が目の前にある状況で、アブダビ→アンマン→ローマ行航空券
 を提示すれば、すぐ怪しまれるに違いない。
 また、ローマ行の航空券はアブダビが出田地になっていて、原則的には通過ビザをもら
 い、一応アブダビ空港でアラブ首長国に入国する形をとってから、飛行機に乗らなけれ
 ばならなかった。 
 しかし、アラブ首長国は日本と協定を結んでいないため通過ビザがもらえないという
 (平壌での路程研究のとき)事前知識を持っていた私たちは、空港係員に乗ってきた航
 空券(ウィーン→バグダッド→アブダビ→バーレーン)を見せるしかなかった。
・航空券の回収は、平壌での路程研究のときにもまったく予期せぬことだった。
 他の空港では、通過旅客から航空券を回収することはなかった。
 その係員は私たちを通過旅客待合室で待たせて、代わりに手続きをしてくれるといって
 消えた。 
・ことが思わぬ方向にこじれてしまいそうで、胸がつまるような気がした。
 少し時間が経つと、南朝鮮の人たちが、飛行機の出発時刻になって続々と出て行った。
 私たちはいまおかれた状況を忘れて、喜びの視線を交わした。
 「とうとうやった。ほんとうに偉大なことを」
 私は喜びと安堵感で胸が張り裂けんばかりだった。
 爆発物の装置の失敗などのような無不履行は避けられた。
 これからうまくことが運ばなかったら、私ひとりが死んで秘密を守ればいいから、別に
 問題はないという自信もあふれ出た。
・アブダビ時間で深夜2時をまわっていたので、空港内には旅客もあまりいなくて、静か
 だった。 
 私たちの旅券を回収していった係員は向こうのカウンターで他の職員たちと雑談しなが
 ら、ときどき私たちをちらっと見たりした。
・しかし、私たちはバーレーン行航空券と旅券を係員に渡した後、どうしようもなくなり、
 時間をつぶしていた。
 なす術もなく、官界か係員のところにいって、私たちの旅券と航空券を返してほしいと
 頼んでみたが、彼は出発の時間になれば返すから心配しないで戻って座ってください、
 といった。
・ほんとうに胸がつまるような気がした。
 飛行機が爆発する時間を計算してみると、アブダビ時間で朝6時頃だったので、このま
 まアブダビでぐずぐずしていたらすべてがばれてしまいそうな気がした。
・金先生はまた、今回の路程ははじめから間違っていると不満をもらした。
 ひとりで愚痴をこぼしていたが、私を安心させようとするのか。
 「私たちがバーレーンに行って、ローマ行の飛行機にさえ乗り換えられれば別に問題な
 いだろう」   
 とささやいた。そして、
 「飛行機事故は早くは解決できないから、私たちが平壌に戻ってしばらくしてから大騒
 ぎになるよ。いままでいつもそうだった」
 彼の説明で、少しはほっとした。
・こうなった以上、私たちは一刻も早くアブダビから出るしかないと思った。
 私たちは係員のところへいって、バーレーンへすぐ出発できるように手続きしてくれる
 よう頼んだ。 
 私たちが予約した飛行機は午後2時45分に出発するガルフ航空353便だった。
 しかし私たちの要求どおり係員は午後9時に出発するガルフ航空030便に変更してく
 れた。
・係員は030便が出発する15分前に、やっとのことで手続きを終えて帰ってきた。
 その時間になって、係員はようやく私たちに航空券と旅券を返してくれた。
・旅券をもらって、私たちは慌ててアブダビ空港を出発した。
 問題の爆発物を載せたKAL858便も、爆発物を持ち込んだ私たちも、ともにアブダ
 ビ空港を離れた。
  
毒薬アンプルを噛む
・バーレーンは日曜日だった。
 わずか1時間ばかりの距離だったが、アブダビを離れ、バーレーンに到着したというこ
 とで少し心が休まった。
 しかし、バーレーンもやはり安心できる場所ではなかったので、すぐにでもローマ行の
 便に乗り換えたかった。
 しかし、二人が持っていたローマ行航空券はアブダビが出発地になっていたため、それ
 をバーレーンに変更するためには航空会社での手続きが必要だった。
 ところが、着いた日がたまたま日曜日で、航空会社は休みだった。
 そこでローマ行の便に乗り換えるのは早めにあきらめて、三日間の通過ビザをもらった。
・私たちは空港の待合室で、観光案内書ののっていたリージェンシー・インターコンチネ
 ンタル・ホテルに部屋を予約しようと公衆電話のダイヤルを回した。
 ホテルと電話がなかなかつながらず、私は受話器を相手に悪戦苦闘していた。
・「どうなさいましたか」
 制服を着た男の空港係員が近寄ってきて、英語で聞いた。
 その男が近づいてきた瞬間、私たちはギクリとした。
 やっとアブダビから逃げ出してきた私たちは、些細なことにも神経質になっていた。
・空港係員は親切だった。
 私はホテルへ予約電話をしようとしているというと、代わりに電話をかけ、リージェン
 シー・インターコンチネンタル・ホテルによやくをとってくれた。
・朝10時にマナマ市にあるアリタリア航空のオフィスをたずねた。
 ウィーンで購入したアブダビ→アンマン→ローマ行航空券を出して、バーレーンから当
 日出発する便に変えてほしいと頼んだ。
 1時間でも早く、バーレーンから出たかったからだ。
・「今日はお席がございません。12月1日ならございますが・・・」
 月曜日に、出発する飛行機は満席で、次の日の朝8時30分のローマ行の便を予約する
 しかなかった。  
 バーレーンに着いた最初の日は休日、次の日は満席で、2日も夜をバーレーンで送らな
 ければならなかった。
 その後、オーストリア航空会社により、以前購入した「11月30日20時45分ロー
 マ発ウィーン行」の航空券を「12月2日20時45分」の航空便に変えた。
・航空便の予約を済ませた後、日本人観光客と見せかけるため、タクシーを借り切って観
 光することにした。 
 マナマ市近郊にあるバーレーン港、アドハリ講演を見てまわって、すまして写真を撮っ
 たりした。
 何食わぬ顔をして回っていたが、実は何も目に入らず、はじめての景色を見ても別に感
 動はなかった。
 サンドウィッチ、果物などを買った後、ホテルに戻った。
・外で買ってきたサンドウィッチと果物で夕食をとりながら、私たちの任務がうまく成し
 遂げられたかどうか心配していたところへ、電話のベルが鳴った。
 私はびっくりして、食べていたバナナを落としてしまった。
 まったく予期せぬ電話だった。
 電話のベルに飛びあがるほどびっくりしたのは、私たちがこのホテルに泊まっていると
 いうことを誰にも知らせていなかったからだ。
 電話がかかってくるはずがなかった。
 盗みの最中に見つかってしまった人みたいに、私は真っ青になって金先生の方を振り向
 いた。 
 金先生もまた私の顔を見た。
 私はどうしても電話に出る勇気がなくて、ためらった。
 金先生がそれに気づいて、大きく咳を1回したあと電話に出た。
・ホテル側から私たちの身分を確認する電話だった。
 あまりにももどかしいので、私は電話に出ている金先生に向かって「何の電話ですか」
 と聞いた。
 電話を切った金先生は口を固くつぐんだまま、後ろ手に組んで部屋のなかを行ったりき
 たりした。 
 自分のやるべきことを忘れた人のように落ち着かない表情だった。
 電話を切ってから5分もたたないうちにベルがまた鳴った。
・今回もまた金先生が出たが、KAL機がバンコク到着直前に失踪したと伝え、日本大使
 館が私たちの名前と生年月日、旅券番号を詳しく問い合わせてきたのだった。
