孤独のすすめ :五木寛之

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この本のタイトルから想像して、孤独を推奨するような内容なのかと思って読んだのだが、
想像とはかなり違っており、深刻な社会問題を取り上げた内容であった。
その社会問題とは、高齢者世代と若者世代との世代間格差から生ずる「嫌老」問題である。
この問題は、なんとなく、そういう雰囲気はあるだろうなというふうには感じるのだが、
なかなかストレートには言えないような問題でもある気がしていた。この問題を躊躇なく
扱えたのは、すでに80歳を優に超えた筆者だからこそなのであろう。
この本の中で語られているような、高齢者とその下の若者世代との利害の対立の問題は、
完全な政治の失敗ではないのか、と私には思える。今の若者世代が感じる「年金が保障さ
れた豊かな高齢者世代を背負わされている」という感情も分かる気がするし、その高齢者
世代が「あの敗戦から今のような経済大国に押し上げたのはわれわれ世代なのだ」と思う
気持ちも当然だとも思える。
問題は、この国はどうしてあの高度成長期に、将来の高齢者世代を支えるために、しっか
りとそのときの富を蓄えてこなかったのかということだろう。一時期は、アメリカさえも
凌ぐのではと思えるほどの経済成長を遂げた日本は、そのときの富を計画的にしっかりと
蓄えていたならば、その蓄えをうまく運用することによって、現代のような若者世代に負
担を強いるような状況にはならなかったはずだ。
しかし、そうはならなかった。日本の政治は、そんなチャンスを、ただただ散財・浪費を
繰り返して帳消しにしてしまったのだ。日本には、そういう長期展望を持った政治家たち
がいなかったのだ。また国民の側も、そういうことを政治に強く要求したり監視したりし
てこなかったのも確かだろう。ただただバブルに踊らされ、散財・浪費を繰り返しただけ
で、いつのまにか高度経済成長期に得た富をすべて失ってしまった。いや、失っただけで
なく、逆に天文学的ともいえる莫大な借金すら抱えてしまった。そのツケが、いま回って
きているのだ。
こんなことになってしまったのは、いったい誰の責任なのか。当然ながら、いまの若者世
代にはその責任はないと言えるのは確かだろう。そして、そのツケは、長期展望に立って
計画的に富を蓄えように政治に要求したり監視したりしてこなかった今の高齢者世代が負
うべきことなのだろうと私には思えるのだ。そう考えると、今の高齢者は、この「嫌老」
感情は、甘んじて受けなければならないのだろう。
先般、東京五輪組織委員会の元会長の森喜朗氏が、女性差別的な発言で、メディアや世論
から、ちょっと気の毒に思えるほどの烈しいバッシングを受けた。その時、この過剰とも
思える烈しいバッシングは、単に女性差別的な発言だけが原因ではないのでは、と私には
思えた。そこには、この「嫌老」感情も含まれていたのではないのだろうかと。
現に、森氏は謝罪会見において「皆さんが邪魔だと言われれば、おっしゃる通り、老害が
粗大ごみになったのかもしれませんから、そしたら掃いてもらえば良いんじゃないですか」
と述べた。おそらく、森氏もこの「嫌老感」というものを感じての発言だったのではなか
ろうかと私には思えた。
筆者が心配するように、今後ますます高齢者世代の数が増えるに従って、この問題は、重
大局面を迎えることになるかもしれない。今となっては、もうどうにもならないような気
がするが、せめて、お互いの世代が、少しでも相手の世代を思いやりながら、なるべく相
手の世代の迷惑にならないように、少し遠慮しながら生きていくしかないのだろう。


はじめに
・「愁」は自分自身の問題です。なんとなく心が晴れず、もの寂しい心持ち。それが愁い
 でしょう。愁いがくっきり見えてくるのが高齢期の特徴ですが、その愁いを逆手にとっ
 て、むしろそれを楽しむという生き方もあるのではないか。
・人生の最後の季節を憂鬱に捉えるのではなく、おだやかに、ごく自然に現実を認め、愁
 いをしみじみと味わう。こうした境地は、まさに高齢者ならではの甘美な時間ではない
 でしょうか。
・老いにさしかかるにつれ、孤独を恐れる人は少なくありません。体が思うように動かず、
 外出もままならない。訪ねてくる人もおらず、何もすることがなく、無聊をかこつ日々。
 世の中からなんとなく取り残されてしまったようで、寂しいし、不安だし、人によって
 は鬱状態におちいりかねない。
・私自身は、もともと群れるのが苦手で、孤独に偏する性分だという面もありますが、歳
 を重ねれば重ねるほど、人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感する気持ちが強
 くなってきました。
・孤独な生活の友となるのが、例えば本です。読書とは、筆者と一対一で対話するような
 行為です。体が衰えて外出が出来なくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆ
 る人と対話ができる。本は際限なく存在しますから、孤独な生活の中で、これほど心強
 い友はありません。
・たとえ視力が衰えて、本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っているはずで
 す。残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺の世界が広がっ
 ていく。誰にも邪魔されない。ひとりだけの広大な王国です。孤独であればあるほど、
 むしろこの王国は領土を広げ、豊で自由な風景を見せてくれる。
・歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独のすばらしさを知る。孤立を恐れず、孤独を楽
 しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方のひとつだと思うのです。
・人生後半生は、妙な言い方ですが、後ろを向いて進む、振り返って進むことが大事だと
 思うようになりました。 
・老年期の一番の問題は、生きる力が萎えることです。老いていくと、マイナス感が次第
 に増えていくばかりです。そんな中で、どう自分を励ますか。メディアなどで盛んに言
 われているのは、
 ・なるべく積極的に他人とコミュニケーションをとる。
 ・レクリエーションを生活に取り入れる。
 ・なるべく体を動かすようにする。
 ・いろいろなことに好奇心を持つ。
 などです。しかし私は、こういった考えにはどちらかといえば懐疑的です。弱っている
