ゼネコン疑惑の主役 三塚博 黒い履歴書 :菊池久

この本は、いまから31年前の1993年に刊行されたものだ。
内容は、宮城県出身の自民党に所属していた元衆議院議員・三塚博氏の数々の疑惑につい
て暴露したものだ。
三塚氏は、1972年に衆議院議員に初当選した後、以降10期連続当選し、2003年
まで約31年間衆議院議員をつとめた。その間、運輸大臣、通産大臣、外務大臣、大蔵大
臣を歴任したほか、自民党政調会長、自民党幹事長をつとめて宮城県が誇る超大物政治家
であった。しかし、その裏では、いろいろな疑惑の対象となっており「疑惑のデパート」
と揶揄されていたようだ。
この本の著者の主張するところの三塚博氏に対する疑惑について、主なものをあげると、
次の三つのようだ。
佐川急便事件(平成4年):金丸信(議員辞職、政界引退)、三塚(お咎め無し)
ゼネコン汚職(平成6年):石井亨(仙台前市長・逮捕)、守屋光雄(守屋木材社長・
              逮捕)、ハザマ、西松建設、三井建設各社首脳・逮捕
              三塚(お咎めなし)
・国鉄JR財産(恵比寿駅周辺再開発、仙台花京院跡地)収奪疑惑:三塚(お咎め無し)

これらの疑惑はいずれも自分の地元の仙台が関係しているのでとても興味深く読んだ。
当時は、裏でこんなことが行われていたなどということは、私はまったく知らなかったの
で、”あのビルが?”、”あの学校が?”と、30年も前のことで今さらではあるが驚愕した。
当然のことだが、いずれの疑惑についても三塚氏本人はこれを否定し、刑事捜査からは免
れ、議員辞職することなく議員人生を全うした。
いまの政治資金パーティーの裏金問題での疑惑の国会議員を見ていても明らかなように、
昔も今も、国会議員というものは、裏でどんなことをやっていても、顔色一つ変えずに、
”知らぬ”、”存ぜぬ”で押しとうすことができる天才たちなのだ。
評論家の「佐高信」氏は「政治家にモラルを求めることはゴキブリにモラルを求めるに等
しい」とテレビで発言して物議を醸したことがあったようだが、けだし名言だなと思った。
もっとも、消費税などで多額の税金を課せられていながらも、唯一の権利である選挙での
投票に行かない有権者が多く、結果的にそのような国会議員たちを選挙で当選させてきた
われわれ一般の国民は、”ただただ哀れな存在だ”という悲しい気持ちにしかならない。

ところで、この本の中で、共和汚職事件の主犯・阿部文雄(元北海道・沖縄開発庁長官)
の愛人が女優の山本陽子さんだったという記述があった。これには驚いた。
山本陽子さんというと、つい最近、亡くなったというニュースが流れたが、あの華やかな
女優だった山本陽子さんも、国会議員の愛人だった時代があったのかと思うと、その波瀾
万丈の人生を偲ばずにはおられなかった。

過去の読んだ関連する本:
瀬島龍三


”ゼネコン疑惑の主役”三塚の悪行
・運輸・建設族議員たちが、まさに崖っぷちに追い詰められたのが、政界疑惑が不発に終
 わった佐川急便問題だった。
 この「佐川急便事件」は政界からの圧力に屈した法務・検察官官僚が、佐川急便事件の
 捜査を汚職・疑獄事件として立件することなく、一般民間会社−東京佐川急便−経営者
 による特別背任事件に矮小化したことで、疑惑の政治家たちは、法の網をうまくくぐり
 抜けた。
 その最悪?の人物が捜査当時、自民党政調会長として宮沢自民党の三役ポストにいた
 「三塚博」その人だった。
・佐川急便事件を含めて、つねに政権利権の黒い舞台に躍り出る常習犯、金・竹・小の三
 ワル。このなかで巧妙にすり抜けたのが竹・小の「竹下登」と「小沢一郎」だ。
・この竹下・小沢は、「金丸信」とともに国会から証人喚問され国会証言まで求められ政
治責任と問われたのに。
・だが、おかしいことに、運送業最大手・佐川急便の運輸行政の規制をカネと政治力では
 ねのけようとした運輸犯罪なのに、運輸族の自民党のボス・三塚博、社会党のボス・
 「安恒良一」の二人は、国会に喚問されることもないばかりか、捜査当局の事情聴取も
 受けることがないほど、カスリ傷ひとつ負わなかったことだ。
・まさに、佐川急便疑惑の中心の二人は逃げ切ったのだ。
 ただひとり、逃げのびることに失敗したのが、もうひとりのワル・金丸信だ。
・モノごとにアバウトな金丸、「渡辺広康」(東京佐川急便元社長)からもらった5億円
 のヤミ献金の受け取りを隠すことに失敗、バレてしまった。
 これが、検察から政治資金規正法違反に問われた。
・このとき金丸は、いまだ自民党一党支配下の政界の最高実力者の座にいた。
 このため、金丸のもとに蝟集する中ボス・「梶山静六」たちの暗躍によって、検察へか
 けた事件潰しの圧力が功を奏した。
 いわゆる被疑者としての事情聴取も排除し、上申書一通で、事件を処理、略式裁判によ
 って金丸はただの一度も法の裁きの廷に立つ恥を受けることなく、罰金20蔓延という、
 庶民にとってもスズメの涙ほどのカネで罪を洗い流そうとした。  
・だが、金丸はここで大きな誤算をしでかした。
 それは、衆議院議員辞任・引退という犠牲ではなかった。
 もともと、政界引退は金丸と検察のいわゆる「司法取引」。
 水面下で元法相の梶山がかつての法務省事務次官だった岡村、同省刑事局長の根來のも
 との下僚二人と政治的な取引で金丸の「政界引退」を交換条件として金丸20万円罰金
 のすべてを収拾した。
 いや、金丸、梶山らは「すべて、カタがついた」と確信した。
・だが、その確信はきわめて弱いものだった。
 なぜならば、金丸20万円罰金収拾で、国民の怒りが爆発したからだ。
 いや、それ以上に怒り狂ったのが、佐川急便事件を捜査した東京地検特捜部の特捜検事
 たちだ。
・とくに、金丸・竹下・小沢の三人をターゲットにして内偵・捜査を続けてきた金丸が罰
 金20万円で「おトガメなし」となったのだから、国民の検察不信の矢面に立たされ、
 誇り高き検事バッジをつけて歩くことさえ恥ずかしい思いをするほど肩身の狭い思いを
 した。そこで、検事たちは検察不信回復に立ち上がった。
・「金丸の収賄がダメならば、脱税での追及があるさ」
 こうして、検察トップによってスポイルされた特捜検事たちは金丸の捜査を佐川マネー
 の5億円を金丸の収入とみなし、脱税捜査に切りかえた。
 そこで、東京地検特捜部は、ただちに金丸を脱税容疑で逮捕するという検察トップのハ
 ナをあかし、国民の検察不信を払拭、回復する頂上作戦に出た。
 このとき、金丸の自宅、事務所をガサ入れした。
 そこで見つかったのは、ゼネコンからの金丸への献金を証明するブツ(証拠品)のヤマ、
 ヤマだったのだ。
・三塚を脅かしつつある、ゼネコン汚職事件のルーツは、この金丸脱税事件だったのだ。
 
・自民党最大派閥の領袖・三塚博の襲った、ゼネコン汚職事件の大きな衝撃は、平成5年
 6月に「石井亨」(仙台前市長)を収賄、9月に自民党宮城県連元副幹事・守屋光雄
 (守屋木材社長)を同共犯で、東京地検特捜部が逮捕したことだった。
 同時に贈賄側の大手ゼネコンのハザマの会長・本田茂ら、同社と西松建設、三井建設の
 各社の首脳・幹部社員も捕まった。
 ゼネコン汚職仙台ルート捜査第一弾の直撃であった。 
・三塚にとって、石井は、仙台市をおもな地盤とする”三塚城”の城代家老ともいえる存
 在だ。
 なぜならば、三塚は、革新市長だった「島野武」の急死であいた後任市長に、当時、
 宮城県知事・「山本壮一郎」を支える副知事だった石井をかつぎ出し当選させ、誕生し
 た石井市長生みの親が三塚だったからだ。
 だから、三塚にとって石井市政下の仙台市は自分の掌中でどうにでもできる存在だった。
・三塚の地方・宮城県政・仙台市政の制圧戦略は、石井なしで兵馬を進め、挑戦すること
 は不可能だった。 
 三塚によって市長になった石井が、三塚城・仙台の「城代家老」たるゆえんはこの、
 三塚・石井、一心同体の緊密な関係にあったのだ。
・この三塚・石井の”同体関係”に割って入ってきたのが、石井と運命をともにし、小菅
 (東京拘置所)まで行をともにした守屋だった。
・もっとも、三塚にも石井にとっても守屋は歓迎すべき同志として迎えられた。
 なぜならば、1円のカネでも欲しい三塚、石井のところに、汚れたカネの”運び屋”、
 つまり「ダーティ・マネー・キャリアー」がいる。
 守屋は”運び屋”がその正体だったからだ。
  
・守屋は、いまこそ宮城県では”政商”ともてはやされていたが、もとは商人のボンボン、
 二代目。
 その守屋に運が向いたのは、製紙業界第二位の大手・大昭和製紙の創業者二代目のオー
 ナー・「斉藤了英」との出会いだった。
・斉藤の放漫経営とオイルショックの直撃で、名門・大昭和は一時、住友銀行の軍門に下
 った。
 だが、大昭和は奇跡的によみがえった。バブル経済によって経営が一点、好転した。
 これで、意気消沈していた斉藤のハナ息が荒くなった。
・斉藤は、また経営のトップに返り咲く復権をなしとげだ。
 そのうえで、積極経営に転じた。
 その第一弾が、大昭和製紙の宮城・名取への工場進出だった。
 その斉藤東征軍のパイロット(水先案内人)をつとめたのが守屋だった。
 守屋はまず、名取市の工場建設予定地の先行取得、地上げ屋となって土地を買いまくる
 とともに、宮城県庁で工場誘致担当の石井に話をつけた。
 三塚ー石井ー守屋の三人の間に「もちつ、もたれつ」の悪しき関係ができたのだ。
 
・仙台の島野市政は”革新市政”というレッテルがはられていた。
 このため100万都市を目指しながらも、中央、そして、宮城県からも敬遠されていた。
 このため”杜の都”というイメージもあって仙台の活性化は、いまひとつという感じはま
 ぬがれなかった。
・そこへ市民待望の石井保守市政の誕生で、市民は、いや、ゼネコン業者が大手も、中・
 小企業も国と県、そして仙台市の工事がもらえるということで、その眼はランランと輝
 いた。杜の都・仙台にしばらくぶりで活気がもどった。
・その全市民の期待を背にした石井が、市民に示した三大公約が、石井市政の”目玉政策”
 の三大プロジェクトだった。
 その第一プロジェクトは「JR仙台駅北部都市再開発」事業だ。
 これは、いま、ほとんど手つかずとなっている仙台駅北口駅前広場に、地上44階、高
 さ140メートルの東北一のノッポビル「テレポートセンター」ビルを約300億円で
 建設するというものだ。
 この建設費ははじめ400億円で、大成建設と工事契約した。
 ところが平成4年春、「入居希望企業・店が少ない」ために「計画を再検討する」とい
 うことにして石井が大成建設との工事契約をキャンセルした。
・だが、「入店者が少ない」といういい方はおかしい。
 なぜならば、ここは旧国鉄用地、いまは国鉄清算事業団の管理地。
 そこで、旧国鉄が100パーセント出資の第二電電「日本テレコム」が、このテレポー
 トセンタービルを建設し、いまのJR6社が全国の鉄道路線側溝に埋めている光ファイ
 バー電話線の「総合通信基地」を東京から仙台のこのセンタービルに移す。
 これで、関東が大規模地震に見舞われ、首都・東京が壊滅、NTTや他の第二電電の電
 話、通信網がズタズタになっても、仙台に基地を移す、日本テレコムの通信施設は大丈
 夫という遠大な構想が石井・仙台市、「住田正二」・JR東日本(当時社長)、「馬渡
 一真
」・日本テレコム(社長)との三者間で”秘密協定”が結ばれていた。
・この三者協議をあっせん、立ち会ったのが、三塚博その人だ。
 三塚・石井の緊密な仲は疑いの余地がない。
 同時に、運輸族のドン・三塚の人脈のなかに運輸省の事務次官だった住田、国鉄副総裁
 だった馬渡が枢要な地位を占めていた。
 いや、それどころか、住田のJR東日本社長、馬渡の日本テレコム社長のふたつの人事
 とも、じつは三塚が「ウン」とクビをタテにふらなければ実現しなかった人事だった。
・だから、この仙台駅北部都市再開発事業の”目玉”のノッポビルの名称が「テレポートセ
 ンター」なのだ。  
 すでに、日本テレコムが大口ユーザーとしてこのビルを専有するのだから、「店子が少
 ない」というのは、大成建設との契約を破棄するための口実にしかすぎなかったのだ。
・じつは、このテレポートセンタービルを中心とするJR仙台駅北部都市再開発という総
 事業費760億円の超大規模事業の企画には、石井、三塚、そして住田、馬渡のほかに
 もうひとり、三塚人脈の主要メンバー・半谷哲夫(鹿島副社長)が加わっていた。
 半谷は、いまでこそ、民間会社・鹿島の副社長の身である。
 だが、そのもとをただせば、国鉄の元技師長、国鉄の総裁、副総裁に次ぐナンバースリ
 ーで、わが国の鉄道技術専門家集団のトップのポストに就いた技術官僚の最大のエリー
 トだ。  
・三塚はこの半谷とは、国鉄改革のときよりまえから交遊がある改革派の同志のひとりだ。
 そこで技術中心のこのテレポートセンタービル建設の企画スタッフに半谷を引きずり込
 んだ。
・ところが、半谷・鹿島が青写真づくりに参加したのに、肝心の建設工事はなんの関わり
 合いもない大成建設に仙台市が発注、契約を結んだ。
 これに怒ったのが三塚・半谷だ。
 ただちに三塚が石井に「破棄せい」と談じこんだ。
 ところが、受注した大成建設がもう準備工事を進めている。
 そんななかで、いきなり理由を明示できないまま請負契約を破棄すれば、仙台市は大変
 なペナルティー破約補償金を大成建設に支払う羽目になる。
 そこで、石井らが考え出したのが建設計画の白紙化という口実だった。
・そこで、大成建設とは平成4年秋に、計画変更を理由にビルの請負工事を解約した。
 ところが、平成5年春、仙台市はテレポートセンタービルの建設工事を鹿島に約300
 億円で契約した。
 計画を縮小、見直しによって建設費を約100億円減らしたのだ。
・これでメンツが立ったのは半谷・鹿島である。
 もちろん、この契約変更には住田ー馬渡ー半谷の運輸・国鉄一家の人脈がモノいったこ
 とは当然である。  
 しかし、その背後で、国鉄・JRの応援団長・三塚が、その人脈の石井に直談判をした
 結果であることは異のないところである。
・問題は、大成建設から”横取り受注”に成功した鹿島が、三塚・石井に「成功報酬」の
 カネを出したかどうかだ。
 一連の仙台ルートの真相解明を続けている東京地検特捜部が、このゼネコン交代疑惑を
 「おかしい」と見て、今後の捜査の最重点においている。
・こんどのゼネコン汚職事件の捜査で、東京地検特捜部は、いままで、刑事責任を問うに
 は問題があった第三者の介入について「共犯」容疑で刑事責任を追及する方針をとった。
 これは、これまでの汚職・疑獄事件の捜査ではとても考えられない大英断である。
 その”共犯”第一弾が石井の共犯?守屋光雄の逮捕だ。
 
・もうひとつの三塚疑惑がある。
 石井は石井市政第二の大型プロジェクトとして、仙台港を大幅に拡張・整備する「仙台
 国際港拡張・整備計画」を企画、推進する方針を打ち出した。
 いま10万トンそこそこの中型船しか接岸できない仙台港を、50万トンクラスの大型
 タンカーが利用できるように、岸壁、埠頭の延長や、後背地の整備などを進めようとい
 うもので、この事業費は約400億円ともいわれている。
・もちろん、この仙台国際港整備計画は、運輸省の承認、補助金の助成が不可欠だ。
 この運輸省への働きかけには石井、盟友・三塚を動員したことは当然だ。
 だが、私はことの真相はいまだ究明していたに。 

