不思議の国ニッポン :ポール・ボネ

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この本は、今から45年前の1975年に出版されたものである。当時、日本に住んでい
たフランス人から見た日本の不思議さについて書きつづられている。当時の日本と現代と
では、少し変わった部分もあるだろうが、それでも、フランスの思想や価値観を持った筆
者から見た日本とは、どういう国であったのか、とても興味深い内容となっている。
まず、筆者が感じたことは、日本は「過保護の国」であるということだ。そしてそれが、
日本人の海外での団体行動や集団行動の原因になっていると筆者は主張している。しかし
日本人は、欧米と比べて自分たちが過保護な環境の中にいることに気づいている人は少な
いのではないかと思う。
フランスは個人主義の国である。個人主義の国のフランス人から見れば、日本は非常に不
思議な国に映るようだ。フランス社会は、”個人”と”個人”のぶつかり合いの中から調和を
見出していくが、日本社会には”個人”はなく、最初から基本が”集団”であり、その”集団”
と”集団”とのぶつかり合いから調和を見出していくようになっている。つまり、日本社会
には、最初から”個人”というものがないのである。これが、日本社会に個人主義が成り立
たない理由なのだと思う。そんな日本社会においては、”個人”を主張することは、悪徳と
みなさかねない。このことは、常日頃、私も感じることである。
また、日本人は、「区別」と「差別」を混同しているという。日本の「平等」は、アメリ
カやフランスなど欧米の「平等」と違っているのだ。欧米社会は、平等な社会ではあるが、
個人が持つ社会的スタータスにより明確に「区別」がある社会である。簡単に言うと欧米
では、社会的ステータスや人格までを均等化することは不可能であるという考え方だ。
しかし日本では、”平等”の名のもとに、社会的ステータスや人格までをも“平等化”しよう
とする。
日本人は、生まれてからずっと、何かにゆだねられる人生を送る。教育は全面的に学校に
ゆだねられ、安全は全面的に警察にゆだねられ、思考はテレビ・ラジオ・新聞にゆだねら
れている。そしてまた、国家においても、その安全は、アメリカにゆだねられている。
このような環境におかれている日本人は、常に何かに依存しなければ生きられない人間に
なってしまっているのだ。これでは、欧米のような個の自立というのは育つわけがない。
フランス人から見ると、いつまでも肩書にしがみつく日本人は、とても不思議に見えるよ
うだ。肩書とはそんなに大事なものだろうかと筆者はいう。フランスでは、肩書は頬につ
いた墨程度のものと思われている。頬の墨は拭けば拭き取れば消えてしまうのだという。
フランス人は、「本当の人生は、プライベートな時間にある。」という考え方が主流なの
だ。これに対して日本人の人生は、世間の中にあると言えるだろう。
この本では、フィリピンのルバング島から30年ぶりに日本に帰還した小野田元少尉のこ
とについても語られている。私にとっても、小野田元少尉の発見は驚きであった。そして、
その小野田元少尉が、日本に帰還した1年後に、日本に見切りをつけて南米へ移住したこ
とを知った時は、さらに大きな衝撃を受けたものだった。それは、平和な昭和五十年に生
きる日本人にとって、大いに恥ずべきことだったはずだ。そして、そのことについて、
われわれ日本人は、もっと反省すべきことだったはずなのに、それ以後においても、その
ことについて、われわれに本人の中にあまり議論はまきおこらなかったように思える。ど
うして戦後の平和な時代に生きるわれわれ日本人が、小野田元少尉をもっとあたたかく迎
えてやることができなかったのか。どうして小野田元少尉が30年間の空白を埋めるまで、
そっと見守ってあげられなかったのか。私は今でもそのことがとても残念でならないとい
う気持ちがずっと持ち続いている。

最後に、この本は、私の連れ合いが持っていたものだが、私の連れ合いが社会人となり就
職した先の企業が、入社祝いに全新入社員に贈ったものだったらしい。当時はこんな粋な
ことをする企業もあったのだと感心させられた。

まえがき
・日本人がアメリカや中国と深いかかわりを持っていることに比べれば、フランスとの相
 関関係はかなり薄いといわなければならない。現に日本で生活しているフランス人は、
 アメリカ人や中国人と比べたら比較にならないほど少ない。
・第二次大戦後、日本人の生活様式は一変し、アメリカの影響が著しく強まった。そうい
 ったアメリカ化現象と、伝統的な日本人の物の考え方がうまく融和している点としてい
 ない点があるように思われる。世界の自由主義国がフランスやイギリスも含めて大なり
 小なりアメリカ化を免れていない現在、言語系列も風俗習慣も異なる日本が、どのよう
 にアメリカ化に対処していくのか、世界中の国々が見守っているといっても過言ではな
 い。 
・私たちフランス人は、ときとして怠惰への果てしない欲望の虜になることがある。そう
 いうフランス人にとっては日本人の勤勉さへ一つの不思議であり得るのだ。その不思議
 を解明していくことは、アジアの奇跡をフランスに輸入することにつながるかもしれな
 いというのが、私のひそかな希望になりつつある。
 
不思議の国ニッポン
・スイスは、わがフランスの親愛なる隣国である。われわれは、ジュネーブに旅して、昼
 食はスイス領、夕食はフランス領という芸当をしばしば行う。ジュネーブから最も近い
 カジノは、レマン湖畔からわずか数キロ入ったところにあるフランス領のデュポンヌ村
 にあり、ジュネーブに集まる国際的な資産家たちは、こぞってカジノ・ド・デュポンヌ
 で大判ぶるまいをする。いわば、フランスとスイスとは、持ちつ持たれつの仲である。
 しかし、この国は同様に、ドイツとも、イタリアとも持ちつ持たれつの仲なのである。
・世界最長のトンネルとして知られるシンプロン・トンネルは、スイスとイタリアを結ぶ
 大動脈である。かつて、シンプロン峠は密輸の本場だった。
・スイス人の幸福は、かくして、フランス・パンもドイツ・ワインもスパゲティもたちど
 ころに本場物を味わえるというところにある。だが、スイス人は本当に幸福であろうか。
 スイス人は母国語と呼ぶべきものがない。ジュネーブのスイス人は、フランス語をしゃ
 べり、チューリッヒのスイス人はドイツ語をしゃべり、シンプロン付近のティチノ州の
 スイス人は、イタリア語をじぇべる。いわば、同一の国の中に、主権の異なる三つの国
 の文化、風俗習慣が同居しているようなものである。ひとつの主権国家が、独自の言語、
 独自の文化を持っていないということが、うらやましいといった状況でないことは、あ
 まりにも明らかである。
・三つの国がスイスという緩衝的役割を果たしている隣国の存在によって受けている利益
 は、計り知れないものがある。
・一方のスイスは、国全体が国際国とも呼ぶべき存在になっていて、外国からの旅行者は
 多く、国際会議の開催も日常茶飯事の出来事である。
・精密機械ことに時計産業の発達は有名だが、いかに高価であろうとも、時計はあくまで
 も時計であって、他の国では基幹産業とはなり得ない。しかし、スイスでは、銀行をは
 じめ、時計産業も薬品会社も、そして、もちろん観光業も、それぞれ重要な産業である。
 それはこの国が、列強にはさまれた小国として生き延びるうえの、必死の作業にほかな
 らない。
・現代は、パワー・ポリティックスの時代である。したがって、資源の少ないスイスのよ
 うな国が、パワーのバランスの上に立って安全を保っているのは、さして不思議ではな
 い。だが、スイスは、世界がまたパワー・ポリティックスの論理で動いていない時代か
 ら、ずっとこの危険な綱渡りを続けてきた。これは驚異的な事実である。それは、かの
 悪名高きヒトラー時代のドイツに対してさえ、綱渡りを成功させていることでも明らか
 である。 
・つまり、この国は、中世以来、戦乱の絶えなかったヨーロッパ大陸で、パワー・ポリテ
 ィックスのバランスの中に生まれた緩衝地帯なのである。
・スイスは山紫水明の地である。が、意地の悪い表現を使えば、いかに山紫水明の地でも、
 そこに住む人々は、毎日観光旅行を楽しむわけでないし、平和といっても、それは列強
 のバランス・オブ・パワーの上の平和にすぎないのであって、決して自分たちの造り上
 げた平和ではないのである。 
・スイスは他国でいう意味での”軍隊”がないのは、列強にはさまれた小人口の小国で、
 ”軍隊”を持っていても無意味だからである。そして、スイスの平和は、非武装中立だか
 ら平和なのではなくて、仏、独、伊の緩衝地帯だから平和なのである。
・スイスの銀行が国際的な取引に長じているのは、金融がスイス人の生命線だからである。
 時計産業が発達しているのは、製鉄や自動車産業を興そうにも、地理的環境がそれを許
 さないので、地理的に不利な場所でも、その不利を補うことのできる時計産業を選んだ
 のだろうと察せられる。人口も多く、輸出基地としての環境にも恵まれ、すでにあらゆ
 る産業が発達している日本が、いったい、何を好き好んで「スイスのような国になりた
 い」のか、私にはまったく不可解というほかはない。
・彼らは自分たちの国が生存していくためには、どのような方法が最善の未知であるかを
 よく知っている賢明な国民である。しかし、彼らも、日本のハイスクールの少年たちが、
 日本をスイスのような国にしたがっていると知ったら、首をひねって考え込むだろう。
・戦後まもなく、戦勝国のアメリカから、未亡人になったエリノア・ルーズベルト夫人が
 日本にやってきた。そのとき、ある場所に日本の有数の知識人を集めて、「日本はどの
 ような国になりたいか」と質問した。アメリカ人のことですから、アメリカとかイギリ
 スとかいう答えを気体したのでしょう。すると、ある知識人が代表するような形で”イン
 ドのような国にしたい”と言った。たしかに、カンジーやネールの平和主義が国際的に評
 価されている時代ではありました。ルーズベルト夫人はこう言ったという。”どうして日
 本があそこまで後退しなければならないのか”   
・パリで生活したことのある日本人を会うと、「フランス人はケチですね」と感想をもら
 す。パリに赴任したり、留学したりした日本人が最初に、フランス人のケチぶりに出会
 うのは、アパルトマンの階段や廊下の電灯のことらしい。夜、外出先からアパートに戻
 ってくると、階段の電灯は全部消えている。そこで一階の踊り場でスイッチを押す。パ
 リはエレベーターのないアパートが多いので、六階まで階段を歩いて昇るということは
 ザラである。一階で点灯した電灯は、三階に到達したあたりで消えてしまう。そこで、
 三階の踊り場でもう一度スイッチを押す。五階で消える。また点灯する。かくして三回
 スイッチを押してようやく六階のわが家へたどりつくという仕組みだ。
・フランスでの生活に不可欠な存在であるカフェに行ったとき、外国人は、トイレットの
 点灯の仕掛けがわからなくてマゴマゴする。多くのカフェが採用している方法は中に入
 ってカギを締めると電灯がつき、用を足して再びカギを開けると消灯するという仕掛け
 だ。フランスにきた日本人が一様にいぶかるのは、どうして、こんなに電力の節約に神
 経質になるのかということだった。少なくとも、細菌の石油危機の前まではそうだった。
 いぶかる日本人からの質問を受けたフランス人は、これまた一様にいぶかって同じ答え
 をしたに違いない。「だって、電気は公共(パブリック)のものだからね」日本人的な
 発想だと、ここではつぎのように反論するだろう。「しかし、何もタダってわけじゃな
 いだろう。お金を払うのは消費者だぜ」
・欧州におけるパブリックの概念と、日本におけるパブリックの概念とは、平行線といっ
 てもよいほど違うのである。
・これは、反対に、私が日本で生活するようになって、その隔たりを痛感していることで
 もある。たとえば、日本では公共料金値上げの際に、なぜかタクシー料金が公共のカテ
 ゴリーの中に入れられる。これは、タクシーとはきわめて個人的な乗り物で、しかもぜ
 いたくな乗り物だと信じ切っていた私をたいそう驚かせた。そして、タクシー料金のあ
 まりの安さに仰天したものだ。つまり、日本人がタクシーを公共の交通機関と考えたが
 るのは、その安さのせいではなかったかと思われる。