 人や衰えている人に「積極的になれ」「前向きにポジティブに生きろ」などというのは、
 むしろ残酷なことではないかと思ってしまう。
・人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と、四つの季節が巡っていくのが自然の摂理です。
 玄冬なのに青春のような生き方をしろといっても、それは無理です。だとすれば、後ろ
 を振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみながら、思い出を咀嚼したほうがよほどいい。
 回想は誰にも迷惑をかけないし、お金もかかりません。繰り返し昔の楽しかりし日を回
 想し、それを習慣にする。はたからは何もしていないように見えても、それは実は非常
 にアクティブな時間ではないでしょうか。孤独を楽しみながらの人生は決して捨てたも
 のではありません。
・高齢化社会にどう生きるかを考えたとき、私の頭に浮かんだのは、減速して生きる、と
 いうイメージでした。それも無理にブレーキをかけるのではなく、精神活動は高めなが
 ら自然にスピードを制御する、という発想です。
・時代はまさに減速の時期にさしかかっている。加速ではなく、スピードを制御すること
 を考えなければならない。しかし、それは後退でも、停止でもなく、確実に時代のコー
 ナーを回っていくための積極的な減速です。スピードを落としても、トルクは落とさな
 い。加齢とともに社会生活や身体的行動は減速しても、むしろ心のトルクは高まってい
 く。孤独とは、そんな生き方のひとつではないかと考えたのでした。
 
「老い」とは何ですか
・かつては「人生五十年」といいました。しかし、今では五十歳は人生の前半にすぎませ
 ん。私たちは九十歳、ひょっとすると百歳まで生きなければならないのです。五十歳は
 人生の折り返し地点と覚悟する必要がある。
・まだ気持ちは現役なのに、体を衰えをはっきり自覚せざるを得ないというのは、皮肉な
 ことです。しかし、ここで大事なのは、自らの「老い」をきちんと認めることだ、と思
 うようになりました。
・人は、ともすれば老いたこと、老いに向かいつつあることから、目を逸らそうとします。
 ”歳を取ることイコール悪”であるかのような昨今の風潮も、そんな姿勢に影響してい
 るのかもしれません。
・まず、自分の衰えや疲れを素直に認めること。そうすれば、生きていくうえで必要な神
 経をさらに研ぎ澄ますことも、可能なのではないか。
・高齢期に入るにつれて、私もいろいろな体の不調に悩まされるようになりました。体の
 あちこちが一斉に反乱を起こしはじめたようにさえ感じられます。結果的に、私がやっ
 てきたのは、体の不具合を「治す」のではなく、「治める」ことでした。治療より、
 「養生」です。
・老いを自覚して、よくよく耳を澄ましてみると、誰もが自分の体がいろいろな言葉を発
 信していることに、気がつくでしょう。その「声なき声」を「身体語」と命名したので
 すが、それに素直に耳を傾けながら、さまざまな工夫をし、ライフスタイル全体を見直
 す。その結果、徐々に体調が変化し、新しい仕事にチャレンジする意欲も湧いて来たの
 です。
・人生には、「登山」と「下山」という、大きな二つの相があると考えるのです。人生だ
 けでなく、動揺に社会や経済、国家なども、登山と下山の時期がある。今、自分たちは
 どの時期にあるのか。それを「明らかに究める」。つまり現在なら、下山の時期にある
 ときちんと見定めることが、諦める、すなわち明らかに究めるということです。
・国全体を考えても、日本はいまや低成長の時代に入り、ゼロ成長もありえない話ではな
 い。それをきちんと認める勇気が必要です。そのうえで悲観的になるのではなく、低成
 長ならではの生き方を模索する。それが、大事なのではないでしょうか。
・高度成長の時代はひたすら登っているので、後ろを振り返ったり、あたりの風景をゆっ
 くり眺めたりする余裕もありません。そこには内面的な成熟もなければ、文明の成熟も
 ない。ただ頂点を極めるという目的のためだけに、ひたすら突っ走るのです。
・頂点を極めて、やがて下山していく中で、人間や文明の成熟が現われる。つまり高成熟
 の時代が始まるのではないか。 
・世界の歴史を見ても、高度成長を終えて、低成長の時代に入った時に文明の成熟が現わ
 れる。そう考えると、高度成長から低成長に切り替わっていくことを悲観的に考える必
 要はなく、むしろこれからが面白いと発想を変えることができます。
・人間は不思議な生き物です。ある種の昆虫などとちがって、性交能力、すなわち種の保
 存に 関わる能力を失ってからも、生き続けます。人間も動物である以上、当然、「子
 孫を残す」というのは、重要な「生きる目的」ではあります。しかし、その第一目的は、
 いろいろな意味で後退しつつあるようです。「子どもはいらない」と公言する人も珍し
 くはありません。
・普通、人は、日常の暮らしの中で「何のために生きるのか」などという根源的な問いか
 けをしたりはしません。しかし、よくよく考えてみると、高齢者にとって、本来この問
 いかけは、他の世代に比べより重要で、ある意味「切実」なものであるはずです。
・まず考えらえるのは、人には「何がなんでも生きたい」という本能がある、ということ
 です。食欲や性欲と同じような、「生存欲」という人間の持つ根源的な欲求です。です
 から、いくつになっても生きたいと思う。
・笑われるのを承知で言えば、私は「この世界がどう変わっていくのか?見てみたい」だ
 けなのです。日本だけでなく、アジアが、世界全体が、この先どう変貌を遂げていくの
 かを目撃したい。知りたい。そのために長生きしたいと思う。
・「世界の変わりようをこの目で見るために、長生きしたい」という願いと、「もっとも
 知りたいのは自分の余命」という思いとは、一見矛盾します。しかし、高齢者と呼ばれ
 る年代になった人間は、誰もがそのような矛盾を内に秘めつつ、生きているはずです。
 実際には、己の余命を正確に知って、高齢期を迎えられる人などほとんどいません。
・ただし、余命を知るのは困難ですが、それを自分で「決める」ことは人間にはできます。
 日本人の自殺は統計上は減り続けているものの、実態は闇の中です。自殺率は先進国内
 でも高いままです。 
・自分で自分の命を決める。高齢者にとってそれは、他の世代とはかなり違う意味合いを
 帯びます。「善か悪か」「許されるか否か」とは別に、みんなの頭に去来する、「自ら
 への問」と言っていいかもしれません。
・いわゆる「尊厳死」がこれだけ長い期間議論されながら、日本ではいまだに法的には未
 整備ですし、社会的容認にはほど遠いのが現実です。
