復活の日 :小松左京

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ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実 [ 高瀬毅 ]
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この作品は、今から56年前の東京オリンピックが開催された1964年に発表されたも
のである。56年も前と言えば、もうそうとう昔という感覚であるが、しかし、まったく
古さを感じさせない内容である。
特に、未知のウィルスによって人類が滅亡するという内容は、新型コロナ・ウイルスの感
染が世界中に拡がって、多くの死者が出ている今現在においては、とても単なるSFだと
はかたづけられない切迫感がある。
この作品は、1980年には映画化もされている。テレビでも何度か放送された。映画の
ほうは、この原作となるこの作品とはちょっと内容を変えているところがある。映画では、
主人公(吉住)がノルウェー基地から救い出したマリトというオリビア・ハッセー演ずる
美しい女性が出てきて、主人公とのベッド・シーンなどがあるのだが、この作品では、そ
ういう美女は出て来ない。この作品では、マリトにあたる女性は、イルマという高齢の女
性だった。おそらく、この作品が、あまりに暗い内容ばかりなので、作品にはないマリト
という女性を創り出して、少し彩りを添えたのだろう。
この本の中に、朝鮮戦争時にアメリカが、中国に対して細菌兵器を使用したということが
書かれている。これには否定論もあるようだが、アメリカが旧日本軍の「731部隊」か
ら得たデータをもとに、細菌戦を実施した可能性は、かなり高いと言われている。
今、世界を恐怖に陥れている「新型コロナ・ウイルス」においても、その発生源について、
アメリカが「中国の武漢の研究所から漏れ出たものではないか」と主張して、アメリカと
中国が激しく言い争いを始めているが、これも過去において、こういうことがあったこと
が尾を引いているからなのかもしれない。
また、この本の中で、1957年にアメリカ東部で起きたB47爆撃機から、あやまって
水爆が投下されたという事故についても触れられている。この時は、六段階の安全装置の
うち、五段階までが故障しており、水爆の爆発はたった一つの、最後に残った安全装置に
よって、かろうじて防がれたという。なんとも恐ろしい話だが、実際にあった話のようだ。
細菌兵器にしても、核兵器にしても、それを扱うのが人間である以上、絶対にミスは起こ
らないとは言い切れない。この本のように、細菌兵器として密かにどこかの軍の研究所で
研究されていたウイルスが、あやまって外にもれたり、誰かの手によって密かに持ちださ
れたりということが、起きないとは言い切れない。われわれは、核に対しては、かなり警
戒心は高いが、細菌に対しては、あまり知識がないこともあって、それほど警戒心が高い
とは言えない。
今回の新型コロナ・ウイルスに対しても、最初のうちは、たいしたことはないと、それほ
ど注意を払わなかった。それが今や、世界中の人々を恐怖に陥れている。感染拡大を防ぐ
ために、外出自粛が要請され、人影の消えた大都会の異様な光景を目にすると、こんな状
態がいつまで続くのか、この状態が終わった後に、果たして再びもとの生活に戻れるのだ
ろうかと、とても不安になる。この感染症によってもたらされる経済への打撃、雇用への
打撃、医療への打撃、子供たちの教育への打撃など、社会全体に対する打撃の深刻さは、
計り知れない。
そんな中において、わが国の首相は、自宅でゆうゆうとくつろぐ自分の姿を、Twitter動画
で発信して国民に見せた。「私のように自宅に留まってください」と言いたかったのだろ
うが、この動画を見て、多くの国民は愕然としたことだろう。首相官邸に留まって、新型
コロナ対策に奔走する姿ならまだしも、自分の命の危険を晒してまるで戦場の野戦病院さ
ながらに感染患者の対応に追われる医療従事者や、政府からの自粛要請で仕事ができず、
収入が途絶えて、明日の生活の糧をどうすればいいかと、茫然自失状態の人たちを尻目に、
これはないでしょう。今、国中が非常事態に陥っている最中に、これが首相のやることだ
ろうか。非常時なのに、平常時の感覚しか持てない今の首相や政府に、ただただ怒りだけ
がこみ上げてきたというのは、私だけではなかっただろう。
われわれは日頃、明日も今日と同じような日が訪れるだろうと思っているが、ある日突然、
こんなとんでもないことが起こるんだということを、身を持って思い知らされている。わ
れわれの平和と思われる日常は、実は、薄氷の上に成り立っていることを、あらためて心
にとどめておかなければならない。

プロローグ
・ネーレイド号の舵は、このクラスの原子力潜水艦はみんなそうだが、飛行機の操縦桿そ
 っくりになっている。ネーレイド号は、十五ノットの水中速度でまっすぐ大陸棚の上に
 さしかかった。その速度で進んでいる間、中央指令室では、誰もしゃべるものはなかっ
 た。館長マクラウド大佐は、もはやアメリカ海軍の軍人ではなかった。航海士の祖国も
 オランダではなく、操舵手の国籍も、イギリスではない。
・ネールレイド号は、潜望鏡深度で停止し、前後に海錨をいれた。豚の鼻のようなシュノ
 ーケルが、海面に上げられる時、艦内はいつも異様な緊張につつまれる。といって、そ
 れは「敵」の対潜レーダーを警戒してのことではなかった。レーダー波をつかって発見
 し、爆雷や対潜ミサイルでこの艦をしずめるような「敵」は、もはやどこにもいない。
 そのかわり、あらたな、奇怪で情容赦ない敵、常識をはるかにこえた「敵」が、緑色の
 なめらかな海面のすぐ外に、瀰漫しているのだ。
・「われわれは今、東京湾の浦賀水道にいる」「大気の検査がすむまで、二時間ほどかか
 るだろう」「そのあいだ、気球鏡をあげる。故郷を見たいだろう?」「ぼくのために、
 わざわざテレビ気球をあげてくださるんですか?」吉住は、しずかに言った。
・シュノーケルは、海面上一メートルの所から音をたてて空気を吸いはじめた。しかし、
 潮の香りとオゾンをふくんだ新鮮でさわやかな大気を艦内に送り込むためではなかった。
 北半球にはいってから艦内の酸素は、ほとんど水の電解によって供給され、炭酸ガスは
 空気清浄器で吸収されている。窒素の一部はヘリウムにおきかえられている。
・そしてシュノーケルから取り入れられる空気のパイプラインは、きちがいじみていると
 思われるほど厳重に密封され、つなぎ目はほとんど溶接、フレンジつぎの所も外から溶
 接したり、金属接着剤で完全に気密にされ、空気分子の一個でも、艦内に侵入できない
 ようになっている。万一の事があったら、艦長は自分一人の決断で、この艦を、大洋の
 もっとも深い所で、乗務員もろとも、自沈させなければならない。    
・完全なシールド・ポンプで吸い込まれた空気は、特殊な濾過円板を何層にもかさねた採
 取器に圧送される。各層には不透過性の膠質膜の小片がつけてあり、循環系内に気密に
 とりつけてある。小型の電子顕微鏡へ、遠隔操作で挿入できるようにしてある。
・海上四十五キロのかなたに、あの巨大な、かつての国際都市、最大時の人口千に百万人
 の大東京の骸があった。古びた東京タワーは、たおれもせずに、空を突き刺すようにそ
 びえていた。
・海面下数センチのプランクトンは生きている。それを食べる小魚も生きているのに、海
 面にうかぶ海鳥類はほとんど絶滅した。
・街路には、舗装のこわれた所から草がはえ、赤銹のスクラップ化した自動車が、塀や電
 柱にぶつかったり、道路のまん中に乗り捨てられたりしていた。白っぽいぼろきれのよ
 うなものが地面にへばりついていた。眼をこらすと、それはぼろぼろの服をまとった白
 骨だった。気づいて見ると、いたる所に白骨がちらばっていた。
・なにゆえに、そしてなにものが。いったい、いまなる狂暴で不吉な存在が、かかる災厄
 を、このうるわしい星の上にもたらしたのか?
・絶滅に瀕した世界の、あわただしい叫びや悲鳴、呻き声、そして一つ、また一つと五つ
 の大陸をうつっていた断末魔の絶叫を、空にはねかえり、大地で折れ、気圏をゆすって
 かけめぐる電波のさざなみの中にかすかにとらえた時、その時はただ、手のとどかぬと
 ころの肉親の死に、胸を裂かれ、血の逆流する思いに歯がみするばかりだったが、すで
 に事態はあらましつかめていた。
・そして、五億五千万平方キロの、全地球表面から、呼びかけにこたえる最後の声が聞こ
 えたのち、人々は怒りにもえて冥府の声を再生し、分析し、類推した。破壊はそれほど
 音もなく、なんの前ぶれもなく、繁栄と、よりかがやかしい未来に対する希望と、明る
 い喧騒にみちた時代の上に突然ふりかかってきたのだった。
・音もなく、そうだ。それは、人々があれほど恐れおののき、あれほど声高に否と叫び、
 ついに理性と人類愛の名のもとに、くみふせかけていたあの災厄、天よりおそいかかる
 閃光と白熱と火の柱による破壊とは、まったくちがったものだった。それは誰も知らぬ
 うちに準備され、突如としてあらわれ、気がついた時は、どうにもならなくなっていた。
・ようやく奇禍にみちた青年期を脱し、より高く、よりはるけき未来に冷静なまなざしを
 なげ、はじめて成年としての一歩をふみ出そうとした人類という若い巨人は、ふみ出し
 た途端に、ふとなにかにつまずいてバッタリとたおれた。そしてそのままになった。
・あり得ぬ事ではない。悠久の宇宙史の中で、太陽系第三惑星に発生した知的生物が、発
 生して間もたたぬのに、突如夭折したという事は、それは人類そのものの日常の中に、
 すでにパタンがあったはずだ。希望と未来にみちた、かしこく、強健な青年は、明日、
 あるいは次の瞬間、思いもかけぬ奇禍で死ぬかも知れない。彼のうちに秘められたいか
 なる才能、いかなる広大な可能性も、その不運を防ぐためには、なんの役にもたたない。
 挫折した種、中生代の恐竜は、なぜ突然消滅したか?消滅したのちに、その巨大さと力
 が、なんの意味をもつのか?
・だが、それにしても、生き残ったものの懊悩は果てしなくつづく。なぜ、こんなことに
 なったのか?どうして?たずねる事の無益さはわかっている。起こってしまったあとで、
 その原因を知った所で何になろう?ほろびたものは、もはやかえってこない。しかもな
 お、人はその源を求めつづける。推測の描き出すおぼろげな輪郭の彼方に、それは垣間
 見えるような気がする。人はすでに死に、また災厄は、時と規模において、予測をまた
 ぬ。しかしながら、すべての終わったあとで、人はなお理由をもとめる。
・理性とはその時すでに怨念に近い。だが、人間こそが、その死に対して理由をもとめる
 唯一の生物なのだ。彗星の衝突、大地の、あるいは宇宙の突然の変異、それならそれで
 よい。しかし、彗星であろうと、老衰であろうと、死は、なにものかによってもたらさ
 れるのではないか?
・この災厄をもたらしたものは誰だ?一人のきちがいか?それとも、あのときの人類の機
 構そのものか?ある時期の誰かのミスか?誰かが、そして何かが、それをもたらしたの
 は、すでにわかっているのだ。その誰かは、何人、あるいは何百人かの、「特定の個人」
 をさししめし、何かは、当時の、いや「二十世紀の政治体制のどこか一部」であること
 までは、わかっているのだ。   
・吉住は、この昼夜のない、巨大な鋼管の中で、もっぱら北アメリカ太平洋岸の海底でや
 った地磁気、地殻電流と重力の異常変動調査の結果をまとめていた。最初は、もとアン
 カレッジの沖合で、かなり大きな海底地震に遭遇したのがきっかけだった。彼は自分の
 理論を証明するために海底に測定器をおろしてびっくりした。ずいぶんあらっぽい測定
 だったにもかかわらず、記録用紙には、おどろくべき規模をもった地磁気と重力の変動
 が記録されていた。彼は少しばかり興奮し、やがてまた意気沮喪した。  
・吉住は、ネーレイド号が東京湾の奥にはいった時、許可を得て、アクアラングをつけて
 水中に出た。別に観測すべきことはなかったから、その水中行は、艦長の純粋な好意ず
 くだった。東京湾は、また「江戸湾」の面影を取り戻したみたいだった。しかし、中央
 区のはずれ、晴海埠頭のむこうに巨大な円柱脚と、泥土にうずもれた、数多くのはしけ
 や曳船の残骸だけが、かつての大東京の面影をかたっていた。荒川放水路の河口には、
 赤っぽい粘土に埋もれて、無数の白骨が、白い、陶器のかけらのように見えていた。
・人間にみち、やさしく、騒々しく、活気にあふれ、彼自身はあれほど不器用だった数々
 の快楽がうずまいていた世界、親しい顔をもった一億の人々、そして、とりわけ、彼は、
 郷里の彼が生まれ育った古い、屋根の大きな家の中に、苦しまずに死んだろうか、小心
 がだ気のやさしい兄夫婦の骨、ちいさく細い、甥の骨、そして、一千万の白骨にまじっ
 て、この巨大で雑然とした、「大東京という墓地」のどこかに横たわる、ある女性の白
