ひとりが、いちばん    :橋田壽賀子
            (頼らず、期待せず、ワガママに)

この本は、いまから21年前の2003年に刊行されたものだ。
この本の著者は、テレビドラマの脚本家で、「おしん」をはじめ数々のヒット作を世に送
り出した人物だ。

この本の著者の、
「日常はシンプルに、質素に暮らしたい」
「無理をせず、本当につき合いたい人とだけつき合う」 
「相手に期待をしない」
「好奇心がなくなったときが本当の”老後”」
という考え方に、私もとても共感するところだ。
高齢者の孤独を問題視する社会風潮があるが、ひとりでいることが精神的に気楽で好きだ
という高齢者もいるのだ。無理をして人とのつながりを持とうとして、精神的にストレス
を感じて生活するよりは、ひとりでいるほうが、ずっと幸せな日常を送れると私は思って
いる。

過去に読んだ関連する本:
ひとり老後はこんなに楽しい
ひとり旅は楽し


はじめに
・まずは、身体もこころも健康でいること。
 そのためにも日常はシンプルに、質素に暮らしたいと思います。
 人間関係も、義理のお付き合いはなし。
 無理をせず、本当に付き合いたいひとだけ付き合うように心がけています。

期待しなければ、人との付き合いはもっと楽になる
・親戚づき合いや近所づき合いは、本当に難しいもの。
 家族のこと、嫁姑の問題だけでなく、親戚や隣近所との付き合いでストレスを溜める人
 も多いでしょう。
・結論からいえば、私は最低限の義理だけを果たして、日常的にはほとんど付き合わない
 ことを原則にしています。
・東京のマンションで暮らしていたころは、マンションの住民たちで組織する隣組のよう
 なものがあり、当番制で役職を決め、問題が生じるたびに会合を開く、といった雑事が
 多かったのです。
・隣近所と顔を合わせる機会が増えれば、それがきっかけとなってものをあげたりもらっ
 たり、というような近所づき合いに発展することもあります。
 現実にそうっして仲良くなった人たちもいたようですが、私はそういう近所づき合いを
 望んでいませんでした。
 エレベーターで会ったときに挨拶を交わすくらいで、個人の生活に立ち入るような会話
 は避けるように気をつけていました。
・いざというときに頼りになるのは「遠くの親戚より近所の他人」という言葉があります
 が、私は遠くの親戚も近くの他人も頼るつもりはありません。
 私自身は橋田家のひとり娘でしたが、両親は他界しており、自分の身内はひとりもいま
 せん。
 夫の親戚とは電話のやりとりと冠婚葬祭の付き合いがある程度です。
・面倒だと思いながらも親戚や隣近所と無理して付き合っている人は、相手に嫌われたく
 ないという気持ちからそうしているのではありませんか。
 いざというときに頼りたいという気持ちから、どこかで見返りを期待して付き合ってい
 るのではありませんか。 
 もしそうだとしたら、簡単なことです。期待をしなければいいのです。
 それで付き合いが悪いと非難されたところで、別にいいではありませんか。
 お互いに見返りを期待するような関係を無理に続けずに、本当に付き合いたい人とだけ、
 付き合えば。
・そう決めてしまえば、サバサバとすっきりしたものです。
 生きていくうえで、自分にとって何がいちばん大事か、そこを見極めてなくてはなりま
 せん。それが気楽に生きるコツだと思います。
  
・会いたいときには会って、あとはあまりベタベタしない。
 それが私にとって理想の人間関係です。
 人といっしょにいるのが大好き、というタイプの人もいますから、そういう人はそれで
 いいのだと思います。
・自分の姿勢を貫くためには、相手に対していい格好をしようと思わないことです。
 誘われても嫌だったら断る勇気を持つことです。
 ワガママになるということは、一見簡単そうに思えますが、実は強い意志がないとでき
 ないことです。意識しないと難しいことなのです。
・それで去っていったなら、去る者は追わず、です。
 まず基本はワガママ。その上で来る者は拒まず、去る者は追わず。
 その姿勢で気楽に構えていると、似た者同士だけが残ります。
・とにかく自分の気持ちに対して無理をしない、ということ。
・「時代においていかれたらどうしよう」などとはまったく思いません。 
・人間関係と同じで、受け入れられるものと受け入れて、かなり無理をしなければ受け入
 れられないものはさらりと受け流す。
 スッキリ、サッパリ、潔く。それが何よりも気持ちのいい生き方だと思うのです。

