憲法の無意識 :柄谷行人

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「戦争の放棄」を謳った日本国憲法九条は、占領軍から押し付けられたと言われているが、
その押し付けられたものが、70年以上も変えられず守られてきたのは、単純に戦争の反
省から意識的に守られてきたというのではなく、それは「無意識」に守られてきたのだと
いう。もし、意識的に守られたのであれば、もうとっくに変えられていたのだと。そして、
憲法九条は日本人の集団的な超自我であり「文化」のようなものである、と筆者は考えて
いる。
さらには、マッカーサーに戦争放棄を提案したのは、当時の幣原首相だったいわれている。
アメリカから押しつけられたといわれる日本国憲法であるが、その内容には日本側から提
案されたのもいくつかあるのだ。もし、アメリカからの強制がなかったら、今のような日
本国憲法にはしなかっただろう。それはきわめて明治憲法に近いものになっていただろう。
改憲派の人々の中には、今の憲法はアメリカから押し付けられたものであり日本自らつく
ったものではないから、今の憲法は破棄して明治憲法に戻すべきだと主張する人々もいる
が、それならその明治憲法は日本自らがつくった憲法かというと、どうもそうともいえな
い。そもそも明治憲法は明治維新(クーデター)をおこした薩長の藩閥がつくった憲法だ。
藩閥が権力を握るために都合がいいような憲法となっている。とても国民がつくった憲法
とはいえない。今の安倍政権や自民党は、そんな明治憲法に回帰しようとしている。おそ
らくそれは、明治維新をおこした薩長の藩閥と同じで、そのほうが憲法で国民を縛り、自
分たちが思うがままに権力を握るのに都合がよいからなのだろう。

憲法の意識から無意識へ
・日本の戦後憲法九条にはいくつもの謎があります。第一に、世界史的に異例のこのよう
 な条項が戦後日本の憲法にあるのはなぜか、ということです。第二に、それがあるにも
 かかわらず、実行されていないのはなぜか、ということです。第三に、もし実行しない
 のであれば、普通は変えるはずですが、九条はまだ残っているのはなぜか、ということ
 です。
・自衛隊や米軍基地などは、歴代政府による憲法九条の「解釈」によって肯定されていま
 す。また、集団的自衛権(実はこれは軍事同盟の別称です)も可能だという「解釈改憲」
 もなされています。しかし、憲法九条を変えるということは決してなされない。なぜそ
 うしないのでしょうか。むろん、それを公然と提起すれば、政権は選挙で敗れてしまう
 からです。 
・人々が憲法九条を支持するのは、戦争への深い反省があるからだという見方があります
 が、私はそれを疑います。たとえ敗戦後にそのような気持ちがあったとしても、それで
 憲法九条のようなものができるわけではない。実際、それができたのは、占領軍が命じ
 だからです。また、憲法九条が人々の戦争経験にもとづいているのだとしたら、それを
 もたない人々が大多数になれば、消えてしまうでしょう。実際、そうなるのではないか
 と護憲論者は懸念しています。では、なぜ九条は今も残り、また、人々はそれを守ろう
 とするのでしょうか。護憲論者は、それは自分たちが戦争の経験を伝え、また憲法九条
 の重要さを訴えてきたからだ、というでしょう。が、それは疑わしい。
・憲法九条を廃棄したいと考えている側から見てみましょう。彼らは60年にわたってこ
 れを廃棄しようとしてきたが、できなかった。なぜなのでしょうか。彼らは、それは国
 民の多くが左翼知識人に洗脳されているからだ。と考えている。しかし、これは端的に
 間違いです。左翼は元来、憲法九条に賛成ではなかったからです。
・憲法九条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありませ
 ん。もしそうであれば、どうに消えていたでしょう。人間の意志などは、気まぐれで脆
 弱なものだからです。九条はむしろ「無意識」の問題なのです。
・無意識は、意識とは異なり、説得や宣伝によって操作することができないものであると
 いっておきます。現に保守派の60年以上にわたる努力は徒労に終わったのです。いく
 ら彼らが、九条は非現実的な理想主義であると訴えたところで無駄です。九条は、「無
 意識」の次元に根ざす問題なのだから、説得不可能なのです。意識的な次元であれば、
 説得することもできますが。そして、このことを理解していないのは護憲派も同様です。
 憲法九条は彼らが啓蒙したから続いてきたわけではない。九条は護憲派によって守られ
 ているのではない。その逆に、護憲派こそ憲法九条によって守られているのです。
・私は日本の戦後憲法九条を、一種の「超自我」として見るべきだと考えます。つまり、
 「意識」ではなく「無意識」の問題として。それは、九条が意識的な反省によって成立
 するものではないことを意味します。
・無意識というと、一般に、「意識されていない」という程度の大ざっぱな意味で理解さ
 れています。あるいは、潜在意識と同一視されます。たとえば、宣伝などで、潜在意識