・パリのタクシーの運転手は老人が多い。それだけに一家言を持っている人物がいる。
・タクシー以上に不思議なのは、報道機関に公共性を認めることだ。NHKはともかくと
 して、民放の使用している電波が公共の電波だという理屈が私たちにはさっぱり理解で
 きないし、新聞に至っては公共性など認めようがない。主張を持ったものに公共性を持
 たせようという試みが土台無理な話だと思うのだが、当の新聞記者をはじめ、国民一般
 もそうは思わないようである。 
・電気、水道、ガスなどは、私たちの近代生活に不可欠なもので、もしもこれらが不足す
 るとなると国民全員が困る。しかも、電気やガスなどを生み出す資源は、国民の勤労に
 よって得た外貨を使用することが多い。したがって、電気、水道、ガスは国民全体の糧
 であり財産であるから、金を払うからといって、いくら消費してもよいというものでは
 ない、という理屈を、フランスでは小学生にも教えている。
・フランスでは、公共料金の値上げに関しては、政府も慎重であるいっぽう、国民の側に
 も万一の値上げはやむをえぬものとして冷静に受け止める気風がある。少なくとも、日
 本のようにハチの巣をつついた騒ぎにはならない。それは、隣の英国やドイツでも同じ
 で、政府が公共料金の値上げに踏み切るのはよくよくのことだという認識が一般に浸透
 しているからであろう。そして公共料金が値上げされると、消費者側に一般商品の買い
 控え現象が起こり、逆に末端消費財は値下がりするケースが見られる。
・追従値上げというのは日本のマスコミが、公共料金を論じる際の得意の殺し文句だが、
 この言葉ほど、日本人にパブリックの観念がないことを物語る言葉はない。日本人に対
 する個人主義の勧めは、追従値上げという一種の団体行動を避ける意味でも強く勧めた
 い。 
・第二次大戦後、たしかに日本は世界有数の、いや世界最高の経済的高度成長を遂げた。
 しかし、私たちフランスから見ると、その高度成長の裏には多分に幸運な要素が加わっ
 ている。世界の先進資本主義国が100年も200年もかかって、苦しみ抜いて到達し
 た栄光なきゴールに、日本は短時日の間に到達した。
・私は日本で国電や列車に乗るたびに思うのだが、このパブリックの乗り物は、まるでコ
 マーシャルの乗り物のようにサービスが行き届いている。流行の日本語を使うなら、ま
 さに乗客に対する”過保護”のサービスである。駅に着く。駅名の連呼のアナウンス。
 満員電車の”押す”係の国鉄職員。発射のベルを鳴らす職員、「後ろにおさがり下さい」
 を連呼する職員・・・。
・フランスで列車を利用したことのある旅行者ならご存じだろう。そこでは改札係もいな
 ければ、発車のベルも鳴らないし、駅名連呼のサービスもない。それでいて、フランス
 人たちはそれが当然のことと思っている。公共のものを利用するときは、利用者の側も、
 マキシムで食事をしているのではないという自覚があるのだ。
・ヨーロッパで汽車旅行をした人なら、ご存じだろう。ヨーロッパを走る列車は、発車の
 ベルで出発するなどということはなく、定刻がくると、スーッと出発する。そして、駅
 のアナウンスというものも、ほとんどない。
・駅弁は、サンドイッチ程度なら駅によってホームの売店に置いている国もあるが、これ
 もほとんど期待できず、車内売りに至っては、皆無といってよい。列車食堂はすべて予
 約制で、これを予約し損うと、日がな一日空きっ腹をかかえて、ぼんやりしていなけれ
 ばならない。しかし、そうだからといって、ヨーロッパの同胞たちが、鉄道はサービス
 が悪いと考えているわけでは決してない。これが当たり前だと思っているから、列車の
 乗れば、すぐに食堂の予約をするか、あらかじめ自宅から弁当を持参するのか、どちら
 かである。   
・たしかに新幹線のスピードは、すばらしい。しかし、スピードというものは、一度味わ
 ってしまえば、不感症になるものである。私が仰天し、その後も感嘆し続けるのは、ス
 ピードではなくて、サービスである。フランスからくる友人たちが感嘆するのも、スピ
 ードではなくて、サービスである。
・新幹線が東京駅を離れると間もなく車掌が検札にやってくる。これがまずきわめて慇懃
 丁寧で、車両の前方で帽子をとってお辞儀をしてからはじめる。ピエール・ロチが日本
 人の礼節に対して感嘆した明治の時代と少しも変わらない。その車掌が行ってしまうと、
 今度は食品を満載したワゴンがしずしずとやってくる。制服の上にエプロンをかけた結
 婚適齢期の女性が「コーヒーにジュース、お弁当に週刊誌はいかがですか」と叫びなが
 ら通路を過ぎて行く。このワゴンが皮きりで、以後、果てしなく物売りがやってくる。
 それはまるで古代ローマの宴会にごちそうのサラを運ぶ奴隷の行列のようである。
・驚くべきことに、これだけの物売りが殺到するというのに、さらにビュッフェと食堂が
 あるのだ。  
・しかし、何といっても、最大の驚異は、社内のアナウンスである。始発駅を出ると、ま
 ず、車両編成について懇切丁寧な説明がある。さらには、くず物入れのありかまで教え
 てくれる。旅客機における救命胴衣着用の説明など、これに比べたら、チャチなもので
 ある。
・つまり、日本の鉄道の車掌業というのは、同時にアナウンサー業であって、もしも彼ら
 が車掌業務の分だけしか給料をもらっていないのだとしたら、アナウンス料も合わせて
 要求することを勧めたい。
・日本人の乗客は、こうした過保護状況に、慣れっこになっているのである。
・「お降りに際は忘れ物ないよう、もう一度身のまわりをお確かめになり、お足もとにじ
 ゅぶんお気をつけてお降りください」ー世界中のどこの国に、これほど至れり尽くせり
 の注意を施してくれる鉄道があるだろうか。しかも、これだけ注意しても鉄道の忘れ物
 は年々膨大な数に上り、けつまづいて転ぶ人が跡を絶たないのは、いったい、どういう
 わけか。
・パリの友人たちが、日本に来て新幹線に乗り、いながらしにて、さまざまな珍味が運ば
 れてくるありさまを発見し、さらには車内放送の意味をすべて聞き分けたならば、シャ
 ンゼリゼのジャポネの団体が、なぜ自主独立の気概を持たないかをたちどころに理解す
 るだろう。つまり、常に過保護状態の中に置かれている日本人は、ひとたびその状況か
 ら抜け出すと、もう心細くて仕方がないのである。発車ベルも鳴らない、弁当も売りに
 来ないヨーロッパの列車で、旅行のできる日本人はよほど勇気のある日本人にちがいな
 い。
・そして、日本では、鉄道の旅行も、歌舞伎や相撲の見物も、飲食とほとんど同義語であ
 ることを忘れてはならない。日本の人々は、フランス人がグルメの頂点に立つ人種だと
 思っているが、どうして、日本人こそグルメである。彼らの食欲を知るためには、列車
 に乗るか、歌舞伎座に行くか、国技館に行くかすれば、明らかである。彼らはそうした
 場所で、ひたすら食べる。ともかく食べる。目的が旅だろうと、観劇だろうと、彼らに
 とっては問題ではない。食べて飲んで、足もとに注意して土産を買ってゆうゆうと帰る。
・人種によって人体の構造が違うとは、とうてい考えられないが、日本人に関するかぎり、
 鼓膜と胃袋とは特別製ではないかと疑うことがある。
・日本の人々は不思議に思うかもしれないが、ヨーロッパの市内の鉄道では、いわゆる
 ”検札”はとんどなく、パリの地下鉄も例外ではない。二等のカルネ(回数券)で一等
 に乗車しても、とがめられる可能性はほとんどないといってよい。しかし、二等の切符
 で一等に乗らぬというモラルは、なぜか確立していて、ルールを破る人間はまずないし、
 地下鉄のような大衆的な交通機関がいまだに一等車を設けていることに異を唱える者も
 ない。  
・ヨーロッパでは、一等車には一等車の雰囲気があり、二等車には二等車の雰囲気がある。
 それは主として客の人品などから生まれるもので、一等車には一等車なりの、いうにい
 われるルールが存在する。もしも一等車の客が二等車の倍の料金を払うとしたら、それ
 は一等車の設備に対して払うのではなく、雰囲気に対して払うのである。そして、これ
 は、金があれば、だれでも乗れるというものではなくて、自他ともに一等車の乗れる人
 間だと認めた旅客だけが乗るのである。
・英国など、狭いパブ(大衆的な酒場)の中でさえ、上等と下等とに分かれていて、同じ
 酒を飲んでも値段が違う。間仕切りはスリガラス一枚ということが多いが、このスリガ
 ラス一枚の区別は絶対である。下等が混んでいるから上等へ、上等が混んでいるから下
 等へという混交は決して見られない。
・こうしたやりかたを階級的だと見るかどうかは、むずかしいところである。しかし、パ
 ブの境のスリガラスを取り払えという声が挙がらないのは、この区別をだれもが納得し
 ているからであろう。つまり、同一の店の中で、ブルーカラー、ホワイトカラーが、そ
 れぞれ気楽な気持ちで、酒を楽しむには、どうしてもスリガラスが必要なのである。
 つまり、日本では設備を基準に区別を考え、欧米では人間を基準に区別を考えるのであ
 る。
・ところで、この人間を基準に区別を考えるという区分法は、ヨーロッパ市民社会が確立
 して以来のものだが、日本人と話をしていると、区別と差別をとかく混同しがちなのに
 戸惑うことがある。区別と差別とは明らかに違うもので、現在、アメリカの人種問題で
 も区別と差別という言葉に違いが慎重に扱われている。
・階級論的にいえば、地位も財産も比較にならない。しかし、それは問題の一部に過ぎず、
 核心は、人生経験と人格が問題なのである。ファースト・クラスに乗りたかったら、大
 いに切磋琢磨して、一等に乗れる人格を自ら造り出してから乗ればよいのである。
・上はオカミはら、下は庶民まで、これぐらい階級論の支配している自由主義国を私は他
 に知らない。そのくせ、一方では年功序列の別がまことやかましい。いったい、どうな
 っているのだろう。年功序列が日本人の基本的な思考方法であるなら、列車や旅客機の
 等級別を認めるべきである。また乗り物の等級を階級的だと考えるならば、年功序列で
 物事を律する習慣は撤廃すべきである。
・アメリカもフランスも、根本的には平等の国だが、これはあくまでも、能力別、経験別
 の平等であって、ノベッタラの平等ではない。そこのところがアメリカ・デモクラシー、
 フランス・デモクラシーと、日本のデモクラシーがひと味違うところである。
・設備は確かに均等化することができる。しかし、人格を均等化することは不可能である。
・私は日本における老人福祉について思うとき、底辺の老人に対する福祉はもちろん賛成
 だが、苦労の末に功成り名遂げた老人にも精神的な福祉が与えられるべきだと考える。
 もちろん、無名の老人であろうとも、一生懸命働いて無事定年退職した人に対しても同
 様である。ファースト・クラスは、そういう人々に対しても絶対に必要なのである。
・日本には古くから、”風が吹けば桶屋が儲かる”という、人間社会のややこしい因果関係
 を示す警句が存在する。ケインズやカール・マルクスを知らない時代の日本人が、すで
 に、”風が吹けば桶屋が儲かる”と喝破していたことは、欧米の人間にとっては、まさに
 驚異である。
・徳川期の士農工商という言葉ほど、私を感銘させた言葉はない。なぜなら、士農工商の
 ”商”は、ヨーロッパでは”ブルジョワ”を意味しているからである。中世末期において、
 ヨーロッパでは、すでにブルジョワが支配階級であった。日本でも現実には多分そうで
 あっただろうが、幕府はあくまでも”商”を最下級の身分にとどめ置いた。大名の江戸詰
 めの家老が辞を低くして江戸の商人から借金をする”現実”があっても、身分制度だけは
 かたくなに崩さなかった。
・私は、かねがね、日本人の建て前と現実の使い分けに感嘆を久しくしていた人間である
 が、江戸時代の文献を理解するようになってその感慨をさらに新たなものにした。マル
 クスの”資本論”などよりはるか以前に、日本人はマルクス以上の知恵を発見していたと
 私は考える。そう考えないかぎり、明治維新後の、日本の急速な経済的発展は説明でき
 ないのである。 
・昭和の日本人は、とかく、徳川期の鎖国政策を否定的にとらえがちである。ことに左翼
 陣営の人々は、封建時代を階級史観でとらえようとするので、その時代の施政者たちを
 実力以下に軽んじる傾向がある。だが、私の見るところ、紀伊国屋文左衛門や銭屋五兵
 衛がいたからこそ、明治以後の日本が存在したのである。