・好奇心に素直になるということ。
 それはすべての基本であり、この好奇心がなくなったら、もしかしたらそのときから老
 後が始まるのかもしれません。
・目にしたもの、手に触れたものを指して「これ、なあに」を連発する言葉を覚えたばか
 りの小さな子どものように、自分が興味を抱いたことはどんどん試してみるべきだと思
 います。

・年齢を気にして、やりたいことをあきらめるなどということは、私にはまずあり得ない
 ことです。
 「もう年だから」は禁句です。
・仮になにかを実際に試してみて、その結果がうまくいかなかったとしても、私は絶対に
 年齢のせいにはしないようにしています。 
 年齢のせいにしてしまったら、一度失敗したことには、もう二度と挑戦することができ
 なくなってしまいます。
・うまくいかなかったことを簡単に年齢のせいにしてしまったら、できることはどんどん
 少なくなってしまいます。 
 足腰が弱ったのが老化現象だったとしても、それは老化のせいではなく、足腰を鍛えて
 いなかったからと考えるのです。
 そこで思い直して足腰を鍛えれば、できなかったことができるようになるかもしれませ
 ん。
・とにかく自分の興味を抱いたことにはどんどんチャレンジする。
 そしてたとえ失敗しても年齢のせいにしない。老け込まないためには、どんどん外に出
 てなんでもやってみることです。

・健康のためには歩くのよいことは重々わかってはいても、ウィーキングだけを目的とし
 てひとりではなかなか歩く気にはなれないもの。
 けれど、犬の散歩という大義名分があれば、毎日実行せざるを得なくなります。
・自らに課した運動の時間として、最初は義務的に歩いていた散歩ですが、次第に樹木の
 間をぬって歩くことの気持ちよさを楽しんでいる自分に気づきました。
 早春にこぶしの花を見つけたり、山佐倉がひっそり咲いている光景に見とれたり、季節
 の訪れを知らせてくれる山つづじ、あじさいに遭遇したりと、四季折々の風景の移ろい
 を楽しみ、草木から出ている”気”をたっぷりと胸に吸い込みます。
 木漏れ日の美しさ、夕暮れに染まる空と海、山の緑の中を抜けてくる風を感じる心地よ
 さ。春には春の、初夏には初夏の匂いが山あいに広がします。

話さなければ、夫婦はわかり合えない
・人と人が関わり合うということは、思いのほか大変なことです。
 自分にとってどうでもいい相手ならともかく、たとえば夫のように密接な関係にある存
 在ならば、意思の疎通をはかることはとても大切なこと。
 お互いにわかり合いたいなら、自分の言い分をわかって欲しいなら、ケンカもどんどん
 すればいいのです。
・言いたいことを我慢して、その場その場を円満にやりすごそうとしていると、話し合う、
 あるいは何かについてきちんと向き合うという姿勢そのものが夫婦の間になくなってし
 まいます。
 長い間、夫にとって都合のよい言い分を妻が我慢して聞いてやっていると、夫は妻の不
 満も気づかず、わざわざ話などしなくても夫婦ならわかり合えるだろうと、勝手に思い
 込んでしまいかねません。
・夫婦に限らずどんな人間関係にも言えることですが、相手とわかり合うためには、まず
 話し合うこと。
 その結果、意見が対立することもあるでしょう。
 でも、それもいいではないですか。
・意見が違うことと、仲がいい、悪いことは別のことなのです。
 衝突を避けて穏やかに話すことだけでは得られない人間関係とうのは、確実にあるので
 すから。 
 そうしたほうが人生を深く味わえることは、言うまでもありません。
 
