おひとりさまの老後 :上野千鶴子

この本は、いまから18年前の2007年に刊行されたものだ。
当時は、「おひとりさま」というと、どちらかというと女性をイメージしたようだが、
独身率が高くなった現代社会では、もはや女性にかぎったものではなくなってしまったと
言っていいだろう。
・長生きすればするほど、みんな最後はひとりになる。
・結婚したひとも、結婚しなかったひとも、最後はひとりになる。
・いまの世の中、子どもは老後の頼りになるだろうか?

おひとりさまにとっての一番の問題は老後の「介護」と「死に方」だ。
この本では、どんな介護を受けるか、施設に入るか在宅介護か、について論じている。
この著者の考えでは、施設に入るよりも、可能な限り在宅で介護を受ける方が幸福感は高
いということのようだ。
・「病室を自宅に」の発想を転換して「自宅を病室に」
しかし、現実問題として、施設に入らずに在宅介護サービスだけで最期までやっていける
かどうかは、かなりむずかしいように感じられる。
特に最近は、深刻な介護人材不足が叫ばれており、給料が安い割に仕事内容がきつい介護
職を希望する人は少ない。
さらには、政府は2024年度の介護報酬改定で訪問介護の基本報酬を引き下げてしまっ
た。これによって経営が立ち行かなくなる訪問介護サービス事業者が続出するのではとも
いわれている。これではますます「在宅介護」がむずかしくなるのではないか。
老人は、病院は追い出され、老人介護施設は不足で入れず、訪問介護サービスも事業者が
撤退してしまって受けられず、という状態になってしまうのではないか。
このままでは日本全体が「姥捨て山」状態に陥るのも現実のものとなりつつある気がする。
日本では、まるで老人になることじたいが罪であるかのようだ。

過去に読んだ関連する本:
在宅ひとり死のススメ
こころの終末期医療


はじめに
・長生きすればするほど、みんな最後はひとりになる。
 結婚したひとも、結婚しなかったひとも、最後はひとりになる。
・配偶者がいても、平均寿命からすればほとんどの場合、夫のほうが先に逝く。
 子どもは、せいぜいひとりかふたり。
 彼らのいつかは家を出て行く。
・だれでもいずれはひとりになるなら、早めにスタートするか、遅めにスタートするかだ
 けのちがいだ。 
・「おひとりさまの老後」には、スキルとインフラが必要だ。
 いかに暮らすかについてのソフトとハードといいかえてもよい。
 ハードについては、おカネや家などさまざまな参考書が出ている。
 それも大事だが、ハードばかりが整備されてもじゅうぶんではない。
 私は、ひとりで生きる知恵というソフトの面を重視したいと思う。
 
ようこそ、シングルライフへ
・結婚してもしなくても、みんな最後はひとりになる。
・80歳以上になると、女子の約80%に配偶者がいない。
・ずーっとシングルとシングルアゲンとの大きなちがいは、子どものあるなし。
 ”負け犬”の条件には「夫がいない」のほかに、もうひとつ「子どもがいない」がある。
 かつては”勝ち犬”だったひとも、いずれ歳をとれば藩宮者を失ってひとりになるが、
 子どもは残る。
 こればっかりは”負け犬”には勝ち目がない。
 とはいえ、いまの世の中、子どもは老後の頼りになるだろうか?
