大往生したけりゃ医療とかかわるな :中村仁一

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男の孤独死 [ 長尾 和宏 ]
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この本は、今から10年前の2012年に出版されたもので、著者は医師のようだ。
この著者は、老人ホームの常勤の医師としての勤務経験が豊富だったようで、多くの老人
の死に立ち会ってきたようだ。その経験から、老人の医療との関わり方について、一般的
な関わり方とは異なる考え方を提唱している。
この著者の主張を非常に大雑把であるがまとめると、次のようになるのではないかと思う。
・本来、自然な「死」というのは、穏やかで安らかなものである。
・がんでさえも、何の手出しもしなければ、全く痛まず穏やかに死んでいく。
・それに医療を介入させれば、いたずらに延命措置が施されることになり、無用な苦痛を
 与えることになる。
・「がん健診」や「人間ドック」を受診し、がんが発見されれば、がんとの血みどろの闘
 いに挑むことになる。その結果、多くの人が玉砕して死んでいく。「早期発見の不幸」
・自分が「がん」であることを知らなければ、そのまましばらくは普通の日常生活を続け
 ることができる。「手遅れの幸せ」
・人はいつかは死ぬ。ただ長生きすればいいのではなく、死ぬまでの生き方が重要なのだ。
・「老い」には寄り添いこだわらず、「病」には連れ添ってとらわれず、「健康」には振
 り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がけるのが基本である。
 
なるほどと、非常に納得感のある内容であるような気がした。自分自身のこれからのこと
を考えても、いたずらに長生きしたいとは思わない。長生きするより、願わくは穏やかな
最期を迎えたいと思う。
ただ、この考え方は、高齢世代にとっては適していると思えるが、まだ家族を養わなけれ
ばならない現役の世代では、なかなかそういうわけにはいかないだろう。たいへんである
が、現役世代は、どんなことがあっても、がんばって生きなければならないと思う。 


過去に読んだ関連する本:
健康診断は受けてはいけない
大学病院のウラは墓場


はじめに
・私は、特別養護老人ホームの常勤の配置医師です。
・世間には歴然と医者の序列があることに気づきます。大学病院の医者が頂点で、旧国立
 病院や日赤、済生会、県立、市立などお税立病院と続き、次が民間の大病院、中小病院
 の医者で、一番下が町医者といわれる開業医です。老人ホームの医者はさらにその下で
 すからホームレスレベルです。
・ですから、市立病院の部長であっても、開業した途端に最下位の町医者に転落するわけ
 です。世間では、家族や知り合いが開業医や小さな病院で診てもらっていた、経過がは
 かばかしくない時に、「だめ、そんな小さいところにかかっていては。もっと大きなと
 ころへ行かなくちゃ」というのがふつうなのですから。
・考えてみれば当然です。わが国には医者個人の情報がなく、その実力のほどが素人には
 わかりません。そこで、病院の序列の上の方の医者が、評価が高いということになるの
 でしょう。
・ですから、ホームレスレベルの私の出番は、病院が見放した後なのです。出すぎず、分
 を守ってさえいれば、無駄な葛藤はせずにすむという構図です。
・その老人ホーム勤務も12年目に入り、最後まで点滴注射も、酸素吸入もいっさいしな
 い「自然死」を数百例もみせてもらえるという、得がたい体験をしまいた。
・病院では、最後まで何とか処置をします。いや、しなければならないところですから、
 「自然死」はありえません。 
・また、医者の方も、何もしないことに耐えられないでしょう。しかし、それは、穏やか
 に死ぬのを邪魔する行為なのです。
・ですから、ほとんどの医者は、「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいく姿を、
 見たことがありません。だから死ぬのにも医療の手助けが必要だなどと、言い出すので
 す。
・「死」という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。それを、医療が濃
 厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。
・世の中で、一番恐がりは医者でしょう。それは悲惨な死ばかりを目の当たりにしてきた
 せいだと思います。
・がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます。以前か
 ら「死ぬのはがんに限る」と思っていましたが、年寄りのがんの自然死、60〜70例
 を経験した今は、確信に変わりました。
・繁殖を終えた年寄りには、「がん死」が一番のお勧めです。ただし、「手遅れの幸せ」
 を満喫するためには、「がん検診」や「人間ドック」などは受けてはいけません。
・病院通いの年寄りが多いのは、私たちの同業者が、「健やかに老いなければいけない」
 と脅し続けてきたせいもあります。
・本来、年寄りは、どこか具合が悪いのが正常なのです。不具合のほとんどは老化がらみ
 ですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。
 昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。
・ところが、「年のせい」を認めようとせず、「老い」を「病」にすり替えます。なぜな
 ら、「老い」は一方通行で、その先には、「死」がありますが、病気なら回復が期待で
 きますから。
・人間は、生きものである以上、老いて死ぬという運命は免れません。最先端医療といい、
 再生医療という、所詮、「老いて死ぬ」という枠内での話です。年寄りは、あまり近づ
 かない方がいいと思います。
・あまり医療に依存しすぎず、老いには寄り添い、病には連れ添う。これが年寄りの楽に
 生きる王道だと思います。
・年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。
・「逝き方」は「生き方」なのです。今日は昨日の続きです。昨日と全く違う今日はあり
 えません。
・少し体調がすぐれなければ、すぐ「医者よ、薬よ、病院よ」と大騒ぎする人には、「自
