小泉政権−非情の歳月 :佐野眞一 |
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この本は、いまから20年前の2004年に刊行されたもので、三人の人物を通して、 小泉政権の実像に迫ったものだ。その三人と人物とは次の三人だ。 ・秘書官・飯島勲 ・角栄の娘・田中眞紀子 ・小泉の実姉・小泉信子 小泉政権といえば、「自民党をぶっ壊す!」というフレーズで国民から熱狂的に支持を得 た政権だったと記憶している。 また、一般の主婦層から圧倒的な人気があった田中真紀子の応援を得て誕生した政権でも あった。田中真紀子氏は、本人の強い希望もあって、女性では初めての外務大臣に就任し た。しかし、その後がいけなかった。 外務省の事務方との衝突、米国の機密事項漏洩事件、米国国務次官アーミテージとの会談 のドタキャン騒動、指輪紛失騒動、人事課籠城騒動などなど、常識では考えられないよう な数々の騒動を引き起こした。 田中真知子氏は「越山会の女王」などと呼ばれたが、結局、「異形」のひとりに数えられ るとも言え、「大臣」などの要職が務まる資質はまったくなかったのだと言えるのではな いのかと私には思えた。 飯島勲氏については、普通の秘書官のイメージとは異なり、強面のイメージが強い秘書官 だったが、その壮絶な生い立ちについては、この本を読んで初めて知った。 その壮絶な家庭環境から、総理大臣の秘書官にまで這い上がってきた飯島氏も「異形」の 秘書官であったが、その傍若無人な振る舞いも、私にはどこか責めることができないと思 えた。 小泉純一郎氏の実姉の信子さんについては、この本を読んでその存在を初めて知った。 この本の著者は信子さんについて、きわめて批判的な論調でその人となりを紹介している のだが、あまりに偏向的な論調で私にはちょっと読むに堪えなかった。 この本の著者は、信子さんが独身を貫いたことを、まるで結婚して家庭の主婦になること が女の一番の幸福なのだという古い価値観のもとに、「女帝」などと批判めいた論調を展 開しているのだが、その古めかしい価値観と三流週刊誌記事のような書き様に、読んでい てうんざりした。 小泉事務所の金庫番として弟を支えて、総理大臣にまで押し上げたその生の方は、普通の 主婦になるよりも、ずっとあっぱれであったと、私には思えるのだ。 また、小泉純一郎の父、小泉純也氏のことを「種馬でしかなかった」などと表現している が、あまりにも失礼な書き方だと思った。 防衛庁長官までのぼりつめた人が、どうして「種馬だけでしかなかった」といえるのか。 私には著者の見識がまったく理解できなかった。 小泉純也氏を批判するなら、防衛庁長官のときに、東京大空襲を指揮したアメリカの空軍 大将カーチス・ルメイに、日本の勲章を授与したことについて批判すべきだ。 どうして10万人以上の東京市民を無差別に焼き殺した人物に勲章を与えたのか。 どうせ批判するなら、そのことを批判すべきだと私は思った。 ところで、小泉政権であるが、「自民党をぶっ壊す」「抵抗勢力」「人生いろいろ」など、 ワンフレーズ政治とか「小泉劇場」とか言われ、庶民からの人気は非常に高かった。 この政権の最大の成果は、北朝鮮電撃訪問による拉致被害者5名を帰国させたことだろう。 拉致被害者の一部しか帰国させられなかったという批判もあるようだが、その後、このよ うな拉致被害者のさらなる帰国を実現させた政権がいまだにないことを考えると、これは やはり偉業だったと私は思っている。 もっとも、内政面については、「勝ち組」「負け組」という言葉が流行したように、格差 拡大社会に大きく舵を切った政権であったと言えるのではないか。 外政面では、9.11同時多発テロに伴う米国のアフガン空爆をいち早く支持表明したり、 イラクに自衛隊を派遣したりと、米国の戦争への加担を鮮明にした政権であったと言える のではないかと私は思もっている。 さて、その小泉家の四代目にあたる小泉進次郎氏であるが、岸田(文雄)総理の退陣に伴 う自民党の総裁選に立候補するようだ。 小泉進次郎氏については、滝川クリステルとの結婚を機に環境大臣に抜擢されたが、国連 の気候行動サミットにて環境大臣として参加した際、 「気候変動のような大きな問題は楽しく、クールで、セクシーに取り組むべきです」 と発言し、大手海外メディアも報じるほどに国内外で物議をかもした。 またその後においても、「中身が空っぽ」との批判も相次いでいる。 今の小泉家には、信子さんのように、進次郎氏を総理大臣に押し上げる人がいるのだろう か。今後の動向が注目される。 過去に読んだ関連する本: ・総理の資格 ・イラク戦争 |
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「異形の秘書官」飯島勲(「総理の懐刀」がついに明かす封印された過去) ・「小泉純一郎」の政策担当秘書官の「飯島勲」の雰囲気は、これまでの政治家秘書のど んなタイプにも当てはまらない。 アクの強さとマスコミに対する恐喝まがいのやりとりで、「田中角栄」を天下人にした 「早坂茂三」とも微妙に違う。 エリート官僚出身らしい綿密な政策で「橋本(龍太郎)」政権を支えた「江田憲司」の こまねずみのような走り使いと、すり鉢の底が抜けそうなゴマスリ、そして人をそらさ ぬ転機で「中川一郎」を派閥の領袖にのしあげた「鈴木宗男」とも異なる。 ・変人宰相といわれる小泉だが、飯島もこれまでの総理秘書官の類型に全く入らないタイ プと言う意味で言うなら、小泉以上に「異形」である。 ・飯島の話は、助走なしにいきなりその場でジャンプするような飛躍があった。 軽重のプライオリティーも強弱のアクセントもなく、疲れを全く知らずにただただ続く 飯島の輪法は、たとえて言えば、等高線のない地図、もしくは色彩のグラデーションを 欠いた絵画を連想させた。 ・大きな話が突然、瑣末の話題となり、物事のディテールを語っているかと思うと、 いつのまにか、今後の政局の話に飛んでいる。 ひとつひとつの話は非常に興味深くついつい引き込まれてしまうが、それを全体の文脈 のどこに位置づけていいのかわからず、しばしば途方にくれた。 ・飯島が叙勲制度にこれほど詳しいとは、叙勲を求める有権者の陳情がそれほど多いこと の傍証でもあろう。 おそらく本人も気づいていない意識下で、飯島が政治というものに強い不信感を持ち、 大衆というものに嫌悪の感情を持っているのも、おそらくはそのためである。 ・政治家秘書でありながら、政治も大衆もじつは信じてはいない。 そこに飯島の一般的基準ではよく判断しにくいキャラクターと、彼のおかれた特異な位 置である。 ・飯島の口調は、障害者の話題になるとなぜか、ひどく熱を帯びていった。 ・飯島は陽のまったく当たらない絶望的な家庭環境に育ったことを、驚くべき率直さで告 白した。 それが飯島の障害者に対する強い思い入れにつながっているらしいことは想像できた。 ・飯島の名が政界に一躍知れ渡るようになったのは、小泉内閣発足時の超人気閣僚だった 「田中眞紀子」外相との外務省人事をめぐる一対一対決劇だった。 ・田中眞紀子は念願の外相に就任したとたん、肝心の仕事ではほとんど注目されず、野次 馬的関心を集めるスキャンダラスな事件ばかりを連発した。 米国務次官の「アーミテージ」との会談をすっぽかし、世界中を震撼させた2001年 の9月11日の同時多発テロ直後には、アメリカの機密事項をリークする国際的不祥事 を起こした。 指輪を紛失したと言って、外務省を大騒動に巻き込んだこともあったし、抗議のため外 務省人事課の部屋に閉じこもって、外部との接触をいっさいシャットアウトする籠城作 戦に出たこともあった。 真紀子が外相にふさわしからざる人物ということは、もう誰の目にも明らかだった。 ・とりわけ激怒させたのは、真紀子の外務省人事を壟断するふるまいだった。 このとき真紀子は小泉の指示に公然と反旗を翻し、駐米大使を含む外務省高官人事を 自分の思いどおりに断行しようとしていた。 真紀子を外相に任命した立場からいって、この問題に直接手を出せない小泉から、 「君に任せるから、うまくやってくれ」と全権委任を取り付けた飯島は、体つきから はとても想像できない迅速さですぐに外務省に向かった。 ・大臣室で真紀子と向きあった飯島は、憮然とした表情で何か反論しようとする彼女に 一言も抗弁させず、 「あとで言った言わないとならないよう、自筆でお願いします」 と有無を言わせぬ膝詰め談判で迫った。 その場で真紀子が抵抗していた人事案を提示し、そこに真紀子自身に署名させてそれを 強引に呑ませてしまった。 ・この一件以来、飯島は、あの田中眞紀子を一喝した凄腕秘書官と言う評価をまとうこと になった。 この日、真紀子は事実上、外相を更迭された。 小泉内閣発足からちょうど百日目のことだった。 ・下から積み上げる人脈作りにも現れているように、政策を進言したり、勢力拡大のため の・多数派工作を仕掛けるのは、飯島の任ではない。 メディアを使って外堀を知らず知らずのうちに埋めていき、気がついたときにはもう後 戻りできない流れをつくる。 こうした情報操作の分野こそ、飯島の本領が発揮される。 ・飯島に対する疑心暗鬼の念がエスカレートすればするほど、飯島の存在感は増す。 実態がどれだけのものかは別にして、その影だけを不気味なほど膨張させる。 それが勝手な買いかぶり、過大評価に過ぎないかもしれないと思っていても、一度生じ た疑いは、体内に巣くった癌細胞のように自己増殖をとめることができない。 ・飯島への注目が集まるにしたがって、これまで黒衣的存在だった飯島に対するバッシン グ報道は露骨になってきた。 権力を笠に着た尊大な人物という批判記事から始まって、長野県駒ケ根市の別荘建設を めぐる地元業者との癒着疑惑、経済支援をめぐる北朝鮮とのコネクション疑惑、愛人ら しき女性との深夜のドライブの一件まで報じられた。 旧知の国土交通省幹部の口利きで息子を道路公団のファミリー企業に就職させたのでは ないかとの疑いが、国会で取り上げられたこともあった。 ・「安倍(晋三)」幹事長就任は、小泉が官房長官の「福田(康夫)」についで、森派の もう一人のプリンスを抱き込んだことを意味する。 小泉政権の打たれ強さは、森派でも容易に批判しにくい二人の「玉」を、閣内、党内そ れぞれの最重要ポストに配したことにも起因している。 また自民党の「抵抗勢力」にと薬評判の悪い「竹中(平蔵)」を批判覚悟で敢えて留任 させたのも、小泉の強気な政治姿勢を示すものだった。 ・長野県辰野町が飯島の郷里である。 飯島の生家は町のほぼ中心部にいまも残っている。 木造二階建ての家は物置小屋に手を加えた程度で、ごく粗末なつくりである。 この家には、飯島の五歳年下の弟が一人で住んでいるが、昼間訪ねたため留守だった。 「ほかに二人姉妹がいますが、読み恪があまりできないふうで、今は二人とも駒ケ根の 施設に入っています。妹さんは一度結婚したけれど、相手が飲兵衛で、別れたみたいで す」 ・駒ケ根市と伊那郡富田村にまたがった、木曽駒ケ岳の裾野に、飯島にとって二歳年上の 姉と四歳年下の妹が入所している知的障害施設がある。 ・あとで飯島から送られてきた家系図を見ると、飯島の曽祖父は、その地域一帯を支配し た高遠藩主の内藤家に仕える代々の名主年寄と書かれていた。 飯島本家の表門と裏門を配した立派な屋敷構えは、庄屋時代の名残りをいまもかすかに とどめている。 飯島の従兄で、現当主の飯島利行氏はいう。 「子供の頃は貧しくて、電報の配達をしたり、納豆を売ったりしていました。彼は家庭 的には本当に恵まれなかったんです。彼の姉弟も本当に気の毒な状態で、駒ケ根の別荘 も、近くの施設に入っている姉妹のために建てたと聞いています。勲は、定年になった ら自分が姉弟三人の面倒を見て行かなければいけない、といっています。子どもの頃か ら、そのことはわかってましたから」 ・飯島は、突然、姉弟たちの境遇を語りはじめた。 「弟も姉貴や妹と同じように、使節には入ってもおかしくないんだけど、運転免許を、 四十回近く受けたら合格しちゃった。一応、読み書きはできるんです」 「親父が死んだとき、家の中を見て愕然とした。ゴミの山が天井まで届くぐらい溜まっ ていました。