・いまどきの高齢者の平均的な暮らし方は以下のとおり。
 まず、夫婦がそれっているうちは、夫婦二人で暮らす。
 片方が要介護になれば、夫婦のあいだで老老介護をする。
 そして、どちらか片方に先立たれたら、子ども世帯と中途同居をはじめる。
 80代で配偶者を看取った親なら、子どものほうも50代を越えており、たいがいは親
 元を離れて暮らしている。 
 だから子どもとの同居を選べば、親のほうは住み慣れた家や土地を離れて、子どもの住
 むところへ移住することになる。
・この年齢では、子供世代はまだ現役だから、仕事のある土地を離れるわけにはいかない。
 同居するのが息子夫婦なら、すでに子育てを終えた嫁は堂々たる一家の主婦だから、
 ”家風”に従わなければならないのは、嫁ではなくあとから入った姑のほうだ。
・なじみとつきあいを失い、見知らぬ土地に適応を強いられ、他人の家風に従い、場合に
 よっては要介護の”やっかい者”として扱われる高齢者の暮らしが、幸せなはずがない。
 事実、高齢者の幸福度調査を見ると、中途同居のひとは、最初から同居していた場合や、
 ひとり暮らしのひとよりも、幸福度が低いことがわかっている。
 老後は子や孫に囲まれて暮らすのが幸せという老後観は、急速になくなりつつある。
・高齢者同居率には、実は経済格差がある。
 上層・中層・下層と経済階層別に高齢者同居率のデータを調べてみると、上層と下層が
 低く、中層が高い。
 つまり経済階層と同居率は相関していないのだ。
・ということは、家が広いとか狭いとかは、同居を決める理由にはならない、ということ
 も意味する。これをどう解釈するか。
・下層では、同居したくても子どものほうにその余裕がない”姥捨て別居”、上層では同居
 できるだけのゆとりはあるが、あえて別居を選ぶ”選択別居”。
 これに対して中層では、親を見捨てるにはしのびないが、二世帯を維持するだけのゆと
 りまではない”しぶしぶ同居”と解釈することができるだろう。
 もし二世帯を維持するだけの経済力があれば、親のほうでもすすんで別居を選ぶだろう
 ことは、皇室をみてもわかる。
 同居はどちらの側からみても、”すすんで”する選択とはいえないようだ。
・中途同居したあげく、悔悟の負担に耐えかねた子どもから、結局どこかのケア付施設に
 入居することを迫られるくらいなら、隅ながらわが家で最後までひとり暮らしを選びた
 い。そのためには、子どもに頼らなくても安心して老いていけるだけの介護資源が地域
 に備わっていることが条件となる。 
  
どこでどう暮らすか
・家族も仕事も卒業して、自分のためだけに使えるありあまる時間をエンジョイしようと
 思ったら、そのための最低の条件は、自分だけの住まいをもつことだ。
・以前から、不思議に思っていたことがある。
 入院中の病院も、施設に入っているお年寄りも、「自分の家に帰りたい」と訴える。
 施設の整った場所に、患者や高齢者を一カ所に集めてめんどうをみるのは、看護や介護
 をするひとの都合で、本人の都合ではない。
 医療機関なら、治療という目的があるから、しばらくはがまんできる。
 いつかは家に帰れるという期待がもてるからだ。
 だが、多くの高齢者にとって、施設は入ったら二度と出られない場所。
・だれだって病院や施設のような空間より、どんなに汚くても、どんなに不便でも、住み
 なれた自分の家のほうがずっとよいに決まっている。
 介護が必要なら、24時間、在宅支援があれば住む。
 ヘルパーさんや看護師さんがべったりはりついている必要はない。
 日中3回、夜間1回の巡回介護あれば、在宅でやっていける程度のお年寄りはいくらで
 もいる。 
・「家に帰りたい」というその”家”が、「ひとり暮らしの自分の家」であれば、お年寄り
 が家に帰ることを妨げるものはなにもない。
 在宅支援の地域介護体制が整っていれば、要介護のお年寄りにだってひとり暮しはじゅ
 うぶん可能だ。
・お年寄りの「家に帰りたい」という望みは、たんい「自分の家というスペースに帰りた
 い」という意味ではないか、と私はかねてより疑っている。
 日本語の「家」という言葉は、誤解を招きやすい。
 「家に帰りたい」という希望と、「家族と一緒に暮らしたい」という希望をとり違える
 から、ややこしくなるのではないだろうか。
・ひとり暮らしをしていたひとでも、施設に入居したら、やっぱり「家に帰りたい」とい
 うひとがいる。 
 その場合は純粋に建物としての家で、人間関係としての家ではない。
 もし、その家に家族が住んでいなかったら?
