GHQと戦った女 沢田美喜 :青木冨貴子

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この本は、今から7年前の215年に出版されたものだ。
沢田美喜という人は、日本が連合国の占領下におかれていた時代に、進駐軍兵士と日本人
女性との間に生まれた混血孤児を受け入れる「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設
した人物だ。
私は「エリザベス・サンダース・ホーム」の存在については知っていたが、その創設者の
沢田美喜という人については、この本を読むまで、まったく知らなかった。
沢田美喜という人は、三菱財閥の創設者である岩崎彌太郎の孫娘であったのだ。東京の不
忍池にほど近いところに「旧岩崎邸庭園」というのがあるが、沢田美喜はあの邸宅で生ま
れ育ったようだ。この他にも「六義園」や「清澄庭園」や「殿ヶ谷戸庭園」など、さらに
は千葉の「末広農場」や岩手の「小岩井農場」なども岩崎家のものだったというから、そ
の財力や想像を絶するものがある。
そんな岩崎家に生まれた沢田美喜だったからこそ、連合軍占領下のあの時代に「エリザベ
ス・サンダース・ホーム」という孤児院を作ることができたのだろう。いや、沢田美喜以
外にそのような偉業をやり遂げられた者は、当時の日本にはいなかったに違いない。
なぜなら、連合国占領下において、進駐軍と日本人との混血孤児を一カ所に集めるという
ことは、進駐軍の不謹慎な行為を表に曝け出すことであり、進駐軍にとっては本国のアメ
リカに知られなくないことであったからだ。このため、進駐軍と日本人との混血孤児の孤
児院を作ることは、GHQに楯突くこととなった。沢田美喜はGHQからあからさまな嫌
がらせを受けたようだ。
占領下においてGHQに逆らうことは、ほとんど誰にもできなかった。唯一、当時の首相
だった吉田茂ぐらいだったと言われている。この本を読んで、沢田美喜という女性の凄さ
を、改めて思い知った。

ところで、この本の中で「下山事件」が出てきたのにはおどろいた。下山事件の関与した
のではと疑われた人物が、エリザベス・サンダース・ホームで事務局長をしていたという
のである。沢田美喜もアメリカの諜報機関と何らかの関係があったのではという疑惑もあ
るとされ、なんともスッキリしないモヤモヤ感が残ってしまった。

過去の訪れた関連する場所:
旧岩崎邸庭園
六義園
清澄庭園
殿ケ谷戸庭園


プロローグ
・戦後七十年の歳月が流れようとする現在、あの戦争の記憶はほとんど失われかけている。
・あの戦争から、これまでの「悲惨な戦い」というイメージを払拭して、「栄える自衛の
 ための戦い」であったと称賛する極端な声も出ている。
・連合国占領を前にして、当時の新聞も雑誌も時代の趨勢に逆らおうとはしなかった。ま
 して進駐軍に楯突こうなどという酔狂な人物はいなかった。唯一、戦後の日本で進駐軍
 を恐れず、真っ向から楯突いたのは吉田茂だったといわれる。白洲次郎を思う浮かべる
 人もいるだろう。そしてもう一人挙げるとすれば、澤田美喜であることはまちがいない。
・首相吉田の進駐軍に対する抵抗については諸説あろうが、のらりくらりと吉田なりの抵
 抗をしていたことは現在でもそれなりに評価されている。
・神奈川県大磯の邸宅に住んでいた吉田とともに、同じ大磯の地で進駐軍兵士と日本人女
 性との間に生まれた混血孤児を受け入れる「エリザベス・サンダース・ホーム」をひら
 いた澤田美喜についても、毀誉褒貶があるかもしれない。とはいえ、世間が目をそむけ、
 あるいは興味本位で後ろ指をさした黒人や白人の血を引く子供たちを抱きしめ、温かい
 手で迎え、彼らを教育し、一人前の社会人として世に送り出した澤田美喜については誰
 ひとり否定できまい。
・なにより進駐軍こそがホームの設立を歓迎するどころか、裏では潰しにかかろうとして
 いた。まるで自らの兵士の恥ずべき行いに蓋をして、米兵の倫理的な高潔さを標榜する
 ために、そのような不謹慎な行為などなかったことにしたかったかに見える。米兵のお
 とし子たちの施設をつくることは、アメリカ一辺倒のあの時代の風潮に逆らい、GHQ
 へ刃を突きつけることだった。
・進駐軍の兵士と日本人女性とのあいだの日米混血児が生まれたのは、進駐が始まって九
 カ月ののち、自然の摂理のどおりの出産だった。混血孤児の数はどんどん増え続け、な
 かには公園や銅像の前に置き去りにされていたり、死体となって溝川に捨てられていた
 り、公衆便所で発見されたりする赤子までいた。
・当時、進駐軍の兵士と関係をもった女性は”パンパン”と呼ばれ誰よりも蔑まれた。多
 くが飢えと絶望のなかで体を売った身であったにしても、敵兵に体を許した女である。
 まして彼らとのあいだに生まれた子供など、多くが目をそむけ、あるものは興味本位に
 こう叫んだ。
 「クロンボだよ。ごらんよ。クロンボがいるよ」
・沢田美喜は三菱財閥の創始者岩崎彌太郎の孫で、三代目当主岩崎久彌の長女にあたる。
・大磯に開いたエリザベス・サンダース・ホームの敷地ももとは数多くあった岩崎家の別
 荘のひとつで、戦後、政府に財産税として物納したものを美喜が買い戻してホームの基
 礎とした。
・外交官だった夫の澤田廉三は公職追放となり、美喜自身が子供に英語とフランス語を教
 えて生活の糧を得ていたというあの敗戦直後の時代、岩崎の娘でなかったら、混血孤児
 の施設をつくるなど考えもしなかったであろう。
・岩崎家本邸「本郷ハウス」(現・東京都台東区池之端)と澤田廉三・美喜の自宅「サワ
 ダ・ハウス」(現・東京都千代田区一番町)の二軒はGHQのなかでも情報を扱う参謀
 第二部に接収された。
・それは、現在では考えられないほど巨万の富をもつ上流社会が戦前にはあって、その頂
 点にあった財閥の令嬢が一転、養う子供のミルク代にも事欠くほど窮乏する生活に自身
 を追い込んだ一人の女の戦後史である。と同時、混血孤児の救済という戦争の後始末に、
 たった一人で果敢に立ち向かった人物をたどる、戦後日本のものがたりでもある。

