ノルウェイの森 :村上春樹

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この作品は、今から35年前の1987年に刊行されたもので、ベストセラーとなり村上
春樹ブームのきっかけになったと言われているようだ。
私は、ちょっとヘソ曲がりで、ベストセラー小説はあまり読まないのだが、一度、村上春
樹の作品を読んでみたくなり、代表作と言われるこの作品を読んでみた。
ベストセラー作品だけあって、とにかく読みやすく、淡々と物語が流れていく感じで、す
いすい読み進むことができる。この読みやすさが、人気の理由の一つなのだろうと思った。
それからもう一つの特徴だと感じたのは、とにかくやたらに「寝る」とか「セックス」や
「マスターベーション」などというような刺戟的な言葉が連発されていることだ。
レイコさんという女性の身の上話も、非常に興味深い内容で、惹きつけられた。現実にあ
りそうな話でもあるが、その一方で、この話に登場するレスビアンの女子中学生の話は、
かなりの部分はあきらかに恣意的な作り話のように感じた。
この作品は恋愛小説に分類されるようだが、私にはなんだか「性愛小説」のようにも思え
た。しかし、このあたりも人気の理由の一つなのかもしれない。

さらにもう一つの特徴は、自殺者が多く出て来ることだ。それも自殺の理由がよくわから
ない自殺だ。主人公の高校時代の友人キズキの自殺。主人公の恋人の直子のお姉さんの自
殺。寮の先輩・永沢の恋人ハツミさんの自殺。そして直子の自殺と。やたら自殺する人が
登場する。このようなショッキングな自殺が連続するのも、人気の理由の一つなのかもし
れない。
ところで、直子という女性は、どうして自殺したんだろうか。精神を病んている自分の将
来を悲観しての自殺なのだろうか。それとも自分が不感症であることを悲観したのだろう
か。私にはいまひとつわからなかった。

この作品は、主人公が学生だった1960年代を回想する内容となっている。当時は、学
生運動が盛んな時代だったのだが、主人公は、いわゆるノンポリ学生で、本ばかり読んで
毎日を送るマジメな学生のようだったが、どういうわけか、女性にはモテたようだ。
あの時代はまた、「性の解放」の時代だったとも言われるが、あの時代の学生は、ほんと
にこの作品のようにセックスに対して奔放だったのだろうか。ちょっと驚かされた。

この作品を読み終えて感じたのは、この作品に登場する人物のほとんどが、どことなく平衡
感覚が少し歪んている感じで、なにが普通でなにが普通ではないのか、なんだかわからなく
なってしまうような感覚におそわれた。1960年代という時代は、社会全体がそういうよ
うにすこし歪んだ社会だったのだと、この作品の作者は言いたかったのだろうか。

過去に読んだ1960年代の学生運動・性の解放に関連した本:
60年安保闘争の真実 あの闘争は何だったのか
無伴奏


第一章
・彼女は僕に野井戸の話をしていたんだ。そんな井戸が本当に存在したのかどうか、僕に
 はわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったの
 かもしれない。でも、直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕はその井戸の姿な
 しには草原の風景を思い出すことができなくなってしまった。
・「それは本当に、本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女はと
 きどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。
 「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かに
 あることは確かなんだけれど」
・「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅
 法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたに
 くっついている限り、私も井戸には落ちないの」
・直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の
 目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦
 を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それか
 らから彼女は背伸びをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまう
 くらいあたたかくて素敵な仕草だった。
・「誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなって、そんなことは不可能だからよ。もし
 よ、もし私があなたと結婚したとするわね。あなたは会社につとめるわね。するとあな
 たが会社に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?あなたが出張に行って
 いるあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわっ
 てるの?そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう?そ
 してあなたはいつか私にうんざりするのよ。僕の人生っていったい何なんだ?この女の
 おもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ」
・「ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれ
 なかったのよ?」 
・「私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
・「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれた
 ことを対して私はすごく感謝してるんだということをわかってほしいの」
・「もうひとつは、私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとな
 りにいたことをずっと覚えていてくれる?」
・直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解するこ
 とができるようになったと思う。何故彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだ
 のか。その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に
 関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向かっ
 て訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在する
 ことを覚えていた」と。
・そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかった
 からだ。 

第二章
・昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住ん
 でいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。
・この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さだった。寮はあるきわめて右翼的な人
 物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、その運営方針は、かなり
 奇妙な歪んだものだった。 
・いずれにせよ1968年の春から70年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過
 ごした。
・寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。国旗を掲揚するの
 は東棟の寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。この人物は陸軍
 中の学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。
・夕方の国旗降下も儀式としてはだいだい同じような様式でとおこなわれる。ただし順序
 は朝とはまったく逆になる。 
・どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。
 夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だってたくさんいる。
 そんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうしても不公
 平であるような気がした。
・寮の部屋割りは原則として、一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということ
 になっていた。殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手の写真だった。
・でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。僕の同居人が病的なま
 でに清潔好きだったからだ。僕の部屋にはピンナップさえ貼られていなかった。 
・みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌
 な思いをしたわけではなかった。
・突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。
・「大学を出たら国土地理院に入ってさ、地図を作るんだ」
・なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心
 した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。
・彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという恰好だった。学校に行くとき
 にはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だっ
 たし、だからこそまわりの連中も突撃隊と読んでいたわけだが本当のことを言えば彼は
 政治に対しては百パーセント無関心だった。
 
・僕と直子は四ツ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。
・彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。そして珍しいものでも
 のぞみこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどきっととするくらい
 深くすきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕はそれまで気
 がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人
 きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。
・直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年のあいだに直子は見違えるほどやせてい
 た。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなってい
 たが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼
 女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。
・「ねえ、もしよかったら、もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけ
 ど、私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合いじゃないことはよくわ
 かっているんだけど」
・我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗り換えた。彼女は国分寺に小さなアパー
 トを借りて暮らしていたのだ。

・はじめて直子に会ったのは高校二年の春だった。彼女もやはり二年生で、ミッション系
 の品の良い女子高に通っていた。
・僕にはキズキという仲の良い友人がいて、直子は彼の恋人だった。キズキと彼女はとは
 殆んど生まれ落ちた時からの幼なじみで、家も二百メートルとは離れていなかった。
・僕とダブル・デートしたことも何回かある。直子がクラス・メートの女の子をつれてき
 て、四人で動物園に行ったり、プールに泳ぎに行ったり、映画を観に行ったりした。で
 も正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕には少々上品
 すぎた。直子がつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えて
 いるのか、僕にはさっぱり理解できなかった。
・僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過ごしたものだが、それでもキズキが
 一度石を外して二人きりになってしまうと、僕と直子はうまく話をすることができなか
 った。二人ともいったい何について話せばいいのかわからなかったのだ。
・キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。僕はいくつか
 話題をみつけて彼女に話かけてみたが、話はいつも途中で途切れてしまった。それに加
 えて彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立
 てているように見えたが、その理由は僕にはよくわからなかった。そして僕と直子は別
 れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔を合わせなかった。
・彼は、自宅のガレージの中で死んだ。N360の排気パイプにゴム・ホースをつないで、
 窓のしきまをガム・テープで目ばりしてからエンジンをふかせたのだ。
・遺書もなければ思いあたる動機もなかった。
・キズキが死んでから高校を卒業するまでの十カ月ほどのあいだ、僕はまわりの世界の中
 に自分の位置をはっきり定めることができなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼
 女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこ
 なかったのだ。ぼくは入れそうな東京の大学を選んだ受験し、とくに何の感興もなく入
 学した。その女の子は僕に東京に行かないでくれと言ったが、僕はどうしても神戸の街
 を離れたかった。
・「あなたは私ともう寝ちゃったから、私のことなんかどうでもよくなったっちゃったん
 でしょ?」と彼女は言って泣いた。
・東京に向う新幹線の中で僕は彼女の良い部分や優れた部分を思い出し、自分がとてもひ
 どいことをしてしまったんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなかった。そして
 僕は彼女のことを忘れることにした。
・そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。
 つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉える
 その日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。
・しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)
 捉えることはできなくなってしまった。あの十七歳の五月の夜にキズキと捉えた死は、
 そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。

第三章
・次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデートをした。我々は前と同じよ
 うに街を歩き、どこかの店に入ってコーヒーを飲み、また歩き、夕方に食事をしてさよ
 ならと言って別れた。我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。
・彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育で有名なこぢんまりとし
 た大学だった。
・直子は自分の部屋に僕を入れて食事を作ってくれたりもしたが、部屋の中で僕と二人き
 りになっても彼女としてはそんなことは気にもしていないみたいだった。余計なものの
 何もないさっぱりとした部屋で、窓際の隅の方にストッキングが干してなかったら女の
 子の部屋だとはとても思えないくらいだった。彼女はとても質素に簡潔に暮らしており、
 友だちも殆んどいないようだった。そういう生活ぶりは高校時代の彼女からは想像でき
 ないことだった。僕が知っていたかつての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の友だ
 ちに囲まれていた。
・「私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来ないからなのよ」と直子
 は笑って言った。 
・直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は別れた女の子の話をした。
 良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今でもときどきなつかしく思うけれど、
 どうしてか心を動かされるということがなかったのだと僕は言った。
・「これまで誰かを愛したことはないの?」と直子は訊ねた。
・彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温も
 りではなく誰かの温もりなのだ。
・時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっ
 とのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持ちに
 なった。
・寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけたりすると、いつも僕を
 冷やかした。僕に恋人ができたものとみんな思い込んでいたのだ。夕方に戻ってくると、
 必ず誰かがどんな体位でやったかとか彼女のあそこはどんな具合だったかとか下着は何
 色だったとか、そういう下らない質問をし、僕はそのたびにいい加減に答えておいた。
 