・人は、自分の意志とは無関係に、この世に生れてきます。ならば、しかるべき人生を全
 うした後に「退場」する時ぐらいは、自分の意志で決められないものだろうか。私は、
 そんなふうに考えることがしばしばありました。
・日本の人口問題は、「少子高齢化」から「人口減少」に移行しつつあるます。なぜ人口
 が減少するのか。当面の主なる原因は、「子どもが多く生まれない」からだけでなく、
 「高齢者が死ぬ」からです。これまで、「高齢化」という言葉の陰に隠れて、その事実
 が見えにくかったような気がします。
・「人間、いつかは死ぬ」です。しかも、これからの日本で間違いなく起こるのは、超高
 齢化につづく、未曾有の「大量自然死」の時代です。
・どんなに不安に思っても、社会のあり方や国家財政の中身が変わるわけではありません。
 であるならば、逆に、「老人になっても、他人に頼らず生きる」ことを目標にしたらど
 うか、と考えることがある。そのためには、いくつかの条件、それを構築する心構えが
 必要になってきます。
・まず、なにはともあれ、経済的な基盤を自力で築くこと。最初から年金を頼りにするの
 ではなく、働けるうちはしっかり働いて、生活資金を確保するというのは理想です。し
 かし現実はそうはいきません。経済的な格差は拡大するばかりです。
・健康も大事です。歳を取れば、体にいろいろ変調をきたすのは当然です。しかし、ここ
 でも、できるだけ医療機関に依存しないで暮らしていく方法を発見すべきでしょう。
・ここで欠かせないのが精神の自立ということです。人に頼らず孤独を楽しみながら、そ
 の中で、これから重要になってくるのは、それぞれの死生観の確立ではないでしょうか。
 「いかに生きるべきか」に答えを出すのが文学や思想ならば、「どのように逝くか」を
 突き詰められるのは、宗教の力かもしれません。
・ここでいうのは特定の宗教グループのことではありません。例えば、かつて日常的に仏
 壇に手を合わせ、「自分も、いつかはご先祖様と同じ世界に旅立つのだ」と念じたひと
 昔前の老人たちは、現代の私たちよりも、死の恐怖からずっと自由だったと説く人もい
 ます。
・「自分の死生観を託せる宗教を見つけ、学ぶことは、死に対する恐れを振り払ううえで、
 かなり有意義なことである」とふと感じます。それは宗教というよりも、宗教的な生き
 方といったほうがいいかもしれません。
・常識や観念にがんじがらめになって、身動きが取れなくなってしまう人びとは、少なく
 ありません。そういう人たちが、普通に生きているのも面白いなと思ったときに、再び
 やる気が出てくる。
・ところが、どんどん時代閉塞の気配が深まっていきました。そういうことを感じない人
 もいるだろうけど、無言のうちにみんなが、時代が行き詰っている、行き場がない、そ
 してなにか大きな破局が将来待ち構えているんじゃないかと、漠然と感じはじめた。
・昔の状態を取り戻そうとしても、無理なわけです。迷っている中で、何かを求めて右往
 左往しているこの場所にしか自分たちの居場所はないという境地に、徐々に達します。
 どんなに現実が酷く、道が険しかろうと、そしてつまらなかろうと、ここで生きていく
 しかないのだから、みんな生きることを放棄せずに、つつましく生きていこう、と。
・運命は、ときとして非常に残酷です。どうしようもない不条理も存在するし、努力して
 もどうにもならない場合もある。その中で、運命と闘って生きていくのではなく、それ
 を受容して生きていく。大きな運命を受容することは決して敗北ではないのです。
・そもそも、迷っている状態そのものが、生きていることなのではないか。私は、迷いと
 か戸惑いというのは、決して困ったことではなくて、大事なことだと思っています。
 
「下山」の醍醐味
・人間はある一定の年齢を超えると、生理的にも肉体的にも、当然、衰えてきます。例え
 ば下肢の力が弱り、転びやすくなる。聴力、視力、持続力、記憶力、集中力なども半減
 してしまいます。それを認めず、「気持ちの持ち方次第で青春は続く」とか「前向きに
 頑張ろう」などとスローガンを掲げるのは、戦時中に竹槍でアメリカ軍と戦えと訓練さ
 せられたのと変わりありません。
・ですからまずは、肉体の衰えを直視して受け入れるところから始めるしかない。「老後
 を若々しく」などと目標を立てて、偽装して元気に振る舞っても、かえって現実と理想
 の乖離に悩むことになるような気がします。
・世間では山登りにおける後半部分が、軽視というより、ほとんど無視されているように
 感じられます。「目的を果たしたから、早く帰ろう」という感覚になりがちなのでしょ
 うか。山頂という目標に向かった登りと違って、下山は本当にただの付け足しの、退屈
 で、無駄で、苦痛ばかりの時間なのでしょうか。私は、そうは思いません。
・現在は人生百年時代といっても過言ではないほど長寿の方が増えていますから、「林住
 期」は五十歳から七十五歳までと考えてよいでしょう。私には、この時期こそが人生の
 黄金期のように思われます。「人生の黄金期」と言えば、前半の若者時代、現役世代と
 いうのが、通り相場でした。しかし、実は後半、なかんずく実社会からリタイアする
 「林住期」こそがクライマックスなのではないか、意識してそうすべきではないか、と
 私は考えるのです。

老人と回想力
・私が発見したのは、無意識にやってはいけない、ということです。立ったり座ったりす
 る時も、無意識にやろうとすると、よろめいたり、場合によっては転んだりしかねない。
 「今から座るよ」「今から立つよ」と、常に意識と相談することが大事です。
・衰えていく肉体をどうコントロールし、衰えをカバーして、どううまく運用していくか。
 自分の体と相談しながら工夫をすることを、ひとつの楽しみにしていく。これも視点の
 転換であり、高成熟期ならではの知的な活動です。
・この歳になって、少々気になり始めたことがあります。それは、「戦後七十余年」を生
 きてきて、今まであまり感じたことがなかった。ちょっとした、しかし拭いがたい、社
 会に対する「違和感」のようなものを覚えるようになったのです。意識し始めると、折
 に触れ身につまされるようになったその”居心地の悪さ”は、徐々に私の心に沈殿し、
 堆積していくような思いがありました。
 「嫌老」
 私は、思わず膝を打ってうなずきました。「違和感」の正体を、突き止めた気がしたか
 らです。
・「嫌老」というのは、「嫌韓」や「嫌中」と同じく、とても”尖った”言葉です。あまり
 にあからさまで、身も蓋もない表現です。しかし、それを投げかけられているほうも、