 電話で話していた金先生は「ちょっと待ってください」といって、私に早く旅券を持っ
 てくるように合図した。 
 私はスリッパを脱ぎ捨てて爪先立ちで洋服ダンスに走り、旅券を取り出した。
・電話を切った後、いままで緊張することのなかった金先生も表情が硬くなって、ため息
 ばかりついていた。 
 金先生を神様のように信じてついてきた私は、先生の表情を見た瞬間、目の前が真っ暗
 になり絶望のどん底に落ちた。
 私がすごく動揺しているのを見て、金先生は、
 「われわれの正体はすぐにはわからないよ。心配しないで」
 といって私を安心させようとしたが、落ち着くどころか、ただごとではなさそうな予感
 がして、不安を抑えることができなかった。
・実に耐え難い沈黙が流れた。
 しばらくの後、その重い空気を破って、電話のベルがまた鳴った。
 韓国大使館員がホテルのロビーにきていて、私たちの部屋をたずねたいという内容だっ
 た。 
 それまで口をかたくつぐんだまま石像のように動かなかった金先生が指示した。
 「テーブルの上を適当に片づけて、真由美は寝ているふりをしなさい。私が全部処理す
 るから。こういうときこそ、落ち着かなくちゃ」
・金先生の指示どおり、テーブルの上の食べ物を片づけた後、ベッドに入った。
 どんなに緊張し、慌てたことか、靴のまま横になって、金先生に指摘されてたくらいだ
 った。 
 靴を履いているということもわからないほど、気が気でなかった。
・私たちの正体が全部明らかになって、逮捕にくるかもしれないということを考えると、
 急に脅怖感が襲ってきた。
 「コツ、コツ、コツ」
 ドアを叩く音が聞こえたときは、心臓が止まりそうだった。
・しばらくして、ドアが開く音がして、続いて何ごとか話し合う声が聞こえた。
 韓国大使館員を迎え入れるようだった。
 「私の娘ですが、旅行の疲れで休んでおります。失礼ですがお許しください」
 金先生が日本語で私を紹介するのを聞いて、私は無意識のうちに身体を半分くらい起こ
 して、韓国大使館員に目礼し、また横になった。
 私はすぐに後悔した。
 金先生が寝ているふりをするようにいったのに、無意識に挨拶してしまったのである。
 心臓はどきどきと躍り、歯がガチガチ鳴るほど震えがひどくなった。
・壁に向かって寝ていたが、私の全神経は彼らが交わす会話に集中していた。
 韓国大使館員は日本語がわからなかった。
 二人は下手な英語で話し合いながら、何かを紙に一生懸命書いて意思を伝え合っている
 様子だった。
 ことばがうまく通じないと、館員は朝鮮語の乱暴な表現を交ぜながら、ひとりでぶつぶ
 ついった。
 「畜生・・・言葉が通じないから何もできやしない。ああ、ひどい話だ」
・彼らがもどかしく思い苛立っていても、金先生は知らん顔を通していた。
 緊張の真っ只中にいるのに思わず笑ってしまった。
 韓国大使館員の話は大筋「乗客115人を乗せたKAL858便がバンコク到着前に失
 踪したが、墜落したようです。あなたたちは運がよかったですね」ということと、私た
 ちがいつ、どこに発つかという質問だった。
 彼の話し方や態度からみて、私たちに対し強い疑いを抱いているようであった。
・韓国大使館員を追い出すように急ぎたてて帰した後、金先生は再び私を安心させるよう
 にとするのか、こういった。
 「KAL機が爆破されたのは確かなようだ。私たちはついにやったんだ。これからはど
 うやって、ここから無事に抜け出すかというのが問題だ・・・。とにかく、航空機の事
 件は調査するのにけっこう時間がかかるはずだから、われわれは計画どおり明日の朝ロ
 ーマに向かう飛行機に乗れさえすれば大丈夫だ。そうなると、追跡も難しくなるだろう
 し・・・。別に問題はない」
・口ではそういいながらも、金先生の表情には自信がまったく見られなかった。
 ただ、自分自身をみずから慰めるための言葉だというのがわかった。 
・夜10時頃になって、またドアをノックする音がした。
 私たちは慌ててしまい、すぐにドアを開けられなかった。
 私は席から立つ気力もなくし、金先生の方を見ていた。
 ほどなく、金先生がよろよろと立ち上がり、ドアの方に近づいていった。
 「私たちを逮捕しにきたかもしれないから、ドアは全部開けないで、チェーンはかけた
 ままにしてください。何しに来たかだけ、訊いてください」
 私は声を忍ばせて、金先生に頼んだ。
 金先生がチェーンをかけたまま、ちょっとだけドアを開けて園をのぞいた。
 すると、ホテルの従業員がチョコレートを差し入れながら、中をちらっとのぞき込んで
 帰っていった。
 いままでの海外旅行中、こんなサービスを受けたのははじめてのことだったので、それ
 が私たちの様子を探るためだとすぐわかった。
 幸い、その後は誰もたずねてこなかった。
・とうとう、夜が明け始めた。
 朝6時半近くになっても、金先生は何の心配もなさそうに寝ていた。
 眠っている金先生を眺めていると本当に情けなくなって、憎らしかった。
 私は洗顔と簡単な化粧をすませ、待ちきれず彼を起こした。
・飛行機の時間に合わせ、大急ぎで荷物をまとめてホテルの部屋を出ようとしたところ、
 金先生が私を呼び戻した。
 「真由美、ちょっと待って」
 金先生の顔は深刻さのあまり、悲壮な感じさえ受けた。
 彼は私の顔をまともに見られないのか、顔を横にして、今まで持っていたマールボロ煙
 草の箱を渡しに渡した。
 「最悪のときにはこれを使うんだ」
・彼の声はだんだん小さくなり、言葉まで吃りだした。
 先生が私にすまないと思う理由は何もなかったが、ことがこうなったのは自分のせいだ
 と思っているらしかった。
 タバコの箱を渡す金先生の手が震え、受けて取る私の手も震えた。
・私たちは朝食もとらずに、だれかに追われているかのように、慌ててリージェンシー・
 インターコンチネンタル・ホテルから出た。
 廊下でもロビーでも私たちを止める人はいなかった。
 しかし、フロントの職員とか入口の案内人だけでなく、視線の合うすべての人が私たち
 を監視しているように見えた。  
・私の手はずうっとマールボロの箱にいっていた。
 その箱が手に触れているかぎり、箇々理が少しは落ち着いた。
 最悪の事態が起こったら、それだけが私を守り、秘密を保証してくれる唯一の盾だった
 から。
・昨晩起こったことから考えても、私たちが無事にここを抜け出すことは不可能だった。
 ベオグラードで別れた崔課長一行と再接触するはずのウィーンまで行くということは、
 現在の状況からはほとんど無理な気がした。
 口の中が渇き、唇がかさついた。
・何も起こらないまま空港に着くと、金先生は手続きを急いだ。
 ローマへ向かう飛行機にさえ搭乗できれば、一応は成功だった。
 金先生が手続きをしている間、私は空港内の状況に注意し、尾行者がいないか、南朝鮮
 の特務がくっついているのではないかと確かめなければならなかった。
・とうとう出国審査台の前に立ち、震える手で旅券と出国カードを差し出した。
 「どうか無事にここを抜け出られますように・・・」
 切なる願いがつのり、身体中が強ばるような感じだった。
 「ちょっと待ってください。調べるものがありますからね」
 その流暢な日本語は、まさに青天の霹靂だった。
 とうとうくるべきものがきたな、と感じた。
 その瞬間、たぶん私たち二人の顔から血の気が消え失せていただろう。
 そのうえ、審査台にはバーレーンの係員の他に、東洋人が立っていて私たちの旅券を回
 収するではないか!