 骨のことを思った。いったいなぜ?なぜこんなことに・・・
・三十数億の人間と、五千年の歴史と、最近百年のめざましい発展をとげた巨大な世界は、
 1960年代の末期に突如としておわりを告げ、人類の1970年代は、そこから南の、
 酷寒とあれくるう吹雪と、永遠の氷でとざされた苛酷な世界にのみおとずれたのだった。
 白い大陸にとじこめられた、わずか一万人そこそこの人々の上にのみ・・・
・これから海底に投下された、超音波航路標識をたよりに、スコット基地に帰投しなけれ
 ばならない。そこには、原子力潜水艦が冬をこせる唯一の急造ドックがあり、そこで交
 替をすませた乗組員は、この氷の大陸にちらばった、それぞれのかりそめの故国にむか
 って、また辛く、永い雪中の旅を続けて行かなければならないのだ。
  
第一部 災厄の年


・ポーツマス軍港(英国)から、さほど離れていない小丘陵地帯に、寒村にある、ひどく
 警戒厳重な陸軍関係の建物の入口で、憲兵のマークをつけた衛兵指令が、出て来た人物
 に言った。「ひどい天気ですな。カールスキイ教授」「明日から二週間、休暇なんでね」
 「ブライトンに義姉の所で、ミステリーでも読んで暮らそうと思うんだよ」
・教授は市内で酒場により、グロッグを二杯ひっかけて、またすぐ東にむかう。そして、
 車が走り去って十分もたってから、本物の教授が裏口から出てきて、そこでエンジンを
 かけっぱなしにしていた、銀色のベントリイに乗り込んだ。
・ブライトンの公衆電話から、政府、軍関係の秘密研究にたずさわるすべての学者を見張
 っている情報機関員の一人が、カールスキイ教授は、まちがいなく義姉の家に入ったと
 いう知らせを本部に入れた時、西むかったベントリイは、とっぷり暮れた農場と牧場の
 コーンウォールに向かっていた。
・さびしい農場の一軒家に、ベントリイが止まった。蒙古人のように、眼のするどい切れ
 上がった、浅黒い肌の男が、三人の男たちをつれて、教授をむかえた。
・教授は抑揚のない、かすれた声でいった。「あついものなら、ここにもっている」カバ
 ンから取り出された小型魔法壜を見たとたん、男の眼は、いっそう細って、針のように
 光り出した。   
・カールスキイは、いきなり床の上に中の液体をザっとあけてしまった。それから今度は
 壜の底に手をあてて、力いっぱいねじった。底がとれると、上の方の二重真空ガラス壜
 の下に、もう一つ、ずっと小さな、やはり内面銀メッキされた、平べったい二重真空の
 カラス壜がはいっている。 
・「摂氏マイナス十度前後で、そいつは胞芽の状態で増殖をはじめる・・・」教授は機械
 的にしゃべりはじめた。「マイナス三度をこえると、増殖率が百倍以上になる。零度を
 こえると、きちがいじみた増殖のしかたをする・・・」「摂氏五度に達すると、そいつ
 は、猛烈な毒性をもちはじめる。マイナス十度の時の約二十億倍だ・・・」
・「動物実験では、ハツカネズミが感染後五時間で、九十八パーセント死滅している」
 「大型哺乳類の場合、個体差はもっと大きくなるだろう。どっちにしろ、今の段階では、
 全然人間の手におえないのだ」
・「で、このMM−八七は・・・」と男はいった。「MM−八八だ・・・」と教授は言っ
 た。「M−八八は、MM−八七からつい十日前、変異種としてつくり出された。軍事用
 に実用化するために八七の毒性をうすめるつもりが、逆に二千倍の毒性をもつものがで
 きてしまったのだ。このことは、ほんの数名しか知らない」
・「けっこうです。あなたには、一週間後、ブラジルの銀行あてに五万ポンドはらわれま
 す」と男はいった。
・「そんなものは、一度も要求しとらんぞ!君たちは、僕の出した条件を確実に実行して
 くれればいいんだ」「ピルゼンのCB兵器研究所の、ライゼナウ博士にそのサンプルを
 個人的にわたし・・・」と教授ははげしく叫んだ。
・「失礼ですが教授、確実に、とはうけおえませんな、われわれはチェコと取り引きがあ
 りません」   
・「それでは約束が違う!おそらく、MM−八〇系列の対抗薬品をつくり出せるのはウイ
 ルス核酸研究の権威で、分子生化学専門のライゼナウ博士だけだ。この恐るべき人類の
 敵に対抗する方法をありとあらゆる人智を総合して研究するのを阻んでいるのは、国家
 機密というやつだ」と教授は言った。
・「正直いって、われわれは、仲介業者にすぎんのです。本当の注文主は、われわれから
 さらにワンクッション、ないしツウクッションおいた背後の霧の中に隠れています。い
 ずれにしても、われわれの知ったこっちゃない。われわれは引き合いを受け、見積書を
 出し、計画を立て、取引する、きわめて純粋なビジネスマンですよ」
・教授の顔は死人のような形相になり、激しくひきつった。あっという間にテーブルがは
 げしくひっくりかえされ、教授はボクサーくずれのような巨漢のもっている魔法壜にと
 びかかろうとした。しかし、教授の後ろにいた口髭男の方が、一瞬早く、ガッチリと教
 授を羽交締めにしていた。手慣れたやり方で、男の右手がさっと教授の首筋にのびると、
 シュッとかすかな音がした。とたんに教授の顔に、急激な弛緩がおとずれた。もがいて
 いた四肢の力が次第にぬけ、眼球がふるえ、全身が粘土のようにグッタリとなって、床
 の上にくずれおちた。 
・口のきけなくなった教授が、床の上にのびたまま、よだれをたらしながら、なにか言お
 うとした。「そいつが、どんなにおそろしいか・・・だれも・・・ふせげない・・・だ
 れも・・・気づかない」
・「われわれもひきあげよう。今からなら、たとえ教授が政府に告白する気になっても、
 MI6(英国秘密情報部)が動き出すまでに、十時間はある」
・男たちが外へ出た。裏手の納屋のほうにまわって行くと、ひどく旧式な双発小型機が、
 くろぐろとうずくまっていた。どうやら、前大戦の時、夜間戦闘機につかわれたモスキ
 ートそっくりの全木製の小型機で、まっ黒に塗られてあった。木製機は旧式だが、レー
 ダーにひっかからないので、夜間侵攻用につかわれた事がある。
・操縦士はエンジンをスタートさせながらきいた「どうでも、アンカラまで、一気にとば
 さなきゃならんのか?」「絶対に、だ」男は強い口調でいった。
・「こいつはガソリンがギリギリだな。この悪天候じゃ、もたねえかも知れんよ。アドリ
 ア海に不時着という仕儀になるかも知れん」「そんなこと、絶対ゆるさんぞ!」「ガソ
 リンがもたないなら、最短距離で飛べ」「そうなると、今度はガソリンを山ほど積んで、
 増槽二本もくっつけたまま、アルプス越えという、ゾッとしないことになるんだ。なに
 しろ、エンジンが時代もので、馬力がたりねえしな。高度一万フィートへひっぱるのは
 ホネだぜ」  
・双発木製機は、スタートラインについて、エンジンを全開にした。腹の下にかかえた、
 二つの増槽にヨタヨタしながら、それでもやっと離陸し、前の岡をとびこえると暗黒の
 夜空にとけこんで行った。
・1957年2月から翌58年へかけて、西堀隊長以下11名の第一次南極越冬隊が、最
 初に粗末な四つの小屋をたてた昭和基地は、七つのドームからなる半恒久的な大基地に
 なろうとしていた。1962年から1965年まで中断された日本の南極観測は、再開
 後ふたたび一つのピークにさしかかっていた。
・「気の毒といえば・・・」田口三佐は、煙突のない、ひどくのっぺらぼうな原子力砕氷
 船「知床」の艦橋後部をふりかえりながらつぶやいた。「第一次以後、ずっと南極隊を
 はこんだ”宗谷”も、これにくらべればずいぶん気の毒だったな。ひどく旧式で、ひど
 く中途半端なボロ船で砕氷能力は一メートル半だったというから・・・」「ソ連の”オ
 ビ”号や、アメリカの”バートンアイランド”号に、何度も助けられたって記録が残って
 ますね」「こちらもこの船にのった時は夢みたいだったよ。巡航速度二十八メートルで、
 燃料のいれかえは四年に一度、砕氷能力は蒸気砲と動力砕氷器併用で八メートル以上
 あるし・・・」
・ぼくらにとっては、なんだかおかしくてしようがないんですよ。もともとのきっかけは、
 IGY(国際地球観測年)でしょう。ぼくらは、いわば南極の学術観測という当初の目
 標を踏襲しているわけですよ。ところが、最近は、学術観測班はかたすみにおしやられ
 ちまって、資源調査とか、動力関係の耐寒テストとか、そんな事に熱がはいっている。
 といって、本気になって南極に都市を築くとか、資源を開発するとかいうには金のつぎ
 込み方があまりに中途半端です。アメリカみたいに、本気になって南極に宇宙ステーシ
 ョンを築くほど、はでな事をやらなくても、もう少しはっきりした目標があってもよさ
 そうなものですね」 
・「お役所おとくいの、”ツバをつけておく”というやつかな・・・それに、このごろ政
 治というやつは、次から次へとシンボルや目標をうち出して世の中をひきずって行かな
 いと、為政者が無能視されるからね。日本だって、まがりなりにも、世界に伍してやっ
 ているって所を見せなきゃいけないんだ。だからちいさなロケットで、小さな小さな人
 工衛星をソ連のスプートニクから何十年もおくれてやって軌道にのっけたりするんだな」
 田中三佐は苦笑しながらつぶやいた。
・もうずいぶん長い間なにごともなくすごして来たのだ。何度か危機が叫ばれ、何度も寸
 前で回避された。大国の経済破綻が、世界市場をくつがえすかと思われた瞬間さえあっ
 たが、それも結局はやや長期にわたる不景気という形で回避された。 
・フランスから吹雪をついてアルプスのモンスニトンネルをぬけ、イタリアにはいった夜
 行列車の運転手は、トリノの手前で、北方の山中に明るい爆発光が輝くのを見た。彼は
 すぐ車内の電話でトリノの警察へ知らせた。   
・調査は風のしずまった翌日おこなわれた。墜落地点はトリノ西方約三十キロのアルプス
 山中、吹雪の中をめくら飛行をやり、夜中、急に西南に変わった風のため、コースをあ
 やまって北方へ吹きながされ、アルプス越えの難所でたたきつけられたものと推測され
 た。
・乗組員の黒こげ死体が三つ、操縦席の残骸から発見された。機体はきれいにもえてしま
 っており、わずかにのこった胴体破片から、それが全木製機であることがわかって、以
 前国際警察に関係していたことのあった警部補の一人が、首をひねった。
・国籍不明ということが、いよいよ疑惑をつのらせた。NATO所属の情報将校が来て、
 破片の黒い塗料が、レーダー波攪乱目的のものらしいということがわかって、今度は各
 国の諜報関係が、ちょっと色めきたった。
・ちょうどその頃、ブライトンの義姉の家で、陸軍秘密職員のカールスキイ教授が、左手
 首動脈を切って自殺しているのが発見され、MI6が、調査に乗り出していた。けれど
 も、アルプス山中の遭難機と、五百キロへだたった教授の自殺をむずびつけることは、
 だれも思いつかなかった。
・遭難機の残骸の傍に、露出した岩にぶつかって、蓋がとび、ひきさかれ、ねじまがった
 ジュラルミン製のトランクの破片がころがっていた。なかのものは全部みえてしまった
 らしかったが、そこから十数メートルも離れた雪の中に、ブルーのブラスチック塗料の
 はげた薄い鉄板が、かろうじてもとの円筒形をたもってころがっており、付近の雪や、
 岩の上には、銀メッキされたガラスの粉々になった破片が、キラキラかがやきながら散
 乱していた。調査にあたった連中ややじ馬の靴の下で、岩角にのったガラスの破片は時
 折ジャリジャリ音をたてた。だが、靴の底にキラリと輝く微粉となって、わずかにくっ
 ついたガラスの破片も、彼らが山をおりる時、ほとんど、雪や岩根の間にまきちらされ
 てしまった。
 

・四月、北半球の春、南半球の秋、そして南極ではすでに冬ごもりの準備。
・今年は疑似ジステンバーの大流行のきざし・・・「犬の流行病かい?」吉住は吹き出し
 た。犬か、と吉住はふと家に飼っていた犬のことを思い出した。秋田犬の血が半分ばか
 りまじったちっともほえない駄犬で、ずばぬけてかしこくもなく、英雄的でもなかった
 が、吉住とどこか心がかよいあう所があった。古びたわが家の屋根、いつも身ぎれいに、
 きちんとしている、色の白い、小柄な母のことなどが、いっぺんに眼にうかんでいた。
 ゴンベエというふざけた名をつけた犬の世話は、老母と小学生の甥にたのんできた。
・そんなことを考えるのも、犬から、日本の春を思い出したついでに、春という季節が好
 きだった、ある女性の事を思い出してしまったからだ。幼馴染みというだけで、行きず
 り同然の、出発の少し前、取材に来た時にであった婦人記者で、都会的で、ひどくフィ
 スティケートされており、山男やきびしい自然より、おちついたレストランや、さわが
 しい酒場の好きな、独身女性だった。
・あなたがある日突然、きのう一杯飲んでわかれたばかりの知人が、わかれて家に帰る途
 中、バスのステップに足をかけようとして、そのままバッタリたおれて死んでしまった
 ことを知らされたとする。しかしそれと、その日の朝刊の二面のどこかに出ている小さ
 なベタ記事、「台北に奇病、集団心臓マヒ」という記事を、結びつけて考えるだろうか?