 「そうかもしれないな」と甘んじて受け入れざるをえないような社会に、私たちが暮ら
 していることも事実です。
・もちろん、「若い世代が、老人を疎ましく思う気持ち」は昔からありました。しかし、
 世の中に漂う嫌老感は、それとは明らかに異質なものであるように、私には感じられて
 なりません。
・昔と今とで、日本の何が変わったのでしょうか。いろいろあると思いますが、社会的な
 レベルで考察すれば、世界に例をみないほど急速な高齢化の進展が、最大の変化といっ
 ていいと思います。
・かつてはお年寄りといえば、「愛嬌のある人」「リスペクトすべき存在」という捉え方
 が、もっと社会の中にあったように思うのです。地域には「長老」がいて、みんなが一
 目置きつつケアする、というような習俗があった。
・現代の日本人から、そうした気持ちが一切合財、消えてなくなったとは言いません。で
 も、高齢者への風当たりは、昭和の時代とは、明らかに種類の違うものとなっているの
 ではないでしょうか。
・長老は、人数が少なく、ある種貴重な存在だったから「長老」たりえました。右を向い
 ても左を向いても高齢者が目に入る環境にあっては、もはやありがたくもなんともない。
 ありがたいどころか「疎ましい」だけ、という状況が生まれているのではないでしょう
 か。
・人間は、自分より「弱い」存在には優しくなれる動物です。困っている人がいれば、本
 能的に同情の念が湧き、手を差し伸べようとする。高齢者も本来「弱者」です。若い世
 代が、当然のように庇護すべき、と考える存在のはずです。
・ところが、そういう常識が現在は通用しなくなっているのです。現在日本に生きる高齢
 者層は、数の上でメジャーになりつつあるだけでなく、とにかく元気で活発です。なお
 かつ、非常に目立ちます。
・メディアが「元気な老人」をことさらに取り上げたりするのも相まって、「老人はおし
 なべて社会的弱者である」というイメージは、いまやこの社会から一掃された観があり
 ます。その結果、「同情」に代わって生まれたのが、下の世代からの反感であり、「嫌
 悪」の感情なのでしょう。
・そんな人びとが、海外の奥地に出かけたり、高級外車を乗りこなしたりする番組がつく
 られる。そこに、「静かに暮らす、愛嬌のあるおばあちゃん」や、「額に時代の年輪を
 刻んだおじちゃん」とは別種の感情を抱くのは、無理のないことかもしれません。
・ブレーキとアクセルを踏み間違えてスーパーに突っ込んだり、高速道路を逆走したりす
 る老人が、後を絶ちません。ウインカーも出さずに急に車線変更したり、センターライ
 ンをまたいで走ったり、高速の入口で迷って止ったりと、さまざまです。それらのすべ
 てが高齢者の仕業ではないでしょうが、少なくとも世間には、「あんな、年寄りが、ハ
 ンドルを握ってウロウロするから、危なくて仕方がない」という認識が定着することに
 なりました。その意識は、若い世代に特に強いのではないか、と私は思います。
・若い人たちは、あまり車に乗りません。運転免許を取る人間は、昔に比べると目に見え
 て減っています。車を持つことにステータスを感じていた、団塊世代くらいまでの若者
 たちとは違い、現在はネットだのゲームだの、それ以外に興味を惹くものが数多く存在
 する、という環境の変化もあるでしょう。しかし一方で、「車が欲しくても、経済的に
 とてもそんな余裕はない」という事情があるのも、また事実なのです。
・いずれにせよ、年金暮らしなのに車を運転して、あげく他人に迷惑をかけるような超高
 齢ドライバーが、若者たちの目にどう映っているのか。そのことについて想像してしま
 うのです。
・日本の家計貯蓄率、すなわち可処分所得に占める貯蓄額の割合が、右肩下がりに下がっ
 ていることはよく知られています。1970年代半ばには20%を超えて、世界でもト
 ップレベルだったのですが、どんどん下がり続け、「浪費国民」の代名詞のように言わ
 れるアメリカの後塵さえ拝することになりました。2013年には、ついにマイナスに
 転じてしまう。マクロでみると、日本の勤労者は収入だけでは足りずに、貯蓄を取り崩
 して生活していることになります。
・ところが、世間の受け止め方はかなり違うようです。「下の世代は苦しいのに、高齢者
 は年金までがっちり貯め込んで、使おうとしない」というのが、定説になっているので
 す。
・ここで考えるべきひとつは、「高齢者」と一括りにできない現実がある、ということで
 しょう。かつて大企業に勤めていたり、公務員だったりで、「二階建て」「三階建て」
 の年金制度に恵まれて、90歳で月に合計30万円とか40万円近い支給を受けている
 老人もいるらしい。しかし一方で、国民年金一本で来た結果、月に4万円前後しかもら
 えないような人も、決して少なくありません。「格差」は、なにも世代間だけのもので
 はない。高齢者間の格差も、確実に開きつつあるのです。
・でもやっぱり、目立つのは「豊で元気な老人たち」です。そこへの反感の強さは、高齢
 者世代に対する、こんな矛盾した見方にも表われています。
 「高齢者がお金を貯め込んで使わないから、景気がよくならない」
 「年金をもらっている年寄りが、気ままに海外旅行に出かけたり、高級者を買ったりす
  るのは、おかしではないか」
 どちらも、高齢者以外の多くの日本人が、普通に抱く感情ではないでしょうか。
・嫌老意識は、高齢者の中にある格差を覆い隠す役割もはたしているように思えます。
・とはいえ、今の高齢者に、曲がりなりにもしかるべき金額の年金がきちんと支給され、
 彼らが「高齢者医療」や介護制度によって「守られて」いるのは事実でしょう。その仕
 組みを支えているのは、言うまでもなく現在の勤労者世帯です。
・彼らの負担は、最大の担い手だった団塊世代が受給者の側に移ってくるにつれ、ますま
 す大きなものになっていきます。にもかかわらず、いざ自分たちがもらう番になった時、
 その仕組みがちゃんと機能している保証はありません。
・「豊かな老人」と裏腹の関係にあるのが、「貧しい若者」です。私が学生の頃も、まわ
 りは決して裕福ではありませんでした。それでも、例えば、育英奨学金をもらっていた
 のは、全体の5%くらいだったはずです。ところが、今は6割、7割の学生たちが、民
 間なども含めた有利子の奨学金を「借り」、卒業した瞬間に、数百万の借金を背負って
 社会に出ていくと聞きました。
・日本生命が2015年に発表した「結婚に関するアンケート」では、独身者の実の4分
 の1近くが、「結婚したくない」「あまり結婚したくない」と回答したという。理由の
 トップは「一人でいるのがすき」だったそうですが、私には、その向こう側にも「結婚