・石井市政大型プロジェクト第三弾、LNG(液化天然ガス)貯蔵基地建設事業だった。
 石井は拡張・整備される仙台国際港のヒンター・ランド(後背地)に、大規模な新エネ
 ルギーの液化天然ガスをインドネシアなどから輸入、東北電力会社や企業、一般家庭用
 に供給する構想の実現のために、LNGのタンク地下埋設による貯蔵基地づくりを、メ
 ーン政策に掲げた。
 もちろん、これは石井ひとりの思いつきじゃなく、陰のアドバイザーがいての発想であ
 った。
・これにはひとつのわけがある。
 日本、政府は昭和48年末の第一次オイルショックに次ぐ、第二次オイルショックに見
 舞われた。
 そこで、企業・家庭のエネルギー源として全面的に依存していた石油資源中心のエネル
 ギー政策をあわてて変更した。
・そこで、クローズアップされたのが、産油国のインドネシアなどで、石油の副産物とし
 てワキに押しやられている液化天然ガスの活用、輸入だった。
・ただ、問題なのは、ガス輸・供給は東京ガス・大阪ガスなど、東京、名古屋、大坂の三
 大都市に限られていたため、LNG基地建設はこれら東京など三大都市に限定し、貯蔵
 基地も東京、大阪の二ヵ所だけに限ることにした。
・だが、石井はこのLNG貯蔵基地建設構想に着目、東京、大坂に次いで仙台にも誘致す
 る考えを持ち、積極的な姿勢を示した。
 そこで、協力を求めたのが、当時の通産大臣・三塚博だった。
・いや、それは逆だった。
 三塚は通産相になるや、石油中心のわが国のエネルギー政策を、産油国の事情によって
 安定的な供給を確保できないという、わが国の弱い不安定な石油事情から、わが国のエ
 ネルギー源を「石油主ガス従」から「石油・ガス対等」にする考えを固めた。
・そこで、インドネシアなどからのLNG輸入、コンビナートをこれかでの東京、大阪両
 都市基地づくりの通産省構想をご破産にし、北海道、東北、九州、四国など地方ブロッ
 クにも広げる地方分散方針への変更を大臣命令を下して実現をはかった。
・これはもっともらしいが、なんのことはない。石井・三塚の合作構想だったのだ。
 もちろん、三塚、石井ふたりの構想はLNGタンク基地の建設でゼネコンのフトコロを
 うるおす。
 さらに、地元ガス会社の事業拡大にもつながるというものだった。
・石井・仙台市は具体的なLNG基地建設に着手した。
 この総事業費約430億円。仙台市にはガス事業に関わり合うのは初体験。
 そこで総合的な設計・監理の仕事を、専門会社の東京ガスの100パーセント子会社・
 東京ガスエンジニアリング社に委任した。
・ガス事業というのは危険性をともなう事業なので、東京ガスエンジニアリング社は石井・
 仙台市に対し、工事業者の船体を一般入札にしないで、専門会社との随意契約を主張し
 た。
 これによって選ばれたのが、タンク埋設。貯蔵工事は専門会社の清水建設、ハザマの二
 社。基地の上屋建設は大成建設とそれぞれ決定、契約した。
・ところが、この決定のあと、突如、鹿島がこのLNG基地建設工事の受注に割り込んで
 きた。 
 鹿島割り込みで、石井・仙台市が契約した発・受注比率は清水建設・45パーセント、
 鹿島・33パーセント、ハザマ・22パーセントというもの。
 割り込んだ鹿島がハザマをはね飛ばし、全工事の3分の1を横取りしたのだ。
・いったい誰が、鹿島をムリヤリ受注業者として押し込んだのか?
 私は三塚と予測はできるが、その確証はないからあえて断言はしない。
 だが、その三塚にりっぱな職務権限があることだけは強調したい。
  
ゼネコン疑惑
・三塚博の”黒い利権”の舞台は、仙台から南下、茨城ルートに移り、さらに東京・恵比
 寿のJR恵比寿駅前都市再開発疑惑に飛ぶ。
 運輸・航空族のドンでもあった三塚の利権追求は、検察がポスト・ゼネコン疑惑に続く、
 一大利権疑獄=関西新国際空港新疑獄事件=でも黒い主役を演ずることは確実だ。
・三塚は、平成5年6月早朝、大きな衝撃を受けた。
 東京地検特捜部が、突然、この日、仙台市長・石井亭を収賄容疑で逮捕した。
 同時に、石井の側近で、大手ゼネコン・「ハザマ」の下請け業者の代表・菊田正を収賄
 罪共犯容疑でつかまえた。 
・石井らとともに贈賄容疑で逮捕されたのは、「ハザマ」の会長・本田茂、同社社長・
 加賀美彰、同社常務・高橋健一の同社三首脳。
・また、西松建設副社長・吉川泰、三井建設副社長・成島昭、さらに、ゼネコントップの
 清水建設副社長・上野晃司らのゼネコン四社首脳がゴッソリ検挙された。
 これが、平成5年の夏から政・官・業(財)を大きく揺さぶることになった。
 ゼネコン汚職旋風の幕開けだった。
・三塚が驚愕し、心痛に襲われたのは仙台市政、宮城県政の”三悪トリオ”=三塚、石井、
 「本間俊太郎」(宮城県前知事)=の政治資金を在仙のゼネコン24社から集金・調達
 していた”金庫番”である菊田正の逮捕だった。  
・菊田がつかまって、特捜検事に政治資金調達の真相をゲロ(白状)すれば、三塚に対す
 るゼネコンのヤミ政治献金疑惑のベールが特捜検事の手によってはがされ、献金疑惑が
 白日のもとにさらされる。
 菊池逮捕の瞬間、三塚は、特捜部の摘発の手が自分自身に迫ることを動物的感覚で覚っ
 た。
・このとき、三塚は自民党最大派閥・「三塚派」の同志約60人を率いる派閥の親分とし
 て、目前に迫った衆院総選挙の公認候補の発掘・調整・選挙資金の金集めなどに没頭し
 ていた。
 そこに、まったく予想外の一大事・ゼネコン汚職仙台ルートの疑獄事件の火が噴き、弾
 けたのだ。
・選挙対策に専念せざるを得なかった三塚は、ゼネコン汚職仙台ルートの動向には内心で
 は気がかりだった。しかし、表面的には平静を装った。
 もっとも、自分の選挙で親分・三塚のゼネコン疑惑などにかまっていられないのが総選
 挙を闘う三塚派の子分どもたち、そんななかで、三塚のアキレス腱に触れるバカな子分
 はいない。
 三塚と親しい政治評論家やマスコミの記者、ジャーナリストたちも気をつかって、三塚
 に面と向かってタブーのゼネコン汚職仙台ルートのことを口にする者はいなかった。
・そんななかで、敢然、仙台に乗り込んで、衆院議員候補・三塚博の選挙カーでマイクを
 握った勇者がいた。
 テレビ朝日の朝番組「新やじうまワイド」のコメンテーターで政治評論家「三宅久之
 がその勇者だ。
 「国会議員には地方首長のような公共工事についての発注権はありません。だから、国
 会議員たる三塚センセイにはなんの疑惑もありません。シロであります!」
・三宅の三塚擁護論で強調、有権者に訴えた”三塚シロ説”がいかにインチキで、有権者
 の公正な投票判断を誤らせた”ヨイショ演説”だったかが、こんどの三塚疑惑で証明さ
 れた。  
・「ゼネコン疑惑捜査から”逃亡”相次ぐ中、本間(宮城県知事)1億6千万円の新疑
 惑」 
 「贈賄16社をスクープ 茨城県知事・竹内も病院に逃げ込む」
・これは、総選挙が5日後に迫った日夕発行の「東京スポーツ」の連載コラム「永田町の
 熱闘」、特捜検事が狙っているゼネコン汚職の次なる獲物を、宮城県知事・本間俊太郎、
 茨城県知事・「竹内藤男」の二人の知事、地方首長であることを、ズバリ予告してスク
 ープしたのだ。 
・この「本間、竹内に新疑惑」に大スクープは、薄氷を踏む思いどころか、命と評論家生
 命を賭けた、大バクチであった。
 だが、この大スクープには自身、絶対的な確信があった。
 私の政治評論は「現場主義的」な体験的評論を信条としている。
 1955年体制発足以前より永田町をハイカイし、新聞・テレビ報道を評論の原典とす
 ることは良心から、自分で排除している。
・私は、吉田・鳩山両政権退陣の一大政変も、現場にいてこの眼で確かめた。
 その後の60年安保前夜の国会動乱もその渦中のスミで現認した。
 そして、田中政権下でのロッキード疑獄でも、連座した国際興業社主・「小佐野賢治
 とは”盟友?”の関係にあって、あの国際的疑獄の真相もつかんだ。
・時は流れて、「竹下登」(首相)退陣となったリクルート事件の核心にも、私は迫った。
 共和汚職事件でも、主犯・「阿部文男」の愛人騒動でも疑惑の女を「山本陽子」(女優)
 であることをスクープ報道した。
・平成4年4月まで、自民党総裁のイス、政権を狙う「清和会」会長・三塚博、宮城県政
 の若きドン・「本間俊太郎」、この二人は不仲の関係だった・・・。表面的には・・・。 
 本間は、三塚が秘書として仕えた衆議院議員(宮城一区)・本間俊一の長男、つまり、
 三塚にとって、主筋の御曹子であり、逆に本間からみた三塚は亡父の使用人だった存在
 だ。世間はこれを”主・従”の関係とみていた。
・ところが、その主従関係は逆転、解消された。
 父の従者だった三塚は、運輸相、通産相、外相、そして、政調会長と国政の顕官を経て、
 国政の中枢で活躍。
 片や、本間は読売新聞記者を辞し、故郷・中新田町長に就いたものの、三塚、そして、
 同郷の伊藤宗一郎(代議士)に阻まれて、亡父のあとを継ぐ国政への道ははりかに遠い。
 当然、その心の中の不満のはけ口は、亡父の使用人だった三塚にぶっつけられる。
・連合勢力からかつがれて、宮城県知事という県政の頂点に就いてから、本間と三塚の仲
 はよけい、ギスギスした形となった。
 この三塚・本間確執は同県内の心ある人たちの心を曇らせる。
 宮城県政という名のノドもとに刺さった小骨のような存在だった。
・とくに、国と同県の公共工事を生業の糧としているゼネコン各社にとっては、”小骨”ど
 ころか、おマンマの食い上げにつながる由々しき一大事でもあった。
・そこで、このゼネコン世論にこたえ、三塚・本間仲直りに一役買って出たのが、鹿島東
 北支店副支店長・門脇一韶だった。門脇ほど三塚・本間の仲直りに適切な仲介役は他に
 いなかった。  
・それは、門脇も、三塚とともに、本間俊一の秘書として仕えた本間ファミリーの一員で
 あり、もちろん、俊太郎とはいまでも”主・従”の関係を温めていたのだから「この辺
 で手を打って・・・」と三塚・俊太郎に口をきけるたった一人の人物だったからだ。
・東建協(東北建設業協議会)メンバー・16社の支店長たちの希望で、不仲な三塚・本
 間の和解と関係修復の仲介を引き受けた談合のドン・門脇は、メンバーの16人にこう
 切り出した。
 門脇が出した条件は、まず、本間一人に対して各社1000万円ずつ、総額1億6千万
 円の政治献金、つまり、手打ち金を出そうというものだった。
・私の「本間にゼネコンから1億6千万円の新疑惑」のスクープは、本間、そしてマスコ
 ミにとっても大きなショックだった。
 なぜならば、マスコミ各社は逮捕された石井の余罪追及の新ネタをさがし求めて、仙台
 市内を駆けずりまわっていたとき、東京にいる私が「本間疑惑」の新事実をスクープし
 たのだから、まさに青天の霹靂だった。
・ちなみに、記録を残しておくため、本間にヤミ献金した在仙のゼネコン16社の社名を
 列記する。 
 大日本土木、東急建設、熊谷組、ハザマ、フジタ、鹿島、西松建設、清水建設、三井建
 設、住友建設、大林組、佐藤工業、大成建設、前田建設工業、青木建設、飛島建設
・ゼネコン16社からのヤミ献金疑惑を私のスクープで暴露された本間は、ブラジルの宮
 城県人会大会出席のためにブラジルに行っていたが、とんぼ返りで急きょ帰国。宮城県
 庁で緊急記者会見に臨んだ。
 「あの記事は、根も葉もないことです。ゼネコンからは1円たりともカネはもらってい
 ません」
 本間の会見での談話は、極めて短いものだった。
 「知事、それじゃ、執筆者の菊池さんに対し、抗議・提訴するんですか?」
 記者団から、こんな質問が飛んだ。
 「・・・・・・・・・」
 本間の口は開かなかった。
・本間、読売新聞記者としては8年ばかり先輩の私、つまり菊池久を訴えることが忍びな
 くて訴訟・抗議問題で口をつぐんだものではなかったのだ。
 「根の葉もない」という本間発言、そのものが根も葉もない苦しまぎれの釈明だったの
 だから、沈黙を守るよりほかなかったのだ。
・平成5年9月、ゼネコン疑獄を摘発中の東京地検特捜部が、逮捕・勾留中の竹内藤男
 (茨城県前知事)を再逮捕。
 同時に大手ゼネコンの清水建設に捜査のメスを入れ、同社会長・吉野照蔵、副会長・
 神山裕紀、常務・松本章和(関東支店長)の三人の経営トップも逮捕した。
・この報道に三人の有力政治家が動揺した。
 建設族のドンだった竹下登(元首相)、金丸信(自民党元副総裁)の二人のショックは
 当然のことだった。 
・だが、もう一人の有力政治家?三塚の受けたショックは不可思議だった。
 三塚は、竹内が「ハザマ」から総額5500万円のわいろをもらった収賄容疑で平成5
 念7月に逮捕されたときは、側近に「竹内君は建設省のOBだからね・・・」などと解
 説してみせるほど余裕たっぷりで、まさに”対岸の火”視していた。
・ところが、捜査の手が建設業界の名門でトップの清水建設におよぶや、三塚は秘書たち
 の眼にもはっきりわかるほど、平常心を失ったような言動が目立った。 
・なぜ三塚は、吉野、神山らの清水首脳の逮捕に動転したのか?
 清水建設は同社副社長・上野晃司が、すでに石井仙台前市長への贈賄容疑で、石井とと
 もに逮捕されている。
 清水建設が、仙台市など東北地方で鹿島にトップの座を奪われたため、首位奪還を目指
 して、石井にワイロ攻勢をかけた。
 それが、ひとり上野だけが責任を問われていた。
 ところが、竹内・吉野・神山のつながりにまでメスがはいったことで、三塚の身辺にも
 ”対岸”の火の粉が飛びかかってきたことが、三塚ショックの晋三だったのだ。
 
鹿島と、仙台前市長・石井との確執
・三塚博を、ゼネコン疑獄仙台ルート第二弾・本間俊太郎(宮城県知事)の逮捕が、衝撃
 波となって直撃した。
 すでに逮捕されている三塚の盟友・石井亭(仙台前市長)に次いで、三塚ー本間ー石井
 の宮城県政を担うトリオのうち二人までが囚われの身になったのだから、三塚は特捜検
 事たちが次なるターゲットとして狙っている獲物が誰かを、ひしひしと身に沁みて直感
 したのだ。
・いや、三塚のショックの真相は本間の逮捕じゃない。
 本間と同時に収賄容疑でつかまった、東北の”政商”という通称でのほうが通りがいい、
 守屋光雄の逮捕が、三塚にガックリ、落胆、ショックを与えた最大の真因だったのだ。
・平成5年10月、東京地検特捜部は、仙台前市長・石井亭を収賄容疑で再逮捕。
 贈賄容疑者として鹿島東北支店幹部の同支店次長・鈴木和己、仙台営業所長・高木一郎
 の二人を逮捕した。
 特捜地検はついに鹿島に疑惑解明のメスを入れたのだ。
・さらに、特捜検事は、鹿島本社や副社長・半谷哲夫、専務・大原克己、東北支店副支店
 長・門脇一韶らの自宅などを一斉に家宅捜索した。
 この捜索で同社会長・石川六郎の会長室まで捜査員が踏み込んだ。
・石井、鈴木、高木ら逮捕者三人の容疑は、平成4年4月上旬、鈴木、高木の二人が共謀、
 仙台市が進めるJR仙台駅北部都市再開発事業・テレポートセンタービル建設、LNG
 貯蔵地下タンク基地建設事業など総額1500億円の三大大型プロジェクト事業の受注
 に便宜を図ってもらいために、石井に現金1000万円のワイロを贈ったものだ。
・ところが、このワイロの授受は鈴木らと石井の間でストレートに行われてはいなかった。
 贈収賄にひとりの宮城政界の実力者が仲介・介在していた。
 この人物は、宮城県議会元議長・菊池辰夫。
 会長・三塚のもとでナンバー・スリーの自民党宮城県連の副会長を務めていた長老実力
 者だ。
・特捜検事は、石井の収賄共犯者として菊池の本格的な事情聴取に入った。
 菊池が77歳で高齢だったことと、体調を悪くして入院治療中だったので、逮捕は見送
 った。
・各新聞、テレビのほとんどのマスコミは、菊池の仲介事実を次のように報道した。
 「地元選出の有力代議士とは親戚筋にあたることもあって、この代議士の”国家老”を自
 任するなど、中央政界とのパイプ役として影響力を持っていた」
・この「有力代議士の”国家老”」のタイトルの報道に、三塚は”烈火”の如く怒った。
 「菊池がオレの”国家老”?冗談じゃない。あいつは、もともと”愛知派”の人間だ。
 オレとは無関係だ」
・三塚にすれば、体調が回復すれば、直ちに収賄の石井の共犯で逮捕される菊池とできる
 だけ距離を置き、自分にも疑惑の火の粉がかかるのを払おうという魂胆がありありなの
 だが・・・。  
・三塚は無謀にも、”国家老”報道をした朝日新聞などのマスコミを選別、「菊池とは無
 関係。誤報を厳重に抗議する」という意味の抗議文を出すという強気の姿勢をとった。

