安倍三代 :青木理

この本は、いまから4年前の2019年に刊行されたものだ。
安倍家の三代(安倍寛安倍晋太郎安倍晋三)の軌跡を追いながら、世襲の弊害につい
て取り扱った内容となっている。

いまや日本は、格差社会というよりも、もはや階級社会に突入している。
国会議員、官僚、企業経営者などは通称、”上級国民”と呼ばれる層を形成し、そのなかで
も、政治の中枢を形成する閣僚などは、もはや”貴族”と呼んでもいいだろう。
というのも、いまや閣僚の半分以上は「世襲」議員によって占められ、いわゆる”家業”化
しており、完全に身分が固定化している。 
そして、この完全に身分が固定化した世襲議員によって行われるおごりに満ちた政治は、
もはや一般の国民には目は向けられず、永田町だけの政治あるいは自民党による自民党の
ための自民党内だけの政治と化してしまっている。
しかし、その元々の原因は、われわれ有権者の政治への無力感や無関心による投票率の低
さが原因となっていることは明らかだ。
全体の投票率が5割程度だと、3割程度の岩盤支持者を持つ議員は確実に当選することが
できる。これは全体の投票率が7割以上にならないと、議員の顔ぶれは絶対に変わらない
ということだ。
議員を作新するためには、ともかく投票率をあげることだ。選挙の投票日には、朝、いつ
もより1時間ぐらい早く起きて、散歩がてらに投票に行くことだ。そして、いつもテレビ
などで見かける与党議員と違う人に投票することだ。

日本は、形ばかりは民主主義の国の仲間入りをしているが、その実態は、いまだに民主主
義が根づいていない。どちらかというと、一党独裁の中国に近い国ではないのかと思える。
この本の中で、「政治の貧困」について田中六助氏の言葉が記されている。
「あの時代、確かに軍部の一部が暴走したのかもしれない。しかし、国民もまた煽られた、
というか同調した。そういう状況を政治がつくりだしてしまった。これが政治の貧困なん
だ」と。現代の政治もまさに「政治の貧困」のままだと言えるのではないか。

ところで、この本の中にある青木理氏の辛辣な質問に対する安倍昭惠夫人の答弁には、な
かなかすばらしいと答弁だと、ちょっと感激してしまった。
「政治家には、すごく努力している人もいるし、天才的な人もいる。主人はそのどちらで
もないとは思います。でも、選ばれて生まれてきたんだろうなとも思う。天のはかりで、
使命を負っているというか、天命であるとしか言えないと思っていて・・・見えないもの
の力っていうのがすごくあると思うんです」
たしかにそうかもしれないと思った。歴史を見ても、すごく才能がある人やすごく努力し
た人が、必ずしも天下取りを果たしてはいない。やはりそこには天命と呼ぶしかない見え
ない力が働いたとしか言えないことが多いように思うのだ。
また安倍昭惠夫人は世襲議員に関して次のように述べたという。
「先代の息子だから、娘だからといって、その人の資質も見極めずに票が入ってしまうの
は違うと思う。私たちも世襲議員として票をいただいてきたので、軽はずみなことは言え
ないのですけど。いまの仕組みでは、普通の人が政治家になりたいと思っても簡単にはな
れない。もう少し、志のある人が、政治家になりやすい仕組みをつくるべきだと思ってい
ます」
昭惠夫人は、週刊誌などで叩かれたりもしたが、これをみると、なかなかしっかりした考
えを持った人なんだなと、認識をあらたにした。

過去に読んだ関連する本:
美しい国へ
安倍官邸の正体



・日本の政治は、もはや、”稼業”と化してしまったのか。
 2014年12月に行われた衆院議員選挙でみた場合、父母、義父母、祖父母のいずれ
 かが国会議員、または三親等内の親族で、国会議員がいて、同一選挙区から立候補した
 候補者を「世襲」と定義した場合、全当選者の23.6%を占めた。
 つまり、全衆院議員のほぼ4人に1人が世襲になった、ということである。
 これが自民党の当選者に限ると3人に1人が、直後に組閣された第3次安倍内閣になる
 と、閣僚の実に半数が世襲議員によって占められることになった。
・伝統工芸や中小企業経営の世界ならばともかく、世襲による「政治身分の固定化」は、
 一種の階層社会、格差社会につながり、政治や社会から活力や多様性が失われかねない。
 何より問題なのは、代議制民主主義の下、選挙を通じて国政を委ねられている議員に、
 これほど世襲がはびこれば、幅広い層の意思や意見が政治に届きにくくなる点であるろ
 う。 
・だが、世襲議員は現代日本政界にますます盛んに繁殖している。
 その究極形ともいうべき存在が、「安倍晋三」であることに異論はないであろう。
 父は外相や自民党幹事長などを歴任した姉晋太郎、母方の祖父は”昭和の妖怪”などと評
 された元首相の「岸信介」。岸の弟である元首相の「佐藤栄作」は大叔父にあたり、
 現在政権を支える「麻生太郎」も縁戚にあたる。麻生の母方の祖父は元首相の「吉田茂
 であり、家系図をさらにたどっていくと、絢爛たる系譜は戦前の外相「松岡洋右」から、
 果ては皇族まで連なっていく。
・くらくらと眩暈がするほどまばゆい閨閥であり、もはや日本の”最強政閥”と評せるほど
 ではあるが、逆にすっかり影が薄くなってしまったように見える叩き上げの政治家たち
 はこれをどう考えているのか。
  
<寛>
知られざる祖父
・安倍家は代々、醤油などの醸造業を営んでいた。
 また、田畑や山林などを多数所有する大地主でもあった。
・旧・日置村の高台にある安倍家の墓は、近隣の住民たちによって日々、ボランティアで
 掃除され、生花が手向けられつづけてきた。
・旧・日置村で安倍家を知る人びとを訪ね歩き、耳にすることができた話などを総合する
 と、地元で醸造業を営んでいた安倍家と政治を最初に結びつけたのは、寛の祖父にあた
 る安倍慎太郎という人物だったようである。
・慎太郎は明治12年、つまり1879年に開かれた第1回の山口県会に出席したとみら
 れ、「将来は国政も視野に入れた活動をしていたらしい」という。
・ところが慎太郎は、わずか32歳という若さで早世してしまう。
 しかも慎太郎夫婦には子どもがいなかった。
 そこで慎太郎の妹・タメが近隣の旧家から婿として彪助を迎え入れ、安倍家を継承した。
 その彪助・タメの間に、たったお一人の子どもとして生まれたのが寛であった。
・だが、間もなく彪助も、そしてタメまでもが、病気のため世を去ってしまう。
 寛は1歳にもならぬうちに父を、4歳にもならぬうちに母を、相次いで失った。
・代わって寛を育てたのは母・タメの実姉であるヨシだった。
 寛から見ると伯母にあたり、安倍家と政治を最初に結びつけたのは慎太郎の妹というこ
 とになる。
・亡き両親にかわって伯母の手で育てられた寛だが、勉学などに極めて優れていたらしく、
 地元の小学校から萩中学校、そして金沢にあった旧制第四高等学校を経て東京帝国大学
 の政治学科に進学を果たす。
・間の養母役となった伯母のヨシは気丈な女だったらしく、ヨシによる寛の教育方針が次
 のように描かれている。
 「ヨシは実兄の慎太郎が果たせなかった代議士、大臣の道を目指せと寛をはげました」
・その甲斐あってか、寛は東京帝大を卒業すると、すぐに東京に自転車の製造会社「三平」
 を立ち上げた。
・寛は生涯唯一の伴侶を得る。
 日清・日露の両戦争で武功をあげ、陸軍大将にのぼりつけて旧満州の経営にもあたった
 「大島義昌」の孫娘・静子であった。
・その大島義昌の故郷は、寛が生まれ育った日置村と隣り合った菱海村であったというか
 ら、大島の孫娘と寛との結婚は、いわば隣村の名家同士の縁組といえた。
・政治の世界を目指して東京で事業を立ち上げた”美男美女”の夫婦には、結婚から約3年
 後の1924(大正13)年4月、長男が生まれた。「晋太郎」である。
・だが、若き寛と静子夫妻の間には暗雲が垂れこめていた。
 なによりも晋太郎が生まれる前年、1923(大正12)年の9月1日に発生した関東
 大震災。  
 この大惨禍の後、寛は政治資金集めのために設立したとされる会社をたたみ、幼き晋太
 郎を抱えて単身、故郷の日置村へと舞い戻る。
 ほぼ同時期には、妻・静子とも離婚してしまった。
・理由については諸説がある。
 大震災によって商売が破綻したのが原因だったともいわれるし、そもそも寛に商売人の
 才覚などなかったとの証言もある。
・静子と別れ、一粒種の晋太郎を故郷に連れ帰って以降、寛はその生涯を一貫して独身で
 通した。
 物心つく前に母と別れ、その母に会いたがる晋太郎に対して寛が「自分たちの夫婦仲は
 良かったんだ」と漏らしたこともあった。
 のちに少年期の晋太郎が母の面影を捜して東京をさまよったこともあった。
・大学卒業後に勇躍立ち上げた会社をたたみ、妻とも離別し、おそらくは失意とともに、
 故郷・日置村へと舞い戻った寛には、さらなる試練が待ち受けていた。
 学生時代に罹患していた病、結核が再発してしまったのである。
・その結核を寛が再発した引き金は、1928(昭和3)の衆議院議員選挙だったようで
 ある。 
 失意の中でも政治への思いを断ち難かったので、寛は定数4の山口1区から立候補の名
 乗りをあげた。 
・当時の寛はまだ33歳。しまも同じ山口1区の対立候補には、立憲政友会の「久原房之
 助
」らが立ちはだかった。
・この選挙運動での無理がたたり、結核の再発に加えて脊椎カリエスまで併発した寛は、
 一時は危篤状態に陥るほど病状を悪化させてしまったというのである。
 結核菌脊椎で増殖する脊椎カリエスは、当時の医療レベルでは有効な治療法がなく、ひ
 たすら安静にしているしか術のない難病であった。
・それでも寛を慕う声は地元に根強く、寛は病身のまま地元・日置村の村長に担ぎ上げら
 れる。  
・それにしても、旧・日置村の界隈を歩いて人びととの話に耳を傾けていると、安倍家へ
 の敬慕、ことに安倍寛や晋太郎への敬慕の深さにあらためて驚かされる。
・いわゆる無党派層が市民の圧倒的多数を占めるに至り、時によって気まぐれに吹く風で
 選挙結果が大きく左右される現代の大都市部とは異なり、保守的に閉鎖的な風土が残っ
 ている地方部ではいまなお地域への帰属意識、郷土意識が強い。
 そうした地で、寛は地元の名家出身の秀才として自らの手で政治を志した。
 その息子・晋太郎も幼き日々を地元で過ごし、政界では総理総裁まで目前で迫って斃れ
 た。 
 いずれもまさに”郷土出身の英雄”である。
・母と早くして別れた晋太郎は、地元の人びとが母代わりのような眼で見つめる中で育っ
 た。 
 しかもその系譜を継ぐ晋三はいま、総理としてこの国を統べ、歴史的になるかもしれな
 い長期政権を維持している。
 だから安倍家が地元の敬慕を一身に集めているのも当然といえば当然である
・しかし、少し突っ込んで話を聞いていくと、ひたすら絶賛される寛や晋太郎に比べ、3
 代目の晋三になるとかなりの温度差があることにも気づかされる。
・もちろん、徹底的な批判を公然と口にする者は決して多くはない。
 それでも、寛や晋太郎に深い敬慕の念を寄せつつ、晋三には戸惑いを隠せない気配は、
 旧・日置村の人びとの中に明らかに漂っていた。 
 それは、晋三の政権が推し進める政策とその政治姿勢によって増幅されている。
・あらためて記すまでもなく、集団的自衛権の行使を一部容認した憲法解釈の変更と、
 それを土台とする安保関連法制は、日本の戦後体制を大きく変貌させる歴史的な安保政
 策の転換であり、あまたの憲法学者が憲法違反だと指摘したのはもとより、広範な人び
 とがこれに強く反発し、国会前は久しぶりの群衆デモに取り囲まれた。
・寛は平和主義者であり、反戦主義者だった。
 安保関連法制などという代物は、寛なら決して持ち出さなかったろう。
  