通夜もできなかった。畳から何から全部、ダンプカーで捨ててもらった」 葬儀は仕方なく、近くの公民館を借りた。 葬儀に参列した中学時代の友人によれば、飯島は泣きながら、 「弟や姉妹たちが、これから誰を頼りにすればいいか、それが一番心配だ」 と挨拶したという。 ・伊イジアは箕輪工業高校の定時制時代、昼間は父親と同じ職場のIHKの旋盤工として 働いた。 上京して東京電機大学高等学校の夜間部に進んだのは、その職場で同校の編入試験があ ることを知ったからだった。 「とにかく辰野を出て行きたかった。姉弟のことも寝たきりの母親のことも全部抜きに して、失敗しても何しても、自分一人でやり遂げる覚悟だった」 ・上京資金は、中学時代からの納豆売りやアイスキャンディー売り、電報配達などで稼い だ小遣いだった。 ・飯島は、親類全員の反対を押し切り、布団一枚を担いで、家で同然に故郷を飛び出した。 東京に行くのは始めてだった。 ・電機大高校の編入試験の一週間前に東京に着いた飯島は、学校に頼み込んで当直室のタ タミに田舎から担いできた布団を敷いて寝た。 一週間も当直室に泊まり込むのは、「学校始まって以来だ」と職員に言われた。 ・東京には電気店を営む母方の親戚があり、合格後、一時そこに身を寄せた。 だが、飯島自身の述懐によれば、親類とは思えぬ冷たい扱いに屋根を伝ってその家をす ぐに飛び出した。 ・定時制の電機大高校時代、飯島は昼間は銀座で似顔絵描きなどのアルバイトをして日銭 を稼いだ。 誰の許可を得てここで商売してるんだ、と地面師に追いかけられたこともあった。 ・校友会の雑誌を見て知った中央区明石町にお志賀内外特許事務所に勤めはじめたのは、 高校四年のときだった。 ・中学の同級生で、中央大学に進んだ松田賢二氏はこの時代、飯島の借りたアパートに半 年ほど同居したことがある。 「志賀特許では、特許申請用の図面をかいていたと思います。下宿でも製図を引いてま したから。夜遅くに帰って朝早くから製図に向かっていた」 この時代、飯島は特許事務所の所長以上の稼ぎがあったという。 ・飯島の政治志向は、特許事務所時代に芽生えていた。 志賀特許事務所のオーナーは田中角栄、福田武夫などの話題を好んでするような政治好 きだった。 志賀特許事務所は、今でも小泉政治団体の東京会に政治献金している。 ・飯島はこの特許事務所勤めの時代、現在ガードマンの仕事をしている、自民党のビラ配 りのアルバイト仲間から小泉が秘書を募集していることを聞きつけた。 それが縁となって、秘書稼業に飛び込むことになったという。昭和四十七(1972) 年のことだった。 ・小泉さんの第一印象は、 「教会の牧師にあったような感じですよ」 「騙そうと思えばいくらでも騙せるような。はっきり言って、ぼくの姉弟をみるような 感じでした」 ・飯島が常人ばなれしているのは、差別と紙一重のこういう表現が何の躊躇もなく出てく るところである。 一国の総理をつかまえて、知的障碍者施設に入っている自分の身内を見るようだといえ るのは、飯島くらいのものである。 ・飯島は小泉が自分を拾ってくれたという言い方をしたが、逆の言い方も可能である。 すなわち、小泉が飯島を採用したというより、下品な表現をするなら、飯島の方が小泉 に「目をつけた」。 ・キャデラックを乗り回し、高級ブランド品を身につけて、マスコミを手玉にとりながら 情報操作する。 そして、よからぬ噂が常につきまとう飯島のような男は、もし自民党正統派の代議士秘 書になっていたら、その派手な服装や横柄な物腰だけで、たちまちクビになったことだ ろう。 他人の言動に寛容な、と言うより自分以外の人間の言動には全く無関心な「変人」小泉 だったから、飯島は政治家秘書にふさわしからざる振る舞いをやってこれたともいえる。 ・「オレが小泉事務所に入ったとき、三代続いた政治家なのに、小泉家の姉弟の他にはほ とんど誰もいなかった。そこにあったのは兄弟愛だけ。身内以外の他人を誰ひとり信じ 切ることができない境遇の中で、小泉は落選を経験したと思うんです」 ・小泉総理の決断に最も影響を与えているのは、姉の信子さんですよね。 しかし、表にはほとんど出てこない。信子さんてどういう人ですか? 「女帝なんて言われているけど、かわいそうなひとです。私の姉弟が結婚できないでい るのはいいですよ。簡単に納得できる環境にあるから。 でも信子さんは、純也先生(小泉総理の父で元防衛庁長官)が亡くならなければ、結婚 して普通に幸せな道を歩んでも、何の不思議もなかった。 絵や生け花、音楽といった芸術的な感性の強い、決して不美人ではない女性が、弟のた めに独身でいなければならなかったというのは、あまりにも酷い。 見方をかえれば、私よりもずっと大変な人生を送ってきた」 ・小泉事務所では、最初どんな仕事だったんですか。 「全部、雑用です。議員会館でお茶くみと床の掃除と郵便物の整理。頭脳なんてまった く関係ない。外に出ると、くる日も来る日もポスター貼りと名刺配りで、小泉の売込み ばかりやっていた」 ・秘書を辞めたら、第二の人生はどうするつもりですか? 「古イズムが辞めたら、永田町から100パーセント消えます。田舎から政治家として 立つ考えもまったくありません」 ・飯島は短大の学生時代、五歳年上の女性と結婚し、二人の息子をもうけている。 飯島の三十五歳になる長男は、七、八年前、新木場駅のホームから転落する事故で瀕死 の目にあっている。 ・飯島にとって一番悔やまれるのは、妹の結婚と離婚だったという。 妹が嫁いだのは峠一つ越えると塩尻という、辰野でもっとも山深い過疎の集落である。 鬱蒼とした森林に囲まれ、狭い谷筋には廃屋ばかりが目立つ。 妹の嫁ぎ先も絶家同然の廃屋になっていた。 ・妹の結婚の経緯について尋ねると、飯島は火がついたようにまくしたてた。 「私も結婚する資格がない、子どもを持つ資格もない男です。だけど、妹だけは絶対結 婚させちゃいけなかった。私は一人で大反対したんです。世間のことが何もわからない 妹にセックスの味を覚えさせたらどうなる。妹が逃げ帰ったのは、亭主の親族が妹に手 を出そうとしたからです。それを聞いたとき、私はあの家に火をつけて皆殺しにし、私 の姉弟も女房子どもも全員殺して、青酸カリ自殺しようと思った」 ・小泉後援会の有力支援者のなかには、こんな声もあった。 「飯島の言っていることはウソだらけです。小泉の離婚問題にしたって、自分が別れさ せたみたいに言っていますが、そんなことは絶対ない。飯島は自分を悪役に見せること で、大物秘書ぶっているだけなんです」 ・飯島を支配し、つき動かしているのは、自分が死んだら姉弟たちはどうなるのかという、 子どもの頃からずっとつきまとってきた底なしの恐怖と不安である。 郷里や姉弟につながる根源的な感情から来る名状しがたい衝動なしには、飯島は恐らく 一日たりとも生きられない。 ・飯島が育った家庭環境は同情に値する。 その境遇におしつぶされることなく、ここまでやってきた努力は賞賛に値する。 だが、飯島の周りには、そんな道徳教科書のような評価だけでは済まされない、という より、そんな子供じみた褒め言葉をたちまち無化する不穏な空気が漂っている。 それをあえて表現するなら、狂い死にしてもおかしくない境遇と背中合わせの世界から 這い上がってきた者のみが身のまとえる、ニヒリズムと背徳の図太い匂いとでも言えば いいだろうか。 ・飯島はこれまで会ったどんな人物とも一から十まで肌ざわりが違っていた。 肉体をじかにこすりつけてくるような感触は、見知らぬ異物に突然触れ、その生っぽさ に思わず手を引っ込める感触に近かった。 ・飯島と小泉は、生まれも育ちも風貌もスタイルも地中の裏と表といってもいいほどかけ 離れている。 だが、言動に関してだけは精神的一卵性双生児といえるくらいに酷似している。 人の心をわしずかみにするワンフレーズや、コンピュータのようにゼロか1かと迫って 議論自体を無化させる小泉の手法と、文脈を無視した衝撃的な話だけで会話を間歇的に つないでいく飯島のしゃっくりを思わせる話法は、対話不在という点で共通している。 ・小泉は、かなり感情をストレートに表現する政治家である。 彼は複雑な社会現象を、抽象的なレベルで体系的に思考する能力が弱い。 そのため政治問題を、極めて具体的、かつ感情的なレベルで捉える。 問題をいつも「感情化」「人間化」「単純化」して大衆に訴える小泉は、体系的ヴィジ ョンによって人を導く政治家ではない。 ・小泉は常に「敵」を必要とする。 総裁選にあたっては「派閥」や「抵抗勢力」がそれだった。 小泉はこうした善玉・悪玉二元論によって、政治をドラマ化するのである・・・。 ・物事をすべて誰にも相談せず一人で決めるといわれる小泉は、マスコミとって何を考 えているのかよくわからないブラックボックスのような存在である。 飯島はそのブラックボックスに唯一アクセスできると思わせる存在だともいえる。 ずる賢さを含め大衆の何たるかを骨の髄まで知り抜いた飯島は、小泉にとって複雑な政 治過程を単純なポピュリズムに情報加工するための欠くべからざるプロバイダーだとい うこともできるだろう。 ・俗情の化身といってもいい飯島は、小泉にとって、大衆民主主義に走らせ過ぎたいため のガイドラインとも、逆に、内なるためらいを打ち消し、己を大衆の俗情に向かって奮 起させるための存在とも映っているように見える。 田中眞紀子は復讐する(何に怯えるのか。浮かび上がった”本当の敵” ・新潟県刈羽郡西山町(現・柏崎市)に、田中角栄の生家が今も残っている。 総檜造りの広壮な屋敷の木の門柱には、「田中直樹・真紀子」と書かれた立派な表札が かかっている。 ・生家から少し離れた「西山ふるさと公苑」内には、田中角栄記念館が建っている。 同じ敷地内には、「角さんの台所」とネーミングされた和風レストランがある。 この和風レストランは、東京の目黒邸近くにあるイタリア料理店「ラ・フレスク」同様、 陰のオーナーは真紀子である。 ・角栄記念館内で上映される「田中角栄、ふるさと西山町を語る」と題したミニ・ドキュ メンタリ―のスクリーン上の角栄の存在感は圧倒的だった。 ふる里の家や母フメについて語る角栄の人を魅了せずにはおかない語り口のうまさにあ らためて舌を巻きながら、角栄にあって真紀子にはないものが、そのドキュメンタリー を見て初めてわかったような気がした。 ・角栄の語り口には誰も口を差しはさむ余地のない怒涛のような「押し」があるだけでは ない。 連射砲のような熱弁がひとしきりつづくと、突然、「まアー、その・・・」という吃音 気味のブレスが入る。 ・この絶妙なタイミングを見はからった「引き」の呼吸が、オレの懐に飛び込んでこいと いっているんだな、何も考えずに飛び込んでもいいんだな、と相手に思わせる角栄の話 法の最大の武器である。 角栄と会った人間は誰でも、この「引き技」に文字どおり引きずり込まれ、二度と離れ られなくなる。 ・だみ声だけは角栄とそっくりだが、真紀子にはどう見てもこの「引き技」がない。 芸能にたとえるなら、角栄には相手を喜ばせはじめて芸になる浪花節の骨法が心から身 についていたが、学生時代、新劇女優を目指していた真紀子には、人をおしのけても自 己主張するわがままさはあっても、相手との呼吸を自在に操る芸もなければ、相手を自 分の懐で遊ばせる度量の広さもない。 ・真紀子が書いた「時の過ぎゆくままに」という自叙伝ふうエッセイがある。 その本の中に、祖母のフメが孫の真紀子に口うるさく言って聞かせた言葉が紹介されて いる。 「あると思うな親と金。ないと思うな運と災難」 ・親は子にとって努力次第でどうにかなるものではなく、いわば天与のものである。 また金も、ほとんどの場合、自分の努力でどうにかできる範囲は限られている。 とりわけ真紀子は、田中角栄というどうにも逃れようのない親を持ち、金には一度も困 らない境遇で育った。 ・一方、親や金と違って、運は本来自分の力で切り開いていくものであり、災難は自分の 才覚で未然に避けていくものである。 ・だが、真紀子の場合、その道も角栄によってあらかじめ閉ざされていた。 庶民宰相、今太閤とマスコミにも出はやされ、一転、ロッキード事件で逮捕された大罪 人の娘と後指さされる境遇自体が、真紀子に最初から宿命づけられた運であり、災難で あった。 ・真紀子の人生は、言うなれば金も運も災難もすべて角栄の手のひらのうちにあった。 真紀子が、祖母から噛んで含めるように教えられた人生訓を守って生きようとすれば、 狂気を伴うほどの激しい自己分裂に陥るか、そうした境遇を自分に賦与した父・角栄に 刃を向けるしかなかった。 ・どこから見ても息の詰まる環境の中で、ひとり悶々と焦燥感を募らせ、二十日ネズミの ようにぐるぐると空転してきたのが、真紀子の悲劇的とも喜劇的ともいえる人生だった。 ・来訪の二、三十分前に突然、秘書から、これからちょっと寄りますから近所の方を集め ておいてください、という電話が支援者宅に入り、茶飲み話程度の雑談がすむと、また 風のように去っていく。これが真紀子流の「遊説」スタイルである。 相手の都合もスケジュールも無視したあわただしい訪問は、男だったら怒るところだろ うが、女性にとってその方がずっと親しみが持てるらしい。 「散らかっていて悪いわね」 「いいのよ、すぐ帰るんだから」 「そう、ごめんなさいね。でも、お茶ぐらい飲んでいって」 ・約八百坪の大豪邸に住み、六百五十億円もの財産を所有するといわれる真紀子が、彼女 に比べたらまったくお話にならないくらいつつましい暮らし向きの主婦たちに絶大な人 気があるのは、おそらく、こんな肩ひじ張らない会話がたちまちのうちに成立してしま うからだろう。 ・「この世には家族と敵と使用人しかいない」。 そう平然と言い放つ真紀子は、その瞬間、誰をも平伏させずにはおかない権力欲の権化 のような女王の座をかなぐり捨てて、話のよくわかる一介の主婦に化ける。 新劇女優を目指していた時代に身につけたと思われる、主婦の仮面を瞬時に女王の素顔 に貼り付けるこの特技こそ、父・角栄の「引き技」話法に匹敵する真紀子の最大の武器 だといえるかもしれない。 ・真紀子は、仮面の下の凶暴な男性性について言われることが多いが、 「パッと振り向いたら、小泉さんがわたしのスカートを踏んづけていた」 という秀逸な発言で、小泉を的確に批判したように、意識的に家、無意識的にか、肝心 なところでは決まって、女性性を巧みにアピールしている。 ・小泉が総理大臣に就任した当時、外務省は機密費問題で大揺れに揺れていた。 その外務省改革に大ナタをふるえるのは、政界の常識とは無縁に生きてきた真紀子を置 いて他にない。 主婦層を中心としたこうした世論が、真紀子の外相就任という異例中の異例の人事を後 押しする結果となった。 ・官邸を訪れた真紀子は、組閣に着手しようとしていた新総理の小泉の機先を制するよう に、こう言いはなった。 「外務大臣以外は考えておりません。それが叶わない時は議員バッジを外します」 ・しかし、真紀子の外相在任期間は、二百七十九日間に過ぎなかった。 それは、真紀子が政界の常識どころか社会常識とも遠区隔建って生きてきたことを証明 したばかりか、日本外交が取り返しのつかない損失を被った不幸な九カ月間だった。 そしてその真紀子の外相在任期間は、国民が「政治」を最高の「娯楽」と見立てて楽し んだ一億総白痴かともいうべき時代と重なり合っていた。 ・機密漏洩、ドタキャン、人事壟断、指輪紛失、人事課籠城・・・。 真紀子がスキャンダラスな事件を起こせば起こすほど、多くの国民は真紀子に政界の価 値紊乱者の姿を錯視して、拍手喝さいを送った。 ・そもそも「変人」宰相と「ジャジャ馬」外相の取り合わせは、冷静に分析すれば、権力 内部に重大な亀裂を孕むものだった。 だが、夫婦漫才の下劣なギャグを見て大衆が大受けするように、権力内部が抱えた危機 も背反もさして露呈することなく、国民的バカ笑いのなかに消失していった。 ・テレビメディアを中心とするマスコミは、こうした風潮にほとんど異議を唱えなかった。 それどころか、閉塞した状態を打開するトリックスターコンビの見世物でも扱うかのよ うに、二人を持ち上げるだけ持ち上げた。 真紀子が失態を犯し、小泉が周章狼狽すればするほど、小泉内閣の人気はウナギのぼり に上がった。 小泉人気とは、突き放した見方をすれば、国民とメディアが総結託した構図のなかに、 真紀子人気を光背として浮かび上がった蜃気楼にも似た現象だとも言えた。 ・長鉄工業の社長は、つい最近まで外山種治氏という人物がつとめていた。 だが、外山氏は2003年2月、突然、社長を解任された。 ・真紀子の公設秘書を一年近くつとめた穂苅英嗣氏によれば、外山氏の突然の社長解任は、 真紀子のツルの一声で行われたという。 その理由は、社会常識では到底考えられないものだった。 「「外山さんは、パパが帰るのが遅れたとき一緒に飲んでいたことが真紀子さんにバレ て会社をクビになったんです」 ・一緒に酒を飲んでいただけでクビとはにわかには信じがたい話である。 だが、有権者には絶対見せない真紀子の素顔を約一年間、間近で見てきた穂苅氏の証言 には強い説得力がある。 「あるとき、パパが『秘書なんて、言われたことだけやっていればいいんだから、気軽 なもんだね』と言ったことがあります。でも実際には、パパの立場も私らとあまり変わ りがないんです。パパといっても、所詮彼女の秘書ですからね」 ・真紀子の指示はとにかく強引でムチャクチャでした。 言うことがコロコロ変わるし、ドタキャンは日常茶飯事でした。 そして錯乱すると、本当に記憶がなくなる。 ダダをこねろときには足をバタバタさせて、まるっきり子どものまんまです。 ・穂苅氏は、四の主婦たちの評価とは正反対に真紀子が強烈な身分意識の持ち主であるこ とにも驚かされた。 「とにかくアジアの人たちを自分よりずっと目下に見るんです」 どうしてあそこまでおかしな人間ができちゃうのか、いまだに不思議で、よくわかりま せん。 ・真紀子さんが夢想しているのは、日本初の総理かもしれませんが、静かに暮らした方が 彼女のためです。 永田町にいられる人じゃない。 ・ある意味、真紀子さんは角栄さんの期待を間違えて受け取ったところがあるんじゃない でしょうか。 角栄さんは真紀子さんを自分の後継者にするつもりなどなかったと思います。 真紀子さんはたぶん、それを父親が自分を見放したと受け取った。 ・真紀子さんの本質は、「女優」だと思う、というのが、穂苅氏の見立てである。 真紀子が早稲田大学に在学中、演劇活動に熱中したことはよく知られている。 ・穂苅氏は、真紀子の許を離れて一年以上たつ今でも真紀子によるPTSD(心的外傷後 ストレス障害)に悩まされているという。 ・真紀子の身近にいた関係者の中で、今でも彼女とつかず離れずの関係をどうにか保って いるのは、角栄の「国家老」といわれた本間幸一氏らごく少数のファミリー企業OBだ けである。 ・元十日町市長の諸里正典祖は、 「私から見ると、真紀子さんは人間的欠陥が多すぎます。真紀子さんにも素質はある。 しかし、磨かれていない。自分では優れた活動ができると思っていても、組織に入ると 協調性がなく、バランスが取れない。言っていることもやっていることも、ひとりよが りです」 「田中先生は鋭い人です。竹下さんのことを常々警戒していました。これは推測の域を 出ませんが、田中先生が後継者と考えていたのは「小沢一郎」だったと思います。小沢 のことをほんとうに溺愛していましたからね」 ・諸里氏は、これは今まで誰にも秘密にしていたんですが、と前置きして、 「倒れた角栄先生の介護をやったのは、十両まで行った『凱皇』という相撲とりだった んです」 ・真紀子のマスコミ嫌いは、父・角栄が彼らの一方的な報道によって失脚させられたとい う強い思い込みに起因している。 だが、こと海外のメディアに関しては、これとは対照的に好意的に迎えた。 真紀子は、マスコミをいっさいシャットアウトした選挙直前の幹部会でも、海外メディ アからの評価の高さを上機嫌に語ったという。 これは、ずっと遠くから日本の政治を眺め、真紀子の実体については全く知らず、関心 もない海外メディアゆえの高い評価というしかない。 ・こうした海外メディアの見方は、意外というべきか、当然というべきか、真紀子の個人 的行状を一切捨象して、彼女の政治原理だけに注目する「吉本隆明」氏の高い評価とも 共通している。 「田中眞紀子さんが外相のとき、私は内政では田中真紀子さん、国際的な問題では緒方 貞子さんが一番真っ当なことを言っている、と言いました。その評価は今もかわってい ません。外務省とのケンカにしても、辞めさせた小泉よりも田中真紀子さんの方がまし だと思いました。 田中真紀子さんが外務大臣になってアメリカに行ったとき、『沖縄の基地を移したらど うか』と、はっきり言った。これだけのことを言った外務大臣は一人もいません。一番 肝心なことを、言うべきポストに就いているときに言う。これが一番大事なことなんで す」 ・旧越山会の面々をはじめ合計三十人近くの関係者に会った今回の取材で最も驚いたこと は、角栄の生前、目白の屋敷で真紀子を見かけた者が一人としていないことだった。 これは、真紀子が、目白邸に出入りする人びとを、人品骨柄の差別なく、ひとしなみ毛 嫌いしていたことを容易に想像させる。 小泉内閣の事実上の生みの親と言ってもいい真紀子は、自分が産み落とした小泉の力を 巧みに利用し、結果として、親の仇ともいうべき旧経世会の息の根を完璧なまでに止め た。 ・角栄と真紀子の関係は、よくエレクトラ・コンプレックスの礼として引きあいに出され る。 エレクトラ・コンプレックスとは、娘の父親に対する無意識の恋愛感情をいい、具体的 には父親を自分から奪い取った者たちへの強烈な復讐の念を指す。 評論家の「福田和也」は、このエレクトラ・コンプレックスの概念を援用して、田中真 紀子の精神構造を分析している。 ・真紀子が剣呑なのは、福田氏も指摘しているように、父角栄の旧敵たちを仇討しただけ ではまだ足りず、自分にふさわしい境遇をせよ、と頑是ない子どものようにいつまでも 叫び立っていることである。 ・真紀子は「敵の敵は味方」と一度は小泉と手を結んだ。 そして小泉は、父の国民的人気を上回って「君主」の座に就いた。 その小泉は、あろうことか、最大の恩人である自分の首を切った。 ・「王女」になれるという勝手に夢想している真紀子が、自分の思惑を裏切った小泉を逆 恨みし、嫉妬と「飼い犬に手を噛まれた」敵対心の炎を燃やすのは、ある意味当然のこ とだった。 真紀子の過剰すぎるリビドーは、自分を衝き動かしてきたエレクトラ・コンプレックス すら燃やし尽くそうとしている。 ・真紀子の元秘書の須藤義雄氏によれば、真紀子は初めての選挙戦に出たとき、越山会関 係者を全員切ろうとしてという。 「越山会には角栄の代からの顔役がたくさんいて、彼らの発言権が強かった。真紀子さ んはそれを排除しようとしたんです。 越山会は典型的なピラミッド組織ですから、強力な選挙マシーンになった。だから、 越山会にかわる『まきこ会』も、ピラミッド状の組織にしようとしたのですが、真紀子 さんに否定されました」 ・ピラミッド組織の否定とは、すなわち田中角栄の否定にほかならない。 角栄は分配と還流を常に忘れない天才的政治家だった。 興味深いのは、その角栄が脳梗塞に倒れたとの軌を一にして、真紀子が分配と還流のシ ステムを詰まらせる挙に出たことである。 彼女が復讐しようとする刃は、小泉や自民党すら突き通し、究極的には父・田中角栄に 向けられているのではないか。 ・だが、それは真紀子自身をも破滅に追いやる諸刃の剣である。 その刃には、本当に深窓の令嬢として育ちたかった私なのに、父が倒れてしまったがた めに、無理矢理嫌いな政治の世界に入らざるを得なかった、という彼女の身勝手な怨念 がこもっているような気がしてならない。 ・昭和六十(1985)年二月、田中角栄が脳梗塞で倒れ、平成五(1993)年十二月 に死去するまでの約九年間、遺産相続やファミリー企業の支配権をめぐる真紀子の常軌 を逸した我執と、冷血というほかない処断ぶりは鬼気迫る。 ・事務所を一方的に閉鎖して、「越山界の女王」と言われた「佐藤昭子」を追い出し、角 栄の愛妾の辻和子への送金を打ち切り、「早坂茂三」らの側近たち全員を解任した。 越後交通社長で越山会会長でもあった片岡甚松を始めとするファミリー企業幹部も次々 とクビを切られた。 ・粛清の嵐は気を分けた親族にも容赦なく吹き荒れた。 目白邸に住み込みで角栄の介護を務めた叔母の風祭幸子氏を義絶し、ファミリー企業の 役員ポストにあった従兄野田中哲雄を退任に追い込んだ。 ・もし、真紀子が内助の功に徹して夫・直紀を盛り立てながら越山会の地盤と人脈を守り きり、角栄が自分の後継者として強く期待していた長男の雄一郎にそれをうまくバトン タッチできたとすれば、田中家は今ごろ、初代の持つ強烈なアクの抜けた、サラブレッ ドの誉れ高い三代目政治家の誕生を迎えることになっていただろう。 ・しかし、真紀子はその道を自ら閉ざした。 後継のシナリオを含めた角栄の遺産のすべてを食いつぶし、自分の破滅にも直結する角 栄殺しにひたすら邁進していった。 それは偉大な初代に相対化できなかった二代目の悲劇とも言える。 ・角栄が健在の頃、目白邸には一日百人を超す来客があったといわれる。 三メートル近い高い塀の上に、鋭いガラスの破片を埋め込んだ物々しい警戒ぶりは、 目白の闇将軍とも歴代総理のキングメーカーとも言われた男にはふさわしくはあっても、 孤立感を深める今の真紀子の境遇にはあまりに似あいすぎて、逆にあまりにもそぐわな い。 ・真紀子は、「この世には家族と敵と使用人しかいない」と言って、強い批判を浴びた。 目白邸の門は、真紀子が「敵」と呼ぶ部外者の訪問を拒否して、固く閉ざされている。 また、真紀子の度重なるいびりで長く務まった者はいたためしがないといわれる。 「使用人」も、今はご主人様の性格を悟って諦めきった古くからのお手伝いと玄関番く らいしかいない。 肝心の「家族」も、三人の子供全員に家を去られ、初老に差しかかった直紀と真紀子夫 婦がひっそりとくらしているだけである。 小泉信子 すべては弟・純一郎のために (凄まじいまでの血の結束。政権「奥の院」に迫る) ・童女のようなそのオカッパ頭から、政界ではクレオパトラともあだ名されるこの女性は、 小泉内閣の「影の女帝」とも言われる純一郎の実姉の信子である。 小泉より四つ年上の信子は、昭和四十七(1972)年の初当選以来、三十年以上にわ たって小泉の秘書を務めてきた。 ・写真週刊誌に隠し撮りされたもの以外で信子が写っているマスコミ向けの写真は、父の 純也が防衛庁長官になったとき、初の女性大臣秘書官として撮影された四十年前のもの 一枚あるだけである。 そこには少しポーズをつけた信子の姿が、フランスの女優を彷彿とさせるポートレート 風に写っている。 ・信子はこれまで一度もメディアの取材に応じたことがない。 信子へのインタビュー申し込みを議員会館内の小泉事務所に書面でおこなったが、 「小泉信子への取材はすべてお断りしています」 という全く納得のいかない断りの回答が電話返ってきた。 ・信子はどうやら、小泉事務所にとって、その名を口にすることさえ憚られるタブー中の タブーの存在らしい。 ・小泉姉弟と交遊関係を持つあるジャーナリストはいう。 「信子さんと何でも話せるのは、今や綜理の小泉ひとりだけと言っていいでしょう。 小泉には、心を開いて話せる盟友やブレーンは一人もいません。異常なほどの孤独癖に 森(喜朗)も、今は全くサジを投げている」 このジャーナリストは、ある政界関係者から、信子が目黒区内に住んでいた頃、碑文谷 のダイエーで買い物をする信子の後ろから嬉しそうにカートを押してついてくる小泉を 見たことがあるという話も聞いている。 ・信子が永田町に登場したのは古く、昭和三十九(1964)年、父親の小泉純也が池田 勇人内閣の防衛庁長官に就任し、わが国初の女性大臣秘書になったときからである。 ただし、これは正式の肩書を得た時期で、信子は、横須賀にあった清泉女学院高等部を 卒業した昭和三十一(1956)年、十八歳の頃から、早くも純也の秘書を務めていた という。 この時点から数えれば、信子の永田町生活は実に半世紀近くにもおよぶ。 ・小泉の政治の指南役と言われる自民党長老の「松野頼三」は、 「信子さんが、ずっと独身をとおした理由はわかりませんが、近づきがたい印象があっ たのかな。宝塚が好きで、とりわけ越路吹雪の大ファンでした。礼儀正しくて、人の名 前と顔、それに経歴をよく覚えている。 純也氏について書かれた記事の内容や発言もスラスラ出てくる。 秘書として非常に才能がありました」 ・信子が小泉事務所の「金庫番」だということは、永田町の古手の政治家の間ではよく知 られている。 「信子さんは事務所の机に座って、いつも几帳面な字で帳簿をつけています。お金のや りくりはすべて信子さんが掌握していて、他の人間は全くタッチさせてもらえません。 マスコミ関係者の間では強面で知られるあの飯島氏も、モブ古参竹には全然頭があがり ません」 ・目は小泉以上に切れ長で、鼻筋がすうっと通っている。 能面のように無表情で、色は白いを通り越して、透き通るように青い。 高校を卒業後、一時、「アテネ・フランセ」に通ったが、フランス語がしゃべれるわけ ではない。 キャピトル東急ホテルの美容室に二週間に一回通っている。 クレオパトラカットは若い頃からずっと変わらない。 服装は黒が多く、シンプルで目立たない。 気心の知れた女性たちと海外の有名レストランを食べ歩くほどのグルメだが、大衆食堂 のようなところもいとわない。 ワインに目がなく、横須賀の自宅にはワインセラーがある。 愛読誌はタカ派の「諸君!」で必ず目を通している。 何事も白黒をはっきりさせる。 口数は少なく無駄口は一切きかない。 理知的で冷たい感じがするが、大事な人への挨拶は欠かさない・・・。 ・信子は小泉政治にどれほどの影響力を及ぼしているか。 この点については、極端に評価が分かれている。 「信子と小泉では、比較するのが失礼なほど、信子の方が優秀だ。自衛隊のイラクは刑 を進言したのも信子だし、安く自神社参拝を強行させたのも信子だ。信子は小泉の政治 を決定的に左右している」というにわかには信じがたい証言もあれば、これとは正反対 に、「信子は小泉の身の回りの世話や、後援者の冠婚葬祭の手配をしているだけだ。 小泉を叱咤して政治の方向を決めているようなことなど絶対にありえない。好きなオペ ラや歌舞伎の話をする程度で、マスコミの過剰な信子評価は虚像と期待が入り混じった 完全な買いかぶりだ」という見方まであり、その評価は毀誉褒貶相半ばして、諸説入り 乱れている。 ・だが、前者の意見は、小泉の存在を意識的に疎んじている節が感じられるし、後者の意 見は、信子の存在を必要以上に軽視している。 両方の意見とも、その点で「ためにする」ニュアンスが強く、持ち上げるにせよ、貶め るにせよ、鵜呑みにすることは危険である。 ・小泉と信子の関係で、最も事実に近いように感じられたのは、小泉事務所の元秘書が匿 名を条件に語った次の証言である。 「政策はともかく、人気取りのパフォーマンスを吹向けた小泉の政治スタイルを決めて いるは、信子と見て間違いありません。けれど、所詮女ですから、その場その場の判断 をするだけで、先々の展開があるわけではない。小泉にブレーンがいないというけれど、 信子にも相談相手なんかいません。小泉も信子も似た者同士で引きこもっているから、 誰も周りに寄りつかないんです」 ・確実に言えるのは、小泉の政治的プレゼンスが、余人を排した密室の中で、姉と弟の二 人だけで謀られているらしいことである。 そこでどんなことが話し合われ、どんな決定がなされているかは、本人たちが口を開か ないかぎり、我われは知る術もない。 ・信子が謎めいて見える理由は、それだけではない。 信子の周辺には、見識の深さなりスケールの大きさなりを比較対象できる存在が全く見 当たらない。 それだからこそ、信子の像は限りなく巨大にも、また普通のオバサンと言いたくなるほ ど矮小にも映る。 マスコミの前に一切姿を見せないことが、信子の最大のマスコミ対策である。 それが、祖父以来三代の政治家一家をつないで支えるキャリアウーマンという「オーラ」 をいつまでも保持させている。 ・それと同時に、信子の神秘性と小泉との密室関係を極限まで高める源泉となっている。 小泉政治に誰もが感じるもどかしさの根源は、おそらく、姉弟の二人だけで築き上げた 奇妙な真空地帯ともいうべきその神秘性と密室性にある。 ・小泉純也は、防衛庁長官時代の昭和四十(1965)年、朝鮮半島に万一有事があった 際、自衛隊が出動できるかどうかの可能性を防衛庁内部で極秘に探った、いわゆる 「三矢研究」問題を暴露され、辞任に追い込まれたタカ派の代議士である。 ・小泉内閣を超人気内閣にする決定打となったのは、主婦の間に圧倒的支持層を持つ田中 真紀子を外務大臣に抜擢したことである。 その真紀子を外相から更迭すべきとの進言を小泉にしたのは、普段から満喜子のことを 快く思っていなかった信子だった。 そんなもっともらしいアングラ情報がある。 これも、永田町に一時根強く流れた信子「伝説」の一つである。 ・小泉はこれまで総裁選に三度挑戦している。 一度目は95年9月「橋本龍太郎」に挑んで惨敗し、二度目は98年7月「小渕恵三」、 「梶山静六」と争って再会を喫した。 田中真紀子が三人の候補者を称して、「凡人・軍人・変人」という名文句を残したのは、 このときである。 ・普選運動の闘士として庶民人気が高かった「小泉又次郎」は、「浜口雄幸」内閣と第二 次「若槻礼次郎」内閣の二度にわたって逓信大臣をつとめた。 小泉家二代目の純也も、防衛庁長官の経験者だから、純一郎の厚生大臣、郵政大臣の履 歴と合わせると、小泉家は三代続けて大臣を輩出し、最後は総理大臣の椅子まで射止め たことになる。 これほど輝かしい経歴を持つ政治家一家は、名門の鳩山家などを除けば他にあまり例が ない。 ・その最初のルーツとなった小泉又次郎が、入れ墨大臣という異名をとった鳶出身の男だ ったことはよく知られている。 又次郎の正妻は、綾部ナヲという横須賀生まれの女性である。 だがナヲとの間に子どもはなく、一粒種の芳江(純一郎の母親)を産んだのは石川ハツ という女性だった。 ・石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、三人の子を産んだ。 上の二人はすでに物故しているが、大正九(1920)年生まれの末娘が千葉県市川市 に在住していることがわかった。 この女性は、竹田綾子さんといい、小泉又次郎の血統をただひとり引く芳江の異父妹で ある。純一郎にとっては義理の叔母にあたる。 ・「ハツは富山県の滑川出身です。ハツの兄が家業の造り酒屋を嫌い、横須賀に出て仕出 し屋を開き、鳶の又次郎さんのところに出入りするようになったのが、母が又次郎さん のところ奉公するきっかけでした。その伯父が誰かいい小間使いはいないかね、と又次 郎さんから尋ねられて紹介したんだそうです」 ・又次郎さんとハツさんの間に生まれた芳江さんという方に会ったことがありますか。 「いいえ、ありません。そもそも芳江さんという名前を聞くのもいま初めてです」 ・つまり、あなたを産んだハツさんが、小泉総理の実の祖母であることも知らなかったん ですか。 「それも、いま初めて知りました」 ・ハツさんはその後、山口忠蔵さんという方を結婚します。どんな商売をしていた方なん ですか。 「御神輿などをつくる宮大工」でした」 ・宮大工というと又次郎さんの仕事とも重なります。そうするとハツさんは、又次郎さん の紹介で、山口という方と結婚したんですか。 「そうです。母からそう聞いています」 「又次郎さんの背中に入れ墨があったのは、母から聞いて知っています。風呂で背中を 流すのは母だけの仕事だったそうです。又次郎さんはとてもいい人だったというのも、 母の口癖でした」 ・ハツが又次郎の入れ墨を見たのは、風呂場だけではなかった。 又次郎との間に芳江という娘を産んだ以上、ハツは閨房のほの暗い明かりの下でも、 又次郎の彫物を、幾度となく目にしたはずである。 というより、身内からつきあげてくる快楽とともに、生涯忘れられない記憶として、自 分の体の奥深くまで刻み込んだはずである。 ・今は老女となった綾子さんが淡々と語る話は、人間につきまとう官能というものが、男 から女、親から子に、本人も気づかない暗がりの中で伝わっていくさまをまざまざと見 せつけているようで、そのせつなさ、いとおしさに痺れた。 