 「もうダメだ」
 底知れぬ淵に落ちていくような気がしたが、一方では一縷の希望に取りすがっていた。
・1984年はじめ、当時担当の張指導員に蜂谷真由美名義の日本の旅券を見せられ、
 「この旅券は私たちが本物そっくりに作ったんだから、日本旅券の専門家じゃないと、
 だれもわかるはずがないから安心してもいいです」
 といわれた。
 金先生もまた、自分もこのような旅券を持って数えきれないほどの海外旅行をしたが、
 何の問題もなかったと同じことをいった。
・「この人たちもやはり旅券が偽物だとはわからないだろう」
 私はただそう信じた。
 いや、信じたというよりはそうなるようにと願ったというのが正しい表現だ。
 どうか、トラブルが起こらないように、と願いながら、空港待合室の椅子に座って旅券
 を返してくれるのを待っていた。  
・飛行機の離陸時間まで5分しかなく、他の乗客はすべて搭乗完了の状態だったのに、
 旅券は私たちの手には戻ってこなかった。
 気が気でなかった。
 離陸時間が4分、3分、2分・・・・近づいてくるにつれ、「もう終わりだ」という絶
 望感と同時に指先まで力が抜けてしまい目眩がした。
 金先生の方に顔を向ける力さえなくなった。
・私は手探りでカバンの中のマールボロの箱を探し、それをギュッと握りしめてみた。
 それなりに心が静まり、諦めとともにこれからとるべき行動について考える余裕ができ
 た。 
 「堂々と冷静に最期を迎えよう」
 私は歯を食いしばって、お腹に力を入れた。
・そのとき、空港の案内放送からローマ行の便が離陸するという放送が流れた。
 私は再び恐ろしい現実に引き戻された。
 これで、たった一縷の希望もすべて泡となって消えてしまった。
 いまは空港のホールの中に私たち二人だけが取り残され、絶望感に震えていた。
・まもなく、旅券を回収していった東洋人が固い表情で近づいてきた。
 「私はバーレーン駐在日本大使館の職員です。二つのパスポートのうち、蜂谷真由美さ
 んのものは偽物であることがわかりました。蜂谷真一さんは他のところに旅行できます
 が、蜂谷真由美さんは日本の飛行機で日本に帰って一応調査を・・・」
・その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になり耳が遠くなって、その後の言葉はもう聞
 こえなかった。 
 彼の言葉は死刑宣告と同じだった。
・金先生もすでに最期を決心したように、私に言い聞かせた。
 「真由美、心を決めてアンプルを噛むんだぞ。俺たちの正体が知れたから。生きようと
 すればするほど、かえって悲惨なことになる「。俺はこんな歳だから死んでも悔いはな
 いけれど・・・、本当に・・・すまん・・・」
・この老人も心の中で泣いているに違いなかった。
 どんなに困難なことがあっても冷静だったのに、言葉まで吃ってうまくつなげなかった。
 私にすまないというときは、彼の声はひどく震えた。
 私もまた、流れる涙で話をつぐことができなくて、首を立てに振って決心を伝えた。
・涙が溢れ出る目に浮かぶのは、母の顔だった。
 2、3年に1回、2日間の休暇をもらって家に帰ると、娘の元気な姿に喜び、招待所へ、
 戻る日は朝から物思いに沈んだ顔をしていた母。
 あのときは母の心を推し量ることができず、党に選ばれた自負心と誇りに浮かれ、指導
 員についていった。
 結局私は、母の胸を痛めるような娘になってしまった。
 20年もの歳月を娘を大事に育てることに捧げた母と永遠に分かれる時間が近づいてき
 た。
 そう思うと、生きることと死ぬこととの差は紙一重だという虚しさが押し寄せてきた。
・私は心の中で、両親への許しを求めた。
 心の整理と準備は終わった。
 もしここで死ねなかったら、私はあらゆる恥辱と苦痛をのこさず味わったのち、悲惨に
 死ぬだろうし、家族は裏切り者の家族と烙印を押されて、私より何倍も大きい苦痛と蔑
 視を受けなければならない。 
 自殺するときは決して失敗があってはならないということを誰よりもよく知っていたか
 ら、私は続けざまにタバコを吸っている金先生にひとつお願いをした。
 「金先生、薬を飲むときがきたら、合図をして一緒に行動しましょう。いいえ、私が先
 に噛みますから、はっきり死んだかどうか確かめた後・・・」
・金先生は考えごとにふけっているのか、私の話を聞くともなく、ただ首を縦に振った。
 彼もやはり自分の家族のことを思っているらしかった。
 彼はタバコの煙を深く吸った。
・私は涙を拭いて、英雄らしく死ぬべき瞬間を待ちながら、金先生の顔色をうかがった。
 そのとき、バーレーンの警察官4、5人が私たちを取り巻き、事務室に連れて行って金
 先生と私とを隔離した後、荷物と身体の検査を始めた。 
・婦人警察官たちの検査は実に徹底しており、化粧品の中はもちろん、髪の毛一本まで、
 というような勢いで残らずチェックした。
 身体と荷物の検査を受けている間、羞恥心よりはマールボロが入ったカバンが気になっ
 た。
 幸いに、婦人警官たちがそのマールボロに気づかなかった。
 どんなに緊張していたか、背筋に汗が伝わった。
・検査が終わった後、カバンを肩にかけて空港ホールに戻ってみると、金先生が先に検査
 を終えてバーレーン警察の監視下で、私を待ち焦がれていた。
 金先生は私を見つけると、目を大きくして首を縦にふって見せ、毒薬アンプルは無事か
 と合図した。 
 私もまた首をふって、無事だと伝えた。
 金先生はほっとした表情を見せた。
・そばにいって座ると、彼は旅行中に吸っていた日本製セブンスターを私に1本すすめた。
 タバコを吸わない私にすすめたのは、普段からタバコを吸う人に見せかけて、アンプル
 の入ったタバコを噛むときがきたらうまく実行させるためだった。
 私は金先生の意図をすぐ理解した。 
・しかし、それによってもっと悪い事態が起こってしまった。
 私がもらったタバコに火をつけようとカバンからライターを取り出すのを見て、やっと
 マールボロの箱を検査していないことに気づいた婦人警官が、カバンを渡すよう要求し
 た。仕方なく素早くマールボロの箱だけをとってカバンを渡すと、彼女はタバコも渡せ
 という仕草をした。
 事態はますます悪くなる一方だった。
 私は今度はタバコの箱から、タバコの粉で見わけをつけたアンプルタバコを取り出した
 後で渡した。
・彼らに見つかるかどうかはともかく、それだけは奪われてはならなかった。
 行き詰ってしまったいま、毒薬入りアンプルタバコは唯一の救いだった。
 それを諦めるということは、いままで尽力して成し遂げた任務を諦めることを意味した。
 また、いつどうなるかわからない切羽詰まった状況だったの、アンプルタバコを手放す
 わけにはいかなかった。
・私がタバコを1本取り出すと、婦人警官はわからない言葉を大声て喋りながら手を突き
 出した。 
 そのタバコも全部だせということだった。
 金先生に助けを求めようと彼の方を見たら、首を横に振って絶対に奪われてはならない
 と合図した。
 事態はみるみるうちに悪化してしまった。
 私は泣き出しそうな顔になって、金先生から目を離した。
 その瞬間、婦人警官が私の手に握られていたタバコを奪った。あっという間だった。
・切迫した状況でもう考える暇もなくなった私は、ほとんど反射的に彼女の手からタバコ
 を奪い返してすぐに口に入れた。ためらわずフィルターの先の部分を噛み締めた。
 タバコを噛んだ瞬間、婦人警官が悲鳴をあげながらのしかかってくるのが見えた。
・私はそれ以上何もわからなくなり、真っ暗な暗闇の底に落ちていった。
 訓練犬のようによく馴らされた金日成の誠実な娘は、そのとき死んだ。
 すべてが終わった。
 毒薬アンプルを噛んだ瞬間、私は苦痛から解放された。
 暗闇が私を襲った。
 そして、すべてが終わった。

”人民”たちのクリスカス
・虚脱状態だった。
 胸の中に押し込め、錠をかけたようにずっと伏せてきた事件の全貌を、すべてぶちまけ
 てしまうと、私はまるで抜け殻のように虚脱状態に陥ってしまった。
・「この人たちは私から引き出せるだけの秘密をすべて引き出していおいて、無惨にも処
 刑するのだろう」 
 そう考えながらも、気分は軽くなっていた。