 それなら堂々と大手をふって家に帰ることができる。
 家族がいるばっかりに、自分の家から出て行かなければならないのが、高齢者のほうに
 なるのだ。
・こういうときには、逆転の発想をしてはどうだろう。
 高齢者は「家に帰りたい」が、家族は「同居したくない」という利害が対立したら、
 高齢者を「家に帰さない」という選択をする代わりに、家族のほうが「家を出て行く」
 という選択をすればよい。
 若い世代のほうが、環境の変化に対する適応も柔軟だ。
 古い家は年寄りにあけわたし、近くにマンションでも借りて、親の家へときどき通うの
 だ。
 同居がイヤなら、しょっちゅう親の顔を見なくてすむ距離を保てばよい。
 つまり”パートタイム家族”や、”サムタイム(ときどき)家族”をすればよいのだ。
・ひとりぼっちが不安だったり、さみしければ、ケア付集合住宅やシニアコーポラティブ
 (高齢者のための集合住宅。入居希望者が共同で土地購入から設計、工事発注まで行う)
 もある。
 これも星5つのA級からB級、C級まで、ふぉところ具合に応じたレベルがある。
 分譲もあれば終身利用権もあり、賃貸もある。
・とはいえ、何度もくりかえすが、どんなにぼろ家だろうが、散らかっていようが、住み
 慣れた家がいちばん、という気持ちを多くの高齢者はもっている。
 ゴミが山のように積もり、掃除を何年もしていないような家でも、ヘルパーさんが片付
 けると怒るひともいる。
 畳の部屋で何年も暮らしていたお年寄りを、いくら高級でもホテルのような高齢者施設
 へ移せば、居心地が悪いに決まっている。
・実際に自分で暮らしてみて思うのだが、おひとりさまには、ンLDKの家族向けマンシ
 ョンほど住みにくいものはない。
 ほとんどのおひとりさまのマンションは、そのうちのひと部屋かふた部屋が”物置”状態
 になっているはずだ。   
 結局デッドスペースが増えただけで、ワンルーム状態で生活しているのと違いはない。
・おひとりさまの友人は、80uのマンションを改装して、6畳の自分の寝室プラス残り
 はワンルームのリビングに変えた。 
 友だちが来たらリビングに寝てもらう。
 別なおひとりさまの友人は、40歳を過ぎてから購入したファミリータイプのマンショ
 ンを、ひとり暮らしのライフスタイルに合わせて改装した。
・わたしもワンルームがいい。それもがらーんと広いワンルームがいい。
 天井が高く、スペースがゆったりした外国の家に慣れたから、ただでさえ狭い空間をさ
 らにこまごまと区切った日本のマンションにがまんできない。 
・わたしは念願の仕事部屋を八ヶ岳南麓につくったが、それは60uワンルームの空間で
 ある。
 60uにこだわったのは、北欧の高齢者住宅の平均規模が、ひとりあたり60uだと聞
 いていたから。
 家具を最小限にして、応接セットなどは置かない。
 これだと言えのなかを、家具にぶつかったりせずに歩きまわれる。
 人間ひとり暮らすのに、60uはミニマムだと思う。
 もちろん4畳半が大好きというひともいるから、空間感覚はひとそれぞれ、慣れたとこ
 ろがいちばんだ。
・日本の住宅は、家族のサイズが最大規模のときに合わせてつくられている。
 おひとりさまの間尺に合うわけがない。
 そのうち親が亡くなって実家を相続したら、今度はもてあますに決まっている。
・わたしはマンションをいくつも買い替えたが、「終の住処」と思ったことがない。
 いつでも仮住まいだから、情古湯が変われば簡単に住み替えるつもりである。
・介護保険以前に建てられたケア付有料老人ホームは、分譲にせよ終身利用権付にせよ、
 入居一時金が高く、月額利用料も高すぎた。
 数千万円にのぼる入居一時金は、都会ならマンションを購入できる価格だ。
 そこまで資産に余裕のある層はかぎられる。
 持ち家を処分してという選択もあるが、それには子どもが反対する。
 ときには、施設の理事長がおカネを持ち逃げしたりする不祥事もあり、倒産などされた
 ら明日から行き場がなくなる。 
 いったん入居したら、おいそれと住み替えはできないから、リスクの高い選択である。
 しかも要介護になってからの、ケアの質の管理ができない。
 現在のようにケアマネージャーもいなければ、外部からの監視も入れない。
 どんなに見かけが美しくても、その背後に”縛る介護”やおむつの交換の回数制限など、
 訪れる家族にさえ見えない虐待や放置がある。
 ケアの質と料金とは相関しない。
・往年のケア付有料老人ホームは、結局、中流以上の階層のひとびとの、世間体のよい
 ”姥捨て山”の役割を果たしたと思う。  