それは、小泉家の複雑きわまる家系を知る上でも、興味尽きない話だった。 ・ハツが又次郎の許を離れて嫁いだ山口忠蔵なる男は、仕事の性質や入れ墨を彫っていた ことなどから考えて、又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。 だとすると又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山 口忠蔵にハツを「お下げ渡し」したのではないか。 又次郎と山口はいわば「入れ墨兄弟」の関係ではなかったか。 そんな想像が自然に働いた。 ・又次郎は生前、こんな意味深な述懐をしている。 「誰の腹でもいいから、自分の子供は持っておくものだね」 ・東京の目黒区内に、近藤壽子さんという大正七(1918)年生まれの女性がひとり暮 らしている。 彼女は又次郎の正妻の綾部ナヲのごく近い縁戚で、結婚前に箔をつけておいた方がいい という親類らのはからいで、又次郎の養女となった。 又次郎のことをおじさん、十一歳年上の芳江のことをお姉さんと呼ぶように、小泉家と はきわめて親密な関係にある。 彼女は、現存者のなかで小泉家のルーツをもっともよく知る女性だといってよい。 小泉総理の母、芳江さんの本当のお母さんのことはご存知でしたか。 「いま初めて聞きました。祖母たちは知っていたかもしれませんが、子どものわたしに わかるはずもありません。たぶん、小泉家の人たちも知らないと思います。 けれど、あの時代は宮内省のおエライさんでもお妾さんを何人も持っていたような時代 ですから、別段、珍しい話だとは思いませんね。もっとも、あれ(又次郎)は特別でし たけどね。ナヲさんとわたしの祖母が、いっしょに(又次郎の女性関係の)尻拭いして 歩くんです」 ・小泉が猥談を、それもとびきり下品な猥談を好んですることは政治部記者たちの間では よく知られている。 小泉と親しかった新橋の芸者が自殺したとき、小泉が一人号泣したという話も政治部記 者たちの間では伝説化している。 ・芳江さんが純也さんと結婚するときは大変だったそうですね。 「本当に大変だったんです。何しろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハン サム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なと ころから婿を欲しいと思っていたんでしょう。すごく反対して怒ってました」 ・芳江がのぼせ上った純也は、鹿児島の出身で、生家の鮫島家が事業に失敗したため上京 し、苦学しながら政治の道を志した。 芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長を務める林健民政党の事務員だった。 ・又次郎のところに出入りするうち二人は恋に落ち、東京・青山の同潤会アパートで同棲 を始めた。 若い頃の純也を知る松野頼三によれば、純也はデビューしたての北大路欣也によく似た 色っぽい美男子だったという。 ・駆け落ち後、許されて又次郎のもとへ戻った芳江と純也は三女二男をもうけた。 上から美智子、隆子、そして信子、純一郎、正也である。 ・上から三人が女という環境で育ったせいか、小泉が女性に優しく、よくもてたことは、 小泉の中高時代の同級生の安藤正宜も認めている。 「とにかく玄人筋の女性にもてるんだね。彼が自己紹介で『純潔の純、一発の一、女郎 の郎で純一郎です』とよく言っていたのを憶えているな」 ・この取材で横須賀方面を歩くうち、西大久保時代の小泉家で住み込みの女中をしていた という女性に、偶然、会うことができた。 「女中奉公したのは、昭和十四年から翌年まっでの二年間でした。 あの頃は、若先生(純也)も政治家でしたから、お客さんも多くで、女中さんも多いと きには五人いました。 でも、大先生(又次郎)は私たち女中に背中は絶対流させませんでした。 背中を流すのは娘の芳江さんだけでした。 大先生も若先生もたいへん優しく、使用人にとっては最高の家でした」 ・小泉家にはこの頃、又次郎の昔なじみの芸者だった松本寿々英という愛妾も頻繁に出入 りしていた。 又次郎の本妻のナヲは、すでに物故していたが、新橋の一流芸者出身の寿々英は、西大 久保の家に泊まることはなく、泊まるときは、又次郎のほうから寿々英が営む置屋に出 かけた。 ・戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあい、戦時中も白米にこと欠かなかった小泉 家の豊かな暮らし向きはたちまち傾いていった。 西大久保の家は、昭和二十年五月の大空襲で灰燼に帰し、虎の子の土地も純也が公職追 放された昭和二十四年に手放さざるを得なかった。 ・小泉家は古巣の金沢八景に移り住み、又次郎は生誕の地近くの陋屋で愛妾の寿々英に看 取られながら、公職追放解除となった昭和二十六(1951)年、八十六歳の生涯を閉 じた。 生活にいよいよ困窮した純也は、「八景運動具店」という、小さなスポーツショップを 蟄居する自宅近くに開いた。 ・そんな素人捷報が所詮うまくいくはずもなく、店はすぐにたたまれた。 この頃、信子は清泉女学院の中等部に進んでいた。 昭和十三(1938)年生まれの信子にとって、家の零落より、敗戦によって百八十度 価値観転換を強いられたことの方が、たぶんずっと身にこたえただろう。 戦前は皇国教育一辺倒の空気の中で育ち、戦後は一転してアメリカ直輸入の民主主義教 育を受けた信子は、戦前の教科書を墨で塗りつぶすことを強制された典型的な黒塗り世 代だった。 ・たとえ親族でも他人を容易に信じないという信子の懐疑的な性格は、この幼年期につく られたような気がする。 ・小泉の元秘書は、信子の人間嫌いとも思える性格は、長女の道子の結婚と破局に起因し て一層拍車がかかったという。 ・姉の道子が竹本公輔という慶応大学工学部出身の男と結婚したのは昭和三十年、信子が 十七歳のときだった。 竹本はいかにも慶応出身らしいプレイボーイ風のハンサムな男だったという。 芳江が面食いだったことは前にふれたが、小泉家の女性たちはどうやらイケメン好きの 血が脈々と受け継がれているようである。 ・小泉家の長女の道子と結婚して純也の義理の息子となった竹本は、可能性からいけば、 純也の跡を継いで政治家になったとしてもおかしくない立場にいた。 だが、純也とごく親しい関係にあった松野頼三に尋ねても、戻ってきたのは、 「道子さんは知っているが、披露宴に呼ばれていないなあ。大体、披露宴なんてやった のかい。竹本という男の名前もいまはじめて聞いた」 という。こちらのほうが首をひねりたくなる返答だった。 ・古くからの小泉後援者も、 「道子さんが結婚したことは知っているが、披露宴はやらなかったと思う。だから、竹 本という男が道子さんとそもそもどこで知り合い、どんな人間だったかは、まったくわ からない」 という。 ・これらの証言からは、道子と竹本の結婚が周囲から祝福されるような性質のものではな かったらしいことが、容易に推察される。 あるいは道子は、母親の芳江と同様、駆け落ち同然にして竹本と一緒になったのかもし れません。 ・道子と竹本との結婚生活は六年余りで終わった。 竹本公輔なる人物の存在は、離婚後も小泉家のタブー中のタブーとなっているらしく、 道子と別れてからの竹本の消息は、関係者のだれに尋ねても杳としてわからなかった。 ・竹本と道子のそもそもの馴れ初めや、竹本の氏素性だけでも突き止めようと思い、関係 者を訪ね歩くうち、竹本の義理の姉が東京の豊島区内に住んでいることがわかった。 ・その女性に、「義理の弟さんの竹本公輔さんについてお聞きしたいことがあるんですが」 と切り出すと、 「まだ生きているんですか。私はてっきり死んだとばかり思ってました。実は、私は公 輔さんという人には一度も会ったことがないんです。あの人は、愛人の子なんです。亡 くなった私の夫とは、母親が違うんです」 ・義理の兄嫁が語ったことによれば、竹本公輔の父親は竹本治三郎といい、戦前はかなり 名の知れた代議士だったという。 ・その後の調べで、竹本の母親が、昭和四十六(1971)年に他界するまで、縁戚にた る世田谷の家に身を寄せていたことがわかった。 そこを訪ね、来意を告げると、五十がらみの主婦が出てきた。 主婦の表情は、竹本公輔の名前を出したとたん、凍りついたようになった。 何を聞いても、「知りません。もう帰っていただけますか。うちは何も知りませんし、 関係ありません」の一点張りだった。 だが、緊張しきった顔や、必要以上に他人行儀な口ぶりから推察して、その主婦が竹本 について何かを知っていることは明らかだった。 ・竹本は昭和二十六(1951)年、慶応大学工学部の電気工学科を卒業している。 同窓生名簿を頼りに、動機の卒業生二十名近くにあたったが、はかばかしいことは答え はやはり返ってこなかった。 ・竹本の家を訪ねたことがあるという同級生がいた。 「竹本とは幼稚舎から一緒でしたが、あまり親しくはありませんでした。戦前に一、二 度、中目黒にあった彼の家に遊びに行ったことくらいのものです。家にはスチーム暖房 があって、金持ちなんだなあ、と思った記憶があります。お母さんは上品な人で、あと で愛人だと知りました。 卒業後は、国際電電に就職したらしいんですが、そこで競馬に狂ったか、何かをやらか したかで、クビになったらしいと聞いたことがあります。 会社を辞めてからは、渋谷の円山町に出入りして、よからぬことをしているらしいとい う噂を耳にしました」 ・同級生の話の中に、竹本の卒業後の就職先が国際電電と聞いたと証言があるが、これは 誤りである。 道子と竹本が結婚して二年後の昭和三十二年に発行された「人事興信録」の小泉純也の 頁に、こんな記述がある。 「長女・道子(清泉女学院大学部中退)は、竹本公輔(電電公社勤務)に嫁す」 ・竹本が慶応大学を卒業した昭和二十六年は、大変な就職難の時代だった。 竹本が卒業後すぐに日本を代表する大企業の電電公社に就職できたとすれば、その情報 は同級生の間にたちまちひろがったはずである。 それに、大学の授業にほとんど出なかったという竹本が、ストレートで電電公社に就職 できたとは常識的には考えにくい。 ・その後の取材で、竹本は慶応を卒業後、自動車のセールスマンを経たあと、電電公社に 入ったことがわかった。 慶応の同級生たちの取材で一番驚かされたのは、竹本が小泉の姉と結婚し、まもなく離 婚したという事実を、誰ひとりとして知らなかったことだった。 その事実を告げると、同級生たちは一様に目を丸くした。 ・道子と別れた竹本は、会社を辞めたあとよく出入りしていたといわれる渋谷区円山町に 近い神泉のアパートに移った。 おそらく、竹本は結婚生活の破局と相前後して、電電公社も辞め、離婚後、移転したア パートにほど近い円山町に出没するような生活を送ることになったのだろう。 この時代、競馬に狂ったことが、竹本の人生を転落させた、と証言する関係者もいた。 ・竹本が住んでいた神泉のアパートは、取り壊されてもうなかった。 近所に聞き込みをするうちに、そのアパートの様子をよく知る関係者を見つけることが できた。 「あれはすごく古いアパートでね。部屋は四畳半だったか、六畳だったか、とにかく一 間でね。小さな台所がついているだけで、トイレは共同だった。住んでいるのは独り者 が多かったね。会社員もいたとは思うけど、何をやっているのかよくわからない人間が 多かった。昼間からぶらぶらしてね」 ・道子との結婚生活がもし破綻していなかったなら、いま頃、小泉の後見役を任じながら、 悠々たる老後を送っていたかもしれない。 竹本が生きているなら、もう七十五歳に近い。 ・取材を続けているうち、道子が別れた竹本について口にした言葉を聞いた同級生に接触 することができた。 「御主人はたいへんな人だったようですね。かなり後になってから、クラスメイトから、 そう聞きました。その人の話では、御主人は飲む、打つ、買うの人だったそうです。 道子さん自身も、クラス会で、ほとんどそれに近いことを言っました」 ・竹本が本当にそういう人物だとすれば、離婚の原因は竹本側にある。 しかし、小泉の元秘書は、非はむしろ道子側にあるというニュアンスのことを口にした。 