 に働きかける、いわゆるサブリミナルな効果を狙うものがあります。しかし、フロイト
 は、そのようなものを「前意識」と呼んで、「無意識」から区別しました。前意識(潜
 在意識)に対しては、外から宣伝・教育などによって操作することが可能です。が、超
 自我は無意識に属するものなので、外から働きかけることができません。
・日本人はドイツ人と比べて歴史的な反省が欠けているといわれることがあります。確か
 に「意識」のレベルではそういってもいいでしょう。しかし、憲法九条のようなものは
 ドイツにはありません。憲法九条が示すのは、日本人の強い「無意識の罪悪感」です。
 それは一種の強迫神経症です。そのような無意識は、個人の場合は、精神分析医との対
 話において見えてくるかもしれませんが、集団の場合そのようにはいきません。しかし、
 総選挙になると、それ出てくるのです。つまり、戦争に対する国民の「無意識お罪悪感」
 があらわになります。それがわかっているので、改憲を狙う政党・政治家はいざとなる
 と、憲法九条を争点から引っ込める。そして、選挙の後でまた改憲を唱える。それを繰
 り返しています。 
・日本人に戦争に対する罪悪感があるとしても、それは意識的なものではない、というこ
 とです。もしそれが意識的な反省によるものであったなら、九条はとうの昔に放棄され
 たでしょう。意識を変えるのはたやすいことだからです。教育・宣伝その他で、人々の
 意識を変えることができる。それなのに、なぜか九条を変えることができない。そこで、
 改憲派は、教育・宣伝が不足しているからだと思ったり、護憲派お教育・宣伝が強いか
 らだと考える。逆に、護憲派は改憲派の宣伝工作にいつも怯えている。そういう光景が
 ずっと続いてきたのです。
・確かに、憲法九条には、戦争を忌避する強い倫理的な意思があります。しかし、そのは
 意識的あるいは自発的に出てきたものではありません。九条は明らかに占領軍の強制に
 よるものです。だから、真に自主的な憲法を新たに作ろうという人たちが戦後にはずっ
 といたし、今もいます。しかし、憲法九条が強制されたものだということと、日本人が
 それを自主的に受け入れたこととは、矛盾しないのです。
・憲法九条は、日本人の集団的な超自我であり、「文化」です。子供は親の背中を見て育
 つといいますが、文化もそのようなものです。子供は親の背中を見て育つといいますが、
 文化もそのようなものです。つまり、それは家庭や学校、メディアその他で直接に、正
 面から伝達されるようなものではなく、いつのまにか知らぬ間に(背中から)伝えられ
 るものです。だから、それは世代の差を超えて伝わる。それは、意識的に伝えることが
 できないのと同様に、意識的に取り除くこともできません。
・連合国軍が作成し日本が受託した「ポツダム宣言」では、日本における軍国主義の根を
 永久に絶つこと、一切の戦争犯罪人を処罰すること明言されていますが、それは、自衛
 権放棄や天皇の戦争責任を明示するものではありません。しかし、日本の降伏後、それ
 らの基本条項を具体化するにあたって、意見が分かれました。ポツダム宣言の時期には
 目立たなかった対立が、連合軍の中に生まれてきたからです。これはむろん、米ソの対
 立に由来するものです。そして、この対立もまた、アメリカにおける民主党と共和党の
 対立とも交錯します。ちなみに、ルーズベルト大統領は民主党員であるのに、連合国軍
 の総司令官ダグラス・マッカーサーは共和党員であり、また次期大統領を目指している
 人物でした。したがって、占領軍の政策はこのような亀裂をはらむ両義的なものでした。
 一方で、占領軍の中核をなしていた、ルーズベルト派のニューディーラーたちの革新性
 が発揮された政策も多数見られました。農地改革、労働組合運動、左翼政党の援助など
 です。と同時に、他方で、天皇制の護持、また、朝鮮戦争に対応した再軍備の要求など
 があった。いうまでもなく、この矛盾はGHQの内部における亀裂にもとづくものです。
 したがって、占領軍を一枚岩の主体として見ることは、戦後憲法に関する錯覚をもたら
 します。 
・マッカーサー元帥は、何よりも天皇制の護持を考えた。それは占領統治を成功させるた
 めです。日本で天皇制が廃止されたらどうなるか。天皇が戦争犯罪者として起訴され、
 おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかなければならなく
 なり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないとみられていました。
・マッカーサーは最初から、天皇制の護持を決めていました。彼は憲法九条を推進しまし
 たが、それを直接の目的としたのではありません。彼にとって大切なのは、憲法一条、
 すなわち、天皇制を象徴天皇として存続させることでした。しかし、連合国の中には天
 皇制の存続に否定的な国が多く、また、米国の世論でも天皇の戦争責任を問う者が多数
 でした。
・マッカーサーの意図は天皇制の維持にあったこと、戦争放棄は、そのことに関して国際