「富の偏在」への怒り
・安倍寛が旧・日置村で療養生活を送りつつ村長も務めるようになったころ、日本は急坂
 を転げ落ちるように無謀な戦争とファッショの泥沼へと足を踏み入れていった。
・1932(昭和7)年3月には、満州事変によって占領した中国東北部に日本の傀儡国
 家である満州国が建国された。
 同年5月には、首相の犬養毅が海軍の青年将校らに射殺される五・一五事件が発生し、
 政党内閣政治が事実上の終焉を迎えた。
・1933年3月には、満州国が不承認とされたことなどに反発した日本政府が国際連盟
 を脱退し、国際的な孤立は一挙に高まった。
 2月には作家の「小林多喜二」が虐殺されるなど国内の言論・思想統制は一層激しさを
 増した。
・さらに1935(昭和10)年には、天皇機関説事件が起きて国体明徴運動が国中を席
 巻し、1936(昭和11)年には二・二六事件が発生してファッショ体制は完成形に
 近づいた。
 そして1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件を契機として、ついに日中戦争が勃発
 したのである。
・この間に寛は、不惑の40代を迎えていた。
 おそらくは激しい苛立ちと焦燥にさいなまされていたのではないか。
 若き日から政治の道を志していたにもかかわらず、肝心な時期に療養生活に甘んじてい
 る己の身を。故国が破滅への道を突き進んでいるのに、何もできないまま故郷の村でく
 すぶっていなければならないことを。
・その苛立ちと焦燥をぶつけるように、寛は1935年、村長職に就いたまま山口県議会
 議員選挙に出馬し、今度は当選を果たした。
 当時は村長と県議、さらには国会議員まで兼務できた。
・翌1936年には、衆議院議員選挙への出馬も模索した。
 盟友で同時期に山口県議となった「青木作雄」が寛のもとを訪れ、こう言った。
 「私が事務局長をするから政界刷新のため立候補してほしい」
・だが、寛はこれに応じなかった。
 いや、応じられるような状態ではなかった。
 病状がなかなか好転せず、激しい選挙戦に耐えられるような身体ではなかったからであ
 る。
・当時11歳になっていた晋太郎も、泣きながら父にすがりつき、こう言って出馬取りや
 めを懇願したという。
 「選挙に出てくれんな。死んじゃいけん」
・父の離婚によって母と別れ、大伯母らの手で育てられていた晋太郎は、兄弟姉妹のいな
 い一人っ子であった。 
 万が一にも父・寛を失えば、近しい肉親のいない天涯孤独の身になってしまう。
 子ども心にも必死の想いだったろう。
・そのわずか1年後、寛の病状がようやく落ち着き、なんとか選挙戦に耐えられる体調に
 なった1937年4月、またも衆議院議員選挙が実施されることになった。
 虎視眈々と機会をうかがっていた寛は、山口1区から無所属で出馬の名乗りをあげた。
 時に寛、43歳になったばかりの春であった。
・寛が”選挙のマニフェスト”の3番目に掲げた
 「富の偏在は国家の危機を招く」
 ここに寛の政治姿勢の一端が凝縮されているように私は思う。
・貧富の格差への憤り。
 失業者対策の必要性の訴え。
 生活が不安定な勤労者や農家、中小企業経営者に寄せる配慮。
 その一方で、大資本や「財閥特権階級」に向けられた厳しくも辛辣な視線。
 「富の偏在は国家の危機を招く」などという訴えは、現在も通用するまさに慧眼の警句
 であり、思わず皮肉のひとつも言いたくなる。
・税洗面でも経済対策でも大企業や富裕層を優遇し、そこが潤えば”トリクルダウン”によ
 って庶民にも潤いが垂れ落ちてくるのだと訴える、どこぞの政権に爪の垢でも煎じて飲
 ませてやりたい。
・一方で、この”選挙マニフェスト”をいくら繰り返し読んでみても、ぬぐえない違和感を
 覚えたことを記しておかなければならない。
 寛は今回の選挙を「国家平穏時における選挙」ではなく、「時代認識に対する根本的覚
 悟を問う重大な総選挙」だとぶちあげた。
 にもかかわらず、”選挙マニフェスト”には、当時の日本を取り巻く国際情勢や戦時体制
 への言及があまりにも薄いのである。
・この総選挙では、寛の”同期”として「三木武夫」や「赤城宗徳」が初当選を果たしてい
 る。 
 赤城は1960(昭和35)年の日米安保改定時に防衛庁長官を務め、首相の「岸信介
 からの自衛隊出動要請を拒否したことで知られが、寛とは意気投合したらしい。

反戦唱え、翼賛選挙へ
・1942(昭和17)年4月、陸軍出身の「東条英機」内閣の下で行われた第21回衆
 議院議員選挙は、とても選挙と呼ぶに値しないグロテスクな代物であった。
・当時の軍部は、戦争遂行のために一国一党制を敷こうと蠢いていた。
 これに対し、第2次政権を担った近衛文麿らが中心となって大政翼賛会が組織され、政
 友会や民政党といった各政党もすべて解散してこれに合流した。
 大政翼賛会とは、いわば官製の国民統制運動、国民統制組織にほかならなかった。
・寛は、東条内閣の方針に真っ向から歯向かった。
 翼賛選挙についても、常日頃から厳しい批判を加えていたから、当然のこととして推薦
 は得られない。それでも寛は出馬に踏み切った。
・寛に対する特高警察や憲兵の監視も熾烈を極めた。
 警察は24時間態勢で寛をマークし、そればかりか当時17歳だった息子・晋太郎まで
 が執拗な尋問を受けるほどだったという。   
・寛はグロテスクな翼賛選挙も勝ち抜き、当選をもぎ取った。
 それはどれほどすごいことだったのか。
 推薦候補の当選率は実に8割を超えている。
 一方、非推薦の候補者も613人にのぼったが、当選者はわずか85人。
 逆境をはねのけて当選を勝ち取った非推薦候補の中に寛がいた。
 また、前回選挙で初当選の”同期”となった三木武夫もそれに含まれていた。
・三木武夫の妻・睦子さんは、終戦の翌年に51歳で亡くなった寛さんへの思いを吐露し
 た。 
 「今の私たちに、戦争を知らない、本当に平和な時代をつくってくださったのは、安倍
 寛さんたちだったと思うのです」
・特高警察の目をかいくぐりつつ、三木宅を真夜中に訪ね、相談事を終えるとふたたび闇
 の中に消えていった、という寛の姿も印象的だが、戦後の平和体制を築いたのが寛たち
 にほかならなかったのではないか、という睦子さんの指摘にはうなずくところが多い。
・翼賛選挙にあたって警察当局が全国会議員をひそかに調査し、国策への忠誠度などを基
 準に「甲乙丙」のランクづけを行っていた。
 この際に「反国策的」「反政府的」と断じられた政治家たち、そして翼賛選挙を非推薦
 で戦った政治家たちが、戦後日本政治の主翼を担ったのは間違いないからである。
・大局を見通す確かな目を持っていたのか、あるいは根っからの反骨、反戦主義者だった
 のかはともかく、大半の者が大勢に流されて押し黙った軍部ファッショの暴風の下、
 確かに寛は反旗を翻し、地元村民もこれを熱心に支持して2度目の当選を果たした。
・だが、政治にかける寛の熱意と地元村民の声を国政の場に届けることは叶わなかった。
 もはや戦局の悪化を押しとどめることなどできるはずもなく、肝心の国会機能は停止状
 態に陥っていたし、非推薦の「反国策」議員に議会で発言の場から与えられるわけもな
 い。 
 また、寛の人生を終始苦しませ続けた病が再び牙をむいて襲いかかったのである。
 