・それなら、安心してひとり暮らしができる場を確保するにはどうすればよいのか。
 それに対する答えが、コレクティブハウスである。
・一般の有料老人ホームは、「生活的自立ができること」を入居時の条件にしているとこ
 ろが多い。 
 それならたんなる高級なシニア住宅というだけの話。
 要介護度が重くなった高齢者には「介護室があります」と胸をはるが、超リッチな韓国
 のシニアタウンでも、アメリカ西海岸のシニアコミュニティでも、「介護室」とよばれ
 るのはカーテンで仕切られた狭いベッドだった。
 それがイヤなら、自分のカネで自室に来てくれる派遣の介護人を雇うほかない。
 せっかく対の住処と選んで移ってきたのに、要介護の状態になれば個室から移動して、
 介護の都合に合わせて一か所に集められる。
・そういう有料老人ホームで、さらに「ターミナルケアは?」と聞くと、「安心です。
 提携している病院がありますから」と答えが返ってくる。
 つまり終末期は病院で迎えることが最初から予期されているのである。
 これならかつての措置の時代のように、カラダが不自由になるにつれて軽費老人ホーム
 から老人保健施設や養護老人ホームへ、さらには特別養護老人ホームへ、最後には病院
 へ、と移動させられる高齢者の運命は変わらない。
 カネで5つ星の住居は買えるかもしれないが、5つ星のサービスは保証されない。
・現在の介護保険は、ひとり暮らしの高齢者を基準にはつくられていない。
 介護をする家族がいることが前提で、その負担を軽減する目的でつくられたものだ。
 ひとり世帯がこれからますます増え、否応なく、ひとり暮らしが高齢者の標準になるこ
 とが予想されるのだから、制度設計のひとり暮らしに合わせるべきだろう。
・もうひとつの基準は、介護資源である。
 人口の集中する都市部ほど、行政も民間企業も、NPO非営利の市民組織などでも、
 介護資源の選択肢が多いことはだれしも認めるところだろう。 
 ケアの質が健全な市場競争に依存するとしたら、悔悟資源の選択肢が多いかどうかは死
 活問題だ。
・介護保険の初期には、「保険あってサービスなし」といわれた。
 今日でも過疎地には、介護サービスの担い手を欠くためにサービスの不足している地域
 がある。
 自然環境を求めて地方で暮らしはじめたひとたちのなかには、要介護状態になってから
 都会へ戻る選択をするひとがいる。
 その背後には、地域の介護資源の過疎がある。
・地方にも、社会福祉協議会(社協)が提供する在宅支援サービスやデイケアなどがある。
 だが、地元のひとたちが担い手となる訪問サービスでいやがられるは、ケアワーカーを
 選べないだけでなく、プライバシーが漏れることだ。
 介護は、カラダにもココロにも、そして人間関係のうえでも、いちばん敏感なところに
 ふれる。
 介護サービスを、あえて自宅から遠い事業所に頼むひともいるくらいだ。
・デイサービスにも異文化がある。
 企業の定年退職者が、商店主や職人など、自営業者を中心とする地元の老人会に溶け込
 めないように、何十年も生きてきた高齢者には、学歴、職業、結婚歴、価値観など、
 それぞれの生活文化のちがいがある。
・私が仕事場をもっている八ヶ岳山麓には、地元の社協が運営する温泉付きのデイサービ
 スセンターがある。  
 その利用者の大半は農家世帯の高齢者だ。
 このところ急激に増えた都会からの新住民も、高齢化にともなって同じデイサービスの
 利用者になってきた。ほかに選択肢がないからだ。
・べつべつの人生を歩んできたひとたちが、要介護状態になってから、ふたたび交わり合
 うのは美しいだろうか。 
 ライフスタイルがちがえば、お互い異文化だ。
 異文化交流が好きなひともいるだろうが、そうでないひともいる。
 高齢になって柔軟性を失えば、異文化との接触が苦痛になる場合だってあるだろう。
・企業の定年退職者たちと地元の老人会のメンバーたちとが水と油で、互いに接点がない
 ことはもっと早くから気づかれていた。 
 各地の自治体が”高砂大学”とか”長寿セミナー”とかをどんどんつくっていたのはそのせ
 いだ。
・サラリーマン経験者は、教えるのも教えられるのも好き。
 まして高学歴者だと、”お勉強大好き”の学校化社会の価値観が骨の髄までしみこんでい
 る。
 揶揄しているわけではない。
 事実をありのままに認めて、そのひとたちの生活文化に合わせた受け皿をつくればすむ。
・さらにジェンダーの視点からみれば、老人会も高砂大学もどちらも男優位集団だ。
 歳をとってまで男の顔色をみるのはもうイヤ、と多くの女性が思っても無理はない。
