経済優先社会 このままではいけない :暉峻淑子

この本は、いまから33年前の1992年に刊行されたもので、この本の著者が全国老人
問題研究会の総会および山形の生協で行った二つの講演をまとめて一冊にしたものだとい
う。
この本はネットで古本を探しても、もうなかなか見当たらず、今では貴重な本ではないか
と思う。
100ページに満たない薄く、とても読みやすく書かれた本であるが、その内容は私にと
って衝撃的だった。
何が衝撃的かというと、北欧や西欧の福祉国家と呼ばれる国々の社会のあり様が、いまの
日本の福祉と比べても、あまりにも豊かだからだ。
この本が書かれた1992年といえば、日本はまさにバブルの絶頂期だ。
日本は当時、世界第二位の経済大国だと言われて、飛ぶ鳥も落とす勢いがあり、企業はそ
の金にものを言わせて世界の土地や建物、絵画や骨とう品などを買いまくった。
税収も増えて国の財政も豊かになったはずだったのが、日本の現状の福祉の状況を見ると、
30年以上も前の北欧や西欧の国々と比べても、あまりにも貧しい。
日本は、この30年間、いったい何に税金を費やしてきたのか。政府や政治家は、いった
い何をやってきたのか。そう叫びたくなった。
日本の政治は、国民からは税金を吸い上げられるだけ吸い上げるだけで、その金を国民の
福祉のために使おうなどとはまったく考えない。
アメリカから使いもしない兵器を買わされたり、”アベノマスク”のような大愚策で費やし
たり、マイナ保険証の普及のために無駄金を使ったりと、ちょっと考えただけでも、
あきれるばかりの税金の無駄遣いをしてきている。そして、その一方では福祉の金は削る。
日本の政治家は、選挙のときだけ頭を下げてまわるが、当選すれば、あとは自分のことし
か考えない。”政治活動”と称して次の選挙のための”選挙運動”をやっているだけだ。
このように政治が貧しければ、国民も貧しいままだ。
こんな政治ではいつまでたっても日本の福祉が貧しいのは当たり前の話なのだ。

過去に読んだ関連する本:
豊かさとは何か
在宅ひとり死のススメ


まえがき
・私は、日本の政治、日本の社会が、福祉を優先順位の第一位とする合意にたどりついた
 時に、現在の経済優先の悪循環の”鎖”は断ち切られ、地上の人びとと助け合いながら生
 きる未来が開けるだろうと考えている。
 そしていま。誰もが、「日本はこのままではいけない」と感じているはずなのだ。
 
「福祉に冷淡な社会」日本
・日本はいま、お金がどんどんたまっている一大黒字国です。
 世界中でいちばんたくさんお金を貸しているのも、日本です。
 金貸し国としては、かつてのアメリカやイギリスさえも抜いてしまったわけです。
 そんなにお金がある。
 貿易黒字もとびぬけて大きい。
 そしてそれだけでなくて、企業のほうの経常利益も1987年から90年までの3年間
 に67%も伸びたわけです。
・外国の土地も日本はずいぶん買っています。
 ハワイやオーストラリアの最高の観光地やホテルは、日本の企業が買ってしまっていま
 す。 
 松下電器がアメリカの大きな映画会社をそっくりそのまま買い取ったとか、ロスアンゼ
 ルスとかカリフォルニアとか、あるいはワシントンやニューヨークの目抜きの、昔から
 有名だったビルやホテルも日本によって買い占められています。
 ゴッホやルノアールの絵や骨とう品類も企業や個人の手でずいぶん買い集められました。
・私が1990年までほぼ1年間いたオーストリアのウィーンに、”カフェ・モーツアル
 ト”というウィーンの人がいちばん自慢していた喫茶店があるんです。
 ところが、そこを日本の三越が買い取ってしまったので、ウィーン人は誇りを傷つけら
 れた。
 しかも喫茶店ではもうからないから日本人観光客相手のブティックにしようというので
 す。
・「ウィーン・フィルハーモニー」の人たちのことについても、ウィーンでは問題になっ
 ていました。
 昔は、夏になるとその人たちは森に行ったり、湖のそばでひと夏静かに暮らして、芸術
 的エネルギーを蓄えるわけですが、夏に日本でさんざん働かされて疲れて帰ってくるか
 ら、空からの演奏技術が乱れていい演奏ができない。
・オペラも同じで、日本が高いお金で招くので、拝金主義になってしまって、もうお金の
 高いところにしか行きたがらなくなる。
 このように日本人のお金は、世界中を悪い方へ”汚染”している、とヨーロッパでは非難
 されています。 
・そんなお金があるなら、自分の国の福祉や教育の制度をちゃんとしたらいいじゃないか、
 環境をもっときれいにしたらいいじゃないか、あるいは第三世界の人びとを助けたらい
 いのに、と考えますから、日本の現実をみて世界の人びとは不思議がわけです。
 
・日本はお金がたくさんある。
 お金があるからこそ、アメリカから多国籍軍のために「金を出せ」といわれたり、
 超電導素粒子加速器をアメリカにつくるから資金を出せといわれる。
・日本の国立大学は雨もりがしているし、基礎的科学研究費はまったくお粗末なのに、
 本当に人手が必要な老人のための特別養護老人ホームとか、養護老人ホームとか、
 あるいは老人病院や雲仙の災害にはお金を出さない政府が、アメリカのためにお金を出
 せと言われれば、1兆2000億円ものお金を出すことを、大蔵大臣がアメリカに行っ
 て、その日に決めてくる状態です。
・では、そんなに気前よく決めてきたそのお金はいったいだれが払うのかというと、
 それは私たち国民です。
 それを消費税で払うのか、タバコ税で払うのか、ともかくそれを払わなければならない
 のは私たちなのです。
・そういう額のお金を同じく払うとすると、1000ほどの特別養老老人ホームができて
 しまうわけです。   
 つまり多国籍軍に気前よく出すお金で、いまの倍近くの老人ホームができてしまうわけ
 です。
 そういうところから見ても、日本のいまの政治・経済が何を日本の社会に実現していこ
 うとしているのか考えさせられます。
・さらにまた国際貢献税を新しく課税する案が自民党から出されましたが、日本の政治的
 野心や自衛隊の海外派遣に地ならしとして国民の税金をばらまくのはやめてほしいもの
 です。
・私たち国民が、毎日毎日働いてつくり出している価値(GNP)は、世界の人びとが作
 り出しているGNPのほぼ15%に当たります。
 日本のような狭い国で、世界中の人びとがつくりだす富の15%もつくり出しているい
 うことから、日本がどれだけ大きな経済力をもっているかということがおわかりになる