・1945(昭和20)年8月、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国に伝え、内外に
 多大な被害と犠牲を強いた戦争は、日本の無残な敗北とう形でようやく幕を下ろした。
 逆に言えば、ついに寛がその本領を発揮して政治の世界で活躍できるかもしれない時が
 きたわけだが、集英のしばらく前に寛はまたも体調を崩し、地元・日置村に戻って病床
 に臥すようになってしまった。
・この時期に興味深い人物が寛のもとを見舞いに訪れている「岸信介」である。
 岸がいったいなぜ、寛のもとを訪れたのか。
 一見すると水と油、まったくそりが合わないように感じられるが、この時までの2人に
 接点がないわけではなかった。
・岸は満州から帰国直後の1939(昭和14)年10月、商工次官に就任している。
 ちょうどこの時、衆院議員だった寛は商工省委員となっていた。
 商工官僚のトップと国会の商工委員。当然、さまざまな形で接触はあっただろう。
・とはいえ、翼賛選挙の際に商工大臣だった岸は、翼賛政治体制協議会の推薦候補として
 山口2区から出馬してトップ当選を果たし、一方寛は、非推薦候補として隣りの山口1
 区でギリギリの当選をもぎ取ったのだから、やはり立場はまったく正反対だった。
 
・しかし、岸の身にも間もなく重大な変化が訪れる。
 1944(昭和19)年7月、日本の敗北を決定づけたサイパン陥落をめぐり、首相の
 東条と商工大臣の岸との間に生じた不調和音。
 サイパンが米国の手に落ちれば日本本土が爆撃機B29の攻撃射程に入ると考えた岸は、
 対米戦争はもはやこれまでと「早期終戦」を訴えた。
 一方の東条は「聖戦「聖戦継続」の方針を変えるつもりは豪もなく、岸に辞職を迫った
 が、岸をこれを拒否して閣内不一致が現出し、東条内閣は崩壊に追い込まれたのである。
・岸の真意が奈辺にあったのか、いまなお判然とはしていない。
 岸研究の第一人者「原彬久」は、岸のこうした振舞いは「先物買い」だったのではない
 か、との見方を紹介している。
 敗色濃厚の状況を察知して、いち早く東条政権に反旗を翻し、戦争責任を流れようとし
 たのではないかという分析である。
・真相はわからない。
 ただ、結果的に東条内閣を総辞職に追い込んで閣僚を辞した岸は、ただちに故郷・山口
 に舞い戻って「防長尊攘同志会」なる政治組織をつくって雌伏の時を過ごす。
 その最中、山口県の各地を遊説しつつ、旧・日置村に足を運んで寛を見舞ったのである。
・いまとなっては、寛を見舞った真意も確認する術はない。
 しかし、岸は単純な体勢従属派ではなく、保守やタカ派といった言葉では捉えきれない
 鵺のような一面を持ち、学生時代には北一輝に心底心酔した国家社会主義者といえる顔
 もあった。
・岸が寛を見舞ったのは、間もなく日本が敗戦を迎える1945年春のことだった。
 この時、岸は48歳、寛は4月に誕生日が来れば51歳。
・「後に両氏の子供が夫婦になるとは予想もしなかった」
 寛の唯一の息子・晋太郎と、岸の長女・洋子が結婚したのは、これから約6年後の
 1951(昭和26)年である。
・晋太郎・洋子夫妻はそのご、3人の子供をもうけた。 
 その次男である晋三がいま、戦後70年の時を経て首相の座に就いている。
・寛の病状はやはり悪化の一途をたどった。
 そして敗戦から半年後の1946(昭和21)年1月30日未明、ついに運命の時を迎
 える。 
・結核とその合併症である脊椎カリエスに長年苦しめられてきた寛だったが、直接の死因
 は心臓麻痺だったと記録されている。
 享年51。現在よりはるかに平均寿命が短かった時代とはいえ、あまりに早すぎる、あ
 まりに突然の死だった。
・寛の家からほぼ東の方向に1.6キロほど離れた場所にいまもある長安寺は、安倍家が
 代々、菩提寺としてきた浄土宗の古刹である。
 決して広大ではなく、絢爛でもない。むしろ地味でこぢんまりしているが、しかし手入
 れは行きとどいた境内を訪ねると、住職の有田宏孝がインタビューに応じてくれた。
 「寛さんがすごい人じゃったからみんなが安倍家に一目置いて(選挙運動の支援などを)
 やったと思いますよ。このあたりの者で寛さんや晋太郎さんを悪くいうのは一人もおら
 んでしょう。
 「でも、それに比べると晋三さんはね・・・」
 「こんなことを言っては失礼だが、東京生まれ、東京育ちのボンボン。寛さんや晋太郎
 さんとは、ぜんぜん違いますなぁ」
・長安寺の門前には現在、晋三が揮毫したという「長安寺」の文字と「内閣総理大臣 安
 倍晋三」の銘が刻まれた石碑が建てられている。
 晋太郎の命日の法要などの際は、いまも住職の有田がお経をあげている。
 その菩提寺の住職までが、寛や晋太郎には限りない敬慕の念を口にしつつ、晋三にはひ
 どく冷淡なのだった。
・とはいっても、これは晋三個人の責のみに帰すのは少々酷な面があるようにも思う。
 かつての大半の政治家は、生まれ故郷であり地元でもあり選挙地盤でもある地域に根を
 張り、しっかりと足をつけ、自ら支援者を掘り起こし、その支持を受けた代表として国
 政を目指していた。
・ところが世襲によって政治が”家業”かのように引き継がれるようになるに従い、地元や
 選挙区との距離は徐々に遠くなり、政治家にとってそこは単なる「票田」にすぎなくな
 っている。
・一方地元民にしても、代々のつきあいに加え、政界での力を持っている当選確実なサラ
 ブレットだから支持は続けていても、かつてのような実感を伴う関係は薄まり、自分た
 ちが送り出した地域の代表なのだという意識も希薄になっていく。
・こうした政治家と有権者の冷めた関係にも利点がないわけではない。
 古くからある地元への利益誘導的な振る舞いは減る可能性があるし、政治家の側もいわ
 ゆるドブ板的な政治活動に時間を費やすことなく国政の課題に専念できることもあるだ
 ろう。 
・だが、自らが汗水を流して掘り起こしたわけでもなく、先代や先々代から継承した「票
 田」の上にあぐらをかく政治家など、所詮は苦労知らずのボンボンにすぎない。
 そうした者が増えれば政治の活力やダイナミズムは削ぎ取られ、何よりも地に足のつい
 た低い目線は確実に失われていく。
・そうして強まるのは中央の目線、弱まるのは地方の目線。
 はびこるのは強者の論理であり、弱者や少数者への配慮は忘れられていく。 
 と同時に地に足のつかぬ理念先行型、悪い意味での高踏遊離型の政治が横行しかねず、
 3代世襲の安倍政治でもその現象は間違いなく起きていると私は考えている。
 それは現代日本政治が抱える宿痾のひとつにもなっていると思う。
・さて、政治家・寛の死は、まさに現代と同じような問題を生じさせた。
 果たして後継候補を誰にすればいいのか、と。
・寛の遺志を継ぎ、しかも勝てる候補は誰か。
 寛自身は死の間際、「晋太郎が政治になり、自分がいただいた行為に応えてくれれば」
 と漏らしていたらしく、周囲の者たちとしてはそれがベストの選択だったかもしれない
 が、東大生だった晋太郎は選挙時点でまだ21歳。被選挙権すらなかった。
・いずれは晋太郎が後を継ぐことも想定し、ワンポイントの後継として最適な人物。
 とはいっても終戦直後の大混乱期、ふさわしい人物はなかなかみつからない。
 困り果てた末、最終的に白羽の矢が立ったのは、安倍家のすぐ近くで小さな病院を営ん
 でいた「木村義雄」であった。
・木村義雄の妻・節子は寛といとこ同士の関係で、もともと山口県萩市で病院を営んでい
 た木村に地元・日置村での開業を勧めたのも寛だった。
 地域に医療機関がなかったため、親戚の木村に頼み込んで開業にこぎつけたのだといわ
 れている。 
 また、息子の晋太郎も木村家と親しく交わり、しばしば木村家に出入りし、時に食事な
 どをふるまわれていた。
 木村の娘・恭子とはきょうだいのように育ったという。
・全県がひとつの選挙区に再編され、定員9人となった山口選挙区に40人以上も立候補
 する乱立、激戦の選挙戦だったが、木村は6番目の当選者となり、万歳三唱にこぎつけ
 た。 
・ところが木村は、ワンポイントの後継者として新他党にバトンを引き継ぐまでの間、
 衆院議員の座を固守することができなかった。
 戦時中に地元翼賛会の幹部などを務めた経歴が問題となり、GHQの公職追放処分によ
 って衆院議員の地位を失ってしまったのである。在職期間はわずか1年あまり。
 代わって後継者に担がれたのが「周東英雄」であった。
・寛の後継者として衆院議員となった木村義雄が周東と知り合って懇意になった。
 木村は自らが公職追放で失職を余儀なくされるにあたり、地元出身の代役として格好の
 人物だと睨んで周東に立候補を勧めたのである。
・周東は山口選挙区から立候補して当選した。
 以後順調に再選を積み重ね、吉田茂政権下で農林相などを務めて政界での地歩を着実に
 固めていく。
 だが、それは本来の後継者であったはずの晋太郎にとっては決して好ましいことではな
 く、ついには晋太郎出馬にあたっての”障害物”となって立ち現れることになる。
 