鐘をつく男
・わたしはエリザベス・サンダース・ホームの敷地内に建てられた「澤田美喜記念館」を
 訪ねた。
・館長の鯛茂は、長年美喜に仕え、もっとも忠実な最古参としていまだ記念館の館長をつ
 とめつつ、毎日、記念館の鐘をついていた。
・沢田美喜がスペインのマヨルカ島で客死したのは七十八歳のとき、1980年5月であ
 る。それからおよそ七年後に完成したこの記念館には、美喜が生前収集した隠れキリシ
 タンの遺物も展示されていた。かつて美喜が「駆け込み寺」と呼んでいたチャペルに収
 められていたもので、白磁のマリア観音や細川ガラシャ夫人所蔵の遺品の数々、ほかに
 も日本最古と伝えられる踏み絵の版木など、隠れキリシタンの遺物を展示したものとし
 てはほかに類を見ないといわれるほどのコレクションである。
・「昼間はオニババ、夜はマリア・・・」。鯛は沢田美喜のただの賛美者ではなく、彼女
 の矛盾に満ちた人間くさい本質を誰より熟知しているのではないかと思われた。それに
 しても、昼間はオニババ、夜はマリアとはいったい、何を意味するのだろう。

・正面の山をくぐり抜ける長いトンネルの出入り口があった。大きな車は通行不可能なほ
 ど狭いトンネル内に入ってみると、なかはけっこう暗い。急いで進もうとすると自分の
 足音がコンクリートの壁にこだまし、後ろを追って来るように聞こえる。ますます足早
 になる。一分少々かかってようや暗さに目が慣れた頃、トンネルを出る。突然、昼の光
 に包まれ、エリザベス・サンダース・ホームの本館前に来ていた。
・学齢に達したホームの子供たちを地元の小学校へ入れるのが難しいことを悟った沢田美
 喜が、園内に開いたのが「聖ステパノ学園小学校」である。戦死した三男晃の洗礼名ス
 テパノをとって名付けた学校だった。
・進駐軍のいたあの時代、日本の社会がどれほど頑なに混血の子供たちを受け入れようと
 しなかったか、どれほど冷たく彼らを差別していたか。
・「あの頃は岩崎家のカーテンをはずしておしめをつくったんです。初めのころはママち
 ゃまのポケットマネーで保母さんのお給料を払っていた。お椀とか金箔の紋がついてい
 る岩崎の器なんか全部、ママちゃまが売り払ってお金をつくったんです」
・お茶のポットなどの高価な銀器はもちろんのこと、天皇から賜った銀の大花瓶も犠牲に
 なったという。 
・「ママちゃまは自分のコートを売ってネギと取り替えた。そういう時代。子供たちがご
 はんを待っているから、事実そうなんです」
・「敷地内にあったお茶室も潰した・・・。あれだけの山があって、それでも薪が全然な
 かった。ミルクを沸かすために板きれ一枚ないんですよ。そこで、もとは岩崎の立派な
 お茶室です。それを三日間で壊して薪にして使ったんです。ミルクを沸かすために・・」
・その後、お茶室の跡に小さな家が完成した。その小さな家が、ママちゃまのいちばん最
 初の”駆け込み寺”になった。そこに隠れキリシタンの遺物をおさめ、祭壇と祈りのた
 めの机をおいて、美喜は夜になるとひとり祈りを捧げた。
・ホームの運営に行き詰まったり、米軍の迫害や周囲からの白眼視など、あらゆる困難や
 苦しみに打ちのめされた美喜が、三百年もつづいた激しい弾圧のなかで、死をも恐れず、
 命懸けで教えを守り通した隠れキリシタンの苦難を思い、白磁のマリア観音へ語りかけ、
 自分を叱咤激励した場所であった。

・「米軍基地内の労務者は、キャンプのドラム缶のなかに手を突っ込んで捨てたパンなん
 かをすくって食べていたんです。そういうのを見ていると、私は米軍のご飯を食べるの
 が嫌でしたね。米兵がタバコをポーンと投げ捨てると、労務者はモク拾いをするでしょ
 う。それを見るのが嫌で、私が全部消しちゃうの。コカ・コーラ三本で女の人が自由に
 なる時代ですよ」と鯛は語った。
・沢田美喜を助けるために昭和二十九年(1954年)に来日したジョセフィン・ベーカ
 ーは、北海道から九州まで二十三回も公演し、集まったお金をそっくりホームへ寄付し
 てくれた。その資金で建てられたのが寮だった。寮の入り口には、
 「神の国の平和を愛する若い人のために」
 というジョセフィンの言葉が刻まれている。
・沢田美喜の一番下の妹、綾子は福沢諭吉の孫のところへ嫁に行き、百歳ほどになったい
 まも健在だという。 
・展示室の奥には、幼くしてホームで亡くなった孤児や、引き取り手のない卒園生の遺骨
 二十数体といっしょに美喜の分骨も収められた納骨堂になっている。そこには沢田美喜
 の写真を飾った祭壇もある。
・混血孤児の施設は初めから苦難の連続であった。ホームをつくることがどれほど進駐軍
 の神経を逆なでし、楯突くことになるのか、沢田美喜はその戦いの厳しさをまったく予
 想していなかった。