 と思います。
・しかし経済力が大きいということよりも、それがどういうふうに使われているかという
 ことが、じつは、いちばん大事なことです。
・外国人は、日本の国民がつくり出しているいわゆるGNPは、世界中のGNPの15%
 になるというところだけをみて、日本は支払い能力があるに相違ない、もっと払え、と
 いうわけです。  
 しかし、私たち国民がそんな大きな富をもっているわけではありません。
・日本人はたいへん人並み意識が強くて、じぶんが貧しくしていても、「私は中流です」
 というふうに答えます。
 有名な総理府の世論調査で、「あなた上ですか、中ですか、下ですか」と聞きますと、
 約90%の人が「私は中です」と答えます。
 これは、本当にみんなが中だから、「中」と答えているかというと、けっしてそうでは
 ないと思います。 
・しかし、政治家はたいへん喜びまして、「そーら見てみろ、日本はデモクラシーの国で、
 もう上下の差はなくなった。みんな国民は裕福なんだ、だからこれ以上に社会保障なん
 かしなくてもいい」と、福祉を手抜きする理由に利用しているわけです。
 中流意識というのは毎年毎年新聞に発表されますが、政府にとって都合がいい統計調査
 だから発表されているのだと思います。
・では、ともかく自分が中流だといっている人たちに「ゆとりがありますか」と聞いてみ
 ますと、1982(昭和57)年ときは15%の人が「ゆとりがある」といっていたの
 です。 
 ところが1988(昭和63)年になると、それが12%ぐらいに減っているわけです。
 つまり、日本は非常にお金がたまっているはずなのに、日本人の気持ちのうえでは逆に
 ゆとりをうしなっているということがわかります。
 これはおそらく、どんな人の職場も同じで、日本がどんどんお金持ちになっていくのに
 比例して、職場の労働時間が短くなったとか、ゆとりがあるようになったという人は、
 おそらくいないのではないでしょうか。
・ところで、かんじんの所得そのものをみてみますと、いちばん所得の低い世帯と一番お
 金持ちの世帯の間には、5倍近くの開きがあります。
 ですから、日本はけっして全員が中流というわけではないのです。
・では、収入の少ない人たちは、主にどういうところで働いている人たちなのでしょうか。
 税務統計を見ますと、圧倒的に1人から9人の規模の職場、あるいは10人から29人、
 あるいは30人から99人という、いわゆる中小零細の規模のところにだいたい6割の
 人が集っています。
・もう少しこれを詳しく見てみますと、いま所得の低い人たちは流通業や小さな製造業、
 それから福祉職員などです。
 逆に、金融業や、電気・ガスなどの独占事業がとくい所得の高い所です。
 電力会社は、非常に高い。
 金融業も、高い方です。
 ただし、金融業の労働時間は非常に長いことが知られています。
・また、月給の少ない業種や中小零細企業は、その上に有給休暇もすくないという特徴が
 あります。
・御承知のようにいま、社会になくてはならない職業である看護婦さんも休暇がとれない
 のです。 
 看護婦不足が問題になっていますが、資格を持っている人が全部看護婦さんとして働い
 てくだされば、看護婦さんはいまほど不足しない。
 しかし、せっかく資格を取りながら1年か2年で、「こんな夜勤があってしかもひどい
 労働では、自分の人生は幸せになれない」というので辞めていく人がとても多いのです。
 そして専業主婦になったり、看護婦さんの資格を持っているのに他の職場で事務職とし
 て働いたりしているわけです。
・医者の仕事も楽だとは思いませんけれど、看護婦さんの仕事というのは一番きつい労働
 ではないかと思います。  
 あるいは養老老人ホームの寮母さんの仕事というのもそうでしょう。
 「これで終わり」という切れ目がない仕事だからです。
 ですから、看護婦さんの人数こそもっと多くしなければいけないのに、看護婦さんとか
 寮母さんという、看護介護の人手を徹底的にはぶいているのです。
 日本の医療保険会計では払われる点数が決まっているから、看護に大きなお金を使えば
 病院の利潤があがらなくなる。
 ですから、なるべき看護婦の人数を押さえようということになります。
・日本が世界の15%も富を生産しているのに、われわれ庶民は働きに応じた収入を得て
 るという実感亜どこにあるのでしょうか。
 結局、日本のとてつもない富を握っているのは、ごく一部の大きな企業であり、土地の
 値上がりにつれて多額の税収をあげた国家だということです。
・最近、日本が先進国の中で最も労働分配率が低いということが言われています。
 どの国も80%以上になっているのに、日本は75%ほどですから。
 たとえばドイツの労働分配率は88%です。
  
・つぎに、老人問題を考えてみましょう。
 所得の低い世帯からお金持ちの世帯に5等分した中の、一番所得の低い階層を第一分位
 と言います。
 高齢者の中で約65%の人がその第一分位に属しているという統計を、「国民生活実態
 調査」や「国民生活基礎調査」で発表しています。
 また母子家庭の70%が第一分位に属しています。
・このような事実は、日本の福祉行政が、いかに弱者に対して手をさしのべる政策を実行
 していないか、ということを物語っていると思います。
・戦後の何もなかった日本から、一生懸命、長い間働いて、この現在の日本をつくりあげ
 たのは、いまの老人たちです。
 日本がだんだん豊かになってきたということを、政府は、まるで自分たちがやってきた
 ように言いますけれど、誰がこれだけのものをつくったのでしょうか。
 それは働いている人がつくったわけです。
 線路も道路も建物も、結局は誰かが働いてつくってくれたわけです。
 働く人なくして日本の国にあるものは何ひとつとしてない。
 そのことを忘れて、「政治家や企業のおかげ」みたいにいうのは、おかしは社会主義国
 いと思います。
・いま高齢者になられた方たちが、かつて道路を一生懸命つくり、ひどく荒れ果てていた
 田を耕し、そのほか鉄道を引いたり、列車をつくったり、大きな建物を建てたり、
 そういうものを私たちは利用して、そこから現在の大きな儲けを生み出しているわけで
 す。 
・お金儲けというのは、現在の人間の力だけでできるものではなく、ずっと昔の世代から
 積み上げてきた社会資本を使って私たちはいま非常に便利にお金を儲けることができて
 いるのです。