<晋太郎>
天涯孤独のドウゲン坊主

・日本の敗戦が刻々と近づいていた1945(昭和20)年の春。
 悲壮な決意を胸に抱いて山口県大津郡日置村に一時帰郷していた安倍晋太郎は、この時、
 生涯で最も忘れがたい一夜を過ごすことになった。
 病床に臥せる父・寛から思いもよらぬ事実を打ち明けられ、しかも自らの決意を再度見
 つめ直すようなアドバイスを与えられたからである。
・晋太郎は、進学した旧制第六高等学校(岡山)をわずか1年半で繰り上げ卒業させられ、
 父と同じ東京帝国大学の法学部への入学を決めたものの、実際には通学すらできないま
 ま海軍の滋賀航空隊に徴兵されていた。いわゆる学徒出陣である。
・海軍の滋賀航空隊は、琵琶湖畔に位置していた。
 晋太郎と同じ全国の高等学校から滋賀航空隊に選ばれたのは計250人。
 指名されて生徒隊長の一人に選ばれた晋太郎は、間もなく自ら率先して「特攻」を志願
 した。 
・正確にいうなら、自ら志願せざるを得ない状況だったのである。
 軍部が無謀な「聖戦」を鼓舞し、誰もがそれに異を唱えられなかったファッショの時代、
 「国のために命を捨てられるのか」と覚悟を問われ、徴兵された学徒兵が「ノー」など
 と言えるはずもない。
・否も応もなかった「特攻」への志願。
 隊員たちは残酷な運命を告げるため、それぞれの家族が待つ故郷に向かった。
 晋太郎も、父・寛が療養生活を送る日置村に戻った。
 入隊以来、約半年ぶりとなる帰郷だった。
・病床の父・寛と夜遅くまで語り合った。寛は言った。
 「お母さんとの夫婦仲は良かったんだ。だが、家同士の問題で別れるしかなかった。お
 前へのつぐないのために、私は再婚をしなかった。それから、お母さんはもう亡くなっ
 ている。黙っていてすまなかったな・・・」
 自らの命がさほど長くないことを覚悟したためか、寛はこんなことも晋太郎に言った。
・「この戦争は負けるだろう。だが、敗戦後の日本が心配だ。若い力がどうしても必要に
 なる。無駄な死の方はするな」
 弱冠20歳の晋太郎にとって、ショックな話ばかりだった。

・ふるさとの野山を駆け回りながら育ったドウゲン坊主(ガキ大将)の晋太郎は1937
 (昭和12)年、山口県の最名門・山口中学に進み、そのあとは1浪して1943(昭
 和18)年には旧制第六高等学校への入学を決めた。
 「中学」はいまでいう高校にあたり、進学者は25,6人の学年の中で1,2人だった
 という。
 高校進学率が97%を超える現在からみれば、学年に1人か2人しか進学できないとい
 うのはにわかに想像しがたい。
 しかし、まだまだ日本が貧しかった時代、ましてや日本海に面した小さな寒村の、それ
 が否定しようもない現実であった。
・決してお坊ちゃま育ちではないという晋太郎だが、地元民たちからは「ダン坊」とも呼
 ばれていたという。 
 父・寛が「旦那様」と呼ばれていたのを略して「ダン坊」。
・旧制六高へと歩を進めた晋太郎は、いつのころからか剣道に熱中するようになった。
 その熱中ぶりは部活動のレベルを超え、父・寛が「このままでは身体を壊すのではない
 か」と本気で心配するほどだったという。
・高校生くらいの年頃で部活動にのめり込むのは別に珍しいことではない。
 ただ、晋太郎には少し別の事情もあったようである。
・晋太郎にはもっと深い理由があった。
 顔もおぼえていない母親へのつのる想いを吹き飛ばすため竹刀を振りつづけたのである。
・夏休みで故郷に帰ると、父親には内緒で、親類先を回っては「ボクのおかあさん、しら
 んかね」と尋ねて回った。
 小島義助の母、ミヨなどは、寛から「母親のことをいってはならぬ」ときつく戒められ
 ていたので言葉に窮し、オロオロするばかりだった。
・少年期の晋太郎を知る者たちの幾人かは、乳離れもしないうちに別れた母・静子の面影
 を晋太郎はおいつづけていたと口を揃えた。
 東京の新宿あたりに母がいるらしいと耳にした際には、理由を隠したまま父・寛や親類
 にせがみ 、その上京に同行したこともあった。
 新宿では、母の面影を追って街をさまよったという。
 当たり前の話だが、おびただしい数の人が往来する大都会をいくら歩きまわっても、正
 確な住所すらわからぬ女性を探し出せるはずもない。
・晋太郎が母・静子を捜しつづけていたころ、その母はすでにこの世にいなかった。
 寛と離婚した後に一時は別の男性と再婚していたのだが、1936(昭和11)年6月、
 実に31歳という若さで病死していたからである。
 原因は父・寛を終生苦しめたのと同じ結核。
 つまり晋太郎が12歳の時出来事であり、晋太郎にしてみれば、すでに亡き母の影を必
 死で追っていたことになる。
・1945年の春、病床の父・寛からこの事実を告げられた際は衝撃的だったが、晋太郎
 にいつまでも衝撃に浸っている余裕はなかった。
 自身が間もなく「特攻」によって海の藻屑と消え去る運命に直面していたからである。
 海軍の滋賀航空隊に入隊した晋太郎は、すでに水中特攻の訓練も受けていた。
・1945年8月に日本が敗戦を受け入れたことで、寛のいう「無駄な死に方」を晋太郎
 はかろうじて逃れることができた。
 ただちに除隊となり、東大への復学を待つため旧・日置村に帰郷したのだが、しかし、
 さらなる不幸が晋太郎に次々と襲いかかる。
・まずは父・寛の死である。
 寛は敗戦のよく1946(昭和21)年1月、心臓麻痺で突如世を去った。
 しかも同じ年の7月には、母代わりになってくれていた大伯母ヨシまでが病で死去して
 しまう。 
 父につづいて大伯母まで亡くしてしまった晋太郎は、弱冠22歳にして近しい肉親をす
 べて失ったことになる。
 天涯孤独、そんな寂寥が若き晋太郎の胸を支配したのは想像に難くない。
・晋太郎を知るものの間では有名な話なのだが、のちに岸信介の娘・洋子と結婚して政界
 の階段を 
 駆けあがりつつも、晋太郎は周囲の者にしばしばこう漏らしていた。
 「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」
 それはまるで口癖のようにたびたび晋太郎の口から飛び出した。
 
「異端と「在日」
・父である安倍寛の背を見て政治の道を志した晋太郎は東大法学部を1949(昭和24)
 に卒業すると毎日新聞社に入社し、政治記者として若き日々を過ごした。
 政治家になるために「生の政治を学びたい」という理由だったからか、もともとの能力
 や相性によるものだったのか、決して辣腕の記者というわけではなかったようである。
・他方、入社から約2年後にはプライベートな面で大きな変化があった。
 1951(昭和26)年5月、岸信介の娘・洋子との結婚である。
 晋太郎や岸の関係者の話を総合すると、生前寛と交流のあった岸が、人づてに晋太郎の
 存在を知り、適齢期に達した愛娘の伴侶として目をつけ、見合いをさせたのがきっかけ
 だった。
・晋太郎と同じく毎日新聞の政治部記者出身で、のちに請われて政策秘書になった金巌と
 いう人物がいる。
 晋太郎の死後は永田町を離れ、秋田県由利郡の象潟町(現・にかほ市)で町長などを務
 めた。秋田の飛ぶと、晋太郎と洋子の結婚に関する経緯を明かしてくれた。
 「安倍寛に息子がいるって、誰かが(岸に)言ったんですね。安倍寛は、ある意味では
 (岸の)政敵なんですが、東大卒で安倍寛の息子ならいいじゃないかということで、そ
 こから(縁談話が)はじまったらしいです。ところが晋太郎さんは『オレが(洋子を)
 もらってやんたんだ』と、こう言うわけです。みんなから『岸さんのお眼鏡に適ったか
 らでしょう』と言われたりすると、『冗談じゃない。おれがもれってやったんだ』と。
 これはしょっちゅう言ってましたね」
・いずれにせよ、晋太郎と洋子の縁組は、岸が主導した見合い結婚であり、いくら晋太郎
 が「岸の女婿じゃない」と強調しようとも、”昭和の妖怪”の閨閥に連なったことは、
 政界への特急券を手にしたに等しかったのも疑いようのない事実であろう。
・岸は戦後、日本を占領したGHQによってA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所
 に繋がれた。 
 からくも不起訴となって釈放されたのは1948(昭和23)年12月。
 さらにサンフランシスコ講和条約の発効に伴って公職追放が解除されると、ただちに政
 治活動を公然化した。
・晋太郎と洋子の結婚は、岸が公職追放中のことだった。
・公職追放の解除からわずか1年後の1953(昭和28)年4月には衆院選に出馬して
 当選し、1955(昭和30)年には鳩山一郎や三木武吉らとともに民主党と自由党の
 保守合同を主導、いわゆる「55体制」の礎を築く。
・そして1956年には自民党総裁選に名乗りをあげ、決戦投票で「石橋湛山」に敗れは
 したものの、一挙に石橋内閣の外相に就いたのである。
・晋太郎の人生も、岸の動きに合わせて急変転した。
 1956年12月に毎日新聞を退社し、岸の秘書官に。
 1957(昭和32)年には病で倒れた石橋に代わって岸が首相に就いたため首相秘書
 官に。 
 そして1958(昭和33)年には、山口1区から出馬、34歳という若さで初当選を
 果たしたのである。
・1958(昭和33)年5月に衆院選挙が行われることになり、晋太郎は初出馬を目指
 しはじめた。
 しかし、立候補を予定する山口1区は定数4の枠内に有力候補がひしめき合う激戦区に
 なっていた。
 周東の他にも元首相・「田中儀一」の長男で山口県知事などを歴任した「田中龍夫」、
 のちに自治相などを務める「吉武恵市」といった自民党政治家がしのぎを削り、社会党
 も1、2議席を奪う力を保持していた。
・そこに晋太郎までが割り込めば大混戦になるのは必至である。
 義父の岸も当初は出馬を思いとどまるよう説得したらしい。
 だが、晋太郎の意志は固かった。
 いくつかの理由が伝えられていて、ひとつは父・寛の後継者であったはずの周東への憤
 りだったという。
 岸と石橋湛山が自民党総裁選を争った際、周東が石橋側についたことが許せなかったと
 いうのである。
 晋太郎は周東にこう告げたとされている。
 「あなたが出ている間は出馬しないつもりだった。が、もうその関係は終わった。出馬
 します」
・これが本当の理由だったかどうかはわからない。
 周東は当時まだ60歳だったから、禅譲を待っていては時を逸するという焦りがあった
 とも考えられる。
・いずれにせよ晋太郎の出馬の意志は固く、義父の岸やその周辺は頭を悩ませた。
 自民党内の候補調整すらできない選挙区に岸の女婿が殴り込みをかけるかのように出馬
 すれば、岸の威光に傷がついてしまいかねない。
・難題を解決したのが、岸の弟である「佐藤栄作」だった。
 自派に所属していた吉武恵市を説得して参院に鞍替えさせ、晋太郎の自民党公認での出
 馬に道を開いたのである。
・だが、晋太郎の出馬は地元に亀裂をもたらした。
 主流派の人びとは実績を積み上げてきた周東英雄を引き続き支援し、旧・日置村では周
 東派と晋太郎派に分裂して家族内でも険悪なムードになる者が出る始末だったらしい。
・結果、初出馬の衆院選で晋太郎は周東をわずかに上回り、田中龍夫に次ぐ2番目の得票
 で初当選を果たした。