 おそらく誰も考えはしない。
・それに「死」というものは、あなたの考えているより、はるかに小さな社会的意義しか
 もたない。暗殺や他殺は別だ。しかし、どんなに有名な国際的人物の死でも、それが広
 義の「自然死」や「病死」の範疇に入れられる時は、人はちょっと睫毛をふせるだけで、
 あとは彼の死そのものの原因よりも、彼の死によってできた社会的空白を、誰が埋め、
 そのことによって社会はどう変わるか、という「生きている側」の関心事に話題が集中
 する。変死でない場合は、それが世界政治のカギをにぎる人物であっても、「まあ年が
 年だからな」とか「おや、若いのに気の毒に」とかでかたづけられてしまう。ましてや、
 この騒々しい世界文明の時代にあって、「死」は日常茶飯事だ。
・先進国では、不摂生からくる心臓病や、大気汚染からくるガンが、いまやあらたな、致
 命的文明病になりつつある。日本の総人口一億のうち、毎年ほぼ地方都市の人口に匹敵
 する八十万人の人が死ぬ。全世界の総人口三十憶のうち、ほぼイギリス一国に相当する
 五千万人の人間が死ぬのだ。
・人間でさえ、このとおりである。北イタリア米作地帯で、野ネズミの集団死が見られた
 ところで、そんな事はイタリア国内のちょっとした話題になっただけだ。北イタリアの
 人々は、ネズミの死ときいて、すぐに不吉なペストを思いうかべた。1340年代ヨー
 ロッパ大陸全人口の四分の一にあたる二千五百万人を殺したペスト大流行期、北イタリ
 アの保健当局は、すぐ、これは単なる野ネズミの流行病らしく、今のところ人間に害を
 あたえるような影響は見出されないと発表して、人々を安心させた。同じイタリア国内
 でさえ、ポー河の水源地帯、特にアルプス山中で、放牧の家畜、羊や、山羊や、牛の間
 で、原因不明の死がひろがりつつあるという事実と、このポー河下流の野ネズミの集団
 死とを結びつけることは、なかなかできなかった。
・スイス、オーストリアの乳牛の損害と、オランダ、ドイツ、フランスをはじめ、各地に
 増え始めた家畜の奇妙の死に、EECの農業畜産保健機構が、ようやく注目し出したの
 は、四月もすでに中旬に入ってからだった。だが、調査開始の段階では、家畜コレラ、
 鶏ペスト、 炭疽病や、場鼻祖病など、それまで知られていたいかなる家畜流行病の兆
 候も見あたらなかった。
・そのかわり、三月の中ごろから、アメリカ南部とヨーロッパとアジア中央部で、インフ
 ルエンザと小児マヒの流行が問題となりはじめた。奇病なことだが、小児マヒ、インフ
 ルエンザ、ペスト、天然痘など、悪性伝染病の病原体は、非流行期には大抵ヒマラヤ付
 近にひっそくしているらしいのである。 
・「ワクチン、ワクチン、っていうけど、つくるとなれば大変なんですよ。卵に菌種を植
 え付けて、ワクチンをつくるまで百日もかかるんです。いま製造能力も多少増えたけど、
 日本中の製造能力をフルにつかっても、さあ、全国民の三割分できるかしら・・・」
・「インフルエンザの死亡率は、年によってはわりと高いんですよ。特に抵抗力の弱い幼
 児や老人はね。大人だって、心臓疾患のある人や、肺炎などの併発症をおこした人は注
 意しなきゃ」 
・まだはっきりした集計が出てませんが、最近また”ポックリ病”ってやつが増えて来たん
 ですよ」「健康だった人が、夜中に突然ポックリ死ぬって話でしょ」「ええ、忙しい人
 間の疲労蓄積からくる、神経性の心臓麻痺らしいんですが、これが、この春からまた急
 に増え出してるんです」
・「ガンの特効薬ができたり、テレビの世界中継が実現するってのに、たかがインフルエ
 ンザぐらい防げないの?」「世の中ってそんなものですよ。火星にロケットを打ち込む
 のには、夢中になって金を使うのに、いま世界総人口に対してまともな医者と、医療設
 備がどのくらいの割であると思います?」「毎年の防衛予算の半分もくれりゃ、どんな
 流行病だって撃退して見せますがね」
・夜遅く、かなり酔って、則子は都心に近いアパートへ帰って来た。鍵をあけて、部屋に
 入ろうとすると、ドアにおされて、何か小さなものが、ズルっと床の上を動いた。酔眼
 をさだめて、その小さい、もこもこしたものに焦点をあわせた時、甲高い悲鳴がのどに
 噴きあげた。 
・則子は電話に飛びついた。「おねがい、すぐ来て!」
・「たかがネズミぐらいで・・・」と男は苦笑した。ねぇ・・・帰れないで・・・今夜は
 とまってって・・・私、こわいの」則子は椅子の背に上体をかたく押し付けたまま、男
 のほうを見ずに言った。
・男はゆっくりと、予期したような・・・あるいは厚かましく値踏みするような眼つきで、
 正面にすわった則子を見た。それからゆっくりと立ち上がると、テーブルをまわって則
 子の横に立ち、その肩に手をおいた。則子はかすかに身震いした。
・(私をしっかり抱いて・・・)則子は男の胸に顔をうずめながら思った。(バカ!いじ
 りまわしてほしくなんかないのに・・・ただ力いっぱい抱いて、このふるえをしずめて
 くれたら・・・」寝室の中で、男は写真立てを見つけた。「これは?」「ああ、それ?」
 則子は男の重みに息をつきながらつぶやいた。「今、南極へ行ってる人・・・」男はフ
 ンと鼻を鳴らして、その写真を伏せようとした。「さわらないで!」則子は男の体の下
 から叫んだ。  
・こんな所で、こんな格好で、私のベッドの上で死なれたら・・・男に妻子のあったこと
 が思い出されて、彼女はぞっとした。「ねぇ!」彼女は思いきり男の体をゆさぶった。
 頭がガックリと枕からおちた。瞬間、彼女は冷水をあびせかけられたような思いを味わ
 った。まさか・・・。「うう・・・」男はだらしなくうめいた。「帰って・・・」則子
 は安心と腹立ちから、男の体を寝台からつきのけた。
・出て行きなに、ドアの所で、もうすっかり情夫きどりの口調でいった、「ひるに社の方
 に電話するよ」つまらないことになった、と則子はドアに背を向け、シーツにくるまり
 ながら思った。ひるに社に電話するんだって・・・社外へ逃げていてやろう・・・。
 だが、逃げる必要はなかった。男が約束した昼の電話はついにかかってこなかかった。
 男は、則子のアパートから自分の車を運転して帰る途中、運転をあやまって、死んだ」
・「これはきっとまた米帝の陰謀ですよ。朝鮮事変の時、やつらが飛行機から、伝染病の
 細菌のついた昆虫やネズミをばらまいたのを知っているでしょう。東北地区でずいぶん
 たくさんの伝染病細菌がばらまかれて、遼東や遼西では肺炭疽病でたくさんの人が死ん
 だんですよ」  
・新種の家畜伝染病が、はげしいいきおいで日本の九州養鶏場地帯におそいかかった。
・このインフルエンザの潜伏期間が異様に短く、したがって伝染力がはなはだ大きいこと
 がわかったきた。二月から三月中旬にかけての発生時における比較的ゆっくりした拡大
 のテンポは、四月にはいるや、爆発的なカーブをとって上昇し出した。
・ウイルスのような、簡単な構造をもった微生物には、こういった流行途上における急激
 な伝染性の変化は、この場合ほど極端でなくても、起こり得ることなのである。
・全世界に”チベットかぜ”の流行が問題になったのは、四月前半の二週間の間だった。
 チベットかぜウイルスは、スピードアップされた国際交通を通じて、ほとんど全世界に、
 種を植え付けていたのである。
・潜伏期間の異様な短さは、朝、ある集団に一人の患者が発生すると、夕方にはその集団
 のほとんど全員がインフルエンザ症状を呈し出したというボンベイの報告によってわか
 った。潜伏期間はわずか十数時間ということだ。いままでもっとも短い潜伏期間は、
 1918年〜19年の大流行期に二十四時間が報告さえているだけである。普通なら、
 四十八時間内外だ。この異様に短い潜伏期間は、それだけウイルスの増殖力が強いこと
 を示し、したがってそれだけ伝染性がはげしいことを示している。
・これはまったく新しい型の・・・人類のほとんどが免疫性を持っていない新種のインフ
 ルエンザということだ。 
・この”チベットかぜ”発生とほとんど前後して、”仮性鶏ペスト”ともよばれるニューカッ
 スル病の、これまた新しいタイプの流行が、猛烈な勢いで、全世界にひろがりはじめて
 いた。このニューカッスル病というのは、インフルエンザウイルスと同じ「ミクソウイ
 ルス群」の一つによってひきおこされる。猛烈な感染力と、二〇パーセントから一〇〇
 パーセントにいたる高い死亡率をもった病気で、特に雌鶏は、これにかかったとたんに
 ほとんど産卵がとまってしまう。
・そしてこの時期に医師たちを愕然とさせたのは、その冬世界各地の”おたふくかぜ”の流
 行とかさなりあうようにあちこちで発生しかけていたこの家畜の伝染病が、春とともに、
 これまた全世界に蔓延の兆候を見せはじめたことだった。各地の養鶏場からおくられて
 きた報告をあわてて累計してみて、厚生省の防疫担当者は思わず愕然とした。孵卵器に
 かけられた受精卵のうち、発育途上の死亡卵の数が、三月中ごろから、急上昇しはじめ
 ているのだ。 
・これは何を意味するのか?答えは簡単である。新種インフルエンザ大流行に備えて、ワ
 クチン製造のためにぜひとも確保しなければならない数百万個の受精卵が、入手困難に
 なってくるのだ。    
・養鶏業者の間には、数日間のうちに全部の鶏がやられ、倒産したものがぞくぞくとあら
 われている。
・「こりゃいかんな!」阪大微生物研究所の梶教授は、顕微鏡をのぞきながらつぶやいた。
 「どうしたんですの?」研究室に、まだはいりたての女子学生がふりかえった。「血球
 付着がおこっとる・・・」「つまりこれはやな、Aマイナスウイルス型やのうて、HA
 型ウイルスの特徴や」「パラインインフルエンザと呼ばれるカゼの病原体や。この群れ
 のウイルスの一種は、1953年に日本の東北大ではじめて発見されとる。仙台ウイル
 スとか、インフルエンザD型と呼ばれているのがそれや」
・梶教授が発見したウイルスは、まったく新しい型であることが発表された。HA−3、
 カジ・ウイルスと名付けられたこのウイルスは、成人男女にも重篤な、呼吸器疾患を起
 こし、伝染性が強いばかりでなく、まもなく戦慄的な事実がわかってきた。それは、こ
 のHA−3ウイルスが、Aマイナスウイルスと混合感染すると、死亡率はほとんど七〇
 パーセントにはね上がるということが、確かめられたのである。
・かつてトラコーマウイルスの分離によって、ウイルス学に輝かしい業績をあげた北京の
 中華人民共和国血清ワクチン研究所は、今度のAマイナス型ワクチンが、人の血清中に
 つくり出す抗体力価が、異様に低いという重要な事実を指摘した。すなわち充分な免疫
 抗体を作り出すためには、A2型ワクチンの場合の、ほとんど三倍ないし五倍量のワク
 チンを必要とするということである。これはまた、一度快復した人間が再感染する可能
 性のあることを示しており、同時にかかったものがなおりにくいということを示してい
 る。 
WHO(世界保健機関)は、今度の”チベットかぜ”が、1918年〜19年の”スペイン
 かぜ”以来の世界的大流行になるであろうということを、全世界に向かって正式に宣言し
 た。「かのスペインかぜは約一年間に三波にわたってその最盛期をもち、当時の世界総
 人口の三〇パーセント以上が罹患し、実に二千万人の死者を出した。この数は、第一次
 世界大戦の全戦死者の数をうわまわるものである。現在までに報告されているAマイナ
 ス型感染による死亡率は、最高三〇パーセント、平均十五パーセントと非常に高い。そ
 こで重ねて警告しておきたいのは、世界中、一般人の間で、インフルエンザという病気
 が、体験上、比較的かるく見られていることである。この点、各国の保健責任者は、特
 に今度の流行のひき起こすかもしれない事態の重大さについて、一般の啓発に力をそそ
 ぎ、国民大衆に防疫に協力をもとめられたい。種々の悪要因の不幸なかさなりあいから、
 ”チベットかぜ”は、人類に対する重大な挑戦となるかもしれないのである」
・ショックを考慮して・・・さよう、あまりにも大規模な危険にさらされた時、専門家は、
 かえって事態の暴露をためらうものである。専門家のみが洞察し得る事態の重大さが、
 もし、一般に知れわたり、そのために、社会の中におそろしいパニックをひきおこすこ
 とになったら・・・。
・「中国本土だけが、まだ、正確な情報がはいっていません」WHO事務局の若い職員が
 言った。「中国は伝染病に関するかぎり、尊敬すべき国だ」「アルベール博士は、若い
 職員をたしなめた。「報告をまとめるにしても、あの国は広すぎるし、奥地というもの
 がありすぎるのだよ。それに、中国は朝鮮事変の時、アメリカ空軍によって細菌兵器の
 攻撃を受けた。その時以来、建国まもない中華人民共和国は、とぼしい予算と人員をさ
 いて、防疫研究に力をそそがざるを得なかった。今でも中国は、蚊やハエのもっとも少
 ない国として知られているが、これは1952年以来の、愛国衛生運動が続いているか
 らだよ。そしてこの害虫撲滅運動は、実に米軍にしかけられた細菌戦に対抗するために
 おこされたんだ。米軍はそのころ、細菌をバラまくために、飛行機から、細菌を感染さ
 せた蚊やハエや、ノミ、クモ、野ネズミなどを使ったからね」「アメリカが朝鮮事変の
 時、細菌兵器をつかったという具体的な証拠があるんですか?」「それは九八パーセン
 ト、事実だ。いや、当時調査にあたった学者たちは、百パーセント事実だと確信してい
 た。しかし、具体的な証拠としては二パーセントばかり不足していた」
・「1952年の1月、北朝鮮の安山で撃墜されたアメリカのB26の飛行士が二人、日
 本の岩国で細菌戦の訓練を受け、1952年の1月中に、合計十個の細菌爆弾を北朝鮮
 に投下したと証言した」「そもそも細菌兵器に使用は、1950年の米軍退却の時から
 しいよ。巨済島の捕虜収容所で、捕虜に人体実験をやったことも、上陸用舟艇の中で、
 北鮮中国の捕虜にペスト菌を注射し、釈放したことも、ほとんど事実らしい」「朝鮮事
 変の時、細菌培養の一部が日本本土内でもおこなわれ、旧日本陸軍の医療関係者と、一
 部の学者がそれに協力したらしいことも、ほとんど事実のようだ」
・「ダグラス・マッカーサーが極東司令官を罷免されたのは、彼が鴨緑江をこえて中国に
 侵攻するのと、原爆を使おうとしていたのと、この二つの意図が問題になったとされて
 いたね。だけど、細菌戦の実施と、失敗と、それが明るみに出かけたことも一つの理由
 になっているのじゃないかと思うね。また別の考え方をとれば、あえて細菌戦のような
 危ない橋をわたったのは、彼が核兵器使用も含む、中国との全面的戦争を決意していた
 からではないかとも思われるね。大陸本土で決戦となれば、失敗に終わった細菌戦など
 とるにたらないものとなるからね」
・「君にこんな話を聞かせるのは、つまり、保健衛生という人類的使命をおこなったわれ
 われの仕事も、政治のカベというものがあり得るという事を知っておいてもらいたいか
 らだよ。個々の人間はそれぞれ理由をもって行動し、決してバカなどではない。バカど
 ころか、それぞれの分野では、たいへんな知恵者ぞろいだ。しかし、人類総体の見地か
 ら見た時、そのやっている事はきちがい沙汰みたいなことが多い。医学は人命を救おう
 とする一方、呪わしい細菌兵器の研究にも利用されている。核兵器も電子工学もそうだ。
 一方で人類を助けようと努力し、他方で人類をしめ殺そうと努力している。私にいわし
 むれば、核実験の部分的停止よりも、各国の政治家が憂き身をやつしている、政治的リ
 アリズムとやらを、一年間停止した方が効果があるんじゃないだろうか?」
・「細菌戦の準備をやっているのはアメリカだけじゃない。ソ連もイギリスもやっている。
 私の祖国だってやっている。南米のどんでもない国や、東欧中近東の小国だって、やっ
 ているらしい。NATOにだってあるかもしれない。だが、そいつを実際使ったと考え
 られているのは、第二次大戦中の日本と、朝鮮事変のアメリカだ。ナチも東部戦線で少
 しは使ったらしいが、ヨーロッパでは、国同士がまじりあっているから、彼らはむしろ
 毒ガスに力を入れた」 
・「朝鮮事変の時、アメリカは毒ガスも使ったといわれているがね。とにかく現在は、世
 界中の科学者の、何十パーセントかが、大量殺戮用のいまわしい兵器を、直接研究して