 とりわけシングル女性たちは、男のきげんをとるのにあきあきしている。
・ユニットケアは、もともと養護老人ホームを”療養”の場ではなく、”生活”の場ととらえ
 たところから出発したもの。
 暮らしの場なら個室が原則。
 10室程度の個室の集合を1ユニットとして、共同のお茶の間のようなコモンスペース
 を共有するというスタイルを福祉先進国スウェーデンから学んで日本に持ち込んだのは、
 建築家の故・「外山義」さんだ。
・ユニットケアの最大の問題点は、介護するひとの目が届かないこと。
 現行の厚労省の基準は「入居者3人の職員1人」の人員配置だが、職員は24時間勤務
 をするわけではないから、8〜10室を1単位とするユニットはほとんどの時間”ひとり
 職場”となる。
 それだけの数のお年寄りの生命を預かって朝までひとりで夜勤をこなすことを考えるだ
 けで、わたしなど足がすくむ。
・ユニットケアを、介護するひとにも介護されるひとにも快適な空間に変えるには人手を
 増やすしかない。
 個室や建物が悪いのではない。
 問題はカネと人手を出し惜しみする福祉行政のほうだ。
 そのツケがユニットケアたたきにまわっているとしたら実に不幸なことではないか。
・地域に在宅支援の介護体制さえあれば、かなりの程度の要介護者でも在宅でやっていけ
 るのは、北欧で証明ずみ。
・在宅か施設か、の二者択一を迫るのもアタマが固い。
 現在は「中間施設」とよばれる「通所型」が増えている。
 家にいたいときは家に、ひとに会いたいときはひとに会いに出かけることが選べたらよ
 い。要はそのあいだのバランスだ。
  
だれとどうつきあうか
・高齢者のひとり暮らしを「おさみしいでしょう」はよけいなお世話。
 実際、ひとり暮らしの高齢者のほうが孤独に耐性がある。
 北欧の先進福祉が日本に紹介されたころ、ひとり世帯率の高いスウェーデンでは高齢者
 の自殺率が高い、だから日本のお年寄りのほうが家族に囲まれて幸せだ・・・という宣
 伝が飛び交ったことがある。
 その実、高齢者の自殺率は、日本のほうがスウェーデンより高く、また、同居老人のほ
 うが独居老人より高いことがデータからわかっている。
・ひとり暮らしの達人は、ひとりでいることだけでなく、ほかのひととつながることにお
 いても達人だ。
 ひとりでいることの快楽だけでなく、不安をもよく知っているからだ。
 家族を中心に暮らしてきたひとは、家族が離れていくとほんとうにひとりぼっちになる
 が、ひとり暮らしのキャリアからいわせれば、それは家族以外の人間関係をすれまでに
 つくりあげてこなかったツケともいえる。 
・仕事中心に生きてきたひとについても同じことがいえる。
 仕事を離れると、仕事をつうじて結びついていた人間関係からもすっかり切れてしまう
 ことがある。
・だが、こういうことは女性の場合には起きにくい。
 仕事を軸足にしていきるような働き方を、多くの働く女性はしてこなかったからである。
 仕事に自分の生活を従属させるほど愚かではなかった、ともいえるし、そこまでしても、
 どのみち男性並みには報われない職場の状況に見切りをつけて、仕事に半身でかかわっ
 てきたともいえる。
・「モデル退職者」ともいうべき幸せなポスト定年ライフを送っている男性退職者たちを、
 関西の大企業の依頼で調査したことがあるが、彼らに共通しているのは、40代から早
 めに助走を初めて、定年後にソフトランティングしていることだった。
 裏返せば、人生半ばにして会社とは距離を置いて仕事と半身でつき合い、地域の活動や
 趣味に「もうひとりの自分」を見出だしてきたのでる。
 その結果として、あるいはそれが原因かもしれないが、彼らは職場でたいして出世して
 いないこともわかった。
・「職場に友だちができません」と嘆くひとがいるが、職場に友人は求めないほうがよい。
 同僚のあいだに友人を求めるのは最後の選択肢。
 同僚はいつでもあなたの潜在的なライバルだったり、評価者だったりするからだ。
 有人は、利害関係のない異業種に求めるにかぎる。
 欲得なしで、こちらを受け入れてくれるからだ。
 なに、そんなにむずかしいことではない。
 趣味のサークルやボランティア活動に参加すれば、自分とはまったくちがう暮らし方を
 しているさまざまな異業種のひとびとに出会う。
 そのひとたちは、ただあなたがいっしょにいて楽しいという理由だけで時間をともにし
 てくれるはずだ。
・「いっしょにいて楽しい」と思われるには、「おもしろいほと」や「話題豊富なひと」
 にならなければならないと思い込むのも、勘違いのひとつ。