・寮の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思い込
 んでいるようだったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。
・僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何
 度も読み返すことを好んだ。
・その当時僕のまわりで「グレート・キャッツビイ」を読んだことのある人間はたった一
 人しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。彼は永沢という名の
 東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。彼は僕なんかはるかに及ばない
 くらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうと
 はしなかった。そういう本しか僕は信用しない、と彼は言った。
・「他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田
 舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない」
・彼はなんといってもまず第一に頭の良さで知られていた。何の苦もなく東大に入り、文
 句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。
・永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男だった。
 彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底
 意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ち合わせていると同時に、どうし
 ようもない俗物だった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。
・彼の最大の美徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまちや欠
 点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合の悪いことを隠したりもしなかった。
・僕は永沢さんが酔っぱらってある女の子に対しておそろしく意地悪くあたるのを目にし
 て以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。
・永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナメクジを三匹食べ
 たことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に大きいペニスを持っていて、
 これまでに百人は女と寝たというものだった。
・ペニスの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入ればいいのだ。たしかにそれ
 はなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たというのは誇張だった。七十五人くら
 いじゃないかな、と彼はちょっと考えてから言った。僕が一人としか寝てないと言うと、
 そんなの簡単だよ、お前、と彼は言った。
・「今度僕とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから」
・僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本当に簡単
 だった。あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。彼と一緒に渋谷か新宿のバーだ
 かスナックだかに入って、酒を飲み、適当な女の子の二人連れをみつけて話をし、酒を
 飲み、それからホテルに入ってセックスした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何
 かたいしたことを話すわけでもないのだが、彼がはなしていると女の子たちはみんな大
 抵ぼおっと感心して、その話にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔っ払って、
 それで彼と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、よく気が利
 いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい気持ちになってしまうのだ。
・だいたい彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているというわけではないのだ。彼
 にとってはそれはただのゲームにすぎないのだ。
・僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処理する方法と
 しては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしていること自体は楽
 しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。ベッドも照明もカーテンも何もかもラブ・
 ホテル特有のけばけばしいもので僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女のこ
 が目を覚まして、もぞもぞと下着を探し回る。そしてストッキングをはきながら「ねえ、
 昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危ない日だったんだから」と言う。そうい
 うのが僕は嫌だった。
・僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなこと
 を七十回もつづけていて空しくならないのか、と。
・「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、
 それは喜ばしいことだ」と彼は言った。
・「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?」
・「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。
 彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。そ
 れは本当に簡単なことなんだよ。向こうだってそれを待っているのさ。それが可能性と
 いうものだよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせる
 か?自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通りすぎる
 かい?」
・永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとして恋人がいた。ハツミさ
 んという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたことがあるが、とても感じの良い
 女性だった。彼女は穏やかで、理知的で、ユーモアがあって、思いやりがあって、いつ
 も素晴らしく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自分にもしこんな恋人
 がいたら他のつまらない女となんか寝たりしないだろうと思った。彼女も僕のことを気
 に入ってくれて、僕に彼女のクラブの下級生の女の子を紹介するから四人でデートしま
 しょうよと熱心に誘ってくれたが、ハツミの通っている大学はとびっきりのお金持ちの
 娘があつまることで有名な女子大だったし、そんな女の子たちと僕が話しがあうわけが
 なかった。
・彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることをだいたいは知って
 いたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなかった。

・四月半ばに直子は二十歳になった。直子の誕生日は雨だった。僕は学校が終わってから
 近くでケーキを買って電車に乗り、彼女のアパートまで行った。
・食事が終わると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きながらワインの残りを飲ん
 だ。僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。
・直子はその日珍しくよくしゃべった。しかしそのうち僕は彼女のしゃべり方に含まれて
 いる何かかがだんだん気になりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでい
 るのだ。
・時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけていた。直子の話し方の不自然さ
 は彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけながら話していることにあるよ
 うだった。もちろんキズキのこともそのポイントのひとつだったが、彼女が避けている
 のはそれだけではないように僕には感じられた。
・しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう四時間以上ノンス
 トップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のこともあるし、門限のこともあった。
 僕は頃合いを見計らって、彼女の話に割って入った。
・直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。彼女は作動している途
 中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。 
・「邪魔するつもりはなかったんだよ」と僕は言った。
・「ただ時間がもう遅いし、それに・・・」
・彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコード・ジャケットの上に
 落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は両手を床
 について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく
 泣いたのを見たのははじめてだった。僕はそっと手を伸ばして彼女の肩に触れた。肩は
 ぶるぶると小刻みに震えていた。それはら僕は殆んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。
 彼女は僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。僕は左手で直子の体を
 支え、右手でそのまっすぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿勢で
 直子が泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。
 
・その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったかどうか、僕にはわからない。二
 十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。
・僕と直子は暗闇の中で無言のままお互いの体をまさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、
 乳房をやわらなく手で包んだ。直子は僕の固くなったペニスを握った。彼女のヴァギナ
 はあたたかく濡れて僕を求めていた。
・それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊くと、直子は肯い
 た。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。僕はずっとキズキと直子が
 寝ていたと思っていたからだ。
・僕はペニスをいちばん奥まで入れて、そのまま動かさずにじっとして、彼女を長いあい
 だ抱きしめていた。そして彼女が落ちつきを見せるとゆっくりと動かし、長い時間をか
 けて射精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまで
 に聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった。

・一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつぎをしてく
 れなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ド
 アについていた名札はとり外されていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したとい
 うことだった。どこに越したのかはちょっとわからないなと管理人は言った。
・僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直子がどこに越したに
 せよその手紙は直子あてに転送されるはずだった。
 
・六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。
 一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗し
 たが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方か
 ら体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆること
 を知りたがった。
・「ねえ、もう会えないの?」と彼女は淋しそうに言った。
・「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。
・僕の体はひどく飢えて渇いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝なが
 らずっと直子のことを考えていた。闇の中で白く浮びあがっていた直子の裸体や、その
 吐息や、雨の音のことを考えていた。

・七月始めに直子から手紙が届いた。短い手紙だった。
 「大学をとりあえず一年間休学することにしました。もう一度大学に戻ることはおそら
 くないのではないかと思います。これは前々からずっと考えていたことなのです。それ
 についてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですが、とうとう切り出せません
 でした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。いろんなことを気にしないでくだ
 さい。たとえ何が起こったとしても、たとえ何が起こっていなかったとしても、結局は
 こうなっていたんだろうと思います。
 国分寺のアパートを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく病院に通いまし
 た。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいので、少しそこに
 入ってみようかと思います。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところ
 で神経をやすめることなのです」

第四章
・夏休みのあいだに大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中
 に籠もっていた学生を全員逮捕した。
・僕は九月になって大学が殆んど廃墟と化していることを期待して行ってみたのだが、大
 学はまったくの無傷だった。図書館の本も掠奪されることなく、教授室も破壊しつくさ
 れることはなかった。あいつらは一体何をしてたんだと僕は愕然として思った。
・ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたの
 はストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきて
 ノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。
・僕は彼らのところに行って、どうしてストをつづけないで講義に出てくるのか、と訊い
 てきた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単
 位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて
 仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりする
 のだ。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を
 作るんだ。
・九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だという結論に到達した。そ
 して僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めた。僕は毎日大学に行
 って講義に出てノートをとり、あいた時間には図書館で本を読んだり調べものをしたり
 した。

・九月の第二週になっても突撃隊は戻ってこなかった。これは珍しいというよりは驚天動
 地の出来事だった。
・突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだに、部屋を清潔に
 することは僕の習性の一部となっていたし、突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持
 するしかなかった。
・しかし彼は戻ってこなかった。ある日僕が学校から戻ってみると、彼の荷物は全部なく
 なっていた。僕は寮長室に行って彼がいったいどうなったのか訊いてみた。
・「退寮した」と寮長は言った。僕はいったいどういう事情なのかと質問してみたが、寮
 長は何も教えてくれなかった。 

・講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにある小さなレストランに行って
 オムレツとサラダを食べた。
・四人づれの学生が店に入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこざっぱりとした服
 装をしていた。
・そのうちに僕が女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。ひどく髪
 の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットンのミニのワンピースを着ていた。
・そのうちに彼女はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に片手
 をついて僕の名前を呼んだ。
・「ワタナベ君、でしょ?」
・僕はまじまじと彼女の顔を見た。彼女はサングラスを外した。それでやっと僕は思い出
 した。クラスで見かけたことのある一年生の女の子だった。
・「どうしてそんなに日焼けしているの?」
・「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。金沢から能登半島をぐるりとまわって
 ね。新潟まで行った」 
・「いつもそんな風に一人で旅行するの?」「孤独が好きなの?」
・「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことし
 たってがっかりするだけだもの」と僕は言った。
・「私ね、ミドリっていう名前なの」
・「ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノートとってる?」「悪いんだけど化してもらえな
 いかしら?私二回休んじゃってるのよ」
・「ワタナベ君、あさって学校に来る?」「じゃあ十二時にここに来ない?ノート返して
 お昼ごちそうするから」 