 いるんだよ。私たちが、全世界を疫病から救い出したいと努力しているこの同じ瞬間に、
 かた方ではわれわれの同業者が、どうやったら確実かつ迅速に、恐ろしい疫病を流行さ
 せることができるか、どうやったら、仮想敵国の疫病体系をズタズタにすることができ
 るかという事を、われわれよりも、もっと豊富な予算と、もっとぜいたくな設備を使っ
 て研究しているんだ。相手が持てば、自分も持とうとする。この悪循環は核兵器の場合
 とまったく同じだ」   
・国際的な総合防疫体制は、すでに大きな打撃を受けていた。ある国では、防疫体系はす
 でに潰滅的な打撃を受け、なりゆきにまかせにするより仕方がないありさまだった。あ
 らゆる情報網と、防疫陣の相互流通を可能にするような、機動性を持った世界的な立体
 的総合的防疫体制そのものが、本来まだ構想の域を出ず、これを機会に一部が急速に実
 施にうつされるようとしていたものの、蔓延に備えるというよりも、これ以上の蔓延を
 食い止めることができるかどうかという点が憂慮されているような状態だった。
・全世界の防疫陣は、この新種のインフルエンザの猛攻に対して、受精卵によるワクチン
 製造を組織培養法に切り替え、困難な闘いの準備を着々と進めつつあった。しかし、彼
 らはこの”チベットかぜ”の背後にかくれて、もう一つの、本当の恐るべき影が、次第
 に世界の全域に向かってのびつつあることにまだ気づいていなかった。
・ウイルス、この世界の中の最小の生命体。物質と生命との境界領域にひろがる、極微の
 謎。1898年に、はじめてその存在が立証されて以来、一世紀近くにわたって数多く
 の学者たちによって追究され、特に1950年代から60年代にかけては、解像力五オ
 ングストローム以上という超高倍率電子顕微鏡の出現、培養法に関する数々の新発見に
 くわえて、生化学、分子生物学、分子遺伝子、ガン研究、電子計算機の使用による統計
 学的研究など各分野の総合と、国際研究組織の発展によって、その研究は実に爆発的な
 飛躍をとげたのであるが、しかもなお、解明のメスが進むにつれて、そのはらむ複雑性
 はますます深まっていった。
・その一方、この巨大な進歩をとげつつあるウイルス学の防疫面への応用は、病原ウイル
 スの分離、培養によるワクチンにたよるよりしかたがなかったのである。しかもなお、
 すでに四百余種発見され、なお未知の種類の発見が続いているウイルスにおいて、同一
 種の中で新型誕生はきわめて簡単であり、また継代増殖中、ほとんど性格の予測できな
 い変異種が、突然うまれてくる可能性も充分あったのである。
・不幸な偶然、というよりほかない。こんなにも、不幸な偶然がいくつも重なり合うこと
 があり得るだろうか?しかし、普通「大事故」と呼ばれるものが発生する場合、不幸な
 偶然が、ほとんどあり得ないほど累積し、さまざまな安全装置が、将棋だおしになり、
 一挙に大事故が出現するのである。  
・事故が「大惨事」になる一歩手前で、助かる場合も、偶然の小さなスイッチが、右にふ
 れるか、左にふれるか、そのわずかな兼ね合いで決まることがある。これはあまりに有
 名な話だが、1957年アメリカ東部のノースカロライナ州上空で訓練飛行中のB47
 爆撃機から、あやまって、水爆が投下されてしまったことがあった。この時はさいわい
 爆発しなかったが、そもそも、そんな物騒な兵器を、それも肥沃で人口稠密な東部の州
 の上で、「あやまって」おとすというのが、不幸な偶然ではないか?しかも、その水爆
 をあとで調べたところ、水爆を偶然の爆発からまもる六段階の安全装置のうち、実に五
 段階までが故障しており、爆発はたった一つの、最後にのこった安全装置によって、防
 がれたというのである。
・防疫陣は、正面の闘いに大わらわで、背後に忍び寄る影にまだ気がついていなかった。
 そして、大事故や大惨事の場合に常にそうであるように、それは、ある隠密の期間を過
 ぎたのちは、あっという間に手おくれになったしまうのだ。
・”チベットかぜ”の猛威は、徐々に頭をもたげはじめてはいたが、季節は、北半球で一 
 番快適な気候にむかって進んで行った。観光客はヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフ
 リカと世界中をうろつきまわった。
・日本では、社会面のトップは、相変わらず凶悪犯罪、交通事故、そして「”チベットか
 ぜ”で××名死亡」「各地で臨時休校」の記事は、まだようやく三段から五段記事になっ
 たところだった。家庭欄には、あいも変わらぬ「カゼの予防法」社会二面に「ゴールデ
 ンウイークの外出、人ごみは避けて」という、はなはだ無理な、厚生省”チベットかぜ”
 対策本部の要請。  

初夏
・「イギリス陸軍細菌戦研究所で、すごいのをつくりかけているらしいという情報は、こ
 ちらもソ連経由でつかんでいる。だけど、陸軍にしてみたら、ちょっとばかり躍起にな
 る理由があったんだ。何しろ、その細菌だかウイルスだかの原種は、こちらがフォート・
 デトリックから盗まれたものだったんだからな」
・「もとはといえば、ほら、ブルックスの航空研究所で、宇宙から採集したとかいう妙な
 細菌があったろう」「ああ、あのやたらに増えて、始末に困っているやつか?」「そう
 だ。あいつを、フォート・デトリックで研究していたらしいが、これが一年ちょっと前
 に盗まれて、売られた先をたぐったら、ポートンにおちついたってわけだ」
・「その日から二、三日たって、イギリスのブライトンで、細菌戦研究所員のカールスキ
 イって男が自殺したんだ。なにか事故があって、奴らの仲間が、盗み出すのに失敗した
 んじゃないかな」 
・「今度の”チベットかぜ”は、どこかの国の細菌戦用のウイルスが、引き起こしたんだ
 という流言が流れている」「市民の間でか?「いいや、専門家の間でらしいが・・・」
 「悪意のデマだな。第一、インフルエンザウイルスなどは細菌戦の役にたたんだろう?」
 「いいや、役に立つよ」「インフルエンザウイルスというのは不思議な生物でね。いく
 らでも変種ができるんだよ」「とにかく、これくらい、手厳しい新種ウイルスなら、り
 っぱに戦略的価値をもつね」「見たまえ、ここ二、三日、ニューヨーク株式は暴落につ
 ぐ暴落だ。東京じゃ株取引所員が大量欠勤で、休場しそうな気配だ。臨時休業しなきゃ
 ならない工場の数千二百、このうち大企業の主力工場が十七も含まれている。臨時閉鎖
 したオフィスが七百八十、航空機の定期便は六〇パーセントが休航で、列車のダイヤも
 めちゃくちゃに狂い出している。交通事故はこの一週間で、七二パーセントの上昇だ。
 たかがインフルエンザで、全アメリカの機能が麻痺状態に陥りつつあるんだぜ」
・「もし、イギリスの連中に連絡がつくんだったら、すぐにそいつの研究をやめてしまえ
 と言ってください。一匹も外へもれないように、全部焼いてしまえと・・・いや、そん
 おそろしい研究は、全部廃棄してしまって」「あの菌種は、ばけものなんです。第一、
 この地上のものじゃない。この原種は1963年から64年へかけて、人工衛星が地上
 三百キロから五百キロの高層の宇宙空間から採集してきた微生物の一つです」 
・「絶対真空と絶対零度と放射線の嵐の宇宙空間でなお生きている超常識的なこういった
 微生物のすべてに共通する特徴は、地上的環境における驚異的な増殖力です。盗まれた
 原種RU三〇八は、この宇宙の細菌の一つから継代改良でつくられました。これには、
 本当なもっとおそろしい秘密があるんです」
・「これがどんなにおそろしいかは、どこの国の医者も、RU三〇〇系列の細菌の正体を、
 その菌がどんなものであるかということを知らないということですよ。この細菌戦研究
 所の、われわれのセクション以外の学者は誰も。人工衛星で採集された微生物も、全部
 軍が秘密のベールをかぶせてしまって、一般には誰も近寄らせない。世界の学界は、ま
 だこの系列について、何も知らないんですよ・・・」
・「RU三〇八自身は、一見ありふれた、無害の、しかし抗生物質のきかない球菌の一種
 にすぎません。実をいうとRU三〇八は、本当におそろしい病原体の隠れ蓑に使われて
 いるんです。これがもし、外へ出たら、あるいは実戦に使われたら、世界中の医者が、
 まだ誰も知らない病原体・・・しかも、真の病原体は、なかなか見つからないでしょう。
 このRU三〇八を隠れ蓑に利用したメカニズムの原理がわからなければ、ほとんど絶対
 に、見つからないでしょう」
・「国防のため?力の均衡?きりがない。本当にきりがない。核兵器はもう飽和点に達し
 ちまった。だから米英ソは、核兵器廃止協定に踏み切ろうとしている。そんな時代なの
 に、どうしてこんなおそろしい仕事をまだ続けなけきゃならないんですか?核兵器は、
 威力という点で飽和点に達したのに、この分野は底なしの泥沼だ。ここでは、いくらで
 も、無限におそろしいものが、しかも人目につかずに生み出し得る」
・一年以上にわたる彼の精神的緊張は、室長として、細菌を盗まれたということより、む
 しろ軍の研究員として、研究結果の忠実な報告を、この一年間わざと怠り続けたという
 ことによって、もたらされたものだった。RU三〇〇系列の一つが優秀な助手によって
 盗まれた時には、助手はひょっとしたら、彼より先に、この菌の特殊性に対する見落と
 しを持っていたかもしれない、この系列から引き出しうる脅威について、彼も、またほ
 かの科学者も、まだ三分の一も知っていなかった。
・もし、正確な報告をしたら、軍人たちは、必ずとびつくだろう。これは超水爆や中性子
 爆弾以上の威力ある武器として、しかも絶対秘密の武器として、彼らを喜ばせるだろう。
 しかし、四年以上にわたる研究所生活で、いろいろな軍人に接しているうちに、彼は、
 軍人たちの、「結果」に対する想像力に、疑問を持つようになっていた。彼らは確かに
 勇敢だった。だが、彼らはその時、その時の場当たりな「必要」のしもべだった。彼等
 は、核兵器よりも数千倍も安上がりで、しかもはじめて、航空機散布によって、核兵器
 同様、あるいはそれ以上の効果をあげうる細菌兵器を手に入れて、狂喜するだろう。    
 というのは、従来の細菌は、大抵敵方にも一般に知られているものであり、また多くの
 宣伝にもかかわらず、実際使用にあたって、予期されたほど強力な効果を得られなかっ
 たからである。しかし、これはちがっていた。大気圏外よりもたらされた、この悪魔の
 子は・・・。
・彼は問題のありとあらゆる側面を、もうとっくの昔に検討し尽くしてしまっていた。全
 世界の防疫関係の能力、伝染スピード、そうならないかもしれないあらゆる可能性、人
 知れず集めた、社会防疫関係の一切のデータや、伝染病蔓延の歴史やその関係の連中、
 つまり細菌戦の戦略的実施の専門家や、公衆衛生の専門家から、それとなく聞き出した
 いろいろなファクターを累積してみて、彼ははっきりと、「結果」について確率的予想
 をたてることができた。病原体は、それ自体のもっている毒性以外のさまざまな要素に
 よって、はじめて社会的問題となる。まずその病原体が、まだどこでも知られていない
 こと、したがって早期発見が困難であること、伝染経路がわかりにくいこと、今まで知
 られている治療薬が、きかないこと、増殖力が強いこと、それが疾患を引き起こす身体
 器官がきわめて重大なものであること。RU三〇〇系列は、このすべてにわたって「危
 険」だった。 
・いったん、フェルミやアインシュタインは、ヨーロッパから亡命してきた、これらの科
 学者は、政府にマンハッタン計画をすすめた時、それが十五年後にどんな結果を及ぼす
 ことになるか、はっきり知って、計画を推進したのだろうか?ヒロシマ、ナガサキに第
 一号、第二号がとおされるとき、彼らはその「被害」をついて完全に正確なデティルに
 わたって想像できたのだろうか。一体これは、使用者と政治ばかりが責められるべき問
 題だろうか?
・政府にすすめてこれをつくり上げた科学者たちは、攻めを逃れることができるだろうか?
 科学や常に両刃の剣であろう。しかし、ことらからすすんで軍神の手にそれをあたえ、
 強力してやったことについて、学者たちは、何の懊悩も感じていないのだろうか?闘い
 の原理がいかに容赦ないとはいえ、いや、だからこそ、それが実地に使用される可能性
 が弱まる時期まで、科学者は、それを政治の手に引き渡すのを遅らせるべきではなかっ
 たか?
・十年前に、すでに科学者は、未知のおそろしい生物兵器が誕生し得る可能性を予見して
 いたのだ。それから十年、年々ふえて行く予算と、一方でその後爆発的に発展した分子
 生物学、遺伝子の理論を片っ端から取り入れて、突然彼は、RU三〇〇系列の秘密とい
 っても、所詮は巨大な組織の中の自分のせまいセクション内でのみの発見にすぎないこ
 とを感じた。巨大な軍の研究組織の中で、一部分の比較的重要でないポストにいり彼に
 は知らされない、もっとたくさんの、おそるべき発見がなされているかも知れないのだ。
・彼が陸軍病院へ連れ去れた頃、大統領は、深刻な顔つきで、国防長官の報告を受けてい
 た。財務長官が同席して、同じような深刻な表情をしていた。”チベットかぜ”の威力
 は、予想外に深刻な打撃を、国防関係にもたらしつつあった。陸海軍の常備兵力の、す
 でに五分の一がインフルエンザのために銭湯不能に陥っている。ワクチンの製造は、全
 然間に合わない。今までのストックの全然ない”新種”ウイルスであること、ワクチン
 力価が低いため、通常の三倍量を必要とし、またアレルギーを起こしやすいこと・・・。
・「ここは一つ、ぜひ、国防関係のワクチン確保に、特別措置をお願いしたいのです」国
 防長官は、ひざを乗り出すようにして言った。「いや、長官・・・」と大統領は苦しげ
 に言った。「私は国防関係ももちろんだが、全アメリカ国民の生命財産について責任が
 ある。民間産業、交通機関の受けつつある打撃は大変なものだ。特に小学校の児童が、
 集団休校に入った学校はいくつあるか、数も覚えられないくらいだ」「北米防空司令官
 は、防空組織や軽快組織の正常運営が、このままでは、今週中に保てなくなると報告し
 ています。常時出動態勢にある爆撃機は、来週中に半分になるだろうとさえ言っていま
 す。ミサイル迎撃システムや報復攻撃システムについての連中の、精神的緊張を考えれ
 ば、インフルエンザによる身体コンディションの悪化が、どんな偶発事故を起こすかわ
 かりません」
・それは大統領も考えていたことだった。彼は、ホワイトハウスの地下九階の特別シェル
 ター内にある、赤いスイッチのことを考えた。そのスイッチは、対ソ強硬論者の全大統
 領時につけられたもので、ちょっと見た所はわからない、壁面パネルの、隠しポケット
 の中に取り付けられてあった。軍縮論者である現大統領にとっては、胸くそ悪いしろも
 ので、在任中、「政治的に」取り外してしまうと思っていた。毒ガス、その他宇宙から
 の奇襲攻撃による、防衛システムの人員損失に対する、全自動報復システムへの切り替
 えスイッチ。   
・「公共建築物の臨時病棟転用はスムーズにいっているか?」「要入院患者に対して病院
 の数はまだまだたらん。おまけに今度は医者の数が足らなくなってきた。医者や看護婦
 でも、やっぱりかぜはひくからな」WHOの声明に対して、すかさず行政的な対策を講
 じたのは、アメリカが一番早かった。にもかかわらず、こんな状態なのだ。
・「むこうの学者たちは、流行っているのはインフルエンザだけじゃないかも知れんと言
 い出してとるぞ」「統計的に見て、死亡率があまりに高すぎるというんだ。すでに罹病
 者の死亡率は二〇パーセントの大台をこえてとる」「どうやら”チベットかぜ”に隠れて、
 もう一つのまったく新しい伝染病が・・・」
・「カールスキイは、病原体、つまり生体ウイルスの形態を経ずに、増殖して行く、純粋
 な核酸兵器の可能性を思いついたのです。そして、偶然、研究を命じられた新しい病原
 体から、それをつくり出してしまったのです」「それが、あのMM系列とかいう細菌で
 すか?」「あれは、よく知りませんが、どこかの国から盗んで売りつけられたものだそ
 うですね。ソ連ですか?アメリカですか?」「それは関係ない。でも、なんでも、”宇
 宙から”採取してきた菌だそうです。MM系列という名も、そこに由来するんですよ。
 MMとはつまり、”火星の殺人者”という意味です」