・鹿島は、国と県、市の大工事が集中している宮城県下では傍若無人といえるほど強引な
 分どり商法で、トップの座に居座りつづけてきた。
 石井は、宮城県総務部長時代から、わが物顔に県庁までズケズケ踏み込むような鹿島の
 トップや営業マンたちの態度を、ヘドを吐くほど毛嫌いしていた。
 自治省の高級官僚だった石井と土建屋そのものの鹿島マンとは、はじめからハダが合わ
 なかったのも、石井の鹿島嫌いの一因だったかもしれない。
・鹿島は、三塚の政治力を背景に東北、なかでも宮城県を支配下に置こうとした。
 これに仙台市長となった石井が猛反対した。
 「鹿島の独断専横を許しちゃいかん」
 石井はこう考えると仙台市の公共工事の発注権者を活用、同市営工事からの鹿島締め出
 しの挙に出た。  
 この石井の”鹿島圧政”に東北支店、なかでも業績超不振の仙台営業所は干上がった。
・とくに、ターゲットにされた高木はノイローゼになるほど頭を抱える毎日だった。
 だからこそ、高木は悪いことと知りつつも石井に対してソデの下(ワイロ)を使い破滅
 の道に進む危険をも、あえておかさざるを得ないところに追い込まれた。
・仙台市は平成元年4月1日、隣接の泉市と合併、都道府県と同格の政令指定都市に昇格
 した。
 この仙台市のいわゆる”百万都市”の政令指定都市昇格は、石井の最大公約であり、石井
 市政の目玉政策だった。
 石井はこのため、3、4年前から泉市に仙台との合併を働きかけた。
・ところが、泉市民の間に反対運動が起こった。
 このため、仙台市は反対派説得のため集会などを開いたが、賛成、反対が拮抗し難航し
 た。 
 この石井の泉市説得運動には在仙のゼネコン各社が、運動員や自動車を大量動員し石井
 に側面から協力した。
・このとき、協力の先頭に立つべきはずだった鹿島が非協力の冷たい態度に出た。
 東北のゼネコンの顔役で鹿島東北支店副支店長の門脇一韶が石井と仲違いしていたこと
 が非協力となったのだ。
・だから、仙台市が政令都市に指定され悲願を達した石井は、一挙のこの年、鹿島への報
 復をしたのだ。 
・鹿島も負けてはいなかった。
 鹿島が石井の報復措置にとった対抗手段は「殺されるより殺せ」だった。
 つまり、鹿島は石井の任期満了による同市長選で、再建に挑戦する石井に土をつけるこ
 と。つまり、石井より強力な自前の鹿島派候補を擁立し、石井にぶっつけて、石井に苦
 杯を喫させる作戦に出た。
・これには自民党宮城県連会長として石井をかついでいる三塚が困り抜いた。
 三塚がゴリ押しして鹿島戦略を潰せば、窮地に追い込まれるのは盟友・門脇であり、
 鹿島を潰せば、鹿島という名の三塚の”金庫”も潰すことになる。
・そんな心配をよそに、鹿島・門脇が積極的に石井の対立候補の選考、擁立に動いた。
 そこで、門脇に選ばれたのが、仙台市内の大学教授A氏。
 A氏は鹿島ばかりではなく、革新的市民団体の支持が不可欠という条件を門脇に出した。
 だが、鹿島のトップが財界のリーダーのひとり、石川六郎。
 それが革新的市民団体と手を握れるわけがない。
 この共同選対作戦が失敗したため、A氏は出馬を断念した。
 これによって、鹿島・門脇の石井封殺の対抗作戦は水泡に帰した。
・再選で仙台市長室の主に戻ってきた石井は、また鹿島圧殺の報復作戦に出てきた。
 このままでは、鹿島は石井に殺される。
 三塚はスポンサーの大危機に心痛した。
・石井は、旧知の仲だった門脇には絶縁を言い渡すなど、石井と鹿島の仲は最悪状態とな
 った。  
 これに困ったのが、当時、門脇のすぐうえの上司」東北支店長だった大原克己だった。
 そこで、大原は門脇とともに、仙台に帰った三塚にすがりついた。
・鹿島・門脇にすれば、門脇とは盟友、石井とは同志的仲の三塚しか、石井のもとに詫び
 るために先導してくれる人はいない。
 鹿島・門脇にとって、仲介人として三塚は最適任者、救世主だったのだ。
・だが、三塚にすれば、この仲介役は大変なリスクを負うものだった。
 なぜならば、石井の「鹿島憎し」の心根はよくわかっていたからだ。
 だから「ハイヨ」と仲介役を二つ「変事で引き受け腰を上げるわけにはいかなかった。
・半谷哲夫といっても、その名は、全国的にあまりポピュラーじゃない。
 だが、鉄道・運輸関係者の間では鉄道線路建設についての、わが国最大級の技術屋、
 スペシャリストとして有名である。
 また、「政治好きのエンジニア」という特異のキャラクターの持主としても・・・。
 この半谷、その軌跡から、鹿島の”天皇”・石川六郎の信任はたいへん厚い。
・半谷は、目や手より動いたのが、その口だ。
 だから半谷のあだ名は、”おしゃべり哲”だった。
 エリート国鉄マンの半谷は、やがて、現場から国鉄本社に引き上げられた。
 そして技術陣の牙城・建設局の中枢が、”おしゃべり哲”が演ずる”口劇”の舞台となっ
 た。 
 ここで半谷が会ったのが、同じ土木・建築の技術屋政治家・「田中角栄」だった。
・自民党政権の中枢を駆けのぼった田中は、国鉄技術陣との交流が深く、自ら国鉄の”応
 援団長”を買って出たほどだ。
・「類は友を呼ぶ・・・」「国鉄エンジニアに”おしゃべり哲”がいる」と聞いた田中、
 あるとき、国鉄技術陣の中枢にいた半谷を、田中事務所に招いた。
 その名目は東北・新潟新幹線建設計画について、半谷の見解を求めるものだった。
・だが、これは政界の”おしゃべり角栄”が、国鉄の”おしゃべり哲”に興味をもったので、
 ヒヤかしのつもりで、舌戦を展開、半谷を「いい負かそう」という田中得意のチャ
 目っ気で、初対面の場をつくったのだ。
・佐藤自民党の幹事長だった田中角栄の人脈は華麗、豊富だった。
 その田中人脈に、国鉄の若手技術官僚・半谷哲夫が加えられたのだから、これはきわめ
 て異例のことだ。 
 その異例は、こんどは異常事態となって”奇蹟人事”が起こった。
 国鉄は昭和49年春の定期人事異動を行った。
 半谷哲夫に仙台鉄道管理局長の辞令を出したのだ。
・半谷が、局長に推された銑鉄局は全国6位にランクアップされていた有力鉄道管理局だ
 った。 
 ふつう、この仙鉄局の局長には、国鉄本社の第一級課長か、東鉄局、天鉄局の総務部長
 経験者が有資格だ。
 ところが、同じ国鉄本社の課長クラスでも、技術者が就くこときわめて異常なことだ。
 長い歴史を持つ仙鉄局でも、技術屋局長を迎えたのは半谷が二人目で、国鉄の歴史でも、
 技術屋鉄道管理局長はこの半谷ら仙鉄局の二人だけ。
 同じ局長は局長でも、技術屋幹部がなる局長ポストは地方工事局長だけである。
・この異常人事の陰にはもちろん、田中の存在は否定できない。
 田中は同じ幹事長でも、最近の自民党幹事長と違って、中央官庁にニラミをきかせる大
 実力者幹事長。国鉄の一地方鉄管局長ポストの人事異動は、どうにでも左右できるでっ
 かい実権を持っている。 
・半谷は、この仙鉄局長ポストを踏み台にして、国鉄本社に戻って建設担当の理事、国鉄
 の重役”として経営陣の一画に参加することになった。
 さらに、常務理事にのぼり、ついには、国鉄技術陣のトップで、総裁・副総裁に次ぐ国
 鉄ナンバー・スリーの最高位にのぼりつめた。
 それも、田中の異常人事によって、仙鉄局長に就いたことからだった。
・半谷の国鉄仙台鉄道管理局長就任は、結果的に「不幸な昇進」だった。
 なぜならば、半谷が新任地・仙台で仕事のうえで会った人たちは悪人ぞろい。
 結果的に、新進のエリート国鉄マン・半谷にとってプラスになる”善玉”はあまりにも少
 なかったからだ。
・まず、半谷にとって”不幸な遭遇”の第一は、新進の地元代議士・三塚に会ったことだっ
 た。
 いや、半谷と三塚、このときのめぐりあいに限定するならば、これは不幸な序曲とはな
 らなかった。
・なぜならば、三塚もこのときは、あの赤じゅうたんを踏んだ時の初心、日本、国家改造
 はこのオレが・・・という気概は、まだ失われていなかったはずだ。
 いや、むしろきれいな政治、きれいな政界の実現に烈々たる情熱をたぎらせていたはず
 だからだ。
 だから、三塚は衆議院でも所属する常任委員会は「文教委員会」を選んだ。
・だから、地元代議士として、国鉄を代表する半谷と会っても、「カネと票マシン・マン」
 という人物評価は下されていなかったはずだ。
 純粋に国鉄の旅客・貨物の輸送力の増加、東北新幹線の建設、安全輸送など、地元の声
 を素直に半谷にぶっつけて改善とサービスを求め続けていたのだ。
・しかし、三塚・半谷の無縁のかかわりあいは、やがて”悪の有縁”となるきかっけとなっ
 た。  
・半谷のもうひとりの出会いが、仙台のトップであった。
 宮城県商工労働部長・石井亭(当時)がその人だ
 石井は、ジャンルは違うが、半谷と同じ東京大学の法学部政治学科を昭和25年に卒業、
 と同時に、高級官僚のタマゴとして自治省に入省した。
 自治省は戦前、日本の官僚機構の最頂点にあった内務省の後身。
 石井は、その誇り高き自治省から、宮城県庁に出向、天下っていた。
・商工労働部長というポストは、同県の県政推進で外部との関係をスムーズにする渉外部
 門の責任者。したがって半谷と石井は、東北新幹線の輸送力アップなどのテーマでしょ
 っちゅう会う仲になった。 
・よく半谷・石井のふたりは、仙台・国分町の場末の縄のれんをくぐり、雪の夜を一杯の
 酒で友情を温める仲になった。
・この”半谷主・石井従?”の関係は、石井が自治省に戻ることなく宮城県庁という地方
 庁に居つづけ、逆に半谷は、国鉄本社に帰参、経営陣に参画するという人生コースから、
 長く長く崩れることはなかった。
・石井が、副知事というナンバー・ツーから仙台市長に転じ、政治家となっても・・・。
 対する半谷が国鉄元技師長から、大手ゼネコンの雄とはいえ、一民間会社の鹿島副社長
 に天下って、一民間人となっても、ふたりの関係は不変だった。
 このかかわりあい、つまりは、半谷・三塚の悪しきつながりよりも、石井・半谷のつな
 がりが二人に不幸をもたらした。
・不思議な縁だ。半谷哲夫、三塚博、石井亭の三人の関係は。
 かつては「三ちゃん、テッちゃん、イッちゃん」と呼び合う仲良しトリオだったのに、
 幾星霜たったいま、世紀的疑獄事件、ゼネコン疑獄事件に連座、司直によって検挙、縄
 目の恥を受けたり、疑惑をともにする仲になろうとは・・・。
 この三人の人間模様は”有縁”というにはあまりに”酷”だ。
・悪に走った三人のダレを極悪人、ダレを犠牲者とキメつけることができないほど、
 この三人はワイロ政治、ワイロ商法のドロ沼にはまりこんだ。
 このゼネコン疑獄の三人を「ワルだ」「ダメだ」と糾弾するのは容易だ。
 だが、問題は国鉄用地、公共事業・工事という利権がゴロゴロしているいまの役所の機
 構にも問題がある。 
・石井は仙台市長二期目の仙台市づくりとしてタワービル建設構想をぶちあげた。
 そこで、建設候補地に選んだのが、遊休地の国鉄用地が大部分のJR仙台駅北部。
 幸いというべきか不幸というべきか、この国鉄用地の処分・利用に大きな発言権をもっ
 ていたのが半谷だ。 
・半谷にしても、ゼネコン鹿島の経営者として、仙台市がすすめる約300億円の工事費
 のこのビルづくりはノドから手が出るほどおいしい工事だ。
 また、石井にしても、JR仙台駅北部用地の払い下げは、半谷のコネが不可欠だ。
 ここで、親友・半谷、石井の友情が、利権漁りに悪化。バーターに変質した。
 問題は鹿島が受注工作で出遅れたため、ワイロ攻勢に転じたことだ。
 この半谷、石井をコントロールしたのが、双方に絶大な影響力を持つ実力政治家・三塚
 というわけだ。 