オレのオヤジは大したやつで
・結局のところ晋太郎も、先代と閨閥の七光りに彩られた世襲議員であった。
 ただ、それだけにとどまらない幅の広さと懐の深さ、そしてなによりも絶妙なバランス
 感覚を身につけていた。
 決して押しは強くはなく、むしろそれは政治家としては弱さだと指摘もされ、どちらか
 といえばシャイな男だった。
・権謀術数の渦巻く政界にあって、手練手管を駆使することはなかった。
 クセのある強烈な個性の持ち主でもなかった。
 「したたかな政治家」とは対極の存在で、それが長所でもあり短所でもあった。
 裏をかかれたとわかっても「またやられたよ。でもこれでいいんだよ」と笑顔でもらし
 たことが何回もあった。 
・岸、福田という自民とタカ派の系譜を継ぎ、「保守の本領」を掲げたが、実際には平和
 憲法擁護論者で、野党関係も柔軟路線をとった。
・安倍晋太郎氏について「武村正義」氏は、
 「ものすごくバランス感覚のある政治家ですね。左右上下のバランスを常にきちんとと
 ることができる。それから、あまりご自身でハト派だとかリベラルだとかおっしゃりま
 せんでしたけれど、基本的にリベラルな方だった」
・1985年12月の国会で、ドイツはいまなお戦争の首謀者を追及 しているが、日本
 は戦争の加害者で侵略国家だったという反省がない。だから誤った認 識がいまも日本
 に残っている、との野党議員からの答弁を求められたのに対して、答弁に立った当時外
 務大臣だった安倍晋太郎氏は、 
 「私もやはり、第二次大戦は日本を亡国の危機に陥れた、大変誤った戦争であると思っ
 ております。国際的にも、この戦争が侵略戦争であるという厳しい批判がわるわけであ
 ります。政府としても、そうした批判に対しまして十分認識をして、これに対応してい
 かなきゃならない。これがこれからの、そしてこれまで日本が歩んできた世界平和を求
 める基本的な姿勢でなければならぬし、今後ともそうでなければならない、こういうよ
 うに思います」
・晋太郎らしいバランス感覚というか、当たり障りのなさもじむような答弁ではある。
 だが少なくとも晋太郎は、「侵略の定義は定まっていない」などという歴史修正に走る
 ことは決してなかった。
・「古賀誠」氏は、
 「田中六助先生が晋太郎さんと非常に仲が良かった。無二の親友であり、ライバルでも
 あった。六助さんの話の中には、常に晋太郎さんのことが出てきた」
・安倍晋太郎と田中六助はあらゆる面で好対象である。安倍はダン坊といわれ、名門の出
 身。オットリしていて口数も多くない。
 田中六助は行動力にあふれ、口八丁手八丁でもある。
 それ気が合うのかもしれない。
・「田中六助さんも学徒動員で海軍に行ったそうだが、六助さんは、特攻を送り出す側だ
 ったようです。この日に何機飛び立ち、それに誰が乗るかっていうのを送り出す側にい
 たと。だから戦争と平和についてはものすごく強い思いがあった。戦争だけはやっちゃ
 いかんちゅうのと、政治の貧困の怖さについてね」
 「あの時代。確かに軍部の一部が暴走したのかもしれない。しかし、国民もそれに煽ら
 れたていうか、同調するっていうか、そういう状況を政治がつくりだしてしまった。
 これが一番の貧困なんだと。政治の貧困。この無念さ、恐ろしさ、怖さですね。
・つまり、軍部の暴走を政治がきちんとコントロールできなかった。
 だから国民の大半も熱狂してしまったんじゃないかと。
  
リベラルとバランス
・東大生時代に父・寛が急逝し、続いて育ての母だった大伯母のヨシまで失った晋太郎は、
 自らが天涯孤独の身になってしまったと嘆き悲しみ、以後も長きにわたってそう思い込
 み続けていた。
 病に臥せっていた寛からは、母・静子もすでに世を去っているのだと聞かされていた。
・しかし、静子は寛と離婚して約3年後の1927(昭和2)年、半官半民の外国為替専
 門銀行だった「横浜正金銀行」に勤める西村謙三と再婚し、31歳という若さで病死す
 るまでの間に一女一男の子をもうけていた。
 長女の和子も終戦直前に17歳という若さで病死してしまったのだが、長男の正雄は健
 やかに成長し、父・謙三と同じ金融マンの道を歩んでいた。
 「西村正雄」は1932(昭和7)年生まれだというから、晋太郎にとって8歳下の異
 父弟ということになる。
・天涯孤独だと思い込んでいた晋太郎は、西村という異父弟の存在を知り、まるで子ども
 のように喜んだ。
・西村正雄氏は、
 「私が兄の存在をうすうす気づいたのは、昭和26(1951)年、18歳のときです。
 子供のときから可愛がってくれていた母方の大叔父の大島陸太郎に、私が東大に入った
 報告に行ったところ、帰り際に玄関までわざわざ出てきて、「正雄も立派に成人した。
 晋太郎によく似てきた。静子もさぞ喜んでいることだろう」と言ったのです。それで
 「あっ」と思ったわけです。」
 「それまで、晋太郎という名前を聞いたことはありませんでしたが、そのとき私は、兄
 弟がいるなと直感したのです。しかし、晋太郎がだれであるかは聞きませんでした。聞
 いてはいけないと感じたのです」
 「大叔父のひとことで、私が兄の存在も知ったあとも、私は何もしませんでした。ただ、
 しだいに代議士として活躍し有名になり始めた安倍晋太郎が、その兄であるらしいこと
 に気がつきました」
 「安倍晋太郎が兄に違いないと心ひそかに思いながらも、しかし、こちらから名乗り出
 ることははばかれました。一つには、相手に迷惑をかけてはいけないという気持ち。
 とにかく、相手は非常に脚光を浴びている人だったし、そういう人にこちらからわざわ
 ざ名乗り出て迷惑をかけるわけにはいなない。むしろ自分の心の片隅にしまっておいた
 ほうがいいのではないか、という気持ちですね」
・迷惑をかけてはいけないと思って出しゃばるのを避けていた西村と晋太郎をつないだの
 は、安倍家と西村家の双方に縁のある知人たちだったようである。
 「向こう(晋太郎)にその気持ちがあれば、お願いします」と西村が仲介者に伝えると、
 喜んだ晋太郎はすぐに対面に応じた。
 1979(昭和54)年5月、晋太郎は多忙の合間をぬって対面場所に駆けつけた。
・晋太郎と西村は夢中になっていろいろなことを話した。
 何よりも母・静子のこと。終戦直前ヒに早世した西村の姉・和子のこと。それは晋太郎
 にとっては異父妹でもあった。
 翌6月の末には、晋太郎と西村が連れ立って谷中霊園に眠る母・静子の墓参りにも赴い
 ている。 
・異父弟の西村との邂逅がよほど嬉しかったのだろう。晋太郎は西村との間で家族同士の
 会合もすぐにセッティングした。
 同行したのは妻の洋子と長男の寛信、そして次男の晋三。西村も家族を連れ、東京・愛
 宕にある精進料理屋で会合は行われた。

・晋太郎の人間的な側面に焦点を当てるにあたって、もうひとり、貴重な人物の証言を紹
 介しておきたい。  
 寛は晋太郎と同じ旧・日置村の出身で、実に25年の長きにわたって晋太郎の秘書を務
 めた女性である。
 絶対匿名を条件として私たちの取材に応じてもらったため、残念ながら氏名を記すこと
 はできない。
・現在は都内のマンションにひとりでひっそりと暮らし、これまでにメディアの取材に応
 じたことは一度もない。
 だが、晋太郎が衆院議員に初当選してから世を去るまでの33年の大半を直近で眺め、
 晋太郎一家はもちろん故郷・日置村や安倍寛のことなども知悉している。
・反骨と反戦の政治家・寛の息子として生を受け、その父を最大の誇りにしつつ、父の
 ”遺産”の上に晋太郎は立っていた。
 しかもきらびやかな閨閥の列に連なった世襲のプリンスでもあったが、その人生に課せ
 られた孤独と戦争体験がバランス感覚や優しさといった人格を形づくった。
 生前の晋太郎を知り尽くす元秘書の女性もそう指摘した。
・それに対し、「こんなにいい子がいるのかっていうくらい行儀がいい」と評された晋太
 郎の息子・晋三。 
 おそらくはそのとおりなのだろうと私は推測する。
 仮面の下に別の顔を持つ狡猾で策士でもなければ、権謀術数に長けた生来の悪人でもな
 い。
 むしろ凡庸にすぎるほど育ちのいい3世のおぼっちゃま。
 極端な善や悪などとまったく無縁にすくすくと育ったツクシん坊。
 だが、だからこそ、その姿はどこか頼りなく、薄っぺらく、強引な振る舞いに出ても、
 幅と深さと知性にかけるように思われて仕方ない。
 