進駐軍との孤独な戦い
・有楽町のカード下といえば、昼間でも暗くて、数分おきに通過する山手・京浜東北両線
 の轟音と震動に襲われる都会の吹き溜まりという印象が強かった。近くの銀座や日比谷
 の洗練された姿からはほど遠い異次元の世界。
・ところが、戦後の名残を感じさせるこの貴重な空間を久方ぶりに訪ねてみると、レトロ
 な雰囲気を楽しむ若い人たちで夜ともなると賑わいをみせている。
・昭和三十年代、薄汚れたのれんの奥では酔っぱらいが大声で軍歌を歌ったり、クダを巻
 いたりしていた。その脇には必ずといっていいほど、傷痍軍人の姿があった。足のない
 軍人が地べたに座って、物悲しいアコーディオンの音を奏でる姿は敗戦の現実をものが
 たる哀しみに溢れていた。いや、溢れすぎていた。
・さらにそれ以前はガード下の暗闇のなかに、パーマネントと厚化粧でひときわ目立つ夜
 の女たちが米兵を求めて客待ち顔に立っている姿もあった。これもまた、敗戦の爪痕に
 ちがいなかった。
・家族も家も全て失い、焼け跡で夜の女として生きるしかない身を嘆いて歌う「こんな女
 に誰がした・・・」というブルースは、パンパンと呼ばれた女性たちの呻きであり悲嘆
 であった。
・有楽町や新橋のガード下ばかりでなく、銀座の裏通りや日比谷にちかい皇居前広場で、
 黒い縮れた髪の子や碧眼の混血児が毎日のように捨てられていたことなど、七十年ちか
 くたった現在では知る人もいないであろう。
・戦禍が激しくなりつつあった昭和十九年二月、母の寧子が狭心症で倒れ、二十日ののち
 に亡くなった。さらに美喜の三人の息子が全員、相前後して応召・志願した。長男の信
 一は学徒出陣、次男の久雄は特攻隊、三男の晃は海外で身につけた英語の能力をかわれ
 て海軍の司令部へ。
・母が没してのち、大磯の別荘は太平洋を見下ろす高台が砲台に適しているという理由で
 陸軍に接収され、美喜は一人娘の恵美子と夫の郷里である鳥取の別荘へ疎開していた。
・昭和二十年一月、三男の晃が戦死した。まだ十九歳の若者の早すぎる死は、母を打ちの
 めした。
・巷では、玉音放送の後、「敵は上陸したら女を片っ端から凌辱するだろう」という流言
 飛語が野火のように広まった。都会の女性は田舎へ避難するように促され、服装も戦時
 のままモンペ姿でいるように忠告された。
・戦時中から食料不足は深刻だった。白米が食べられるのはほんの一握りの特権階級のみ、
 庶民はサツマイモや雑穀を主食とした。ときには虫さえ食べるような状況だった。日本
 が降伏した時点ですでに、日本人の過半数は栄養失調になっていたという。
・食料をもとめて都会の人間は農村に買い出しに行くしかなく、着物や時計、宝石などの
 高価な品々を食料と交換し、日ごと皮を剥いていく「タケノコ生活」を強いられたので
 ある。
・無条件降伏による敗戦、そして町にあふれる米兵たち。いいかげん胸の悪くなるような
 旧軍のカーキー色の軍服の氾濫を見ずにすむようになったかと思ったのに、今度は敵国
 の軍服を見つづけなければならないのか・・・。
・そればかりか、その軍服姿にぶら下がるように連れ添う日本人女性を目にした、美喜は
 いやな予感がした。 
・GHQの民主化政策の指令に対応できなかった東久邇宮稔彦内閣が総辞職し、幣原喜重
 郎
内閣が誕生した。幣原は美喜の叔父にあたった。
・昭和二十一年を迎えると、元日には天皇のいわゆる「人間宣言」が発せられた。背の高
 いマッカーサーが腰に手をやる隣で、緊張して身を固くした様子の天皇の姿に誰もが息
 をのんだものである。いかにも占領軍の威光を象徴し、日本に君臨するのはマッカーサ
 ーであることを誇示する写真であった。
・大磯からほど遠からぬ鵠沼近くの川に、黒い嬰児が浮かんでいるのを美喜は目にした。
 また東京では、歌舞伎座の裏通りで、青い眼を半ば開いた白い肌の赤ん坊の死体を見た。
 横浜でも同様の経験をした。美喜は、思わず目をおおった。
・さらに数カ月後、美喜の決断を迫る事件が待っていたのである。東海道線の下り夜行列
 車が岐阜の関ケ原にさしかかったとき、乗っていたぎゅう詰めの車内がざわめき出した。
 特攻隊から辛くも帰った次男を京都へ訪ねる途中の美喜のところへ、二人の警察官が人
 ごみをふみつけるかのように進んできて、網棚の荷物を調べ始めたのである。
・経管が、美喜の腰かけている真上の網棚にある紫色の風呂敷包みに目を止めると、
 「これは誰のですか」
 こういってあたりの人に呼びかけた。誰も顔を見合わせるばかりで返事がない。妙な臭
 いが美喜の鼻をつく。
・警官が、風呂敷の結び目をときはじめた。なかなかとけない結び目がやがてほぐれると、
 細ひもを十字にかけた新聞包みがあらわれる。警官が首をかしげながら、懐中からナイ
 フを取り出して細ひもを切ると、新聞の下には油紙でくるんだものが異臭とともに出て
 きた。油紙に包まれていたものは、赤ん坊のはだかの死体だった。よく見ると、うす墨
 をぬりつけたように全身が黒い。まぎれもなく黒人が父親である。
・そのとき警官が、大声で美喜を怒鳴りつけた。
 「パン助め!」
 びっくりして目を見ひらく美喜に、警官の罵倒はつづく。
 「とんでもないアマだ!日本人の面よごし!」
 しっかり美喜が包みの持ち主にされていた。とんだ災難である。
・そのとき美喜は、神のささやきを聞くのである。
 「もしお前が、たとえいっときでもこの子の母とされたのなら、なぜ、日本国中の、こ
 うした子供たちのために、その母になってやらないのか・・・」
 この啓示こそ、美喜の後半生を決定づけた瞬間だった。美喜四十五歳のときのことであ
 る。
・ときを同じくして、マッカーサー夫人宛に籠に赤ん坊を入れて届ける事件があった。
・「両方の国から要らないといわれる子供、親からも邪魔もの扱いにされ、闇から闇に葬
 られる子供の現実を直視したとき、私の運命はきまったのである」
・早速、本郷にある岩崎家本邸の父のもとを訪ね、考えをざっくばらんに話してみた。
 父は、娘の考えにもろ手をあげて賛成してくれた。
・GHQの財閥解体は三菱の社長ばかりでなく、岩崎家にも大鉈をふるった。岩崎邸には
 進駐軍がジープで押し寄せ、父の財産をごっそり没収していった。
・1947年5月、美喜は司令部にマーカット経済科学局長とウェリチ氏を訪問し、二時
 間ほど談じ込んだ。このウェルチというのが財閥たたきつぶしの総本家である。
・美喜は、やろうとする事業を説明したが、「戦争の犠牲者」「「戦争のために生まれた
 子供」という言葉でぼかして「混血児」とはいわなかった。もし混血児を収容するなど
 といえば、サムスの政策としても許されなかったであろうし、彼らは全然混血児のこと
 は知らずに許可したものであろう。
・サムスとはGHQ公衆衛生福祉局長クロフォード・サムス軍医大佐のこと。のちに日本
 人の命を救った恩人とまで称えられたが、日本人女性の生んだ混血児については美喜と
 真っ向から対立することになる。
・エリザベス・サンダース・ホームの創立は、昭和二十三年二月のことである。沢田美喜
 はこのとき四十六歳。ホームの名は、占領下の東京で生涯を終えた英国人女性からとっ
 たものだった。
 ・そのエリザベス・サンダースは東京目白の聖母病院で七十六歳の生涯を終える前、た
 くわえのすべてを聖公会の社会福祉事業に遺贈して旅立ったのである。彼女は英国で三
 井家が子息の乳母として雇入れた養育係だった。三十三年間、一度も祖国へ帰ることな
 く働いた歳月にこつこつと貯めたお金。それがホームに贈られた初めての寄付だった。
・エリザベス・サンダース・ホームで初めて預かった二人の子供のうち、楠木正成の銅像
 の下に捨てられていたサミはそのとき生後十カ月。全身、疥癬というひどい皮膚の感染
 症を患っていた。目を残して包帯に巻かれた体は弾力がなく、抱きあげても脱力したよ
 うにふんばる力さえなかった。
・もう一人は渋谷駅付近に捨てられていた女の子。早産児で肌が透き通るように白く、ご
 くごく小さな赤ん坊だった。色が白いので混血児かと思われたが、その白さは栄養失調
 のためで、しばらくして知的障害のある日本人の子とわかった。
・ひと月ほどして引き取った三番目の子は、藤沢あたりの農家の縁先の畠に捨てられてい
 て、へその緒も残っていた。黒人の捨て子として届け出たが、白人の血もかなり入って
 いると思われる男の子だった。
・創立から九カ月後の十一月までに受け入れた孤児の数が三十名。そのうち男の子が十七
 名、女の子が十三名。
・開設からの一年間はホームの敷地内で捨て子を見つけることが多かった。庭に九人も捨
 てられていた日もあった。 
・ホーム入り口のトンネルに、黒い子が捨てられていたこともある。暗いトンネルのなか
 では黒い子の存在に気づかず、あやうく踏んでしまうところであった。
・それからまもなくしてホームの庭に黒い捨て子があった。翌朝、風呂にいれてやろうと
 したところ、黒い汗を流している。おかしいと思いつつ風呂に入れてみると、なんと真
 っ白な子だった。日本人なのに黒くぬってホームに捨てたのである。なかには金髪を白
 髪染めで黒く染め、日本の子のようにして育てられる子もあった。
・ある朝、若い女が逃げる姿を目にした後に、赤ん坊が置き去りにされていた。赤ん坊の
 懐には「子供ができて親にも勘当され、家にも帰れません。お慈悲深い方に子供をお願
 いいたします」と書かれた紙片が入っていた。
・子供を捨てに来るどころか、玄関に生みにきた若い娘もいた。保母が呼びにきて玄関へ
 出てみると、片方の手に産着、もう一方の手にお米をもち、産気づいて唸っている。産
 婆を呼ぶとすぐに黒い肌の女の子が生まれた。汽車のなかで陣痛を起こし、乗客からサ
 ンダース・ホームへ行けばよいといわれたので、必死の思いで玄関まで辿り着いたとい
 うのだが、ホームへ来るまでは真っ暗で長い長いトンネルを歩かなければならなかった。
 よくも来たと美喜は感心したが、十九歳という若さゆえであろう。
・もっとも創設間もない頃の母親には、同情すべきものがあった。年は二十五歳から上で、
 いずれも二回以上の空襲を受けた被災者たち。着の身着のままでさまよっているうち、
 兵隊から生活物資などをもらい、その優しさについ心を許して彼らの言うなりに身を捧
 げた。「コカ・コーラ三本で女の人が自由になる時代」だったのである。
・しかし、そのうち夜の女に身を落とし、闇にまぎれて「遊んで行かない」と兵隊へ声を
 かけるしか、生きる方法が見いだせなくなってしまう。あるいは、結婚するという言葉
 にすっかり騙されて子供を生み、帰国してからは音沙汰もない相手を待ちながら、生活
 に困って子供を預けにくるケースも多かった。
・あの頃、政府が戦災被害者に対して、夜露をしのぐだけの衣類と、空腹を満たすだけの
 食べ物を与えていたら、こうした運命の子たちの数はずっと少なくなっていただろう。
・一年過ぎる頃には、立川、所沢あたりの米軍基地に捨てられていた子供が多く入ってき
 た。 