政治屋・三塚博誕生の軌跡
・有力政治家・三塚博が生をうけたのは、東北の一寒村、宮城県遠田郡北浦村(小牛田北
 浦)。農業兼家畜商夫婦の14人兄弟の7番目の倅として生まれた。昭和2年のこと。
・当時の日本はやがて世界大恐慌を迎えようとし、三塚の農村地帯も慢性的な不作、貧乏
 時代だった。
 村立北浦小学校では、一年生から卒業までずうっと級長をつとめた。
 ”神童”に近い存在だったのだ。
・大東亜戦争がはじまる昭和16年春、宮城県小牛田農林学校に進学した。
 隣に住んでいた同校の先輩・剣道部主将の影響でそのまま剣道部にはいり、練習に励ん
 だ。  
 三塚が三年生で主将のとき、東条英機(当時首相)礼賛の校長に反発、校長愛用のヘチ
 マのツルを切って捨てたことで停学処分を食らった。
 以来、在学中に”反戦?”のカドで二回も停学処分を受けた。
・三塚が進学先に選んだのは海軍兵学校。
 軍人になるのが彼の夢となった。
 しかし、郷土の近視眼だったため不合格。
・このため、昭和20年4月、家畜商の父の希望を入れて上京、東京獣医畜産専門学校
 (現・日大獣医学部)に進んだ。
 だが、日本は敗戦色濃厚、勉強もしないまま、故郷・北浦に帰った。
 茫然自失のまま敗戦を迎えた。
・そこで、迎えたのが戦後初の総選挙。
 敗戦をきっかけに、政治に”開眼”していた三塚は候補者たちの遊説にはすべて欠かさ
 ず耳を傾けた。  
 だが、そのほとんどは、政治少年・博の心を動かしはしなかった。
・博少年は、一瞬、全身が身ぶるいした。感動に打たれたのだ。
 衆議院議員候補・「本間俊一」の演説に。
 本間は、日本の再建、復興には民主主義以外にないことを、雄弁に訴えた。
 その弁舌、さわやかで、理路整然、他の候補にくらべ、燦然たる光彩を放っていた。
・「よーしッ、オレも、将来、政治家となって日本を救う」
 博少年は、電気に打たれたように、この瞬間、自らの将来を自分で決した。
・博少年の針路は決した。
 べんべんと田舎暮らしに甘んじてはいられなかった。
 すぐに状況、復学した。
 だが、博少年はその足で焼け残った国会議事堂の横の原っぱにあったバラック二階建て
 の衆議院議員会館の一室のドアを叩いた。
 開いたドアの裏から「ダレかね?」と声をかけたのが代議士となった本間だった。
 「北浦の三塚です」
 「おう、田舎の人かね?はいれはいれ」
 これが三塚、生涯忘れることのできない、人生・政治の師・本間との歴史的な出会いだ
 った。 
・「政治家になりたい?そんなら、農学校なんか行ったって駄目だじゃ。オレンとこへ来
 いや、実地、現場で、体で学ぶことがいちばんだ」
 抜けきらない仙台弁で本間は、初めて会った三塚に、自分への弟子入りをすすめた。
 三塚「イヤ」というはずがなかった。
 「ハイ「、ぜに、お願いします」
 ふたつ返事で三塚、本間の書生・秘書ともいえない弟子入りが始まった。
 以来、本間との師弟関係は本間の死ぬまで続くのだった。
・かくして、昭和26年、早大卒と同時に三塚は晴れて、本間の正式な秘書となった。
 公式な政界入りだ。
 はじめて、衆議院からもらった月給を手に、三塚は、政界入りの感謝もさることながら、
 食う心配がなくなったことにホッとした。
・このころ、政情不安から、吉田政権のもと、衆院解散、総選挙がひんぱんに繰り返され
 た。  
 このため「一票でも・・・」という本間の希望で、三塚は、本間と帰郷、中新田町の本
 間宅に起居。
 早大雄弁会仕込みの弁舌で候補者・本間の代役で公営の立ち合い演説会に出演、ライバ
 ル候補をコテンパンに論破した。
・その本間家で、書生・雑用をしていたのが門脇一韶。 
 本間の紹介で、三塚は初めて門脇と出会った。
 これが、門脇との運命的なめぐりあいである。
 それが40余年も経ったいま、汚職・疑獄事件に仲よくその名が登場し、その渦中で
 ”悲運”という運命をともにすることになるとか・・・。
・三塚はこのころ、もうひとつの運命的な人との出会いをした。
 それは夫人・寿子とのめぐりあいである。
 国電・大森駅前を歩いていた三塚の眼に、二人づれの母・娘の姿が映った。
 その娘は大きな荷を抱え大義そうだった。
・すぐれた体格の三塚は「よろしかったら私が持ってあげましょう」
 こう声をかけ、遠慮する母・娘から荷物をひったくるようにして持ち、やがて、
 母・娘の家まで荷物を運んだ。
 玄関先で母・娘は「ありがとう」と三塚にお礼を言った。
・だが、三塚はすぐ、立ち去ろうとはしない。
 「おいででしたら、お父さんに合わせてください」
 駅から家までの間、問わず語りで、一家の主人が在宅していることを知った三塚は、
 父親に面会を求めた。
・玄関口の物音に出てきた父親に、三塚、また「ぜひ、話したいことがあります」と言っ
 て強引に、居間にあがりこんだ。
 「結婚を前提に、お嬢さんとつき合わせてください」
 寿子への強引な求愛の言葉だ。
・「ああ、いいだろう」
 この家の主は、娘の考えをたしかめずに、三塚との交際をあっさり認めた。
・三塚、こうなればしめたもの。
 スモウでいう”電車道”のような電撃的な押しで、三塚、寿子とその年のうちにゴールイ
 ンした。
・人間、人生の蹉跌、辛酸は、突然、予告なしにやってくる。
 三塚といえどもその例外ではなかった。
 代議士公認秘書ー結婚ー長男誕生、それまであまり恵まれなかった三塚にとって、ここ
 数年はパラダイスのような人生の連続、まさに順風満帆の人生航路だった。
 だが、そんな三塚一家にブラックホールのような落とし穴が待っていた。
・昭和30年の総選挙で、本間があえなく落選してしまった。
 この瞬間、三塚の「衆議院議員秘書」という肩書も、消えてしまった。
 ここで、三塚は政、治家秘書は仕える政治家と運命をともにする運命共同体であること
 を初めて思い知らされた。 
・幸い本間家は宮城県北の豪農。本間はもちろん、三塚、門脇はその日のメシ代に困るよ
 うなことはなかった。
 だが、三塚も門脇も、再起を賭けた本間にその身を託し、一軒、また一軒と事前運動の
 戸別訪問で早朝から夜中まで足を棒にして歩き回った。
・昭和33年5月、衆院解散・総選挙で本間主従に、国政復帰のチャンスはやってきた。
 前回の落選者に同情票が集まるというジンクス”・”落選バネ”で、本間は堂々二位当選、
 返り咲いた。 
・昭和33年盛夏、また三塚、予告なしの辛酸に見舞われた。
 つ三ヵ月前に、三塚と国会へ返り咲き喜びあった本間が、突然、脳溢血で亡くなった。
 ときに45歳。若すぎる死だった。
・本間死去とともに、三塚もそして門脇も、路頭に投げ出された。
 二人とも、生きるに職もなく、食もなかった。
 素浪人、これが本間、門脇の職業でない職業だった。
・「三塚、門脇、これからキミたちはどうする?」
 本間の葬儀が終わった夜、本間宅の仏間の本間の遺影が目につく隣りの居間で、本間の
 家族とともに疲れ切った三塚、門脇二人に、こう声がかかった。
 声の主は鹿島東北支店長・前田忠次、その人だった。 
・「ホクは県会議員になりたいと思います。(本間)センセイのご遺志にしたがって」
 三塚は、生前、本間から「三塚は政治家向きだな。きっと大成するよ。その点、門脇は
 政治家に不向きだ。商売でもやったら伸びるゾ」
 といい聞かされていたのを思い出し、こう答えた。
・「ボクは商売人になるつもりです」
 門脇も本間の人物評を思い出したに違いない。
・「キミたちは、アテはあんのか?」
 また、前忠こと前田忠次の声がかかった。
 「いえ、センセイが亡くなったばかり、なんの伝手もありません」
 「わかった。オレが考えてみる。しばらく待て」
・まもなく、前忠から三塚、門脇に呼び出しがかかった。
 「まず、三塚、キミが県会議員を志すなら、それまで東北支店顧問ということで、
 いち(鹿島)からキミの食いブチは出そう」
 「助かります。助かります」
・「門脇クン、キミはウチに来たまえ。社員として働いてもらう。明日からだ」
 これで、路頭に迷いかけた三塚、門脇二人の身のぶりかたが決まった。
・この前田忠次は、のちに鹿島本社に帰り、副社長として学者・政治家の「鹿島守之助
 (社長)を助け、辣腕をふるって鹿島を清水建設と比肩する大手ゼネコンの雄にした大
 功労者となった。
 そお勢いで、日本土木工業協会会長となり、業界の取りまとめ役となった。
・ところが、土木工事の受注にあたって業界を指導したことが”談合”と、国会で問題にな
 り、”談合の元締め”の汚名を着て引退、憤死した。
  
・「県会議員になります」
 三塚博は、政治の師・本間俊一の葬儀の夜、鹿島東北支店長・前田忠次に、こう大見得
 を切った。
 だが、同支店の顧問としてメシ代の心配はなくなったものの、肝心の選挙資金はゼロ。
 そんななかで、三塚は本間の人脈、伝手を頼っては事前運動に没頭した。
・昭和34年4月、三塚が目指す宮城県議会選挙がやってきた。
 三塚は故郷・遠田郡区から立たず、大票田の仙台市選挙区を選んで出馬した。無謀にも。
 なぜならば、この選挙区には、知人はわずか三人。ゼロからの無手勝選挙。
 もちろん、勝算はなく、あえなく落選。
・落選のその夜から、また、次の挑戦のための選挙運動がはじまった。
 しかし、三塚、烈々たる熱意はあったが、選挙資金はゼロ。
 三塚は夫人・寿子と二人三脚で、一日30軒、40軒と駆けずりまわった。
・本間代議士元秘書といっても、都会人の仙台衆からみれば、小牛田の田舎っぺ。
 知名度ゼロ。
 ひとりでも多くの仙台市民に自分の名前を知ってもらうためには、戸別訪問よりも「は
 がき」が絶対的効果があった。
 だが、三塚夫婦、はかきを書く手はあるが、肝心のはがきを買うカネがない。
 そこで浮かび上がったアイデアが、ただのありふれた戸別訪問をこう活用した。
 「こんにちは、私が三塚の”人間はがき”です。はがきが買えないので、三塚本人がはが
 き代わりにやってきました」
・このアイデアが、グッと受けた。
 人間がはがきならば、戸別訪問を拒むこともできない。
・三塚夫婦の”人間はがき”戦略は、得票につながった。
 昭和38年の二度目の宮城県議会選に挑戦した三塚、みごとに当選した。
・三塚、四年後の昭和42年の二期目も、日ごろからの政治活動がモノをいって難なくパ
 スした。   
 だが、この当選後から、三塚は県議生活に不満を感ずるようになった。
・「宮城県議会議員」という肩書き満足、誇りをもっていた。
 しかし、これは三塚の目から見れば、しょせんは田舎議員の自己満足、小さな金バッジ
 を胸に威張りくさって県庁をまわっては、小役人いじめを天職と考えている徒輩がほと
 んどだった。 
 たぎる情熱を胸いっぱいに県政に乗り込んできた三塚には幻滅だった。
・「オレの舞台は国政なんだ・・・」
 こう誓った三塚は、突如、県議を辞した。 
・三塚に、突然、中央政界の実力者でもある県連会長・「愛知揆一」から呼び出しがかか
 った。
 「こんどの仙台市長選に、わが党から立ってくれッ」
 イヤ、とはいわせんド迫力で一方的に通告しただけ。
・圧倒的な革新市民党・島野武(仙台市長)はあまりにも強力。
 結果は落選だ。
 三塚を仙台市長選に擁立したのは、衆院選を狙っていた三塚をていよく放り出したのだ。
・だが、党の犠牲となった仙台市長選出馬は三塚にとってプラスになった。
 宮城一区からでていた代議士・吉田一雄が急死。一議席がポッカリあいた。
・そこで、党に貢献した三塚は難なく自民党の公認をもらって、昭和47年末の総選挙に
 臨んだ。   
 予想もしなかった公認をとったことで初陣の三塚、闘わずして当選したも同然。
 だが、ゲルピンの三塚、公認よりも300万円の公認料のほうがありがたかった。
 小和7年12月、45歳の青年代議士・三塚博が誕生した。
・ときに同年7月、誕生した田中角栄政権下、日・中国交回復に成功した。
 その余勢をかって、田中、そして田中派の天下だった。
 だが、三塚は見向きもしなかった。
 三塚は、角・福戦争に敗れた敗軍の将・「福田赳夫」ひきいる福田派・清和会に身を寄
 せた。 
・国政の桧舞台に立った三塚が、迷った。
 「自分はいったい、国政の場でなにをなすべきか?・・・」
・衆・参両議員はかならず、どこかの常任委員会に所属する。
 だが、代議士秘書あがりの三塚は田舎の雑貨屋と同じ、どんな問題もこなした。
 それだけに、「これが得意だ」という専門分野がなかった。
 そんな三塚が、選択に迷っていたとき、自民党の福田派から割りふられたのが「文教委
 員会」。
・しかし、こんな地味な教育、文化なんていう文部行政は、カネ、票につながらないから、
 文教委を選ぶヤツはいない。
 みんな敬遠するのだからなり手がなく、ウロウロしていた陣笠の三塚をハメ込んだわけ
 だ。  
・そんな裏事情は知る由もない三塚、ライフワークと心に決めた。
 しかし、タイミングがよかった。
 ちょうど、三塚が文教委に入ったとき起こったのが、教科書問題だった。
 文部省と文教委がガ然、マスコミの脚光を浴びるようになった。
 このため、委員会審議などのテレビ中継ニュースなどに、三塚はしょっちょう映し出さ
 れ、一躍、国会のスター議員となった。
・だから、選挙区の仙台に帰ると「センセイ、テレビ映りがとても素敵」と人気上々だ。
 しかし、そのあと決まって念を押されるのが、「センセイ、教科書じゃ、おマンマ食え
 ないよ。新幹線はいつ開通すんの?そっちのことも考えてくれなきゃ・・・」という直
 接、生活に結びつく問題の陳情を受けた。
・現実に再選、三選と総選挙に臨んでも、三塚の票はさっぱり増えず、いつも綱渡りのよ
 うなハラハラ選挙。やっぱり教育問題は票にはならなかった。
・「三塚クン、キミんとこの東北新幹線問題、いま、盛岡までの延長問題がヤマ場で運輸
 省、国鉄、そして、わが交通部会のメンバーは全員テンテコまいだ。それこそネコの手
 も借りたいくらいだ。どうだ?キミの地元の問題なんだから、カオを出しではどうかね」
 文教族の三塚にこう声をかけたのは、福田派の運輸族のリーダー格の「加藤六月」だっ
 た。 
・このとき、ちょうど、加藤がいうように地元・宮城一区の古川市などから仙台駅までの
 東北新幹線について仙台ー盛岡間の延長や新駅の建設について陳情が寄せられていた。
 しかし、三塚、教科書問題に熱中していたことと、地元の国鉄仙鉄局長・半谷哲夫らし
 か、運輸・国鉄関係者のなかに知人がいなかったことから、どうこの陳情を処理してい
 いかわからず、とおりいっぺんの応対しかしていなかった。
 このことも、支持者がポロポロ欠けていく原因のひとつでもあった。
・「渡りに船」、三塚はこう感じて、加藤の誘いに甘え、自民党政調会交通部会に加藤に
 連れられて顔を出しはじめた。 
・モノごとに熱中しやすい三塚のこと、日ごろの教育問題から、政治活動が運輸・交通問
 題に重点を移しはじめた。
 すると、運輸省、国鉄の役人や鉄道建設関係者、さらには東北新幹線ルート沿線市町村
 長、議員などが、引きも切らず、三塚の部屋はいちも満員だった。
・ぐんぐん、自分の後についてくる三塚に、先輩の加藤はすべてのノウハウを伝授した。
 なぜならば、加藤は間もなく入閣する見通しで、ランクがひとつあがることになってい
 た。 
 そこで、加藤は三塚を”後継者”として後事を託す考えだった。
・政治家にとって、他人の不幸は自分の幸運につながる。
 運輸族のリーダー・加藤六月、メンバー・三塚の、先輩・後輩の関係もそんな因果な結
 果になってしまった。 
・章和1年2月、アメリカ上院チャーチ委員会で、航空機メーカー・ロッキード社が、
 旅客機・トライスターの日本への売り込みのため、日本政府高官にワイロ攻勢をしたこ
 とが明らかにされた。
 この海の向こうからのロッキード・スキャンダルの直撃に日本の政府・国会は大混乱に
 陥った。
・運輸大臣、政務次官経験者ばかりか、自民党の交通部会、運輸委のメンバーたちにもマ
 スコミ、国民から疑惑の目が向けられた。
・政権は田中の金脈問題で引責退陣のあとを受け、クリーンが看板の三木武夫政権に代わ
 っていた。 
 三木は徹底糺弾の強い姿勢をとり、日・米協力捜査の協力を求めたりした。
 ロッキード疑惑捜査は佳境にはいった。
・昭和51年7月、田中角栄が逮捕された。
 検察は一挙に頂上作戦に出た。
 この田中逮捕で検察の逮捕は、航空族におよぶことが必至とみられた。
 そんななかで運輸政務次官をつとめ、航空族のリーダー格でもあった加藤は、マスコミ
 の疑惑にさらされ、身動きがとれなかった。 
・だからといってメンバーたちが、疑惑究明に動かないわけにはいかない。
 徹底究明の動きの中心になったのが、三塚だった。
 三塚は幸いにも交通部会には遅れてやってきた男、新参者のため全日空とのかかわりも
 ほとんどなく、疑惑は真っ白。
・章和51年秋、捜査中の検察は、ロッキード社、全日空両社からカネをもらった、黒い
 疑惑のいわゆる”灰色高官”の氏名を国会に報告した。
 これで、加藤の政治生命は絶たれた。
 そこで、失脚した加藤に代わって、運輸族の新リーダーにのしあがったのが、加藤の後
 輩・三塚だった。 
・昭和60年12月、暮れもおしせまった中曽根第二次改造内閣で、福田派から、自民党
 政調会長代理だった三塚が初入閣をはたし、運輸大臣・三塚博が誕生した。
 当然5回、早くもなければ遅くもないし、順当な入閣だった。
・だが、三塚の運輸相ポストは極めて異例のことだった。
 なぜならば、三塚は、運輸族のドンの地位にあるトップリーダー。
 運輸・交通関係では”陰の運輸相”といわれ、入閣はしていないものの、現職の運輸大
 臣をはるかにしのぐ実力者だからだ。
・運輸相の選考には「運輸族からは出すな」という不文律の基準がある。
 これは、ロッキード疑獄事件の教訓から、運輸行政の最高責任者の大臣、次官も運輸族 
 からというのでは、ロッキード疑獄再発防止の反省がムダになってしまう。
・それなのに、このときの組閣では、中曽根は、タブーを破って運輸族の中の運輸族の三
 塚を、運輸相のポストに据えたのだ。 
・これは、行政改革と民間活力活用のふたつの目玉政策をかかげて政権の長期化を目指し
 ている中曽根が、行政改革の中心課題・国鉄の分割・民営に努力してきた三塚に対する
 論功行賞人事で、タブーに挑戦したのだ。
・だが、この中曽根内閣のときの国会には、三塚がとりまとめた国鉄の分割・民営化案を
 盛り込んだ「国鉄改革関連法案」を提案・審議のうえ、可決、成立させなければならな
 いという政治責任を負わされていた。
 もし、この国鉄改革法案が流産でもすることになれば、三塚が政治責任を問われること
 になり、運輸族はもちろん、自民党内でも政治力・影響力が減少することになり、福田
 派のなかでも、三塚の立場が苦しくなることが心配されていた。
・だから、三塚は政治生命どころか、その生命を賭けてまでも、運輸相として入閣しなけ
 ればならない状況に追い詰められていた。
・だが、私は三塚にとって、とくに、いまの三塚にとって運輸相として入閣の悲願を達成
 したことは不幸だったと断言する。