・そういうことが普通の人はよくわかっていますから、ヨーロッパの先進国は、老人に対
 して、どの国も感謝の気持ちをもっていろいろなことをやっていました。
 私が老人ホームや、老人病院、そのほか在宅看護などを見てまわった国は、ソビエト、
 ユーゴスラビア、ポーランド、それからスウェーデン、イギリス、フランス、西ドイツ、
 オーストラリア、中国などがあります。
・そこに住んでいる市民たちの間で老人がどういうふうに暮らしているかということを見
 ましたが、日本のように政府が老人に冷たい国はないのではないかと思います。
 とくにヨーロッパでは、政府が福祉を削ろうとすると対抗する市民勢力の力が強くて、
 それが福祉を支えていました。
 正当は福祉政策なしには政権を取れません。
・いま、しきりに社会主義国は悪くて、資本主義国はいいという宣伝を日本の政府は一生
 懸命しています。  
 ところが、その自民党が悪いといっている社会主義国のほうが、老人たちに対しては、
 当時、経済力いっぱいに手厚いいろいろな心づかいをしていました。
 
福祉にこめられた心(ヨーロッパ社会)
・かつてのソビエトの老人ホームは何と呼ばれていたかというと、「労働ベテランの家」
 と呼ばれていました。
 老人は長い間労働をして社会に尽くしてくれたからです。
 老人ホームはみな個室制でした。
 社会主義国は、貧乏だ貧乏だといっていたけれども、見る場所がちょっと違っていたと
 思います。
 福祉とか、子供の学校とかを見れば、優先順位のつけかたは日本よりもずっとよかった
 と思います。
 もちろんドイツやイギリスも当然そうなんですけれども、みな個室制で、夫婦で入ると
 きだけ二人部屋です。
 部屋は本当にきれいなベッドがあって、美しいベッドカバーが掛かっています。
 廊下や壁には、きれいな絵が掛かっています。
 庭には士気を絶やさずきれいな花が咲いています。
 室内の暖房は直接石油を燃やしたりというんじゃなくて、空気がよごれないような間接
 暖房になっています。
 部屋はだいたい自分の寝る部屋と生活をする部屋、それから玄関、つまり日本のマンシ
 ョンと考えればいいのです。
 玄関みたいなのもありますし、三、四人で話し合いたいときのお茶を飲むコーナーもし
 つらえてあるし、友だちや家族が訪ねてきたときのための小さな食堂が別にあります。
 それから老人ホームの全員が集まって食べられる大食堂もありますし、ドイツやスウェ
 ーデンやイギリスでは、町の人と一緒に食べる食堂というのが道路ぎわにわざわざつく
 ってあって、町の人もご飯をそこで食べられるようになっていて、老人ホームの老人と
 一緒にテーブルを囲むことができるようになっています。
・老人ホームはだいたい町中にあります。
 町から遠い地価の安いところにあるというのではありません。
 団地の中の一角が老人ホームになっているというところも多いので、人がいなくなって
 寂しいということはない。
 いつまでも自分が住みなれた町の人とお付き合いができるようになっています。
・ソビエトの場合はもうちょっと積極的で、例えば、コンペ(コンペというのは競技のこ
 とです)が、開催され、みんなで絵を描いた工芸品をつくり、審査をして人選作品を選
 ぶとか、非常に面白かったのは、老人たちが全部手作りで輪ゴムを動力にしたり、いろ
 いろな工夫をした模型飛行機をつくって、距離を競い合って楽しんでいました。
 花壇や農園の手入れのできる人たちですと、花壇に美しい花をつくったりします。
・それから、ソビエトで一番感心したのは「労働ベテランの家」と名づけただけあって、
 そこへ私がたずねたときに、「博物館を見ますか?」と聞かれたのです。
 何の博物館かなと思ったら、老人ホームに博物館が併設してありました。
 ヨーロッパの国々の老人ホームには小さな劇場もありますし、ピアノを弾いたり歌を歌
 ったりする音楽室とか、体操をする部屋とか、いろいろな施設が整っていますけれど、
 老人ホームに博物館があると聞いたのははじめてでした。
・当時、ポーランドも大変いい老人ホームを持っていました。
 町のなかに行きますと、高齢者専用の町の食堂があります。
 高齢者のからだに合う献立をつくる専用食堂があって、そこに付随して、日本でいうと
 将棋を指したり、新聞を読んだり、本を読んだりできる小さな集会室や図書室もついて
 いまして、そういう施設が町中のあちこちにありました。  
 そういうものは日本よりもはるかに設備が整っていると思いました。
  
・イギリスでも、例えば老人が80歳になる、あるいは夫婦の年齢を足し合わせて百何十
 歳かになると、エリザベス女王から直接お祝いの手紙がきます。
 「あなたはイギリスの社会のために今まで生き長らえていろいろ尽くしてくれた」
 そういう主旨に手紙ですが、老人たちはとても喜んで大事にして、私にもその手紙を見
 せてくれました。
・日本では、天皇がそんなことをされたという話を聞いたことがありません。
 天皇はいろいろ式典なんかには出られるかもしれないけれど、天皇の生活費とか、即位
 の式に使われるお金な、私たちの税金ですから、天皇は老人に対してそういう感謝の手
 紙を書かれてもいいと思います。
・いまの天皇の皇太子時代何十年もずっと侍従として付き添われた「浜尾実」さんという
 人が、皇太子が天皇になられるときに職を辞されて、最後に、いまの天皇に心からの手
 紙を書かれ、それが「朝日ジャーナル」に載りました。
・天皇というものが、もし社会的にある意味を持っているとすれば、それは国民の苦しみ
 とともに苦しみ、国民の楽しみとともに楽しむという心掛けがなければいけない。
 自分が知っているイギリスのエリザベス女王とかオランダのユリアナ女王とか、そうい
 う人たちに比べると、日本の天皇は楽しいばかりやっていて、国民と苦しみをともにす
 るということがないのではないかということを書いておられて、もっと天皇は福祉の問
 題に一生懸命になるべきだと言っています。
・たとえば、イギリスで大水が出た。
 テムズ河があふれて、まわりの家に浸水したので消防隊員は被災者の救難を一生懸命夜
 を徹してやっていた。
 エリザベス女王は自分で長靴を履いて現場をまわられ、人びとを励まして歩かれた。
 それから、身体障害者がつくったものや、そういう施設でつくられたものを率先して日
 常使ってらっしゃる。
 そういうことは、国民としてはとっても嬉しいことだというのです。
・それからオランダのユリアナ王女の場合も、災害があったときに、災害にあった人たち