 たとえ死ぬとしても、不安から解放され、心が軽くなったことは事実だった。
 とはいっても、すっかり安らかになったわけでもなかった。
 私が生き残り、自白したことによって、私の家族が北で受けるであろう苦しみは、明白
 であった。それが私にとって一番辛いことだった。
 自白が遅れた理由は、やはり北に愛する家族がいるからであったことは否定できない。
・家族のことが気になりながらも、自分がどんな方法で処刑されるのだろうかということ
 も気がかりだった。
 また彼らと一緒に外出してみたソウルは、よい面ばかりを選んで見せたのではないかと
 いう疑念も沸いた。
・私を手なずけるため、ソウルのようなまともなところだけ選んだに違いないと思った。
 賑やかで豪華な街の背後に隠された、平凡な人民の生活を私は見たかった。
 華やかで、飯倉氏をしているように見える国が、実は表面だけで本当の意味で富裕な国
 とはいえないのではないか。
 私は長い患いに苦しむ人のように、頭を抱え込んで悩んだが、親しくなった女性捜査官
 に頼んでみた。
 「私に、人民の暮らしぶりを見せてもらえませんか」
 すると「いくらでも・・・」といって、他の捜査官にもその旨を伝えてくれた。
 「特別行ってみたい所でもあるの」
 「ありのままを・・・あちこちもう一度見たいのです」
・女性捜査官ひとりが私の脇にぴったり立ち、男性捜査官二人が私の前後を護衛しながら、
 私たちは人のあふれるごみごみした明洞の通りを下って行った。
 私たちが最初に入ったのはロッテ百貨店だった。
・私の関心はもっぱら一つのことだけだった。
 あちこちに積み上げられた品物が、はたして外国製であるのか、韓国製であるのか、
 それだけが私の関心事だった。
 品物の質や商品名からみて、間違いなく外国製だと思われるのに、捜査官たちは韓国製
 さと言い張るのである。
 「信じられないなら、直接どこかのコーナーに行って確かめてみたら。何かひとつ買っ
 てみたらいいわ」  
 そういって1万ウォン札2枚と千ウォン3枚を私に握らせ、私を前に押しやり自分たち
 は素早く陰に隠れた。
 私はあまり店員の前に出たくなかったが、先ほどから気になっていたことを知りたいば
 かりに勇気を出した。
 ちょうど化粧品コーナーが近くにあったので、もじもじとためらいながら近づいて行っ
 た。
 「これは外国製ですか」
 「デュポン」とかかれたローションを一つ手にして店員にたずねた。
 店員はジャンパー姿の私を上から下までしげしげと眺めて、どこか遠い田舎から出てき
 た女性と思ったのだろう、笑いながら、
 「まあ、外国に長くいらして、帰って来られたようですね。これはラッキーの製品です
 よ」
 という。
 「ラッキーは韓国の会社ですか」
 と、私はもう一度たずねたかったが、あまりにも異常な人と思われそうで結局訊くこと
 ができなかった。
 私は飛行機から降りるとき、マスクをしていたので、幸にも店員は私も覚えていないよ
 うだった。
・「これ、いくらですか」
 包装や瓶のデザインが高級そうに見えたので、かなり高価な物だろうと思って用心深く
 値段をたずねてみた。 
 「それは安いですよ。6千5百ウォンですよ」
・私は捜査官がくれたお金を思い浮かべた。
 2万3千ウォンはとてつもない額のお金だろうと思っていたが、化粧品1個が6千5百
 ウィンとすれば、それほど大した額でもないなと思った。
 貨幣価値が北とはまるで違うので、お金の価値を判断するのも難しかった。
 私はもたもたしていて、結局化粧品を買えないまま戻ってきた。
・「何を買ったの」
 女性捜査官がたずねたが、手に何も持っていないのを見て笑い出した。
・「商品が韓国製だというのに、なぜ外国の名前ばかりをつけるのですか」
 ずっと気になっていた疑問をたずねた。
 「それは言葉よ。わが国の商品を外国市場に出していこうとするなら、彼らにも意味が
 通じる商品名をつけなければならないでしょ」
・私は、いつだったかパリで買った服が韓国製だったのでびっくりしたことがあったこと
 を思いだした。 
 それなら、衣服だけでなく化粧品も輸出しているというのか。
 私は思わずいうべき言葉を失って、口をつぐんだ。
 私は捜査官の前で言葉を出してこそ言わなかったが、内心このたくさんの商品が外国製
 ではないという事実に衝撃を受けた。
・「お腹がすいたので、何かちょっと食べましょう」 
 捜査官たちが前もって決めていた路地に私を案内した。
 人間ひとりがやっと通れるくらいの通路をはさんで、両側はズラ―っと全部飲食店だっ
 た。
 食べ物がすべて通路の脇に並べられていて、少し雑然と汚らしく見えた。
 雑菜ご飯、餅、天ぷら、うどん、ご飯、豚の頭肉、豚足、スンデ(豚の腸詰め)・・・
 とても美味しそうな食べ物が豊富に並べられていてよだれが出てきた。
 北では70年代以降、このような豚の頭肉を見たくても見ることすらできなかった。
・北ではすべてに貧しいのが実情なので、ソウルの市場を見回して、各種食料品と品物が
 山のように積まれているのを見るたびに、北にいる家族たちを思い、胸が痛んだ。
・食堂の中にはすでに、かなりの年配の男たちが席を占めていて、大きな声を出して騒が
 しかった。  
 彼らの前には、焼酎のビンがいくつか空になっていて、新しい酒ビンがまたおかれた。
・私は彼らが、所かまわず大声で悪口を交えて、政府批判をするのが信じられなかった。
 そして前と横に座っている捜査官たちをうかがった。
 彼らはこの言葉を聞いても何の素振りも見せず、泰然として無関係みたいな顔をしてい
 た。
 特務たちでありながら、政府の悪口をいう人々を捕まえもしないで、いったいこの国は
 どうなっているのだろうか。
・南朝鮮の人々はいったい、いつからこのように自由に生活してきたというのだろうか。
 わずか一日二日の自由を享受した人々の行動ではなかった。
 自由な行動が身についていてそれを享受する方法にも慣れていると感じた。
・「さっき、食堂で・・・」
 私はいくら自由だといっても、政府の悪口をいう人々をそのまま放っておく特務たちは
 怠慢だと思い、ひと言いってしまった。
 「政府の悪口をむやみにいっていたのに、なぜそのままにしておくのですか?」
・捜査官たちは、むしろ私の言った意味を理解できないで、いぶかしげだった。
 「特務のする仕事ではないんですか?」
 このときになって、ようやく捜査官たちは私の言葉を理解してニヤッと笑った。
 「この国は民主主義の国なんだ。法に触れるいくつかを除いて、言論の自由があるんだ
 よ。そしてわれわれがする仕事は、法を守らない人たちを正当に捕まえることで、誰も
 彼らを捕まえることはできないよ」
 捜査官の説明は私には何の説得力も持たなかった。
 なぜなら、根本的に民主主義の体制について納得がいかなかったからだ。
・このように複雑で頭を悩ます政治を行うとすれば、国民を団結させるのがむずかしく、
 国家が施策や方針を国民に守らせえるのもむずかしいにちがいない。
 命令と指示に従わせる画一的な政治をする方が、ずっと効果的だと考えるばかりだった。
・「さっきの人たちが、大統領選での投票率が低かったといっていましたが、あれは何の
 ことなのか知りたいです」 
 私の質問に、捜査官たちは少しも面倒がらず詳しく説明してくれた。
 彼らは、私を抱き込む必要もないのに、自白する前とひとつも変わることなく、いやむ
 しろもっと親切に私に対してくれた。
 「30パーセントの大統領とは、投票結果で出た支持率を表しているんだよ。選挙のと
 きに、われわれは何人かの候補の中から自分が選んだ人に票を入れる。その支持率が、
 今度の大統領は30パーセント程度だという話だよ」
・最高指導者を選ぶことひとつでも一致団結できないのだから情けない、と思いながらも、
 自分の意志で自由に投票することができる事実は、羨ましく思われ、この制度に感心さ
 えした。 
・「もうひとつ、気になることがあるのですが・・・」
 「遠慮しないでいってごらん、この国を理解しようとするつもりながら疑問があって当
 然だ、知っているかぎり何でも答えてあげるから」
 「さっき工事現場を見たら変なことがありました」
 「どんなこと」