・「あれは、大変なしろものですね。宇宙からどえらいものを見つけたきたものだ。こい
 つが地上的環境では、通常のブドウ状球菌の数百倍にも相当する猛烈な増殖スピードを
 もっている」  
・「カールスキイがコーンウォールへ行って帰った当夜、アルプスのイタリア側で墜落し
 た国籍不明機があったということ。翌未明、トルコのアンカラとイスタンブールで、ア
 メリカの諜報部の連中が、何かを待ち受けていたらしいということ。その連中と、職業
 スパイの一味の間にちょっともめ事があったということ。これだけのよせ集めの事実を、
 つなごうと思えばつなげます。しかし決定的な証拠は何もない」
・「研究者というものは、いつでも実際的効果を誇大に考える傾向があるんだよ。所長と
 してわしの見解を言わせてもらえば、MM系には、まだそれほどの威力はないと思うな。
 わしは実戦というものを知っとるからな。学者は紙の上で、事態をストレートに考える。
 しかし実際の場合は、いくつもの偶然が重なって、決してペーパープランほどの効果は
 あがらんもんだよ。考えてみたまえ。アメリカは朝鮮で細菌兵器をつかったが、実際の
 効果は、予期されたものの数パーセントしかあがらなかった。共産軍は、マッカーサー
 の考えたように、潰滅的な混乱などに陥らなかったよ。MM−七九で人類が全滅するな
 んて、おとぎ話だよ。たかが細菌で、人類が亡びるなんて、空想科学小説めいたナンセ
 ンスにすぎん。わしはベガトン水爆が世界中に落ちたって、なお人類は生き残り、生き
 残った方が勝利者になるだろうと信じとる」
・カールスキイ事件の舞台裏というものは、あらかたつかんでいたのだった。カールスキ
 イがなぜ、あの潔癖な男がなぜ、国家機密をもらすような大それたことをやったのか、
 取引をした職業スパイ団体は何か、その機密を、仲介スパイの手から買い取ろうとして
 いたのは誰か、そしてその取引は成功したかどうか。これらはすべて、この三カ月の間
 に、情報部五課の手によって極く秘密に調べ上げられていた。しかも彼は、この事件を、
 情報部長、大臣諒承のもとに、闇にほうむるつもりだった。
・「君の所は、まさかの時は、どういう処置をとるようになってるね?」「われわれは、
 常時三十五トンのTNTと暮らしている」「知っているのは警備主任と、わしと、ほか
 にもう二名・・・スイッチはわしの部屋にある」「細菌類の処置は?」「爆発前に、摂
 氏二千度のナパームジェリーの炎がかたづけてくれるはずだ」
・「しかしだね。もしこのMM系がカールスキイからスパイ団の手にわたり、それが万一
 途中で外部にもれて、ランドンのいったようなおそろしい原因不明の悪性流行病をまき
 起こしたとしたら、われわれは、ある場合には、人道的見地から、MM系のこと一切を
 公表する決意をする立場に立たされるかもしれん」
・「バカなことを言うな。祖国の国防の任にある君が、そんな気の弱いことを言ってどう
 する?そんなことをしたら、英国の体面と、国防上の機密と、二つながら傷つけること
 になるぞ」「たとえばそんなことになっても、君こそは、英国の威信のために、あくま
 で英国の責任を否定しなければならなん立場にあるはずじゃないか」
・ゴールデンウイークもとうに過ぎたある日、朝七時半から八時半にかけて、東京の環状
 線にのって都心に向かう通勤者は、なんとなくいつもとちがうあたりの様子に、ふと気
 づいてびっくりするのだった。その五月はちがっていた。都と国鉄の悪夢においかけら
 れるようなラッシュ緩和の努力が、ついに実ったわけでもない。むしろ、運転、保安要
 員の確保が次第に困難になり出して、国鉄はラッシュ時のダイヤを組み替えて、運転回
 数を減らさざるを得ななかったのだ。
・五月だというのに、合オーバーを着こんで、首に絹マフラーをまき、汗をかいている男
 がいた。車内をちょっと見渡せば、花びらのように白いマスクが点々と見え、人々はあ
 らためて、このガラガラにすいたラッシュ時の上り電車の中で、隙間風のの吹くような
 うそ寒い感じにおそわれるのだった。そして、そのとたん、その背筋を走る悪寒が、あ
 のいまわしい”チベットかぜ”に感染した兆候ではないかと思って、ギョッとする。誰か
 が熱っぽいうるんだ眼をしており、誰かがはげしい咳をすれば、人々はうす気味悪そう
 に、横を向き、身を引く。しかし、その人々もまた、ほとんどが、眼や呼吸器に重苦し
 い鎮痛を感じているのだった。厚生省の手もとに来ている非公開のデータでは、日本全
 国の”チベットかぜ”罹患者は、すでに三千万人に達しようとしていた。都市部、人口稠
 密地帯では、罹患率は七〇パーセントになろうとしていた。”チベットかぜ”が、最初日
 本に上陸してから、まだ二か月しかたっていない。しかも、死亡率は不気味にじりじり
 と上昇を続け、都市部では二五パーセントをこえようとしている。
・たかがインフルエンザじゃないか・・・。そのたかがが、どこか心の奥底の方で、まさ
 かにかわりつつあった。 
 ◇せ・パ両リーグ今シーズンのスケジュール変更
 ◇大相撲夏場所休場
 ◇劇場ミュージカル、上演中止
 ◇五月の工業生産指数、二二パーセント低下
 ◇ダウ依然暴落
 ◇生鮮食品暴騰つづく
 ◇インフレの危険増大
・まさか。いや、ひょっとしたら・・・あなたは不安にかられて、薬屋に走ろうとする。
 あなたは、恐怖にかられて、やみくもに医師の家へ、病院へと電話をかけてみる。どこ
 へかけてもお話中だろう。意地になって、かけつづけると、何十軒目かに、とんでもな
 い遠くの医師の家が、やっと出る。しかし、「すみませんけどね。さっき先生が亡くな
 られたんです。過労とかぜでね」
・たまりかねたあなたは、近所の病院へむかって走って行く。そこであなたは何を見るか
 ・・・。下町の病院のまわりには、ここ二週間ばかり、朝六時ごろから、容態を見ても
 らおうとする人がつめかけていた。午前十時ともなれば、待合室に入りきれない人が、
 外に人垣と行列をつくり、不安な表情でひしめいていた。
・小さな石が、そこへ投じられれば、突然パニックがまきおこり、人々は先をあらそって
 病院の入口に殺到するかと思わせるような、危険な感じだったにもかかわらず、実際は
 ふだんの時よりも、人々はかえって秩序正しく、その秩序は群衆全体の内面から湧き上
 がってきているようだった。小さな子供をつれた母親が後尾につけば、それはたちまち、
 次から次へと最前列におくられた。ぐったりとなった赤ん坊をかかて、息をきらして駆
 け込んでくる若い母があれば、たちまち列がわかれ後ろの方から声がとんだ。「前の奴、
 かわってやれ!先生にそういえ、赤ん坊だぞ!」
・一週間前から、病院側では、玄関の前に、仮設のテントを張り、簡単なベンチも設けた。
 年寄りと子供が、ほとんどベンチを占領した。それでも大部分の人々は、めっきり暑く
 なった五月末の太陽をあびながら、じっと待っていた。日射病にかかったように、突然
 顔色が真っ青になって、すうっと倒れる人がたくさんいた。そして方に手をあててみる
 と、そのまま死んでいる人もいるのだった。
・戦争といえば、病院の中は戦争同然だった。ワクチンの注射、解熱剤、強心剤、抗生物
 質の注射、病院はどこ部屋も高熱重態の患者で満員であり、耳鼻科、外科、眼科、産婦
 人科の病棟までつかわれ、廊下の長椅子までベッドにつかわれていた。医師たちは、ほ
 とんど不眠不休であり、中には覚せい剤やビタミン剤、栄養剤などをうちながら何十時
 間もぶっ通しで、患者を見ている医師もいた。外科の方は、激増しはじめた交通事故の
 けが人がひっきりなしに運び込まれてくるので、外科医たちは手が離せず、かわって眼
 科や耳鼻科、皮膚科などの医師たちも、”チベットかぜ”患者の対応に動員されていた。
 しかも、すでに病院勤務の医師たちの間で、死亡したものが三名いた。看護婦の中にも、
 ワクチン接種をやったにもかかわらず、重篤患者が出はじめて、平常のほぼ三倍強の業
 務量を強制さえている病院では、篤志看護人や、医学部の学生まで手伝いに来てもらっ
 ていた。
・看護婦は急ぎ足で行ってしまう。彼女の顔も、白粉も紅もはげて土気色であり、髪は乱
 れ放題、着たまま眠るので白衣はくしゃくしゃで、うす黒く汚れている。立ちづめ、歩
 きづめで、むくんだ足、彼女たちもぶっ倒れそうなのだ。
・こいつはやっぱり闘いだ。きりのない、はてしない闘い・・・ここの病院だけでなく、
 今、日本中のありとあらゆる病院で、同じ闘いが、医師たちの手によって闘われている
 のだ。不眠不休で、食事をとるひまもなく、疲労困憊して自分がぶっ倒れそうになりな
 がら・・・。いや日本だけでなく世界中で・・・。
・「とうとう、死者が一千万人をこえたそうです」「死亡率三〇パーセントですよ。ひょ
 っとしたら、日本があの戦争で失った人命より多いんじゃないですか?」
・小さな死体は、すでに五月のはじめから、銀座の裏通りに姿をあらわしはじめた。よく
 ふとった、灰色のねずみたちの死骸である。何百軒、何千軒とバーや飲食店のひきめき
 あう銀座裏では、ねずみはさまでめずらしくない。汚らしく、愛くるしい小さな大食漢
 たちは、残肴と適度の温度と、いりくんだ下水に彼らのエデンの園を見だして、生み、
 殖え、物かげに満ちた。日本最高の歴史と品格をうたうこの地の夜の灯に泳ぐ、誇り高
 く、脂粉あつき女性たちの前を横ぎり、時には無礼にも足にかみつき、嬌声と悲鳴と、
 伊達な好き者の漁夫の利をまき起こす。人間は今に、ねずみに征伐されてしまうのでは
 ないか、とまじめに言い出すものもいる始末だ。だが、やがてこの凶悪な小悪魔たちの
 死骸が、路上にあらわれ出した。
・路上、屋内を問わず、突然心臓麻痺でバッタリ倒れて死んで行く人の数は、日に日に増
 え出した。たいていの人は、”チベットかぜ”にかかっていたから、人々はみんなかぜの
 せいだと思っていた。有楽町や丸の内で、あるいは地下のコンコースで、前を歩いてい
 る人が突然がっくりひざをおったかと思うと、そのまま死んでいる。
・人々は、まだインフルエンザのせいだと思っていた。医師たちも、インフルエンザの特
 殊ケースとして、それが心臓をおそう場合もありうる、と語っていた。新聞では、”チ
 ベットかぜ”のポックリ病状とよんだ。そしてこのころ、未知の、全世界でほとんど数
 名の人間しか、その恐るべき正体をしらず、しかもそれが「外部」に洩れているという
 ことを露知らず、その正体を世界の防疫陣にむかって公表することは、猜疑と増悪に満
 ちた「国家的軍事機密」の厚い壁によって、厳重に封じられている。
・インフルエンザ対策臨時閣議の席上で、厚生大臣は沈痛なおももちでいた。総理、文部、
 農林の三閣僚は、かぜのため欠席。居並ぶ閣僚は、陰鬱で疲れきった表情だった。いま、
 子分の誰かが、大臣の椅子を欲しがったら、わたりに舟とくれてやって、自分はどこか
 に逃げ出したいような気持ちだ。「六月二十日現在、警察や衛生局の報告では、東京都
 内だけで、路上に放置されている行き倒れ死体は五万から六万あると報告されておりま
 す。これらの死体は、引き取り手もなく、また警察の収容能力も、機動力も限界に達し
 ております。都内全警察、病院関係で引き取り手が現れず、死体収容所はむろんのこと、
 やむを得ず構内につみあげてある死体は、推定三十万体以上あります。死体焼却場の能
 力も、とうのむかしに限界に達し、また焼却係自体が、多数、死んだり、寝込んだりし
 て、能力そのものも低下しているありさまです」
・「全国各地では、この野ざらしの死体、引き取り手のない死体が、厖大な数におよぶと
 思います。このことが人心にあたえる動揺はいうまでもありません。死体の腐敗も早ま
 り、これにともなって、また別の伝染病が発生しないともかぎりません」
・日本の、都市や町村のあちこちに、次第に増えつつある行き倒れの死体。「混乱防止や、
 治安維持、輸送確保のためにすでに自衛隊陸上部隊の一部に、臨時に警察に協力しても
 らっていますが、事態はすでに警察の処理能力の限界をこえました。この上は、せめて
 死体処理だけでも、全面的に自衛隊の協力をお願いしたい」
・「たかがかぜぐらいで、非常事態宣言は大げさすぎると思うだろうが、ここは早めに手
 を打つべきじゃないか?」
・「実は、総理は・・・危篤に近い状態だった。ただ、総理から、その事は公表するなと
 いわれているので」一座に複雑な動揺が走った。当面の影響もさることながら、やはり
 総理の死は、政治地図を大きくぬりかえることになるからだ。
・「宣言にともなう政府の特別権限をどの範囲にとどめるべきか、だな」と法務大臣は言
 った。「食料確保、物価非常統制、秩序の維持、交通、通信、運輸の確保・・・これぐ
 らいは、政府の直接権限で、ぜひ強制力をもたねばならん」と副総理はつぶやいた。
・「たかがかぜぐらいで、もうちょっとなんとかできんのかね?「たかがかぜぐらいでと
 おしゃるが、今度の”チベットかぜ”は、今までのインフルエンザとまったくちがっと
 るんだ。古今未曾有という言葉がぴったりするぐらいで、たかがどころか、今やペスト
 やコレラ以上におそろしい流行病になりつつあるんだ」
・「これが法定伝染病だったら、最初から、もっと徹底的な処置がとれただろうが、それ
 こそ、たかがかぜでは、患者の強制収容や強制隔離もできん」
・「研究者もぞくぞく倒れつつあるんだよ」「医者もだ」
・高熱を発している議員までかつぎ出して、やっとぎりぎり定足数に達した衆議院本会議
 で、「異例の緊急事態に対する政府への特別権限賦与」は与野党一致で何とか可決する
 ことができた。しかし、参院側はついに本会議が流れ、出席者だけの諒承ということで、
 政府は緊急措置をとりはじめた。  
・しかし、緊急措置といっても、食糧、物質の統制以外は事実上大したこともできなかっ
 た。患者総数が病院ベッド数の三十倍以上にもなっていること、これに対して働ける医
 師の数が、平時の半分に減ってしまっていることなどは、いかに政治の力をもってして
 も、どうにもならなかった。ワクチンの製造には、すでに食品会社の研究室や工場設備
 まで使われていた。   
・六月中旬のある日、機能マヒに陥った都会をはなれて、郷里にかえろうとして、東京駅
 を訪れた会社員が、そこに不安なつきつめた表情の人たちが、列車に乗れずにあふれか
 えり、なにかただならぬ気配さえただよっているのを見てびっくりした。
・「汽車は出ませんで」「運転士が、運転中にポックリかぜでやられちまったり、踏切で
 運転手の死んだ自動車がつっこんできたり。自己のあと片づけがすまないうちに、また
 列車がつっこんでくる。あぶないからのろのろ運転をやる。後ろから追突する・・・」
・改札口にむかって、どっと人垣がなだれた。怒声と悲鳴と駅員の制止の声とがかさなっ
 て、ワーンと構内にひびいた。突然銃声がひびくと、うす煙りのたつカービン銃を天井
 にむけた兵隊の姿が、ゆれ動く 群衆の上にうかびあがった。混乱は一時的に停止し、
 それから今度は逆まわりにうずまきはじめた。兵士はちょっとよろけ、顔を土気色にし、
 銃をとりなおした。鉄帽をかぶりなおしてから、彼は天井にむけてもう一発撃った。
・いまやいっさいの高速交通機関にかわって、交通の主役の地位を獲得しつつあるのは、
 船だった。船はスピードは遅いが、操作要員に余裕があり、危険も少なかったからであ
 る。その船のほとんどが、食糧をはじめ生活必需品の緊急輸送に使われ、一般の旅行用
 にはほとんどまわらなかった。
・電力、交通、運輸、通信などの基幹産業をはじめ、各種重要産業労働者の自主的な活動
 は見事だった。当初、政府の対策の不徹底さにはげしい攻撃の姿勢を見せていた労組は、
 ある段階で、むしろ「自発的に」基幹産業確保の態勢にはいった。それは政府が、戒厳
 令下において、基幹産業の軍管理を手控え労組にじかに呼びかけたのに呼応したのだっ
 た。
・この事態に対して、はげしく反対したのは、一部の経営者資本家と、それに奇妙なこと
 に、極左政党だった。一部の資本家は、経営系統の混乱に対処して、労組が自発的にお
 こなう実質的な「労働者管理」状態出現と、「稼働すればするほど損害の拡大する」現
 状において、政府の現実的補償の口約すらなしに、単に社会のためにのみ産業を維持す
 ることに反対だった。極左政党は、当初のこの社会的混乱を「防ぐ」方向に労働者組織