・水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなかった。
・僕は学生課に言って講義の登録簿を調べ、クラスに彼女の名前をみつけた。ミドリとい
 う名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は
 電話ボックスに入ってその番号をまわした。
・「もしもし、小林書店です」という男の声が言った。
・「緑は今いませんねえ。病院の方じゃないかなぁ」
 
・講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描いているところに、
 またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。
・背の高い学生がビラを配っているあいだに、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。内
 容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を
 駆りたてる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。
 この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。
 
・「あの学校ね」と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。「エリートの女の子のあつ
 まる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、
 金持ちの娘ね。でなきゃやっていけないもの。私の学年百六十人の中で豊島区に住んで
 いる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったい
 どんなところに住んでるんだろうって。すごかったわねえ、千代田区三番町、港区元麻
 布、大田区田園調布、世田谷区成城・・・、もうずっとそんなのばかりよ」
・「豊島区北大塚なんて学校中探したって私くらいしかいやしないよ。おまけに親の職業
 欄にはこうあるの、<書店経営}ってね。クラスのみんなは私のことすごく珍しがって
 くれわ。好きな本が好きなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考
 えているのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たちは本屋っていうとああいう
 のしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ、小林書店。いちばん堅実
 に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧・図解入りの四十八手のとじこみ附録のついて
 るやつよ。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所のテーブルに座って熟読して、
 御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。あれけっこうすごいのよ。まったく
 世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。とにかく殆んどが雑
 誌なのよ。少し文庫はあるけど、たいしたものはないわよ」
・「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいい
 て」 
・「よかったら一度うちに遊びに来ない?小林書店に。店は閉まっているんだけど、私夕
 方まで留守番しなくちゃならないの」

・小さな商店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大き
 な店ではなかったけれど、僕が緑の話から想像していたほど小さくはなかった。ごく普
 通の町のごく普通の本屋だった。
・僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿を眺めてい
 た。
・緑の料理は僕の想像を遥かに超えて立派なものだった。
・「すごくおいしい」と僕は感心して言った。
・「お母さんはいつ亡くなったの?」
・「二年前」と彼女は短く答えた。
・僕らが大学の話をしながら食後のコーヒーを飲んでいると、消防自動車のサイレンの音
 が聞えた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているようだった。窓の
 下を大勢の人が走り、何人かは大声で叫んでいた。
・「大事なものがあったらまとめて、ここは避難した方がいいみたいだな」と僕は緑に言
 った。 
・「大丈夫よ。私逃げないもの」「死んだってかまわないもの」
・結局それから三十分ほどで火事はおさまった。たいした延焼もなく、怪我人も出なかっ
 たようだった。
・火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりしたみたいだった。体の力を抜いてぼ
 んやりと遠くの空を眺めていた。
・僕が緑の目を見ると、緑も僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほ
 んの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐにまた体の力を抜いて目を閉じた。
・最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いに
 くそうに自分はつきあっている人がいるんだと言った。それはなんとなくわかっている
 と僕は言った。
・「あなたには好きな女の子いるの?」
・「いるよ。でもとても複雑なんだ」と僕は言った。
・「卒業」という映画を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれど、他にやるこ
 ともないので、そのままもう一度くり返してその映画を観た。そして映画館を出て午前
 四時前のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶら歩いた。
・歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発
 の電車を待つことにした。 
・ウェイターが僕のところにやってきて、すみませんが相席お願いしますと言った。
・僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美
 人というわけではないが、感じのわるくない女の子たちだった。彼女たちは同席した相
 手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。
・小柄な女の子がショルダー・バックを抱えるようにして洗面所に行ってしまうと、大柄
 な方の女の子が僕に向って、あのすみません、と言った。僕は本を置いて彼女を見た。
・「このへんにまだお酒飲めるお店ご存知ありませんか?」と彼女は言った。
・「友だちがどうしてもお酒が飲みたいっていうんです。いろいろとまあ事情があって」
 「でも私、朝の七時半ごろの電車で長野に行っちゃうんです」
・「じゃあ自動販売機でお酒を買って、そのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」
・申し訳ないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことで
 きないから、と。 
・僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の五時半に知らない
 女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれがはじめてだった。断るのも面倒だったし、ま
 あ暇もあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女
 たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即席の宴会のようなものを開い
 た。
・話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤めはじめ
 たばかりで、仲好しだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあ
 ていたのだが、最近になって彼が他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひど
 く落ち込んでいた。
・あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたの
 で、僕らは残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼女を見送った。
 彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うとも
 なくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いに寝てみたいと思ったわけでは
 ないが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
・彼女は肌が白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のこ
 とを誉めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。
・しかしベッドに入ると彼女はまったくの別人のようになった。僕の手の動きにあわせて
 彼女は敏感に反応し、体をくねらせて、声をあげた。僕が中に入ると彼女は背中にぎゅ
 っと爪を立てて、オルガズムが近づくと十六回も他の男の名前を叫んだ。僕は射精を遅
 らせるために一所懸命回数を数えていたのだ。
・十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。

第五章
・「手紙ありがとう」と直子は書いていた。
 「私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考えるようになってきま
 した。私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなか
 ったかと思うのです。
 でも、こういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。普通の若い女の子
 にとっては、物事が公正かどうかなんていうのは根本的にはどうでもいいことだからで
 す。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは美しいかとかどうすれば自分が幸せ
 になれるかとか、そういうことを中心に物を考えるものです・
 私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だから
 こそ私はあなたに憎まれたくないのです。
 しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも感じますし、
 まわりの人々もそれを認めてくれます。
 私はテニスとバスケットボールをやっています。バスケットボールのチームは患者とス
 タッフが入り混じって構成されています。でもゲームに熱中しているうちに私は誰が患
 者で誰がスタッフなのかがだんだんわからなくなってきます。これはなんだか変なもの
 です。変な話だけれど、ゲームをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪ん
 ているように見えちゃうんです。
 ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味で正しいのだと
 言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪
 みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受け入
 れることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方にくせがあ
 るように、感じ方や考え方や物の見方にもくせはあるし、それはなおそうと思っても急
 になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまう
 ことになるんだそうです。
 担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。外部の人という
 のはつまり正常な世界の正常な人のことですが、そういわれても、私にはあなたの顔し
 か思い浮かばないのです。正直に言って、私は両親にはあまり会いたくありません。
 この施設は普通の病院とは違って、面会は原則的に自由です。前日までに電話連絡をす
 れば、いつでも会うことができます。食事も一緒にできますし、宿泊の設備もあります。
 あなたの都合の良いときに一度会いに来てください。会えることを楽しみにしています」
 
第六章
・京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所
 の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べた。
 地図で見ると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。
・僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。右手には雑
 木林がつづいていた。雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。
 雑木林を抜けると白い石塀が見えた。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開け
 っ放しになっていて、門衛小屋には門番の姿はなかった。二、三分すると紺の制服を着
 た門番が黄色い自転車に乗って林の中の道をやってきた。
・玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中に入ると、受付に赤
 いワンピースを着た若い女性が座っていた。
・ほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな短い髪をした中年の女性
 が姿をあらわし、さっと僕のとなりに座って足を組んだ。とても不思議な感じのする女
 性だった。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけでなく、何かしら心魅かれると
 ころのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。
・「あなたは直子の担当のお医者さんなんですか?」と僕は彼女に訊いてみた。
・「私が医者?」と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言った。
・「私ね、ここで音楽の先生をしているのよ。でも本当は患者なの。でも七年もここにい
 てみんなに音楽教えたり事務手伝ったりしてるから、患者だかスタッフだかわかんなく
 なっちゃってるわね」
・「まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な病院じゃないってこ
 となの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではなく療養をするところな
 の。人々は自発的にここに入って、自発的にここから出ていくの。そしてここに入るこ
 とができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの」
・「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなた
 に何か変わったところがあるとは思えないんですが」
・「昼間はね。でも夜になると駄目なの。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわる
 の」 
・「私は今三十八でもうすぐ四十よ。直子は違うのよ。私がここを出てったって待ってく
 れる人もいないし、受け入れてくれる家庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友
 だちもないし、それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何も
 わからないわよ。時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへんから
 一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうしていいかなんてわかんない
 わよ」
・「あの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ君ってい
 うボーイ・フレンドが死んだ時点から既に病状が出始めていたのよ。そしてそのことは
 家族もわかっていたはずだし彼女自身もわかっていたはずなのよ」
・「それからこれは規則で決まっていることだから最初に言っておいた方が良いと思うん
 だけれど、あなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはルールな
 の」
・直子はソファーの僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を抱くと、彼女は頭
 を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体温をたしかめるみたいにその
 ままの姿勢でじっとしていた。そんな風に直子をそっと抱いていると、胸が少し熱くな
 った。やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同じようにそっとドア
 を開けて出ていった。
・直子は僕の生活のことを知りたいと言った。僕は大学のストのことを話し、それから永
 沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の
 奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは
 至難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。
 僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。
・「不思議な人みたいね」と直子は言った。 
・「あの人はとても正直な人だし、ごまかしのない人だし、非常にストイックな人だね」
・「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。
・「ワタナベ君、あなたは何人くらいの女の人と寝たの?」と直子がふと思いついたよう
 に小さな声で訊いた。
・「八人か九人」と僕は正直に答えた。
・「あなたはまだ二十歳になってないでしょ?いったいどういう生活してんのよ、それ?」
 とレイコさんが言った。
・直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最初の女の
 子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできな
 かったのだと言った。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々と寝るこ
 とになった事情を話した。
・「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのがキズキのこと
 だけだってことがね、そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝た
 んだと思う」と僕は直子に言った。
・「ねえ、あなたはあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかって訊いたわね?まだそ
 のこと知りたい?」 
・「私、キズキ君と寝てもいいと思ってたのよ。もちろん彼は私と寝たがったわ。だから
 私たち何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできな
 いのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のこと
 を愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。
 彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、でき
 なかったの」
・「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。
・「開かなかったの、まるで。だからすごく痛くって。乾いてて、痛いの。いろんな風に
 ためしてみたのよ。私たち。でも何やってもだめだったわ。だから私ずっとキズキ君の
 を指とか唇とかでやってあげてたの・・・わかるでしょ?」
・「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れていたの。そう
 してずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、
 入れてほしいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうして
 そんなことが起こるの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」
・「私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んで
 たのよ。はじめてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理に
 なったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だっ
 たの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいい
 のか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことな
 のかというのも」
・彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふた
 つに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。
 