 「話題の豊富なひと」とは、「自分からしゃべってばかりいるひと」の代名詞だから、
 こんなひとが好かれるわけがない。
 他人の話など立て続けに聞かされても、うんざりするだけだ。
・「いっしょにいて楽しい」と書くより、「いっしょにいてキモチがよい」と言ったほう
 がよかったかもしれない。
 寡黙だったり、おだやかだったり、他人の話をよく聞いたり、要所でぴりりと反応を入
 れたりするひとが「いっしょにいてキモチがよい」。
 要は、きちんと相手の話を聞いてコミュニケーションがとれるということ。
 一方的に自分の話ばかりする人はきらわれる。
・喪失の経験がつらいのは、同じ時間と経験を共有しただれかが、その死ごと記憶をあち
 ら側へ奪い去ってしまうから、記憶とは、そのひとのなかに自分が生きているというこ
 とだから、そのひとの記憶のなかに生きていた自分の大切な部分をもぎとられてしまう。
 それはとりかえしのつかない喪失だ。
 埋めようと思っても埋め合わせることのできない欠落感が生まれる。
・だから、わたしは自分が愛したことのあるひとには、生きのびていてほしいと願ってい
 る。 
 たとえ過去に属するとしても、そのひとの記憶のなかに愛し合った思い出が生きている
 と思えるからだ。
 地球上のどこであれ、そのひとが生きているということを知っているだけで、安心した
 気分になれる。
・ほかのひとびとより長生きすることの切なさは、この喪失感にあるかもしれない。
 恋人たちだけではない。
 家族、幼なじみ、友人、苦楽をともにした仲間・・・同じ時間と経験を共有したことで
 つちかってきた記憶が、次から次へともぎとられていく。
 どの記憶にも固有性があるから、ほかのだれかで代替することはできない。
・孤独とどう付き合うか。それが問題だ。
 孤独とは、ふたつの付き合い方しかない。まぎらわせるか、向き合うか。 
・”あなたの居場所”とは「ひとりっきりでいても淋しくない場所」とのこと。
・人間が「こわれもの」であることをわかるようになったのが、年齢の効果だろうか。
 「こわれもの」だから「こわれもの」のように扱わなければならないと思うようになっ
 たのだ。それも、ずいぶんたくさんこわしたあとのことだ。
・こういう気分になったとき、女でよかったなあ、としみじみ思ったものである。
 弱音を吐くことが恥にもキズにもならないからだ。
 そういう目で同世代の男を見ていると、かわいそうになる。
 ストレスは女と同じようにあるだろうに、それを吐き出すことを自分に禁じているばか
 りに、たまりにたまって病気になったり自殺したりするのだろう。
・わたしが尊厳死に疑問をもつのは、自分が元気なときに書いた日付入りの延命拒否の意
 思など、その場になってみればどう変わるかわからないからだ。
 人間は弱い。動揺する。
 昨日考えたことを、教になって翻すこともある。
 過去の日付入りの意思を貫徹することが、尊いことだとも、りっぱだとも思わない。
 
・つらい、哀しい、痛い、困った・・・そんなときに、「助けて」と言える。
 しかも平気で言える。
 女でよかった、と思えるのはこんなときだ。
 
おカネはどうするか
・多くのケア付住宅は、食事がついて1カ月12万円から15万円程度、つまり高齢シン
 グルの年金の範囲で暮らせるように設定してある。
 ぜいたくしたいと思わなければこれでやっていける。
 ピンのほうでも月額30万円程度。
 ちがいは、部屋の大きさや設備の豪華さ、食事の質くらい。
・食事付きの高齢者住宅を歓迎するのは、長い間主婦業をしてきたひとたちだ。
 ”おつとめ”からようやく解放された彼女たちにとって、上げ膳、据え膳の暮らしは王侯
 貴族のようなものだろう。
 自分の口に合いもの、おいしいものを食べたければ、ために自分でつくったり外食すれ
 ばよい。
 クッキングも、日常の義務から非日常のレジャーになれば楽しめる。
・基本的な住と食を確保したうえで、あとは、趣味や社交など、楽しみのための余裕があ
 れば暮らしていける。
 おひとりさまのつましい暮らしには、たいしたカネはかからない。
・高齢者の家計を直撃する現金支出は、親族の冠婚葬祭費用。
 子や孫の入学祝いや就職祝い、結婚祝いなどが、次々にふりかかる。
 ”負け犬”のおひとりさまでソンしたと思うのはこうときだ。
 兄弟の息子や娘たちのお祝い事にご祝儀を出しても、自分のところに返ってくる機会は
 ない。  
・こういうときには、相手にいい顔をしないと覚悟を決めればすむ。
 子や孫、甥や姪に老後を頼るつもりがなければ、相手の顔色をみなくていい。