 「そこには人もあまりいなくて、工事もしていないようでした。夜だけ作業をするんで
 すか?」
・捜査官たちはお互いに顔を見合わせて、呆気にとられた表情を浮かべた。
 「北では工事をどのようにするの」
 女性捜査官が反対にたずねた。
 「北では建物を建てるときは人民班(隣組のようなもの)も動員し、金曜労働のときに
 は各職場の人たちも動員します。軍隊も動員されるし学生たちも動員されます。工事現
 場へ行けば、蟻のように大勢の人が動員されて土を掘り、セメントをまぜて、煉瓦を運
 び、一糸乱れず仕事をします」
・私は新しい建物がひとつ出来あがるたびに、工事現場に群がって働いていた人々を思い、
 胸が詰まった。
 その人々にいまさらのように親近感を感じ、その人々がすべて懐かしかった。
 汗を流してうんうんいいながら働いていた私の故郷の人たち、どんなに苦労をしていた
 ことか・・・。 
・「ここはそんなに多くの人々が動員される必要はないよ。ほとんどのことはみな、機会
 がしてくれるからね。セメントと砂を練るのも機会がするし、土を掘るのも全部機会が
 するから。人はその機械を操作することと、工事を進行させることだけ受け持てばいい
 んだ。だから人間があまり見えないわけだよ」
・私は自分が持っている常識で、この国の水準を評価することはできないと思った。
 疑問は思ったことを我慢できずに、ひと言たずねるたびに、その質問がいかに無知な質
 問だったかをすぐに思い知らされた。 
・私はこれでも、北では水準以上の家庭環境に育ち、最高教育まで受けていたので、人に
 先んずる存在だと自負して来た。
 とくに工作員に選ばれたのち、外国映画を見る機会もよくあり、実習で海外旅行までし
 た経験があるではないか。
 また、幼少時代を共産圏国家とはいっても、キューバで外国生活も経験した。
 私は北の普通の人民の誰よりも、外の情勢について明るいと思っていたのである。
 ところが実際に南朝鮮にきて体験するものがことごとく、見なれない、目新しい事実ば
 かりで、私がいかに井の中の蛙のように生きてきたかを思い知らされた。
・私はわが家ではいつも食用油を切らすことがなかったことを、言葉の端々に自慢気に捜
 査官たちに喋りたてた。
 「食用油は上流階級の家だけで見ることができる物です」
 そのたびごとに捜査官たちは、恥をかかせないために私の話を熱心に聞いてくれた。
 「だから私の家はいつも揚げ物料理にこと欠きませんでした」
 私の自慢が、いかにこっけいに聞こえたか、想像すらできなかった。
 店に行ってみれば、質の良い食用油がごくありふれており、屋台やリヤカーで売られて
 いる食べ物が揚げ物の種類が多いことを知ったとき、私は恥ずかしくて顔をあげること
 ができなかった。
 「揚げ物料理をするときは、他の家に臭いが漂って行かないかと、窓だけでなく戸とい
 う戸を全部閉めてやりました」
・人民学校を卒業し、中学を卒業するまでは、私はこのような不幸の兆しを予感すること
 すらできなかった。
 不運にみまわれることなど考えられない。
 幸福な女の子として愛に包まれて育ってきた。
 私の成長過程を、南朝鮮の人々が聞いたならば、何がそんなに大層な生活だったのかと
 笑うかもしれないが、北ではかなり良い暮らしを満喫していた。
・私の幼少時代の始まりは、何も欠けているものなどなかった。
 それがどうして、罪人だとか殺人者だとか自白だとかいう、ののしりの言葉を甘んじて
 受けなければならない立場になったのか知る由もない。
・強いて、その根本原因を探すとすれば、私が不幸にも北に生まれたという点だけである。
 もし仮に、南朝鮮に生まれたら、南朝鮮を理解するために苦労する必要もなかったし、
 大韓航空機を爆破させる任務をまかされることもなかったのではないか。

時間制限つき人生
・「着替えて、一緒に外出してみないか」
 不意に捜査官が外出しようと誘った。
 私は胸がドキッとした。
 捜査が細部にわたり、こと細かに事件の経過をたどって掘り下げられている状況の中で、
 突然外出というのは不自然だ、と私は考えた。
 「どちらへ出かけるんですか」
 私は怖気づいた表情を見せまいと苦労した。
 処刑場へ引っ張って行かれるのではないかと心配になった。
 「頭を冷やすためだよ。根掘り葉掘りの取り調べで頭がむしゃくしゃしているだろうか
 ら、外の空気にでも触れてすっきりさせてやろうと思ってね」
 彼らの表情は嘘をついるようには見えなかった。
・「まず古宮散策をして、ソウルから少し離れた田舎を見て回ろうか」
 彼らは一応、私の意向を聞いているようだったが、私はただ言われるままに黙々と後ろ
 について行った。
・ソウル市庁舎の建物のはす向かいに立つ古宮を訪れた。
 大きな韓国式の建物の門の上に「大漢門」という扁額が掛かっていたが、捜査官たちは
 「徳寿宮」と呼んでいた。  
・南朝鮮は米国帝国主義者にすべて侵奪され、われわれの主体文化と歴史まで抹殺されて
 いると教育を受けていたので、このような宮殿がそのまま保存されていること自体驚く
 だった。
・入口から入って、もっとも関心を引いたのは、向かい側に見える小さな銅像であった。
「あれは誰の銅像ですか」
 傍らにいる捜査官にたずねると、
 「あれは世宗大王の銅像だよ。われわれの使っているハングルを創られた方だ」
 「何ですって?世宗大王がハングルをお創りになったんですか!王様がですか?・・・」
 私は本当に驚き、恥ずかしい思いでいっぱいだった。
 いままで文字を使いながらも、これを創ったのは誰なのか教えてくれる人もいなかった
 し、私自身もこのような立派な文字は誰によって創られたのかという疑問すら抱いたこ
 とがなかったのに、こんなところにきて知るようになるなんて・・・。
・車はソウル市街を通り抜け郊外へ出た。
 空気も清々しく秋の獲り入れが終わったあとの広々とした田畑が見えた。
 故郷の山川と何ら変わりはなかった。
 祖国のどこかを走り抜けているのではと錯覚するほどだった。
 農村の冬景色はこのうえなくさびしいものであったが、私はとても親近感を覚えた。
・「どこへ行きたい?どこでもいいから好きな所を決めてごらん」
 捜査官たちはありのままの農村を見せるつもりだった。
 私はわざと舗装道路のない小さな村指した。
 未舗装道路とはいえ、自動車二台を充分通れる道幅があり、アスファルト舗装はでいて
 いなくても地面は平らによくならされていた。
・私たちは粗末な一軒の農家の庭に車を止めた。
 その家は柴戸すらなく、中庭もない家であった。
 「ごめんください」
 「いらっしゃいますか」
 捜査官たちが順に人を呼んだが、内側から何の気配もしなかった。
・「誰もいませんか?」
 私たちは奥の方へ入っていきながら叫んだ。
 正面に見える広い板の間に冷蔵庫と米櫃が並べておいてあり、その傍には電話機が食膳
 の上に乗せてあった。
 私はそのような品物が真っ先に視界に入り、驚きを禁じ得なかった。
 こんなみずぼらしい農村にも冷蔵庫とか電話とか米櫃とかがあるという事実が信じられ
 なかった。  
 「こちらへきてごらん」
 捜査官たちは私を手招きして呼んだ。
 少し暗い部屋の中を覗くと、衣類をしまう箪笥とテレビが目に入った。
 田舎の脳かとは思えないような文化的な家財道具がすべて備わっていた。
 戸を閉めて向きを変えて出ようとしたところ、縁側にはまた冷蔵庫が一台おいてあるの
 が目に入った。
 いくら南朝鮮の生活が余裕のあるものとはいえ、このように無造作に冷蔵庫がおかれて
 いることが理解できず、一世帯に二台の冷蔵庫はもっと納得がいかなかった。
・「借家住まいの人たちのようですけど」
 女性捜査官が台所を見回しながらいった。
 台所を見たところ、二世帯が住んでいるとのことであった。
 「いや、こんな家を借りて住んでいる人もいるの?」
 若い男性捜査官が無意識のうちに吐き出すようにいった。
 その言葉を聞いた途端、私は別の思いが頭の中をよぎった。
 こんなみすぼらしいところを借りて暮らしている人ですら、冷蔵庫が持てるほど南朝鮮
 は発展した、ということであった。
 そのような貴重品を板の間においても表門に鍵を掛けない社会を、どのように評価すべ