・「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。
・「待つのは辛いわよ。とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのを
 じっと待つのよ。そしてそこには何の期限お保証もないのよ。あなたにそれができる?
 そこまで直子の事を愛してるの?」
・「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあっ
 たし、まわりもそれを認めてくれたしね。音大ではずっとトップの成績だったし、卒業
 したらドイツに留学するっていう話もだいたい決まっていたしね。でも変なことが起こ
 ってある日全部狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。突然左の小指が動かな
 くなっちゃたの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないの
 よ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査をしたんだけれど、
 医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、
 動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行っ
 てみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。だからと
 にかく当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの」
・「ここはひとつのんびりしてやろう、二週間ぐらいピアノにさわらないで好きなことし
 て遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮ん
 でこないのよ。だって仕方ないわよ。それまでの人生でピアノが私の全てだったんだも
 の。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。そ
 れ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。家事ひとつしたことあいし、ピア
 ノが上手いってことだけでまわりが気をつかってくれるしね。そんな風にして育ってき
 た女の子からピアノをとってごらんなさいよ。いったい何が残る?それでボンッ!よ。
 頭のネジがどこかに吹きとんじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっちゃって」
・「それで私、大学を出てから家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当
 に辛かったわよ。まるで私の人生そのものがそこでぱたっと終わっちゃったみたいなん
 ですもの。両親も私のことを腫れものでもさわるみたいに扱ってたわ。でもね、私には
 わかるのよ、この人たちもがっかりしているんだなあって。つきこの間まで娘のことを
 世間に自慢していたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじ
 ゃない。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。
 それでまたボンッ!よ」
・「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、
 航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だった」
・「三カ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をし
 て。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼はやはり私と結婚したいって言っ
 たの。もし私と寝たいなら寝てもいいわよ、って私は言ったの。私、まだ誰とも寝たこ
 とないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないの
 よ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結
 婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよ
 りずっと大変なことなのよ。それでもかわないのって」
・「結婚したのはその四カ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しち
 ゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴
 が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。
 だから私たち結婚式もあげなかったの。でも幸せだったわ。何もかもが。結局私、結婚
 するまで処女だったのよ。二十五歳まで。嘘みたいでしょ?」
・「この人がいる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。
・「結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おか
 げで自分の病気の ことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて火事して子供の
 世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて・・・毎日毎日がそのくりかえし。でも
 幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つ
 づいたのかしら?三十一の年まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ破裂したの」
・「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっ
 とそこで待っていたのよ」 
・「ある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつするくらいの間柄の奥さんが私を訪ねてき
 て、実は娘があなたにピアノを習いたがっているんだけど教えて頂くわけにはいかない
 だろうかっていうの。その子は中学二年生でこれまで何度か先生についてピアノを習っ
 ていたんだけれど、どうもいろいろな理由でうまくいかなくて、それで今は誰にもつい
 ていないってことなの。私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心
 者ならともかく何年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言ってね」
・「三日後にその子は一人でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなに
 しろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あと
 にも先にもあれがはじめてよ」
・「コーヒーを飲みながら私たち一時間くらいお話したの。でもね、その子を前に話して
 いるとだんだん正常な判断ができなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若くて美
 しいんで、それに圧倒されちゃんて、自分がはるかに劣った不細工な人間みたいに思え
 てきて」
・「その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話
 を作っちゃうわけ。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その
 子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先にまわってどんどん手をくわえていくし、
 だから相手は全然気づかないのよ」
・直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
 「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分で肉体がく
 っつきあっているような、そんな関係だったの。だから私とキズキ君が恋人のような関
 係になったのはごく自然なことだったの。私たちは十二の歳にはキスして、十三の歳に
 はもうペッティングしてたの。私が彼の部屋に行くか、彼が私の部屋に遊びに来るかし
 て、それで彼のを手で処理してあげて・・・。でもね、私は自分たちが早熟だなんてち
 っとも思わなかったわ。彼が私の乳房やら性器やらをいじりたいならそんなのいじった
 って全然かまわないし、彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かま
 わなかったのよ。私たち、お互いの体を隅から隅まで見せあってきたし、まるでお互い
 の体を共有しているような、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先
 にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのか
 その頃はよくわからなかったし・・・・」
・「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きてい
 たら、私たちたぶん一緒にいて、愛しあっていて、そして少しずつ不幸になっていった
 と思うわ」
・「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったのよ。成長の辛さのような
 ものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわっ
 てきているのよ。私たちは無人島で育った裸の子供のようなものだったのよ」」
・目を覚ましたとき、僕はまるで夢のつづきを見ているような気分だった。直子が僕のベ
 ッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。
・僕が手をのばして彼女に触れようとすると、直子はすっとうしろに身を引いた。唇が少
 しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじ
 めた。小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのよう
 に腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何
 もつけていなかった。
・彼女が少し体を動かすと、月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染める影のかたち
 が変わった。丸く盛り上がった乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨や陰毛の
 つくりだし粒子の粗い影はまるで静かな湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変え
 ていった。
・これはなんという完全な肉体だろう、と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全な肉
 体をもつようになったのだろう?そしてあの春の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったい
 どこに行ってしまったのだろう?
・その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったとき、僕は彼女の
 体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。乳房は固く、乳首は場ち
 がいな突起のように感じられたし、腰のまわりは妙にこわばっていた。もちろん直子は
 美しい娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興奮させ、巨大な力で
 僕を押し流していった。しかしそれでも、僕は彼女の裸を抱き、愛撫し、そこに唇をつ
 けながら、肉体というもののアンバランスについて、その不器用さについてふと奇妙な
 感慨を抱いたものだった。
・しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子の肉体はあま
 りにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然と
 してその美しい腰のくびれや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるす
 らりとした腰やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つけているだけだった。
・やがて彼女はガウンを再びまとい、上から順番にボタンをはめていった。ボタンをはめ
 てしまうと直子はすっと立ち上がり、静かに寝室のドアを開けてその中に消えた。
 
・僕と直子に二人でこのあたりを一時間ばかり歩いていらっしゃいとレイコさんは言った。
 我々は牧場の柵にそった平坦な道をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕の手を握った
 り、腕をくんだりした。
・我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわりを林に囲
 まれた丸いかたちの草原に出た。
・「今、抱いて、ここで」と直子が言った。
・我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱きあった。腰を下ろすと我々の体は草の中
 にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっ
 くりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体
 を求めていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。
・「ねえ、ワタナベ君、私と寝たい?」僕の耳もとで直子が言った。
・「今固くなってる?」
・「出してあげようか?」
・「やってほしい」
・「いいわよ」と直子はにっこり微笑んで言った。そして僕のズボンのジッパーを外し、
 固くなったペニスを手で握った。
・「あたたかい」と直子は言った。
・直子が手を動かそうとするのを僕は止めて、彼女のブラウスのボタンを外し、背中に手
 をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇
 をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。
・射精が終わるとやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。そして直子はブラジャーと
 ブラウスをもとどおりにし、僕はジッパーをあげた。
・直子は死んだ姉の話をした。
 「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それでもと
 ても仲がよかったの」と直子は言った。
・お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直子は言った。
・「彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由がわからなかったの。キズキ君
 のときと同じようにね。まったく同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するよう
 な素振りはなくて、遺書もなくて、同じでしょ?」
・「お姉さんが死んでるのをみつけたのは私なの」と直子はつづけた。
 「小学校六年生の秋よ。そのときお姉さんは航行三年生だったわ。お母さんが夕食の支
 度をしていて、もうごはんだからお姉さんを呼んできてって言ったの。私は二階に上が
 って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってどなったの。でもね、返事がな
 くて、しんとしているの。それでなんだか変だなあって思って、もう一度ノックしてそ
 っとドアを開けてみたわけ。お姉さんは窓辺に立って、首を少しこう斜めに曲げて、外
 をじっと眺めていたの。まるで考えごとをしているみたいに。私は『ねえ何しているの
 ?もうごはんよ』と声をかけたの。でもそう言ってから彼女の背がいつより高くなって
 いることに気づいたの。近づいていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。
 首の上にひもがついていることにね」
・「私そこに五、六分ぼおっとしていたと思うの。放心状態で。何が何やらわけがわから
 なくて。お母さんが『何してるの?』って見にくるまで、ずっと私そこにいたのよ。お
 姉さんと一緒に」直子は首を振った。
・「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみたいに、
 目だけ開けてじっとしていて」
・「私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているよ
 り私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし先に行けるものなら
 あなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいなら寝
 て。あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの」