 したら生活が大へん」「どうせ俺には、家庭なんて持てない」という心情が透けて見え
 ているように感じられてなりません。
・いくら「少子化が深刻だから、たくさん子どもを産んでほしい」といわれても、それに
 応えられない現実が、今の若者世代にはあるわけです。
・そんな状況にもかかわらず、彼らは、年金が保障された「豊かな」高齢者世代を背負わ
 ねばならず、団塊世代のリタイアによって、負担はますます重くなっていきます。もし、
 私が今の若者世代だったら、暗澹として気分を禁じえなかったことでしょう。
・世の老人たちは、「自分たちだって、若い頃は生活が苦しかった」「年金をもらうのは、
 当然の権利だろう」いろいろ言われることに対する反応は、それ止まり。
・自らの世代を擁護するわけではないのですが、これには無理な面があります。人間は加
 齢によって、いろいろなことが衰えてきます。体力や運動神経だけではありません。
 「心」も確実の衰えるのです。その結果、外とのやり取りに「鈍感」になってきます。
 平たく言えば、「空気を読まなく」なる。

「世代」から「階級」へ
・もしかすると、まだ日本が本格的な嫌老社会の”入口”にあるかもしれない、とも感じま
 す。社会が嫌老という「病」取りつかれつつある中で、しかし多くの人には、明確な自
 覚症状が現われていない状況、と言ったらいいでしょうか。
・社会に嫌老意識が育まれる原因は、言うまでもなく、高齢者と下の世代との間に利害の
「対立」があるからです。ところがそれは、もはや巷間で言われるような「世代間の対立」
 を超越してしまったのではないでしょうか。それは、一種の「階級闘争」に発展しかね
 ない問題なのかもしれない、と最近私は感じているのです。
・日本は今、世界から注目される二つの問題を抱えています。その問題とは、使用済み核
 燃料の処理の問題です。もうひとつが、超高齢社会の行方。考えてみるとこの二つは非
 常によく似た話です。どちらも戦後の日本で素晴らしい働きをし、大きな成果を上げ、
 しかしながら時間の経過とともに、その存在が社会の重荷になっている。
・確かに実感としても、最近やたらと老人が多いのは事実です。右を向いても左を向いて
 も年寄りばかりという時代が、すでに現実となっています。私もたまに感じるけど、若
 者が集まるコーヒー店などに高齢者が足を踏み入れると、すーっと空気が冷める気配に
 なる。露骨ではないにしろ、いわば「嫌老感」とでも呼ぶべき風潮が世の中に広がりは
 じめているのかもしれません。
・その背景には、高齢者の年金や医療・介護費がこの国の財政を圧迫していること。さら
 に、その財源を支える勤労世代にはその恩恵を受けられる保証がなく、「必死に働いて、
 なぜ高齢者ばかりいい目をみるのか」という不満が高まっていることがあるのではと思
 います。こうして状況はもはや、世代間格差なんて生ぬるいものではない。持つ者と持
 たざる者の、「階級闘争」がはじまりつつあるのかもしれません。
・その厳しい時代を生き抜いていくためには、高齢者もこれまでのように世間の善意に頼
 って生きるわけにはいきません。「高齢者の自立」が必要になってくるのです。そのた
 めに必要となるのは、まず経済的な基盤です。働けるうちはしっかり働いて、年金だけ
 に頼らない生活資金を確保しておきたい。
・次に、健康な肉体。医療制度に過度に依存しなくても生きていけるように、ほどよく養
 生する姿勢は大切。
・もうひとつが、精神の自立。特に大切なのは、死生観の確立です。どのように「逝く」
 かは、やはり宗教の力が必要になる。
・これからの時代を生きる人たちは、高齢になっても、自分たちが弱者であるという意識
 を捨て、自立しなければなりません。例えば職業でも、若い世代より高齢者に向いた仕
 事がある。
・あるいは、年金などで生活基盤を支えながら、ボランティアのように社会に役立つ仕事
 に励むのも、リタイア世代ならではの生き方です。
・私が提唱したのは、同じ老人階級の中で生かす「相互扶助」の思想です。例えば一定以
 上の収入がある人は、年金を辞退する、公的介助なども受けないことにより、限られた
 パイを同世代の間で分け合うような仕組みをつくるのです。
・どうせあの世へは持っていけないのだし、生きているうちに思いきりお金を使うべきで
 す。旅行もグルメを思い切り楽しんで、「ああ面白かった、満足だ」と言って往生すれ
 ばいい。
・老人階級の間で恵まれない人への寄付や援助も非課税にするべきではないのか。自立し
 た老人が、未来の社会に対して積極的に貢献する。その姿が次の世代に希望を与え、
 「自分もあんなふうに生きたい」という憧れと尊敬を抱かせることにもつながります。
・かつては、人口ピラミッドの頂点近くに存在するに過ぎなかった高齢者。それがいまや、
 「日本人の4人に1人は、65歳以上」という状況になりました。単に人数が増えただ
 けではありません。彼らはかつてのような「穏やかな口数の少ない、弱々しい人たち」
 だけではなく、「豊かで元気な老人階級」としての存在感を急速に高めつつあります。
・ここに、わが国の歴史上初めて「老人階級」が立ち現れた、と言っても過言ではないで
 しょう。そして、まさにそのことによって、新しい階級闘争が起こる可能性があるとい
 うのが私の予感なのです。
・「豊かな」この階級はしかし、下の世代が支える年金を受け取っています。その「命と
 健康」をつなぐための高額な医療費が、国家財政の大きな負担ともなっています。「若
 い世代にツケを回すな」というスローガンとは裏腹に、この世代の増大は、とどまると
 ころを知りません。
・あえて言っておけば、旧世代が残す「ツケ」は、借金だけではないのです。例えば、
「使用済み核燃料」をどうするのか。巨大な国の借金をどう処理するのか。そうして難問
 の数々の解決を次の世代以降に委ねたまま、やがて彼ら自身は退場していくのです。当
 然、ツケを負わされた方は、たまったものではないでしょう。
・嫌老感の矢面に立たされる老人階級ですが、もちろん、彼らにも言い分はあります。
 「日本を世界の冠たる経済帝国に押し上げたのは、自分たちの力だ」 
 「高齢者だって、いろいろな物を犠牲にしてきた。しかるべき年金をもらうのは当然だ
 ろう」
・そして、その感情は、下の世代への反感にもつながっていきます。
 「自分たちは、社会に対して行動すべき時は、行動した。現在の若者たちは、そんな気
 概もなく、選挙にさえ行かず、フラフラと何をやっているのだ」
・私を含め、80歳、90歳の老人は、戦争に直面した世代です。戦後すぐの労働運動は、
 マッカーサーを慌てさせるほどの高揚を見せました。若き団塊世代は、学生運動の「旗