・十九世紀末の欧米人が、そういう鎖国日本のすぐれた商人に対して著しく認識を欠いて
 いたことを、私たちヨーロッパの人間は率直に認めなければならない。
・幕府は商人が武士に代わる力を得ることをおそれて”士農工商”の身分制を貫き通した。
・巨大商社というのは、確かに日本独特の存在である。飛行機からワクアンまで扱うとい
 う貿易会社は少なくともフランスには存在しない。ワインならワイン、砂糖なら砂糖、
 鉄なら鉄と、それぞれ単数の扱い品目で会社を運営しているケースが最も多い。だが、
 大きいから悪、小さければ善という論理が成立しない以上、どちらが良いとも悪いとも
 いうことはできない。ただ、どちらが便利かというと、それは巨大なデパートメント方
 式の商社のほうが便利に違いない。
・江戸時代と少々趣を異にしていると思われた点は、人品骨柄などを比較した場合、”士”
 にあたる国会議員よりも、”商”の社長たちのほうが、はるかに優っているように見受け
 られたということである。”商”の社長たちは平身低頭、何もそんなに頭を下げる必要は
 ない、と私は感じたが、してはいたものの、”士”をはるかに上回る人品によって、無言
 の復讐を果たしたと思われる。今日、日本で、世界に冠たるものは、民主政治でも、マ
 スコミでもなく、まさに商社である。政治家を”士”とするならば、実力も人品も”商工農
 士”の時代になっている。 
・かつて、日本には”寛容と忍耐”をスローガンとする首相がいた。しかし、このスローガ
 ンは、まさに商社にこそ当てはまるものではあるまいか。
・将来、日本にどのような”風”が吹くかは予想できないが、オケ屋ならぬ商社が崩壊する
 ことは、まず、なさそうである。
・私は出前という日本語が大好きである。なぜなら、こんな便利な制度は、欧米ではほと
 んど想像できないからである。出前は日本人の食生活における最大のぜいたくである。
 スシ、ソバ、ラーメン、洋食、ウナギなど、持ち運び可能な食べものは、電話一本でた
 ちまち眼の前に現われる。まさに出前こそ、現代におけるアラジンのランプにほかなら
 ない。  
・もっとも、私の交際している日本の友人の中で、比較的恵まれた生活をしている人々は、
 なぜか、あまり出前を好まない。彼らの家庭は出前のテンヤもので客をもてなすことを
 失礼な接待だと考えている。したがって、出前を日常的なものと考えているのは、上層
 の日本人よりも、むしろ中流の日本人である場合が多い。
・配達制度で、欧米先進国に現存しているのは、せいぜいミルクと郵便ぐらいであって、
 昨今は牛乳配達さえ崩れつつある国も少なくない。それが日本では、ミルク、郵便はも
 とより、新聞、洗たく、デパート、医師、米、酒、食品など、ありとあらゆるものが玄
 関に現われる。
・欧米の人間が、いちいち街に出て買い求める品物が、日本では配達料抜きですべて玄関
 にまで届けられるのである。便利といって、これほど便利なことはない。ところが、当
 のサービスを受けている日本の”消費者”たちは、いっこうに有難がっている風がない。
 それどころか、ミルクが値上がりされたり、新聞が値上がりされたりすると、国中に
 「ブー、ブー」という声があがる。
・アメリカのように人件費の高い国では、郵便切手のような公共料金の範ちゅうに入るも
 のさえ、郵便局にいって買えば、額面どおりの値段だが、自動販売機で買うと、額面よ
 り高い。なぜなら、客は自動販売機の使用料を負担しなければならないからである。ア
 メリカではタバコも同様だが、日本では自動販売機のタバコもタバコ屋のタバコも同一
 値段である。
・もしも、日本と同じような配達制度をフランスやアメリカが採用したら、たちまちすさ
 まじいインフレ状態になるだろうし、また、そうなる以前に、フランス人やアメリカ人
 は配達制度を拒否するだろう。仮に、欧米で日本と同じ配達制度をはじめたら、配達料
 は当然、明瞭な形で消費者負担になる。そうなると、金持ちは負担するかもしれないが、
 大多数の国民は、いままでどおり出かけて行って買物をするだろう。
・日本では医は仁なりという言葉に、患者のほうがすがっている。これは論理的ではない。
 医師と患者とは、こと金銭に関するかぎり、道徳的な立場を捨てて、同一の線上に立つ
 というのがヨーロッパの論理である。医師の道徳的な義務は、それから先の問題にすぎ
 ない。資本主義国家にあって、医師だけが、資本主義のワク外のモラルを求められると
 いうのは不公平である。   
・この国の論理は、すべて消費者の”便利”という立場で動いており、売る側の論理は常に
 置き去りにされている。出前をする側に新聞社も医師も酒屋も、ひとたび自分たちが消
 費者の立場に立つと、たちまち消費者の論理を展開してしまう。正義は常に消費者の側
 にあり、供給者は常に窮地に立たされる。これは悪循環というものである。
・だれしも買う立場になれば、物は安いほうがよい。それはわかり切ったことである。し
 かし、いっぽう、売る立場になれば、採算がとれなければ、何のために商売をしている
 のかわからない。 
・世の中が、ホワイトカラー全盛になれば(先進国ほどその傾向が強い)、出前持ちのな
 り手は少なくなる。少なければ、高給でも雇用しなければならない。にもかかわらず、
 出前の料金を消費者負担にできないとなれば、全体の料金を上げざるを得ない。新聞料
 金の度重なる値上げが好例である。新聞社は値上げの理由をつまびらかにすることをた
 めらっているが、その最大の要因が販売店の配達費にあることは明らかだ。もしも、日
 本で新聞社が配達制度を廃止すれば、その広告量から見て、もっと安い値段で新聞を売
 れるはずである。
・なにしろ、この国では、僧侶でさえ、檀家回りと称して、信徒の家を巡回してくれる。
 ヨーロッパで神父が無条件に自宅や病院にきてくれるのは臨終の際だけである。
・日本ほど”世界の大勢”を気にする国民は他にいないのではないだろうか。それは、ヨー
 ロッパ文化の中心をもって任ずるわれらフランス人の”中華思想”から見ると、まことに
 不思議なことである。”世界の大勢”がどうであろうと、フランスはあくまでもフランス
 であり、日本は日本であるはずだ。
・フランス人が英語をしゃべらないといって、日本人はその頑固さを笑ったり尊敬したり
 しているようだが、母国語はすなわち文化であり伝統であって、たとえ、英語をしゃべ
 るのが”世界の大勢”であろうとなかろうと、フランス人がフランス語をしゃべり続ける
 のは、しごく当然なのである。
・私は、日本が、その独自の文化、独自の伝統を守ろうとするなら、”世界の大勢”などに
 は目もくれず、尺貫法を貫き、元号制度を伝え、ローマ字を駆逐するべきだと信じる。
・適応性という言葉は、国際間で用いられるとき、とかく弱者に向かって投げ与えられる
 言葉である。誇り高き日本人が、弱者の立場に甘んじていられるものかどうか、それは
 日本人自身が考えるべきことではあるが・・・。
・東京、京都、大阪など、主要都市の一流ホテルに投宿して浴室に入ったヨーロッパ人は
 大概びっくりする。なぜなら、そこには歯ブラシや軽便カミソリが置いてあるからだ。
 しかも、その歯ブラシたるや、一回だけで使い捨てるのはもったいないようなナイロン
 製のものなのである。そこで、たいていの旅行者は、化粧バックから自分の歯ブラシと
 練り歯みがきを出して歯をみがき、ホテルの分はしまい込む。これまた日本中を旅行す
 ると、あっという間に歯ブラシのコレクションができる。
・旅行に出るとき、歯ブラシとカミソリを持って出るのは、人間に歯をみがく習慣ができ
 てからは当たり前のこととされているが、日本では歯ブラシを持たなくても旅ができる
 のである。ところが、そういうホテルの宿泊料はどうかというと、欧米の水準に比べて
 かなり高いのである。しかも、日本のホテルは、チップを要しないというのが建て前に
 なっていながら、実際にはサービス料なる名目で勘定の10%を徴収されるし、ウェー
 ターたちもチップをさし出せば断ろうとはしない。したがって、この国のホテルに泊ま
 ると、ずいぶん高いものにつく。
・これがフランスだと、マッチは要らないからコーヒーを安くしろとか、歯ブラシは持参
 しているから、使わなかった歯ブラシ代を宿泊料から差し引けという要望が必ず客のほ
 うから出てくるだろう。
・日本のことわざに、タダほど高いものはない、というきわめて哲学的な言葉がある。こ
 のことわざは、日本商法の奥の深さをいい表わしている。つまり、日本的商業道徳にお
 いては、どこまでが有料、どこからが無料という区切りを曖昧にして置くことが美徳と
 されているのだ。
・この国のエリートたちは、カルチェやデュポンによって煙草に火を点じることを、ステ
 ータス・シンボルとしている。銀座の高級クラブや新橋、赤坂の客は、カルチェを持た
 ざれば人にあらずといった有様だ。
・休暇でパリに帰ると、わが同胞たちは、相変わらず粗末なマッチを買うか、一個二フラ
 ンの使い捨てのガスライターを愛用していて、カルチェだのデュポンなど使用している
 友人には会ったためしがない。これだけタダのマッチが氾濫しているというのに、その
 うえに10万円もする金ピカのライターを買わずにはいられない日本人というのは、わ
 がフランスのライター・メーカーにとってこれ以上の上顧客はあるまい。
・日本は共産圏からお客を迎えるには最も不適当な国かもしれないのだ。それは、いわゆ
 る末端消費材が日本ほど豊富に取り揃えられている国は、アメリカを除けば他に見当た
 らないからである。ことに、日本のデパートにおける商品量の豊かさは、アメリカのそ
 れをはるかにしのぐもので、まさに世界に冠たるものがある。
・アメリカやフランス、その他のヨーロッパ諸国では、高級デパートと中級、下級のデパ
 ートが画然と区別されているが、日本ではほとんどのデパートが超高級品から大衆向け
 商品をすべて取り揃えている。さらに驚いたことには、日本では、デパートが、公園や
 遊園地の役割を果たしたり、社交場の役割を果たしたりするという事実だった。人々は、
 暇つぶしにデパートへ行ったり、子供を遊ばせに行ったりする。
・私たち欧米の人間は、用がないのにデパートに行くという習性を持ち合わせていない。
 そのことを裏返すと、不要不急のものは一切買わないということに通じる。ところが日
 本人は、用もないのにデパートへ行き、商品をながめているうちに、つい買ってしまう
 ということが、一向に不思議ではないようだ。
・日本のデパートは、何が何でも客を店の中へよび込もうとし、そのために、欧米の有名
 画家の展覧会や、東洋古美術の展覧会、野球選手や映画スターのサイン会などをひっき
 りなしに開催している。つまり、客が展覧会場だろうと、屋上の遊園地だろうと、とも
 かく店内に入ってしまえば、商品が客の目に触れることになり、客のほうもついつい買
 ってしまうというわけだ。
・こうした日本のデパートの商法を理解してくると、私たちは資本主義社会における消費
 のお手本を見せられているような気持ちになる。私たち西側の資本主義国の人間が日本
 のデパート商法に脱帽しているのだから、末端消費材に乏しく、買い物の楽しみとてな
 い社会主義国の主婦などが、この国にきたら、ひとたまりもないのは当然である。いか
 に勤勉に働いて多額の報酬を得ても、世界の大部分の国では買い物がないのである。た
 とえ、買物が多少あっても、選択が許されない。
・それでも、そういう国に生まれ育って、他の世界を知らなければまた幸福だ。日本のよ
 うな国を一度見てしまうと、それは目の毒といった簡単なことでは済まなくなる。一生
 懸命働いて金を持てば、切符もなしに、自由に望むものが手に入る国があるという事実
 は、それを知らなかった人々のとっては、”青天のヘキレキ”である。
・計画経済の方針に沿って、国営の工場で生産された生活必需品を並べたにすぎない社会
 主義国の国営デパートの、寒々とした光景は、そうした国々を旅した人ならだれしも記
 憶にとどけていることだろう。   
・日本の人々は、もっと深く考えてみる必要がありはしないだろうか。独占資本ウンヌン
 とか、春闘敗北ウンヌンとかの記事を読むにつけ、私は日本人の”幸福追求”の限界が
 どの辺にあるのか空恐ろしい気持ちになるのである。
・一般的にいって、日本の法律が世界の他の国々と比べて不自由かというとそうでもない。
 最近では緩和の方向に進んではいるものの、キリスト教国では、まだまだ容易ではない