 然死」は高望みだということになります。
 
医療が”穏やかの死”を邪魔している
・私の考える「医療の鉄則」
 ・死にゆく自然の過程を邪魔しない
 ・死にゆく人間に無用の苦痛を与えてはならない
・原因療法があるため受診した方がいい病気は、そんなに多くはありません。病気を治す
 力の中心をなすものは、本人の自然治癒力です。
・薬は援助物質であり、医療者は援助者にすぎません。風邪など原因の大部分がウイルス
 である場合は、安静、保温、栄養の下、発熱の助けを借りて自分で治すしかないのです。
 医者にかかったからといって早く治せるわけではありません。
・だいだい、日本人は医者にかかりやすいとはいえ、あまりにホイホイと病院に行きすぎ
 るのです。 
・元来、病院は「汚い」「危ない」「恐ろしい」ところです。だから、軽い病気で病院に
 行って、重い病気をお土産にもらって帰る可能性は充分にあるのです。それゆえ、本来、
 病院は”いのちがけ”で行くところなのです。
・薬は援助物質であり、力ずくで病気を追い払ってくれるわけではありません。
・それどころか、病状は早く治そうとする身体の反応、警戒サインですから、それを無闇
 に抑えるのは「自然治癒」を邪魔することになり、治るのが遅くなると考えた方がいい
 のです。ただ、よほどしんどければ、治りが遅れるのを覚悟のうえで、苦痛の軽減、病
 状の緩和のために、ごく短時間、薬を服用するのは止むを得ません。
・感染症と異なり、難病、生活習慣病は、その原因が体質や素質(遺伝子に問題)、悪い
 生活習慣、老化を多岐にわたり特定できません
・元来、化学物質である薬は異物であり、身体にいいもの、必要なものではありません。
 あくまで、利益と不利益を天秤にかけて、利益が上回ると思える時のみ使用すべきもの
 です。
・身体は病気のことはいろいろわかってきましたが、まだわからないことがたくさんあり
 ます。否、わからないことの方が多いといっていいのではないでしょうか。
・たしかに、筋肉注射や血管注射は直ちに100%体内に入り、効果の現われ方も早い。
 しかし、某気を治す主役は、薬ではありません。しかし、今も、風邪は注射一本で治る
 と思っている年寄りは結構たくさんいます。過去に、治りかけの時期に注射を打って治
 ったと勘違いした経験の持ち主なのでしょう。
・自分の身体のこと、病気のことなので、充分に納得のいくまで聞いた方がいいと思いま
 す。嫌な顔をしたり、自分を信用できないのかなどと怒鳴りつけるようなら、即刻、医
 者替えをお勧めします。なぜなら、悪い結果が出た場合、被害を蒙るのは医者ではなく、
 患者自身だからです。
・できれば、他の放射線科医や外科医の考えも聞いた方がいいでしょう。なぜなら、一度
 切り取られたり、放射線で大ヤケドを負わされた臓器は、二度と元の姿には戻らないか
 らです。最終決断は、慎重のうえにも慎重を期した方がいいと思います。
・ただ、この時、同じ大学の医局出身者は避けるように。なぜなら、世話になった先輩の
 考えに異を唱える後輩というのは考えにくいですから。
・大病院ほど信頼できるというのは、何をもって信頼できるというのか根拠が不明、ほと
 んど思い込みでしかありません。 
・今、医療過誤が表沙汰になっているのは、大学病院に多い。今まで安心と思いこんでい
 たのが、実態はそうでもないのが明らかになった形です。ただ露見したのが多いだけに、
 他の病院は安心なのかというと、そういうことでもありません。
・教授の選考基準に手術の上手、下手は入ってはいません。多くは研究論文の数と内容で
 審査をパスした研究科教授です。もちろん、手術の上手な教授もおられるでしょうが、
 それは個人の資質であって、教授だからではありません。
・名医とは何ぞや。世渡りに長けているということは首肯できますが、現在の日本に、そ
 の腕の程を保証する客観的情報はないのです。
・博士号は昔から「足の裏についた飯粒」といわれています。その意は「取らないと気持
 ちが悪いが、取っても食えない」。特に、石を投げれば医学博士にあたるといわれるぐ
 らい、この業界には多いのです。
・どんな状態でも、リハビリを徹底的にやれば、元の状態に戻れると勘違いしている向き
 が多いようです。ふつうは、いくら熱心に励んでも、3カ月から6カ月ぐらいで状態は
 固定してしまうもの。そのレベルを低下させないように心がけることは大切ですが、
 もっともっとと頑張り続けると、貴重な残り時間が、”訓練人生”になってしまいます。
 5年も10年も費やして、一所懸命にリハビリをしている人がいます。その人生を空費
 している姿は気の毒という外はありません。
・リハビリテーションは、人間が人間にとってふさわしくない状態に置かれた時、再びそ
 れにふさわしい状態に戻すことを指し、必ずしも、病前の姿への復帰を意味するわけで
 はありません。ましてや、手足の機能訓練などという、狭い考えでは決してないのです。
・医療には、やってみないと結果がどう出るかわからないという「不確実性」もあります。
 だから、医療には「絶対こうなる」「100%確実」はありえないということです。
・病気やケガを治す力の中心をなすものは、本人の「自然治癒力」です。だから、少々の
 ケガや病気は、医者にかからなくても薬を飲まずに放っておいても治ります。
・つまり、「病気やケガ」は、医者や薬が、力ずくで治せるものではないということです。
 医療者は脇役で、お手伝いするお助けマン、薬はお助け物資、器械はお助けマシーンと
 いうわけです。 
・インフルエンザ流行時に、肺炎の併発に備えて、人工呼吸器が必要と強調されました。
 しかし、人口呼吸器が肺炎を治してくれるわけではありません。呼吸機能が悪くなった
 ので、代わりに器械が補ってくれる。その間に、本人が肺炎を治して呼吸機能を回復さ
 せれば、人工呼吸器は不要になって助かります。本人に、その力が失せていれば死ぬ、
 というわけです。
・それは、昔なら、ちょっとでも臓器の具合が悪くなると手の打ちようがなかったのが、
 今は、臓器の機能がかなり低下しても、下支えができるということです。その結果、以
 前なら死んでいたものが、死ぬでもなく助かるでもなく、ただズルズルと生かされてい
 る事態が起きることにもつながっているのです。
・「新型インフルエンザワクチン接種について」という政府広報によれば、「ワクチン接
 種の効果」について、「重症化や死亡の防止には一定の効果が期待されます。ただし、