 世論を説得するために必要な手段であったこと、しかも戦争放棄はマッカーサーよりも、
 むしろ日本の幣原首相の「理想」であったことです。幣原は、第一次大戦後の外相であ
 り、1921年のワシントン軍縮会議の代表でもあったから、戦争を違法化するパリ不
 戦条約について熟知していました。マッカーサーも後の回想記で、九条は幣原の提案で
 あったといっています。日本はドイツとともに国際連盟を脱退し、またパリ不戦条約を
 踏みにじった。その結果が第二次世界大戦であり、敗戦です。そのような過程に具体的
 にかかわっていた幣原のような人が、戦後に日本はどうすべきかと考えたとき憲法九条
 を考えたのは、ある意味では当然です。
・当時幣原はマッカーサーに向かって「世界は私たちを非現実的な夢想家だと笑い嘲るこ
 とでしょうが、しかし今から百年後には私たちは預言者と呼ばれるでしょう」と述べた
 と言われています。マッカーサーがそのような理想に共鳴したことは事実でしょうが、
 その一方で、彼が朝鮮戦争の勃発とともに、意見を変更して、日本政府に日本軍の再結
 成と朝鮮出兵を要請したことも事実です。それは、彼にとって憲法九条が第一義的なも
 のではなかったことを証すものです。ところが、吉田首相はそれを拒絶した。
・実際には、吉田首相はマッカーサーの要求に従って、警察予備隊を作りました。米軍が
 朝鮮半島に向かったあとの安全保障のためという名目です。しかし、吉田はあくまで憲
 法改正を斥けた。警察予備隊が保安隊、自衛隊に発展した時点でも、それらは「戦力で
 はない」と言い張って、憲法改正の必要を否定したのです。
・憲法九条が作られたのは、日本人の深い反省によってではありません。それが簡単に成
 立したのは、むしろ重要なものではないと見えたからです。マッカーサーにとっては、
 憲法すら一条こそが重要で、九条は副次的なものでしかなかった。だから、朝鮮戦争の
 勃発とともに、その改定をせまったのです。ところが、その時点では、九条が日本人に
 とって深い意味を持つようになっていたのです。それは、九条が「無意識の罪悪感」と
 つながるようになったことを意味します。おそらく、吉田首相がマッカーサーお要請を
 断った時点では、それが明白になったはずです。
・朝鮮戦争が始まったとき、マッカーサーは憲法九条を作ったことを後悔したでしょう。
 そこで、彼は吉田茂首相に、再軍備、したがって、憲法の改正を要請したのですが、す
 げなく断られた。もし憲法九条を否定したら、吉田内閣だけでなく、彼の政党も壊滅し
 たでしょう。革命騒動になってかもしれません。とはいえ、吉田首相は、九条がそれほ
 ど根の深いものであると考えてはいなかったと思います。彼は憲法改正をあきらめたわ
 けではなかった。将来日本が独立し経済的に復興を遂げたら、このような世論は変わる
 はずだと考えていたのでしょう。
・総選挙は、「集団的無意識」としての「世論」を表すものにはなりえません。なぜなら、
 争点が曖昧な上、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などの割合にも偏りがある
 ためです。ただ、総選挙を通して、憲法九条を改正しようとする場合、最後に国民投票
 を行う必要があります。国民投票も、何らかの操作・策動が可能だから、世論を十分に
 反映するものとはいえません。しかし、争点がはっきりしている上、投票率も高いので、
 「無意識」が前面に出てきます。選挙に勝っても、国民投票で敗北すれば、政権は致命
 的なダメージを受けることになります。「解釈改憲」すら維持できなくなってしまう可
 能性もある。むろん、選挙でも、九条改正を唯一の争点としたなら、大敗するでしょう。
 だから、政府・自民党は、ふだんは公然と九条の改正を唱えているにもかかわらず、選
 挙になると、決して九条改正を争点にはしないのです。
   
憲法の先行形態
・戦後憲法の九条は、本来、一条を作るために必要なものであり、二次的なものであった。
 しかし、その後、九条ばかりが問題とされるようになり、そして、それがいかなる経緯
 で作られたかが盛んに論じられてきました。その際に見落とされるのは、当初は一条の
 ほうが重要だったという事実です。興味深いのは、一条と九条の地位が逆転したという
 ことです。その理由は、一条(象徴天皇制)が定着したことにあります。昭和天皇の時
 代には、それはまだ定着したとはいえなかった。昭和天皇が存命であるかぎり、戦争責
 任という問題が残ったからです。戦前に、天皇が立憲君主の制約を超えて政治にかかわ
 ったことは、はっきりしていますし、そもそも終戦の決断を天皇がしたことは確かです。
 さらに戦後の占領下でも、彼は占領軍のいいなりになったわけではありませんでした。
 むしろ、能動的にふるまった。彼の関心は何よりも、皇室の維持にありました。つぎに
 昭和天皇にとって重要だったのは、日本の安全保障でした。そのため、米軍による防衛
 をマッカーサーに求めたのです。
・それにしても、わずか1年9カ月前まではアジア・太平洋諸国を「危険にさらしていた」
 国の「象徴」が、その償いも何ら果たしていない段階で、しかも戦争放棄の第九条がな