 堕胎は、日本では早くから野放し状態である。
 それに対して、銃砲剣の所持というようなことになると、日本は欧米人の想像を絶した
 きびしい取締りを行っており、羽田の税関で、壁に飾る闘牛の剣を保管されたりした旅
 客は枚挙にいとまがない。
・石油の王国サウジアラビアにおける禁酒の法律は、飲酒の習慣を持った観光客の足を遠
 ざけているし、オーストラリアのように時間を区切って酒を売っている国もある。
・日本では総理大臣を犬畜生、男メカケ呼ばわりしても罪にはならないが、これがフラン
 スだったら、国家元首侮辱罪でたちまち訴えられる。
・私は、日本が、アメリカやフランスに比べると、ギャンブルに寛大でないことは承知し
 ている。この国には公に認められたカジノは一軒もないし、私的な場所で高額なギャン
 ブルを行うことも禁じられている。
・ラスベガスのカジノとマフィアとの関係は、ドキュメンタリーでも何度も出版され、映
 画でもたびたび材料になっていて、アメリカでは常識であり、日本でも知る人は知って
 いるカビの生えた事実である。
・カジノはビジネスである。ビジネスである以上、もうけなければならない。ギャンブル
 は勝負であって、勝つことも負けることもある。しかし、客が大勝するたびに、カジノ
 が倒産していたら、ビジネスとして成立しないから、カジノとしては倒産しないように、
 儲かるシステムを持っている。
・客がカジノに持参しただけの現金で勝負していたのでは、カジノの儲けは微々たるもの
 である。そこで客の信用度に応じてカケ金を貸す方法が用いられる。カジノの本当の顧
 客はこういう人たちで、スロットマシンや下限五ドルのブラックジャックのテーブルに
 群がっている客たちは上顧客とはいえない。
・ギャンブルは、強制されて行なうものではない。自分の意志で行なうものである。した
 がってギャンブルで負けた借りは、何としてでも返却するのが当然であって、返却不能
 の借金をいてしまうのは、本人の無責任というものである。
・カジノ側としては、勝った客は取り分を全部持ち帰り、負けた客は借金を払わないとい
 うことでは、ビジネスとして成立しない。単純な理屈である。そこで、取立て屋が登場
 するのも当然といえば当然だ。もとはといえば、ギャンブルで負けた金をスンナリ払わ
 ないお客がもっとも分が悪いのである。
・わがフランスでも、モナコやドービルをはじめとしてカジノの多い国であり、隣のイギ
 リスに至っては、ロンドンだけで300軒といわれるカジノがある。当然、そこにはさ
 まざまな悲喜劇が、連日連夜、絶え間なく起こっていることだろう。しかし、一般的フ
 ランス人やイギリス人で、カジノが慈善事業を行っていると信じている人間は、おそら
 くひとりもいないだろう。そして、また、カジノで莫大な借金を負わされた人間が、取
 立て業氏の追究を受けることなく、何もなかったこととして、一生を平和に過ごせると
 信じている人間もいないだろう。その追及を逃れるために、自らの生命を絶った人間の
 話は、新聞記事にしてせいぜい二〜三行で報じられるだけだし、読者もまた深い哀悼の
 感に打たれることもない。 
・ヨーロッパの歴史は、宗教戦争の歴史といい換えても過言ではあるまい。「支配者の宗
 教、その支配地に行わる」の原則のもとに、ヨーロッパの中世は、君主の宗教政策によ
 って、たきぎの上で身を焼かれたり、外国へ追放されたりする人間が絶えなかった。
・十一世紀末に行われた第一回十字軍の遠征は、異教徒に対するキリスト教徒が決して寛
 大ではないことを証明した。篤信のキリスト教徒も十字軍の旗のもとで殺戮、略奪をほ
 しいままにした。そうした残忍な行為は、ヨーロッパ内部の異端の徒に対しても同様に
 行われた。異端とは、ローマ教会の認める正統教義と相いれない教えを掲げる者という
 わけだが、彼らに対する異端審問は苛烈を極めたと史書はいっている。
・今日、ヨーロッパの西側諸国の宗教は日本と同様に自由である。だが、英国には英国協
 会という国教があり、フランスではカトリック教徒が八〇%を占めている。西独ではな
 んと九五%以上がキリスト教徒、イタリアではローマ・カトリック教徒が九九.六%と
 なっている。各国とも憲法で信教の自由を保障していながらも、事実上は特定宗教が国
 教化している。そういう意味では、日本ほど信教の自由が文字どおり徹底している国は
 ない。
・来日したばかりの外国人は、知り合った日本人に対して、至って無邪気に「あなたの宗
 教は何ですか?」とたずねる。そういう際に、間髪を入れず自分の信仰する宗教を答え
 る日本人は決して多くはない。
・かつて、明治以後、太平洋戦争終結までの一時期、この国では、神道が国教であった。
 ところが、その時代を生きてきた日本の友人にきいてみると、国家神道が国教とされて
 いた期間でも、日本人の各家庭では、滞りなく仏事が行われていたし、神社に参拝する
 一方で寺院にももうでていたそうである。
・異教徒に対する寛大さという点で、日本人は無邪気というべきか、無関心というべきか、
 私たちの想像を超えた人々である。
・東京には世界中の料理があり、それと同様に、世界中の宗教がある。もとより仏教は盛
 んだが、結婚式はほとんどが神道によって行なわれ、若い芸能人のカップルはキリスト
 教の教会で行なうのが流行している。
・この国では、あらゆる宗教が、平等に税法上の優遇を得ているので、宗教法人はどこも
 大変に裕福である。
・キリスト教国以外で、日本ほどミッション・スクールの多い国は他に見当たらないが、
 だからといって、それらの学校の生徒が一人残らずキリスト教信者かと思うと大間違い
 であり、ほとんどがキリスト教信者でないといったほうがむしろ正確であろう。
・ソビエトや中国においても、”信教の自由”は保障されているものの、それが建て前にす
 ぎないことはだれもが知っている。したがって、共産党の政権が、キリスト教に対して
 寛大であると考えるほど、西ヨーロッパの人々はお人好しではないというわけだ。とこ
 ろが、日本においては、たとえば隣りの中国との国交回復に最も熱心だったのは、さる
 宗教団体を背景とする政党であった。信教の自由が確立されていることを前提に成り立
 っている政党が、すべての宗教を事実上追放してしまった国家との国交回復に血道をあ
 げたというのは、私たち”宗教戦争の国”からきた人間には理解し難い事実である。
・過去の歴史において、あらゆる異教に対して寛容だった日本人の伝統からすると、マル
 クス・レーニン主義もまた異教の一つなのかもしれない。だとすると、この国の人々の
 融通性、寛大さというものは計り知れないものがある。
・私には想像できないけれども、もしも日本が共産国家になったとしても、生まれた子供
 のへその緒は神棚に上げられ、七五三にはお宮参りをし、ミッション・スクールに入学
 し、父母の葬儀はお経を上げ、神前で結婚し、Xマスに酔っ払い、赤十字病院でお産を
 し、という生活が繰り返されるのだろうか。

幸福な日本人
・多くの日本人が自己卑下して東京の住みにくさを強調するほどには、私はこの街がきれ
 いではない。ここは世界で最もダイナミックな都市である。人々は何事につけ、熱狂的
 な集中力を持っている。それは、1945年の敗戦によって一度灰じんに帰したこの大
 都会の、今日の様相をながめれば、すぐに気がつくことである。この奇蹟的な復興、発
 展の作業が、熱狂的な集中力に支えられなくて、どうして遂行できただろう。
・私が日本に住むようになったのは、東京オリンピックのころからだが、いまオフィスの
 窓から都心部の摩天楼を眺めると、当時、妻から教えられた<突貫工事>という言葉を
 つくづく思い出す。この突貫精神こそ、日本人の手に今日の近代化をもたらしたのであ
 る。
・私たちフランス人に最も欠けている資質はこの突貫精神であって、それを思うにつけ、
 私は自分の祖国ときわめて隔たりのある異質の文明の中に身を置いているものだとわれ
 ながら感心せざるを得ない。実際、私は怠けて寝て暮らしたいと考えている日本人には
 お目にかかったことがない。
・日本人は一流の国際的競争力を身につけながら、いつも自分たちを自虐的に見つけると
 いう習性を捨てきれない国民である。彼らのおける”島国日本”は、シャンゼリゼ街頭に
 おいても”島国日本”であり、その旺盛な好奇心、たくましい購買力にかかわらず、外の
 世界に対して、常にびくびくしているように見える。
・これは多くのフランス人にとって、最も理解しにくい面である。私たちは、先天的に集
 団というものがきらいであり、好奇心や購買力といったものも、所詮は個人差のあるも
 のであって、そういう個人が集団を形成してシャンゼリゼや五番街を歩くという発想が
 ないのである。パリの日本人旅行者も決してぶらぶらしていない。彼らは絶えず動き回
 っており、ともかく、早朝に起床してから、夜ベッドにつくまで、日本における日常の
 勤務状態に劣らぬほどの忙しさを満喫している。そういう日本人の熱狂的なんバカンス
 旅行というものは、カフェに一日すわっていたり、カンヌの海岸で一日がかりの日光欲
 を楽しむ型のフランス人には、何としても不可解である。
・毎夏フランスを訪れる日本人観光客はおそらく途方もない数だが、彼らが、いったい、
 何を見て帰るのかは、日本の現状からして、きわめて不可解である。つまり、彼らは、
 夏の間まったく経済活動の停止しているパリをながめるにもかかわらず、そういったこ
 とは何の感興も覚えずに、香水と年代物のコニャックを抱えて帰国するとしか思えない。
 これは、よくも悪くも相互に影響し合って、近代を造り上げてきたヨーロッパ諸国の人
 間にとっては、全く不可解なことなのである。つまり、日本人観光客は、日本式の生活
 リズムを外国へ持ってきて、またそのまま持ち帰るわけである。
・週休二日制は、大企業においては、だいたい定着したものとなったが、中小企業や商店
 にとっては、関係のない制度である。そして、ある大企業では、新たに休日となった土
 曜日を社員が読書によって費やすことを勧めるために、申請すれば図書費が給料に上乗
 せされることになった。
・私たちフランス人から見ると、社員が土曜日に本を読もうと、釣りをしようと、芝刈り
 をしようと、それは個人の趣味の問題であって、会社が介入するべき問題ではないよう
 に思える。そして、釣りや芝刈りが人間性の向上に役立たず、読書のみが人間性を向上
 させ、ひいては社会に貢献するとは、間違っても思わない。  
・私たちの基本的な考え方は、仕事とは生活費と余暇のための費用を稼ぎ出す手段にすぎ
 ず、仕事と苦役とを同義語と考えている友人すらいる。日本人のよく用いる言葉に”忙
 中閑”というのがあるが、私たちはたまた忙しいと、”閑中忙”というのがあるが、私た
 ちはたまたま忙しいと、”閑中忙”と受け止めてうんざりする。
・私はかつてニューヨークで暮らしていたころ、アメリカ人があまりに本を読まないのに
 驚いたが、日本にきて暮らすようになってから、日本人が余りに熱心に本を読むのにま
 た驚いた。
・フランスからきた人たちが驚くのは、目の前でどんどん買われていく新聞雑誌と、電車
 の中でそれに読みふけっている人々の真剣な表情にぶつかったときである。ここでも日
 本人たちは異常な集中力をもって活字に見入っている。彼らの表情を見ていると、とて
 も読書が楽しみであるとは断定できない。彼らのとっては読書もまた仕事の延長なので
 あり、だからこそ週休二日制の会社が社員の個人的な図書購入費を負担するという、欧
 米人には理解できない制度も生まれるのであろう。
・日本語でいう厚生施設だが、主たるリゾート・タウンでちょっと目につく大きな別荘が
 あると、これがたいてい会社の寮なのである。もしも、フランスで、ニースやカンヌ、
 あるいはシャモニーやドービルに、パリやリヨンに本社を置く銀行会社の社員のための
 寮が並んでいたとしたら、どうだろう。もちろん、そんなことはわが国では考えられな
 いが、もしそういう寮を日本式経営法を見習う法人が設置したとしても、フランス人の
 国民性からして、利用者は、まずいないだろう。
・ふだん会社で机を並べている同僚とバカンスの際にまたベッタリと顔を合わせていたい
 と考えるフランス人がいたら、それはよほどの珍種である。まして、同僚とはかぎらず、
 上役や部下やらがごたごたと同一建物の中に雑居して、会社内の年功序列がリゾートの