それは、夫婦間だけの秘密に属し、部外者には真偽の確かめようのない事柄だった。 そして、それがもし事実だったらとするなら、竹本を自暴自棄にさせてもおかしくない 出来事だった。 ・元秘書は、それは妹の信子にも強い衝撃となった。 それがきっかけで容易には他人を信じないくらい性格がつくられた、と言った。 「若い信子はそれが原因で、結婚生活にも男にも幻滅したんだ。信子が政治と”結婚” しようと決めたのは、あの時からだったと思う」 ・竹本については、小泉家にごく近い親族でさえ知らなかった。 ほんの限られた人間以外結婚のいきさつも知らないこの異様さは、外部には情報をいっ さい漏らさぬ厳重なかん口令が敷かれたことをうかがわせた。 この問題に限らず、小泉家の人々の警戒心は尋常ではなかった。 信子はいうに及ばず、道子、隆子、正也に至るまでの小泉姉弟は、ひとり残らず、取材 を拒否した。 ・それにしても竹本という男は、小泉家にとって絶対に表沙汰にしてはならない秘密でも かかえていたのだろうか。 そして何かにおびえたような信子の人間不信とひきこもりは、義兄の竹本問題が消しが たい記憶となって、彼女を強く自己規制する決定的なトラウマとなっているのではない か。想像はそんなところまでおよんだ。 ・その後、取材を重ねるうち、ついに竹本公輔の消息をつかむことができた。 関西方面に身を隠していた竹本候補と最初に接触できたのは、2005年3月はじめの ことだった。 竹本は道子と離婚後、転落の人生をたどり、日陰の裏街道を歩く落伍者の身となってい た。 ・そんな噂を耳にしていたので、世間に顔向けできない生活をしているのは予想しないこ ともなかった。 だが、かつての義弟の小泉が、「勝ち組」代表として最高権力の座にのぼりつめたこと を思うと、その境遇の余りの落差にうたた哀れを覚えた。 ・竹本はあたかも人生の「負け組」を象徴するかのように、この当時、窃盗罪で京都刑務 所に服役中だった。 小雪のちらつく京都刑務所を早朝に出所してきた狷介そうな老人を直撃すると、小泉の もと義兄の竹本であることを案外率直に認めた。 ・京都から大阪に向かう電車のなかや、降りてからの路上を歩きながら、竹本と一時間以 上会話をかわすことができた。 さすがに口数は少なかったが、それでも彼の境遇の一端は知ることができた。 ・竹本は小泉と最初にあったのは、小泉がまだ小学生のことだったこと、道子とは裁判所 の調停で離婚したことなどを、ポツリポツリと語った。 もう少し話を聞きたかったが、竹本は最後に私の追求を振り切り、大阪駅前・梅田の雑 踏の中に消えていった。 その後の消息は杳として知れなかった。 ・だが、それから約一か月半後の四月下旬、竹本は兵庫県宝塚市内でまたも盗みを働き、 現行犯で逮捕された。 竹本は世間に再び姿をさらう機会を、自らの方からつくったのである。 ・裁判は2005年9月、大阪地裁で開かれた竹本は常習累犯窃盗で懲役四年の実刑判決 (懲役三年)を受けていた。最初の刑務所入りから数えれば、これで十五犯目になる。 ・竹内が十五犯の前科を重ねながら、強盗はせず、せいぜいコソ泥程度の小遣い稼ぎしか やってこなかったのは、慶応大学出のせめてものプライドだったのだろうか。 ・竹本の父親の竹本治三郎は、ライオン宰相と呼ばれた「浜口雄幸」の私設秘書的立場に あった人物である。 竹本と小泉家の関係がはじまったのは、イレズミ大臣と異名をとった小泉又次郎と浜口 雄幸の政治的スポンサーというより政治ゴロ的立場にあった竹本治三郎の代からだった。 ・以下は、京都刑務所を出所した直後に直撃した竹本の話と、弁護士を通じて聴取した竹 本の談話をまとめたものである。 「昭和二十二年に親父が死んでからも、親父と親父があった小泉又次郎や娘婿の小泉純 也が家によく出入りしていた。 特に純也は月に一回は来た。 それで純也の横須賀の家にもよく行って、そこで道子と知り合った。 「純一郎はまだ小学生だった。私は兄貴のような立場だったから、彼とはよくキャッチ ボールをした。ピンポンも教えた。 純一郎にクラシック音楽の良さを教えたのも私だ。 家にはレコードがたくさんあったから、モーツアルトとかショパンとか女の子の好きそ うなものを持って小泉家に行った。それを聞きながら道子の気を引いていた」 「純一郎はマージャンがめちゃくちゃ強かった。まだ八つの頃だったが、腕前はもうプ ロ級だった。面子は、俺と純一郎と道子、それに妹の隆子ということが多かった。 病気の又次郎の面倒を見ていた愛人が入ることもあった」 ・「出入りしているうちに道子を好きになった。なかなかいい子だと思って」 「知り合ったときは、純也の秘書をしていた。選挙活動のときも街宣車に乗って演説し ていた。とても上手で堂に入っていた。道子は”官邸の女帝”といわれている妹の信子よ りもずっと政治家の秘書向きだった」 ・「離婚の理由は、私の母と道子の折り合いが悪かったのが最大の理由だ。東京の目黒に 自分の家があったのに、そこには母が一人で暮らし、私と妻は近くのアパートに住んだ のも、そのせいだ。そのため無駄な出費も多く、私の安月給では苦しい生活だった。 妻は子どもができると、赤ん坊の世話を私の母に押し付け、純也の第二秘書をするよう になった。収入は私より多く、それがまた母の気に入らずケンカのタネになった。 離婚の直接の原因は、昭和三十三年、私が秋谷一カ月ほど長期出張中、妻が二歳の赤ん 坊を連れて実家に帰ってしまったことだ。それから数年、妻との別居生活が続き、最後 には家裁の調停で離婚が成立した。子どもの籍は妻側に入った。慰謝料はお互いになか った」」 ・「離婚後の生活は、荒れに荒れた。ひとり娘を向こうにとられたのが、とくにこたえた。 坂を転げるように転落していった。あの当時は競馬にはまって、中山から川崎、大井ま で行った」 ・娘に会いたいと言って、横須賀の小泉家を訪ねると、純也さんと奥さんの芳江さんが出 てきた。会わせてほしいと頼んだが、政治家一家にギャンブルをやるようなやつはいら ない、という感じだった」 ・「頭をさげて就職の世話を頼みに行ったこともある。けど門前払いだった。使用人のよ うな人にほうきをもって追いかけられた」 ・竹本と道子の間に生まれたひとり娘の純子は、両親の離婚に際して小泉家側に引き取ら れた。 道子はなぜか、純子を自分の籍に入れず、小泉の名を絶やさないためなのか、それとも 女系の血がなせるわざなんか、昭和二十七年(1952)年に改進党の議員として政界 復帰していた純也の籍に入れ、父の養女とした。 ・小泉家のある親族によれば、道子が娘の純子を自分の籍に入れず、父・純也の籍に入れ たのは、再婚を考えてのことではなかったのかという。 だが、道子は現実には、離婚後、ずっと独身をつづけた。 ・これにより本来、純也にとって初孫であったはずの純子は、純一郎、正也に次ぐ一番下 の娘扱いとなった。 純子はその後、同じ東海大学出身で、運動員として小泉家に出入りしていた鍋倉正樹と 結婚した。 その鍋倉は現在、公設秘書として議員会館と、正也が仕切る横須賀の小泉事務所を行き 来している。 また純子は、横須賀から東五反田の首相仮公邸に通って、小泉の身の回りの世話をあれ これとやっている。 ・小泉家にごく近い関係者によれば、純子は、すべてビジネスライクで料理などほとん ど作らない信子とは正反対の、世話女房タイプだという。 「純子はおっとりした非常に女らしい女性です。自分では絶対に表に立たないで、献身 的に人の世話をする。パーティなどの席で、バイキング料理を小皿に取り分け、参加者 に配って回るのが純子です。そんなふうにかいがいしく働いている純子を、後ろで黙っ てみているのが信子です」 ・小泉にとって、信子と純子は系図的には姉と妹、実際には姉と姪にあたる。 その近親女性二人に囲まれ、世間の波風の辛さをほとんど知らずに、ぬくぬくと育った 小泉は、女系の繭に大切にくるまれた小泉家の正嫡の貴公子そのままだといってよい。 ・それは、雑事に煩わされることなく、政治の世界に一意専心させたいという姉としての 思いやりだったとも言える。 ・だが、政治とは、ある種「雑事」の集約である。 それにぶつかり、問題をさばいていくところに、政治家としての成長がある。 小泉の人間的軽さや、人情味のなさは、生得的なものでもあろうが、信子らの過保護に よって育まれた面もあることは否定できない。 ・入れ墨大臣からタカ派の防衛庁長官、そして「変人」宰相にいたる小泉家の男の系譜は、 一見個性的に見える。 だが、小泉家の男たちは「家業」の政治を順当に継承していただけで、存在感や内に秘 めたパトスを比較するなら、彼らを支えた小泉家の女たちの方がはるかに個性的な生き 方をしてきたとも言える。 ・こんな臆面もないことを言う元秘書もいた。 「小泉家では、純也先生はあくまで養子なんです。いうなれば、”鹿児島の種馬”なん です」 「だから、小泉純一郎は”又次郎の孫”であって、”純也の長男”ではないんです。 ・代々、小泉家を応援してきた地元横須賀のある財界人によれば、昭和四十四(1969) 年に純也が死んだとき、それまで小泉陣営を支持してきた市議、県議らはこぞってライ バル候補の「田川誠一」陣営に走ったという。 ・他人はいいときだけ集まるが、候補者が死ぬと、たちまち手の平を返す。 信子が自陣営の要職を小泉家の身内だけで固めようと決意したのは、そのときの裏切り を目の当たりにした体験が、人間不信の消せない記憶となって、体のどこかに強く刻み 込まれたせいもあったかもしれない。 ・信子に同情して言うなら、お嬢さん学校を出たばかりの世間を全く知らない十八の娘が、 そのまま海千山千の政治の世界に飛び込まざるを得なかったところに、信子のそもそも の不幸があった。 小泉家のそうした特殊な環境が、彼女から女の幸福を遠ざけ、孤独に沈みがちな女性に していった。 「女帝」と言われる信子こそ、小泉家の最大の犠牲者だったとも言える。 ・初代又次郎は石川ハツに一人娘を産ませ、自分の籍に入れた。 芳江は養子に入った純也を「種馬」として、三女二男を産む。 その長女の道子は竹本と別れて小泉家に戻り、娘の純子を純也の養子にする。 そして独身を貫いた三女の信子と、純也の養女になった純子が、純一郎の身の回りを世 話し、純子の夫までも秘書として取り込む。 ・複雑に入り組んだ小泉家の女系の歴史は、インナーサークルへの旺盛で執拗な男系の取 り込みを感じさせて圧倒される。 その軌跡は、必要なものさえ取り入れたらあとの異物は容赦なく吐き出す原生動物のア メーバーじみた種の保存本能を想起させて、不気味ですらある。 ・こうした流れのなかでは、芳江の夫の純也にしろ、道子と結婚して別れた竹本にしろ、 小泉家の血を保持するDNAがはじめから埋め込まれた女王蜂のいうがままに仕える働 き蜂の役割しか与えられていなかったようにも見える。 ・小泉家の「種馬」でしかなかった純也は、晩年。世捨て人が凝るような石の趣味に走っ た。 純也は石を撫でながら、側近によく言った。 「石を撫でていると、癒されるんだ。どうしてこんな形になったのかを考えると、心が 落ち着くんだ」 ・純也をよく知る小泉家のある親族によれば、純也は晩年、芳江の目を盗んで銀座の美人 ママと深い仲になったという。 「愛人のことは芳江さんも知っていたと思います。ママはふっくらとした美人で、小学 校六年生の娘もいました。とても可愛い子でした。その娘は、いま、銀座でバーをやっ ているそうです。純也の娘だという噂もありましたが、本当かどうかはわかりません」 ・その親族は小泉家の冷血ぶりを具体的な例をあげて言った。 「あの家では、小泉の血を純粋に継ぐものでない限り、徹底的に排除されます。 (横須賀)三春町の小泉家を守る道子さんは、純也の実家である鮫島家の者が挨拶に行 っても家にもあげません。まるでクリーニング屋か、物売りのセールスマンでも来たよ うな扱いをするんです。ぞっとするほど冷たい家です。 道子さんと信子さんは芳江さんの血を濃く受け継いでいます。 芳江さんは体形はふっくらしていましたが、きつい性格で、好き嫌いが激しく、一度逆 鱗に触れたら、二度と許しませんでした。 二人を見ていると、芳江さんの背後霊が憑いている感じさえします。 