 感染を防ぐ効果は証明されておらず、接種したからといって、感染しないわけではあり
 ません」とあります。
・実際に老人ホームでは、予防接種をしていたにもかかわらず、死者の出たところもある
 のです。結局、死亡の防止といっても、ワクチンの直接作用ではなく、予防接種した人
 の身体が、どれだけワクチンに反応して、抗体という抵抗勢力をつくれるかということ
 に尽きます。
・一般には、年をとればとるほど、また、重い持病があったり、免疫を抑えるなどの特殊
 な薬を飲んでいたりするほど、この反応する力は弱くなると考えられます。したがって、
 本当に、死亡や重症化の予防ができるのか、あやしくなってきます。
・ワクチン接種は意味がないと思いながらも、世間の少数派のせいもあり、私自身は立場
 上、老人ホームに移ってからは、毎年接種し続けてきました。しかし、厚生労働省が政
 府広報で、「打ってもかかる」と認めたので、大手を振ってやめることにしました。
・このシーズン中、インフルエンザで死んだ人が204人なのに対し、予防接種後に死ん
 だ人が133人もいます。このうち、121人は60際以上なので、持病を悪化させた
 可能性もあるのではないかと思います。しかし、そのほとんどは、因果関係なしで片づ
 けられています。
・2011年、細菌性髄膜炎を予防する小児肺炎球菌ワクチンを同時接種した乳幼児7人
 が、相次いで死亡しました。これは、ワクチン後進国の汚名返上ということで、鳴り物
 入りで公費負担で導入されたものでした。そして、一時接種が見合わせられましたが、
 結局、因果関係が認められないとして再開されました。
・実際に、髄膜炎で命を落とした子が11人強、ワクチン接種後に亡くなった子が7人、
 マスコミで全く報道してくれませんが、これをどう解釈したらいいのでしょう。
・私の好きな学説に、「治療の根本は、自然治癒力を助長し、強化することにある」とい
 う「治療の四原則」があります。
 ・自然治癒の過程を妨げぬこと
 ・自然治癒を妨げているものを除くこと
 ・自然治癒力が衰えている時は、それを賦活すること
 ・自然治癒力が過剰である時には、それを適度に弱めること
・ふつう熱が出ると、これは大変だと目の敵にして下げようとします。しかし、熱の高さ
 と重症とは関係ありませんし、頭がおかしくなることもありません。高い熱が出た場合、
 頭のおかしくなる脳炎や脳膜炎が混じっていることもあるというにすぎません。
・細菌やウイルスの感染時の発熱は、敵の力を弱めて早く治そうとする人体の反応と考え
 るべきです。ですから、解熱剤を使って無闇に熱を下げるのは利敵行為になり、かえっ
 て治りが遅れると考えなくてはいけません。
・しんどいのは熱のせいではなく、熱の出る原因のせいなのです。熱は原因ではなく結果
 です。熱を下げても、原因がなくなるわけではありません。熱でしんどいといっても、
 細菌やウイルスの方がもっとしんどいはずです。
・ただし、熱に弱い性質の人もいます。熱を下げてやれば食欲も出るという人は、治りが
 多少遅くなるのを覚悟のうえで、解熱剤を使うのもやむを得ないでしょう。
・平熱であっても食欲がなく、ぐったりして、普通と違って絶えずうとうとしているよう
 なら、かなり重症と考えなくてはいけません。
・鼻汁や咳、嘔吐、下痢なども同様で、治癒に向けての身体の正常な反応と考えるべきか
 と思います。つまり、鼻汁は、ウイルスや細菌、花粉などの対外異物、体内に生じた炎
 症産物を対外へ洗い流す働きをし、咳も体外異物や炎症産物である痰を排出し、気道を
 浄化する作用をし、また、嘔吐や下痢は、体内に入った悪いものを早く体外へ出してし
 まおうとする働きと考えていいと思います。ただ、あまりに頻繁な嘔吐や下痢は、二次
 的に脱水を生じますので、水分補給に気をつけなくてはなりません。
・痛みも、がんや耐えがたい内蔵の痛みでなければ、これを鎮めようと思ってはいけませ
 ん。特に、手足や腰などを動かすときの痛みは、動かしてくれるなという身体の悲鳴、
 警告のサインですから、それに従うべきです。
・ケガをして傷をつくると、ジクジクした汁が出ます。以前は消毒して、その汁をカーゼ
 で吸い取るのが治療の主流でした。しかし、今は、あの汁の中に傷を治すための有効成
 分が含まれていることがわかり、そして消毒も組織を痛めることが判明し、洗滌に変わ
 りました。つまり、消毒しない、乾かさないで湿ったままにしておく湿潤療法が、自然
 の理に適っている、ということになりました。
・もともと本人に備わっている回復力と体内環境を一定に保とうとする恒常性を、側面か
 ら援助する方法を治療といいます。
 ・原因療法 
   細菌感染に対する抗生剤のように、その原因に対して直接働きかけをする治療法で
   す。
 ・補充療法
   例えば、糖尿病に対するインスリンというホルモン、甲状腺摘出手術後の甲状腺ホ
   ルモンなどをいいます。
 ・対症療法
   症状を和らげたり、苦痛を緩和したりすることで、間接的に治癒に影響を与えよう
   ということです。つまり、症状や苦痛のため安静に保てなかったり、食欲が極端に
   減退すれば、それだけ自然治癒力に影響が出るわけですから、それを防ぐ意味で、
   消極的治癒促進になるというわけです。
   胆石や尿道結石の除去手術も、この範疇に入れていいと思われます。さらに、高血
   圧や血糖のコントロールも、将来、余病に発生の防止ですから、ここに入ると思わ
   れます。
・死に際は、何らかの医療措置も行なわなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな状
 態になるということです。これが、自然のしくみです。自然はそんなに苛酷ではないの
 です。
・ところが、ここ30〜40年、死にかけるとすぐに病院へ行くようになるなど、様相が
 一変しました。病院は、できるだけのことをして延命を図るのが使命です。しかし「死」
 を、止めたり、治したりすることはできません。しかるに、治せない「死」に対してパ
 ターン化した医療措置を行ないます。胃瘻によって栄養を与えたり、脱水なら点滴注
 射で水分補給を、貧血であれば輸血を、小便が出なければ利尿剤を、血圧が下がれば昇
 圧剤というようなことです。これらは、せっかく自然が用意してくれている、ぼんやり
 として不安も恐ろしさも寂しさも感じない幸せムードの中で死んでいける過程を、ぶち
 壊しているのです。