第六章
・「あれが五月頃だったかしらね。レッスンしている途中でその子が突然気分がわるいっ
 て言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてるのよ。こっちに来て私のベッ
 ドで横になりなさいって私言って、彼女を殆んどかかえるようにして私の寝室につれて
 いったの」
・「少しするとね『すみません、少し背中をさすていただけませんか』ってその子が苦し
 そうな声で言ったの。私一所懸命背中さすってやったの。すると『ごめんなさい、ブラ
 外してくれませんか、苦しくて』ってその子言うのよ。まあ仕方ないから外してあげた
 わ。十三にしちゃおっぱい大きな子でね、私の二倍はあったわね」
・「そのうちその子しくしく泣きはじめたの。家庭がうまくいってないんです、ってその
 子は言ったわ。両親を愛することができないし両親の方も自分を愛してくれないんだっ
 て。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親はそのことで半狂乱になって
 彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだって彼女は言ったの。彼女は私にしがみつ
 くようにして『先生がいなかったら、私どうしていいかわからないの。私のことを見捨
 てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの』って言うのよ」
・「仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ。よしよしってね。その頃
 にはその子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。そうするとそのうちにね、
 私だんだん変な気になってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいでね。その撫で
 方たるやものすごく官能的なんだもの。気がついたら彼女私のブラウス脱がせて、私の
 ブラ取って、私のおっぱいを撫でているのよ。それで私やっとわかったのよ。この子筋
 金入りのレスビアンなんだって。
・「その子、私の手をとって自分の胸にあてたの。すごく形の良いおっぱいでね、それに
 さわるとねなんかこう胸がきゅんとしちゃうみたいなの。私、どうしていいかわかんな
 くてね、駄目よ、そんなの駄目だったらって馬鹿みたいに言いつづけるだけなの。どう
 いうわけか体がぜんぜん動かないのよ。唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、
 右手で私の背中やわき腹やお尻やらを愛撫してきたの」レイコさんは話をやめて煙草を
 ふかした。
・「それからだんだん右手が下に降りてきたのよ。そして下着の上からあそこ触ったの。
 その頃は私はもうたまんないくらいにぐじゅぐじゅよ、あそこ。あんなに濡れたのはあ
 とにも先にもはじめてだったわね。それから下着の中に彼女の細くてやわらかな指が入
 ってきて、男の人のごつごつした指でやられるのと全然違うのよ。凄いのよ、本当。ま
 るで羽毛でくすぐられるみたいで。私もう頭のヒューズがとんじゃいそうだったわ」
・「私、子供のことを考えたの。子供にこんなところ見られたらどうしようってね。それ
 で私、前身の力をふりしぼって起き上がって『止めて、お願い!』って叫んだの。でも
 彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせてクンニリングスしてたの。
 十三の女の子が私のあそこぺろぺろ舐めってるのよ。参っちゃうわよ。それがまた天国
 にのぼったみたいにすごいんだもの」
・「『止めなさい』ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いっきり。それで
 彼女やっとやめたわ。ベッドの上に身を起こしてお互いをじっと見つめあったわけ。そ
 の子は十三で、私は三十一で・・・でもその子の体を見ると、私なんだか圧倒されちゃ
 ったわね。あれが十三の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなかったし、今で
 も信じられないわよ」
・「一カ月くらいたってある日ふと気づいたんだけれど、外を歩くと何か変なのよね。近
 所の人が妙に私のことを意識しているのよ。私を見る目がなんだかこう変なかんじで、
 よそよそしいのよ。ときどきうちに遊びに来ていた隣の奥さんもどうも私を避けている
 みたいなのね。ある日、私の親しくしている奥さんがうちに来たの。その奥さんが突然
 やってきてあなたのついてひどい噂が広まっているけれど知っているのかって言うの」
・「彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札つきの同性愛
 者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずらしようとし
 て、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ」
・「何日かずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけど、彼は信じてくれた
 わよ。引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ以上ここにいたら
 緊張が強くて、私の頭のネジがまた飛んじゃうわよ。とにかく誰も知っている人のいな
 い遠いところに移りましょうって。でも夫は動きたがらなかったわ。あの人、事の重大
 さにまだよく気がついていなかったのね。彼は会社の仕事が面白くて仕方なかった時期
 だったし、小さな建売住宅だったけど家もやっと手に入れたばかりだったし、娘も幼稚
 園に馴染んでいたし」
・「彼は私のことを抱いてくれたわ。そして少しだけでいいから我慢してくれって言った
 の。一カ月だけ我慢してくれって。そのあいだに僕が何もかもちゃんと手配する。仕事
 も整理する、家も売る、子供の幼稚園も手配する、新しい職もみつける。だから一カ月
 待ってくれ。そうすれば何もかもうまくいくからってね」
・「でも一カ月はもたなかった。ある日頭のネジが外れちゃって、ボンッ!よ。今度はひ
 どかったわね。睡眠薬飲んでガスひねったもの。でも死ねなくて、気がついたら病院の
 ベッドよ」
・「もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりなおそうよ、って彼は言っ
 たわ。『もう遅いの』って私は言ったわ。どこへ行っても、どんなに遠くに移っても、
 また同じようなことが起こるわよ」そして私たちは離婚したわ。
・「彼は九九パーセントまで完璧にやってたのよ。でも一パーセントが、たったの一パー
 セントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ」
 
第七章
・日曜日の朝九時半に緑は僕を迎えに来た。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワタ
 ナベ、女が来ているぞ!とどなったので玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短
 いジーンズのスカートをはいてロビーの椅子に座って脚をくみ、あくびをしていた。朝
 食を食べに行く連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろ眺めてい
 った。彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。
・「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」
・「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカートはいてくるんだもの。見るにき
 まってるよ」
・「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしてるわけ?シコシコって?」
・「だぶんね」
・「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?」
・「これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マスターベーションするとき特定の女の子のこと
 を考えるの?」
・「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えてよ、怒らないから」
・「やったことないよ、正直な話」と僕は正直に答えた。
・「今夜マスターベーションするときちょっと私のことを考えてね。そしてどんなだった
 かあとで教えてほしいの。どんなことをしただとか」
・我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。電車の中は短いスカートをはいた女の
 子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカートをはいたのは一人もいなかった。緑はと
 きどきゅっきゅっとスカートの裾をぴっぱって下ろした。何人かの男はじろじろと彼女
 の太腿を眺めたのでどうも落ち着かなかったが、彼女の方はそういうのはたいして気に
 ならなかったようだ。
・「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。それがいどいイ
 ンチキな奴らの揃ってるところでね。そこの入るとね、まずマルクスを読ませられるの。
 まあ仕方ないから私一所懸命マルクス読んだわよ。家に帰って。でも何がなんだか全然
 わかんないの。それで次の州のミーティングで、四だけど何もわかりませんでした、ハ
 イって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないだの、社会性に欠ける
 だのね」
・「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔をしてむずか
 しい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。でも誰も説明
 してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの」
・「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きているんだお前?これでおし
 まいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんなに頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を
 支えているのは庶民だし、搾取されているのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉を
 ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ!」
・「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉をふり
 まわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこ
 むことしか考えていないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三
 菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読
 んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前をつけるの
 よ」
・「この大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知
 られるのが怖くってしようがなくてビクビクして暮らしているのよ。それでみんな同じ
 ような本を読んで、みんな同じような言葉をふりまわして。そういうの革命なの?」
 
・「お父さんのことだけどね。あの人、悪い人じゃないのよ。少なくとも根は正直な人だ
 し、お母さんのことを心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生き
 てきたのよ。性格もいささか弱いところがあったし、商売の才覚もなかったし、人望
 もなかったけど、でもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中
 に比べたらずっとまともな人よ」と緑は言った。
・緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の上に置いた。
 僕の手の半分はスカートの布地の上に、あとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はし
 ばらく僕の顔を見ていた。
・「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だと思うの。三十二か三くらいの綺麗な
 お金持ちの奥さん。そういうタイプでおまけにものすごくセックスに飢えているの。そ
 してものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワタナベ君と二人で体を
 貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う?」
 
・僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考えながらマスターベーションをしてみた
 のだったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、
 直子のイメージも今回はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくな
 ってやめてしまった。

・「俺は誰とも結婚するつもりはないし、そのことはハツミにもちゃんと言ってある。だ
 からさ、ハツミは誰かと結婚したきゃすりゃいいんだ。俺は止めないよ。結婚しないで
 俺を待ちたきゃ待ちゃいい」
・「世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせいじゃない。はじめ
 からそうなっているんだ。俺はハツミをだましたことなんか一度もない。そういう意味
 では俺はひどい人間だから、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる」
・「自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲し
 くないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでま
 た考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」
・「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待っているわけじゃないぜ。俺は俺
 なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力している」
・「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつ
 らは努力というものをしないんだろう。努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」
・僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。
・「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような
 印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」
・「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。
・「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的
 になされるもののことだ」 
 