・混血孤児を集めて育てることに進駐軍が眉をひそめるであろうことは、はじめから美喜
 にもわかっていた。しかし、進駐軍の政策に真っ向から楯突くことになるなど、思いも
 よらなかった。
・日本人は救済事業が政府の責任であると考えないのだ。一方、米国の軍法に将校や兵士
 たちが子供に対する道徳的責任を取るように定めた条項はないと書いている。
・GHQ公衆衛生福祉局長のサムス准将の方針は、混血児を隔離せず、日本人の間で育て
 るべきだと考えていることを明らかにして、
 「米軍が帰国してもこの子たちは日本に残るのだから、日本人同様に育てられるべきで
 ある」
 というのがサムスの見解であった。
・米軍は混血児を引き取るつもりなど毛頭ないばかりか、その存在を消したいと考えてい
 たことは明白であった。 
・エリザベス・サンダース・ホームは、占領政策推進の阻害要因にされてしまった。なか
 には、サワダは混血児を集めて反米をあおり、左翼や共産党にその材料を提供している、
 などととんでもない言いがかりをつけるものも出てきた。
・あるいは、清潔場ベッドに子供たちを寝かしつけている姿を見て、贅沢だ、日本人は日
 本人らしい床にごろ寝させればよい、などと暴言を吐く将校夫人もあらわれた。
・サムスは、日本人が愛国心をもっているのなら、日本人は孤児を孤児院に届けるか、そ
 の中にいれるべきだという主張を繰り返して譲らなかった。本心は明らかに、米兵の起
 こした道徳上の問題を隠すために、子供たちは目立たないよう分散しなければならない。
 そのような子供たちばかりを集めて育てるなど、米軍の不名誉を宣伝しているようなも
 ので、はなはだ迷惑だという態度をくずさなかった。
・さまざまな圧力が、ひとり美喜の身に火の粉のようにふりかかってきた。ありもしない
 難癖をつけ、陰に陽にいやがらせをはじめた。その尻馬にのって、サンダース・ホーム
 を援助することは、進駐軍の政策に反するものを助けることになると公言する日本の役
 人までいた。美喜はGHQのみならず、日本人からの嫌がらせも受けていたのである。
・美喜はサムスへ手紙を出した。
 「私のやっていることがお気に召さないなら、ホームを解散しましょう。ただし、ちゃ
 んとした責任者のサインのついた文書で指令を出してくれなければ困ります。もちろん、
 敗戦国のわれわれは、こうせよといわれれば逆らえない立場です。ですから、理由を挙
 げてくだされば、アメリカの後援者に対しても、こういうことだからホームは廃止しま
 した、と説明できるのです」
・しかし、サムスからは何もいってこなかった。進駐軍としては、混血児を一カ所に集め
 るなという公式指令など出せるはずがないことを美喜は知っていたのである。そんな指
 令を出せば、米兵が日本人女性に子供を生ませている現状が本国に明らかになる。軍の
 このような道徳的頽廃を、ワシントンに知られてはならないのだった。
・美喜の進駐軍との戦いは、占領が終わる昭和二十七年(1952年)ごろまで続いた。
 