 に対して、先頭に立って食糧などを詰めた救済袋を配って歩かれた。
 国民と一緒に苦しみをともにするというのはそういうことだと浜尾さんは言っています。
 そのためかどうか、今度、いまの天皇は、はじめて被災者の立場に立って島原の火砕流
 の犠牲者を見舞われたようです。
・ある日曜日、横浜の方の郊外で国道がものすごく渋滞をしたことがあったそうです。
 せっかくの日曜日に家族で出かけた市民たちは迷惑をしました。
 何のための渋滞だったかというと、当時の皇太子が横浜のテニスコートに一家でテニス
 をしに行かれるというのでその車を護衛したために道路が渋滞したのです。
 それでウィークデーに一生懸命働いている国民は、せっかくの家族連れの日曜日なのに、
 道路の渋滞のため目的地にいくことができなかった。
・それから、現在の皇太子が始球式で甲子園にいかれたとき、大雨でその始球式が一日延
 びた。 
 ところがそのときにちょうど御巣鷹山に日本航空のジャンボ機がぶつかって520人も
 の遭難者が出たわけです。
 浜尾さんの考えでは、これがイギリスとか、オランダとか、デンマークだったら、事故
 現場にともかく飛んで行って、救助隊が出動するのを励ますというのがそこの国の皇族
 のすることだというのです。
・ところが皇太子はそのときに岡山にいらっしゃる伯母さんのところに遊びに行って、
 一日くつろがれた。
 これからもし、日本に天皇制が生き延びていくとすれば、いまの天皇一家はもっと福祉
 のために、とくに弱者の立場に立って行動すべきだ、という切せつたる文章を浜尾さん
 は書いていました。
・昔、代々の天皇が慈恵的な立場から救貧的なことをされたことはあります。
 しかし福祉は、恩恵や救貧ではないのです。
 それは、同じく人間として生きている者の人権の保障なのです。
 日本の国は、これだけお金がありながら、上から下まで、福祉の本当の意味がまだわか
 っていない。  
・私が行ったドイツ(当時の西ドイツ)では、老人のための、デイ・ケアーセンター
 (昼間だけ老人が通ってきていろんなことをして過ごす施設)には、老人が入る温水プ
 ールもあるし、マッサージの部屋もあるし、食堂もあるし、集会室とかいろんな人の話
 を聞くような部屋もありますし、藤のツルでカゴを編んだり、絵を描いたり、お祈りの
 部屋もあるし、いろんな設備が整っています。
 デア・ケアーセンターでは、日本でいう「いわゆるボケ老人」を、家族が夏休みなどで
 旅行をしたいというとき一ヵ月まで預かるのです。
・日本だと、「なんだ、老人を置いて。自分たちだけ外国旅行に行ったりして」と、すぐ
 非難するようなことを言うのですが、それは間違いです。
 日本は非常に貧しい時代の精神的な風土が残っていて、人によいことがあると喜べない。
 これは貧しさが持っている最大の欠点です。
 現在もまだ、貧しいときの、お互いが足を引っ張り合いっこをしていた時代の気持ちが
 残っているのです。
 人が少しでもいい生活をすると悪口をいうから、お互いが全然豊かになれないわけです。
 だけどヨーロッパの社会では、人にいいことがあれば喜ぶのが普通で、他人の不幸を見
 て喜ぶということはありません。
・このデイ・ケアーセンターというのは、日本でいうと帝国ホテルみたいな感じの素晴ら
 しい家ですけれども、その正面を入ったときに、私はハッと気づいたのです。
 そこには、ワイツゼッカー大統領の言葉が掲げてありました。
 「老人は、だんだん年を取ってくると孤独になり、大変寂しい。しかし、老人たちがお
 互いに出会う場所があれば、お互いに親しい友だちを見出だし、助け合い、その孤独は
 癒される。
 だから、この建物を、そういう出会いの場所として提供する。
 このような建物を建てたのは、敗戦の苦しい中から今日のドイツをつくってきれた老人
 たちに対するわれわれ市民のせめてもの感謝のしるしである」
 ということが書いてあるのです。
・そんな言葉は日本の中でどこに行ったって見ることができないのです。
 国家を代表する大統領あるいは国王自身が、老人に対する感謝の気持ちを公的に表現す
 るということを日本ではあまりしません。
 それどころか、かつての厚生大臣は「老人ホームに入るような人は、アリのように勤勉
 に働かないで、キリギリスのような生活をしていたからだ」というようなことさえ言い
 ました。
・外国人が日本にきて驚くのは、日本の町には障害者の姿が見えないことです。
 日本の町が弱者に対して非常に冷淡であることを、飛行機から下りたとたんに感じるの
 だそうです。
 だから、若い元気な人は人ごみをかきわけてでも、我先にと電車に乗って座席にパッと
 座ることができるけれども、老人とか、障害を持った人とか、からだの弱い人とかに対
 して、まったく配慮のない国だ、ということを言っています。
・私はいつも不思議に思うのですけど、福祉にとっても熱心な国は、子供の教育も非常に
 うまくいっている国です。 
 それはなぜかというと、やっぱり一人ひとりの命を大事にしていて、その人の生がある
 かぎりは、どんな障害者も、どんな人も、みな同じように生活をしていけるように”下
 支え”をしようと努力しているからでしょう。
 それが人権とか平等ということだと思います。
・たとえばイギリスでも、ドイツでも、オーストリアでも同じですけれども、老人で体が
 だんだん不自由になってきますと、老人ホームに入りたいとか、それとも自分の家で暮
 らしたいとか、それとも老人住宅に入りたいとかを選ぶことができます。
 「老人住宅に引っ越したい」といえば、そこ引っ越せるようになっています。
 「老人住宅というのは、マンションのようなものもあれば、一戸建て住宅もありのです。
 マンションの場合も、老人は一階から三階までに住んでもらい、その上に普通の人を住
 まわせているというマンションもあります。
 一般住宅とどこが違うかというと、老人住宅の中には看護婦さんとか、ケアをする人が
 必ず住んでいて、管理棟があるのです。
 必要なときにすぐ駆けつけてくれる人が身近に住んでいることが他と違うところです。
・それかれ、その老人住宅には段差がなく、平べったくなっていて、車椅子で出入りも、
 生活もできる。
 スウェーデンは、車いすが使えるようにつくられた公的住宅しか、いま建ててはいけな
 いことになっています。
 たとえば、トイレも車椅子で入って自分で用を足せるような広さがないと建築の許可が
 おりません。