 なによりもらった本人はそんな昔のことなど、とっくに忘れている。
・それよりも、現金支出で高齢のおひりとさまを悩ませるのは、友人、知人の訃報とお香
 典である。 
 葬儀に列席するだけでも交通費がかかるし、公電の相場は親族だと3万円から10万円、
 有人でも1万円から3万円など、冠婚葬祭のノウハウ本を読めばふところが寒くなる。
 ひとりならともかく、短期間でたてつづけに不祝儀が集中すると暮らしにも響く。
・考えてみれば葬式というのは、亡くなったひとのためよりも、生き残ったひとのために
 ある。
 権勢の地位にある本人が亡くなったときよりも、そのひとの親や妻が亡くなったときの
 ほうが葬式が盛大なのは、だれでも経験しているだろう。
 ”おつきあい”の志を見せなければならないのは生き残った本人に対してだから、当の本
 人が亡くなった場合には遺族に対してその義理はないことになる。
・葬式も通夜も「浮世の義理」の延長。
 うんと長生きしたおひとりさまには、もはや社会的な地位も権力も縁遠いから、こんな
 義理を気にかける必要はない。
・要は、ほんとうに大事な人間関係とはなにか、をわきまえることだ。
 長生きするとは、浮世の義理から徐々に身を退いていくこと。
 最後に残るのは、カネで買えない人間関係だけだろう。
・団塊世代の持ち家率が高いといっても、その多くは区分所有の集合住宅である。
 税法では、マンションなど鉄筋コンクリート造りの住宅の耐用年数は47年。
 日本の住宅はそれ以上の長さを想定して建てられていない。
 30代で入居した集合住宅も40年以上たてば、居住者が高齢化するだけでなく、建物
 じたいが老朽化する。 
 とくに低家賃、低コスト住宅地して大量に建てられた公団住宅などの老朽化は激しい。
・日本では、戸建ての住宅でさえ、何世代にもわたって住むようにはつくられていない。
 最近になってようやく「百年住宅」という言い方が登場するようになったが、この超高
 齢化では100年で一世代である。
 日本の住宅はもともと数十年もてばよい耐久消費財としてつくられているから、構造も
 設備も間に合わせである 
・欧米には、古い邸宅を改装して内部に最新の設備をそなえ、何世代にもわたって住みつ
 ぐリノベーションビジネスがある。
 
どんな介護を受けるか
・満足死とは実は満足できる生き方のこと。
 そのための条件は、「病室を自宅に」の発想を転換して、「自宅を病室に」。
・寝たりきりになっても長く生きられるのは、手厚い介護が受かられるから。
 それがイヤなら衛生水準や医療水準の低い社会へ行けば、すぐに死ねるだろう。
 病気になっても寝たきりになっても、その状態で生きつづけていられることこそ文明の
 恩恵。 
 その恩恵を享受しているのが、長寿社会の高齢者だ。
 たとえ要介護度5になっても生きていられる社会に生まれたことを、なぜ喜ぶ代わりに、
 呪わなければならないだろう。
・介護される側の心得10カ条
 @自分のココロとカラダの感覚に忠実かつ敏感になる
 A自分にできることと、できないことの境界をわきまえる
  昨日までできていたことが今日できなくなったことを認めるのがむずかしい。
  そのせいで、できないこともできると言ったり、つい無理をする。
  できないことはできないと言おう。
  逆に、長年にわたって”できることもできないふり”をやりつづけてきた人にもツケは
 来る。
 B不必要な我慢や遠慮はしない
 Cなにがキモチよくて、なにがキモチ悪いかをはっきりことばで伝える
 D相手が受けいれやすい言い方を選ぶ
 E喜びを表現し、相手をほめる
 Fなれなれしいことばづかいや、子ども扱いを拒否する
 G介護してくれる相手に、過剰な期待や依存をしない
  介護施設のなかには、介護職員が要介護者の「家族」や「お友だち」のような役割を
  果たすことを積極的にすすめるところもある。
  そして、こういう「公私混同」の介護を「家族的」とか「親身な介護」として賞揚す
  る傾向がある。 
  だが、高齢者を旅行に連れ出したり、本人の自宅へ同行したりする行為が、時間外や
  休日に行われたら、結局のところ介護者の善意を利用する「時間外サービス」になっ
  てしまう。
  介護には、どこまでやればじゅうぶんという制限のなさ、つまり「無限定性」という
  性格がある。
  家族なら背負ってしまいかねないこの介護の「無限定性」に、時間や内容で制限をか
  けているのが「仕事」としての介護だ。
  それを利用者も介護者もきちんとわきまえる必要がある。
 H報酬は正規の料金で決済し、チップやモノをあげない