岩崎邸の令嬢
・明治三十四年(1901年)九月、沢田美喜は上野の不忍池にほど近い岩崎邸茅町本邸
 で、岩崎久彌の長女として生まれた。その邸宅はいまでは重要文化財に指定され、都立
 「旧岩崎邸庭園」として一般公開されている。
・美喜が生まれ育ったのは、この洋館ではなく、洋館につながる和館だった。十四部屋も
 の居室をもつこの和館こそ、岩崎家の住まいだったが、現在残っているのは大広間の一
 棟のみ。
・美喜が生まれた明治の時代には、現在の都立「六義園」も岩崎家のもので「駒込別邸」
 と呼ばれ、都立「清澄庭園」も岩崎家の「深川別邸」だった。
・このほか国分寺(現在の都立「殿ヶ谷戸庭園」)、伊香保(のちの「観山荘」)、箱根
 湯本(現在は「吉池旅館」)や京都の別邸、千葉の末広農場や岩手の小岩井農場も所有
 していたというから、三菱財閥の築いた富がどれほど巨大なものであったか、現在では
 想像もつかないほどである。その多くは初代の岩崎彌太郎が台湾出兵西南戦争によっ
 て手にした、まさに巨万の富の結果であった。
・岩崎家の生活は驚くほど質素だったという。土佐の貧しい出だっただけに、贅をつくし
 た広大な家に住みながらも、ものを無駄にせず大切にすることを繰り返し教えられた。
・岩崎家のそうした習慣は、美喜の曾祖母美和の代から受け継がれていた、彌太郎の母美
 和は、思慮深い賢母であった。彌太郎はといえば、生まれたときから泣きわめき、気性
 が激しい子供だったが、美和は叱りつけるのではく、なるべく自由に育てることによっ
 て奔放な才能を育んだという。
・茅町本邸には津田梅子が三人の兄たちに英語を教えにきていた。津田は満六歳のときに
 岩倉使節団に随行して渡米した、日本人最初の女子留学生のうちの一人である。
・美喜の母寧子は華族女学校を優等で卒業したというから、そこで教鞭を執っていた津田
 から英語を学んでいた。卒業生の寧子が頼み込んだので、津田は岩崎邸まで特別に足を
 運び、三人の男の子たちに英語を教えていたのだろう。
・英語のレッスンが終わると、津田は美喜の手を引いて一緒に庭を歩いたそうである。そ
 こでは目に入るものを英語でこの少女に教えたのである。津田梅子が幼い美喜に与えた
 影響は本人の自覚があったかどうかは別として、計り知れないほど大きかったことが
 うかがえる。

女彌太郎と岩崎と戦争と
・岩崎家は地下浪人という最下級の武士の身分だった。それは土佐にだけある武士の一種
 で、「郷士」の身分を売った後、村にいついた浪人である。その赤貧ぶりは、七人家族
 で二、三足の木履しかなく、笠もなくて、身のしかないほどだったという。
・もっとも窮乏の極みにたっしたのは父彌次郎が床に臥し、彌太郎が江戸から十三日で駆
 けつけたものの牢に入れられて、二人の男の働き手がなくなったばかりか、訴訟で物入
 りだったからだ。美和は自ら田畑へ出て働かざるを得なかった。
・貧困から這い上がり、身を立て、三菱財閥を築くまでの彌太郎を見ていくと、美喜が後
 に女彌太郎と呼ばれるようになったその理由がいくつか見えてくるような気がする。
 
・明治四年、台湾に漂着した琉球の漁民五十四名が台湾の原住民に殺害される事件があり、
 その賠償をもとめて清国と交渉したが進展がみられず、三年後の明治七年、ついに政府
 は派兵するのである。 
・そのためには兵士や物資を運ぶ輸送船が必要であった。政府は英国や米国の船会社が輸
 送してくれるものと考えたが、列強諸国は中立を理由に協力を拒否する。台湾の事務局
 長官だった大隈重信大蔵卿は、当然ながら「日本国郵便蒸気船会社」に輸送を命じた。
 ところが、この仕事を引き受けたら国内の顧客を三菱にもっていかれると懸念して、命
 令に難色を示したのである。大隈はやむなく「三菱商会」に依頼した。
・彌太郎はためらわず快諾した。国家のために力を尽くしたいというのは彌太郎の強い願
 望であった。功利より志を貫くことによって、三菱は千載一隅のチャンスをつかんだの
 である。 
・政府はあわせて十隻の外国船を購入し、その運行を三菱に委託した。三菱は政府の期待
 に応えて、滞りなく輸送を遂行した。
・台湾出兵が終わってみると、三菱はそれまでの社有船に加え、政府から委託された十三
 隻もの大型船をもつ日本最大の海軍会社に生まれ変わっていたのである。一方、日本国
 郵便蒸気船会社はもはや競争相手にならず、翌明治八年には解散に追い込まれてしまっ
 た。