 手」でもあったのです。 
・そうした人間たちからすれば、若いうちから趣味の世界にふけり、ときにわけの分から
 ない「自分探し」に没頭するように見える下の世代がもどかしく、許しがたい存在に見
 えるのもまた、仕方のないことかもしれません。
・問題は、これから先どうなっていくか、です。結論から言えば、「嫌老感」はやがて、
 一種の「ヘイトスピーチ」にエスカレートしていく危険性がないではない、と私は見て
 います。
・かつての階級闘争で敵と名指しされたのは、独占資本家たちでした。彼らを打ち倒すた
 めの闘いに勝利するためには、資本家を否定するだけでは足りなかった、というのが私
 の解釈です。労働者たちに植え付けられたのが、「資本家を憎む」感情でした。増悪な
 くして、階級闘争はありえなかったのです。
・今のところは、「豊で鈍感な老人への反感」くらいのレベルで済んでいます。でも、こ
 のままいけば、「嫌悪」、そして「増悪」にまで昇りつめていくのではないか。そうな
 った時に、この日本社会は、どのような反応をみせるか。
・いざという時、国民を結束させるのに最も効果的なのも、増悪の感情です。「他の誰か」
 に対して、共通の憎しみを覚えれば覚えるほど、内部の団結は強靭なものになるのです。
・日露戦争を目前に控えた時期、日本人は、敵国の国民を「露助」と呼びました。「非国
 民」と罵る代わりに、仲間に「あいつは「露探」だ」というレッテルを貼った。ロシア
 の探偵、すなわちスパイで、「あちら側の人間だ」というわけです。そこに込められた
 のは、敵国民に対する、軽蔑、増悪の感情にほかなりません。
・日中戦争、太平洋戦争では、もう開戦の十年も前から、軍が主導した「時局講演会」が
 全国津々浦々で開かれていました。そこでは、日本民族の優秀さ、その行く手を遮ろう
 とする「鬼畜米英」をはじめとする連合国に対する増悪の念が、これでもか、と刷り込
 まれたわけです。
・戦時期の「時局講演会」には、実は人びとは、そこに動員をかけられて、いやいや出か
 けて行ったのではありませんでした。自らの意志で、我先にと足を運んだのです。会場
 はどこも超満員で、「満州は日本の生命線である」といった講和に、「そうだ!」と大
 盛り上がりだった。日露戦争の時も、「露助撃つべし!」という激烈と言ってもいい大
 衆の感情があった。
・「太平洋戦争の端緒は、中国大陸その他における現地軍の暴走である」という議論を、
 よく耳にします。確かに、現象的にはそうだったのでしょう。では、どうして日本軍は、
 「暴走」することができたのか。軍部だって、バカではないのです。彼らは、ひそかに
 世論、国民感情を注視していたに違いありません。そして、敵に対する反発の感情を燃
 え上がらせる国民のエネルギーを感じ、動いたのだと思います。
・彼らにとって、もはや内閣や政党が何を言おうとも、大した問題ではありませんでした。
 たとえ文句を言われても、国民大衆があれだけ「やる気満々」なのだから大丈夫と踏ん
 だのではないか。逆に言えば、国民の支持がなければ、無謀なことはできなかったはず
 です。
・あの時期新聞は、好戦的な大見出しを掲げれば掲げるほど売れました。国民が、そのニ
 ュースを「欲した」からにほかなりません。「需要」に応えて、新聞社はさらにデカデ
 カと、「わが軍、大勝利す」の大本営発表を載せるようになりました。マスコミと世論
 とは、「相補的」な関係にあるのです。「常にメディアがリードする」と考えるのは、
 私に言わせれば幻想にほかなりません。
・2015年4月、首相官邸の屋上で、無人機「ドローン」が発見されるという事件が起
 きました。終日後、福井県在住の四十代の男性が自首して逮捕されたのですが、彼がネ
 ット上で自筆の「ハローワーカー」というマンガを公開していたことを編集者から聞き
 ました。
・「ハローワーカー」という漫画に描き出されているのは、タイトルからも分かる通り、
 若者の失業者が主人公のストーリーです。そこには、究極の嫌老社会、世代間の熾烈な
 階級闘争が展開されています。 
・これは「炭鉱のカナリア」かもしれない、とふと感じたのです。現実に「老人駆除」と
 いう表現が登場したということは、そこからなんらかの「社会的背景」がある、という
 ことにほかなりません。たくさんの人びとがこの作品に「おもしろさ」を感じるのも、
 そこに理由があるのでしょう。
・「平家物語」には、「盛者必衰」という有名な言葉があります。栄えたものは、必ず衰
 退します。ここで私たちは、諦める「覚悟」を持てなくてはいけません。衰退の道に入
 っているのに、無理やりに日を昇らせようという考え方は間違っているのです。
・これからの世界で必要なのは、日本の仏教の中で言われる「草木国土悉皆成仏」や「山
 川草木悉有仏性」のような発想だと思います。木にも草にも山にも岩にも命があり、仏
 性という尊いものが潜んでいるというアニミズム的な考え方。山を尊敬したり、熊の霊
 を祀ったりするアニミズムは原始人の未開的な宗教意識と言われています。しかし、こ
 れから環境問題をしっかりバックアップできる思想があるとすれば、それはアニミズム
 です。
・神と仏が共存できるという神仏混淆の感覚は大事です。「神はわれ一人、われ以外に神
 はなし」という一神教同士ではお互いに認め合うことができないので、妥協の余地がな
 い。そうすると、敵は討てという十字軍的な発想になり、戦争が起こってしまう。
・今までの日本ブームは浅薄なものでした。お能や歌舞伎またはお茶も結構ですが、古代
 から連綿と続いてきた日本の思想にも目を向けてもらう。そうすることで世界から注目
 を浴び、尊敬され、留学生がぞくぞくと日本に来る。日本語を学ぶ人たちが世界中に増
 えてくる。日本語と日本文化に憧れる若者たちが集まる。そういう期待を私は持ってい
 ます。日本の思想とは、言うなれば「ゆるやかな宗教意識」と呼べるものです。
・私は、浄土真宗の親鸞に深く共鳴していますが、いわゆる門徒ではありません。実のと
 ころ、私は「教え」としての仏教にはあまり関心がない。ただ感覚としての仏教に非常
 に興味があります。宗教意識を持つということは、どこかの宗教に所属することでは決
 してないのです。
・今の社会の中で、ひとつのブレーキとして働くのは宗教意識です。しかし、日本でもア
 メリカでも、この「ゆるやかな宗教意識」が薄らいでいます。
 
なぜ不安になるのか
・この国の置かれている状況を「少子・高齢化」と表現するのは、もはや誤りで、事態の
 深刻さを見誤せる可能性がある、と指摘する人もいます。地方から押し寄せているのは、