・年配の葬儀社の方に聞くと、「昔は年寄りの納棺は、枯れて亡くなっているので楽だっ
 た。しかし、今、病院で亡くなった人の遺体は重くて大変だ」といいます。最後の最後
 まで、点滴づけ、水づけですから、いわば”溺死”状態。重いのは当然といわなければな
 りません。
・がんと異なり、年寄りの”枯れる”時期の見当は、つけにくいことは事実です。でも、た
 くさんの”自然死”の年寄りを見てきますと、何となくわかるように思います。
・死に際の苦しみには医療による”虐待”ばかりではありません。介護による”拷問”もある
 のです。それも、いい看取りを行なっていると自負のある介護施設で起こりがちなので
 す。
・例えば、死が迫ってくると、当然、食欲は落ちてきます。すると、家族はカロリーの高
 いものを食べさせようと努力します。しかし、少量でカロリーの高いものの、口あたり
 はどうなのでしょうか。また、少量で高カロリーのものといえば、脂肪の含有量が多く、
 油っこいのではないでしょうか。
・健康人でも、食欲がない時に油っぽいものは、なかなか口にできないように思われます。
 それを、無理やり死にかけの病人の口の中に押し込むのは、どうなのでしょう。
・しかし、気が弱い人は、介護職員にピタリと横にはりつかれて、次から次へと口の中に
 放り込まれるわけですから、仕方なしに飲み込むでしょう。少しでもカロリーの高いも
 のを食べてもらおうという優しい心遣いが裏目に出て、ひどい苦しみを与えることにな
 るのです。
・死に際になると体力も衰えてきますので、椅子にまともに坐ることもできません。そこ
 で、食事を介助する際には、リクライニングの椅子を使います。坐っているだけでもし
 んどいと思うのですが、そのうえ、30分も1時間もかけて、一匙、二匙とゆっくりと
 口の中へ押し込みます。目を閉じたまま、おいしそうな顔をせず、されるがままになっ
 ています。まともな人間なら、もういいからベッドに寝かせてくれと悲鳴をあげるでし
 ょう。
・また、この時期に家族から、「家にいた時は風呂好きだったので、ぜひ入浴させてやっ
 てほしい」との要望が出ることがあります。現場の看護職員は真面目で優しいですから、
 何とか希望を叶えようと頑張ります。そして風呂場から出たヨレヨレの死にかけの年寄
 りに対して、「どう、気持ちよかったでしょう?」と。私なんかですと、「冗談じゃね
 ェ!」って思うんですけれども。
・無理やり飲ませたり食べさせたりせず、穏やかな”自然死”コースにのせてやるのが本当
 に思いやりのある、いい”看取り”のはずです。
・今や、誰にも邪魔されず、「飢餓”「脱水症状」という、穏やかで安らかな”自然死”コ
 ースを辿れるのは、「孤独死」が「野垂死」しかないというのが現実です。

「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」
・自然死の実体は、「飢餓」「脱水」です。一般に、「飢餓」「脱水」といえば、非常に
 悲惨に響きます。しかし、同じ「飢餓」「脱水」といっても、死に際のそれは、違うの
 です。いのちの火が消えかかっていますから、腹もへらない、のども渇かないのです。
・人間は、生きて行くためには飲み食いしなくてはなりません。これは、あたりまえのこ
 とです。ところが、生命力が衰えてくると、その必要性がなくなるのです。  
・「飢餓」では、脳内にモルヒネ様物資が分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに
 満たされるといいます。また「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下
  がって、ぼんやりとした状態になります。
・それから死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素を
 とり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなると
 いうことは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出され
 ずに体内に溜まることを意味します。
・酸欠状態では、脳内にモルヒネ様物資が分泌されるといわれています。柔道に絞め技と
 いうのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっていま
 す。酸欠状態でモルヒネ様物資が出ている証拠だと思います。一方、炭酸ガスには麻酔
 作用があり、これも死の苦しみを防いでくれています。
・このように、死というのは自然の営みですから、そんなに苛酷ではないのです。痛みや
 苦しみもなく、不安や恐怖や寂しさもなく、まどろみのうちに、この世からあの世へ移
 行することだと思います。年寄りの”老衰死”には、このような特権が与えられているの
 です。だから、無理をして傍についている必要はありません。大声で呼びかけたり、身
 体をゆすったり、手を握っているなど無用です。”そっとしておく”のが一番の思いやり
 です。
・家族の中には、胃瘻は延命措置ではないと思っている場合が多々あります。もっとも、
 医療者の中にも、胃瘻や鼻チューブ栄養は医学的治療ではなく食事形態の一つであって、
 標準的ケアであり、議論するものではないと考える者がいることを思えば、素人がそう
 受け取るのも無理のない一面があります。したがって、このような医療者にあたった場
 合、家族が胃瘻を拒否したりすれば、「しなければ餓死させることになるが、それでも
 いいのか」、さらには「殺人者になりたいのか」などという脅しが入ることになります。
・いのちの火が消えかかっている状態での胃瘻は、回復させることも、生活の質の改善も
 期待できません。のみならず、身体がいらないといっている状況下で、無理に押し込む
 わけですから、かなりの苦痛と負担を強いることになります。
・胃瘻が実施される理由としては、医療者側の、できることはすべてしなければならない
 という使命感、また、家族側の、しないと餓死させることになる、見殺しにはできない
 という罪の意識があると思われます。
・胃瘻をどうするかという話し合いの中で、本人がどうしたいか、どうしたら本人が幸せ
 に感じるかに焦点をおいて考えるよう、ご家族にお願いします。すると、いや、本人は
 どうせ何もわからないのだから、そんなことは問題ではない。要は、後に残された人間