 これはわれわれ日本人からみるとすごいことだと思います。
 ヨーロッパの人たちにとっては当たり前のことかもしれませんが、人びとは誰でも老人
 になり、あるいは誰でも障害を持つから、そういう人たちが暮らせるようにはじめから
 配慮した建築物しか建ててはいけないということです。
・日本はいま高層建築を建てたがります。
 しかし、高い所に住むというのは人間の健康と心理によくない。
 とくに子どもと老人によくないということがわかっています。
 いろいろな心理的弊害が出てくる。
 たとえば社会から孤立した感じを持つ。
 子どもも友だちがなくなる。
 いちいちエレベーターで下に降りていくのは面倒くさいから、結局、行動範囲も狭くな
 り、いろいろな弊害が出てくる。
・こういうのがあるので、イギリスもスウェーデンも高層建築は公営住宅では建てないと
 いうことです。 
 せいぜい中層の住宅しか建てません。
 しかも、三階の自分の玄関から直接に道路まで自然なスロープがついていて、町に出ら
 れるようになっていたりする。 
 階段とかエレベーターを使って降りるのではなくて、地面続きにともかく降りられると
 いう設計になっていて、建物にも温かみがあるいい感じです。
・「自分の家で死にたい」という老人にも、老人住宅に入る老人にも、どれだけのどのよ
 うな援助が必要か、老人を一週間みて判定する人がいて、「じゃあ、あなたのところに
 は毎日午前中一回、午後一回ヘルパーがくるような介助をしましょう」というように、
 介助計画を決めるわけです。
 老人住宅は段差のない住宅で、車椅子でお台所もできれば、浴室はリフトでも入れて、
 ちゃんと洗えるようになっているので、介助してくる人ももとでも楽に介助できるよう
 になっています。
・また、老人住宅には天井にインターホンが付けてあって、倒れた場合には管理棟に
 「誰か早く来てください」と言えば、そのインターホンを通じて管理棟のその声が通じ
 て、すぐに誰かが駆けつけてくれるとか、壁ぞいにいたるところにひもが下がっていま
 して、そのひもを引っ張ると、引っ張るだけで管理棟から人が駆けつけてきてくれると
 か、トイレの水が24時間流れないと、これは何かあった証拠だというので何も通知が
 なくても駆けつけてきてくれる。
・それから、電話の受話器をとったときに脳梗塞なんか起こした人はダイヤルを回したり
 番号を押すこともできないので、言葉が出てこない緊急の場合のために、老人が受話器
 を外して三分間何も言わないと、緊急の管理棟の方に自動的に電話がいって、すぐに二
 人異常の人が駆けつけてくるようになっています。
・老人住宅に入っても、自分で買い物をして自分の台所で食事してもいいし、食堂があり
 ますからそこに行って食べてもいい。   
 だいたいこうしたヨーロッパの施設の食堂は、道路ぎわにつくられていて、町の人もき
 て食べられるようになっています。
 ただ、町の人は、その老人ホームに入っている人よりも食事に高い料金を出さなければ
 ならない。
・日本でも1億円以上払えばいい老人ホームに入れるかもしれません。
 しかし一般の人がはいる老人ホームはとてもそこまでいっていない。
 介護の人手少ない。
・先進国というのは、人間的な社会を進んでつくる国のことだと思います。
 日本はまだまだ後進国です。
・ドイツの場合、老人ホームの中に入ってしまえば、年金の額わずか7万円くらいしかな
 い人にも、だいたい一ヵ月40万円ぐらいの介護をしています。日本は約20万円。
 日本の場合は、お金持ちの人が老後に死ぬまで生活する有料老人ホームは入居金は、
 もう億の単位になっています。
 何千万円単位というのももちろんありますが、一億何千万円というホームもあります。
・ある調査によると、有料人ホームに入れる人は、老人の中の20%弱で、残りの80%
 の老人はどうなるおあというと、社会の方の準備は何もされていないわけです。
・ドイツの場合は、老人ホームに入ると、有料とか無料とかというわけへだてはなく同じ
 サービスが受けられる。
 ひとつのホームに、公費によって入る措置老人を約半分はいれなければならないことに
 なっています。 
 貧乏人のホームはこちら、あっちはお金持ちのホームという、ホームの間の格差をつく
 らないように努力しています。
 もちろん古く建てられたホームは、建物の設備が悪いとかそういうことはありますけれ
 ど、どんなピカピカのホームでも半分は措置の人が入ります。
・いまドイツの場合、最低限の日本でいう福祉年金というのは、だいたい6万円くらいも
 らっているんじゃないでしょうか。 
 その年金をもらって老人ホームに入りますと、自分の手元におこずかいとして、2万円
 くらいの金額を残し、あとはホームに納めます。
 そうすれば、40万円の給付が受けられるのですから、老人になっても、何も心配はな
 いわけです。
 公的ホームが不足していることもありません。
・日本人は、非常に貯金をしています。世界一貯金好きの国民です。
 いまでも所得の17%近くのものを貯金していると思いますけれども、どうしてそんな
 に貯金をするのでしょうか。
 やっぱり老後に備えるためです。
 若い人の場合は、住宅を建てるため、子どもの学費のため、そういう目的がいつも上位
 三位です。
・ヨーロッパなら年を取れば、所得少なければ家賃を国が出してくれる家賃補助がありま
 すから、何も心配はない。  
 訪問看護のケアもどんなケアを受けるか医者や看護の専門家がきめる。
 だから老後に備えて貯金をしなければいけないというような気持はまったく持ちません。
 とにかく一生真面目に働いてきたならば、老後の心配がない。
・もうひとつお話ししておかなければいけないのは、老人がいったん自分の住居を引き払
 って、老人ホームか、老人病院に入る。
 その病気がとても長くて、死ぬまで家に帰れないかもしれないという場合があります。
 ヨーロッパでは住宅に対する家賃補助という制度が特にいきわたっています。
 たとえば子どもが三人以上ある家庭はほとんど家賃補助があります。
 スウェーデンではその家賃補助を、老人が病院に入っている間でも、もし一年間に一回
 でも老人が自分の家に帰った場合はずっと続けることになっているのです。
 なぜそんなことをするのかと私が聞きましたら、「それは精神的な励ましを老人に与え
 るためです。あなたはよくなったらいつでも自分の家に帰れますよ、あなたの家は家賃