 ぜ求められることになったのかという歴史的な経緯もほとんど認識されていないかのよ
 うに、ひたすら自らの国が「危険にさらされる」ことのみを考え、アジアや世界に眼を
 向けることもなく、もっぱら占領者のアメリカに「安全保障」を求めるという発想方法
 には、ただ驚かされるばかりである。否、むしろ天皇のこのような発想こそが、戦後日
 本の歩みをそれこそ”象徴”しているのかもしれないのである。
・新憲法発布以後も、昭和天皇は「象徴天皇」にとどまるどころか、さまざまな政治的介
 入をしています。天皇は1947年9月、米側に”メッセージ”を送り「25年から
 50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出すという方針を示した・これによって、
 沖縄では、講和条約後も、さらに日本への復帰後も現代にいたるまで、在日米軍専用施
 設の74%が集中するという「軍事植民地」状態が続いています。
・また、1988年昭和天皇の病が報じられたときには、アジア諸国からあらためて戦争
 責任を問う声が上がりました。したがって、憲法一条が真に定着したと言えるのは、
 1989年に昭和天皇が逝去した後です。明仁天皇は即位式で、「常に国民の幸福を願
 いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす
 ことを誓い、・・・・」と述べました。この発言は宮内庁の用意した原文に自ら加筆し
 たものだといわれます。 
・明仁天皇が「【象徴】としてのつとめ」と呼ぶものは、人民主権を明記した現行憲法全
 体を遵守することであり、当然、その中には九条が入ります。実際、明仁天皇はむしろ
 一条による制限の下で、九条や人民主権を守っていくという「つとめを果たそう」とし
 ているように見えます。
・1989年は、日本の天皇が逝去しただけでなく、奇しくもソ連圏の崩壊が始めった年
 です。つまり、この年に起こったのは、昭和の終わりだけで吐く、戦後の「米ソ冷戦体
 制」の終わりでもあった。事実、その後に湾岸戦争が起きたのです。発端は、イラクが
 隣国クウェートを侵略したことにあります。このような地域紛争は、それまでなら、米
 ソの共同管理下で抑えられていたのですが、それがもはやできなくなった。アメリカが
 圧倒的な優位に立ったからです。しかし、アメリカはイラクを制裁するにあたって、国
 連の同意を得ました。これは旧「連合軍」以来の出来事です。このとき、日本は中東へ
 の派兵を迫られました。憲法九条が内外でリアルの問題となったのは、この時点が初め
 てです。日本の政府は、国連の下での平和維持活動のためという口実で自衛隊を現地に
 送った。ただ、まさに「平和維持活動しかしなかったため、逆に、国際政治では評価さ
 れなかった、ということが、日本の政治家・官僚にとってトラウマとなったようです。
 それは2003年イラク戦争開戦時の小泉首相の態度にも如実にあらわれています。ア
 メリカが開戦を宣言すると、小泉首相は真っ先に自衛隊派遣を唱えました。しかし、イ
 ラク戦争の場合、ヨーロッパ諸国や国連は開戦に反対しました。したがって、日本の自
 衛隊派遣には湾岸戦争のときにあったような正当性がなかったのです。それはアメリカ
 に追随するもにすぎなかった。この時も、派遣された自衛隊は平和維持活動しかしてい
 なかったのですが、今回は、現地の人たちのほうがそうは考えなかった。ゆえに、現地
 で、彼らは敵意に囲まれたのです。長く秘されていたことですが、帰国後に54名の自
 衛隊員が自殺したのは、おsのためでしょう。戦闘に加わらなくても、周囲からの敵意
 の中にいる重圧があったことが原因だと思います。
・そもそも、自衛隊員は災害などに対する”自衛”のために入隊したので、外地の戦場に
 立つことを予期していない。この状況はその後も同じです。真に軍隊を派遣するつもり
 なら、憲法九条を廃するほかありません。「解釈改憲」では、それは無理です。
・現天皇は九条を守ろうとしています。もちろん、一条があるため、政治的な関与を慎重
 に避けていますが、彼の言動はつねに「九条」を志向するものです。これは奇妙な逆転
 のように見えます。もともとマッカーサーは天皇制を守るために九条を作ったのに、今
 や天皇・皇后は、九条の庇護者となっている。そればかりか、戦後憲法の庇護者となっ
 ている。  
・現天皇は日本の侵略戦争を悔い、今後けっして戦争をしないことをことあるごとに表明
 し続けています。彼は、昭和天皇の「戦争責任」を自ら引き受けることによって、皇室
 を護ろうとしているといえます。そして、それが昭和天皇を弁護することにもなる。つ
 まり、九条を守ることが、一条を守ることになるのです。
・マッカーサーはそれまで猛威をふるってきた天皇制ファシズムを根絶しようとしたので
 すが、天皇制そのものは残そうとした。なぜなら、英国の占領に対抗する者は、それを
 天皇の名の下に行うにきまっているからです。そして、このような判断は、日本で政治