・「ケンカ大賛成」とは言っても、やはり相手を傷つけるような暴言を吐いてしまっては、
 後々までしこりを残すことになってしまいます。
 言葉それ自体が暴力になるようなケンカは問題です。
 内容は同じでも、言い方ひとつで相手の受け取り方がずいぶん変わるものです。
・仕事を持っている主婦はたくさんいることでしょうが、「働いている」というのと、
 「働かせてもらっている」と言うのでは、夫が受け取る印象はずいぶん違うはずです。
 まして、妻の収入のほうが上回っているような場合は、なおさら気をつけたほうがよさ
 そうです。 
・間違っても、「働いてやっている」などという言葉は慎むべきです。
 妻の収入が上という事実だけでも、男の人というのは相当にブライドを傷つけられてい
 るのですから、これは傷口に塩をすり込むようなもの。
・女房が稼ぐようになって急に暮らしぶりが贅沢になったら、夫が家に帰って来た途端に
 その現実を突きつけているようなものです。
 いくら口で「あなたのおかげ」と感謝したところで、白々しく聞こえるでしょう。
・ですから、私の原稿料を生活費に足すことはせず、それまで通り、夫の月給の範囲内で
 暮らすようにしていました。  
・ちょっとしたひと言が足りなくて関係がギクシャクしてしまうということは、世間では
 よくあることです。
 たったひと言「あなたのおかげ」と言うくらいほんの数秒のことなのに、なぜみんな言
 わないのだろうかと、私はとても不思議です。
 それで相手の機嫌がよくなるなら、儲けものではありませんか。
 損することなど、何ひとつありません。
・夫を立てるということは、決して古臭いことだとは思いません。
 これは、男と女の特性の違いかもしれません。
 男とは女からおだてられ、立ててもらうことで、またさらに頑張る性質を持っているよ
 うな気がします。 

・組織の中で何か新しいことを始めようとするときは、少なからず反対意見はでるもので
 す。だれでも自分の意見に反対されれば、いい気持ちはしません。
 もちろん反対する人はそれなりの理由があってしているのですし、その反対意見を聞く
 ということは、仕事上必要なことでもあります。
・会社は賛成、反対両方の意見に耳を傾けて、慎重にものごと決定していかなければなり
 ません。それが会社組織というものです。
・けれども家では違います。
 私が誉めようとけなそうと、結論はまるで別のところで下されるのです。
 だったらよほどのことがない限りは、誉めるに限ります。
・とにかくまずちゃんと話を聞いて、「いいな」と思える部分を拡大して誉めるようにし
 ていました。   
 会社であまりよい評価を得られなかったらしいときは、愚痴こそこぼしませんでしたが、
 不機嫌なのですぐわかります。
 そんなときは、「このよさがわからないなんて向こうがばかなのよ」と夫の立場の立ち、
 いっしょになって怒ったものです。
 ときには、「こういう素晴らしい企画を考えられるあなたを評価できないような会社は
 つぶれるわよ」くらいのことまで言いました。
 私が激しく怒れば怒るほど頭人の怒りは鎮まり、次第にご機嫌になっていくのです。
・誉めておだてる。それは日常のささいなシーンでもものごとをスムーズに運ぶためには
 有効な手立てです。
 ことに何か文句を言いたいようなときは、必ず誉めるようにしていました。
・言いたいことを本当に伝えたいと思ったら、「どうすればいいたいことがきちんと伝わ
 るか」ということを何より考えなくてはなりません。
・なにごとも自分の価値観に当てはめようとすると、見える者が見えなくなってしまいま
 す。 
・性格や頭の良し悪しはもちろん、育ち方も生きてきた過程も、人はみなそれぞれ違いま
 す。違うということを最初から頭に入れて、それを認めてやらない限りいつまでたって
 も平行線です。
・相手のいいところを見つけるちょっとした努力が大切。
 それを常に心がけ、そして誉める。時にはおだてる。そんな心がけひとつで、人間関係
 がうまくいくこともあるのです。
 そうすれば、毎日がもっともっと明るく楽しくなるはずです。
・自分が信念をもって実行していることをやみくもに否定されたのでは、誰だって面白く
 ありません。 
 相手のいいところを認めて、その人の個性や主義主張を尊重すること。
 それは円滑に人間関係を結ぶ否決のひとつです。
 たとえ相手の主張が、いわゆる世間の常識と多少違っていたとしても、他人に迷惑をか
 けるようなことでなければ、それでいいではいありませんか。
 