 補助をずっと続けてちゃんとおいてあるから、早く元気になってまた自分の家に帰りな
 さい」と言って励ます。
・日本の場合は、老人ホームに入ってしまうと、そこで本当に死ぬみたいになってしまい
 ます。  
 中間施設もそうです。
 そのために老人の使節というイメージが暗くなりがちです。
・道路には救急ボタンが付いている柱がいくつも立っているから、そこに行って救急ボタ
 ンを押せば、どこの市にいてもどの町にいても救急自動車がすぐ飛んでくる。
 それで救急自動車に乗せれば、病院に必ず入れる。
・病院は公的病院がほとんどで、あとは教会立などの非営利病院です。
 「公的病院には、救急患者のために必ず空きベッドを置いておくことになっている。
 救急の人が入るベッドがないということはありません」
 それで、「救急の処置を受けても、とうとう亡くなられた場合は、ちゃんと地下室に霊
 安室が設けてる」というのです。 
・私は霊安室も見せてもらったのですけれど、とてもきれいな十字架が立っていて、花と
 か緑の葉で作った花環がちゃんと横に置いてありまして、ほんとにきれいな部屋です。
 そして、亡くなったことを家族や友だちに知らせ、新聞でも知らせる。
 人びとがそこまできて、みな遺体に別れを告げる。
 そして三日間したら、その人の所属していた教会の墓地に葬る。
 あるいは教会に所属していないから共同の墓地に入るということであれば、そういう希
 望にそう。
 だから「なんにも心配ない」と誰もがいうのです。
 死んで墓地に行くまで、あらゆる公的なあるいは社会全体での受け皿が揃っているから、
 老人が旅行途中で何かあっても、旅行したい人はいくらでも連れて行ってもらえるので
 す。
・死ぬまで貯金をしなきゃいけないという感じは、老人にはまったくありません。
 そういう社会に生きている人たちというのは、やっぱり気持ちにゆとりがあります。
 私は、日本は豊かだというけれども、それは元気でお金が稼げる間の話であって、
 いったん足腰が不自由になりだしたら、みんな心配することばかりだろうと思います。
・私は、ドイツで在宅看護にも一緒について歩きました。
 これも非常によくできています。
 たとえば、看護婦さんとホームヘルパーさんは一定の時間帯は重なるように派遣される
 のです。
 ヘルパーさんと看護婦さんが、一緒にいる時間帯に、一緒に老人をかかえてお風呂に入
 れてあげる。
 髪の毛も洗ってあげて、ドライヤーで髪の形もきれいに整え、洋服も着替えさせるとこ
 ろまで世話をする。
・看護婦さんは血圧を測ったり、薬を飲ませたり、体を拭いてあげたり、ケガをしている
 ところは包帯を巻き替えてあげたりする。
 カルテにそれを全部記入して、それを老人の家においてあるのです。
 老人が動作に不自由な場合は、夕方にきて、リフトを使ってベッドの中に入れてくれる
 ところまで看護婦さんがしてくれる。
 それから、夜中でもからだに変化があった場合は、救急ボタンみたいなものでいつでも
 看護婦さんを呼びさせるようになっているわけです。
 ボタンはナースステーションにつながっています。
・こういう在宅看護の経費は国と保険が出しますが、働いている人は、赤十字や教会や労
 働組合などが在宅看護(ナースステーション)の拠点をあちこちにおいて動いています。
 日本の労働組合は勤めているときだけは何かするけれども、職場を離れてしまったら、
 かつての自分の友人に対しては何もしませんが、ドイツでは労働組合もそういう拠点を
 自らつくっています。
 それから、市民たちのボランティアグループも同じような拠点をつくって、お金はみな
 公的機関が払っています。
 カトリック教会と、プロテスタント教会も別べつに拠点を持っています。
 ドイツでは、計六つの組織をつくり、社会保障を請け負う受け皿として、それらが「公
 私福祉協議会」をつくっています。 
・福祉拠点(ナースステーション)に登録している看護婦さんたちはフルタイムの常勤の
 人もいるし、パートの人もいますが、パートの人は実働(交通時間は除く)1時間に約
 4000円くらいの時給で請け負って老人の家を巡回するわけです。
 お風呂に入れたり、体を拭いたり、薬を飲ませたり、熱を測ったり、食べ物の助言をし
 たりする。
 そして、ヘルパーさんは行くすぐお掃除をして、お風呂場を洗ったり、トイレをきれい
 にしたり、お皿を洗い、ゴミは捨てに行く。
・お昼ご飯のためにお皿もちゃんとテーブルに出す。
 ちょうどお昼に、そこに給食車のサービスがきます。
 この給食車のサービスは、老人ホームや老人病院のための給食をつくる特別なレストラ
 ンみたいなものがあって、どこからくる場合もあります。
 その給食は、ただ温めればいいだけになっている。
 ヘルパーさんは、老人がたった一人で食べるのはおいしくないというので自分も一緒に
 なって、少し食べながらいろいろな話をして一緒に食事をする。
 食事のあとはお皿をきれいに洗って、ふきんも洗って、ピカピカにする。
・そのあと「何か買い物はありませんか」とたずねて、「これこれを買ってきてください」
 と言われると、買い物もしてくれる。
 それから、「自分も買い物に行きたい」と言うと、看護婦さんやヘルパーさんが肩を貸
 して、ゆっくりゆっくり歩きながら、近くのお店やスーパーマーケットに連れて行って、
 そのお婆さんやお爺さんがアレとかコレとかと指さすものをちゃんとカゴにいれて買い
 物も手伝い、全部済むまでやります。 
・ヨーロッパの社会というのは、個人主義の社会で、他人に無関心なように思われながら、
 一人ひとりの人間の生活に対して、放っておかない、どこかに手を差し伸べるという
 ”連隊”をちゃんと準備している。
 そんなことができるというのは、やはりエリザベス女王が自分で直接手紙を書くみたい
 に、そういうことをやるのが当たり前という”福祉の社会”になっているからだと思いま
 す。
・ヨーロッパの社会と日本の社会と根本的にどこが違うかと考えてみると、それは、
 「安心」ということがあるということです。
 ヨーロッパの社会は、どんな場合にも、人間らしくみじめでない暮らしができるという
 ”安心”という制度がある社会です。
 日本では”自立自助”・自分でせよ、という安心のない社会です。
 ですからいつまでもゆとりがない。
 
子どもも若者も老人も(ドイツ社会)
・老人は、企業のために利潤を生み出す企業戦士として役立たなくなったら捨てられます。
 では子どもはどうなのかというと、子供は企業の中で利潤を生み出すために育てられて