 がうごくのに反対し、むしろ政府の対策の失敗について、混乱を助長し、内閣総辞職を
 要求するように呼びかけた。  
・終わった時、誰しも、こお災厄が、いつかは終わるものと考えていた。「人類」にとっ
 て、災厄というものは、常に一過性のものにすぎない、と。
・十四世紀のペストで、ヨーロッパの人口は半分になった。だが、ヨーロッパは生き残っ
 た。スペインかぜで二千万人が死んだ。だが、そんなものは、二十世紀初頭の文明には
 かすり傷にすぎなかった。二つの大戦、地震、大洪水、飢饉、人類は生き残った。核戦
 争にさえ生き残ると一部の人々は信じていた。
・辛抱づよい人々は、「異変」を「日常」になじませることに努力をそそぎ、辛い状況に
 じっと堪えていた。人々は、こんなひどいかぜはめずらしい。早く流行がおさまって、
 もとの世の中がくればいいが、と話しあった。長い長い間、千数百年にわたって、小ぢ
 んまりとした「文明」を享受してきた日本人の人々には、文明と国土に対する無条件の
 信頼があった。しかし、同時に、文明というものにはある限界点のようなものがあって、
 崩壊作用がその限界点をこえると、高度に有機化した人間社会をささえる「文明」のあ
 らゆる要素が、今度は逆にことごとく文明の解体の方向に作用することを知らなかった。
 そして、その解体の彼方に、「種の滅亡」という、地球の長い歴史にとっては、ごくあ
 りふれた、ささやかなドラマがひかえていることも・・・。
・暴動的状況は、小規模散発的なものだった。人々はまだ、「明日」を信じて、秩序を保
 とうとしていた。しかし世界的に見れば、日本のこの平静さはめずらしい例だった。ヨ
 ーロッパ、アメリカでは、社会混乱から完全な無政府状態に陥りつつある国が、暴動や、
 掠奪や、恐怖状態、殺戮などが、日をおうて拡大しつつある国が、すでに数多くあった
 からである。日本では、都会を逃げ出して、見かけ上、まだ”チベットかぜ”が猖獗を
 きわめていない地方へむかって、「疎開」しようとする人々と、彼らを入れまいとする
 地方の人々の間に、ちょっと小競り合いがあった程度だった。
・医療体系は、完全に崩壊しつつあった。
・荒廃は、まったくアッという間におそってきた。六月十日に、全国四地方の節電地区が
 指定され、翌十一日は、それが全国にひろがって、家庭用電灯の昼間送電が全面的に停
 止された。このため、電池式のトランジスタ・ラジオ、テレビが高騰した。すでに大都
 市では、水道の時間給水がはじめられていた。
・世界各地、日本各地から伝わってくる情報はすべて悪いニュースばかりだった。気がめ
 いるから、いっそう新聞を出すのをやめようという意見も出だした。にもかかわらず、
 記者たちは活動をやめなかった。新聞記者たちは、いまや新聞というものが、社会の中
 のよびかけあいの機能を分担しているものであり、たとえ悪い報知であっても、それが
 とまってしまえば、人々は暗黒の沈黙の中に陥って絶望してしまうのだ、と信じている
 みたいだった。そして、そくなくとも新聞を出しつづけて、「社会」と「秩序」のイメ
 ージを供給しつづければ、人々はそれに助けられて何とか秩序の表象を持ちづづけてく
 れるのではないか、というほとんど本能的な信念のもとに、たおれる同僚の屍をのりこ
 えて、新聞を出しつづけた。日本は、亡びるかもしれないと、誰も口に出さなくても、
 大局的な考え方になれている記者の誰彼は、最悪の事態を予想していた。
・そして日に日に荒れ果てて行く社会の中で、さまざまな新旧の土俗宗教が猛烈な勢いで
 はびこり出した。躍り狂う人々、せまい家の中にひしめきあって教文をとなえる人々・・。
・さよう、祈るよりほかに、どんな事ができたか?祈らぬ人々は、闘っている人々だった。
 職業的インテリも、「指導者」も、今は完全に無力だった。
・鉄道はとまり、今や電気もとまりかけていた。火災が起こっても消すものもなく、火は
 いくらでももえひろがった。路傍に、家の中に、駅やビルの入口に、死骸は無数にころ
 がり、ぶよぶよにふくれ上がって腐っていた。むし暑い気候が蛆とバクテリアに加勢し
 て、すでに白骨化しているものもあった。刺繍はすさまじく巷にたちこめ、死と荒廃の
 翼は大風のように国土の上を音をたててかけめぐっていった。
・千二百万の人々であふれかえっていた東京の街は、今やガランとした死者の都と化しつ
 つあった。街の中に動くものの姿は次第に減っていき、そんな中で、たまに人影を見か
 ければ、黙々と、無益な死体処理の「任務」を遂行しつつある自衛隊員の姿だった。彼
 等も、年内で仕事をする時はガスマスクをつけねばならず、その異様なゴムの仮面は、
 彼等を食屍鬼のように見せた。最初彼等は、死体を戦死体のように丁重に扱っていた。
 しかし作業をはじめて一週間たった時には、もはや「世論」を気がねしてなどいられな
 くなった。彼等は穴を掘り、ブルドーザで片づけはじめた。ついで「アウシュビッツ作
 戦」とか「バナナ作戦」とよばれる、いまわしい作業がはじまった。死骸をとにかく集
 め、うずたかく積み上げ、ガソリンをぶっかけ、火炎放射器で焼くのだ。
・六月三十日までに、日本全国で八千万人の人々が死んだ。だが、その時はまだ二千万た
 らずが生きていた。 
・リオのハムから、当地は死骸の山、停電、火災、狂った暴徒の群れ乱交中、さらにぞく
 ぞく死ぬ。生存者リオ市内推定八千名、ブラジリア住民全滅のよし。有無が死体でうず
 まる。この世の終わり来る。
・「私たち、氷に閉じ込められてます。世界から、隔離されています。離れています。今、
 南極ま冬。誰も近寄れない。バイキンも持ち込めない。もっと、おそらく、寒さに弱い
 バイキン、ならいいですね」  
・「ひょっとしたら、南極のわれわれは、ここ当分、何年かわからないが、全世界から孤
 立して生きて行かなければならないかもしれなのです」「最悪の事態の時は・・・南極
 だけが生き残るということになりかねませんな」
・「この先、われわれが何年、この大陸で暮らさねばならないか・・・どうやって暮らし
 て行くか。食糧は、あざらしやペンギンである程度補給できるとして、また幸いなこと
 に、電力はアメリカ、ソ連、フランス、イギリス、日本が原子力発電機をもってきてい
 ます。これは、ここ三年や四年は大丈夫でしょう。しかし、交通動力などをどうするか。
 それにいずれは、南極の石炭資源などを利用して、自給することも考えねばなりますま
 い」 
・「われわれ南極という共通の大陸に住む、共通の運命に結ばれた単一の人間組織に、い
 やおうなしになりつつあります。この酷寒の氷に閉じ込められた、わずか一万人たらず
 の人間が、人類最後の生き残りになり、ほんのひとにぎりの資材と施設が、最後の文明
 になるかもしれない」
・北海の暗い海の底で、ポラリスVをつんだアメリカの原子力潜水艦ネーレイド号は、海
 底にじっと鎮座しながら、波の上の世界にむかって耳をすましていた。
・バミューダ島の沖合五十マイルの海底で、ソ連の原子力潜水艦T−232号が、海溝の
 中に身をひそめていた。  
 

・「われわれは、人類の滅亡について、実にまずしい想像しかしてなかったんだね。水爆
 戦、星の衝突、まさか、”かぜ”で突如として滅亡するとはな」
・「秘密金庫から鍵を出して・・・組み合わせ番号は知っているな」と大統領は言った。
 「何の鍵です?」「ARSの・・・」「地下の・・・ARSの・・・電源を破壊してく
 れ。スイッチは OFFになっていると思うが・・・」「なぜ、そんなことをするんで
 す?」「万一ということが・・・ある。一週間前、ガーランド将軍が、強硬に勧告して
 きた」「きちがいどもめ!」副大統領はうめいた。
・「私はシステムそのものを廃棄するつもりだった。だが、その秘密を知る軍部と政治家
 が、猛烈に反対した。私は時間をかけて、まず全面兵器廃止からやるつもりだった。当
 座、万一の場合に備えて、・・・を爆発する装置だけはつけさせて・・・だから、奴ら
 に利用されないように・・・まさかと思うが・・・もしスイッチが入れられていて、不
 測の事態が起こったら・・・」 
・大統領が息をひきとって、しばらくの間、副大統領は、気を失っていた。それからやっ
 と起き上がると、デスクをつたって、やっと秘密金庫にたどり着き、長い時間かかって、
 扉を開いた。小さな一組の鍵を取り出して、振り返ると、そこに背の高い軍人が、よろ
 めきながら拳銃をかまえていた。
・「ガーランド」副大統領はうめいた。「来たのか?」「鍵をわたせ」「軍人として国防
 の責任を果たすのだ・・・」後にもう二人、やっぱり熱にもえる眼をした将校がいた。
 「そこをどけ!ガーランド・・・。君は、完全に狂っているんだ!」ガーランドは引き
 金を引こうとした。だが、その前に、副大統領が、床の上にくず折れて息をひきとった。
・ガーランドは、彼自身、前大統領時代に取り付けに立ち合った、ARS切り替えスイッ
 チの方にすすんだ。それは、長椅子の後ろの壁に隠されていた。四つの鍵を使って何度
 も順番を間違えながら、やっと最後の蓋を開けた。ARSと書かれた下の何の変哲もな
 い、赤くぬられたスイッチに、かろうじて指先がふれた時、最後のまっ黒な痙攣が、羽
 音をたてて彼の心臓につかみかかった。手が壁穴からズリ落ちるはずみに、カチッと小
 さな、かわいた音がして、スイッチがOFFからONに入った・・・。
・その年の夏の終わりに、「人類」は息絶えた。雪と氷と、酷烈の寒気の”最終大陸”に
 閉じ込められた一万人たらずを残して・・・。
・九月のなかば、大西洋、太平洋、北氷洋の海底にあった二隻にアメリカ海軍原子力潜水
 艦と、一隻のソ連原子力潜水艦が南極と電波の接触をもった。「南極最高会議」は議長
 名において、三隻の潜水艦に厳重な査問と指示を与えた。三隻は無疵であることがわか
 ったので、途中絶対に浮上するなという厳命のもとに、南極圏まで南下し、パーマー半
 島に待機するよう命令が出された。しかし、パーマー半島に接近中、時期的に一番あと
 から紹介任務に入った、アメリカの”シーサーペント”において、患者発生があった。
 最高会議は残り二隻に、シーサーペイント撃沈の命令をひそかに出し、ネーランド号と
 T−232号は南シェットランド沖で同艦を捕捉し、不意打ちを加えて撃沈した。
・鯨やあざらしなどの海棲哺乳類が、病原体を南極へはこんでこないかと極度に警戒され
 たが、どういうわけは海棲哺乳類はほとんどこの病気にかかっていなかった。このこと
 は、南極が生きのびて行く上で、新しい希望をもたらすものだった。
・さいわいなことに、人類絶滅の最後の瞬間、北米アマチュア・ハムWA5PSの送って
 くれた情報により、南極の医師や科学者たちは、おそるべき病原体の実体を、かなり詳
 細に知ることができた。 
・WA5PSは、死後、テープレコーダーで南極をまもる情報を送ってくれた。彼はリン
 スキイという医学者で、スローン・ケタリング研究所から、陸軍病院へ出向する形で勤
 めていた。彼はそこの精神病棟の患者から、偶然大災厄の「真の原因」と称するものを
 聞き、軍事機密のワクの中で、研究所のウイルス研究班の連中と連絡をとり、できるだ
 け情報をあつめ、すでに混乱に陥っていた研究所の設備をフルに利用して死の寸前に、
 その病原体の奇妙な性質を、ほぼ完全につきとめていた。ハムの資格のある彼は、この
 情報を役に立つか立たないかわからぬまでも、もし生き残る地域があるならば、この地
 域の人々に役立てようと思って、全世界にむかって、くりかえし流し続ける方法をとり、
 そして死んだのである。
・南シェットランド諸島の沖合に流れ着いた馬の死骸から、細心の警戒のすえ、南極最初
 の、あのいまわしいMM−八八が分離発見された。
・だれ一人、南極が突如として、おわされた、偶然の不幸な役割を予想したものはなかっ
 た。「人類が生き残るために」だから南極は、あらゆるフロンティアがそうであるよう
 に、苛烈で原始的な最低生活と、背後の世界から持ち込まれた、文明のもっとも高度化
 したものとの、奇妙な混淆だった。そしてこの二つ、苛烈で原始的なものと、高度なも
 のとのギャップは、他のいかなるフロンティアより大きく、十年や二十年では、このへ
 だたりの間をつなぎ、再生過程の輪をつなぎ出すことは不可能だった。
・南極は豊富な資源をかかえながら、何一つ生産力を、特に工業生産力をもたなかった。
 修理用のわずかな工作機械のほかは・・・。特に、鉱山設備や金属精錬設備を完全に欠
 いていることは致命的だった。
・南極は、しばらく惰性で動いていた。その間に海軍の作戦部にいたことのあるコンウェ
 イ提督は麾下の将校や各国の学者の協力をもとめ、二つのグループに二通りの計画を検
 討させた。一つは、このままずっと、一万人の人間が、南極に閉じ込められた場合どう
 すればいいか。もう一つは、ここ数年のうちに、本土復帰が可能になる場合の生活計画、
 各国隊の資材類を洗いざらいリストしてもらい、南極の活用可能な資源類の開発見通し
 を立てた。
・人間的な問題はずっとあとから出てきた。南極に派遣されている人々は、よりすぐられ
 た人々ばかりだった。おどろくべき粘り、耐久力、忍耐、危機に対する闘争力、体力、
 困難な環境に対する適応性、おたがいに「うまくやっていく」能力、それにくわえて、
 すぐれた知性と技能の持ち主ばかりだった。半年を夜と雪に閉じ込められる生活が、た
 とえ、二年や三年続いても平気な人々ばかりだった。
・一番はじめにまいったのは、南極に「特派」されていたジャーナリストたちだった。彼
 等の真の生き場所は、輪転機のうなりとフラッシュと、電話のベルと、電波とゴシップ
 と情報がごうごうと地球をかけめるぐ、活気にみちた世界だった。果て知れぬ閉鎖生活
 には、もともとむいていなかった。彼等は逆に活気に満ちてみえた。何とかして世界の
 生き残りと連絡をつけようと、無益な努力を続け、なんとか滅亡の状態を知ろうと必死
 になった。 
・原子力潜水艦にのって密航脱出しようとしたものもあった。三年間に南極全体で十八名
 の精神異常者と、三名の自殺者が出た。
・もう一つ、最高会議が二年目から考慮しはじめた計画は、子孫に関するものだった。南
 極には、全部で十六名の女性がいた。そしておそらく、ひょっとしたら、この十六名の
 女性が、人類に残された最後の女性かもしれなかった。この先、「温帯」に復帰できる
 にしても彼女らこそ、人類が再び人類として存続し得る最後のチャンスだった。十六名
 の女性は、さほど若くなかったが、最年少の女性は、二十六歳で、若干困ったことに、
 相当な美貌だった。みんなまだ受胎能力をもっていた。
・この問題は、一万人の男性のセックスという、非常にデリケートな側面を含むために、
 徐々に注意しながら説得を進めて行くほかなかった。セックスの禁断による男性の凶暴
 化は、性的暗示さえ与えなければ、さほど憂慮することはない、ということは、よく知
 っていたいが、個々の人間におけるセックスに関する偏見の根の深さと、一万人対十六
 人という両性間の数のギャップにために、ことは慎重を要した。
・この問題に関するかぎり、計画本部の意見はまっぷたつの分かれた。一つは、問題の所
 在を、南極人全部にぶちまけ、その上で女性を全員隔離して、希望者を順番制で「ハレ
 ム」に送り込む。また、補助的に、各国の持参したダッチワイフ、非常に精巧なものか
 ら、局部だけのものを含めて、十八体ばかりあった、も供出共有し、また男色を奨励し
 ないまでも黙過しろ。「私は絶対反対だ!そんなことをすれば、混乱はかえって大きく
 なり、痴情沙汰から殺人まで起こる!」
・もう一つの意見は、この問題をできるだけそっとしておく、というものだった。女性管
 理と、受胎操作は、秘密委員会をつくってその管轄下におき、委員会は秘密モニターを
 使って、南極人のセックスストレスを監視させ、随時秘密裡に、ストレスを解消させて
 やる。  
・だが、臨時何良く総指揮官であるコンウェイ提督は、どちらの意見にもくみしない、第
 三の方法をとった。彼は事態を、女性を含めた全員にぶちまけた。そして、この問題が、
 本能の問題でなく、種族維持の全南極人にとってきわめてシリアスな問題であることを
 訴えた。提督もまた、いざという時には、全員の理性を信頼する方に賭けるのが、最善
 の方法だということをよく知っていたのだ。不祥事の防止もまた、全員の相互監視と、