 的実権をもった者が歴史的にくりかえしてきたことです。この点で連合国軍総司令官の
 マッカーサーは、いわゆば、征夷大将軍となった徳川家康のようなものです。彼が日本
 を統治するためには、天皇制が必要だったのです。
・天皇制は最初、祭祀あるいは呪術的な力にもとづいた政治的権力でしたが、政治的権力
 を失ったあとも、「権威」でありつづけた。日本で政治的権力を握った者は、藤原以来、
 必ず天皇を仰ぎその権威にもとづいて統治しようとしました。むろん、天皇を斥けるこ
 とはできましたが、そうすれば、他のライバルが天皇を担ぐだろう。ゆえに、権力の正
 統性を得るためには、必ず天皇を担ぐ必要があったのです。
・明治維新も天皇を担ぐことのよってのみ可能でした。王政復古、天皇親政を掲げること
 で徳川幕府を倒したのです。したがって、明治国家で天皇が至上の地位に置かれたのは
 当然です。
・しかし、天皇親政は外形にすぎません。明治国家は、事実上藩閥(薩摩と長州)が権力
 を握り、産業資本主義化を志向する体制です。そして、伊藤博文が設計した明治憲法は、
 「立憲君主制」と議院内閣制に基づいており、天皇の権限を制限するものです。しかし、
 この憲法を人々が受け入れるようにするためには、欽定憲法(天皇が定めた憲法)の体
 制をとらなければならなかった。つまり、明治憲法は、天皇の権限を制限するものなの
 ですが、天皇の権威を借りなけれな成り立たなかったということです。
・1935年以降、天皇機関説が否定され、軍部独裁政治が天皇の名の下でなされるよう
 になったときでさえ、憲法は停止されていません。軍部独裁は、明治憲法のもとでも可
 能だったからです。 
・明治憲法は、戦後憲法と違って、自主的に作られ、外から強制されていないといわれま
 すが、それも事実ではありません。明治憲法を作ったのは、外に対して、日本が近代国
 家であることを示すためでした。それによって、幕末に締結された不平等条約を廃棄す
 るためです。その意味では、明治憲法も外部への強い緊張に強いられて作られたのです。
・大日本帝国憲法では、内閣は天皇から独立した機関となっていません。国務大臣は各々
 天皇を輔弼することになっています。また、総理大臣については規定がありません。国
 務大臣の一人であると見なされているようです。これでは内閣の独立などありえないし、
 議院内閣制もありえません。
・枢密顧問が天皇を輔弼すことになっています。これは事実上、元老たちが統治するとい
 うことです。
・陸海軍に対して天皇が統帥権を持つことになっています。これも、実際は、元老(藩閥)
 が陸・海軍を統治するということです。しかも、陸軍と海軍はそれぞれ天皇と直結する
 ことになっているので、相互に独立しています。その意味で、この憲法では、内閣や議
 会が自立できないようになっているのです。要するに、この憲法は元老による統治を裏
 づけるものです。しかも、元老のことは憲法のどこにも地位が規定されていない。
・しかし、明治憲法が発布された段階では、以上のような点が重大な問題をもたらすこと
 はなかったといえます。それは現実に、元老らが権力を持って存在してからです。した
 がって、元老らが強かった時期は天皇主権説が主流でした。しかし、山県有朋が死ぬと、
 情勢が変わった。そこで美濃部達吉の「天皇機関説」が主流となったわけです。
・元老が死んで病弱な大正天皇の世になると、憲法を変えることなく、議会制民主主義に
 傾斜するようになりました。それが“大正デモクラシー”と呼ばれる時代です。
 1925年には普通選挙も成立しました。ただ、それど同時に、のちに猛威をふるうこ
 とになる「治安維持法」も成立したのです。
・1917年に起こったロシア革命、さらに、昭和年代の経済不況の下では、情勢はさら
 に大きく変わりました。満州事変をはじめとする軍部の独断専行がなされたのです。
 「天皇機関説」は追放され、天皇の神格化が生じました。しかし、そのときも、憲法が
 停止されたり、改定されたわけではありません。それらは旧憲法の解釈によって正当化
 できるものであったから。
・明治憲法では、陸海軍に対して天皇が統帥権をもつことになっていました。けれども、
 そのような条文がつくられた時期に背後にいた元老たちはもういない。条文だけげ残っ
 ているのです。そうなると、陸・海軍を抑えるものは誰もいない。内閣はおろか、天皇
 も知らぬ間に事が進められるようになります。たとえば、陸軍の「石原莞爾」たちは、
 独断で満州事変を企てた。それが長い日中戦争につながったのです。
・日本では2.26事件や近衛内閣において、国家社会主義が顕著になりました。それは
 ”ファシズム”と呼ばれできました。確かに、イタリア・ドイツ・スペインなどに見ら
 れるファシズムと類似した点はあります。それは、ナチの党名「国家社会主義ドイツ労
 働党」が示すように、「社会主義」や「労働者」を掲げるものなのです。ただ、ファシ
 ズムの場合、どこでも、憲法廃止、議会の停止、王制の廃止がなされています。しかし、
 日本ではこのようなことはなかった。ゆえに日本にはファシズムがなかった、という主
 張があったぐらいです。