<晋三>
凡庸な「いい子」

・政治家・安倍晋三の政治志向を形づくる原点のようなものを語る際、必ずといっていい
 ほど引き合いに出されるエピソードが二つある。
・母方の祖父・岸信介が首相として政権を率いていた時代、東京・南平台の岸邸には、
 日米安保条約の改定に反対するデモ隊が連日のように大挙押し寄せ、周囲は騒然とした
 雰囲気に包まれていた。
 だが、岸は常に泰然としていて、溺愛する孫の晋三らと邸内で鬼ごっこなどに興じてい
 た。 
 まだ小学校に入る前だった晋三は、デモ隊のシュプレヒコールを真似て「アンポ、ハン
 タイ、アンポ、ハンタイ」とはしゃぎ、父・晋太郎や母・洋子は「これ、晋三、アンポ、
 サンセイ」と言いなさい」とたしなめたが、岸はニコニコしながらそれを愉快そうに眺
 めていた。
・晋三が高校生時代、教壇に立った教師が授業の中で日米安保条約を批判し、晋三はこれ
 に公然と反論した。
 「日米安保条約には経済条項もあります。そこには両国間の経済協力がうたわれていま
 すが、これをどう考えますか」と。
 すると教師の顔色がにわかに変わり、「岸の孫だから下手なことは言えない」と思った
 のか、不愉快そうな表情で話題をほかに変えてしまった。
・逆にいうなら、これ以外のエピソードらしいエピソードが、皆無に近いのである。
 特に感性が研ぎ澄まされ、よかれ悪しかれ既存秩序への懐疑や反発なども強まる少年期
 から青年期にかけての逸話が、晋三にはほとんどない。それは、「安倍三代」に連なる
 祖父や父とはずいぶん対照的である。
・しかし、そんな男が安倍家の3代目を襲名し、あっという間に政界の階段を駆けあがっ
 た。  
 祖父・寛はもちろんのこと、父・晋太郎ですら成し遂げられなかった宰相の座をやすや
 すと射止め、1度目こそ手痛い挫折を味わったものの、2度目は長期政権の維持に成功
 し、戦後70年にわたって営々と積み重ねられてきた”この国のかたち”を変貌させつつ
 ある。
・1954(昭和29)年9月、安倍晋三は父・晋太郎と母・洋子の次男として東京に生
 まれた。
 2歳年上の兄に寛信が、5歳年下の弟に信夫がいたものの、岸の息子である信和夫婦に
 子どもがなかったため末弟の信夫が岸家に養子として入り、晋三は兄・寛信との2人兄
 弟として東京都渋谷区にあった晋太郎宅で育てられた。
・父・晋太郎は選挙戦や政治活動で自宅を留守がちにしていたから、母方の祖父(岸信介)
 が人格形成に大きな影響を与えたのは事実なのだろう。
・1961(昭和36)年春、学齢期に達した晋三は成蹊小学校に入学した。
 東京・武蔵野の閑静な地にある「成蹊学園」は、良家の子女が集うことで知られる著名
 私学である。
・その小学校に入学した晋三は以後、中学、高校、大学までの計16年間を一貫してこの
 学園で過ごしている。
 一般的に見るならば、かなり特異な成育環境といっていいだろう。
・晋三ばかりでなく、兄・寛信も同じく小学校から大学までを成蹊学園で過ごしている。
 そうした教育方針がとられたのはなぜだったのか。
 これもまた、孫を溺愛した岸信介の意向などが作用したようである。
・晋三を知るために私たちは、成蹊学園で机を並べた多数の同級生や先輩、後輩、そして
 教師らを訪ね歩いた。  
 返ってきた答えは、判で押したように同じようなものばかりだった。
 「勉強がすごくできたという印象はないけれど、すごくできなかったっていう印象もな
 い。スポーツでも際立った印象がほとんどなくて、決して活躍するタイプではなかった。
 つまり、特別な印象がないんです。将たる器っていう感じを彼(晋三)から受けたこと
 は一度もないので、(首相になっているのが)非常に不思議だと思っています」
・両親が不在がちだったからなのだろう、寛信と晋三には、幼いころから家庭教師がつけ
 られた。
 同級生らから聞くと、良家の子女が集う成蹊小学校でも家庭教師までつける子は、当時
 は珍しかったらしいのだが、その家庭教師のひとりが自民党衆院議員の「平沢勝栄」だ
 ったのはよく知らせた話である。
・父・晋太郎が不在がちで、近隣にも同世代の友人がほとんどいない中、晋三は兄・寛信
 とともに家庭教師や乳母役の女性を遊び相手にしつつ、幼年期を過ごした。
・そうした環境下、岸信介が晋三を溺愛した。
 強運と老獪さでA級戦犯としての訴追を免れて権力の頂点にのぼりつめ、猛烈な批判を
 受けながらも日米安保条約を改定に導いた”昭和の妖怪”。
 しかし、息抜きに赴いた温泉宿や別荘ではひたすら孫に愛情を注ぎ込む優しい祖父だっ
 た。
 世間では極悪人かのように指弾されているが、本当はそんな人じゃないんだ、そう考え
 て岸を攻撃する人たちへの反発を幼心に刻んだとしても不思議ではなく、これがやはり
 晋三の原点といえば原点なのであろう。
・とはいえ、少年期から青年期にかけての晋三に政治志向の気配はほとんど感じられない。
 岸の孫であり、晋太郎の息子だということは周囲も十分に認識していたが、私たちが訪
 ね歩いた同級生らの中にも、晋三から政治への意気込みはおろか、政治志向的な話を聞
 いた者は皆無に近い。
 ここでも語られるのは、ごく普通で何の変哲もない良家の子、つまりは、ごく凡庸なお
 ぼっちゃまの姿なのである。

・すでに成蹊学園を定年退職している青柳知義は、晋三物語につきものとなったエピソー
 ドの”適役”にされてしまった。
 担当していたのは倫理と社会。
 晋三が高校生だったのは1970〜73年だから、青柳が着任間もない時期だったこと
 になる。
 「私が(成蹊高校に)着任した年は70年安保(運動)が盛り上がっていて、以前には
 東大の樺美智子死においやられるということもあったので、その話は毎年していました。
 そして現代最大の権力悪は戦争であると考え、そこでアンポという話題を出したと思い
 ます。すると安倍くん(晋三)が立ち上がり、早口でこう主張したんです『安保条約は、
 日本を防衛するのに必要だ。この条約を考える時、軍事協力協定ばかりに注目するのは
 おかしい。経済協力協定もあるのではないか。この点について先生はどうかんがえるの
 か』と。『私は安保条約の柱は軍事協力協定であり、経済協力協定はこれに付随するも
 のだ。両者は相容れない』と答えました。安倍くんは不満そうでしたが、周囲の生徒と
 ひそひそ話をはじめ、議論はそこで終わりました」
・2013年に参院予算委員会で「芦部信喜」について尋ねられた安倍首相が「知らない」
 と答弁して波紋を広げました。
 「あれにはびっくりしました。そんなことも知らずに政治家になり、憲法改正をしよう
 としているのかと悲しくなりました。われわれ教育が彼(晋三)に伝わらなかった、そ
 ういう忸怩たる思いはあります」 
・要するに、高校時代までの晋三には、自らの遺志によって深い政治意識の芽を育んだよ
 うな気配、まして現在のような政治スタンスにつながるそれを育んだ気配は微塵もみら
 れない。
 せいぜい垣間見られるのは祖父・岸信介への敬慕のみ。
・それを端的にうかがわせるようなエピソード、「三島事件」をめぐる思い出を明かして
 くれたのは、東京都中央区の会社役員の同級生であった。
・1970年11月25日、東京・市谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地で、作家の三島由紀夫が割
 腹自殺した。 
 自衛隊に決起を呼びかけた末の三島の自殺は日本中に衝撃を与え、のちの新右翼運動を
 はじめとする戦後日本の保守運動、右派運動に長く深い影響を与える歴史的な事件であ
 った。
・ちょうどその日、高校生だったこの同級生と晋三は一緒に下校していた。
 成蹊学園に近い吉祥寺駅から京王井の頭線に乗り、それぞれ自宅に近い駅へと向かう車
 中、別の学校の生徒が乗り込んできて交わす会話が耳に飛び込んできた。
 「三島由紀夫が自衛隊で自殺したってよ」
 これを聞いた瞬間の驚きを、この同級生は今でも鮮明に記憶しているという。
・その時の晋三さんの様子は、
 「それが、(晋三と)一緒だったのは間違いないんですが、彼の反応はあまり記憶にな
 いんです。確かそんなの『そんなのウソだよ』とかなんとか言っていたんじゃなかった
 かなぁ・・・」
・これだけを捉えて晋三の政治的無関心をなじるつもりなどない。
 しかし、戦後日本のありようを激しく批判し、日本の歴史と伝統を守れと訴え、憲法改
 正によって自衛隊を「国軍」にせよと檄を飛ばした三島の自殺が晋三の心にさざなみを
 立てた気配はない。
・それ以前の問題として、小学校から高校までの同級生にいくら話を聞いても、当時の晋
 三からいまにつなげる政治的志向性など毛の先ほども感じられてこない。
  