・定年の時が近づいたら、まず自分の希望を夫に言う前に、夫がどうしたいのかを聞いて
 あげることです。
 そして、夫の言うことが自分勝手なわがままなことだと思ったとしても、頭ごなしに否
 定しないこと。
・自分の郷里に帰りたいという人もいるでしょう。店を始めたい、ボランティアをしたい、
 海外で暮らしたい、人それぞれ夢や希望があるはずです。
・それに自分が協力できるかどうかはすぐに判断せず、なぜ夫がそうしたいと思うように
 なったのかをきちんと聞いてあげるということが大切だと私は思うのです。 
 結論はそれから話し合って決めればいいことです。
・定年は会社という組織を離れ、夫が一個人としてのひとりに立ち返るときです。
 まずはわがままを言わせてあげましょう。
 場合によっては言っただけで気が済むということもあるかもしれません。
・みんながそうしているから、という理由だけで安易に定年後の人生を決めてしまうのは
 考えものです。
・夫婦で共通の趣味を持ったり、旅行に出かけたりするのもいいですね。
 ただし、それは夫婦の意見が一致した場合に限ります。
 一方の趣味をもう一方に押し付けてまで夫婦一緒に行動したのでは、お互いにストレス
 がたまるばかりです。

夫を亡くしたあと、どう生きるか
・夫が肺がんに侵されていると判明したのは、昭和63年秋のことでした。
 それはまったく突然のことで、私は何の心の準備もないまま主治医の先生から、
 「長くてあと半年かもしれません」
 と宣告されたのです。私の頭の中は文字通り真っ白になりました。このとき夫は59歳。
 もうすでに放射線も抗がん剤も効果が期待できない「腺がん」に冒されていて、治る見
 込みはない。 
・悩んだのは、病状を告知するかどうかでした。
 夫はすでに定年退職していたとはいえ、まだまだやりたいことはたくさんあるはずです。
 回復の見込みがあるというなら、がんだと知ったとしても病気と闘うだけの気力はあっ
 たでしょう。けれど・・・。現実は絶望的だったのです。
・私は告知しないことに決めました。
 最後の、”その日”が訪れるまで真実は隠し通そうと決心したのです。
 お医者さまの助言で病名は肋膜ということにして、がんだということは親戚にも告げま
 せんでした。   
・遺産は故人の遺志が尊重された使い方がされてこそ、生きたお金となるのではないでし
 ょうか。 
 たとえば、家族でお店を経営している家で、一家の主が突然倒れて帰らぬ人となった場
 合、店を守ってきた故人は、跡継ぎに店を守って欲しいと願っていたことでしょう。
 けれども、そのことをきちんと意思表示をして見せの権利などを明らかにしておかなか
 ったら、商売に何の貢献もしていない親戚のために、せっかく軌道に乗っていた店を手
 放さなければならない最悪の事態も起こりうるのです。
・私がどうしても納得でいないのは、こうした場合に長男の嫁に相続権がないことです。
 世の中には献身的に姑を介護し、看取ったお嫁さんが報われず、普段めったに会うこと
 のない親戚に遺産を取られたという話がよくあることです。
・お金はあって邪魔なことはありません。
 いま現在、ご夫婦とも健康で生活の心配がないという人でも、このさき何があるかわか
 りません。大病やけがで入院することもあるかもしれません。
 退院しても車椅子の生活が待っていることだってあるのです。
 最悪の場合寝たきりになってしまうこともあります。
・子供に面倒を見てもらうからいい、という考え方があるかもしれませんが、子供に全部
 寄りかかってしまったら、精神的に窮屈な思いをすることだってあるでしょう。
 だったら、自分のお金で自分の面倒を見たほうが気が楽ですし、精神衛生上ずっと健康
 的です。
 幸い病気をせずにいられたなら、その分だけゆとりある生活が送れます。
・健康で体が動くうちは何でもやってみるべきです。
・人付き合いをする中で、どこかで見返りを期待しながら相手に尽くし続けていった結果、
 「裏切られた」と思い酷人も多いようです。
 その最たるものが、子どもかもしれません。
 将来は子どもに面倒を見てもらおうという期待のもとに、子どもを甘やかしたところで、