五番街の聖トーマス教会
・ニューヨークの聖トーマス教会は五番街と五三丁目の角に静かにそびえている。
・ニューヨークで暮らした美喜はこの教会の祭壇の前に跪き、みごとな装飾を見上げなが
 ら祈りを捧げたことになる。
・外交官夫人としてブエノスアイレスと北京で暮らした美喜は、夫の本省勤務にともない
 大正十五年(1926年)に帰国。その四年後には新たな任地のロンドンからパリ、ニ
 ューヨークと渡って、昭和十一年(1936年)の帰国まで日本を離れることになった。
・やがて美喜は外交官夫人の生活に疑問を抱くようになっていた。幼い頃から、あれほど
 憧れた海外での生活。自分の学んだ語学で外国人とコミュニケートできることの楽しさ。
 しかし、結婚してから日々、社交や行事に追われていると、そんな華やかさのなかに、
 一体なにがあるのか、と思えてくる。
・そのうえ故郷を離れて海外で暮らしている日本人たちの小さなコミュニティーにも、違
 和感を覚えるようになっていた。美喜の目に映る日本人たちは決しての頃を開いて親し
 み合おうとせず、つまらない争いや、醜い嫉妬で憎しみ合い、お互いを陥れようとして
 いるとしか見えなかった。
・一方、英国は初めは取っつきにくく権威を振りかざすような社会に見えて、実は、報酬
 を求めない奉仕の精神に富んでいることに美喜は気づいた。その英国人の奉仕にかける
 情熱を知ったとき、心にできた裂け目が塞がっていくのを美喜は感じた。
・そのときたまたま知ったのが、「ドクター・バナードス・ホーム」だったのである。
 
・昭和七年(1932年)、英国生活が三年目に入った秋、フランスに転任となった夫と
 ともに一家はパリへ移った。「狂乱」の時代と呼ばれた1920年代のパリには、外国
 から集まった数えきれないほどの芸術家がアートやジャズなど様々な方面で文化の花を
 咲かせた。そのなかのひとりが、猫と女を描いてパリ画壇の喝采をあびた藤田嗣治であ
 る。新聞に藤田の名前が掲載されない日はないほど、美術界ばかりでなく、社交界でも
 人気を集めたのだった。
・そこでの美喜は女流画家マリー・ローランサンのアトリエへ通って絵を習うばかりでな
 く、生涯の友人となるジョセフィン・ベーカーと知り合うのである。
・ジョセフィンは、華やかな社交界からは想像もつかないパリの貧困と人種差別という大
 きな壁を、顕現させてくれたのである。
・数年前、米国から興行に来たジョセフィン・ベーカーは、一躍パリの観客を虜にしてし
 まっていた。腰にバナナの房を模した飾りだけをつけて踊る煽情的で挑発的なダンスは、
 パリの観客を熱狂させた。しなやかな肢体とその肌の色から、パリの人々はジョセフィ
 ンを黒いビーナスとも、褐色の女神とも呼んで絶賛したのである。
・米国セントルイスに生まれ極貧のなかで育ったジョセフィンは、パリで大成功をおさめ
 ても、貧しい人々のことを忘れなかった。興業がおわるたびに、オープンカーに山のよ
 うにお菓子の籠を積み上げ、貧民窟を訪れるのだった。
・その話を聞いていた美喜は思わず、こう口にしていた。
 「私もぜひ、連れて行ってもらえませんか」
 ジョセフィンは耳を疑った。貧民窟に行くことをどんな場所で話題にしても、一緒に行
 きたいという人はそれまで皆無だった。
・「あまりの様子に衝撃を受けますよ。それより、このパリn美しいイメージのままにし
 ておいた方がよいのではないですか・・・」
 とジョセフィンはこう言って押しとどめた。それでも美喜は引きさがらなかった。
 「私はこの街のすべてが知りたい・・・パリの陰の部分を知ることも大切です」
・ジョセフィンは自分で車を運転して美喜を迎えにくると、パリの街並みを抜けてスラム
 街へまっすぐに向かった。そこはパリ郊外のうらぶれた地区だった。
・ジョセフィンが車を停めてクラクションを鳴らすと、まるで蜂の巣をつついたように、
 すべての窓から子供たちが顔を出し、通りまですっ飛んでくるのだった。ジョセフィン
 は車の後部座席からリボンで色分けされた包みを取り出しては、子供たちの母親にひと
 つずつ手渡していく。その贈り物を手にして笑顔でいっぱいになった小さな子供。ジョ
 セフィンがその子供たちを抱きしめる姿を目にした美喜は、いつしか感動で身が震える
 思いにとらわれた。
・エリザベス・サンダース・ホームの運営で苦しいことや辛い思いに苛まれたとき、いつ
 も美喜を力づけてくれたのがパリのこうした思い出であった。とりわけ生涯の友になっ
 たジョセフィン・ベーカーと過ごしたときの記憶が、美喜を奮い立たせた。
 
「サワダ・ハウス」と「本郷ハウス」
・沢田美喜は、生家も自宅も進駐軍によって接収されてしまった。美喜にとって茅町本邸
 が接収されたことは大きな痛手であった。
・麹町の家はポール・ラッシュによって民間諜報局(CIS)に接収され、諜報活動に携
 わる「サワダ・ハウス」になった。
・諜報組織に接収された二つの邸宅を追って行くと、エリザベス・サンダース・ホームの
 思わぬ顔があらわれてくるのだった。進駐軍との闘いは美喜にとって、茅町や麹町の家
 を守ることでもあったにちがいない。
・民間諜報局(CIS)に配属されたポールの主な仕事は、東京裁判にかける戦争犯罪人
 に関する情報収集だったようである。
・ポールは編集分課長に任命され、戦争犯罪人を含む日本の統治にかかわったすべての人
 事資料を収集して整理する情報センターを統括することになった。そのため第一生命ビ
 ルのオフィスでは手狭になり、麹町の澤田邸を接収したのである。
・もっともポールとしては、沢田夫妻の家が進駐軍のほかのセクションに接収されるのを
 防ぐためにも、自らの手に入れる必要があったのだ。
・サワダ・ハウスには二世のアメリカ兵がたくさんいた。主にミネソタ州の陸軍情報部日
 本語学校を出た、ポールの教え子たち七十一名である。仕事は日本語を英語に翻訳する
 ことだった。
・「原田日記」や「木戸日記」も英文に翻訳した。「原田日記」は、最後の元老と言われ
 た西園寺公望の秘書であった原田熊雄が、昭和五年から昭和十五年までの西園寺をめぐ
 る政局の裏側を口述した膨大な記録。東京裁判にのぞむGHQが資料として押収し、サ
 ワダ・ハウスで英文に翻訳され、東京裁判では重要な証拠として採用された。
・「木戸日記」は、天皇の側近である木戸幸一が、やはり昭和五年から敗戦までの期間を
 記したものである。
・少なくとも一カ月に一回、美喜は大磯から麹町の家に足を運んでいた。ポールから食料
 ばかりでなく必要なものを援助してもらうためである。さらに重要なことは、家賃を受
 け取りに出かけたことである。これがエリザベス・サンダース・ホームの運営につって
 大切な資金だったのである。
・ポールはホームの創立から運営にいたるまで、決して表に立たず、常に黒子に徹して精
 神的、物質的に美喜を支えたのである。
・この、進駐軍による占領という時代の「怪しい家」は、一方でエリザベス・サンダース
 ・ホームの”支援団体”でもあったのである。