「天のはかり」と「運命」
・あらかじめ断っておくが、学歴など本来はどうでもいいことだと私は思っている。
 それが就職などの面で人生の針路を多少左右することはあっても、人間の本質的な部分
 を規定するとは微塵も思わない。
 戦後日本の政治家でいえば、学歴のないことを”売り物”にさえした田中角栄のような怪
 物だって存在した。生まれ持った才にに加え、地を這って得た経験知は、時に学歴など
 軽々と凌駕するものである。
・ただ、晋三が敬愛する母方の祖父・岸信介は戦前、東京帝大の法学部に学び、戦後は民
 法学の最高権威となる「我妻栄」と主席を争うほどの秀才だった。
 父方の祖父・寛も同じく東京帝大で政治学を学び、そして父・晋太郎も東大法学部を卒
 業しているから、同じ道を歩もうという意思と意欲が晋三にあったとしても不思議では
 ない。
・会社役員の同級生は
 「いやぁ、東大は無理だったでしょう。早稲田や慶應も無理だったんじゃないかな・・」
・そうして進学した成蹊大学。
 とはいえ晋三は法学部の政治学科に在籍し、成蹊大の法学部は伝統的に良質な教授陣を
 多数擁していたから、将来の政治活動の土台となる知を吸収するには格好の学びの場と
 なるはずだった。 
 なのに、小学校から高校までの同級生が口を揃えて「可もなく不可もなく、極めて凡庸
 で何の変哲もない”いい子”だった」と評した晋三の姿は、大学時代もその印象をほとん
 ど変えることがなかったのである。
・晋三の所属ゼミの指導教授は佐藤竺だった。
 ゼミでの晋三を知る成蹊大の元教員はこんなふうに振り返った。
 「当時、佐藤先生のゼミ生は20人ぐらいでした。お寺などで合宿をして、その際はも
 ちろんみんな参加して、それぞれの研究テーマについて議論を交わすんですが、そうい
 うゼミの場で彼(晋三)がなにかを発言しているのを聞いたことがないんです」
 「彼が卒輛論文になにを書いたかも『覚えていない』って佐藤先生がおっちゃっていま
 した。『立派なやつ(卒論)はいまも大切に保管してあるが、薄っぺらなのは成蹊を辞
 めるときにすべて処分してしまった。彼の論文は、保管してある中には含まれていない』
 って・・・」
・繰り返しになるが、学歴が人を規定するわけでは断じてない。
 むしろ、そこでなにを学ぶかが大事なのだと私は考える。
 だが、若き日の晋三は、16年も籍を置いた学び舎で何かを深く学んだ形跡がまったく
 ない。 
 少なくとも、何かを深く学んだと教員や周囲の人間らに認識されていない。
 何を学んだという印象すら残していない。
・かといって、ボンボンの悪童として勇名を馳せたわけでもない。
 アルバイトに追われていたわけでもなく、遊びにうつつをぬかしていたわけでもなく、
 特定の女子学生と深く交際していたわけでもないらしい。
・成蹊大学名誉教授・「加藤節」は私たちの取材にこうも語ってる。
 「彼(晋三)は大学の4年間で、自分自身を知的に鍛えることがなかったんでしょう。
 だからいまの政権にいいたいことはたくさんあるけれど、最も多いのは二つの意味で
 『ムチ』だということです」
 「ひとつは『無知』。基本的な知識が欠如しているということです。
 もうひとつは『無恥』。芦部信喜を知らないなどというのはその典型でしょう。よくも
 あんな恥ずかしいことを平然と言えるものだと思います」
・加藤は憲法9条の擁護を訴える「九条科学者の会」の呼びかけ人などに名を連ねていて、
 晋三率いる政権とは政治思想的に真逆の位置に立っている。
・1977(昭和52)年4月、当時22歳になっていた晋三が生まれて初めて親元と成
 蹊学園を離れ、単身向かったのは米国西部のカリフォルニア州だった。
 その留学敬礼について晋三はある時期まで、後援会のパンフレットやインタビュー時の
 公式プロフィールなどにこう明記していた。
 「1977年3月 成蹊大学法学部政治学科卒業、引き続いて南カルフォルニア大学政
 治学科に2年間留学」
・ところが2004年2月、この晋三の留学経歴にケチがつく。
 「週刊ポスト」がUSCなどに取材した上で「経歴詐称ではないか」とすっぱ抜く記事
 を掲載したのである。
・USCの広報担当者は同志の取材にこう回答したという。
 「ソンゾウ・アベは78年の春期、夏期、秋期のみ在籍しています。その間は本学の正
 規の学生ですが、専攻はまだありませんでした。取得したコース(講座)は全部で6、
 そのうち3つは”外国人のための英語”です。政治学は入っていません。卒業できる数字
 ではありません」
・つまり晋三がUSCで学んでいたのはわずか1年間で、しかも「政治学科に留学」どこ
 ろか政治学すら履修しておらず、「外国人のための英語」を学ぶ段階にとどまっていた
 ことになる。
・全国紙なども「週刊ポスト」に追随して晋三の留学経歴詐称を報道し、国会でも問題化
 した。
 これを受けて晋三は以後、自身のプロフィールから「南カリフォルニア大学政治学科留
 学」の経歴を消している。
・なぜ、このような人物が為政者として政治の頂点に君臨し、戦後営々と積み重ねてきた
 ”この国のかたち”を変えようとしているのか。
 これほど空疎で空虚な男が宰相となっている背後には、戦後70年を桁この国の政治シ
 ステムに大きな欠陥があるからではないのか。
 
・晋三は1979(昭和54)年春、留学先の米西海岸から帰国すると、神戸製鋼所に入
 社した。
 はっきり言えば、明らかな”コネ入社”だった。
 それが言い過ぎだというなら”政略入社”であったと言い換えてもいい。
 神戸製鋼所で晋三の直属の上司となり、のちに同社の副社長にも就いた矢野信治に話を
 聞くと、当時を忌憚なく振り返ってくれた。
 「彼(晋三)は要領が良くて、腰も軽かったから職場にも馴染んだし、結構一生懸命に
 やる子だったから、みんなに好かれていましたよ。ただ、率直に言って”政略入社”です
 からね。当時の製鉄会社は、神戸製鋼に限らず、政治関係の”政略入社”が多かったんで
 すよ」
・晋三が神戸製鋼所に”政略入社”した背後には、父・晋太郎が選挙地盤としていた旧・山
 口1区の事情が横たわっていた。
 神戸製鋼所は下関に広大な製造所を有し、多数の従業員を抱える大企業であった。
・晋三が最初に赴任したのは米ニューヨークの事業所であった。
 役員経験者はこう語っている。
 「ニューヨークの駐在員っていうのは、各事業所のエースが集まる出世コースの登竜門
 です。若い新入社員がポッと配属されるなんて、普通はあり得ない。異例中の異例です」 
・その後、晋三はわずか1年でニューヨーク駐在生活を終え、1980(昭和55)年5
 月には兵庫県加古川市にある同社加古川製鉄所に転勤になる。
 担当は工程管理。
 鉄鋼生産の工程管理は、製鉄会社にとってはまさに現場に最前線であり、通常の新入社
 員はまずここに配属されて鍛えられるケースが多いという。
 しかし、職人的な気質の社員が多い”飯場”でもあり、晋三には負担が大きすぎたのか、
 ここもわずか1年に満たぬ期間しか在籍しないまま東京本社の鋼板輸出課にふたたび異
 動となった。
・これほど短期間でつぎつぎと異動を繰り返すのが異例なのは、会社勤めの経験がない者
 でも容易に推測できるだろう。
 背後にあった事情はおそらく二つ。
 ひとつは、入社間もない新人だから無理もないのだが、それぞれの職場の戦力になるほ
 どの能力が晋三本人になかった。
 もうひとつは、将来を見据えて政略的に預かった”サラブレッド”に、できるだけたくさ
 んの”経験”をさせてやろうという会社側の配慮。
 おそらくはその双方であったと思われる。
・晋三の会社員生活はしかし、わずか3年ほどで終止符を打つことになる。
 父・晋太郎が1982(昭和57)年、中曽根内閣の外相に就任し、秘書官になるよう
 晋三に命じたからである。
 岸信介が石橋内閣の外相になると同時に晋太郎が毎日新聞を辞めて秘書官になったのと
 同様であり、晋三にとってはこれが政治の世界に直接踏み出していく第一歩だったとい
 える。
・ところで、長男の寛信ではなくて次男の晋三が晋太郎の後継者になったのはなぜだった
 のだろうか。
 当の寛信への取材時に確認したのだが、現実にはこんな事情があったようである。
 「親父(晋太郎)は多忙で、選挙区にはほとんど帰れない状況でしたから、学生のころ
 も含めて、選挙の手伝いのために(選挙区)に帰っていたんです。でも、僕なんかはイ
 ヤイヤやっているからかもしれませんが、疲れ果ててしまいます。見ていると、弟はそ
 のへん、あまり疲れないというか、結構好きで走り回っているみたいで、やっぱりそれ
 は適性があるのかなと思ってました。それに僕は(選挙運動を)手伝っているうちに身
 体を壊してしまったこともありまして」
 「途中から弟の方も、政治が結構好きになって、自分で『やりたい』というようなこと
 も言い始めたので。それで(晋太郎が)外務大臣になった時、弟に『秘書官になれ』と
 いう話をしたんですね」
・寛信の話を簡潔にまとめれば以下のようになる。
 兄か弟、どちらかが父の後を継がなければいけなかった。
 しかし、兄よりは弟の方が適性があるらしく、途中から「やりたい」というようなこと
 をほのめかしたから弟が継いだ。
 政界入りするまで特に政治的な意思はなかったが、偉大な祖父への敬慕に加え、周囲の
 影響もあって、いつしかそれを前面に押し出すようになったと。
・しかし、政治とは果たしてそういうものなのか。
 少なくとも私は、強烈な違和感と苛立ちを覚える。
・別にきれいごとばかり書きつらねるつもりはない。
 ただ、世の不平等や不正義に疑問を覚え、あるいは憤り、本来はこうあるべきだという
 理想のようなものを抱きつつ、それを実現したいという志を持つ者たちにとって政治は
 目指されるものではないのか。
 