・日本では王朝の交替がなかった。王朝がそのままで、政権が交替したのです。そして、
 政権あるいは幕府の正統性は、天皇を握ることにあった。したがって、万世一系の皇室
 は、天皇が権威として続いてきたことを示すとはいえ、天皇が政治的な支配者として続
 いてきたことを意味しません。藤原氏以後、天皇が政治的実権を握ったのは、後醍醐天
 皇による建武親政の短期間をのぞいて、一度もなかった。天皇はいうならば「象徴天皇」
 であることが常態だったのです。その理由は何か。それは、日本が極東の島国であった
 というただそれだけのことにつきます。
・徳川の体制はまさに秀吉の朝鮮侵略を頂点とする400年に及ぶ戦乱の時代のあと、つ
 まり「戦後」の体制なのです。ふりかえると、徳川の体制は、さまざまな点で、第二次
 世界大戦後の日本の体制と類似する点があります。第一に、象徴天皇制です。第二に、
 全般的な非軍事化です。大砲その他の武器の開発が禁止されました。武士は帯刀する権
 利を持つが、刀を抜くことはまずなかったので、刀は「象徴」にすぎなかった。その意
 味で、武士の非戦士化です。だから、武士は学問をせねばならなくなった。しかし、武
 士の実質は失われたけれども、武士という名分は堅持されました。武士道が説かれるよ
 うになったのは、むしろこのような時だったのです。ただ、そこで説かれるような「武
 士」は、戦争ができるようなタイプの武士ではありません。ある意味で、現在の憲法の
 下での自衛隊員は、徳川時代の武士に似ています。彼は兵士であるが、兵士ではない。
 あるいは、兵士ではないが、兵士である。このような人たちが海外の戦場に送られたら
 どうなるでしょうか。彼らは戦わなければまらないし、戦ってはならない。そのような
 ダブルバインド(二重拘束)の状態に置かれます。イラク戦争に送られた自衛隊員のう
 ち54名が「戦力」でなかったにもかかわらず帰国後に自殺したということがそれを示
 しています。
・「象徴天皇」をいう1条と、「戦争放棄」をいう9条は明治憲法にはないものです。が、
 それは日本史いおいてまったく新しいものだとはいえない。ある意味で、明治以前のも
 のへの回帰なのです。戦後憲法の1条の「象徴天皇」制は、徳川時代にあった制度と類
 似するといっていいでしょう。また9条も日本人にとって、まったく外来のものという
 わけではありません。ある意味でそれは「徳川の平和」にあったものです。
・敗戦が日本人にもたらしたのは、明治維新以後日本が目指してきたことの総体に対する
 悔恨です。それは「徳川の平和」を破ってたどってきた道程への悔恨です。「徳川の平
 和」がベースにあったために、第二次大戦後に「無意識の罪悪感」が深く定着したのだ
 と思います。
・徳川時代日本人は250年ほど、列島の中で平和にくらしていた。それは秀吉の朝鮮侵
 攻を頂点とする、400年に及ぶ戦乱のあとのことです。が、「黒船」の到来以後、日
 本人は総じて徳川の体制を否定した。身分社会を否定し、文明開化を目指したのです。
 同時に、「徳川の平和」を否定した。それはある意味で、秀吉の時代、あるいは戦国時
 代に戻ることになります。
・新渡戸稲造は西洋の騎士道とパラレスなものとして、英文で「武士道」を書いた。しか
 し、実は騎士道も同様なのですが、武士道は、武士が戦争をしなくなったときに、そし
 て剣や弓矢が「象徴」でしかなくなったときに成立したものにすぎません。そもそも徳
 川時代では、農民や町人が自分は武士だなどということは許されなかったし、いうはず
 もなかった。明治維新の後、武士道が説かれたのはむしろ、それまで武士でなかった国
 民を徴兵するためです。  
  
カントの平和論
・マッカーサーに戦争放棄の条項を提案したのは、幣原首相です。幣原は、1921年の
 ワシントン軍縮会議の代表であり、第一次大戦後の外相でもあったから、パリ不戦条約
 についても熟知していました。つまり、そのような平和論は戦前から日本にあったので
 す。   
・国家は実力(暴力)なしにありえません。しかしまた国家の権力は、それが交換となる
 ときにのみ、つまり服従する者がむしろ自発的に国家に従う場合にのみ、成り立つので
 す。同様の例をあげると、人々は領主に服従すれば、他の暴力からは護られる。また、
 人々は領主あるいは国家に対して税を払うが、それは公共事業・福祉政策などのかたち
 で再分配され自分にもどってくる。そうでなければ、人々は服従しない。支配ー服従の
 関係が「交換」にもとずくときにのみ、国家の「権力」が成立するのです。
・武力の行使の放棄は、敗戦・被占領の下では普通に生じる事態です。しかし、日本の戦
 後憲法における戦争放棄は、敗戦国が強制的に武力を放棄させられることとは違います。
 それは何というべきでしょうか。私は、贈与と呼ぶべきだと、思います。九条における
 戦争の放棄は、国際社会に向けられた「贈与」なのです。このような贈与に対して、国
 際社会はどうするだろうか。これ幸いと、攻め込んだり領土を奪うことがありうるでし
 ょうか。そんなことをすれば、まさに国際社会から糾弾されるでしょう。したがって、