国鉄・JR財産奪取疑惑
・その日、国鉄の”青年将校グループの七人が訪ねてくる約束になっていた。
 この七人は、国鉄の改革を分割・民営化によって推進すべきとの立場をとって、部内で
 「改革派」と呼ばれるグループの主要メンバーである。
・改革派は当時、圧倒的に権力をにぎっていた縄田国武副総裁、太田知行労務担当常務理
 事らの、分割反対を主張する「国体護持派」から”裏切り者”として徹底的にマークされ、
 弾圧されて、つぎつぎと地方へ左遷させられていた。
・訪問者のうち、最年長の「井手正敬」君は東京西鉄道管理局長、「葛西敬之」君は本社
 職員局職員課長、「南谷昌二郎」君は本社経理局会計課長、「大塚陸毅」君は本社経理
 局調査役、その他の三人は本社主要局の総括課長補佐とか、それぞれ中枢の重要なポス
 トにあった。 
 が、いずれも、国体護持派の厳重な監視下におかれ、たいへん不自由な状況にある。
・三塚を語るには、三塚がライフワークといっている分割・民営化された国鉄改革の話は
 不可欠。 
 三塚に国鉄改革の努力・推進がなかったら、政治家・三塚は屁でもないただの政治家の
 ひとりに過ぎない。
・三塚が純粋な”愛国(鉄)”の精神から国鉄改革に献身したのだったら、三塚の功績は大
 である。
 この難問題に取り組んだときの三塚の心境はただただ、国政に尽力しようという情熱に
 燃えて取り組んだはずだ。
・しかし、この分割・民営化の国鉄改革を推進するプロセスで、三塚の純粋な心は悪魔の
 ささやきにむしばまれていた。
 また、その改革実現のためにとった手法についても、いくつかの問題、禍根を残した。
・しかも、三塚は国鉄改革推進、成功の最大の功労者という国鉄内部の評価を悪用。
 国鉄・JRの経営、人事まで介入、いわゆる”国体護持派”といわれた反三塚派の人たち
 を追放、”改革派”の親三塚派の茶坊主といわれる人たちを国鉄当時も、JR各社でも経
 営のトップに登用した。
・三塚が国鉄・JRの人事権を完全に掌握したことで、トップ経営陣に登用された人たち
 は、JRの陰の”天皇”・三塚に臣下の誓いをし、いまも臣従”している。
 その代表的なのが、JR関係者が「本州三社」というJRのビッグ・スリーのトップだ。
 JR東日本社長・「松田昌士」、JR東海副社長・葛西敬之、そしてJR西日本社長・
 井手正敬の三人だ。
・三塚は、改革派、というよりも、親三塚派のリーダーだった葛西を、いまのJR東海社
 長・「須田寛」を一日も早く追っ払って社長に引きあげたいと、いろいろ画策している。
 しかし、葛西は自らの、人妻との”不倫スキャンダル”がわざわいして、三塚の思いどお
 りにはすすんでいない。  

・国鉄クーデターは電光石火、果敢に断行された。 
 井出、葛西らが、三塚宅を早朝から訪問してから、7日後の昭和60年6月、国鉄総裁・
 「仁杉巌」は首相官邸・中曽根康弘を訪れ辞表を提出、辞任した。
 同時に”国体護持派”といわれ、青年将校20人から弾圧したと名指しされた副総裁・
 縄田、労務担当常務理事・太田とも仁杉と行動をともにした。
 これで、井出ら改革派20人が三塚に人心一新を求めた隠密的クーデターから、わずか
 一週間で”仁杉国体護持軍”は掃討され、壊滅した。
・そこで、仁杉の後任の総裁には、改革派を三塚と二人三脚でアジっていた運輸省事務次
 官・「杉浦喬也」が起用された。
・これまで、国鉄総裁は内部から起用するという、不文律があった。
 大事故が続いたあとも内田信哉、「石田礼助」の二人の民間人を外部から迎え刷新をは
 かった二つの例外を除いて、このしきたりは生きてきた。
 ところが、杉浦のように、国鉄の監督官庁である運輸省のトップを占めた高級官僚の天
 下りは、まったくの初のケースである。
・これは分割・民営による国鉄改革を強力に推し進めていた運輸省官僚の改革派が三塚と
 ともに、国鉄制圧、支配を目指したもので、杉浦は国鉄占領のマッカーサーの役割を担
 ったものだ。
・この一連の国鉄首脳の更迭人事のすべては、運輸族のドンとして君臨していた三塚によ
 るものだ。
 もちろん、井手らの青年将校のクーデターにこたえたものだ。
 こうして、三塚は国体護持派の国鉄トップのクビ切りに成功するや、杉浦に対し、青年
 将校20人の経営陣への登用、さらに、まだ残っていた仁杉、縄田の国体護持派残党た
 ちのクビ切り、左遷など大がかりな”粛清人事”を指令した。
・国鉄・改革派の青年将校にかつがれた、首謀者・三塚の指令による国鉄クーデターの結
 果、親三塚の改革派は”勝ち組”、敗れた国体護持派は”負け組”に分かれた。
・引き裂かれたのは、国鉄経営陣・幹部たちだけじゃない。
 国労(国鉄労働組合)、動労(国鉄動力車労働組合)、鉄労(国鉄労働者組合)の三大
 労組も真っ二つに引き裂かれた。
・これまで、国鉄の労組は「マル生」といわれた国鉄の経営合理化をはかる「生産性向上
 運動」に対して、民社党系の鉄労以外の国労、動労の二大労組が、過激なマル生反対運
 動を展開した。
 なかでも、動労(委員長・松崎明)は、先鋭分子が蝟集した千葉動労を中心に、列・電
 車を止めるストライキを連日、ぶち抜いた。
 この国鉄ストで、”鬼の動労”のトップリーダー・松崎の悪名は全国に轟わたり、通勤・
 通学の足を奪われっぱなしの乗客たちの怨嗟の的となった。
・マル生をめぐる国鉄ストはやがて、公共企業体のスト権を認めるか認めないかを問う、
 「スト権スト」という政治ストに発展した。
・このスト権ストの収拾を決めたのが、政府側代表の「海部俊樹」対国鉄労組代表・「
 塚三夫
」の二人の対決した、NHKテレビ討論。政・労の論客二人による討論で国鉄争
 議はやっと収拾された。
・だが、この国鉄のマル生労働争議で、革マルの幹部と目された動労・松崎の指示とみら
 れる暗殺事件があいついだ。
 このため、マスコミと国民は動労を”殺人集団”とみて恐怖した。
・その動労が大きく変質したと三塚は、松崎を高く評価した。この国鉄改革をめぐる”ク
 ーデター”の結果。
 国鉄改革は、ひと口でいえば、昭和45年から生じた約36兆円もの巨額な赤字を解消
 するのが最大の目的だった。
 そのため打ち出されたのが、国設職員42万4千人を、7万4千人減らして35万人体
 制にする”クビ切り”改革だった。
・当然、このクビ切り改革に国労は猛反対した。
 「国鉄改革は分割・民営化に美名にかくれた”流血改革”だ」として反対の姿勢を鮮明に
 し、改革阻止の闘争宣言をし対決することにした。
・ところが、「過激派」とか「鬼」とまでいわれた動労が、分割・民営化を主軸とする三
 塚らの国鉄改革について、微妙な姿勢を示した。
・昭和61年110月の動労定期大会で、この分割・民営化に事実上踏み切った。
 これは、動労の社会主義政権を目指すという、これまでの綱領を放棄したことを意味す
 る。 
 そのうえで総評からも脱退、鉄労など国労以外の他の労組とともに国鉄改革労働組合協
 議会を結成した。
・当然、改革推進の自民党関係者からは高く評価された。
 だが、マスコミなど、革マル、革労の実態をよく知っている連中は「動労の偽装転向」
 という見方が大勢を占めた。
 とくに、動労は、新しく発足することになる民間会社を先取りして、もぐりこみをはか
 る疑惑がもたれた。
・そんななかで、三塚は松崎の”転向”にたいへんな理解を示し、エールを送っている。
 この三塚の松崎に対する高い評価が、青年将校のひとりだった松田昌士・松崎明・三塚
 博との”M・M・M”のスリーMコンビという「政・労・使」の超密着の三塚支持体制が
 できたきっかけでもあった。
・だから、三塚が熱望していた国鉄の分割・民営化のための国鉄改革の前途をはばむのは
 国労とそのバックの総評・社会党の厚い壁だった。
 いや、それ以上に厚かったのが、自民党の反三塚グループ、反国鉄改革グループだった。
 なんとその旗ふりが自民党の実力者、幹事長・「金丸信」だった。
 三塚は、身内・自民党の大ボス・金丸を、まず攻略しなければならなかった。
・料亭好きの金丸を陥落するには料亭接待にかぎる。
 そこで三塚はまず、身内の金丸を行きつけの東京・赤坂の高級料亭「川崎」にしばしば、
 極秘に招いた。
 この三塚の接待攻勢で、金丸コロリと転んでしまった。
・だが、これで国鉄の分割・民営化の国鉄改革実現に向かってのカベが、取り払われたわ
 けじゃない。ドン・金丸のその後ろには、カベというより大きな山脈がそびえていた。
・三塚は、社会党・国労の鉄壁のような堅陣を突き破ることが最大の課題だった。
 そこで、三塚は、金丸ー田辺ラインによるルートから社会党の骨抜きを考えた。
・金丸は理解を示し、田辺との”談判”を約束してくれた。
 政権等の実力幹事長の公約だから、三塚の「分割・民営」の国鉄改革の国会審議は、大
 きく前進する展開が開けた。
 だが、金丸は、それ以上踏み込んだ応援の約束はしてくれなかった。
・じつは三塚が金丸を訪ねたのには理解と協力のほかにもうひとつの思惑があった。
 それは金銭、つまり、社会党工作費を、自民党の国会対策費のなかから札束を手づかみ
 でわたしてくれることを心ひそかに期待していたのだったが・・・。
 金丸はカネについては何の反応も示さなかった。
・これには三塚はガックリきた。
 三塚は、自分の財布のなかから工作資金を気前よく出すほど裕福じゃなかった。
 いや、逆さに振っても鼻血もでない貧乏ぐらしの三塚だ。途方に暮れた。
・国鉄改革の「分割・民営」案が、正式に政府・自民党案として国会に提案されたものだ
 ったら、三塚は金丸に対して堂々と社会党工作費を無心できたのだった。
 ところが、このときはまだ、自民党案として定まっていなかったのだ。
 それどころか、自民党のなかには、いまだ「民営賛成」・「分割反対」派が根強く残っ
 ていた。
 その考えは「レールは一本。旅客・貨物列車は全国のネットワークでこそ効果がある」
 というものだった。
・国体護持派につながる自民党議員のなかにはいぜん、三塚構想には大反対のグループが
 多く、自民党案として固まるどころか、”星雲”状態だった。
 だから、金丸も個人的には応援を約束したが、「カネを使え」とはいえなかったのだ。
・三塚は万策尽きた。窮余のあまり、三塚は友人の民間人二人に「SOS」を発した。
 この二人とは、福島交通会長・「小針暦二」、東京佐川急便社長・「渡辺広康」の二人
 だった。  
・三塚、小針、渡辺の会談から約一ヵ月も過ぎたころ、国労委員長・「武藤久」が小林恒
 久を通じて田辺に会見を求めた。
 だが、はっきりしたイエス・ノーの返事はなかった。
 そのうち、国労応援団長でもある小林も武藤を敬遠するようになった。
 窓口が閉ざされた国労・武藤らが、小林、そして社会党の”変節”を知ったのはさらに
 二、三ヵ月も経った後だった。
 
・国鉄から民間旅客鉄道会社となった、JR東日本は、日本一のビッグ旅客会社だ。
 JR東海、JR北海道などJR五社の追随を許さない。
 もちろん、西武、東急など純粋な民間会社は視野にも入らないマンモス会社だ。
・だが、マンモスはマンモスなりに”脆弱”という欠陥、弱点の悩みが尽きないことが問
 題だ。 
 それは広大なエリアのもとに駅構内、車庫など土地資産がタップリある。
 しかし、そのほとんどは宝の持ちぐされ。収入につながらないことだ。
 有効な利用計画もない文字どおり”遊休地”ばかりだ。
 ほかのいわゆる”関連事業”も弱く、依然、国鉄時代と同じようにレールへの依存度が
 ぐーんと高い。
・その点、まえからの私鉄は、旅客運輸よりも収入のウエートを住宅・団地、デパート、
 スーパーなど関連事業などの”脱運輸”においているため経営が安定している。
 そこでJR東日本も、”先進”の一般私鉄なみに、遊休地の活用などの活性化対策が、
 JR東日本のサバイバルとして、国鉄改革につぐ”JR経営改革”がスタートした。
・日本電電公社、日本国有鉄道、そして日本専売公社の三公社すべての民営化の改革が実
 現した。  
 行政改革を政権の”命題”とした中曽根康弘は、公約のすべてを実現し、もはや中曽根に
 課せられた政治課題はゼロになった。
・だが、中曽根はこの三公社の完全民営化で満足し、引退の花道を六方を踏んで、檜舞台
 から消える男じゃなかった。
 そこで、中曽根が打ち出したのが、民間企業の活力を活用しようという”民活”政策だっ
 た。 
・中曽根の民活政策の狙いは、民間企業がもっている土地、資金、そして人材をフルに活
 用し、さらに企業・地域の活性化をはかろうというものだった。
 もちろん、活用する土地は民間企業の遊休地だけでなく、役所がもっている公用地もそ
 の対象にした。
・中曽根民活の”エサ”として、開放された国有地は、都心の東京・紀尾井町の一等地にあ
 る法務省司法研修所跡地。
 ここは大手マンション建設会社・大京観光(現大京)が落札、都心初の24階建て超高
 層・高級マンションに化けた。
・大京のオーナー社長・「横山修二」は中曽根のメンバー後援会幹部であるとともに、中
 曽根の資金援助団体・山王経済研究所の有力メンバーだ。
 中曽根・横山の間がキナくさいことは容易に想像がつく。
・中曽根民活は、次いで東京・新宿の西戸山国家公務員宿舎も開放し払い下げた。
 マンション業者が数社で新しいマンション会社をつくって払い下げを受け、ここにも、
 超高層マンションを建設、高値で売りまくった。
 このマンション会社にも大京・横山が出資し、大株主となった。
・官庁先行・主導で民活事業第一弾をうまくはこんだ中曽根は、民活第二弾、として、
 新生JR東日本に社有地、施設の活用を求めた。
 もちろん、旧国鉄の借金36兆円と土地をそっくり引き継いだ「国鉄清算事業団」に対
 しても、民間企業への開放・払い下げを求めた。
・JR東日本は大ブロシキを広げた。
 JR東日本は”民活第一弾”として、東北への玄関・上野駅ビルの大改造計画を公表した。
 この駅ビルはJR東日本とデパート高島屋が共同で建設する超高層ビルで、中層のデパ
 ートは高島屋が出店、上層のホテルはJRが直営にするというものだ。
・この新上野駅超高層ビルの最大の特長はすっぽりすべてのレールを駅ビルに飲み込むも
 ので、JR各社をはじめ、各JR駅再開発のサンプルとなるものだ。
・この遠大なJR東日本の「上野駅超高層ビル」建設構想に刺激・触発されたか、中曽根
 の子分で建設族の顔役・「天野光晴」が、またまた”建設相構想”として東京駅再開発の
 天野構想のアドバルーンをあげた。
・東京駅舎を、中央線の1番線から東海道・山陽新幹線の19番線のうえまですっぽりか
 ぶせる”サヤ堂”式の超高層ターミナルビルにつくりかえる。
 ここにもデパート、ステーションホテルをつくる。
 そして最大の特長は屋上を大ヘリコプター空港に活用する。
 このヘリ空港を利用して、東京駅ー成田空港、東京駅ー羽田空港や、新幹線や列車が故
 障などでストップしたときの、緊急ヘリポートにしようというのだ。
・”天野構想”はさらに続いた。
 JR山手線に着目、まず、ここに「万里の長城」のように中・高層ビルをつくる。
 最下層には”山手線循環道”をつくる。その上層部に、各駅を中心に中・高層JRマンシ
 ョンをつくる。
 いかにもミスター・民活総理・中曽根の右腕大臣・天野の考えそうな、連鎖的発想だっ
 た。   
・だが、これらのアイデアは、6年たったいまでもペンディングになっており、結果はも
 っとも期待された上野駅超高層ビル建設計画でさえ、計画が推進する気配は消えている。
 世の中が、バブルがはじけたうえ、不況で、デパート側が気乗りうす。
 また、マンションの購入もままならない世相からか、アイデア倒れは必至だ。
 だが、JR活用の民活が狂ったのは、バブル崩壊による不況が真因ではない。
 中曽根、そして三塚の二人のお気に召さなかったのだ。
・「民活とはただ単に、JRだけのサバイバルをはかることだけにとらわれてはならない。
 周辺地域の活性化をはかるものでなければならない。もっと知恵をだせ」
 こんな秘密指令が中曽根、三塚から”天の声”として下った。
・JR東日本は、東京・丸の内の東京駅前の旧本社ビルから東京・新宿南口に本社を移転、
 超高層の自社ビルを新築し、入居する計画を発表した。
 これで、大きなデベロッパーなどが、眼の色を変えた。
 なぜならば、この計画では、移転した後の旧国鉄ビルの跡地がそっくり売りに出される
 ことになっているからだ。 
・このJR東日本本社移転とともに、東海のJR二社は同じころ、東京駅丸の内側ととも
 に、同駅八重洲側の駅前広場、そして、新宿駅南口、恵比寿駅前の三大駅前再開発計画
 構想をつぎつぎと発表、推進した。
・しかし、一部のデベロッパーの間で、すでに国鉄の分割・民営化とJR各社の発足のと
 きから、旧国鉄財産の処分・払い下げをめぐって熾烈なたたかいが繰り広げられていた。
 いわば、国鉄最大の”遺産”・用地という名の”蜜”に群がってきたアリが、デベロッ
 パーというわけだったのだ。
・もっと秘密のベールをはぐと、デベロッパー各社の「蜜(国鉄資産)」のぶんどり合戦
 がほぼメハナがついたから、JR各社がもっともらしく、ターミナル駅とその駅前など
 周辺開発計画を明らかにしたのだ。
 だから、発表後、JR本社にかけつけ、問い合わせても「後のまつり」、まさに情報チ
 ャッキが遅すぎたのだ。
 もう、このときは”遺産”の駅前広場の一部には後客に見えないように「売却済み」の赤
 札がついていたのだ。
・これが、民活・周辺再開発という美名のもとにかくされた国鉄遺産となった都心のJR
 東日本、JR東海の駅前広場の払い下げ・処分のかたみわけの実態だ。
 すでにこれらのおいしい土地にツバをつけていたのは、有力政治家らと親密なつながり
 の大手デベロッパーたちだった。