 がいかに満足するか、後悔しないかが大事なのだと、非常に筋の通った説得力のある答
 えを頂戴することが時にはあります。そこまで、言い切られると、「へへえ、わかりま
 したでござぇますだ、お代官さま」と、ひれ伏すしかありません。
・点滴注射もせず、口から一滴の水も入らなくなった場合、亡くなるまでの日数がどれく
 らいかといいますと、7日から10日ぐらいまでが多いようです。排尿は、亡くなるま
 での日数が短ければ当日まである場合もありますが、少なくとも2〜3日前まではある
 ようです。
・今、私たち日本人は、自然な出来事である「死」を、日常生活の中からほとんど排除し
 て暮らしています。ですから当然、90歳代の親が死ぬことが、70歳前後の、その子
 供たちの念頭にない、ということが生じます。自分たちだって、いつ死んでもおかしく
 ない年齢に達しているにもかかわらず、です。
・発達したといわれる近代医学であっても、延命治療で「死」を少しばかり先送りするこ
 とはできても、回避できるような力はありません。治せない「死」に対し、治すための
 パターン化した医療を行なうわけですから、わずかばかりの延命と引き換えに、苦痛を
 強いられることになります。まさに、「できるだけの手を尽くす」が、「できる限り苦
 しめて、たっぷり地獄を味わわせる」とほぼ同義になっているといっても、言い過ぎで
 はない状況を呈しています。
・これを防ぐにはどうしたらいいでしょうか。それは、親が一定の年齢に達したら、「死」
 を頭の片隅において、かかわりを持つことだと思います、つまり、人間はいつかは死ぬ
 存在ですから、明日死なれても後悔の少ないかかわり方をする。そして、その日が車で
 それを続けるということです
・フランスでは「老人医療の基本は、本陣が自力で食事を嚥下できなくなったら、医師の
 仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」といわれているそうです。
・残される人間が、自分たちの辛さ軽減のために、あるいは自己満足のために死にゆく人
 間に余計な負担を強い、無用な苦痛を味わわせてはなりません。医療をそんなふうに利
 用してはいかんのです。
・実は、寝たままウンコするというのは、大変な難行、苦行なのです。寝た状態だと直腸
 が肛門より低い位置にあります。ですからウンコを肛門から外へ出すときには、堤防を
 乗り越える状況になり、非常に大変なのです。
・食事をする時の姿勢も、ベッドに寄りかかって食べるのは、よくありません。自然の理
 に反します。私たちが飲み食いする場合、必ず前屈みの姿勢をとります。決してそっく
 り返ったりはしません。健常者でも、そっくり返って飲み食いすれば、誤って気道に入
 ってむせることがあるくらいです。
・普段、私たちの体内からは、自分の身を守るため、あるいは生き続けるために、いろい
 ろなサインが出されているはずなのです。ところが、ここ30〜40年、近代医学の発
 達に幻惑され、また、医療が非常に手軽に利用できる状況が実現されました。そして、
 この内部から発せられるサインをキャッチする能力を他人(医者)任せにした結果、極
 度に衰退させてしまいました。そのために、多くの人が「死に時」を逸し、病院でだら
 だらと生かされ、挙句、悲惨で非人間的な最期を迎えるようになってしまいました。
 そこで、この働かなくなった、サインのキャッチ能力の錆落としをしなくてはなりませ
 ん。
・では、錆落としをするには、どうしたらいいのでしょうか。少々のことは医者にかから
 ず、自分で様子をみることです。発熱や咳や下痢などの症状も、身体が治そうとしてい
 る反応の一環です。薬を飲まないと病気は治らないなどという、とんでもない考えは捨
 てましょう。
・といっても、少し鼻水が出たり、ちょっと下痢しただけで、医者よ薬よと大騒ぎしてい
 る実情をみると、至難のことと考えられます。そこで、現実的な妥協案として、医者に
 かかって薬をもらうのはやむを得ないとしましょう。そこで私からの提案ですが、もら
 った薬を飲まずに、できるだけ自然の経過をみるようにしましょう。薬は手元にあって、
 いつでも服用できるわけですから、できる限り引き延ばしましょう。
・年をとれば、腰や膝も痛くなるでしょう。そこで年寄りは、毎日電気をかけにいきます。
 ところが、帰りがけに冷湿布を近所に配って歩くんじゃないかと思うほど、しこたまも
 らうことにあるようです。こういう年寄りが多くなると、若者の負担は増える一方。た
 まったもんじゃありません。
・苦痛を和らげることや、症状を軽くすることは、少しでも楽に生きるためには必要なこ
 とです。そのために医療を利用するのは、やむを得ないでしょう。
・動かしたら痛いというのは、そういう動かし方はしてくれるなという、身体のサインで
 す。動かし方に工夫がいるのです。昔の人は、皆そうして折り合いをつけていたのです。
 痛み止めを飲んで、注射をして動かすなどというのは、愚の骨頂です。
・年をとって、充分に老化していることを認めようとせず、何とか以前のようになりたい
 と、欲をかくのもよくありません。別に、老けこめといっているわけではありません。
 老いを認めましょう。”年のせい”と思いましょう。その方が、楽に生きられます。
・在宅死には、在宅医療死と在宅自然死があります。現在の在宅死のほとんどは、病院で
 目一杯医療を行なった末、これ以上の改善が見込めないということで、在宅へ移行する
 ケースです。したがって、当然、病院で行なわれていた医療措置、延命措置は引き継ぐ
 形になります。そして死ぬまで医療が濃厚に関与するので、私はこれを、「在宅医療死」
 と呼んでいます。
・2008年の厚生労働省の調査によれば、「延命治療を中止して、自然に死期を迎える」
 ことを希望する人が約3割おり、10年前の2倍に増えているといいます。一方、「最
 後まで自宅で」とする人は1割程度といいます。
・それを実現困難と考える理由の大きなものに、「介護してくれる家族に負担がかかる」
 と「病状が急減した時の対応に不安がある」そうです。だから、在宅で「看取らせる」
 ためには、「信念」と「覚悟」が必要なのです。
・できるだけ家族に負担をかけないためには、自分でできることは精一杯自分ですること
 です。 
・日本人は、病気や障害を理由に、甘ったれで依存しがちです。また、それを許す傾向に