・「俺とワタナベで一度女をとっかえっこしたことあるよ」と永沢さんはなんでもないと
 いう顔をして言った。
・「ワタナベ君、あなた本当にそんなことしたの?」とハツミさんは言った。
・まずいことになってきたなと僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなる
 ことがあるのだ。そして今夜の彼の意地のわるさは、ハツミさんに向けられたものだっ
 た。
・「渋谷のバーで永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の子と仲良くなったんです。
 どこかの短大の女の子で、向こうも結構出来上がっていて、それでまあ結局そのへんの
 ホテルに入って寝たんです。僕と永沢さんとで隣同士の部屋をとって、そうしたら夜中
 に永沢さんが僕の部屋をノックして、おいワタナベ、女の子とりかえようぜって言うか
 ら、僕が永沢さんの方に行って、永沢さんが僕の方に来たんです」
・「その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんです。結局その子たちとし
 ても」 
・「その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだよ。一人の子はきれいだっ
 たんだけど、もう一人がひどくってさ、そういうの不公平だと思ったんだ。つまり俺が
 美人の方をとっちゃたからさ、ワタナベにわるいじゃないか。だから交換したんだよ」
・しかし本当のことを言えば、僕はその美人じゃない子の方をけっこう気に入っていたん
 だ。話していて面白かったし、性格もいい子だった。僕と彼女はセックスのあと、ベッ
 ドの中でわりに楽しく話をしていると、永沢さんが来てとりかえっこしようぜと言った
 のだ。僕がその子にいいかなと訊くと、まあいいわよ、あなたたちそうしたいんならと
 彼女は言った。彼女はたぶん僕がその美人の子の方とやりたがってると思ったのだろう。
・「楽しかった?」とハツミさんが僕に訊いた。
・「べつにとくに楽しくはないです」と僕は言った。「ただやるだけです。そんな風に女
 の子と寝たってとくに何か楽しいことがあるわけじゃないです」 
・「じゃあ何故そんなことするの?」
・「ときどきすごく女の子と寝たくなるんです」と僕は言った。
・「好きな人がいるなら、その人となんとかするわけにはいかないの?」とハツミさんは
 少し考えてから言った。
・「複雑な事情があるんです」
・ハツミさんはため息をついた。
・「ワタナベは好きな女の子がいるんだけれどある事情があってやれない。だからセック
 スはセックスと割り切って他で処理するわけだよ。それでかまわないじゃないか。話と
 してはまともだよ。部屋にこもってずっとマスターベーションやってるわけにもいかな
 いだろう?」
・「でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかしら、ワタナベ君?」
・「君は男の性欲というものが理解できないんだ」と永沢さんはハツミさんに言った。
・「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思ってい
 ないところなんだ」と永沢さんは言った。
・そこが他の連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人
 間にわかってほしいと思ってあくせくしている。でも俺はそうじゃないし、ワタナベも
 そうじゃない。理解してもらわなくたってかまわないと思ってるのさ。自分は自分で、
 他人は他人だって」
・「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思ってるわけ
 じゃない。理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度
 理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるん
 です」
・「永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思っているの?」とハツ
 ミさんが訊いた。
・「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時
 期が来たからであってその誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」
・「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの?」
・「いや、べつに間違ってないよ」と永沢さんは答えた。
・「まともな人間はそれを恋と呼び。もし君が俺を理解したいと思うならね。俺のシステ
 ムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違いんだよ」 
・「でも私に恋してはいないのね?」
・「だから君は僕のシステムを・・・」
・「システムなんてどうでもいいわよ!」とハツミさんはどなった。彼女がどなったのを
 見たのはあとにも先にもこの一度きりだった。
・ハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものがあった。そしてそ
 れは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力は
 ささやかなものなのだが、それが相手の心の共感を呼ぶのだ。
・彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだっ
 たのだ。でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは、多く
 の僕の知り合いがそうしたように、人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに
 自ら生命を絶った。彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、
 その二年後に剃刀で手首を切った。

・「ねえワタナベ君はどう思ってるの?私と永沢君のことを?」
・「私どうすればいいのかしら、これから?」
・「僕があなただったら、あの男と別れます。そしてもう少しまともな考え方をする相手
 を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあの人とつきあって幸せに
 なれるわけがないですよ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにしようとか、
 そんな風に考えていきている人じゃないんだもの。一緒にいたら神経がおかしくなっち
 ゃいますよ。面白い人だし、立派なところもお沢山あると思いますよ。僕なんか及び
 もつかないような能力と強さを持っているし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方
 はまともじゃないです」
・「ハツミさんはどうするんですか?ずっと待っているんですか?あの人、誰とも結婚す
 る気なんかありませんよ」
・「それもわかってるのよ」
・「でもね、ワタナベ君。私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はどっちかっていう
 と馬鹿で古風な女なの。システムとか責任とか、そんなことどうだっていいの。結婚し
 て、好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めればそれでいいのよ。それだけなの。私が求
 めているのはそれだけなのよ」
・「ワタナベ君、今の私には待つしかないのよ」とハツミさんは言った。
・「そんなに永沢さんのこと好きなんですか?」
・「好きよ」と彼女は即座に答えた。

第九章
・僕は約束どおり緑のことを考えてマスターベーションしてみたことを思い出した。僕は
 まわりに聞こえないように小声でそのことを話した。
・緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。
・「どうだった?上手く行った?」
・「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」
・「立たなくなっちゃったの?駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。
・「ねえ、今からいやらしい映画観に行かない?ばりばりのいやらしいSM」と緑が言っ
 た。
・うまい具合に我々が映画館に入ったときそのSMものが始まった。OLのお姉さんと高
 校生の妹が何人かの男たちにつかまってどこかに監禁され、サディスティックにいたぶ
 られる話だった。
・彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。これくらい一所懸命見るな
 ら入場料のぶんくらいは十分もとがとれるなあと僕は感心した。そして緑は何か思いつ
 くたびに僕にそれを報告した。
・「ねえワタナベ君。ああいうの誰かにちょっとやってみたい」とか、そんなことだ。僕
 は映画を見ているより、彼女を見ている方がずっと面白かった。
・二本目はわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目よりもっと退屈だった。
・「誰がああいう音を思いつくんだろうね」と僕は緑に言った。
・ペニスがヴァギナにはいって往復する音というものがあった。そんな音があるなんて僕
 はそれまで気づきもしなかった。男ははあはあと息をし、女があえぎ、「いいわ」とか
 「もっと」とか、そういうわりにありふえた言葉を口にした。ベッドがきしむ音も聞こ
 えた。
・緑は最初のうち面白がって見ていたが、そのうちにさすがに飽きたらしく、出ようと言
 った。
・それから僕らはまたどこかのバーに入ってお酒を飲んだ。
・「家まで送ろよ」と僕は言った。
・「家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あんなところで一人で寝た
 くなんかないもの」
・「じゃあどうするんだよ?」
・「このへんのラブ・ホテルに入って、あなたと二人で抱き合って眠るの」
・「はじめからそうするつもりで僕を飛び出したの?」
・「もちろんよ」
・「僕だって女の子と寝てれば当然やりたくなるし、そういうの我慢して悶々とするのは
 嫌だ。本当に無理にやっちゃうかもしれないよ」
・「私ことぶって縛ってうしろから犯すの?」
・「そう言われても困るんだよ」と僕は言った。
・「お願い、でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわよ。そして最初に声をかけ
 てきた人と寝ちゃうわよ」
・「ラブ・ホテルなんて行くのはやめよう」と僕は言った。「あんなところに行ったって
 空しくなるだけだよ。そんなのやめて君の家に行こう。僕のぶんの布団くらいあるだろ
 う?」緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「いいわよ。家に泊ろう!」と彼女は言
 った。
・二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。そのあいだ僕はやかんにお湯
 をわかし、お茶を入れた。そして風呂がわくまで、僕と緑は食卓で向いあってお茶を飲
 んだ。
・我々は交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が少しだけ使った新品
 同様のパジャマを借りた。
・僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の
 体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼
 女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。
 性的に高揚する環境とはとてもいえない。
 
第十章
・1969年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起させる。一歩足を動か
 すたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。
・ときどき緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を
 売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに2DKのアパー
 トを借りて二人で住むことになった。
 
・秋に来たときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は殆んど口を
 きかないでソファに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。
・「でも気にしないで」と直子は言った。「今はこういう時期なの。しゃべるよりあなた
 たちの話を聞いている方がずっと楽しいの」
・レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドの上で抱きあっ
 た。僕は彼女の首や肩や乳房をそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を導いて
 くれた。射精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二カ月ずっと君の指の感
 触のことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスターベーションし
 てた、と。
・「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニスにそっと
 唇をつけ、それからあたたかく包み、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に
 落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの射精を
 した。
・僕は直子を抱き寄せて、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いて
 いた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。
・「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは
 本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた
 夜だけ。どうして駄目なのかしら?」
・「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることはないさ」
・「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。「もし私が一生濡れることがなく
 て、一生セックスができなくても、それでもあなたはずっと私のこと好きでいられる?
 ずっとずっと手を唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解
 決するの?」