 生活までつきまとうとなったら、もう真っ平だと考える。フランスでは炭鉱労働者でな
 いかぎり、社宅制度というものも存在しないから、会社と個人との生活の区別は常には
 っきりしている。楽しみというものは、ことに個人的なもので、これを会社単位の集団
 で行なうというのは、ファシズムであるとさえ思える。
・そういう意味では、集団の一員としての訓練は、フランス人よりもはるかに日本人のほ
 うが積極的である反面、群れを離れた日本人はフランス人よりも、はりかに弱々しいよ
 うに見受けられる。  
・日本人は常に集団の中に身を置いていないと、不安のようである。私には、そういう日
 本人のばくたる不安の原因が、またよくわからない。
・ある意味で、日本人の社会で”個”を確立することは悪徳であるかもしれぬ。彼らが好き
 な言葉のひとつに”調和”がある。
・私たちの場合、社会は”個”と”個”のぶつかり合いの中から調和を見出していこうとする
 わけだが、日本人の場合は”個”を集合させた集団のぶつかり合いの中から調和を見出し
 ていこうとしているように思われる。この現象は、日本人を理解する上で以外に重要で
 ある。つまり、フランス人が、人間一人一人の”個”を大切にするのに対して、日本人は
 あくまでも集団の中の”個”でありたいという願望を潜在的に持っている。大多数の日本
 人が集団的思考で動いているときに、フランス式の”個”を主張する人間が現われると、
 日本人全体の生活のリズムが狂ってしまう。私が日本における”個”の確立が悪徳ではな
 いかと疑うのは、以上のような理由からである。 
・そういう日本人に多様性のある思考を期待するのは、ないものねだりだが、集団による
 熱狂的な集中力ということになると、この人々は天才的である。
・私はフランス人と日本人はそれぞれに異能の持主であると信じているが、その国民性の
 違いもまた大きいと思う。にもかかわらず、この国の人々が異常と思えるほど、フラン
 ス文化を愛し、シャンソンを口ずさみ、イブ・サン・ローランに熱狂しているさまを見
 ると、尻のあたりがこそばゆい。日本人とフランス人は世界で最も似ていない国民同士
 なのに、どうしてこうもフランスをひいきにしてくれるのかわからない。その熱狂のさ
 まが、いささか日本人の片思いなだけに、私はフランス人として、どうにもきまりが悪
 いのである。 
・株式の配当や預金金利、もしくは恩給などで、余生を暮らすことができると判断すると、
 フランス人はなんの未練もなく仕事を捨ててランティエになってしまう。功成り名遂げ
 て、とか、定年退職ということではない。中途半端だろうが、まだ働き盛りだろうが、
 ランティエになれそうだと踏むと、パッとやめてしまうのである。
・しかし、日本で暮らしていると、働き盛りの人間がランティエになるというフランス的
 な発想が、まことに怪しからぬ考え方であるような気分にだんだんなってくる。この国
 では、勤勉は常に美徳であり、怠惰は当然悪徳である。東京のオフィス街の、昼食の光
 景というのは、平均的フランス人が見たら、気が遠くなるようなシロモノで、そこには、
 くつろぎもなければ、グルメの楽しみもない。食事時間は短く、人々は早食い競争に参
 加しているかのように見える。ソバ・ウドンなどのメン類とライスカレーと称する奇怪
 なひとサラ物が、サラリーマンたちの主食であるかのようにうかがわれる。食事時間は
 せいぜい20分で、もちろん、アルコール類は一切かかわりがない。ランチと称する定
 食物にしたところで、昼食に費やす時間は、30分を超えることがない。
・夕刻は夕刻で、居残り残業は半ば常識であり、定刻に全員が退社する会社のほうが珍し
 い。「日本人が”あいつはよく働く”と評した場合は、10の仕事を10だけ片づけた
 ことをいうのではない。10与えられた仕事に二を足して12働いた場合をいうのだ」
・10のものを、12働くという勤労の観念は、欧米人には皆無である。私たちはあくま
 でも10のものは10しか働かないし、仮に10のものを12働いたからといって、上
 司がそれを勤務評定の材料にすることはない。こうして、苛烈な超勤競争をくぐり抜け
 て管理職へ重役へと進んでいきたいというのが日本の平均的サラリーマンの唯一の願望
  であるかのように見える。ごくまれに出世競争に見切りをつけて退社する人もいるが、
  それは例外中の例外である。
・運よく、出世競争の勝利者となって、重役そして、社長になったりすると、欧米だと社
 長在任期間というのは、せいぜい3〜4年というのが常識であり、かつ、60代が限度
 とされているが、日本の経営者は在任7〜8年から10年という人がザラであり、また、
 70代の経営者というのも普通である。つまり、功成り名遂げて、なお退社しないで働
 く経営者が少なくないのである。
・このような国だから、第二次大戦後、驚異的な高度成長を遂げたからといって、不思議
 でも奇蹟でも何でもない。 
・昼食に二時間を費やし、ワインを傾け、ときには自宅で妻と昼下がりの行為を楽しむと
 いったラテン系民族が、日本の経済繁栄にしっとを感じる正当な理由は何もない。ただ、
 タンティエを一生の望みとするフランス人が、いったい日本人は何のために働いている
 のかという疑問を持つのは当然であろう。私もまたそういう疑問を持つ一人であり、い
 まだに理解できない一人である。
・たしかに、日本は豊かになったとはいっても、個人個人で配当や利子で生活していくほ
 ど財産の蓄積ができる人は少ない。だが皆無というわけでもなく、私のにらんだところ、
 かなりの人がランティエたる資格を持っている。
・株式市場に自社株を公開しているほどの企業の”社長”が、すでにランティエたる条件を
 備えているにもかかわらず、社長のイスに執着するケースが多いのにはいささか驚かさ
 れる。あるいは経団連や日経連の幹部の高年齢を見ても、私には彼らがなぜその年齢ま
 で働かなければならないのかさっぱりわからない。フランスならば、パリ郊外に小じん
 まりした家を持って、シーズンにはオペラや芝居を見にパリに出かけてくる。そういう
 年齢の人たちである。読書をし、庭のバラの手入れをする年齢の人たちである。
・日本という国は、私たちから見ると、一部老人層による寡占社会であって、その老人層
 がどかないかぎり、フランス的なランティエの思想など入り込む余地がないように思わ
 れる。
・何でも、日本では「倒れてのちやむ」という思想が、悲壮美としてとらえられているら
 しく、人間は、死ぬまで働いているのが最大の美徳とされているらしい。
・「木口小平」というラッパ卒が、「死ぬまでラッパを離しませんでした」という美談の
 主として、戦前の小学校の修身の教科書に出ていたそうで、そういう話を聞かされるた
 びに、私はだんだん恐ろしくなってくる。何も「木口小平」にかぎらず、また、戦前に
 かぎらず、日本人という民族には「死ぬまでラッパを離さない」という精神が脈々と息
 づいているのである。その精神を理解できないと、エコノミック・アニマルよ呼ばれる
 まで外貨獲得に精を出した精神も理解できない。
・日本人にとって、人間の肉体とは、一個の機械にすぎないのであろうか。その機械が摩
 滅して使用できなくならないかぎり動かすという考え方が彼らの頭を支配しているのだ
 ろうか。
・”肩書”とはそんなに大事なものだろうか。フランスでは、”肩書”は、人が人生を送る際
 の、頬についた墨といった程度のものとしか思われていない。頬についた墨ならば、拭
 き取れは消えてしまう。
・本当の人生は、個人個人のプライベートな時間にあるというフランス人的な考え方に立
 てば、70、80まで肩書をつけて働くことに生きがいを感じる日本人的生き方は、人
 生の浪費であるように思える。70、80まで、大層な肩書をつけて働き続け、膨大な
 財産を気づき上げたとしても、財産は冥土への土産として持参するわけにはいかない。
・真の個人主義は、親子の関係にも適用されるというのがフランス人的考え方である。子
 孫に資産を残しても仕方がない。むしろ資産を残すことは、子供や孫をスポイルすると
 いう考え方がフランスにはある。 
・この国の人たちは、ランティエを目ざす思想がないことが、アジアの奇跡と呼ばれる経
 済繁栄をもたらしたことは事実だが、個人個人の生活のゆとりということになると、先
 進国らしからぬ貧しさが見られる。
・国民全体が経済成長という言葉に関心を持ち、明けても暮れても、景気の良し悪しを話
 題にしている国はさらにない。この、景気を気にする異常な関心は、日本人のグループ・
 ハーモニー(集団調和)ともなっている。「日本人は戦争前に軍国主義に熱中したのと
 同じ情熱で、経済万能主義に打ち込んでいる」のである。
・こういう日本に住んでみると、この国が奇蹟の経済繁栄を遂げたという西欧の見方は、
 いささか間違っていると思わざるを得ない。これは奇跡でも何でもなく、”当然”のこと
 なのである。 
・にもかかわらず、この国の人々は戦後一貫して、ある特殊な感情から抜け出ていない。
 すなわち、国家や大企業は富んでいるのに対して、個人個人はきわめて貧しいのだとい
 う感情である。国民総生産は世界第何位に上がったにもかかわらず、個人所得は依然と
 して世界の二十何位を低迷していると思っている。ところが、その個人所得のランキン
 グの上位に、石油王国などが数多く並んでいることには、触れようとしていない。
・個人所得の面において、もちろん、格差はあるものの、日本ほど公平に富の分配が行わ
 れている自由圏の国を私は他に知らない。私たち外国人にいわせれば、日本ほどとび抜
 けた金持ちいない国は珍しい。 
・低所得層の悲惨さを比較すると、これまた、欧米の悲惨の度合いのひどさに比べれば、
 日本はともかく餓死、行き倒れがないだけでもはるかにマシというべきである。アジア・
 アフリカとの比較は論を待たない。山谷、愛隣などのスラム的なものが話題になるとい
 っても、欧米のスラムの惨状に比べたら、まだしもベターという外はない。
・戦後、日本の革新勢力のスローガンは常に独占資本の横暴と倒せということだったが、
 もしも彼らが本気でそう主張するのだったら、彼らは本物の資本主義の何たるかをまる
 で知らないといえる。私の目から見れば、日本には欧米流の独占資本といえる存在は皆
 無である。欧米の独占資本のすごさというのは、そんな生やさしいものではない。
・アメリカ資本主義のすさまじさは、その、食うか食われるかの闘いにある。小なりとい
 えどもフランスとて同じである。そうした欧米の闘いに比べると、日本には会社資本同
 士の闘いはないといってよい。そういう意味では、日本ほどカルテルの発達している国
 はないかもしれない。 
・欧米資本主義の闘いは、労使ともども他社を食うか食われるかの闘いなのである。それ
 では東ヨーロッパ共産圏には、資本主義による闘いはないだろうと考えると、これまた
 間違いであって、それらの国々は営利会社という形態を持たないだけであり、今度はた
 とえば東インド株式会社とチェコ株式会社の国家資本同士の闘いになっているのが現状
 である。そして、それらの東欧国家資本主義が、ソ連という超国家資本会社に痛めつけ
 られているというのが真相であろう。
・現実とはそういうものである。ミサイルを打ち上げる一方で、国民にボロを着せている
 超国家資本もあれば、ペンシル・ロケットしか持たずに高度経済成長を誇っている国も
 ある。 
・貧乏とは、富んでいるかというのは、あくまでも相対的なものである。日本人の個人個
 人が貧乏だと主張しても、欧米のプーア・ホワイトやA・A地域の貧しい人々と比較し
 たら、とうてい貧しいとはいえない。
・生活水準のスタンダードというのは、その国の国力と密接な関連がある。3DKのアパ
 ートに住み、自家用車を持ち、カラーテレビをはじめとする電化製品に囲まれ、子供を
 幼稚園の予備校にやり、年末年始には一家そろってスキー場に行き、そのうえで「貧乏
 だ、貧乏だ」と叫んでいる国もあれば、テレビも電気洗濯機も「夢の、また夢」といっ
 ている国もある。
・この国は天国である。ただ残念なことは、天国であることに気づいている人がいないの
 である。そして「貧乏だ、貧乏だ。独占資本を倒せ」という十年一日変わらぬお経を唱
 えながら、生活をエンジョイしているのである。こんたい、この国の人々が、幸せなの
 か不幸せなのか、私にはさっぱりわからない。