 あいます。こういうことをしていると、欲しくない時にも、無理やり口の中に押し込ま
 れるという”拷問”にかけられることになるのです。
・できるだけ、痛いの痒いのしんどいのは口に出さない、態度にも表さないことです。こ
 れは一朝一夕にはできません。普段から、死ぬ時のためにトレーニングを積んでおく必
 要があります。「症状が急変した時の対応の不安」に関しては、大丈夫です。あとは死
 ぬだけですから、何の不安もありません。多少、死期が早まるだけの話です。極限状態
 で、脳内モルヒネ様物資が出るという話は信じていいと思います。
・救急車で病院へ運ばれたりすると、死ぬのを引き延ばされて、その間”地獄の責苦”を
 味わうこととなるでしょう。また、駆けつけた往診医が妙な手出しをすると、せっかく
 穏やかに死ねるチャンスを逸することになります。
・慌てず、見守りましょう。看取り期に入れば、通常とは異なる状態がいろいろ見られま
 す。往診医や訪問看護師を呼びましょう。医者は何かしようとするかもしれませんから、
 呼ぶのは息を引き取ってからにしましょう。

がんは完全放置しれば痛まない
・なぜ、死ぬのはがんがいいかについては、2つの理由があります。
・一つは、周囲に死にゆく姿を見せるのが、生まれた人間の最後に務めと考えているから
 です。しかも、じわじわ弱るのが趣味ですから、がんは最適なのです。現在、圧倒的に
 多い、その過程のみえない病院死は、非常にもったない死です。
・二つ目は、「救急車を呼ばない、乗らない、入院しない」をモットーにしていますので、
 比較的最後まで意識清明で意思表示可能ながんは、願ってもないものだからです。
・がん死は、死刑囚である私たちに、近未来の確実な執行日を約束してくれます。そのた
 め、きちんと身辺整理ができ、お世話になった人たちにちゃんとお礼やお別れがいえる。
 得がたい死に方だと思います。
・しかし日本人には、がん死はあまり歓迎されません。がんイコール強烈に痛むと連想さ
 れるからです。けれども、すべてのがんが強烈に痛むわけではありません。
・がんで痛みが出るのは、放射線を浴びせたり、”猛毒”の抗がん剤で中途半端に痛めつけ
 たりするせいではないか。完全に根絶やしにできるならともかく、残党が存在する以上、
 身内を殺された恨みで、復讐に出てもあたりまえと思っていました。今はそれが、確信
 に変わっています。
・がんを防ぐための十二カ条
 ・バランスのとれた栄養をとる
 ・毎日、変化のある食生活を
 ・食べ過ぎをさけ、脂肪はひかえめに
 ・お酒はほどほどに
 ・たばこは吸わないように
 ・食べものから適量のビタミンと繊維質のものを多くとる
 ・塩辛いものは少なめに、あまり熱いものは冷ましてから
 ・焦げた部分はさける
 ・カビの生えたものに注意
 ・日光に当たりすぎない
 ・適度にスポーツをする
 ・身体を清潔に
・「がん検診」は身体によくないと、定年退職を機に”検診断ち”をして、晴れ晴れとし
 た気分で過ごしている知り合いが何人もいます。
・精密検査で胃に穴が開いた、長に穴が開いたなどという話も聞く。
・「がん検診」は、「早期発見」「早期治療」によって救命するという利益はあります。
 しかし、一方、不利益があるのもたしかです。
 ・検診によって100%がんが見つけるわけではないこと
 ・過剰診断により、過剰な検査や治療を招くことがある
 ・心理的な影響。精密検査が必要ということで、不安を感じる場合があること
 ・検査に偶発症がある。内視鏡検査には出血や穴が開くなどの可能性がある
 ・放射線被爆の問題がある。
・感度ばかりを追求しすぎると、がんでないものをがんと疑う過剰診断が生じ、勢い、精
 密検査が増えることになります。 
・精密検査には、一定の割合で出血や胃、腸に穴が開くなどの偶発事故が起こります。
・がんは老化ですから、高齢化が進めば進むほど、がんで死ぬ人間が増えるのはあたりま
 えです。超高齢化社会では、全員ががんで死んでも、不思議ではありません。
・繁殖を終えたら死ぬというのが、自然界の”掟”です。生きものとしての賞味期限の切れ
 た年寄りのがんは、「もう役目はすんだから、還ってもいいですよ」という、”あの世か
 らのお迎えの使者”と考えていいはずです。
・日本人は死のことを考えておらず、死を前提にして生きてはいないので、「治らないが
 ん」は受け入れにくいため、”難民”化しやすいということだと思います。つまり、もう
 打つ手がないといわれた時に、まだ、何とかしてくれる医者がどこかにいるのではない
 かと右往左往するというわけです。
・がんは老化であり、また、「がん検診」は、早すぎる死を回避する手段だと申しました。
 とするなら、繁殖を終えて、生きものとしての賞味期限の切れた「還り」の途上にある
 年寄りには、もはや、早すぎる死というものは存在しないことになります。
・ならば、あまり「がん検診」などに近寄らない方が得策だといえます。これまで、70
 歳前後の何人もの有名人が、よせばいいのに、健康であることの証明欲しさに「人間ド
 ック」を受けてがんが見つかり、目一杯の血みどろの闘いを挑んだ末、見事に玉砕し、
 果てています。自覚症状は、全くなかったでしょうから、「人間ドック」など受けてさ
 えいなければ、まだ一線で活躍していただろうと思うと、残念のひとことに尽きます。
・よしんば、早期がんといわれて取り切れた場合でも、その後は、一定期間ごとに苦痛を
 伴う検査を繰り返さなくてはなりません。また、無事に5年間経った後でも、生きてい
 る間はずっと「再発」に怯え続けなければなりません。
・この心理的ストレスは、相当なものと思われます。「早期」だからよかった、安心とい
 うことでは必ずしもないようです。しかも、検査の賞味期限は当日限りです。偶然、見
 つからなかっただけということも考えられます。生きている間は、こんなことがずっと
 続くわけですから、これを「早期発見の不幸」といいます。
・がんは痛むといいますが、それならどうしてもっと早く見つからないのでしょう。不思
 議でなりません。症状のないまま、ふつうの生活をしていたら食が細り、やせてきて顔
 色も悪いので、周囲が心配して無理に検査を受けさせたら、手遅れのがんだった。そん
 な話をよく耳にします。なぜ、そんなに進行するまで病院に行かないのでしょうか。痛
 まないからというのが、その答えとしかいいようがありません。
・一見、手遅れの発見は、不幸の極みのようにうつります。しかし、考えてみてください。