・「ねえ、ワタナベ君、本当にもう半年も接櫛してないの?」
・「してないよ」と僕は言った。
・「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃな
 いの?」
・「まあ、そうだろうね」
・「でもやらなかったのね?」
・「君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失くしたくないからね」と僕は言った。
・「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参
 ってたから」
・「でも僕のは固くて大きいよ」
・彼女はにっくり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。
・「もあなたが私に向って『おい緑、俺とやろう。そうすれば何もかもうまく行くよ。だ
 から俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこういうこと言っ
 てからって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺戟してるとかそんな風
 には思わないでね」
・「今あなたがコーラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いています。ねえ、
 知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことをしたのよ。あなたは私の髪型が変
 わっていたことすら気がつかなかったでしょう?
 なかなか可愛くきまったから久しぶりに会って驚かそうと思ったのに、気がつきもしな
 いなんて、それはあまりじゃないですか?私だって女の子よ。いくら考え事をしている
 からといっても、少しくらいきちんと私のことを見てくれたっていいでしょう。たった
 ひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何したってどれだけ考
 えごとしてたって、私はあなたを許したのに。
 コーラを買って戻ってきたときに『あれ、髪型変わったんだね』と気がついてくれるか
 なと思って期待していたのですが駄目でした。もし気がついてくれたらこんな手紙びり
 びり破って、「『ねえ、あなたのところに行きましょう。おいしい晩ごはん作ってあげ
 る。それから仲良く一緒に寝ましょう』ってで言えたのに。でもあなたは鉄板みたいに
 無神経です。さよなら。この次教室で会っても話しかけないでください」
 
・アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイト学生と知り合ってとき
 どき話をするようになった。彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。
 彼は長崎に帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかないんだよ、
 と言った。
・「なんとなくわかるだろう。女の子ってさ。二十歳とか二十一になると急にいろんなこ
 とを具体的に考えはじめるんだ。すごく現実的になりはじめるんだ。するとね、これま
 ですごく可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見えてくるんだよ。僕に会
 うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てからどうするのって訊くんだ」
・「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね」
・「まあそうなんだろうな」と伊東は認めた。
・「それはともかくその人とは別れた方がいいんじゃないかな?お互いのために」と僕は
 言った。
・「僕もそう思う。でも言い出せないんだよ、悪くって。彼女は僕と一緒になる気でいる
 んだもの。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて言い出せないよ」
 
・緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。
・「私のヘア・スタイル好き?」
・「すごく良いよ」
・「本当にそう思う?」
・「本当にそう思う」
・彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそれを握った。僕以
 上に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。 
・「あなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えないことで私がこの二カ月どれほ
 ど辛くて淋しい想いをしたかどうかということを?」 
・「知らなかったよ、そんなこと」と僕はびっくりして言った。「君は僕のことが頭にき
 ていて、それで会いたくないんだと思ってたんだ」
・「どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいにきまってるでしょう?だって私あ
 なたのことが好きだって言ったでしょう?私そんなに簡単に人を好きになったり、好き
 じゃなくなったりしないわよ。そんなこともわかんないの?」
・「彼と別れたわよ、さっぱりと」
・「どうして?」
・「どうしてって、彼よりあなたの方が好きだからに決まってるでしょ。私だってね、も
 っとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好
 きになっちゃったんだから」
・「ねえ、そんなひどい顔しないでよ。悲しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に
 好きな人がいること知ってるから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるぐらいは
 いいでしょ?私だってこの二カ月本当に辛かったんだから」
・我々は傘をさしたまま抱きあった。固く体をあわせ、唇を求めあった。ジャケット越し
 に僕は彼女の乳房の感触をはっきりと胸に感じた。僕はほんとうに久しぶりに生身の人
 間に触れたような気がした。
・「ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?」
・「一年前に一度だけね」
・「それから会わなかったの?」
・「二回会ったよ、でもやってない」と僕は言った。
・「それはどうしてなの?彼女はあなたのこと好きじゃないの?」
・「僕にはなんとも言えない。本当はどうなのかというのがだんだんわからなくなってき
 ているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それある種の人間としての責任
 であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。たとえ彼
 女が僕を愛していないとしても」
・「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ。そして私はあなたに抱かれて、あなた
 のことを好きだってうちあけているのよ。あなたがこうしろって言えば私なんだってす
 るわよ。正直でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだって
 良いかたちをしているし、料理もうまいし、大安売りだと思わない?あなたが取らない
 とわたしそのうちどこかよそに行っちゃうよ」
・「時間がほしいんだ」と僕は言った。「考えたり、整理したり、判断したりする時間が
 ほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」
・「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼しているから」と彼女は言った。「で
 も私をとるときには私だけをとってね。そして私を抱くときには私のことだけを考えて
 ね」

・「あなた意外といろんなこと知らないのね」と緑は言った。「ワタナベ君って、世の中
 のことはたいてい知っているのかと思ってたわ」
・「世界は広い」と僕は言った。
・「山は高く、海は深い」と緑は言った。
・そしてバスローブの裾から手を入れて僕の勃起しているペニスを手にとった。そして息
 を呑んだ。
・「ねえ、ワタナベ君、悪いけどこれ本当に冗談抜きで駄目。こんな大きくて固いのとて
 も入んないわよ。嫌だ」
・「冗談だろう」と僕はため息をついて言った。
・「冗談よ」とくすくす笑って緑は言った。
・「大丈夫よ。安心しなさい。これくらいならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわし
 く見ていい?」
・「好きにしていいよ」と僕は言った。
・緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわした。皮をひっぱったり、
 手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団から首を出してふうっと息をつ
 いた。
・「でも、私あなたのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて」
・「でもワタナベ君、私とやりたくないんでしょ?いろんなことがはっきりするまでは」
・「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」
・「頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてやっちゃてから考
 えるけどな」
・「嘘よ」と緑は小さな声で言った。
・「私もやらないと思うわ。もし私があなただったら、やっぱりやらないと思う。そして
 私、あなたのそういうところが好きなの。本当に本当に好きなのよ」
・「どれくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕
 の体にぴったりと身を寄せて僕に乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動か
 しはじめた。
・僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どち
 らも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように
 感じられてしまうのだ。
・「私の胸かあそこ触りたい?」と緑が訊いた。
・「さわりたいけど、またさわらな方がいいと思う。一度にいろいろなことやると刺激が
 強すぎる」
・緑は肯いて布団中でもそもそとパンティーを脱いでそれを僕のペニスの先にあてた。
・「ここに出していいからね」
・「でも汚れちゃうよ」
・「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」と緑が泣きそうな声で言った。
・「そんなの洗えばすむことでしょう?遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ」
・僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。
・「ずいぶんいっぱい出したのね」と彼女は感心したように言った。
・夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。
・「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」と緑は言った。
・「そしたら私がやさしく出してあげるから」
・「私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌でそういうの覚
 えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その期間御主人が浮気しないよう
 にいろいろな風に処理してあげる方法が特集してあったの。本当にいろいろな方法があ
 るのよ」
・僕は緑が好きだったし、彼女が僕のもとに戻ってきてきれたことはとても嬉しかった。
 彼女となら二人でうまくやっていけるだろうと思った。僕としては緑を裸にして体を開
 かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押し止めるのがやっただ
 ったのだ。僕のペニスを握った指がゆっくりと動き始めたのを止めさせることなんてと
 てもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々はもう
 既に愛しあっていたのだ。僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前に
 わかっていたはずなのだ。僕はただその結論を長いあいだ回避しつづけていただけなの
 だ。
・問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点にあった。
 他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言え
 るわけがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。
・僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。そして
 緑と僕のこれかでの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明し
 た。 

・レイコさんから返事がきたのはその五日後だった。
 「私の忠告はとても簡単です。まず第一にみどりさんという人にあなたが強く魅かれる
 のなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもしれな
 いし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というものはもともとそういうも
 のです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思い
 ます。
 第二に、あなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それはあなた自身の問
 題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく結論を
 出してください。
 第三に直子にはそのことは黙っていてください。
 第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対し
 て恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることは
 いっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしな
 さい。
 放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷
 つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。
 もちろん私はあなたと直子がハッピーエンディングを迎えられなかったことは残念に思
 います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にわかるというのですか?だからあ
 なたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せ
 になりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかな
 いし、それを逃すと一生悔みますよ」
 
第十一章
・直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕
 のせいではないし、誰のせいでもないし、誰にもとめることのできないことなのだと言
 ってくれた。
・彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。
 僕にはその事実がまだどうしても?み込めなかった。
・僕にはあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のペニスをそっと口に含み、
 その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみ
 や息づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。
・キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。
・「死は性の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
・確かにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。し
 かしそれは我々が学ばねばならない真実の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えた
 のはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛する者を亡くした哀しみを
 癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、
 どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
・僕は高校三年のとき初めて寝たガール・フレンドのことをふと考えた。そして自分が彼
 女に対してどれほどひどいことをしてしまったかを思って、どうしようもなく冷えびえ
 とした気持ちになった。僕は彼女が何をどう思い、どう感じ、そしてどう傷つくかなん
 て殆んど考えもしなかったのだ。そして今の今まで彼女のことなんてロクに思い出しも
 しなかったのだ。彼女はとても優しい女の子だった。でもその当時の僕はそんな優しさ
 をごく当り前のものだと思って、殆んど振り返りもしなかったのだ。彼女は今何をして
 いるんだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った。
 