 相互の思いやり、説得、集団の民主主義的ルールにたよる他はないと考えていた。
・女性は今までどおり、みんなと一緒に働く。しかし、今後は、女性としてよりも、未来
 の母性として、いっそうの尊敬と、保護の念をもて。受胎は、基本的には、医者たちに
 よって組織される、特別委に、その方法と人選をまかされる。しかし、どうしても、で
 きるだけ我慢した上で、どうにもならないと思ったものは、こっそり申し出ろ。審理の
 上、特別に女性の意思を聞いた上で、考慮する。
・「いいか、諸君、これからは・・・」提督は大真面目で、マイクに向かってしゃべった。
 「女性を見て、口笛を吹いたり、こっそりデートを申し込んではならん。女性に対して
 は”ママ”とか”お母さん”と呼べ。自分の母親だと思えば、変な気も起らんだろう」
 みんなニヤニヤ笑った。
・「提督、質問!」「順番に、公平に、お相手ねがえませんかね?一万人対十六人だ。二
 年たてば一度はまわってくる」「それは女性に対して侮辱的だ。女性側からはそれでも
 いいといった声が出ているが、受胎管理を考えるとがまんできるものは、できるだけが
 まんしてほしい」「どうしてもがまんできなかったらどうします?」「マスでもかいて
 いる!」 
・二年目の秋、南極ではじめての赤ん坊が生まれた。よく肥った男の子だった。南極中の
 男たちは、くすぐったいような、うれしいような顔をして、何かといえば頬をゆるめて
 いた。一万人の男たちはみんな、自分がはじめての父親になったような気がした。
 
第二部 復活の日

第二の死
・今回、北米大陸太平洋岸で、陸上は不可能だったので、海岸部の海底でしたが、観測し
 たのは、実はこれまで観測されたいかなるものより、数値の大きい、相互関連のある異
 常現象でした」吉住は地図をさした。
・浮かび漂う大地、重いシマの海の上に氷山のように浮かび、地球の自転力によってゆっ
 くり流れて行く軽いシアルの塊、大地のごとくゆるぎなき、とか、山のごよく不動の、
 とか、人は永らく、大地をこの世の中でもっとも堅固で、重いものと思ってきた。だが
 その実、大地は岩漿の海に、ふわふわ浮いているものであり、ミルクに浮くコーンフレ
 ークのかけらのように漂い、流れ吹きよせられるものだった。
・人はその浮かび漂うもろい朽葉の上に住んでいた。大地の漂泊のかた時の間に、枯葉の
 上に生ずるカビのようにはびこり、聚楽をつくり、やがて縦横に菌糸をむすび、高い胞
 子の塔をたて・・・文明を謳歌し、憎しみと争いを繰り返し、かたときそのまたかたと
 きの間に、力を、知恵を、栄誉をほこりあった。
・「地震の大きさや、起こる地域や、起こる時間などはわかるのかね?」「ほぼ確実に、
 むろん百パーセントとはいきません」「強度8.6ないし、9、時期は二、三か月後か
 ら、最大限一年以内・・・」「それじゃ、歴史上観測された地震中最大じゃないか!」
 「そうです。今まで観測されたもので、8をこえたのは、チリ地震ぐらいです。関東大
 震災で7.9でした」
・「あまり深刻にならないでいただいきたい。これは地球の反対側に起こる変動であって、
 南極には、若干の振動は感じられましょうが、なんの影響もありません。津波もおそっ
 てきません。そしてまた、数年前ならば、目をおおう大惨事となるべきアラスカの地も、
 現在は無人であります。最大の惨事はすでに四年前に起こってしまったのです。南極と
 は無縁です」 
・「いや・・・無縁とはいえない」コンウェイ提督は、しわがれた声で言った。「北米大
 陸は無人ではあろうが、まだ生き残っているものがある・・・」「何が生き残っている
 んです?」「人間の増悪だ・・・」提督は言った。「増悪の糸が、人類死滅後も無人の
 土地に生き残り、それがアラスカの大地震を南極と結びつけている」
・「まったくバカげたことだ。そして、このバカげたことの原因は、アメリカはじめって
 以来の、バカげた大統領によってつくられたものだ・・・」「前大統領の・・・」吉住
 はつぶやいた。「そう、あいつは、ほとんど考えられないくらいの極右反動で、まるで
 きちがいじみた男だった。二十世紀アメリカのアッチラ大王だった。増悪、孤立、頑迷、
 無智、傲慢、貧欲、こういった中世の宗教裁判官のような獣的な心情を、”勇気”や、”正
 義”と思い込んでいた男だ。六年前にはもう一度、”アカ”の国々と大戦争をおっぱじめる
 つもりだった。なぜ、こんな男を、アメリカ国民が選んでしまったのか、いまだにわか
 らない。私は軍人ではあるが、あの時ばかりは、アメリカの後進性に絶望した」
・「”復讐はわれにあり、われ、これをむくいん”・・・。これがやつのお得意の文句だっ
 たよ。そしてやつは、ARSをつくった」「カーター少佐を紹介しよう。彼は、もとも
 と国防省の人間で、前大統領時代には、大したはぶりで、ARS計画にも参加した。
 次の大統領の時、左遷された格好で、ここへやってきた。任務は、南極における諜報活
 動と、私を監視することだった。少佐からARSのことについてきこう」
・「ARSというのは・・・今からさっと八年前、当時の大統領と、当時統合参謀本部の
 腕利きといわれたガーランド中将のつくりあげた、全自動報復装置のことであります」
 「1950年代の末期から、1960年代の初頭にかけて、”核ノイローゼ”が、防衛機
 構にたずさわる軍事委員の間で問題になり出しました。1957年、訓練中のB47が、
 東部ニュージャージー州の上空で、水爆をあやまって落とすという事故がありました。
 この時は安全装置がかかっていて爆発しませんでしたが、あとで調査してみると、六つ
 の安全装置のうち、五つまでがこわれていて、最後の一つで爆発が防がれたことがわか
 りました。この時、非公式に討論されたことは、もしこの時、万一核爆弾が米本土上で
 爆発していたらどうなるか、ということでした。起こり得る事態は二つでした。一つは
 防御システムが、水爆投下にうろたえて、それがどこの国の飛行機によって投下された
 かを確認するいとまもなく、全面的核攻撃の指令を出すことがありうるということ。も
 う一つは、たとえ自国の爆撃機であることが確認されても、中間責任者が、とくに好戦
 的な内面感情をもっている場合、責任を糊塗するために、核攻撃の指令を発することも
 ありうる、と考えられた。このころから、核戦略体制内の人間的要素が問題になりまし
 た」 
・「1961年、核兵器貯蔵勤務の一下士官が、精神異常をきたして、核兵器にむかって
 ピストルを撃とうとした事件がありました。また防衛システムに勤務する兵士が、攻撃
 指令ボタンを押しそうなノイローゼにおそわれ、辞任を申し出るというようなことが度
 々ありました。軍部の調査で、防衛体制に携わる人員のうち、一パーセントが、完全に
 危険な状態にあり、仕事から除外されるべきものとされました。また一〇パーセントが、
 情緒不安定その他の理由で、精密適性検査の要ありとされました。グリーランドレーダ
 ー基地で、雲の中から月の出をミサイル来襲とまちがえて、緊急態勢に入ったり、アラ
 スカ基地との故障による通信途絶から緊急出動がかかったり、こういったメカニックな
 故障や誤認による偶発戦争の危険は、数段がまえのフェイル・セイフ・システムによっ
 て、何とか低下させることができたものの、人間的要因による危険は増大するばかりで
 した」
・「ケネディ時代にいろいろな試みがされました。ミサイル発射は、五人の人間のもつキ
 イがなければできないようにしたり、SACの最終攻撃は、大統領の直接命令によるよ
 うにしたりしました。しかし、いかなる安全確保の試みも、結局は二つの選択に導かれ
 るということを、最初に見抜いたのはケネディでした。一つは偶発戦争の危険な道を歩
 きつづけ、結局は奈落に落ちるか、それともシステムを完全に解体してしまうか・・・」
・「ケネディが選んだ道を、前大統領は強引に引き返しました。彼はむしろ、反対の道を
 極限まで行こうとしたのです。ソ連をたたきつぶすのだ、と選挙当時から公言していた
 彼が、全世界と、良識あるアメリカ人の茫然自失の中にホワイトハウスにはいった時。
 偶発戦争の危険は、自動的に増大しました。はっきり言って、核防衛組織の中で働いて
 いる軍人たちも、大部分は、職務は果たさねばなれぬと思ってても、内心は戦争を避け
 たいという感情を強く持っていたいのです。前大統領時代にはいるや、彼等の上に開戦
 の恐怖が強い精神的圧迫となってのしかかり、前大統領就任以来、人的原因による偶発
 戦争の危険は急激に上昇しました。そこで・・・彼は、軍部内極右として、彼の熱烈な
 崇拝者だったカーランド将軍を片腕にして、彼自身の、核戦略体制をつくることにした
 のです。ARSは、その体制の中の最終的な、極秘部分でした」
・「前大統領は、奇妙にまとはずれな、二つの恐怖を抱いていました。彼は豪放磊落をよ
 そおっていましたが、あらゆる暴力政治家がそうであるように、彼の豪放さは、子供じ
 みた恐怖心をさとられまいとするたけの仮面でした。彼の性格には、南部人的な賭博師
 のそれがありました。賭博師は、結局いちかばちかにかける無謀な勇気の方が、理性よ
 り価値があると思っています。彼は暴勇がありましたが、彼の知性はみせかけで、究極
 的は所では、子供じみた判断から抜け出ませんでした。すなわち、たとえどんな卑劣な
 ことをしてでも、最高の権力をにぎったものは、無条件にもっともえらい人間で、した
 がって最高の判断は、常に最高権力者のみが下すべきだ、という暴君的な信条です」
・「彼のまとはずれな恐怖というものは、次の二つでした。一つは、偶発戦争の危険では
 なく、彼自身としては、国際世論の手前、場合によっては偶然と見せかけて戦争をはじ
 める方法を、まじめに考えていたのですから、むしろ、彼が命令を下した場合、組織の
 中で彼に反抗する将士が出てきて、指令が完全に行われないのではないかということ、
 つまり彼は、暴君の常として、人間を誰一人信じられなくなっていたのです。それにも
 う一つは敵国から、警告なしに、毒ガス、あるいは細菌攻撃を受けはしないかというこ
 とです」    
・そこで彼とガーランドの考えた、新核体制というのは、まさかの場合、ホワイトハウス
 から、大統領自身の手で直接ミサイル発射できるように切り替えるシステムをつくるこ
 と、彼の在職二年目に設置されたのが、このARS、全自動報復システムです」
・「たとえば、軍の叛乱が起こったり、ノイローゼによる事故が起こったりして、人間に
 よる防衛体制が麻痺している時でも、このシステムに切り替えておきさえすれば、ミサ
 イル攻撃を受けた瞬間、自動的に報復ミサイルが発射されるのです。敵がミサイル攻撃
 をかけてくる前には、スパイ、あるいは潜入機による毒ガス、細菌攻撃で、防衛機構を
 麻痺させてからやるにちがいないと本気で信じていました。彼はこれを、”私の愛国心
 の結晶だ”と言っていました。アメリカは、たとえ先制攻撃を受けても、自動的に報復
 できる。”たとえわしがやられても、わしの屍から復讐の矢が飛び出す”と彼は言ってい
 ました」  
・「大統領選にやぶれたら、軍部右翼と図ってクーデターを起こすつもりでいた男が、大
 統領になってみると、今度は叛乱をおそれたのです」
・「全システムの電力は、地下の無人原子力発電所から供給されます。ホワイトハウスの
 地下特別指揮室の隠しスイッチをいれさえすれば、全指揮系統は、防衛人員の手を離れ、
 あるいは手がなくても、ARS体制に入ります」
・「五分五分で、まだ生きている可能性があります。前大統領は、なお勢力を残存させて
 いた。ガーランドは引き続き、将軍に位置にありました。私が南極に派遣された時、す
 なわち、”災厄の年”の前年の冬には、まだシステムは撤去されていませんでした」
・「しかし、たとえそれが・・・生きているとしても、それがアラスカの地震と、どんな
 関係があるんです?」   
・「あなたの示した地点は、アラスカレーダー基地密集地点です。大地震でもって、これ
 らの基地が破壊されれば、ARS中央指令所は六分間の警報電波を発し、これに基地応
 答がなければ、核弾頭をつけた大陸間ミサイルが、自動的にソ連へ向けて発射されます」
・「しかし・・・核ミサイルは無人のソ連に向けて発射されるだけでしょう。それが南極
 に関係を持ってくるわけは?」 
・「ソ連国防省の、ネフスキイ大尉です。実を申しますと、ソ連にも、ARSとまったく
 同様なシステムが存在します・・・」「望む望まざるとにかかわらず、敵がある強力な
 新兵器をもったら、必ずこちらも、それと同じものを持たねばならない。ソ連とアメリ
 カは、戦後二十数年にわたって、こんなことを続けてきました。ARSの構想は、その
 スタート当初から、こちらにも手にとるようにわかっていました」
・「われわれ軍人は、敵の攻撃方法と味方の攻撃方法、敵の恐怖と味方の恐怖とをいつも
 かさねて見る習慣がついています。ARSが、まず第一に、無色無臭の毒ガス攻撃に対
 する危惧から生み出されたとすると、これは実は、アメリカ側に、毒ガス、細菌攻撃の
 意図があるのだな、と判断しました。アメリカ軍隊は、第二次大戦後の世界において、
 毒ガス、細菌戦の前科がありましたからね」
・「アラスカの地震が引き金をひいて、無人のアメリカが撃ち、無人のソ連が撃ち返す・
 ・・」「で、南極は?」「たとえ世界はすでに死滅していても、米ソの生き残ったミサ
 イルが全面的に撃ち合えば、大量の・・・おそらく致死量の放射性物質が大気中にばら
 撒かれます。放射能の雲なら、大気循環により、南極が汚染される危険がないともいえ
 ません。だが、本当の危険は、それではないのです。ソ連ミサイルの何発かは、この南
 極を向いている公算が大きいのです」  
・「ソ連はなぜ、南極を国際信義に反して核紛争にまきこもうとしたんです」「アメリカ
 空軍は南極条約をふみにじり、南極を秘密のミサイル基地にしようとしていた」「”暗黒
 時代”に、ここにIRBMが持ち込まれていたことがある。前大統領はICBMも持ち込
 む気だった。大統領が変わり、極地派遣軍が全面的に更迭された時、本国に持ち去られた
 が」
・沈黙が一座の上におちてきた。「自動的に」無人のアメリカからミサイルがソ連へ発射
 され、ソ連は「自動的に」ミサイルを撃ち返し、そのうち何発かは「自動的に」最後に
 生き残った一塊の人類が、ほそぼそと生きているこの南極の上に落ちかかる。
・「彼は自分よりあとにまで生き残るものを、ねたんだのだ。六年前に怒りと失意のうち
 にホワイトハウスを追われ、四年前に世界とともに死んだ彼の、復讐の手が、おれたち
 の上にまでのびている」 
・「米本土のARSが生きている。スイッチが入れられている可能性は五分五分といった。
 ソ連の礼のシステムが生きている可能性も五〇パーセントとしよう。そしてミサイルの
 何発かが、まだ南極を狙っている可能性も五〇パーセントとし、これにミサイル発射シ
 ステムの故障などの要素を考えても、なお、数パーセントの確率で、南極が危険にさら
 されていると考えなければならない。死滅した世界から狙い撃たれて、生き残りのわれ
 われも死ぬことになると、人類は、いわば、二度死ぬことになるのだ・・・」
 
北帰行
・最高会議の立てた作戦は、結局はただ一つだった。南極が生き延びるためには、ただ一
 つの方法しかない。それにはあの狂気じみた「ARS」のスイッチをオフにすることだ。
・一方においてはばかばかしいという思いがたえず悩まされながら、万が一の南極の破壊
 を免れる唯一の方法として、ワシントンとモスクワに、「決死隊」を派遣せざるを得な
 くなった。カーター少佐とネフスキイ大尉は、それぞれスイッチの位置を知っているた
 めに当然行くことに決まった。そして助手を一名ずつ付けることにして、志願者を全南
 極人から募集した。四千名の男たちが志願した。抽選になって、吉住ともう一人がクジ
 にあたった。 
・提督は、顔をそむけるようにして、四つの鍵をそっと机においた。「これが今夜の君た
 ちの寝室の鍵だ。好きなのをとれ」
・寝室のドアを開けると、中に灯りがついて、誰かがベッドに寝ていた。あわてて、ドア
 を閉めようとすると、ベッドから声がかかった。「いいのよ。おはいんなさい」彼はあ
 わてて、外へ出ようとした。だが鍵を見ると、まちがいなかった。「なにをしているの?