 もはやそんな生易しいものではなく、”人口逆ピラミッド”の上のほうから「消えて」い
 く現実、いわば「急速な高齢化と人口減の同時進行」だというわけです。
・さらに、そんな不安を、2011年3月11日の出来事が「巨大化」させました。あの
 大震災は、日本人が久しく忘れていた自然の脅威をまざまざと呼び覚ましただけではあ
 りませんでした。大津波によって引き起こされた原発事故は、先端技術の信じがたい脆
 さ、危さとともに、この国で最も「優秀」だと信じられていた人たちの無能ぶり、いい
 かげんさをも、満天下に晒すことになったのです。まさに、「何を信じたらいいのか分
 からない」という、際限のない不安だらけの中で、我々は日々の生活を送っています。
・かつてのような好景気は二度と望めず、人口もどんどん減っていく。どこに希望がある
 というのか。いや、日本はまだまだ発展する、と言う人がいます。アベノミクスで 、
 ”死に体”だった日本経済はよみがえった。円安で日本を訪れる外国人が増え、口々に
 「日本は素晴らしい国だ」と言っているではないか。2020年、東京オリンピックの
 開催が決まったではないか、と。
・だがしかし、人びとは「宴の後」に何が待っているかに、薄々気づいてしまっているの
 ではないでしょうか。「オリンピックを、日本経済復活の起爆剤に」などというプロパ
 ガンダを、眉に唾をつけずに聞いている日本人が、どれほどいるのか。
・「希望を持てない」大きな原因のひとつは、「何を信じればいいのか」が分からなくな
 っていることです。為政者、指導者、専門家。そういった人たちの言葉も、ますます信
 用されなくなっています。 
・東日本大震災による原発事故が発生した直後、「放射能が、ただちに健康被害をもたら
 すことはない」という政府発表が繰り返されました。しかしそれを聞いて、よりいっそ
 う不安を募らせた人は、少なくありませんでした。無理もありません。原子力や放射線
 の専門家たちの発言からして、「絶対に大丈夫」から、「将来何万人もがんで死ぬ」ま
 で、ほとんど不確かなものだったのですから。
・日本人は、誰もが漠たる、「巨大な不安」を抱えて生きています。その不安と面と向か
 って対峙したのでは、身がもたないかもしれません。「年金も保険もない老後など、想
 像できない」というより、「したくない」のです。だから、それからは目をそらし、と
 りあえず”棚上げ”にして、「充実した毎日」を過ごせば、それでいいじゃないか、と現
 実から逃避する。
・考えてみれば、我々のまわりには、「サーカス」のネタに事欠きません。週替わりのよ
 うに人びとの耳目を集める政治家の不祥事や失言、教師や警察官の犯罪、芸能界のスキ
 ャンダルなどというのもまた、興味の尽きない「サーカス」にほかなりません。そんな
 イベントが、次から次へと提供されては、消えていきます。国民は、こぞってそれに参
 加して、お祭り気分の中で、なんとなく日々が過ぎていくのです。
・現実を直視しようとしないのは、自分たちの足下で進行している事態が、あまりにも深
 刻なものであることの裏返しだ、とも言えます。だから、「自分で考えたところで、仕
 方がないことだ」と諦めてしまう。

まず「気づく」こと
・勤労世代、若者世代の嫌老意識の背景に横たわる現実は、複雑で深刻です。ある意味、
 恐ろしい世界です。今後、百歳を超えるような高齢者がさらに増加し、その介護、医療
 に投じられるお金は、否応なく膨らんでいきます。しかも、そんな老人たちの少なくな
 い部分が、意識も体の自由も失った状態で、ただベッドに横たわっているだけ、という
 現実がすでにある。
・しかし、「そんなに生きられても困る」「なんとかしてくれよ」とたとえ心の中で思っ
 ても、それを公言することなどできません。今の日本社会では、老人の側から「尊厳死
 「安楽死」を口にすることさえ、半ばタブーです。要するに、触れてはいけない問題な
 のです。
・でも、明らかに看過できない事態が進んでいるというのに、それに触れずに行くという
 のは、社会にとっては大きなストレスでもあります。この国は、超高齢者層の激増によ
 り、国ぐるみで無言のプレッシャーを感じている、というのが現実ではないでしょうか。
・私が恐れるのは、国のリーダーたちも国民も、そうやって「心配停止」のまま、いたず
 らに時を過ごし、これといった針路も定めぬまま歩み進めた結果、期せずして「嫌老が
 当たり前の社会」を出現させてしまうことなのです。
・嫌老社会の背後にある問題が、社会政策的に冷静な目で論じられ、解決に向けた何らか
 の方向性が示されることがなければ、いつのまにか、若年世代を中心にルサンチマンの
 情動、すなわち「金食い虫」の高齢者世代に対する強い憎悪、嫌悪感、拒否感が芽生え、
 蓄積していくことでしょう。或る時そのエネルギーが一気に噴出して山肌を崩壊させ、
 下山中の人びとを覆い尽くす。そんなシナリオが荒唐無稽なものだとは、私にはどうし
 ても思えません。
・仮に、革命が成就したとしたら、高齢者たちは、どんな状況に置かれることになるので
 しょうか。ある年齢になったら、どこかひと所に集められて、「余生」を送ることにな
 るのではないか。そんな馬鹿げた想像もします。そこまでいかずとも、お金をかけられ
 ないとなれば、将来、老人の扱いは、極めて粗雑なものになるでしょう。
・すでに一部のそうした施設では、高齢者をベッドに縛りつけたり、日常的に暴力を振る
 ったり、またまた「居場所」を提供する代わりに年金手帳を取り上げたり、といった事
 態が報道されているではありませんか。今は社会的非難を受けるそうした振る舞いも、
 日常茶飯事の風景になるのが、嫌老社会の行き着く先です。
・ただひたすら「自分のこと」ばかりを考えていれば、そんな社会を招きかねないことだ
 ということを、高齢者自身も、よく考えてみる必要がありはしないでしょうか。
・高齢者の多くは、自らに向けられる嫌老意識に、はっきり気づいてはいません。まして、
 その背景にある世代間格差を、我がこととして認識する人が、どれだけいるのか。
・嫌老意識は、少なくとも「プレッシャー」を抱える社会の背後に無意識に広がる、いま
 だ表面にあらわれない、潜在する意識なのです。怖いのは、そんな潜在意識が潜在意識
 のまま増殖を繰り返し、ある時、社会の表層にとめどもなく溢れ出てくること。「嫌老
 ヘイトスピーチ」が、誰はばかることなく、拡散していくような状況です。そうならな
 いためには、まずは「無意識を意識化」する必要があるでしょう。
・もちろん、高齢者の側も、この問題に関しては「気づく」努力をすべきです。「もしか