・私たち国民は私たちの先輩がヒタイに汗流しながらたくわえた”国民的財産”をマゴ、
 子に遺す責任と義務がある。
 私たちは、この眼でしっかと不正を確認、ワルの政治家・政商デベロッパーの暗躍と国
 民財産の”侵奪”を許してはならない。
・だが、私は、ここでレポートする、旧国鉄、JRの財産を利用して、金丸信のように巨
 額のカネをフトコロにし、たんまり私腹をこやしたワルの政治家と商人たちの悪行を報
 告しなければならない。 
・ここにレポートする恵比寿駅、仙台駅北部地跡地の両都市再開発事業は、国鉄改革にか
 らむJR化への過程で行った用地の不正払い下げ、利用の新疑惑なのだからだ。
・中曽根政府・自民党が、三塚小委員会などの思惑で、民営の国鉄改革を強く推し進めた。
 だが、そこで難問としておこったのが、36兆円という国鉄の借金だった。
 この金額は、わが国の1年間の予算・74兆円の約半分の額だ。
・この借金をそれぞれのJR各社が継承、負うとはじめから借金経営となって、不健全経
 営、JR各社を圧迫することになる。
 国鉄解体の難航の理由は、この36兆円の借金をどう処理するかだった。
・そこで、通称”三塚小委員会”が打ち出したのが、36兆円の”借金タナ上げ”案。
 しかし、借金をただタナ上げにして払わなかったとしても利息が利息を生む。
 もし、借金をチャラにする”徳政令”でも出されれば、JRとなった旧国鉄とさJR社員
 は逃げ切ることができる。
 だが、そのかわり国と国民は国鉄の放漫経営のツケ払いで”借金地獄”に陥ることになる。
・そこで考え出されたのが、日本一の土地持ちの広大で、しかも、いずれも国鉄駅前の一
 等地の有効利用、国鉄債務と返済の仕事を引き継ぐ「国鉄清算事業団」に、この広大で
 高価な国鉄用地というエサを持参金代わりにまかせる考えだった。
 この事業団は、この土地をどう処分しようといっこうにかまわない。
 とにかく、土地を打った代金で、36兆円の借金を元利とも払って、はやく借金地獄か
 ら這い上がって、というのだ。
・この案を考え出した三塚、いや、その背後の悪徳商人どもの姿が見え隠れした。
 国鉄用地の侵奪を狙うワルの悪計が、この国鉄改革の美名に隠れて、私も、国民も、そ
 して国鉄改革法案に「OK]を与えた国会も、見抜けなかったのだ。 
・JR東日本は山手線・恵比寿駅の超高層駅ビル新築を中心とする、恵比寿駅前再開発事
 業の着手に踏み切った
 もちろん、これはJR東日本が独自に積極的に考え出したわけじゃない。
・じつはこの恵比寿駅を中心にした一帯は、かつて、旧日本ビール会社恵比寿工場のあっ
 たところ。 
 つまり、同ビール会社がはじめて世に問うた”エブスビール”発祥の地だ。
 そこで、日本ビールの後身のサッポロビール会社がいまも、残っている工場跡地に、同
 駅からレールを引き込み、そこに食事列車を停留させ、ビア・ホールをつくり工場を再
 現した。
 このグッド・アイデアのよる”エビス・ビア・ホール”はヤングの男性ばかりか女性にも
 うけ、大好評、大繁盛だ。
・この”恵比寿現象”に触発されたのがJR東日本。東京都の熱心なすすめもあって、これ
 まで城南工場街の出入り口となってゴチャゴチャしていた同駅南口の駅前再開発事業に
 踏み切った。 
 この再開発事業は「駅前」となっているがエビス・ビア・ホールを含めた同駅南側の工
 場地区一帯を取り込んだ広大な地域開発。超高層の恵比寿駅ビル建設費約460億円に
 のぼる、東京都区内最大の都市づくりだ。
・恵比寿ビル建設のこのビッグ・プロジェクトの構想・計画を一番早く、小耳にはさんだ
 のが政治家たち、JR東日本社長・「住田正二」らJR東日本のトップもうでが続いた。
・そこで、とくに強烈だったのが、国鉄改革・JR発足に功績があったと”自負”している
 運輸族の自民党政治家たちだった。
 とくに運輸族のボス・三塚の働きかけは凄かった。
 その三塚は、こともあろうに、旧国鉄OB・半谷哲夫を自分のダミーとして、半谷が副
 社長をつとめる鹿島をプッシュしてきたのだ。
・半谷は、国鉄エンジニアのトップ・技師長の最高ポストを占めた大OBだ。
 鹿島の最高経営者・石川六郎に請われて鹿島入りしたのだ。
 だから、半谷は、これまで手みやげがわりの国鉄後事をつぎつぎ、受注してきた。
・ところが、国鉄がJRにかわってからは、半谷が稼いだJR工事は、これといった目ぼ
 しいものはない。
 このため、半谷が国鉄仙台鉄道管理局時代から知り合いの三塚をバックに、JR東日本
 最大の大型建築工事の獲得に動き出したのだ。
・もともと、鹿島は国鉄工事では、建設業界のトップリーダーだった。
 それは、石川が国鉄の技術陣のリーダーたる課長ポストから鹿島入りしたことによる。
 石川がよき後継経営者になったのは、石川が古巣の国鉄から工事をいくつも”持参金”
 がわりにとってきたからだ。
・そのうえ、石川は、頼もしいことにはその後も、カオにものをいわせて国鉄に深く入り
 込み、やがては国鉄工事の”利権”を、西の大将格の大林組と折半、東日本地区のボス
 として、国鉄の工事ごとに他の業者を含めた受注をふりわける談合の支配人となった。
 これは、そっくりJR東日本にも引き継がれている。
・だから、なにも、JR東日本に実績のある鹿島・半谷が眼の色をかえて受注工作に走る
 ことはなかった。 
 JR東日本の技術陣のトップは「恵比寿駅ビル建設が、もっと具体化したら、いずれは
 半谷・鹿島の知恵を借りなければ・・・」とさえ考えていたのだから、なにも半谷、バ
 ダバタすることがなかったのだ。ましてや、三塚の威光を利用してまで・・・。
・問題は、二つの超高層ビルを請け負う建設業者の選択・指名だ。
 まず、JR恵比寿駅ビル工事は、鹿島、鉄建、東鉄工業の三者が請け負った。
 ところが、はじめ建設主体のJR東日本の会長・住田正二、社長松田昌士ら首脳が考え
 ていたのは、鹿島・飛田建設に発注することにほぼ内定していた。
 ところが、平成5年3月に急転、鹿島トップとする鹿島と旧国鉄グループの鉄建、東鉄
 グループに決まった。
 この逆転決定について、JR東日本などの関係者は口をつぐんでナゾだ。
 だが、この鹿島グループへの逆転発注には”天の声”が下ったとされ、その天の声の主が、
 じつは三塚という疑惑が関係者の間では定説的に広がっている。
・しかも、もっと奇怪なのは、隣接のサッポロビール、住宅・都整備公団共同発注のサッ
 ポロ恵比寿超高層ビルを請け負ったのも、また鹿島と、大成建設。それに、大成建設を
 ヘッドにした東急建設、五洋建設のJV三社の三グループが請け負っている。  
・鹿島が駅ビル、サッポロビールの二大工事を”独占的”に手中にしたのは、三塚人脈のひ
 とり、元建設省東北地建局長・角田直行(鹿島専務)が三塚の密命で調整に動いた、
 という疑惑も浮上している。
 
・三塚博が、旧国鉄・JR利権を漁ったのは、この「70億円フトコロにした」と討たれ
 たJR恵比寿駅ビルを中心とする同駅前再開発事業だけじゃない。
 すでに三塚には”国鉄遺産”の仙台駅前用地”侵奪”に、現職の運輸大臣の身なのに介入・
 手を貸し、”不正払い下げ”疑惑関与の”前科”がある。
 しかも、そのパートナーがワルの石井亭(仙台市前市長)。
・当然、問題になったのは、この国鉄用地利権で100億円ものカネを生み出した、学校
 経営者の仮面かぶった虚業家・持丸寛二。
 この持丸、三塚、石井共通の親友というのだから、三塚・石井・持丸ーワル・トリオへ
 の疑惑は大きい。  
・ときに昭和58年。国鉄は”官営事業”にありがちな放漫、というよりも政治家の侵食に
 よって、白アリが巣つくっていま倒れんとする”大廈(大きい家)”と同じく、病ある巨
 象となっていた。
 国鉄の高級官僚だった総裁、副総裁らが、国鉄最後のサバイバルを模索した。
 そして、出した生き残りの結論が、「駅前広場、遊休カードなど眠っている国鉄用地の
 切り売り、処分」だった。
・いまにして思えば、なんと知恵のない、財産食いつぶしの生き残り作戦なことよ。
 これは三代目の財産家のドラ息子がやる、旧家倒産のパターンなのだ。
 大国鉄が、こうして倒産の道を歩もうというのだ。
 こんなの、生き残りなんていうもんじゃない。。
・そのトップのサバイバルの愚策に走り回らされたのが、国鉄最前線の各地方鉄道管理局
 長らだった。
 各鉄管局の局長、総務部長、施設部長、建設部長のトップはほとんどが国鉄本社の課長
 クラスから、その地方鉄管局への天下り、いわば国鉄本社からの”進駐軍”。
 立身出世を渇望するそのトップたちの顔はただ、国鉄本社の総裁・副総裁、そして技師
 長などのトップ官僚にしか向けていなかった。
・「大廈の崩れんことを、土地の切り売りでしのげるのか・・・」という疑問はあった。
 しかし、批判・批評を口にすることはタブーだった。
 ただ、ひたすら、国鉄用地を売りまくって、その儲けが国鉄財政をうるおし、すこしで
 も赤字を埋めれば、その功績が認められ、国鉄本社への帰参(復帰)がかない、幹部登
 用のエスカレーターに乗れる、という出世欲だけしか、その頭になかった。
 だから、各鉄管局長とも「売れ、売りまくれ」と部下に大号令をかけまくった。
・もちろん、このなかの仙台鉄道管理局も、国鉄本社の指令に唯々諾々としてしたがった。
 いや、したがうどころか、局長自らが陣頭に立ってセールスに走りまわった。
 なぜならば、仙鉄局は、国鉄の”東北探題”としてのプライド、責任があったからだ。
・東北六県に国鉄の出先機関は仙鉄局のほかに、岩手と青森の旧南部領をエリアにもつ盛
 岡鉄管局、青森旧津軽領と秋田、それに山形県を支配する秋田鉄管局の二つがあった。
・これに対し、東北の都・仙台を中心とする宮城、福島県を支配下におく仙鉄局はすべて
 が東北三鉄管局のトップ・リーダーのポストにあった。
・仙鉄局トップがセールスのターゲットにしたのは、仙台市の革新市長・「島野武」だっ
 た。
 昭和58年ころの仙台市の人口は40万余、その豊かな財政で、同市の金庫は札束では
 ち切れんばかり。 
 仙鉄局トップも、「いまの豊かな仙台市ならば、きっと国鉄用地を買ってくれる」とい
 う楽観的見方があった。
・なぜならば、このころ、世は土地ブームのはしり、つまり、バブルの前兆として全国的
 な土地漁り、買い占めの動きが活発になっていた。
 ゼネコンも、デベロッパーも、そして地方団体も、ノドから手が出るほど土地を欲しが
 っていた。 
・こんな島野の心を見透かすようにして、仙鉄局トップがセールスの対象として示したの
 が、国鉄仙台駅北口から200メートル、徒歩わずか3分、仙台市花京院の国鉄花京院
 職員宿舎跡地の払い下げだった。
・このとき、中曽根政権の民活事業の大号令で、島野は仙台駅南口の大きくすすんでいる
 繁華街に対抗するため、島野市政最後の目玉政策として、仙台駅北部都市再開発事業プ
 ランを密かに考えていたところだったので、島野はおおいに食指を動かした。
・島野は精力的に仙鉄局との払い下げ交渉に取り組んだ。
 だが、老齢の身の島野、意あって力たらず、ついに正式交渉のテーブルにつかないまま
 昭和59年秋、急逝した。
・ポスト島野の後継新市長には、三塚ら自民党が仙台市政の保守奪還のチャンピオンとし
 て推した宮城県副知事だった石井亭が華麗な転身をした。
 仙鉄局トップは「主代われど、払い下げ方針変わらず」で、今度は石井相手に花京院跡
 地セールスにダッシュをかけた。
・石井もこの花京院跡地買収・取得には大乗り気だった。
 なぜならば、石井市政第一弾として、石井は、40万市民の喝采を浴びる政策がほしか
 った。
 それにぴったりだったのが、島野時代から水面下で仙鉄局と売買交渉が続いている仙台
 駅北部都市再開発事業の中核となる花京院跡地払い下げ話だった。
・石井は、昭和60年5月、正式に払い下げを受けたうえ、民間企業による再開発事業と
 して進めることを決定。
 この民間活力利用の再開発事業のマスタープランを、デベロッパー、ゼネコンなど、広
 く一般の市民からコンペによってつのることを公表した。
・そこで、仙台市がコンペをするにあたって出した条件が、
 @国鉄から払い下げた花京院跡地の大半を、プランが合格した民間企業に転売する
 Aプラン応募企業は「資力、信用力、企画力があること」
 というものだった。
 つまり、一定の企業力をもった一流企業が好ましいということなのだ。
・昭和60年7月、同市が募集を締め切ったときに、最終的に応募したのが、ゼネコン大
 手の、@鹿島、A間組、B伊藤忠商事、Cトーメンなど総合商社4社に、大京観光など
 のデベロッパーの7グループ17社。
 このなかで”異色”として目をひいたのがDAグループとして名乗りをあげた地元企業の
 東北電算機専門学校、電子計算機株式会社の二社グループリーダーとする、三菱地所、
 フジタ工業、カメイの5社。
 この地元企業の東北電算機専門学校、電子計算機株式会社のオーナーはともに持丸寛二
 だった。
・同市コンペ選考委員会は、昭和60年12月、Aグループのプランを「最優秀賞」と内
 定、公募各社に「合格」「不合格」の結果だけを通知した。
・だが、この仙台市の「民間企業への転売」という条件に反発、クレームをつけたのが国
 鉄本社と仙鉄局。  
 仙鉄局は、同市の「一括転売」について「約束が違う。Aグループの利用計画には公共
 性がない。そんなところに大切な用地を売るわけにはいかん」と主張。同市への払い下
 げに難色を示していた。 
・ところが、仙台市はこのクレームを無視、強引にAグループの一グループ五社のプラン
 を合格、採用することに踏み切った。
 不可解なことに
 その翌日、石井・持丸の二人と親しい三塚が運輸大臣に就任した。
・この三塚の運輸大臣就任にときを合わせるように、国鉄の再建計画を協議していた外部
 の諮問機関・国鉄再建管理委員会が国鉄用地2800ヘクタールを売却、5兆8000
 億円の収入で赤字の一部を埋める用地処理案を決めた。
 これで、仙鉄局がクレームをつけていた「公共性がない」という仙台市に対する言い分
 の根拠がまったくなくなってしまった。 
・昭和61年1月、仙台市長・石井亭、国鉄常務理事・岡田宏が、国鉄仙台駅・花京院宿
 舎跡地払い下げ問題で最終協議を行ない、基本的に同市への払い下げで合意した。
・だが、この石井・岡田会談がただちに仙台市議会と、中央のマスコミで波紋を呼んだ。
 その波紋のもとは、この石井・岡田会談を伝えた地元紙・河北新報の報道だった。
 そのタイトルは「仙台駅北部の国鉄用地払い下げ」「早期決着にメド」というものだっ
 た。 
 「上京した石井市長が、三塚運輸相立ち会いの下で、国鉄の岡田常務理事に提示した」
・この問題にクビをつっこんでいた三塚が、運輸相就任わずか二週間足らずなのに、国鉄
 の監督官庁・運輸省の最高責任者の職権のもと、仲介、あっせんに乗り出したことで、
 仙台市議会の一部や市民団体から「はやくも、国鉄利権に手をつっこんだ・・・」とい
 う見方が出てきた。
・このため、仙台市当局も三塚側も、三塚が石井・岡田会談をあっせん仲介したか、本当
 に立ち会ったのかどうかが、疑惑を解くカギにつながるとして、この河北新報の報道を
 やっきになって否定した。
 とくに、三塚本人は、「主管大臣なのに、そんなことするわけがないじゃないか?」
 と強気の全面否定をした。
 だが、この河北新報、火の気がないのに煙が立つわけがない。
・昭和61年9月、仙台市長・石井亭と仙台市土地開発公社は国鉄との間で、国鉄花京院
 宿舎跡地の同市に対する払い下げ契約書を締結、正式に払い下げを受けた。
 この契約書には
 @仙台市以外の民間団体に譲渡しない
 A用途指定は払い下げ地内にコンピューター関係の教育施設(学校法人の設立による)
  の建設用地とする
 など四項目の条件が課されていた。
 これで仙台市は国鉄から約45億円で払い下げを受けた。
・これによって、たったひとつの払い下げを受ける資格をもつAグループのリーダーで、
 東北電算機専門学校、電子計算機株式会社のオーナーだった持丸との間で昭和62年7
 月、仙台市が払い下げを受けた問題の花京院宿舎跡地の賃借契約を結んだ。
・持丸はこれによって、昭和62年7月、仙台市土地開発公社に対し、賃借権の権利金
 21億6千万円を支払った。 
・昭和62年9月、持丸は無図から理事長・校長の二つのポストをつとめる東北電算機専
 門学校校舎を問題の借地、国鉄花京院宿舎跡地、に建設をはじめた。
 持丸はこのビルに「JC21ビル」と命名し、平成元年2月に完成している。
・しかし、この花京院跡地再開発事業は、順調なすべりだしとはいかなかった。
 いくつものブレーキがいっぱいにかかったのだ。
 持丸が新校舎建設のため、すでにこの土地を担保にして地元の徳陽銀行、北海道・東北
 開発公庫など金融機関六行に総額115億円の融資を受ける話が進んでいた。
・この計画では、持丸は、仙台市から借りた跡地に質権を設定すれば、事実上は、わずか  
 21億円(権利金代)の安値で譲り受けたことになる。
 仙台市はミスミス持丸に買値の半値以下の安値で売ったことになる。
・しかも、持丸がこの用地に質権を設けて、北東公庫から総額115億円のカネを借りま
 くった。 
 持丸は仙台市から花京院跡地を借りたことで、この借地権の利権が115億円で、そっ
 くり持丸のフトコロにはいったことになる。
 つまり、石井・仙台市政は、なんの関係もなかった持丸に不当な利権を与えたことにな
 る。
・そのうえ115億円という借金(利権料)のなかみも問題だった。
 新校舎建設が68億円、借地権料22億円で、実際に持丸がかけるカネの総額は、合計
 90億円。残り25億円を予備費としたことだ。
 このなにがなんだかわからないのもまた疑惑となった。
・さらに、仙台市は持丸グループに30年間の期限つきでかわした契約のなかで、返還を
 させることにした。  
 ところが、質権の設定を認めることで、仙台市の買い戻しはこの68送縁の新校舎では
 なく、この借金文15億円分を払って買い戻さなければならないこともわかり、仙台市
 は事実上、持丸の借金を、解約時にせんぶ肩代わりして払うことになった。
・40万仙台市民は怒った。いい加減な民活事業第一弾の「仙台駅北部(花京院跡地)都
 市再開発事業」の石井市政に対して。
 同市の市民団体はあいついでふたつの会を結成した。
 「花京院旧国鉄跡地再開発問題の真相を究明する会」)代表・小野寺軍治)
 「花京院旧国鉄跡地の不正貸をただす会」(代表・宮田猪一郎)
・この「究明する会」と「ただす会」の二団体はただちに、同市に監査請求をだした。
 また、のちに両団体とも仙台地裁に住民訴訟を起こすなど市民運動とともに問題の解明  
 を法廷闘争に持ち込んだ。
 また、仙台市議会、宮城県議会とも「疑義あり」として野党議員らが問題の疑惑解明に
 立ち上がった。
・平成元年5年の衆議院運輸委員会で、地元選出の社会党代議士・「戸田菊雄」が、問題
 の花京院跡地問題をとりあげ「仙台市から借地した東北電算機専門学校は、学校法人の
 資格をまだとっていない。『学校法人化をはかる』という契約に違反している。だから
 違法契約だ」と追及、解約を迫った。
・これに答えたのが、国鉄清算事業団理事長・杉浦喬也。 
 「ご指摘のとおり、まだ、学校法人の資格をとっていない、違法契約であることは遺憾
 だ。できるだけ法人化するようにする」
・この”モグリ学校法人”の事実を認めた杉浦とは、石井と問題の花京院跡地を仙台市に
 随意契約で払い下げをした国鉄総裁だった杉浦と同一人物だ。 
 だから、杉浦は問題の花京院跡地払い下げをしたツケを清算事業団理事長としてシリ拭
 いするハメに追いやられたのだ。
・この杉浦の一人二役は、あまりいい役柄じゃない。
 それもこれも盟友・三塚と「二人三脚」でのめりこんだムクイだ。
・問題は、学校法人の許可もとれないで一個人経営の東北電算機専門学校の正体、そして
 そのオーナー・持丸という人物にからむ新疑惑だ。