 ここはあんたの部屋よ」 
・吉住はうろたえながら、言われるとおりにした。粗末な寝台の毛布をはねのけて、肥っ
 た、もうかなりの年配の、金髪の女が降りてきた。すっぱだかだった。「どうしたの?」
 女は呆然としている吉住を見て笑った。「あんたはくじ引きで私にあたったの。我慢し
 なさいな」「あんた、インポなの?それともまさか、童貞じゃなうでしょうね?」
・「”ママたち”に中で、私が一番年上なのよ。女ばかりでなく、ひげづらの男たちまでが、
 みんな私のところへくるの。毎日毎日・・・何人という男が・・・私はいつも、陽気な
 おばさんで、母親で、すいも甘いも、かみわけて、色の道にも通じた年増なの。聖なる
 娼婦みたいに、もういままで何千人って男を相手にしたわ。これから先も・・・、いっ
 たいいつまで、こんなことが続くのかしら?」
・「坊やはほんとうに私と寝たくないの?」「セックスは、人間にとってそれほど本質的
 なものじゃないですよ」吉住は笑った。「セックスが人生の重大事みたいに考えるのは、
 小説家の冥蒙ですよ」「あんたの肩をもませてくれませんか」吉住はイルマの背中に近
 づくと、しずかに、やさしく肩をもみはじめた。母のうすい小さな肩とはおよそちがっ
 ていたが、それでも彼は心をこめてもんでいた。
・南極圏を出はずれた所で、二隻の潜水艦はサイレンをよびかわし、針路をわけた。まも
 なく北回帰線をこえるというころ、吉住は、医者で微生物学者の博士の訪問をうけた。
 「なにか内密の話でもおありですか?」「実はそうなんだ。まだ実験期間がひどく短い
 し・・・君たちは、特攻隊なので・・・どうも言い出し言い出しにくかったのだが・・」 
・「あちらで生体実験をやれというのですね」「すまない、いくらなんでも、人間をモル
 モットがわりに使わせてくれなんて、言えなかったんだ・・・」「喜んでやりますよ」
 「ジェンナーだって、ヒデヨ・ノグチだって自分自身や自分の肉親の体を実験台に使っ
 た。どうせ死ぬんだから、なんでもやります」「それなら・・・出発する時に、注射す
 る」と博士はふるえ声で言った。
・「こちらカーター、無事上陸、ただちにホワイトハウスにむかいます」袋の底に、なに
 かゴトゴトするものが入っていた。吉住がつかみ出してみると、二丁の自動拳銃が出て
 きた。「身を守るためか、それとも自殺しろという謎かな?」カーターは低くつぶやい
 た。 
・小さな、ほんの一メートルそこそこしかない子供の骸骨があった。細い脚の骨の先に、
 かたっぽうだけの入りのさめた小さな靴があった。黒いかたまりに見えるほど泥にまみ
 れていたが、化繊のため朽ちなかったのか、はっきり横じまのジャンパースカートとわ
 かる布を、その小さな白骨はまとっていた。
・鋭い鳥の鳴き声が走った。生き残っていた鳥類がいたのか、と考えるひまもなく、死の
 静寂にみちた都の、木という木、森という森から、嵐のような羽音とともに、名もしら
 ぬ鳥の群れがいっせいにとびたった。「くるぞ!カーター。いそげ!五分以内に・・・」
・「蛇だ!」カーターの声と同時に、すぐ目と鼻の先で草にこもった銃声がひびき、白い
 硝煙が草の間から吹きつけてきた。マムシだ!ふむなよ。いっぱいいるぞ!」「手当し
 ろよ!腕をしばれ・・・」「急げと言ったのは、お前じゃなかったかい?」カーターは
 走りながら、それでも手首をチウチウ吸っていた。{ああ走っちゃ、毒がまわる)と思
 いながらも吉住も走った。
・「エレベーターが降りている。一番下、地下九階までだ。誰かが降りたんだ」
 「階段は?」「うんざりするほど非常ドアがあるから、かえって望みうすだ」
・エレベーターのケーブルをつたって地下九階に止まっているエレベーターの屋根の上に
 降り立つと、足場が悪い所で、地下八階のドアを開けるのに手間取った。その時吉住は、
 足もとに再び今度こそははっきりかすかな震動を感じた。
・地下九階の長い廊下で、二人は骸骨につまずいてもつれあって転んだ。暗黒の廊下の一
 番奥で、まっかな光の点がたった一つ明減していた。「あれだ!」カーターは叫んだ。
 二人は起き上がって走り出し、またもや骸骨にからんでしたたか転んだ。やっとはね起
 きた時、吉住はカーターが、声のない叫びをあげるのを感じた。はっと目を見張ると、
 今まで明滅していた赤い光はふっと消え、かわって明るい、オレンジ色の光にかがやい
 た。「やった!」とカーターは叫んだ。もつれあうようにして部屋に飛び込んだ時、オ
 レンジ色の明りは緑にかわった。「もう遅いよ・・・ミサイルは発信した」
・「ネーレイド号、どうぞ。こちら吉住、全ミサイル発射されました。間に合わず申し訳
 ありません」「了解・・・」かすかな声が答えた。  
・「ソ連のミサイルがくるまで、何分かかるかな?」と吉住がつぶやいた。「こちらのミ
 サイルがソ連上空に達するまで三十分ばかりかかるから・・・」「そうすると往復一時
 間?」「いや。CIAの連中の話だと、むこうのARSシステムはもっと進んでいるそ
 うだ。大量飛行物体をレーダー網で見つけて、それがミサイルだと電子脳が判断すれば、
 自動的に・・・」  
・カーターの声が、ばかに低い所から聞こえてくるので、思わずライトをむけると、カー
 ターは床にあおむけに倒れているのだった。カーターの左手首は、ゴムスーツが食い込
 むぐらい腫れ上がり、顔半分も紫色に腫れ上がっていた。「苦しいか?」吉住はきいた。
 「ああ、だけどどっち道、四十五分後には二人とも死ぬんだ」
・闇の中に轟音がとどろき鋭い朱色の閃光が走った。明りを向けると、カーターは、拳銃
 で頭を撃ち抜いていた。 
  
エピローグ
・ある年の春、北米大陸の、昔はサウスカロライナ州と呼ばれていた地域を走る、無人の
 白いアスファルト道を南に向かって歩き続ける一人の男がいた。男は着物らしい着物を
 ほとんど身につけておらず、髪もぼう木の実をぼうで、足にはボロ切れをまきつけてい
 た。「南へ行くんだ・・・」男は時折、太陽を見上げてそう呟いていた。
・夜はたいてい野宿、空腹になれば食べた。川があれば、何時間も努力したあげく、何匹
 かの魚をつかまえ、生のまま食べた。時には建物の中でカン詰を見つけることもあった
 が、開け方を知らないらしく、長い間ながめては、悲しげに首をふって投げすてた。
・男は、どうにか夏のさかりには、テキサスのはずれに来ていた。その年の冬、彼はパナ
 マ地峡で死ぬほどの病気になった。パナマ運河をどう横切ったのか、翌年の春、男はこ
 とコロンビアとよばれた国の海岸を歩いていた。
・「災厄の年」から数えて九年目の年が明けようとする頃、南のはての氷でおおわれた地
 の長い半島の先端から、一隻の不細工な手づくりの小さな帆船が北へむかって船出した。
 あまり役に立ちそうもない補助エンジンをつけたその船は、十五人の人間が乗り込んで
 いた。おどろくべき幸運に見まわれて、ホーン岬海流の荒波をのりきった船は、陸地に
 着くと七人の人間と食糧をおろし、また南極へ引き返して行った。
・年が明けるとまもなく、もう一隻の、これは少しましな船がやってきて、十人の人間を
 おろした。長い冬が来て、南極は冬眠し、十七人の人間は、陸地の上をあちこちと歩く
 まわった。   
・その年の十二月になると、三隻の船が南極から陸地へやって来た。一回で百人あまりの
 人間が上陸し、船隊は三度往復して、三百人の人間を上陸させた。三度目の便には、
 若々しい顔の少年や、女もまじっていた。
・女たちの一隊が岸をふんだ時、上陸地点のはずれにある岩かげをまわって、ひっこり異
 様な人物の姿が現れた。みんな驚き眼を見張ってその人物を見つけた。髪もひげものび
 放題で、すりきれたマラの毛皮をまとったその姿は、原始人か土人のようで、南極から
 来た人々の仲間でないことは確かだった。その時、人々の群れの中から、鋭い女の叫び
 があがった。「ヨイズミだわ!」ころげるように走り出した白髪の老婆は、イルマだっ
 た。その瞬間、すべての人々は、その痩せこけた垢まみれのひげづらの奥にはっきり六
 年前、彼らのもとを去って行った四人の男のうちの一人の面影を見た。
・「ヨシズミ・・・おお、ヨシズミ・・・」イリマは蓬髪の、しみだらけの男の頭をしっ
 かり胸にかかえ、しわぶかい顔を涙にぬらしながら叫んだ。「生きていたのね・・・わ
 たしの息子・・・六年間も・・・あの水爆や細菌にやられずに・・・六年間も・・・よ
 くまあワシントンからここまで・・・」
・男の汚い顔が、イルマの涙で濡れた。男の眼も、涙にあふれた。しかし、その眼の失わ
 れた光はついにもどってこず、イルマの胸にかきいだかれたまま、ただ嬰児のように、
 「ああ・・・ああ・・・」と叫ぶばかりだった。
・吉住は生きていた。そればかりでなく、彼は、北米ワシントンから南米の南端まで、歩
 いてきたのだ。彼はワシントンのホワイトハウスで、あのミサイル爆発の中を生き残り、
 リンスキイ核酸菌原種の感染をうけ、なおも生き残っていた。六年前、あのネーレイド
 号で彼と最後の別れを告げる時に注射した変成菌の免疫効果があったのか?おそらくそ
 うだろう。ミサイルについては、地上落下した核弾頭の七〇パーセントがそうであった
 ごとく、ワシントンをおそったのも中性子爆弾であったと考えれば、納得がいく。もし
 ミサイル落下の瞬間、彼がホワイトハウスの地下九階にいたとしたら、彼はメガトン水
 爆による蒸発を免れ、中性子の致死量もあびなかったろう。ただ、彼の精神障害は、脳
 に若干の中性子照射をあびたためではないかと思われる。もしそうだったら、気の毒だ
 が彼はもはや恢復の見込みはあるまい。しかし、結局はその方がいいかもしれない。私
 たちのために、南極のために、死地に赴き、そこでついに目的をはたさなかった怨みを
 こめて死んで行った人々に、結局ソ連ミサイルは一発も南極へむいていなかった、とい
 うことがわかったら、どんな思いを味わわせることになるだろうか?冷静に考えてみれ
 ば、ソ連はそれほど非常識な国ではなかったはずだ。ただ、われわれは何一つ情報をも
 たず、したがって何百分の一の可能性の幻影におびえていたのだ。
・それにしても、米ソで発射された核ミサイルの七〇パーセントが、中性子爆弾だったと
 は、なんという奇妙な皮肉だろう!中性子爆弾は、”破壊をともなわず、ただ人命だけ
 を殺傷する核兵器”として、非人道的兵器の極致と言われていたものだ。戦略施設や武
 器を破壊せずに手に入れることができ、味方陣営も全世界をも破滅にまきこむ”死の灰”
 も出さない”洗練された核兵器!”、これが、世界をおおうリンスキイ核酸禍を救うこ
 とになるとは!
・だが考えて見れば、まぬけな話だった。いまさら言ってもはじまらないが、ちょっと考
 えれば、こういう事態はすぐに類推できたはずだ。そうすれば、温帯復帰も、もっと早
 かったかも知れないのに。原子炉と同じぐらいの高速中性子が、大量に放出される場合
 といえば、核兵器の爆発、特に中性子爆弾以外にないからだ。中性子爆弾は、水爆の十
 四ないし十七倍の、中性子を放出する。むろん非常に高速の・・・
 とすると、すでに人に死に絶えた新旧両大陸の上で爆発した何千発もの中性子爆弾によ
 って大量のWA5PSが死滅するとともに、中性子照射によって、WA5PSを食い殺
 すウイルスを離した変種が大量にできたのではないだろうか?ここに新種細菌が、原種
 細菌を絶滅させるという、皮肉な事態が起こったのではあるまいか?
・なぜなら、あの南極防疫の恩人リンスキイは明示を避けたが、もともとWA5PSが、
 細菌戦用に開発されたものらしいということは、彼の放送をきいた軍人が常々言ってい
 たことだ。もしそうなら、本来人類を死と疫病から救うために生まれて来た医学が、
 三十五憶の人類を絶滅させ、そのあと、人類を絶滅さすだけの目的でつくりあげられた
 核ミサイルが、皮肉にも人類を救ったということになるからだ。
・人類は結局、巨大な宇宙の偶然にもてあそばれるひとひらの塵にすぎなかったのではな
 いか?短い一生しかもたない人間にとっては、永遠と思える繁栄の歴史も瞬時の破滅も、
 すべて宇宙の偶然の一こまの裏表にすぎないのではないだろうか?
・人は、のどもとすぎれば、たやすく熱さを忘れる。一にぎりの南極人の間に普遍化され
 たこの認識は、あとにつづく困難な数世代には受け継がれるかも知れない。だが、小康
 の世代がくれば、またたやすく忘れられるであろう。
・考えて見れば、大災厄以前の年月にあって、いくつもの大戦争を経過しながら、われわ
 れもまた、それを繰り返してきたのだ。”戦争を終わらすための戦争”という皮相な闘い
 を、繰り返したのだ。