 親の思う通りになるものではありません。相手は生身の人間なのですから。
 老後の面倒は子どもが見るのは当たり前、という時代ではないのです。
・自分の人生に「老後」などと言う言葉は存在しないと思っています。
 いつからを老後という範疇に入れるのでしょうか。
 定年後とか子育て後という言いかたならわかりますが、「老いの後」とは、いったい何
 を指しているのでしょうか。  
・例えば夫を亡くし、子供も家庭を持って別々に暮らしている80歳の女性がいるとしま
 す。「私は今老後を生きている」と思っているのでしょうか。違うはずです。
 今日を生きているのです。いつでも現役の人生なのです。
・逆に「将来はあの子に見てもらおう」などと勝手に期待して、二世帯住宅を建てたもの
 の、息子夫婦とはほとんど接触がなく、「こんなはずではなかったわ」等と愚痴ばっか
 りこぼしている人は案外多いようです。
・いざとなったら子供に見てもらおうなどと思うこと自体が大間違いで、期待しすぎるか
 ら裏切られたと勘違いしてしまうのです。  
 子どもたちにとっては、それは裏切っているのでも何でもありません。
 話し合ってもいないし約束もしていないのですから、親の思惑がわからないのです。
 これは「十を期待して五しかもらえなかった」からそう思ってしまった、そういうこと
 なのではないでしょうか。
・だったら、その考え方を改めればいいだけのこと。最初からずっとゼロでいればいいの
 です。最初ゼロだったら「五しかもらえなかった」ではなく、「五ももらえたわ」と思
 えます。
・「家を建ててあげたのに」「マンションの頭金を出してあげたのに」などと等価交換の
 ように思っていたのでは、いつまでたっても不満しか得られません。
 若い夫婦に充分な資金がないというのであれば、家を建てて上げるのもいいでしょう。
 ただし、そのお金はあげるのではなく、貸すのです。
 親子と言えどもきちんと契約書を作成し、息子夫婦から毎月きちんとお金を返してもら
 うのです。 
 自分はそのおかねでのびのびと楽しく暮らせる方法を考え、工夫すべきです。
・それでは子どもがあんまり可哀想だと思うなら、返してもらったお金を当人たちのため
 に貯金しておいてもいいでしょう。
 大切なのはきちんと「けじめ」をつけるということです。
 そうやっていつまでもズルズル援助をしていると、子どもは甘えてしまい、自立できな
 くなってしまいます。 
・こどもをいつまでも自分のものだと思っているから子どもはそれに甘え、あまえられる
 ことで親は満足してしまうのです。
 これでは親も自立できません。
・たとえ家族といっしょであっても、「基本的には自分はひとりなのだ」という意識を持
 ち、「二十歳過ぎたら子どもは社会のもの、子育てが終わったら社会にお返しする」と
 言うのが私の考え方です。 
・少子化時代とあって、子ども一人に使うお金は確実に増えています。
 子どもにできるだけのことをしてやりたい、と言う親の気持ちはごく自然なことでしょ
 う。しかし、子どもに対してお金を使いすぎるのは考えものです。
・冷たいことを言うようですが、私は大学の学費は後で親に返すくらいのシステムがあっ
 てもいいと思っています。 
 高校までは親が出しても、そこから先はやがて大学を卒業して社会人になったら、分割
 して子どもから返してもらうのです。
 そうすれば子どもにも侍立の意識が芽生えます。
 親にしてみれば、子どものためだけにお金を全部使ってしまったら、これからまだまだ
 長い人生を生きるのはたいへんです。
・親にとって子育てが終わった時は、もう一度自分に戻れるときです。
 だからこそ、もう一度自分を育て直すことに時間とお金を費やすことをぜひお勧めしま
 す。
・親も子供もそれぞれにちゃんと自立してこそ、お互いにいたわり合えるというもの。
 お金のことを言うのは冷たいとか汚いとかいう意識を亡くして、親も子も自分自身の生
 き方を根本的に見直さないと、それぞれの幸せを見つけることはできないのではないで
 しょうか。
 ベタベタした親子関係は卒業して、さっぱりと生きるほうがずっと心地よいと、私は思
 います。