・発展途上国の人はいうにおよばず、私たちヨーロッパの人間でも、日本における大学卒
 業生の大量生産ぶりには腰を抜かさざるをえない。この国では、一部特定の大学を出た
 者を除けば、大学卒調整はエリートではない。つまり、大学卒業生というレッテルは、
 彼らにはほとんど何の恩恵ももたらさないのである。
・大学教育の目的に関して、日本ではさまざまな論議が行われている。たしかに、大学と
 はただガリ勉をする場ではないだろう。人格形成、集団生活、社交、円満な常識を養う
 など、多種多様の目的があるに違いない。しかし、第一義的なものはやはり勉学である。
・ところが日本では、そうした常識のラチ外に存在している大学が星の数ほどもある。ラ
 チ外といって、いいすぎならば、”教育を受ける権利”を若者たちに行使させるための大
 学といい直してもよい。物故した日本の皮肉な批評家はそれらの大学を総称して、”駅弁
 大学”と喝破したが、近ごろは窓の開かない列車が多く、大学よりも駅弁のほうが珍しく
 なってしまった。 
・現代日本社会において、大学を卒業することが、なぜそのように必要なのかということ
 である。いうまでもなく、近代国家においては職業に貴賤はない。学歴の多寡も人間評
 価の対象とすべきではない。
・ただ、人間には、それぞれ異なった能力があり、好き嫌いがある。そういう好き嫌いを
 無視して、大学卒業証書を人生の通行証として日常化してしまうのは、個人個人にとっ
 てもムダであると同時に、国家のためにも大きな損失である。ちなみに、英国における
 大学の数は44校、フランス65校、ドイツ25校である。そして、これらの大学の卒
 業証書を手にするのはきわめて困難である。
・欧米における大学卒業証書は、人生の通行証というよりも、一生背負って歩かなければ
 ならない十字架である。この十字架を背負ったからには、人前でゲップもできないし、
 無知を露呈することもできない。銀行、会社がつぶれるときには、死にも狂いで救済す
 る義務を持っている。いや、国家が危ないときに先頭に立って救うという最大の義務さ
 え追っているのだ。 
・日本の各大学で、とかく、女子学生のほうが男子学生よりも成績がよいという話を聞く
 たびに、私は東西の教育方法の相違について、つくづくと考えざるを得なくなる。この
 女子優等生たちの大部分は、大学卒業後、日ならずして家庭の主婦におさまり、インス
 タントラーメンをすすりながら、ぼんやりテレビをながめる生活に浸る。これを、国家
 的、人間的ムダといわずして、何であろうか。いまや、世界のいかなる国においても、
 教育は国家百年の計に組み入れられている。教育こそ国家存亡の要といってもよい。
・教育の振興は、国家的な投資であり、ヨーロッパ諸国では大学教育は無料という国が多
 くなった。 
・東京大学の卒業生は確かに優秀かもしれないが、日本全国の無数の大学が発行する人生
 の通行証の中に東大卒業生の責任観念が埋没してしまっている。
・もしも、現在の日本が、西ドイツと同じように、25の大学しか持たなければ、幼稚園
 や小学校の予備校といった奇妙な存在もなくなるであろう。10倍から20倍の倍率だ
 から、親は子を予備校に通わせて、希望を託すのである。これが、100倍、200倍
 となれば、親によってはわが子をその残酷さにさらすのを拒むはずである。ヨーロッパ
 はそうやって、数百年をすごしてきた。そして、その中から大学の権威も生まれ、国家
 の存続もありえたのである。 
・機会均等という言葉は美しい。だが、この言葉が語られるとき、責任の均等という言葉
 が語られてこそ、真の平等がある。
・責任を持つ意志のない人間を悪と決めつけることはできない。それは人さまざまの生き
 方があるからだ。一日の労働を終えて、家族に囲まれ、ワインとパンで飢えをいやし、
 今日も家庭の幸福が得られたと、主なる神に感謝を捧げる非大学卒業生を不幸だときめ
 つけることはできない。と同時に、家庭の幸福を犠牲にしても、国家の安泰に寄与する
 のが人生の責務だと考えている大学卒業生を幸福だということもできない。
・日本人の、警察に対する依存度は、私たちの想像をはるかに超えたものであるらしい。
 そして、世界でも最優秀と折紙のついた日本の警察は、そうした市民の依頼心にじゅう
 ぶんにこたえているように見える。  
・日本においては、市民の安全は全面的に警察にゆだねられ、子弟の教育は全面的に学校
 にゆだねられている。思考はテレビ・ラジオ・新聞にゆだねられている。自分で考え、
 自分の意志で行動し、わが身を自衛し、子弟を家庭においてきびしく教育するという考
 え方を持つ日本人はどうやらあまり多くないようだ。
・信号機というのは、自動車交通の規制のために発明されたもので、歩行者は安全さえ確
 認すれば、信号に従う必要がないというのがフランス人の考え方である。したがって、
 パリやニューヨークでは、車が途切れると赤信号でもいっせいに歩行者の横断が行われ
 る。そういう歩行者の自由を、たかが機械にすぎない信号機が奪うのはせんえつ、かつ
 ファッショだという考えが、フランス人の心の根底にある。そういうフランス人から見
 ると、信号に従ってピタリと歩みを止める日本人の姿はむしろ異様である。
・フランス人は酒好きが多いけれども、泥酔することは大変な恥だと考えている。まれに
 街で見かける泥酔者に対する世間の目もきわめてきびしく、ときには人間失格者の扱え
 さえ受ける。つまり、自分で自分を律することのできない者は社会人として失格者だと
 見られるのである。 
・私のいいたいのは、”人は右、車は左”、”信号順守”、”酒気帯び院展厳禁”のいずれをと
 ってみても、日本人とフランス人の物の考え方があまりにも違うということである。日
 本人を見ていると、自分で自分を律するよりも、官憲に代表される”他人”が”自分”を律
 してくれたほうが暮らしよいと考えているように見える。
・私たちフランス人は、味の良し悪しは別として、すでに味付けされた食糧というものに
 本能的に不信感を抱いている。そして、たぶん、日本人も私たちと同じ考えにちがいな
 いと信じていた。握り飯はともかくとして、平和時における日本人の食事は、新鮮味を
 尊び、繊細な味を楽しんでいるように見えたからだ。 
・はじめて来日して、日本のみそ汁を味わったとき、私は、世界のスープの中でも五指に
 入るものだと感じ、女主人にみそ汁のだしのとりかたについて、しつこく、質問したも
 のだ。ところが、それから10年余り、いまや、日本はみそ汁でもライスカレーでも、
 シチューでも、インスタント食品の主要部分を占めるようになった。
・東京のスーパー・マーケットに行って、それらのインスタント食品、あるいは冷凍食品
 の山をながめると日本人は天才であると信じると同時に、日本の家庭の主婦の労働合理
 化の進み具合について考え込まざるを得なくなる。フランスの主婦たちが、三日三晩煮
 込んだシチューと、少なくとも見た目は同じようなシチューを、日本の主婦はわずか三
 分間で食事に供することができるのである。
・私も、何種類かのインスタント食品を試食してみたが、その結論は「ひどくまずいもの
 ではない」ということだ。かといって、「たいそううまい」と感じたものでもないこと
 は事実である。シチューは確かにシチューであって、シチュー以外の味ではないが、複
 雑な味の混合体であるというふうには感じなかった。画一的というべきか、平均的とい
 うべきか、可もなく不可もなしという味である。それは、カレーソースについても、シ
 ューマイについても、同じことがいえる。
・味覚というのは、本来、主観的なものだが、インスタント食品の流行は、その味覚を全
 体的なものに変えてしまう。いわば味の全体主義である。日本のように料理の発達した
 国で、このような味の画一化が容易に進められるというのは、驚くべきことである。少
 なくともフランスなどでは起こり得ない事態である。
・年配の人々が、声を枯らせて”おふくろの味”をさけんでも、インスタント食品の流行
 はとまるところを知らない。行きつく先は”宇宙食”のようなものだろうが、おそらく、
 日本人の食品合理化にカケる情熱からして、そこまで到達するに違いない。
・ある意味で、若い日本の妻は、世界で最も優雅な生活を楽しんでいるといえる。戦後日
 本の開発した、電機製品とインスタント食品に囲まれて、家事の合理化は徹底的に追究
 された。フランスの家庭の主婦のように、三日三晩かかってシチューを煮込んでいる主
 婦が日本にどれくらいいるだろうか。イタリアの主婦はスパゲティのゆで加減で料理の
 腕をはかられるというが、うどんやそばを自宅でゆがいて子供たちに食べさせている日
 本の主婦は何パーセントぐらいいるのだろうか。
・日本の次の世代は、もう物の味がわからなくなってしまうかもしれない。しかし、それ
 よりも恐ろしいと思われるのは、母親からインスタント食品を与えられた子供たちは、
 食事の味の中に母親の愛情を見出さなくなるということだ。
・便利というのはありがたいものである。だが同時に、便利というのは恐ろしいものであ
 る。日本人が近代化の過程において、この”便利”という両刃の剣をどのように扱ってい
 くかは、私たちヨーロッパの人間にとって興味の尽きないところである。ただ、私たち
 はあくまで三日三晩煮込んだシチューを食べ続けて行くだろう。
・欧米の国々と比較すると、日本のスポーツ振興は、いささかも階級的でなく、開放的で、
 実に見上げたものである。そして、英国人がクリケット、フランス人が自転車一辺倒で
 あるのに対し、日本人は一辺倒ということがない。
・ゴルフが庶民のスポーツとなりつつある国は、世界広しといえどもこの日本だけであろ
 う。だから、この国では、スポーツが一部階級の専有物であることは不可能なのである。
・フランスは、英国と違って、ゴルフはあまり盛んではないが、その限られた中でクラブ
 の会員となっているのは、当然ながら上層の連中である。フランスは銀行家と銀行員の
 区別が判然としているような国だから、銀行員がゴルフ・クラブのメンバーになるとい
 うことはまず考えられないことである。
・スポーツのクラブというものは、欧米では元来、閉鎖的なものである。なぜなら、閉鎖
 的でなければクラブを作る意味がないからである。確かに日本にも、一部、閉鎖的なク
 ラブはある。しかし、大部分のクラブは、会員権が金銭で売買され、平日にはメンバー
 をともなわぬビジターの訪問が許されていて、クラブという名は有名無実と化している。
・この国では、味がわかるかわからないのは別として、金さえ出せばだれでもキャビアを
 食べることができる。いや、だれもがキャビアを食べられなければ”平等”ではないと考
 えているフシがある。そういう”平等”の発想は、ヨーロッパの人間には考えもつかなか
 ったことだ。ただし、社会的地位のある人間や、年齢的に甲羅を経た人間が、”安住の場
 所”を求めようとしたら、日本は不適当な国であり、南フランスやフロリダの存在意義は
 案外そんなところかもしれない。
・和歌山県の太地湾で、漁師に湾内に追い込まれたゴンドウクジラとイルカ220頭が
 「かわいそうだ、放してやれ」という世論に従って外海に釈放されたという。アメリカ
 の狂信的なクジラほぼ論者が聞いたら、泣いて喜びそうな話だが・・・。日本ではクジ
 ラは重要なタンパク源であり、日本における漁業は他の国のそれと比して、産業の中で
 占めるシェアが著しく大きい。多数のクジラを港に追い込んだ漁師たちが「クジラは食
 いものだ。とった獲物を逃がすことはない」とくやしがったのも当然である。
・アメリカのクジラ保護論者あたりが、金切り声をあげて、日本人を野蛮人呼ばわりし、
 クジラ獲りをやめなければ、日本製品の不買運動を行なうなどといいつのるのを聞いて
 は、腹が立って仕方がなかった。 
・だいたい、動物愛護という論理は、ヨーロッパの論理であり、この論理の背後に狩猟民
 族の自己弁護がひそんでいるのは明らかである。十八世紀から十九世紀を経て二十世紀
 初頭まで、鳥獣魚を問わず、野生の動物を乱獲し、毛皮をはぎ、肉を食いあさったのは、
 ほかならぬ欧米の人間である。クジラもその対象のひとつで、油を得るために乱獲し、
 肉は海中に投じた。
・あらゆる大陸で、野生動物は乱獲による頭数激減で絶滅にひんした。中には、そのため
 に絶滅した種類さえあり、動物愛護はその結果の論理である。しかも、愛護の対象の主