米情報部とサンダース・ホーム
・ホームにまつわるもう一人の男がいることを思い出した。男の名前は真木一英。ここで長
 い間、美喜の秘書役として事務局長をつとめた人物である。
・その真木について、なんと「下山事件」との関連を指摘する本が現われたのだ。下山事
 件は、戦後史最大のミステリーともいわれ、未だに自殺であったのか他殺であったのか、
 結論といえるものが出ていない。 
・2005年7月、「下山事件ー最後の証言」と題する本が出版された。そのなかで、
 「真木という”殺し屋”がいたんだ。一時、下山事件の実行犯の一人として名前があがっ
 た男なんだけどね。その真木の身辺を洗っていくと、エリザベス・サンダース・ホーム
 の沢田美喜に行き当たるんだよ・・・」
・真木については下山事件報道のなかで。Mというイニシャルが仮名で記されてきた。実
 名と行方、そして沢田美喜の名前を明かしたのは著者の柴田哲孝が初めてである。
・下山事件の容疑者に仕立て上げられそうになった真木一英が、エリザベス・サンダース
 ・ホームの事務局長と同一人物とはとても思えない。ところが、ママちゃまの部屋にあ
 るホームの資料箱のなかには、「澤田園長殿」に宛てた真木一英の手紙がたくさん保管
 されてあった。 
・真木一英がなぜ消されずにすんだのか。
 「エリザベス・サンダース・ホームに逃げ込んだんだよ。真木は、沢田美喜の私設秘書
 をやっていた。それでCIAも手をだせなかったんだろうな」
・つまり沢田美喜は沢田ハウスや本郷ハウスなどの基地を”提供”しただけでなく、アメ
 リカの諜報機関にある種の”権限”を持っていたということになる。
・「エリザベス・サンダース・ホームは表向きは慈善施設だけれどね。裏では確かに、何
 かをやっていたんだよな・・・」 

澤田信一の告白
・夜行列車の網棚にあった風呂敷包みから黒人の嬰児の死体が見つかるという惨状を目に
 してから、混血孤児の母になる決意をかためるまでに、沢田美喜は三日間黙想にふけっ
 たという。さらにその後の一週間、寝食を忘れて祈りつづけたそうだ。その決心がつい
 た後、この仕事に自分をささげるのなら、この世のすべてから自分を切り離さなければ
 ならない、という最後の決意をする必要があった。
・「実子が孤児になり、孤児が実施になった」というのは一方で、孤児を実子のように育
 てようとした沢田美喜のがむしゃらな熱意を見事に物語っているのではあるまいか。ほ
 とんど時代錯誤と呼びたくなるほどの自己流であったかもしれないし、その姿はドン・
 キホーテのようでもあったかもしれない。とはいえ、実子のように育てられたと感じた
 孤児がどれだけいただろう。
・旧岩崎邸で育てられた孤児たちの教育については、後年、いろいろと取り沙汰されるこ
 とになった。ひとつには依怙贔屓があったからだという。多くの卒園生がそれは認めて
 いる。
・美喜がスペインのマヨルカ島で客死した後、卒園生の多くはスパルタ教育のママからバ
 ットやハイヒールで叩かれたことを認めたが、それは根性をつけるためだったと語った
 卒園生もいる。グレないですんだのはママおおかげという子もいれば、大人になるにつ
 れ、ありがたみがわかるようになったという声もあった。
・一方、自分の四人の子供は英国の「ノーランド・カレッジ」(保母学校)から来たミセ
 ス・ラルフに仕込ませたと、美喜は著書に書いている。
・美喜としては、子供のしつけを厳しくすることによって、独立心を植え付けることを目
 指したつもりだったのである。  
・ホームの子供たちはいずれ十八歳になると、いやでも施設を出て自分の力で生きて行か
 なければならない。しかも、普通の日本人の子が世の中に出て行くのとは比べものにな
 らないほど、厳しい社会が混血孤児には待ち受けている。その日のために、早くから将
 来の職業を決めて訓練を積ませたいという美喜は考えていた。あえて厳しくしつけ、素
 行の悪い子には平手打ちもいとわず、本気で子供を叱ったのだ。
・「私の外なる心は、ドンキホーテのごとく大見得をきりますが、内なる心は、夜子供た
 ちが寝静まって一日の戦いが終わると、くずれ折れるように、寝室の壁の十字架の下に
 ひざまずいて、涙の中に祈り明かしたことも幾度かありました」
 と美喜は回想している。
・美喜はオニババにならなければならないほどのものを背負って、昼間は胸を張るが、夜
 になるとその重みに耐えかねるときもあっただろう。孤児たちの背負っている十字架を
 代って背負う決意でエリザベス・サンダース・ホームを始めたが、GHQのクロスフォ
 ード・サムス准将
の「孤児を隔離しない」という政策に楯を突き、真っ向から戦うこと
 になろうとは思いもしなかったのだ。
・しかし、その戦いも、進駐軍による占領が終わった昭和二十七年(1952年)に、あ
 っけなく幕を閉じた。というより、マッカーサーが前年に解任されたとき、サムス准将
 も辞任して同年五月には日本を後にしてからである。それでも、美喜の戦後は終わった
 わけではなかった。
・「サンダース・ホームを開設して五年になるが、その間、247名の子供を預かってい
 る。うち、67名が日本にいる米国人に養子に迎えられた。それも、八カ月から二年近
 くもかかって、あちらへ行った子供が68名のうち16名で、それ以外のものはまだ日
 本に残ってそれを待っている」
・「米国の移民法は非常に不公平なやり方で作られている。49パーセント以下の東洋人
 の血と51パーセント以上の西洋の血がはいっているものがはじめて入国を許される。
 養子として受け入れられるわけである。ところが、進駐軍の置いて行った子供は、母親
 がすべて日本人だから、49と51にはならないで、50パーセントと50パーセント
 の半々になる。この場合、父親が正式に結婚しない限り、子供として連れて行くことは
 できない。そこで、改めて日本人を養子とするという手続きをしなければならない」
・米国の移民法は初めから西洋人を優遇し、東洋人の移民や帰化を認めようとしない不公
 平なものであった。日本人排斥法として知られる1924年の移民法である。
・その後1947年には米軍人の日本人妻や子供が移民できるようになったが、そこに養
 子は含まれなかった。 
・美喜が米国講演旅行をはじめたのは、この移民法を根本的に改正してもらうことが狙い
 だったようだ。混血児たちが向こうの親に望まれるままに、暖かい家庭と教育を与えら
 れるようにするためであった。
・美喜の嘆願はただ、アメリカ人を父親として浮かれた子供が、もしアメリカ人に望まれ
 た場合は入国させていただきたい。養子の口のある子供だけお願いしたというつつまし
 いものであり、占領中にアメリカ人を父親として生まれた子供は特別な移民割当をつく
 っていただきたいということであった。
・オクラホマのある街では、美喜が講演を始めようとすると、
 「パールハーバーを忘れるな!」
 と口笛を吹いてあからさまに邪魔をした。
・また、ある街では、アメリカ兵の残した子供の話をはじめると、たちまち聴衆のなかか
 ら、 
 「それならば、日本兵が南の島々に残した子供たちはどうするのだ」
 という大声が返ってきた。
 