・一カ月の旅行は僕の気持ちをひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた
 打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一カ月前とあまり変わらない状態で東京に戻っ
 た。
・どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は死に、緑は残
 っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。
・僕はキズキのことを思った。おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と
 僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行
 くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺
 は直子に対して俺なりにベストを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新
 しい生き方をうちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやる
 よ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身お心みたいに暗い森の奥で直子は首
 をくくったんだ。

・東京に戻って四日めにレイコさんから手紙が届いた。手紙の内容は至極簡単なものだっ
 た。あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配している。電話をかけてほしい。
・「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?」
・「会いに来るって、東京に来るんですか?」
・たしかに僕は東京駅ですぐにレイコさんをみつけることができた。
・「ねえワタナベ君。私が今どんな気持ちかわかんないでしょう?」
・「怖くて怖くて気が狂いそうなのよ。どうしていいかわかんないのよ。一人でこんなと
 ころに放り出されて」とレイコさんは言った。
・「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」とレイコさんは言った。
・「私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。私は直子のいないあの場
 所に残っていることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話しあう
 必要があったの。だからあそこを出てきちゃったのよ」
・「これから先どうするんですか、レイコさんは?」
・「旭川に行くのよ」と彼女は言った。
・「音大のときの仲の良かった友だちが旭川で音楽教室をやっててね。手伝わないかって」
・「二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなたのところに厄介になっていいか
 しら?迷惑かけないから」 
・「全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押し入れで寝ます」
・「私たぶん体を馴らす必要があるのよ。旭川に行く前に。まだ外の世界に全然馴染んで
 ないから。わからないこともいっぱいあるし、緊張もしているし。そういうの少し助け
 てくれる?私あなたしか頼れる人いないから」
 
・「ねえ、あなた、最初からひとつひとつ話を聞きたいでしょう?」
・「話してください」と僕は言った。
・「病院での検査の結果がわかって、今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあ
 とのために良いだろうってことになって、直子はもう少し長期的にその大阪の病院に移
 ることになったの。
 直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そちらに行きたいと言っているの
 だが構わないだろうかと言うの。私の方は全然かまいませんよって言ったの。
 それで翌日に彼女はお母さんと二人でタクシーに乗ってやってきたの。夕方近くになる
 と直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さ
 んはタクシーを呼んでもらって帰っていったの。
 直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのときには全然気にもしなかったの
 よ。私たちは外を二人で散歩していろんな話しをしたの。これからどうするのだの、そ
 んないろんな話ね」
・「あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあんなに元気でに
 こにこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が楽になってたのよね。それ
 から部屋の中のいろんなものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に入れて焼いた
 の。あなたの手紙もよ。それで私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。
 だってあの子、あなたの手紙はそれまでずっと、とても大事に保管してよく読み返して
 たんだもの。そしてら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わる
 の』って言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに簡単に納得しちゃったの」
・「それから急にあなたの話を直子は始めたの。あなたとのセックスの話よ。それももの
 すごくくわしく話すの。どんな風に服を脱がされて、どんな風に体を触られて、自分が
 どんな風に濡れた、どんなふうに入れられて、それがどのくらい素敵だったかっていう
 ようなことをまあ実に克明に私にしゃべるわけ。それで私、ねえ、どうして今になって
 そんな話をするのよ、急にって訊いたの。だってそれまであの子、セックスのことって
 そんなにあからさまに話さなかったんですもの。もちろん私たちある種の療法みたいな
 ことでセックスのこと正直に話すわよ。でもあの子はくわしいことは絶対に言わなかっ
 たの、恥ずかしがって。それを急にぺらぺらしゃべり出すんだもの私だって驚いたわよ」
・『彼が入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわかんないくらいだっ
 たの』って真生子が言ったわ。『私初めてだったし。濡れてたからするっと入ったこと
 ははいったんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥
 の方までいれてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を少し上げさせて、もっと
 奥まで入れちゃったの。するとね、体中がひやっと冷たくなったの。まるで氷水につけ
 られたみたいに。手と脚がじんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、
 私このまま死んじゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも
 彼は私が痛がっていることを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさないで、
 私の体をやさしく抱いて髪とか首とか胸とかにずっとキスしてくれたの。長いあいだ。
 するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始め
 て・・・ねえ、レイコさん、それが本当に素晴らしいのよ。頭の中がとろけちゃいそう
 なくらい。このまま、この人に抱かれたまま、一生これやってたいと思ったくらいよ』
・「そんなに良かったらワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじゃなの?」
 って私言ったのよ。
・『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。それ
 はやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。
 何かの加減で一生に一度だけ起ったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。
 やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』 
・もちろん私はちゃんと説明したわよ。そういうのは若い女性には起りがちなことで、年
 を取れば自然になおっていくのが殆んどなんだって。
・『そうじゃないの』と直子は言ったわ。
・『私何も心配してないのよ、レイコさん私はただもう誰にも私の中に入ってほしくない
 だけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの』」
・「それから直子はしくしく泣きだしたの」とレイコさんは言った。
・「私は彼女のベッドに腰かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかもうまく行くからって言っ
 たの。あなたみたいに若くてきれいな女の子は男の人に抱かれて幸せになんなきゃいけ
 ないわよって」
・六時に目を覚ましたとき彼女はもういなかったの。寝巻が脱ぎ捨ててあって、服と運動
 靴と、それからいつも枕もとに置いてある懐中電灯がなくなっていたの。
・それで私すぐみんなのところに行って手分けして直子を探してって言ったの。そして全
 員で寮の中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。探しあてるのに五時間かかっ
 たわよ。自分でちゃんとロープまで用意してもってきていたのよ」
・「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりとして、人も少なくて。家の
 人は僕が直子の死んだことをどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっ
 とまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべき
 じゃなかったんですよ」
・「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東京にいるんでしょ?」
・「横浜。でも行かないわよ。あの人たち、もう私とは関りあわない方がいいのよ。あの
 人たちはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会ったで辛くなるし。会わない
 のがいちばんよ」
・「ところでワタナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう女
 の子ともう寝たの?」とレイコさんは訊いた。
・「セックスしたかっていうことですか?してませんよ。いろいろなことがきちんとする
 まではやらないって決めたんです」
・「あなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃない。その緑さんという人とは離
 れるわけにはいかないんだって。直子が生きようが、死んでようがそんなの関係ないじ
 ゃない。あなたは緑さんを選び、直子は死ぬことを選んだのよ。あなたはもう大人なん
 だから、自分の選んだものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そうしないと何もかも駄
 目になっちゃうわよ」
・「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」とレイコさんが小さな声で言った。
・「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じことを考えていたんです」
・カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当に当り前のことのように抱きあ
 い、お互いの体を求めあった。僕は彼女のシャツを脱がせ、ズボンを脱がせ、下着をと
 った。
・「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下の男の子にパンツ脱がさ
 れることになるとは思いもしなかったわね」とレイコさんは言った。
・僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。そして少女の
 ような薄い乳房に手をあて、乳首をやわらなく噛み、あたたかく湿ったヴァギナに指を
 あててゆっくり動かした。
・「そこ違うわよ。それただのしわよ」
・「こういうときも冗談しか言えないんですか?」と僕はあきれて言った。
・「ごめんなさい、怖いのよ、私。もうずっとこれやってないから。なんだか十七の女の
 子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分よ」
・僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまんだ。そして
 彼女の息づかいがはげしくなって喉がちいさく震えはじめると僕はそのほっそりした脚
 を広げてゆっくりと中に入った。
・「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね?」レイコさんは小さな声で
 僕に訊いた。
・「大丈夫ですよ。安心して」と僕は言った。
・ペニスを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。僕は彼女の背中をやさ
 しくさするように撫でながらペニスを何度か動かして、そして何の予兆もなく突然射精
 した。それは押しとどめようのない激しい射精だった。僕は彼女にしがみついたまま、
 そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。
・「すみません。我慢できなかったんです」と僕は言った。
・「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。好きなときに好きなだけ出しなさい
 ね。どう、気持ちよかった?」
・「すごく。だから我慢できなかったんです」
・僕は少しあとでもう一度固くなったペニスを彼女の中に入れた。レイコさんは僕の下で
 息を呑み込んで体をよじらせた。僕は彼女を抱いて静かにペニスを動かしながら、二人
 でいろんな話をした。彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。僕が冗談
 を言って彼女がくすくす笑うと、その震動がペニスにつたわってきた。僕らは長いあい
 だずっとそのまま抱きあっていた。
・「こうしてるのってすごく気持ち良い」とレイコさんは言った。
・僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその感触を味
 わい、味わい尽くしたところで射精した。
・結局その夜我々は四回交わった。四回の性交のあとで、レイコさんは僕の腕の中で目を
 閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせた。
・「私も一生これやんなくていいわよね?」とレイコさんは言った。
・「私の体の中で何かがつっかえているようなきがするんだけれど、これは錯覚かしら?」
・「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。
・「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私のぶんと直子のぶんを
 あわせたくらい幸せになりなさい」

・僕は緑に電話をかけ、君にどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さ
 なくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と
 会って話したい。何もかも君と二人で最初から始めたい、と言った。