世襲の果てに
・少なくとも父・晋太郎の後を継いで政界入りするまでの晋三から、現在の政治スタンス
 につながるにおいを嗅ぎとることはできない。
 せいぜいあるとすれば、溺愛してくれた母方の祖父・岸信介への敬慕程度だが、そんな
 ものは所詮、幼き日の郷愁のようなものにすぎない。
・青年期までの晋三には、たとえば岸の政治思想を深く突き詰めて思索を重ねた様子はな
 く、そうした思想を下支えする知を鍛えあげた痕跡もなく、血肉化するための努力を尽
 くした気配もない。
・むしろ鮮明に浮かびあがってくるのは、名門政治一家の子息として生まれた「運命」を
 受け入れ、敷かれたレールの上を淡々と走ってきた姿、つまり、凡庸で真面目で可もな
 く不可もなく、と同時に、仲間うちでは優しく人がよく要領もいいおぼっちゃまの姿で
 ある。
 言葉を換えるなら、政かとしての晋三にそれほど深遠な志や思想があったわけではなく、
 与えられた「運命」をいかに無難に、できるうるなら見事に演じきりたいと腐心してい
 るだけにすぎない。
 内側から溢れ出るエネルギーによって行動が規定されているわけではなく、あくまでも
 家系や外的要因が行動を規定している、といってもいいかもしれない。
・晋三が妻・昭惠と結婚したのは1987(昭和62)年6月、父の晋太郎が自民党総務
 会長についていた時期のことである。
 晋太郎の秘書だった晋三が人を介して知り合ったという昭惠は8つ年下で、当時は広告
 代理店・電通に勤務し、森永製菓社長の令嬢という文字どおりのお嬢様だった。
・その昭惠に私は、長時間のインタビューをした。
 晋三が敬愛してやまない岸信介にせよ、父方の祖父・安倍寛にせよ、あるいは父の安倍
 晋太郎にせよ、青年期から政治家を目指す気概に溢れ、天賦の才に加えてかなりの努力
 も尽くしてきたが、晋三の周辺をいくら取材してもそんな様子は微塵も感じられない。
 これはいったいなぜなのかと。
 少し目線を落として考えたあと、昭惠から帰ってきた答えは次のようなものだった。
 「政治家には、すごく努力している人もいるし、天才的な人もいる。主人はそのどちら
 でもないのかな、とは思います。でも、選ばれて生まれてきたんだろうなとも思う。
 天のはかりで、使命を負っているというか、天命であるとしか言えないと思っていて。
 見えないものの力っていうのがすごくあると思うんです」
 「天命だということは、本人も自覚していると思います。政治家になったからには、自
 分が思い描くいい世の中をつくるために、総理大臣になる必要があると考えているんじ
 ゃないでしょうか。でも、ものすごく努力をしても、実際に総理大臣になれるのはわず
 かしかいない。周りに努力している政治家はごまんといて、自分より頭のいい政治家が
 たくさんいるのも主人はわかっています。でも、主人がいま総理大臣になっているとい
 うことは、やはりなにか、主人がなし遂げなければいけないものがあり、そのための使
 命を与えられていると、感じていると思います」
 「主人は、政治家にならなければ、映画監督になりたかったという人なんです。映像の
 中の主人公をイメージして、自分だったらこうするっていうのを、いつも考えているん
 です。だから私は、主人は安倍晋三という日本国の総理大臣を、ある意味では演じてい
 るところがあるのかなと思っています」
・しかし、現実にそのような男が政権を率い、戦後70余年にわたって積み重ねられてき
 た”この国のかたち”を変えようとしている。
 しかも歴史的な長期政権すら成し遂げつつある。
 それを肯定的に捉えるにせよ、否定的に捉えるにせよ、私たちがそうした宰相を戴くこ
 とになった構造的要因はいくつも挙げることができる。
・世界的にみるならば、冷戦体制の崩壊によってイデオロギー対立の時代がはるか後景に
 遠ざかり、日本の周辺ではっ中国や韓国が飛躍的な経済成長を果たした。
 とくに中国の発展は著しく、GDPの規模ではすでに日本を抜いて世界代2位に躍り出
 ている。 
 それに反比例する形で日本の国際的存在感は相対的に低下し、しかも「失われた」と評
 される長期不況から抜け出せない状態が続いた。
・一方、これは別に日本に限った話ではないのだが、グローバリズムと新自由主義的な経
 済政策の影響によって持つ者と持たざる者の格差は拡大し、日本国内では少子高齢化な
 ども急速な勢いで進行する中、社会保障を含めた安定的で持続可能な将来像がなかなか
 見通せない。
 眼前に横たわる不安。漠とした焦燥。社会に蔓延するそうした空気は排他と不寛容の風
 潮を強め、政権が求心力として掲げる「美しい国」という回顧趣味的な幻影に浸りたい
 層はおそらく増えている。
・また、この数十年ほどの日本政界を振り返れば、猫の目のように短命政権がころころ入
 れ替わる状態が続き、「強い政権」やら「決められる政治」やらを求める声は強まって
 いた。
 なによりも戦後初の本格的な政権交代を果たした民主党政権への失望は計り知れず、
 巨大な落胆へのバックラッシュ現象がくすぶっている。
 おそらくこれこそが晋三への最大の”追い風”となってきた。
・こうしてみてくると、晋三は「運命」に加えて「運」にも恵まれている。
 自らが突き抜けて高々と屹立しているというより、周囲が陥落することによって高々と
 屹立しているように見えてしまっている。
・しかし、だからこそ「安倍三代」の系譜と実像を追ってきた笑紙は、「天のはかり」や
 ら「天命」「使命」「運」なるものを駆動力としてしまっている「世襲政治の弊害」を
 感じずにはいられない。
・晋三がいくら岸信介を敬愛し、それを手本にしていたとしても、率直に言って、実態は
 相当に質の低いカーボンコピーである。
 父方の祖父・寛や父・晋太郎と」暮部手もそれは同様であり、地に足のついた政治経験
 の面でも、それを支える知性の面でも、内から湧き出る政治的エネルギーや情熱の面で
 もはるかに遠く足元にも及ばない。 

・世襲政治家は、なにも晋三に限った話ではない。
 直近の衆院選では当選議員のほぼ4人に1人が世襲となり、自民党に限ると3人に1人
 が、直後に組閣された晋三の内閣では閣僚の半数が世襲によって占められている。
・終戦直後、現在の自民党の源流となった自民党の指導層は、公職追放されなかった戦争
 責任の薄い者たち、あるいは戦中に軍部と対峙した者たちによって担われた。もし早逝
 していなければ、安倍寛もその一人に列せられていただろう。
・一方、吉田茂政権の末期には、公職追放を解除された者たちが政界に復帰し、保守系野
 党の日本民主党が発足した。岸信介もその主役の一人であり、1955(昭和30)年
 には両党が合併して保守合同に至った。
・当時、若手として台頭してきた田中角栄らもそうだったが、これらの者たちの多くは、
 先の大戦について「あんなバカな戦争はしなければよかった」という後悔と反省が骨の
 髄まで染みつき、それが1980年代までの日本政治を主導してきた。
・その最後の世代が「三角大福中」と括られた有力政治家群、三木武夫、田中角栄、大平
 正芳、福田赳夫、中曾根康弘という面々であり、全員が宰相の座を射止めたが、いずれ
 も世襲ではない。”創業者”だという共通点を持っていた。
・だが、時代が下るにしたがって徐々に世襲政治家は増えはじめ、その後に”ニューリー
 ダー”などと呼ばれて政界の中心舞台に躍り出た「安竹宮」、すなわち安倍晋太郎、竹
 下登、宮沢喜一はいずれも世襲だった。
・ただ、これを「中2階」と名づけている。
 なぜかといえば、「安竹宮」のうち、宮沢の父が代議士だったのは戦前のことであり、
 選挙区にそれほど強固な地盤は残っていなかった。
 竹下の父は島根県議だったが、国政進出のためには票田の拡大開墾が必要とされた。
 安倍晋太郎も似たような状況だった。
 いずれも世襲には違いないが「半分世襲」。だから「中2階」
・しかし、以後は本格的な世襲時代に入り、”創業者”的な政治家はほとんど登場しなく
 なってしまった。 
 いわゆる「三バン」、地盤、看板、カバンを持つ世襲政治家は選挙に強い。
 すべてを先代から譲り受けるだけだから、地べたを這いずり回るような苦労もない。
 選挙区に足をつけた政策ではなく、薄っぺらな思想らしきものを振り回すタイプが増え
 ていく。 
・加えて戦争世代は次々と世を去り、先の大戦の記憶を直接とどめる者は少なくなった。
 だから皮相なタカを諫める者も周囲にいない。
 小選挙区制の導入などによって政治家の小粒化と一色化も進んでしまった。
・そうして戦後70年を経た日本政界は、世襲議員によって牛耳られる特殊で奇妙な世界
 に変貌した。
 この20年ほどの政界を見れば、小泉純一郎にせよ、福田康夫にせよ、麻生太郎にせよ、
 自民党が送り出した宰相はすべて世襲。
 その”究極形”が安倍家の3代目である晋三なのは記すまでもない。
・伝統工芸や中小企業経営の世界ならばともかく、世襲による「政治身分の固定化」は、
 一種の階層社会、格差社会につながり、政治や選挙を通じて国政を委ねられている議員
 にこれほど世襲がはびこれば、幅広い層の意思や意見が政治に届きにくくなる。
・「安倍三代」の系譜は、見事にそれを私たちに教えてくれる。
 いま世界各地で起きているように、既得権益層による政治の独占と劣化は、極めて不健
 全な形でバックラッシュをおびき寄せかねない。
・安倍昭惠ですら私のインタビュー時にこんなふうに自戒していた。
 「歌舞伎役者の家のように、ある意味でプロフェショナルに育つという意味では悪くな
 いんだろうと思います。でも、先代の息子だから、娘だからといって、その人の資質
 も見極めずに票が入ってしまうのは違うと思う。私たちも世襲議員として票をいただい
 てきたので、軽はずみなことは言えないのですけど。いまの仕組みでは、普通の人が政
 治家になりたいと思っても簡単にはなれない。もう少し、志のある人が、政治家になり
 やすい仕組みをつくるべきだと思っています」