 きなのか判断がつかないのだった。
・「いまは片田舎なんていえないな。電気、電話、冷蔵庫、テレビ等々、ないものがない
 ほどだからね、片田舎だったら、片田舎にふさわしい風物と味わいがほしいな・・・」
 彼らは、農村が都会と変わらない文化的生活を享受していることが、不満ででもあるか
 のように愚痴をこぼした。
・「でもソウルと違ったところもありましたわ」
 女性捜査官が彼らの言葉を受けた。
 「どこが?」
 「表門に鍵をかけないで生活しているところなんか。ソウルだったら、どんな家でも表
 門を開けっ放しにしてはおかないでしょ?」
 「そうだな。その通りだな」
 彼らは田舎が田舎らしさを失いつつあるというのが不満だったが、私には田舎が都会と
 同じであるという事実に呆気にとられた。
・私たち一行はソウルに戻り、東大門市場を見物した。
 私たちは寄ったのは布地を売る店だった。
 「なぜ、南朝鮮ではナイロンを売っている店がないのですか」
 私は南朝鮮の紡績技術はまだナイロンを作り出せないものと見当をつけていた。
 北では、皺にならず弾力性も良いナイロンを最高のものとしていた。
 ナイロン・ワンピース、ナイロン制服、ナイロンの靴下などを求めるのは至難の業であ
 った。  
・「こちらではナイロンの服を買いたいなんて人はいないですよ。合成繊維は健康に非常
 に悪いということが明らかにされたからね。綿織の技術が発達してナイロンより上質の
 製品が量産されている。弾力性とか皺になりにくいなどナイロン製品に劣らない水準に
 到達しているんだよ。韓国では、ナイロンは安物の製品として扱われているんだ」
・やることなすこと、北とは相反する論理ばかりなので、面食らうばかりであった。 
 たった一着のナイロン製の簡素な服ですらも入手し難い状況で、ナイロンが健康によく
 ないなどといっていられない北朝鮮と、少々高価であっても健康によい衣類を求めると
 いう南朝鮮とでは、根本的に生活と思考方式自体が違っているということを認めざるを
 えなかった。
・市場の外れにさしかかったところに、長椅子を並べて食べ物商売をしている露店があっ
 た。
 「あそこでは、どのような人たちが食べているのですか」
 私がひと目見たところでは、よくある高級食堂とは様子が全然違っていた。
 別に食卓らしきものも見えず長椅子だけがおいてあった。
 「ここは一番所得の低い”下層”の人たちが飲食するところだよ。商売人とか荷物運搬
 などの労働者とか、買い物にきたおばさんたちがお得意さんというわけさ」
・私はそこに並べてある食べ物にざっと目を通した。
 ご飯のほかに”水団”と”うどん”それと”豚の頭の肉”をはじめいろいろなものがおいてあ
 った。 
 「うちより豪勢だわ」
 思わず、そんな言葉が口をついて出てしまった。
 無意識に出た言葉だったが、真実だった。 
・やはり南山への帰り道は憂鬱で、心は千々に乱れた。
 犯した罪の代償は死をもって報いるしかないということは当然のことではあったが、
 外出から帰ってくるたびに、生への愛着を断ち切れなかった。
 真面目に生活をして人々の仲間に入れてもらいたかったし、自由に闊歩している人々の
 群れに交じりたかった。
・外出のときに見かける風景は、私の目にはどれも自分とはかかわりのない別世界のよう
 に映っていくような気がしてならなかった。
 死ぬ日だけを待ち続けている私の境遇にはすべてが無縁のようで、また良いものを見れ
 ば見るほど、いきることへの愛着が強まって卑屈になっていく自分自身が情けなくなっ
 た。 
・明日をも予測できぬ私は何を見て、何を楽しんで生きて行けるのか。
 いつというふうにはっきり決まっているわけではないが、制限つきの人生と変わりのな
 い日々を生きている私がどうやって彼らとともに調子を合わせ、笑ったり騒いだりして
 楽しむことができるというのか。
 その期限が、一カ月なのか十日なのか、あるいは一年に延びるのか、知りようがないた
 めにいらぬ不安と焦りを覚えるようになり、苛立ちとなってあらわれた。
・「外出して帰ったんだから、多少の気分転換にはなったと思うんだが・・・。なぜ前に
 も増して不機嫌になってしまうのかわけがわからないか」
 若い捜査官は苛立ちを混じった声色で、露骨の不満を示した。
・「外へ連れ出さないで、取調べもやめて、そのまま殺してください。これ以上苦しまず
 に死にたいのです。お願いですから早く殺してください」
 私は耐えきれずに泣き崩れてしまった。
 このような状態で思うままにならない毎日を、命乞いをしながら生き永らえるというこ
 とが辛くてたまらなかった。   
・生と死を超越して、無図からの運命をあるがままに受け入れようと必死にあがいてみて
 も、人間の本能として生に対しての愛着は日増しにつのり、このことが私をより一層惨
 めにしていった。
 自白をしてしまえばすべてが終わりだと思っていたのだが、次から次へとより苦しいこ
 とが起こるのであった。
・数日前のことでも、私がなめた心理的苦痛は口に出していえないほどのものだった。
 「事件の真相を発表したいんだが、あなたが直接出向いて事件の全貌を明らかにしてほ
 しいんだ」
 私は強く反発した。
 私は絶対に承諾しないつもりだった。
 たとえ死が待ちかまえていたとしても、人々の前に姿を晒したくないというのが結論だ
 った。
・「もう私から知りたいことはすべて吐かせたんですから、お願いだから早く死なせてく
 ださい。私をこれ以上痛めつけるのはやけてください」
 私は抵抗した。
・「いまとなっては死ぬも生きるも、あなたの自由にはならないよ。また私の勝手にもな
 らない。生きるか死ぬかの問題は別として、あなたが心から罪人だという自覚を持って
 いるんだったら、遺族に対して少しでもすまないという気持ちがあるんだったら、
 これはあなた自身がやらなければいけない義務だよ。避けて通りたいといっても、逃げ
 るわけにはいかないんだ。よく考えてごらん」
・私をなだめたり叱ったりして、捜査官は私を説得しようと試みた。
 彼の言っていることは正しかった。
 私の生死、そして私の家族の問題は、この人たちにとってはさして重要な問題ではなか
 った。  
 それはただ私ひとりだけが心の中で苦しまなければならない、ひとえに私個人の問題に
 過ぎなかったのだ。
・自白する前に私が死んだのだったら政府の大問題にもなりえたのだろうが、すでに自白
 がすんだいまとなっては、私が生きようと死のうと対して問題ではなかった。
 ただ私が、心からの贖罪の気持ちをどれほど遺族に見せることができるかどうかが、
 大切なのだといわれた。
 それは当然のことであった。
 祖国統一に寄与できるものと信じ、躊躇することなく任務の遂行のために生命をかけて
 きた私が、こともあろうに無辜の同族だけを犠牲にする野蛮この上ない行為をしたにす
 ぎなかったという事実に目覚めたいまとなって、自分と自分の家族に対する未練がまし
 い行為は許されるものではなかった。
 私の力の及ぶ限り、骰残を尽くさなければならない立場にあった。
・考えあぐねた末に、私がみずから出向いてすべてを明らかにすることを了解した。
 「おっしゃるとおり、誠意を尽くしてすべてのことに協力を惜しまないつもりです」
 私としては大きな決断をしたのである。
・発表は安全企画部内の講堂で行われるということであった。
 私は記者たちを避け、講堂の裏の方に止めてある車の中で、捜査官と一緒にじりじりと
 しながら順番を待っていた。
 安全企画部の幹部が捜査結果の発表文を読み上がる声が、外にまでガンガン響き渡って
 いた。  
 私の耳には何十回もKAL機爆破犯・金賢姫という言葉が聞こえてきた。
 この言葉は私の神経を非常に刺激した。
・「私がKAL機を爆破した張本人であり、いまその事実を大勢の人の前で明らかにする
 ために直接乗り込んできているのだ。そして新聞や放送にでかでかと、この女が残酷き
 まわりない犯人であると晒されるだろう」
 そう思った途端、心の中で激しい動揺を感じた。
 北にいる家族のためにも、人前に、とくにカメラの前には出てはならないという思いが
 あった。
 バーレーンで捕えられ、引き立てられたときは不可抗力であったため、それなりに名分