 な動物は、飼いならされたペットであって、牛や羊などの食肉に及ぶものではない。勝
 手といって、これほど勝ってな論理もないのであって、私は彼らと同じヨーロッパ人で
 ありながら、その非論理性にはついて行くことができない。食肉の中で最も美味とされ
 ているのは、子牛や子羊である。生後わずか二〜三カ月で食膳に供されるこれらの幼い
 動物たちは「かわいそう」ではないのだろうか。
・もちろん、私はクジラやその他の海の幸が絶滅することを望む人間では決してない。漁
 獲制限といったものも、ある程度はやむを得まい。しかし、欧米の人間が、クジラや魚
 類を主たるタンパク源としないからといって、それらを主とするタンパク源としている
 国を圧迫しようとするのには反対である。 
・食糧問題は、エネルギー問題と並んで、今後の世界で最重要のテーマである。それだけ
 に、日本人は日本人独自の論理をいまのうちから組み立てて置かないと、狩猟民族の多
 数決に押しまくられる危険性をはらんでいる。
・世界中で、日本人ほど、生活の重要な部分をTVに占領されている国民を私は他に見た
 ことがない。老若男女を問わず、人々の話題は常にTV番組に言及し、その情熱はとど
 まるところを知らない。そうした国民的情熱にこたえて、各テレビ局は、早朝から深夜
 まで、うまずたゆまず番組を作り続けている。国営放送二チャンネル、民法五、チャン
 ネルの全部が、である。
・地方都市の旧式の日本家屋に招かれて上がり込み、客間の床の間にデンと鎮座している
 TV受像機をながめるにおよんで、私たちは、日本人の信仰が、神や仏ではなく、もし
 かするとあの床の間のTVではないかと疑うのである。
・わがフランスにももちろん、TVという媒体は存在するし、受像機もある程度普及して
 いる。ただ、チャンネルは残念ながら二つしかないし、早朝から深夜まで番組を流し続
 けるほどTV局員は勤勉ではない。フランス人の家庭において、TVが日常生活に占め
 る部分は、日本人の家庭に比べると著しく小部分である。フランスには、日本の床の間
 に比すべき場所がないけれども、たとえあったとしても、TV受像機が、宝物のごとく
 扱われるということはありえない。
・フランス人は個人の選択を大切にする国民であって、TVのようにマスを対象にした画
 一的なものには、誰彼問わず反発を示す傾向が伝統的に顕著である。 
・ところが、どうやら日本ではそうではないらしい。TV番組の作り出す画一性は絶対性
 に近いかのように受け取られている。子を持つ親たちは、TVの弊害に気付きながらも、
 TVを見ていないと小学校の級友たちの話題についていけないと訴えるわが子の願いに
 抗しきれない。その親にしてからが、前夜見たTV番組のことを、何の恥じらいもなく
 話題にする。 
・TVの、一技術的専門家にすぎない国営放送のアナウンサーが選挙に立候補すると、最
 高点で当選するなどということは、フランスでは想像もつかない出来事だが、日本では
 だれもこれを”不思議”とはいわない。なぜなら、TVは絶対だからである。床の間の四
 角い箱から語りかける人間が、偉い人でなくて何であろう。
・日本には、中世から泣く子と地頭には勝てないという言葉があるが、現代の日本を見て
 いると、泣く子とテレビには勝てないことがヒシヒシとわかる。躾の悪い、野放図に育
 った子供たちと、絶対性を誇るテレビの相関関係は、私たち外国人でさえこの国の将来
 が心配になるほど強固なものになりつつある。
・百貨店やスーパー・マーケットの安売りで、小売店が淘汰されてしまったと同様に、こ
 の国では、TV局の無料出血大奉仕によって、映画館もストリップ劇場も閑古鳥の鳴く
 状態となった。私が日本人の家庭を訪問すると、必ずといってよいほど奥の茶の間から
 TVの音声が聞こえている。そういう際、私は、一家がくつろいで語らいの場を持つべ
 き貴重な時間に、スイッチ一つで侵入してくる電波というものに限りない増悪を感じる。
 いっぽうで日本のマスコミは、親子のコミュニケーションの不足、断絶といったことを
 しきりに取り上げているが、主犯と思われるTVの害については一向に言及しない。

日本人の国際感覚
・私は軽井沢の浅間山荘の事件の時も日本にいて、一日中、テレビの前にクギ付けされた
 経験を持つが、あの銃撃戦の意味は、とうとう最後まで理解できなかった。つまり、フ
 ランス的な発想でいえば、あの銃撃戦が、革命の発火点なり、引鉄になるというなら、
 理解できるのだが、そういう可能性が皆無なのに、人質を盾に警官隊と撃ち合いを演じ
 るというのは、まったく”遊び”にすぎない。フランス人というのは、ある種の現実主義
 者だから、あのような”遊び”は、まったくムダだということで肩をすくめる。
・フランス人は、個人個人が個人主義者であると同時に、国家もまた個人主義国家なので
 ある。個人主義というのは、他人に迷惑をかけないかわりに、他人から干渉されるのも
 ゴメンだという考え方である。 
・フランスの自由と日本の自由とでは、同じ自由ではないような気もする。フランスでは、
 自由の維持は高くつくということは国民の一人一人が心得ている。日本人は「自由を、
 自由を」と叫んでいれば自由が得られ、「平和を、平和を」と叫んでいれば、平和が得
 られると信じているフシがある。
・これはやはり、自由と平和を得るために苦労した歳月が、フランスと日本とでは、かな
 り差があるということではないだろうか。フランスでは、今日の自由と平和を得るため
 に、ドイツとたびたび戦ったし、ロシアとも、その他の国とも戦ってきた。その中から
 得た教訓は、自由も平和も、獲得し、維持するのは高くつくということである。
・フランス人は、日本人のように海外旅行に出かけてはいないが、海外におけるフランス
 人旅行者の不祥事というのは奇妙に少ない。ということは、そこにもまた、フランス人
 の個人主義というものが、色濃く投影されているのではあるまいか。所詮、他人のこと
 は他人に任せておけばよいのである。 
・平均的日本人の”法”に対する考え方によれば、”法”というのは、”執行者”のサジ
 かげんひとつで伸縮自在のものなのであろうか。それも、証拠不十分で、有罪か無罪か、
 はっきりしないことならともかく、明白な法律違反と自他ともに判明していても、なお、
 弁解とそれに対する情緒的寛容が期待されるというのは、私どもの目から見ると、奇妙
 な世界である。
・日本の友人たちの説によると、日本では、給与所得者を除けば、大なり小なり脱税をし
 ていて、その脱税を発見された人は、よほど運が悪いのだという。法の執行に”運不運”
 がつきまとうという考え方は、この国独自のユニークなものである。
・自国だろうと他国だろうと、核のカサの下にいるということは、雨があたらないという
 ことではなく、雨が降らないということだ、とフランスでは信じられている。もしも、
 核のカサがないと、降らないはずの雨が降るのである。それを、自分の国でカサを持た
 ず、他人のカサに入って、しかもその間に国際的に経済成長を遂げるということは、政
 治的にかなり高度な作業である。そのあたりは、列国の間で「とかく日本は要領がよす
 ぎる」と評されるゆえんである。
・アメリカ人の日本人観は、決してフランス人ほど悪くない。ニューヨークに在住してい
 たころ、私はそのことをつくづく思い知った。アメリカ人はともかく日本人を理解しよ
 うという努力を払っている。それに対してフランス人は、日本について、ほとんど無関
 心といってよい。フランス人は、日本にかぎらず、外国についてきわめて冷淡であると
 いう国民性を持っているが、アメリカ人はまったくその逆で、いささか他愛がないほど
 の国際的な博愛主義を持つように教育されている。
・占領時代に、日本に駐留した米軍の将兵たちは、いま、それぞれの町で枢要な地位につ
 いており、かつて生活したことがある、太平洋のかなたの”愛すべき島国”について子供
 たちにそれぞれ思い出話を聞かせている。その思い出話が、日本人にとって屈辱的な話
 であるにせよ、日本理解という点で、アメリカ人がフランス人より数等優っているとい
 う事実は認めなければならない。
・いま、日本の主婦族は、家電機器を駆使し、テレビにかじりつき、スーパー・マーケッ
 トで買い物をし、コーラを好む。フランスの主婦がいまだに洗いオケで洗たくをし、買
 物かごをさげてパンを買い、八百屋や肉屋で値切り、エレベーターのないアパートに階
 段をとことこと昇って帰宅することを、果たして日本の主婦は知っているのだろうか。
・自己防衛の思想というのは、欧米の人間にとっては生きて行くための最も基本的な思想
 であって、自己の安全を他にゆだねるという思想はまったく皆無といってよい。それは、
 個人個人がそうなら国家もまたしかりである。しょせん、だれしも自己防衛は何ものに
 も優先するのであって、他人のことを考えるのはそれから先の話である。
・ところが、日本では、市民の武器所有は許可証の有無にかかわらず固く禁じられている。
 日本における武器所有の禁止はきわめて徹底していて、私たち外国人を驚かせる。日本
 の大都会の路上でホールドアップに会うということはまず考えられないから、ニューヨ
 ークからきたアメリカ人などは、もしかするとこの国は夢に描いた天国なのではないか
 と錯覚するようである。 
・日本では、警察官が、市民を守るために、武器を持った凶悪犯人を射殺しても、過剰防
 衛だと問題になる国で、唯一の合法的武器所有者たる警官たちも、うかつに引き金に指
 をかけることができない不思議な国である。フランスでは、警官隊と群衆が衝突すれば、
 必ず何人もの死者が出るし、凶悪犯人は容赦なく射殺される。
・欧米では、ハイジャックの犯人は、射殺の危険を前提として事を行なう必要がある。だ
 が、日本では、ハイジャックの犯人といえども、これを射殺することは過剰防衛であっ
 て、無傷のまま取り押さえることが官憲に要求される。その見事なまでの”人命尊重”の
 論理は、しかし、私たち外国人にはさっぱりわからない。
・”人命尊重”が、犯行が明白な殺人犯にも適用されるというのは、世界広しといえどもこ
 の日本ぐらいではあるまいか。だから、犯人たちは、自らの命を半ば官憲に保証された
 形で犯行を行なうというきわめて幸福な状況下に置かれている。
・そのかわり、不運にも被害者たる立場に置かれた人々は、自己防衛のために身を守る武
 器を一つも持っていないから、一家皆殺しという場合でも、抵抗した形跡はほとんど認
 められないのが普通である。 
・欧米では、正当防衛による返り討ちというケースが少なくないし、婦人でさえもハンド
 バックにピストルを忍ばせている例が多いから、犯人のほうも命がけである。つまり、
 日本における武器所有禁止は、犯罪の防止と助長の両面の効果をあげているというべき
 だろう。が、日本の市民たちは、犯罪の防止を委任している警官たちには至って冷淡で
 あり、犯人の人命尊重についてはきわめて寛大である。戦後における日本人の自己防衛
 の感覚そのものが私たちには不可解なのだから、犯罪面における日本人の反応が不可解
 なのは当然なのかもしれない。
・そういう平和的日本人が平気な顔で市民生活を送っている理由は何かというと、漠然と
 した安心感によるものにすぎない。すなわち、日本は法治国家で、警察が優秀で、武器
 の所有が禁止されているからという前提によりかかっているのである。
・市民の治安は警察にゆだねられている。警察は地方自治体あるいは国家の機関である。
 警察が危ないときにはだれが守るのか、理屈のうえでは国家だが、現実には自衛隊の治
 安出動ということになろう。ところが、その自衛隊の存在は、憲法違反だという議論が
 かなり強い。日本の自衛隊ほど気の毒な軍隊というものを私は他に見たことがない。
・実際に外国の軍隊が日本を攻めてきたら、そのとき日本国民を守るのは自衛隊である。
 たとえそのときになっても、国民は依然として武器を所有していないだろうから、その
 身や財産の安全は自衛隊に守ってもらうより仕方がない。にもかかわらず、自衛隊の存
 在はけしからんという議論が跡を絶たない。
・日本では一部の政党が”非武装中立”という理想論をスローガンの一つとして掲げている。
 これを個人にあてはめると、武器を持っているから持っている同士で戦いになるので、
 こちらが持っていなければ相手は攻めてこないという、不思議な理屈である。こちらが