 贈与によって無力になるわけではない。その逆に、贈与の力というものを得るのです。
 それは、具体的には国際世論の圧力というかたちをとりますが、その圧力は軍事力や経
 済力とは別のものであり、また、それらを越えたものです。
・実際、国連は無力であり、戦争を阻止するような力をもっていません。では、それを強
 くするにはどうすればよいか。軍事力をもった諸国家が国連を支えるというのでは、サ
 ン・ピエール型の国際連盟にしかなりません。それなら、「世界同時革命」を待つほか
 ないでしょうか。私は、国連の根本的改革は一国の革命から開始できると思います。そ
 れが世界同時革命の端緒となるからです。たとえば、日本が憲法九条を実行することが、
 そのような革命です。この一国革命に周囲の国家が干渉してくるでしょうか。日本が憲
 法九条を実行することを国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わります。それに同
 意する国々が出てくるでしょう。そしてそのような諸国の「連合」が拡大する。それは、
 旧連合軍が常任理事国として支配してきたような体制を変えることになる。その意味で、
 日本が憲法九条を文字通り実行に移すことは、自衛権のたんなる放棄ではなく、「贈与」
 となります。そして、純粋贈与には力がある。その力はどんな軍事力や金の力よりも強
 いものです。
 
新自由主義と戦争
・第一次大戦の場合、それが始まった時点では、四年も続く戦争になると思った人はいな
 かった。各国が軍事同盟を結んでいたために、その連鎖が世界戦争に帰結したのです。
 日本も日英同盟があったために参戦しました。今後においても同じようなことがありえ
 ます。局地的な戦争はあっても、世界戦争はとうてい起こらないだおると、いまの人々
 は考えている。が、突発した局知的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性が高いのです。
・現在の状況は、世界戦争を経なければ解決できないというわけではありません。真の解
 決はむしろ、世界戦争を阻止することによってこそもたらされるものだと思います。そ
 の場合、日本がなすべきでありかつなしうる唯一のことは、憲法九条を文字通り実行す
 ることです。護憲勢力は憲法九条を護ってきたのではない、逆に憲法九条によって護ら
 れてきたのだ。それは別に皮肉ではありません。実際に、日本人は憲法九条によって護
 られてきたのです。空想的リアリストは憲法九条があるために自国を護ることができな
 いというのですが、われわれは憲法九条によってこそ戦争から護られるのです。
 
あとがき
・憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑
 えるという目的だけでなく、そこにカント以来の理念が入っていたことを否定できませ
 ん。草案をつくった人たち(すべてでないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたか
 ったものを、日本の憲法に書き込んだのです。これは日本人に対する強制です。日本人
 はそのような憲法が発布されるとは夢にも思わなかった。日本人が「自発的」に憲法を
 作っていたら、九条がないのみならず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないもの
 となったでしょう。ソ連を理想化していた社会主義者も、憲法九条のような途轍もない
 ものを考えるわけがありません。それより日本人に「赤軍」を作ろうしたでしょう。し
 かし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、その後、
 日本が独立し簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それ
 は、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語り
 ません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えてい
 ます。もしそうでなければ、何度もいうように、こんな条項はとうに廃棄されているは
 ずです。これは外的強制によるものです。そして、強制した当のアメリカ国家は、まも
 なく当初の戦略を改めて日本に改憲を要求してきたのですが、日本人はそれに従いませ
 んでした。そのため、当時の政権はあいまいなかたちで自衛隊をつくったわけです。
・明治憲法はどうであったか。幕末において、まずアメリカの黒船の脅し(強制)によっ
 て、徳川幕府は(不平等)条約を結んで開国します。他の人々が気づく前に日本はすで
 に条約を結んでいたのです。それに対して、尊王攘夷の運動が起こります。しかし、こ
 の攘夷運動の人たちは、途中で意見を変え開国派にまわるのです。これはまさに転向で
 す。国粋主義者から見れば許しがたい転向です。さらに、幕府から見ても、それは裏切