 したら、自分たちが想像以上に嫌われ、憎まれているかもしれない」ことに。高齢者と
 はいえ、ひとりに国民として、社会が直面する課題に向き合っていくことが、今ほど必
 要とされている時代は、ないように思うのです。
・「だから、お互い分かり合うべきだ」という精神論、あえて言えば「道徳」をいくら語
 ってところで、状況を動かすことはできない、と私は思います。
・嫌老社会の原因は、日本が、いや世界が経験したことのない人口の超高齢化、それがも
 たらす社会保障をめぐる世代間格差の拡大、すなわち勤労者、若者世代の経済的負担の
 増大と絶望的にみえる将来展望が主な原因でした。すぐれて現代日本の国のあり方、経
 済に根差した課題であることがお分かりいただけると思います。嫌老社会は、その上に
 咲きかけた”あだ花”と言ってもいいかもしれません。
・高齢者は、人生という山を下る途中にいます。基本的に、もう家を建てる必要はありま
 せん。高級者もヨットも「どうしても欲しい」というものではないでしょう。しかし、
 もし、見る力、聞く力、噛む力、歩く力といったものを、十代、二十代に戻してくれる
 道具や手法があったら、どうでしょう。それなら、いくら出しても惜しくはない、と感
 じるはずです。
・世界最高の視力矯正手術、自然に聞こえる超小型補聴器、自然の歯よりも丈夫で具合の
 いい義歯、快適な歩行補助器・・・。そういったものの開発に、資金や人的資源を集中
 させるべきではないでしょうか。
・産業のメインユーザーは、今後ますます増えていく高齢者です。高齢者の比率が高まれ
 ば高まるほど、その世代特有のカルチャーが醸成され、影響力を高めていくことでしょ
 う。日本発のカルチャーといえば、高齢者世代のそれ、という時代が遠からず来るかも
 しれません。
・私は、むしろ意識的に、高齢社会に文化の中心をシフトさせていくべきだ、と考えるの
 です。超高齢化が進むこの国にあって、産業も文化も、国のあり方そのものも、老人た
 ちを中心に考えてみようじゃないか、というのが私の提案なのです。シンプルな表現を
 使えば、「もっともっと、老人に注目してほしい」ということです。
・ともすれば「社会のお荷物」になりかねない高齢者に、「静かに」していてもらうので
 はなく、より一層、社会の前面に出て奮闘してもらおう。ただ時間潰しに日銭を稼ぐと
 いった立ち位置ではなく、国力アップの推進役を務めていただきたい。それが、私の理
 想とする新しい時代の老人像です。
・例えば、日本で画期的な老眼矯正や、入れ歯制作の技術が開発されたとしましょう。
 少々、値は張る。でも、世界中の富豪たちが、こぞって自家用ジェット機に乗って、治
 療」にやってくるに違いありません。彼らの訪日目的は、別にも考えられます。「世界
 最先端」の超高齢社会であり、独自の精神風土を持つ日本で創造された、成熟して洗練
 された文化や技術に触れることです。それを組み込んだ旅は、きっと人気を博すはず。
 日本が”高齢カルチャー”のセンターになるのです。
・「クール・ジャパン」もいいけれど、「ニッポンといえば、高齢者をケアする製品やサ
 ービスで右に出るもののない国」というブランドが確立されたら、世界が日本を見る目
 はガラリと変わるのではないでしょうか。「高齢者産業」は、日本の経済が再び輝きを
 取り戻せるポテンシャルを秘めている、と私は本気で思っているのです。
・この産業は「老人主導」でなければダメです。高齢者にお金を注ぎ込むのではなく、中
 心となって稼ぎ出してもらうという”逆転の発想”はまた、若者の職を奪うどころか、よ
 り高付加価値の仕事を彼らに提供することにもつながっていくはずです。
・スペシャリストでなくとも、自らの能力、経験を武器にして、社会に貢献できる老人で
 溢れているのが高齢社会ニッポンです。その力を生かさない手はありません。
・それは「心のリタイア」ということでもあります。五十歳になったら、それまでの働き
 詰めの人生を一度振り返り、「よりよい生き方とは何なのか」を考えてみよう、という
 提案です。しかし、それは「働くのをやめなさい」ということでは、もちろんありませ
 ん。「五十を過ぎて人生の後半に入ったら、好きな趣味の世界に没頭していればいい」
 ということではないのです。
・「よりよい生き方」の最たるものは、「社会貢献」であるはずです。働くことに生きが
 いを感じられるなら、年齢制限なく、そうすべきです。そして、できるだけ社会保障の
 世話にならない覚悟で生きていく。それこそが、高齢社会に生きる老人の自然な姿、
 「賢い生き方」なのではないでしょうか。それは嫌老ならぬ「賢老」という生き方です。

おわりに
・過去を振り返るのは後ろ向きだ、退嬰的だと批判する人もいます。「高齢になっても、
 前向きに生きよ、それが元気の秘訣だ」という意見も、少なくありません。しかし高齢
 者の場合、前を向いたら、死ぬしかありません。それよりは、あの時はよかった、幸せ
 だった、楽しかった、面白かったと、さまざまなことを回想し、なぞっていたほうがい
 い。
・高齢になり、なんとなく厭世的になって生きているのがいやだなと思う原因は、大きく
 ふたつあります。ひとつは人間不信。例えば必死で働いて家族を守ってきたのに、高齢
 になったとたん邪慳にされる。子どもたちは遺産のことしか考えていないのではないか。
 定年になったとたん、誰も見向きもしてくれない。そんな、いささか被害妄想的な思い
 にとらわれて索漠とした気持ちになることは、誰しもあることだと思います。
・一方で自分はどうかと我が身を振り返ると、今度は自分が嫌になる。鏡を見ると老いた
 姿が映ってくる。あちこち具合が悪くて体が思うように動かないし、前向きな気持ちに
 もなれない。家族のお荷物になっているのではないか。
・人間不信と自己嫌悪は、人が明るく生きる上で大きな障害となります。それを、どうい
 うふうに手放すか。私はこれも、回想の力によって乗り越えられると考えています。
・世の中は金と欲と権力の巷だということは分かっているけれど、それでもなお、人間は
 面白い。ささやかな人の営みというのは、なんともいえない味わいがある。そんなじわ
 ーっとした思いによって、人間不信と自己嫌悪という二つの病が癒されていく感じがあ
 る。
・誰でも生きていれば、つらいことや、嫌なことは山ほどあります。しかしそういう記憶
 は、抽斗の中にしまったままにしておいたほうがいい。落ち込んでいる時、弱っている
 時は、なんともいえないバカバカしい話が逆に力になることがある。賢人の格言より、
 思想家の名言より、生活の中のどうでもいいような些細な記憶のほうが、案外自分を癒
 してくれるのです。