 の立つものだと思えたが、今回は進んで自分の意志で話すわけだから、家族に及ぼす影
 響は、より大きくなるという心配があった。
・もし私を覚えている北の友達がこうした姿を見たら、私を汚らしく変節者だと罵るに違
 いなかった。
 私の顔が新聞やテレビに確実に映し出されるとき、すべては終わりのように思われた。
 世の中の関心が集中しているところに進んで臨むということは、侮辱に甘んじることに
 他ならない。
 なぜ私がそこまでつき合う必要があるというのか。
 これ以上、譲歩すべきではないという気持ちになった。
・「私は出席して話したくありません。なざ、そこまでしなければならないのですか。
 私にはできません」 
 私はあくまで意地を通そうとした。
 私の担当捜査官たちは、息が詰まったような表情を見せながら、狼狽しはじめた。
 「そんなつもりなら、最初から拒否すべきではなかったのかね。人を全部呼び集めてお
 いて、いまさら我を張ったりしたらどうなるんだよ」
・「よろしい。君がほんとうに話したくないのなら話さなくてもいいよ。しかし、君が真
 実を知り良心の呵責を覚えて自白し、正義の味方に立つようになったいまになって、
 こんなことを胃がなっていたら、結局、君は少しでも生命を永らえたくて卑屈になって
 屈服してしまったというふうにしか受けとられないと思うな。これは「本人しか決めら
 れないことなのだからどうしようもないけれど、君のせいで惜しい生命を奪われた霊魂
 が、決して喜ばないと思うんだがね」
 捜査官がきっぱりとした口調で話を中断して、席を離れた。
 本当に怒り心頭に発したように見えた。
 私にめったに怒ったことのない捜査官であった。
 私が正体を明かした後でも、私にもっとも寛大に対してくれた人であった。
 一カ月あまり、毎日彼と顔を合わせ彼の指示に従ってきた。
・彼が吐き捨てるようにいった言葉通り、私は誰にどう評価されようと、一人の人間とし
 てもっとも極悪な罪を犯した罪人だという事実は、いまになっては覆そうと思っても覆
 ることのできないものだった。 ~ 
 いま、故人の霊を慰めるために、再びこの地上にこのような極悪非道な犯罪行為が起こ
 らないために、私にできうることがあれば、この身を投じてもまだ足りないのではない
 か。
・「やります」
 私は捜査官の前で、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
 彼は私の背を数回軽く叩いた。
 「大丈夫だよ。勇気を出して。取調室で自白した通りに話せばいいんだよ。相手がわれ
 われだと思って淡々と話せばすむんだから」
・講堂に入った途端、カメラのフラッシュが私の行く手を遮り、講堂いっぱいに埋め尽く
 された記者たちの視線が私に集中しているのを感じて、立ちすくんでしまった。
 牛後から、誰かが一層力を込めて私の背中を押した。
 身体をどのように支えたらよいかわからず、斜め後ろ向きで立っていた。
 私はなす術がなくひとりの女性捜査官に誘導されるままに席に着いた。
・誰かが顔を上げるようにとマイクで注意するのが聞こえた。
 フラッシュが数えきれないほどたかれた。
 ひとりの記者が最初の筆問を投じた。
 記者たちは私の口からどんな第一声が出てくるかと、物音ひとつ立てずに固唾をのんで
 見守っていた。  
 「どうすればいんんだろう。どうしたらいいというのか・・・」
 二、三十秒の短い時間であったが、私にはいろいろのことを考えさせる長い時間であっ
 た。
 担当捜査官には、その時間が二、三時間にも思えるほど長く感じたといっていた。
 「ペオ・・・・ペオグラード・・・エソ」
 私の初めの言葉は、煩悩と葛藤の末に出たことを立証するかのように、無意識のうちに
 のろのろと吃りながら口をついて出た。
 私がもし外国人であることに意地を張っていたら日本語で「ペオクラード」と言ってい
 たであろう。韓国語で「エソ」は日本語では「で」に当たる。
・記者会見を終えて車に乗ると同時に、私は両手で顔を覆い隠して泣いた。
 私は深いどん底に転落してしまったような気持になった。
 私は何の間違いで、人間の屑のような状態に陥ってしまったのだろうか。
 この惨めな気持ちを紛らわす術がなかった。
  
・北朝鮮について一縷の未練を捨てきれずにいた頃、ひとつの事件が私を完全に転向させ
 る契機となった。
 南北赤十字会談(1972年)の折、張基栄氏に花束を捧げた花童(贈呈役の子ども)
 は本当は私なのだと主張してあらわれた鄭姫善という女性の事件がそれであった。
 彼女は問題の写真を手にして感情を昂らせて、こう言っていた。
 「これは私です。私なのに、真由美だなんて。当時、代表団に花束を渡した当事者がこ
 こにいるというのに、なんてことを言うんだろう。この女が真由美だなんてとんでもな
 い。人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしいよ。私がこのようにピンピン生きている
 っていうのに、私を真由美だなんていわれて黙っていられますか!ああ、私は我慢でき
 ません。この件にはっきり決着をつけなければ絶対に承知できません」
・鄭姫善と名乗った女性は、朝鮮総連を通じて日本の言論界に配布されたビデオ録画の中
 で、ヒステリックに大声でわめいた。
 私は生涯ではじめて、祖国によって裏切られたという気持ちを味わった。
 人生のすべてを捧げ尽くし、あんなにも苦痛に満ちた時間を耐え忍びながら任務を完遂
 したのに、このような捏造を行うとは、死ぬことがかなわず生き残ってしまったけれど、
 最後まで任務の遂行のために頑張ったのに。
・「いますぐ、その真由美だと言い張る女をここに引きずり出して決着をつけたいです」
 鄭姫善は口角泡を飛ばしながら興奮していた。
 「何てまあ・・・。悪い奴ら・・・」
 私はあまりのことに開いた口が塞がらなかった。
 私がここにいるというのに・・・。
 本当に決着をつけたいのは、他ならぬ私である。
 それなのにくだんの女が訳のわからぬことを叫んでいる。
 思わず憤りのあまり我を忘れてしまった。
・その女は手までぶるぶる震わせながら続けた。
 「私は自分の目で新聞を読みながら、航空機爆破事件についてあまりにも大袈裟に騒ぎ
 立てるもんだから、ああ、これは事件の捏造だなと気づいたんです。しかし何も事件に
 関係のない私を犯人だなんて、南朝鮮の傀儡どもがいままで連日騒ぎ立てていたことは
 100パーセント嘘だったんだ、全部捏造されたんだ、全部作為的なもんだ、私はこれ
 をはっきり知るようになりました。
 私はこの席で、その南朝鮮傀儡どものこのような卑劣な行為に対して、心の底からこれ
 を憎み、断乎糺弾して止みません」
・たぶんその女は、平壌のなんとかいう中学校で教えている教師だと記憶している。
 彼女は最後まで金賢姫という私の名前を出さなかった。
 「北朝鮮の中央テレビに出て、証言することはできないかしら」
 私はできることなら鄭姫善という女のいう通り、いますぐにでも北朝鮮のテレビに出演
 して彼女と対決し、真偽のほどをはっきりさせたい気持ちだった。
・私は憤慨して耐えきれずテレビを消してしまった。
 祖国は私を利用するだけ利用して容赦なく私を捨てたのだ。
 私は捜査官と次のような問答をした。
 「どう思いますか」
 「何のこと」
 「あの女のことですよ」
 「もともと、ああいうのが北側の手法なんだから、どうってことないけど」
 「われわれも反駁放送をしなければいけないんじゃないですか」
 「落ち着けよ。そんなことをすると、同じレベルの人間になっちゃうんだよ。彼らが望
 んでいるのは、われわれを混乱させることなんだ。自分たちがKAL機を爆破したのか、
 していないのかという根本的な論議をしていると、どんどん窮地に追い込まれてしまう。
 だから、突拍子もない枝葉の問題へと争点を移していくことによって、事件そのものを
 うやむやにしてしまおうという魂胆なんだよ」
・捜査官たちは興奮した私をなだめにかかった。
 私は祖国に対する憐憫のかけらまで完全に捨てることにした。
 血が煮えくりかえるような背信行為と、捨てられてしまった私の惨めな姿。