 それまで何の屈託もなく、自由に充実した毎日が送られていたわけです。痛みが出なけ
 れば、今後も体力が落ちて自由に動くことがむずかしくなるまで、ふつうの生活をすれ
 ばいいのです。
・長生きも結構ですが、ただ長生きすればいいというものでもないでしょう。どういう状
 態で生きるかが重要だと思うのです。私自身はぼけたり、いつ死ねるかわからないまま
 の寝たきりや植物状態で生かされているのは、願い下げです。
・繁殖を終えるまで生かしてもらったのですから、もう充分ではないですか。人生の線引
 きを思い通りにできるかもしれない「がん死」は最高だと思います。
・がんの治療は、完全に根絶やしにできるものでなければ、意味がありません。残党が存
 在すれば、それが増殖してしまいます。その意味では、手術と放射線治療だけが、根絶
 やしにすることのできる治療法といえます。もっとも、抗がん剤も”猛毒”ですから、
 がんを消そうと思えばできないわけではありません。ただ、がんが消える前に、いのち
 が先に消えてしまいますので、実用的ではないということです。
・抗がん剤は、ほとんど「毒薬」か「劇薬」指定ですから、当然、強い副作用もあると覚
 悟しなければなりません。なぜなら、がんだけを攻撃するものではなく、まともな細胞
 や組織もやられるわけですから。
・抗がん剤で治るのは、血液のがんや、塊になるものでは精巣がん、子宮絨毛がんぐらい
 のものといわれます。また、たとえ、数カ月の延命効果はあったとしても、副作用が強
 烈でしょうから、ヨレヨレの状態になります。結果的に苦しむ期間が延びただけという
 のでは、あまりにも悲惨すぎるのではないでしょうか。
・一般にホスピスの中心は、肉体的疼痛の緩和です。なぜなら強烈な肉体的疼痛は、人格
 を崩壊させて、日常生活を送ることを不可能にするからです。しかし、老人ホームで、
 60〜70名の繁殖を終えた年寄りのがん患者をみていますと、がんに対して何ら攻撃
 的治療をしない場合、まったく痛みがないのです。
・緩和ケアの考え方が、がんの早期からとり入れられるようになったとはいえ、現実問題
 として、がんに対する攻撃的治療をやりたい放題やった挙句、刀折れ矢尽きた果てに到
 達する場所が、ホスピスになっているのではないでしょうか。いわば”尻ぬぐい施設”で
 す。
・死にかけの人間が医者にすがるのも、あまり感心しません。なぜなら、いかに生きるか、
 いかに死ぬかは人生の問題で、医療で解決できる問題ではないからです。
・一般に、医者は、医学の勉強をして医師免許を持っています。しかし、特別に人生勉強
 をしてきたわけではありませんし、人生修業もしていません。また、さしたる人生経験
 もありません。そんな医者に、いかに死ぬかという、むずかしい人生問題をつきつける
 のは可哀相すぎます。医者には荷が重すぎて、逃げ回るしかありません。
・私のような臍曲がりは、災害とか何かちょっと事件があると、すぐ「心のケア」が持出
 されることに、かなりの違和感を持っています。
 災害や身近な人の突然の訃報に遭遇すれば、気持ちが不安手になったり、落ち込んだり
 するのは、正常な反応です。しかし、本来、苦悩は自分で悩んで苦しんで、時間をかけ
 て乗り越えていくしかないものなのではないでしょうか。誰かが代って苦悩して解決し
 てくれるわけではありません。むしろ当座は、そっとしておいてやるのが、一番の思い
 やりではないかと思います。
・初めから、本人が誰かい何かをしてもらいたくて、自分の足で立とうとせずにぐにゃぐ
 にゃしていたのでは、両側から無理に抱え上げようとしても、どうにもなるものではあ
 りません。今、老いも若きも、病気は医者に治してもらおう、苦悩は誰かに解決しても
 らおうという、この手のひ弱な人間が日本中に溢れています。
・「生き死に」は、 きちんと向き合って、自分が引き受けるしかない事柄ですから、誰
 かに聞いてもらったら楽になるというレベルではないと思うのです。

自分の死について考えると、生き方が変わる
・救急車に乗ることは、延命措置も含めて現在の医療でできることは何でもしてほしいと
 いう、無言の意思表示なのです。ですから、それを覚悟のうえで、乗らなくてはなりま
 せん。たとえ呼んだ時に意識不明でも、到着した時点で意識が戻り、意思表示可能なら、
 断ってもいいわけです。
・各種の「エンディング・ノート」を繙いてみて気になったのは、「延命治療」の項です。
 ここでは、たいてい、日本尊厳死協会の雛形を使い、「いたずらに死期を引き延ばすた
 めの延命措置はいっさいおことわり」を採用しています。内容の具体性が必要です。医
 療現場では、これは実用的ではないのです。
・「延命」の受け取り方が、人によって違うということです。例えば、人工呼吸器の装着
 は延命治療と考えるが、栄養を与える経管栄養は延命治療とは思わないなどです。
・ですから、「人工呼吸器」「経管栄養」「人工透析」などと、具体的な医療措置に対す
 る個別の意思表示が必要なのです。
・「自分の死」を考えるのは、「死に方」を考えるのではなく、死ぬまでの「生き方」を
 考えようということなのです。
・自分の死を考えるための具体的な行動とは、
 ・遺影を撮る
 ・遺言を認める
 ・献体、臓器提供の手続きをする
 ・墓地、霊園を手に入れる
 ・事あるごとに家族や周囲と「死」について語る
 ・物を整理する
 などです。
・「事前指示書」は、意識がなくなったり、低下したり、あるいは重いぼけで正常な判断
 力が消失した場合に、どのような医療サービスを受けたいのか、受けたくないのかを、
 意識清明で判断力が正常な時に表明しておくものです。
・作成するに際しては、家族あるいは代理人となる知人も同席して、一つひとつの医療措
 置について、医師から詳しく説明を受け、充分に内容を理解しておく必要があります。
 また、人間は気が変わる生きものです。状態が変化すれば、その都度見直すようにしま
 しょう。何度書き直しても構いません。最も新しい日付のものが有効です。
・事前指示の項目は、次のようなものです。
 ・心肺蘇生(心臓マッサージ、電気ショック、気管内挿管など)
 ・気管切開
 ・人工呼吸器
 ・強制人工栄養(鼻チューブ栄養、胃瘻による栄養など)
 ・水分の補給(抹消静脈輪液、大量皮下注射)
 ・人工透析
 ・輸血
 ・強力な抗生物資の使用
 ・その他
・「健康」には振り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける。