三人姉妹のなかで、ごく普通なのは通産省の高級官僚だった「豊島(格)」さんと結婚 した次女の隆子さんだけです」 ・別の親族によれば、豊島には政界入りの話もあったが、妻の隆子はこれに断固反対した という。 活発で子どもの頃、芳江に蔵に閉じ込められた隆子だけが三人姉妹のなかで皮肉なこと に、ひとり小泉家の強烈なインナーサークル運動から一歩身を引き、世間の常識とあま り外れない生き方をしている。 ・三人姉妹は進んだ学校もちがう。 道子と信子が、おそらくは両親のいうことをよく聞いてお嬢様学校と言われた清泉女学 院に進んだのとは対照的に、隆子は当時からトンでる校風で知られた女子美大に進んだ。 ・若い頃、活発だった隆子が高級官僚に嫁いで堅実な結婚生活に入ったのに対し、結婚に 敗れた道子と独身を続ける信子は、一時期、道子はお茶、信子はフラワーアレンジメン トを近所の主婦たちに教えて苦しい生活を支えた。 これも小泉家の「家風」を守った挙系らしい暮らしのしのぎ方だったといえる。 ・昭和五十三年(1978)年、小泉は、エスエス製薬創業者の孫娘で、当時、まだ青山 学院に通っていた女子大生の「宮本佳代子」と結婚した。 仲人は、当時、総理大臣だった「福田赳夫」だった。 現職の総理大臣が仲人をつとめるのは極めて異例のことだったが、小泉のたっての願い で実現した。 ・二人の間には三人の男児が生まれたが、結婚から四年後、早くも破局を迎えた。 宮本佳代子の近親は、離婚後、佳代子自身の口からこんな話を聞いている。 「信子さんという人は、笑顔がまったくでない人だった。信子さんは選挙のとき、夫婦 二人の部屋に勝手に入って来て、腹ばいになって後援会関係者に電話をかけていた」 ・この関係者によれば、離婚話の最終局面で佳代子が「私をとるか、家族をとるか、どっ ちなの」と小泉に詰め寄ると、こいずみは「僕は姉たちがいなかったら政治家としてや っていけない」と答えたという。 ・「小泉さんは仲人の福田さんにも何の相談もせず、離婚を決めたそうです。あとで福田 さんが「なぜ、ぼくに相談してくれなかったんだ」と、小泉さんをひどく叱りつけたそ うです」 ・この近親者は、小泉家のなかには、ただでさえ陰湿になりがちな女系家族の人間関係を さらに歪め、その結果、修復不可能な関係とさせる要因もあったと語る。 「小泉家の女中は、あの家の家風を反映して、二重スパイのような陰険な女でした。 嫁の佳代子さんに小姑の道子や信子の悪口をこっそり吹き込んだかと思えば、佳代子さ んのいない所では、小泉家の女たちに佳代子さんについてあることないこと告げ口をし ていた。板挟みになった佳代子さんが悩みを小泉さんに相談しようにも、小泉さんはほ とんど東京に行ったきりで家にはいない。もう誰も信じられず、ストレスばかりがたま っていった。佳代子さんは、そんな小泉家の空気にいたたまれなくなって、ついに離婚 を決意したんです。」 ・この離婚で、何人かの秘書が小泉のもとを去った。 そのひとりに辞職の理由を尋ねると、 「小さな家さえ守れないヤツに、天下国家を守れるわけがない」と切って捨てるように 言った。 ・小泉家の血へ強いこだわりは、純一郎の離婚後、新権を巡って妻側と激しく対立したわ が子の争奪戦にも現れている。 元妻の宮本佳代子とごく親しい関係者によれば、小泉家は長男の孝太郎、二男の進次郎 の親権をとっただけではまだ満足できなかったという。 「妊娠六ヶ月で離婚された佳代子さんが一人で三男の佳長くんを産むと、小泉側は親権 を主張し、家裁での調停に持ち込まれた。その結果、ようやく佳代子さんが佳長くんを 引き取ることができたんです」 皮肉にも、小泉家に残った二人は佳代子似、佳代子が引き取った三男は小泉似だという。 ・すべて血族で固め、他人は絶対入り込めない小泉陣営の異常な布陣は、小泉家が三代に わたって政治を「家業」としてきたゆえんでもあろう。 そのなかで唯一例外的存在と言ってもいい総理大臣秘書官の飯島にしても、メディア対 策をすべて任されているとはいえ、小泉家の「奥の院」は絶対にのぞき込めない立場で ある。 飯島はいわば、「奥の院」を背にして、そこに侵入しそうな輩を見張る忠実で屈強な番 兵でしかない。 ・信子と親しい政治ジャーナリストは、「小泉のロンドン留学を発案したのは私」という 言葉を信子自身の口から聞いている。 小泉のロンドン留学というのは、慶応大学の経済学部を卒業した昭和四十二(1967) 年7月から、父親の純也の訃報を聞いて急遽帰国した四十四年八月までの約二年間、 ロンドンのユニバーシティカレッジに通っていたことを指している。 ・だが、新旧二人の元秘書は、小泉がロンドンに行ったのは横須賀にいられなくなった事 情があったからだと異口同音に語った。 ひとりの秘書は「その理由については私の口からは言えない」という謎めいた言葉だけ を残して、あとは口をつぐんだ。 ・あるミニコミ誌が小泉のロンドン中学の裏にスキャンダラスな事件があったことをほの めかす記事を掲載し、それを材料に、2004年6月、民主党の議員が国会質問で取り 上げたこともあった。 ・元秘書たちが言ったことの真偽のほどは定かではない。 しかし、代議士になるかなり以前から、信子が小泉を海外に留学させてまで、一人前の 政治家に育て上げようとしていたことだけは確かである。 血の結束というDNAの衝動突き動かされた信子の弟への強い庇護感情は、小泉を雑事 の煩わしさから解放すると同時に、その余のことはすべてよきにはからえ式の、ある意 味無敵とも言える小泉流の政治スタイルを生んだ。 ・独身を貫いた信子は、ある種の昆虫のように、自分の夢を女系の繭のなかの弟・純一郎 に産みつけたのではないか。 その夢は綜理誕生となって実現した。 信子は小泉の秘書や姉という以上に、「母」であり「妻」ではなかったか。 ・暗い土中の穴に閉じこもり、ひたすら生殖活動に励む寡黙な女王蜂を連想させる信子を 見ていると、そんなあらぬ妄想にも駆られる。 その仕事が信子の最大の使命だったとすれば、小泉家には四代目の政治家はもう必要な いことになる。 信子は小泉家に対する仕事を艦褻気にやり遂げた。 誰が「小泉純一郎」を殺したか (参院選を乗り切った惟敬の政権を待ち受ける「躓きの石」) ・「政権交代」を占うといわれた参議院議員選挙が行われた当日の2004年7月10日、 小泉純一郎は朝から上機嫌だった。 官邸詰めの記者たちは、苦戦は予想されるものの、最後の追い上げで目標の50議席は 超えると踏んだのではないか、と感じた。 ・ところが、その夜公邸を出て自民党本部に向かう小泉の表情は、昼間とは別人のようだ った。自民党の劣勢は、この時点ですでにはっきりしていた。 進退問題を尋ねられた小泉は、大きな身ぶりで「関係ない」と吐き捨てるように言い、 車に乗り込んだ。 ・イラクへの派兵と年金問題が小泉人気凋落の最大要因、というのが、マスコミのもっぱ らの論調だった。 だが、私の見方は少し違う。悪役の不在が、今回の参院選の一番の敗因ではなかったか。 ・小泉が構造改革路線をふりかざして登場したとき、その行く手を阻む勢力にはこと欠か なかった。 マスコミによって「抵抗勢力」と名づけられた彼ら悪相の男たちは小泉の格好の敵役だ った。 見るからに悪代官ふうな男たちが揃っていたからこそ、小泉の紙芝居なみの勧善懲悪劇 は大衆の喝さいを面白いように浴びた。 ・しかし、今回の参院選の舞台には、かつてのように闘うべき相手は見当たらず、 「人生いろいろ」に代表される小泉の空疎な台詞だけが浮き上がる結果となった。 ・小泉は総理になるまで、権力とはもっとも離れたところにいた男である。 それが一匹狼の強みとなって、自分も属してきた自民党の負の歴史をまるで他人事のよ うに批判できる魅力となっていた。 だが、権力とは遠く離れていたがゆえに、権力の恐ろしさへの免疫力が元来弱く、権力 ボケになるのも想像以上に早かったともいえる。 ・小泉が国民の間に圧倒的人気を博した最大の理由は、あくまで自己原則に固執し、絶対 に妥協を許さない政治姿勢を見せつけた点にある。 こうした小泉の政治スタイルが、状況全体の「潮目」を読みながら、寝技と談合を重ね て政治的決着に持っていく伝統的な自民党の政治手法を一挙に時代遅れのものとみなさ せ、そうした手法にいまだこだわる政治家に対し、二十一世紀には生き残れない古いタ イプの政治家というイメージを付着させていった。 ・その象徴的存在が、政界一の剛腕の持ち主と恐れられた「野中広務」だった。 野中は2003年9月の総裁選で打倒小泉に執念を燃やしながら同じ派閥の「青木幹雄」 や「村岡兼造」らの離反で一敗地にまみれ、「もう永田町にはオレの居場所はなくなっ た」という万感こもったひと言を残して、政界から立ち去っていった。 ・内閣発足後から約一ヵ月後、小泉は国民的人気を決定づける決断を早くも下した。 ハンセン病訴訟問題で控訴断念を発表したとき、小泉への期待感は最高潮に達した。 その熱気がさめやらないうち、夏場所で優秀した貴乃花に優勝賜杯を渡しながら、 「痛みに耐えてよく頑張った。感動した」 と絶叫したとき、小泉人気は不動のものになった。それが一般的な見方だった。 ・だが、土俵の上で一人興奮してエキセントリックに叫ぶ姿をテレビで見たとき、私はマ スコミが手放しでもち上げる小泉人気に、少なからぬ疑念と違和感をもった。 小泉という男の頭の中にあるのは、国民人気取りへの執心だけではなかったのか。 この男は、言葉というものをいったん自分の脳髄にろ過させ、それから言語として発す るという政治家としてもっとも重要な基礎訓練を一度も受けてこなかったのではないか。 そんな印象を強く抱かされた。 ・「構造改革なくして景気回復なし」という何度聞かされたか7わからないスローガンに しても、胸に突き刺さる「言葉」というより、耳当たりがいいだけの「記号」のように しか聞こえなかった。 ・総理秘書官の飯島勲は、これまで御法度だった飢者のぶら下がり会見の放映を解禁し、 小泉のテレビ露出度を飛躍的にあげた陰の仕掛人である。 小泉のメディア対策はすべて飯島ひとりでやったと言ってもよく、その意味で、小泉内 閣最大の功労者と言っても過言ではなかった。 ・信子の秘密主義も尋常ではない。父・小泉純也の秘書となって以来半世紀近く、小泉の 勧告で2003年10月に政界を引退させられた「中曽根康弘」や「宮澤喜一」に匹敵 するほどの永田町の長期住人でありながら、信子はこれまで一度もマスコミに登場した ことがない。 ・信子はすべては弟のためにとばかり、結婚もあきらめ、三代続いた小泉家の「家業」の 政治に七十歳近くまで献身してきた。 その姿は、小泉家の被害者という悲劇のヒロインイメージより、小泉家の血に対する女 系ならではの強いこだわりを感じさせた。 もっというなら、親族以外の他人を絶対に容喙させないインナーサークルへの異様なま での引きこもりを想像させた。 ・彼らはいずれも、集団のなかでうまく折り合いをつけて個を発揮するという政治の世界 を生きていく上でなくてはならないスキルが決定的に欠けていた。 ある意味で、最も政治的でない資質をもったその三人が、たとえ一時的にせよ結束した ことが、皮肉にも、沈滞しきった政治の世界に爆発的な破壊力をもたらした。 それが小泉の異常な人気に対する私の掛け値なしの評価だった。 ・真紀子の更迭で、小泉の支持率はピーク時の半分近くまで下がった。 2002年9月の突然の北朝鮮訪問は、その人気挽回のための乾坤一擲の大勝負だった とも言える。 ・人気に翳りが見え始める。 それを回復するため、鬼面人を驚かすようなパフォーマンスで耳目を集める。 突き放していうなら、小泉の三年四カ月の政治は、そうしたポピュリズム政治の繰り返 しだったといってもよい。 その手法自体が陳腐化し、耐用年限が切れはじめた。 もっと直截に表現するなら、小泉のまわりに付着していたメッキがはがされ、本質が露 呈しはじめた。 ・小泉政権について詳しい経済ジャーナリストの須田慎一郎氏は、小泉政権はこれまで四 つの要素によって支えられてきたという。 「支持率、アメリカ、マスコミ、財務省の四つです。今度の参院選ではその四つのうち、 支持率とマスコミの支えを失った。