 私は、他人の顔もまともに見られぬほどうちひしがれてしまった。
・「そうだ、北朝鮮に生まれた金賢姫は死んだのだ。私は南朝鮮で新しく生まれ変わった
 のだ。私の祖国は大韓民国になったのだ」
 私は心を鬼にして北朝鮮を忘れることにした。
・「この服、着てごらん。いいだろう?」
 ある日捜査官は、また一着の服を買って来て、気に入ったかどうかたずねた。
 爽やかで明るい感じのブラウスと紺色のスーピースであった。
 本物の高級品らしい服であった。
 それを見た瞬間、「この服は、何回ぐらい着られるのかしら」という思いが先立ち、
 和足は触っていた服を押しやった。
 「どうした?気に入らないの?」
 「気に入ったところでしょうがないでしょう。何べん着られるかわからないものを・・」
 捜査官はやっと私の気持ちをわかってくれたらしく、慰めの言葉を見けようとしている
 ようだった。 
・「私、どうなるんですか?教えてください。処刑される日はいつなんですか」
 私は探るつもりでたずねた。
 「われわれも知りようがないよ。法の定めるところにより処理されるんだから。
 裁判を受けて公正な判決に従って処置されると思うよ」
 「裁判?私が人前に出て裁判を受けるんですか?」
・彼が新しい服を買ってきたわけが、ようやく飲み込めたような気がした。
 「嫌です。公正な裁判だろうと何だろうとみんな嫌です。ただ、静かに死なせてくださ
 い」   
・自白さえすれば、すべて終わると思っていたのに、日が経つにつれて、越さなければな
 らない峠が多いのに気づいた。
 捜査結果の発表に出席することから始まって、今度は裁判を受けなければならないとい
 う・・・。
 私は人々の前に立つことがもっとも恐ろしかった。
 しかも法廷では遺族たちも傍聴するという。
 その人たちの前に、私がどんな顔向けができるというのか、目の前が真っ暗になった。
・裁判を受けなければならないという話はとうに伝え聞いてはいたが、それだけは許して
 ほしかった。 
 ただかたくなに死にたいといえばいいのでは、考えながら、裁判を避けたいという思い
 でいっぱいだった。
・「いくら君があがいても、この過程は避けて通れない手順になっているんだよ。今回の
 裁判に出られなかったら、次の日に延ばされるだけのことで、それで終結ということに
 はならないんだから。まして一回で終わりというものでもなく、一年かかるか二年かか
 るかわからない。気持ちをしっかりと持たなければだめだよ」
 捜査官はゆっくり説明してくれた。
 彼はつねに私の側についてくれる人であると私は信じていた。
 ところが、裁判に先立って捜査官が書いた「意見書」なるものを見せられたのだった。
 私ともっとも親しくしている捜査官の署名入りの意見書を読みながら、私は再び生きて
 行く意欲すら失うような気分であった。
 「被告者、金賢姫の行為は、・・・法にそれぞれ該当する犯人の証拠が充分なので・・
 処分は当然だと思われます」
 という部分に目がついた。
 私の世話をし、つねに私の側についてくれていたと思っていた捜査官の名前に間違いな
 かった。
 私は南朝鮮における父親のように彼を頼ってきたのに、意見書にはそのように情け容赦
 なく記されていた。
 「私は騙されているんだ」
 まず最初にそんな思いが浮かび、地祇には悲しみがどっとこみあげてきた。
 信頼できる人はたっとひとりもいないという孤独感が私をおそった。
・胸は張り裂けるように痛み、涙は泉が涌くように流れ出た。
 泣いても泣いても、悶えのたうちまわっても過去に戻るすべはなかった。
 結局、死ぬとしてもソウルの空の下で死に、生きるとしてもソウルの空の下で生きてい
 くしかほかに方法はないことを、私はもう覚悟したはずだった。
 ソウルで自由に生きている人々が私はただただ羨ましいだけだった。
・裁判を受けることに恐れを抱きながらも、漠然とその結果に期待をしないでもなかった。
 捜査官のいっていたとおり情状が酌量され、極刑を免れることになるかもしれないとい
 う図々しくも厚かましい期待感があった。
   
死刑囚としての祈り
・1989年3月に第一回公判が始まり、1990年3月に判決が下りるまでずっと、
 ”死刑”という刑が下されることには何ら変わりがなかった。
 結局、死刑で終結されるものを、なんのためにそのような長い時間を浪費したのか、
 気が抜けるほどであった。
・新聞には「年内に特赦、刑の執行免除方針、特別赦免により救済されそう・・・」
 といった記事が活字になってはいたが、私はマスコミを信じなかった。
 それに、確かの根拠があって確実に話してくれそうな人々はみんな口を閉ざしていた。
・大それたことを引き起こしながら、生き残りたいと望んでいる私こそ、悪い女であり、
 だれを恨んだりできよう。
 「特別赦免などあってはならない」
 「極刑に処せ!」
 死刑が確定すると、遺族たちがスローガンを叫んで騒動を起こしたことを、新聞は報道
 していた。  
・遺族たちの叫び声や憎悪に満ちた喚き声が、いまなお耳に残っているようだった。
 その人たちの泣き叫ぶ声と身悶えを思い浮かべるとき、私はあえて生きていたいとはい
 えなかった。
 私が起こした事件がどれほどむごたらしいものであったか、いま、私は自覚している。
・バグダッドで飛行機に搭乗する際に、ラジオの電池を奪われたことがあった。
 女性検査員が冷ややかにその爆破用ラジオの電池四個を押収して、ごみ箱に捨てたこと
 があった。 
 そのとき金勝一と私はその電池を取られまいと必死に頼んだり抗議したりして、やっと
 の思いでそれを取り戻した。
 いま考えると、その日、その女性検査員が自分の任務にもっと忠実であったら、すべて
 の運命は変わっていたのではないかと残念に思った。
・死刑が確定してからというもの、私の生活はより一層、気のぬけた毎日の連続であった。
 新聞では死刑が確定されてから六カ月以内に軽は執行されなければならないと報道され
 ていた。 
 私は”六か月以内”という制限つきの人生になった。
・「どうなると思いますか?」 
 その度外れた罪悪についての羞恥の念と、取るに足りない自尊心のために、いつもこの
 言葉が喉に引っかかって出てこなかった。
 捜査官たちも私の迷いに気がついたのか、時折り、私を慰めるつもりでこう言った。
 「周りの人が最善と尽くしているんだよ。弁護士も青瓦台(大統領官邸)に陳情すると
 いっていたし、われわれも心から、あなたが死刑を免れるのを望んでいるんだ。しかし、
 いまになっては決定権はただ大統領お一人に委ねられているんだよ」
・とにかく、この人たちの話から推測すると、充分利用したんだからもうお払い箱にして
 しまおうという魂胆なのだろう。
 大統領だけが、唯一私の生殺与奪の権を握っているという言葉を繰り返すだけで、何の
 対策も講じていないことが恨めしかった。
 「大統領が赦免を行った前例はあるんですか」
 「さあ・・・一度調べてみないと。今度の大統領が、ある特定人物を赦免するというこ
 とはたぶんはじめてじゃないかな」
 「まあ、そんなことも調べないで何してたんですか?」
 「何だって?何してただと?どうやら神経がまいってるらしいな」
・私は弁護士からでも捜査官からでもいいから、赦免される可能性があるとか、あるいは
 死刑が執行されるだろうとか、もうちょっとはっきりした話を聞きたかったが、誰も確
 かなことは話してくれない。
 自分がしだいに、心細くなっていくのを感じた。
・1987年12月に、韓国の土を踏んで以来3年余私は何をしていたのか?
 心を焦がし気をもみながら自白した。
 葛藤と煩悩の時を抱きながら調査に臨んだ。
 ついには侮辱と辱しめを受けながら人々の前に立ち、罵られながら裁判を受けた。
 その歳月は、北での25年の生活よりずっと長く、うっとうしい歳月であったといって
 も言い過ぎではない。
・私はその間、韓国について多くのことを学んだし、資本主義国家の長所短所も理解でき
 るようになった。 
 やっと韓国がわかりかけてきたというのに、その中で生活らしい生活をしてみることも
 できず、人間らしい人間としての営みもすることなく死んでいくのが、たまらなく残念
 であった。