  実際に働いている介護者のひとたちに聞くと、モノをもらうよりうれしいのが利用者
  の笑顔や感謝のことば。
  手ごたえややりがいは、おカネやモノでは買えないと知るべし。
 Iユーモアと感謝を忘れない
   
どんなふうに「終わる」か
・ひとりで生きてきたのだから、ひとりで死んでいくのが基本だろう。
 ひとり暮らしをしてきたひとが、死ぬときだけ、普段は疎遠な親族や縁者に囲まれて死
 ぬっていうのも不自然じゃないだろうか。
・「死はいつ襲ってくるかわからない。そのためあまりにも妥協して、自分自身のない集
 団の中の人として人生を終わらせないように日頃から孤独を大切にしていきたいもので
 す」
 ひとりでいることのつらさと、ひとりでいさせてもらえないつらさとは、どちらがつら
 いか。
 ストレスもトラブルも人間関係からくる。
 ひとりでいることが基本なら、心は平安でいられる。
・ひとは生きてきたように死ぬ。
・高齢者にすすめるアドバイス
 1.生を受けた者は死を待っている人。
   よって独居者は急変の際早期発見されるよう万策尽くすべし。 
 2.皆に看取られる死が最上とは限らない。
   死は所詮ひとりで成し遂げるものである。
 3.孤独を恐れるなかれ。
   たくさんの経験を重ねてきた老人は大なり小なり個性的である。  
   自分のために生きると決意したら世の目は気にするな。
 4.巷にあふれる「孤独死」にいわれなき恐怖を感じるなかれ。
   実際の死は苦しくないし、孤独も感じない。
 5.健康法などを頼るな。
・「先祖代々の墓」の歴史は古くない。
 せいぜい幕末からブームになったとか。
 それ以前は、卒塔婆を立てただけの個人募か、村の共同墓。
 それどころか埋め墓、詣り墓とふたつに分かれていて、お参りするところには遺体はな
 い、なんていう習俗もあった。
・そもそも庶民のあいだに「家」の観念がひろがったこと自体が古くない。
 都市化のおかげで大都市に墓地ブームが起きたのも、都会に出てきた次男三男坊が自分
 の「家」を創設したと思えばこそ。
 昔は一生結婚しない「部屋住み」の次男三男は、長兄の「家」の墓に入るものと決まっ
 ていた。 
 60年代に公営の墓地パークが郊外に次々とでき、この調子だと住宅不足のあとに墓地
 不足が起きる、と心配したが、それもつかのま。
 あっというまに少子化がすすんで、ひとりっ子同士の結婚だと「家」の統廃合を考えな
 ければならなくなった。
 そのうちお墓の統廃合も考えなければならなくなる。
 「先祖代々の墓」の寿命は意外に短かったというべきか。
・おひとりさまの「死に方」5カ条
 その1 死んだら時間をおかずに発見されるように、密でマメな温タクトをとる人間関
     係をつくっておくこと。 
 その2 遺したら残されたひとが困るようなものは早めの処分しておくこと。
 その3 遺体・遺骨の処理については、残されたひとが困らない程度に、希望を伝えて
     おくこと。
 その4 葬式とお墓についても、残されたひとが困らない程度に、自分希望を伝えてお
     くこと。
     「おまかせします」といわれても困るが、逆にあまりにオリジナルだったり普
     通でなかったりして、それを実行するひとが困惑するような希望は遺さないこ
     と。あくまで他人がやってくれることと知るべし。
 その5 以上の始末が最後までとり行える程度の費用は、謝礼とともに用意しておくこ
     と。ひとが動く費用はタダとは考えないこと。

あとがき
・おもえばシングル女性は、これまでどれほど「歳をとったらどうするの?」という脅か
 しにさらされてきたことだろう。
 そのうえ、世の中には老後の不安をあおるメッセージがあふれている。
 子どもがいてさえ頼りになるかどうかわからないのに、まして「子どもに頼る老後」が
 はなからないあなたはどうするの?と。
・結婚しないと不幸せ、といわれてきた。
 でも結婚しなくてもそれなりにハッピーだった。
 離婚したら人生は終わり、かと思ったが、してみたらぜんぜんOKだった。
 親にならなければ半人間、といわれたが、成熟へ至る道は、親になることばかりでない
 ことも知った。
 シングルであることは、ちっとも「カワイソー」でも「不幸」でもない。
・長生きすればするほど、シングルが増えてくる。
 超高齢社会で長生きしたひとは「みーんなシングル」の時代、がすぐそこまで来ている。
 ひとりで暮らす老後を怖がるかわりに、ひとりが基本、の暮らしに向き合おう。
 不安がなくなれば、なあーんだシングルの老後って、こんなに楽しめるのだから・・・。