・東北電算機専門学校理事長兼校長・持丸寛二、こう名乗られても同校関係者や仙台市民
 以外、その正体をわかる人は少ない。正体不明、ナゾの男だ。
 だが、「映画ヤロー・持丸寛二」といえば、映画ファンならずとも全国的に有名だ。
 さらにくだいて、「あの大竹しのぶが主役を演じた『あゝ野麦峠』の制作者・持丸」
 といえば、ハハアン、あの人か?と納得だ。
・しかし、仙台市での持丸評は、映画ファンと違ってすこしウサン臭く見られていた。
 九州・福岡の出、ということだけはわかったが、昭和42年、それまで居を構えていた
 仙台で、東北電算機専門学校を設立、開校するまでのいっさいの足跡は不明。
 同校の設立を発表したときも、一般市民にはナゾ、不可解な人物というのが仙台市民の
 持丸に対する人物評だった。
・持丸の”私学校”だった同校は、やっと昭和51年に専門学校としての正式許可をとった。
 これには新しい条件がついた。
 「すぐに独立校舎をつくること」というものだ。
 ということは、持丸個人学校だった同校はあちこちの建物、ビルの一室などを借りた
  「バラバラ校舎」で「校舎のない学校」という悪評があったほど。
 だから、宮城県は同校の学校法人化については「ノー」という考えを示した。
 この条件については持丸は、「独立校舎?そのうち」と言葉をにごしてきた。
・ところが、問題の国鉄払い下げを受けた「花京院跡地」を手に入れたとたん、持丸は、
 強気に転じた。
 だが、契約で強いられた「学校法人化」が難航したのだ。
・私立学校の認可権を持っていた同県は、はじめから同校を「問題校」としてマーク、
 改善をしばしば持丸に勧告していた。
 問題は、学生の水増し募集の定員過剰問題、誇大広告などだった。
 認可された同校の店員は1400人。ところが、実際に同校が入学を認めている学生は
 定員の2.2倍にあたる3200人。
 これは同校の学校法人化の大きなブレーキとなった。
・民活事業を推進する開発関係部課からは「はやく認可を・・・」とせかされたが、一方
 の私立学校関係課からは、「学校法人としては不適格」ということで、同市と持丸との
 約束である「学校法人化」はブレーキどころか、ストップがかかってしまった。
・しかし、この学校法人がとれない持丸、同市から貸借契約違反ということで、解約、返
 還ということに追い込まれる心配が出てきた。
 そこで、持丸、考え出したのが、やはり持丸が経営する「日本コンピュータ学園)本部・
 岩沼市・理事長・持丸寛二)に経営権を譲渡することにし、貸借人の名義を「東北電算
 機専門学校」から同学園に名義替えを同市に申請、同市はこれを認めたうえ、名義変更
 料1億4千万円の免除までするという超優遇ぶり。
 これも三塚・石井・持丸の奇怪な疑惑と見られた。
・もっとも奇怪なことは、花京院跡地利用による仙台駅北部都市再開発事業の石井仙台市
 政、民活事業第二弾を、Aグループ五社体制で持丸とともに共同でやるはずだった、三
 菱地所、フジタ工業、カメイの三社が、払い下げ問題が「譲渡」から「貸借」に変わっ
 たときにあいついで辞退、おりたことだ。  
 Aグループとしては東北電算機専門学校の持丸が独走したことにクレームをつけるべき
 だったが、天下の三菱地所も、ゼネコンのフジタ工業も、文句ひとついわずに引き下が
 ったことが、「どうして?」という疑問をもたれた。
・しかし、これには「三塚が三菱地所、フジタ工業に貸しがあったので、持丸にたのまれ
 て抑え込んだから」という真相解明のウワサが流れた。
・”貸し”とは、三菱では、国鉄・JR本社ビルの三菱売却、東京駅八重洲北口の三井グル
 ープへの払い下げ、住友グループに対する汐留貨物駅跡地処分の三大国鉄遺産切り売り
 の大プロジェクトが進行中だった。
 その三菱の背後に、三塚がいたということが想像できる。 
・問題はフジタ工業の辞退だ。
 しかし、真相の解明は、そう面倒ではない。
 昭和57年、島野市政下で起こった「仙台市営地下鉄談合疑惑事件」だった。
 大がかりな刑事事件にならなかったことと、仙台というローカルが舞台だったため、中
 央では問題にならなかった。
 この談合で疑惑のゼネコンとしてリストアップされた一員だったのが、じつはフジタ工
 業だ。
 このとき、三塚は運輸政務次官として火消しにつとめ、大火にならずにすんだ。
 そのときの貸しが、この花京院跡地問題で生き、三塚が抑え込む遠因となった。
 
三塚博の黒い履歴書
・三塚博という政治家は、いつも疑惑、スキャンダルの舞台に、問題の場面に”仲介役”
 というワキ役で登場する。
・立ち会い好きな三塚は、同じ仙台市を舞台に行われた「仙台市営地下鉄建設」にからむ、
 工事請け負いゼネコン業の”談合疑惑”にも、仲介役として立ち会っている事実が発覚
 した。
・問題の仙台市営地下鉄建設は、総事業費216億円、長い島野市政では初の超大型プロ
 ジェクトで、人口約40万人の仙台市の財政規模で適当かどうか、という問題もあった。
 このため、島野は運輸省となんども直談判を繰り返し、起債・補助金などの国費応援も
 本決まりとなった。
 そこで、仙台市は、この日、はじめて注目の入札を行った。
・だが、この入札ははじめから疑惑と黒いウワサの渦中のなかで行われた。
 なぜならば、問題の「区割りリスト」によって、土木・建設業者、マスコミばかりか、
 仙台市民のなかでも「疑惑の地下鉄工事の発足」という見方で注目されていたからだ。
 ところが、その隠された”談合”疑惑が爆発、白日のもとにさらされた。
・渦中の島野は、昭和57年4月、突然、仙台市役所で緊急記者会見を行った。
 それは、二日前の記者会見で発言した、
 「私と前田忠次(鹿島副社長)との間で”東京会談”があったことを、全面否定したが、
 あの会見での発言をすべて取り消します」
 という訂正会見だった。
・ことばをついだ島野の口から、疑惑の新事実が明かされた。
 「前田氏との”東京会談”は、一昨年暮れ近く、東京のホテルで行われた。前田氏から地
 下鉄建設について話があったが、あいさつ程度のもの。仲介役は三塚博・自民党代議士
 だった」 
・やっかり、三塚がここでも”立ち会い人”として島野・前田会談の仲立ちをしていた。
 この日の会見では、島野は、記者たちの「三塚氏から前田氏に会うように話が出たので
 すか?」という質問に「そうだ」と肯定発言をしている。
 これじゃ、三塚が積極的に島野・前田”東京会談”をセットしたことになる。
 立ち会いというよりも、まさに仲をとりもった仲介役だ。
・だが、三塚は、真相の真相はこうだという。その言い方がまた、島野発言とは食い違っ
 ている。 
 「前田忠次氏は、私が宮城県議落選の浪人中に東北支店長で、同支店の嘱託として拾っ
 ていただいた、いわば”恩師”にあたる人だ。前田氏から、島野仙台市長が上京したら、
 あいさつの機会をつくってくれ、と頼まれたので、昭和55年秋に上京した際、ホテル
 で三人が約一時間ぐらい食事をした。地下鉄の話が出てかどうか鮮明には記憶はない。
 あるいは別れ際に前田氏から話があったかもしれないが、覚えていない」
・島野との会談を頼んだ前田も不謹慎だ。頼まれて仲介した三塚も不用意だ。そしてノコ
 ノコ会いに出た島野は、まったく軽率で不可解な疑惑の言動だ。
・じつは、昭和56年秋、島野をかつぐ後援・支持団体の社会党が、島野の仙台市長選資
 金集めのためのパーティを開いた。
 このとき、つまり、地下鉄建設工事を受ける予定の大手ゼネコン各社にパーティ券を割
 り当て購入してもらったことがあり、これが地下鉄工事の入札に疑惑ありと仙台市民グ
 ル―プの間から批判の声があがっていた。
・島野は”革新市政”を看板にしながらも、仙台市が将来百万都市になることを予測、島
 野市政の最後の大プロジェクトとして、市営地下鉄建設構想を持って、許認可権を持つ
 運輸省に対して運動をすすめていた。
 ところが、同省は難色を示し、難航した。
・そこで島野は、かつて自民党仙台市長選公認候補として島野に挑戦した、政敵だった三
 塚を頼るようになった。    
 その三塚が政務次官として運輸省に乗り込んでからは、仙台市営地下鉄建設の許認可話
 は、ぐんとはやまり、ついに島野・三塚の連携プレーで同省の認可がおりた。
 三塚は、この政務次官だった地位を利用、島野に恩を売ったことになる。
・この工事発注責任者・島野ー三塚ー前田(工事受注側代表)のトライアングルの構造を
 構築したことで、三塚は多くの仙台市民から、仙台市営地下鉄利権を漁っているという
 疑惑がもたれた。
 もちろん、この地下鉄疑惑は、仙台市議会・宮城県議会などで問題になった。
 しかし、政治事件とはならなかったことで三塚、
 そして島野などの疑惑も疑惑のままで、そのナゾは永遠に解明されなかった。
  