 りです。なぜなら、幕府はたんに開国のポーズで切り抜けるつもりでいたのに、この新
 たな開国派は本気で開国、西洋化を考えていたからです。こうして出てきた開国派が明
 治の権力となったのですが、彼らのどこに「自発性」があったでしょうか。結局、彼ら
 はアメリカ海軍の強制による開国と条約、すでになされていた「去勢」を、「あとから」
 積極的に受け入れたのですから。
・要するに、明治憲法が自発的で、戦後憲法が自発的でないなどというのはバカげていま
 す。明治憲法は、べつに「国民」によって作られたものではありません。憲法もないよ
 うな野蛮国では、対外的にやっていけない、不平等条約も変えられない、といった外的
 強制、というより「皮相上滑り」の模倣という動機から作られたのです。しかも、この
 憲法を作ったのは、元老として権力を維持しようとした連中であって、彼らは議会創設
 に備え、軍を握るために天皇の統帥権を設定しました。そうした元老がいなくなったの
 ちに、この統帥権条項が一人歩きし、昭和時代における軍部の独断専行の根拠になった
 のです。 
・私が考えているのは、憲法九条を日本の「原理」として再確定することであり、政府が
 それを対外的にはっきり表明することです。これは、日本が歴史的にもつ唯一の普遍的
 な原理です。それが「強制」によることこそがその普遍性を証明するものです。たんに
 われわれの意志が作ったものであるならば、いつでも廃棄されます。この憲法が、「自
 主的」でないということこそ、重要なのです。もしそれを外来的なものとして斥けるな
 yuらば、日本人はいずれすべてを失うでしょう。
・憲法九条に関していえば、戦後の日本人は占領軍の押しつけに抵抗したわけではありま
 せん。にもかかわらず、占領軍が再軍備を要請したとき、それを拒んだ。九条はいつの
 間にか「自発的」なものになっていたのです。
・日本で憲法九条が存続してきたのは、人々が意識的にそれを維持してきたからではなく、
 意識的な操作ではそうにもならない「無意識」(超自我)があったからです。戦後日本
 に九条が定着したのは、それが新しいものではなく、むしろ明治以後に抑圧されてきた
 「徳川の平和」の回帰だったからではないか。
・現在、世界中で資本主義経済の危機とともに戦争の危機が迫っていることは、まちがい
 ありません。どの国もこの危機的状況において、それぞれに対策を講じています。そし
 て、それが相互に感染し、恐怖、敵対心が増幅されるようになっています。その中で、
 日本で急激に推進されたのは、米国との軍事同盟(集団的自衛権)を確立するという政
 権です。それは戦争が切迫した現状の下では、リアリスティックな対応であるように見
 えます。しかし、各国の「リアルスティックな」対応のせいで、逆に、思いがけないか
 たちで、世界戦争に巻き込まれる蓋然性が高いのです。第一次大戦はまさにそのような
 ものでした。ヨーロッパの地域的な紛争が、軍事同盟の国際的ネットワークによって、
 極東の日本まで参加するおゆな世界戦争に転化していったのです。しかしまた、その結
 果として、国際連盟が生まれ、パリ不戦条約が成立しました。日本の憲法九条が後者に
 負うことはいうまでもありません。したがって、防衛のための軍事同盟あるいは安全保
 障は、何ら平和を保障するものではありません。ところが、それがいまだにリアリステ
 ィックなやり方だと考えられているのです。そして、日本ではそれを実現するために、
 何としても「非現実的な」憲法 九条を廃棄しなかればならないことになります。
 この25年間、憲法九条を廃棄しようとする動きが止んだことはありません。にもかか
 わらず、それは実現されなかった。今や保守派の中枢は、なぜ改憲できないのかはわか
 らないままながら、たぶん改憲をあきらめているのでしょう。そのかわりに、安保法制
 案のような法律を作る、あるいは、憲法に緊急事態条項を加えるなどで、九条を形骸化
 する方法をとろうと画策しています。
・ゆえに、護憲派は当面、九条がなくなってしまうのではないかということを恐れる必要
 はありません。問題はむしろ、護憲派のあいだに、改憲を恐れるあまり、九条の条文さ
 え保持できればよいと考えているふしがあるのです。形の上で九条を護るだけなら、九
 条があっても何でもできるようにな体制になってしまいます。護憲派の課題は、今後、
 九条を文字通り実行することであって、現在の状況を護持することではありません。
・私は憲法九条が日本から消えてしまうことは決してないと思います。たとえ策動によっ
 て日本が戦争に突入しるようなことがあったとしても、そのあげくに憲法九条をとりも
 どすことになるだけです。高い代償を支払って、ですが。憲法九条は非現実的であると
 いわれます。だから、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調
 される。しかし。最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実
 行しようとすることです。九条を実行することは、おそらく日本人が唯一の普遍的かつ
 「強力」な行為です。