 いるということになります。
・学校制度は、これもヨーロッパに行って、日本の特殊な教育に気がつくのですが、子ど
 もは、企業に役立つためにだけ教育を受けているわけではないのです。
 人間にとって、人格の完成というか、人間の全体的な発達のために、教育は必要です。
 だから、その面では企業に役に立つか役に立たないかということとは関係がないのです。
・しかし人間は、社会人として社会に出てやがて働かなければなりませんから、それと同
 時に職業に役に立つ教育もやっているわけです。
・いま日本の子どもは、幼稚園の時から、有名大学・一流企業に行くために競争を強いら
 れています。   
 これは子どもがそうしたいというわけではないのです。
 子どもはそんなことは何も知りませんから、結局、大人がそれを強制しているわけです。
・子供に本を読み聞かせているボランティアのお母さんたちに聞いた話ですが、小学校の
 三、四年になると、子どもは本を本でもらう地域文庫にこなくなったり、図書館にもこ
 なくなるそうです。 
 いまはいよいよ学校が忙しくなって、小学校一年の時からもうこなくなるというのです。
 幼稚園のころからあまりこなくなることもある。
 では何をしているのかと聞くと、例えばペン習字や算数の教室に通っているというので
 す。 
・本当は、美しい日本語のリズムで耳から聞く。
 あるいは現代の御話でもイメージのあふれる話をきいて、情操を豊かにし、発想を豊か
 にする。
 感受性をできるだけ豊かに養うことがいちばん大事な時期です。
 そういう大事な時期に、日本ではいい企業を目指して、選ぶことも、本を読むことも、
 話を聞くことも犠牲にして塾にいかなければならない。
・こういうことは日本だけでなく、日本の真似をしていまや韓国や中国でもやっています
 けれども、これは非常によくない例です。 
・子どもはそういうことをしていて嬉しいかというと、やっぱり子どもは遊びたい。
 しかし、お母さんの険しい顔をして塾になる。
 子どもたちは親に対して反抗できません。
 なぜかというと、動物の子どもならば、すぐに親を離れて自分で食べていくことができ
 ますが、人間の子どもは親を離れたら食べていくことができない。
 つまり生殺与奪の権を親に握られています。
 だから親は気づかないかもしれないけれど、子どもは本能的にそれを知っていて、親の
 言うことに絶対に服従しなければならないという本能を持っています。
 だから、ノーとは言えないのです。
・ドイツやイギリスなどヨーロッパの国の子どもは、午後一時で学校は終了しますから、
 そのあとは自分の好きなことを自分で選んで、楽しく遊んでいます。
 地域社会には子供が遊べる広場もあるし、児童館もあるし、サイクリングとか、乗馬と
 か、サッカーなどいろいろなクラブがある。
 高いところでも一ヵ月ほぼ500円ぐらいの月謝で、子どもの好きなように遊ばせてい
 る。 
 日本の場合は、時間も場所も条件もない。
・日本では、白いソックスじゃなくちゃいけないとか、髪の長さはどうだとか、規則づく
 めの教育をしますけれど、これはいったい何のためにそんなことが必要かということを
 つくづく考えさせられます。
 結局、企業に入ったときに、一分も遅れずに会社にきて、タイムカードでガチャとやっ
 て、生産の工程が始まる10分前に作業服に着替えて準備するとか、コンピュータの仕
 事でもミス一つなくやるような人間を産業界が要求しているからでしょう。
・本来は、境域の中でそんなことはまったく必要がないのです。
 教育の中では規則は少なければ少ないほどいいのです。
 規則が多いと、子どもは自分の頭で考えなくなる。おとなもそうです。
 ただ規則や管理に従っていればいいということになると、非常に安易な生き方になりま
 す。  
 むしろ規則をきめないで自分の頭でどうしなければいけないかを考える人間を育てるの
 が教育だと思います。
 だから、ドイツの学校は規則というものをなるべくつくらない。
 つくるときには生徒や親と一緒に徹底的に討論をします。
 どうしてもこの規則はつくらなければいけないのだろうかと。
 つくらなくてすむならやめよう。
 どうしても、子どもの安全のためにつくらなければいけないということだったら、徹底
 的に討論して、やっと一つつくる。
 だけど、何度も何度も、この規則をまた見直そうとか、やめようかとか、規則をつくら
 ないほうにつくらないほうに教育の世界ではやっているわけです。
・午後一時には学校から子どもを帰すということも、なぜそういうことをやるのかと先生
 に聞いたら、 
 「学校教育といえども、子どもが自分の自由意思で生活行動をする自由を侵すことは、
 われわれの国では許されていません。半日は学校で過ごすとしても、あと半日は自由で
 す」と先生は言いました。
・それは非常にいい言葉です。
 だから偏差値もないのです。
 成績表も一人ひとりの子どもに対して先生がその子一人ひとりを大事に見て、その子独
 自の点をつけているわけです。
・「なぜ成績順位をつけないの?」と私が聞いたら、
 「競争で人を煽りたてることほどやさしいやり方はないが、しかしそのような教育をし
 たら子どもの個性というものはなくなります」と答えました。
・つまり競争は一定のルールのもとで競争するわけです。
 だけど、個性というのはひとつのモノサシでははかれないものです。
 だから、子どもの個性は比べられません。
 「個性を大事にしたいと思ったら、点数でならべるなんてことはわれわれはできない。
 教育が教えなければならないもっとも大事なことは何かというと、それは”連帯”であり”
 友情”です」ということを言いました。
・私はそれを聞いたときに、なぜ日本に復し社会が根づかないのかというと、教育の中で
 すでに、そういうことが根づかないように意図的に教育内容が仕組まれているからなの
 ではないかと思いました。 
・つまり、競争に競争を重ねて、いわゆるいかのハイテクノロジーの企業社会に適するよ
 うな子どもだけが選ばれている。
 なぜそんなに競争させるのか。
 このことを産業界の人に聞くと、それはハイテクノロジーの社会の中で、一万人が競争
 すれば10人が競争するよりもっとよりすぐれたエリートが選び出される。
 いまのテクノロジーの社会に適する子どもを選び出すためには、競争が激しければ激し
 いほど、多くの人が競争に入ってくればくるほど、企業社会の求める5%のエリートを