・長寿社会といわれますが、いいことばかりではありません。一面、弱ってもなかなか死
 ねない、死なせてもらえない”長寿地獄社会”でもあります。
・身体がついていけないにもかかわらず、気持ちだけはいつまでも若く、無理に気持ちに
 身体を合わせようとするので不都合が生じます。本当は、身体に気持ちを合わせるよう
 にすれば、ずっと楽に生きられるはずなのですが。
・生きものは繁殖を終えれば死ぬというのが、自然界の”掟”です。ところが、人間は、食
 料事情がよくなったこと、衛生環境が改善されたこと、医学の発達などが相俟って、繁
 殖を終えてもいきものとしての賞味期限が切れてからも、うん十年生きるようになりま
 した。 
・基本的には、「老い」には寄り添ってこだわらず、「病」には連れ添ってとらわれず、
 「健康」には振り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がけるこ
 とが大切です。
・見えること、また聞えること、噛めること、飲み込めること、坐れる、立てる、歩ける、
 手を動かして鼻をほじくれる、お尻を拭ける、小便が出る、ウンコが出ることなど、実
 は、あたりまえではないのです。病んで初めて健康のありがたみがわかり、不運、不幸
 に見舞われて初めて、日常の平凡さのありがたさを感じるといわれます。
・現在の日本人は若さにこだわり、「年のせい」を嫌って認めようとせず、発達したとい
 われる近代医療に角に期待を持ち、老いを「病」にすり替えています。
・問題は、健康は、人生を豊かに生きるための手段であるはずなのに、それが目的になっ
 てしまっている点にあります。本来、「健康は、こういう生き方をするために、この程
 度必要」というものでしょう。それが「生き方」もないのに、「健康」だけを追い求め
 ることに、どれほどの意味があるのでしょう。
・生活習慣病の特徴は、「治らない」「治せない」「予防できない」「すぐには死なない」
 です。  
・うつる病気は、原則、私たちの身体の外にあります。それが体内に侵入してきた時に、
 闘って負けると発病します。したがって、この敵を駆逐、撃退できれば、元の平和な状
 態に戻るわけですから、治ったということになります。
・それに引き換え、うつらない生活習慣病では、その原因が、ご先祖さんから受け継いだ
 糖尿病になりやすい素質、高血圧になりやすい体質、それにあまり運動もせずにたらふ
 く食べる食習慣、塩辛いもの好きなどという悪い生活習慣、さらに老化もからんで、
 40歳過ぎぐらいから発症してくる病気です。これは、いってみれば内から出る病気で
 す。
・したがって、これを排除したり、撲滅したりすることは叶いません。ならば治そうと思
 わず、治らないものなら治らなくてもいいと明らめ、上手におつき合いすることが肝要
 です。
・専門医は病気、臓器中心主義ですから医療優先で、患者の価値観、人生観、年齢や生活
 背景などは、いっさい考慮してくれません。
・一般的に、年寄りは、複数の臓器の不具合がありますから、例えば、咳や息切れがする
 ので呼吸器科、血圧が高いので循環器科、胃腸が具合がよくないので消化器科、腰や膝
 も痛むので整形外科へというように、複数の専門医に診てもらうことになります。その
 結果、必然的に服用する薬が増え、15種類にも20種類にもなり、食後に薬の一気呑
 みをしなくてはならない仕儀になります。
・基本的に、薬は化学物資であり、身体にとっては異物です。身体にとって絶対的に必要
 なものではありません。薬同士が影響し合う相互作用の問題もあります。優先順位をつ
 けて、できるだけ薬の数は減らした方がいいと思います。
・これができるのは、身近なところにいて、全人的に診る家庭医です。常に、家庭医を主
 治医にし、症状が変化して微妙な匙加減が必要になった時のみ、紹介状を持って専門医
 を受診すればいいのです。
・年をとればどこかに故障がでるのは、あたりまえです。ですから、繁殖を終えて生きも
 のとしての賞味期限の切れたわが身も顧みず、むやみに「健診」や「人間ドック」を受
 けて、病気探しをしてはいけません。医者の餌食になるだけです。
・人生、しらない方が幸せということもあり、知ったことで患者に仕立て上げられ、暗い
 人生を過ごさなければならないことも考えられます。
・詳しい検査をすれば、原因がわかり、何とかなるのではないかと錯覚し、整備の整った
 大学病院、大病院へ行きたがる、気の毒な人たちをたくさん見受けます。いくら病気に
 ついて詳細にわかったところで、それを好転させる手立てが存在しなければ、大した意
 味はないことになります。
・精密検査には、危険なもの、苦痛を伴うもの、恥ずかしさを辛抱しなければならないも
 のなど、いろいろあります。そこで、考えなくてはならないのは、何のために精密検査
 をするか。検査結果を踏まえ、事態を好転させる治療法があるのかどうか、だと思いま
 す。 
・「病気には安静」というのが、日本人の常識です。しかし、年寄りを安静にさせすぎま
 すと、二次被害が起きます。具体的にいいますと、骨や筋肉がやせたり、関節が固まっ
 たり、肺や心臓の働きが低下して、ちょっと身動きをしても動悸や息切れが起こる、ま
 た、精神活動も低下してぼけたり、ぼけていたのが一層進行したりすることを指します。
・平均年齢が85歳から90歳という、特別養護老人ホームの入居者が、一カ月も入院し
 て帰ってくると、手足の動きが悪くなり、歩いていたものが立つことさえままならなく
 なっていたり、ぼおってして全く覇気の失せた、これがあの人かと思うほど変わり果て
 た姿になるのが常です。
・巷間、問題にさえる「安楽死」「尊厳死」は、どうも「死」の部分だけを強調している
 気がしてなりません。大事なのは、死ぬまでの「生き方」なのです。
・今日は昨日の続きです。昨日と全く違う今日は、ありえません。今までいい加減に生き
 てきた人間が、死ぬ時だけきちんと、というわけにはいきません。
・もちろん、症状軽減のため、医療を利用するのはいいでしょう。しかし、医療には、若
 返らせることもできず、死にことも防げないという「限界」が厳然としてあるのです。
 今後どんなに医療が発達しようとも、”老いて死ぬ”という大枠は、どうすることもでき
 ないでしょう。大事なのは「今」なのです。今の生き方、今の周囲へのかかわり方、今
 の医療の利用の仕方が、死の場面に反映されるのです。