ドラマの中で、さまざまな人生を生きています
・新聞でもテレビでもひんぱんに「不景気」の文字が踊るようになってからずいぶん経ち
 ます。「不景気なのだ」と考えると暗く落ち込んでしまいますが、私自身はさほど深刻
 な事態だとは思っていません。
 どんなに貧乏でも明日のお米がなくて飢え死にするようなことは、今の日本では基本的
 にはあり得ないと思っているからです。
 たとえ倒産しても、生活保護という手段も残されています。
・私が子どものころを思えは、夜逃げなどは珍しいことではありませんでした。
 急に学校へ来ない友だちもときにはいたものです。
・少し前のバブルの時代と比べるからいまが不幸に思えるだけで、その基準がそもそもお
 かしいのです。  
 それよりもずっと以前と比べれば、また世界に目を向ければ、いまの日本がどんなに自
 由で豊かで、そして平和であるかということは容易にわかるはずです。
・豊かな社会ゆえに、生きるための知恵が亡くなってしまっているのかもしれません。
 どうにかして生きていこうと思えばどうにでもなるというのに、倒産して自殺したり、
 生活保護を拒否して餓死してしまったとか、そんなニュースを聞くたびになんて愚かな
 のだろうと残念に思います。 
・『おしん』は貧乏な農村に生まれた主人公の苦労と辛抱の物語としてクローズアップさ
 れましたが、私があのドラマの中でほんとうに描きたかったのは、そういったおとでは
 ありませんでした。
・主人公のおしんは苦労の果てに、最終的にはスーパーのチェーン店を持つまでになり経
 済的には成功します。
 そのうえで、「果たして自分の人生はこれでよかったのか」と疑問を抱き、過去を振り
 返る旅へ出ます。あの物語はそこから始まっているのです。
 私の描きたかったのは、「経済的豊かさばかりを追求するのではなく、身の丈に合った
 幸せというものを考えようではないか」ということだったのです。
・ごはんをお腹いっぱい食べることもできず、学校へも行けず、たった米一俵で奉公に出
 されるというおしんの時代の話は、それほど大昔のことではありません。
 ドラマに出てきたような人たちが実際にその後の日本をつくり、繁栄の礎を築いてきた
 のです。
・おしんの時代に生きた人たちがいたからこそ、その後があるのです。
 そのことを日本中の人たちがもっとよくわかっていたならば、放送後にやってきたバブ
 ル経済であんなにも浮かれることはなかったのではないか、という気がしています。
・いま、たとえリストラで給料が二分の一になったとしても、生きていくことはできます。
 体をはって生きようと思えばどうにかなるはずです。
 つまらない体裁にこだわっているから前に進めないだけのです。
 自分で前へ進もうとしていないからなのです
 待っていたところで誰もては差し伸べてくれません。
 自分で自分を守っていかなければ、いったい誰が守ってくれるというのでしょう。
・自分で自分を守る。それには強い意志とともに冷静な目が必要です。
 まず自分がどういう人間化ということを知る必要があるでしょう。
 自分の力を知ることはあいてを知ることと同じように大切です。
・決して大げさなことではありません。
 たとえば自分の能力をちゃんと知り、できないことは「できない」と言う幽鬼を持つと
 いうような、そんなことからも始められるのです。
 その勇気があればリストラの人員削減で山ほどの仕事を抱え込まされたあげくに、過労
 で倒れるということもなくなるはずです。   
・何も会社に勤めるお父さんのことばかりではありません。
 家で子どもやお嫁さんから孫の面倒を見てほしいと言われたときに、「腰が痛いから無
 理」とか「今日は予定があるからダメ」とはっきり言えばいい、ということでもあるの
 です。
・どんなときでも無理をしたり見栄を張ったりせずに、自分自身と今の時代をきちんと見
 つめていれば、もっともっと暮らしやすく、生きやすくなるはずです。
・自分たちは世間が思っているよりはずっといい時代に生きているのだということを認識
 して欲しいと思います。 
 「いまは不景気でその不景気な時代に生きている自分は不幸だ」などと考えていたらど
 んどん落ち込むばかりで、いいことなんて何ひとつありません。
・高望みをやめて自分自身とちゃんとつきあえば、いまという時代や今の自分がもっとず
 っと好きになれるのではないでしょうか。
・少しのんきに構えて、それぞれが”自分の身の丈に合った暮らし”を見つけられたなら、
 家族の一人ひとりがちゃんと自立してお互いに頼らない、甘えのない関係を築いた上で
 助け合うことができたなら、明るく楽しい日々を過ごせるのではないでしょうか。
 そしてそれは、それぞれが「ひとりの自分」を確立することから始まります。