 選びだすのに都合がいい。
 だから産業界は競争社会を奨励するのだ、ということを言っています。
 企業社会では競争をいやがるような人間は必要じゃない。
 これは、言葉で言っているだけではなくて、1960年代の終わりに、経済審議会が
 日本の教育に要求することとして打ち出されました。
 いまでは企業社会も、その欠陥に気づき始めているのですが。
・ドイツの学校は午後一時でみんな地域に帰す。
 地域に帰ってめいめい自分の好きなことをする。
 地域のサッカークラブに行くとそこではいろんな学校の子どもと一緒になり、年上の子
 も年下の子も一緒になりますから、地域社会が子どもを育てるわけです。
 だから、ドイツ人は地域社会を非常に愛しています。
 それは、子どものときから託児所もお育所もそれぞれの地域にあって、十分に守られて
 きたし、小学校のときからスイミングクラブもあれば、乗馬のクラブもあるし、サッカ
 ークラブもある。  
 絵の好きな子は絵を教えてもらえるし、またバイオリンの好きな子は個人レッスンが受
 けられる。安い料金でそのようなレッスンのチャンスが無数にある。
 そういうところへ行きたくない子は、自分の家で寝ころんでいてもいいし、本を読みた
 ければ図書館もあるし、読み聞かせのチームもあるし、子どもたちのために公的なお金
 がずいぶん使われています。
 だから子どもたちは、老人の介護に対しても、お金をたくさん使うのは当たり前だとい
 うふうに思っています。
・ドイツの教育では、個人を比べないで、本当に一人ひとりの子どもの個性を一人ひとり
 の子どもの人権において大事にする教育をしなければいけないとしています。
・教育というのは人間の考えを育てるためにあるのだ。
 その子が自主的に判断することができる子になって、この社会をよりよくしていこうと
 いう情熱を持つために教育はある。 
・日本の親や教師は、いまある社会の中のいちばんいい座席に子どもを座らせて、子ども
 に安楽な一生をおくらせるのが教育を受けさせるときの一番の目的になっている。
 それだったら社会はちっともよくなっていかないでしょう。
 いまの社会を肯定して、そこの中のいちばんいい座席に座って、たくさんお金を儲けて、
 楽に暮らそうというだけだったら、なんのために教育があるのでしょうか。
・なぜここまで徹底して個人個人を一人ずつ丁寧によく見なければ駄目だと考えるのでし
 ょうか。 
 団体として人を動かすということはいけない、という感じさえします。
 それはなぜかというと、ヒットラーの時代というのは、みな団体で動いていた。
 「右向け右」といえば人びとはすべて右を向いて、「総力戦を戦おう」とゲッペルスが
 いうと、みんな「戦おう、戦おう」と言ったわけです。
・これからはそういうときに、一人ひとりが自分の胸で、ちゃんと良心にかけて、自分の
 意見を言わなければならない。 
 「私は戦争はいやだ」「私は戦争に反対だ」と、はっきり言える人間をつくらなければ
 いけない。
 だからちゃんと一人ひとりの意見を大事にしようと考えるのです。
・これは福祉と裏表の関係にあります。
 そういう社会の中にいると、個人を本当に大事にしなければいけないということがよく
 わかると思うのです。
 それでドイツは戦前のナチスの社会を本当に反省したときに、どこから手をつけたかと
 いうと、なぜナチスのような全体主義の国ができたか、なぜわれわれの親はああいうば
 かなことをしたか、ということを徹底的に反省しました。
 その中で再びファシズムになるのを防ぐために社会にとって何が必要かを考えて、
 出てきた結論が、個人を大事にし、個性を一人ひとりのばしていくような社会にしなけ
 ればならないということでした。

個人が尊重される”安心”のある社会
・いまの日本の国は、世界から決して尊敬されていません。
 「あれはたんに金だけ出せる国だ」というふうに思われているのです。
 お金を出すことが評価されることだと日本の自民党の政治家は思っていますが、お金を
 どんどこ出すということは逆にバカにされるということだってあるわけです。
 成金というのは自分の哲学、自分の生き方、自分の意見については普遍的なものを持っ
 ていないので、お金を出してそれを補って、お金の力で自分を尊敬させるようとします。
・自分の国の老人とか、からだの弱い人とか、精神障害の人たちに対してろくなこともせ
 ず、環境問題に対しても無神経なのに、1兆2000億円ものお金を多国籍軍にポンと
 出すなんて、余所から見ていて誰が日本を尊敬する気にあるでしょうか。
・相変わらず40人学級もまだできていない。
 多感な高校生の一人ひとりの個性が強い形で出てくるときに、50人近くも一クラスに
 詰め込んで、一律の授業をして、管理と競争を強いている。
 管理・競争で鍛えられた子供が企業に入って、また管理・競争のなかで過ごし、そして
 定年退職したあとの老後の生活では「粗大ゴミ」や「産業廃棄物」と呼ばれ、孤独で安
 心のない老後の暮らししかできない。
 つまり老人問題に出てきている問題は、社会の中にその根があるわけです。
・老後が不安だからわれわれは残業もいとわず長時間働き、めちゃくちゃに貯金をする。
 その貯金をしたお金は金融機関を通じて土地に投資されるから、土地の値段がどんどん
 上がっていって、いまや若者は自分の家を持てない。
 だから社宅問題、子どもの教育、老人の問題、それから社会を一生懸命支えている人た
 ちの労働条件、これらはみなひと続きになって循環しているものなのです。
 そして環境を破壊するということともそのひと続きの中にあるわけです。
 これは悪循環です。 
・その悪循環をいつまでも甘んじて受けていると、過労死が起こったり、土地を値上がり
 させたり、外国の土地を買って外国人から恨まれたり、多国籍軍などの戦争に使われた
 りするのです。
・私たちは、ちゃんとした権利意識をもって、人間一人ひとりが、生きていることはいい
 ことだ、この世に生まれてきて本当によかったという、そういう生き方ができる福祉社
 会を築くために、その方向にお金を引っぱって行かなければいけない。
・こうした一人ひとりの”安心のある社会”ということほど人間にとって大事なことはない
 と思うのです。 
 どの国にも貧困や悲惨な時代がありました。
 はじめから福祉社会があったわけではない。
 しかし多くの葛藤の中から、人権、平等、自由、そして環境との共存へと、福祉を実現
 してきたのだと思います。