圧倒的な支持率も、持ち上げてくれるマスコミもな くなったいま、残るアメリカと財務省だけは、絶対に味方につけておかなければならな い。それが参院選後の小泉政権の正直な実態です」 ・窮地に立たされた小泉は、これまで以上にアメリカに擦り寄って完全に泥沼に入ったイ ラクに自衛隊を次々と派遣し、財務省の意向にそった三位一体の改革と年金一本化の二 つを何としても実現していくほかないだろう。 ・これまで直面した難局をどうにか切り抜け、小泉内閣を手堅くまとめてきた官房長官の 福田康夫を失ったことも、小泉の人気凋落に拍車をかけた。 官邸担当のある政治部記者はいう。 「小泉総理は自分に言いたいことだけ言って、こちらの質問にはほとんど答えません。 ただ、自分の言いたいことをどこか誠実そうな態度で言うものだから、国民は何だか有 り難いことを言っているように錯覚してしまう。 あの人が法案や政策をきちんと理解しているとは思えません。 その分、福田さんがしっかり手綱をおさえていた。 首相が何か失言をすれば、すぐに会見でフォローして、よくも悪くも記者を煙に巻く対 応で困難な局面を乗り切ってきた。 それが福田さんが辞めてからは、総理の理解不能な発言がそのまま立て流されるように なった」 ・福田が年金未納問題であっさり辞任した背景には、実は、官邸内で北朝鮮拉致被害者家 族問題をめぐる激しい確執関係があった。 この話は今や、政治部記者の間では公然の秘密となっている。 ・北朝鮮から帰国した五人の処遇をめぐり、五人をいったん帰そうとする外務省と、これ に反対する安倍晋三が対立したとき、外務省と同じ意見の福田が口をはさもうとする前 に、小泉が安倍の意見に沿った裁定をしてしまうという一幕があった。 この一件以来、小泉と福田の間には冷ややかな空気が流れるようになった。 ・小泉政権の軌跡は、ひたすら人を使い捨てて言った歴史だったといってもよい。 自民党幹事長として政権を支え、浪人中の身で北朝鮮再訪の梅雨払いまでした「山崎拓」 とも「音信不通」というところに、小泉のドライな人間観を見ることができる。 ・小泉内閣の金看板だった道路公団の民営化では、前代未聞の「今井敬」民営化推進委員 会委員長の辞任まで至った・ このときも、小泉総理は自ら任命した委員長を見殺しにした。 ある道路公団改革関係者はいう。 「今井委員長は一貫して、『国会を通らない案では意味がない』としゅちょうしてきま した。これは明らかに官邸の意を汲んでのことです。しかし、最後の最後になって、 小泉首相は『意見書は国会を通るかどうか考えなくてもいい』とコメントしました。 このひと言で、今井さんのやってきたことは全否定されたんです。 私は今井さんとは意見が違いましたが、今井さんに対するひどい仕打ちを見て小泉さん という人は改革など絶対にできない、と思いました。改革すれば、当然、切られる人が 出てきます。その手当てを含めての改革なんです。しかし、小泉さんにはそうした姿勢 がまったくなかった。すべてが、その場限りの付き合いなんです」 ・「小泉さんの手法はよく”ワンフレーズ政治”といわれますが、ワンフレーズというの は、いろいろな思い、思考過程を煮詰めて、これしかないという一語にしたものでしょ う。けれど小泉さんの場合は、”カタコト政治”だと思います。あの人のワンフレーズ の後ろには何もありません」 ・思考過程が伴わない、というのが言い過ぎながら、思考過程を示さない小泉の「カタコ ト政治」の蔓延は、一度立ち止まって物事をじっくり考える習慣まで日本人の間から奪 いつつある。 小泉政権誕生以来、眼の前の時間がたちまち過去に取り込まれ、何の痕跡も残さないド ッグイヤーの流れがますます加速していると感じているのは、私だけだろうか。 ・道路公団民営化推進委員長代理をつとめた「田中一昭」氏も、小泉への憤懣をぶちまけ る。 「小泉さんは、あることを成し遂げる、ということより、”抵抗勢力”と戦っている姿を 国民に見せる、ということの方がいつも力点がかかっていた。最近のベストセラー小説 じゃありませんが、たったひとり“官庁のてんぺんで改革を叫ぶ”だけの人だったんじゃ ないでしょうか。 ものごとをはっきり言いきって、しかもあとで取り消さないというのは、一喜一憂しな い男らしい男と思われて、女性にはもてるんでしょうね。困難な政治課題をどう実現す るかをまともな神経で考えようとする人の目には”信用ならない人間”と映るはずなんで すが・・・ 小泉首相の最大の罪は、”民営化””構造改革”という歴史的な政策の価値を暴落させたこ とです。 国民が改革というものにすっかり幻滅してしまった。その罪は計り知れないほど大きい」 ・道路公団改革に失望した田中氏は、松田昌士JR東日本会長とともに委員を辞した。 辞任を告げられた小泉は、自身のいたらなさを省みるどころか、「田中さんは小泉改革 に反対なんじゃないか」と憮然として言い放ったという。 ・常に敵を作り続けることで政権を延命させてきた小泉は、ついには、「北朝鮮による拉 致被害者家族連絡会」(以下、家族会)さえ「悪役」に仕立て上げる離れ業までやって のけた。 ・2004年5月に行われた二回目の訪朝後、小泉は家族会との会見で予定になかったテ レビ撮影を急遽許可した。 あるベテラン政治部記者によれば、これまで家族会との接触を一切拒否してきた小泉が、 急遽テレビ会見することになったのは、小泉なりの冷徹な世論捜査の計算があったから だという。 「家族会として見れば、拉致問題が解決していないのに二十五万トンもの食糧を北朝鮮 に送るというのは、到底受け入れられない話です。彼らが怒り心頭に発していることは、 小泉も帰国前からわかっていた。もしそのまま放置しておけば、家族会は大きな声でず っと小泉を非難することになる。小泉はその機先を制して家族会と会い、その一部始終 をテレビカメラにおさめさせたんです」 ・案の定、小泉は家族会の囂々たる批判の声にさらされた。 だが、結果的に、狙い通り、逆に「家族会はわがまま」という世論が形成されていった。 マスコミ操作に長けた小泉はメディアジャックをすることで、拉致被害者家族の声を封 じ込めることに成功したといえる。 ・こうしたマスコミ操作のパフォーマンスこそ、小泉のもっとも得意とするところである。 そして、そこには恒に飯島秘書官の巨体が見え隠れする。 とりわけ、飯島と最悪の関係だった官房長官の福田が官邸を去ってからというものは、 飯島の傍若無人なふるまいは、誰の目にもあまるようになった。 それに比例して、いかがわしげな連中との交際も頻繁に報じられるようになった。 ・飯島は2004年5月の二回目の訪朝で、小泉、外務省の「田中均」外務審議官、 「藪中三十二」アジア大洋州局長につづき、首相や政府高官をおしのける堂々たる押し 出しで、「金正恩」と握手までしてのけた。 テレビを通じて全国に映し出された飯島の姿は、もはや黒子に徹したころの片鱗すらな く、むきだしの権勢欲だけが露出した。 ・二回目の小泉訪朝実現の裏に、飯島と朝鮮総連副議長「許宗萬」との秘密裡の事前打ち 合わせがあったという話は、北朝鮮事情通の間ではよく知られている。 再訪朝後、小泉が朝鮮総連の全国大会に日本の首相として初めて祝福のメッセージを送 ったのも、飯島ー許ラインの太いパイプがあったからだといわれる。 ・家族の数だけ傘が買えない極貧の家族に育ち、知的障害を持つ姉弟を抱えながら総理秘 書官の椅子にまで上り詰めた飯島の最大の武器は、その苛酷な出自から来る世情に通じ たメディア対策だった。 ハンセン病訴訟の控訴断念で見せたその鮮やかな手法は、小泉人気を決定づけた。 ・だが、小泉政権が長期化するにつれ、人心をしっかりつかんできたはずの飯島の気持ち は下々の心情とはかけ離れ、今や権力者を陰で操るラスプーチンの姿に自己投影する巨 体の怪人になりつつある。 ・2003年の自殺者が三万四千人以上にのぼることが明らかになった。 これは自殺者の統計を取り始めた1978年以降で最悪の数字である。 小泉内閣が発足した2001年4月以来、自殺者の数は急カーブを描いて上昇している。 とりわけ見逃せないのは、経済苦、生活苦を理由にした中年以上の自殺者の増大である。 ・小泉政権は、大多数の国民から歓呼の声をもって迎えられた。 しかし、小泉内閣発足後の自殺者の急増に象徴されるように、いま国民の間に広がるの は、先行きのまったく見えない漠然たる不安だけである。 それでもまだ小泉は自分の命脈を保つために、空疎な言葉と内容の伴わない改革案を連 発し、国民を奈落の底まで道連れにするつもりなのだろうか。 ・小泉は「散り際の美学」にこだわる男といわれる。 だが、いまの国民の目に映るのは美学どころか、権力の座に恋々とする姿だけである。 それは「散り際の美学」にこだわる小泉をたしなめ、総裁選への意欲をかきたてた信子 の姿とも重なる。 ・小泉ほど幸運に恵まれてきた宰相は珍しい。 支持率が落ちると、それを回復させる神風が必ずやってきた。 その幸運をいいことに、小泉はこの三年間、言葉だけを弄んできたとは言えないか。 小泉の現在の苦境は、自ら発したその言葉に逆襲されている姿である。 小泉の退場はカウントダウンに入った。 あとがき ・歴代総理のなかで、小泉ほどありとあらゆる問題に首を突っ込みながら、どれもこれも 中途半端な結果で投げ出した宰相はいない。すべての出来 小泉にもしマジックがあるとするなら、すべての出来事をたちまち風化させて、新しい イベントに次つぎに飛びつかせる風潮を国民の間に醸成したことくらいのものかもしれ ない。 ・小泉内閣の異常とも思える高い支持率が、内閣発足時、外相に就任した田中真紀子の人 気に会ったことをおぼえている人は、案外少ない。 われわれ日本人はいま、大いなる健忘症の時代に生きているのではないか。 そして気がつくと、とうとうこんなところまで来てしまったという思いに今さらながら 襲われ、呆然と立ちつくしているのがいつわざる事実なのではないか。 ・小泉政権の盛衰には、参院の人物が深くからんでいる。 三人の人物とは、元外相の田中真紀子であり、総理秘書官の飯島勲であり、そして小泉 事務所の金庫番といわれる実姉の小泉信子である。 三人はそれぞれ、濃厚な血脈の宿命を帯びた「異形」さを共通していまとっている。 ・小泉という人物を、「因数分解」すれば、その個性的人気を背景に、「ワイドショー政 治」といわれた大衆受けをするパフォーマンスをつづけながら、異形なほどの孤独癖に 包まれて、その正体は実は誰にもよくわからない人物ということになろう。 真紀子、飯島、信子の三人は、おのおの小泉が持っているこうした特性の分身となって いる。 ・小泉人気は、主婦層を中心にした国民的といってもいいほどの田中真紀子ブームに負う ところが大きかった。 人身の襞にまで入り込む周到なメディア操縦術は、その苛酷な出自ゆえ深く世情に通じ た飯島勲がいなければ成り立ちえなかった。 そして、誰に対しても胸襟を開かないといわれる小泉政治の密室性は、姉・信子に代表 される小泉家の女系の歴史と底流でつながっている。 ・2006年4月、小泉の総理在任は期間は五年を超えた。 2005年9月に行われた解散総選挙で、小泉自民党は二百九十六議席という歴史的な 大勝利をおさめた。 このとき日本の全マスコミは、”小泉マジック”の勝利という大合唱で沸き立った。 そこには、政権政党に対する批判的見地はこれっぽっちもなかった。 ・誰が郵政民営化問題で衆議院を解散することを予想しただろうか。 それを果断に実行した小泉は現代の織田信長だ。 こうした手放しの賛辞だけが飛び交う状況を眺めながら、私は小泉は日本のジャーナリ ズムをついに自殺に追い込んだと思った。 ・将来の日本人が二十一世紀初頭の政権を担った小泉純一郎の治世を振り返ったとき、 必ずやあのとき日本は危険な曲がり角への舵を最初に切ったと後悔とともに思い返すこ とになるだろう。 ・「勝ち組」と「負け組」を容赦なく選別する格差拡大社会に歯止めをかけるどころか、 むしろ拍車をかける政策は、年間三万人の自殺者を出す異常事態を生んだ。 三万人という数字は、六千人あまりの死者を出した阪神淡路大震災が年五回おきている 勘定である。 これはどんなに強弁しようとも、明らかに社会の底が抜け始めた証拠である。 |