・昭和二十八年(1953年)、ホームは社会福祉法人として正式に認可され、補助金を
 受けられるようになった。美喜のポケットマネーと援助や寄付だけでやりくりした時代
 は終わったのである。
・孤児たちが学齢期に達したこの年の四月には、学校法人聖ステパノ学園小学校を創立し
 たが、それでもホームは赤字続きだった。美喜は赤字の埋め合わせのため、またまたア
 メリカへ旅立った。
・「もはや戦後ではない」と経済白書が謳ったのは、昭和三十一年のことだった。
 昭和二十七年からつづいた募金活動のためのアメリカ講演旅行も昭和三十四年には五回
 を数え、ホーム内の施設も次第に整ってきた。聖ステパノ学園中学校が創立されたのも
 この年である。

マヨルカ島
・沢田美喜はなぜマヨルカ島まで来たかったのかと思う。体調が悪かったのだから、ここ
 まで来ずに日本へ帰ればよかっただろうに。なぜ、それほどまでマヨルカに執着したの
 だろうか。
・「窓の向こうは青い海だわ」という幸せそうなトーンに包まれた美喜の最後の言葉であ
 った。
・美喜がマヨルカ島へどうしても来たかったのは、ショパンジョルジュサンドの逃避行
 の地だったからかもしれない。

・美喜はホームの第一期生や二期生が社会人になる時期が近づくと、彼らの将来を考える
 ようになった。毎年、アメリカへ講演旅行に行く帰りに、世界をめぐって、子供たちの
 永住できる楽園を見つけようとした。子供たちが好奇の目にさらされない国、大手を
 ふって歩ける国、混血の人がたくさんいて同じように生活している国、肌の色に偏見の
 ない国、子供たちが幸せに暮らせる安住の地。美喜は求めていた理想郷を、ついにブラ
 ジルのそれもアマゾンに見出したのだった。それは日本人入植者の手によってコショウ
 の産地になった、トメアスという開拓地であった。
・一角におよそ五ヘクタールの土地を買って、亡くなった晃の洗礼名を冠し「聖ステパノ
 農場」と名づけ、様々な訓練をへた青年七名を連れてブラジルへ向かうのが昭和三十八
 年(1963年)のこと。ゆくゆくは三十名規模にして、仲間たちと暮らせる農園を目
 指し、美喜もいずれはここに移り住むつもりであった。
・しかし、聖ステパノ農場はその後ひっそりと閉鎖、売却され、ブラジルで農業を続けた
 卒園生はわずかで、ほとんどが帰国したという。夢のすべてをかけたこの農場を手放す
 ことは、美喜にとって辛い選択であった。
・美喜はガラス窓から地中海の碧さを見つめながら、自分の選んだ道になんの悔いもない
 と思うのだった。思い起こせば、なんと風当りの強い道であったろうか。数えきれない
 ほどの峠を越えてきたことだろうか。
・この仕事を「信仰半分、意地半分」で押し通して来た、とよく口にした美喜。もう諦め
 るだろう、もう手を引くだろうと手ぐすね引いて待っている人たちを、「見返してやり
 たい」という意地に背中を押されて、とうとう”女彌太郎”の名前を戴くことになって
 しまった。
・あれだけの岩崎に富を与えられたからこそ、お金では買えないものがあることを知り得
 た。あれだけの岩崎の富で育ったからこそ、祖先の栄光と地位をかさにきた華族の子孫
 がたまらなく嫌だと思った。あれだけの岩崎の富があったからこそ、好奇の目で見られ
 差別される人間の側に立ち、彼らを守ることができた。そして、人を幸福にすることの
 喜びは、なににもまして自分を幸福にしてくれることを悟ったのである。
・岩崎彌太郎と女彌太郎は、コインの表と裏であった。彌太郎はがむしゃらに赤貧から這
 い上げり、郷士の身分を買い戻し、時の権力に仕えることで富を蓄え、巨大になってい
 った。女彌太郎は、時の権力に立ち向かう覇気と勇気を兼ね備え、果てしない戦いを挑
 んだ。 

あとがき
・三菱財閥の家の生まれたものの、跡取りの長男だけを大切にする土佐の気風に反発し、
 父が男爵であるにもかかわらず華族をきらい、華族との結婚を拒否するなど、強いもの
 には反発し、弱いものに側に立つその反骨精神は見事としか言いようがない。
・美喜は夫の任地・英国で、富士山と桜と芸者をほめたたえるステレオタイプの日本賛美
 に辟易して、午餐や夜会に明け暮れる毎日に疑問を覚えた。海外で暮らしている日本人
 コミュニティーでつくられる日本社会の雛形にもほとんど絶望的な違和感を覚え、まわ
 りの夫人から嫉妬され憎悪されても気にしなかった。
・そんな女性だったからこそ、混血孤児に手を差し伸べ、温かく抱擁し、彼らを収容する
 施設をつくろうと思ったのである。 
・しかし、進駐軍に誰ひとり立ち向かえなかったアメリカ一辺倒のあの時代、米兵のおと
 し子のための施設をつくることはGHQに歯向かうことにほかならなかった。