 丸腰でも、相手にその気があれば一家皆殺しになるというのは日本ばかりではなく諸学
 国でも同じである。
・社会主義国だろうと自由主義国だろうと、自国の国益が害されるとなれば、先手を打つ
 のが歴史の常道である。チェコがヒトラーのドイツに無血占領されたとき、フランスも
 イギリスも動かなかったといって、世界世論のごうごうたる非難を浴びたことがある。
 イギリスは知らず、フランスは自国の安全が第一で、チェコを助けてドイツと争うこと
 を恐れたのである。
・日本人は個人が武器を所有せず、その生命財産の安全を警察にゆだねている。警察は国
 家公務員としての安全を自衛隊にゆだねている。警察と自衛隊は国民の生命財産の安全
 を守らなければならない立場なのに、この国ではときとして市民の敵として扱われるば
 かりか、国家権力の手先だと決めつけられる。
・平和的日本人が、わが家にかぎって一家皆殺しにされることはあるまいと信じている。
 漠然とした安心感は一体全体何によるものであろうか。私たち外国人が、日本人の自己
 防衛感覚が不可解だというのは、まさにその点についてなのである。
・個人にせよ、国家にせよ、戦いとなれば強い者が勝つのであり、その論理は不変である。
 素手と武器が戦えば武器が勝つのである。毎夜、まくらの下の拳銃の有無をたしかめて
 から眠りに落ちるアメリカの大都市生活にくらべると、日本は確かに天国である。しか
 し、まくらの下の拳銃は、もしかすると自分の身を守ってくれる。素手で自分の身を守
 るのは困難なことである。
・私の見るところ、日本の皇室の最大のキャッチ・フレーズは”万世一系”である。世界
 に”万世一系”の王朝は過去にも現在でも存在しない。”万世一系”という血液信仰は、
 日本人の中にきわめて根強い説得力を持っている。
・日本においては、天皇も皇后も、内面外面とも”典型的な日本人”であらせられる。ヨ
 ーロッパで現存する国王、王妃にそれぞれの国の典型的人物であれと進言しても、それ
 は無理な注文でしかない。まして、日本の中世以前から近親結婚への道を封じられてい
 たヨーロッパでは、白人であるかぎり、他国人の血はむしろ歓迎されこそすれ、後指を
 さされることは、めったになかった。なぜなら、ヨーロッパの王室は政略結婚の本家で
 あり、いちいち目に角立てていたのでは、力の均衡を保ち得なかったからである。他国
 の王朝の血が入ることは、他国との同盟関係の強化につながったのだから、一般の国民
 も平和を望むならば、願ったりかなったりのことであった。
・この東洋の日出づる国において、天皇制が幾度もの試練を乗り越えて今日に至った裏に
 は、血液混交を好まぬ民族主義が、上は天皇家から、下は一庶民に至るまで、みごとに
 貫かれていたからだということを理解したのである。
・もしも、この国が、300年もの長い鎖国の歴史を持たず、200〜300年前から国
 際交流を行なっていれば、あるいは、天皇家とオーストリアの王室との縁組があたかも
 しれない。少なくとも隣の清国あたりとは、縁組が起こっただろうと想像する。それが
 鎖国によって、まったく行われなかった。天皇家が国際結婚に踏み切っていれば、当然、
 貴族たちも国際性を持ち、ブルジョア化していたにちがいない。しかし、そのかわり、
 日本は滅びていたかもしれないし、天皇制もまた崩壊していたかもしれない。
・ヨーロッパの王室の幾つかが、いとも簡単に倒れた裏には、国際結婚による王室自身の
 愛国心の欠如、血液信仰の対象となるべき純血性の欠如が挙げられるからである。現在、
 辛うじて王制を維持している英国やオランダでも、王や女王は”最高の市民”という冷
 遇を受けているのにすぎないのであって、市民よりも一段高いところで、愛国心を持ち
 純血を保持している崇高な存在ではない。ここに、日本の皇室とヨーロッパの王室との
 根本的な相違が存すると思われる。
・現代日本人は、インターナショナリズムを他の何ものにも代え難いものとしてあこがれ
 ているかにみえるが、ナショナリズムなきインターナショナリズムなど、絵に描いた餅
 にすぎないというのが、フランス人の基本的な思想である。そういう私たちの目から見
 ると、日本人の純血好みのナショナリズムというものは、世界に類例のない国家維持の
 方法に見える。したがって、日本人が、自分たちの口から「私たちは島国根性で、国際
 性がない」と卑下した言葉を吐くのは、もったいないと思う。私たちは国際的な血液混
 交や、国際的な流浪の民を、うんざりするほど見てきている。日本には日本独自の道が
 あることは、純血性や民族主義によって、あまりにも明らかである。
・オノダ・ヒロオ氏の南米移住という出来事は、私たち在日外国人の間では、かなり大き
 なセンセーションを巻き起こしているが、その割には、日本のマスコミは冷静のようで
 ある。小野田少尉の”長い不在”の後の出国の裏には、もちろん元少尉自身のいうに言わ
 れぬ数々の理由があるだろうが、在日外国人の衆目の一致するところ、日本のマスコミ
 がその一因であることは明らかである。
・小野田少尉の帰還は、まことにドラマチックであった。横井庄一軍曹のときも劇的だっ
 たが、旧日本軍の軍規というものを彷彿とさせる意味で、小野田少尉の帰還がより劇的
 であったことは確かだ。  
・当時、日本のジャーナリズムは、現地に特派員を派遣し、発見者の鈴木紀夫クンや小野
 田少尉自身の手記の争奪戦に血道をあげた。ありとあらゆるメディアが小野田少尉を取
 材し、その一挙手一投足を追った。  
・しかし、その後の展開は、至って日本的であった。帰還前後の熱狂的な報道が収まると、
 少尉を戦後30年近くルバング等にはりつけにした日本軍国主義に対する批判が登場し
 た。さらには小野田少尉自身を、日本軍国主義の象徴的人物と見る評論さえ現れた。
・フランスでは、こういう展開はおそらくなされなかったであろう。フランス的個人主義
 の考え方すれば、30年というタイム・トンネルをくぐり抜けてきた英雄が、30年と
 いう長い歳月の空白を埋める期間、できるだけ傷つけずに置こうとする配慮が、国民の
 間で生まれるはずである。敵を殺さなければ自分が殺される。生きるか死ぬかの世界で
 ある。どちらが正義で、どちらが邪悪かということさえもわからぬのが戦争である。
・小野田少尉を軍国主義者と決めつけることはやさしい。同じように、日本軍国主義を邪
 悪と見なすこともやさしい。だが、小野田少尉の”ルバング島の30年”を体験するこ
 とはやさしくない。いや、やさしくないというよりも、体験することは不可能といって
 よい。したがって、本来、小野田少尉の行動を批判することは不可能なはずである。そ
 の不可能なことを、日本では批判家とか作家とかいわれる人々が平然と行ない、世間も
 また、その批判をいっこうに不思議とは思わない。
・日本軍隊の非人間的な側面を、命令遵守の小野田少尉に見るという批判もあったが、日
 本に限らず、軍隊はどこの国も非人間的なものであり、戦争とは野蛮なものである。小
 野田少尉が上官の命令を守ったのは、軍人として当たり前であり、命令遵守期間が3年
 であろうと30年であろうと、当たり前のことには違いない。
・しかし、戦後30年の平和を享受してきた日本の一部文化人が、小野田少尉の帰還を、
 日本軍国主義の亡霊の帰還と評するのは苛酷である。いくら、日本における言論の自由
 に責任がともなわないといっても、これはあまりにも無責任な評である。少尉が、そう
 した無責任な言論に痛憤を覚えたと述懐しているのは当然である。30年間の人生を、
 ジャングルの中で費やした勇士を、たった1年間の日本での生活で深く傷つけてしまっ
 たことを、日本のジャーナリストは肝に銘じて反省してしかるべきである。
・私のいいたいのは、小野田少尉の南米への移住が、戦後日本のデモクラシー体制への痛
 烈な警鐘であるということだ。日本国は、ひとりの典型的伝統的な日本人を、手をこま
 ねいて、国外へ去らせてしまったのである。
・小野田サンを南米へ去らせたのは、日本人の恥だといっても過言ではない。横井サンに
 せよ、小野田サンにせよ、あるいは台湾兵の中村サンにせよ、彼らの出現は民主国日本
 にとって、誇るべきことではあっても、恥ずべきことでは決してなかった。欧米のジャ
 ーナリズムで、彼らのことを悪しざまに書き立てたものは皆無であった。
・昭和五十年の日本の評論家が、昭和二十年の日本軍人を裁くことは見当違いもはなはだ
 しい。むしろ、小野田サンが、戦時中の日本をふりかえって昭和五十年の日本の世相を
 批判することこそ自然である。小野田サンは、30年の空白のあとに見つけた日本に愛
 想を尽かして移住してしまった。彼はおそらく、自分が、全人生を投入して守ろうとし
 た日本が、それだけの値打ちがない国だと判断したのちがいない。
・小野田少尉が命を賭けて守った母国を捨て、多民族の寄り合い所帯である南米に活を求
 める心情は他人にはうかがい知ることができない。しかし、それでも、昭和五十年の日
 本人が小野田少尉の晩年を包み込むことができなかったという事実だけは、日本の民間
 史に永久に残る。後世の日本人がこの事実をどのように受け止めるか、神のみぞ知る民
 族の宿題であろう。
・ベトナム戦争が、米国とソ連の代理戦争であることはだれの目にも明らかなことであっ
 た。南ベトナム軍はアメリカ製の武器を使用し、北ベトナム軍はソ連製の武器を使用し
 た。この戦争に賭ける執念は、アメリカよりもソ連のほうがはるかに勝っていた。理由
 は明白である。ソ連は、地中海、紅海、インド洋、東シナ海をつなぐ港を欲していたし、
 中国の南に橋頭堡を求めていたのに対し、アメリカはすでにそれらの橋頭保や港を有し
 ていたからである。最大の敵国たる中国と国境を接しているソ連と、さして敵対する国
 を周囲に持たぬアメリカとでは、アジアの防衛線に賭ける意気込みは違うのは当然であ
 る。
・フランスがいち早くインドシナから手を引いたのも、結局は、フランスにとってアジア
 はあまりにも遠く、大きな犠牲を支払うに値しないと判断したからにすぎない。ソ連は、
 そういった西側諸国の、孤立主義への郷愁をじゅうぶんに見抜いたうえで、北ベトナム
 の民族主義を徹底的に利用した。その善悪はさて置いて、客観的に見れば、ベトナム戦
 争のそうした背景は、世界中の人々が理解していたといってよい。ところが、自由諸国
 家のマスコミの中で、一国だけそうした背景を理解しないで、いや、理解しないふりを
 し続けたマスコミがある。
・いうまでもなく、日本のジャーナリズムである。日本のジャーナリズムは、ベトナム戦
 争継続中、終始一貫、反米の前提に立って、北の正義、アメリカの侵略をうたい続けた。
 そして、ベトナムの民族主義も、アラブ民族主義も、北朝鮮の民族主義も、すべて一緒
 くたにして、半米帝を貫き通した。
・北ベトナムの支配下に入った”解放勢力”が、パリ協定を破って”政府軍”を追いつめても、
 日本の新聞は協定違反という言葉をほとんど用いていない。また”解放勢力”が共産主義
 者であることを正確に報じた新聞もない。日本の新聞では、共産主義者と民族主義者を
 同義語として扱うということを、私はあらためて知らされた。それならば、南ベトナム
 の奉じた自由主義もまた、民族主義と同義語であってもいいはずだが、そちらのほうの
 民族主義は認められたためしがない。これは、明らかに日本の新聞が犯しているダブル・
 スタンダードである。
・ベトナムを押さえたソ連が、余剰の軍備を朝鮮半島に投入し、南北朝鮮の統一をもくろ
 むようだと、日本の自由主義はまさに風前の灯となる。にもかかわらず、日本の新聞は
 手放しで、ベトナム”解剖勢力”の勝利を歓迎し、「カメラにニッコリ、解放軍兵士」な
 どというちょうちん記事を”無邪気”に書きまくった。
・国土の四分の三が可耕地であるフランスに対して、日本のそれが四分の一でしかないと
 いう事実をもってしても、日本の外交がどれほど困難か察しがつくというものだ。とこ
 ろが、この国では、外交の困難という認識が一般にきわめて薄いように思える。インド
 シナ半島における南軍の敗北による深刻さよりも北軍の勝利による平和の到来のほうが
 明かるく報道されるぐらいだから、日本が将来どのような道を歩むつもりなのか、私た
 ち外国人にはさっぱり見当がつかない。日本のおかれている地理的な環境からいって、
 この国が米中ソの三大国の中でバランスをとって生きて行かなければならぬことは、自
 明の理であろう。