・三塚博が、運輸大臣を辞任してから一年後の昭和62年8月、三塚が初代事務総長をつ
 とめた清和会事務所がある、東京・赤坂プリンスホテル旧館の一階にあるレストランの
 個室に単身で現れた。
 その三塚を待っていたのは、ゴルフ開発・経営会社の「光進」グループ代表・小谷浩二、
 国際航業社長・枡山明の二人だった。
・三塚は枡山に対し、小谷の人物を推薦、保証した。
 その代償として三塚は、国際航業への全面的協力を約束した。
 「国際興業共同経営協定覚書」
 そこには、すでに小谷が「小谷浩二」と自署、実印を捺印していた。
 枡山はしぶしぶ、小谷からいわれるままに、サインし、認印を押した。
・サインが終わるやいなや、小谷は枡山からひったくるようにして受け取った。
 そのまま、三塚に覚書を渡した。
 「おお、これでよしよし、枡山さん、経営陣に小谷クンが加われば、国際興業はバンバ
 ンザイだ。安心したまえ・・・」
 三塚は「立ち会い人、三塚博」とペンを走らせた。そして、印鑑の代わりに「花押」と
 呼ぶ政治家特有のサインをした。
・”詐欺師””乗っ取り屋”の異名をとっていたのが「光進」グループ総帥・小谷浩二だった。
 その小谷が、乗っ取りのターゲットにしたのが航空測量会社ではわが国第二位の国際航
 業株式会社。
・小谷、バブルのハシリのときだっただけに、銀行、ファイナンスなど金融機関からじゃ
 んじゃんカネを借りまくった。
 このマネーで、国際航業の株式買い占めに狂奔した。   
・国際航業という会社は、業績は上々だった。
 だが、経営陣の内紛が絶えず、役員間の反目があいついでいた。
 株式市場での買い占めには株式不足で限界があったため、これら不満の役員、旧役員が
 持っているか株式まで手をのばした。
 こうして集めたのが、全発行株数の約44パーセントそこそこ。
 株買い占めは小谷の思うようにはいかなかった。
・だが、小谷による国際航業乗っ取り戦略は極限に達した。
 なぜならば、会社の経営権を全県掌握するために必要な株式は52パーセント。
 とても、そこまで集めるメドも自身もなかった。
 そこで、小谷は、この買い集めた44パーセントの大株主権によって、まず国際航業の
 経営に参加、そのうえで代表権を持ち、やがて、いまの経営者たちを追放・解任して同
 社の経営権を掌握する作戦に変更した。
・小谷は枡山に対して三塚、共同経営覚書のふたつのプレッシャーをかけた。
 だが、せっかくの小谷演出、小谷、三塚、枡山共演の「国際航業乗っ取り劇」はみごと
 失敗に終わった。 
 なぜなら、国際航業では、小谷は単なる大株主、対する枡山は代表権を持つ取締役社長。
 枡山はあの覚書なんか一顧だにしようとせず、もちろん実行しようともしなかった。
 この時点で、小谷は敗北を感じた。三塚をプレッシャーの「重石」にしたのだが・・・。
 徒労に終わった。
・そこで、小谷はまた、オーソドックスな乗っ取り劇・株買い集めを再演した。
 なぜならば、これまでに買った株式は塩漬けになっていたため、一銭の利益をも小谷に
 もたらさなかった。 
 債権者からヤイヤイ返金の催促が小谷を襲った。
 そこで、水面下の顔役を使ってやっと昭和63年はじめ、過半数を越える53パーセン
 トの株を獲得。
 ただちに、枡山を解任、小谷はやっと悲願の国際航業社主・社長におさまった。
・このままいけば、三塚と小谷の”事件”がバレなかったのだが・・・。
 枡山はクビになったハライセに、朝日新聞に三塚介入の乗っ取り真相を暴露した。
 これにあわてたにが三塚、その政治生命に傷がつくおそれもあって、「他意はなかった」
 と釈明これにつとめた。 
・三塚・小谷・枡山三者会談から三週間たった日、清話会事務所の事務総長室に、小谷は
 三塚をたずねた。
 小谷は、側近の一人にアサ袋製のA銀行の現金運搬用のバッグ2袋を持たせていた。
 この側近、現金バッグが重くて、小谷の自家用車と総長室の間を一回一袋ずつ持って、
 二回も運び込んだ。
 当時、永田町では「小谷、三塚に三億円運ぶ」というアングラ放送が流れた。
 これを三塚も小谷も烈火のように怒って否定した。
 
・三塚博に対する”三億円疑惑”がまだあった。
 平成3年8月、毎日新聞は朝刊でスクープ報道した。
 不動産会社「地産」元会長、武井博友被告(脱税で起訴、実刑で服役中)が、一昨年か
 ら昨年にかけ、三塚博に計三億円を献金したと、自分の日記に記載していたことが、関
 係者の証言で明らかになった。
・日記によると、竹井被告は二年前に仕手集団「光進」代表の小谷浩二被告(恐喝などで
 公判中)から、三塚氏を紹介され、その直後に都内の料亭で小谷被告の立ち会いで最初
 の一億円を渡したと、関係者に話していた。
 しかし、三塚氏は「そのような事実はない」と全面否定している。
・竹井被告は克明な日記を30年以上書き続けており、関係者が明らかにした日記の記載
 によると、竹井被告は1989年春、小谷被告と一緒に三塚氏(当時通産相)の事務所
 に行き、小谷被告から三塚氏を紹介された。
 その直後に料亭で三塚氏に現金一億円を渡したという。
・竹井被告はさらに同年6月、同じ料亭で再び三塚氏と会い、一億円を提供したという。
 三回目の現金授受は昨年3月、別の料亭で行なわれ、やはり一億円を三塚氏に献金した
 という。  
 小谷被告はこの三回の現金授受にすべて立ち会っていたという。
 
・三塚博の人格に、大きな疑問を投じたのが”政治献金ネコババ事件”だった。
 このネコババ事件がバレたのは、三塚とはまったく無縁のマスコミ、静岡新聞の裁判記
 事の報道からだった。
・平成3年8月、静岡新聞は一面トップで、仙台地裁で行われた、佐川急便グループの東
 北佐川急便元社長・長江賢一が解雇になったことにからむ、長江の五億円の損害賠償、
 身分保全の請求事件の民事裁判で、同社の経理課長・佐野の証言を特報した。
・この佐野証言によると、東北佐川急便は、佐川急便グループ本社の指示で、昭和63年
 当時、自民党安倍派の政治団体だった「清和会」の事務総長・三塚博に、1千万円を政
 治資金として支払ったことがわかった、と報じた。
・さらに佐野証言では、平成元年に行われた新潟県知事選で、自民党公認候補・金子清の
 選挙資金として1500万円、京都市長選自民党候補にも1000万円、合計2500
 万円のカネを渡したとの証言があったとした。
・このカネの行方についてカギを握る清和会事務局次長・手塚光男が、静岡新聞の確認取
 材に対し、カネの受領、領収書発行という佐野証言の「カネをやった」ということを全
 面否定した。 
・佐野証言では、長江が東京・赤坂プリンスホテル構内の清和会事務所にこれらのカネを
 運び込み、親しい関係の三塚に直接手渡した。
 あとで同会から領収書まで郵送された事実も証言した。
・佐野証言では長江が三塚に総額3500万円のヤミ献金を手渡したことになっている。
 しかし、手塚らの清和会側が全面否定するということから、マスコミは、静岡新聞ばか
 りでなく、各全国紙も、この行方不明となったカネをめぐって、三塚の”ネコババ疑惑”
 の報道が目立った。
・東北佐川急便は、平成元年4月から11月までの八カ月間、問題の株式会社・サンセイ
 (当時の社長・伊藤慶治)に毎月100万円ずつの送金をしていた。
 このサンセイは本社が仙台市青葉区国分町の三塚の自宅に置かれ、役員も三塚の地元秘
 書ら。
 顧問とはなっているが、そんな実績はほとんどない。
 つまり、三塚の地元秘書の給料の一部を佐川急便が負担していた、ということを佐野証
 人が立証・証言をしたのである。 
・この佐野証言は、当時、リクルート事件、阿部・共和汚職事件など、国会議員が関係企
 業にカネをせびり、地元秘書の給料までを負担させていたことが政界スキャンダルとし
 て発覚し、問題になっていたとき、タカリの事実が裁判所という公的な場所で、しかも、
 証言で明らかになったことから、ワルの政治家のサンプルとして永田町に大きな衝撃を
 与えた。

・三塚後援会の会員向け機関誌「リアルマン」が、リアルに、問題のパーティの事実を証
 言している。
 昭和62年7月から63年1月にかけて、三塚の選挙地盤・仙台市を中心にした婦人会
 員たちを、研修会の名目で、栃木県・那須白河にある那須ロイヤルホテル1泊2日のバ
 ス旅行に招待している。 
・このバス旅行の会費は一人わずか5000円。このバス旅行には約5000人を招待し
 ている。
 だが、実費は1泊15000円はかかっている。
 とすると、三塚はこのバス旅行で1人1万円、総額5000万円はそんをしたことにな
 る。
・当時の三塚、5000万円の赤字をかぶるような殊勝さはなかった。
 そこで、佐川急便のオーナー・佐川清に、この経費分として、実損を1000万円も上
 回る6000万円の支援を求めた。
 このSOSを受けた佐川が、東北佐川急便に全額出させたのが、6000万円支出証言
 の真相なのだ。
・しかも、この三塚の”タカリ”にはまだカラクリがある。この5000人もの大団体旅行
には福島交通のバスを利用している。
 しかも、送り込んだホテルは、これまた福島交通経営の那須ロイヤルホテルだ。
 このオーナーはいわずと知れた平成5年11月に亡くなった小針暦二(福島交通会長)
 だ。  

・国有の鉄道だった国鉄をバラバラに六分割させた、国鉄民営・分割による国鉄改革で、
 三塚はその利権を手中にし、国営企業の民間企業化で味をしめた。
・そこで、行政改革政権となった中曽根康弘政権は、株式会社とは名ばかり、全資本金の
 100パーセントを政府・大蔵省が握っている日本航空株式会社という特殊法人の完全
 民営化に乗り出すことに踏み切った。
 この日航改革をスムーズにすすめるため、自民党は党内に「航空対策特別委員会」を設
 置、委員長に三塚を選んだ。
・ところが、この三塚委員会に幸い?したのが、昭和60年8月12日、死者520人を
 出すという世界の航空史上、最大惨事となった日航ジャンボ旅客機の御巣鷹山墜落事故
 この日航機大事故は、日航改革の世論の動きが加速されるという、三塚委員会に”追い
 風”となるプラスに転じた。
 そこで、中曽根は、日航改革の旗手として、繊維会社の大手・鐘紡会長・「伊藤淳二
 を会長のまま、日航会長就任を前提条件に、日航副会長に迎えた。昭和60年12月の
 ことだ。 
 伊藤はいわば、日航改革の”旗手”として日航経営陣に乗り込んだのだ。
・その伊藤のバックにあったのは、もちろん、伊藤に三顧の礼を尽くした中曽根、そして
 中曽根に伊藤を推薦した「瀬島龍三」(東京商工会議所副会頭)というブレーン。
 それに伊藤とは交遊20年という友人の福田赳夫(元首相) 
・伊藤日航新会長は、「容共経営者」だ。
 ”三塚委員会”の自民党航空対策特別委員会は、昭和61年6月、副会長から日航のトッ
 プ・会長に就任した伊藤淳二にこう烙印を押し容共者のレッテルをはった。
・そのうえ、同特別委は日航改革どころか”伊藤おろし”に動き出した。
 この特別委の委員長には、内閣の改造人事で運輸相を退任したばかりの三塚が、カムバ
 ックし、就任していた。
・伊藤が「容共経営者」のレッテルをはられるきっかけとなったのは、伊藤が会長に昇進
 後、三塚へのあいさつ遅れという苦い経験から、はやばやと中曽根や新運輸相・橋本龍
 太郎や各党の党首にあいさつ回りをしたことだ。
 日航側が用意した党首リストのとおり伊藤は訪問を展開した。
・伊藤は、日本共産党本部に委員長・不破哲三をたずね、日航会長就任のあいさつをした。
 あいさつを受けた不破は、突然の伊藤訪問に面くらった。
 これまで、長い共産党の戦後史のなかで民間企業、それも大企業のトップ、さらには特
 殊法人・日航会長の表敬とはいえ、訪問は伊藤がはじめてであり、かつ、最後。
 だが、伊藤のこの日共訪問は結果的にではなくても”軽はずみ”だった。
・まず、この伊藤の、日共訪問に三塚委員会が、昭和61年9月の会合で噛みつき、伊藤
 を「容共経営者」とキメつけた。
 三塚はこれに対し、何のブレーキもかけず、逆に委員たちの伊藤批判にアクセルさえ踏
 んだかたちとなった。 
・この批判に心配したのが、三塚の親分・福田赳夫だった。
 福田派事務所に三塚を招いた。
 「伊藤さんとは20年余のつきあいで、人物、人柄はよく知っている。その彼が容共な
 どとはとんでもない。伊藤さんが容共ならば、私も容共であり、岸信介先生も容共とい
 うことになる。航特委としてはもっと善処してもらいたい」
 三塚に三塚委員会での伊藤批判を鎮静するよう、注文をつけた。
・だが、この伊藤批判は三塚委員会だけにとどまらなかった。
 それどころか、党内にどんどんエスカレートしていった。
・ついに、自民党総務会で、昭和62年3月、あのハマコーこと「浜田幸一」が、ドスを
 きかせた声でこうワメイいた。
 「日航は会長が多数をおさえて共産党案の人事をしてきたのは事実である。三塚委員会
 でも議論をつくしてきた。辞任を要求するとかしなければならない。政府が株をすべて
 放出したとき、どう監督指導していくのか」
 これがきっかかで、伊藤批判が伊藤辞任要求へと進展していった。
・この間、三塚はいったいナニをしたのか。
 ハマコーが「三塚委員会は議論をつくした」と言ったように、三塚委員会での伊藤批判
 論議に三塚は水をかけるどころかガズ抜きどころか、さかんにあおり立てるというマッ
 チ役を三塚が演じていたのだ。  
・ハマコー発言は、伊藤解任の引き金となった。
 伊藤は昭和62年3月、日航会長辞任の発表会見をした。
 伊藤容共批判に嫌気をさした伊藤が、自らのクビを切って、三塚にぶっつけたのだ。
・その三塚、なぜ、伊藤を切って捨てたのか。
 そのナゾを、伊藤側近が周囲に明かしてナゾ解きをしている。
 「いまにして思えば、会長(伊藤)が三塚の人事についての注文を聞かなかったからだ
 った。三塚秘書・庄司格が部長クラスの人たちを3、4人推薦してきた。会長はその人
 事をことごとく聞かずに蹴った。これが伊藤イビリになった・・・」
  
・三塚博が、平成2年夏、東京・世田谷区船橋の一等地に”豪邸”を建て、ついの棲家とし
 た。
 それまでは、長い間、東京・九段の衆議院九段宿舎に居を構えていたのだ。
 それが一転、大豪邸を建設、転居するとは・・・・。
 この大邸宅入手にも大きな疑惑が浮上している。
・この三塚大豪邸、じつはかつていい手私鉄会社・小田急の副社長用高級住宅があったと
 ころで、田園調布の高級住宅街とも肩を並べるような高級住宅地の一角。
 この副社長住宅を三塚は、昭和62年に小田急から約4億円で購入した。
 三塚はこれを解体、約3送縁で豪邸を建て替え、平成2年夏、完成したことになってい
 る。
・問題の疑惑は、この三塚豪邸、用地買収費約4億円、建設費約3億円、総額7億円の資
 金源。三塚はマスコミに対して、「仙台の自宅を売ったり、借金をして建てた」と説明
 している。
 だが、この説明では、仙台の自宅の売却代金はいくらなのか。また、借金はどこからい
 くら借りたのかのこまかい内訳はもちろん、肝心の購入、建設費の具体的な説明は一切
 なしだ。
・「売った」という仙台市青葉区国分町の自宅は、売った?あとも、売り先の佐々良建設
 (社長・佐々木一夫)と三塚の政治団体との間で賃貸契約を結んで、引続き三塚が自宅
 兼事務所としていまも使用している。
・この仙台自宅売買が第一の疑問だ。
 三塚関係者たちの説明では、もともと、仙台の自宅・事務所の所有者は、三塚の地元後
 援者の”三羽鳥”の一人といわれた佐々木。
 佐々木はこの自宅をタダで三塚に貸し住まわせていたというのだ。
 だから、「佐々良に売った」というのはつくり話。
・さらに、三塚は「借りた」という借金の形跡も、銀行など公式の金融機関との間に金銭
 の授受の動きはないといわれている。
 さらに大きな疑惑は、「買った」という相手の小田急からは「売った」という裏づけの
 話も、「いくらで売った」という話も一切、説明がないことだ。
 このため、三塚対小田急の間には時価4億円という住宅な移動があった。
 だが、それに伴う代金、つまり金銭の授受は「ない」という疑いがあるというのだ。
・外人クラブからつかんだ情報が三塚と佐川清(佐川急便本社社主・相談役)、渡辺広康
(東京佐川急便元社長)の極めて密接な関係だった。
 その情報のなかで耳を疑ったのが「三塚邸は佐川急便のプレゼント」というものだった。
 その極秘情報は「渡辺が三塚に『住宅建設費』として3億円を出した」というものだ。
 さらに、東北佐川急便も5千万円を三塚に贈ったという情報もつかんだ。
 つまり、佐川急便グループは運輸大臣だった三塚に総額3億5千万円の住宅建設資金を
 負担したとい疑いだ。